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 去る1月20日に東京大学は、今後5年前後で現在の春入学から秋入学に全面移行東京大学「入学時期のあり方に関する懇談会・中間まとめ」よりすることを目ざすと発表しました。右は、同大学「入学時期のあり方に関する懇談会・中間まとめ」による、秋入学のイメージ図です。
 改革の目的として「中間まとめ」には、(1)国際標準となっている秋季入学に合わせることで、学生・教員の国際流動性を高めること、(2)高校卒業から大学入学までのいわゆる「ギャップターム」を利用して、学生に多様な体験を積ませること、などが挙げられています。
 これには他大学も歩調を合わせるように検討を始めているということですから、もしも実現すれば、「サクラサク」「サクラチル」とかいう言葉でも人々の季節感覚に染みついた大学入学という行事が、大きく変わるわけですね。

 ところで、日本の大学が現在のような春入学になったのは、明治の最初からではなくて、当初は欧米に合わせて秋入学だったところ、大正時代に春入学に変えられたという歴史があったようです。
 以下は、「読売新聞 COME ON ギモン」からの引用です。

 1877年(明治10年)、東京開成学校と東京医学校が合併して帝国大学、現在の東京大学ができます。当時は文明開化と欧化一直線の時代。帝大の学年の始まりも欧米流の秋、9月10日(~翌年7月15日)でした。
 それが今の春入学に転換したのは1921年(大正10年)。主に、初等・中等教育の学校とそれを支える師範学校の学事暦に合わせるためでした。
 そもそも小中学校、師範学校も最初から春入学だったわけではなく、4月入学に統一されたのは明治時代中頃。1886年の高等師範学校に始まり、尋常師範(89年)、全国の小学校(92年)、中学・高等女学校(1900年)の順に春入学が定着します。
 そのうちの師範学校が春入学に転じたのは主に次の理由からでした。(1)炎熱7月の学年末試験は不合理、(2)行政の会計年度に学事暦が一致しないのは不便、(3)徴兵(20歳)の届けが4月に早められたため、高年齢入学者が徴兵免除の特典を得るには4月入学が必要――。
 大学と旧制高校は明治期こそ秋入学を継続していましたが、大正になり、政府が理由の(1)と(2)を盾に春入学を迫ると1919年、まず旧制高校が、続いて20年に大学も受け入れました。

 ということで、帝国大学が現在の春入学に改められたのは、1921年(大正10年)からだったということですが、この「1921年(大正10年)」というのは、賢治ファンにとっては特に気になる年の一つですよね。
 この年の1月、彼は家出をして東京へ行き、ガリ版切りのアルバイトをしながら国柱会の布教活動に従事しつつ、狭い下宿で厖大な童話の創作にいそしんだのです。

◇          ◇

 1921年1月23日の午後、店番をしていた賢治は棚から背中に日蓮の「御書」が落ちてきたことに啓示を受けたかのように家を飛び出し、列車に乗って翌朝には上野駅に着きました。
 彼はすぐに国柱会を訪ねて、そこに寄宿させてもらうつもりだったようですが、「東京に親戚でもあればそこに落ちつくように」と言われて会館を後にします。住居と生活費の確保に迫られた賢治は、東大赤門前の「文信社」という「小さな出版所」にガリ版切りのアルバイト口文信社「生理学総論」を見つけて、その近くに下宿を確保しました。「出版所」と言っても一般向けに出すのではなくて、真面目な東大生から有償で講義ノートを借り、それをガリ版刷りにして、ちゃんとした講義ノートを持っていない(不真面目な)東大生向けに売る、という事業だったようです。巧みな商売と言えばそのとおりで、主人は「利害打算の帝国主義者」だと賢治は書いています(書簡185)。その出版物の実例の一つは、以前に「「文信社」発行の講義録」という記事にアップしました(右図)。
 個人的に思い返してみれば、30年ほど前には京都にも同様のことをしている業者はあって、当時はもう「ガリ版」ではなくて「コピー」でしたが、試験前になると大学前に屋台が出て、優等生のノートをいくつも並べて売っていました。「文信社」の例を見ると古くから続いていた商売のようですが、ネットに自分のノートを公開している学生もある昨今では、こういう業者はもうなくなってしまったのでしょうか。

 閑話休題。この「文信社」時代に賢治は、同じ岩手出身で東京帝大経済学部の学生となる、鈴木東民という人物に出会います。鈴木は1895年生まれで賢治より1歳年長ですが、母の実家が花巻にあったということで、二人は急速に親しくなりました。鈴木東民が書き残している当時の賢治の様子は、第三者による記録が少ないこの時期の賢治に関する、貴重な証言です。
 以下は、鈴木東民「筆耕の頃の賢治」(草野心平編『宮澤賢治研究』筑摩書房)からの引用です。

 宮澤賢治と識つたのは、1920年の初冬の頃であつた。そのころ東大の赤門前に、「文信社」という謄寫屋があつた。そこの仕事場でわたしたちは識り合つたのである。「文信社」は大學の講義を謄寫して學生に賣つていた。アルバイト學生だつたわたしはそこへノオトを貸して一冊につき月八圓、ガリ版で切つた謄寫の原稿の校正をして、四ペエジにつき八銭の報酬をうけていた。賢治の仕事はガリ版で謄寫の原稿を切ることであつた。かれはきれいな字を書いたから、報酬は上の部であつたろうと思うが、それでも一ペエジ二〇銭ぐらいのものだつたろう。この仕事を専門の職業としている人でも、一日に一〇ペエジ切るのは容易でないといわれていた。

 「1920年の初冬」とありますが、これを「1920年12月より始まる冬」と解すれば、賢治が1921年1月に上京して文信社に勤めはじめたという事実経過と一致します。鈴木東民の回想は続きます。

 賢治もわたしもこの仕事場では新米であつた。かれはわたしよりさきに上京していたのかもしれないが、ここのアルバイトをするようになつたのは、わたしとほとんど同時だつたのではないかと思う。わたしはこの年の夏に仙臺の二高(旧制)を卒業し、十月に上京して「文信社」のアルバイトにありついたのであつた。休憩時間にここの主人の居間兼事務所の八畳でお茶を飲んでいたときに、何かの話からかれが花巻の生れで土地で知られた旧家の宮澤家の息子さんであることをわたしは知つた。そんなことからわたしたちは急に親しくなつたのであつた。そのころわたしの母は宮澤家のすぐ近所に、同じ町内に住んでいた。

 鈴木は、アルバイトを始めたのは賢治とほとんど同時だったのではないかと書いていますが、彼が10月に上京してすぐ開始したとすれば、3ヵ月は差があったわけです。しかし、「着物までのんでしまってどてら一つで主人の食客になってゐる人やらたくさんの苦学生、辯にならうとする男やら大低は立派な過激派ばかり」(書簡185)が集まっている中では、新入りが来てもすぐにはわからなかったのかもしれません。

 さてここで、鈴木東民が東京帝大に入学したのは、正確にはいつだったのだろうという疑問が生じます。
鎌田慧『反骨 鈴木東民の生涯』(講談社文庫) 上の文章には、「この年(=1920年)の夏に仙臺の二高(旧制)を卒業し」とあり、また鎌田慧による評伝『反骨 鈴木東民の生涯』(講談社文庫)巻末の年譜にも、1920年の項に「二高卒業」とありますから、この年に旧制第二高等学校を卒業したのは、かなり確度が高いでしょう。
 一方、東大入学については、鎌田慧著『反骨』の年譜には、1920年の項に「二高卒業」に引き続き、「東京帝国大学経済学部入学」と書かれています。これを素直に解釈すれば、1920年の秋に入学したことになります。
 しかし、上の「筆耕の頃の賢治」の記述を見ると、「この年の夏に仙臺の二高(旧制)を卒業し、十月に上京して「文信社」のアルバイトにありついた」とあります。秋入学なら、新学期は9月から始まりますから、「十月に上京」というのでは間に合いません。さらに、「二高卒業」のことは書いてあるのに、「十月に上京」の前に「東大入学」のことが書いてないのは、やや不自然です。
 ということで、鈴木東民が東大に入学したのは、1920年秋ではなくて、1921年春だったのではないか、という可能性も考えられるわけです。

 この時期は、前述のようにちょうど帝国大学が秋入学から春入学に移行する年に重なっていたためにややこしいのですが、念のためこの前後の東大の学年暦について、確認しておきます。
 東京帝国大学の1920年(大正9年)の「学年」は、9月から始まりました。下図は、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」から、『東京帝國大學一覧 從大正八年 至大正九年』の「第一章 學年暦」のページです。

『東京帝国大学一覧 從大正八年 至大正九年』

 大正9年までは、9月11日が「學年始ル」とされていました。
 次に、同じく「近代デジタルライブラリー」から、『東京帝國大學要覧 從大正十年 至大正十一年』の「第一章 學年暦」です。

『東京帝国大学要覧 從大正十年 至大正十一年』

 大正10年からは、4月1日が「學年始ル」となっています。
 となると、大正9年9月に入学した学生は、いつから「大学2年」になったのだろうという疑問がまた湧いてきますが、これは大正10年4月からだったようです。つまり、この年の「大学1年」は半年余りしかなかったわけですね。例えば、大正9年9月に東京帝国大学に入学した川端康成の第一学年は実質7ヵ月だった旨が、「東京紅團」の「川端康成散歩 東京帝大時代を歩く」に紹介されています。

 鈴木東民の話に戻ると、大正9年夏に第二高等学校を卒業した鈴木にとっては、川端康成と同じく大正9年9月に東大に入学することもできたわけです。ただしこれは、「十月に上京」という本人の回想に照らし合わせると若干の難点があることは、すでに触れました。
 あらためて、鈴木東民が入学したのは、大正9年9月か大正10年4月か、どちらだったのか。
鈴木東民年譜より これをさらに考えるために、彼の卒業年を調べてみると、前述の鎌田慧著『反骨 鈴木東民の生涯』の年譜(右図)には、1923年(大正12年)の項に、「東京帝国大学卒業。大阪朝日新聞入社。」と書かれています。すると、当時の帝国大学は修業年限3年でしたから、1921年(大正10年)4月に入学したのであれば、卒業は1924年(大正13年)春となってしまい、この記述とは合いません。一方、1920年(大正9年)9月に入学しておれば、実質的な在学期間は2年半ですが、1923年春に卒業となり、この年に就職したという鎌田慧氏の右年譜と一致します。

 しかしまたこの説にも難点があって、鎌田氏の評伝本文にも記されていることですが、1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災の際に、鈴木東民は東京で被災しているのです。『反骨』によれば、「そのころ、東民は麻布のある家の居候になっていた。大手商社の上海支店長の留守宅で、子どもの教育をみたりの用心棒兼用だった。」とありますから、彼は一時的に東京に来ていたのではなく、東京で生活していたのです。これは、「1923年に大阪朝日新聞に就職した」という記述とは合致しません。
 さらに『反骨』には、震災直後に鈴木東民が、東大の恩師である吉野作造の研究室に行ったことも記されています。

 東民はこのとき、大阪朝日新聞への入社がきまっていた。それで恩師の吉野作造に挨拶するため東大へむかい、吉野の研究室の書籍を毛布に包んでなんどかはこびだした、とセイはきかされている。

 「セイ」というのは東民の妹ですが、9月の時点で「就職内定」していたのであれば、卒業は翌1924年(大正13年)3月で、大阪朝日新聞入社は4月だと考えるのが自然です。吉野作造の研究者の方による「Essais d'hermeneutique」というブログにも、1923年9月1日に吉野は午前10時に出勤し、大阪朝日新聞に就職が内定していた学生の鈴木東民の紹介状を河上肇あてに書いていた、とあります。この記載は、吉野作造の「吉野日記」に依っているのではないかと推測しますが、機会があれば確認してみたいと思っています。
 このように、鈴木東民が関東大震災の時点で学生だったとすれば、その大学卒業・就職が1923年だったというのはもちろんありえないことで、実はそれは1924年春のことだったのではないでしょうか。すなわち、この頃の鈴木の経歴は、下記のようになものだったのではないかと、私は考えるのです。
 鎌田慧氏による年譜のズレは、ちょうど秋入学から春入学へという変化の年に重なったために、生じたものではないでしょうか。

1920年 7月  第二高等学校卒業
      10月  上京 「文信社」でアルバイト開始
1921年 1月? 賢治と知り合う
        4月  東京帝国大学入学
1923年 9月  関東大震災に遭う
1924年 3月  東京帝国大学卒業
        4月  大阪朝日新聞入社

 となると、鈴木東民は、夏に旧制高校を卒業してから翌年春に大学に入学するまでの約半年の自由時間の間に、賢治と出会ったわけです。それは、たまたま学制変革の年に当たったために現われた、一種のモラトリアムでした。彼はこの間に上京して、文信社で出版校正に携わりましたが、それは、在学中から「帝国大学新聞」に所属し、卒業後は大阪朝日新聞に就職してジャーナリストの道を歩んだ鈴木東民の、出発点とも言える仕事だったかもしれません。
 現在、東大が打ち出している秋入学計画では、春に高校を卒業して秋に大学に入学するまでの猶予期間を「ギャップターム」と呼び、これを利用して学生に「質の高い多様な体験を積ませる」と謳っています。東民と賢治の出会いも、お互いにとってそのような貴重な体験だったのではないでしょうか。

◇          ◇

 鈴木東民は「筆耕の頃の賢治」において、さらにその後の賢治との関わりについても記しています。

 その翌年の夏休みが終つてわたしが上京したときは、もうかれは東京にいなかつたのではないかと思う。かれの姿を「文信社」の仕事場に見ることはなかつた。それから数年経つてわたしが大阪朝日新聞の記者として、京都支局につとめていたとき、萬朝報という新聞の文藝欄で、かれの最初の詩集、「春と修羅」の批評を讀んだ。評者は放浪の詩人、辻潤であつたが、日本の詩壇にかつてその例を見ない傑作だといつて絶讃していた。わたしはうれしくてたまらなかつた。賢治は風呂敷の中味を童話だといつていたが、詩も一緒に入れてあつたのかもしれない。いずれにせよかれの腰のものが世の脚光を浴びるときが來たのだと、わたしは思つた。手をふるわせながらわたしはお祝いの手紙をかいた。すると折り返して豪華本の「春と修羅」をかれは送つてよこした。その二年後にわたしはヨオロッパに渡り、十年経つて帰國したときには、宮澤賢治はもはやこの世の人ではなかつた。しかし若い日の自信にみちた彼の壮語は現實となつていた。
 1921年の夏休みに、母のもとに帰つたわたしは、宮澤家に招待されて御馳走になつたことがある。學生のくせにお酒まで遠慮なしに頂戴した。その時のお給仕役がかれで、無器用な手つきでお銚子などを運んで來たものである。もちろんかれは一滴も酒は飲まなかつた。若いときのこととはいえ、今その時のことを回想して、わたしは自分の無作法さに汗の流れる思いがする。それは貧乏ぐらしをしていたわたしたち母子によせてくれたかれの好意であつた。わたしにとつて終生忘れることのできない思い出である。
 文信社の仕事場でも、かれはわたしの健康を気遣い、アルバイトはほどほどにしてくがよいといつて、しばしば注意してくれた。しかしわたしの校正の仕事よりも、鐵筆で油紙に一字一字刻むかれの労苦の方が、比較にならぬほど辛いものであつたろう。

 この後の鈴木東民は、ドイツに渡ってヒトラー批判を展開したり、戦後は読売争議の先頭に立ったり、釜石市長に当選して「橋上市場」の建設を実現する一方、環境への配慮から新日鉄釜石の公害問題を追及した結果、四選ならず落選するなど、文字どおり「反骨」の生涯を貫きました。

 もしも賢治が長生きしていたら、二人の間にどんな交友が続いただろうと、想像します。

 前回の記事では、「公衆食堂」とはどういうものだったのかということについて、少し整理をしてみました。これを念頭に置きつつ、前々回の記事につづいて、「公衆食堂(須田町)」という作品の舞台について考えてみます。

    公衆食堂(須田町)

あわたゞしき薄明の流れを
泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら
食器の音と青きむさぼりはいともかなしく
その一枚の皿
硬き床にふれて散るとき
人々は声をあげて警しめ合へり

 わざわざ題名に(須田町)と書いてあるのですから、この食堂が、大正末期から東京各地に多数の支店を出して賑わった「須田町食堂」ではないかと推測するのも、一つの当然の考え方でしょう。
 しかし、私としては、これは「須田町食堂」ではなくて、上野(下谷坂本町)に当時あった「公衆食堂」における情景なのではないかと、思うのです。そう考える理由について、以下に書きます。


1.作品の書かれた時期

 この「公衆食堂(須田町)」という作品は、前回も述べたように、「「東京」ノート」の「一九二一年一月より八月に至るうち」という見出しの付いた部分に記されています。「一九二一年一月より八月」と言えば、ちょうど賢治が家出をして東京で国柱会の活動やガリ版切りの仕事をしながら、一方で初期の童話を書いていた時期にあたります。
 ノート上でこの作品の前後には、「雲ひくく桜は青き夢の列/汝は酔ひしれて泥洲にをどり」という、関豊太郎博士との花見(1921年4月頃)の情景を題材としたと思われる短歌や、「われはダルゲを名乗れるものは/つめたく最后のわかれをかはし・・・」という、保阪嘉内との別れ(1921年7月頃)に関連したと思われる断章など、いずれもこの家出上京中の出来事が反映したテキストが並んでいます。したがって、これらに挟まれて存在する「公衆食堂(須田町)」も、やはりこの頃の体験に由来していると考えるのが、まずは自然だと思います。
 ただ、「「東京」ノート」そのものは、1930年(昭和5年)頃に書かれたと推定されているものです(『【新】校本全集』第十三巻校異篇p.33)。それ以前の何らかの草稿をもとにして、東京における作品群をこの時期にまとめて記入したと思われますが、1921年から1930年までにかなりの時間経過はありますから、その間の上京、すなわち、1923年、1926年、1928年の賢治の東京における体験が、「「東京」ノート」のこの箇所に挿入されたという可能性も、完全には否定できません。
 しかし、文語体で短い断章を連ねていく作品スタイルは、やはり1921年頃に書かれたと推定される「冬のスケッチ」にも類似しており、1923年~1928年頃の賢治の詩作品とは、明らかに異なるものです。
 すなわち、やはり「公衆食堂(須田町)」は、1921年(大正10年)の上京中の体験にもとづいているのだろうと、私としては推測します。

 そこで、「須田町食堂」の方の歴史を振り返ると、実はこの大正10年には、まだ「須田町食堂」は開業していなかったのです。下の画像は、現代の「須田町食堂」のパンフレットから抜粋したものですが、ここに書いてあるように、最初にこの食堂が創業したのは、大正13年(1924年)のことでした。

須田町食堂パンフレット

 したがって、もしも「公衆食堂(須田町)」という作品が、1921年(大正10年)の上京中の体験にもとづいていたとすれば、その舞台は「須田町食堂」ではありえなかったことになります。
 一方、前回「大正期東京市の「公衆食堂」」という記事で見たように、1921年(大正10年)には、すでにいくつかの「公衆食堂」が東京市内に開設されて、かなり繁盛していました。まず、1920年(大正9年)4月に、公衆食堂第一号としてオープンした「神楽坂公衆食堂」と、さらに同年中にできた「上野公衆食堂」が存在し、「当時非常に好評を博し利用者は多」かったことが記録されています。これらに続いて、「大正10年度(1921年度)」の開設とされているのが、日本橋、神田橋、本所の各食堂ですが、これらのうちにも、賢治のいた8月までに営業を始めていたものがあった可能性もあります(『外食券食堂事業の調査』より)。
 すなわち、「公衆食堂」であれば、十分に作品の舞台となりうるのです。


2.食堂の雰囲気・等級

 さて、作品「公衆食堂(須田町)」における食事風景の描写からまず浮かび上がるのは、慌ただしく黙々と、「むさぼり」「飯を食む」ことにのみ集中している人々の姿です。そこには「都市の孤独」が感じられると前々回に述べましたが、それとともに、「われら」という一人称の視点や、「警め合」うという人間関係から、どこかにそこはかとない「仲間意識」のようなものも潜在しているように思える、とも書きました。
 このような、知らない客同士の「仲間意識」、あるいは食堂の「おばちゃん」や「おっちゃん」との間に醸し出される一種の「疑似家族意識」というものは、一昔前まで、いわゆる「大衆食堂」においては体験することのできるものでした。
 次の文は、遠藤哲夫ほか著『大衆食堂の研究』(三一書房)という本の中にあった、昭和30年代の「大衆食堂」に関する記述です。

 食堂の家族がいて、黒い学生服を着た男、汗をたっぷりかいた印半纏の男、油のにおいがする作業服の男、白い開襟シャツの会社員、東京育ちのやつも上京したてのやつも、いろいろな欲望をかかえて、みーんな一緒にめしをくった。

 この描写は、まさに賢治の「公衆食堂(須田町)」において、「飯を食むわれら」の面々と想定しても、ぴったりくるものです。「上京したてのやつ=賢治」の姿まで、入っているではありませんか。私が、「仲間意識」と呼んだものを、遠藤氏はもっと端的に、「食堂の家族」と名づけたわけです。
 そして、ここが大事なところなのですが、このような「連帯感」は、上品にとりすましたレストランなんかには決して生まれるものではなくて、貧しい中で必死に飯を食う「仲間」だからこそ、共有されるものだと思うのです。
 つまり、「公衆食堂(須田町)」の舞台となった食堂は、そのような「大衆食堂」的な場所だったはずです。

 さて一方、「須田町食堂」の方はどうだったのでしょうか。こちらも、決して高級な店ではなく、コストパフォーマンスの良さで当時の客を引きつけたのだそうですが、上に掲載したパンフレットの一節には、「華やかな大正文化を彩る文豪や文化人、さらには政治家、芸人、力士など各界の著名人にも愛され親しまれたと云います」と書かれています。もしもこれが事実なら、「大衆食堂」とは少しランクが違ってきてしまいます。
 ただ、上のパンフレットは店側が宣伝のために作ったものなので、多少は華やかな面を誇張して表現している可能性もないとは言えません。

『大東京うまいもの食べある記』(昭和8年) そこで、より同時代に近い客観的な資料として、昭和8年に刊行された、白木正光編『大東京うまいもの食べある記』(丸ノ内出版社)という本を見てみます。現代のグルメ本のはしりのようなものですが、これは、当時かなり評判を呼んでベストセラーになったものだそうです。
 この本の中に、「須田町食堂」の上野駅地下支店の説明と、レポート記事が掲載されている箇所があるのです。当時、すでに「須田町食堂」は東京市内に何軒もの支店をチェーン展開して急成長していましたが、この上野駅地下支店は、その中でも大規模な店舗だったようです。店の雰囲気も、支店の中ではかなり上等な方なのでしょう。

◇須田町食堂 ― 驛の地下室に明治製菓喫茶部と並んでありますが、場内も廣く、大衆向と云ひ條、装飾設備も立派なもので、驛食堂として実に模範的食堂です。
                  ―― ◇ ――
S 「これはまつたく立派だ、例の須田町食堂の先入観で尻込む人があるかも知れんが、こゝなら誰が來ても恥かしくないね」
N 「同感、この天井のあかり取りなど、まがひものだが、全部ステインド硝子ですよ、それに女給さんが松坂屋の食堂に輪をかけた丁寧さも特筆に値ひします」
H 「早速お茶の熱いのと取替へて呉れるなど訓練も満点」

 こゝの朝定食(二十銭)を試食すべく早朝に動員されて些か不機嫌だつた食べ歩き同人達も、第一印象の好感にすつかり氣をよくする。やがて誂えた定食が運ばれる。献立、揚げと葱の味噌汁。焼海苔。白菜。大根、馬鈴薯に小間切肉のごつた煮。それに香の物。御飯も一人一人櫃に這入つて茶碗が添へてある。

N 「註文してから恰度十一分かゝりましたが、定食としては少し時間を食ひ過ぎますね、氣ぜはしい驛食堂であり、それにお定まりの定食で見たところ特別時間のかゝる献立でもないのに、これはもつと短縮の工夫がほしい」
S 「献立は二十銭にしてはよいな、焼海苔にわさびを添えたのもなんでもないやうで氣がきいて居る、味噌汁も普通の甘辛味噌を使ってゐるが味は悪くない、但しごつた煮はから過ぎて一寸いたゞきかねる」
H 「牛鍋、よせ鍋共に(卅銭)ホウその上に湯豆腐(十銭)がありますよ、すべての卓に電熱装置があるし、全く豪勢なものですね」

 上の状況が、すべての「須田町食堂」に共通というわけではないのかもしれません。しかし、総体として私が感じるのは、これは現代に移し変えてみると、「大衆食堂」というよりも「ファミリーレストラン」に近い存在だったのではないか、ということです。上に紹介されている須田町食堂においては、価格が安いこともセールスポイントの一つではありますが、それに加えて、「小綺麗さ」や「サービスの良さ」なども大きな売りにしているところが、まさに「ファミレス的」です。チェーン展開していたところも、また似ています。

 で、「公衆食堂(須田町)」という作品に戻ると、この作品に見られるような「大衆食堂的猥雑さ」や「仲間意識」は、現代のファミリーレストランに行っても感じられないのと同様に、当時の「須田町食堂」にも、なかったのではないかと思うのです。


3.題名についてどう考えるか

 というわけで、「須田町食堂説」に否定的な見解を述べてきましたが、それでは、「公衆食堂(須田町)」という題名については、どう考えたらよいのでしょう。

 ここでまず確認しなければならないのは、当時、須田町に「公衆食堂」は存在しませんでしたから、題名における「公衆食堂」という部分と「須田町」という部分は、どうしても両立しないということです。論理的に考えると、(1)「公衆食堂」が正しくて「須田町」が誤りか、(2)「公衆食堂」が誤りで「須田町」が正しいか、(3)両方とも誤りであるか、3つのうちのいずれかであるということになります。
 最初の(1)が、私の考えに相当しますす。
 (2)については、その中の有力な可能性が「須田町食堂説」でしたが、それが考えにくいことは上に述べました。「須田町食堂以外の、須田町内の別の食堂」という可能性もありますが、これについては資料がありません。少なくとも、当時の須田町内に、ある程度有名な「大衆食堂的」な店があったという証拠は見つけられませんでした。
 (3)に至っては、ほとんど題名としては無意味だったということになってしまいますが、強いてこの線で「公衆食堂」ではない「大衆食堂的」店舗を挙げれば、大正6年に芝区新幸町に開業した「平民食堂」と、大正9年に神田にできた「昌平橋簡易食堂」があります(『大東京綜覧』、『外食券食堂事業の調査』)。後者は、須田町からも近いということで多少の関心は引かれるところです。また、賢治の下宿や勤め先の文信社から近いところとしては、当時やはり安い洋食屋として人気を博していた、「本郷バー」という店があります。大正5~6年頃に創業して、ライスカレーが5銭、カツが7~8銭という安値が評判を呼んで、勤人、学生、車夫、小僧さんなども多く利用していたということですから、賢治も東京滞在中に訪れた可能性は考えられます。しかしいずれにしても、「公衆食堂(須田町)」が、実は「昌平橋簡易食堂」あるいは「本郷バー」のことだったというのでは、あまりにも名前に関連がなさすぎます。

 結局、私としては(1)を採用して、賢治がある夕方に食事をしてこの作品の舞台となったのは、「須田町」ではないけれども、どこかの「公衆食堂」だったのではないかと考えます。
 「公衆食堂」という言葉の方を重視するのは、大正10年にはまだ各地の開設が始まって間もなかったものの、「当時非常に好評を博し利用者は多」かったという話題性、「公衆食堂」という新たなネーミングが与えたであろう印象などを考えると、実際に賢治が「公衆食堂」で食事をして、それを正しく題名に記録した可能性が高いと考えるからです。
 この場合、残念ながら(須田町)の方は誤りと考えざるをえません。なぜ(須田町)という言葉が書かれたのかはわかりませんが、たとえば、その後の賢治の上京(1926年、1928年)において、今度は賢治は「須田町食堂」の新たな繁盛ぶりについて耳にしていて、その記憶が、1930年(昭和5年)頃に「「東京」ノート」に作品を記入する際に、混入してしまったのかとも思ったりします。ことに、1926年12月の上京時には、須田町からも遠くない神田錦町の上州屋に1ヵ月近く滞在して、いろいろと活動を行っていますから、この間に実際に「須田町食堂」を訪れた可能性もないとは言えません。


4.では、どこの公衆食堂か

 最後に、賢治がこの作品の舞台としたのが、1921年(大正10年)当時あった「公衆食堂」のいずれかだったとすると、その中のどこだったのか、ということが残された問題です。
 時はまだ関東大震災前で、上にも述べたように、すでに「神楽坂」と「上野」には、前年から開業している公衆食堂があり、また大正10年度(1921年度)のうちには、「日本橋」、「神田橋」、「本所」の3ヵ所も営業を始めます。


A: 賢治の下宿; B: 文信社; C: 国柱会本部; D: 帝国図書館
1: 神楽坂公衆食堂; 2: 上野公衆食堂; 3: 日本橋公衆食堂; 4: 神田橋公衆食堂; 5: 本所公衆食堂

 上の地図で、緑色の(A)、(B)、(C)、(D)が、賢治が1921年の上京中に、最も足繁く動いたであろう活動拠点です。
 赤い(1)、(2)、(3)、(4)、(5)が公衆食堂の位置ですが、(1)の神楽坂と(2)の上野は、1920年のうちに開業していたのがわかっている店舗です。(3)、(4)、(5)は、1921年度中には開業しましたが、賢治が東京にいた8月までに、どれが確実に営業開始していたかということはわかりません。
 さて、この地図で見ると、公衆食堂のうちでは、(2)の「上野公衆食堂」が、何と言っても賢治の生活圏に最も近接して存在していたことがわかります。おそらく賢治の典型的生活としては、朝に下宿(A)を出て、午前中(4時間?)文信社(B)においてガリ版切りの仕事をし、そして昼から国柱会本部(C)へ行って、種々の奉仕活動をしていたと思われます。上野公衆食堂(2)があった下谷坂本町は、上野鶯谷にある国柱会で午後の活動を終えて、下宿へ帰る前に夕食をとるとすれば、格好の位置になります。
 (1)の「神楽坂公衆食堂」も、下宿から3km余りで、時々食事に行くのは十分可能です。また(4)の「神田橋公衆食堂」はやや遠くなりますが、問題の「須田町」には最も近い場所にあります。(3)の日本橋公衆食堂や(5)の本所公衆食堂は、平素の生活圏の中とは言えないでしょうが、日本橋には、東京滞在中なにかと世話になった、小林六太郎氏の家がありました。

 結局、賢治の日常の動線に最も沿っていて、作品のように夕方に訪れる可能性が高かったのは、(2)上野公衆食堂ということになり、この店舗が、「公衆食堂(須田町)」の作品舞台として、まず候補に挙げられるのではないかというのが、現時点での私の考えです。
 長々と書いてきた割には、もう一つぱっとしない結論ですが、作品が1921年の体験であること、場所が「公衆食堂」であること、という2つの仮定から出発すると、こういうことになりました。

「文信社」発行の講義録

 1921年1月23日に突然家出をして東京で生活を始めた賢治にとって、どうやって収入を得ていくかということが、 まず問題となりました。1月27日に、なんとかバイト先を見つけると、故郷の親戚関徳弥にあてて、次のように報じています(書簡185)。

三日目朝大学前で小さな出版所に入りました。謄写版で大学のノートを出すのです。朝八時から五時半迄座りっ切りの労働です。 周囲は着物までのんでしまってどてら一つで主人の食客になってゐる人やら沢山の苦学生、辯(ベンゴシの事なさうです) にならうとする男やら大抵は立派な過激派ばかり 主人一人が利害打算の帝国主義者です・・・。

 この「小さな出版所」というのが、本郷にあった「文信社」という店でした。「銀河鉄道の夜」の「二、活版所」の場面を、 ちょっと彷彿させるところもあります。
 当時、 東京帝大経済学部に入学していた学生で、後に釜石市長になる鈴木東民という人が、たまたま当時の文信社で賢治と出会い、 次のように書き残しています(「筆耕のころの賢治」) 。

 宮沢賢治と識ったのは、1920年の初冬のころであった(注:実際は1921年)。そのころ東大の赤門前に、「文信社」 という謄写屋があった。そこの仕事場でわたしたちは識り合ったのである。「文信社」は大学の講義を謄写して学生に売っていた。 アルバイト学生だったわたしはそこへノオトを貸して一冊につき月八円、ガリ版で切った謄写の原紙の校正をして、 四ペエジにつき八銭の報酬をうけていた。賢治の仕事はガリ版で謄写の原紙文信社『生理学總論』を切ることであった。かれはきれいな字を書いたから、 報酬は上の部であったろうと思うが、 それでも一ペエジ二〇銭ぐらいのものだったろう。この仕事を専門にしている人でも、 一日に一〇ペエジ切るのは容易でないといわれていた。(中略)
 休憩時間にここの主人の居間兼事務所の八畳でお茶を飲んでいたときに、 何かの話からかれが花巻の生れで土地で知られた旧家の宮沢家の息子さんであることをわたしは知った。 そんなことから私たちは急に親しくなったのであった。(中略)
 そのころのかれは袴を必ずつけていたが、帽子はかぶらなかった。今でこそ無帽はあたりまえのことになったが、当時、 袴をつけて無帽というのは異様に感じられたものだ。その袴の紐にいつも小さい風呂敷包がぶらさがっていた。最初、 わたしはそれを弁当かと思っていたが、童話の原稿だということだった。もしもこれが出版されたら、 いまの日本の文壇を驚倒させるに十分なのだが、残念なことに自分の原稿を引きうけてくれる出版業者がいない。 しかし自分は決して失望はしない。必ずその時が来るのを信じているなどと微笑を浮かべながら語っていた。・・・

 当時の賢治が切ったガリ版印刷が残っていたらおもしろいのですが、現在国会図書館に収められている文信社発行の書籍で、 1921年に出版されたものを調べてみると、残念ながら活版印刷のものしかありませんでした。

 そこでそのかわりに、賢治が関わっていた仕事がどんなものだったのかという雰囲気だけでもつかみたいと思い、 国会図書館でコピーしてみたのが、右写真の『生理学總論 下巻』です。賢治上京の前年、1920年の文信社発行です。

 これは、当時の東京帝大医学部の生理学教授・永井潜博士による講義ノートのようで、学生の講義録をもとに、さらに8冊もの英・ 独の関連文献を参考にしつつ編集したと謳っています。ただし、この「関連文献参照」は、文信社が行ったものではなく、講義ノートを提供した学生が自分で勉強して付けていたものを、一緒に文信社が引き継いだものだろうと私は思います。
 ちなみに永井潜博士(1876-1957)は、 1903年から1906年まで英独仏留学、1915年から東京帝大医学部教授(生理学)、1923年から台北帝国大学医学部長、 という経歴の人でした。

 実際に上の講義録の内容を見てみると、たとえば3頁4行目からの本文の一節は、「元来 Naturwissenschaft ナルモノハ unorganische Welt ニ於テ得タルモノナレバ之レヲ organische Welt タル Physiologie ニ anwerden シテ正シキ説明ヲ得ルヤ否ヤハ Frage ナリ・・・」などという調子で、日本語とドイツ語がちゃんぽんです。洋行帰りの先生で、 こういう講義をする人は、たしかに20年くらい前にはありました。
 それにしても、文信社の講義録はあくまで整然と文章が連なり、挿入される欧字も、きれいな筆記体で書かれています。さすが、 昔の大学生は勉強家だったようですね。

 賢治自身の思いはともかく、彼のように英語およびドイツ語の語学力が十分にあった人材は、 このような特殊な原稿のガリ版切りとしては、きっと重宝されたのだろうな、と思います。

また国会図書館

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 たまたま近くで用事があったので、あいまにまた国会図書館に寄ってみました。
 賢治が家出した1921年に、文信社から刊行された書籍で国会図書館に所蔵されている本を検索すると、「模範行政法総論便覧」 「模範行政法各論便覧」という二冊があって、ひょっとしてここに賢治のガリ版の筆跡が残っていないかと思って調べてみたのですが、 文信社の書籍にしては珍しくこれは活版印刷でした。

 では、賢治が文信社で行っていた「筆耕」とはどんなものだったのか、その一つの例を明日アップしてみたいと思います。