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「〈みちづれ〉希求」の昇華

 「〈みちづれ〉希求」の話に行く前に、まずは次の疑問について考えることから、今回の記事を始めてみたいと思います。
 『春と修羅』を書いていた頃の賢治は、いったいなぜ、自らの〈修羅〉性について、あれほど尖鋭に意識し、苦悩しなければならなかったのでしょうか。

 賢治が自らを〈修羅〉と規定し、そのような己の本性に対峙しつつ苦しんだことは、「春と修羅」の、

おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)

という箇所に、端的に表れています。なぜ彼は、自分のことを「ひとりの修羅なのだ」と呼び、そのために風景がゆすれるほど、なみだを流さなければならなかったのでしょうか。これは、『春と修羅』という一つの詩集全体をも貫くテーマとも言える、重要な問題でしょう。

 まず客観的に見ると、宮澤賢治という人は、「修羅」と言えるような人柄でもなく、またそういった行動をする人でもなかったということは、以前の「諂曲なるは修羅」という記事においても、具体的に確認したところです。賢治を直接に知る人々の証言では、彼は修羅とは対極的に、「どんな人にも丁寧で、親切な礼儀正しい人」(佐藤成)、「おだやかでもの静か」(羽田視学、畠山校長)、「とにかく常に明るくて、微笑の絶えない人」「けっしていばらない人」(藤原嘉藤治)と評されており、賢治自身が己の修羅性を気にする必要性は、全くなかったはずなのです。

 それにもかかわらず、彼が「おれはひとりの修羅なのだ」と自己規定をせざるをえなかった理由があるとすれば、それは他人からはうかがい知れないけれども、彼にとっては何か自分の内に、〈修羅〉的な要素を強く意識せざるをえない部分があり、その部分をどうしても自分で許せなかったために、あそこまで苦しんだのだろうと、考えるしかありません。

 そこで次の問題は、そのように賢治が意識した自らの〈修羅〉性とは、具体的にはいったいどういう部分だったのか、ということです。これについては、やはり記事「諂曲なるは修羅」で述べたように、童話「土神ときつね」と、「小岩井農場(清書後手入稿)」第五綴の記述が、有効な導きとなります。

 「土神ときつね」は、これまでの研究によって、作者賢治が登場人物を自らの分身のように造型している面があること、そして同時にその「土神」は、修羅性の象徴とも言えることが、指摘されてきました。これに加えて私としては、怒り荒ぶる土神は「修羅の瞋恚的側面」を象徴し、言葉巧みに樺の木を誑かす狐は「修羅の諂曲的側面」を象徴するという図式になっているのではないかと、考えてみました。

 一方、「春と修羅」の翌月にスケッチされた「小岩井農場(清書後手入稿)」の次の箇所における賢治の言動は、このような「瞋恚」と「諂曲」に、不思議と合致しているように感じられます。

  ※※※※※※※※ 第五綴
鞍掛が暗くそして非常に大きく見える
あんまり西に偏ってゐる。
あの稜の所でいつか雪が光ってゐた。
あれはきっと
南昌山や沼森の系統だ
決して岩手火山に属しない。
事によったらやっぱり
石英安山岩かもしれない。
これは私の発見ですと
私はいつか
汽車の中で
堀籠さんに云ってゐた。
(東のコバルト山地にはあやしいほのほが燃えあがり
 汽車のけむりのたえ間からまた白雲のたえまから
 つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。
 その汽車の中なのだ。
 堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた。)
堀籠さんは温和しい人なんだ。
あのまっすぐないゝ魂を
おれは始終をどしてばかり居る。
烈しい白びかりのやうなものを
どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。
こっちにそんな考はない
まるっきり反対なんだが
いつでも結局さう云ふことになる。
私がよくしやうと思ふこと
それがみんなあの人には
辛いことになってゐるらしい。

 ここで賢治は、何とかして同僚の堀籠文之進と親しくなりたいと思って、いろいろ話しかけているのですが、なかなかうまく行きません。
 引用部の終わりの方で、「温和しい」堀籠さんに対して賢治が、「おれは始終をどしてばかり居る。/烈しい白びかりのやうなものを/どしゃどしゃ投げつけてばかり居る」というところは、土神が樺の木と仲良くなりたいのに、不器用にも乱暴な印象ばかり与えて逆効果を招いているところと、そっくりに感じられます。
 また前半部で、鞍掛山が地質学的に岩手山の系統に属さないという自説を、「これは私の発見です」とやや大げさに自慢げに言っているところは、狐が樺の木の気を引こうとして話を誇張するところに通じます。

 つまり、私が思うのは、次のようなことです。当時の賢治は、自分が堀籠と仲良くなりたい一心で、思わず激情があふれて一方的な物言いになり、意に反して相手を萎縮させてしまうところや、あるいは自分を良く見せようとして、つい得意気に話を盛ってしゃべってしまうところ等が、自分でも情けなく思えて、己を許せなかったのではないでしょうか。そして、そのような自らの言動は、修羅の特徴的な二つの側面である「瞋恚」と「諂曲」にも通ずるところから、深い自己嫌悪とともに己を〈修羅〉と規定し、そのような自分を何とかして超克しなければならないと、考えたのではないでしょうか。

 おそらく賢治にとって、このような感情に悩まされるのは人生で初めてのことではなく、数年前から保阪嘉内に対して、己の〈みちづれ〉となってくれることを求めては叶えられず悶々とし、ついに「春と修羅」を書く前年に悲しい別れを迎えるまでの過程においても、ずっと同様の苦しみを味わっていたのではないでしょうか。
 そして、翌1922年の春、またもや同じような苦悩に囚わていれる自分に直面し、己のその「業」のような性質に対して、ここで〈修羅〉という自己規定を行ったわけです。

 冒頭に掲げた、「なぜ賢治は、客観的には修羅的ではないのに、己を〈修羅〉と意識して悩まなければならなかったのか」という疑問に対して、現時点で私としてはこれが、最も無理のない答えに思えます。それは、「〈みちづれ〉希求」が叶えられないことによって、思わず露呈してしまう、自らの内の「下等」な感情のことだったと思われるのです。

 (ちなみに、ここで言う「下等」とは、「小岩井農場(清書後手入稿)」第六綴の、次の箇所からとっています。)

 (私はどうしてこんなに
  下等になってしまったらう。
  透明なもの 燃えるもの
  息たえだえに気圏のはてを
  祈ってのぼって行くものは
  いま私から 影を潜め)

 では賢治は、そのような己の〈修羅〉性を、実際にどのようにして克服していったのでしょうか。
 現在の私たちから見ると、賢治が特定の誰かについて、上記のように感情的になったり諂うような態度をとったりしてしまうのは、「ある一人の人に対して、信仰も含めてどこまでも一緒に行こうとしてしまう」ところに、無理があるのだろうと思われます。つまり、先日の記事の言葉では、「〈みちづれ〉希求」に囚われてしまうことに、原因があるわけです。
 しかし、1922年4月8日の日付を持つ「春と修羅」でも、5月う21日の日付を持つ「小岩井農場(清書後手入稿)」でも、自分の言動を反省してはいるものの、己の「〈みちづれ〉希求」そのものを問題視している様子は見受けられません。しかし、「原因」をそのままにして、表面の「結果」だけを抑えつけようとしても、それは無理なことでしょう。
 1923年3月4日には、堀籠に対して、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」と言って、堀籠の背中を打ち、これによってどうにか彼を〈みちづれ〉として求めることを諦めたようです。しかし裏を返せば、この日まで賢治は、まだずっと堀籠に対する感情に苦悩し続けていたわけです。

 このような苦しみに囚われていた賢治の問題意識が、原因である自らの「〈みちづれ〉希求」の方へと向かったのは、図らずも「トシを失う」という体験をしたおかげだったのではないかと、私は思います。
 トシという、やはりかけがえのない〈みちづれ〉が1922年11月27日に亡くなり、その喪失の悲嘆に暮れていた賢治は、翌1923年7月末から8月初めにかけて、トシの魂を追い求め、何かの「通信」の望みを抱いて、サハリンへ旅をします。ここでは、賢治はまだトシという「ひとり」を諦めきれていないわけですから、やはり彼は従来のような「〈みちづれ〉希求」に囚われていたと言えるでしょう。
 しかし、この旅から帰郷した後、賢治に重要な変化が現れはじめるように思われます。この年の秋頃に書かれたと推測される「手紙 四」では、死んだ妹ポーセを探そうとするチユンセに対して、「チユンセがポーセをたづねることはむだだ」との宣告が行われ、〈みちづれ〉を求める行為が、明確に否定されるのです。そしてその否定のかわりとして、「大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」ということが説かれます。ご存じのように「青森挽歌」においても、いつの時点の推敲からかは不明ですが、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という、同様の啓示が現れます。

 すなわちここでは、「死者」を対象とする形ではありますが、ある特定の一人と「どこまでもどこまでも一緒に行かう」とするような「〈みちづれ〉希求」は、利己的な願望として否定され、かわりに「すべての生き物と一緒に、本当の幸福へ到る」という、菩薩行的な志向性こそが、肯定されるのです。

 そしてこの命題を、死者を対象としたものから生者へと拡張すると、「小岩井農場(初版本)」パート九の、有名な定式になります。

もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ

 ここでは二番目に登場して「恋愛」と呼ばれている、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」願望が、これまで述べてきた「〈みちづれ〉希求」に相当します。賢治はおそらく、同性であろうと妹であろうと、全き同伴者として強く求める自らの「〈みちづれ〉希求」というのは、なかなか一般人には理解されにくいということがわかっていて、それでここでは通俗的に「恋愛」と表現しているのではないかと、私は思います。それでも、「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」というのは、やはり一般人の平均的な恋愛感情を超えていると言わざるをえず、やはりこれが賢治独特の感情を原型としていることが、推測されます。
 そして、このように一人を対象とした愛は、正しい「宗教情操=じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」願いが、砕けまたは疲れて退化したものにすぎないわけなので、だから人は本来の宗教情操にこそ立ち返らなければならないというのが、この箇所の賢治の考えです。仏教的な言い回しでは、例えば「我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」(『法華経』化城喩品)に通じます。

 このように、「ただ一人を対象とした〈みちづれ〉希求」を、「全ての衆生を〈みちづれ〉とした求道」、すなわち「菩薩行」へと転換すること、これこそが賢治が到達した「〈みちづれ〉希求」の昇華でした。別の言い方をすれば、「個別的・主観的な愛」を、「普遍的・客観的な愛」に高める、とも言えるでしょうか。
 そしてこれによって、彼はやっと己の〈修羅〉性から解放され、個人への執着に悩み苦しまずに自分が目ざすべき方向性を、明確にできたのです。

 実際、『春と修羅』の最終章である「風景とオルゴール」や、「春と修羅 第二集」以降では、人間ではなくて「自然への愛」や「自然との合体」が、謳歌されるようになります。

こんなあかるい穹窿と草を
はんにちゆつくりあるくことは
いつたいなんといふおんけいだらう
わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる
こひびととひとめみることでさへさうでないか
   (おい やまのたばこの木
    あんまりヘんなおどりをやると
    未来派だつていはれるぜ)
わたくしは森やのはらのこひびと
芦のあひだをがさがさ行けば
つつましく折られたみどりいろの通信は
いつかぽけつとにはいつてゐるし
はやしのくらいとこをあるいてゐると
三日月がたのくちびるのあとで
肱やずぼんがいつぱいになる
        (「一本木野」)

海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ
        (「種山ヶ原」下書稿(一)

あのどんよりと暗いもの
温んだ水の懸垂体
あれこそ恋愛そのものなのだ
炭酸瓦斯の交流や
いかさまな春の感応
あれこそ恋愛そのものなのだ
        (「春の雲に関するあいまいなる議論」)

 このように振り返ってみると、『春と修羅』という詩集は、賢治が1921年の保阪嘉内との別れ、1922年のトシとの死別、1923年の堀籠との同道の諦めという形で、己の「〈みちづれ〉希求」の度重なる挫折に苦悩し、それによって煩悶する自分を〈修羅〉と規定して対峙し、ついにそのどん底から妹の死も契機として再び歩き始めたという、一連のプロセスの記録であったということもできます。
 その期間においては、思想的な懊悩と並行して、飽くなき作品の推敲もあったはずですが、その果てにやっとのことで、「小岩井農場(初版本)」パート九のような、一定の境地を表すテキストに達することができたわけです。
 一つの詩集の中に、本当にダイナミックな展開と決着が隠されていると感じますが、逆に言えば、賢治としては自らの苦悩にやっとこういう形で、思想的なレベルで一段落をつけることができたので、そのドキュメントを『春と修羅』という一つの詩集として、世に出そうと思ったということかもしれません。

 かつて天沢退二郎氏は、詩集『春と修羅』全体の構成を、「詩篇「春と修羅」と「永訣の朝」とをいわば二つの頂点、二つの中心として、全七十篇が楕円形の構造をなしながら宙に懸かっている」と表現されました(「《宮澤賢治》作品史の試み」)。その二つの中心とは、「己の《修羅》性の発見」と、「妹の死」というテーマだったわけですが、上のように見てくると、賢治にとって「己の〈修羅〉性」とは、「〈みちづれ〉希求」が叶えられないことによる感情的動乱だったわけですし、「妹の死」は、これ自体が彼にとって最大の「〈みちづれ〉希求」の挫折でした。
 そうすると、天沢氏の言う「二つの中心を持つ楕円」とは、実は突き詰めれば、「〈みちづれ〉希求」の挫折と昇華という「一つの中心を持つ円」だったとも、言えることになります。その「一つの中心」を作品の上に定位するとすれば、「春と修羅」と「永訣の朝」の間にある、「小岩井農場」になるのではないでしょうか。

 いずれにせよ、この問題こそが、『春と修羅』の最大かつ本質的なテーマであったのだろうと、私としては思うところです。

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 長詩「小岩井農場」には様々な側面があり、様々な解釈が可能でしょうが、その初期形における重要なモチーフの一つは、「農学校の同僚の堀籠文之進と仲良くなりたいが、うまく行かない」という賢治の悩みでした。
 もっとも、この堀籠をめぐる葛藤に関する記述は、後の推敲によって削除され、全く痕跡をとどめない状態にされてしまうので、出版された『春と修羅』に掲載されている形態を見るかぎりは、そのようなモチーフはうかがい知れません。しかし賢治が、この日の小岩井農場散策を途中で取りやめ、引き返すという決断をしたのも、実は堀籠に対する気持ちによるところが大きく、早く花巻に戻って農学校に寄れば、日直をしている堀籠と一緒にチョコレートを食べられるかもしれない、と考えたからだったのです。

 もちろん、賢治が引き返した直接のきっかけは、よく知られているように「雨が降り出したから」だったのですが、「下書稿」や「清書後手入稿」を見ると、彼は雨が降り出すかなり前から、「もう柳沢へ抜けるのもいやになった」と記し、何時の列車に乗れば農学校に寄るのに都合がいいかなどと、しきりに考えているのです。

五時の汽車なら丁度いゝ。
学校へ寄って着物を着かへる。
堀篭さんも奥寺さんもまだ教員室に居る。
錫紙のチョコレートをもち出す。
けれどもみんながたべるだらうか。
それはたべるだらう、そんなときなら
私だって愉快で笑はないではゐられないし
それにチョコレートはきちんと、
新らしい錫紙で包んであるから安心だ。

 賢治はこんなことを考えながら、しかし引き返す決断はできないまま歩みを進めていたところに、急に雨が降ってきたので、これ幸いとばかりに「引っ返せ 引っ返せ」と自分に掛け声をかけ、Uターンをしたのです。
 この一連の流れを見ても、当時の賢治にとって堀籠に関する悩みが、どれほどのウェイトを占めていたのか、ということがわかると思います。

 実際にこの1922年5月21日(日)、小岩井農場から予定を早めて花巻に戻った賢治が、農学校に立ち寄って堀籠文之進とともにチョコレートを食べたのかどうかはわかりません。しかし賢治にとって、堀籠との関係をめぐる葛藤は、その後も続いていたようです。
 それを物語るのは、『新校本全集』の「年譜篇」の1923年3月4日の項に記されている、二人の間の特異な出来事です。

 同僚堀籠文之進と一関へハイキング。途中一切英会話。一関で上演中の歌舞伎を見物し、10時を過ぎる。汽車もなく、飲み屋で休み、月夜を幸い帰る。
 途中、たまたま信仰の話に及んだとき、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」といい堀籠の背中を打った。
 「ああこれでわたくしの気持ちがおさまりました。痛かったでしょう。許してください」といい、平泉駅につき待合室のベンチで休み、夜明けとともに下り列車に乗り、花巻まで一睡する。

 職場の同僚である堀籠の背中を打つというこの賢治の行動は、前回も引用したような、「穏やかで、温和で、謙虚な」賢治の人柄のイメージからすると、かなり意外なものです。このような行動の背景には、何らかの強い「感情」の存在を想定せざるをえません。
 この時二人は、「信仰の話」をしていたということで、賢治が「どうにも耐えられない」と言った理由は、おそらく堀籠が、自分は賢治と同じ信仰を持つことはできないと、はっきり言明したか何かだったのでしょう。日蓮系の教団では、周囲の人に「折伏」をして、少しでも多くの信者を獲得することを特に重視しますので、この時賢治が「一人の信者を獲得し損ねた」ことは、かなり残念な結果だったことでしょう。
 しかし、当時の賢治にとって堀籠が、単なる折伏の対象としての「一人」にしか過ぎなかったとは、到底思えません。もしそれだけのことだったなら、賢治が周囲の人に日蓮の教えを勧めた際には、相手が断るたびごとにその人の背中を叩いていたはずですが、もちろん実際はそんなことはありません。ですから、ここで賢治に堀籠の背中を打たせた「感情」は、堀籠という個人に対して、特別に向けられていたものだったということになります。

 その感情とは、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか」という賢治の言葉に表れているように、「自分と一緒に歩んで行く人を求める」という思いでしょう。「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニがカムパネルラに言った、「どこまでもどこまでも一緒に行かう」という願いと同型なのが印象的で、これは賢治にとって、重要なテーマだったのだろうと推測されます。
 このような、「生涯の同伴者を求める」という賢治の強い感情のことを、ここでは「〈みちづれ〉希求」と名づけておこうと思います。〈みちづれ〉という言葉は、賢治が「無声慟哭」において、トシにとっての賢治自身のことを、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」と呼んだことからとっています。

 思えば、宮澤賢治という人は、『春と修羅』の時期の少し前から、〈みちづれ〉を強く希求しては失うという挫折を、下記のように毎年経験していました。

  • 1921年7月: 保阪嘉内との別れ
  • 1922年11月: トシの死
  • 1923年3月: 堀籠文之進への諦め(上述)

 このような悲痛な体験の連続は、彼に深い喪失感と孤独感をもたらしたでしょうが、これらの苦悩の直視と昇華こそが、『春と修羅』という詩集の、本質的なテーマだったと言えるのではないでしょうか。

 前回も見たように、詩「春と修羅」で抉り出された「自らの《修羅》性」とは、童話「土神ときつね」において類型化されているように、土神の象徴する「修羅の瞋恚的側面」と、狐の象徴する「修羅の諂曲的側面」という二面に分けて考えることができます。そして、そのどちらの側面も、「小岩井農場」の初期形に描かれたように、堀籠に対する過剰で一方的な「〈みちづれ〉希求」と、現実との齟齬において、自覚され記載されたものでした。

 長詩「小岩井農場」は、当初は堀籠に対するこのような心理的=《修羅》的葛藤を主要なモチーフとしていましたが、推敲の過程でそこに含まれる個人的要素は削り取られ、最終的にはただ「個別的(主観的)な愛」を超克して、「普遍的(客観的)な愛=宗教情操」に昇華すべきだという理念のみが、高らかに謳われることになります。推敲後の「小岩井農場」では、堀籠の名前すら出ず、ただ「さびしい」とか「さびしくない」とかいう抽象的な言葉だけが残され、最後の「宗教情操」をめぐる大団円に至るので、その具体的な意味がわかりにくくなっていますが、もとはこの作品のテーマも、「〈みちづれ〉希求」に関連した苦悩だったわけです。

 また、トシの死後の「無声慟哭」の章と、「オホーツク挽歌」の章の諸作品が、トシに対する「〈みちづれ〉希求」の挫折と、その後の苦悩を描いたものであることも、言うまでもありません。そしてここでも賢治は、「青森挽歌」の《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉に集約されるように、「個別的(主観的)な愛」を超克して、「普遍的(客観的)な愛」に昇華しなければならない、という結論に至ります。

 詩集『春と修羅』の最後の章である「風景とオルゴール」では、個別の人間に対する「〈みちづれ〉希求」を昇華する一つの方向性として、「自然への愛」への志向が描かれています。「過去情炎」では、賢治は梨の木に対して「待つてゐたこひびとにあふやうに」接し、「一本木野」では、自然の中を歩く恩恵を「こひびととひとめみること」とでも取りかえると言った後、「わたくしは森やのはらのこひびと」と宣言します。

 以上のように、賢治は己れの過剰な「〈みちづれ〉希求」が招来する苦悩を、『春と修羅』の諸作品を書きつつ推敲しつつ必死で乗り越えて、ついには新たな段階に入っていったように見えます。したがって、彼の生涯のうちで、そのような葛藤が作品のテーマとなっていた時期は、せいぜい数年間にすぎません。
 しかし、若き日の彼がこのような経験をしたことが、その後も含めた彼の作品に、独特の奥深さと陰翳をもたらしてくれたことは、確かだと思います。

 それから、賢治のこの感情は独特なもので、作品の記述などから想像するに、それはおそらく世間一般の「友情」とか「家族愛」などをはるかに超越する強度だったと、考えざるをえません。この「独特さ」を無視して、賢治の具体的行動や作品の描写を、普通人の心理に当てはめて解釈しようとすることから、「保阪嘉内に対する感情は同性愛だった」とか、「トシとの間には禁断の愛があった」などという俗説が生まれてしまうのだと思います。『宮沢賢治の真実』で今野勉氏は、堀籠文之進に対する感情も同性愛として論じておられますが、保阪嘉内の場合も含め、彼らを〈みちづれ〉として求めた賢治の感情を、「性欲」を伴った「愛」と解釈すべき根拠は、わかっている範囲では何も見出せません。

 私としては、賢治のこの独特の感情に何か名前があった方が、上記のような俗な誤解を招きにくくなるのではないかと思い、とりあえず「〈みちづれ〉希求」と呼んでみた次第です。

諂曲なるは修羅

 本日の記事の趣旨は、詩「春と修羅」の「諂曲てんごく)」」という言葉によって、賢治はいったい何を表現しようとしたのかということについて、具体的に考えてみようとするものです。

  春と修羅
      (mental sketch modified)

心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲てんごく模様
(正午の管楽くわんがくよりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

 この作品「春と修羅」は、詩集『春と修羅』のタイトルにもされているように、賢治にとって非常に重要な意味を持つ一篇だったと考えられます。天沢退二郎氏は、詩集『春と修羅』全体の構成を、「詩篇「春と修羅」と「永訣の朝」とをいわば二つの頂点、二つの中心として、全七十篇が楕円形の構造をなしながら宙に懸かっている」と表現していますが(「《宮澤賢治》作品史の試み」)、その二つの中心テーマとは、「己れの《修羅》性の発見」と、「妹の死」です。

 では、賢治が自己の内に見出した《修羅》性とは、具体的にはどのようなものだったのでしょうか。賢治も愛読した島地大等編著『漢和対照妙法蓮華経』では、「修羅」について次のように説明されています。

【阿修羅】(Asura)略して「修羅」ともいふ。非天、非類、不端正と訳す。十界、六道の一。衆相山中、又は大海の底に居り、闘諍を好み常に諸天と戦う悪神なりといふ。


 すなわち、仏教で修羅という存在は、好戦的で、「怒り」や「攻撃性」がその最も顕著な特徴とされているのです。
 「春と修羅」のテキストに、「いかりのにがさまた青さ」とあったり、自らについて「唾し はぎしりゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」と記していたりするところなどは、そういう自己の内の「怒り」の表現の、典型なのだと思います。
 しかし現実の賢治という人が、このような「怒り」を表に出す人だったのかというと、一般的な基準から言えば、むしろ「穏やか」で「温和」で、「謙虚」な人だったという評価がほとんどのようです。下記は、彼がこの「春と修羅」を書いた前後、すなわち農学校に勤めていた頃の周囲の人々の証言を集めた、佐藤成著『証言 宮澤賢治先生』から、「3 賢治という人」の「人間像」の一部です。

 賢治はどんな人にも丁寧で、親切な礼儀正しい人であった。
 賢治を教師に推せんした羽田視学も、畠山校長も異口同音に賢治のことを、おだやかでもの静か、勤務ぶりも熱心で生徒に深い愛情をもった勉強家であったと語っている。(佐藤成)

 賢治という人は生来本質的に、人を責めること、人を煽動すること、声を高くして人や世に訴えたり呼びかけたりするというようなことを好まない人であった。(佐藤隆房)

 とにかく常に明るくて、微笑の絶えない人でした。賢治のお母さんという人も、観音様のように非常になごやかな感じの人でした。とにかく彼の居る一帯の雰囲気がなごやかになるような、そういう人だった。
 普段の賢治は、けっしていばらない人でした。話す相手にあわせて、話をしたのです。(藤原嘉藤治)

 ということで、周囲から見た賢治は、《修羅》的な「怒り」や「攻撃性」からは、程遠いタイプの人だったようです。ただしかし、どんな人間も一面だけでは捉えられないもので、たとえば上の佐藤隆房氏の証言には「人を煽動すること、声を高くして人や世に訴えたり呼びかけたりするというようなことを好まない人」とありますが、農学校に就職する同じ年の中頃までは、彼は東京で国柱会の宣伝奉仕活動に従事し、「声を高くして人や世に訴えたり呼びかけたり」ということをやっていたのも事実です。
 またその前年には、次のような手紙も書いています。

突然ですが。私なんかこのごろはブリブリ憤ってばかりゐます。何もしやくにさわる筈がさっぱりないのですがどうした訳やら人のぼんやりした顔を見ると、「えゝぐづぐづするない。」 いかりがかっと燃えて身体は酒精に入った様な気がします。机へ座って誰かの物を言ふのを思ひだしながら急に身体全体で机をなぐりつけさうになります。いかりは赤く見えます。あまり強いときはいかりの光が滋くなって却て水の様に感ぜられます。遂には真青に見えます。確かにいかりは気持が悪くありません。関さんがあゝおこるのも尤です。私は殆ど狂人にもなりさうなこの発作を機械的にその本当の名称で呼び出し手を合わせます。人間の世界の修羅の成仏。そして悦びにみちて頁を操ります。(保阪嘉内あて書簡165)

 この書簡は、1920年の6月-7月頃のものとされており、「いかり」が「真青」に見えるという色彩的な共感覚や、「その本当の名称」として「修羅」を挙げているところも含め、「春と修羅」という作品に通ずることころが大きいと感じられます。

 ただし上の書簡でも、自分の内に「いかり」が煮えたぎっていて、「机をなぐりさうに」なることもあると書いてあるだけで、実際に彼がその怒りを外に「表出」したとまでは、書かれていません。本来の「修羅」は、単に「内心に怒りを秘めている」だけではなく、「闘諍を好む」性質を持っているわけで、怒りを何らかの形で外に出す存在です。
 では、賢治自身は、実際に「怒りをあらわにする」ということがあったのでしょうか。

 一つの例としては、盛岡高等農林学校の修学旅行中のエピソードとして、同級生の大谷良之が書き残しているものがあります。箱根の関を、同級生8人で歩いて越えようとしていた時のことです。

関所跡も近づいて土地も広く開け畑地が見える所にさしかかつた。「関所跡までどれ位ありますか」と農夫に聞いたところ「そうじやのー、あと二里あるで」と返答があつた。所が大きな声で「馬鹿野郎、嘘つくなツ」と宮沢君が叫んだ。私は農夫が怒つて追いかけて来はしないかと恐ろしかつたが、彼は平気な顔をしておる。あの温厚な悪い言葉一つ言つたことのない彼が、あんなに叫んだのは彼のあの鋭どい感覚で農夫が大嘘をついたのを見破り、純情の彼としては我慢できなかつたのであろう。(川原仁左エ門『宮沢賢治とその周辺』)

 大谷自身が、「あの温厚な悪い言葉一つ言つたことのない彼が……」と言っているように、このような激しい表出は、賢治にしては非常に珍しいことだったようですが、それでも全くなかったわけではないことがわかります。

 まとめると、賢治という人は、一般的に言えば全く怒りっぽい人でも粗暴な人でもなく、むしろその逆だったと思われるのですが、自らの心のうちに「怒り」を抱えて苦しむことは実際にあり、まれにはそれを表出することもあったようです。こういったことは、誰でも多かれ少なかれあって当然と思いますが、賢治の感受性の強さのためか、あるいは自分自身に対する「厳しさ」や「潔癖さ」のためか、そのような自分を耐え難く感じていた、ということかと思います。

 と、以上のような事柄は、賢治の《修羅》性について、これまでにも言われてきたことだと思いますし、特に新味はないでしょうが、今回私が気になったのは、「修羅」が持つもう一つの側面についてです。
 仏教において「修羅」という存在は、「怒り」や「攻撃性」によって特徴づけられるとともに、もう一つ「諂曲」という要素も、重要なものとされています。「諂曲」の「諂」とは「へつらう」、「曲」とは「心を曲げる」ということで、合わせて「自分の意志を曲げて相手にこびへつらうこと」(『日本国語大辞典』)です。

 この「諂曲」は、日蓮の「観心本尊抄」において、「修羅」の本質的特徴として、次のように説かれています。

しばしば他面を見るに、或時は喜び、或時はいかり、或時は平らかに、或時は貪り現じ、或時はおろか現じ、或時は諂曲てんごくなり。瞋るは地獄、貧るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏して現はれざれども委細に之を尋ぬれば之有るべし。

 ここで日蓮は、はたして人間に仏性は備わっているのか、という問題を説き明かすために、人間の様々な「顔」を見てみれば、そこには「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」の六道が表れているのだということを、述べています。すなわち、「瞋」っているのは地獄、「貪」っているのは餓鬼、「癡か」なのは畜生、「諂曲」をするのは修羅、「平らか」なのは人、「喜ぶ」のは天、だというのです。日蓮は、「瞋り」は「地獄」の方に当てはめる一方、「修羅」の特徴としては「諂曲」を挙げていて、むしろこちらの方を重視しているようにも見えます。
 そしておそらく日蓮のこのような記述を背景として、賢治の「春と修羅」の心象世界は、「いちめんのいちめんの諂曲模様」によって覆われているのです。「諂曲」は、「怒り」とともに、賢治が己れの《修羅》性を問題にする上では、もう一つの重要な側面だったはずです。
 それでは、賢治は具体的に自分のどのような部分を、「諂曲」として認識し、自戒していたのでしょうか。現実の賢治には、「諂曲」と言えるような側面が実際にあったのでしょうか。

 これは、生前の賢治の人となりにおいて、「怒り」や「攻撃性」を探すよりも、さらに難しいことに思えます。周囲人々の証言によれば、彼は嘘や偽りを特に嫌がり、人に媚びへつらうような態度をとることがあったとは、到底思えないのです。
 上にも引用した、佐藤成著『証言 宮澤賢治先生』には、次のような記載があります。

 宮沢君は嘘をつく人間が大きらい、往来で行きあっても見向きもしない。(大谷良之)

 賢治はいつでも相手を見透かしてものをいっている。嘘や偽りは大嫌いで、真実純真、そういうものがすき、どんな偉そうな人でも恐れない、弱点をすぐ見破るという人であった。(藤原嘉藤治)

 先生は嘘やいつわりを極度に嫌われた。またいやなことはいやとはっきりすれば喜ばれ、義理にもいやなことを承諾したりするとかえって機嫌が悪かった。正直の徳を尊ばれた。(菊井清人 大・十五卒)

 以上のように、賢治を知る人の証言や、伝記的な記録から、彼が実際に「意志を曲げて媚びへつらう」ようなことをしたという証拠を探し出すのは、不可能なような気がするのですが、それではなぜ賢治が自らの心象世界を、「いちめんのいちめんの諂曲模様」と描写したのか、このままではその理由がわかりません。
 そこで、この「諂曲模様」が具体的にどういうことを意味しているのかということについて、これまでの研究者の解釈を参照してみようと思うのですが、有名なフレーズの割には、あまり多くの解説はないようです。

 その中で、まず恩田逸夫氏は、「詩篇「春と修羅」の主題と構成」(天沢退二郎編『「春と修羅」研究 II』學藝書林所収)において、次のように説明しています。

 さて、賢治は自己の心象風景を自然の風景に托して「諂曲模様」といって自戒しています。「諂」とは媚びへつらうことで、ここでは自分自身を甘やかす傾向でしょう。「曲」とはねじまげた誤れる受けとり方です。賢治のこのような暗い心情とは対照的に、天からは春の琥珀色のキラキラした陽光が降り注いでいます。

 この解釈では、賢治が媚びへつらっているのは「自分自身」に対してであり、彼は自らの内にある「自分自身を甘やかす傾向」を自戒して、このように表現したと考えられています。つまりこれは、「自己欺瞞」の一種だというわけです。
 恩田氏がこのように解釈した理由は、賢治が「他人に対して媚びへつらっていた」という状況が想定しにくいために、「自分に対して」と考えざるをえなかったということかと思いますが、しかし「自分で自分に諂曲する」というのは、理屈としては言えなくもないかもしれませんが、この言葉の現実の解釈としては、非常に無理があるように思います。
 そもそも「修羅」の本質は、自分ではなく他者と争って優位に立とうとすることであり、その際の手段として、多くの場合は好戦的に戦いますが、しかし相手が強いと見ると「媚びへつらって」、少しでも自分を有利に見せようとするのが「諂曲」のはずです。
 したがって、この解釈にはちょっと賛同できません。

 次に、今野勉氏の『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』(新潮社)を、見てみます。

 「諂曲」とは、「へつらうこと」だが、そのままでは意味をなさない。日蓮の『観心本尊抄』に「瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡かなるは畜生、諂曲は修羅」とある。ここで「諂曲」を「こびへつらう」とすると、「修羅」は、こびへつらう人となってしまう。島地大等の『妙法蓮華経』の「方便品第二」に、「諂曲心不実しんふじつ」という言葉が出てくる。島地は「諂曲」の字の右に「てんごく」とルビを付し、左側に片仮名で「ヨコシマ」とカナを当てている。すなわち「よこしま」である。「諂曲心不実」は「邪にして心不実なり」だ。とすると、日蓮の「諂曲は修羅」は「邪なるは修羅」と解さなければならない。『梵漢和対照・現代語訳 法華経』でも、訳者で仏教学者の植木雅俊は「諂曲」を「心のひねくれたものたち」としている。「諂曲模様」は、したがって「邪な模様」、すなわち「正常ではない、異端の様相」という意味としていいだろう。賢治の立っている心象風景は、「邪」な風景なのだ。
〔中略〕
 賢治は、自らを「邪な修羅」としている。「冬のスケッチ」に賢治は、「このこひしさをいかにせん/あるべきことにあらざれば」という言葉を遺した。
 「この恋は、あってはならないものだ」という、罪の意識が賢治の中にはある。「自分は邪なことをしている」という意識だ。それを強烈に示す言葉が、保阪あての賢治の手紙にある。

 すなわち今野氏は、もしも「諂曲」を「媚びへつらう」という意味に解釈すると、「「修羅」はへつらう人となってしまう」から「意味をなさない」、という根拠に基づいて、「諂曲」とは「邪」という意味である、と解釈しなおすわけです。 そして、賢治が自らのことを「邪」と考えた理由は、保阪嘉内に対する同性愛を抱いていることに対する罪の意識であるというのが、今野氏の説です。
 しかし、すでに上に見たように、修羅とは一面ではまさに「へつらう人」であるというのが仏教の教説であり、それを賢治が理解していなかったはずはありません。

 最後に、宮澤清六氏の「『春と修羅』への独白」を見てみます。この清六氏の文章は、「研究」というよりは、『春と修羅』の諸作品をもとにした「随想」とも言うべきものですが、それでも個々の作品について、作者のすぐ側にいた人ならでは解釈が記されているので、いろいろと教えられるところが多いものです。
 この「『春と修羅』への独白」(ちくま文庫『兄のトランク』所収)から、「諂曲」と関係している部分を抜き出すとすれば、次の部分がそうでしょう。

  心象のはひいろはがねから
  あけびのつるはくもにからまり
  のばらのやぶや腐植の湿地
  いちめんのいちめんの諂曲模様

 幾億の巧智にたけた蜘蛛やなめくじや狸やねずみ。
 世界いっぱいに張りめぐらされた精巧きわまる舶来製のトラップやかすみあみ。
 さては各地に駐屯する山猫博士、カイロ団長、オッペル達の群落。
 億千の鳥やけものや羽虫のむれ。
 それらが毎日殺し合ったりだましたり、接合したり離散したり、そねみあったりけなしたり、ひだりになったりみぎになったり、ただもう、せわしくせわしく発生したり消滅したりしているのだ。
 しかもそのまたひとつひとつが、どれでも彼自身の中のみんなであることがあまりにも明らかで、世界ぜんたいのさいわいがはるかにはるかに遠方であることに心痛み、修羅の怒りは燃えさかり、修羅は地面に慟哭し、風景もなみだにゆれるのだ。

 上記のうち、「諂曲」に関連する表現としては、「蜘蛛やなめくじや狸やねずみ」が「巧智にたけた」と形容されているところ、そしておそらく彼らが仕掛けた「精巧きわまる舶来製のトラップやかすみあみ」、「それらが毎日殺し合ったりだましたり…」という箇所などが、「心を曲げて媚びへつらう」という意味に通じているのかと推測されます。
 そうすると、「諂曲」という性質を帯びているのは、賢治という個人ではなく、「蜘蛛やなめくじや狸やねずみ」、あるいは「山猫博士、カイロ団長、オッペル達の群落」なのだというのが、清六氏の解釈なのでしょう。ただし、これらの悪者たちと賢治は無関係なのではなく、「しかもそのまたひとつひとつが、どれでも彼自身の中のみんなである」という、『春と修羅』の「」に記されたような相互包含の世界を形成しているのですから、賢治自身もこのような「諂曲」性と、分かちがたく絡み合っているということになるのでしょう。
 これも、一つの見方かとは思いますが、しかし私として違和感を覚えるのは、特に作品「春と修羅」における賢治の自我は、このように世界と密接に繋がり合っているというよりも、非常に強く孤立し、全世界から疎外され、一人だけ浮いているように、私には感じられるからです。通り過ぎる農夫を見ても、「ほんたうにおれが見えるのか」との疑念を抱くのは、対象から何かで隔てられているような疎外感のためかと思いますし、「風景」を「ゆすれ」させている「なみだ」も、自分と外界との間の透明な壁のようです。
 私が「春と修羅」という作品から感じる、このような深い孤独感・疎外感からすると、「おれはひとりの修羅なのだ」という自己認識は、どうしても「世界ぜんたい」のものではなく、自分がたった「ひとり」で背負っている、「業」のようなものに思われるのです。私としては、賢治が抉り出した「修羅性」は、あくまで自分個人のものであり、清六氏の解釈のように彼が世界とともに担っているとは、どうしても思えないのです。

 以上のように、私から見ると、賢治の「諂曲性」については、これという妥当な解釈が見当たらないというのが実感です。賢治はいったい、自分のどのような部分が「へつらう人」だと認識し、自戒していたのだろうか、というのが今回の記事の主題です。

 この問題について別の角度から考えてみるために、賢治の童話「土神ときつね」を参照してみます。
 「土神ときつね」には、粗暴で怒りっぽい土神と、上品で弁舌爽やかだが少し不正直な狐と、その二人が思いを寄せる樺の木が出てきます。この土神と狐は、対照的な存在ではありますが、どちらも賢治自身のある側面を象徴しているということは、これまでにも指摘されてきました。
 土神は、素朴な驚きの目で自然を見る感性を持つ一方で、自らの感情を処理できず、苦悩しています。狐は、西洋の科学や文学の知識が豊富で、それらを魅力的に語ることができます。どちらの特性も、まさに賢治らしいと言えますし、またこの作品の改作を検討したメモに、土神を「退職教授」に、狐を「貧なる詩人」にするという案があり、これもそれぞれ賢治の人生の一側面に対応しています。

 一方、二人のうちで土神の方は、「修羅」を象徴する存在と解釈できることも、多くの研究者によって指摘されてきました。怒りっぽく乱暴なところはもちろん「修羅」の特徴ですし、詩「春と修羅」との関連では、土神の棲んでいるのが「湿地」であること、怒りに燃えると「歯噛み」をして「その辺をうろうろ」すること、通り過ぎる木樵から姿が見えないこと、最後ではその泪が雨のよう降るところなどが、「春と修羅」に共通した描写と言えます(栗原敦氏などによる)。

 今回、私としてはこれに加えて、実は「修羅」を象徴しているのは「土神」だけではなくて、「狐」もまた「修羅」の一側面を表しているのではないかということを、考えてみたいのです。
 すなわち、怒りっぽく乱暴な、修羅の「瞋恚的側面」を土神が体現しているのに対し、その「諂曲的側面」――相手に取り入るために媚びへつらい、自分を良く見せるためには事実を「曲げて」嘘もついたりする部分――を、「狐」が体現しているのではないかと考えるわけです。
 このような観点が、「土神ときつね」という作品を理解する上でどんな意味を持つかということは、また別途考えるとして、とりあえず今回はこの解釈を、「賢治の内の修羅の諂曲的側面」を考える上での、補助線として利用してみたいと思います。

 上述のように、生身の賢治を対象として、「どこに諂曲があるのか」と直接探してみても、なかなか見つけるのは難しいのですが、ここで賢治と「諂曲」との間に、この「狐」を置いてみると、見えてくるものがあるように思います。
 もちろん賢治は、この狐のように嘘をついて人を騙したりすることはなかったでしょうが、それでも下記のような例を見ると、調子に乗ってちょっと大言壮語してしまうことは、あったのかもしれません。
 「小岩井農場」の清書後手入稿で、「春と修羅補遺」に「〔小岩井農場 第五綴 第六綴〕」として分類されている草稿の、次の箇所を見てみます。

  ※※※※※※※※ 第五綴
鞍掛が暗くそして非常に大きく見える
あんまり西に偏ってゐる。
あの稜の所でいつか雪が光ってゐた。
あれはきっと
南昌山や沼森の系統だ
決して岩手火山に属しない。
事によったらやっぱり
石英安山岩かもしれない。
これは私の発見ですと
私はいつか
汽車の中で
堀籠さんに云ってゐた。
(東のコバルト山地にはあやしいほのほが燃えあがり
 汽車のけむりのたえ間からまた白雲のたえまから
 つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。
 その汽車の中なのだ。
 堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた。)
堀籠さんは温和しい人なんだ。
あのまっすぐないゝ魂を
おれは始終をどしてばかり居る。
烈しい白びかりのやうなものを
どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。
こっちにそんな考はない
まるっきり反対なんだが
いつでも結局さう云ふことになる。
私がよくしやうと思ふこと
それがみんなあの人には
辛いことになってゐるらしい。

 ここで賢治は、同僚教師の堀籠文之進と何とかして親しくなりたいと思って、いろいろ話しかけたりしているのですが、なかなかうまく行きません。引用部の終わりの方で、「温和しい」堀籠さんに対して賢治が、「おれは始終をどしてばかり居る。/烈しい白びかりのやうなものを/どしゃどしゃ投げつけてばかり居る」というところなどは、土神がぜひとも樺の木と仲良くなりたいのに、不器用で乱暴な印象ばかり与えて逆効果を招いているところと、そっくりに感じられてしまいます。
 この部分は私にとって、賢治の「土神的な側面」、すなわち「修羅の瞋恚的側面」を、表しているように思えます。

 これに対して、その前の方で「鞍掛山は南昌山や沼森の系統に属し、岩手山の系統とは異なっていて、石英安山岩があるかもしれない」という地質学的な知見を得意気に堀籠さんに披露し、「これは私の発見です」と言って自慢までしているところからは、私はあの「狐」の樺の木に対するおしゃべりを、連想してしまうのです。
 鞍掛山が岩手山よりも地質学的にかなり古いという説は、「国立公園候補地に関する意見」においても、「ぜんたい鞍掛山はです/Ur-Iwate とも申すべく……」などと書かれており、賢治の十八番の一つでした。これは、現代の地質学から見ても正しいということですが、しかしこれを「私の発見です」とまで主張するのは、ちょっと賢治の勇み足ではないでしょうか。
 科学の分野で「自分の発見」と言うためには、それを学会で発表するなり、論文にして学術雑誌に投稿するなりして、その分野の研究者コミュニティに承認される必要がありますが、賢治はそういう手続きを踏んだわけではなさそうです。確かに、彼は独力でこれを「発見」したのかもしれませんが、それより前に別の研究者が、すでに発見し報告していた可能性もあります。
 こういう風に、思わずちょっと「話を盛って」しまい、相手の気を引こうとしているところが、「土神ときつね」における「狐」のおしゃべりに似ているように、私は思うのです。
 そして、あの「狐」が象徴するのが「修羅の諂曲的側面」だったとすれば、賢治は自分自身の行動のうちで、こういう部分を「諂曲的」だと捉えて、反省し、自己嫌悪を抱いていたのではないかと、私は推測するのです。

 もしも、このような読み方が成り立ちうるのなら、「小岩井農場」の下書稿段階では、樺の木に対して「土神」と「狐」が対照的なアプローチをしつつ争っていたように、堀籠さんの気を引こうとする賢治が「修羅の二側面(=瞋恚性と諂曲性)」を露呈して、葛藤していた様子が記録されているのだと、考えることができます。
 ただし、「小岩井農場」のそのような側面は、その後の推敲によって抹消され、最終的にはもっと抽象化された形で、人間一般における「愛」のあり方として昇華され、理論化されることになります。

 長詩「小岩井農場」の推敲は、元あったその九つの「パート」のうち三つも抹消するような大規模なものでしたが、上記のような視点からその作業の意味を考えてみると、それは一方では、賢治が「主観的な愛」を「客観的な愛」へと昇華しようとした過程であり、そしてもう一方では(それと表裏をなす動きとして)、「主観的な〈幻想〉観」を「客観的な〈幻想〉観」へと転換した過程だと言うことができるのではないかと私は思うのですが、これについてはまたいつか、別稿で考えてみたいと思います。

正午の太陽微塵

アレニウス 19世紀終わりから今世紀初頭にかけて活躍した、アレニウスというスウェーデンの化学者がいました。(右写真はウィキメディア・コモンズより)
 その業績は、物理学・化学・天文学・免疫化学など多岐にわたり、「物理化学 physical chemistry」という領域の創始者の一人でもあります。今で言うこの「物理化学」という分野のことを、大正初期に東北帝国大学教授であった片山正夫博士は、邦語で「化学本論」と呼ぶことにしてその主著のタイトルともしましたから、同書を座右に置いた宮澤賢治にとっては、アレニウスは自然科学におけるヒーローの一人だったのではないかと思います。

 そのアレニウスの著書の邦訳が出たアレニウス『宇宙発展論』ら、賢治もきっと読んだに違いないと推測したくなりますが、賢治が盛岡高等農林学校に入学する前年の1914年(大正3年)に出版された『宇宙発展論』(一戸直蔵訳)は、まさにそのような一冊です。(右写真は国会図書館・近代デジタルライブラリーより)
 この本には、空気中の放電によって窒素化合物が生成し、それが雨によって降下することで植物を肥やすという記述(p.196-197)や、空気中の炭酸ガスが増加すると温暖化が起こり、作物の収穫の増加につながるとの記述(p.85)があり、これらはいずれも「グスコーブドリの伝記」における未来科学的なアイディアと一致するものです。この二点は、『新宮澤賢治語彙辞典』も「アレニウス」の項目で指摘しているところで、さらに同辞典は「太陽系」の項目において、「賢治がこの本を読んだ可能性は非常に高いと言える」と述べています。
 例えば、下に同書p.85の炭酸ガスによる温暖化に関する記述の部分を引用してみます。火山の爆発は被害も起こすけれども、大気中の炭酸ガスの増加は特に寒冷地において「一層良好なる気候」と「豊饒なる収穫」を与えうると述べています。

 吾等は、地中に貯蔵せる石炭が現今将来に対する何等の念慮なくして漫りに徒消せられつつありとの怨言を耳にすること屡々なり。且つ吾人は火山爆裂によりて蒙むる恐るべき生命財産の破壊によりて震駭せしめらるること屡々なり。されど吾人はここも、他の有らゆる場合に於て然るが如く、善は常に不善と随伴せらるるものなりてふ諺によれて自ら慰めざる可らず。大気中に於ける炭酸瓦斯の割合が増加するに従ひ、其結果として吾人は一層気温分布の平等なる一層良好なる気候(特に寒冷なる地方に於て)の時代を楽しみ得べきなり。而して其時代に至れば地面は現今に於けるよりも遙かに豊饒なる収穫を与ふべく、かくて急速に拡散しつつある人類の生活に資する所多大なるものあるべきなり。

 私も、「賢治がこの本を読んだ可能性は非常に高い」という『新宮澤賢治語彙辞典』の考えに、賛成です。

◇          ◇

 現在はこの『宇宙発展論』は、インターネットを通して国会図書館の「近代デジタルライブラリー」でいつでも読めるようになっているので、今日も私はパラパラと眺めていました。
 すると、賢治の作品に出てくる表現を連想させる記述が上記の他にもいくつか見られたのですが、とりわけ印象的だったのは、同書p.181の、次の記述でした。

蓋し太陽微塵の大部分は正午頃に落下するを以て極光の大部分も亦正午後数時間最も夥しく起るべきことは、恰かも一日中の最高温度に於けると同じかるべき理なり。

 これは、極光(オーロラ)の発生原理を物理学的に説明しようとしている箇所で、「太陽微塵」というのは、太陽から地球に放射されている非常に微小な粒子、現代の用語で言えばプラズマ状態にある「太陽風」のことです。
 それにしても、「太陽微塵の大部分は正午頃に落下する」という言葉は、あの感動的な一節をまさに彷彿とさせるではありませんか!

    春と修羅
            (mental sketch modified)

心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
・・・

 例えば「第四梯形」には、「ななめに琥珀の陽も射して・・・」とあるように、賢治は作品中でしばしば太陽の光を「琥珀」に喩えていますから、「正午に太陽微塵が落下する」というのを賢治風に言いかえれば、まさに「正午に琥珀のかけらがそそぐ」にもなろうというものです。

 というわけで、やはり私は、賢治がアレニウス著『宇宙発展論』の邦訳をを読んでいた可能性は高いと思うのです。

20111218c.jpg
アレニウス『宇宙発展論』(一戸直蔵訳,大倉書店)p.181


一本杉~五本杉

 賢治が好きだった樹木としては、「銀どろ」「ラリックス」などいろいろあるでしょうが、一見ありふれた「杉」というのも、賢治にとっては親しく様々な思いをこめることの多かった木だったようです。

 たとえば、「〔冬のスケッチ〕」の第39葉から第40葉にかけては、

すぎはいまみなみどりにて
葉をゆすり 葉をならし
青ぞらにいきづけること明らけし。
        ※
ある年の気圏の底の
春の日に
すぎとなづけしいきものすめりき
        ※
そらの椀
ほのぼのとして青びかり
気圏の底にすぎとなづくる
青きいきものら
さんさんといきづき 葉をゆする
        ※  木とそら。
そらの椀
げにもむなしくそこびかり
杉はまさしく青のいきもの
額(ぬか)くらみ。
        ※
そらはよどみてすぎあかく

と、杉を連続して描写している箇所があります。
 見慣れたはずの杉を、「すぎとなづけしいきもの」としていったん対象化すると、「青きいきものら」は「さんさんといきづき 葉をゆする」姿で、生気を帯びて呼吸を始めます。とりわけ、「杉はまさしく青のいきもの」という箇所には、賢治が自分と杉を同一視するほどの親近感が現れているように、私には思えます。
 また、上に出てくる「気圏の底の春」という言葉は、後に心象スケッチとして作品化される「春と修羅」にも通じるものであり、そうなるとこの「杉」は、「春と修羅」において、「ZYPRESSEN 春のいちれつ」、「ZYPRESSEN しづかにゆすれ」、「ZYPRESSEN いよいよ黒く」とたたみかけるように描かれた「ZYPRESSEN(糸杉)」にも、つながることになります。
 また、歌稿〔A〕には「ゴオホサイプレスの歌」として、

759 サイプレスいかりはもえてあまぐものうづまきをさへやかんとすなり

Gogh: Road with Man Walking, Carrige, Cypress, Star and Crescend Moonなどの連作があり、これはおそらくゴッホの「糸杉」の絵に触発された歌かと思われますが、この「サイプレス」ももちろん、「春と修羅」の「ZYPRESSEN」の前身の一つと言えるでしょう。
 すなわち、「ゴオホサイプレスの歌」と、上の「〔冬のスケッチ〕」の延長線の交わるところに、かの「ZYPRESSEN」は位置すると言えるかもしれません。

 そのように親しく深い、賢治と杉との関わりだと思うのですが、今回は「一本杉」「二本杉」・・・というふうに、「本数」とともに賢治の作品に登場する杉を、見てみることにします。


1.一本杉

 『春と修羅』に収められている「天然誘接」という作品の中には、次のような箇所があります。

いつぽんすぎは天然誘接(てんねんよびつぎ)ではありません
槻(つき)と杉とがいつしよに生えていつしよに育ち
たうたう幹がくつついて
険しい天光(てんくわう)に立つといふだけです (強調は引用者)

 ここに登場する「いっぽんすぎ」とは、現在は花巻市北西部の旧湯口村地区に地名だけ残る「一本杉」のあたりにあった大木だということで、上の作品にあるとおり、「槻と杉の巨木が接合した珍木」だったそうです。

 菅原千恵子氏は『宮沢賢治の青春 “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』において、この「一本杉」を、一時の賢治と嘉内の二人の姿を投影したものと解釈して、次のように推測しています。

 種類の異なった二つの木の幹が接合し一本の巨木になって険しい天光に立つという姿は、共に理想を同じくして歩いていく二人の姿に似ているところから、自分たちの姿になぞらえてよく話題にしていたにちがいない。

 そして保阪嘉内が、盛岡高等農林学校の地質調査旅行で秩父地方に向かう途中、盛岡から南下する列車が花巻を通過した際に詠んだ次の短歌、

花巻と聞けばこれでも
窓をあげて
まつくらのなかに
杉を見にけり

に登場する花巻の「杉」とは、この「槻と杉の巨木が接合した一本杉」だったのだろうとしています。たしかにこの短歌における嘉内は、意識的に「杉」を見るために窓を上げたかのようにも読めます。岡澤敏男氏も、「盛岡タイムズ」連載の<賢治の置き土産>において、同様の推測をしておられます。
 これがいったいどんな「珍木」だったのだろうと興味は湧きますが、現存しないのは、残念なことです。

 あと、他の賢治の作品では、「春と修羅 第三集」の「〔エレキや鳥がばしゃばしゃ翔べば〕」において、

エレキや鳥がばしゃばしゃ翔べば
九基に亘る林のなかで
枯れた巨きな一本杉
もう専門の避雷針とも見られるかたち (強調は引用者)

として登場する「枯れた巨きな一本杉」があります。これが、「天然誘接」に登場した「いっぽんすぎ」と同じ杉なのかどうかわかりませんが、もし同一の木であったならば、この作品の日付である1927年5月の時点で、すでにこの珍木は枯れ始めていたことになります。

2.二本杉

 賢治の作品において「二本の杉」は、まず先月に「「雲の信号」と雁(つづき)」で引用した、「〔冬のスケッチ〕」第22葉・第23葉の次の箇所に登場します。

おゝすばるすばる
ひかり出でしな
枝打たれたる黒すぎのこずえ。
        ※
せまるものは野のけはひ
すばるは白いあくびをする
塚から杉が二本立ち
ほのぼのとすばるに伸びる。
        ※
すばるの下に二本の杉がたちまして
杉の間には一つの白い塚がありました。
如是相如是性如是体と合掌して
申しましたとき
はるかの停車場の灯(あかし)の列がゆれました。 (強調は引用者)

 この、「二本の杉」と「塚」があったのがどこなのか、はっきりとした手がかりはありませんが、佐藤勝治著『宮沢賢治 青春の秘唱 “冬のスケッチ”研究』では、鍋倉・円万寺方面と推定されています。花巻駅の西方に広がる野原や林を、当時の賢治はいつも彷徨していたというのが、佐藤勝治氏の推測です。

 「二本杉」はまた、「春と修羅 第二集」の「郊外」にも、次のように登場します。

西はうづまく風の縁(へり)
紅くたゞれた錦の皺を
つぎつぎ伸びたりつまづいたり
乱積雲のわびしい影が
まなこのかぎり南へ滑り
山の向ふの秋田のそらは
かすかに白い雲の髪
    毬をかゝげた二本杉
    七庚申の石の塚
たちまち山の襞いちめんを
霧が火むらに燃えたてば
江釣子森の松むらばかり (強調は引用者)

 「西はうづまく風の縁」、「山の向ふの秋田のそら」とあることから、ここで作者は西の方角を向いているようで、さらにその方向に「江釣子森」が見えているわけですから、舞台はやはり鍋倉・円万寺あたりと思われます。そして、ここでも二本杉と一緒に「塚」があるとなると、これは上記の「〔冬のスケッチ〕」第22葉・第23葉と同じ「二本の杉」だったのではないかと思われます。

 一方、上記とはまったく別の場所なのですが、賢治の作品にはもう一つ、印象的な「二本の杉」が登場するものがあります。
 それは、「文語詩未定稿」に収められている「」という作品です。

   丘

森の上のこの神楽殿
いそがしくのぼりて立てば
かくこうはめぐりてどよみ
松の風頬を吹くなり

野をはるに北をのぞめば
紫波の城の二本の杉
かゞやきて黄ばめるものは
そが上に麦熟すらし

さらにまた夏雲の下、
青々と山なみははせ、
従ひて野は澱めども
かのまちはつひに見えざり

うらゝかに野を過ぎり行く
かの雲の影ともなりて
きみがべにありなんものを (以下略・強調は引用者)

 ここに描かれている状況は、賢治が胡四王山に登り、熱い思いを胸にはるか北を望んで、先日もご紹介した高橋ミネさんの故郷である日詰町方面を眺めているところと推測してみることができます。「かのまち=日詰町」は「つひに見えざり」と賢治は嘆息していますが、「紫波の城の二本の杉」は見えたように書かれています。
 これは、日詰町の北にある「城山」の二本の杉で、小川達雄著『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』には、当時の絵葉書の写真が掲載されています(下写真)。

紫波城の二本杉

 賢治が、胡四王山から18kmも離れた城山の「二本杉」をはたして見ることができたのかどうかは疑問が残りますが、小川達雄氏は、「思うにこれは、賢治がそれまでに何度か志和の城にやって来ていて、それで麦畑や二本杉を知っていた、ということではあるまいか」と解釈しておられます。はっきりと視認できたわけでなくても、賢治の「心の眼」には見えていたのかもしれません。

3.三本杉

 残念ながら賢治の作品には、「三本杉」というのは見当たらないようですね。

4.四本杉

伐採前の四本杉 「四本杉」というのは、現在の花巻中学校の北側にあった、四本の大きな杉でした(右写真)。樹齢三百年を越える古木で、昔は「万丁目ヶ原のシンボル」と言われていたそうですが、落雷などにより惜しくも1978年に伐り倒されたということです(宮沢賢治学会・花巻市民の会編『賢治のイーハトーブ花巻』より)。

 賢治の作品で「四本杉」が登場するのは、先月にも取りあげた「雲の信号」(『春と修羅』)です。

「四本杉跡」標注山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる

 この四本杉は、昔は賢治の自宅からも見えて、5月の宵にはちょうど「すばる星」が沈む方角だったのではないかというのが、上記記事における私の憶測でした。
 現在この四本杉があった場所には、右のような標識が立てられています。そして近くの花巻中学校には、「雲の信号」詩碑もあり、「四本杉ゆかりの地」と刻まれています。

5.五本杉

 賢治の作品で「五本杉」が登場するのは、「春と修羅 第二集」の「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」です。

地蔵堂の五本の巨杉(すぎ)が
まばゆい春の空気の海に
もくもくもくもく盛りあがるのは
古い怪(け)性の青唐獅子の一族が
ここで誰かの呪文を食って
仏法守護を命ぜられたといふかたち
   ……地獄のまっ黒けの花椰菜め!
     そらをひっかく鉄の箒め!……

地蔵堂と巨杉 この五本の巨杉があったのは、延命寺というお寺の「地蔵堂」で、寺の縁起を記した説明板には、「天平元年(729)六月廿三日 延命地蔵菩薩と護世天(毘沙門天)ともう一柱の神の三神が 此の地の信者の前に顕れて 子孫の繁昌と安産を守ろうと誓われ杉の杖三本を此の地に指しておかれたのが根が出来枝葉が繁って栄えたもので此の巨杉は子持杉の名でよばれています」と、書かれています。
 古くは三本の杉だったのが、時代とともに五本に殖えて、それが「子持杉」という呼称を生み、そこからさらに「子孫の繁昌と安産」の御利益が信じられるようになったのかもしれません。
 少し前までは、右写真のように賢治の当時の見事な杉の巨木が残っていたのですが、残念なことにこの杉も、最近になり伐採されてなくなってしまったようです。

 ただ、現在もその境内には「巨杉」詩碑が建てられていて、かろうじて往時を偲ばせてくれます。


 以上、賢治の作品に出てくる一本杉~五本杉を見てみました。これを地図に表示してみると、下のようになります。いずれも、花巻の西郊外にあったわけですね。(東北本線に沿って、地図をずっと北にドラッグしていただくと、紫波中央駅も過ぎたあたりに、日詰の城山の「二本杉」の位置にもマーカーが付けてあります。)

新美南吉の引用した「春と修羅」

 新美南吉の女学校教師時代の教え『おぢいさんのランプ』献辞子の方が、南吉から贈られた童話集『おぢいさんのランプ』(1942)を、愛知県半田市にある新美南吉記念館に寄贈したというニュースがありました。
 そしてその本の表紙見返しには、新美南吉からの献辞として、「春と修羅」からの一節、「まことのことばはうしなはれ/雲はちぎれてそらをとぶ」が、「…宮澤賢治の詩から」と添えて書きつけられていたということです(上写真)。

 若き日の賢治のこの痛切な詩句を、新美南吉も愛誦していたのでしょうか。

 彼も、「地方で教師を務め、若くして結核で亡くなった童話作家」で、安城高等女学校で担当した科目は、「英語」「国語」そして「農業」でした。