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布袋「館」

年譜・1921年4月 『【新】校本全集』第十六巻(下)年譜篇(2001)のp.222では、右のように賢治たち父子が比叡山から降りて宿泊した旅館の名を「布袋屋」としています。しかし以前に書いたように、「三条小橋商店街」の方のお話では、三条小橋の近くにあった旅館は、「布袋屋」でなく「布袋館」だったということです。

 し『帝国旅館全集』(1913)ばらく前に国会図書館に行った時に、当時の旅館の名前を収録した書籍によって、これを確認してみました。

 まず、奈良の「対山楼」の時にも参照した、1913年(大正2年)発行の『帝國旅館全集』という本があります(左写真)。
 これは賢治父子の旅行の8年前に出た本ということになります。もちろん、旅行時点とすべての旅館が同じとはかぎりませんが、そのp.89は、下の図のようになっています。

『帝国旅館全集』p.89

  最下段の、右から11番目に、「布袋館」の名前が見えます。住所は、「三條小橋東入ル」です。

『全国旅館名簿』1926 次にもう一つ、上の本より少し後に出た『全国旅館名簿』という本がありました(左写真)。
 「全國同盟旅館協會」というところの編纂で、こちらは賢治父子の旅行の5年後に出ています。
 この本の京都市下京区の一部をコピーしたのが、下の図です。







 

京都市下京区の旅館

 右から10番目に、「布袋館」が載っています。住所は、やはり「三條小橋東」となっています。

 ということで、2つの資料が一致しているので、やはり旅館の名前は「布袋館」が正しかったのだろうと思います。
 『【新】校本全集』年譜篇において「布袋屋」とされているのは、政次郎氏の記憶をもとにした記載かと推測しますが、「対山楼」にかぎらず旅館の名前というものは、微妙な記憶違いをしやすいものなのでしょうか。

奈良における賢治の宿

「年譜」1916年3月24日 『【新】校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)の「年譜篇」p.108には、1916年(大正5年)の盛岡高等農林学校の修学旅行において、賢治ら一行は、奈良の「対山館」という宿舎に泊まったと書かれています(右引用4行目)。
 この記載の根拠は、同校「校友会報」に掲載された「農学科第二学年修学旅行記」の3月24日分として、同級生の菅原俊男が執筆した文章によっていると思われ、そちらの方には、「夕方で随分寒かつたので、一同急いて対山館に着いた。時に午后六時過ぎ。」と書かれています(『【新】校本全集第十四巻「校異篇」p.20)。

 そこで、「対山館」という旅館が奈良のどこにあったのだろうかと、少し調べたりしていたのですが、現存していないのはもちろんのこと、過去の記録にも、そのような名前の宿屋を見つけることはできずにいました。賢治が、たそがれに「銀鼠」色の空を見たのは、奈良のどのあたりからだったのだろうかということが、心に引っかかったままになっていたのです。

 そうしたところ、1913年(大正2年)に発行された『帝国旅館全集』という、当時の全国の旅館のリストのような本をたまたま国会図書館で調べてみましたら、この旅館の名前は「対山館」ではなくて、「対山楼」だったのではないかと思われました。

 下のコピーは、上記の本の「奈良市」の部分で、p.144とp.145の2ページにわたっているところを、縦につないで表示しています。

『帝国旅館全集』より・奈良市の部分

 ご覧のように、奈良市内で36軒の旅館(ホテル)が収録されていますが、この中に「対山館」という旅館はありません。そのかわり、2段目の右から4つめに、「對山樓」という名前が見えます。これは、賢治たちが宿泊する3年前のリストではありますが、常識的な解釈としては、実際には旅館の名前は「對山樓」であったが、菅原俊男氏の記憶の中で、「對山館」になってしまったと考えるのが、妥当ではないでしょうか。
 よく似た例としては、賢治が1921年(大正10年)に父親と関西旅行をした際に、京都で泊まった旅館の名前が、「年譜篇」では「布袋屋」と書かれているのが、現実の旅館は「布袋館」であったということがありました(「京都における賢治の宿(1)」参照)。

 さて、そこで賢治が奈良で泊まった旅館が「対山楼」(以後、便宜上新字体表記を用います)だったとすれば、実はこの旅館は、明治以来数多くの政府要人や文人などが宿泊している、格式ある「老舗旅館」だったのです。奈良県立図書館がこちらのページで公開している「奈良名勝旅客便覧」という絵図(明治40)でも、拡大すると図の左の方に「旅館 對山樓」が見えます。
 こちらのブログ記事を参照すると、「対山楼」と命名したのは山岡鉄舟で、他に伊藤博文、山県有朋、滝廉太郎、岡倉天心、フェノロサなど、錚々たる顔ぶれの人が宿泊しているそうです。
 その中でも、この旅館にちなんだ俳句も詠んでいたことから、近年注目されているのが、正岡子規です。

 正岡子規は、日清戦争に新聞記者として従軍中に喀血して、帰国後神戸で静養した後、1895年(明治28年)に、この対山楼に宿泊したということです。たまたま旅館で柿を食べたところその美味に感激し、「秋暮るゝ奈良の旅籠や柿の味」との句を詠み、さらにこの時の柿の味が余韻となって、3日後に法隆寺を訪ねた際、有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」に結実したとも言われています。また、対山楼が東大寺大仏殿の近くにあるところから、「大仏の足もとに寝る夜寒かな」の句も作っています。

 さて、この対山楼は、昭和38年までは旅館として営業していたということですが、その後廃業し、現在その場所には、「天平倶楽部」という大きな和食レストランが建っています。そして驚くべきことに、このレストランの裏手に広がる庭園が、正岡子規の孫にあたる造園家の正岡明氏によって「子規の庭」として整備され、2006年10月には子規の句碑も建てられたというではありませんか(「子規の庭」サイト参照)。
 これは、一度行ってみなければということで、本日そのレストランと庭を訪ねてきました。

 京都駅から近鉄奈良線に乗って、終点の「近鉄奈良」で降りると、「天平倶楽部」までは歩いて20分ほどです。東大寺の「転害門」の少し手前あたりに、広々とした駐車場を備えたレストランが現れます。

天平倶楽部

 奥に見える建物が現在のレストランですが、お女将さんに尋ねたところでは、手前の駐車場も含めた敷地全体が、ほぼもとの「対山楼」だったということです。これなら修学旅行生を泊めても余裕の広さですね。
 そして今日は、「銀鼠」の空ではなくて、ご覧のような快晴です。

 建物の向かって右手の方に、「子規の庭」への入口があります。入口の門には、「御見学の皆様へ」という札かけられていて、「出入り口より鹿が侵入いたしますので御面倒ですが必ず扉は閉めて頂き、カギをお掛け頂きます様お願い致します」との注意があるのが、いかにも奈良らしい感じです。
 途中には、「子規と奈良」という説明板があって、『ホトトギス』に子規が対山楼の「柿」のことを書いた文章も詳しく引用されています(下の画像をクリックすると拡大表示されます)。

子規と奈良(クリックすると拡大します)

 そして、通路を通ってレストランの裏手に出るとかなり広々とした庭園になっていて、この「子規の庭」に建てられている正岡子規の句碑は、下の写真のとおりです。
 句は、「秋暮るゝ奈良の旅籠や柿の味」。後ろに見えるのは、東大寺大仏殿の屋根で、左上に少し見える柿の実は、対山楼時代からこの場所に残されている柿の木になっているもので、この木は奈良市の「保存樹」にも指定されているということです。

子規句碑と大仏殿、対山楼時代からの柿

 ところでこの庭の一角に、昔この場所で若き日の宮澤賢治が詠んだ短歌の歌碑も建ったら・・・、と思うのは、一部の賢治ファンだけでしょうか・・・。

たそがれの
奈良の宿屋ののきちかく
せまりきたれる銀鼠ぞら。


 下写真は、東大寺の境内で日なたぼっこをしていた鹿たちです。

奈良公園の鹿たち

富士館と中村牧場

 先日、苫小牧市立中央図書館で、「富士館旅館」と「中村牧場」の昔の写真をコピーしてきましたので、ご紹介します。

 「富士館」は、1924年5月21日に賢治らの引率する花巻農学校修学旅行生が宿泊した旅館で、苫小牧駅前にあり、当時の苫小牧町では最も大きな旅富士館旅館(大正4年)館だったということです。『苫小牧市史(下)』には、「昭和八年には苫小牧の旅館数は大小を合わせて二十軒を超えていたが、富士館を除いて立派な旅館は少なく木賃宿、馬宿程度のものが多かった。」との記載があります。
 右の写真は、『苫小牧市史(下)』に掲載されている大正4年時点の「富士館」ですが、賢治たちが訪れた大正13年には、もう少し立派になっていたという説もあります。

 敗戦後は一時、進駐軍の宿舎として接収されていた時期もありましたが、接収が解除され営業を再開してからは、旅館とともに高級食堂としても、苫小牧市民の人気を集めていたということです。
 しかし、1977年に駅前の市街地再開発事業によって、この場所は大規模商業施設「サンプラザ(現エガオ)」およびその駐車場となります。さらにその後、開業と同時に核テナントとして出店していたダイエー苫小牧店も、2005年には閉店・撤退してしまいました。
 時代とともに、「流転」を重ねた場所だったわけですね。

fujikan_t4.jpg 現在その場所は、駅前本通りの敷石(右写真)が示してくれているところによれば、下写真のような様子になっています。

 左側に見えるビルが商業施設「egao(エガオ)」、右に少しだけ見えている高いビルは、「グランドホテルニュー王子」です。
 宿泊業に関しては、苫小牧の老舗旅館は軒並み閉店していく中で、王子製紙グループの「グランドホテルニュー王子」と「プラザホテルニュー王子」という二つの大ホテルが、現在はこの街に君臨しているようです。

富士館跡地の駐車場


 次に、夜の散歩に出た賢治がたまたま浜辺で「エーシャ牛」を見かけて、作品「」を書くきっかけとなったと推定されている、「中村牧場」です。この牧場に関しては、『大苫小牧を囲繞せる人』(北海道平民新聞社)という1925年(大正14年)に出版された本に、下のような写真が掲載されていました。 右の楕円の中が、経営者の中村拙郎氏です。

中村牧場と中村拙郎氏

 この『大苫小牧を囲繞せる人』という本は、当時の苫小牧町の名士録のようなものなのですが、この中に「牧畜業 中村拙郎」の記事として、次のように人物紹介がなされています。

氏は明治八年鳥取縣は鱒掬ひの本場濱坂生れである。
明治十八年十一歳の折義兄に當る人が北海道空知郡江別に屯田兵として來道せるを頼り渡道したのである、二十八年戦役には従事して満鮮の野に馳駆した歴史もある。
苫小牧町沼ノ端に落ちついたは、爾来幾星霜を閲した三十八年であつた、同地に於て牧畜業に従事し、更に四十一年苫小牧に王子製紙の創設をみるに當り炯眼なる氏は其の前途の有望なるに着目し現在の地に轉住するに至つた、以來牧畜業の傍ら搾乳業を営み、逐年事業の増大を成しつゝある、資性温良、町有志として公共事業に儘瘁する處多大である。

 発刊が1925年であることからすると、上の写真が写されたのは賢治がやってきた時期とかなり近い頃と思われます。ここに牛は少なくとも11頭は数えることができて、実はこれまで私は、「一ぴきのエーシャ牛が…」という作品の冒頭から、囲いの中で牛が一頭だけ飼われている情景を何となく想像していたのですが、考えてみれば中村氏が「牛乳屋」を営むためには、牛一頭で成り立つはずはありません。「逐年事業の増大を成し」た氏は、当時すでにたくさんの乳牛を飼っていたわけですね。
 夜に賢治が目にした時には、他の牛は牛舎の中にいて、たまたま一頭だけが出てきて遊んでいたのでしょう。

 また、「」の下書稿(一)である「海鳴り」には、「黒い丈夫な木柵もある」との描写がありますが、上写真の左の方を拡大した下の画像で見えるのが、その「木柵」でしょうか。

中村牧場拡大写真

 ちなみに、「エアシャー(Ayshire)種」の牛とは、スコットランド原産の乳用種で、もともと貧しい草地と厳しい気候条件の原産地で育てられたため、体質は強健で耐寒性に優れていて、粗放な飼養管理にもよく耐えるので、高緯度の地域で比較的よく飼われていたということです。日本へは、明治11年に札幌農学校に輸入されたのが最初で、明治の末までは政府の奨励品種として普及していました。しかしその後、より乳量の多い「ホルスタイン種」が小岩井や北海道の大規模農場に導入され、大正年間には全国的にホルスタイン種の方が広まっていったということです(「畜産ZOO鑑」および「酪農今昔物語」参照)。
 賢治が中村牧場にやってきたのは大正時代も終わり近くですが、北海道の海辺の吹きさらしのような場所で飼育するには、やはりエアシャー種の方が適当だったのでしょう。

 あと、先日訪問した「サイロ」は、少なくとも上記の写真には見えません。『苫小牧市史』によれば、苫小牧では昭和初期以降、サイロ設置を奨励するために補助金制度などが設けられたということですから、あのサイロは賢治が訪れた後、昭和になってからできたのかもしれません。


 最後になりましたが、今回とり上げた「富士館」および「中村牧場」の写真の存在について、私は浅野清さんという方の「宮澤賢治の北海道紀行(その一)」という Web 上の文章によって知りました。ここに、浅野さんの詳細な調査に敬意を表させていただきます。

どんど晴れ

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 昨日から「どんど晴れ」始まったNHK朝の連続テレビ小説「どんど晴れ」は、昨日の初回の視聴率では関東14.9%、関西14.2%で、歴代の朝ドラの最低だったということですが、舞台は岩手盛岡で、岩手山の美しい風景や、宮澤賢治にまつわるエピソードなどもちらちら顔を出すということですから、今のところ私は録画して見てみることにしています。
 NHKの朝ドラを初回から見るなんて、おそらく生まれてはじめてですが。

 横浜のケーキ屋の家に生まれてパティシエを目ざしていた娘が、ある事情によって、婚約者の生家である盛岡の老舗旅館の「お女将」を継ぐことになる、という大胆な(!)お話です。そこでこのヒロインが、「ざしき童子」のようなトリック・スター的な性質を秘めているというのが話のポイントで、それが「遠野物語」に代表されるような岩手の民俗的風土と重ね合わされていくという趣向のようです。(上の写真でヒロインが箒を持っているのも、「座敷を箒で掃く音がする」というざしき童子の伝承を下敷きにしているのでしょうか?)
 今日の第二回では、ヒロインの婚約者が自分が生まれ育った旅館について、「あの宮澤賢治も泊まったことがあるんだよ」と自慢げに紹介しているシーンがありました。
 年譜的に明らかな「賢治が泊まった盛岡の旅館」としては、1909年(明治42年)3月31日~4月初旬の間、盛岡中学受験のために、母親とともに紺屋町の「三島屋」に宿泊したという記録があります。

 この「三島屋旅館」は実際に由緒ある老舗旅館で、野村胡堂の『随筆 銭形平次』には、日詰町出身の野村がやはり盛岡中学を受験しに父親と盛岡に出てきた折のことが、次のように書かれています。

 「宿はお前が勝手に探せ、明日昼頃、肴町の角へ荷物をつけた馬をやるから」こう父からいい渡されて、泣きたいような――でも非常な冒険に臨む勇士のような誇らしい――心持で盛岡へ出て来ました。これがその頃最も賢明な親の態度だったのです。もとより、下宿の見当も何もつかなかったので、以前父と一緒に泊ったことのある、紺屋町の三島屋の店へきて、のれんのかげからそっと、「お頼もうす」といっておりました。幸い女将が私の顔を記憶していたので、大した不自由もなく、階下の往来に面した室へ通されて、親類の児のようにいたわってもらった事を知っております。

 賢治とはだいぶ違った受験状況ですね。
 この旅館の跡地は、今は「三島内科医院」になっているそうですが、盛岡市内でも古い町並みの残るあたりです。

 ところで「どんど晴れ」では今後、ヒロインは盛岡市内の喫茶「イーハトーブ」に下宿することになり、そこの主人は、「宮澤賢治をこよなく愛する」人という設定なのだそうです・・・。

修学旅行に使われた「布袋館」

 賢治が泊まった三条小橋の旅館「布袋館」について昨日書きましたが、この宿は昭和の初期には、京都を訪れる修学旅行生の宿泊にもしばしば使われていたようです。

 跡見女学校(当時)の1928年(昭和3年)修学旅行を記録した「關西修學旅行の記」のページの下の方、「五年生記録係」による「第四日」の項を見ると、「朝九時布袋館を出發、嵐山に向ふ」との記載があります。それにしても当時の女学生による旅行記は、ほんとうに生き生きとしていますね。
 また、デジタル系ライター荻窪圭氏の2001年2月の日記で、02/06 の項を見ると、「新津高等女学校・印南イネさんの修学旅行日程」が引用されていますが、「4月30日金曜日」に、「午前9:30三条駅下車。京都見学。京都泊(布袋館)」とあります。

 この頃の布袋館は、きっとかなり繁昌していたのでしょう。

京都における賢治の宿(1)

 1921年4月、宮澤政次郎氏は、家出して東京にいた賢治を誘い、関西方面の旅をしました。この時、京都にやってきた父子は、「三条小橋の旅館布袋屋」に泊まったということが『【新】校本全集』年譜篇にも記されていますが、「布袋屋」という旅館は現存していません。
 この旅館がどの場所にあったのだろうということが以前から気になっていたのですが、三条小橋商店街理事長の大西弘太郎さんにお尋ねしたところ、現在は「加茂川館」という旅館になっている場所に、戦前は「布袋館」という旅館があったということを、教えていただきました。


 東海道の京都池田屋騒動之址側起点とされている「三条大橋」は、三条通が鴨川を渡る橋ですが、そこから西に90mほどのところ、三条通が高瀬川を渡るところにかかる橋が、「三条小橋」です。
 長さ10mにも満たないようなかわいい橋なのですが、そのすぐ西には新選組の「池田屋事件」の旧跡があったり(右写真)、橋の東の佐久間象山・大村益次郎遭難之碑たもとには「佐久間象山先生・大村益次郎卿遭難之碑」(左写真)があったり、いろいろな歴史的事件の舞台ともなっています。
 この地は、東海道を歩いて旅してきた人が、やっと三条大橋にたどり着いて宿をとるというロケーションにあって、江戸時代から宿屋が多く並んでいたということです。幕末の頃に諸国から集まった志士たちも、この辺の宿に身を潜めたり集結したりしたわけですね。ちなみに左の写真で、「高瀬川」と書かれた石の欄干が、「三条小橋」です。


 さて、この三条小橋から三条通を東へ50mほど行ったところ、通りの北側に面して建つ立派な旅館が、「加茂川館」です(下写真)。

加茂川館

 加茂川館のサイトをご覧いただくと、旅館についてより詳しい情報も見られます。また、こちらをクリックしていただくと、MapFan Web でこの旅館の場所が表示されます。

 この場所に、戦前は旅館「布袋館」があり、その後「近江屋」という旅館だった時代があって、数年前から現在の「加茂川館」となっているということです。

 ところで、三条小橋商店街の大西さんからは、この場所に建つ旅館の歴史について、さらに興味深い情報も教えていただきました。

『東海道中膝栗毛』七編上 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』には、「三条の編笠屋」という旅籠が登場するのですが、この「編笠屋」とは、江戸時代にこの加茂川館のあった場所~すなわち賢治の泊まった布袋館のあった同じ場所~に、実在していた旅籠だったということなのです。右の画像は、岩波文庫版『東海道中膝栗毛』「七編上」の一部ですが、弥次郎兵衛が京の五条大橋のあたりで、相撲取りのような男にからまれそうになるところです。相撲取りが、「こつとらは今三条の編笠屋から出て來たものじや」と言っています。
 思わぬところで、思わぬ由緒に遭遇するものですね。

 三条小橋商店街振興会では、このようなエピソードもあること、そしてこの地が江戸時代には京都の「玄関口」であったことにちなんで、三条大橋のたもとに、弥次郎兵衛と喜多八の銅像を建てています(右下写真)。
弥次喜多像 二人の後ろに見えるのは、鴨川と三条大橋です。


 1921年4月のある日の午後、下坂本の港で汽船を降りた賢治ら父子は、840mもある比叡山を、歩いて滋賀県側から京都府側へ越え、おそらく夕闇の中を三条大橋を渡って、ここにあった「布袋館」という旅館に、荷を解いたのです。
 賢治は24才、政次郎氏もまだ47才とはいえ、二人の健脚には感心させられます。

 下の写真は、二人が越えてきた比叡山(画面中央)を、三条大橋から望んだところです。
 三条大橋から比叡山を望む

(今回の私の問い合わせに対し、ご親切にお答えいただいた三条小橋商店街の大西弘太郎さんに、感謝申し上げます。)