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 今回の岩手行きの主な目的の一つは、普代村で合唱の練習をしてくるということでした。
 この9月2日(日)に、花巻市で「賢治の里 花巻でうたう賢治の歌 全国大会2012」というイベントが開かれます。各地から、いろいろな個人や団体が出演して歌声を競うのですが、この大会に、三陸の普代村・野田村・田野畑村の合同の合唱団「コーラスライオット風」が出るにあたり、何と私が指揮をすることになったのです。
 下の写真は8月13日の岩手日報朝刊ですが、二段目に紹介されている「コーラスライオット風」が、それです。

岩手日報8/13朝刊 

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 普代村の合唱団と私のご縁は、7年前にさかのぼります。2004年10月に、普代村に「敗れし少年の歌へる」詩碑が建立されたことを受けて、詩碑オタクの私は、2005年1月に普代村を訪ねました。碑を見学したり、ちょうど80年前に賢治が泊まったと言われる旅館に宿泊し、賢治が歩いた道をたどったりしたのですが、この時に、花巻の阿部弥之さんのご紹介で、森田眞奈子さんをはじめ合唱団「コーラスライオット風」のメンバーの方々に、初めてお会いしたのです。
 皆でいろいろと賢治についてお話をしていたのですが、たまたま数年前に私の大学の後輩にあたるオーケストラが、普代村でホームステイをさせていただき合唱団とジョイントコンサートを開催したという奇遇も明らかになって、遅くまで話題は尽きませんでした。そのうちになぜかその場で、普代村に「敗れし少年の歌へる」の碑もできたことだから、これを記念してこの詩に曲を付けてくれないかという話が私に持ちかけられ、それで思いもかけず生まれたのが、当サイトでも公開している女声二部合唱曲「敗れし少年の歌へる」でした。
 この曲は、2005年10月に「コーラスライオット風」の定期演奏会において、当時の岩手県知事も来場されている中で初演されました(「普代村へ(2)」参照)。

「コーラスライオット風」第17回定期演奏会
2005年10月8日

 その後も、北三陸の「コーラスライオット風」は、「敗れし少年の歌へる」をレパートリーの一つとして、地元で歌い継いで下さっていたということですが、そこにまたこの2年というもの、合唱団の活動に大きな山がやってきます。

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坂本博士さんと森田眞奈子さん(1967) 合唱団の代表を長年務められた森田さんは1967年に、普代村を訪れたバリトン歌手・作曲家・音楽教育家である坂本博士さんに出会われました(右写真は森田さんと坂本さん)。
 当時はNHKテレビにも頻繁に出演する有名歌手だった坂本さんは、昭和三陸大津波を題材としたミュージカルを作曲するにあたり、取材のためにスタッフとともに三陸地方を旅していたのです。森田さんの家族が当時経営していた旅館に宿泊していたので、音楽が大好きだった森田さんは、坂本さんと親しく語らう時間を持てたのだそうです。
 翌年に、ミュージカル「海から黒い蝶がくる」が完成した際には、森田さんたちも東京に招待されて、聴きに行ったのだそうです。

 それから43年がたちました。2010年に普代村の小学校が統合されるにあたって、記念コンサートの開催が検討されていましたが、森田さんの働きかけもあり、そこに坂本博士さんを招待することになったのです。
 森田さんと坂本さんは、43年ぶりに普代村で再会しました。

再訪感謝

  2010年6月に開かれた「小学校統合記念ふれあいコンサート」では、坂本さんはミュージカル「海から黒い蝶がくる」の名場面を歌い、43年前に取材した津波の恐ろしさについても語られたということです。後半では、小中学生、村の人々も一緒になって、会場全体が歌声で包まれました(「普代村教育長だより」参照)。

 ところが、それから1年もたたないうちに、東日本大震災が起こったのです。三陸地方は、津波による甚大な被害を受けました。東京在住の坂本氏は、普代村の人々の声を録音したテープによって村の状況を知ったということですが、前年に村で津波の話をしていた時には、こんなことになるとは夢にも思わず、言葉を失ったそうです。
 坂本さんは、「自分にできることは、音楽で皆を支えたり励ましたりすること」と考え、2011年4月から5月にかけて、「絆」「希望の道」「ふるさとにおくる愛の歌」という3曲の合唱曲(絆三部作)を作曲し、7月に神奈川県でチャリティコンサートを開催しました(「タウンニュース」参照)。

 そして2011年12月、坂本さんは3度目となる普代村訪問を果たします。そしてその指揮のもとに、普代小学校や普代中学校や「コーラスライオット風」のメンバーは、「絆三部作」を歌ったのです(岩手日報「復興ソング 浜に勇気」参照)。

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 このような普代村における活動に、「賢治の里 花巻でうたう賢治の歌 全国大会2012」実行委員会代表の照井潔子さんも注目しました。そして、その勧めもあって「コーラスライオット風」は、今回の大会で「絆三部作」を歌うことになりました。ただしこの大会は、「賢治作品を1曲と自由曲」を歌うことが条件とされているされているため、自由曲としての坂本博士氏の「絆三部作」に加え、私の「敗れし少年の歌へる」が演目に加えられたというわけです。
 私は、この5月に津波後の三陸地方の賢治詩碑を見るために普代村に行っていたのですが、そこで7年ぶりに再会した合唱団の皆さんと食事をしている時に、またなぜか「こんどの9月に指揮をしてくれませんか」という話を持ちかけられました。カレンダーを見ると本番は日曜日だったので、私は調子に乗って思わずOKをしてしまいました。
 本当に私でいいのか?というのが正直言って心配なのですが、個人的には三陸も花巻も大好きなものですから、少しでもお役に立てるなら私にできることはやってみよう、というのが今の心境です。

 そんなわけで、去る8月15日の午後、主婦の皆さんにとっては一番あわただしいお盆の最中に、「コーラスライオット風」のメンバーとピアノ伴奏の方に集まっていただき、3時間ほどの練習を行いました。
 暑い中、汗をかきながらみんなの心は、かなり一つになった感じです。

 あとは、9月2日の本番を、乞うご期待、というところ・・・。

「敗れし少年の歌へる」楽譜

 普代村の方からご連絡があり、こんど11月4日(日)に、“日報130コンサート「ふるさと」”の一環として、普代社会体育館で「てぼかい合唱団」などのコンサートが行われるとのお知らせをいただきました。(「岩手日報」の社告参照。)
 “日報130コンサート「ふるさと」”というのは、「岩手日報」の創刊130周年を記念して、岩手県内の各地で昨年から地元の人々を中心としたコンサートを行っている企画で、今年はこの普代村で7ヵ所めだそうです。

 普代村は、三陸海岸北部にある「北緯40度の村」で、2004年には賢治の三陸旅行にちなんで、「敗れし少年の歌」詩碑が建立されました。地元のPTAを中心に1984年に発足した「てぼかい合唱団」は、今度のコンサートにおいて、「ポラーノの広場のうた」など賢治歌曲の披露や「ツェねずみ」の劇などとともに、ありがたいことに再び、あの「敗れし少年の歌へる」も、歌っていただけるのだそうです。
 せっかく連絡をいただいたのに、当日は聴きにうかがえないのが残念です。ご盛会をお祈りしています。


盛岡高等農林学校植物園にて(1916年5月) ところで、週末の山梨行きを前に、賢治と嘉内がその別れまでにかわした書簡などを読んだりしていたのですが、いかにこの「別れ」が後の賢治に大きな影響を及ぼしたかということを、あらためて痛感します。
 書簡を見るかぎり、少なくともこの「別れ」までの賢治は、自ら「農民のために尽くそう」とか、ましてや自分自身が農民になろうなどとは、夢にも思っていなかったのは明らかです。

 嘉内が自分と袂を分かたざるをえなかった理由である、まさにその彼の理想を、別れた後の賢治は独りでかみしめ、自らの身に刻み、結局は力尽きるまで歩んでいったわけです。

発動機船の乗船地

 一昨日イーハトーブセンターから送られてきた会報第32号には、「八戸・賢治を語る会」特集の一項目として、同会の事務局長である中川真平さんが、戦前に三陸海岸の「運搬船」の船員をしていた小袖丑松さんという方にインタビューした記事が載っていました。
 この「運搬船」は、陸路交通の困難な三陸地方において、戦後の初期までは物資輸送の要として機能していたというもの三陸海岸の「運搬船」で、賢治が1925年の三陸旅行の際に乗船して、「発動機船 一」「発動機船 第二」「発動機船 三」「発動機船[断片]」などの作品で描いた船と推測されています。「運搬船」と言っても、海産物や薪などの物資だけでなく、乗客も乗せたということですね。
 この記事には、昔の「運搬船」の写真も掲載してくださっていて(右写真)、賢治は当時こんな船に乗ったんだなあ、とまた私の感慨を新たにしてくれました。

 さて、そのインタビュー記事のなかで注目されるのは、次のようなやりとりです。

――航海の様子を聞きたいのですが、陸中海岸の村々から荷を積んだ船は、南の宮古に向かう場合、北から順々に南下していったものですか?
小袖 えーや、そっただもんでなくて、荷でも人でも積むものがあれば、北さでも南さでも、どごさでも飛んでぐんだぁ。
――では、たとえば田野畑村の羅賀にいた船がそこで人を乗せて、一旦北に向かって普代村のネダリ浜で荷を積み、再び南の宮古に向かうこともありえますか?
小袖 あるも、あるも、荷さぇあれば何処さでも走ったんだ。

 中川さんがわざわざこのような質問をされているのは、「賢治はこの三陸旅行においてどこの港から発動機船に乗船したのか」という問題を意識してのことです。

 賢治の乗船地については、従来は「発動機船 三」にある「羅賀で乗ったその外套を遁がすなよ」という一節が賢治自身のことを指していると解釈して、羅賀から乗船したという説が有力でした。『【新】校本全集』の「年譜」においても、「次のような推理もできる」と慎重な姿勢ながら、羅賀乗船説のみが掲載されています。
 しかしこれに対して、木村東吉氏は大著『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』において、「発動機船 一」で描かれている情景は、羅賀より北の「ネダリ浜」と呼ばれる場所のことであると考証し、また「発動機船 第二」に描かれている章魚の樽の積み込みこそが羅賀港での出来事であると推定し、賢治の乗船地は羅賀より北で宿泊地の下安家より南の港、すなわち安家、堀内、大田名部のいずれかであるとの説を提唱されました (このあたりの詳細については「旅程幻想詩群」のページを参照)。

 今回の中川真平さんによる元船員さんへのインタビュー結果は、「木村東吉氏の示した論拠によっても、必ずしも羅賀乗船説は否定はできない」ということを示してくれたわけです。
 これをもとに中川さんは、次のように推定しておられます。

賢治を乗せた運搬船は昼頃に羅賀の港を出て一旦北に向かい、普代村のネダリ浜で若い女性たちの運んできた割木を積み、今度は再度、羅賀に南下し、羅賀の漁師たちが昼の間に採った章魚を夜の早い時間に買い取り、南の宮古に向かったものであろう。

 羅賀乗船説を貫いた立場からの推理ですが、はたして皆さんのお考えはいかがでしょうか。

 私としては、今回の貴重な情報を知った上でも、賢治の乗船地を羅賀とすることには、それでもやや無理を感じてしまうのです。羅賀より北から乗ったとする方が、より自然に思えるのです。

 その理由の一つは、羅賀から一度出港し、北へ行ってまた羅賀に戻って荷を積んで南へ向かう、という航路の効率性の問題です。本来ならば、最初から荷を羅賀で積み込んでおけば、また羅賀で再び停船させたりせずに、ネダリ浜から真っ直ぐ南へ航行できたはずですが、なぜこのようなことをしたのでしょうか。
 一つ考えられるのは、中川さんもそれとなく書いておられるように、最初に羅賀を出港した時点では、積み荷と推測される章魚の樽の準備が間に合わなかったので、このような行程をとった、という可能性です。しかし、羅賀とネダリ浜は直線距離で約8km、発動機船の速度を木村東吉氏のように6ノット(時速11km)とすれば片道せいぜい1時間あまりですから、二度目に羅賀に寄港した時に暗くなっていたこと(発動機船 第二)からして、最初の羅賀出港は、お昼をかなりまわってからだったのではないかと思われます。そうであれば、それくらいの時間に章魚の樽詰めが間に合わなかったというのは、ちょっと不思議です。

 結局このように非効率的な航路を想定してまで、羅賀乗船説を支持する人がいる理由は、「発動機船 三」の「羅賀から乗ったその外套を遁がすなよ」という一節が、賢治のことを指しているとする解釈の一点に尽きるわけですが、はたしてこれは本当に賢治のことなのでしょうか。この点に関する疑問が、私を羅賀乗船説に傾きにくくしているもう一つの理由です。
 「発動機船 三」の「下書稿(一)第一形態」を見ると、この箇所は当初「代りにひゞく船底の声/(羅賀で乗った/あの外套を遁がすなよ/海盛楼をおごらすからな)」となっていました。「海盛楼」というのは何かわかりませんが(先日国会図書館で見た『全国旅館名簿』でも宮古の項にはありませんでした)、その名と「おごらす」という言葉から推測するに、宮古にある料理屋か何かなのでしょう。すると、これは発動機船の船員たちが「陸(おか)」に上がってからの相談をしているところと推測され、船が着いたら「羅賀で乗った外套の男」をつかまえておき、その人物から海盛楼で料理をおごらせよう、という算段なのだと思われます。
 しかし船員たちは、通りすがりの旅行客にすぎない賢治に対して、こんなことをさせようというのでしょうか。見知らぬ人に飲食代を強要するというのは、どう見ても「たかり行為」ですね。船員たちがそんな犯罪謀議をしていたと考えるよりは、この「外套」を着た男は、船員にとって何らかの知人であったと考える方が、ここは自然なのではないでしょうか。
 したがって「外套の男」の解釈としては、木村東吉氏のように、「「発動機船 第二」に「うしろの部下はいつか二人になってゐる」とある人物などを指すと考えた方が妥当であろう」という説の方がもっともらしく思えます。(ただ、「発動機船 第二」の描写には、この時に人間が乗船したと思えるような記述は見られません。)


 結局、賢治がどこから発動機船に乗ったのか、という謎は闇の中にあるままだと思いますが、今回の「会報」を読んでいると、昨年に訪ねた「ネダリ浜」の美しい情景がまたまぶたに浮かぶようでした。

 じつは私は、一昨年に「なめとこ山」を訪ねた「賢治学会春季セミナー」の折に、中川真平さんにはじめてお会いして、こちらの方から声をおかけして、この「羅賀から乗った・・・」の箇所の解釈についてご教示をお願いしたことがあったのです。今回、中川さんがわざわざ発動機船の元船員さんを探し出し、貴重な情報をもたらしていただいたご努力に感謝して、ここに最大限の敬意を表させていただきたいと思います。

 「歌曲の部屋 ~後世作曲家篇~」に、「敗れし少年の歌へる」を追加しました。もちろん当サイト管理人は作曲家ではありませんので、このコーナーに拙作を入れるとはおこがましいかぎりですが、他に収める場所がないので、とりあえずここに置いておきます。内容としては、「敗れし少年の歌へる」の VOCALOID 版や、PDF 形式の楽譜を載せています。
 あと、普代村コンサートに関する岩手日報の記事が Web 上でも公開されていますね。

 ところで、昨夜の遅くに当サイトの総アクセス数が30万を越えたようです。開設からちょうど6年が経ちましたが、このような形のサイトになるとは、当初は想定していませんでした。
 これまでご覧いただいた方々、Web を通して出会った方々に、感謝申し上げます。

普代村へ(2)

 羽田空港から搭乗するのは、朝7時50分発の青森県三沢空港行きの便です。6時に起きて、急いで仕度をして、6時半にホテルを出れば間に合うはず・・・だったのですが、出発ロビーに行ってみると、連休初日とあってあたりはものすごい混雑です。すべての自動チェックイン機や手荷物検査窓口に、長蛇の列ができています。
 まだ列の中にいるうちに、「7時50分の便の方はおられませんか」と呼び出され、別の窓口で手続きをしてもらうと、入場検査のあと搭乗口まではかなりの距離を走り、どうにか間に合いました。

 ところが、こんどは飛行機が定時になっても離陸しないのです。「搭乗可能人数よりも予約人数が多い(?!)」ためだそうで、「次の12時55分の便へ変更していただいた方には、現金1万円かマイレージ7,500を進呈いたします」と機内では何度もアナウンスが流れますが、時間はどんどん経っていきます。
 具体的にどうなったのかはわかりませんが、けっきょく離陸予定時刻から30分も過ぎた頃、「予約された方全員がお乗りになりました」とアナウンスがあり、飛行機が動き始めたのは40分遅れでした。
 この時点で、三沢空港から乗り継ぐ予定にしていたJR八戸線の列車には、間に合わないことがはっきりしてしまいました。

 機内では、今日のコンサートには大幅に遅刻してしまうことも覚悟していましたが、無事に着陸もしてくれましたので、まだ一応あきらめずにチャレンジはしてみることにしました。三沢空港からタクシーに乗り、途中で当初の計画に追いつくことができないか、行けるところまで行ってみます。
 国道45号線を走り、タクシーが八戸に着いたのも、やはり乗り継ぐ予定の列車が発車した後でした。しかし、差はかなり縮まっています。そしてその後の運転手さんのおかげもあって、なんとか久慈駅に12時前に着くことができ、ここを12時14分発という三陸鉄道の予定列車に、どうにか乗り込むことができたのです。
 これで当初の計画どおり、私たちは12時55分に普代駅に降り立つことができました。

 1月に来た時には二戸から久慈までバスに乗りましたが、今回八戸から海岸沿いに南下してきたところは、80年前の賢治のルートと共通です。賢治は花巻を夜に発ち、八戸線で種市に朝6時5分に到着すると、ここから徒歩で下安家まで南下したとも言われていますが、木村東吉氏は、当時八戸から久慈まで運行していた「乗合自動車」に、途中から便乗した可能性も指摘しています(『宮澤賢治≪春と修羅 第二集≫研究』)。当時の乗合自動車の八戸から久慈までの所要時間は3時間30分だったということですが、今日のタクシーでは約1時間でした。

自然休養村管理センター入口 コンサート会場の「自然休養村管理センター」に着くと、1月の詩碑見学の際にお世話になった金子功さんが声をかけて下さいました。館内では合唱団がまだ最後のリハーサル中でしたが、代表の森田さんや事務局の金子さんも出てこられてご挨拶をかわし、こちらは三脚を立ててビデオカメラや録音のセッティングです。
 2時を少しまわった頃、増田岩手県知事夫妻も到着されて、コンサートが開演しました。

 今日、第17回の定期演奏会を迎える「コーラスライオット風」は、北三陸の3つの村にある、「コール・わさらび」(野田村)、「てぼかい合唱団」(普代村)、「しゃくなげ合唱団」(田野畑村)という3つの地元合唱団が、ことあるごとに合体して結成する合唱集団です。「ライオット(riot)」とは、英語で「一揆」のことで、江戸時代末期にこの地を中心に起こされた「三閉伊一揆」にちなんでいます。(三閉伊一揆については、田野畑村の公式サイトに絵入りの解説ページが、「歴史と人」というサイトに社会背景に注目した分析があります。)
 「コーラスライオット」=「合唱一揆」とは不思議な名前ですが、きっとこの命名には、「日本近世史上で唯一、勝利の証文を勝ち取った」と言われる三閉伊一揆に表れた民衆の力への深い共感、あるいは地方の文化に新たな「風」を吹き込みたいという団員の熱意が込められているのだろうと思います。私がお会いした合唱団のメンバーは、みんな「田舎の合唱団です」と謙遜しながらも、活動にかける思いの強さに関しては感動的でした。

 コンサートの構成は、まず「ステージ I 」で「コーラスライオット風」が秋にちなんだ3曲、それから「ステージ II 」では、盛岡から賛助出演の混声合唱団「北声会」による黒人霊歌、そして「ステージ III 」でふたたび「コーラスライオット風」による童謡3曲と「敗れし少年の歌へる」の披露、最後にエンディングで「コーラスライオット風」と「北声会」の合同合唱、というものです。
 会場は3つの村から詰めかけた人々で満員で、歌の合間には村長さんや知事の挨拶も入ります。知事のお言葉によると、この普代あたりの地区は、広い岩手県の中でも、盛岡からやって来るのにおそらく最も長時間を要する場所だということで、その昔「陸の孤島」と呼ばれたことも、あながち比喩ではありません。しかし、知事が公務の合間を縫って夫妻でコンサートに顔を出し、地元の人々と気軽におしゃべりをしている姿には、都会にはないような人々のつながりを感じました。

 さて、「敗れし少年の歌へる」のコーナーでは、金子さんから詩碑建立1周年にあたってのご挨拶の後、私にまで挨拶のマイクがまわってきました。今年の1月に普代にやってきた時の、金子さんや森田さんとの予想もしない「出会い」について、話をさせていただきました。
 私のような音楽の素人が、賢治の詩に曲を付けるなど誠に分不相応でおそれ多いことですが、賢治自身も音楽の才能や技術はともかく、自ら一人のアマチュア音楽家として歌曲を作ったりして楽しんでいたこと、落ちこぼれ音楽家のゴーシュが、やはり不思議な「出会い」を通して最後は音楽的達成をなしとげることなど、ちょっと弁解じみた話も付け加えました。

 挨拶が終わると、団員による詩の朗読に続いてピアノの前奏が始まり、ついに「敗れし少年の歌へる」が歌われました。その時になったらどんな気持ちがするだろうと、これまであれこれと考えていましたが、ゆったりとしたテンポで、しっかりと感情をこめて、合唱団の皆さんは歌って下さいました。
 終わったら拍手の中で、お辞儀をする指揮者や団員の方々とともに、私も立ってお辞儀をしていました。

コーラスライオット風

旅行の準備など

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 当ブログのシステムには Movable Type を使っているのですが、9月29日に v3.2 日本語版が公開されたことに伴い、数日前にアップグレードを行いました。いくつか使いやすくなったところもあるのですが、再構築を行おうとすると日付アーカイブの再構築途中でエラーが出て先に進まない状態になって、ちょっと困っていました。
 不具合時の様子を見ていると、だんだんサーバーの動作が重たくなっていってしまうようだったので、mt-config.cgi の221行目にある EntriesPerRebuild を、デフォルトの40から20に下げて、再構築を少しずつ行わせるようにしてみたところ、なんとかすべてのプロセスが遂行されるようになりました。ひとまずほっとしたところです。
 こちらのブログにも書かれているように、何か急にメモリを消費するような現象が起こることがあるようですね。近いうちには Six Apart も対応するそうです。

 さて、明日の晩遅くには職場から直接に東京へ向かいますので、いろいろと旅行の準備をしているところです。久々にビデオカメラをチェックしたり、普代村へのお土産に持参する CD を作ったり・・・。
 ただ、今回は旅行中にブログの更新はできなさそうです。

 それでは、また10日頃に。

 去る9月14日の夜には、阪神タイガースのマジックナンバー点灯という喜びとともに、私にとって個人的にとても嬉しく光栄な知らせがありました。
 岩手県普代村の合唱団の代表の方から電話があって、賢治の「敗れし少年の歌へる」という詩に私が曲を付けた合唱曲を、こんどの10月8日のコンサートで歌っていただけることになったというのです!

 この間のいきさつについて、ご説明いたします。
「敗れし少年の歌へる」詩碑 今年の1月8日~10日、私は「80年目の異途への出発」と称して、賢治が1925年1月に旅した三陸の足跡をたどる旅をしました。これには、昨年10月に普代村に建てられた、「敗れし少年の歌へる」詩碑(右写真)を見学するという目的もありました。
 この旅行の時、花巻の阿部弥之さんや普代村の金子功さんの様々なお世話もあって、私は1月9日の晩に、賢治も泊まったと推測されている下安家の「小野旅館」において、普代村合唱団の3人のメンバーとお会いしていろいろとお話をする機会が持てたのです。
 お茶を飲みながら1時間あまりも話すうちに、いろいろと「奇遇」も明らかになりましたが、その中で、「村にできた詩碑に歌も付いていたら・・・」と合唱団の方が願いを述べられるうち、何を勘違いされたかこの私に対して、「作曲もできるでしょう」と言って、この詩に曲を付けることを依頼されてしまったのです。
 私は、「もしも公募されるなら、私も一つ応募させていただきます」などと言ってごまかそうとしましたが、許してもらえませんでした。

 一晩寝て、室内の冷気で翌朝の5時頃に目が覚めると、やはり「敗れし少年の歌へる」の曲のことが気になって、寝床の中で詩を思い出しながら、いくつかメロディーを口ずさんでみました。
 そのうちに部屋が薄明るくなってきたので、鞄の中にあった紙切れの裏にいびつな五線を引いて、曲の案を3つほど書きとめました。

 そして京都に帰ってから、書きとめたメモのうちの一つを女声2部合唱にしてピアノ伴奏を付け、VOCALOID の歌声で演奏ファイルを作成し、CD-R に入れて楽譜とともに普代村にお送りしたのが、1月の下旬のことです。
 それ以降一通りの文通の後、とくに音沙汰がなかったので私も忘れていた頃、はるばる普代村から今回の電話が鳴ったのでした。
 10月8日のコンサートは、詩碑が完成して1周年という記念の意味もこめられているようで、さらにモリーオ市からは岩手県知事も来聴されるとのことでした。

 こういったいきさつで、合唱団の方は「遠いので無理をしないで」と言ってくださったのですが、自分の曲を合唱団に歌っていただけるという機会など一生のうちにもう来ないでしょうから、私としては何とかして当日はビデオカメラを持って、普代村へ行ってみるつもりです。
 この曲の VOCALOID による演奏ファイルは、上述のようにすでに私の手元にはあるのですが、こんどの「本邦初演」を待ってから、ここで公開させていただきます。

80年目の「異途への出発」(3)

 朝5時前に目が覚めると、まだ真っ暗な部屋の中は、しんしんと冷え込んでいます。 昨夜ふとんに入るまではファンヒーターをつけていたので暖かかったのですが、切ってしまうとまるで室内も氷点下になっているような感じです。 もう一度ヒーターを入れて、結局そのまま起きていました。賢治も「寒キ宿」と書いていますが、きっと当時はもっと寒かったのでしょうね。

 7時すぎまで待って、あたりの散歩に出てみました。 はるか北に長く延びている三崎のあたりには朝日が当たって朱色に染まってきていますが、下安家の周辺はまだ日陰です。 安家川の河口に架かっている安家大橋を北にゆっくり渡っていると、南側の岬の向こうから、日が顔をのぞかせました(右写真)。 まさに、「百の岬がいま明ける・ ・・」 という瞬間です。
 このあと、安家川の北岸を少しさかのぼって、この地における賢治の宿の「金子説」として、 昨夜お聞きした家の方へも再度行ってみました。 金子さんとしては、「文語詩篇ノート」に、「安家寒キ宿ノ娘、豚ト、帳簿ニテ/ 濁ミ声ニテ罵レル」と出てくる箇所に関して、 小野旅館の前身にあたる小さな宿では、 豚など飼っていなかっただろうということからの推測のようです。ただ、 この箇所が意味するのは、「豚に向かって罵った」のか、 「(誰か人間に向かって)豚!と罵った」のか、いったいどっちなのか、 私にはよくわかりません。
 それからもう一度川下に歩き、河口のあたり、むかし小野旅館が建っていた場所(賢治が泊まったのならその当時の位置)というのも見て、 旅館に戻って朝食をいただきました。

 8時半ごろに宿を発つと、徒歩で野田村と普代村の境の小さな坂道を越え、堀内の港へ下りていきました。そして漁港のかたわらにある 「敗れし少年の歌へる」詩碑を、今度は明るい中で見ることができました。これを写真に収めると、港から坂道を登り、途中で小学生に 「おはようございます!」と声をかけられたりして、堀内駅から三陸リアス鉄道に乗りました(下写真)。

  しかし今日は、昨日とうってかわっていい天気です。列車は南へ、3つの「発動機船」詩碑がある田野畑、島越を過ぎ、 美しい船越海岸も過ぎて、昼すぎに釜石に着きました。ここから釜石線に乗り換えて、花巻に向かうというルートそのものは、 80年前の賢治と同じです。
 太平洋側では、上写真のようにきれいな青空で、山々に残る雪も少なかったのですが、 仙人峠を越え、 だんだん遠野盆地に入っていくと、列車の窓も曇り、またあたり一面の銀世界になりました(右写真)。

 花巻には3時前に着き、急いでタクシーでイーハトーブ館に行きました。賢治学会の「企画委員会」 に出ておられた阿部さんにお会いして、 昨日の三陸の報告とともにあらためて今回のお礼をすると、花巻空港に向かいました。

 今日は昼食をとるひまがなかったので、空港で「岩手・蔵ビール」や「早池峰ワイン」で食事のかわりとしましたが、 ふりかえると実質2日間だけだったのに、ほんとうに充実した楽しい旅でした。お世話になった皆様、ありがとうございました。

80年目の「異途への出発」(2)

 朝起きると、窓の外は雪景色でした(右写真)。知らないうちに、 夜のあいだにかなり降っていたようです。

 朝食をとってロビーで待っていると、8時30分に、花巻農業高校の阿部弥之さんが来られました。阿部さんとは、昨年後半から 「普代村に賢治歌曲のチャイムを作る計画がある」ということでご相談を受けて以来、花巻のりんごを送っていただいたり、 いろいろとご懇意にさせていただいていました。今回、私が三陸地方を旅行すると申し上げると、さまざまな便宜をはかっていただき、 本当に恐縮してしまうほどでした。

 今日はまず、阿部さんの車に乗せてもらって、イーハトーブ館に向かいました。 雪はまだどんどん降り積もっていくので心配になりますが、阿部さんによれば「今日はまだ優しい雪でよかったですね」ということです。 自動車は、昔の岩手軽便鉄道の跡に沿って走っていき、ここが昔の郡役所、稗貫農学校跡、女学校跡、などと阿部さんの解説つきです。 猿ヶ石川が北上川に注ぐあたりでは、木々はまさに「岩手軽便鉄道の一月」を彷彿とさせ、 「鏡を吊し」たように一本一本真っ白になっていました。
 イーハトーブ館の玄関前の石段は除雪してありましたが、一部は凍結してつるつるになっています。気をつけるように、 と阿部さんに言われながら館に入りました。2階の事務所に上がると、牛崎敏哉さんにお願いして、かなり昔に出ていた「原体剣舞連」 の宮澤清六さん朗読によるソノシートを聴かせていただき、ICレコーダに録音しました。朗読の最後の部分が、独特の節回しで歌曲 「剣舞の歌」 になっていくので、今度いつかこの曲を編曲する時の参考にするためです。
 2階の図書室から階下に降りると、「賢治曼陀羅展」というガラス絵の展覧会をやっていたので、しばらく見ていました。BGMとして、 私が昔に寄贈したCDが流れていて、 うれしいような恥ずかしいような変な気持ちです。

 イーハトーブ館をあとにすると、いよいよ三陸へ向かいます。そもそも今回の旅行で私は、 昨年秋に普代村にできた詩碑を見学するとともに、 ちょうど80年前の今ごろの賢治の旅の跡に、 ちょっとでも触れてみたかったのです。
 賢治のルートとは少しだけ違いますが、まず在来線で盛岡へ、盛岡からは新幹線で二戸まで行き、ここから太平洋岸の久慈まで、 バスに乗りました。雪に覆われた峠道を、バスはくねくねと進んでいきます。しかし天候は徐々に回復して、雪もやんできているようでした。
 久慈からは、三陸北リアス鉄道に乗って、南へ走ります。左手に見える海は、さすがに一面とても深い紺色をして、いかにも冷たそうです。 いくつかの鉄橋を渡り、午後4時頃に普代駅で列車を降りると、郵便局の職員の方が車で迎えに来てくれていました。 これも阿部さんからのご配慮の一環です。

 昨年の秋に建立された「敗れし少年の歌へる」詩碑は、 普代郵便局長の金子功さんが中心になり尽力して実現されたものですが、これからその金子さん運転の車で、北三陸海岸のドライブを楽しんだ後、 詩碑へも案内していただけることになったのです。
 ドライブは、まず「発動機船 一」に 「雑木の崖のふもとから/わずかな砂のなぎさをふんで/石灰岩の岩礁へ・・・」とある通称「ネダリ浜」(右写真) の白壁を黒崎の展望台から眺め、さらに夕暮れの北山崎海岸の展望台へと続きました。車の外に出ると、 とにかく北から吹きつける風がすごかったです。道路に電光表示される温度計には、マイナス5度と出ていました。

 金子さんのお話を聞きながらのドライブに、しばし時のたつのを忘れていましたが、さすがに北山崎海岸から国道に戻る頃には、 あたりは暗くなってきたので、この辺で引き返して堀内漁港の詩碑に向かいました。金子さんが詩碑を建立しようと思い立たれたいきさつや、 その後の苦労話についてもいろいろうかがいましたが、これはまた「石碑の部屋」で詩碑紹介のページを作成する時に、ご紹介することにします。
 漁港脇の「まついそ公園」にある詩碑に着いた時には、もう日はとっぷりと暮れて、フラッシュをたいて撮影するのがやっとでした。 しかし建立者じきじきに案内していただけるとは、詩碑フリークとしてこれに勝る光栄はありません。
 さて、ドライブはまだ終わりません。賢治が1925年1月6日の夜に宿泊し、「文語詩篇ノート」に「寒キ宿」として登場するのは、 野田村下安家にある現在の「小野旅館」の前身であるというのが現在の一応の通説となっていますが、「金子説」ではそうではなくて、 もう少し奥に入った「島川家」という旧家だったのではないかということで、その家の前にも車を走らせていただきました。少なくとも賢治は、 その家の裏手の旧道から山を越えて、下安家の集落に入ってきたのです。

 それから安家川の河口をまわって、今晩私が泊まる宿、問題の「小野旅館」に送り届けてもらいました。 金子さんには多大な感謝とともに、阿部さんからもらった花巻のりんごも、おすそ分けさせていただきました。
 今日のスケジュールはまだ最後にあと一つ、金子さんが帰られてからしばらくたった午後7時に、普代村の合唱団のメンバーの方が3人、 わざわざ宿に訪ねて来られました。お茶を飲みながら、詩碑の除幕式における合唱のこと、 そして賢治歌曲を題材とした普代村のチャイムの選考計画などについて、お話を聞きました。

 今日は最初から最後まで、本当にいろいろな方にお世話になり、イーハトーブの人情の暖かさに触れさせていただいた一日でした。 それに引きかえ80年前の賢治の旅は、まるでみずから進んで孤独を求めたようにさえ思えます。