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花巻でうたう賢治の歌

 「賢治の里 花巻でうたう賢治の歌 全国大会2012」から、無事帰ってきました。独唱、合唱、クラシック系からバンド系まで、さまざまな「賢治の歌」が集まり、あっという間の楽しい4時間でした。
 下写真は、「コーラスライオット風」による、「敗れし少年の歌へる」「絆 三部作」。

「コーラスライオット風」による「敗れし少年の歌へる」

 今回の岩手行きの主な目的の一つは、普代村で合唱の練習をしてくるということでした。
 この9月2日(日)に、花巻市で「賢治の里 花巻でうたう賢治の歌 全国大会2012」というイベントが開かれます。各地から、いろいろな個人や団体が出演して歌声を競うのですが、この大会に、三陸の普代村・野田村・田野畑村の合同の合唱団「コーラスライオット風」が出るにあたり、何と私が指揮をすることになったのです。
 下の写真は8月13日の岩手日報朝刊ですが、二段目に紹介されている「コーラスライオット風」が、それです。

岩手日報8/13朝刊 

◇          ◇

 普代村の合唱団と私のご縁は、7年前にさかのぼります。2004年10月に、普代村に「敗れし少年の歌へる」詩碑が建立されたことを受けて、詩碑オタクの私は、2005年1月に普代村を訪ねました。碑を見学したり、ちょうど80年前に賢治が泊まったと言われる旅館に宿泊し、賢治が歩いた道をたどったりしたのですが、この時に、花巻の阿部弥之さんのご紹介で、森田眞奈子さんをはじめ合唱団「コーラスライオット風」のメンバーの方々に、初めてお会いしたのです。
 皆でいろいろと賢治についてお話をしていたのですが、たまたま数年前に私の大学の後輩にあたるオーケストラが、普代村でホームステイをさせていただき合唱団とジョイントコンサートを開催したという奇遇も明らかになって、遅くまで話題は尽きませんでした。そのうちになぜかその場で、普代村に「敗れし少年の歌へる」の碑もできたことだから、これを記念してこの詩に曲を付けてくれないかという話が私に持ちかけられ、それで思いもかけず生まれたのが、当サイトでも公開している女声二部合唱曲「敗れし少年の歌へる」でした。
 この曲は、2005年10月に「コーラスライオット風」の定期演奏会において、当時の岩手県知事も来場されている中で初演されました(「普代村へ(2)」参照)。

「コーラスライオット風」第17回定期演奏会
2005年10月8日

 その後も、北三陸の「コーラスライオット風」は、「敗れし少年の歌へる」をレパートリーの一つとして、地元で歌い継いで下さっていたということですが、そこにまたこの2年というもの、合唱団の活動に大きな山がやってきます。

◇          ◇

坂本博士さんと森田眞奈子さん(1967) 合唱団の代表を長年務められた森田さんは1967年に、普代村を訪れたバリトン歌手・作曲家・音楽教育家である坂本博士さんに出会われました(右写真は森田さんと坂本さん)。
 当時はNHKテレビにも頻繁に出演する有名歌手だった坂本さんは、昭和三陸大津波を題材としたミュージカルを作曲するにあたり、取材のためにスタッフとともに三陸地方を旅していたのです。森田さんの家族が当時経営していた旅館に宿泊していたので、音楽が大好きだった森田さんは、坂本さんと親しく語らう時間を持てたのだそうです。
 翌年に、ミュージカル「海から黒い蝶がくる」が完成した際には、森田さんたちも東京に招待されて、聴きに行ったのだそうです。

 それから43年がたちました。2010年に普代村の小学校が統合されるにあたって、記念コンサートの開催が検討されていましたが、森田さんの働きかけもあり、そこに坂本博士さんを招待することになったのです。
 森田さんと坂本さんは、43年ぶりに普代村で再会しました。

再訪感謝

  2010年6月に開かれた「小学校統合記念ふれあいコンサート」では、坂本さんはミュージカル「海から黒い蝶がくる」の名場面を歌い、43年前に取材した津波の恐ろしさについても語られたということです。後半では、小中学生、村の人々も一緒になって、会場全体が歌声で包まれました(「普代村教育長だより」参照)。

 ところが、それから1年もたたないうちに、東日本大震災が起こったのです。三陸地方は、津波による甚大な被害を受けました。東京在住の坂本氏は、普代村の人々の声を録音したテープによって村の状況を知ったということですが、前年に村で津波の話をしていた時には、こんなことになるとは夢にも思わず、言葉を失ったそうです。
 坂本さんは、「自分にできることは、音楽で皆を支えたり励ましたりすること」と考え、2011年4月から5月にかけて、「絆」「希望の道」「ふるさとにおくる愛の歌」という3曲の合唱曲(絆三部作)を作曲し、7月に神奈川県でチャリティコンサートを開催しました(「タウンニュース」参照)。

 そして2011年12月、坂本さんは3度目となる普代村訪問を果たします。そしてその指揮のもとに、普代小学校や普代中学校や「コーラスライオット風」のメンバーは、「絆三部作」を歌ったのです(岩手日報「復興ソング 浜に勇気」参照)。

◇          ◇

 このような普代村における活動に、「賢治の里 花巻でうたう賢治の歌 全国大会2012」実行委員会代表の照井潔子さんも注目しました。そして、その勧めもあって「コーラスライオット風」は、今回の大会で「絆三部作」を歌うことになりました。ただしこの大会は、「賢治作品を1曲と自由曲」を歌うことが条件とされているされているため、自由曲としての坂本博士氏の「絆三部作」に加え、私の「敗れし少年の歌へる」が演目に加えられたというわけです。
 私は、この5月に津波後の三陸地方の賢治詩碑を見るために普代村に行っていたのですが、そこで7年ぶりに再会した合唱団の皆さんと食事をしている時に、またなぜか「こんどの9月に指揮をしてくれませんか」という話を持ちかけられました。カレンダーを見ると本番は日曜日だったので、私は調子に乗って思わずOKをしてしまいました。
 本当に私でいいのか?というのが正直言って心配なのですが、個人的には三陸も花巻も大好きなものですから、少しでもお役に立てるなら私にできることはやってみよう、というのが今の心境です。

 そんなわけで、去る8月15日の午後、主婦の皆さんにとっては一番あわただしいお盆の最中に、「コーラスライオット風」のメンバーとピアノ伴奏の方に集まっていただき、3時間ほどの練習を行いました。
 暑い中、汗をかきながらみんなの心は、かなり一つになった感じです。

 あとは、9月2日の本番を、乞うご期待、というところ・・・。

「敗れし少年の歌へる」楽譜

三陸の賢治詩碑の現況(4)

 連休に訪ねてきた三陸北部の賢治詩碑の様子の報告、今回はその後半部です。
 まず下に、三陸海岸北部の田野畑村、普代村の周辺を、これまでよりも拡大して表示します。


(マーカーをクリックすると、碑の写真と説明ページへのリンクが表示されます)

 マーカーの(6)は、先にご報告した、田野畑村島越駅前の「発動機船 第二」詩碑です。今回取り上げるのは、「田野畑村・発動機船三部作詩碑」の残り二つである、(7)「発動機船 一」詩碑と(8)「発動機船 三」詩碑、それに普代村堀内地区の、(9)「敗れし少年の歌へる」詩碑です。


 「発動機船 一」詩碑

 賢治の「発動機船」三部作は、1925年(大正14年)1月の三陸行の際の体験に由来しています。
 この旅行で賢治は、三陸北端の種市で列車を降りて、そこから徒歩あるいは乗合自動車で海岸を南下し、まず下安家で宿泊したようです。そして次は、下安家・堀内・太田名部・羅賀のいずれかの港から発動機船に乗船し、宮古を経て、山田・大槌あたりで下船したと推測されています(「旅程幻想詩群」参照)。
 このうち「発動機船 一」は、乗船した日の夕方頃の情景で、船荷の積み卸し作業をしている娘たちの生き生きとした様子を描いています。

うつくしい素足に
長い裳裾をひるがへし
この一月のまっ最中
つめたい瑯カンの浪を踏み
冴え冴えとしてわらひながら
こもごも白い割木をしょって
発動機船の甲板につむ
頬のあかるいむすめたち
  ……あの恐ろしいひでりのために
     みのらなかった高原は
     いま一抹のけむりのやうに
     この人たちのうしろにかゝる……

 「あの恐ろしいひでり」とは、前年1924年(大正13年)に岩手県地方を襲った旱害のことを指しています。そのような逆境にもかかわらず、「冴え冴えとしてわらひながら」厳しい作業をする娘たちの姿に、賢治もまた救われているようです。
 内陸の花巻で暮らし、ふだんは農村や農民を見ていた賢治としては珍しく、ここでは漁業に携わる人々が描かれています。「働く娘たちの讃歌」とも言えるこの作品は、「「曠原淑女」の漁業版」とでも言いたくなります。

 その作品舞台にも近い平井賀漁港の傍らに、この「発動機船 一」の詩碑を建立したのは、田野畑浜漁業協同組合長を務め、平井賀で「本家旅館」の経営もしていた、故・畠山栄一氏でした。下の写真は、2000年に私が現地を訪ねた時のものです。

「発動機船 一」詩碑(2000)

 釜石産の南部黒御影石でできた碑身がみごとですが、碑面に写りこんでいる、在りし日の平井賀の家々をご覧下さい。
 津波の後には下写真のように、高台にあった家を残して、この集落の中心部には何もなくなってしまいました。

田野畑村平井賀(2012)

 そして、「発動機船 一」詩碑があったのは、下の写真の岩の上あたりでした。もとは、ここには盛り土がされて松の木が何本か茂っていたのですが、津波によって松の木もろとも土が剥がされ、このような状態になっています。

田野畑村平井賀(2012)

 ここにあった「発動機船 一」詩碑も、津波の後はしばらく行方不明になっていました。そうしたところ昨年6月下旬に、瓦礫の撤去作業をしていた業者の方が、かなり砂浜側に離れた場所で、失われた碑身を発見したのです。
 碑を立てた畠山栄一氏は、すでに昨年1月に亡くなっておられましたが、奥様が継いでいる旅館の庭に、とりあえず碑は運び込まれました。そのいきさつは、昨年7月の「河北新報」の記事に掲載されています。

 私は、5月4日にこの平井賀を訪れて、畠山さんの「本家旅館」(下写真)に宿泊させていただきました。

本家旅館

 そして旅館の庭の片隅には、詩碑がまだ所在なさそうに置かれていました。

「発動機船 一」詩碑(2012)

 これが発見されてからしばらく経って、畠山さんがまた元の場所に碑を設置し直そうとしたところ、村役場から連絡があり、津波の記念碑か何かを作る際に使わせてもらうかもしれないとのことで、待ったがかかっているのだそうです。
 この「本家旅館」は、詩人の三好達治や作家の吉村昭もよく泊まりに来ていたという由緒ある宿で、その名物料理は「どんこ汁」です。

どんこ汁

 直径20cmくらいのお椀に、「どんこ」一尾が丸ごと入って出てきました。身はゼラチン質が多くてぷるぷるした感じ、だしも濃厚でほんとにおいしかったです。
 ちなみに、三陸地方の「どんこ料理」としては、以前に大船渡の居酒屋でいただいた「肝焼き」もよかったですよ。どんこの肝は、アンコウにも比べられるほど見事ですが、この肝をあらかじめ取り出し、つぶして味噌と和えたものを、また口からお腹に詰め込んで、丸ごと焼いた料理です。

 「本家旅館」は、まだ本格的な営業再開にはあと一歩というところだそうですが、私が詩碑を見るために京都からやって来たと言うと、お女将さんもとても喜んで下さいました。

 下の写真は、旅館の部屋から港の方を眺めたところです。手前の車の後ろにある黒い直方体が現在の詩碑、赤い矢印のあたりが、もともと詩碑の設置されていた場所です。旅館は高台にあったので津波被害は免れましたが、白壁の外側の空き地には、もとは全部民家が並んでいたのです。

平井賀漁港

 翌朝、お女将さんにお礼を言って宿を後にすると、田野畑駅まで歩きました。

 「発動機船 三」詩碑

 「発動機船 三」詩碑は、三陸鉄道の田野畑駅前にあります。この「発動機船 三」という作品は、賢治が乗った発動機船が、夜半にまさに宮古港に入ろうとしている情景を描いています。

あゝ冴えわたる星座や水や
また寒冷な陸風や
もう測候所の信号燈や
町のうしろの低い丘丘も見えてきた

という「町」が、宮古だったわけです。

 詩碑のある田野畑駅は、高台にあったおかげで津波被害は免れました。しかし線路は各所で寸断され、昨年3月末に久慈―陸中野田間、小本―宮古間の運転が再開されてからも、このあたりの復旧にはまだ1年あまりの時間を要しました。
 そして本年4月1日に、陸中野田―田野畑間の営業運転が再開されたことは、地元の人々を大きく力づけ、全国の鉄道ファンをも喜ばせました。
 先に島越駅の愛称「カルボナード島越」についてご紹介した際、田野畑駅の愛称は「カンパネルラ田野畑」であると記しましたが、今回の運行再開に合わせ、この駅はあらためて「キット、ずっとカンパネルラ田野畑駅」と名づけられて、駅舎に「サクラアート」の装飾がほどこされました(「三陸鉄道 キット、ずっとプロジェクト」参照)。

キット、ずっとカンパネルラ田野畑

 以前に訪れた時は、古風に落ちついた駅舎だったのですが、こんなに可愛く華やかになっています。ところどころ、花びらが薄くなっているところには、facebook で世界中から寄せられたという‘応援メッセージ’が書き込まれています。

キット、ずっとカンパネルラ田野畑駅

 「キット、ずっと」という名称は、この企画のスポンサーが KitKat® だからですが、「銀河鉄道の夜」でジョバンニがカムパネルラに向かって、「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう」と呼びかけ、しかし二人が結局死別したことを思うと、何か切ないような気持ちにもなります。

 詩碑は、この駅舎の向かって左側に建てられています。

「発動機船 三」詩碑

 アートではない本物の桜も、ちょうど咲いていました。こちらの碑の上辺には、発動機船をかたどったブロンズ像も健在です。

 「敗れし少年の歌へる」詩碑

 1925年(大正14年)の三陸旅行中の作品に「暁穹への嫉妬」がありますが、これを晩年に文語詩化したのが、「敗れし少年の歌へる」です。夜明けの海岸を歩きながら、薄明の空に惑星(土星)が消えていく様子を眺め、まるでその星に対して恋心のような気持ちを覚えるところから、賢治の中ではほのかな「嫉妬」にもなったようです。文語詩「敗れし少年の歌へる」となると、「敗れし少年」ですから、今度はこれは失恋の歌という設定になるのでしょうか。

 賢治が発動機船に乗船したのは、田野畑村の羅賀港だったという説がこれまでは有力でしたが、2000年に木村東吉氏が『宮澤賢治≪春と修羅 第二集≫研究』において、「地理及び船便の状況からして安家、堀内、大田名部のいずれかから乗った可能性が高い」との見解を発表してから、堀内・太田名部両港の地元の普代村では、この問題について関心が高まりました。
 そして、普代村在住の郷土史家・金子功氏は、当時このあたりで就航していた船の状況を調査した結果、賢治は普代村の堀内港から、「濱善丸」という船に乗って南へ向かったという説を出したのです。そのような盛り上がりもあって、2004年10月に堀内港に、「敗れし少年の歌へる」詩碑が建てられました。

 私は、2005年1月にこの詩碑を訪ねた際に、上記の金子さん直々に碑まで案内していただく光栄に浴しました。そしてその夜は、賢治が泊まったと言われている「小野旅館」に泊まり、地元の合唱団の森田さんたちとおしゃべりをしていたのですが、そのうちに話が大きくなって、この詩に曲を付けることになってしまったのです。結局それが、女声二部合唱曲「敗れし少年の歌へる」の誕生につながったという経過がありました。

 今回5月3日に、また金子さんと森田さんはご親切にも私を出迎えて下さって、雨の中でしたが一緒に海辺の詩碑まで行くことができました。

「敗れし少年の歌へる」詩碑

 碑面に写りこんでいる傘は、お二人のものですね。幸いにして、この詩碑にも津波の被害はありませんでしたが、「まついそ公園」として整備されていた碑の周辺の建物は、すべて流失していました。

まついそ公園

 碑の背面に記された、「賢治 濱善丸で南へ」という文字も鮮やかに残っています。金子さんの説では、ちょうどこの場所から賢治は発動機船に乗って、沖へ出て行ったということです。

くろさきワイン その夜は、普代村の北山崎海岸にある村営の「くろさき荘」という国民宿舎で、森田さんや「てぼかい合唱団」の皆さん6名と一緒に、夕食をとりました。冒頭の地図では普代駅の東方、「黒崎」という海岸にあります。
 ここでは三陸の海の幸とともに、普代村産の山ぶどうで作った「くろさきワイン」をいただきました。アルコール度数はやや低めですが、濃厚でジューシーな味わいで、女性の方に飲みやすいとの評判です。
 さて、この時に聞いたお話では、普代村の「てぼかい合唱団」は、今年の9月2日(日)に花巻市文化会館で行われる「賢治の里 花巻でうたう賢治の歌全国大会2012」に出演する予定だそうで、この際に「敗れし少年の歌へる」を歌っていただけるということでした。
 となると、その日は日曜なので、私もぜひ聴きにうかがいたいと申し上げたのですが、そのうちにまた2005年1月のように、見る見る話が大きくなってしまって・・・(笑)。

 外は大雨でしたが、「くろさき荘」の食堂は、遅くまで明るくにぎやかでした。そしてこの夜の宴は、久しぶりにみんな一緒に、「敗れし少年の歌へる」を合唱して終わったのです。

◇          ◇

 以上、昨年の11月と今年の5月に、三陸沿岸において見てきた賢治詩碑のレポートは、ひとまずこれで終わりです。各地に突然に押しかけたりしてしまいましたが、お世話になった皆様には、心より御礼申し上げます。

 ところで、賢治の童話「ポラーノの広場」には、レオーノキューストがイーハトーヴォ海岸地方(すなわち、三陸海岸地方!)に出張するところがあります。

 その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり、古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったり、そしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら、二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのやうな下給の官吏でも大へん珍らしがって、どこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡らうとすると、みんなは船に赤や黄の旗を立てて十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞりをたいて、いろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでいゝと思ひました。けれどもファゼーロ、あの暑い野原のまんなかでいまも毎日はたらいてゐるうつくしいロザーロ、そう考えて見るといまわたくしの眼のまへで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを、踊ったりうたったりしてゐる娘たちや若者たち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなのために、とひとりでこころに誓いました。

 賢治が、ふと「もうこれで死んでもいい」と感じるほど、海岸地方の自然や人々には、心を打たれたことがあったのでしょう。また、このような身に余るような歓待の体験は、三陸において私も何度か覚えがあります。

 そして、私も三陸の人々や自然のことを思い出すたびに、「さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ」と、自分も小さくこころに誓う気持ちになるのです。

【関連記事】
三陸の賢治詩碑の現況(1)
三陸の賢治詩碑の現況(2)
三陸の賢治詩碑の現況(3)

「敗れし少年の歌へる」一部英語版

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 84年前の今頃に、賢治は三陸海岸を一人で旅していたのです。

 今日はちょっと遊びで、「敗れし少年の歌へる」の第一節を英語に訳して、歌のファイルを作ってみました。歌声は、VOCALOID 第一世代の、'Miriam'です。
 英訳の出来はお恥ずかしいもので、とても「詩」にはなっていませんが、それでも歌の旋律に英語をあてはめるのには、苦労しました。単語のアクセントの箇所とメロディーの強拍を一致させること、などです。
 訳にあたっては、この文語詩の口語詩前駆形である「暁穹への嫉妬」の、Roger Pulvers さんによる英訳 'Jealous of the Dawn'("STRONG IN THE RAIN" Bloodaxe Books Ltd.,2007所収)を、一部参考にさせていただきました。

   敗れし少年の歌へる

ひかりわななくあけぞらに
清麗サフィアのさまなして
きみにたぐへるかの惑星(ほし)の
いま融け行くぞかなしけれ

  Song of a broken-hearted boy

In the blush of dawning sky, even morning light shivers
There's a planet which sparkles and gleams, just like pure
 sapphire
It's wink reminds me of you truly, I miss you, my planet !
Now it's melting in the sky, leaving my loneliness

「敗れし少年の歌へる(一部英語版)」(MP3: 856kB)

【語注】

  • blush: 顔の赤み、(バラなどの)赤み。ここでは暁空の赤みの比喩。
  • shiver: (寒さなどで)身体が震える。
  • sparkle, gleam, wink: いずれも、光がきらめく、またたく、の意。
    文語詩にはこれらの表現はないが、前の2つの語は、Roger Pulvers 訳「暁穹への嫉妬」において、'The pure fine sapphire-like planet / Sparkling, gleaming with noble light' とあることから、謹んでここに使わせていただいた。
    そもそもこのテキストを訳す際には、「惑星」と「きみ」を、英語において如何に「たぐへる」か、ということが問題であったが、前駆口語詩「暁穹への嫉妬」においては、惑星が作者に「青い合図(wink)」を投げるという表現があることから、ここでは星の「またたき」が、「きみ」の wink を想起させる、としてみた。

三陸の夜明け
三陸海岸の夜明け

“文学少女”と慟哭の巡礼者

 「ライトノベル」と呼ばれる文芸ジャンルがあって、「Wikipedia」上の一つの定義によれば、「表紙や挿絵にアニメ調のイラストを多用している若年層向けの小説」ということになるのだそうです。
 云わば、現代の大衆消費社会における、「少年少女期の終り頃から、アドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式」なのかもしれません。

 そのようなライトノベルの一つ、野村美月著『“文学少女”と慟哭の巡礼者(パルミエーレ)』という作品は、同著者による「“文学少女”シリーズ」の第5作目にあたりますが、この巻では宮沢賢治の作品がテーマとなっています。

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 野村 美月 竹岡 美穂

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 作中で名前が出てくる賢治の作品は、「銀河鉄道の夜」、「注文の多い料理店」、「風の又三郎」、「セロ弾きのゴーシュ」、「グスコーブドリの伝記」、『春と修羅』、「マリヴロンと少女」、「貝の火」、「ツェねずみ」、「双子の星」、「黄いろのトマト」、「敗れし少年の歌へる」、「暁穹への嫉妬」、「種山ヶ原」、「永訣の朝」、「松の針」、「無声慟哭」、「〔雨ニモマケズ〕」、等々。

 そして、作者による「あとがき」は、次のように始まります。

 こんにちは、野村美月です。
 “文学少女”シリーズ五話目は、予告通り美羽のお話でした。ネタ本は、シリーズ開始時から決めていた宮沢賢治『銀河鉄道の夜』です。再読のたびに新たな感動をくれる名作中の名作です! ジョバンニ視点も切ないですが、遠子が語っていたように、カムパネルラ視点で物語を追ってゆくと、たまらなく胸がしめつけられます。本当にいろんな楽しみ方ができる本なので、既読の方も、この機にぜひ読み返してみて下さい。
 賢治は、詩も良いですよね~。作中引用した『敗れし少年の歌へる』は曲をつけてらっしゃる方がいて、ネットで拝聴したのですが、希望を感じさせる澄んだ歌声にボロ泣きしてしまいました。ラストシーンの執筆中も、ずっと頭の中で曲が流れていました。そういうわけで、最後美羽は、歌っています。(後略)

 「ネットで拝聴」ってひょっとして、これは当サイトで公開している歌曲版「敗れし少年の歌へる」のことですよね……。
 思わぬところで、作中のキャラクターが私の付けたメロディーを歌ってくれていたとは、嬉しい驚きでした。

 野村美月さま、もしもこれをご覧になっていらっしゃったら、「あとがき」で触れていただいて、ありがとうございました。

 普代村の方からご連絡があり、こんど11月4日(日)に、“日報130コンサート「ふるさと」”の一環として、普代社会体育館で「てぼかい合唱団」などのコンサートが行われるとのお知らせをいただきました。(「岩手日報」の社告参照。)
 “日報130コンサート「ふるさと」”というのは、「岩手日報」の創刊130周年を記念して、岩手県内の各地で昨年から地元の人々を中心としたコンサートを行っている企画で、今年はこの普代村で7ヵ所めだそうです。

 普代村は、三陸海岸北部にある「北緯40度の村」で、2004年には賢治の三陸旅行にちなんで、「敗れし少年の歌」詩碑が建立されました。地元のPTAを中心に1984年に発足した「てぼかい合唱団」は、今度のコンサートにおいて、「ポラーノの広場のうた」など賢治歌曲の披露や「ツェねずみ」の劇などとともに、ありがたいことに再び、あの「敗れし少年の歌へる」も、歌っていただけるのだそうです。
 せっかく連絡をいただいたのに、当日は聴きにうかがえないのが残念です。ご盛会をお祈りしています。


盛岡高等農林学校植物園にて(1916年5月) ところで、週末の山梨行きを前に、賢治と嘉内がその別れまでにかわした書簡などを読んだりしていたのですが、いかにこの「別れ」が後の賢治に大きな影響を及ぼしたかということを、あらためて痛感します。
 書簡を見るかぎり、少なくともこの「別れ」までの賢治は、自ら「農民のために尽くそう」とか、ましてや自分自身が農民になろうなどとは、夢にも思っていなかったのは明らかです。

 嘉内が自分と袂を分かたざるをえなかった理由である、まさにその彼の理想を、別れた後の賢治は独りでかみしめ、自らの身に刻み、結局は力尽きるまで歩んでいったわけです。

 「歌曲の部屋 ~後世作曲家篇~」に、「敗れし少年の歌へる」を追加しました。もちろん当サイト管理人は作曲家ではありませんので、このコーナーに拙作を入れるとはおこがましいかぎりですが、他に収める場所がないので、とりあえずここに置いておきます。内容としては、「敗れし少年の歌へる」の VOCALOID 版や、PDF 形式の楽譜を載せています。
 あと、普代村コンサートに関する岩手日報の記事が Web 上でも公開されていますね。

 ところで、昨夜の遅くに当サイトの総アクセス数が30万を越えたようです。開設からちょうど6年が経ちましたが、このような形のサイトになるとは、当初は想定していませんでした。
 これまでご覧いただいた方々、Web を通して出会った方々に、感謝申し上げます。

普代村へ(3)

 昨夜は、コンサート終了後ひきつづき同じ場所で行われた打ち上げ会で、「コーラスライオット風」と「北声会」の皆さんとともに、歌ったりして楽しい時間を過ごしました。妻と一緒に来ていた私は、会の終わりに花束までいただき、宿まで車で送って下さった金子さんに、「結婚式みたい」と冷やかされました。
 部屋で荷物を下ろしてからも、岩手日報の記者の方から取材の電話があったりしましたが、夜は比較的早く眠ることができました。

国民宿舎「くろさき荘」より 今朝は、窓から幻想的な海の景色を見た後、朝食をとって、あたりをしばらく散歩しました。
 「北緯40度のシンボル塔」や、黒埼灯台、アンモ浦展望台などを見て、チェックアウトをするとまずお隣の野田村にある「マリンローズパーク野田玉川」に向かいます。

 「マリンローズ」というのは、野田玉川鉱山から産出するバラ輝石に対して、鉱山権を取得した地元の会社が名づけた商品名です。
 賢治の時代にはこのような名前はありませんでしたが、「敗れし少年の歌へる」の四連めに「よきロダイトのさまなして・・・」として登場する「ロダイト」とは、このバラ輝石の学名「ロードナイト(Rhodonite)」のことと思われます。文語詩への改作前の「暁穹への嫉妬」においては、「あけがたのそら」が「薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて・・・」と描写されていますし、地質学者賢治としては、この鉱石がこの地区の特産であることを、当然知っていたはずだからです。
 上写真のように今朝の空も薄い赤みを帯びて神秘的で、これをバラ輝石に喩えたくなる賢治の気持ちはよくわかります。
 「マリンローズパーク」では、今回の「敗れし少年の歌へる」の記念にと、小さなバラ輝石の付いた指輪を妻に買い、いろいろと思い出の詰まった三陸を後にしました。

マルカンデパート「ソフトクリーム」 久慈から二戸まではJRバス、二戸から花巻までは新幹線と在来線で戻ってくると、マルカンデパートの6階展望食堂でソフトクリームを食べました。このソフトクリームは、花巻在住の人にとっては名物の一つのようですが、クリームがあまりにも高く盛られているためにそのままかぶりついて食べることは困難で、割り箸で食べていくのが通例になっています。左の写真で、下のコーンの部分はもちろん普通の大きさですが、これとクリーム部分のボリュームを比べてみて下さい。これが「大盛り」でも何でもなくて、140円で「ソフトクリーム」の食券を買えば運ばれてくるのです。
 食べてみると、たんに大きいだけでなくて味もなかなかよく、甘さはやや控えめですので、食後に二人で食べるにはちょうどよい感じでした。

 あと賢治詩碑とイギリス海岸にちょっと立ち寄り、午後7時に花巻空港を飛び立つと、8時半に伊丹に、10時前に京都に着きました。途中、少し「万両」に寄ってから家に帰りました。

普代村へ(2)

 羽田空港から搭乗するのは、朝7時50分発の青森県三沢空港行きの便です。6時に起きて、急いで仕度をして、6時半にホテルを出れば間に合うはず・・・だったのですが、出発ロビーに行ってみると、連休初日とあってあたりはものすごい混雑です。すべての自動チェックイン機や手荷物検査窓口に、長蛇の列ができています。
 まだ列の中にいるうちに、「7時50分の便の方はおられませんか」と呼び出され、別の窓口で手続きをしてもらうと、入場検査のあと搭乗口まではかなりの距離を走り、どうにか間に合いました。

 ところが、こんどは飛行機が定時になっても離陸しないのです。「搭乗可能人数よりも予約人数が多い(?!)」ためだそうで、「次の12時55分の便へ変更していただいた方には、現金1万円かマイレージ7,500を進呈いたします」と機内では何度もアナウンスが流れますが、時間はどんどん経っていきます。
 具体的にどうなったのかはわかりませんが、けっきょく離陸予定時刻から30分も過ぎた頃、「予約された方全員がお乗りになりました」とアナウンスがあり、飛行機が動き始めたのは40分遅れでした。
 この時点で、三沢空港から乗り継ぐ予定にしていたJR八戸線の列車には、間に合わないことがはっきりしてしまいました。

 機内では、今日のコンサートには大幅に遅刻してしまうことも覚悟していましたが、無事に着陸もしてくれましたので、まだ一応あきらめずにチャレンジはしてみることにしました。三沢空港からタクシーに乗り、途中で当初の計画に追いつくことができないか、行けるところまで行ってみます。
 国道45号線を走り、タクシーが八戸に着いたのも、やはり乗り継ぐ予定の列車が発車した後でした。しかし、差はかなり縮まっています。そしてその後の運転手さんのおかげもあって、なんとか久慈駅に12時前に着くことができ、ここを12時14分発という三陸鉄道の予定列車に、どうにか乗り込むことができたのです。
 これで当初の計画どおり、私たちは12時55分に普代駅に降り立つことができました。

 1月に来た時には二戸から久慈までバスに乗りましたが、今回八戸から海岸沿いに南下してきたところは、80年前の賢治のルートと共通です。賢治は花巻を夜に発ち、八戸線で種市に朝6時5分に到着すると、ここから徒歩で下安家まで南下したとも言われていますが、木村東吉氏は、当時八戸から久慈まで運行していた「乗合自動車」に、途中から便乗した可能性も指摘しています(『宮澤賢治≪春と修羅 第二集≫研究』)。当時の乗合自動車の八戸から久慈までの所要時間は3時間30分だったということですが、今日のタクシーでは約1時間でした。

自然休養村管理センター入口 コンサート会場の「自然休養村管理センター」に着くと、1月の詩碑見学の際にお世話になった金子功さんが声をかけて下さいました。館内では合唱団がまだ最後のリハーサル中でしたが、代表の森田さんや事務局の金子さんも出てこられてご挨拶をかわし、こちらは三脚を立ててビデオカメラや録音のセッティングです。
 2時を少しまわった頃、増田岩手県知事夫妻も到着されて、コンサートが開演しました。

 今日、第17回の定期演奏会を迎える「コーラスライオット風」は、北三陸の3つの村にある、「コール・わさらび」(野田村)、「てぼかい合唱団」(普代村)、「しゃくなげ合唱団」(田野畑村)という3つの地元合唱団が、ことあるごとに合体して結成する合唱集団です。「ライオット(riot)」とは、英語で「一揆」のことで、江戸時代末期にこの地を中心に起こされた「三閉伊一揆」にちなんでいます。(三閉伊一揆については、田野畑村の公式サイトに絵入りの解説ページが、「歴史と人」というサイトに社会背景に注目した分析があります。)
 「コーラスライオット」=「合唱一揆」とは不思議な名前ですが、きっとこの命名には、「日本近世史上で唯一、勝利の証文を勝ち取った」と言われる三閉伊一揆に表れた民衆の力への深い共感、あるいは地方の文化に新たな「風」を吹き込みたいという団員の熱意が込められているのだろうと思います。私がお会いした合唱団のメンバーは、みんな「田舎の合唱団です」と謙遜しながらも、活動にかける思いの強さに関しては感動的でした。

 コンサートの構成は、まず「ステージ I 」で「コーラスライオット風」が秋にちなんだ3曲、それから「ステージ II 」では、盛岡から賛助出演の混声合唱団「北声会」による黒人霊歌、そして「ステージ III 」でふたたび「コーラスライオット風」による童謡3曲と「敗れし少年の歌へる」の披露、最後にエンディングで「コーラスライオット風」と「北声会」の合同合唱、というものです。
 会場は3つの村から詰めかけた人々で満員で、歌の合間には村長さんや知事の挨拶も入ります。知事のお言葉によると、この普代あたりの地区は、広い岩手県の中でも、盛岡からやって来るのにおそらく最も長時間を要する場所だということで、その昔「陸の孤島」と呼ばれたことも、あながち比喩ではありません。しかし、知事が公務の合間を縫って夫妻でコンサートに顔を出し、地元の人々と気軽におしゃべりをしている姿には、都会にはないような人々のつながりを感じました。

 さて、「敗れし少年の歌へる」のコーナーでは、金子さんから詩碑建立1周年にあたってのご挨拶の後、私にまで挨拶のマイクがまわってきました。今年の1月に普代にやってきた時の、金子さんや森田さんとの予想もしない「出会い」について、話をさせていただきました。
 私のような音楽の素人が、賢治の詩に曲を付けるなど誠に分不相応でおそれ多いことですが、賢治自身も音楽の才能や技術はともかく、自ら一人のアマチュア音楽家として歌曲を作ったりして楽しんでいたこと、落ちこぼれ音楽家のゴーシュが、やはり不思議な「出会い」を通して最後は音楽的達成をなしとげることなど、ちょっと弁解じみた話も付け加えました。

 挨拶が終わると、団員による詩の朗読に続いてピアノの前奏が始まり、ついに「敗れし少年の歌へる」が歌われました。その時になったらどんな気持ちがするだろうと、これまであれこれと考えていましたが、ゆったりとしたテンポで、しっかりと感情をこめて、合唱団の皆さんは歌って下さいました。
 終わったら拍手の中で、お辞儀をする指揮者や団員の方々とともに、私も立ってお辞儀をしていました。

コーラスライオット風

 文語詩「敗れし少年の歌へる」に曲を付けるにあたって迷ったことの一つは、三連めに出てくる「夜はあやしき積雲の/なかより生れてかの星ぞ」という部分で、「生れて」は「うまれて」と読むのか、「あれて」と読むのか、ということでした。

小沢俊郎『薄明穹を行く』より 当初私は、とりたてて考えることもなく「うまれて」と読んでいたのですが、小沢俊郎著『薄明穹を行く 賢治詩私読』(學藝書林,1976)のなかで、小沢氏が意識的に「あれて」とルビを振っておられるのを見て(右写真)、はたとその可能性に目を開かれました。
 現代の送り仮名の基準では、「うまれ」は「生まれ」と表記することになっていますが、賢治は「うまれ」と読ませる場合にも常に「生れ」と書いていますので(ex.「億の巨匠が並んで生れ」、「そしてその二月あの子はあすこで生れました」・・・)、送り仮名からこの二つのどちらの読ませ方を意図したのか、区別することはできません。

 そこで、意味としてはどちらの読み方が適切なのかということを考えるために、大野晋他編『岩波古語辞典』を参照すると、それぞれ次のように書かれていました。

あ・れ【生れ】《下二》 神や人が形をなして(忽然と)出現して、存在する。
うま・れ【生れ】《下二》 (1)誕生する。(2)鳥が卵からかえる。

 この語義を見ると、「星が雲の中から現れて・・・」という状況の描写としては、やはり小沢さんの読みのとおり、「あれて」の方がぴったりときます。
 また、音数的にも、「ナカヨリアレテ・カノホシゾ」で「七・五」となりますから、こちらの方が語調もよいですね。

 ということで、けっきょく歌の歌詞としては、「♪なかより、あれて~」として曲を付けることにしました、というご報告です。

 去る9月14日の夜には、阪神タイガースのマジックナンバー点灯という喜びとともに、私にとって個人的にとても嬉しく光栄な知らせがありました。
 岩手県普代村の合唱団の代表の方から電話があって、賢治の「敗れし少年の歌へる」という詩に私が曲を付けた合唱曲を、こんどの10月8日のコンサートで歌っていただけることになったというのです!

 この間のいきさつについて、ご説明いたします。
「敗れし少年の歌へる」詩碑 今年の1月8日~10日、私は「80年目の異途への出発」と称して、賢治が1925年1月に旅した三陸の足跡をたどる旅をしました。これには、昨年10月に普代村に建てられた、「敗れし少年の歌へる」詩碑(右写真)を見学するという目的もありました。
 この旅行の時、花巻の阿部弥之さんや普代村の金子功さんの様々なお世話もあって、私は1月9日の晩に、賢治も泊まったと推測されている下安家の「小野旅館」において、普代村合唱団の3人のメンバーとお会いしていろいろとお話をする機会が持てたのです。
 お茶を飲みながら1時間あまりも話すうちに、いろいろと「奇遇」も明らかになりましたが、その中で、「村にできた詩碑に歌も付いていたら・・・」と合唱団の方が願いを述べられるうち、何を勘違いされたかこの私に対して、「作曲もできるでしょう」と言って、この詩に曲を付けることを依頼されてしまったのです。
 私は、「もしも公募されるなら、私も一つ応募させていただきます」などと言ってごまかそうとしましたが、許してもらえませんでした。

 一晩寝て、室内の冷気で翌朝の5時頃に目が覚めると、やはり「敗れし少年の歌へる」の曲のことが気になって、寝床の中で詩を思い出しながら、いくつかメロディーを口ずさんでみました。
 そのうちに部屋が薄明るくなってきたので、鞄の中にあった紙切れの裏にいびつな五線を引いて、曲の案を3つほど書きとめました。

 そして京都に帰ってから、書きとめたメモのうちの一つを女声2部合唱にしてピアノ伴奏を付け、VOCALOID の歌声で演奏ファイルを作成し、CD-R に入れて楽譜とともに普代村にお送りしたのが、1月の下旬のことです。
 それ以降一通りの文通の後、とくに音沙汰がなかったので私も忘れていた頃、はるばる普代村から今回の電話が鳴ったのでした。
 10月8日のコンサートは、詩碑が完成して1周年という記念の意味もこめられているようで、さらにモリーオ市からは岩手県知事も来聴されるとのことでした。

 こういったいきさつで、合唱団の方は「遠いので無理をしないで」と言ってくださったのですが、自分の曲を合唱団に歌っていただけるという機会など一生のうちにもう来ないでしょうから、私としては何とかして当日はビデオカメラを持って、普代村へ行ってみるつもりです。
 この曲の VOCALOID による演奏ファイルは、上述のようにすでに私の手元にはあるのですが、こんどの「本邦初演」を待ってから、ここで公開させていただきます。

80年目の「異途への出発」(3)

 朝5時前に目が覚めると、まだ真っ暗な部屋の中は、しんしんと冷え込んでいます。 昨夜ふとんに入るまではファンヒーターをつけていたので暖かかったのですが、切ってしまうとまるで室内も氷点下になっているような感じです。 もう一度ヒーターを入れて、結局そのまま起きていました。賢治も「寒キ宿」と書いていますが、きっと当時はもっと寒かったのでしょうね。

 7時すぎまで待って、あたりの散歩に出てみました。 はるか北に長く延びている三崎のあたりには朝日が当たって朱色に染まってきていますが、下安家の周辺はまだ日陰です。 安家川の河口に架かっている安家大橋を北にゆっくり渡っていると、南側の岬の向こうから、日が顔をのぞかせました(右写真)。 まさに、「百の岬がいま明ける・ ・・」 という瞬間です。
 このあと、安家川の北岸を少しさかのぼって、この地における賢治の宿の「金子説」として、 昨夜お聞きした家の方へも再度行ってみました。 金子さんとしては、「文語詩篇ノート」に、「安家寒キ宿ノ娘、豚ト、帳簿ニテ/ 濁ミ声ニテ罵レル」と出てくる箇所に関して、 小野旅館の前身にあたる小さな宿では、 豚など飼っていなかっただろうということからの推測のようです。ただ、 この箇所が意味するのは、「豚に向かって罵った」のか、 「(誰か人間に向かって)豚!と罵った」のか、いったいどっちなのか、 私にはよくわかりません。
 それからもう一度川下に歩き、河口のあたり、むかし小野旅館が建っていた場所(賢治が泊まったのならその当時の位置)というのも見て、 旅館に戻って朝食をいただきました。

 8時半ごろに宿を発つと、徒歩で野田村と普代村の境の小さな坂道を越え、堀内の港へ下りていきました。そして漁港のかたわらにある 「敗れし少年の歌へる」詩碑を、今度は明るい中で見ることができました。これを写真に収めると、港から坂道を登り、途中で小学生に 「おはようございます!」と声をかけられたりして、堀内駅から三陸リアス鉄道に乗りました(下写真)。

  しかし今日は、昨日とうってかわっていい天気です。列車は南へ、3つの「発動機船」詩碑がある田野畑、島越を過ぎ、 美しい船越海岸も過ぎて、昼すぎに釜石に着きました。ここから釜石線に乗り換えて、花巻に向かうというルートそのものは、 80年前の賢治と同じです。
 太平洋側では、上写真のようにきれいな青空で、山々に残る雪も少なかったのですが、 仙人峠を越え、 だんだん遠野盆地に入っていくと、列車の窓も曇り、またあたり一面の銀世界になりました(右写真)。

 花巻には3時前に着き、急いでタクシーでイーハトーブ館に行きました。賢治学会の「企画委員会」 に出ておられた阿部さんにお会いして、 昨日の三陸の報告とともにあらためて今回のお礼をすると、花巻空港に向かいました。

 今日は昼食をとるひまがなかったので、空港で「岩手・蔵ビール」や「早池峰ワイン」で食事のかわりとしましたが、 ふりかえると実質2日間だけだったのに、ほんとうに充実した楽しい旅でした。お世話になった皆様、ありがとうございました。