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『大乗起信論』と賢治

 先月の初めに、「ABC予想」という数学の超難問を、望月新一氏という数学者が解決したというニュースが日本中を駆けめぐりましたが、この件ほどには話題にはならなかったものの、仏教学の分野でこれに相当するのではないかと思われる画期的な業績が、2年半前に一人の日本人研究者によって成し遂げられました。大竹晋氏による、『大乗起信論成立問題の研究: 『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク』が、それです。

 望月新一氏の「宇宙際タイヒミュラー理論」については、残念ながら私はその1文字すら理解することができませんが、こちらの大竹晋氏のお仕事ならば、たとえ門外漢でもその有り難さの一端には触れてみることができるのではないかと思い、この外出自粛の連休中に一念発起して、氏の大部な著書を紐解いてみました。
 そこには、やはり私には読めもしないサンスクリットの文字や漢文の白文もたくさんあったのですが、それでも研究全体の緻密な構成と、静かで穏やかながら確固とした叙述、それによって開かれていく前人未踏の世界に、心からの感銘を受けた次第です。

大乗起信論成立問題の研究:『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク 大乗起信論成立問題の研究: 『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク
大竹晋 (著)

国書刊行会 (2017/11/24)

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随縁真如・心生滅・唯心

 1921年(大正10年)4月の、父政次郎との関西旅行の際に作られた短歌の中に、「随縁真如」という見出しが付けられた3首があります。

     ※ 随縁真如
784 みまなこをひらけばひらくあめつちにその七舌しちぜつのかぎを得たまふ。
     ※ 同
785 さながらにきざむこゝろの峯々にいま咲きわたる厚朴の花かも
786 暮れそめぬふりさけみればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり。

 父とともに比叡山に登って延暦寺に参拝した際の作品で、この前には「※ 根本中堂」「※ 大講堂」という見出しが付けられた作が並んでいますから、 時間的には根本中堂や大講堂に参った後のものかと思われます。

宮沢賢治作品の幻想性の由来

 先週12月8日に、「日本イメージ心理学会」のシンポジウム「宮沢賢治の持つイメージの世界をどう読み解くか」でお話をさせていただいた際の配付資料を、下記にアップしました。嵩高いタイトルでちょっと気恥ずかしいですが、ご興味がおありの方にお読みいただけましたら幸いです。

「宮沢賢治作品の幻想性の由来――その方法論と体験特性」(配付資料)

 ところで今回の発表では、賢治のモチーフをあしらった縦書きのパワーポイントテンプレートを作成して、初めて使ってみました。作品テキストを引用する際には、「月夜のでんしんばしら」やはり縦書きの方がしっくり来るので、従来は横書きと縦書きが混在するスライドになっていたのですが、これで全体が縦書きで統一できました。
 タイトル行の区切り線の上端には、賢治が描いた「月夜のでんしんばしら」を入れています。

「心象」の意味

 12月8日に埼玉の文教大学で開催される、「第20回日本イメージ心理学会」の公開シンポジウム「宮澤賢治の持つイメージの世界をどう読み解くか」において、鈴木健司さん、大島丈志さん、栗原敦さんとご一緒に話をすることになったので、最近はその準備を少しずつしています。
 今回はそれに関連して、賢治の「心象」と「イメージ」について。

 宮澤賢治が「心象」という語を作品に記した最初は、「〔冬のスケッチ〕」の中のいくつかの断章においてかと思われます。

暁烏敏『わが歎異鈔』から

 真宗大谷派の僧、暁烏敏(あけがらす・はや)は、明治から昭和にかけて浄土真宗宗門の改革に活躍し、また『歎異鈔』研究でも知られる宗教家ですが、宮澤政次郎氏との交流が深く、一時はしばしば花巻を訪れていました。

 その交流は、1906年(明治39年)7月に暁烏敏が花巻を訪れ、政次郎氏らに出迎えられたことに始まります。彼はまず7月14日~18日に、宮澤家からもほど近い光徳寺において『歎異鈔』を中心とした講話を行い、連日「百余」の来会者を集めたということです。
 さらに8月1日から10日までは、大沢温泉における「夏期仏教講習会」の講師として講話をするとともに、その合間には宮澤家一族の子どもたちと一緒に、「小児となりて遊ぶ」(『暁烏敏日記』より)ひとときも持ったのです。そこにはもちろん、当時9歳の少年賢治もいました。
 この後、賢治在世中に暁烏が花巻を訪れた記録は9回もあり(1909年10月、1913年5月、1917年5月、1920年7月、1924年7月、1926年7月、1927年9月、1930年7月、1932年9月)、その多くは宮澤家に宿泊したということです。(上記資料は主に、栗原敦著『宮沢賢治 透明な軌道の上から』による。)

 このような交流の深さと、幼い頃からの賢治の宗教性を考えると、なかでも16歳の頃の父あて書簡[6]で「歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」とまで書いた賢治の信仰を思うと、身近に接した暁烏敏の宗教的な言葉が、賢治に何らかの影響を与えていた可能性は、否定できないでしょう。
 ちなみに、盛岡高等農林学校在学中の1918年に『アザリア』に発表した「復活の前」と題された断章にも、「暁烏さんが云ひました」という一節がありました。


 そのような暁烏敏の著書『わが歎異鈔』の中に、次にような文章を見つけて、私はちょっと興味を引かれました。これは、『歎異鈔』における親鸞の「地獄は一定すみかぞかし」という言葉について、説明しているところです。

 地獄といえば、鬼の世界です。鬼にせめられる罪人は、やがて鬼なんだ。罪人であり鬼である。鬼は、罪人である自分の胸から出たものです。鬼は、ほかにあるのではなしに、罪人の胸から現れたものです。自分が地獄におるということは、自分が鬼をこしらえておるのです。その自覚です。自分が鬼をこしらえておるんだということがはっきり味わわれるときに、たすかります。(中略) 「地獄は一定すみかぞかし」と、すなおに自分の目星のわかった人は、鬼はわしが作っておるんだ、この邪見驕慢の心から地獄がうまれておるんだ。これによって自ら苦しんでおるんじゃ、とほんとうに自分のあさましさが自覚できるのです(『わが歎異鈔(上)』p.162-163,強調は引用者)。

 つまりここで暁烏敏は、「鬼」とか「地獄」というのは、自分の心がつくりあげた仮象である、ということを言っているわけですが、思えば賢治も、これと似たような物の言い方をよくします。

 例えば、1918年の工藤又治あて書簡[54]では、土性調査の山歩きの状況について、次にように書いています。

猿ノ足痕ヤ熊ノ足痕ニモ度々御目ニカカリマス。実ハ私モピストルガホシイトモ思ヒマシタ。ケレドモ熊トテモ私ガ創ッタノデスカラソンナニ意地悪ク骨マデ喰フ様ナコトハシマスマイ。(強調は引用者)

 すなわち賢治はここで、「鬼」のかわりに「熊」のことを、「私ガ創ッタ」と言っているのです。
 また、『アザリア』第六号(1918年)に発表された「〔峯や谷は〕」という断章では、険しい峯や谷を描写した後、

この峯や谷は実にわたしが刻んだのです。そのけはしい処にはわが獣のかなしみが凝って出来た雲が流れその谷底には茨や様々の灌木が暗くも被さりました。

と述べて、風景として見える「峯」や「谷」も、「わたしが刻んだ」と言います。
 あるいは、1918年の父親あて書簡[46]では、

戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均しき一心の現象に御座候

と書いたり、同年の保阪嘉内あて書簡[49]では、

退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか 保阪嘉内もシベリヤもみんな自分ではないか

と書いています。
 戦争や戦死やシベリヤが出てくるのは、徴兵検査を受けるかどうかについて、この頃賢治と父親が対立していたためで、嘉内あて書簡に出てくる「退学」は、その直前に嘉内が盛岡高等農林学校を退学処分になったことを指します。退学になった親友を慰めるつもりで書き始めたはずの手紙なのですが、引用部分に至ってはあまりに極端な考えに走り、嘉内にとっては慰めにも何もなっていないのではないかと危惧される、皮肉な箇所です。

 さてこのように、様々な苦難へのスタンスとして、「鬼はわしが作っておるんだ」という風に唯心論的にとらえるというのが、暁烏敏の歎異鈔解釈と、上のような賢治の考え方とに、共通しているところです。
 もちろん、仏教一般の世界観の根本には、「すべての存在は心的仮象にすぎない」という認識がありますから、賢治が上のように書いていることを、すべて暁烏敏からの影響だけに帰することはできないでしょう。しかし、全仏教の中で最も賢治に影響を与えたはずの日蓮を見てみると、実践的で現実主義的な日蓮の世界観においては、「この世が仮象である」ということは、あまり強調されないのです。
 むしろこのような考え方は、現世を否定し、浄土への往生を願う、浄土教的な思想との親和が強く、すでに当時の賢治が傾倒していた日蓮の考えとは、若干の違和があるように、私には感じられるのです。

 すなわちここには、幼少から親しんだ浄土真宗から離れ、法華経および日蓮を「全信仰と」した後の賢治にも、基層として伏在していた考え方が顕れているのではないか、とりわけ、暁烏敏の言葉の影響が顔を出しているのではないかと、私は思うのです。
 そしてこの世界観が、後年の「心象スケッチ」という、彼独自の壮大な企図にもつながっていくことを考えると、それは昔の信仰の残滓などとして片付けられるものではなく、賢治を理解する上で、重要な一側面であるように、私には思われるのです。

1906年8月「第八回仏教講習会(於大沢温泉)
大沢温泉における「夏期仏教講習会(1906年8月)」の一コマ。
後列中央の法衣姿が、暁烏敏。他に並んでいるのは宮澤家親類縁者一同で、後列左から二人目が宮澤政次郎、前列左から二人目が賢治、二列目右端がトシ。

佐藤通雅著『賢治短歌へ』(2)

 先日、「佐藤通雅著『賢治短歌へ』(1)」においてご紹介したように、著者の佐藤氏は賢治の短歌の特異性を、一般の短歌の前提である<一人称詩>としての性格からの「ふみはずし」としてとらえ、「<超一人称>の方向」として、論じておられます。
 しかし、私としてはこの本を読んでいて、「問題の本質は<人称>なのか?」という疑問をいだかざるをえませんでした。

 前回から繰り返しの引用になりますが、たとえば佐藤氏は、

32 黒板は赤き傷受け雲垂れてうすくらき日をすすり泣くなり。

にという作品に対して、

赤い傷に痛みをおぼえたのは、なによりも賢治自身だったはずだ。しかし、ほとんど同時に黒板に感情移入してしまっている。その結果、自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう。作者が主軸となって成立する、一人称としての文学からは、あきらかなふみはずしだ。(p.89)

と述べ、ここにも「一人称としての文学からのふみはずし」を指摘されます。しかし私としては、上の短歌にはたしかに独特なところはあるものの、それでも立派な「一人称文学」ではないかと思うのです。
 最後の「すすり泣くなり」の「なり」は、文法的に言えば、中世以前の「伝聞・推定の「なり」」が近世以降には「詠嘆」の意味に用いられるようになったものだろうと思いますが(間違っていたらすみません)、いずれにしてもこの「なり」という助動詞にこそ、作者賢治の主観的な認識と感情、「ああ、黒板がすすり泣いている!」という思いが込められているはずです。
 「黒板に感情移入」することや、「自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう」ことは、「人称」とはまた別の次元の問題なのではないでしょうか。この作品においても、作者は、作者自身の感じたことを、作者の立場から表現しているわけですから、「一人称としての文学」であることには、何ら変わりはないと私には思えるのです。

通常の「われ」と賢治的「心象」 前回、「「心象」の体験線モデル」において、私は右のような図を書いてみましたが、左端に位置する「e=自極」から体験が出発しているところにおいて、やはり賢治のいうところの「心象」も、一人称的な経験であると、私は考えます。
 賢治の短歌も、後の時代の「心象スケッチ」と同じように、「自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう」という特性があることを明確に示してくれた点において、佐藤氏のこの著書は私の蒙を啓いてくれるものでしたが、しかしその特性の本質は、「人称」にあるのではなくて、「体験様式」にあるのではないかというのが、この点に関する私の感想です。


 まあそれはさておき、読みを先に進めると、佐藤通雅氏の『賢治短歌へ』の後半の4割ほどは、「賢治短歌」がいかにして徐々に「終焉」へと向かっていったかという軌跡をたどり、その運命を内在的に明らかにしていく論考になっています。
 盛岡高等農林学校2年となった賢治は、『アザリア』同人に参加して、意欲的な作品を発表していきます。その「第一号」に発表したのが、「みふゆのひのき」および「ちゃんがちゃがうまこ」連作でしたが、これ以降の賢治は、「青びとのながれ」連作、「アンデルゼン氏白鳥の歌」連作、「北上川」連作など、「連作」形式に力を注ぐようになります。
 この傾向について佐藤氏は、次のように述べておられます。

 連作への傾斜をどうみるかも、大きな問題である。一首ごとの凝縮が短歌表現の基本だから、連作はその生理に反する。しかしつくり手の内部には、一首のわくにはおさまりきれない表現欲求が生じ、その結果として連作をまねきよせる。内部と形式のせめぎあいの結果としての連作とみてもよい。賢治におけるおさまりきれなさは、他分野の表現へ目ざめはじめたことと、同時に生じている。その意味では、連作は過渡的形態でもある。(p.241)

 すなわち、童話や詩という、次の表現形式への移行への前触れが、少なくともここに現れているという指摘です。さらに、あらためて本書の半ばあたりまで戻って振り返ってみると、著者はすでに、次のように述べておられました。

 初めにいわなかったが「大正三年四月」歌稿には、前半と後半の切れ目がある。入院、退院、帰花の日々の懊悩期間を前半とするなら、上級学校への受験許可がおりて平静をとりもどした期間が後半である。歌番号でいえば、192のあたりからだ。いままでの腐肉をひっかくようなおぞましさが、目にみえて後退しているので、それと知ることができる。代わって登場するのが物語性や詩性をおびた連作だ。「ガドルフの百合」や「めくらぶだうと虹」へ転生されていく作品群もある。(p.110)

 というわけで、賢治の内の「物語性や詩性」への志向性は、盛岡高等農林学校入学前、賢治18歳の頃までさかのぼることができるというのが、作品の綿密な分析にもとづいた佐藤氏の指摘でした。
 そして、最初は目立たなかったこの小さな「芽」が、しだいに成長していき、ついには短歌という形式を突き破ってしまうまでに至る過程が、たどられていきます。

 賢治が短歌連作に大胆な構造性を取り入れた意欲作「みふゆのひのき」連作は、佐藤氏の評価によれば「壮大な失敗作」ということですが、その要因に関する佐藤氏の分析は、次のようなものです。

 「ひのきの歌」失敗の因は、かなり根源的である。<われ>を主軸とする短歌形式にたいして、賢治は<われ>を脱色させた物語をつむぎあげようとした。短歌表現としての過重性はそこに結果される。しかし、この期になって、なぜ物語性をもちだすようになったのかといえば、賢治内部が急速にひろがりはじめたからである。

 ここで著者は、「<われ>を主軸とする短歌形式にたいして、賢治は<われ>を脱色させた物語をつむぎあげようとした」という問題を、この記事の冒頭に述べた「<一人称詩>からの「ふみはずし」」の延長線上に考えておられるように思われますが、私自身は、これらは別に分けて考えた方がよいのではないかと感じました。
 著者の言われる「<一人称詩>からの「ふみはずし」」とは、前述のように賢治独自の「体験様式」の特異性として考えるべきと思われるのに対して、「物語性」を追求していこうとするとどうしても「主観性」は後退せざるをえず、客観的な叙述の形式に近づくというのは、賢治に限らず普遍的な現象だろうと思うからです。
 しかしそれにしても、賢治が短歌制作時代後半の一部の作品において、「<われ>を脱色させた物語をつむぎあげようとした」という佐藤氏の指摘は、私にとって個人的にも非常に興味深いものでした。

 というのは、私は少し前に、「賢治詩の変容」というエントリで、「春と修羅 第三集」において出現してくる不思議な作品群を、かりに「無私架空物語的」と呼んで、晩年の文語詩の「人称超越構成的」な作品世界に、潜在的につながっているのではないかということを書いてみました。もしもここで、短歌の時代にも「<われ>を脱色させた物語」を表現しようとした作品群があったとすれば、上記の系譜は、さらに早い時代にまでさかのぼらせることができるかもしれないからです。
 もちろん、それぞれの時期の作品の性格に、かなりのへだたりがあるのも事実ですが。


 以上、途中にいろいろ勝手な私見を差しはさんだりしてしまいましたが、佐藤通雅氏の『賢治短歌へ』は、非常に読みごたえのある、これまで私が知る中で最高の賢治短歌研究書であると思います。賢治のディープな世界に興味をお持ちの方には、ぜひともご一読をお勧めする次第です。

 最後に、本書の結末に置かれた含蓄のある言葉を引用させていただいて、ご紹介を終わります。

 短歌をつくりはじめ、やがて唯一の表現手段としていくとき、賢治はまだ自分の心性には気づいていなかった。無意識のうちに、短歌として表現していただけだ。そこで、外面的には、青年期の短歌制作期をつうじて、定型感覚・韻律感覚を血肉化させていったと映るが、じつはその奥の原始心性への感応と二重になっていた。短歌の韻律感覚を手に入れながら、同時に内なる原始心性をよびさましていく、それが賢治にとっての短歌制作だった。
 歌稿〔B〕をもって、ひとまず賢治短歌は終焉する。しかしこの終焉は、つぎの賢治世界をひらいていくための起点にほかならなかった。

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 佐藤 通雅

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「心象」の体験線モデル

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 先日ご紹介したように、佐藤通雅氏は『賢治短歌へ』において、賢治の短歌がふつうの<一人称詩>から独特の「ふみはずし」をしているという特徴を指摘し、それを眼球で網膜に像が結ばれない状態などに喩えて説明をしておられました。
 この本を読みながら、私はまた別の説明モデルを考えてみました。

 安永浩という精神病理学者がおられて、1970年代から1980年代にかけて、「ファントム空間論」などの独自の理論を発表し、注目されていました。(現在 Web 上では、「O.S.ウォーコップの次世代への寄与――「パターン」、「パターン逆転」、「ファントム空間論」――」というページにおいて、その一端を見ることができます。)
 こ「体験線」の安永浩氏はかつて、「体験線」と呼ぶところの一本の右向きの矢印(図1)を描いて、人間の体験を説明しました。(この図は上の Web ページでも、「図5」として出てきます。)
 図の左端の「e」は、「自極」と呼ばれ、「私は~」という体験の出発点を表します。これは一つの極限概念で、形もなければ広がりもない、幾何学上の「点」のようなものとされます。脳のどこかに定位できるようなものではなく、あくまで「私」の体験出発点としての、理念的な場所です。
 この「e」から右へ矢印が出ていて、これは「自」から「他」へ、「主体」から「対象」へ向かう方向を表しています。おそらくフッサールの現象学における「志向性」という概念はこの矢印に相当し、このことから安永氏は「e」のことを、「現象学的自極」と呼んだりもします。

 一方、右端にある「f」は、「対象極」と呼ばれ、ちょうどカントの言う「物自体」と同じく、「他」なるものの理論的な極限点です。これは、主体にとって直接に体験できるものではなく、その少し左にある「F=対象図式」を通して、はじめて認識が可能となります。私たちは外界を、あくまで視覚・聴覚などの感覚を通じて、各自の神経系が構築した「像」として対象を認識しているわけですが、その「知覚像」が構成される場所が、「F」であるというわけです。
 また、「e」の少し右には、「E」という記号があります。これは「自我図式」と呼ばれ、対象化された実体としての「私」です。人間は、自分自身をも対象としてとらえることができるので、ウィリアム・ジェイムズは、自らを意識する主体としての「われ」=「主我」と、客体として意識される「われ」=「客我」を区別しました。これに従えば、主我が「e」、客我が「E」ということになります。「主我e」と「客我E」
 「図1」の左端の部分を拡大すると、「図2」になり、この矢印は、主体(=e)が「自分自身(と感じるもの)=E」を認識するという事態を表していることになります。

 「図3」は、通通常の「われ」常の場合に一般に「われ」として体験される部分を、赤く囲って示しています。「B」という記号で示しているのは、自らの「身体」です。「体験線」の図で身体は、自我図式 Eよりも外に、すなわち体験線の下流に位置づけられます。「われ」と言う時に、身体を意識して含めている場合とそうでない場合があるかもしれませんので、これは薄いグレーで示してあります。


 さて以上は、安永浩氏が「体験線」というモデルによって述べておられる事柄を、私なりに要約したものでした。
 次に、賢治が短歌の一部や「心象スケッチ」において描いている「心象」なるものを、私がこの模式をもとに表してみたのが、「図4」です。
賢治的「心象」 「自我図式 E」は、異様に拡散し、通常よりもかなり右の方に位置しています。一方、「対象図式 F」は、異様に「われ」に接近し、通常よりもそうとう左に位置しています。結果として、E と F が接近してしまい、結局この両者を一括りにして主体 e が体験するのが、賢治的な意味における「心象」であると言えるのではないでしょうか。
 『賢治短歌へ』において佐藤通雅氏が用いた表現を使えば、「賢治という主体は後退し、対象との同化がはじまり、ついには両者の境界は視界から消え去ってしまう」=「自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう」=「<われ>そのものを他とおなじ位置に解消させる」・・・、このような事態は、「体験線」において模式的には、「E と F の接近」として表すことができるでしょう。
 もちろん、賢治の多くの作品においても、「自」と「他」がまったく同一化しているわけではなく、上の図のように E と F は一応の距離は保っています。しかし、たとえば短歌で言えば、

299 星群の微光に立ちて
    甲斐なさを
    なげくはわれとタンクのやぐら。

のように、「われ」と「タンクのやぐら」の感情が並列されたり、口語詩で言えば、

そら、ね、ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈のかたちのちいさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ

というふうに「わたしのかんがへ」が林に溶け込んだり(「林と思想」)、通常なら自分の内的現象と感じられる事柄と、外的な事柄が接近して、相互の境界があいまいになっているのです。
 さらに、

雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

という「種山ヶ原(下書稿(一)」に至っては、E と F はほとんど一体となって溶け合っているとも思えます。
 すなわち、E と F の相対的な位置は、賢治においてもさまざまに揺れ動いているようなのです。

 最幻聴のモデル後に、賢治の作品にしばしば現れる「幻聴」というものについても、このモデルをもとにして考えてみることができます。
 「図5」がそれですが、この図で自我図式 E のすぐ右にある  という記号は、主体の心の中における無意識的な考えや言葉を表しているとします。これは、図において青い実線により E と一緒に囲まれているごとく、本来ならば自我図式のもとにあるはずのものです。しかし、賢治的「心象」においては、対象図式 F がすぐ近くまで来ているために、青い点線のように、対象図式に組み込まれて知覚されてしまう可能性が出てきてしまうのです。
 そうなると、この「考え」や「言葉」は、自分の中からではなくて外部の対象から由来しているように感じられてしまうことになり、すなわち、「幻聴」として体験されるというわけです。

心象と心相

 今朝起きると、京都の街も雪化粧をしていました。ニュースでは、岩手県の大船渡で最大瞬間風速29mを観測したと報じられ、 気象庁は「大雪と暴風雪に関する全般気象情報」なるものも出していますが、皆さまのところは大丈夫でしょうか。

 一昨日引用した 「心相」 という文語詩に出てきた、「こころの師とはならんとも、こころを師とはなさざれ」という「いましめ」は、たとえば日蓮の「御書」の中に、 「相構へ相構へて、心の師とはなるとも心を師とすべからず、と仏は記し給ひしなり。」(「義浄房御書」)、あるいは、 「涅槃経に云く「願て心の師と作て、心を師とせざれ」云云。」(「蓮盛抄」) として出てくるものです。また、鴨長明による『発心集』の序文も、「仏の教へ給へる事あり、「心の師とは成るとも、心を師とする事なかれ」 と。」との言葉で始まります。これは、鎌倉時代にはけっこう人口に膾炙していた言葉だったのかもしれません。
 いずれにしても、最初の出典は、「大般涅槃経」というお経のようです。

 「心を師とする」とは、「自分の考えを正しいものとして、他の教えを省みない」(『角川漢和中辞典』)とのことで、 そうならないように気をつけ、自分の「心」をコントロールしなさい、というのがこの「いましめ」の意味なのでしょう。
 賢治は、しばしば書簡の中で自らを厳しく反省する言葉を述べています。「私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、 歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見てもらいたいと、愚かにも考へたのです」 (森佐一あて書簡200)とか、「私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」 といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します」(柳原昌悦あて書簡488)と記しているあたりは、賢治が自ら「心を師としていた」 と悔悟するところだったのかもしれません。

 いろいろな思いはあったのでしょうが、その若き日には、「たよりなきこそこゝろなれ」とは百も承知した上で、 それが世界を映して万華鏡のように千変万化する様子を、おのれの全存在を賭けて「スケッチ」しようとしていたことを思えば、 この文語詩に見られるような晩年の観照からは、一抹のさびしさも感じてしまいます。

 しかし、あらためて上記の書簡など読んでみると、賢治は決して自分の過去を本心から否定しているわけではないという感じもします。 悔恨の言葉を述べながらも、それでもどこか自信を持って、俺は何かをしっかりとつかんでいる、という思いが伝わってくるのです。

「或る心理学的な仕事」

 また昨日に続き、『宗教的経験の諸相』の話です。

 賢治が1925年2月に森佐一あてに出した手紙(書簡200)に、次のような一節があります。

・・・前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。・・・

 これは、賢治が自らの「心象スケッチ」についてどう考えていたかということを示す、貴重なコメントです。通常なら「口語詩」として分類されるはずのテキストについて、作者は「詩ではありません」と主張しますが、それならその目的であると彼の言う「或る心理学的な仕事」とは、いったい何なのでしょうか。
 また、岩波茂雄あての手紙(書簡214a)では、「わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました・・・」と述べていますが、この「あとで勉強」というのも、上で言う「或る心理学的な仕事」に対応しているに違いありません。
 賢治は、「心象スケッチ」という未曾有の作業を通して、はたしてどんな「仕事」を企画しようとしていたのでしょうか。

 じつは私は最近、ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』という本を読んで、その「心理学的な仕事」とは、まさに賢治がこの著作をモデルにして構想したものだったのではないかと思うようになりました。

 ジェイムズはこの自著について、「私は『宗教的経験の諸相』を、ある意味で、病的心理学 morbid psychology の研究だと見なしている」と述べています。
 これは、古今東西の有名・無名の陳述者が書き残した様々な宗教的な異常体験を克明に収集・記載し、それをもとに、人間にとって「宗教的経験」とははたして何であるかということを、分析し帰納しようとしたものです。集められた体験の大半は、今日の医学から見れば幻覚や妄想と分類されてしまうものですが、もちろんそれらが事実として人々に体験されたものであったことは、言うまでもありません。それを検討する著者の姿勢も、まさに「科学的」たろうとするものです。

 賢治は、おそらく上野の帝国図書館の閲覧室でジェイムズの『宗教的経験の種々』を繙いて、そこには自らも昔からしばしば経験するような不思議な「異空間」の出来事が、あたかも片山正夫著『化学本論』におけるように、客観的に記載されているのに驚いたのではないでしょうか。そして、自分も同じようにおのれの一風変わった「心象」を「科学的に記載」しておくことによって、異空間の存在の根拠づけに寄与できるかもしれない、彼はそう考えたのではないでしょうか。
 そしてそこから生まれたのが、自分の「意識の流れ」を、その深さによってさまざまな「字下げ」も駆使して記述する、彼独特の「心象スケッチ」だったのではないかと思います。

 『宗教的経験の諸相』の最後で、ジェイムズは結論として次のように述べています。
一.目に見える世界は、より霊的な宇宙の部分であって、この宇宙から世界はその主要な意義を得る。
二.このより高い宇宙との合一あるいは調和的関係が、私たちの真の目的である。
   (後略)

 この結論は、賢治にとっては自らの世界観・宗教観と、どこか通ずるものがあったのではないでしょうか。
 「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じていくことである」あるいは「われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である」など、『農民芸術概論綱要』の一節の雰囲気も、ここからは立ちのぼってくるではありませんか。

William James の名前いろいろ

 「春と修羅 第二集」所収の「林学生」という作品に、‘ジェームス’ という人名が出てきます。「赤い歪形」 と題されたその下書稿(一)の方がわかりやすいので、そこから引用すると、

  (先生 先生 山の上から あれ)
  (お月さんだ まるっきり潰れて変たに赤くて)
(それはひとつの信仰だとさジェームスによれば)

という箇所です。
 これは賢治が、岩手山かどこかへ農学校の生徒を引率してやってきて、赤く変形した月が昇るのを生徒と一緒に見ているところと思われます。

 この‘ジェームス’とは、アメリカの哲学者・心理学者であるウィリアム・ジェイムズ(William James, 1842-1910) のことですが、赤い月が「ひとつの信仰だ」とは、いったい James のどのような学説と関係があるのか、 よくわかりません。あるいは、「それはひとつの信仰」の「それ」とは、月のことではなくて、何か別の事柄を指しているのでしょうか。

 ここでちょっと、賢治による James の名前表記に注目してみます。正しくは‘ジェイム’ と濁音(有声音)で発音される所を、賢治は ‘ジェーム’と清音で記しているのが、 ちょっと特徴的です。そしてこの表記は、下書稿(二)や(三)になっても、同じままです。
 そこで、彼の名前は当時の日本でどう呼ばれるのが一般的だったのか、調べてみました。下書稿(一)が書かれた1924年までに、 日本で刊行された William James の翻訳書を、国会図書館の蔵書目録から検索して表にすると、以下のようになります。これは、 賢治の頃には、彼が何度も通った上野の帝国図書館に所蔵されていたと思われる書籍でもあります。

訳書名
訳書出版年
著者名表記

 教授的心理学

1901

 ウィリヤム・ゼームス

 心理学精義

1906  

 ウィリアム・ゼームス

 教育心理学講義

1908  

 ウィリアム・ゼームス

 実際主義

1910  

 ウヰリアム・ゼームス

 宗教的経験の種々

1914  

 ジエームス

 自我と意識

1917  

 ヰリアム・ヂエイムス

 最新心理学概論

1918  

 ウイリアム・ゼイムス

 信仰の哲学

1919  

 ゼームス

 人生の哲学

1921  

 ヰリアム・ジエームズ

 宗教経験の諸相

1922  

 ジエームズ

 根本経験論

1924  

 ウイリアム・ヂエイムズ

 心理学

1927  

 ヰリアム・ジエームス

 実用主義の哲学

1930  

 ジェームズ

 

 これを見ると、当時は現在よりもはるかに、外国人の名前表記はバラバラだったという感じがします。そして、 この作品が書かれた1924年までに出版された訳書の中で、賢治の‘ジェームス’という表記とほぼ同じなのは、1914年刊行の 「宗教的経験の種々」(ジエームス)だけです。これ以外にもたくさん訳書は出ていますが、ご覧いただければわかるように、他は‘ゼームス’ ‘ヂエイムス’ ‘ゼイムス’‘ジエームズ’など、どれも何かしら異なっています。
 つまり、「赤い歪形」~「林学生」という作品を書くにあたって、賢治が下敷きにした William James の翻訳書は、この 「宗教的経験の種々」である可能性が高いのではないかと私は思うのです。

 この翻訳書を開いてみると、その第三講「見えざる實在」という章の冒頭には、次のように書かれています。

 宗教生活を出來るだけ最も廣い最も一般的な言葉で特示するやう請はれると、 宗教生活は見えざる秩序がありその見えざる秩序に我等自身を調和する様整へる所に我等の此上もない善があるといふ信仰から成立するものであると人は答へるだらう。 此見えざる世界ありといふ信仰とそれに適合させる事とが心の中の宗教的態度である。

 James の考えでは、宗教の本質は、宗W.James: Varieties of Religious Experience.教的「経験」よりも、「信仰」の方にあるとされています。 「観念」よりも「行動」を重視する、 プラグマティストとしての立場です。

 この作品の書かれた晩、赤く変形した月の出現を見た賢治は、 何か宗教的な感覚にとらわれたのではないでしょうか。これを「赤く歪んだ月」と書かずに、あえて「赤い歪形」と表現したのは、James のいう「純粋経験」として、すなわち「それは月である」という認識以前の、心象の段階のものを書きとめようとしたのではないかと思います。
 賢治は不思議な体験をよくする方で、「見えざる實在」としばしば遭遇し、それをたいてい直観的に宗教的な性質のものとしてとらえています。 しかし James によれば、宗教的な経験を宗教的たらしめているのは、「信仰」という精神活動なのだというのです。

 「それはひとつの信仰だとさジェームスによれば」という作品中の言葉は、 このような文脈におけるものなのではないでしょうか。
 賢治は、赤く歪んだ不思議な物体を見て、それを生徒たちのようにたんに「変」とか「おかしな」と感じるにとどまらず、 宗教的な色彩を帯びて体験します。ここで彼は、その宗教感覚の背後にあるものに考えをめぐらし、「それ (=感覚に宗教的色彩を与えているもの)」は、James の説によれば「信仰」だったよな、と思い出しているのではないでしょうか。

 右上に掲げた扉写真は、 先日国会図書館に行った時にマイクロフィッシュからコピーしてもらったものです。賢治の蔵書の中にこの本は見つかっていませんから、 彼はその昔に、帝国図書館に置かれていたこの本そのものを、手に取っていたのかもしれません。
 そう考えると、ちょっとうれしくなります。