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線路脇の豆畑

 『春と修羅』所収の「電車」は、まるでミュージカルか何かのように、「豆ばたけ」の中を疾走します。列車に揺られるうちに思わず舞い上がって、ほとんど歌い出すかのようなその調子には、「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」や、「岩手軽便鉄道の一月」にも通じるようなノリがあります。

    電車

トンネルヘはいるのでつけた電燈ぢやないのです
車掌がほんのおもしろまぎれにつけたのです
こんな豆ばたけの風のなかで

 なあに、山火事でござんせう
 なあに、山火事でござんせう
 あんまり大きござんすから
 はてな、向ふの光るあれは雲ですな
 木きつてゐますな
 いゝえ、やつぱり山火事でござんせう

おい、きさま
日本の萓の野原をゆくビクトルカランザの配下
帽子が風にとられるぞ
こんどは青い稗(ひえ)を行く貧弱カランザの末輩
きさまの馬はもう汗でぬれてゐる

 3行目に「こんな豆ばたけの風のなかで」として周囲の景色が出てきますが、最後から2行目には、「今度は青い稗を行く…」との言葉があり、電車は豆の次には稗の畑に差しかかったようです。

 また、同じく『春と修羅』所収の「」でも、8行目に「山を下る電車の奔り」とあるように、作者賢治は電車に乗っています。

    昴

沈んだ月夜の楊の木の梢に
二つの星が逆さまにかかる
  (昴がそらでさう云つてゐる)
オリオンの幻怪と青い電燈
また農婦のよろこびの
たくましくも赤い頬
風は吹く吹く、松は一本立ち
山を下る電車の奔り
もし車の外に立つたらはねとばされる
山へ行つて木をきつたものは
どうしても帰るときは肩身がせまい
  (ああもろもろの徳は善逝(スガタ)から来て
   そしてスガタにいたるのです)
腕を組み暗い貨物電車の壁による少年よ
この籠で今朝鶏を持つて行つたのに
それが売れてこんどは持つて戻らないのか
そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ
電燈に照らされたそばの畑を見たことがありますか
市民諸君よ
おおきやうだい、これはおまへの感情だな
市民諸君よなんてふざけたものの云ひやうをするな
東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ
見たまへこの電車だつて
軌道から青い火花をあげ
もう蝎かドラゴかもわからず
一心に走つてゐるのだ
  (豆ばたけのその喪神のあざやかさ)
どうしてもこの貨物車の壁はあぶない
わたくしが壁といつしよにここらあたりで
投げだされて死ぬことはあり得過ぎる
金をもつてゐるひとは金があてにならない
からだの丈夫なひとはごろつとやられる
あたまのいいものはあたまが弱い
あてにするものはみんなあてにならない
たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で
そしてそれらもろもろの徳性は
善逝(スガタ)から来て善逝(スガタ)に至る

 中ほどに出てくる「東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ」との言葉は、半月前の関東大震災を指していて、こちらの作品にはどことなく死の予感が漂っています。
 周囲の情景に注目すると、17行目には「そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ」とあるように「そば畑」を通った後、27行目には「(豆ばたけのその喪神のあざやかさ)」という一節があり、ここで電車は再び「豆ばたけ」を走っているのです。

 「電車」のスケッチ日付は1922年8月17日、「」は1923年9月16日ですから、この時期に花巻で「電車」と言えば、1915年に西公園―松原間で開業し、1918年には志度平温泉まで延伸した、花巻電鉄「軌道線」のことです。町から花巻温泉の方へ行く「鉄道線」の開業は1925年のことですから、この時はまだできていません。
 「」には、「貨物電車」という言葉も出てきて、いったいどんなものだったんだろうと興味が湧きますが、「花巻電鉄の貨車」(地方私鉄 1960年代の回想)というページを見ると、花巻電鉄で走っていた様々な貨車の写真を目にすることができます。JRの大きな貨車のイメージからすると、おもちゃのように小さくて可愛い「箱」で、これが電車の後ろに繋がれて走っていく様には、何か「けなげ」さも感じてしまいます。
 そもそも、この電車(と馬車軌道)が結ぶ鉛温泉の奥には、硫黄を産出する鶯沢鉱山などがあったので、当時は貨物輸送もかなりの需要があったのだということです。

 『定本 宮澤賢治語彙辞典』によれば、賢治の作品中で「豆と出てきたら大豆のことと考えてよい」(p.683)ということですので、この「豆ばたけ」は、大豆の畑のことなのでしょう。「電車」が書かれた8月中旬は大豆の開花時期、「」が書かれた9月中旬は、枝豆としての収穫時期に当たります。
 どちらの作品も、大豆の葉や莢の青々と繁る色彩を感じさせ、とりわけ「」では、夜の闇の中で電燈に照らされる鮮やかさが印象的です。

 さて、賢治が電車に乗りつつ、その車窓から眺めた「豆ばたけ」というのは、はたしてどのあたりにあったのだろうとぼんやりと考えていましたら、91年前の今日、1923年8月31日に書かれた「雲とはんのき」という作品にも、「豆畑」が出てくることに気づきました。

    雲とはんのき

雲は羊毛とちぢれ
黒緑赤楊(はん)のモザイツク
またなかぞらには氷片の雲がうかび
すすきはきらつと光つて過ぎる
  《北ぞらのちぢれ羊から
   おれの崇敬は照り返され
   天の海と窓の日おほひ
   おれの崇敬は照り返され》
沼はきれいに鉋をかけられ
朧ろな秋の水ゾルと
つめたくぬるぬるした蓴菜とから組成され
ゆふべ一晩の雨でできた
陶庵だか東庵だかの蒔絵の
精製された水銀の川です
アマルガムにさへならなかつたら
銀の水車でもまはしていい
無細工な銀の水車でもまはしていい
   (赤紙をはられた火薬車だ
    あたまの奥ではもうまつ白に爆発してゐる)
無細工の銀の水車でもまはすがいい
カフカズ風に帽子を折つてかぶるもの
感官のさびしい盈虚のなかで
貨物車輪の裏の秋の明るさ
  (ひのきのひらめく六月に
   おまへが刻んだその線は
   やがてどんな重荷になつて
   おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)
 手宮文字です 手宮文字です
こんなにそらがくもつて来て
山も大へん尖つて青くくらくなり
豆畑だつてほんたうにかなしいのに
わづかにその山稜と雲との間には
あやしい光の微塵にみちた
幻惑の天がのぞき
またそのなかにはかがやきまばゆい積雲の一列が
こころも遠くならんでゐる
これら葬送行進曲の層雲の底
鳥もわたらない清澄(せいたう)な空間を
わたくしはたつたひとり
つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら
一挺のかなづちを持つて
南の方へ石灰岩のいい層を
さがしに行かなければなりません

 これは、「オホーツク挽歌」の旅から帰ってきてまだ間もない頃の作品で、最後の方の「これら葬送行進曲の層雲の底/鳥もわたらない清澄な空間を…」というあたりは、まさに挽歌の残照を感じさせます。作品全体に、透明な孤独感が漂っていますね。そしてこの作品の最後から13行目に、「豆畑だつてほんたうにかなしいのに…」という言葉が出てくるのです。
 それでもう少し気をつけてテキストを追ってみると、その「豆畑」の8行上に、「貨物車輪」という言葉があるのに気がつきます。これは、どこの鉄道の貨物車輪なのでしょうか。
 そしてまた「貨物車」があるとなると、さらにその5行上にある「赤紙をはられた火薬車だ」という言葉の意味が、明確になります。きっとこの貨物車は火薬を積んでいるので、危険物を載せていることを表示するために、当時の「火薬類鉄道運送規程(『銃砲火薬類取締法令通義』p.246)」に従って、「赤紙」が貼られているのです。

○火藥類鐵道運送規程(1915年改正)
第十六條 火藥類積載ノ貨車ノ兩側面ニハ見易キ位置ニ白地ニ火藥ト朱記シタル標札ヲ附スヘシ

 この「白地ニ火藥ト朱記シタル標札」のことを、賢治は「赤紙」と呼んでいるのでしょう。
 となると、この貨車は先に見たような、花巻電鉄軌道線のものだった可能性が、がぜん高まります。既に述べたように、この軌道線の奥には鶯沢鉱山があり、採鉱のためには大量の火薬を必要としたはずだからです。

 つまり、この「雲とはんのき」において作者は花巻電鉄の車両には乗っておらず、外から貨車の通過を眺めているようですが、そこはやはり「豆畑」のある場所だというところが、「電車」「」と共通しているのです。
 となると、この作品舞台がどこだったのか、ますます何としても知りたくなってしまいます。

 そこで今度は、上の作品中に出てくる「沼」に着目してみましょう。「沼はきれいに鉋をかけられ/朧ろな秋の水ゾルと/つめたくぬるぬるした蓴菜とから組成され…」という箇所です。
 この沼は、水面が「鉋をかけられ」たように滑らかで、蓴菜もあるようですから水は澄んでいるのでしょう。

 ここで、「水銀」「沼」という言葉からふと連想したのが、「春と修羅 第二集」の「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」という作品です。

一〇六
                    一九二四、五、一八、
日はトパースのかけらをそゝぎ
雲は酸敗してつめたくこごえ
ひばりの群はそらいちめんに浮沈する
    (おまへはなぜ立ってゐるか
     立ってゐてはいけない
     沼の面にはひとりのアイヌものぞいてゐる)
一本の緑天蚕絨の杉の古木が
南の風にこごった枝をゆすぶれば
ほのかに白い昼の蛾は
そのたよリない気岸の線を
さびしくぐらぐら漂流する
    (水は水銀で
     風はかむばしいかほりを持ってくると
     さういふ型の考へ方も
     やっぱり鬼神の範疇である)
アイヌはいつか向ふへうつり
蛾はいま岸の水ばせうの芽をわたってゐる

 この作品でも、12行目で「沼」の水が「水銀」に喩えられているところが、「雲とはんのき」と共通しているのです。「下書稿(二)」では、水面は「鏡の面」と表現されており、やはりとても滑らかだったのでしょう。

 さて、こちらの作品の舞台に関しては、木村東吉氏が『宮澤賢治≪春と修羅 第二集≫研究』の中で、次のように推定しておられます。

作品の舞台は花巻の西の郊外、才ノ神・熊堂付近が想定される。下書稿(一)にも「花巻一方里のあひだに云々」とあり、手入形に「沼はむかしのアイヌのもので/岸では鏃も石斧もとれる」とある。熊堂付近のアイヌ塚の存在は早くから知られており、出土品の一部は今も魔王塚に近い熊野神社の展示室に飾られている。下書稿(一)にある赤い石の塚についても、才ノ神部落の平賀静男氏宅裏の祠に赤煉瓦色の石塚がまつられているものが確認される。したがって作者は、北海道白老のアイヌ・コタンを訪ねる旅に出ることを考えながらアイヌ塚付近を歩いていて、豊沢川に沿って多数あったという沼の水面に、アイヌの幻を捉えたわけである。(p.180-181)

 上記の、「作者は、北海道白老のアイヌ・コタンを訪ねる旅に出ることを考えながらアイヌ塚付近を歩いていて…」という箇所の意味は、この「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」がスケッチされた1924年5月18日の午後10時に、賢治は花巻農学校の生徒を引率して北海道修学旅行に出発したことを指しています。
 木村氏の言う「豊沢川に沿って多数あったという沼」のいずれかが、作品の舞台だったというわけですね。

 実は私は、2009年にこの熊堂古墳群のある熊野神社を訪ね、そこに今は一つだけある「沼」を見てきました。
 Googleマップではこの沼は、熊野神社の南に「ひょうたん」のような形で見ることができます。

 下の写真が、私が訪ねた時の「沼」の様子です。

熊堂古墳の沼

 作品から何となく想像していたのよりは小さな沼でしたが、水はきれいに透きとおっていました。右下には鯉もいます。
 ここのあたりで、江戸時代後半、明治30年代、さらに大正年間に、たくさんの副葬品が発見されて、「蝦夷塚」「アイヌ塚」と呼ばれるようになりました。1986年から行われた発掘調査では、熊野神社境内に7基、神社西側に9基の古墳が確認され、現在は下のような形で保存されています。

熊堂古墳群

 境内には上のような墳丘があちこちにあり、各々直径10m、高さ1m程度の土饅頭になっていて、一部には写真のように小さな川原石で築かれた石室もあります。それにしても、こんなに身近に、直接触れることさえできる形で「古墳」を体験できるとは、関西ではちょっとないことで、この「熊堂古墳群」というのは、観光的にもお勧めのスポットではないかと思います。
 木村東吉氏が指摘するように、賢治ももちろんこの遺跡については知っていたはずですし、それが「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」の中に、幻の「アイヌ」の姿を登場させることにもつながっているのでしょう。

 そこで、この古墳群のある熊野神社の場所を、あらためて考え直してみると、実はここはまさに、花巻電鉄軌道線の「熊野」の停車場があったところなのです。
 下の写真は、熊野神社を東から見たところですが、右端奥へと続く広い道路が県道12号線で、その昔にはこの道に敷設された軌道を、電車が走っていたのです。

熊野神社と県道12号線

 つまり、「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」に登場する沼と、「雲とはんのき」に登場する沼とは、どちらも「花巻電鉄沿線の水銀のような沼」ということで、実は同一の場所だったのではないでしょうか。

 こう考えてみることによって、何となく腑に落ちる点が二つあります。

 一つは、「雲とはんのき」の中に出てくる、「手宮文字です 手宮文字です」という一節の背景です。
 「手宮文字」というのは、1866年に小樽の手宮洞窟で発見された彫刻で、明治から大正時代にかけては古代の文字と考えられ、「アイヌ文字」とも呼ばれていました。その後、これは「陰刻画」であって、「文字」として意味を伝えるものではなかったというのが定説となりましたが、賢治が「雲とはんのき」において「アイヌ塚」に来ていたとすれば、当時はアイヌの文字とも考えられていた「手宮文字」がそこに登場するのも、ごく自然なことになります。

 もう一つは、賢治が1924年の北海道修学旅行直前にこの場所に来て「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」を書いたことと、1923年の「オホーツク挽歌」の北海道旅行の後にもこの場所に来て「雲とはんのき」を書いていたこととの対応です。
 1923年8月11日、賢治は「噴火湾(ノクターン)」の中ほどで、妹トシへの'Funeral march'(=葬送行進曲)を耳にしましたが、その20日後の「雲とはんのき」においても、やはり「葬送行進曲」を感じています。北海道から帰った賢治が、この時「アイヌ塚」を訪れたのは意図的ではなかったのかもしれませんが、ここで彼は、自らの北海道における体験を、不思議にも甦らせてくれるものを感じたのではないでしょうか。
 そして翌1924年5月18日、北海道へ旅立つ当日の昼間に、おそらく慌ただしい合間を縫って、賢治は再びこの場所を訪れるのです。各所でしばしば「地霊」の声を聴くことのあった彼ですから、北海道へ行く直前にわざわざ「アイヌ塚」に来たことに関しては、意図的な何かを感じざるをえません。
 たとえば、はるか昔にはこの地にも居住していたアイヌの神に、北海道における生徒たちの無事を祈ったのではないか・・・、などということも想像します。


 というわけで、はっきりとした証拠がある話ではありませんが、『春と修羅』から「春と修羅 第二集」にかけて、電車、豆畑、沼、という舞台装置を持つ4つの作品を辿っていくと、何かが浮かび上がってくるような気がしたのでした。

熊堂古墳の沼

十善法語

 『春と修羅』の「風景とオルゴール」の章の最初に、「不貪慾戒」という作品があります。

   不貪慾戒

油紙を着てぬれた馬に乗り
つめたい風景のなか、暗い森のかげや
ゆるやかな環状削剥の丘、赤い萓の穂のあひだを
ゆつくりあるくといふこともいゝし
黒い多面角の洋傘をひろげ
砂砂糖を買ひに町へ出ることも
ごく新鮮な企画である
   (ちらけろちらけろ 四十雀)
粗剛なオリザサチバといふ植物の人工群落が
タアナアさへもほしがりさうな
上等のさらどの色になつてゐることは
慈雲尊者にしたがへば
不貪慾戒のすがたです
   (ちらけろちらけろ 四十雀
    そのときの高等遊民は
    いましつかりした執政官だ)
ことことと寂しさを噴く暗い山に
防火線のひらめく灰いろなども
慈雲尊者にしたがへば
不貪慾戒のすがたです

 「不貪慾戒」とは耳慣れない言葉ですが、仏教の「十善戒」、すなわち一般には不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不綺語戒、不悪口戒、不両舌戒、不慳貪戒、不瞋恚戒、不邪見戒という、十の戒めの一つです。
 作品中に出てくる「慈雲尊者」とは、江戸時代後期の僧、慈雲飲光(1728-1805)のことで、十善戒を説いた『十善法語』を著した人です。その学識と徳の高さから、しばしば「尊者」と敬称を付けられます。慈雲の『十善法語』においては、上に記したように一般的は「不慳貪戒」と呼ばれている戒のことを「不貪慾戒」と呼んでいて、賢治の作品の題名が「不貪慾戒」となっていることと一致しています。これも、賢治が慈雲の『十善法語』を読んでいたと推測される根拠の一つです。

 「不貪慾戒」とは、文字どおり「貪慾であってはならない」という戒めのことですが、ではどうして「粗剛なオリザサチバといふ植物の人工群落が/タアナアさへもほしがりさうな/上等のさらどの色になつてゐること」や、「ことことと寂しさを噴く暗い山に/防火線のひらめく灰いろ」などが、「不貪慾戒のすがた」になるのでしょうか。
 そこで、『新宮澤賢治語彙辞典』の「不貪慾戒」の項を調べると、次のような引用解説が載っています(一部引用者改行)。

この詩句について池上雄三は次のように解説している。
「この詩の背景には慈雲尊者の『十善法語』があるわけだが、その中からこの詩に関連する部分の一例をあげよう。
<不貪慾戒に住して、色に対すれば、一切の青黄赤白が此眼を養ふに足るじゃ。一切松風水声・絲竹管絃が此耳を遊ばしむるに足るじゃ。>
これによると、物を前にしてその色彩を楽しんで物欲を起こさない心のあり方を不貪慾戒というのだから、風景画家は、自然の中に色彩を見出す者であるがゆえに、不貪慾戒に住することになる。そして賢治も今タアナアの心境で稲の群落に目を養い、心を遊ばせているのだから、慈雲尊者にしたがうならば、たしかに不貪慾戒に住するはずである。その証拠に、自然が『不貪慾戒のすがた』をとって現れているではないかということである。」(「『銀河鉄道の夜』の位置」静岡英和女子学院短期大学紀要第14号)

 この池上氏の指摘は先駆的で非常に意義深いものと思いますが、作品そのものを見ると、そこでは風景画家ターナーが不貪慾戒に住する、あるいは賢治自身が不貪慾戒に住する、ということは直接言われていません。作品中で賢治は、「稲が上等のさらどに色になっていること」、そして「寂しさを噴く暗い山に防火線のひらめく灰色」、というある種の自然現象が、「不貪慾戒のすがた」であると言っています。

 ところで『十善法語』の別の箇所では、「不貪慾戒の姿」について、次のように述べられています。

 此ノ正法の處より看れば。天地も全く不貪慾戒の姿じや。日も中すれば傾く。月も満ツれば欠クる。物盛なれば衰ふ。草木も。花のうるはしきものは果(このみ)が美ならぬ。禽獣も。角ある者は牙を略す。珠玉の多き國は。必ず五穀衣服に乏し。寒雪の國は暴風少きと云フじや。(三密堂書店『十善法語 并関連法語・文献』)

 すなわち、ここでは種々の無機的あるいは有機的自然現象が例として挙げられていて、それらには何らかの「限度」というものがあること、そしてそのうちのある部分が優れている場合には他の部分が不十分であるというような一長一短が認められ、その存在自体が「足るを知れ」という不貪慾戒の本質を象徴しているのだということを、慈雲は言っているようなのです。
 そういう視点で作品の本文を見れば、「稲というのは粗剛な植物であるが」(宮澤家本によれば「がさつな草であるが」)、「色は素晴らしくなる」という一長一短があり、また「ことことと寂しさを噴く暗い山でも、そこにひらめく防火線の灰いろ(は美しい?)」という一長一短があるということで、それぞれが不貪慾戒を象徴する「姿」である、ということになるのかと思ったりします。

 ところで少し話は変わりますが、画家ターナーは、色彩に対して次のような好き嫌いを持っていたということです(Wikipedia 「ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー」より)。

ターナーが好んで使用した色は黄色である。現存している彼の絵具箱では色の大半が黄色系統の色で占められている。逆に、嫌いな色は緑色で、緑を極力使わないよう苦心した。ターナーは知人の一人に対して「木を描かずに済めばありがたい」と語っている。また別の知人から、ヤシの木を黄色く描いているところを注意された時には、激しく動揺している。

 つまり、「タアナアさへもほしがりさうな」という部分の意味は、「緑色嫌いだったターナーでも欲しがりそうな、極上の緑色」ということなのでしょうね。


 あと、『新宮澤賢治語彙辞典』には、賢治の作品で慈雲の『十善法語』に由来している可能性のあるものが、さらにいくつか挙げられています。
 短歌の、

37 泣きながら北に馳せ行く塔などの
   あるべきそらのけはひならずや

と関連が推定される部分として、『十善法語』巻第十一「不邪見戒之中」にある次の箇所が引用されています。

日蓮尊者後夜座禅より起チて、大衆に告ぐ。此ノ暁天の時、桜閣形の有情、号泣して虚空を凌ぎ去ルと。…世尊言ハく、此レ軽地獄の衆生なり。前身人間たりしとき、仏閣を己が遊覧処となせし故、此ノ報を受ケて久シく苦シむ。

 さらに、童話「蛙のゴム靴」に出てくる「雲見」に関しては、『十善法語』巻第五「不綺語戒」の一部が記されています。

雲を看て楽しむ者、よく四季七十二候の変を知ると云ふ。或は雲の姿を見、色を見、起滅を見て世の吉凶を占ひ知る者もある。隠逸の士、雲を見て詩歌を弄ぶもある、悉く面白かるべきじや。上なることを以て云はゞこの雲によそへて、五蘊色身、來去の相に達す。縁起を明了にして、優に聖域に入る。

 ついでに私もちょっと気がついたのですが、「不貪慾戒」から20日ほど後の日付けを持つ「」という作品に、次のようなところがあります。

金をもつてゐるひとは金があてにならない
からだの丈夫なひとはごろつとやられる
あたまのいいものはあたまが弱い
あてにするものはみんなあてにならない
たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で
そしてそれらもろもろの徳性は
善逝(スガタ)から来て善逝(スガタ)に至る

 一方、『十善法語』巻第八「不貪慾戒」には、次のような箇所があります。

千金の子も一銭を将チ來らず。不貪慾戒の姿じや。勇烈の士も。此ノ生力なく。此ノ死力ない。不貪慾戒の姿じや。智謀の士も。此ノ生自ら知ラず。此ノ死自ら辨ぜぬ。不貪慾戒の姿じや。(三密堂書店『十善法語 并関連法語・文献』)

 これらは何となく、似ているような気がしました。ちょうどこの頃の賢治が『十善法語』の「不貪慾戒」を読んでいので、影響があったのでしょうか。

慈雲尊者
慈雲尊者

大沢温泉より南

 部屋の窓の下を、豊沢川が左から右へ流れています。けっこう深そうなところもある一方、流れはたくさんの岩のところで白い波と音を発しつづけていて、常に流量感が伝わってきます。「ザー」、あるいは「ドー」という持続的な音に、小さく「ザブン、ザブン」というような、水が脈打っているような音が混ざっているようです。
 「せせらぎ」と呼ぶにはもっとはるかに大きい感じで、「瀬」という言葉が当てはまるのかと思ったりしますが、しかし「早瀬」というほど急流でもないし、「深瀬」というのもピンとこないし・・・、と考えていると、「沢」がやはりぴったりだと腑に落ちました。これはまさに、「豊沢」であり「大沢」であり、そのように水が流れつづけている感じです。
 つねに動きつづけているものを、身のすぐそばに感じながら本を読むというのは、ちょっと不思議な感じです。

 さて今日は、朝食の後、大沢温泉から豊沢川に沿って、南の方へ歩いてみることにしました。

 宿を出てまず1kmほど行くと、すぐに到着するのが「渡り温泉」です。その名前は、この場所で道路が(そしてその昔は電車も)豊沢川を「渡って」、川の西側から東側に移ることに、由来します。川を「渡る」という一見ありふれたことが、地名にもなるほどの意味があったのは、この幅広く流れの強い川に橋を架けることが、昔はたいへんだったことによるのでしょう。
 そして、賢治の「風景とオルゴール」(『春と修羅』)も、ちょうどこの「渡り」のあたりを作品舞台としているんですね。この日賢治は、豊沢川西方の五間森という山から下りてきて、この「渡り橋」のあたりで、馬に乗った農夫とすれ違います。ちょうど正面には松倉山がそびえ、当時ここを走っていた電車の関係で、見事な電燈が山の手前に灯っていたようです。ちょうど月が出て、雲はせわしく空を走っていきます。
 賢治の心の中には、同日付作品「宗教風の恋」のテーマになり、この「風景とオルゴール」においても「(何べんの恋の償ひだ)」という言葉に表れているような、何らかの恋愛感情的苦悩があるようです。またもう一方で、なぜか彼はこの日に五間森で「木をきった」ようで、その淡い罪悪感も漂っています。作品においては、まさに幻想的な、じっくりと研ぎ澄ましたような描写が、緊張をはらんで展開していきます。ロジャー・パルヴァースさんなどは、この作品を、「20世紀日本の不朽の名詩」とまで呼んでおられます(「宮沢賢治は日本人に生まれて損をしたのか」)。

渡り橋と松倉山
渡り橋と正面の松倉山

 「渡り橋」を渡って、断崖のようになっている松倉山の西麓を過ぎると、しばらく右手には五間森が台形の形を表します。それにしても、賢治がこの日、なぜ五間森の「木をきった」のかは謎ですね。何かの目的があっての行動なのか、偶発的なことだったのか・・・。

 渡り温泉からまた1kmあまり行くと、こんどは志戸平温泉です。「「文語詩篇」ノート」には、「漆ヲヤム、志戸平」との記載があり、賢治が中学生時代に漆にかぶれて療養に来たのは、この志戸平温泉だったようです。現在、ここには「イーハトーブ病院」というけっこう大きな病院もあったりしますが、いわゆる老人病院のような外観です。

志戸平温泉(後ろは五間森)
下流から望む志戸平温泉・後ろは五間森

 志戸平温泉から、さらに南に2kmほど歩くと、松倉温泉があって、もう少し行くと道の西側に、「花巻の電気発祥地」という説明版が立っています(下写真)。賢治の時代はここに発電所があって、この日の賢治の次の作品「風の偏倚」の「ダムを越える水の音」という言葉を文字どおり解釈すると、賢治はこの発電所の堰堤あたりまで歩いてきて、「松原」電停から電車に乗ったのかと推定されます。
 この日の賢治の次の作品「」は、もう電車の中の情景です。

花巻の電気発祥地

 私たちは、このあたりの喫茶店で昼食をとってから、バスに乗って大沢温泉まで帰りました。帰ってきても、まだ午後1時頃でした。


 ところで、そもそも大沢温泉と言えば、賢治の少年時代に父政次郎氏などが中心となって、「夏期仏教講習会」が毎年開催されていた場所でした。その中でも下の写真などは、風情もあって印象的なものです。

1911年第13回花巻仏教講習会
1911年(明治44年)第13回花巻仏教講習会

 上の写真の場所が現在のどこなのかということは興味を引かれますが、これが大沢温泉の「曲り橋」という橋の上だったということが温泉側の記録にあることから、現在もある「曲り橋」に対して、下のような角度で眺めたところなのかと思ったりします。あちこち撮影場所も試してみたのですが、これは現在の大沢温泉・自炊部の1階廊下の窓から写したものです。

大沢温泉・曲り橋

 現在は、当時になかった木の枝が張り出していますし、奥の萱葺きの建物も、変わってしまっています。素敵だった当時のガス燈も、今はありません。

 でもまあ、ちょっと似た感じはすると思うのですが、どうでしょうか。

震災の「外部」で

 先日函館へ行く際に、私は村上春樹の短篇集『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)を、何気なくバッグに放り込んで出かけました。実際、往復の機内では、6つの短篇をじっくりと読むことができたのですが、それにしても今回の小旅行にあたって、なぜ私は本棚の片隅から他ならぬこの本を選び取ったのか、不覚にも帰宅してしばらくたってから、やっと私は自分の無意識的な動機に思い当たりました。

 すなわち先週来、中国四川省の大地震の報道が、連日TVや新聞をにぎわしていたのです。

 すでに読まれた方はご存じのように、『神の子どもたちはみな踊る』は、阪神大震災をモチーフにした連作短篇集です。各篇において震災がどのような意味を持って現れるかということは様々ですが、すべてに共通するのは、どの作品においても震災は主要な題材ではなくて、小説の片隅に、「遠景」のように小さく置かれていること、しかし実は、潜在的には重要な意味を帯びていることです。
 震災は、物語の「外部」にあるように見えながら、いつしか物語や登場人物と「共振」をはじめます。
 この辺の距離感と重みは、村上春樹氏が阪神地区(西宮市夙川)の出身でありながら、阪神大震災の当時にはアメリカで生活していて、現場から遠く離れていたこととも関係しているのかもしれません。

 そして現在の私も、四川省の大地震のニュースを毎日見ていろいろなことを感じながらも、自分自身がその圧倒的な惨事の「外部」にいることを、日々思い知らされていたのです。


 実は私は13年前の阪神大震災の際、地震から10日あまり経った1月29日から30日にかけて、1泊2日で現地の支援活動に行ったことがありました。同行者とともに、京都から車で長時間かけて神戸市の中心部に着いてみると、あの美しかった神戸の街の、変わり果てた姿がありました。その衝撃は、いまだに言葉で表現することができません。
 それから2日間、地元の人たちと一緒に、私はそれなりの仕事をしました。しかし2日目が終わって気がついてみると、私は次にやって来るメンバーと交代して、もう京都へ帰ってしまう人間だったのです。毎日、避難所やライフラインの途絶えた住居と往復する地元の人とは異なって、私は、電気も水道も通い、風呂に入ってこの2日の疲れを癒やすこともできる場所へと、当たり前のように帰ることのできる人間だったのです。
 この時、私は自分がいくら何かの援助活動に携わろうとも、やはりこの災害に関して、「外部」にいるのだということを痛感しました。そして瓦礫となった神戸の街の映像とともに、言いようのない自責の念が心に残りました。

 ところで、このような大災害の被災者においては、「生存者の罪責感(サヴァイヴァーズ・ギルト)」と呼ばれる心理が問題になることが、しばしばあります。自らも被災しながら生き残った人にとっては、肉親や親しい人を喪った悲しみに加えて、「なぜこの人が死んで私が生き残ってしまったのか」「私が何とかしておれば、この人を救えたのではないか」「この人のかわりに私こそ死ぬべきだったのではないのか」などの気持ちが渦巻き、自分が生きていることへの罪悪感ともなってしまうのです。このような心理は、PTSDの重要な構成要素であり、外部にいるの者の安易な慰めが届くものでもありません。
 典型的な「生存者の罪責感」を扱った文学作品として、広島の原爆被災を舞台とした井上ひさし氏の戯曲、「父と暮せば」がありました。

 さて、災害の「外部」にある者が、その事態に対して感じる気持ちの中には、素直な「同情」、自分が役に立てないという「無力感」などとともに、このような「生存者の罪責感」の薄められたものも、確かに混じっているのでしょう。
 遠くアメリカにいて、故郷の阪神大震災の報道に接した村上春樹氏も、そのような気持ちのいくばくかを感じたのかもしれません。ただ、さすがにすぐれた小説家は、私などのように苦い「無力感」を噛みしめることに終わらずに、「外部」にありながら何か新たな「力」を呼び覚ますかのような、一連の連作短篇を生み出したわけです。


 ところで宮澤賢治の作品において、当時の大災害=関東大震災に言及したものとしては、1923年9月16日の日付を持つ「宗教風の恋」と「」(いずれも『春と修羅』所収)とがあります。
 震災から10日あまりがたった時点で、やはり災害のはるか「外部」にあった賢治ですが、前者「宗教風の恋」では、次のように震災に触れます。

風はどうどう空で鳴つてるし
東京の避難者たちは半分脳膜炎になつて
いまでもまいにち遁げて来るのに
どうしておまへはそんな医される筈のないかなしみを
わざとあかるいそらからとるか
いまはもうさうしてゐるときでない

「岩手日報」大正12年9月7日 「東京の避難者」というのが、当時東京から東北地方へも避難してきていた地震の被災者のことです。「半分脳膜炎になつて・・・」という表現は、現代ならばあまり適切ではないと言われてしまいそうですが、今で言えば「急性ストレス反応」や種々の喪失体験など、精神的にも大変な状態で避難してきている人々が、多数あったのでしょう。対馬美香著『宮沢賢治新聞を読む』に引用された「岩手日報」大正12年9月7日版(右写真)によれば、「東北地方は安全地帯と目され避難民が多数来り各列車は何れも満員にて混雑を呈し・・・」とあります。
 賢治は、このような被災者のことを思い、当時の自分を戒め、その心の有り様を責めています。

 また、同じ日付の「昴」では、

市民諸君よ
おおきやうだい、これはおまへの感情だな
市民諸君よなんてふざけたものの云ひやうをするな
東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ
見たまへこの電車だつて
軌道から青い火花をあげ
もう蝎かドラゴかもわからず
一心に走つてゐるのだ

として出てきます。ここでも、賢治は被災した東京のことを考え、「東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ」として、自らの語り口を自重しています。そして気がつくと、自分が乗っている電車さえも、「生きるか死ぬかの堺」にある東京に共振するかのように、必死に走っているのです。
 「昴」の最後は、そして「1923年9月16日」の日付を持つ4つの作品の最後は、次のように終わります。

どうしてもこの貨物車の壁はあぶない
わたくしが壁といつしよにここらあたりで
投げだされて死ぬことはあり得過ぎる
金をもつてゐるひとは金があてにならない
からだの丈夫なひとはごろつとやられる
あたまのいいものはあたまが弱い
あてにするものはみんなあてにならない
たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で
そしてそれらもろもろの徳性は
善逝(スガタ)から来て善逝(スガタ)に至る

 遠い東京の震災ですが、すぐさまそこに感情移入できる賢治は、自らの死さえも身近に感じてしまいます。それまで「あてにされてきたもの」が脆くも崩壊した世界の現実に直面して、「あてにするものはみんなあてにならない」とあらためて自戒し、そして「たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で・・・」と、自身の宗教的立場からの観照を述べます。
 やっぱり賢治も、遠い「外部」にありながら、震災を単なる他人事と見過ごしたり、無力感だけを覚えて終わったりするわけではなかったのです。

 ところで上記「昴」の引用は、村上春樹の短篇「神の子どもたちはみな踊る」の終わり近くで、「善也」がある人に伝えようとした次のような言葉にも通ずるところがあるような気がしたのですが、どうでしょうか。

 僕らの心は石ではないのです。石はいつか崩れ落ちるかもしれない。姿かたちを失うかもしれない。でも心は崩れません。僕らはそのかたちなきものを、善きものであれ悪しきものであれ、どこまでも伝えあうことができるのです。神の子どもたちはみな踊るのです。


 ・・・四川省の大地震から、やはり10日あまりが経った今日この頃です。

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 村上 春樹

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