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フサランダー

 「春と修羅 第二集」所収の「岩手軽便鉄道の一月」は、車窓から眺める雪景色がどんどん目の前を過ぎていく、楽しい作品です。

四〇三
   岩手軽便鉄道の一月
               一九二六、一、一七、
ぴかぴかぴかぴか田圃の雪がひかってくる
河岸の樹がみなまっ白に凍ってゐる
うしろは河がうららかな火や氷を載せて
ぼんやり南へすべってゐる
よう くるみの木 ジュグランダー 鏡を吊し
よう かはやなぎ サリックスランダー 鏡を吊し
はんのき アルヌスランダー [鏡鏡鏡鏡]をつるし
からまつ ラリクスランダー 鏡をつるし
グランド電柱 フサランダー 鏡をつるし
さはぐるみ ジュグランダー 鏡を吊し
桑の木 モルスランダー   鏡を……
ははは 汽車(こっち)がたうたうなゝめに列をよこぎったので
桑の氷華はふさふさ風にひかって落ちる

注:本文7行目[鏡鏡鏡鏡]は、1文字分の中に[鏡]という文字が上下二段に積み重なって4個書かれている。

 「ジュグランダー」「サリックスランダー」…などという耳慣れない言葉は、クルミの学名 Juglans、ヤナギの学名 Salix、ハンノキの学名 Alnus、カラマツの学名 Larix、クワの学名 Morus から、賢治が造語したそれぞれの木の「愛称」です。

 その語頭の部分が各々の学名に由来するのは確かでしょうが、共通する語尾の「ランダー」というのが何のことか、という点に関してはいくつか説があるようです。
 『新宮澤賢治語彙辞典』には、「ジュグランダー」の項に次のような説明があります。

語尾のランダーをドイツ語の Lander(垣根の杭)の意か、とした注もある(ドイツ標準語にはその語はないが、バイエルン地方の方言としてのせてある辞書もある)。(中略)
このランダーなる語尾形の語の出所は不明であるが、ドイツ語の Ränder(レンダー、並木の縁、Rand の複数)にヒントを得た音感的造語、ないし語呂合わせであろう。

 あるいは、伊藤光弥氏は『森からの手紙 宮沢賢治地図の旅』(洋々社)の中で、次のように書いておられます。

 ふつう、草や木が一本杉のように一本だけで生きているのは稀で、クルミの森、ヤナギの樹叢、ハンノキの林というふうに何本も集まり群落を作って生きています。したがって、ジュグランダーはクルミの林、クルミの林域などの意味と考えられます。ランダーはドイツ語のラント(土地、領域、界などの意味)の複数形であり、一連の造語は植物の学名とドイツ語のランダーを組み合わせたものだったのではないでしょうか。

 いずれにしても、「ランダー」はドイツ語に由来するのではないかというのがこれまでの考えのようですが、なかなか難解ですね。ただ、Ränder にしても Länder にしても、複数形にすると「ランダー」ではなくて「レンダー」という発音になってしまうところが残念です。

 さて、上に出てくる樹木の愛称は学名をもじって付けられているようなのですが、ここに一つ賢治らしいユーモアの表れとして、樹木に混じって「グランド電柱 フサランダー」も登場します。
 生物ではない「電柱」には学名など存在しませんから、この「フサ」という語が何に由来するかということも、また新たな問題です。

 『新宮澤賢治語彙辞典』によれば、

フサランダー(これのみ植物でなくグランド電柱の列の言い換えとして賢治は用いる。電柱の列をフザー=軽騎兵の列に見立て、Sの濁点を省いてフサとしたか)

ということであり、伊藤光弥氏『森からの手紙 宮沢賢治地図の旅』では、

 では「グランド電柱 フサランダー」のフサは何のことでしょうか。賢治は大きな電信柱を「グランド電柱」と呼び、電線で結ばれた電柱の列をフサランダーと詠んでいるのですが、ドイツ語には脚、足、台脚などを意味するフスという単語があり、フサはその複数形です。したがって、電柱をフサと呼び、電柱の列をフサランダーと呼んだのではないかと考えられます。
 佐藤寛氏は「ランダーは籬(まがき)の用材の意ですが、ここでは雪をかついだ棒と解したほうが適切であるかも知れない」「フサは十五世紀頃の軽騎兵の意」などと解釈していますが、この解釈ははたしてどうでしょうか。フサが十五世紀頃の軽騎兵の意味であることを賢治が知っていたとも思われません。

 『語彙辞典』の挙げる「軽騎兵」は Husar(フザー)、複数形は Husaren(フザーレン)となります。伊藤光弥氏の言われる「足」は Fuß(フース)ですが、複数形では Füßen(フューセン)となり、「フサはその複数形です」という氏の記述とは、少しずれてしまいます。
 まあこれは、なかなか一筋縄ではいかない、難しい問題であることは感じとれます。もっと簡単に考えると、作品最終行に「桑の氷華はふさふさ」とあるように、電柱にも「房」のように氷華が下がっていることから、「フサランダー」と言ったのかもしれないとか思ってみたりもします。

 ところで、この「岩手軽便鉄道の一月」の約半年前に作者は、「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」という作品を書いていて、やはり車中で感じるスピード感を諧謔味も豊かに表現していました。こちらは、夜の花巻に向かう最終列車ということです。
 その最後の部分は、次のようになっています。

いるかのやうに踊りながらはねあがりながら
もう積雲の焦げたトンネルも通り抜け
緑青を吐く松の林も
続々うしろへたたんでしまって
なほいっしんに野原をさしてかけおりる
わが親愛なる布佐機関手が運転する
岩手軽便鉄道の
最後の下り列車である

 ここで面白いのは、岩手軽便鉄道を運転しているのは「わが親愛なる布佐機関手」ということで、どうしたことか「フサ」という語が登場するのですね。
月夜のでんしんばしら(賢治自筆画) だからどう、というほどのことではなくて、「一月」の方の列車を運転していたのも布佐さんだったのかどうかはわかりませんし、「機関手」から「電柱」へのつながりもはっきりしません。
 ただ、苦心して見つけ出されてきた「フザー」や「フューセン」を尻目に、そのまま「フサ」という言葉があったので、ちょっと書いてみたくなっただけです。

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電信柱から高架線へ
「岩手軽便鉄道の一月」の舞台

電信柱から高架線へ

 現代の私たちも、道端に立っていて送電線を支えている棒のことを、なにげなく「電信柱」と呼んでいますが、これは言葉の本来の意味からすると、正確ではないようです。
 もともとこの名前が指しているは、「電信」の「柱」というわけですから、電力を供給する送電線の柱ではなくて、あのモールス信号の「電信」を伝えるための線を支える柱のことだったのです。

 日本における電信事業の全国への普及は、電灯の出現や家庭配電の開始よりもはるかに早く、東京―横浜間に電信線東海名所改正道中記・程ヶ谷が敷設されて電信事業が開始されたのは1869年(明治2年)のことで、この時に東京の築地運上所(税関)から横浜裁判所まで、約32kmの間に立てられた電柱593本が、日本最初の「電信柱」だったことになります。そして、早くも1878年(明治11年)には、国内の電信設備がほぼ完了しました。すなわち、この時までに、「電信柱」が全国の主要幹線道には立ち並んだわけですね。(参考:「電信・電話の歴史年表」)
 右の明治初期の浮世絵(三代目・広重「東海名所改正道中記・程ヶ谷」)には、並木の松に直接電信線を取り付けてある様子が描かれており、古いものと新しいものが不思議な形で共存しています。

 一方、電灯事業に関しては、東京・銀座の街路に初めてアーク灯がともされて連日市民が見物に訪れたというのが1882年(明治15年)、東京で一般家庭への配電が始まったのが1887年(明治20年)、そして1912年(大正元年)には東京市内のほぼ全域に電灯が行きわたり、1927年(昭和2年)の段階で、全国の電灯普及率は87%に達したということです。(参考:電気事業連合会「電気の歴史」)

 正しい言葉の用法としては、電力会社が送電・配電を目的に設置するのは「電力柱」と言い、何らかの通信目的の導線(現在は「電信線」はありませんが、電話線やケーブルテレビやネット用の光ケーブルなど)を中継するのが「電信柱」で、両者を合わせて「電柱」と呼ぶ、ということのようです。
 しかし、上で見たように、「電信柱」の方がはるかに早く全国に行き渡り、人々はすでにこの呼称の方に慣れ親しんでいたために、その後「電力柱」が普及してきても、区別せずにどちらも「電信柱」と呼び続けたわけです。

月夜のでんしんばしら(賢治自筆画) 賢治が創作活動をしていた大正~昭和初期とは、群雄割拠していた電力会社たちが、全国で競争を繰り広げつつ、津々浦々に電灯の普及を推し進めていた時代でした。この当時にも、すでに純粋な「電信柱」というのはほとんどなかったでしょうが、賢治も大方の人々と同じように「電柱」に対してこの呼称を用い、その作品には「でんしんばしら」が重要なキャラクターとして登場します。
 童話「月夜のでんしんばしら」はもちろんのこと、「冬のスケッチ」に出てくる、「瀬川橋と朝日橋との間のどてで/このあけがた、/ちぎれるばかりに叫んでゐた/電信ばしら」、「空明と傷痍」に出てくる「電信ばしらのオルゴール」・・・。
 そして、やはり最も印象深いのは、

よりそひて
あかきうで木をつらねたる
夏草山の
でんしんばしら。 (歌稿〔B〕 578)

という若き日の短歌と、それに呼応するように「銀河鉄道の夜」の終わり近くに現れる、「何とも云へずさびしい気がしてぼんやりそっちを見てゐましたら向ふの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立ってゐました。」という一節です。


 と、いう具合に、「でんしんばしら愛好者」の賢治だったと思うのですが、1928年(昭和3年)に大島行きの前に東京に立ち寄った際には、ちょっとこれまでとは違った送電線と、その支柱を目にします。
 1928年6月10日の日付のある「高架線」(「東京」)という作品には、それなりにいろいろ人生経験を積んだ賢治の、東京に対する従来の単純な憧れではない複雑な思い(都市文明への危惧や、地方から都会へのエンパワーメントや、深い人類愛など)が込められているようで、不完全な草稿段階にはありますが、私としては大好きな作品の一つです。
 その題名になっている「高架線」とは、言葉の意味としては「高架になっている鉄道線路」のこととも、「高架になっている電線」のこととも解釈できますが、作品の内容からは、後者と考えられます。
 賢治はこの時、普通の電線よりももっと高いところに架かり、木製の電信柱などではない「鉄の塔」によって中継されている送電線を見たのだと思われます。そして、次のように書きます。

かゞやく青き氷窒素のかなたより
天女の陥ちてきたりしに
そのかげらふの底あたり
鉄のやぐらの林あり
そは天上の樹のごとく
白く熟れたる碍子群あり
天女来りて摘みたるに
そは修羅のぐみ
黄いろに澱む硫黄にて
嘆きの声は風に充ちしと

 「鉄のやぐらの林」とは、「碍子群」を伴っていることから、現代にもあるような高圧送電線を中継する鉄塔のことを指していると思われます。そしてその「碍子」は、「修羅のぐみ」と呼ばれ、「人間界」よりも下に位置する「阿修羅界」の産物とされています。
 さらに、その少し後の箇所では、

緑青ドームさらに張るとも
いやしき鉄の触手ゆるとも
はては天末うす赤むとも
このつかれたる都のまひる
いざうましめずよみがへらせよ

と書かれていて、ここに出てくる「いやしき鉄の触手」というのも、送電鉄塔のことでしょう。「いやしき」という形容も、先に「修羅」と表現したことと呼応しています。

 すなわち、「でんしんばしら」に対してはあれほど親しみをこめて謳っていた賢治も、この新たな参入者たる「送電鉄塔」には、何か不吉なものを感じ、嫌忌しているようなのです。

 作品「高架線」の内容からは、これは東京の市街地に立っていた送電鉄塔だったと思われますが、鉄塔を要するような高圧送電が行われるようになってきたのも、じつは当時の一つの時代の流れでした。
 そもそも東京に電灯が普及した当初は、その電気は、東京市内に設けられた火力発電所から210V程度で配電されていました。しかし、次第に大量に安価な電力を供給する必要が高まった結果、1907年(明治40年)に東京電灯会社は、山梨県の駒橋水力発電所から東京へ、送電電圧5万5000Vで、75kmという遠距離の送電を開始しました。これが、日本における特別高圧遠距離送電の始まりということです。ただ、「東京電灯(電燈)・電気の歴史」というページの写真を見ると、この時の市街地における送電には、まだ「鉄塔」は使われていなかったようです(中ほどの、「駒橋から早稲田変電所への送電線」参照)。

 それでは、賢治が「高架線」を書いた1928年6月までに、東京の市街地に入り込んでいた高圧送電鉄塔はどのくらいあったのか、「送電鉄塔見聞録」というすごいサイトで調べてみると、1912年(明治45年)にできた八ッ沢線(淀橋変電所まで)、1913年(大正2年)にできた酒匂川線(駒沢変電所まで)、1913年(大正2年)にできた谷村線(新宿戸塚変電所=現在の目白変電所)まで、1914年(大正3年)にできた猪苗代旧幹線(田端変電所まで)、1924年(大正13年)にできた上越幹線(亀戸変電所まで)、1925年(大正15年)にできた南葛線(小松川変電所まで)、1928年(昭和3年)10月部分開通の東京内輪線(一部には1925年建設の鉄塔もあり)、などがあるようです。
 上記のリンクページでは、その当時に建造されて現在まで残っている鉄塔の写真まで見られて、とても興味深いです。80年以上の時を越えて、意外に現在も目にする送電鉄塔と同じような感じですね。
 これらのうちで、賢治が見ていたのはどの送電線の鉄塔だったのかということが気になりますが、はっきりとしたことは不明です。作品中に出てくる「地球儀または/大きな正金銀行風の/金の Ball」というのが同定できれば、作品の舞台がおおむね判明するでしょうが、現時点で私にはわかりません。また、「きらゝかに海の青く湛ゆるを」という一節が、作者の目に直接海が見えていたことを表しているのだとしたら、その鉄塔は、海に近い亀戸変電所や小松川変電所に向かう、上越幹線や南葛線のものだったかもしれません。


 あと、この作品で「謎」なのは、エスペラントの単語を用いて書かれた、次の3行です。

^Si ne estas belaner nin !
Li ne estas Glander min !
Mi ne estas Slander min !

 この中の、‘belaner’、‘Glander’、‘Slander’という語(?)は、エスペラントには該当する単語がありませんし、だいたい語尾がエスペラントの規則にも反しています。作者がいったい何を言おうとしているのか不明なのですが、この箇所について野島安太郎氏は『宮沢賢治とエスペラント』(リベーロイ社, 1996)において、これを「岩手軽便鉄道の一月」(「春と修羅 第二集」)との関連においてとらえることを提唱しておられます。同作品には、「くるみの木 ジュグランダー」や「かはやはぎ サリックスランダー」などが出てきましたが、「ジュグランダーとサリックスランダーなどの頭を切り取ったのが、Glander であり Slander である」というのが、野島氏の考えです。私も、この着目に賛成です。
プラタナスの実 作品のその少し前の箇所には「サリックスバビロニカ」が出てきますし、2回繰り返される「プラタヌス グリーン ランターン」というのは、街路樹のプラタナスが付けている緑いろの実(右写真)のことを指していると思われます。「岩手軽便鉄道の一月」で言えば、まさに「鏡を吊し」に相当する形で、「提灯を吊し」ているわけですね。(ちなみにプラタナスの和名は、「鈴懸けの木」です。)
 さらに、「岩手軽便鉄道の一月」には、「グランド電柱 フサランダー」が出てきましたが、「高架線」において、その電柱の巨大化した新顔として登場したのが、高圧送電鉄塔であったわけです。
 つまり、この二つの作品は、木々や電柱(鉄塔)が登場する点において共通しており、作者の心の中でも連想が働いていたのではないかと思うのです。しかしそれでも、上の「エスペラント風」の部分が何を言いたいのかは、釈然としません。木々や鉄塔が、故郷花巻のものとは異なっている、ということなのでしょうか。

 ところで、賢治は農学校教師時代に、奥州街道沿いに江戸時代から残る松並木を県当局が公会堂建設のために伐採してしまうという話が出た際、校内のディベート大会において、伐採反対の側に立って活躍したことがありました。教え子の柳原昌悦は、討論中に賢治から手渡されたメモの中に、「先生の考え方の中に広重の東海道五十三次の松並木を連想した」と述べていて(宮沢賢治学会・花巻市民の会『賢治のイーハトーブ花巻』)、これは冒頭に掲載した三代目広重の浮世絵(=松並木の電信柱化現象!)につなげて考えると、ちょっと示唆的です。
 賢治は、文化遺産としての「街道並木」や、その進化形と言えなくもない街道沿いの「電信柱」には愛着を抱いていたものの、「タキスのそら」を無骨に区切る高架線や、無機的にそびえ立つ「鉄のやぐら」には、何か禍々しいものを感じてしまったのではないでしょうか。


 作品「高架線」の前半部は、大都会の猥雑さが、まるで清濁併せ呑むようなスタンスで描写され、それはそれで活き活きとして魅力的です。「ひかりかゞやく青ぞらのした/労農党は解散される」という、この年の4月10日の出来事も織り込まれていますが、労農党シンパであった賢治にとっては、さらりと書かれていながら心の痛む想起だったでしょう。
 そのような背景を持ちながらも作者は、

一千九百二十八年では
みんながこんな不況のなかにありながら
大へん元気に見えるのは
これはあるひはごく古くから戒められた
東洋風の倫理から
解き放たれたためでないかと思はれまする

と、東京の人々の「元気」を認めるのですが、それに続いて、

ところがどうも
その結末がひどいのです

と、「結末」を予言するかのように語ります。
 その「結末」とは、

この大都市のあらゆるものは
炭素の微粒こまかき木綿と毛の繊維
ロームの破片
熱く苦しき炭酸ガスや
ひるのいきれの層をば超えて
かのきららけき氷窒素のあたりヘ向けて
その手をのばし
その手をのばし

というように、大気汚染に苦しむ人を連想させるものであったり、先に引用した、「陥ちてきた天女」の悲しい話であったり、

きらゝかに海の青く湛ゆるを
練瓦の家の屋根やぶれ
青き??気も風景ももる

などと、何らかの荒廃を暗示するものであったりします。


 そして、作品の終結部は、これらの「都市の疲弊」に対して、「地方」からのエネルギーを注ぎ入れる様子を描くかのような、韻文の「歌」になっていきます。それは、「都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」(「農民芸術概論綱要」)という従来の姿勢よりも、さらに積極的に、都市に「癒やし」を与えようとしているかに思えます。
 私は、作品を読んでいてこの部分に至るたびに、「未来派」のような喧噪の音楽の底の方から、静かに聖歌のごとき合唱の歌声が浮かび上がってくる感じを覚えます。

いまこのつかれし都に充てる
液のさまなす気を騰げて
岬と湾の青き波より
檜葉亘れる稲の沼より
はるけき巌と木々のひまより
あらたに澄める??気を送り
まどろみ熱き子らの頬より
汗にしみたるシャツのたもとに
またものうくも街路樹を見る
うるみて弱き瞳と頬を
いとさわやかにもよみがへらせよ
緑青ドームさらに張るとも
いやしき鉄の触手ゆるとも
はては天末うす赤むとも
このつかれたる都のまひる
いざうましめずよみがへらせよ

そのうるはしくわかやぐ胸を
水銀をもて充てたるゆゑに
たゞしきひとみの前には耐えず
かなしきさまなるひとにも吹けよ

 そして、合唱の歌声は、さらに安らかに転調して、作品は終わります。

あゝひとおのおのわざをもなせど
つみひとになくわれらにあらん
あまねきちからに地をうるほをし
なべてのなやみをとはにも抜かん
まことのねがひにたゝずやわれら

いかにやひとびとねたみとそねみ
たがひのすべなききほひとうれひ
みだれてすゑたるひかりのなかに
すゑたるししむらもとむるちから
なべてのちからのかたちをかへて
とはなるくるしみ抜かんとせずや
見ずや扉もよそほひなせば
おもひをこめたるうでにもまさり
いくたびしづかに丶丶丶を丶丶丶
いとしとやかにもとざされたるを

 先日アップした「大正期花巻の鉄道路線図」において、青い線で表した「岩手軽便鉄道」が右上の方向へ走っていくのを追って、画面をマウスでたぐり寄せるようにドラッグしていってみて下さい。「イギリス海岸」のちょっと上流あたりから、しばらく線路が北上川に沿って、直線的に走る箇所があります。距離にしたら、だいたい800mくらいでしょうか。
 ここを列車が走る時は、さぞ気持ちよかっただろうなと以前から私は思っていて、そして「岩手軽便鉄道の一月」という作品は、このあたりの情景を描いたものだろうかと、とくに根拠もなくぼんやり考えたりしていました。
 すると、伊藤光弥氏の『森からの手紙 宮沢賢治 地図の旅』(洋々社)に、この作品の舞台に関する詳しい考察が載っていました。

 まず、下記が作品の全文です。

  岩手軽便鉄道の一月
               一九二六、一、一七、

ぴかぴかぴかぴか田圃の雪がひかってくる
河岸の樹がみなまっ白に凍ってゐる
うしろは河がうららかな火や氷を載せて
ぼんやり南へすべってゐる
よう くるみの木 ジュグランダー 鏡を吊し
よう かはやなぎ サリックスランダー 鏡を吊し
はんのき アルヌスランダー [鏡鏡鏡鏡]をつるし
からまつ ラリクスランダー 鏡をつるし
グランド電柱 フサランダー 鏡をつるし
さはぐるみ ジュグランダー 鏡を吊し
桑の木 モルスランダー   鏡を……
ははは 汽車(こっち)がたうたうなゝめに列をよこぎったので
桑の氷華はふさふさ風にひかって落ちる

  注:7行目の[鏡鏡鏡鏡]は、一文字分に「鏡」の字が2列2段に計4個書かれたもの。

 この作品の舞台に関して、佐藤寛氏は、次のように書いておられました。

 私の想像にして誤りなければ、この詩は鳥谷ヶ崎駅と似内駅の中間 ―国鉄になってからはこの区間の路線変更で、まったく違った方向を走っていますから、その当時の情景を車窓に再現することはできなくなった訳です― 即ちあの四十分の一勾配を下って瀬川を渡り小舟戸からイギリス海岸の付近に差しかかかった風景を詠んだものと考えられます。(『四次元』昭和26年3月号)

 これは、私がぼんやり想像していたこととだいたい同じような感じなのですが、これとは異なって、伊藤光弥氏は次のような考察をされます。

 「岩手軽便鉄道の一月」には、「ぴかぴかぴかぴか田圃の雪がひかってくる」の次に「河岸の樹がみなまっ白に凍ってゐる」情景が詠まれています。このとき、賢治は花巻に向かう上り線(西行きの列車)に乗っていたのではないでしょうか。最初に目にした光景が田園風景であり、次に北上川の風景が詠まれているからです。また、もし反対の下り線(東行き)に乗っていたとすれば、北上川は前方に見えてくるはずで、「うしろは河が……ぼんやり南へすべってゐる」では状況に合わないと思うのです。

 さらに伊藤氏は、大正時代の「五万分の一地形図」をもとにして、次のように推理を続けられます。

 旧版地図(五万分の一地形図「花巻」)では、小舟渡付近で軽便鉄道の線路が電信柱の列と交叉するところがあり、電線が小舟渡から北上川を越えて対岸の旧矢沢村役場の方向に延ばされていたことがわかります。
(中略)
 賢治の時代には、軽便鉄道上り線(西行き)の列車は小舟渡付近で電線の下をくぐってから瀬川鉄橋を渡り、鳥谷ヶ崎駅に向かいました。地図を見ると、瀬川鉄橋の下には桑畑が広がっています。ということは、軽便鉄道が電柱の列(フサランダー)をくぐったあとで桑畑(モルスランダー)を横切ったことになり、これは「岩手軽便鉄道の一月」に描かれた電柱や桑畑の順序と一致しています。(『森からの手紙』p.217-218)

 で、下の図が、大正時代の五万分の一地形図「花巻」の該当部分です(同書より)。

大正時代の五万分の一地形図「花巻」

 文中で出てくる「電線」とは、「花巻町」の「町」の字の下あたりから、右に向かって細い線が出て、岩手軽便鉄道と北上川を越え、対岸ではやや右下向きに角度を変えて走っている線のことですね。また、「瀬川鉄橋の下には桑畑が広がっています」というのは、小さくてちょっとわかりにくいのですが、「花巻川口町」の「花」の字の周囲に、3つほど「桑畑」という記号がありますが、これが桑畑の地図記号です。

 というようなわけで、伊藤光弥氏の考察は、当時の地図に基づいた実証的なものであり、とても説得力があるのですが、私には何となく残念さというかさびしさが残ってしまうのです。
 というのは、作品を読んでいくと、その2行目には「河岸の樹がみなまっ白に凍ってゐる」とあって、北上川の河岸に並んでいる樹々が、列になってみんな白く凍っている情景がまず目に浮かんできます。そして、4行目から10行目にかけて、列車が走るにしたがって次々と作者の目の前に現れる木(と電柱)に、作者は陽気にあいさつを贈りつづけます。
 2行目で描かれた「河岸の樹」が頭にあると、最後から2行目の、「汽車(こっち)がたうたうなゝめに列をよこぎった」という箇所に出てくる「列」とは、北上川の河岸に並ぶ樹々の「列」なのだろうと感じるのではないでしょうか。少なくとも私は、これまでそう思ってきました。

 しかし、伊藤氏の解釈では、賢治が順々にあいさつしている樹々は、河岸に沿って並んでいるのではなくて、北上川から少し離れた内陸部に立っていることになるのです。ずっと河岸でないといけないなんていうことはないのですが、樹々が河岸に列をなして並んでいた方が、私としては何となく楽しい気がしていたのです。
 でも、伊藤氏が書いておられるように、たしかに列車が川に沿って走っていたのでは、「うしろは河がうららかな火や氷を載せて/ぼんやり南へすべってゐる」という描写に合わないような気がしますね。

 ここでこの問題について考えていて私がふと思ったのは、この「うしろは」という言葉は、伊藤氏が解釈されたように「作者が乗った列車の背後では」という意味なのではなくて、前の2行目にある「河岸の樹がみなまっ白に凍ってゐる」を受けて、「樹の背後では」という意味なのではないかということです。車窓から見て、まず河岸の凍った樹の列があり、その向こうを川が流れている、という情景です。
 考えてみると、伊藤氏の解釈では、列車の背後にある川は、現在の作者の目には見えていないはずで、その川が「うららかな火や氷を載せて/ぼんやり南へすべってゐる」と現在形で具体的に描写するのは、ちょっと不自然な感じもしてきます。

 また、「グランド電柱 フサランダー」について伊藤氏は、地図に記されている送電線と軽便鉄道が交叉する場所を考えておられますが、このような地形図に記載される「送電線」とは、普通に町で見かける電線(や電柱)ではなくて、もっと大規模な高圧線なのではないかと思うのですが、どうでしょうか。賢治の時代にどうだったか詳しくはわからないのですが、現在なら鉄骨で組み立てられた巨大な「鉄塔」が電線を中継していて、「電柱」とはまた別のような気もします。
 ちなみに、「グランド電柱」という作品では、「花巻大三叉路」と賢治が呼んだ、向小路のあたりの電柱が登場しますが、上の地図ではこのあたりには送電線は記載されていません。
 つまり、少なくとも地形図上に送電線が記入されていない箇所にも、賢治の言う「グランド電柱」は存在したわけですから、「グランド電柱 フサランダー」の位置について、「送電線と軽便鉄道の交叉点」に限定する必要はないと思われます。

 ただ、最後から2行目の「汽車(こっち)がたうたうなゝめに列をよこぎった」にある「列」というのを、河岸に並ぶ樹々の「列」と考えると、それを汽車が「よこぎ」るのは、上の地形図で言えばいちばん右上の端のところ、軽便鉄道が北上川を渡る直前ということになろうかと思います。そうなると、冒頭に挙げた「北上川併走箇所」からは、そこまでの間に「似内駅」も存在することになり、ちょっと距離が遠いように思われることがやや難点です。


 まあこれは、簡単に結論は出ない問題ですね。ただ私としては、北上川と河岸に並ぶ樹の列に沿って、作者が乗った列車が走るという情景の方に、愛着を感じるということを申し上げたかったのです。


 中途半端な議論になってしまいましたが、最後にお口直しに、林光作曲による「岩手軽便鉄道の一月」をどうぞ。

林光作曲「岩手軽便鉄道の一月」(MP3: 1.51MB)

 北日本は大荒れの天候で、東北新幹線も一部で運転見合わせとのことですが、皆様のところは大丈夫でしょうか。

 2年前の今頃も、花巻はたくさんの雪で、その昔に軽便鉄道が走っていた軌道を、阿部弥之さんの車に乗せてもらってイーハトーブ館に向かっていました。道すがら、木々に樹氷が付いているのを見ては、「岩手軽便鉄道の一月」みたいですね、と話し合ったものでした。

 今年は自宅ですごしていますが、林光氏が作曲した「岩手軽便鉄道の一月」の歌があったことを思い出して、パソコンで演奏を作成してみました。「歌曲の部屋~後世作曲家篇」の「林光氏のページ」に、収録してあります。

「岩手軽便鉄道の一月」(MP3: 1.51MB)


ぴかぴかぴかぴか田圃の雪がひかってくる
河岸の樹がみなまっ白に凍ってゐる

よう くるみの木 ジュグランダー 鏡を吊し
よう かはやなぎ サリックスランダー 鏡を吊し
はんのき アルヌスランダー 鏡をつるし
からまつ ラリクスランダー 鏡をつるし
グランド電柱 フサランダー 鏡をつるし
さはぐるみ ジュグランダー 鏡を吊し
桑の木 モルスランダー 鏡を……
ははは 汽車(こっち)がたうたうなゝめに列をよこぎったので
桑の氷華はふさふさ風にひかって落ちる


 アコーディオンと笛、という変わった伴奏ですが、この歌の誕生のいきさつについて、林氏は次のように書いておられます(林光『作曲家の道具箱』)。

 (<劇団黒テント>による「宮澤賢治旅行記」という舞台作品の)、ちょうどその稽古が進んでいる途中で、構成・演出の加藤直から電話がかかってきました。
「なんか歌を一つ入れたくなった。こっちで考えてるのは『岩手軽便鉄道の一月』なんだけど」
「ちょっと待って」と言って電話を切り、詩集のそのページを開いてみて、「じゃあ、そうしよう」と電話をする。「できればあしたぐらいにほしい」という注文です。それはあしたがあさってになってもそんなにかわりませんから、「ああ、いいよ、できたら電話する」というようなやりとりで作曲を始めるわけです。
 途中で、気がついてまた電話をかける。
「これ、伴奏がつくの?」
「五人の役者でやるんだけれども、その五人ができるような楽器だったら、いい」
「で、なにができる?」
「一人はアコーディオンを弾いたことがある」という。
「じゃあ、そうしよう」
(中略)
 ここまで書いて、次の行を読んでいたら、なにか間奏がほしいと思ったんです。しかし、とにかくアコーディオンの弾き手は一人だけということですから、また稽古場に電話をかけて聞く。
「ほかになんか楽器できるひといないの?」
「たて笛ならふけるというのが二人いる」
「学校でやったの?」と聞くと、「そうだ」と言う。それじゃ、小学校でやった程度のたて笛です。
(中略)
「あ、これでいい」「これで先にいける」って喜んだ瞬間に、詩を二行とばしてしまった。

 ということで、上の歌詞には、ほんらい3・4行目にある「うしろは河がうららかな火や氷を載せて/ぼんやり南へすべってゐる」という詩句が抜けているんですね。

 今回の演奏では、上のようにして生まれた林光氏の伴奏に加えて、歌詞に「鏡をつるし」という言葉が出てくる箇所に、控えめながらチェレスタの音を入れさせていただきました。
 思えば、『鏡をつるし』というのは、宮澤清六氏が最初の賢治歌曲集を編集した際に、標題として採用した言葉でしたね。

80年目の「異途への出発」(2)

 朝起きると、窓の外は雪景色でした(右写真)。知らないうちに、 夜のあいだにかなり降っていたようです。

 朝食をとってロビーで待っていると、8時30分に、花巻農業高校の阿部弥之さんが来られました。阿部さんとは、昨年後半から 「普代村に賢治歌曲のチャイムを作る計画がある」ということでご相談を受けて以来、花巻のりんごを送っていただいたり、 いろいろとご懇意にさせていただいていました。今回、私が三陸地方を旅行すると申し上げると、さまざまな便宜をはかっていただき、 本当に恐縮してしまうほどでした。

 今日はまず、阿部さんの車に乗せてもらって、イーハトーブ館に向かいました。 雪はまだどんどん降り積もっていくので心配になりますが、阿部さんによれば「今日はまだ優しい雪でよかったですね」ということです。 自動車は、昔の岩手軽便鉄道の跡に沿って走っていき、ここが昔の郡役所、稗貫農学校跡、女学校跡、などと阿部さんの解説つきです。 猿ヶ石川が北上川に注ぐあたりでは、木々はまさに「岩手軽便鉄道の一月」を彷彿とさせ、 「鏡を吊し」たように一本一本真っ白になっていました。
 イーハトーブ館の玄関前の石段は除雪してありましたが、一部は凍結してつるつるになっています。気をつけるように、 と阿部さんに言われながら館に入りました。2階の事務所に上がると、牛崎敏哉さんにお願いして、かなり昔に出ていた「原体剣舞連」 の宮澤清六さん朗読によるソノシートを聴かせていただき、ICレコーダに録音しました。朗読の最後の部分が、独特の節回しで歌曲 「剣舞の歌」 になっていくので、今度いつかこの曲を編曲する時の参考にするためです。
 2階の図書室から階下に降りると、「賢治曼陀羅展」というガラス絵の展覧会をやっていたので、しばらく見ていました。BGMとして、 私が昔に寄贈したCDが流れていて、 うれしいような恥ずかしいような変な気持ちです。

 イーハトーブ館をあとにすると、いよいよ三陸へ向かいます。そもそも今回の旅行で私は、 昨年秋に普代村にできた詩碑を見学するとともに、 ちょうど80年前の今ごろの賢治の旅の跡に、 ちょっとでも触れてみたかったのです。
 賢治のルートとは少しだけ違いますが、まず在来線で盛岡へ、盛岡からは新幹線で二戸まで行き、ここから太平洋岸の久慈まで、 バスに乗りました。雪に覆われた峠道を、バスはくねくねと進んでいきます。しかし天候は徐々に回復して、雪もやんできているようでした。
 久慈からは、三陸北リアス鉄道に乗って、南へ走ります。左手に見える海は、さすがに一面とても深い紺色をして、いかにも冷たそうです。 いくつかの鉄橋を渡り、午後4時頃に普代駅で列車を降りると、郵便局の職員の方が車で迎えに来てくれていました。 これも阿部さんからのご配慮の一環です。

 昨年の秋に建立された「敗れし少年の歌へる」詩碑は、 普代郵便局長の金子功さんが中心になり尽力して実現されたものですが、これからその金子さん運転の車で、北三陸海岸のドライブを楽しんだ後、 詩碑へも案内していただけることになったのです。
 ドライブは、まず「発動機船 一」に 「雑木の崖のふもとから/わずかな砂のなぎさをふんで/石灰岩の岩礁へ・・・」とある通称「ネダリ浜」(右写真) の白壁を黒崎の展望台から眺め、さらに夕暮れの北山崎海岸の展望台へと続きました。車の外に出ると、 とにかく北から吹きつける風がすごかったです。道路に電光表示される温度計には、マイナス5度と出ていました。

 金子さんのお話を聞きながらのドライブに、しばし時のたつのを忘れていましたが、さすがに北山崎海岸から国道に戻る頃には、 あたりは暗くなってきたので、この辺で引き返して堀内漁港の詩碑に向かいました。金子さんが詩碑を建立しようと思い立たれたいきさつや、 その後の苦労話についてもいろいろうかがいましたが、これはまた「石碑の部屋」で詩碑紹介のページを作成する時に、ご紹介することにします。
 漁港脇の「まついそ公園」にある詩碑に着いた時には、もう日はとっぷりと暮れて、フラッシュをたいて撮影するのがやっとでした。 しかし建立者じきじきに案内していただけるとは、詩碑フリークとしてこれに勝る光栄はありません。
 さて、ドライブはまだ終わりません。賢治が1925年1月6日の夜に宿泊し、「文語詩篇ノート」に「寒キ宿」として登場するのは、 野田村下安家にある現在の「小野旅館」の前身であるというのが現在の一応の通説となっていますが、「金子説」ではそうではなくて、 もう少し奥に入った「島川家」という旧家だったのではないかということで、その家の前にも車を走らせていただきました。少なくとも賢治は、 その家の裏手の旧道から山を越えて、下安家の集落に入ってきたのです。

 それから安家川の河口をまわって、今晩私が泊まる宿、問題の「小野旅館」に送り届けてもらいました。 金子さんには多大な感謝とともに、阿部さんからもらった花巻のりんごも、おすそ分けさせていただきました。
 今日のスケジュールはまだ最後にあと一つ、金子さんが帰られてからしばらくたった午後7時に、普代村の合唱団のメンバーの方が3人、 わざわざ宿に訪ねて来られました。お茶を飲みながら、詩碑の除幕式における合唱のこと、 そして賢治歌曲を題材とした普代村のチャイムの選考計画などについて、お話を聞きました。

 今日は最初から最後まで、本当にいろいろな方にお世話になり、イーハトーブの人情の暖かさに触れさせていただいた一日でした。 それに引きかえ80年前の賢治の旅は、まるでみずから進んで孤独を求めたようにさえ思えます。