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城山の「丘」詩碑

 去る4月27日、岩手県紫波郡紫波町にある城山に、賢治の文語詩「」を刻んだ詩碑が建てられ、除幕式が行われました。宮澤賢治没後80年を記念したもので、地元紫波町の「城山に宮澤賢治文学碑を建てる会」の活動が実を結んだものです。
 残念ながら私は除幕式に行くことはできなかったのですが、先月の連休に訪問して、写真を撮影してきました。

 城山は、下記の場所にあります。

 私が訪ねた5月5日はあいにくの曇り空でしたが、城山公園では「桜まつり」が行われていました。

紫波町城山公園「桜まつり」

 この城山の「二の丸広場」という場所に、文語詩「」の詩碑が建てられました。

「丘」詩碑

 写真のように、詩の中から二連を抜粋して刻んだ「主碑」と、詩全文を刻んだ「副碑」から成る、立派なものです。
 直立した「主碑」に一部の抜粋を刻み、斜め水平の「副碑」に全文、という組み合わせは、「元祖賢治詩碑」たる花巻の「雨ニモマケズ」詩碑と、くしくも同じ構成です。左右は逆ですが。

賢治詩碑

 「主碑」の方に刻まれているテキストは、下記です。

 文語詩 「丘」 より
       宮澤賢治

野をはるに北をのぞめば
紫波の城の二本の杉
かゞやきて黄ばめるものは
そが上に麦熟すらし

うちどよみまた鳥啼けば
いよいよに君ぞ恋しき
野はさらに雲の影して
松の風日に鳴るものを

        宮澤星河書

「丘」詩碑(主碑)

 そして「副碑」の方には、「」の全文が刻まれているのですが、主碑は美しい行書体で書かれているのに対して、この副碑はきちんとした楷書体です。「主碑を補助して一般の人の理解を深める」という趣旨を感じさせます。

「丘」詩碑(副碑)

◇          ◇

 もともとこの「」という文語詩は、1914年(大正3年)6月に詠まれたと推測されるいくつかの短歌に由来しています。

山上の木にかこまれし神楽殿     179
鳥どよみなけば
われかなしむも。

志和の城の麦熟すらし     179a180
その黄いろ
〔きみ居るそらの〕
こなたに明し

神楽殿               179b180
のぼれば鳥のなきどよみ
いよよに君を
恋ひわたるかも

 言うまでもなくこれらの短歌は、同年4月の岩手病院入院の際に恋した看護婦のことを思って作られたものです。
 賢治が立っているのは胡四王山(183m)、そこからおよそ20km北にある紫波町の城山(181m)を遠望することは可能なようですが、そこにある「二本の杉」や、麦が黄色に熟しているところまで見えたというのは、ちょっと驚きです。『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』において小川達雄氏は、次のように記しておられます。

賢治は並はずれた視力を持っていたのかもしれないが、しかし、城跡という遠い緑の丘を眺めて、そこに麦の色の気配を察知し、二本杉の所在を認めることができたのかどうなのか。思うにこれは、賢治がそれまでに何度か志和の城にやって来ていて、それで麦畑や二本杉を知っていた、ということではあるまいか。その記憶があったために、遠いかすかな緑の突起を二本杉と見、城跡の上のかすかな明るさは麦の色、と見ることが出来たのではないかと思う。

そのようなことだったのかなあと、私も思います。

 ちなみに、城山に実際にあった「二本杉」の大正時代の写真が、上掲書に載せられています。

志和城址の二本杉
小川達雄著『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』より

 また、「志和の城の麦」という箇所も、城山とどういう位置関係にあったのか気になりますが、これについて小川氏は、城山の通称「若殿御殿跡」と呼ばれた広場が、大正時代には広い麦畑になっていたという話を紹介しておられます。賢治は、城山に麦畑があるということをあらかじめ知っていたからこそ、見えるか見えないかという程度の「黄いろ」でも、それを「志和の城の麦」と表現することができたのでしょう。
 ちなみに「若殿御殿跡」という場所は、現在の「二の丸広場」に相当するようで、今回の詩碑が建立された場所です。

 この「」という作品は、作者自身が立つ胡四王山の鳥や松風から始まり、途中に「紫波の城」を経て、さらに遠くて見えない「かのまち」に思いを馳せるという構成になっています。最終形に書かれたことだけでは、「きみ」と「かのまち」を特定しきれないかもしれませんが、その「下書稿」に、

今日もまた病む人を守り
つゝがなくきみやあるらん

とあることから、きみ=看護婦であることが裏付けられ、「君が棲むまち」とは、岩手病院のある盛岡だと確定できます。

 今回、城山にこの詩碑が建てられることになった契機の一つは、この看護婦が、紫波町の日詰出身の高橋ミネさんではないかという説があることによります。
 確かに、この作品に登場する、花巻―紫波―(盛岡)という三つのポイントのうち、花巻と盛岡は、自分と相手がそれぞれいる場所だから当然として、その間に紫波が出てくる意味は何なのか、ということには興味を引かれます。賢治がこの地にも特別な意味をこめて眼を向けていたとすれば、それは「高橋ミネ説」を支持する根拠の一つとして数えることも可能でしょう。

 しかし、あらためて何度も作品を読み返してみても、これについては何とも言えない感じです。作品に「紫波」が登場する直接の理由は、下書稿において

野のきはみ北をのぞめば
紫波の城の二本の杉

として出てくるように、このポイントが賢治にとって、北を望む視界の「限界点」であったからでしょう。

 詩碑の前を去るにあたり、二の丸広場から南の方を眺めてみましたが、残念ながら胡四王山は見えませんでした。

城山から南を望む

日詰の桜

高橋ミネさん 1914年(大正3年)に岩手病院に看護婦として勤務していた高橋ミネという女性が、宮澤賢治の初恋の人だったという確証は、現時点ではまだ何もありません。しかし、1972年に川原仁左エ門氏が『宮沢賢治とその周辺』において高橋ミネさんの名前を挙げて以来、現時点でこれは最も広く知られる仮説となっています。

 直接的な証拠もないのに、なぜ高橋ミネ説が有力と考えられているのか。実は川原仁左エ門氏の夫人の実家は、日詰のミネさんの実家(「高福」という大きな八百屋)の筋向かいだったということで、そのルートから具体的な情報があったのだろうというのが、『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』の著者小川達雄氏の推測なのですが、残念ながら川原氏はその「具体的な情報」は書き残しておられません。「高橋ミネ説」が発表されたのもミネさんの死の翌年のことですし、川原氏が細かいことを明かさなかったのは、プライバシーへの配慮もあったのかもしれません。
 しかし結果として、現時点で私たちの前には、「高橋ミネ説」を支持しているように見える間接的な所見しかありません。

 今回、あらためてそれらの傍証を整理してみると、それは以下のような事柄です。

1.高橋ミネさんは後年まで賢治の入院を憶えていた

 これは、以前に「ミネさんは賢治入院を憶えていた」という記事にも書きました。北海道で晩年を送った高橋ミネさんは、当時同居していた義理の娘さんに、「岩手病院に勤めていた頃に、宮澤賢治が入院していた」と語っていたということです。この話をミネさんのご遺族にお聞きした時、私は一種の「奇跡」のように感じました。
 かりに賢治が入院当時すでに有名人であったのなら、そういう人物を看護したことを後々まで記憶にとどめているのも理解できます。しかし、宮澤賢治の名前が世に知れ渡るのは、1933年に死去して後のことでした。となると、ミネさんは賢治の入院から少なくとも20年間は、その昔1ヵ月だけ看護した18歳の無名の青年の名前を、なぜかずっと憶えていたわけです。
 ミネさんは賢治入院後も第一線で看護婦を続けられましたから、その後も何百人という患者さんと出会い、別れていったわけで、その「全員の名前」をずっと記憶しつづけるということは、到底不可能です。
 その中で、なぜ「宮澤賢治」という名前が心に残っていたのか・・・。そこには何か、ミネさんの記憶に残るような要因があったのではないかと、どうしても考えてみたくなります。

1'.賢治の祖母は、ミネさんの出身地日詰の名家の生まれだった

 この、賢治の祖母と日詰との縁は、上に述べた「ミネさんの記憶に宮澤賢治という入院患者の名前が残っていた」理由として、私にはもっとも有力と思える要因です。
 賢治の父方祖母キンは、日詰の旧家である関家の次女でしたが、この関家というのは、南部藩勘定奉行頭の関七郎兵衛保憲の子孫で、キンの父である関善七は、日詰で「御殿暮らし」と言われる豪勢な暮らしをして遊芸を好んだということです。吉見正信氏は、『宮澤賢治の道程』の中で次のように書いています。

そうした旧家から賢治の祖父宮沢喜助に嫁したキンのことは、その嫁ぎ先を含めて町ではかなり語られていた話のはずである。したがって、宮沢家に関するミネの知識は、のちに日詰の町の世間話から得ていたものと思われる。

 すなわち、ミネさんは地元の世間話から、すでに花巻の宮澤家については予備知識を持っていた可能性があるわけです。そうであれば、「宮澤賢治」という花巻出身の若者が入院してきた時、花巻の宮澤という家にお嫁に行った日詰の町の伝説的セレブのお嬢様について、ふとミネさんが話題にしたということはありえますし、もしそうなれば、この青年こそが宮澤家の御曹司であることを、ここでミネさんは知ったでしょう。
 そして、当時そのような多少とも個人的な交流があったとすれば、それが、ミネさんが賢治の入院から50年以上もの月日がたってもその名前を記憶していたという「奇跡」の伏線となったと思われます。逆に現時点で私は、それ以外にこの超人的な記憶力を説明する仮説を思いつきません。
 一方、賢治の側にすれば、何人もいる看護婦の中で、若い一人が自分の祖母のことを知ってくれていて、それを機に個人的な会話もはずんだとすれば、彼女のことを特に意識しやすくなるということは、大いにありえます。

2.その後の賢治は、恋心を日詰の方角に向けた

 岩手病院から退院した賢治は、恋愛感情を歌った短歌を、多数作っています。

桑つみて
きみをおもへば
エナメルの
雲はてしなく
北にながるゝ             129a130

きみ恋ひて
くもくらき日を
あひつぎて
道化祭の山車は行きたり     174a175

君がかた
見んとて立ちぬこの高地
雲のたちまひ 雨とならしを    175

山上の木にかこまれし神楽殿
鳥どよみなけば
われかなしむも。           179

志和の城の麦熟すらし
その黄いろ
きみ居るそらの
こなたに明し             179a180

神楽殿
のぼれば鳥のなきどよみ
いよよに君を
恋ひわたるかも           179b180

 これらの短歌で注目されるのは、175に「君がかた見んとて立ちぬこの高地」とあるように、賢治はせめて「きみ」のいる方角を見ようとして、「高地」(神楽殿のある胡四王山)に登っているところです。そこから切実な思いをこめて眺めたのは、「志和の城」、すなわち日詰の町にある「城山」でした。
 日詰が花巻の北方の町であることを前提とすれば、[129a130]において「雲はてしなく/北にながるゝ」と、「北」に向かう雲に思いを託すことも理解できますし、

北のそら
見えずかなしも
小石原
ひかりなきくも
しづに這ひつゝ            126

という歌で、北の空が見えないことを悲しんでいる理由もわかります。

 また、後年になって賢治は、日詰まで農事講演に来る機会を持ちますが、その時のことを後に文語詩化した「水部の線」は、次のような作品です。

  水部の線

きみがおもかげ うかべんと
夜を仰げばこのまひる
蝋紙に描きし北上の
水線青くひかるなれ

竜や棲みしと伝へたる
このこもりぬの辺を来れば
夜ぞらに泛ぶ水線の
火花となりて青々と散る

 ここで賢治は、「きみがおもかげ うかべんと」しているわけですが、それが誰のことなのか、なぜ急にそうしようと思ったのか、作品からは何とも言えません。その事情はわかりませんが、これが「日詰へ来た時の体験」であることを考えると、ミネさんが日詰出身だったことを、どうしても連想してしまいます。
 この作品の初期形は、「おもかげと北上川」と題されていた段階もありました。そこで、「このこもり沼の夜の水に/あつきひたひをぬらさんと/夜草をふめば・・・」として出てくる「こもり沼」は、日詰の南はずれにある「五郎沼」という沼です。額が熱くなるほど、賢治は何かの思いを抱いていたのです。

 さらに、1917年(大正6年)、賢治が盛岡高等農林学校3年の時に詠んだ短歌に、次の作品があります。

さくらばな
日詰の駅のさくらばな
風に高鳴り
こゝろみだれぬ           473

 この桜は、よほど印象が強かったと見えて、賢治は何度も手を加え作品化します。

焼杭の
柵にならびて
あまぞらを
風に高鳴る
さくらばななり            473a474

あまぞらの風に
高鳴るさくらばな
ならびて黒き
焼杭の柵              473b474

あまぞらの風に高鳴り
さくらばな
あやしくひとの
胸をどよもす            473c474

さくらばな
あやしからずやたゞにその
枝風になりてかくもみだるは。  474

 ここで賢治がなぜか「こゝろみだれぬ」という状態になったのも、やはり「日詰」という場所においてでした。

 以上、どれも確定的な事柄ではないのですが、いずれもが一つの方向を指し示しているように、私には思われてなりません。川原仁左エ門氏は、当時の看護婦名簿(現在は失われているとのこと)も参照して検討したということですが、賢治が入院していた病棟に勤務していて、賢治と同世代と言えるほど若い看護婦となるとかなり人数も限られたでしょう。
 その中に、日詰出身の人がいたという事実は、やはり非常に意味があるように思えるのです。

◇          ◇

 その日詰の駅前に、今年の4月下旬に賢治の歌碑ができたと聞いたので、私は先のゴールデンウィークに見に行ってきました。

日詰賢治歌碑

 歌碑除幕式に関する「岩手日報」の記事では、「その3年後、賢治が21歳のころミネさんを訪ね日詰駅に降り立った際に詠んだといわれている」と書いてありますが、残念ながら「賢治がミネさんを訪ねた」ことを示す史料は存在しません。もしも存在すれば、「高橋ミネ説」は即確定ということになりますが、賢治の性格からして、初恋の人を自分から訪ねるなどということはしなかったでしょう。それに「札幌のミネさん」に書いたように、1917年春には、ミネさんは札幌鉄道病院に勤務していた可能性が高いと思われるのです。
 現在の駅前には桜はありませんが、上の記事によれば「駅前に住む滝浦良子さん(86)は「私が20歳頃にはホーム沿いにきれいな桜並木があった」と懐かしむ」とのこと。賢治の短歌を見ても、「焼杭の柵」(線路に沿っていたと思われる)にならんで、「さくらばな」があったと推測されますから、「ホーム沿いにきれいな桜並木」というお話と一致します。
 ご覧のように、歌碑のプレートには桜花の図案があしらわれています。この場所にふたたび「駅前の桜並木」が復活すれば、よりいっそう風情が出るだろうなどと、勝手な余所者は思いました。

 一方、「水部の線」で描かれた「五郎沼」の方には、満開の桜がありました。ゴールデンウィークに満開というのは平年よりかなり遅く、見事な花が見られたのは願ってもない幸運でした。

五郎沼の桜

 桜並木の向こう側には松並木がありますが、「水部の線」の元となった「草稿的紙葉群」に、「こゝはたしか五郎沼の岸で/西はあやしく明るくなり/くっきりうかぶ松の脚には・・・」とあり、初期形で「並樹の松を急ぎ来て・・・」とあることに一致します。

五郎沼の桜

五郎沼の桜

◇          ◇

 最後に、下の写真は現在の日詰駅と歌碑です。

日詰駅と歌碑

 それから下の写真は、昭和49~50年頃に撮影された日詰駅の旧駅舎です。この建物は明治23年の開業以来のものだったということですから、賢治が1917年4月に降り立った時と、同じだったわけです。

旧・日詰駅

日詰の思い出

 賢治の初恋の人かという説のある日詰の高橋ミネさんの実家跡を、この1月に私が訪ねてみたというブログの記事を見て、ミネさんの親族の方から、メールをいただきました。

 お話からすると、その方はミネさんの「曾甥孫」のお嫁さんにあたる、ということです。と言ってもわかりにくいですが、要は、その方のご主人の曾祖父が、高橋ミネさんの異母兄にあたるということです。
 屋号「高福」と呼ばれた高橋家は、戦前はとても繁昌していたそうですが、戦後は農地改革などもあり、現在はそのお店のあった土地も売却されています。
 以前そのお姑さんが、「宮澤賢治の初恋の人の事を調べてる先生が訪ねてきたけれど、昔を知る人は皆亡くなってるしね・・・」とおっしゃっていたということでした。「先生」とは、誰だったのでしょうか。


さくらばな
日詰の駅のさくらばな
風に高鳴り
こゝろみだれぬ。    [473]

 上の短歌は「歌稿〔B〕」の「大正六年四月」という章に収められています。岩手病院入院の3年後ですね。当時、賢治は盛岡高等農林学校の3年ですが、何かの理由で日詰の駅にやって来たことは確かです。日詰へ来ると「こゝろみだれぬ」というのは、やはり「初恋の人=高橋ミネ」説の、ごく小さな傍証の一つではないでしょうか。

 下の写真は、昭和49~50年頃に撮影された日詰駅の旧駅舎です。これは明治23年に建てられたということで、賢治が降り立ったのも同じこの建物だったわけですね。

旧日詰駅

花巻(3)~日詰

 今日は、青空も広がっています。ホテルの1階の「マグノリア」と名づけられた小さなレストランで朝食をとって、2晩泊まった宿をあとにしました。結局、ネット環境は快適でしたが、グランシェールに比べると眺めや部屋の造りでは一歩譲ります。賢治詩碑からは、より近い場所でした。

 駅で荷物をコインロッカーに入れると、9時23分花巻発の下り普通列車に乗り、3つめの駅である「日詰」で降りました。
 この日詰の駅は、本来の日詰の町並みからはかなり南はずれに位置していますが、これは1890年に東北線が盛岡まで開通した時、町の人々は「近くに駅ができると汽車の火の粉で火事になる」と駅舎建設に強く反対し、当時の隣村の赤石地区に追いやってしまったのだということです。おかげで、今日の最初の目的地である「五郎沼」に行くのには好都合になっています。

 日詰駅から雪道を数百mほど南に歩いたあたりで、時折「ガーガー」という水鳥系の鳴き声が聞こ五郎沼1えはじめました。薬師神社の前を通りすぎると、目の前には一面凍結して、雪の積もった五郎沼が現れました。その広い雪原には、白鳥と鴨がたくさん鳴きかわしています。この五郎沼は、冬は白鳥の飛来地になるのです。
 鳥たちは人によく慣れていて、私たちが岸辺に向かっていくと、白鳥も鴨も自分から近寄ってきます。しかし何もえさをくれないとわかると、また離れていきます。

 今日、まずこの五郎沼に来てみた理由は、「春と修羅 第二集」所収の「産業組合青年会」の元となった「草稿的紙葉群」と呼ばれる下書きの終わりの方に、「こゝはたしか五郎沼の岸だ」などの記述があり、この夜に賢治が一人でこの沼へやってきたと思われるからです。
五郎沼2 「このまっ黒な松の並木を/はてなくひとりたどって来た」とか「くっきりうかぶ松の脚」という字句も出てきますが、実際に沼の西岸には、松の並木があり(右写真)、賢治はこの沼の西側の道を歩いたのかと推測されます。
 「むかし竜巻がその銀の尾をうねらしたといふその沼・・・」という部分もありますが、これについては栗原敦さんが調査をされ、「お菊の水」という地元の伝承があって、「紫波郡片寄のマタギ十兵衛に殺された五郎沼の主の大蛇が、十兵衛のもとに娘となって生まれて来るが、21の年に正体が現われ大暴風雨を起こして飛び去っていく、という話を記載しておられます(『宮沢賢治 透明な軌道の上から』)。この「草稿的紙葉群」からは、後に文語詩「水部の線」も生まれていますが、ここでも「竜や棲みしと伝へたる/このこもりぬ」として出てきます。「こもりぬ」という言葉から想像していたよりは、周囲の開けた沼でした。

二羽の白鳥 ところで、「草稿的紙葉群」と「水部の線」に共通するのは、一種の「恋心」のような作者の思いです。とりわけ「水部の線」においては、「きみがおもかげ うかべんと・・・」と、「きみ」という二人称まで出てきます。またその推敲の途中では、題名が「おもかげと北上川」とされた段階もあります。
 はたしてこの「おもかげ」の「きみ」とは、誰か具体的な人を指しているのでしょうか。この夜、賢治の心にあったのは、いったいどんな記憶だったのでしょうか。

 ここで私がどうしても気になるのは、この五郎沼は日詰の町の近くにある、ということです。日詰というのは、昨日も少し触れたように、賢治の初恋の人が生まれ育った町ではないかと推測されている場所なのです。

 次は、志賀理和気神社その日詰の町に向かうことにします。五郎沼をあとにして、国道4号線を北に向かって歩き、途中ではこの地方で由緒正しい「最北の延喜式・式内社」である「志賀理和気神社」(右写真)にも立ち寄りました。
 結局、沼から都合3kmほど歩くと、「日詰商店街」に入りました。「銭形平次」の作者である野村胡堂の出身地ということで、町のあちこちに「銭形平次のふるさと」というコピーが掲げられています。商店街の人々は、やっと晴れ間がのぞいたことに安堵するかのように、道路の雪かきに精を出しています。

 もちろん、日詰出身の高橋ミネさんという看護婦が、賢治の初恋の相手であったという確証はまだ見つかっていないのですが、賢治がある時期この町の「城山」を眺めつづけていたことを思うと、やはり私もこの町を見てみたくなったのです。
 小川達雄氏の『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』によれば、「ミネは明治29年に日詰町の仲町、以前中央バスの営業所があった所の八百屋『高福』に生まれています」とのことです。「以前中央バスの営業所があった所」というのが私にはどこかわかりませんが、検索でたまたまヒットしたこちらのページを見ると、現在の店舗名がわかりました。あと、商店街の地図で確認すると、なんとか行けそうです。

八百屋「高福」があった場所 さて、商店街に入って歩いて行くと、店はネットで見つけた地図のとおりに並んでいます。500mほど進んだあたり、右写真の2軒のお店の場所が、以前のバス営業所、そしてその昔に八百屋「高福」があったところです。ここで、賢治の初恋の人が生まれ育ったのかもしれないのです。
 まあ、ここに行って見てみたからどうなるというものでもないのですが、でも確かめることができると、なんとなくホッとしました。はたして賢治自身は、ここに来てみたことはあったのでしょうか。

 「産業組合青年会」という作品は、賢治が五郎沼の近く、すなわち日詰のあたりの青年会か何かに出席して、何らかの講演をした際の出来事がもとになっていると推測されます。「今日のひるまごりごり鉄筆で引いた/北上川の水部の線」という一節からは、講演のために自分でこの地域の地質図か何かを作成していたのかとも思われます。
 会合そのものは、賢治にとってかなり耳の痛い言葉も出るものだったことが作品から感じとれますが、その終了後に、賢治は不思議な高揚感を感じつつ、一人で五郎沼の近辺を歩いたのでしょう。

 作品の中の「きみがおもかげ」という言葉は、賢治が過去において出会い、その後は長らく会っていない人物を想像させます。そしてその人への思いの表現の仕方は、やはり恋心と解釈せざるをえません。
 そうなると私としては、岩手病院における「初恋」のことがどうしても思い浮かぶのです。この日、たまたま講演に呼ばれて日詰の近くまで来たことが、賢治のはるか昔の記憶を呼び覚ましたのではないでしょうか。そして、あらためてかの人の「おもかげ」を浮かべ追憶にひたろうとして、一人で沼までやってきたのではないでしょうか。
 また逆に、作品中にこのような表現が唐突に出てくることが、賢治の恋が五郎沼の近辺と何か関連があることを示唆しているとも言え、「日詰出身の高橋ミネ」説の間接的な補強になるのではないか・・・、などと思ったりもします。
 思えば、岩手病院に入院した「初恋」が1914年ですから、この作品の1924年まで、ちょうど10年がたっていたわけです。

 あれこれ勝手な空想の翼は広がりますが、謎を秘めた日詰商店街を後にすると、今度は「紫波中央」駅まで歩いて、JRに乗って花巻に戻りました。
 昼食は、不動大橋を南に渡ったところの「HAIKARA-YA」というレストランでとりました。ここは、ピザ焼きの専用の窯を備えているというのがセールスポイントの一つで、そのピザ(ゴルゴンゾーラやモッツァレラなどの載ったフロマッジオ)と、オムライスを食べました。さすがにピザは秀逸でした。

 その後、HAIKARA-YA から賢治詩碑まで歩いて、いちめん雪の広場と変わった羅須地人協会跡を歩きました。
 空港ロビーでは、高校サッカー決勝を中継しています。途中まで見て、16時25分に飛び立ちました。

雪の向こうに立つ賢治詩碑

「四っ角山」

 ひきつづき、小川達雄著『隣に居た天才―盛岡中学校宮沢賢治』の話題です。

 昨日も書いたように、「第七章 かの人の故郷」の頃の賢治がやはりどうしても気になりますが、この章では「大正三年四月」当時の短歌として、次のような作品が取り上げられます。

山上の木にかこまれし神楽殿
鳥どよみなけば
われかなしむも          (179)

志和の城の麦熟すらし
その黄いろ
きみ居るそらの
こなたに明し           (179a180)

神楽殿
のぼれば鳥のなきどよみ
いよよに君を
恋ひわたるかも         (179b180)

はだしにて
よるの線路をはせきたり
汽車に行き逢へり
その窓明し            (180)

しろあとの
四っ角山につめ草の
はなは枯れたり
月のしろがね           (181)

 賢治がこの年4月に入院中の岩手病院の看護婦に思いを寄せ、引きさかれるような思いで退院してから、だいたい6月頃に詠んだ歌と思われます。なかでも(179b180)などは、古典的な相聞歌のような趣で、私は昔から大好きでした。
 この憧れの看護婦さんは、花巻から北へおよそ20km、盛岡との中間あたりにある日詰という町の出身だったということです。賢治もそれを知っていて、切ない思いを胸に、その日詰にある紫波城(志和の城)を望んで詠んだのが二首目です。「その人がいる」と思う方角をじっと眺めているだけで、さまざまな感情が湧き上がってくる、これこそまさに「初恋」ですね。

 さて、当時の賢治のことを考えていると、これらの歌に詠まれた場所がいったいどこだったのかということは、やはりどうしても知りたくなります。
胡四王神社神楽殿 一首目と三首目に出てくる「神楽殿」は、以前は鳥谷崎神社の神楽殿とする説もあったようですが(六人会『宮沢賢治の短歌をよむ』など)、現在では胡四王神社の神楽殿(右写真)ということで、異論はないようです。賢治が悲しみを胸に登ったこの山は、現在は賢治記念館が建っている、この胡四王山だったのです。
 そうすると、二首目に出てくる「志和の城」は、胡四王山から遠望していることになり、20km離れて麦の熟した黄色を見るというのは、いくら視力がよくてもちょっと不可能と思われますが、ここは賢治がそのように「想像」しているのだ、という解釈でよいようです。

 それでは、五首目に出てくる「しろあとの四っ角山」はどこなのかということになりますが、順番としては「志和の城」が出てきた後ですから、五首の歌を連作短歌と考えると、これも紫波城と読めなくもありません。
 実際に、『隣に居た天才』において小川氏は、これを紫波の城山と考えておられます。まず賢治は胡四王山から城山をはるかに望み、ついに思いを抑えきれなくなって東北本線の線路を一気に20km裸足で走り(!)、彼女の家に近い紫波城までやってきたという解釈です。

 これはこれで、本当にドラマチックな情景ですね。しかし、ここに出てくる「四っ角山」というのは、花巻城址の城山であるというのが通説になっているようで、「宮沢賢治学会・花巻市民の会」編集の『賢治のイーハトーブ花巻』においても、原子朗氏の『新宮澤賢治語彙辞典』においても、そのように説明されています。
 この五首は連作ではなくて、短歌(179b180)と(180)の間には、時間の不連続があるという解釈ですね。

 ちなみに、童話「めくらぶだうと虹」や、その改作形「マリヴロンと少女」は、この「四っ角山」が舞台となった作品です。

・・・その城あとのまん中に、小さな四っ角山があって、上のやぶには、めくらぶだうの実が、虹のやうに熟れてゐました。・・・(「めくらぶだうと虹」より)

 二つの童話に描かれた、「四っ角山」で繰り広げられる切ない「憧れ」のドラマは、上の短歌に詠まれた17歳の賢治の思いの残照を、はるかに映すものだったのかもしれません。