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 先日、横浜で見学してきた「タッピング・ポンド」銘板を、「石碑の部屋」にアップしました。「石碑」ならぬ「ガラスの板」ですが、賢治の詩のテキストも刻まれているということで…。

 ところで今日も、花巻東高校は勝ちましたね。これでベスト8です。
 菊池投手は、今大会では結構ホームランも打たれるなど、やはり春の選抜以降は全国的にかなり研究されてきたのかと思いますが、今日は、「疲れがたまっていたので、逆にリラックスして投球できた」とのことで、逆に今大会では最も安心して見ていられる出来でした。「疲れがたまっていた」などと言いながら、9回になっても何と球速表示154kmが出ていて、やはり恐るべき高校生です。
 次は、休みなしにまた明日の第一試合に出てきますが、さすがに疲労蓄積が気になるところです。

「タッピング・ポンド」銘板

タッピング・ポンド

 「のぞみ」を新横浜駅で降りて、地下鉄で横浜駅へ行き、ここからは京急本線に乗って南へ走ります。金沢八景駅で降りて、関東学院大学を目ざしました。
 午前は曇り空だったのですが、昼から真夏の晴天となり、本当に暑い中を15分ほど歩きました。

 下は関東学院大学金沢八景キャンパスの正門。

関東学院大学

 下写真は、キャンパス内の「オープン・チャペル」にある「大賀ハス」。2000年前の遺跡から発掘された種子を育てて咲かせたものだそうです。快挙を成し遂げた大賀一郎博士は、当時は関東学院大学非常勤講師でした。
 先週には花が咲いていたそうなのですが、今日はもう花弁は散っていました。

オープン・チャペルの大賀ハス

 そしてキャンパスをさらに奥に進むと、立派な校舎の横に、「タッピング・ボンド」と名付けられた貯水池があります。
 池の中には、水の色に合わせたようなガラス製の「銘板」が立てられていて、この池の由緒が記されています。そして、その本文の後には、賢治の詩「岩手公園」の全文が刻まれていて、これは「詩碑」と呼ぶには無理があるかもしれませんが、このようなモニュメントも当サイトの「石碑の部屋」には収めるようにしていますので、今日はここまで写真を撮影にやってきた次第です。
 そもそもは、関東学院の「学院史資料室」の方から、当サイトの「岩手公園」詩碑の写真を使用してもよいかという問い合わせがあったので、このようなモニュメントの存在を私が知ったことがきっかけでした。いろいろな出会いがあるものです。

「タッピング・ボンド」銘板

 下に、銘板に刻まれた説明内容を掲載しておきます。タッピング一家は、日本の各地でいろいろな業績を残されましたが、まだ私などはそのほんの一部しか知りません。

タッピング・ポンド
( TOPPING MEMORIAL POND )

「タッピング・ポンド」は、タッピング家を記念して造られたものである。1962(昭和37)年、本学の教員であったウィラード・タッピングの妻、エヴェリン(同じく本学教員)の寄附金を基に、卒業生等の寄附金を加えて竣工された。この度、新しい建物と共に「タッピング・ポンド」も新しくなった。1895(明治28)年、ウィラードの父(ヘンリー)と母(ジュネヴィーヴ)は宣教師として来日し、東京中学校(後の東京学院。関東学院の源流の一つ)に赴任した。その後、1907(明治40)年、タッピング一家は岩手県盛岡に活動の場を移した。盛岡では詩人・童話作家の宮沢賢治(1896-1933)とも出会いがあった。宮沢賢治は「岩手公園」と題した詩の中でタッピング一家のことをつづっており、その詩碑は盛岡市岩手公園にある。タッピング一家の関東学院をはじめ、日本各地における宣教と教育のための奉仕活動を記念し、タッピング・ポンドをここに設置する。

(以下、宮沢賢治「岩手公園」全文)

タピング=Topping

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 山梨の「アザリア記念会」の向山さんから、会報『アザリア』第参号や広報『にらさき』、その他の資料を送っていただきました。どうもありがとうございました。

 ところで話はかわって、賢治の文語詩「岩手公園」に、「タピング」一家のことが出てきますが、私はこの「タピング」の綴りは、『新宮澤賢治語彙辞典』にも‘Tapping’と書かれているので、そうとばかり信じこんでいたのですが、実際には‘Topping’だったんですね。
 下に、多磨霊園にあるタッピング一族のお墓のページへのリンクを載せておきます。

 ヘンリーが「老いしタピング」、ジュヌヴィエーヴは「老いたるミセスタッピング」、ウィラードはその長男で「大学生のタピング」です。「なが姉」のヘレン・タッピングも、盛岡中学で英語を教えていたのだそうですね。ヘンリーの生年も、墓碑には1853年と書かれていますが、1857年説がけっこうあるようです。
 それにしても、タッピング一族と日本との関わりは、ちょっと見てもいろいろと興味深いことがあります。

 それについては、またいずれもう少し調べてみたいと思います。


「岩手公園」詩碑

草紫堂・平泉

 今回の旅行も終わりに近づいてきたので、お土産なども買っておくために、今日はまず盛岡にある紫根染・茜染の専門店「草紫堂」へ行くことにしました。

 まず、東北本線に乗って盛岡駅で降り、駅前から「盛岡都心循環バス・でんでんむし」に乗りました。これは100円で盛岡市内中心部を巡ってくれる便利なバスなのですが、確か以前は「岩手公園」だったバス停の名称が、今日見ると、きちんと(?)「盛岡城跡公園」に変更されていたので、去年のあのニュースを思い出しました。このバスは、「岩手県交通株式会社」という民間会社が運営しているのですが、公園の「愛称」使用について、盛岡市当局から「協力依頼」とか「圧力」とかあったのでしょうか?

井弥商店 それはさておき、「でんでんむし」を「上の橋町」バス停で降りて、少し西の方に行くと、黒漆喰でできた明治時代の「井弥商店跡」が見えてきました(右写真)。当主だった村井弥兵衛は、金田一勝定がのし上がってくる前に、岩手の財界を牛耳っていた人ですね。

 角を曲がってさらに南の方に歩いていくと、ちょっとハイカラな趣のある大正時代の「消防番屋」の交差点があり、その通りを渡ってすぐに、「草紫堂」がありました。

 明治時代になって、「南部紫根染」の伝統技法がいったん途絶えてしまっていたというのは、賢治の童話「紫紺染について」にあるとおりのようです。ただ、童話では「山男」がその技術を持っていたという筋書きであるのに対して、現草紫堂実には、秋田県花輪地方にかろうじて残っていた知識をもとに、大正時代に盛岡に設立された「南部紫根染研究所」が、実用的に復興したという経緯だそうです。そして、その研究所の主任技術者が創業したのが、この「草紫堂」だということです(右写真)。

 静かな雰囲気のお店に入ると、NHKの朝ドラ「どんど晴れ」を見て静岡からやって来たというお客さんもおられたりして、やはりテレビの影響はあなどれないようです。
 そのような中でも、お店の人は紫根染の実際の製法を説明してくれたり、とても親切に応対してくださって、お土産用の手提げ袋やブックカバーや、それからあの番組中でも見慣れた「のれん」を買いました。
 「草紫堂」のサイトには、紫根染の歴史の紹介とともに、「宮澤賢治と紫根染」というページもあったりして、興味深いさまざまな事柄が紹介されていますので、お奨めです。

 店を出ると少し南に歩き、今度は「盛岡バスセンター(中三前)」からまたバスに乗って、盛岡駅に戻りました。一つの用事を終えて、まだお昼前だったので、午後は平泉に行ってみることにしました。
 平泉の中尊寺には、賢治の詩碑を見るためにこれまでも行ったことはあったのですが、今回は、賢治の岩手中学時代の修学旅行にちなんだ場所を調べてみたかったので、中尊寺の「弁慶堂」や「鐘楼」、毛越寺の芭蕉句碑、高館義経堂などを訪ねてみました。

 この時に平泉で見た内容については、また日をあらためてご報告いたします。
 下写真は、高館の上から見た、束稲山と北上川です。束稲山では、明日の晩に「大文字の送り火」があるのですね。

束稲山と北上川

 盛岡市が岩手公園の「愛称」を大々的に発表してから、1ヵ月あまりがたちました。
 当初は私も気負って、「当サイトは「岩手公園」を「岩手公園」と呼びつづけます」などというエントリを書いたりもしましたが、ふたを開けてみると、やはり多くの人は同じ気持ちのようです。

 岩手日報社ホームページを開いていただくと、右上に「みんなのアンケート」というコーナーがあって、フォームを通じて閲覧者が回答できるようになっています。10月1日からのテーマは、「岩手公園、これからどう呼びますか?」というものです。
 「結果表示」のボタンを押すと、現時点までの集計結果が出ますが、1万近くの投票が集まっている段階で、80%以上の人は、新愛称をさしおいて「岩手公園」と答えて下さっています(下図は本日22時現在)。
 ところで、最近はじりじりと「その他」というのが増えているようですが、「その他」って具体的には何と呼ぶんでしょうね。

岩手公園、これからどう呼びますか?

 盛岡市は14日、「岩手公園」の愛称を、「盛岡城跡公園(もりおかじょうあとこうえん)」とすることを決定しました。「愛称」とは言いながら、こちらを一般に浸透させることで、実質的な「改称」にするのが、市当局の真意です。

 明治時代から連綿とつづく由緒ある公園の名前なのに、なぜ今?というのが多くの人々の疑問でしたが、「今年が『盛岡ブランド』形成の元年であり、開園100周年に当たることから同公園の名称を変更する」(盛岡市)というのが、当初からの方針だったんだそうですね。

 それにしても、盛岡市、岩手県内の他の市町村、県外在住でも岩手公園に関心を持つ多くの人々を巻き込んで、揺れに揺れた数ヵ月でした。
 てっきり私はまた、「愛称」などというからには、「しろあとパーク盛岡」だの、「もりおか・しろあとぴあ」(笑)だの、今風の「きたいな」名前を付けてくるんじゃないかと身ぶるいして待っていたのですが、先月に「6案に絞った」というところあたりで肩すかしをくったような感じで、決まってみればこの通りでした。

 市民からのアンケート回答の一つに、「(最終案の)2案ともセンスがない」とあったそうですが、まあその感は否めないと言っても過言ではないと言うこともあながち誇張ではないかもしれません。
 だいたい、この「愛称」は漢字6文字でできていますが、「盛岡・城跡・公園」と区切ってもおかしくなりますし(「じょうあと」って何?)、「盛岡城・跡公園」でもありませんし、結局、「盛岡城・跡・公園」と、頭のなかで分節しなければならないところが、語調としておさまり悪い感じです。


 ・・・などと、グチばかり言っていてもしょうがありませんが、しかしこの「愛称」というのは、人々が使えば浸透するし、使わなければ忘れられていくかもしれないわけですよね。
 その昔、「国電」の愛称を「e電」とする、とJRが発表したことを思い出す私は、古すぎるでしょうか・・・。

 少なくとも、宮澤賢治の作品をあつかう当サイトとしては、今後も彼のテキストに従って、「岩手公園」は「岩手公園」と呼びつづけるしかないのだということを、謹んでここに申し上げます。

 最後に、賢治の名作をどうぞ。その詩碑は、岩手公園の北東の一角にあります。


  岩手公園

「かなた」と老いしタピングは、  杖をはるかにゆびさせど、
東はるかに散乱の、        さびしき銀は声もなし。

なみなす丘はぼうぼうと、     青きりんごの色に暮れ、
大学生のタピングは、       口笛軽く吹きにけり。

老いたるミセスタッピング、    「去年(こぞ)なが姉はこゝにして、
中学生の一組に、         花のことばを教へしか。」

孤光燈(アークライト)にめくるめき、       羽虫の群のあつまりつ、
川と銀行木のみどり、       まちはしづかにたそがるゝ。

東山の新詩碑など

 盛岡駅から朝8:30の新幹線に乗って、南へ向かいました。岩手山は雲に隠れて見えませんでしたが、新花巻駅が近づくと、頂上にトサカのような樹木が乗っかった懐かしい姿の胡四王山が、右手に姿を現しました。
 「経埋ムベキ山」ということでいえば、胡四王山の横を通って新花巻駅を出るとすぐに入るトンネルで列車は観音山の下をくぐり、トンネルを出るとまもなく旧天王山が右手に見え、さらに2~3分行くと、昭和橋の近くでは物見崎が望めるという順序で展開し、このあたりの東北新幹線は、「経埋ムベキ山」を巡っていくかのようです(下写真は、車窓から見た昭和橋と物見崎)。

新幹線から望む物見崎

 一関に着くと、大船渡線に乗り換え満員の列車で30分、陸中松川駅で列車を降りました。
 東北砕石工場のあったこの東山町は、去年までは「東磐井郡東山町」でしたが、今は「一関市東山町」になっています。去年から今年にかけての「平成の大合併」の流れで、花巻市や遠野市はそれぞれ膨らんだり、南では「奥州市」という巨大な市が出現したり、岩手県内にも顕著な変化が起こっているようです。

 陸中松川駅を出ると、すぐ右手の「石と賢治のミュージアム」に行きました。ここで少し本やビデオを見て、先月にこの近くにできた賢治詩碑についてスタッフの方に尋ね、さらに数十mほど東の方にあるその新たな詩碑を見に行きました。

詩碑の一部 詩碑はすぐに見つかりましたが、私がそれを眺めていると、「石と賢治のミュージアム」の館長の伊藤良治さんがわざわざ追いかけてきてくれて、いろいろと解説をして下さいました。
 この詩碑は、「詩ノート」の「〔これらは素樸なアイヌ風の木柵であります〕」を刻んだものですが、ぱっと読んだだけでは「アイヌ風の木柵」というところなど、よくわかりません。
 伊藤さんは、この「木柵」というのは、アイヌによる熊の霊送りの儀式である「イヨマンテ」の時に立てる木弊に「Y字形」になっているものがあるので、それのことではないかと示唆して下さいました。
 あとで自分で「アイヌ民族博物館」というサイトで調べてみると、たとえばこんな絵のような感じでしょうか。中央に「Y字形」の木があって、全体は柵のようになっています。
 作品に描かれている農家の人は、別に豊作を願って意図的にアイヌの儀式を取り入れたわけではないのでしょうが、賢治がひそかにそのように「見立てて」みたということかと思われます。

 「しかしそのような素朴な祈りも捧げながら、女性たちが現実に死ぬほど働いてもなお、天候や地域社会や家庭の環境は厳しく、わずかな収穫しか得られない」というのが、この作品における賢治の慨嘆であるわけですね。

 そのようなことをおたがいに話し合って、伊藤さんの方は館に戻られるので丁重にお礼を申し上げ、私は詩碑を何枚かの写真に収めました。作業を終えると、さらに東に少し歩いて、東北砕石工場跡にある「ひまわり食堂」に行きました。

ひまわり食堂 実は、私はこの「ひまわり食堂」には、5年前にも一度来たことがあって、その時の風情と味があまりに印象的だったので、詩碑を訪ねるにあたってはその営業日である日曜日に日程を合わせ、本日この東山町に来ることにしたのです。
 店をのぞくとやはり今日もおばさんたちが働いておられました。屋外のベンチの席に座り、まず最初にとろみさえ感じるほど濃厚な「どくだみ茶」を出していただいた後、「冷やしうどんセット」(500円)を注文しました。
 「5年前にも美味しかったからまた来たんですよ」と私がおばさんに言うと、「おばちゃんも5年前と同じよ!」とのお答えが帰ってきました。お得な値段も、5年前と一緒ですね。

 そして運ばれてきた「冷やしうどんセット」の内容は、稲庭うどんのようでもっとコシのある打ち立ての手打ちうどんに、茄子の味噌田楽(この味噌も手作りの様子)、キャベツのお浸し(桜エビをかけたもの)、おにぎり(味噌焼きおにぎりとゴマまぶし)、茹でたトウモロコシ、漬け物(これも自家製)。これで何と、500円なんですね。

ひまわり食堂「冷やしうどんセット」

 思えば、6年前にここに来た時には、休みでお店に入れなかったかわりに、トウモロコシとお茶をおばさんに無料でいだでいただいてしまったのでした。その時のトウモロコシの味が、今日またよみがえりました。
 あまり美味しかったので、岩手の郷土菓子である「がんづき」(100円)を食後にさらに注文させていただいたのですが、「残念ながら今日は売り切れ・・・」とのことでした。しかし、横でそれを聞いていた別のおばさんが、「北上から子供が帰ってくるつんでたくさん買ったけど、これ一つよかったらどうぞ」と、返品して私の方にまわしてくれたのです。胡麻や胡桃がたくさん入ったその手作りの「がんづき」も、甘すぎず素朴な味が最高でした。
 というような次第で、お店を出る時には私はまるで野ネズミの母親のように何度もおばさんたちにお礼を言って、「ひまわり食堂」を後にしました。

 そこから猊鼻渓駅まで炎天下を2km少々歩いて、13時11分に大船渡線の列車に乗り、また一関で新幹線に乗り換えて、午後3時頃に盛岡に戻りました。
 それからバスに乗って、中ノ橋の近くにある「もりおか啄木・賢治青春館」をしばらく見て、中津川を渡って夕方の岩手公園を散歩しました。

 園の入口にも中にも、「岩手公園」という看板はいくつもかかっていますが、もしも「名称変更」になったらこれらはどうなるのだろうと思いながら、しばらく歩いていました。

・・・若しも君が、夕方岩手公園のグランドの上の、高い石垣の上に立つて、アークライトの光の下で、青く暮れて行く山々や、河藻でかざられた中津川の方をながめたなら、ほんたうの盛岡の美しい早春がわかるだらう。・・・
                               (弟清六あての手紙より)

岩手公園の石垣の上から

名称・偶像・精神

 盛岡市内丸にある「岩手公園」は、賢治の文語詩「岩手公園」に描かれ、園内にはその詩碑もあるので私も何度か訪れた思い出の地ですが、盛岡市当局はこの公園の名称の変更を計画しているのだそうです。

 形の上では、法的な正式名称としての「岩手公園」は残して、「愛称」を付けるということになるようですが、上記記事を見ても、盛岡市は「愛称を広めることで事実上の名称変更としたい」と目論んでいるようですね。
 これに対しては、上記記事の中にもイーハトーブセンター会員の方の反対の声が掲載されていたり、下記には市会議員からの疑義も出されています。

 そしてついに6月26日には、その愛称を検討する第一回の「懇話会」が、下記のように開かれました。

 座長には、今月1日に岩手大学に設置された「宮沢賢治センター」代表の望月善次氏が選ばれたということですが、出席した委員7人のうちで、新名称を付けることに賛成は4人、慎重論は3人とのことで、先行きは予断を許しません。と言うより、望月先生のお立場は、非常に難しいものではないでしょうか。

 ところで経済的に見ると、最近は施設の名称というものに驚くほどの市場価値が見積もられていて、「ヤフードーム」などは命名権料が5年間で25億円、「味の素スタジアム」は5年12億円、岩手のお隣の「フルキャストスタジアム宮城」でも毎年2億円の値が付いています(いずれも「命名権.com」参照)。もちろん、一度に数万人を収容するスポーツ施設とはいちがいに比べられませんが、それでも盛岡市の観光ビジネス的には、この公園に何か気のきいた名前を付けて、新しいセールスポイントにしようという戦略は、それなりに理解できることではあります。
 しかし、市民や市議会の意見を聴取する手続きをほとんど踏んでいないことや、「愛称を広めることで事実上の名称変更としたい」という盛岡市の手法が何か正攻法ではない姑息な印象を与えるなど、今回の一連の動きにはどうしてもマイナスのイメージが付きまとっています。

 盛岡市当局の計画では、今年9月15日の「岩手公園開園100周年記念日」には、新しい名称を発表するとのことですが、このままでは「しこり」を残すことにならないか、今から心配です。


 さて、その記念日の翌週の賢治忌(9月21日)に、花巻農業高校に賢治の銅像ができるという話は以前にもご紹介していたところですが、下記にもう少し詳しい記事が載っていました。

 こういう話ならば、まあ反対する人もないかと思っていたのですが、記事によれば「これまで銅像建立に難色を示してきた遺族も了解済み」とのことで、従来は宮澤賢治氏のご遺族(宮澤家継承者)は、彼の銅像を作ることには反対しておられたんですね。

 その反対理由は、記事後半によれば「像建立は賢治精神に反する」ということで、ここで何をもって「賢治精神」とするのかは難しいところだと思いますが、まあ「偶像崇拝を排する」というような意味なのでしょうか。
 しかし、「像建立は賢治精神に反する」というような「御触れ」が出るものならば、何かの拍子に「ブログ制作は賢治精神に反する」などと言われてしまうんじゃないかとか、こういうのを見ると私などはちょっと不安になってしまうのです(笑)。


 それはともかく、上の記事の最後に、「花巻農高では、賢治が作詞した『日ハ君臨シカガヤキハ……』という『精神歌』を、校歌がわりに歌っている」と何気なく書いてありますが、この問題については、下の記事をご覧下さい。

 たしか、花巻農業高校と北上農業高校が統合される時にも、その新名称に関して、花巻側はこれまでの「花巻農業高校」、北上側は「イーハトーブ高校(?)」を主張して、なかなか決まらなかったような記憶があります。
 上記記事によれば、「校歌は新校舎の位置決定後に制定する」とのことで、「現在は学校行事などの際は校歌の代わりに賢治が作詞した『精神歌』を歌っている」とありますが、このこと自体はそれほど困ったことなんでしょうかね。

 「まだ校歌がないので行事の時には『精神歌』を歌っている」というのは、80余年前の賢治在職中とまったく同じ状況なだけで、別にノー・プロブレムじゃないかとか、それよりかえって「賢治先生の時代」に戻ったようで、今しばらくはいいんじゃない、とか私などは思ってしまいます。
 それよりずっと難題なのは、校歌の前提となる「新校舎の位置決定」の方だろう?!と思えるのですが、なぜ岩手日報が「校歌決まらず」の方を重視するのか、よくわかりません。
 今後、学校の場所を正式に決めるにあたっては、花巻と北上との間でまた綱引きが行われるのではないかと心配です。しかしそう思ってみると、今回の「賢治立像」の建立というのは、花巻側が現在地に重みを付けるための「布石」を打ったのではないか?などと「賢治精神に反する」ようなことまで考えてしまう、今日この頃です。