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 来たる7月28日-29日に花巻の宮沢賢治イーハトーブ館で、賢治学会の夏季特設セミナー「心象スケッチと異空間」が開かれます。すでに「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」のページにも予告が掲載されていますが、その開催要領と内容は、下記のとおりです。

宮沢賢治学会夏季特設セミナー「心象スケッチと異空間」

期日:  2018年7月28日(土)・29日(日)
会場:  宮沢賢治イーハトーブ館ホール
定員:  200名
受講料: 学会員無料 一般参加者資料代300円
主催:  宮沢賢治学会イーハトーブセンター

第1日 7月28日(土) 13:30より
1. 開会あいさつ
2. 基調報告 平澤信一(明星大学教授)
3. 研究発表およびコメント・質疑応答
  秋枝美保(福山大学教授)
   「宮沢賢治における「生活の改善」
     ―短歌から心象スケッチへ」
  信時哲郎(甲南女子大学教授)
   「語りきれぬものは、語り続けなければならない」
  コメンテーター 岡村民夫(法政大学教授)
4. 詩作品朗読 牛崎敏哉
5. 交流会 会費1,500円

第2日 7月29日(日) 9:30より
1. 詩作品朗読 ポランの会
2. 研究発表およびコメント・質疑応答
  浜垣誠司(精神科医)
   「「おかしな感じやう」の心理学
   ―「心象スケッチ」における賢治の超常体験の特徴」
  富山英俊(明治学院大学教授)
   「心象スケッチ、主観性の文学、仏教思想」
3. コメンテーター 栗原敦(実践女子大学名誉教授)
4. 詩作品朗読 古屋和子

 ご覧のように、並みいる第一線の研究者の方々にまじって私も二日目に発表をすることになり、今から身の引き締まる思いをしています。
 当日お話しする内容については、まだこれから整理していくところですが、その準備のためにも、現時点でおおまかに考えていることについて、ここで簡単にまとめておきます。

 今回のセミナーは、2015年から始まった「心象スケッチを知っていますか?」という企画の第三弾で、「心象スケッチと異空間」と題されています。
 ところで、賢治の言う「異空間」には、大まかに言って二つの側面があると私は思います。一つは、仏教の教理で言う「十界」、すなわち地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界という様々な世界のうち、人間や畜生が生きている「この世界」以外の、「他の世界」のことです。我々が生きているこの世界からは、「地獄」も「天」も通常は感じとることはできませんが、しかし仏教の教えでは、死後には輪廻転生してこういう空間のどこかに行くのだとされており、これは「異空間」の理論的な側面と言えます。
 これに対してもう一つは、より感覚的な側面です。賢治という人は、その作品にも記録され、周囲の人々も証言しているように、しばしば幻覚(幻聴・幻視など)を体験する人でした。ところで、幻聴で人の声が聞こえたり、幻視で瓔珞をつけた子供が見えたりしても、そのような声や子供は、現実には存在していません。だから一般に幻覚とは、「対象なき知覚」と呼ばれるのですが、しかしここで賢治は、自らの幻覚をそのようにはとらえず、彼自身が幻覚で体験する内容は、この世界には存在しないかもしれないが、ここではない「別の世界」には存在していて、そこから幻覚という特殊な形で到来するのだと、考えていたのです。その「別の世界」のことも、賢治は「異空間」としてとらえていたのです。

 しかしながら、仏教的・理論的に規定されている異界と、自分が幻覚で感じる対象が存在すると勝手に想定している場所が、同じ意味における「異空間」である保証は何もありませんし、このような考え方は、正統的な仏教の解釈とは言えないでしょう。しかし実際に、賢治自身がそのように考えていたことは、例えば彼が残した「思索メモ1」などからも、読みとることができます。
 すなわちこのメモには、「一、異空間の実在 天と餓鬼、」「「幻想及夢と実在」「二、菩薩仏並に諸他八界依正の実在」などと書いてありますが、彼は「幻想」や「夢」に現れてくる現象は、「天」や「餓鬼」など、仏教的な意味における「異空間」の実在を証明するものと考えていのだと推測されます。実際に賢治は、「小岩井農場」の中では、「緊那羅のこどもら」「瓔珞をつけた子」を見ていますが、この子供たちは「天界」の存在でしょうし、また農学校の同僚の白藤慈秀には、「餓鬼の世界」の声が聞こえるという話もしています。

 またより具体的な形では、「青森挽歌」でトシの臨終の場面を回想する、次の箇所に表れています。

にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた
それからあとであいつはなにを感じたらう
それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう

 ここでは、トシはすでに死んでしまったので、当然ながら「わたくしたちの空間を二度と見なかった」と賢治は考えていますが、しかしその後に、「おれたちの世界の幻視をみ/おれたちのせかいの幻聴をきいたらう」とも記しているのです。これは常識的には理解しがたいことですが、賢治の考えによれば、トシは死者として「異空間」に行ってしまったので、「おれたちの世界」のことを通常の方法では見たり聞いたりすることはできないものの、「幻視」や「幻聴」という形でならば、感じとることもできるというのです。(上記については、以前の記事「賢治はいつトシは死んだと判断したか」で、もう少し詳しく述べました。)
 つまりここでも、幻視や幻聴は、異空間の間の伝達の手段になっているわけです。

 賢治による「異空間」の理解がこのようなものであったとするならば、「心象スケッチと異空間」という今度のセミナーのテーマに沿うためには、賢治にとって「異空間」を感じとる手段となっていたところの、「幻覚体験」そのものについて検討する必要が、どうしても出てくるわけです。

 同じことを、また別の角度から見てみましょう。賢治は、自作の「心象スケッチ」というものの趣旨について、いくつかの書簡で触れていますが、その代表的なものが、1925年2月の森佐一あて書簡200と、同年12月の岩波茂雄あて書簡214aという、有名な二通です。
 まず森佐一あて書簡では、次のように述べられています。

前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。

 岩波茂雄あて書簡では、次のように説明されています。

わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自費で出しました。

 岩波茂雄あて書簡を見ると、賢治が心象スケッチを書いた目的は、「歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやう」がしたので、それらについて「あとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちを科学的に記載し」たのだ、ということになります。ここで言う「あとで勉強するときの仕度」とは、森佐一あて書簡の方には「或る心理学的な仕事の仕度」とあることから、賢治がいつか実行しようと企画していたのは、自分の「おかしな感じやう」について、「心理学」的に解明することだ、ということになるでしょう。
 私が、今度のセミナーの発表のタイトルを「「おかしな感じやう」の心理学」とした理由は、ここにあります。

 それでは、賢治が自ら「おかしな感じやう」と呼んでいたのは、どのような「感じ」のことなのでしょうか。
 岩波茂雄あて書簡を見ると、「歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについて」と書かれていますから、彼の「おかしな感じやう」の対象は、「歴史やその論料」と、「そのほかの空間」ということになり、後者はまさに今回のセミナーのテーマに入っている「異空間」です。
 では前者、すなわち「歴史やその論料」について、賢治が「おかしな感じやう」をしていたというのは、いったいどういうことだったのかと考えてみると、これは「論料」という言葉の共通性からしても、『春と修羅』の「」の次の箇所に書かれていることと、関連しているのでしょう。

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

 ここで賢治が「記録や歴史、あるひは地史」について言おうとしていることは、少し前の記事でも書いたように、客観的で変わることのない「不磨の大典」のような「歴史」なるものが存在するのではなくて、それぞれの時代から見たそれぞれの歴史認識が、時とともに様々に形を変えながら存在するに過ぎないのだ、ということでしょう。「銀河鉄道の夜」初期形第三次稿で博士がジョバンニに見せてくれた「地理と歴史の辞典」や、「グスコーブドリの伝記」でクーボー大博士が使っていた「歴史の歴史といふことの模型」にこめられているのも、同じ思想だと思われ、つまり賢治が「歴史やその論料」について「おかしな感じやう」をしていたというのは、このような「歴史の時間的相対性・無常性」ということだと思われます。
 しかしそれでは、賢治の「心象スケッチ」において、このような事態について記述されているものがあるかと探してみると、上の『春と修羅』「」の「みんなは二千年ぐらゐ前には/青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ…」という箇所などは確かにそうかもしれませんが、それ以外には特に見つからないのです。

 となると、賢治の「おかしな感じやう」の中身について考えるには、彼が「心象スケッチ」に記載している「そのほかの空間=異空間」のことを中心に、検討していかなければならない、ということになるわけです。
 賢治にとって「異空間」とは、最初の方にも書いたように、個人的には己れの幻覚によって感じとられる現象のことですから、結局のところ、賢治の幻覚体験について考察することが、今度のセミナーにおける重要な課題だと、少なくとも私には理解されます。

 というわけで、私が「「おかしな感じやう」の心理学―「心象スケッチ」における賢治の超常体験の特徴」というタイトルのもとに当日述べてみたいのは、このような賢治の特異な体験を、現在の精神医学から見ればどう位置づけることができるか、ということだとも言えます。ただ、単にそれらの現象に名前を付けたり分類したりするだけでは、おそらく新たに何かが得られるわけではありませんので、私としては、宮澤賢治という一人の「人間」をあらためて理解し直す上で、少しでも材料を提供できるようなお話ができればと思っているところです。
 具体的には、以前から時々述べていたように、「解離」という心理機制の働きが、キーワードになるかと思います。

 ところで余談ですが、上に見たように賢治の森佐一あて書簡と岩波茂雄あて書簡を読むかぎりでは、賢治は自らの「心象スケッチ」を、あくまで「或る心理学的な仕事」の準備のために書いたのだと述べており、さらに「これらはみんな到底詩ではありません」などと強調している背景には、そこに「文学的」な意図があることを、ことさら否定しようとしているようにも見えてしまいますが、はたしてこれは額面どおり受けとってよいものなのでしょうか。
 これについては、賢治が自らの「心象スケッチ」のテキストを、飽くことなく推敲しつづけ、その韻律にもこだわっていたことを思えば、文学的作品としての意識が賢治に強く存在したのは、確実と言ってよいだろうと私は思います。

 それではなぜ、上記の二つの書簡においては、賢治は異なった書き方をしているのかということが問題となりますが、1922年1月に『春と修羅』に収められる作品を書き始めた頃の彼の思いと、1925年に書簡をしたためた時の考えが変化しているというのは、別にそれで当然のことなのかもしれません。
 それは彼自身も、次のように書いているからです。

正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
 (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます

 最後に、今度の発表で(今のところ)予定しているスライドの表紙画像を貼っておきます。だいぶ以前に、種山ヶ原で撮ってきた写真です。

「おかしな感じやう」の心理学・スライド表紙

9月に比叡山でお話ししたこと(2)

 前回に続き、この9月の賢治忌法要の時にお話しさせていただいた内容です。3.(5)の内容は、以前に「「青森挽歌」の構造について(1)」として掲載した記事と、一部重複します。

3. 解離という視点

(1) 柴山雅俊著『解離性障害』
 今日はここに、1冊の本を持って来ました。柴山雅俊さんという精神科医が書かれた『解離性障害』という新書本で、タイトルの「解離性障害」という、現代において注目されている一群の精神疾患について、一般向けに解説したものです。

解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書) 解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)
柴山 雅俊

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 この解離性障害という病気は、昔から知られてはいましたが、従来は比較的珍しいものとされ、精神科の医者をやっていても実際にその患者さんにめぐり会うのは、一生に1人か2人と言われていました。それが、近年になって驚くほどその数が増加して、いろいろと話題に上るようになっています。

 その「解離性障害」というのはどんな病気かということですが、いきなり全体像をご説明しようとすると、ちょっとぼやけてしまってイメージが湧きにくいかと思いますので、まずその最も代表的で極端な状態を挙げてみましょう。
 『ジキル博士とハイド氏』という小説がありますが、この物語の題材となっている「多重人格」という状態がそれです。このような状態においては、一人の人間の中に全く異なった別々の人格が形成されて、それが時によって勝手に出てきて行動をしてしまう、という現象が起こります。いったいなぜこんなことになるのでしょうか。

 誰しも、心の中に相反する要素を抱えているということはあるものです。たとえば、「勉強をしよう」という気持ちと「遊びたい」という気持ちが葛藤するというのはごく普通のことですが、たとえ相反する気持ちでも、心の中で相互にきちんと繋がっているおかげで、どちらにしようかと人は「悩む」ことができるのです。
 ここでもしも、この二つの要素が、心の中のバリヤーで完全に切り離されて繋がりを失ってしまうと、「とにかく勉強するくそ真面目な人格」と、「遊んでばかりの放縦な人格」とに分裂してしまうことになります。そして、各々の人格が時によって勝手に現れるだけで、意識的に悩んだりコントロールしたりすることが、できなくなるのです。
 このような状態が「多重人格」であり、そのメカニズムを説明する「解離」という言葉は、心の中の要素が、相互にバリヤーで「切り離されている」という事態から由来しています。

 20世紀の終わり頃からまずアメリカで、次いで日本でも、それまでは精神科の医者が一生に1人か2人見る程度と言われていた多重人格の患者さんが、かなりの数で医療機関を訪れるようになりました。そのように増えた原因は、社会環境の変化などにあるとも言われていますが、解離性障害が注目を集めるに従い、その背景にある「解離という心理現象」が、より詳細に研究されるようになったことにもよります。
 以前は、「多重人格」や「健忘」(いわゆる記憶喪失)などに限定して用いられていた「解離」という概念が、より広い意味で使われるようになってきたのです。そのような変化が、「解離性障害」という疾患群の裾野を大きく広げ、従来ならば解離として取り扱われてこなかった病状も、解離性障害として分類されるようになりました。

 ここにお持ちした柴山雅俊氏の『解離性障害』という本でも、どちらかというとその幅広い「裾野」の方が詳しく紹介されているのですが、ところで私が今日この本をここに持って来た理由を申し上げますと、実はこの本の第四章は、まる一章を割いて、宮沢賢治の作品や心性について、解離性障害との関連から分析を行っているからなのです。
 以下、まずは柴山雅俊氏の本に従って、賢治の作品に現れている「解離」的な現象を見てみましょう。

(2) 賢治作品に見る解離症状
 柴山雅俊氏もきっと宮沢賢治がお好きなんだと思いますが、この本で柴山氏は、賢治の作品において描写されている特異な現象をいくつも取り上げ、これが「離人症」「体外離脱体験」「表象幻視」「気配過敏症状」という4種類の解離症状に相当すると述べておられます。

図22
(図22)

 まず、「離人症」の例として挙げられているのは、すでに前半部で「自己の消滅」の例として(図14)で挙げたと同じ、「ぼんやりと脳もからだも/うす白く/消え行くことの近くあるらし」や、保阪嘉内あて書簡の「われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。…」という一節です。
 このように、自分自身の存在が現実ではないように思えたり、「自分がここにいる」という実感が失われたりすることを、医学的には「離人症」と呼びます。この離人症も、解離という現象の一種です。

 次の「体外離脱体験」というのは、自分の魂が体から外に出てしまうという感覚のことで、柴山氏は「インドラの網」という童話の、「そのとき私は大へんひどく疲れてゐてたしか風と草穂との底に倒れてゐたのだとおもひます。その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずゐぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやってゐました。」という一節を挙げておられます。自分の体から抜け出した「私」が、その抜け殻の体に挨拶しているというわけですね。
 あるいは、(図18)で引用した書簡の、「ある日の午后私は椅子によりました。ふと心が高い方へ行きました。」というところも、典型的な体外離脱でしょう。

 三番目の「表象幻視」というのは、心の中に存在するイメージ(表象)が、まるで現実の存在のように、目の前にありありと見えるという現象です。詩「小岩井農場」には、「すきとほるものが一列わたくしのあとからくる/ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り/またほのぼのとかゞやいてわらふ/みんなすあしのこどもらだ」という箇所があります。農場を歩いている賢治には、後ろを歩いている素足の子供たちの姿が見えたのです。
 また、「春と修羅 第二集」の「塚と風」という作品には、「髪を逆立てた印度の力士ふうのものが/口をゆがめ眼をいからせて/一生けんめいとられた腕をもぎはなし/東に走って行かうとする/その肩や胸には赤い斑点がある」という一節があって、この時の賢治には、「体に赤い斑点のあるインドの力士」などという摩訶不思議な存在も見えたようです。

 最後の「気配過敏症状」というのは、誰もいないところにまるで人がいるような「気配」を強く感じてしまうことで、若い頃の短歌の「うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり」や、「ブリキ鑵がはらだゝしげにわれをにらむつめたき冬の夕暮れのこと」などという作品に表れています。背後の湖やブリキ缶などという無生物に睨まれているという「気配」を、賢治はこの時ありありと感じたのです。

(3) 解離という心理機制
 このように、「離人症」「体外離脱体験」「表象幻視」「気配過敏症状」という症状を並べてみると、一見何のつながりもないように思えます。また、これらは最初に解離の典型像として挙げた「多重人格」とも全く異なっていますから、これらをまとめて「解離症状」と呼ぶと申し上げても、ちょっと理解しにくいかもしれません。
 そこで、これらを束ねている「解離」という心的現象の概念について、ここで簡単にご説明をしておきます。

 人間の「精神」というのは、その複雑で巨大な全貌はまだとても解明されてはいませんが、それでも一人の人間の「精神」は、何らかの「まとまり」を持って働いているということは言えるでしょう。
 今、皆さんの目には、この会場の照明や、スクリーンに映ったスライドや、前の人の背中や、いろいろな物が見え、耳には私の声や、エアコンの音や、隣の椅子のきしみや、様々な音が聞こえ、またさっき頂いた昼食の満腹感や、軽い眠気や、椅子の座面や背もたれの感覚など、たくさんの刺激を感じておられるでしょう。
 これらは、四方八方や自分の内側から、てんでばらばらにやってきて、相互に無関係なものも無数にありますが、皆さんの各人にとっては、「私の」感覚として一束にまとめられています。

 このように「知覚」された内容は、皆さんの中で大まかにいったん「統合」されているわけです。同じように、頭の中で考える様々な内容も、「私の」考えとしてやはり「統合」され、あと、「記憶」や「意志」や「感情」なども同様です。また人間の「意識」というものを、これらの要素が様々に活動する舞台であると考えれば、私の「意識」というものもまた、「私」のもとに「統合」されています。

 人間の精神活動というのは、このように何らかの仕方で「統合」され、一定の組織だった働き方をすることによって、うまく機能しているのだと言えますが、時にこの「統合」の機能が低下し、各々の働きが「ばらけて」しまうことがありえます。このような「精神機能の統合性が低下した状態」のことを、広い意味で「解離」と呼ぶのです。

 解離によって引き起こされる病的な症状の中で、臨床的によく遭遇するのは、「健忘」と言って、本来ならば憶えているはずの事柄が思い出せなくなる現象です。
 例えば、物凄く恐ろしい目に遭ったという体験などは、普通ならば忘れるはずはありませんが、その際にあまりの恐怖や衝撃を受けた場合には、出来事の一部あるいは全部を思い出せなくなるということがあります。これは、本来ならば「私の記憶」として脳の中に統合され保存されている情報の中で、その出来事の記憶だけが一種のバリヤーによって隔離されてしまい、「私の意識」がその領域にアクセスできなくなっていることが原因です。その記憶だけが、他から「切り離されている」という意味で、「解離」の一種なのです。

 最初に例に挙げた「多重人格」というのは、これよりさらに大がかりな解離です。この場合は、「記憶」だけでなく「意識」や「知覚」や「思考」や「感情」や「意志」までも、通常言われる「人格」全体が、バリヤーによっていくつかに切り離されてしまうために、それぞれが別個の人間であるかのように行動を始めてしまうのです。

 「健忘」や「多重人格」などの解離症状は、このように心の中に一種のバリヤーができてしまうことが特徴で、これを「区画化」と言います。
 これに対して、「区画化」を伴わない解離症状もあって、それが先に挙げた「離人症」とか「体外離脱体験」など、宮沢賢治に特徴的に見出されたものです。

 例えば「離人症」においては、人が通常ならば自分自身にぴったりと身に付けて感じている「現実的な存在感」が、まるで自分から離れてしまったかのように感じられます。賢治の、「ぼんやりと脳もからだも/うす白く/消え行くことの近くあるらし」という描写は、まさに私たち精神科医が診察室で耳にする言葉そのもので、たとえば「脳が無くなった」と表現する患者さんがあったり、「自分は、感じることも考えることも、何かしたいと思うこともなくなった」と言う人もあります。それでもご本人はこのように正しい言葉でしゃべれているわけですから、認知症の場合のように、本当に考えられなくなっているわけではありません。
 通常ならば、自分の存在感や、知覚、思考、感情、意志などが、「私」という自我のもとに統合されているはずのところ、その統合性が低下して、自分のものでないような感覚になってしまっているのです。

 このような感覚は、多くの人にとってはぴんと来ないかもしれませんし、「現実的な存在感とやらが薄れても、それで何か困るの?」と思われるかもしれません。しかしこれは、その本人にとっては非常に苦痛の大きな症状で、苦しさに耐えかねて自殺を考える人さえあるほどなのです。きっと賢治も、「…消え行くことの近くあるらし」の短歌を作った際には、相当の苦しさを抱えていたのではないかと思います。

 次に、「体外離脱体験」というのも、通常は自分の「身体」としっかり統合されているはずの「自己」の意識が、その身体との間の紐帯がほどけてしまって、ふらふらと離れてしまうと言うべき現象です。やはり精神機能の「統合」が低下しているという意味で、「解離症状」の一つなのです。

 そして、これらの「区画化」を伴わない解離現象は、自分の「意識」が何か通常の状態から変化してしまったという感覚を伴うため、まとめて「意識変容」あるいは「変性意識状態」と呼ばれることもあります。一般に知られているその例としては、夢のような恍惚とした意識となる「トランス状態」とか、シャーマンやイタコに見られる「憑依現象」なども、これに含まれます。

 宮沢賢治が描写している様々な特異体験は、こうやって見ると解離症状の中でも「意識変容」と呼ばれるものが主体です。前半で詳しく取り上げた「自我境界が薄い」という特徴も、あらためて解離という視点から見れば、意識変容の表れであると考えることができます。
 すなわち、「自他の区別」とは、「自分のことは自分と感じ、自分でないものは自分でないと感じる」という、まるで同語反復のような当たり前の感覚に基づいていて、これは一般の人にとっては、「それ以外にあり得ない」ほど自明の事柄です。しかし、人はどうやって「自己」と「非自己」を分けているのかと言うと、それは先述のように、赤ん坊が生後6ヵ月の間に身に付けた「自我境界」という心理的なメカニズムのおかげなのです。
 自我境界の内側から来る知覚をまとめて、「自己」の標識のもとに束ねている統合機能が、何らかの理由によって低下すると、たとえば種山ヶ原における賢治のように、この大地や空や雲も含めて「ぜんたいがわたくしなのだ」と感じることともなるのです。

図23
(図23)

(4) 解離性幻聴の特徴
 賢治の作品に描かれた特異な体験を、いくつか精神医学的な視点から見てきましたが、あと「幻聴」という現象を取り上げて、この項目を終わりたいと思います。
 「幻聴」というのは、実際に物理的には何の音もしていないのに、声や音が聴こえるという体験で、賢治の作品にはこれがしばしば登場します。「比叡(幻聴)」とか「鬼言(幻聴)」というように、タイトルに「幻聴」という言葉の入った詩もありますし、友人の森佐一から雑誌掲載のための作品を求められた際には、「スケッチ二篇お送りいたします…幻聴や何かの入らないすなほなものを撰びました」と書いており、賢治自身もその体験を「幻聴」と自覚していたことは明らかです。

 精神医学の領域で、「幻聴」という症状が最も典型的に現れるのは、統合失調症という疾患です。このため、賢治が統合失調症に罹患していたのではないかという説を出した精神科医も過去にはありましたが、現在ではそのように考えている人はいないようです。
 賢治の作品に登場する幻聴を詳しく検討してみると、それは統合失調症において現れる幻聴とは、特徴が異なっています。上にも触れたように、賢治は自分の体験している幻聴が現実の声ではなく「幻聴である」と認識していましたが、統合失調症の場合は、本人はそれが自分だけに聴こえている幻聴とはわからず、本当に誰かがしゃべっているのだと信じてしまいます。また、統合失調症の幻聴の内容は、その人を迫害するような内容が大半で、それが種々の被害妄想に発展するのが一般的ですが、賢治においてはそのようなことはありませんでした。さらに、統合失調症の幻聴においては、本人にとって思いもよらなかった未知で意外な事柄が聴こえることがよくありますが、賢治の場合は彼自身の思考や表象と連続した内容でした。

 では、賢治が体験した幻聴を医学的にはどう理解したらよいかというと、上に挙げたような特徴は、いずれも解離性障害の人にしばしば認められる「解離性幻聴」と呼ばれるタイプの幻聴に、ぴったりと当てはまるものなのです。
 そこで以下では、解離というメカニズムによって、どのようにして幻聴という体験が起こるかということを、その現象の詳細な描写を含む「青森挽歌」という作品を題材に、考えてみましょう。

図24

(5) 「青森挽歌」における幻聴と複数の主体
 「青森挽歌」という詩は、賢治が最愛の妹トシを亡くした翌年に、トシの魂の行方を求める思いを胸に、サハリンまで一人で旅をした時の作品です。賢治の心には、妹の死をめぐって様々な思いや声が去来するのですが、賢治はその詳細を、実に緻密な手法で書き記しています。ここで、その方法の一端を見てみましょう。

 賢治が「青森挽歌」で用いた表記上の工夫の一つは、詩のテキストを構成する「地の文」の合間に、「一重括弧( )」および「二重括弧《 》」で括られた字句を挿入するという方法です。
 この記法の意味としては、「地の文」が作者の「顕在意識」を表し、「一重括弧」と「二重括弧」は、より深いところの「潜在意識」から由来する言葉を表していると、考えることができます。
 そのように考えられる理由は、「青森挽歌」で用いられているもう一つの表記上の工夫に関連しています。この作品では、テキストが書き出される位置が様々に「字下げ(インデント)」をされているのですが、この「字下げ」の深さが、顕在意識から潜在意識に至る「意識の奥深さ」に対応していると考えられるのです。これについて、具体的に見てみましょう。

 「字下げ」が最初に現れるのは、テキストの3行目「(乾いたでんしんばしらの列が…」からの一重括弧に括られた4行で、ここは頭から4字下げられています。その後もこれと同じく、「一重括弧」で「4字下げ」された字句が、10行目の「八月の…」および17行目からの「その大学の…」と、2ヵ所続きます。
 ところが、29行目の「(おそろしいあの水いろの空虚なのだ)」は、それまでよりも1字浅くなって、「3字下げ」になっています。また、その後37行目からの「(考へださなければならないことを…」と46行目からの「(おゝ おまへ せはしいみちづれよ…」も、やはり「3字下げ」です。
 そして、60行目からの「(草や沼やです…」や、80行目の「《耳ごうど鳴ってさっぱり聞げなくなったんちゃい」に至っては、「2字下げ」になっています。すなわち、冒頭からこの箇所まで、「字下げ」はだんだんと少なくなってきているのです。この特徴的な文字配置には、どういう意味があるのでしょうか。

 私の考えでは、この「字下げの減少」の意味は、31行目~32行目の「こんなさびしい幻想から/わたくしははやく浮かびあがらなければならない」という言葉によって示されていると思います。
 すなわち、ここで作者は、考えが意識の奥深いところに幻想的に沈み込んでしまっている状態から抜け出そうとして、自らを「浮かびあが」らせようと努めているわけですが、実際にこれに伴って自分の想念が、意識の表層部へと徐々に浮上してきている様子を、「4字下げ」→「3字下げ」→「2字下げ」という形で、ここに書き表しているのだと思うのです。
 つまり、字下げの深さは、意識の深さに対応していると考えられるのです。

 次に、「一重括弧( )」と「二重括弧《 》」の意味について考えてみましょう。既に述べたように、これらはいずれも作者の奥深い「潜在意識」から湧き上がってきている言葉だと思われます。そして、その口調や意味内容がかなり異なっていることから、両者は潜在意識の中でも別々の「場所」から発せられているのだろうと推測されます。
 それでは、一重括弧と二重括弧は、単にその「場所の違い」を表しているだけなのでしょうか。

 「青森挽歌」において、一重括弧の言葉を発している意識の「場所」に関する一つの情報は、37行目~39行目の箇所から読みとれます。
 すなわち、ここでは「(考へださなければならないことを/わたくしはいたみやつかれから/なるべくおもひださうとしない)」と述べられていて、この言葉を発している主体は、自ら「わたくし」と名乗っているのです。この「わたくし」は、作品の「地の文」を構成している作者の「顕在意識」と同一の主体でもあり、この両者が心の中で位置する場所は、いずれも自我が「わたくし」として認識する場所、すなわち前半でご紹介した言葉で表せば「自我境界の内側」であると言えます。

 この状態を卑近な例に置き換えると、例えば顕在意識で「昼ご飯は何を食べようか」と思った時に、「ラーメンにしよう」「いやカレーの方がいい」とか、潜在意識からいろんな意見が出てくるということがあるでしょう。
 これらは、心の中のいろんな所から勝手に発せられますから、自分という一人の人間の気持ちでありながら、互いに相反するものもあるでしょうが、たとえラーメンであろうとカレーであろうと、それは「わたくし」の気持ちであることに違いはありません。その気持ちが「自分の中から」出てきていることが、自分でわからなくなるということはないのです。

 「青森挽歌」における一重括弧の言葉も、地の文より奥深い潜在的な意識の表現ではあるでしょうが、その主体は、「わたくし」なのです。そしてこの潜在意識は、心の中で「自己」として感じられる領域である、「自我境界の内側」に位置しているのです。

 しかし、二重括弧で括られたの言葉の様相は、これとは大きく異なっています。本文48行目に、「《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》」として、この作品で初めて二重括弧の表現が登場しますが、これに続いてすぐ49行目では、一重括弧の言葉が「いきなりそんな悪い叫びを/投げつけるのはいったいたれだ」と応答します。
 ここで明らかになっているのは、一重括弧の主体には、二重括弧の主体が「いったいたれ」なのか、わかっていないという事実です。一重括弧の主体にとっては、「《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》」という言葉は、「叫び」のように、「いきなり」「投げつけ」られるかのように出現したのです。
 すなわち、これは一重括弧の意識にとってはどこか知らない「外部」から到来した言葉として体験されており、精神医学的に言えば、これこそが「幻聴」と言うべき現象です。その言葉を発したであろう主体は、「自己」と感じられる領域の内部には存在しません。つまり、「自我境界」の外側からやって来たのです。

 これを、図を用いて説明してみましょう。下の(図25)で、顕在意識において「今日のお昼ご飯は何にしよう」と考えた時に、たとえば潜在意識Aは「ラーメンがいい」と言い、Bは「カレーが食べたい」と言うなど、潜在意識の方から浮かび上がってくる言葉があります。

図25
(図25)

 このように、自分の中で交わされる言葉のことを「内言」と言いますが、右図で「潜在意識A」と「潜在意識B」は、それぞれが「顕在意識」との間で内言をやり取りしているわけです。
 ここで重要な特徴は、ラーメンを推す意見もカレーを推す意見も、どちらも「自分の気持ち」であり、それらの言葉はあくまで「自分の内側から」やって来ていると、顕在意識は感じているところです。すなわち、潜在意識AもBも、「自我境界」の内側に位置しているのです。

 次に、「青森挽歌」のテキストの構造を見てみましょう。

図26
(図26)

 まずここでは、「地の文」が作者の顕在意識を表していると考えられます。また作者は「一重括弧」で括られた言葉を受け取りますが、この言葉を発する主体も、作者である「わたくし」の一部であり、これは顕在意識からは「内言」として、ラーメンの例と同じように体験されていることになります。すなわち、どちらの意識も「自我境界」の内側に位置しています。

 一方、「二重括弧」で括られた言葉は、「一重括弧」の潜在意識にとっては、誰がどこから発したものなのかわかりませんでした。すなわち、この言葉を発した潜在意識は、「自我境界」の外側に位置しているのです。

 そしてこれこそが、「解離性幻聴」という現象が起こるメカニズムなのです。
 一般に、解離性幻聴が最も顕著に現れるのは、「多重人格」の人においてです。この場合は、Aという人格が表に出ている時に、Bという別人格が裏の方で言葉を発すると、A人格にとってそれはまるで外部から誰かがしゃべっているように、「幻聴」として体験されます。
 他人から見たら、一人の人間の心の中で起こっている現象でも、Aという人格の自我境界の外部で起こっている言語活動は、Aとしてはまるで「外界」の現実の声を耳で聴いたように感じられるのです。

 賢治の場合は、多重人格のように心の中に明確な「区画化」が生じているわけではありませんが、前述のようにもともと自我境界が薄く曖昧で、自我感情の上下に伴いその境界線は大きくなったり小さくなったり(時に消滅したり)することがあったと推測されます。
 「青森挽歌」がスケッチされた夜汽車において、賢治は眠気も感じていたでしょうし、昼間の作業の疲労もあったようですし、亡くなった妹のことを思うと気持ちも憂鬱になったでしょう。これらが相まって、自我感情が低下し、自我境界も収縮したために、自己の精神活動の多くの部分が、自我境界の外に取り残される状態になったと推測されます。
 そうなると、その自我環境の外の部分で考えられたことは、顕在意識にとってはまるで自分の外界から聴こえてきた声のように、幻聴として体験されることになったのだと考えられます。

 前半で、「非自己」の海に浮かぶ「自己」の島、という断面図によってご説明したように、多くの人はもともと自我境界が明確であるために、自我感情が上下しても自我境界の範囲はそれほど変化しません。従って、一般の人が「幻聴」の体験をするのは稀なことです。例外的に、普通の人でも眠りに入る間際などには、たとえば自分の名前が呼ばれるような「声」が聴こえる体験をすることがあり、これは「入眠時幻覚」と呼ばれます。覚醒レベルが低下して、平素の自我境界がごく一時的に曖昧になってしまう際に起こる現象です。
 しかし賢治は、普段から自我境界が曖昧であったために、何かふとした要因によって自我境界が収縮すると、幻聴を体験することがあったのだろうと思います。それが、様々な形で作品に書きとめられたのでしょう。

4.賢治の解離傾性の高さ

(1) 正常解離と病的解離
 以上、賢治の作品に記載されている特異な体験は、「解離」という心的機制によって包括的に理解できるということを、ご説明しました。前半で詳しく述べた「自我境界の薄さ」という特徴も、解離という現象として理解できることですし、それ以外にも柴山雅俊氏が挙げておられる「離人症」「体外離脱体験」「表象幻視」「気配過敏症状」などは、現在の解離性障害の人にもしばしば見られる現象です。さらにまた多くの賢治の作品に記されている「幻聴」も、解離性幻聴としてよく理解できることを、「青森挽歌」を題材として見てみました。

 それでは、賢治は「解離性障害」という精神の病気に罹患していたのかというと、そういうわけではありません。前述したように、解離という現象には、精神内部に「区画化」を伴うものと、「区画化」を伴わず「意識変容」と呼ばれるものと、大きく分けて二種類があり、前者は病的な状態において認められるのですが、後者は健常者にもしばしば出現するのです。前者は「病的解離」、後者は「正常解離」と呼ばれることもあります。
 たとえば、意識変容の一種である「トランス状態」や「憑依状態」は、古今東西において宗教と密接に関連しており、そのような状態は宗教的に意味のある体験と見なされることはあっても、医学的治療の対象となることはまずありません。

 賢治の作品等に記載されている解離現象も、いずれも種々の「意識変容」の体験であり、「正常解離」として健常者にもよく起こるものです。賢治の作品や伝記的事項を見るかぎり、それ以外に明らかに病的な所見は認められず、結局これらの体験は、あくまで健常人に出現した解離現象だったと言えます。
 ただ、この種の体験は一般人にも認められるとは言え、本日も賢治の多数の作品から引用したように、彼がこれほど目まぐるしい体験を日常的にしばしばしていたとなると、やはりこれは稀有なことと言えます。

 医学的に正常範囲の解離現象であっても、それを頻繁に体験しやすい人から、ほとんど体験しない人に至るまで、かなり広い個人差があることが、わかっています。そして、解離現象を体験しやすい人のことを、「解離傾性が高い」と言います。
 この用語を使えば、「賢治は解離傾性が人並み外れて高い人だったのではないか」ということが推測されるわけですが、次にはこれについて考えてみたいと思います。

 現在ならば、解離傾性の高さを測定するための心理テストなども開発されているのですが、今となっては賢治にそういうテストを受けてもらうこともできません。
 しかしここで、賢治をめぐるある一つのエピソードが、この問題に対して興味深い示唆を与えてくれています。

(2) 「静座法」と催眠現象
 賢治は、盛岡中学の生徒だった16歳の時に、寄宿舎の近くで「霊磁療法院」なるものを開いている佐々木電眼という人に「静座法」を習うという体験をしています。この時、電眼氏の指導のもとに「静座」を行うと、「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という状態になったという旨を、父親に手紙で報告をしています。
 さらに賢治は、この「静座法」あるいは佐々木電眼という先生によほど心酔したのか、次の休みには電眼氏をわざわざ盛岡から花巻の自宅に連れてきて、父親と妹にも静座法を受けさせます。すると、「トシは見る間に催眠状態になったが、父親はいつまで経っても平気で笑っていた」ということです(宮沢清六『兄のトランク』)。

 さて、名前からしても何とも怪しげな電眼氏ですが、彼が賢治に指導した「静座法」とは、いったいどんなものだったのでしょうか。
 いろいろと当時の資料を調べてみると、賢治が行った「静座法」とは、1904年(明治37年)に岡田虎二郎という人が創始した、「岡田式静座法」だったと思われます。
 そのように推測される理由の一つは、この岡田式静座法は、全盛期には会員2万人を擁し、東京の百数十ヵ所で「静座会」が開かれるほどに隆盛を極めていたということにあります。
 さらにもう一つ、より興味深い特徴として、この岡田式静座法を行っている人は、座っているうちにしばしば「勝手に身体が動く」という状態に至ったと記されているからです。これは、賢治が記している「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という状態に相当すると思われるのです。

図27

 この現象について、当時の岡田式静座法の解説書である『岡田式静坐三年』(岸本能武太)という本には、次のように書かれています。

此の身體の動揺には、色々種類がある。手を動かす人もあれば、頭を動かす人もある。肩を動かす人もあれば、腰を動かす人もある。頭の運動にも、或は前後に或は左右に、種々の運動がある。手の運動にも、その通りで、縦に振るものもあれば、横に振るものもあるが、握り合せた儘の兩の手で、下腹をポンポンと打つのが、最も普通の形である。或は端座の儘で、にじり廻る人もあれば、ピョンピョンと飛び廻る人もある。懸け聲を懸けて叫ぶ人もあれば、又妙な聲を出して唸る人もある。其れも三十分なり一時間の間、同じ運動を反復する人もあれば、運動を種々様々に變更する人もある。忽ち静かに、忽ち騒がしく、いまは石地蔵の如く、次には夜叉の如く、千態萬状の動揺を演ずるは、是れ實に静坐會の實況である。

 岸本氏はこのような「静座会」の様子について、「多くの人々が頭を振つたり手を動かしたり、色々様々に身體を動揺して居るのを見ると、如何にも狐つきの寄り合ひの如く、氣違ひの集會の如く思はれる」とも述べていて、これはさぞかし壮観だったろうと思われます。

 これらの「動揺」現象について、岸本氏は『岡田式静坐法の新研究』という本の中で、「自分が意志の力で、勝手に身體を動揺させるのではなく、意志に關係なくして、身體が自然に振動する」こと、また「岡田式に於ける身體の動揺は無意志ではあるが、無意識では無い」ということを記しています。
 このような特徴を持った現象が、医学的にどう解釈されるかと言いますと、これは自己催眠現象の一種である「部分自動症」という状態の一種だったのだろうと推測されます。他に「部分自動症」の例としては、ペンを持ったら自分の意志と関係なく勝手に文字を書いてしまうという「自動筆記」という現象(宗教的な文脈では「お筆先」「神がかり」とも呼ばれる)や、昔子供たちの間で流行った「コックリさん」という遊びも、これに相当します。

 ということで、賢治が静座中に呈した「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という状態は、このような自己催眠現象だったと推測されるのですが、これは他の人が静座を行った場合の反応と比べると、どうだったのでしょうか。
 荒井倉三郎という医学士が1917年(大正6年)に著わした『實験 岡田式静坐法』という本には、「親しく岡田氏の指導を受けて、熱心に静坐を行つて居る人々の中にも、身體動揺の現象は、二三日にして起つた人もあれば、既に三年餘も熱心に行つて居ても些しも起らない人もある」ということが記されています。すなわち、「身体動揺」が早く起こる人の例として、「二三日」という期間が挙げられているわけです。
 となると、賢治が静座の指導を受けた初日に、「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という状態になったというのは、一般的に言って相当早い部類に属するのではないかと、思われます。

 すなわち、この「静座法」のエピソードから、「賢治は催眠感受性がかなり高い人だった」ということが推測されるわけです。

(3) 解離傾性の高さとその表れ
 一方、これまでの様々な実験によって、「催眠感受性と解離傾性は強い相関がある」ということがわかっています。つまり、催眠術にかかりやすい人というのは、解離現象も起こしやすいというわけです。
 これを前節の推定と併せると、賢治は、解離傾性もかなり高かっただろうということが、間接的に導かれます。

 となると、これは先ほどまで賢治の作品や人となりを見ながら考えてきたことと、一つにつながったわけです。
 彼に特有の表現を生んだ「自我境界」の薄さや、「離人症」「体外離脱体験」「表象幻視」「気配過敏症状」「幻聴」などの所見は、医学的に言えば、彼が「解離現象を起こしやすい人だった」ということから来ていのだと、理解することができるのです。

 このことを足場にさらに連想を広げてみると、賢治は何かに感動すると目の前にいる人のことも忘れて「ホッホー!」などと叫んで走り出すということがしばしばあったということですが、こういう風に何かに心を奪われると他のことが眼中になくなり「心ここにあらず」という状態になることを、心理学的には「没入absorption」と言います。解離傾性の高い人は、この「没入」状態になりやすい傾向もあることがわかっています。
 また、自然に自分の中でどんどん空想を膨らませていて、気がつくとお話の世界に浸りきっている、というような状態になりやすい人のことを、「空想傾性fantasy pronenessが高い」と表現しますが、解離傾性はこの空想傾性の高さとも、相関していると言われています。賢治の作品世界の、あのファンタジーの豊かさを思うと、これも彼が生来の特性として、持っていた傾向だったのでしょう。

 「解離の起こしやすさ」という特徴は、賢治の人となりとして伝えられている他の様々な特徴とも、関連している可能性があるのです。

5.統合し制御する精神と解離し浸透する精神

 以上、宮沢賢治という人の心性の特徴について、精神医学的な視点も交えつつ、いろいろ考えてみました。
 賢治が、時に自己と世界が渾然と一体化するような恍惚を体験したり、また別の時には自己が消滅するような感覚を持ったり、また幻聴や幻視をはじめ様々な特異体験をしたり、ふと何かに没入してしまったり、ファンタジーの広大な翼を持つ人であったりしたということは、「解離」という人間の心性の一つの傾向が、様々な方向性において表れたものとして、理解することができるのではないかと思います。

 あと最後に、このように賢治において典型的に示されているような「解離」という人間の心性が、現代社会の中ではどのような意味合いを持っているのかということについて、考えておきます。

 「解離傾性の高さ」と関連した上記のような特徴は、周囲に対する感受性の強さや、環境から容易に感化されそれと一体化する傾向と、関連しています。
 これはこれで、感性が豊かな、ある種の「人間らしい」傾向ではあります。しかし一方で、もしも人がとにかく能動的であろうとして、そのために「自己」というものを一貫して変わらず保ち、自己に合わせて環境を操作しようとするならば、この種の傾向は、その目ざす方向性とは、反対を指向するものです。

 話の冒頭で、「人間という生き物は、世界の中に様々な垣根や境目を作りながら生きている」ということを申し上げましたが、個人や組織を守り、周囲の影響に流されずに何かを達成するという目的のためには、自らのアイデンティティを保つべき「境界線」を、しっかりと維持している必要があります。そして有能な個人や組織たるものとしては、環境からの入力情報を可能な限り集めて処理し、その状況における最適解を求め、その結果をやはり統制のとれた手段で出力することが、すべからく求められます。
 ここで、このようなタイプの適応戦略のことを、「統合し制御する精神」と呼ぶことにしてみましょう。

 19世紀から20世紀にかけて人間は、科学技術という統合的アプローチを用いて、自らを取り巻く環境を制御することに邁進し、輝かしい成果を収めました。日本では、明治維新以来「富国強兵」というスローガンのもとに国の力は集中され、第二次大戦後は「高度経済成長」がその目標に取って代わりました。
 このような精神が支配的である状況下では、「臨機応変」であるよりも、一貫して「ブレない」ことが評価され、自由奔放に行動するよりも、秩序だった動きの方が善しとされます。

 一方で、たとえば先の大震災の直後のような状況では、物や情報を流通させるための既存のラインは切断されてしまいますから、組織的あるいは統合的な活動は、麻痺してしまいます。各避難所に個別に送られてきた物資を、公平性の確保のためにいったん中央に集めてから再配分するなどというやり方は愚の骨頂ですし、何をするにも一々中央の指示などを待っていては埒が開きません。中央が事態を制御するのではなく、全ての末端において、個々に柔軟に臨機応変に、対処していくしかありません。
 ここでは、統合されているよりもバラバラである方が効率的であり、物や情報は中心部へではなく周縁部へと向かって行くことが求められます。
 このようなタイプの適応戦略のことを、「解離し浸透する精神」と呼ぶことにしましょう。

 「統合し制御する精神」と、「解離し浸透する精神」。
 相当わかりにくい呼び方で恐縮ですが、その趣旨は、一般に人間の精神活動の方向性として、このように互いに反対を指す二つのベクトルがあるのではないか、ということです。
 この二方向の精神は、どちらが正しいとかどちらが優れているとかいうものではありません。人間やその組織が動いている時、これらは互いに補い合って、「車の両輪」のように機能しているとも言えるでしょう。

 ただこれら二つは、相補的な関係にあるとしても、ある時代や状況においては、一方どちらかが優勢になるということはありえます。先に述べたように、「富国強兵」とか「高度経済成長」というような局面では、「統合し制御する」という指向性が重視されただろうと思います。
 一方、大災害後のような非常時には、「解離し浸透する精神」の方が価値を持つのではないかということを述べました。そう言えば、あの大震災の後に、全国的に宮沢賢治の作品や生き方が注目を集めるという現象がありましたが、これは単に賢治が東北の出身だったからというだけではなく、何か彼の人となりが、震災後の人々の共感を集めるところがあったからではないでしょうか。
 震災によって、私たちが平常時に依拠している考えや行動の基準が崩れたかに見えた時、人々は無意識のうちに、今回お話ししたような賢治独特の心性に、何か貴重な示唆を感じとったのではないでしょうか。

 下の(図28)には、「統合し制御する」という方向性と、「解離し浸透する」という方向性の、それぞれに関連すると思われる属性を、思いつくままに挙げてみました。

図28

 左側に並んでいるのは、概ね平常時における人間の生産的・建設的な活動に関係しているような属性です。左側のように、確固とした目的を持ち、周囲に流されず継続的に力を蓄え、その力によって周囲の環界をコントロールし変えていく人は、たいていの社会において評価されるでしょう。

 しかしこれとは逆に、自分が「世界に対して」何かを「成す」よりも、「世界からの」豊かな恵みを「享受する」ことを喜び、環界を変えるより自らが変わることを尊び、己を開いて全ての存在を平等に受け容れる、という生き方もありえます。それは、物質的な「モノ」を生み出すわけではないかもしれませんが、これはこれでまた、目には見えない価値に満たされた「生」だと思います。
 そして、そのような方向性を代表する先達が、私にとっては賢治なのです。

 宮沢賢治という人は、生活の実用的な側面においては、あまり何かをきちんと達成したわけではありませんでした。長男として質屋の家業を継ぐよう親から求められながら、自分には才能がないと言って逃げてしまい、学校の教師も4年で辞職、百姓として働きながら農民との文化共同体を作ろうとした企画も、2年で頓挫しました。石灰肥料の技師兼セールスマンという最後の仕事も、数ヶ月しか続きませんでした。
 人並み外れた知性に恵まれながらも、それを何か一つの目標に集中するということはせず、「ブレない生き方かどうか」で評価するならば、落第点を付けざるをえないような人生でした。

 けれども私たちは、宮沢賢治という人は、そのような尺度で測れる存在ではないということを、知っています。彼が生きた方向性は、当時や現代の社会における支配的な価値観とは、対極的とも言えるものでした。
 そのために彼は社会において様々な苦難に直面したわけですが、逆に社会の方が困難にぶつかっている局面においては、賢治が残した足跡や作品は、私たちに深い示唆を与えてくれるのではないでしょうか。宮沢賢治という人は、科学を学び、それを生かして世の中を変えようと模索した人でもありましたが、その人間性の奥底には、そのような近現代の価値観とは対極的な、別の重要な方向性を胚胎していたのだということを、私はあらためて強く感じています。

 賢治のそのような側面について、言葉で適確に表現するのはなかなか難しく、今日のお話でも、まだ十分に言語化はできていません。残念ながら今のところ、力が及ばないようです。
 本当にわかりにくい話になってしまいましたが、長時間のご清聴を、ありがとうございました。

 現代もまた、「健康」が多くの人々の関心事となっている時代です。毎日テレビショッピングには、入れ替わり立ち替わり新たな「健康食品」や「健康器具」が登場してその効能が喧伝されますが、今からおよそ100年前の大正時代にも、雨後の筍のように様々な「健康法」が現れては、それぞれがブームを巻き起こしていたのです。
 たとえば、この時期に流行していた「健康法」には、以下のようなものがありました。

岡田式静座法 (岡田虎二郎)
藤田式息心調和道 (藤田霊斎)
二木式腹式呼吸法 (二木謙三)
浅野式曖気療法 (浅野秋蔵)
石塚式食養法 (石塚左玄)
岩佐式強健法 (岩佐珍儀)
江間式心身鍛練法 (江間俊一)
大泉式一分間健康法 (大泉三朗)
銀月式実用強健法 (伊藤銀月)
弦斉式日本人標準食 (村井弦斎)
坂本屈伸道 (坂本謹吾)
自彊術 (中井房五郎)
足心道 (柴田通和)
綜統医学 (多田政一)
高野式抵抗養生法 (高野太吉)
西式健康法 (西勝造)
肥田式強健術 (肥田春充)

 これ以外にもマイナーなものは種々あったようで、現代日本で行われている様々な「健康法」も、元をたどればほとんどがこの時代にルーツがあると言われるほどです。中でも太字にした上の三つは、とりわけ多くの人々にもてはやされ、当時の「三大健康法」と呼ばれていたものです。
二木謙三 ちなみに、上から三人めの二木謙三氏(右写真:ウィキメディア・コモンズより)は、賢治の妹トシが永楽病院に入院した時の主治医だった人で、賢治も妹の病状説明を直に何度も聞くなど、浅からぬ縁がありました。この人は後に文化勲章も受章した東大医学部教授で、「鼠咬症スピロヘータ」を発見するなどして一時はノーベル医学・生理学賞の候補になったという噂もあります。一方で、今では皆が知っている「腹式呼吸」という言葉を初めて世に広め、玄米食を提唱するなどの活動もした、多面的な人物でした。

 さて、このような健康ブームの時代に思春期を迎えた賢治も、否応なくその洗礼を受けることになります。とくに彼は中学校では体操を苦手としていて、「強健な身体」というものには一種のコンプレックスを抱いていた節がありますから、こういう「健康法」に憧れるところは、人一倍あったのかもしれません。
 ということで、賢治が盛岡中学4年の1912年(大正元年)11月3日付けの父親あて手紙(書簡6)に、次のような一節が現れます。

 又今夜佐々木電眼氏をとひ明日より一円を出して静座法指導の約束を得て帰り申し候 佐々木氏は島津(ママ)大等師あたりとも交際致しずいぶん確実なる人物にて候。静座と称するものゝ極妙は仏教の最後の目的とも一致するものなりと説かれ小生も聞き囓り読みかじりの仏教を以て大に横やりを入れ申し候へどもいかにも真理なるやう存じ申し候。(御笑ひ下さるな)もし今日実見候やうの静座を小生が今度の冬休み迄になし得るやうになり候はゞ必ずや皆様を益する一円二円のことにてはこれなしと存じ候 小生の筋骨もし鉄よりも堅く疾病もなく煩悶もなく候はゞ下手くさく体操などをするよりよっぽどの親孝行と存じ申し候

 まだ賢治は16歳ですが、「小生の筋骨もし鉄よりも堅く疾病もなく煩悶もなく候はゞ…」という願望を述べている部分は、その後の彼の生涯を知る者の胸には、何か痛切に迫ってくるものがあります。晩年に、「〔雨ニモマケズ〕」に結晶する彼の思いの萌芽は、すでにここにあったのかとも感じます。
 いずれにせよ、この日賢治は「静座法指導の約束」を得て、意気揚々と帰ったのでした。

 そして、次の日の葉書で、その「指導」の結果を父に報告します(書簡7)。

謹啓 昨日の手紙の通り本日電眼氏の指導の下に静座仕り候ところ四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し今後二ヶ月もたゝば充分卒業冬休みに御指導申す決して難事ならずと存じ候 まづは御報知まで  草々 敬具

 何よりも、「電眼」という名前がいかにも怪しげでそそるものがありますが(笑)、ここで賢治は、その怪しさからの期待そのままに、「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という、得体の知れない状態に陥ったというわけです。

 そして約束どおりその冬休みには、賢治は電眼氏を花巻の自宅に連れて来て、妹と父に「静座法」の指導を受けさせました。次の文章は、その時の様子を弟清六氏が記したものです。(宮沢清六『兄のトランク』所収「十一月三日の手紙」より)

 静座法の佐々木電眼という人は中学校寄宿舎附近に住居して、独特の方法で静座法を教えていた人で、島地氏や色々の人々とも昵懇であったようである。眼光炯々とした、あまり背の高くない精力的な一種の催眠術師であったと私は思っている。
 賢治は前の手紙とこの葉書にも書いたようにこの佐々木氏の指導で静座法を何ヵ月か習った。そして冬休みにこの人を連れて家に帰ったが、父や姉にも静座法をすすめたことを私は思い出すのである。
 電眼の暗示に誘導されて、姉のとしは見るまに催眠状態になったが、父は電眼が長い時間汗を流して懸命に努力したのであったが、いつまで経っても平気で笑っていたので、遂に電眼はあきらめて、雑煮餅を十数杯平らげて、山猫博士のように退散したのであった。

・・・という落ちがついているのでした(笑)。
 ここには、賢治の妹のトシも「催眠状態」になったと書いてありますが、いったいこの「静座法」なるものの正体がどういうものなのか、私としてはすこぶる興味があります。

 「静座法」という言葉からは、上のリストの中では「岡田式静座法」が当てはまるように思われ、現に上田哲氏は著書『宮沢賢治 その理想世界への道程』の中で、これは岡田式静座法であったと推測しています。
 一方、岡澤敏男氏は、「賢治と「静座法」」(盛岡タイムス連載<賢治の置土産>)において、「晩年の昭和7年6月1日に森佐一宛の書簡で「曾て教を得たる西式の一部こゝに残存し」と述べていることから西式健康法だったと推察される」として、これは「西式健康法」だったと考えておられます。
 しかし、この「西式健康法」が創始された時期を調べてみると、「西式健康法西会本部」のWebサイトによれば、「西式健康法は、昭和二年に東京地下鉄銀座線の機械技師だった西勝造によって創立されました」(西式の歴史と西勝造先生)とあり、また「西式健康法・断食道場」のサイトには、「西勝造教授によって、大正11年(1922年)に創始され、昭和2年(1927年)に公表された健康医学です」(入寮案内)とあります。
 つまり、賢治が佐々木電眼に静座法を習った1912年(大正元年)の時点では、まだ西式健康法は誕生していなかったわけです。となると、彼が指導を受けたのは、西式とは別のものだったと考えざるをえません。

 一方、岡田虎二郎氏が東京で「静座法」の指導を始めたのは、1904年(明治37年)ということですから、こちらは賢治が指導を受けた時期との関連では問題ありません。
 何よりも私が、この賢治の習った静座法は「岡田式」だったろうと考える理由は、岡田式静座法のユニークな特徴として、静座をしている人が、意図せずに「動揺」あるいは「振動」と呼ばれるような、独特の身体の動きを呈し始めるという点があります。これこそが、賢治が「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」と描写したところの現象だったのだろうと思うのです。

岸本能武太『岡田式静座三年』 たとえば、岸本能武太という人が1915年(大正4年)に著した『岡田式静坐三年』という本では、この「動揺」について、次のように述べられています。


第四章 身體の動揺

  第一節 静坐法と身體の動揺
   ▲動揺に関しての誤解と疑惑

 岡田式静坐法が、予の郷里なる岡山地方に輸入せられたのは、數年前の事であるさうだが、初めてこれを傅へた人が間違へて居たものか、或は彼れに習つた人々が、彼れを誤解したものか、岡田式静坐法の要領は、身體の動揺にあると考へられたものと見えて、今日に至るまでも同地方の人々は、静坐法と云へば身體の動揺を聯想して、身體さへ動揺すれば、それで静坐法を了解し得たかの如くに誤解し、「私は岡田式にかゝつた」とか、「あの人はまだかゝらぬ」とか云ふ時は、単にその人の身體の動揺如何を、意味することゝなつて居ると云ふ話である。
 一方には斯く動揺を欲する人々のあるに反し、今一方には動揺に関して疑惑を以つて居る人々が決して少なくない。實際静坐會などに於て、多くの人々が頭を振つたり手を動かしたり、色々様々に身體を動揺して居るのを見ると、如何にも狐つきの寄り合ひの如く、氣違ひの集會の如く思はれる。

 「狐つきの寄り合ひの如く、氣違ひの集會の如く」とは、相当に異様な雰囲気だったのでしょう。
 この少し後の箇所では、その「動揺」の様子が、さらに具体的に描写されます。

   ▲動揺の種々

 此の身體の動揺には、色々種類がある。手を動かす人もあれば、頭を動かす人もある。肩を動かす人もあれば、腰を動かす人もある。頭の運動にも、或は前後に或は左右に、種々の運動がある。手の運動にも、その通りで、縦に振るものもあれば、横に振るものもあるが、握り合せた儘の兩の手で、下腹をポンポンと打つのが、最も普通の形である。或は端座の儘で、にじり廻る人もあれば、ピョンピョンと飛び廻る人もある。懸け聲を懸けて叫ぶ人もあれば、又妙な聲を出して唸る人もある。其れも三十分なり一時間の間、同じ運動を反復する人もあれば、運動を種々様々に變更する人もある。忽ち静かに、忽ち騒がしく、いまは石地蔵の如く、次には夜叉の如く、千態萬状の動揺を演ずるは、是れ實に静坐會の實況である。

 ということで、「静坐会」という名前とは裏腹に、これはもう「大騒ぎ」ですね。思えば20年ほど前に、とあるカルト宗教の創始者が、胡座をかいた姿勢で跳び上がっている写真を見せて、「超能力による空中浮遊だ」とか言っていたことがありましたが、大正時代には一度にたくさんの人々が正座をしたままであたりをピョンピョン飛び廻っていたというのですから、これはもう壮観の一語に尽きます。
 賢治の場合の「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」というのも、まさにこの「動揺」なのでしょうし、佐々木電眼という人も、きっとこの「岡田式静座法」の流れを汲んでいたのだろうと、私は思います。

 賢治が、一時的にであれこんな怪しげなものに熱中したことについて、上田哲氏は『宮沢賢治 その理想世界への道程』の中で、「わずか十六歳の少年が、疑似宗教的でシャーマニズム的傾向をもつ静座法などに関心をもち健康法の指導者というより行者的性格をもつ怪しげな施療師のところを進んで訪ね入門するなどということはいくら時代が違うといっても異様な感じがする」と述べており、確かに現代から見れば、そういう印象も受けてしまいます。
岡田虎二郎 しかし当時は、この創始者の岡田虎二郎という人は、独特の風格で人間的にも広く尊敬を集め、あの田中正造翁をして、「今度こそは我国にも聖人が生まれました」と評せしめ、また「岡田先生は福徳円満の御相で、奈良新薬師寺の本尊のよう」とも言われたということです。(右写真は『岡田式静坐三年』より)
 新宿中村屋を創業した相馬黒光女史は、明治44年から大正9年まで一日も休まずに静座会の道場に通ったということですが、その回顧録『黙移』の中では、

この道場にはおよそ社会の各層各階級の人が集まっていました。徳川慶久公、水戸様、二荒伯、相馬の殿様をはじめとして、有爵の方々、実業界の錚々たる人々、学者、芸術家、教育家、基督教徒、僧侶、芸人、相撲取、学生等々いちいち挙げるには限りもないほどでした。

と、その盛況ぶりを記しています。
 最盛期には、東京の百数十箇所で「静座会」が開かれ、会員は2万人にも及んだということですから、賢治は決して異端のカルト的な集団に身を投じたわけはないのです。
 当時の社会流行の波に、一時的に染まってみたにすぎなかった、ということだと思います。

 ただ、この創始者の岡田虎二郎は、静座法が隆盛を極めている真最中の1920年(大正9年)に、48歳の若さで急死してしまいます。死因は尿毒症で、長年の無理がたたったのだと言われましたが、「健康法」のカリスマ的な指導者が、自らあっけなく死んでしまったとなると、その「効果」に疑念の目が向けられるのも無理はありません。その後はまるで熱が冷めたかのように、ブームもあっけなく去ってしまったということです。

◇          ◇

 さて、ここで賢治が「静座」において呈した「全身の筋肉の自動的活動」、すなわちその信奉者の表現では「動揺」あるいは「振動」という現象について、ここで私はもう少し考えておきたく思います。

 この現象に対して宮沢清六氏は、トシの状態を「催眠状態」と表現し、佐々木電眼のことも「一種の催眠術師」と考えています。
 当時、心霊現象を研究していた心理学者の福来友吉博士も、この身体の「動揺」の原因を「意識統一の欠乏」にあるとして、これは「舞踏病、精神病、催眠術等における『自動作用』すなわち Automatic action と同一のもの」と断じました。
岸本能武太『岡田式静坐の新研究』 しかし、岡田式の信奉者側は、これを「催眠」と解釈されることに対しては強い反発があったようです。上にも登場した岸本能武太氏は、福来博士が「彼らはまず触覚を失い、視覚を失い、聴覚を失い、遂に全く無意識になる」と述べていることに対し、1921年(大正10年)の著書『岡田式静坐の新研究』において、次のように反論します。

併しながら少しでも静坐法を正式に練習した人々は、何人でも直ちに、此説明が如何に事實に正反對であり、同時に福來博士が、静坐法に關して無知で、又學者として如何に無責任であるかを感ぜぬものは無いであらう。若し萬一にも所謂静坐法を實行する者にして、福來博士の云はれる如く、全く無意識になることがあるならば、そは決して『岡田式静坐法』ではなく、何か全く別の物であると云はねばならない。岡田式静坐法では、静坐中と雖も、我等は徹頭徹尾有意識であつて、決して無意識ではない。

 そして、この静座中の「動揺」は、「無意識ではないが、無意志である」ということを強調して、さらに次のように説明します。

 茲で私の先づ第一に極めて置きたいのは、此の動揺が、故意でなく自然であると云ふことである。自分が意志の力で、勝手に身體を動揺させるのではなく、意志に關係なくして、身體が自然に振動するので、これは静坐法實行者の大多数の等しく經験する所である。
 又斯く身體が振動して居る時に、静坐者自身は、自分の身體が振動して居ると云ふことを知つて居るか居ないかと云ふに、前にも一寸述べた様に、我等は決して無意識に振動して居るのではなく、振動して居ると云ふことをよく知つて居るのである。自分が振動して居ることを知つて居るのみならず、隣に坐って居る人が振動して居ると云ふことも分つて居る。たとへば岡田先生が『今から始めます』と云はれて静坐を始め、三十分なり一時間の後に、『ソロソロ目を開けて』と云はれる時に、一同が目を開けて静坐を止めると云ふ一事から考へて見ても、岡田式に於ける身體の動揺は無意ではあるが、無意では無いと云ふことが分らう。此の無意(Unconscious)と無意(Involuntary)とは、必ず明白に區別せねばならない。

 つまり、静座中にピョンピョン飛び廻ったり、お腹を叩いたり、叫び声や唸り声を上げたり、人々がいくら奇妙な動きをしていようとも、それは通常の「催眠」下の現象とは異なって、あくまで自分で「意識している」状態だというのです。一方で、その際の身体の動きは、本人にとって「故意の」ものではなくて、「自然な」「無意志の」ものである、というのです。

 となると、これは果たしてどういう現象なのでしょうか。この「動揺」を心理学的あるいは医学的に位置づけてみると、これは19世紀末にピエール・ジャネが著書『心理学的自動症』(1889)の中で定式化したところの、「部分自動症」というものに、該当すると思われます。
 すなわち、この「部分自動症」においては、確かに本人に「意識」はあって、他人と会話したりすることもできるのですが、身体はその「意志」とは別に、何か「勝手に動く」ような現象を呈するのです。その例としては、「自動書記」という現象が有名ですが、「コックリさん」という遊びで現れる動きも、それに該当します。

 そうであれば、これはやはり広い意味での催眠現象の一種だということになります。ただその際には、通常の催眠状態のように外界の刺激に反応しないような「無意識」には陥らないものの、やはり意識の覚醒水準は多少なりとも低下して、随意的な身体の統御能力が、若干減弱していることになります。
 「岡田式静座法」では、静座の最中は目を閉じて下腹部の「丹田」に力を集中しつづけるという方法をとりますから、これをしばらく続けるうちに、意識は保ちながらも軽度の自己催眠状態に入り、身体が意志から離れて「動揺」を始めるものと思われます。

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◇          ◇

 さて、次に私として興味があるのは、賢治が「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という状態になったのは、岡田式静座法を行っていた他の一般の人々に比べて、早い方なのかどうなのか、ということです。

荒井倉三郎『實験 岡田式静坐法』 荒井倉三郎という医学士が1917年(大正6年)に著わした『實験 岡田式静坐法』には、静座に伴って起こる身体の動揺について、次にように記されています。

 元來、身體の動揺は静坐の目的ではない。静坐中人によつて自然的に伴生する現象である。故に、動揺が起つても、喜嬉するにも當らなければ、又た動揺が起らないからといつて、必ずしも心配する必要もない。動揺の起る起らぬは全然意に介しないが可い。
 現に親しく岡田氏の指導を受けて、熱心に静坐を行つて居る人々の中にも、身體動揺の現象は、二三日にして起つた人もあれば、既に三年餘も熱心に行つて居ても些しも起らない人もある。故を以て早く動揺の起つた人は早く堂奥に入り、數年後の今日も未だ動揺の起らない人は未だ静坐の堂奥に入つて居ないのかといふと、必ずしも然うではない。二三日にして動揺の現象があつても、未だ堂に入つて居ないものもあれば、三年五年經つても動揺しなくても妙境に達して居るものもある。

 すなわち、「親しく岡田氏の指導を受けて、熱心に静坐を行つて居る人々の中にも、身體動揺の現象は、二三日にして起つた人もあれば…」ということで、ここでは「動揺」が早く起こる例として、「二三日」という所要期間が挙げられているわけです。
 これはもちろん、動揺を起こすまでの「最も早い記録」というわけではないでしょうが、こういう箇所で例として挙げられているからには、「二三日」で動揺が起こるというのは、一般的には「早い方」だと考えてよいでしょう。
 すると、賢治が指導を受けたその初日に、開始わずか「四十分」で、「全身の筋肉の自動的活動」に入ったというのは、これは「かなり早い方」なのではないでしょうか。

 一般に、ある人がどのくらい催眠術にかかりやすいかという程度のことを、「催眠感受性 hypnotizability」と呼びます。
 この言葉を用いて上記を言いかえると、賢治が静座法を始めると一般人よりもかなり早くに軽催眠状態としての「身体動揺」に入ったという事実が示唆するのは、「賢治は普通よりもかなり催眠感受性が高い人だった」ということになります。
 もちろん、妹のトシも「見るまに催眠状態になった」と清六氏は記していますので、やはり催眠感受性は高かったということになります。一般に男性よりも女性の方が催眠感受性は高いものであり、また兄妹ですから、生得的な素質も似ていたのでしょう。

 ということで、今回長々と静座法などというものについて調べてきた目的は、結局このことを確認したかったのです。
 すなわち、「宮澤賢治の催眠感受性の高さ」です。

◇          ◇

 さて私は、宮澤賢治の作品のみならず、このちょっと変わった人の「人となり」にも興味がありますので、彼の作品を読んだり、その伝記的なエピソードを調べたりして、彼がどんな性格の人だったのか、どんな「心性」を持った人だったのかと、いろいろと間接的に推測してみたりします。
 現代ならば、さまざまな「心理テスト」と呼ばれるものがあって、これもまた間接的な手段ではありますが、書いたものから想像するのとはまた別の角度から、その人の心理的な特徴について、多少は客観的な傾向を抽出できる可能性もあります。
 しかしもちろん、すでに亡くなってしまった人に対しては、「心理テスト」を施行することはできません。

 そのような制約の中で、ここで得られた「催眠感受性が高い」という所見は、その人の心理的傾向に関して、それなりにまとまった情報を、私たちに与えてくれます。

 まずこれが示唆するのは、その人が催眠という特殊な方法のみならず、さまざまな周囲全般からの刺激に対して、人一倍強い感受性を持ち、それに影響されやすい傾向があるのではないか、ということです。
 賢治という人が、自分の周囲の世界から、視覚的にも、聴覚的にも、嗅覚的にも、あるいは皮膚感覚的にも、様々な事柄を敏感に感じとって、それに触発されてまた多彩なイメージを紡ぎ出したということは、この傾向の一つの表れと考えることができます。童話や詩に表現された、あの絢爛たる世界です。

 また「催眠感受性の高さ」は、周りの人の感情状態に対して、より共感しやすく、共鳴・共振しやすいという傾向とも関連しています。
 賢治が子供の頃から、周囲の人の痛みを自分の痛み以上に鋭く感じてしまい、たとえば怪我した子の指を口に入れて血を吸ってやったとか、学校で罰として水の入った椀を持って立たされている子に同情して水を飲んでしまったとかいうようなエピソードにも、それは表れているように思います。大人になってからも、自分を犠牲にしてまで他人の幸せのために尽くそうとするところなどもそうです。

 また、ふと何事かに心を奪われてしまって、周囲の状況も忘れて「心ここにあらず」という状態になることを、「没入 absorption」と言いますが、催眠感受性の高い人は、この「没入」状態になりやすい傾向もあります。
 多くの人が回想しているように、賢治は何かに感動すると、目の前にいる人のことも忘れて「ホッホー!」などと叫んで走り出すということがしばしばあったということですが、これも一つの「没入」状態でしょう。これ以外にも、「心ここにあらず」という様子になることは、よくあったようです。

 事あるごとに、自分の中でどんどん空想を膨らませていって、気がつくとお話の世界に浸りきっている、というような状態になりやすい人のことを、「空想傾性 fantasy proneness」が高い、と言いますが、催眠感受性はこの空想傾性の高さとも、相関していると言われています。
 賢治の作品世界の、あのファンタジーの豊かさを思うと、彼は人一倍「空想傾性」が高かったのではないか、という気もします。

 さらに、賢治の作品とりわけ詩を読んでいると、彼は時に本当に「幻覚」を体験していたのではないかと思わせる箇所に、しばしば遭遇します。賢治の作品に出てくる幻覚的描写は、たいてい疲れた時やぼーっとしている時など少し覚醒水準が下がっている状態で現れ、自分に呼びかけられたり自分もそれに答えて会話をするような形をとります。そして、賢治自身には最初から、それが現実の知覚ではなくて幻覚であることがわかってします。
 人間が体験する「幻覚」にもいろいろな種類があるのですが、今挙げたような特徴は、「解離性幻覚」と呼ばれているタイプに合致します。
 そして催眠感受性は、この「解離性幻覚」を起こす心理機制としての「解離」という現象とも、関連しているという説があります。そうであればこれは、賢治が実生活において解離性幻覚を体験をしやすかったということと、関連づけることができるでしょう。


 とまあ、このようにいろいろ推測を重ねたからと言って、何がどうなるわけでもないのですが、宮澤賢治という「変わった人」の心性を、少しでも解き明かせないかと思い、彼にはこの世界がいったいどんな風に見えていたのだろうと思い、私としてはあれこれ考えてみている次第です。

宮澤賢治の世界感覚について

 3月4日の「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」の際に、竹崎利信さんによる「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」と、「なめとこ山の熊」の間のつなぎとして、20分ほどお話をさせていただきました。
 当日は時間的制約のために説明が足りなかった部分を若干補って、本日ここに当日のスライドとともに、その内容を掲載いたします。

「宮沢賢治の世界感覚」1


1.「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」に出てきた賢治作品

 まだ「感動醒めやらぬ」という感じですが、竹崎利信さんの素晴らしい舞台でしたね。私も台本やDVDなどでは見せていただいていたのですが、実演ではやっぱり圧倒されました。
 これは、「私」と「宮澤賢治」との間で繰り広げられるダイナミックな劇であるとともに、賢治ファンにとっては、様々な賢治作品のカタログのように楽しむこともできる作品です。
 さっき出てきた作品(および書簡)を順にリストアップしてみると、下のようになります。

「宮沢賢治の世界感覚」2

 有名な作品もあれば、さほど有名ではないけれどもいかにも「賢治らしい」ものもあります。竹崎さんが賢治に注ぐ視線が、感じられるようです。

 今日は、ここから出発して、後の第三部の「なめとこ山の熊」につながるお話がしたいと思っておりまして、そしてその中では、ちょうど1週間後に丸一年という節目を迎える東日本大震災のことにも触れる予定です。話のテーマとするのは、「宮沢賢治という人は、この世界を、どんな風に感じていたんだろうか」ということです。
 賢治は、まだSF小説もなかった大正時代に、「鉄道列車が宇宙空間を駆ける」などというような驚くべきイマジネーションを働かせていた人です。とても常人にその感覚を追体験することは難しいでしょうが、私なりの見方でその特徴を一つ挙げるとすれば、自己と他者、自己と世界などの間の「一体感」を、彼は他の人よりも強く、おそらく生得的に体験してしまう人だったのではないか、ということがあります。


2.外界=内界ということ

 竹崎さんが「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」において引用された賢治のテキストの中から、まず『注文の多い料理店』の「序」を見てみます。ご存じのように、これは賢治が生前に刊行した唯一の童話集ですが、その冒頭で彼は自分がそれらのお話を書いた「方法」について、説明しています。

(前略)
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
(後略)

 ここで宮沢賢治が言っているのは、彼はこれらの物語を書斎の中で想像力を働かせて「創り出した」のではなくて、「林や野はらや鉄道線路やら」の屋外で、虹や月あかりから「もらつてきた」ということです。
 童話の内容には、かなり非現実的な、空想的なこともたくさん含まれていますが、彼はそれを能動的に「考え出した」のではなくて、「どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまで」だと主張しています。ここでは、「そのとほり」という言葉が最も特徴的だと思います。
 彼にとってはこれらのお話は、ふと向こうから「現われた」ようなもので、その訪れは、まるで受動的な体験であったかのように説明されています。
 屋外で、感じとったことを「そのとほり書いた」というのですから、これは絵を描く際に、外の景色を「写生」するということに似ていますよね。


 それでは次に、竹崎さんが引用された作品リストから、今度は『春と修羅』の「序」を見てみます。これも彼が生前唯一刊行した詩集で、やはりその序文においては、自分がそれらの作品を書いた方法について述べています。

(前略)
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

これらについて人や銀河や修羅や海膽は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)
(後略)

 さて、ここにも「そのとほりの心象スケッチ」という言葉が出てきます。やはり、「創り出した」とか「考え出した」のではなくて、「ありのままに書いた」ということを、彼は強調しています。「スケッチ」という言葉も、先ほど絵画に喩えて申し上げた「写生」ということに通じますね。
 しかしここで賢治は、「心象スケッチ」と言っています。「心象」とは、「心の中で生起する現象」というような意味でしょうから、「外界」ではなく「内界」が、その描写の対象になっていることになります。そうすると、先ほどの『注文の多い料理店』の「序」において、彼がその作品を外界から、「虹や月あかりからもらつて」くると述べていたのとは、方法論がまるで正反対のようにも思えます。

 しかし、その前後もあわせてもう一度読んでみると、その答えが浮かび上がってきます。
 上で賢治が、「すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるもの」という言葉で何を言おうとしているのか考えると、「みんなが同時に感ずる」というのですから、これは賢治ただ一人の「心の中で起こっている現象」にとどまらず、実は人々が共通に体験する出来事だというわけです。
 「人々が共通に体験する」現象とは、ふつうに考えれば、これは個人の「内界」にあるのではなくて、みんなに見える「外界」に位置する事柄のはずです。
 それでは、なぜ賢治がそういった「外界の現象」のことを、「心象」などと呼んだのでしょうか。その理由は、少し後の方に書かれているように、彼は「それらも畢竟こゝろの風物」だと見なしていたからです。
 つまり、「外界=内界」であると賢治は感じていたのです。

 人間の内界(心の中)には、五感によって知覚された外界の現象が再現されているわけでしょうから、この意味では、内界には外界と同じものが存在するとも言えます。
 しかしふつう私たちは、外界と内界とは別物としてとらえます。その理由の一つは、内界には個人的に考えたり想像しただけの事柄や、様々な個人的感情があふれているのに、これらは外界に存在しているわけではないからです。
 それなのに、なぜ賢治は「外界=内界」ととらえるのでしょうか。

 その理由こそが、賢治独特の世界感覚に由来するところだと私は思います。彼にとっては、自分の心の「内界」と、自分の外に広がる「外界」との境界線が、他の多くの人が感じているよりも、あいまいなものだったのではないかと、私は想像するのです。
 たとえば人が、そこにいるはずのない人の姿を目の前に見たり、しゃべるはずのない物の声を聴いたりしたとします。このような現象を「科学的」に解釈すれば、それは「幻覚」と呼ばれる体験であって、実際にはその人の「内界」に属する出来事が、あたかも「外界」で起こっているかのように誤って感じられたものだということになります。
 賢治は実際にしばしば幻覚を体験していたようで、その描写は『春と修羅』に収録されている詩にもたくさん出てきます。そして賢治自身、科学者としての眼からは、それらを幻覚体験として自覚していた様子が見てとれます。
 しかし一方、そのような(幻覚)体験をしている本人の率直な感覚からすると、いるはずのない人の姿も、しゃべるはずのない物の声も、本人の「内から」ではなくて「外から」やって来ていると感じられるのです。冷静な判断に従えばそんなことはありえないと思う反面、それでも実際に「外界」の現象として、ありありと体験されるのです。
 この体験感覚を素直に敷衍していけば、「外界と内界の区別というのは、相対的なものにすぎない」とか、あるいは「本当は両者は一体となった現象である」という考えに行き着きます。古今東西に、そのように考える哲学もたくさんあります。
 賢治にとっては、科学的な見方とは別に、このような世界観も「詩的真実」だったのだろうと、私は思います。

 つまり賢治は、「外界=内界」ととらえる独特の感覚があったようで、そのような立場からすると、外の風景を「写生」することと、心象を「スケッチ」することとは、結局は同じ営みだということになります。すなわち、『注文の多い料理店』の「序」と『春と修羅』の「序」で述べていることは、対極的なようでいて、実は同じだったわけです。


3.<わたくし>=<世界>ということ

 以上のような、「外界=内界」という彼独特の感覚を、ちょっと図にしてみました。

 まず、<わたくし>と<世界>との関係としては、ふつうは誰しも下図のように感じるでしょう。
 ここでは、<世界>の中に、一つの個体としての<わたくし>が含まれています。

<わたくし>=<世界>1

 その<世界>の中で賢治は、「虹や月あかり」からお話を「もらつて」きます。それらの現象は、賢治にとっては「ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたない」ことなのですが、その外的な実在感があまりにも強い(あるやうでしかたない)ため、彼にとってはこれは「外界」の出来事なのか、「内界」の出来事なのか、区別はあいまいになってしまいます。

<わたくし>=<世界>という感覚2

 自分と、自分以外の存在(他者)との間の境界線、すなわち「自我境界」が、希薄になってくるのです。
 そして、いつしか<わたくし>と<世界>が、一つに溶け合っているような感覚にも至ります。

<わたくし>=<世界>という感覚3

 こうなってしまうと、もはや<世界>の中に<わたくし>がその一部分として所属しているのか、あるいは逆に、<わたくし>の中に<世界>があるのか、その区別も無意味になってきます。

<わたくし>=<世界>という感覚4

 そして右は、<わたくし>が、<世界>を包含している状況です。『春と修羅』の「序」において、世界におけるさまざまな現象のことを、「それらも畢竟こゝろのひとつの風物です」と述べた賢治の感じ方は、これに相当するものでしょう。ここでは世界は、わたくしの心における現象(=心象)なのです。

 そして、<わたくし>が<世界>を包含しているのであれば、単に<わたくし>だけでなく、世界における他の存在も、それぞれが<世界>を包含しているはずだということになります。
 『春と修羅』の「序」には、「人や銀河や修羅や海膽」が出てきますが、それぞれの中にも<世界>があるでしょう。

<わたくし>=<世界>という感覚5

 そして、上の『春と修羅』の「序」に出てきた、(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)という有名だけど何かわけのわからないフレーズの意味することは、まさにこういう有り様のことなのだろうと思います。
 「<わたくし>の中のみんな」は、それぞれがまた<世界>を孕み、その中にはさらに「みんな」が含まれているという、無限の入れ子構造が存在するわけです。そしてすべては、究極のところで「一体」であるというのです。


4.作品に見る「自己」と「世界」の一体化

 このように、外界と内界が実は一つのものであるとか、世界そのものとその中に含まれる(と感じられている)存在が複雑な入れ子構造になっているとかいうことは、実は昔から仏教の教学で説かれていた事柄でもあります。
 たとえば「華厳経」には、帝釈天の宮殿には無数の宝珠の付いた巨大な網が掛けられていて、それぞれの宝珠の表面には、それ以外のすべての宝珠が映っている、そして映された個々の宝珠の表面には、またすべての宝珠が映っているという、無限に映し映される関係が描かれています。これは、賢治の作品「インドラの網」にも登場します。

 「ごらん、そら、インドラの網を。」
 私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く幾億互に交錯し光って顫えて燃えました。

 これはまさに、先ほどの(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)という感覚に通じるものです。
 しかしそれでは、これまで述べたような、「外界=内界」とか、<わたくし>=<世界>という認識は、賢治が仏教を勉強することによって、後天的に身に付けたものなのでしょうか。私はこれに関しては、この世界観は彼がもともと生得的に持っていた感覚であって、仏教はそれをさらに裏付けしたかもしれないけれども、その本質は、賢治が仏教の理論に出会う以前から、彼の身に備わっていたものだと思うのです。

 それが、理屈を越えた生得的な感覚に根ざしているだろうということは、彼の作品から見てとることができます。

作品に見る「自己」と「世界」の一体化

 最初に挙げたのは、「春と修羅 第二集」に収められている「種山ヶ原」という作品の初期形の一節です。ここで賢治は、大好きな「種山ヶ原」という高原を散策しながら、まさに恍惚とした忘我の境地に至ります。そして、美しい高原の「水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と謳うのです。
 これこそ、<わたくし>=<世界>という理屈抜きの実感の、いかにも賢治らしい詩的表現だと思います。

 二番目の「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」という言葉は、ともに活動しようとする仲間の青年たちに向けた、一種のスローガンとして「農民芸術概論綱要」に記されているものです。しかし、賢治はこれによって、いったい何を訴えたかったのでしょうか。
 もちろん彼はここで、現実に自分の身体を「微塵」に粉砕せよと言っているわけではありません。これも賢治独特の「自他一体」の世界観をもとに、「さあみんな、私と一緒に、自らと宇宙全体とを一体化させよう」と呼びかけている言葉なのだと思います。「微塵となりて…ちらばらう」とは、上の「種山ヶ原」下書稿において、「わたくしは水や風やそれらの核の一部分で/それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と記されていることと、結局は同じことを言っているのでしょう。

 さて、その次の「グスコンブドリの伝記」は、有名な「グスコーブドリの伝記」の初期形ですが、ここで主人公のブドリは、比喩的な意味ではなしに、文字どおり自らを「青ぞらのごみ=宇宙の微塵」にしようとします。ブドリの行為に対する評価はさまざまにありえますが、最近ツイッターでにおいて、これは「世界への愛」の表現だろうという指摘をいただきました。
 これはまさにそのとおりだと、私も思います。種山ヶ原において、賢治はその自然への愛ゆえに、自分と高原が一体であると感じたわけですし、「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」という言葉で表現されているのも、「宇宙に対する愛」にほかなりません。

 最後に挙げた、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というのも有名で、これはいかにも「宮澤賢治らしい」言葉として、しばしば引用されるものです。個人的な幸福など追求せずに、ひたすら「みんなのほんたうのさいはひ」のために身を削るような努力を続けた、彼の高邁な理想を表している言葉として解釈するのが一般的です。
 ただ私が思うには、賢治にとってはこの言葉の真意は、何も倫理や道徳から考えて導き出したものではなくて、<わたくし>と<世界>が一体のものであるところから、自然に素朴に湧いてきたものではないでしょうか。「一体」である以上、<世界>と区別して<わたくし>だけの幸福というのは存在しえず、賢治のような人にとって幸福というものは、<世界がぜんたい>ともにそうであるほかには存在しえないのだと思います。

 以上、<わたくし>と<世界>が一体となった賢治の感覚を、いくつかの作品から垣間見ました。次にそのような特性を、彼の生涯における他のエピソードから、見直してみます。


5.賢治の生来的な「共振性」の高さ

 先ほどの竹崎さんの「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」の中に、「怪我した友達の、血と泥にまみれた指を『いたかべ、いたかべ』と、夢中で吸っていたあの人」が登場しましたが、これは賢治が小学2年の頃の逸話です。友達の指から血が出ているのを見た賢治は、思わず駆け寄って、「痛いだろ、痛いだろ」と言いつつ流れる血を吸ってやったのだそうです。

賢治の生来的な「共振性」の高さ

 これも、頭で考えてからの行動というよりも、思わずとっさに出たような感じで、彼の生来的な特性を表す例の一つだと思います。「他人の痛み」をまるでそのまま「自分の痛み」として感じてしまうところは、大人になってからの賢治にもしばしば見受けられます。先に、「自己と他者の間の境界線があいまいである」ということを彼の特徴として挙げましたが、これもそのような傾向の表れと言えます。

 次に出てくる、「霊磁式静坐法」という何やら怪しげなものは、今で言う催眠術の一種だったのでしょう。「佐々木電眼」というこれまた怪しげな名前の人物が、中学校の近くに施術院を構えて実演をしていたようですが、何を思ったか賢治がそこへ行って「静坐法」の指導を受けてみたところ、「40分にして全身の筋肉の自動的活動を来し・・・」と父に書き送っています。
 すっかり電眼氏に心酔した賢治は、その後何ヵ月も彼のもとへ通い、冬休みには花巻の自宅まで連れてきて家族にも「静坐法」を受けさせました。しかし冷静な現実家の父は、電眼氏が長時間にわたり汗を流して術をかけようとしても、平気で笑っているだけだったので、「遂に電眼はあきらめて、雑煮餅を十数杯平らげて、山猫博士のように退散したのであった」と宮澤清六氏は書いています(「十一月三日の手紙」)。
 ちょっと微笑ましい、思春期の賢治の逸話です。

 最後の「幻覚体験」のことはすでに上にも触れましたが、これも彼の学生時代からいろいろエピソードはありますし、作品にも数多く描かれています。精神医学的に見ると、たとえば「青森挽歌」で、《おいおい、あの顔いろは少し青かつたよ》などという声が聴こえてきて、半分は幻聴とわかりながらもその相手と「対話」をしてしまう場面など、まさに「解離性幻覚」と呼ばれる体験の記録そのもののようで、こういう経験がない人が想像して書いているとは思えません。これは文字どおり「そのとほりの心象スケッチ」だと思います。

 さて、直接は関係のなさそうな三つのエピソードを並べましたが、この三種類の体験は、実際に強く関連していることが、医学的な観察からわかっています。
 誰しも、大切な人の痛みであればまるで自分の痛みのように感じることがあるでしょうし、時と場合によっては催眠にかかることもあるでしょう。また、入眠時や出眠時には、人の気配がしたり声が聴こえたように感じたり、幻覚に似た体験をすることもあります。すなわち、共感性や催眠の感受性や幻覚体験の可能性は、誰でも少しは持っている傾向なのです。ただ、それが人によって、低い人から高い人まで、個人差があるのです。
 そして、この三つの傾向は互いに「相関している」=つまりこのうち一つの傾向が高い人は、あとの二つもだいたい高くなっていることが統計的に確認されています。
 その傾向を単純化して言えば、「自己と他者の間の境界が薄く、周囲からの影響に敏感で、自分の心における『表象』と外的な『知覚』の区別もあいまいになりやすい」ということになります。このような傾向が強い人ほど、遠くの人の苦しみもまるで自分の苦しみのように体験してしまい、人からの暗示に影響されやすく、他の人が感じられないものを感じてしまうのです。
 私は、宮澤賢治という人の作品や生涯の逸話は、彼がそのような傾向性の非常に高い人だったことを示していると考えます。


5.東日本大震災と賢治作品

 昨年の震災を契機に、宮澤賢治の作品がふたたび注目を集めるようになりました。「雨ニモマケズ」は、国内外のさまざまな場所で朗読されています。
 その理由の一端は、彼が東北岩手の出身だったことにあり、また彼の生年と没年にやはり三陸地方を記録的な大津波が襲っていたという偶然にもよっているでしょう。しかし私は、彼の作品が震災後の状況で人々の拠りどころとなっているのは、このような外的な要因によるだけでなく、彼の作品やその人となりの、特徴的な性質によるのではないかと考えています。

 それは、これまで述べてきたように、宮澤賢治という人が、自己と他者、あるいは自己と世界の間に境界線を引かず、一体のものとしてとらえ、それを作品にしていたからだと思うのです。

 ふだん私たちは、ある程度は他人にも共感しつつ生き、また自然との一体感を体験することもあります。
 しかし、文明というものは、人間が自らを自然と区別し、人間の生活空間を自分たちに都合よく整備していくことから始まりました。雨風や寒さから暮らしを守るために、屋根や壁で外界から仕切られた「家」というものを作り、集落を海や川の水から守るために、堤防を築いてきたのです。
 あるいは、近代的な個人は、しっかりとした自我を確立し、周囲の雰囲気や感情に流されずに自分の頭で考えて判断するべきものとされています。また、現代の生活においては、個人のプライバシーは互いに尊重しなければならず、人と人、家と家の間には、一定の心理的距離を保たなければなりません。

 しかし、先の東日本大震災とそれに伴う大津波は、このようにして人間が築いてきたさまざまな「境界」を、一挙に破壊してしまったのです。
 「家」は崩れて屋外と屋内の境はなくなり、津波は防潮堤を突破して、海と町の区別も消滅してしまいました。
 家も財産も流されてしまった人々は、お金持ちだった人もそうでなかった人も、一緒に大きな避難所に集まって、一体となった生活を始めました。
 さらに付け加えるならば、原子力発電所の事故によって、放射能を外界から隔離するための原子炉格納容器も損傷し、放射性物質にとっての「内」と「外」の区別までもが、一部で失われました。

 ここに図らずも現出した世界は、あたかも宮澤賢治の感性がとらえたもののように、すべての人々や、人間と自然が、混然と溶け合い一体となっている状況だったのです。
 それは、直接被災した人々にとってそうであっただけでなく、私のように離れた土地からテレビなどの映像でそれを体験した人にとっても、ある程度まではそうでした。3月11日の夕方から、すべてのチャンネルがCMもはさまずに延々と流し続けた映像は、日本中のほとんどの人によって同時的に共有されていたでしょう。そこには、被災地と遠隔地の間の境さえ越えさせる、目に見えない力が働いていました。そして、たとえふだんは自分や家族の生活で精一杯という人でも、見知らぬ被災者が大切な人を喪って嘆き悲しむ様子を見ると、思わず我が事のように胸が痛み、心が大きく揺れ動くのを感じたのではないでしょうか。

 恥ずかしながら私は3月11日の夜に茫然とテレビを見つつ、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と賢治が言った心境は、まさにこういうものだったのかと思い至りました。自分が何事もなく暖かい部屋の中でテレビを見ていることが、現地の人々に対してまるで申し訳ないように感じ、被害に遭った方々全員が救われないかぎりは、自分の心も救われないというような、一方的な思いを禁じ得ませんでした。

 おそらくこれに似た感覚は、少なくとも震災後の数日間、日本中かなりの人が体験したことだったのではないでしょうか。そしてこのような苦しい感覚こそ、賢治のような人はふだんからいつも味わっているものだったのだと思います。大震災は多くの人に、「賢治的」に世界を体験させたのです。
 そしてこれが、大震災を契機に賢治の作品が多くの人の共感を集めた、本当の理由なのだと私は思います。人々は知らず知らずに、彼のさまざまな作品の中に、自分を今とらえている感覚の表現を見てとったのではないでしょうか。

 これが、今日ここで私がお話したかったことのポイントです。

東日本大震災と賢治作品


6.「なめとこ山の熊」の生命観

 さて、これからの第三部では、竹崎利信さんと友枝良平さんが「かたり」と揚琴の音楽によって、賢治の「なめとこ山の熊」を上演して下さいます。
 この「なめとこ山の熊」というお話は、生き物の「命」というものについて、賢治がその思いを表現した作品とも言えます。震災の後、あらためて命の尊さを身にしみて感じている私たちに、それは何かを教えてくれるかもしれません。
 また、ふだんは自然の力をコントロールして生活しているつもりになっている私たちに、地震と津波の力は、人間は自然の中のちっぽけな一部にすぎないことを思い起こさせてくれました。このお話に出てくる猟師の小十郎はまさにそのように自然の一部として熊と対等に生きています。そして対等に死にます。中ほどに出てくる「荒物屋の旦那」は、熊にも出会わない安全な(と思っている)場所でぬくぬくと暮らしていて、自然に対して思い上がっている平素の人間を象徴しているようにも思えたりします。

「なめとこ山の熊」の生命観

 ここでも、賢治が描く世界の根底にあるのは、これまで述べてきたような、人間と自然とが「一体である」という、彼らしい感覚です。
 多くの人は、人間の命と熊の命を比べると、無条件に前者の方が優先されるべきだと考えるでしょう。それは常識的なことです。賢治ももちろん一方ではそういう認識を持ちながらも、熊にも人にも同等に感情移入してしまう彼の感覚は、通常の「人間中心主義」の世界観に飽き足りませんでした。
 そこで描き出されたのが、熊と人間とがお互いの命への畏敬を抱きつつ、ともに生き、ともに死ぬという世界です。
 それは、「人間的」な視点から見れば、「自然の過酷さ」を表現しているようにも思えます。また同時にこのお話は、高い山の頂で月に照らされている氷のように、その厳しさゆえの美しさも備えていると感じられます。

 それでは、私の話はここまでです。休憩をはさんで、第三部の「なめとこ山の熊」をどうかお楽しみ下さい。

霧に隠れた「なめとこ山」

 ちなみに上の写真は、今回のチラシにも使ったものですが、私が数年前に花巻の西の山奥の、「なめとこ山」が見える場所に行った時に撮ってきたものです。賢治が、「なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしてゐる」と描写したように、山の姿は霧の向こうにうっすらと隠れています。

 ご静聴ありがとうございました。

『解離性障害』

 柴山雅俊著 『解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理』(ちくま新書)という本を読みました。

解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書) 解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)
柴山 雅俊

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stars体感異常(セネストパチー)と解離性障害
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 「解離」という心理メカニズムは、一部では現代社会を理解するための重要なキーワードとしてもてはやされ、たとえば、香山リカ著 『多重化するリアル 心と社会の解離論』(2002)とか、斎藤環著 『解離のポップ・スキル』(2004)など、いずれも精神科医が「解離」という観点から相次いで本を出して、最近の社会現象について興味深い切り口を提供してくれていました。

 今回とりあげる『解離性障害』は、社会評論的な上記の2冊などとは異なって、その名のとおり「解離性障害」という一群の精神疾患について、医学的な解説をしている本です。
 著者は「まえがき」において、「本書は一般向けではあるが、私自身の気持ちとしては解離の病態に苦しんでいる人たちに向けて書いたつもりである。(中略) さらに患者を支える家族、友人、恋人にぜひ読んでほしいと思っている。」と書いておられますが、内容はかなり専門的です。上のカスタマー・レビューの一つにあるように、「専門医が読んでも面白い」ものだと思います。

 ところで何でまた、本日ここでこの本をとりあげたかというと、この本の第七章「解離とこころ」には、「宮沢賢治の体験世界」と副題が付けられていて、賢治が多くの作品に記述している特異な体験について、「解離」という観点から分析が行われているからです。

 まず著者は、第七章の章の趣旨について次のように述べます。

 私が専門としている精神医学とは病の学問であり、それを作家にそのままあてはめて論じることはできない。賢治の生育歴を調べても、彼がなんらかの病気であったと判断する根拠はない。しかし、私には作品のところどころに解離の主観的な体験と類似したものが見出されるように思われてならない。彼の心的世界は明らかにわれわれの体験世界とは異なっているところがある。それを単に精神病や神秘体験として理解するのではなく、解離、とりわけ意識変容の観点から了解の幅を広げようと試みようとするのが本章である。

 そして、たとえば

79 うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり

という有名な短歌に詠まれている「背後からの視線」は、著者が言うところの「気配過敏症状」として、解離性障害の人がしばしば体験する現象と非常に似ていると指摘します。
 あるいは、童話「インドラの網」の冒頭の、

 そのとき私は大へんひどく疲れてゐてたしか風と草穂との底に倒れてゐたのだとおもひます。
 その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずゐぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやってゐました。

というところなどは、やはり解離現象の「体外離脱体験」とみることもできるとしています。

遠隔化と近接化 著者は、本書の第四章「解離の構造」において、意識の変容のあり方について「遠隔化と近接化」という観点から、整理をしています(右図)。
 「遠隔化」においては、「周囲世界は膜の向こう側へと隔たったものとして体験される。感覚の鮮明さが減弱してゆき、ぼんやりとした表象、夢のようなものへと外界は引き寄せられている。これを知覚の表象化と表現することもできよう」と著者は説明します。これは例えば、著者が第七章の「離人症」の項で挙げている賢治の短歌、

165 ぼんやりと脳もからだもうす白く消え行くことの近くあるらし

に詠まれている体験に相当するのでしょう。

 一方、「近接化」においては、逆に「表象が知覚化する」のが特徴とされます。言い換えると、一般には心の中のイメージとして体験される事柄(表象)が、まるで外界からの知覚のように体験されるのです。この「知覚化」が、現実と区別できないほどの実感を持つ場合には、「幻覚」になります。
 思えば賢治は、幻聴、幻視など、自分が体験した種々の幻覚を描いたと思われる作品を多く残しています。(例を挙げればきりがないほどですが、たとえば「比叡(幻聴)」や、「小岩井農場」における、ユリア、ペムペルなど。) これらの幻覚は、統合失調症という病気において現れる幻覚とは異なっていて、「解離性幻覚」と呼ばれる特徴を持っているのですが、これこそが上記のような意味で「表象が現実味を帯びて知覚化したもの」と考えられるわけです。

 同じようなことを、以前に私は安永浩という人の提唱した「体験線」というモデルを用いて、説明しようとしたことがありました(「「心象」の体験線モデル」参照)。私もこの時は、賢治の独自の感覚においては「自我図式」と「対象図式」が近接して、表象が知覚化するということを言おうとしました。

 あらためて眺めると、賢治の作品は「表象の知覚化(幻覚化)」に満ちています。「心象スケッチ」における「心象」とは、表象の知覚化あるいは知覚の表象化によって、「表象と知覚が渾然一体となったもの」に、賢治が独自の意味をこめて与えた呼び名である、とさえ言ってもよいかもしれません。

◇        ◇

 最後の方は、勝手に私の解釈や考えを述べるような形になってしまいましたが、この柴山雅俊著 『解離性障害』 第七章は、宮澤賢治に関する久々の本格的な病跡学的論述と言えるものだと思います。
 賢治の作品に見られる独特の体験描写を、単に精神医学や心理学の用語にあてはめて事足れりとするのではなく、著者は「解離」という視点を導入することによって、彼の体験の全体像を、有機的に把握する可能性を示してくれています。

 賢治の病跡学と言えば、福島章著 『宮沢賢治―芸術と病理』(金剛出版新社, 1970)、のちに改版されて 『宮沢賢治―こころの軌跡―』(講談社学術文庫, 1985)が、古典的な名著だったと思います。残念ながら、どちらも現在は絶版になっていますが、賢治の一生を細かく跡づけて、その基底に「躁」と「うつ」が交代する「周期性性格」を指摘した論には、確かに説得力がありました。これは賢治の生涯を理解する上でも、有益な視点をもたらしてくれたと思います。
 同じ著者が1996年に刊行した 『不思議の国の宮沢賢治』(日本教文社)は、失礼ながら今ひとつ面白くなかったものですから、この柴山氏の著書は、私にとっては上記のように、「宮澤賢治に関する久々の本格的な病跡学的論述」と感じられたのです。

 伝え聞くところによれば柴山雅俊氏は、福島章氏が研究のために集めておられた賢治に関する多数の資料を、すでに譲り受けておられるとのことです。その「継承」関係には、何か象徴的なものさえ感じます。

 新たな時代の、賢治の病跡学的研究の発展を期待するところです。