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「主観性」から「客観性」へ

 賢治が『春と修羅』を書いた時期、具体的には1922年1月から1924年1月頃までという2年間ですが、この間の賢治の「心の遍歴」というものは、大きな波乱に満ちていました。
 最大の要因は、1922年11月の妹トシの死という出来事で、その内実は「無声慟哭」三部作や、樺太旅行における挽歌群に、記録されています。これは、確かに詩集『春と修羅』の最大のテーマの一つとも言えるものですが、しかしそれ以外にも、たとえば同僚堀籠文之進との葛藤という問題も、当時の賢治にとっては相当の重みを持つものだったと思われます。この悩みが、詩集前半部の代表作である「春と修羅」や「小岩井農場」の、隠れた主題だったのではないかと私は感じていて、それについては以前に「「〈みちづれ〉希求」の昇華」という記事などに書きました。

 私が上の記事で考えてみたことは、賢治は「一人の人とどこまでも一緒に行こう」と一途に求める「〈みちづれ〉希求」の苦悩と挫折を通り抜け、「全ての生き物と一緒に本当の幸福を目ざす」という、一種の菩薩行を己の究極の目標として見定めることにより、この危機を乗り越えたと言えるのではないかということでした。「個別的・主観的な愛」から、「普遍的・客観的な愛」への超克です。

 そして、この時期の賢治における「主観性」から「客観性」への変化は、愛や人間関係という領域においてだけでなく、この世界で生起する現象をどう認識するか、すなわち「世界観」という分野においても、同時並行的に変動が起こっていたのではないかと、私は思うのです。

『大乗起信論』と賢治

 先月の初めに、「ABC予想」という数学の超難問を、望月新一氏という数学者が解決したというニュースが日本中を駆けめぐりましたが、この件ほどには話題にはならなかったものの、仏教学の分野でこれに相当するのではないかと思われる画期的な業績が、2年半前に一人の日本人研究者によって成し遂げられました。大竹晋氏による、『大乗起信論成立問題の研究: 『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク』が、それです。

 望月新一氏の「宇宙際タイヒミュラー理論」については、残念ながら私はその1文字すら理解することができませんが、こちらの大竹晋氏のお仕事ならば、たとえ門外漢でもその有り難さの一端には触れてみることができるのではないかと思い、この外出自粛の連休中に一念発起して、氏の大部な著書を紐解いてみました。
 そこには、やはり私には読めもしないサンスクリットの文字や漢文の白文もたくさんあったのですが、それでも研究全体の緻密な構成と、静かで穏やかながら確固とした叙述、それによって開かれていく前人未踏の世界に、心からの感銘を受けた次第です。

大乗起信論成立問題の研究:『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク 大乗起信論成立問題の研究: 『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク
大竹晋 (著)

国書刊行会 (2017/11/24)

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随縁真如・心生滅・唯心

 1921年(大正10年)4月の、父政次郎との関西旅行の際に作られた短歌の中に、「随縁真如」という見出しが付けられた3首があります。

     ※ 随縁真如
784 みまなこをひらけばひらくあめつちにその七舌しちぜつのかぎを得たまふ。
     ※ 同
785 さながらにきざむこゝろの峯々にいま咲きわたる厚朴の花かも
786 暮れそめぬふりさけみればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり。

 父とともに比叡山に登って延暦寺に参拝した際の作品で、この前には「※ 根本中堂」「※ 大講堂」という見出しが付けられた作が並んでいますから、 時間的には根本中堂や大講堂に参った後のものかと思われます。

走査線に明滅する幽霊

新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書) 新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書)
石田 英敬 (著), 東 浩紀 (著)

ゲンロン (2019/3/4)

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 最近出た、『新記号論 脳とメディアが出会うとき』という本をたまたま読んでいましたら、賢治の『春と修羅』の「」に関する、面白い言及がありました。

『新記号論』p62-63

 少し長くなって恐縮ですが、この「」に対する新たな一つの解釈と思いますので、以下に引用させていただきます。

石田 人間は機械の文字を読み書きすることができないが、その認知のギャップこそが人間の知覚を総合し、人間の意識をつくり出すという話をしました。ぼくたちはこの「技術的無意識の時代」において見えないもの見て、意識の成立以前に聞こえるものを聞いて生活しているわけです。テレビであれ、インターネットの動画であれ、iPod の音楽であれ、ぼくたちは音・イメージや言葉など「記号」だけを取り出し、あたかもそれが現前しているように見なして生活しています。
 現代は音・イメージを伝搬する電波に満ちた時代ですが、フランス語の「スペクトル spectre」(英語の spectrum)には光や音の波長分布像という意味のほかに、「亡霊」という意味もあります。それは、「スペクタクル spectacle(見世物)」という言葉とも結びつく。われわれは音・イメージがつくり出す見世物(亡霊)を存在と見なし、日々暮らしています。これこそヴァルター・ベンヤミンが言うところの「複製技術の時代」にほかなりません。いまここに存在しないひとが話し、存在しない事物の像や光景が見え、いまここに存在しないひととコミュニケーションして生活している。亡霊がいたるところ徘徊してぼくたちを日常的に取り巻いている、かなりふしぎな「スペクタクルの社会」にぼくたちは生きているのです。
 このことを象徴的に表現しているのが、宮沢賢治の『春と修羅』「序」にあるつぎの一節です。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

 ぼくはこれは「テレビの原理」で書かれた詩だと思っています。この詩が書かれたのは1924年です。テレビ技術は19世紀末からの複数の技術的発明が組み合わさって実現したものですが、ベアードによるテレビ像の実験は1924年、日本では高柳健次郎がブラウン管による「イ」の文字の電送・受像の実験に成功したのが1926年です。『銀河鉄道の夜』が相対性理論をベースに書かれたとも読めるように、賢治は科学の動向に詳しいひとだったから、テレビ技術もおそらく知っていたにちがいなく、テレビの原理そのものをメタファーに使っているのではないか。
 テレビでは、走査線上を明滅する光のフレームによって、「わたくしといふ現象」(意識)が生まれる。「せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける」テレビの映像のような「わたくしといふ現象」「あらゆる透明な幽霊の複合体」が、人々の意識生活をつくっていく。テクノロジーが文字を書く時代を予言しているようです。
 まさに予言的ですね。「わたくしという現象」が「明滅する」「幽霊」であるという表現は、たいへんデリダ的な表現です。
石田 メディアがテクノロジーの文字で書くようになると亡霊化する。だから、事物および事実が、まさに現象学が言うような「現象」になるわけですね。(『新記号論』p.61-63)

 というわけで、賢治の『春と修羅』の「」に登場する、「幽霊」や「明滅」する「照明」というイメージは、テレビジョンという当時世界最先端のテクノロジーのメタファーではないかという解釈が、ここで提示されているわけです。
 映画好きで、弟を連れて頻繁に映画館に通っていたという賢治のことですから、もしもテレビの原理やその可能性について知っていたら、並々ならぬ興味を抱いて当然ですし、この「」を書いた時点でそのような知識を持っていたのならば、それがここに反映されたという可能性も、十分に考えられそうです。
 ただ、実際に賢治がテレビ技術について言及している記録は何一つ残っていないと思いますので、彼が「」の執筆時点でそのような技術について知っていたか否かを判断するためには、まずはそれが「時間的に可能だったのか」ということから、調べてみる必要があります。

 ご存じのように、賢治の『春と修羅』「」には、「大正13年(1924年)1月20日」という日付が付されていますが、はたしてこの時点で、賢治がテレビジョンというものを知りうる可能性があったのでしょうか。上記の石田氏の発言には、「ベアードによるテレビ像の実験は1924年」という、まさにピンポイントの年号が書かれていますが、より細かい時間的な前後関係はどうなっていたのでしょうか。
 そこでまず、Wikipedia の「ジョン・ロジー・ベアード」の項を見ると、「1924年2月、Radio Times 誌に半機械式のテレビシステムを公開し動く影(物体の輪郭)の映像を披露した」とあります。しかし、これだけではまだ十分に明らかではないので、ベアードのテレビ発明の記録として現時点で最も詳しそうな、“John Logie Baird: Television pioneer”という本を Google books で拾い読みしてみると、彼の1924年前後の研究活動は、次のようなものでした。

John Logie Baird: Television pioneer (History and Management of Technology) John Logie Baird: Television pioneer (History and Management of Technology)
Russell W. Burns

The Institution of Engineering and Technology (2001/2/21)

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  • ベアードが、自らのテレビジョン研究について最初に出版物で報告したのは、1923年11月号の Chambers Journal 誌であり、ここでは、自作の装置が直径20インチで毎秒20回転の走査ディスクを用い、画面は2×2インチであること等を述べている。
  • 1924年1月、研究のための資金集めに迫られていたベアードは、報道向けの実演を行い、同年1月15日付けの Daily News 紙と、1月19日付けの Hastings and St Leonard's Observer 紙に記事が掲載され、実際これを見たベアードの父親の友人から、50ポンドの資金援助を受けた。この時点では、ベアードの装置はまだ単一の文字や記号の「影絵」を転送できるだけで、集光レンズの前に置かれた十字架形の厚紙の輪郭を、数フィート離れた暗い部屋で見ることができたという。
  • 1924年2月15日付けの Radio Times 紙には、「テレビジョンが実現すれば、肘掛け椅子から世界が見られる」と題された匿名記事が掲載され、無線放送や電波について説明をした後、もしもこれが実現すれば、たとえばアルバートホールに座ったままで、競馬ダービーや、オクスフォード・ケンブリッジ対抗ボートレースや、海軍観艦式や、アメリカのボクシング試合や、あるいは戦争さえ見られる、10年後には地球の反対側で起こる出来事さえ見ることができるだろう、と述べられていた。
  • 1924年1月の新聞記事による資金援助を受けて、ベアードは4月までにより大きなアパートの研究室に引っ越し、4月10日に行った実験の電波が、イギリス南岸部でパリのラジオを聴取していた人々の耳に高音の雑音として聞こえたと、Glasgow Herald ほか数紙が報道した。
  • 1924年3月17日に、ベアードは撮像機と受像機の同期に関する新たな技術の特許を申請した。
  • 1924年4月の Radio Times 紙に、ベアードの支援者である作家のル・キューが「テレビジョン:一つの事実」と題した論文を掲載し、ベアードが撮像機と受像機を正確に同期させるという難題を克服して、完全に切断された装置の間での画像送信を成功させたこと、送信レンズの前で指を上下に動かすと、受像ディスクにおいて上下する指をはっきりと見ることができたことを述べている。
  • 1924年5月に、ベアードはそれまでの実験成果をまとめた最初の技術論文を刊行した。
  • 1924年7月26日付けの Hastings and St Leonard's Observer 紙に、「テレビジョンの発明者と名乗るベアード氏」の実験室で電流がショートして爆発事故が起こり、ベアードは爆風で部屋の端まで飛ばされたという記事が掲載された。
  • この後、ベアードは1925年10月2日に、初めてグレースケールの画像の送受信に成功し、この装置が「最初のテレビジョン」と言われることとなった。1926年1月26日には公開実験においてこれを示した。

 ということで、賢治が『春と修羅』の「」を書いたと推測される1924年1月20日までの時点では、ベアードによるテレビジョン装置は、まだその前段階の開発実験が、イギリスの地方新聞や専門雑誌で細々と紹介されていたにすぎず、さらにその実験装置を実際に見ることができたのは、1924年1月の報道発表に招かれた一部の記者や、ベアードのために金銭的支援をする人だけだったというのが、実情のようです。彼が自らの装置について初めての論文を発表したのも1924年5月で、これも時期的に「」には間に合いません。
 そして、ベアードが現実に「最初のテレビジョン」と呼びうる性能の装置を製作できたのは、1925年10月のことだったのです。

 つまり、賢治が日本にいながらにして、1924年1月までに当時のイギリスにおけるテレビジョンの開発状況――しかもそれはまだ非常に未熟で、隣の部屋に影絵を送れる程度であり、現地の人々にもあまり知られていなかった、実験室の中の試作機という段階――について、具体的に知りえた可能性は、まずないと言わざるをえません。

1924年初期にテレビジョンの実験をするベアード

 なお上の写真は、“John Logie Baird: Television pioneer”に掲載されている1924年初期におけるテレビジョン実験の様子で、中央の人物がベアードで、左側が支援者のル・キューです。さらに左には大きな円盤が写っていますが、当時はこのような円盤に螺旋状に多数の穴をあけておき、円盤を高速で回転させてその穴を透過してくる光を、撮像機および受像機で走査線として用いていたということです。

 以上、実際に確認してみると、賢治が『春と修羅』の「」を書いた時点では、テレビジョンの受像機において「せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける」「幽霊の複合体」を想像しえたということはありえず、これが「テレビの原理」で書かれた詩だという解釈も、成り立たないということになります。
 それはそれで、ちょっと魅力的な解釈だったのにまあ残念だった、というだけのことで、ここで今回の記事を終わってもよいのかもしれませんが、しかしそれにしても宮澤賢治という人は、この東大のメディア学の教授をしても、なぜかここまでの期待というか思い入れをさせてしまう、何か不思議な吸引力を持った人であることは確かです。

 現代の我々は、たとえば賢治が「エコロジー思想の先駆者」であったとか、彼の書いたものやその行動を、ついつい贔屓目に持ち上げたくなる傾向があります。多くの場合、それはある程度までは事実に基づいているのでしょうが、しかし賢治が「有機農業の先駆者だった」とまで言い出すと、これは事実の真逆になってしまいます。また自然科学的分野でも、たとえばある高名な賢治研究者のように、短篇「柳沢」に描かれた岩手山頂の雪の白光を、「超高層空間における発光現象の予覚」であるとか論じてしまうと、やはり独りよがりな思いこみになってしまいます。

 上のような問題は、勝手な読者の側に原因があるわけですが、ただ我々読者がそういうことを考えたくなってしまう理由の一つは、賢治の方も確かに当時の作家としては異例なほどに自然科学知識が豊富で、その最新の進歩にも通じていたということにあるでしょう。
 冒頭の本で石田英敬氏が言っているように、「『銀河鉄道の夜』が相対性理論をベースに書かれたとも読めるように、賢治は科学の動向に詳しいひとだった」わけで、これも「相対性理論をベースに書かれた」とまで言ってしまうとちょっと言いすぎで、「相対性理論の前提である『真空は光の媒質である』という認識が踏まえられている」と表現した方が正確ではあるでしょうが、しかしやはり賢治という作家の印象は、まさにこのとおりなのです。
 近代日本の作家で、我々がこういうイメージや思い入れを投影する人というのは、ほかにはちょっと思い浮かばず、森鴎外などはずっと現役の医師でしたから、当時最先端の科学にもきっと通じていたと思うのですが、読者としては鴎外の作品に、賢治のごとく何か「未来への先見性」を期待するという感じには、なぜかなりません。

 そしてさらに、上記のように賢治が実際に自然科学に詳しかったということに加えて、彼は当時まだ知りえなかったはずの事柄まで、現在から見ると「当時なぜこんなことが書けたんだろう」と不思議になるような、信じられない想像力を示していることも、よくあるのです。
 以前の記事「銀河、ワームホール、りんご」で書いたように、銀河を「りんご」に喩えてそこを走る鉄道を考えるというイメージは、空間の歪みをワープする「ワームホール」の着想そのものですし、また「現象としての真空」で書いたように、「この世界」と「異界」が「真空」という対象を媒介として繋がっているという発想も、現代物理学を先取りしていました。
 これらはいずれも、「賢治の洞察力が凄かった」とまで言ってしまうと言いすぎで、まあ偶然に符合したにすぎないと考えるしかないのですが、しかしたとえ偶然にしても、数十年後に驚かされるようなこういう素晴らしいイメージを独自に生み出すことができる想像力というのは、やはり賢治ならではなのだと思います。

 思えば、記事「現象としての真空」のコメント欄で吉田さんが、「賢治は、アインシュタインら、独創的な思考ができた科学者たちにも負けない豊かな想像力の持ち主だった」との意見を下さいましたが、まさにそういうことなのかなあと、あらためて感じざるをえません。
 そして人は、やはり賢治のそういうところについつい惹かれて、冒頭のようにちょっと先走りした解釈を生み出してしまうこともあるのだろうかと思うのです。
 しかし賢治作品のこういう「読み」もまた楽しいもので、ただそれにあまりとらわれると「トンデモ」になってしまって危ういのですが、その境目がわからないあたりを彷徨ってみるのは、私などは大好きです。まあ同時に、客観的で大局的な視点というものを、忘れないようにしなければなりませんね。

エマーソンの「大霊」と賢治

1.エマーソンと賢治

 『新校本全集』第16巻(下)の「年譜篇」には、賢治が盛岡中学3年の「二学期」の部分の記載に、次のようにあります。

 寄宿舎六室に移る。同室した一年藤原文三の記憶によると、同室者は、五年佐藤重次郎、四年矢幅忠太郎、三年賢治という。藤原の記憶によるが、三学期とも考えられる。
 藤原の談話によると、とにかく変っていて汚れ物はかまわず押入につっこみ、教科書は見ず、「中央公論」の読者で、エマーソンの哲学書を読んでいたのに驚いたという。

Ralph Waldo Emerson ラルフ・ウォルド・エマーソン(右写真)は、19世紀アメリカで活躍した思想家・哲学者・詩人ですが、まだ15歳の賢治がこの時読んでいた「エマーソンの哲学書」とは、いったい何だったのでしょうか。
 彼の中学3年は1911年(明治44年)ですから、この年までに日本で翻訳刊行されていたエマーソンの著作を、現在の国会図書館の蔵書から調べてみると、下記がありました。

 上記以外にも、西洋の偉人伝を集めたような本でも、エマーソンの紹介は複数収録されており、明治時代の日本では、彼は相当に注目されていた思想家だったことがわかります。賢治が読んでいたのは、上のうちのどれかであった可能性が高いでしょうが、ただ実際にどの本だったかということまでは、今ある情報からはわかりません。

 一方、賢治の教え子照井謹二郎氏は、「妹トシの落書」(『啄木と賢治』, 昭和51)において、「昭和七年の新春を迎えた、ある日曜日」に、自分が病床の賢治を見舞った際のこととして、次ようなエピソードを記しています。

 「本をあげましょう」と云われ、本棚に並んでいる本の中から、先生がおっしゃる二冊の本を頂戴して帰ることにした。(中略)今では、一冊は残念ながら所在不明となっているが、もう一冊は、なんと妹トシ子さんの愛読本“エマーソン論文集、上巻”であったとは。

 ここに挙げられている『エマーソン論文集、上巻』とは、上に挙げた一番下の戸川秋骨訳『エマーソン論文集 上巻』の第5版(1913年刊行)で、表紙裏に「責善寮宮沢敏子」の署名があるということです。つまりこの本は、トシが1915年4月に日本女子大学の責善寮に入ってからいずれかの時期に購入したものと思われ、これを賢治がおそらくトシの没後に譲り受けて、所蔵していたものだったのでしょう。

 あとさらにもう一つ、賢治自身が書いたものにも、エマーソンとの関連を示す所見が残っています。戦災によって今は失われた草稿「農民芸術の興隆」は、「農民芸術概論」や「農民芸術概論綱要」の中の一部分を賢治がより詳しくメモしたものですが、その中に次のような部分がありました。

芸術はいまわれらを離れ多くはわびしく堕落した
〔中略〕
 エマーソン 近代の創意と美の源は涸れ 才気 避難所

ここにはわれらの不断の浄い創造がある
〔中略〕
 →エマーソン 斯ノ如キ人ハ

 ここには「エマーソン」という名前が登場するとともに、大沢正善氏による「宮沢賢治と『エマーソン論文集』」(文芸研究(100), 1982)における調査によれば、上の2行目の部分は戸川訳『エマーソン論文集 上巻』の「芸術論」にある、

 然るに近代の社会に於る創意と美の源は殆んど乾涸し去れり。〔中略〕而して今日の芸術家並に鑑賞家は芸術に於て己の才気を示さんとし若くは人生の害悪よりの避難所をこれに求む。

という箇所の下線部に基づいており、また上の4行目の部分は、同じく「芸術論」の、

 抑も芸術は皮相的の才能たるべきものに非ず、人間の内心に於ける遙かの背後より出でざるべからず。然るに今や人々は自然を以て美なるものと為さず、而して美なるべき立像をつくらんとす。(誤れりと云ふべし)斯の如き人は世間の人々を以て趣味なき遅鈍なる度し難きものとなし、絵具袋と大理石の幾片かを以て自ら慰む。

という箇所の下線部に基づいていると考えられます。すなわち、賢治はおそらくトシから受け継いで後に照井謹二郎に贈ることになる戸川訳『エマーソン論文集 上巻』を、この時期にも熟読していたことが推測されます。

 以上をまとめると、まず賢治は中学3年生(15歳)という早期から、エマーソンの著作を読んでいたという証言があり、これは時期的にはちょうど戸川訳『エマーソン論文集 上巻』が刊行された直後であることから、この本だった可能性もありますが、その他にも候補はあり、どれと断定はできません。しかし、トシの蔵書であった戸川訳『エマーソン論文集 上巻』を賢治が後に所蔵していたことは確実で、さらにその一節を上記のように自らの重要な論考の中に引用していることから、これは彼の思想の根幹に、深い影響を与えていたと言うことができます。

 このようなエマーソンと賢治の関係についての先行研究としては、まず上にも引用したように大沢正善氏が、「宮沢賢治と『エマーソン論文集』」(文芸研究(100); 157-167, 1982)において先駆的な調査と考察を行い、エマーソンの超越的汎神論と法華経の世界観の関連、同論文集所収の「歴史論」「円環論」から賢治の「心象スケッチ」や「四次元」思想への影響、さらに「芸術論」から賢治の「農民芸術概論綱要」への影響等について、明らかにされました。
 それまでは、法華経と中心とした仏教や、アインシュタイン説など自然科学の観点からのみ検討が加えられてきた、賢治の世界観の奥深いところに、エマーソンという西洋的な宗教思想の巨人の影響を読みとった、これは画期的な論考と言えるでしょう。

 これに続いて、信時哲郎氏は「宮沢賢治とエマーソン―詩人の誕生―」(比較文学(34); 139-150, 1992)において、大沢正善氏が『エマーソン論文集 上巻』に収められている諸論から賢治の思想への影響関係を探ったのに対し、同論文集『下巻』に収められている「詩人論」が、賢治の「詩」に関する考え方に及ぼした影響について、詳しく考察しておられます。

 最近では、山根知子氏が「宮沢賢治の文学と浄土真宗信仰―信仰の重層性の基層から―」(白山ふるさと文学賞第22回暁烏敏賞入選論文; 3-18, 2016)において、暁烏敏が『歎異鈔講話』でエマーソンも引きつつ「宇宙の大霊の弥陀如来」と記しており、同書が刊行された1911年に中学生の賢治もまさにエマーソンを読んでいたことから、賢治が暁烏の影響によってエマーソンに親しみ、これが晩年の「宇宙意志」などの思想にもつながっていった可能性を指摘されました。

2.エマーソンの「大霊」と賢治

 以上のように、賢治がエマーソンの思想から受けた影響については、これまで「大々的に研究されてきた」とまでは言えませんが、数人の研究者の方々が、綿密な研究を行っておられます。
 今回私は、これらの知見に対して特に新たに加えるようなことがあるわけではありませんが、ただエマーソンの思想の核心とも言うべき、「大霊(Over-Soul)」という概念と、賢治の世界観との関連について、少し考えてみたいと思います。

(1) 歴史について

 そもそもエマーソンの思想の本質は、大沢氏も述べておられるように、一言でいえば「超越的汎神論」とも呼ぶべきものです。それは具体的にはどういうものかと言うと、例えば戸川訳『エマーソン論文集 上巻』の冒頭に置かれた「歴史論」は、実に単刀直入に、次のように始まります。

 あらゆる個人を通して一貫せる一個の心あり。各個人はみな此の心とその全局に到るの溝渠たるなり。(p.1)

 そしてこの、「あらゆる個人を通して一貫せる一個の心」こそが、エマーソンの言うところの‘Over-Soul’なのです。
 エマーソンの考えでは、この‘Over-Soul’は、現実的な事物の背後に、それらを超えて存在するので「超越的」であり、またこれは全ての人間にも自然にも、遍く行き渡って存在しているものなので、「汎神論」なのです。戸川秋骨氏以来、最近の酒本雅之訳の岩波文庫版に至るまで、この語には「大霊」という日本語訳が定着していますが、‘Over’という語が含む「~の上を超えて」という意味を強調するならば、これは「超霊」と訳すこともできるでしょう。この霊は、われわれ全ての人間の魂に繋がり、それらを遍く包含している存在なのです。
 ただ戸川秋骨氏の明治の香り高い訳文では、「全局」とか「溝渠」という語がやや堅苦しくて、全体の意味がわかりにくいかもしれません。ここはエマーソンの原文では、次のようになっています。

There is one mind common to all individual men. Every man is an inlet to the same and to all of the same.

 inlet というのは「入口」のことで、各々の人間は「大霊」への「入口」であり、ここで同じ一つの「大霊」に直接繋がっているとともに、さらに‘all of the same’にも、すなわち「(同じ大霊のもとにある)みんな」にも、繋がっているのです。
 私が思うには、これこそが、『春と修羅』の「」の、

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

という箇所の、最もわかりやすい解釈の一つを与えてくれるのではないでしょうか。

 エマーソンの「歴史論」は、上の2文に続けて、さらに次のように展開していきます。

されば人若し一たび理性を用ふるの権を享有せんか、その人はかの心の全領土に於ける自由の民とせられたるなり。その人はプレトオの思索せる処を思索し得べく、古聖の感じたる処を感じ得べく、時の如何を問はず、人の如何を論せず、苟も人間の上に起りし事はこれを了解し得るなり。この普遍共通の心の内に入るを得たるものは、既に今日に至る迄に遂げられ、また今後に於て遂げらるべき事物を知悉せるものなり。何となれば此の普遍共通の心は唯一最高の機能を有するものなればなり。
 歴史は此の心の働きの記録なり。この心の精華は日々の連続に依りて闡明され、人間は又正にその歴史によりて説明せらる。急がず休まず、人間の精神は太初より随時随処の事件の内にその一々の能力、その思索、その感情を体現し行けり。(p.1-2)

 この箇所については、大沢正善氏も、「歴史を論じるのに超越的汎神論から始めるこの部分は、賢治の眼を驚かしたに違いない」と述べておられますが、私も本当にそう思います。エマーソンのこの歴史観は、後々まで賢治に非常に強い印象を残したのではないでしょうか。
 上記におけるエマーソンの考えは、「歴史」とは客観的な物理的な出来事の羅列ではなく、「心の働きの記録なり」と述べているのが特徴で、これはヘーゲルが『精神の現象学』において、歴史というものを「世界精神」にまで至る意識の発展として捉えたことにも似ていますが、ここで私としては何より賢治との関連において、「銀河鉄道の夜」(初期形三)でブルカニロ博士が示した「地理と歴史の辞典」や、「グスコーブドリの伝記」のクーボー大博士による「歴史の歴史といふことの模型」を連想します。

「けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いゝかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いゝかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本統だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年だいぶ、地理も歴史も変ってるだらう。このときは斯うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゝさう感じてゐるのなんだから、〔後略〕(「銀河鉄道の夜」初期形三)

 エマーソンと同じように賢治も、「歴史」というものは、「紀元前二千二百年のことでな」く、「紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた」こととして、すなわちみんなの「心の働きの記録」として、捉えられているのです。
 このブルカニロ博士の「辞典」については、大沢正善氏も『エマーソン論文集 上巻』所収の「円環論」の中の、「或時代に於ける歴史と世界の記述とは、直接その時代の人心に存在する智力的分類に依るものなり」という言葉を引いて、その影響を示唆しておられます。
 いずれにせよ、賢治独特の歴史観の根底に、エマーソンの影響があった可能性は高いと思われます。

(2) 「脱自エクスタシス」と「神充エントゥシアスモス

 「歴史」についてはこれくらいにして、本題の「大霊」について、もう少し詳しく見てみます。エマーソンは、この大霊を主題としたその名も「大霊論」という論文も著しており、これは戸川訳『エマーソン論文集 上巻』にも収められていますから、賢治も確実に読んでいたはずです。
 その冒頭近くで、エマーソンは「大霊」について、例えば次のように説いています。

吾人は連続の内に、区劃の内に、部分、分子の内に生活す、然るに人間の内部には全局を蔽ふ心霊あり、賢明なる緘黙あり、宇宙的の美ありて、これに対し各部分並に分子は平等の関係を有す、これ即ち永劫不滅の一なるものなり。而してこの深大なる力の内に吾人は存在し、又その力の至福は何人にも得らるべきものなるが、この力は毎時自から足りて完全せるものたるのみならず、この力の内にありては同時に観る働きと観らるゝものと、観者と観覧物と、主観と客観と共に一に帰するなり。吾人は世界を見るに個々の一片を以てす、例へば太陽、月、動物、樹木といふが如し、雖然これ等がみなその輝ける一部を成せるその全体なるものは心霊なり。(p.450)

 ここで、エマーソンが言うところの、一人の人間の内部にある「全局を蔽ふ心霊」、あるいは「永劫不滅の一なるもの」、すなわち超越的で普遍的・絶対的な存在に、一般的な名前を与えるとすれば、それは「神」と言わざるをえません。
 ところでエマーソンは神学校を卒業した敬虔なキリスト教徒であり、25歳から29歳までは教会の牧師も務めていたのですが、しかし彼が考える上記のような汎神論的な「神」は、これまでのご紹介からも明らかなように、伝統的キリスト教における神の概念からは、明らかに逸脱するものになっています。そして、牧師をしつつも次第に従来の教会の教義や礼拝に違和感を覚えるようになったエマーソンは、ある時「聖体拝領」の儀式に関する当局との意見の相違によって、教会を辞職することとなりました。

 エマーソンの「神」すなわち大霊と、個々の人間との関係は、一方では「人間の内部には全局を蔽ふ心霊あり」として、人間が大霊を内に含むとともに、他方では逆に「この深大なる力の内に吾人は存在し」という形で、大霊が人間を内に含むということになっています。すなわち、AがBを含み、かつBがAを含むというわけですから、論理的にこのような事態が成立するためには、A=Bであるほかはありません。つまりこれは、一種の「神人合一」の境地を具現しているわけです。
 一方、伝統的キリスト教においては、イエスの体を象徴するパンと、その血を象徴するワインを、信者が体内に取り入れる「聖体拝領」という儀式によって、「神と人との一体化」が達成されると見なしています。
 大霊との「神人合一」を、もっと霊的で超越的で、しかも何の媒介も要しない出来事と考えていたエマーソンにとって、いかにも物質的に見える伝統的な聖体拝領の儀式は、特に耐え難かったのかもしれません。

 ところでこの「神人合一」という状態については、昨年の賢治学会夏季セミナーにおける発表でもご紹介させていただいたように、井筒俊彦氏が古代ギリシア哲学をもとにして、「脱自(エクスタシス)」と「神充(エントゥシアスモス)」という二つの対照的原理を抽出しています(「「世界合一体験」から「重重無尽」へ」参照)。
 井筒氏の初期の著書『神秘哲学 ギリシアの部』では、それは次のように説明されています。

 古代ギリシアの自然神秘主義は、ディオニュソス神がヘラスの民に教えた「脱自エクスタシス」及び「神充エントゥシアスモス」の体験に基く一の特異なる宇宙的霊覚の現成である。エクスタシスekstasisとは文字通り「外に立ち出ること」即ち通常の状態に於ては肉体と固く結合し、いわば肉体の内部に幽閉され、物質性の原理に緊縛されて本来の霊性を忘逸している霊魂が、一時的に肉体を離脱し、感性的事物の塵雑を絶せる純霊的虚空に出で、かくて豁然として秘妙の霊性に覚醒することを意味する。然して、かくの如く感性的生成界の一切を離却し、質料性の纏縛を一挙に截断しつつ「外に出」た霊魂はもはや旧き人間的自我ではあり得ない。人間的自我が自性を越え、最早いかなる意味に於ても自我と名付けられぬ絶対的他者の境位に棄揚されることがエクスタシスの端的である。言い換えればエクスタシスとは人間的自我が我性に死に切ること、自我が完全に無視されること、自我が一埃も残さず湮滅することを意味する。併し意識の主体としての自我があますところなく湮滅し去れば、その意識の内容として今まで自我の対象をなしていた感性的世界もまた自ら掃蕩されて遺影なきに至るは当然であろう。かくてエクスタシスに於て、人間の自然的相対意識は遺漏なく消融し、内外共に一切の差別対立を絶して蹤跡なく、ただ渾然として言慮の及ぶことなき沈黙の秘境が現証されるのである。この自我意識消滅の肯定的積極的側面をエントゥシアスモスenthousiasmos(神に充たされ、神に充満すること)という。(井筒俊彦『神秘哲学 ギリシアの部』p.19-20)

 つまり、「脱自(エクスタシス)」とは、自我が自我の「外に立ち出ること」によっていつしか「我」ではなくなり、神へと一体化するという「忘我」の状態であるのに対して、「神充(エントゥシアスモス)」とは、神の方から自我の内部に向かって流入し、もとは一個の自我にすぎなかった場所が「神によって充ち溢れる」という状態を指しているのです。
 ちなみに、古代ギリシア語の‘ekstasis’は、・ek-(外に)+stasis(立てる)→「外に出る」という原意から、現代英語の‘ecstasy’(恍惚、忘我)の語源となっており、また古代ギリシア語の‘enthousiasmos’は、en-(中に)+theos(神)+ousia(本質)→「神の本質の流入・憑依」という原意から、現代英語の‘enthusiasm’(熱狂、狂信)の語源となっています。

 井筒氏も書いているように、現実にはこの二つの原理は、しばしば同時に生起することも多いようですが、理屈の上ではこれらは「内から外へ」と「外から内へ」という逆の方向性を持った動きであり、対を成すものです。
 その様子を、昨年の賢治学会夏季セミナーにおいて行ったように、「自我」との関係において図示するならば、下のようなものを描いてみることができます。この図で、「自我」を包む膜=自我境界は、細く赤い点線で示されていますが、これは解離状態としての「自我境界の稀薄化」によって、「内から外へ」あるいは「外から内へ」という流出または流入が、非常に起こりやすくなっていることを示しています。

「脱自」と「神充」

 エマーソンの言う「神人合一」が、上の二つのどちらに相当しているのかというと、「大霊論」では次のように述べられています。

 吾人は心霊の来降、則ち心霊自体の顕現なるものを表はすに啓示なる文字を以てす。この心霊の顕現には必ず崇高の感の伴ふものなり。何となればこの心霊の交会は神の心の吾人の心に流入する事なればなり。〔中略〕個人がこの霊の侵入を感ずるその瞬時は則ち忘るべからざる大事の時なり。(p.466-467)

 すなわちエマーソンによれば、大霊と個人との「交会」は、「神の心の吾人の心に流入する事」によって成し遂げられるというわけでであり、井筒氏による上の二つ原理のうちでは、「神充(エントゥシアスモス)」に相当するのです。
 ちょうどこれとよく似た「自己の内への神の流入」というエピソードを、ウィリアム・ジェイムズがある男性の体験記から、『宗教的経験の諸相』に引用しています。

家に着くとすぐ、私は床についた。そして宗教のことなど少しも気にしなかった。すると五分ほどたってから、私は聖霊によってつぎのように動かされ出した。――「最初、私は自分の心臓がまったく突然に、非常に速く打ち始めたのを感じた。それで私は最初、なにか病気にかかりかけているのだろうと考えたが、別に苦痛は感じなかったので、驚きはしなかった。私の心臓の鼓動はだんだん激しくなった。私はすぐにそれが私に対する聖霊のはたらきであることを悟った。私は非常に幸福と謙虚な気持ちとを感じ始めた。このように自分の無価値を感じたことは今までに一度もないことであった。私はどうしても、大声で語らずにはいられなかった。それで大声を出して言った。主よ、私はこの幸福に値しない人間です、と。あるいは、それと同じ意味の言葉を口にした。そうしている間に、なにか流れのようなもの(感じの上では空気に似ていた)が、ほんとうの飲み物よりももっとはっきり感覚できるようなふうに私の口と心とのなかへ流れこんできて、それが、私の判断ではだいたい五分か、もう少し続いたが、これが私の心臓があのように激しく動悸を打った原因だったように思われた。それは私の魂に完全に取りついてしまった。そしてその真最中にも、確かに私は主に、もうこれ以上の幸福は与えて下さらないように、と切願した。私が受け取ったものを心に入れておくことが私にはできないように思われたからであった。私の心臓は破裂するのではないかと思われたが、私が言葉では言いあらわせないほど神の愛と恩寵とに満たされたかのように感じるまで、打ちつづけた。(岩波文庫版『宗教的経験の諸相』上巻p290-291)

 これはジェイムズが、スティーヴン・H・ブラドリーという平凡な男性の手記から引いたものですが、この時ブラドリー氏は、比較的冷静な意識のもとで「なにか流れのようなもの(感じの上では空気に似ていた)が、ほんとうの飲み物よりももっとはっきり感覚できるようなふうに私の口と心とのなかへ流れこんで」くるのを感じ、そして「言葉では言いあらわせないほど神の愛と恩寵とに満たされたかのように感じる」状態になり、そして上には引用していませんが少し後では、「私の魂が聖霊で一杯になってしまったように感じ」たのです。
 これこそが、「神充(エントゥシアスモス)」の体験と言えるものであり、エマーソンの言う個人と大霊との関係も、まさにこういった形をとっているわけです。

 一方、賢治自身が経験した「神人合一」、すなわち普遍的な存在と自己の一体化の体験がどういうものだったかというと、これまでも何度かご紹介しているように、それは例えば「種山ヶ原(下書稿(一)第一形態」の、次の箇所に典型的に表れています。

海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

 ここにおいて賢治は、自分を取り巻く種山ヶ原の自然と一体化して溶け合ってしまいますが、自らの自我(わたくし)も自らの外に出て拡散するとともに、またその「わたくし」の中にも種山ヶ原の「水や風やそれらの核の一部分」が流入してきているわけですから、「脱自(エクスタシス)」と「神充(エントゥシアスモス)」が同時に起こっていると言えるでしょう。
 また1925年9月21日付けの、宮澤清六あて書簡の次の一節も、ほぼ同じような心境を表しています。さらにここでは、「銀河系全体」が「ひとりのじぶん」と感じられています。

もし風や光のなかに自分を忘れ世界がじぶんの庭になり、あるひは惚として銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずるときはたのしいことではありませんか。

 一方、エマーソンやウィリアム・ジェイムズの例のように、専ら「神充(エントゥシアスモス)」が生起している状況としては、賢治の場合には次のような例が当てはまるかもしれません。

 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗(らしゃ)や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。
 わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。(『注文の多い料理店』序)

 ここでは、「虹や月あかり」に潜む自然の神秘が、賢治の中に流入してきています。賢治は、「きれいにすきとほった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の光をのむことができ」て、それらを「きれいなたべもの」と呼んでいますが、これはまさに上記のブラドリー氏が、「ほんとうの飲み物よりももっとはっきり感覚できるようなふうに私の口と心とのなかへ流れこんでき」たと述べたものに、相当しています。
 すなわち、賢治のこの営為も、「神充(エントゥシアスモス)」の一種と言えるものでしょう。

 「脱自(エクスタシス)」であろうと「神充(エントゥシアスモス)」であろうと、このような解離的現象に常日頃から親しんでいる賢治だったからこそ、エマーソンが描いた大霊と個人の一体性という感覚には、直観的に共感するところが大きかったのだろうと、私は想像します。

(3) 予言者であり設計者であること

 以前に私は、「予言者、設計者スールダッタ」という記事において、賢治の「竜と詩人」という短篇の次の箇所について考えてみました。

風がうたひ雲が応じ波がならすそのうたをたゞちにうたふスールダッタ
星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覚悟する
あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる予言者、設計者スールダッタ

 「詩賦の競ひの会」で栄誉を受け、竜に祝福された詩人スールダッタは、星や陸地が未来において「さういふ形をとらうと覚悟する」様子を予め謳うところから「予言者」であり、また「まことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる」ところから「設計者」だというわけです。しかし、私が以前の記事で疑問に思ったのは、本来は「予言者」であることと「設計者」であることとは、論理的に両立しえないのではないか、ということでした。
 なぜなら、ある人が「予言者」であるためには、予言された出来事を自分で意図的に起こしてはならないはずであるのに、他方で「設計者」であるためには、その出来事を自らの意志で実現しなければならないからです。

 たとえばある人が、「明日火事が起こる」と予言して、翌日に実際火事が起こればその言葉は正しかったことになりますが、もしもその火事がこの人によって計画的に仕組まれたものだったら、彼は火事の「設計者」ではあったかもしれないが、「予言者」としては偽者です。逆に、その人の全く関与しないところで起こった火事を言い当てたのなら、彼は「予言者」ではありますが、火事の「設計者」ではありません。
 それではいったい、どのような状況であれば、ある人が予言者であり同時に設計者であるということが可能になるのでしょうか。

 その状況とは、その人がある面では世界の中に単なる一部分として「包含」され、その動きを操ることはできないがそれを見て知ることはできる「予言者」として存在し、また同時にある面では世界全体(あるいは神)と「合一」し、その意志を世界(あるいは神)の意志と同一化することによって、世界を動かす「設計者」として存在する、というような場合です。
 そして、エマーソンの「大霊論」には、まさにこれと同じような、「部分」と「全体」のパラドキシカルな関係が書かれているところがあります。

 それは、上に神(大霊)と人間の「交会」=「神充(エントゥシアスモス)」の説明として引用したp.467の部分に続く、次の箇所です。

斯の如く神の心と交会するに当りてや、見る力は働く意志と分離する事なく、内観は服従より来り、服従は楽しき認知より来る。個人がこの霊の侵入を感ずるその瞬時は則ち忘るべからざる大事の時なり。(p.467)

 ここにある、「見る力は働く意志と分離することなく」という一節がそれで、この「見る力」によって人は神の心を知ることができ、それによって「予言者」たりうる一方、「働く意志」とはこの世をあるべき姿に形づくる神の意志であり、その神と合一した人は、神とともに世界の「設計者」たりうる、ということになります。一人の人間が大霊と一体である時、上の二つの力は分離することなく一つであり、「予言者でありかつ設計者である」という、通常はありえないような状態が実現されるのです。

 このように、賢治が「竜と詩人」において、詩人の営みを「予言者、設計者」と表現した独特の視点は、エマーソンの「大霊論」にも通じるものです。私としては、賢治の「予言者、設計者」という言葉が、エマーソンから直接影響されたものとまでは思いませんが、おそらく若い頃から普遍的存在との合一を体感することがあった賢治にとって、同様の感覚に溢れたエマーソンの思想は、いつしか自らの血肉となり、こういう形で表出されたのではないかと思います。

(4) 解離的心性と無媒介な合一

 以上見てきたように、賢治の思想はその根幹の部分で、エマーソンの思想と通じ合うところが大きいのですが、大沢正善氏は、エマーソンの思想が孕んでいた限界が、賢治の限界ともなってしまった面があるのではないかと考えておられるようで、「宮沢賢治と『エマーソン論文集』」の結び近くでは次のように述べておられます。

 「農民芸術概論綱要」はまた、労働と人生と芸術の融合を説きながら、楽天的理想性と方法論の欠如が指摘されている。それは、エマソンの「天与の精神」たる自恃に支えられているかぎり、むしろ当然のことである。二十六例もの「われら」という言葉には賢治と他者との短絡的な自己同定がうかがわれ、「わたし」の希願は「みんな」の希願であり「われら」の希願であり、「われら」の個々人に有効な方法論の検討は無用ですらある。「われら」の即ち「わたし」の希願を鼓舞すればよいのである。このことは「序」にも「すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるもの」としてみられたことであり、「この大自然はかの統一若くは大霊にして、その内に人々個々の存在は抱有せられ、個々の人は甲乙共に合一するなり。」(「大霊論」)という考え方が積極的に展開されたものである。
 それは確かに自己と他者の合一の短絡的思考であるが、「心象スケッチ」思想におけるひたすら超越的存在との契合を志向するのと違って、それを前提としながら地上の他者に向って開かれている。そこに「農民芸術概論綱要」の開かれた思想としての意味があり、羅須地人協会の実践活動ともかかわってくる。

 重要な部分ですので引用が長くなり恐縮ですが、この大沢氏の指摘は、確かにそのとおりだと私も思います。賢治の言う「われら」や「みんな」は、自らの思いを一挙に世界へと拡大したもので、まさに「他者との短絡的な自己同定」ですし、「心象スケッチ」においては、彼は「ひたすら超越的存在との契合を志向」しています。

 ただしかし、賢治が他者と容易に一体化してしまい、また超越的存在とも契合してしまうのは、彼の「思想」が育まれる以前に、それこそ賢治がこの世に生まれて以来持っていた「感覚」としか言いようのないものだろうと、私は思うのです。他人の痛みも直接に自分の痛みとして体感し、あるいはふと気がつくと「惚として銀河系全体をひとりのじぶんだと」感じている人間にとっては、これらの体験は理屈ではなく、勝手に向こうからやってくるもので、それこそ「天与の精神」なのです。
 こういう感覚への親和性、それは精神医学的に言えば「解離的な傾向の高さ」ということだろうと私は思うのですが、なぜか賢治は生まれながらそういう傾向を強く持っていた人であり、おそらくエマーソンもそうだったのでしょう。

 短絡的に、無媒介的に、人々と一体になったり世界や神と合一してしまったりする賢治にとっては、それは「もうどうしてもこんな気がしてしかたない」「ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたない」ことなのですから、それは私たちとしても、そう受けとめておくしかありません。そして、それが思想として世の中の役に立つのかどうか、ちょっと方法論が不十分ではないか、などと問われても、賢治としては、「これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません」と、答えるしかないのでしょう。

 1925年12月20日付けの岩波茂雄あて書簡214aにおいて、賢治は前年に刊行した『春と修羅』に収めた「心象スケッチ」について、次のように説明しています。

わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自費で出しました。

 ここで当時の賢治が、何に対して「おかしな感じやう」をしていたのかというと、この文章によれば、それは「歴史やその論料」と、「われわれの感ずるそのほかの空間」という、二つの対象です。
 後者、すなわち「そのほかの空間」のことを、賢治は別の場所では「異空間」とも呼んでいます(思索メモ1「異空間の実在」ほか)。彼は、しばしば幻聴や幻視などの幻覚体験をすることがあり、その際に見聞きした体験内容は、「この世界」には実在しないものですが、賢治はそれを「そのほかの空間」=「異空間」に由来するものだと考えました。しかし、こういった幻覚はいつもあるわけではなく、ある時は見えても別の時には見えないものですし、またそんなものは全く見えないという人もあり、それは人間の認識の状態に依存した、はかなく「相対的」なものなのです。彼が、「そのほかの空間」について「おかしな感じやう」がすると述べたのは、こういう「空間認識の相対性」のことではないかと、私は推測します。

 他方、これに対して前者、すなわち「歴史やその論料」については、賢治はどう「おかしな感じやう」をしていたのでしょうか。こちらに関しては、『春と修羅』の「」が参考になると思います。

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません

 ここに用いられている「論料データ」という独特の用語が、岩波茂雄あて書簡と共通していることも、両者の論旨が一連のものであることを示唆していると思います。ここでは、「歴史」というものは、ただ「われわれがかんじてゐるのに過ぎません」と述べられており、賢治がここで言いたかったのは、客観的で変わることのない「不磨の大典」のように「歴史」というものが存在するのではなく、それぞれの時代から見たそれぞれの歴史が、「因果の時空的制約のもとに」、存在するに過ぎないのだ、ということでしょう。「銀河鉄道の夜」初期形第三次稿で大きな帽子の人が言ったように、人間が考える「歴史」とは、時とともに変転していくものであり、所詮「相対的」なものなのです。

 すなわち、岩波茂雄あて書簡に述べられている賢治の「おかしな感じやう」の正体は、「時間認識=歴史の相対性」であり、「空間認識=心象の相対性」である、ということになります。
 さてここで、「われわれの感ずるそのほかの空間」のことを「異空間」と呼ぶのならば、「われわれの生きている今ではない、ほかの時間」のことを、「異時間」と呼んでみることもできるでしょう。そして、「異時間における出来事に関する認識の集成」が、いわゆる「歴史」に相当します。

 つまり、『春と修羅』の「」や、岩波茂雄あて書簡において賢治が述べているのは、「異空間および異時間に対する認識の相対性」と言い換えることもできるというわけです。

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

 この「」の結びの、「心象や時間それ自身の性質として…」という箇所は、アインシュタインの「四次元時空連続体」に基づくならば、「空間や時間それ自身の性質として…」と書いた方がより正確なように思えますし、またその認識の「様態」を指すのならば、上に見たように「心象や歴史それ自身の性質として…」と書く方が適当かとも思われます。
 ただ、この賢治の書き方からあらためてわかるのは、「心象」の持っている次元は、とりもなおさず我々の「空間」が有している三次元だ、ということですね。

 以上、まあ賢治にとっては、「心象」は異空間を写し、「歴史」は異時間を映す、ということだったのではないかと思います。

石碑を四つ追加

 「石碑の部屋」に、下記の四つの詩碑を追加しました。

 これで、「石碑の部屋」に掲載している碑の数は、全部で136基となりました。まだ手もとには、写真を撮影してきたもののまだアップできていない詩碑が、6つほどあるのですが、追って掲載していきたいと思っています。

 結局は出版されなかったものの、賢治が一時は出版を想定して書いた「春と修羅 第二集」の「」の草稿が残されています。『春と修羅〔第一集〕」の「」が、新たな世界観を提示しようというほどの若々しい気概にあふれていたのに対して、こちらの『第二集』の「序」の方は、諧謔味をもって、自嘲を装うようでいながら、自身の生活や労働に対する「矜持」も感じさせるものです。

 さて、その『第二集』「」は、次のように始まります。

  序

この一巻は
わたくしが岩手県花巻の
農学校につとめて居りました四年のうちの
終りの二年の手記から集めたものでございます
この四ヶ年はわたくしにとって
じつに愉快な明るいものでありました
先輩たち無意識なサラリーマンスユニオンが
近代文明の勃興以来
或ひは多少ペテンもあったではありませうが
とにかく巨きな効果を示し
絶えざる努力と結束で
獲得しましたその結果
わたくしは毎日わづか二時間乃至四時間のあかるい授業と
二時間ぐらゐの軽い実習をもって
わたくしにとっては相当の量の俸給を保証されて居りまして
近距離の汽車にも自由に乗れ
ゴム靴や荒い縞のシャツなども可成に自由に撰択し
すきな子供らにはごちさうもやれる
さういふ安固な待遇を得て居りました

 賢治自身の、農学校教師時代の生活について述べているところです。この中で、私にとって何となく不思議な箇所がありました。
 教師時代の賢治は、確かに「わたくしにとっては相当の量の俸給を保証され」、上に書いてあるようにいろいろと経済的な自由を享受できる状況にあったのでしょうが、賢治によればそのような経済状態をもたらしてくれたのは、「先輩たち無意識なサラリーマンスユニオンが/近代文明の勃興以来/或ひは多少ペテンもあったではありませうが/とにかく巨きな効果を示し/絶えざる努力と結束で/獲得しましたその結果」である、というのです。
 私が疑問に思ったのは、当時の教師の俸給というのは、「サラリーマンスユニオン」の運動の成果と言えるものだったのだろうか、ということでした。

 まず、大正時代の教師の給料がどの程度のものだったのか、調べてみました。弓削耕「日本の教育の歩み(4)」によれば、「当時の教員の給与は勤め人平均の70%程度と低いものであった」ということです。伊ヶ崎暁生著『文学でつづる教育史』p.184によれば、「大正3年の物価指数を100とすると、大正7年には220に上昇する。しかし、教員の俸給は大正7年でやっと3割5分の上昇率であった」とのデータもあります。また、このような経済状態のために、「第一次世界大戦後、(中略)物価の上昇による教員生活の悪化にともなう教員の無気力な状況」があったことも、指摘されています(中野光著『教育改革者の群像』p.88)。
 すなわち、当時の教師の給与は、客観的にはあまり十分と言えるものではなかったようなのです。もちろん、農民や現業労働者に比べると、安定した収入は保証されていたのでしょうが、一家の大黒柱として家族を養うとなると、決して「安固な待遇」ではなかったと思われます。賢治の場合は、両親とともに暮らしていたので家賃や食費を払う必要がなく、自分が養うべき家族もなかったので、「わたくしにとっては相当の量の俸給」だったのでしょう。
 ちなみに賢治の俸給は、1921年(大正10年)の就職時で「八級俸(80円)」、退職前には「五級俸(110円)当分105円支給」となっています。これを現在の貨幣価値に換算するとどうなるか、様々な規準があって一概には言えませんが、たとえば金の価格を基準にすると、1925年には金1g=1円73銭、2008年には1g=2937円ですから(年次金価格推移)、賢治の初任給は現在の13万5815円、退職前には17万8257円、となります。

 次に、「サラリーマンスユニオン」と教師の俸給の関係です。いろいろ調べてみると、大正時代は、確かに労働組合運動がかなり盛り上がった時期でした。
 下に、明治-大正期の労働運動の流れを、簡単にまとめてみました。

1886(明19) 日本最初のストライキ(山梨県雨宮製糸工場)
1897(明30) 片山潜らが「労働組合期成会」結成
1900(明33) 治安警察法公布(団結権、団体交渉権、争議権を全面禁止)
1912(大元) 鈴木文治らが「友愛会」結成
1918(大 7) 各地で米騒動勃発 全国の労働組合数:107
1919(大 8) 下中弥三郎らが日本最初の教員組合「啓明会」を結成
1920(大 9) 日本最初のメーデー
1921(大10) 「日本労働総同盟」結成 全国の労働組合数:300
1925(大11) 「普通選挙法」「治安維持法」公布
1926(大15) 「労働農民党」「社会民衆党」「日本労農党」結成
1928(昭 3) 2月 第1回普通選挙施行 4月「労働農民党」に解散命令

 賢治が教師になったのは1921年(大正10年)の終わりですが、その直前3年間で、全国の労働組合数は3倍に増加し、この年に「日本労働総同盟」も結成されています。このような労働運動の高まりを、もちろん賢治も感じていたでしょう。
 教師による運動としては、1919年(大正8年)に日本初の教員組合と言われる「啓明会」という組織が埼玉を中心に結成され、翌年に行われた日本最初のメーデーにも、主催団体の一つとして参加します。この年、啓明会は「日本教員組合啓明会」と改称して全国組織としての体裁を整えるとともに、「教育改造の四綱領」を発表しました。
 四綱領の内容は、(1)「教育理想の民衆化」、(2)「教育の機会均等」、(3)「教育者を現代の隷属的地位より解放し、自由なる人格の主体として生気ある教育を行わんが為には教育者の教育管理=教育自治を実現せざるべからず」、(4)「教育の動的組織=教師による教育課程の自主編成権を認め、地域に立脚した教育の自由の原則を尊重すべき」、というものでした(中野光著『教育改革者の群像』p.91)。
 すなわち、この「日本教員組合啓明会」の活動は、メーデーへの参加に見られるように労働運動としての自覚は持っていたものの、その柱であった「四綱領」を見ると、教師自身の待遇(給与)を改善せよという主張は直接行わず、おもに教育そのものの改革を志向する団体だったと言えそうです。
 そもそも、当時の教員の大半は公務員(待遇官吏)でしたから、労働者として団結し、処遇改善を求める運動をするなどということ自体が認められていませんでした。例外的に、1930年(昭和5年)に非合法組織として「日本教育労働者組合」が結成されましたが、1933年(昭和8年)に各地で一斉検挙が行われ、壊滅しています(戦前における教育労働運動)。

 以上をまとめると、大正時代の教師の給与は、客観的には十分なものではなく、また、サラリーマンスユニオン=賃金労働者組合の運動によって待遇が改善されたという直接的な事実は、なかったようなのです。
 それなのに、賢治が自らの教師時代の「愉快な明るい」日々を回顧するにあたって、ことさら「サラリーマンスユニオン」が「獲得しましたその結果」と表現したのは、いったい何故なのでしょうか。

 その答えとして私が考えるのは、この「春と修羅 第二集」の「」を書いた頃の賢治が、とくに労働組合運動に対して、肯定的な評価および共感を抱いていたからなのではないか、ということです。


 それについて説明するためには、まず賢治がこの「春と修羅 第二集」の「」を、いつ書いたのかということが問題です。これに関しては、すでに入沢康夫氏が『新修 宮沢賢治全集』第三巻の「後記(解説)」において、詳細な考証を行っておられますので、以下、入沢氏の記述をご紹介しつつ述べてみます。

 この「序」では、冒頭に引用した部分に続いて、

まづは友人藤原嘉藤治
菊池武雄などの勧めるまゝに
この一巻をもいちどみなさまのお目通りまで捧げます
たしかに捧げはしまするが
今度もたぶんこの出版のお方は
多分のご損をなさるだらうと思ひます

という箇所があります。
 一方、森荘已池氏は学芸書林刊『「春と修羅」研究 I』に次のような文を書いています。

 『春と修羅』第二集の出なかったのは、詩集を作るために買った新しい謄写版を、無産政党の支部に、金二十円を添えて寄贈したためであった。
 また賢治の親友藤原嘉藤治氏の話によれば、『春と修羅』第二集を、短歌雑誌『ぬはり』社の菊池知勇氏が出版しようとした。そのときは賢治が出版部数の半分を買うようなことだったが、話だけで実現しなかったという。

 入沢氏は、この森荘已池氏の記述や堀尾青史氏の『年譜 宮沢賢治伝』をもとに、賢治が言う「出版のお方」とは、岩手師範における菊池武雄の4年先輩だった菊池知勇氏のことと推定します。
 また、「春と修羅 第三集」所収の作品「台地」に描かれているのは、「稲作指導、肥料設計についてきてくれたふたりの友、藤原嘉藤治、菊池武雄」であるという堀尾青史氏の指摘を踏まえ、東京在住の菊池武雄と花巻にいる賢治・藤原嘉藤治の3人が会う機会はそう度々はなかっただろうということから、この「」に述べられている「友人藤原嘉藤治/菊池武雄などの勧め」があったのは、「台地」の日付けである1928年(昭和3年)4月12日のことであろうと、入沢氏は推定します。
 ちなみに、「台地」の初期形には、「夏の休みのある日を約し」という一節がありますが、その言葉を裏付けるかのように、『新校本全集』年譜篇には、1928年(昭和3年)8月中旬に菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で羅須地人協会を訪れたが賢治は不在で、その後、賢治が二、三日前に健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞いに行ったが病状よくなく面会できなかった、という記載があります。つまり、「賢治、藤原、菊池の三人が一緒に話したのは、賢治の発病前では例の4月12日が最後だったようだ」(入沢氏)というわけです。
 そこで結局、賢治が「」を書いたのは、1928年(昭和3年)4月中旬から、賢治が病気で倒れる同年8月上旬までの間、「それも6月7日からは東京方面への旅や帰郷後の多忙などがあるので、4月中旬から6月はじめまでの間である可能性が、最も大きい」と、入沢氏は推定しておられるのです。

 さて次に、この1928年(昭和3年)という年は、賢治が労農党に対して、陰ながら手厚い支援を行っていた時期でもあります。上に謄写版を寄贈した話が少し出ましたが、これは、労農党員であった煤孫利吉氏の話を、名須川溢男氏が紹介した文「宮沢賢治について」(「岩手史学研究」50号)に述べられていることで、『新校本全集』年譜篇では、1928年(昭和3年)2月初旬の項に、次のように書かれています。

 第一回普通選挙の投票日は2月20日であるが、労農党員だった煤孫利吉によるとこの選挙運動のとき「二月初め頃だったと思うが、労農党稗和支部の長屋の事務所は混雑していた、バケツにしようふ(のり)を入れハケを持って『泉国三郎』と新聞紙に大書したビラを街にはりに歩いたものだった、事務所に帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ二十円があった、『宮沢賢治さんが、これをタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったものだ、と聞いた。」という。

 そもそも、この労農党稗和支部の事務所自体、賢治の支援によって開設されたものでした。『新校本全集』年譜篇の1926年(大正15年)10月31日の項には、

 この日花巻町朝日座に於いて労農党稗和支部が三十余名で結成された。高橋慶吾もそのひとりであった。後、党事務所が賢治の世話で仲小路(現仲町)にあった通称宮沢町の宮右の長屋にでき、肥料設計をたのむ農民たちは賢治が上町に開いた相談所が近かったので両方に出入りした、という。

とあります。
 1927年(昭和2年)3月26日の日付けを持つ「〔黒つちからたつ〕」(詩ノート)という作品には、

きみたちがみんな労農党になってから
それからほんとのおれの仕事がはじまるのだ

という一節がありますが、上記のように、農民たちが賢治の肥料事務所と労農党の事務所の両方に出入りした、というような状況が現実にあったからこそ、「きみたちがみんな労農党になってから…」という当時の賢治の将来への希望も生まれたのでしょう。
 さらに、労農党盛岡支部執行委員だった小館長右衛門の談話から。

 宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことこだし他にそういう運動に尽したということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。いずれにしろ労農党稗和支部を開設させて、その運営費を八重樫賢師を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった。おもてにでないだけであったが。(名須川溢男「賢治と労農党」,『新校本全集』年譜篇p.322より)

 「実質的な中心人物」とまで言えるかどうかはともかく、賢治が労農党の演説会にも通い、かなりの経済的支援を行っていたことが証言されています。賢治がそこまでのことをしたのは、思想や政策の上でも共感していたからでしょう。

 しかし、賢治の支援もむなしく、1928年(昭和3年)2月20日に行われた第一回普通選挙において、労農党候補の泉国三郎は惜しくも落選してしまいます。さらに追い打ちをかけるように、同年4月10日、労農党は「治安警察法第八条違反」として政府から解散を命じられてしまいます。
 これには、賢治も落胆したことでしょう。同年6月10日の日付けを持つ「高架線」という作品にも、

ひかりかゞやく青ぞらのした
労農党は解散される

という一節がひっそりと出てきます。


 さて、上に見てきたように、1926年~1928年頃の賢治が、労農党を強く支持していたのは事実でしょう。支持するようになった発端は、農民を救済する政策の実現というところにあったのかもしれませんが、上述のように何度も演説会に通ううちには、都市の労働者が置かれている窮境や、それに抗して労働組合運動を発展させていこうとする労農党の立場についても、いろいろと知り、賢治なりに考えることもあったのではないでしょうか。
 そして、当時の賢治がかなりの程度まで労働運動なるものに共感していたからこそ、1928年の春から初夏の頃に書いた「春と修羅 第二集」の「」において自らの教師時代を回顧する際に、わざわざ客観的事実を離れてまで、「サラリーマンスユニオン」が「絶えざる努力と結束で/獲得しましたその結果」として言及したのではないかと、私は思うのです。
 それ以外に、ここに不意に「サラリーマンスユニオン」などという言葉が登場する理由が、私には思いあたりません。


 それから、今日の記事の最後に。「春と修羅 第二集」の「」の終わりは、次のように結ばれています。

けだしわたくしはいかにもけちなものではありますが
自分の畑も耕せば
冬はあちこちに南京ぶくろをぶらさげた水稲肥料の設計事務所も出して居りまして
おれたちは大いにやらう約束しようなどいふことよりは
も少し下等な仕事で頭がいっぱいなのでございますから
さう申したとて別に何でもありませぬ
北上川が一ぺん汎濫しますると
百万疋の鼠が死ぬのでございますが
その鼠らがみんなやっぱりわたくしみたいな云ひ方を
生きてるうちは毎日いたして居りまするのでございます

 ここに出てくる、「おれたちは大いにやらう約束しよう」という言葉からは、私は当時の既成政党の政治家のことを連想します。
 このような輩の口約束に対照されることとして、賢治が「も少し下等な仕事」と反語的に述べているのは、畑を耕し、肥料の設計事務所を出し、というような、現場的な生産的な営みです。

 そして、最後に出てくる「北上川が一ぺん氾濫すると死ぬ百万疋の鼠」とは、いったい何のことなのだろうという気がしますが、私はこの「百万疋の鼠」とは、過酷な環境で「下等な仕事(=生産活動)」に従事し、そして命を削るようにして死んでいく、無産階級の人々の隠喩なのではないかと思うのです。
 1928年(昭和3年)2月の普通選挙の後、3月15日には共産党(非合法)や労農党などの関係者約1600人が一斉検挙されるという事件があり、さらに4月10日には、労農党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟が、政府によって解散させられました。あるいは、このような無産政党や労働運動への大規模な弾圧も、「北上川が一ぺん汎濫しますると/百万疋の鼠が死ぬ」という表現の奥にはあるのかもしれません。
 しかし、北上川が汎濫したからといって、そしてその時にいくら大量の鼠が死んだからといって、鼠が絶滅してしまうわけではありません。同じように、いくら労農党が解散させられたからといって、農民や労働者の側に立つ運動が、社会から根絶されるものではないと、賢治はひそかに考え、無念さをこらえていたのではないでしょうか。

 入沢氏の推定によれば、「春と修羅 第二集」の「」が書かれたのは、おそらく労農党の解散(4月10日)から、賢治が「ひかりかゞやく青ぞらのした/労農党は解散される」と書く(6月10日)までの間に含まれる、いずれかの日だったことになります。
 この「」の表現の裏には、賢治の上のような思いも込められていたのではないかと、私はふと思ったわけです。