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「主観性」から「客観性」へ

 賢治が『春と修羅』を書いた時期、具体的には1922年1月から1924年1月頃までという2年間ですが、この間の賢治の「心の遍歴」というものは、大きな波乱に満ちていました。
 最大の要因は、1922年11月の妹トシの死という出来事で、その内実は「無声慟哭」三部作や、樺太旅行における挽歌群に、記録されています。これは、確かに詩集『春と修羅』の最大のテーマの一つとも言えるものですが、しかしそれ以外にも、たとえば同僚堀籠文之進との葛藤という問題も、当時の賢治にとっては相当の重みを持つものだったと思われます。この悩みが、詩集前半部の代表作である「春と修羅」や「小岩井農場」の、隠れた主題だったのではないかと私は感じていて、それについては以前に「「〈みちづれ〉希求」の昇華」という記事などに書きました。

 私が上の記事で考えてみたことは、賢治は「一人の人とどこまでも一緒に行こう」と一途に求める「〈みちづれ〉希求」の苦悩と挫折を通り抜け、「全ての生き物と一緒に本当の幸福を目ざす」という、一種の菩薩行を己の究極の目標として見定めることにより、この危機を乗り越えたと言えるのではないかということでした。「個別的・主観的な愛」から、「普遍的・客観的な愛」への超克です。

 そして、この時期の賢治における「主観性」から「客観性」への変化は、愛や人間関係という領域においてだけでなく、この世界で生起する現象をどう認識するか、すなわち「世界観」という分野においても、同時並行的に変動が起こっていたのではないかと、私は思うのです。

Attachment is forbidden...

 映画「スター・ウォーズ」のエピソード2「クローンの攻撃」の、中ほどに出てくる場面です。

 アナキン・スカイウォーカーとパドメ・アミダラが、下記のように語り合っています。

Padme:
Are you allowed to love?
(あなたたちは愛することを許されているの?)
I thought that was forbidden
for a Jedi.
(ジェダイは愛を禁じられているのかと思ってた。)

Anakin:
Attachment is forbidden.
(愛着は禁じられている。)
Possession is forbidden.
(所有も禁じられている。)
Compassion, which I would define
as unconditional love...
(慈愛というのは、無条件の愛のことだけど...
is central
to a Jedi's life.
これはジェダイの生き方の中心なんだ。)
So you might say that
we are encouraged to love.
(だから僕らは、愛するよう奨められているとも言えるんじゃないかな。)

 ここに出てくる、愛着(attachment)と、慈愛(compassion)という、「愛」の二つの形は、賢治の生涯における重要な葛藤にも、通じるものがあるのではないかと思います。

「〈みちづれ〉希求」の昇華

 「〈みちづれ〉希求」の話に行く前に、まずは次の疑問について考えることから、今回の記事を始めてみたいと思います。
 『春と修羅』を書いていた頃の賢治は、いったいなぜ、自らの〈修羅〉性について、あれほど尖鋭に意識し、苦悩しなければならなかったのでしょうか。

 賢治が自らを〈修羅〉と規定し、そのような己の本性に対峙しつつ苦しんだことは、「春と修羅」の、

おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)

という箇所に、端的に表れています。なぜ彼は、自分のことを「ひとりの修羅なのだ」と呼び、そのために風景がゆすれるほど、なみだを流さなければならなかったのでしょうか。これは、『春と修羅』という一つの詩集全体をも貫くテーマとも言える、重要な問題でしょう。

 まず客観的に見ると、宮澤賢治という人は、「修羅」と言えるような人柄でもなく、またそういった行動をする人でもなかったということは、以前の「諂曲なるは修羅」という記事においても、具体的に確認したところです。賢治を直接に知る人々の証言では、彼は修羅とは対極的に、「どんな人にも丁寧で、親切な礼儀正しい人」(佐藤成)、「おだやかでもの静か」(羽田視学、畠山校長)、「とにかく常に明るくて、微笑の絶えない人」「けっしていばらない人」(藤原嘉藤治)と評されており、賢治自身が己の修羅性を気にする必要性は、全くなかったはずなのです。

 それにもかかわらず、彼が「おれはひとりの修羅なのだ」と自己規定をせざるをえなかった理由があるとすれば、それは他人からはうかがい知れないけれども、彼にとっては何か自分の内に、〈修羅〉的な要素を強く意識せざるをえない部分があり、その部分をどうしても自分で許せなかったために、あそこまで苦しんだのだろうと、考えるしかありません。

 そこで次の問題は、そのように賢治が意識した自らの〈修羅〉性とは、具体的にはいったいどういう部分だったのか、ということです。これについては、やはり記事「諂曲なるは修羅」で述べたように、童話「土神ときつね」と、「小岩井農場(清書後手入稿)」第五綴の記述が、有効な導きとなります。

 「土神ときつね」は、これまでの研究によって、作者賢治が登場人物を自らの分身のように造型している面があること、そして同時にその「土神」は、修羅性の象徴とも言えることが、指摘されてきました。これに加えて私としては、怒り荒ぶる土神は「修羅の瞋恚的側面」を象徴し、言葉巧みに樺の木を誑かす狐は「修羅の諂曲的側面」を象徴するという図式になっているのではないかと、考えてみました。

 一方、「春と修羅」の翌月にスケッチされた「小岩井農場(清書後手入稿)」の次の箇所における賢治の言動は、このような「瞋恚」と「諂曲」に、不思議と合致しているように感じられます。

  ※※※※※※※※ 第五綴
鞍掛が暗くそして非常に大きく見える
あんまり西に偏ってゐる。
あの稜の所でいつか雪が光ってゐた。
あれはきっと
南昌山や沼森の系統だ
決して岩手火山に属しない。
事によったらやっぱり
石英安山岩かもしれない。
これは私の発見ですと
私はいつか
汽車の中で
堀籠さんに云ってゐた。
(東のコバルト山地にはあやしいほのほが燃えあがり
 汽車のけむりのたえ間からまた白雲のたえまから
 つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。
 その汽車の中なのだ。
 堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた。)
堀籠さんは温和しい人なんだ。
あのまっすぐないゝ魂を
おれは始終をどしてばかり居る。
烈しい白びかりのやうなものを
どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。
こっちにそんな考はない
まるっきり反対なんだが
いつでも結局さう云ふことになる。
私がよくしやうと思ふこと
それがみんなあの人には
辛いことになってゐるらしい。

 ここで賢治は、何とかして同僚の堀籠文之進と親しくなりたいと思って、いろいろ話しかけているのですが、なかなかうまく行きません。
 引用部の終わりの方で、「温和しい」堀籠さんに対して賢治が、「おれは始終をどしてばかり居る。/烈しい白びかりのやうなものを/どしゃどしゃ投げつけてばかり居る」というところは、土神が樺の木と仲良くなりたいのに、不器用にも乱暴な印象ばかり与えて逆効果を招いているところと、そっくりに感じられます。
 また前半部で、鞍掛山が地質学的に岩手山の系統に属さないという自説を、「これは私の発見です」とやや大げさに自慢げに言っているところは、狐が樺の木の気を引こうとして話を誇張するところに通じます。

 つまり、私が思うのは、次のようなことです。当時の賢治は、自分が堀籠と仲良くなりたい一心で、思わず激情があふれて一方的な物言いになり、意に反して相手を萎縮させてしまうところや、あるいは自分を良く見せようとして、つい得意気に話を盛ってしゃべってしまうところ等が、自分でも情けなく思えて、己を許せなかったのではないでしょうか。そして、そのような自らの言動は、修羅の特徴的な二つの側面である「瞋恚」と「諂曲」にも通ずるところから、深い自己嫌悪とともに己を〈修羅〉と規定し、そのような自分を何とかして超克しなければならないと、考えたのではないでしょうか。

 おそらく賢治にとって、このような感情に悩まされるのは人生で初めてのことではなく、数年前から保阪嘉内に対して、己の〈みちづれ〉となってくれることを求めては叶えられず悶々とし、ついに「春と修羅」を書く前年に悲しい別れを迎えるまでの過程においても、ずっと同様の苦しみを味わっていたのではないでしょうか。
 そして、翌1922年の春、またもや同じような苦悩に囚わていれる自分に直面し、己のその「業」のような性質に対して、ここで〈修羅〉という自己規定を行ったわけです。

 冒頭に掲げた、「なぜ賢治は、客観的には修羅的ではないのに、己を〈修羅〉と意識して悩まなければならなかったのか」という疑問に対して、現時点で私としてはこれが、最も無理のない答えに思えます。それは、「〈みちづれ〉希求」が叶えられないことによって、思わず露呈してしまう、自らの内の「下等」な感情のことだったと思われるのです。

 (ちなみに、ここで言う「下等」とは、「小岩井農場(清書後手入稿)」第六綴の、次の箇所からとっています。)

 (私はどうしてこんなに
  下等になってしまったらう。
  透明なもの 燃えるもの
  息たえだえに気圏のはてを
  祈ってのぼって行くものは
  いま私から 影を潜め)

 では賢治は、そのような己の〈修羅〉性を、実際にどのようにして克服していったのでしょうか。
 現在の私たちから見ると、賢治が特定の誰かについて、上記のように感情的になったり諂うような態度をとったりしてしまうのは、「ある一人の人に対して、信仰も含めてどこまでも一緒に行こうとしてしまう」ところに、無理があるのだろうと思われます。つまり、先日の記事の言葉では、「〈みちづれ〉希求」に囚われてしまうことに、原因があるわけです。
 しかし、1922年4月8日の日付を持つ「春と修羅」でも、5月う21日の日付を持つ「小岩井農場(清書後手入稿)」でも、自分の言動を反省してはいるものの、己の「〈みちづれ〉希求」そのものを問題視している様子は見受けられません。しかし、「原因」をそのままにして、表面の「結果」だけを抑えつけようとしても、それは無理なことでしょう。
 1923年3月4日には、堀籠に対して、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」と言って、堀籠の背中を打ち、これによってどうにか彼を〈みちづれ〉として求めることを諦めたようです。しかし裏を返せば、この日まで賢治は、まだずっと堀籠に対する感情に苦悩し続けていたわけです。

 このような苦しみに囚われていた賢治の問題意識が、原因である自らの「〈みちづれ〉希求」の方へと向かったのは、図らずも「トシを失う」という体験をしたおかげだったのではないかと、私は思います。
 トシという、やはりかけがえのない〈みちづれ〉が1922年11月27日に亡くなり、その喪失の悲嘆に暮れていた賢治は、翌1923年7月末から8月初めにかけて、トシの魂を追い求め、何かの「通信」の望みを抱いて、サハリンへ旅をします。ここでは、賢治はまだトシという「ひとり」を諦めきれていないわけですから、やはり彼は従来のような「〈みちづれ〉希求」に囚われていたと言えるでしょう。
 しかし、この旅から帰郷した後、賢治に重要な変化が現れはじめるように思われます。この年の秋頃に書かれたと推測される「手紙 四」では、死んだ妹ポーセを探そうとするチユンセに対して、「チユンセがポーセをたづねることはむだだ」との宣告が行われ、〈みちづれ〉を求める行為が、明確に否定されるのです。そしてその否定のかわりとして、「大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」ということが説かれます。ご存じのように「青森挽歌」においても、いつの時点の推敲からかは不明ですが、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という、同様の啓示が現れます。

 すなわちここでは、「死者」を対象とする形ではありますが、ある特定の一人と「どこまでもどこまでも一緒に行かう」とするような「〈みちづれ〉希求」は、利己的な願望として否定され、かわりに「すべての生き物と一緒に、本当の幸福へ到る」という、菩薩行的な志向性こそが、肯定されるのです。

 そしてこの命題を、死者を対象としたものから生者へと拡張すると、「小岩井農場(初版本)」パート九の、有名な定式になります。

もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ

 ここでは二番目に登場して「恋愛」と呼ばれている、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」願望が、これまで述べてきた「〈みちづれ〉希求」に相当します。賢治はおそらく、同性であろうと妹であろうと、全き同伴者として強く求める自らの「〈みちづれ〉希求」というのは、なかなか一般人には理解されにくいということがわかっていて、それでここでは通俗的に「恋愛」と表現しているのではないかと、私は思います。それでも、「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」というのは、やはり一般人の平均的な恋愛感情を超えていると言わざるをえず、やはりこれが賢治独特の感情を原型としていることが、推測されます。
 そして、このように一人を対象とした愛は、正しい「宗教情操=じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」願いが、砕けまたは疲れて退化したものにすぎないわけなので、だから人は本来の宗教情操にこそ立ち返らなければならないというのが、この箇所の賢治の考えです。仏教的な言い回しでは、例えば「我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」(『法華経』化城喩品)に通じます。

 このように、「ただ一人を対象とした〈みちづれ〉希求」を、「全ての衆生を〈みちづれ〉とした求道」、すなわち「菩薩行」へと転換すること、これこそが賢治が到達した「〈みちづれ〉希求」の昇華でした。別の言い方をすれば、「個別的・主観的な愛」を、「普遍的・客観的な愛」に高める、とも言えるでしょうか。
 そしてこれによって、彼はやっと己の〈修羅〉性から解放され、個人への執着に悩み苦しまずに自分が目ざすべき方向性を、明確にできたのです。

 実際、『春と修羅』の最終章である「風景とオルゴール」や、「春と修羅 第二集」以降では、人間ではなくて「自然への愛」や「自然との合体」が、謳歌されるようになります。

こんなあかるい穹窿と草を
はんにちゆつくりあるくことは
いつたいなんといふおんけいだらう
わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる
こひびととひとめみることでさへさうでないか
   (おい やまのたばこの木
    あんまりヘんなおどりをやると
    未来派だつていはれるぜ)
わたくしは森やのはらのこひびと
芦のあひだをがさがさ行けば
つつましく折られたみどりいろの通信は
いつかぽけつとにはいつてゐるし
はやしのくらいとこをあるいてゐると
三日月がたのくちびるのあとで
肱やずぼんがいつぱいになる
        (「一本木野」)

海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ
        (「種山ヶ原」下書稿(一)

あのどんよりと暗いもの
温んだ水の懸垂体
あれこそ恋愛そのものなのだ
炭酸瓦斯の交流や
いかさまな春の感応
あれこそ恋愛そのものなのだ
        (「春の雲に関するあいまいなる議論」)

 このように振り返ってみると、『春と修羅』という詩集は、賢治が1921年の保阪嘉内との別れ、1922年のトシとの死別、1923年の堀籠との同道の諦めという形で、己の「〈みちづれ〉希求」の度重なる挫折に苦悩し、それによって煩悶する自分を〈修羅〉と規定して対峙し、ついにそのどん底から妹の死も契機として再び歩き始めたという、一連のプロセスの記録であったということもできます。
 その期間においては、思想的な懊悩と並行して、飽くなき作品の推敲もあったはずですが、その果てにやっとのことで、「小岩井農場(初版本)」パート九のような、一定の境地を表すテキストに達することができたわけです。
 一つの詩集の中に、本当にダイナミックな展開と決着が隠されていると感じますが、逆に言えば、賢治としては自らの苦悩にやっとこういう形で、思想的なレベルで一段落をつけることができたので、そのドキュメントを『春と修羅』という一つの詩集として、世に出そうと思ったということかもしれません。

 かつて天沢退二郎氏は、詩集『春と修羅』全体の構成を、「詩篇「春と修羅」と「永訣の朝」とをいわば二つの頂点、二つの中心として、全七十篇が楕円形の構造をなしながら宙に懸かっている」と表現されました(「《宮澤賢治》作品史の試み」)。その二つの中心とは、「己の《修羅》性の発見」と、「妹の死」というテーマだったわけですが、上のように見てくると、賢治にとって「己の〈修羅〉性」とは、「〈みちづれ〉希求」が叶えられないことによる感情的動乱だったわけですし、「妹の死」は、これ自体が彼にとって最大の「〈みちづれ〉希求」の挫折でした。
 そうすると、天沢氏の言う「二つの中心を持つ楕円」とは、実は突き詰めれば、「〈みちづれ〉希求」の挫折と昇華という「一つの中心を持つ円」だったとも、言えることになります。その「一つの中心」を作品の上に定位するとすれば、「春と修羅」と「永訣の朝」の間にある、「小岩井農場」になるのではないでしょうか。

 いずれにせよ、この問題こそが、『春と修羅』の最大かつ本質的なテーマであったのだろうと、私としては思うところです。

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想像上の〈みちづれ〉

 柴山雅俊氏の『解離性障害』(ちくま新書)に、次のような箇所があります。

ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張つて
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
(中略)
  《幻想が向ふから迫つてくるときは
   もうにんげんの壊れるときだ》
わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう

 素足の子どもたちの幻視は「想像上の友人イマジナリイコンパニオン」がありありとした実在感を獲得したものであろうか。子どもたちは、すでにとりあげた「配偶者シユジユゴス」にみられる「友」「伴侶」「天使」「天の衣」などのイメージと重なる。彼らはまさに、時空を遠く離れたところからやってきた賢治の同伴者コンパニオンである。

 引用されているのは「小岩井農場」の「パート九」の一節ですが、柴山氏は、ここに幻視として登場する子どもたち――ユリア、ペムペルらを、賢治の「想像上の友人イマジナリイコンパニオン」と解釈しています。
 「想像上の友人(Imaginary Companion, 以下ICと略)」とは、幼児が一定期間にわたって架空の(想像上の)遊び相手を持ち、様々な形で交流を行うという現象のことで、たとえば田尻由起氏(「幼児期のICに関する研究 ─ 回顧調査からの検討」2004)は、次のように説明しています。

幼児期の子どもは,自らの想像(創造)した世界で自発的,能動的に遊び,それらに熱中する。そのような遊びの中で,架空の誰か(空想上の友達)を作り出し,それと遊び,話すようになる時期がある。それは現実とは区別されているが,ごっこ遊びや他の遊び同様,自発的意思に基づいた現象となっている。この乳幼児期の子どもの遊びにしばしば登場する仲間,遊び友達を一般にImaginary Companionという。

 ICの出現は、一人っ子や長子など単独で遊ぶ時間が長い子に多いとされ、一般に思春期までには消失するものですが、一部には青年期や成人期以降も存続している場合もあります。
 文学作品でも、ICと解釈できる存在が登場する例は多くあり、たとえばジブリで映画化もされた『思い出のマーニー』にも、そういう側面があります。

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 孤立感を深める少女アンナにとって、マーニーは自分を孤独から救い出し、勇気づけてくれる存在でしたが、賢治にとってのユリアとペムペルも、まさにそのような役割を果たしていました。

 前回も述べたように、「小岩井農場」を書いた頃の賢治は、同僚の堀籠文之進に対して「自分と一緒に歩んでほしい」と強く願う一方(=「〈みちづれ〉希求」)、しかしその思いがかなえられないことから、強い葛藤と孤独感を覚えていました。「小岩井農場」の「パート四」で彼は、何とかしてこの孤独感を振り払い、開き直ろうとしています。

いまこそおれはさびしくない
たつたひとりで生きて行く
こんなきままなたましひと
たれがいつしよに行けやうか
大びらにまつすぐに進んで
それでいけないといふのなら
田舎ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ
それからさきがあんまり青黒くなつてきたら……
そんなさきまでかんがへないでいい
ちからいつぱい口笛を吹け
口笛をふけ 陽の錯綜
たよりもない光波のふるひ
すきとほるものが一列わたくしのあとからくる
ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り
またほのぼのとかゞやいてわらふ
みんなすあしのこどもらだ

 ここで賢治は、堀籠が自分と一緒に歩んでくれないことに関し、「こんなきままなたましひと/たれがいつしよに行けやうか」と自ら認めて、一人で生きていこうと決心します。もしそれでうまく行かなければ、「田舎ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ」というのは、もう教師なんか辞めたっていいということでしょうか。
 しかしこうやって何とか割り切ろうとしても、「それからさきがあんまり青黒くなつてきたら……」との不安がよぎり、やはり奥底の孤独感は拭えません。

 まさにその心の揺れのさなかに、「すきとほるものが一列わたくしのあとからくる」という形で、幻の子どもたちが登場するのです。彼らは堀籠の代わりに、同伴者コンパニオン=〈みちづれ〉として賢治に付き添い、その孤独感を慰藉してくれます。
 そして賢治は彼らと会えたおかげで、「血みどろ」の孤独から救われたということが、「パート九」に記されています。

きみたちとけふあふことができたので
わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
血みどろになつて遁げなくてもいいのです

 思えば、「小岩井農場」の9日前の日付を持つ「手簡」という作品にも、やはり「白びかりの巨きなすあし」をもった存在に、賢治は懸命に呼びかけていました。

あなたは今どこに居られますか。
早くも私の右のこの黄ばんだ陰の空間に
まっすぐに立ってゐられますか。
雨も一層すきとほって強くなりましたし。

誰か子供が噛んでゐるのではありませんか。
向ふではあの男が咽喉をぶつぶつ鳴らします。

いま私は廊下へ出やうと思ひます。
どうか十ぺんだけ一諸に往来して下さい。
その白びかりの巨きなすあしで
あすこのつめたい板を
私と一諸にふんで下さい。

 ここでも賢治は、「あなた」と呼びかける存在と、「一諸に往来」することを強く願っています。すなわち、同伴者コンパニオン=〈みちづれ〉を、求めていたのです。

 前回の記事で書いた賢治の「〈みちづれ〉希求」は、もしも現実にかなわなければ、「想像上の〈みちづれ〉イマジナリイコンパニオン」として可視化されてしまうほど、彼にとって切実かつ差し迫ったものだったと思われるのです。

 長詩「小岩井農場」には様々な側面があり、様々な解釈が可能でしょうが、その初期形における重要なモチーフの一つは、「農学校の同僚の堀籠文之進と仲良くなりたいが、うまく行かない」という賢治の悩みでした。
 もっとも、この堀籠をめぐる葛藤に関する記述は、後の推敲によって削除され、全く痕跡をとどめない状態にされてしまうので、出版された『春と修羅』に掲載されている形態を見るかぎりは、そのようなモチーフはうかがい知れません。しかし賢治が、この日の小岩井農場散策を途中で取りやめ、引き返すという決断をしたのも、実は堀籠に対する気持ちによるところが大きく、早く花巻に戻って農学校に寄れば、日直をしている堀籠と一緒にチョコレートを食べられるかもしれない、と考えたからだったのです。

 もちろん、賢治が引き返した直接のきっかけは、よく知られているように「雨が降り出したから」だったのですが、「下書稿」や「清書後手入稿」を見ると、彼は雨が降り出すかなり前から、「もう柳沢へ抜けるのもいやになった」と記し、何時の列車に乗れば農学校に寄るのに都合がいいかなどと、しきりに考えているのです。

五時の汽車なら丁度いゝ。
学校へ寄って着物を着かへる。
堀篭さんも奥寺さんもまだ教員室に居る。
錫紙のチョコレートをもち出す。
けれどもみんながたべるだらうか。
それはたべるだらう、そんなときなら
私だって愉快で笑はないではゐられないし
それにチョコレートはきちんと、
新らしい錫紙で包んであるから安心だ。

 賢治はこんなことを考えながら、しかし引き返す決断はできないまま歩みを進めていたところに、急に雨が降ってきたので、これ幸いとばかりに「引っ返せ 引っ返せ」と自分に掛け声をかけ、Uターンをしたのです。
 この一連の流れを見ても、当時の賢治にとって堀籠に関する悩みが、どれほどのウェイトを占めていたのか、ということがわかると思います。

 実際にこの1922年5月21日(日)、小岩井農場から予定を早めて花巻に戻った賢治が、農学校に立ち寄って堀籠文之進とともにチョコレートを食べたのかどうかはわかりません。しかし賢治にとって、堀籠との関係をめぐる葛藤は、その後も続いていたようです。
 それを物語るのは、『新校本全集』の「年譜篇」の1923年3月4日の項に記されている、二人の間の特異な出来事です。

 同僚堀籠文之進と一関へハイキング。途中一切英会話。一関で上演中の歌舞伎を見物し、10時を過ぎる。汽車もなく、飲み屋で休み、月夜を幸い帰る。
 途中、たまたま信仰の話に及んだとき、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」といい堀籠の背中を打った。
 「ああこれでわたくしの気持ちがおさまりました。痛かったでしょう。許してください」といい、平泉駅につき待合室のベンチで休み、夜明けとともに下り列車に乗り、花巻まで一睡する。

 職場の同僚である堀籠の背中を打つというこの賢治の行動は、前回も引用したような、「穏やかで、温和で、謙虚な」賢治の人柄のイメージからすると、かなり意外なものです。このような行動の背景には、何らかの強い「感情」の存在を想定せざるをえません。
 この時二人は、「信仰の話」をしていたということで、賢治が「どうにも耐えられない」と言った理由は、おそらく堀籠が、自分は賢治と同じ信仰を持つことはできないと、はっきり言明したか何かだったのでしょう。日蓮系の教団では、周囲の人に「折伏」をして、少しでも多くの信者を獲得することを特に重視しますので、この時賢治が「一人の信者を獲得し損ねた」ことは、かなり残念な結果だったことでしょう。
 しかし、当時の賢治にとって堀籠が、単なる折伏の対象としての「一人」にしか過ぎなかったとは、到底思えません。もしそれだけのことだったなら、賢治が周囲の人に日蓮の教えを勧めた際には、相手が断るたびごとにその人の背中を叩いていたはずですが、もちろん実際はそんなことはありません。ですから、ここで賢治に堀籠の背中を打たせた「感情」は、堀籠という個人に対して、特別に向けられていたものだったということになります。

 その感情とは、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか」という賢治の言葉に表れているように、「自分と一緒に歩んで行く人を求める」という思いでしょう。「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニがカムパネルラに言った、「どこまでもどこまでも一緒に行かう」という願いと同型なのが印象的で、これは賢治にとって、重要なテーマだったのだろうと推測されます。
 このような、「生涯の同伴者を求める」という賢治の強い感情のことを、ここでは「〈みちづれ〉希求」と名づけておこうと思います。〈みちづれ〉という言葉は、賢治が「無声慟哭」において、トシにとっての賢治自身のことを、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」と呼んだことからとっています。

 思えば、宮澤賢治という人は、『春と修羅』の時期の少し前から、〈みちづれ〉を強く希求しては失うという挫折を、下記のように毎年経験していました。

  • 1921年7月: 保阪嘉内との別れ
  • 1922年11月: トシの死
  • 1923年3月: 堀籠文之進への諦め(上述)

 このような悲痛な体験の連続は、彼に深い喪失感と孤独感をもたらしたでしょうが、これらの苦悩の直視と昇華こそが、『春と修羅』という詩集の、本質的なテーマだったと言えるのではないでしょうか。

 前回も見たように、詩「春と修羅」で抉り出された「自らの《修羅》性」とは、童話「土神ときつね」において類型化されているように、土神の象徴する「修羅の瞋恚的側面」と、狐の象徴する「修羅の諂曲的側面」という二面に分けて考えることができます。そして、そのどちらの側面も、「小岩井農場」の初期形に描かれたように、堀籠に対する過剰で一方的な「〈みちづれ〉希求」と、現実との齟齬において、自覚され記載されたものでした。

 長詩「小岩井農場」は、当初は堀籠に対するこのような心理的=《修羅》的葛藤を主要なモチーフとしていましたが、推敲の過程でそこに含まれる個人的要素は削り取られ、最終的にはただ「個別的(主観的)な愛」を超克して、「普遍的(客観的)な愛=宗教情操」に昇華すべきだという理念のみが、高らかに謳われることになります。推敲後の「小岩井農場」では、堀籠の名前すら出ず、ただ「さびしい」とか「さびしくない」とかいう抽象的な言葉だけが残され、最後の「宗教情操」をめぐる大団円に至るので、その具体的な意味がわかりにくくなっていますが、もとはこの作品のテーマも、「〈みちづれ〉希求」に関連した苦悩だったわけです。

 また、トシの死後の「無声慟哭」の章と、「オホーツク挽歌」の章の諸作品が、トシに対する「〈みちづれ〉希求」の挫折と、その後の苦悩を描いたものであることも、言うまでもありません。そしてここでも賢治は、「青森挽歌」の《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉に集約されるように、「個別的(主観的)な愛」を超克して、「普遍的(客観的)な愛」に昇華しなければならない、という結論に至ります。

 詩集『春と修羅』の最後の章である「風景とオルゴール」では、個別の人間に対する「〈みちづれ〉希求」を昇華する一つの方向性として、「自然への愛」への志向が描かれています。「過去情炎」では、賢治は梨の木に対して「待つてゐたこひびとにあふやうに」接し、「一本木野」では、自然の中を歩く恩恵を「こひびととひとめみること」とでも取りかえると言った後、「わたくしは森やのはらのこひびと」と宣言します。

 以上のように、賢治は己れの過剰な「〈みちづれ〉希求」が招来する苦悩を、『春と修羅』の諸作品を書きつつ推敲しつつ必死で乗り越えて、ついには新たな段階に入っていったように見えます。したがって、彼の生涯のうちで、そのような葛藤が作品のテーマとなっていた時期は、せいぜい数年間にすぎません。
 しかし、若き日の彼がこのような経験をしたことが、その後も含めた彼の作品に、独特の奥深さと陰翳をもたらしてくれたことは、確かだと思います。

 それから、賢治のこの感情は独特なもので、作品の記述などから想像するに、それはおそらく世間一般の「友情」とか「家族愛」などをはるかに超越する強度だったと、考えざるをえません。この「独特さ」を無視して、賢治の具体的行動や作品の描写を、普通人の心理に当てはめて解釈しようとすることから、「保阪嘉内に対する感情は同性愛だった」とか、「トシとの間には禁断の愛があった」などという俗説が生まれてしまうのだと思います。『宮沢賢治の真実』で今野勉氏は、堀籠文之進に対する感情も同性愛として論じておられますが、保阪嘉内の場合も含め、彼らを〈みちづれ〉として求めた賢治の感情を、「性欲」を伴った「愛」と解釈すべき根拠は、わかっている範囲では何も見出せません。

 私としては、賢治のこの独特の感情に何か名前があった方が、上記のような俗な誤解を招きにくくなるのではないかと思い、とりあえず「〈みちづれ〉希求」と呼んでみた次第です。

諂曲なるは修羅

 本日の記事の趣旨は、詩「春と修羅」の「諂曲てんごく)」」という言葉によって、賢治はいったい何を表現しようとしたのかということについて、具体的に考えてみようとするものです。

  春と修羅
      (mental sketch modified)

心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲てんごく模様
(正午の管楽くわんがくよりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

 この作品「春と修羅」は、詩集『春と修羅』のタイトルにもされているように、賢治にとって非常に重要な意味を持つ一篇だったと考えられます。天沢退二郎氏は、詩集『春と修羅』全体の構成を、「詩篇「春と修羅」と「永訣の朝」とをいわば二つの頂点、二つの中心として、全七十篇が楕円形の構造をなしながら宙に懸かっている」と表現していますが(「《宮澤賢治》作品史の試み」)、その二つの中心テーマとは、「己れの《修羅》性の発見」と、「妹の死」です。

 では、賢治が自己の内に見出した《修羅》性とは、具体的にはどのようなものだったのでしょうか。賢治も愛読した島地大等編著『漢和対照妙法蓮華経』では、「修羅」について次のように説明されています。

【阿修羅】(Asura)略して「修羅」ともいふ。非天、非類、不端正と訳す。十界、六道の一。衆相山中、又は大海の底に居り、闘諍を好み常に諸天と戦う悪神なりといふ。


 すなわち、仏教で修羅という存在は、好戦的で、「怒り」や「攻撃性」がその最も顕著な特徴とされているのです。
 「春と修羅」のテキストに、「いかりのにがさまた青さ」とあったり、自らについて「唾し はぎしりゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」と記していたりするところなどは、そういう自己の内の「怒り」の表現の、典型なのだと思います。
 しかし現実の賢治という人が、このような「怒り」を表に出す人だったのかというと、一般的な基準から言えば、むしろ「穏やか」で「温和」で、「謙虚」な人だったという評価がほとんどのようです。下記は、彼がこの「春と修羅」を書いた前後、すなわち農学校に勤めていた頃の周囲の人々の証言を集めた、佐藤成著『証言 宮澤賢治先生』から、「3 賢治という人」の「人間像」の一部です。

 賢治はどんな人にも丁寧で、親切な礼儀正しい人であった。
 賢治を教師に推せんした羽田視学も、畠山校長も異口同音に賢治のことを、おだやかでもの静か、勤務ぶりも熱心で生徒に深い愛情をもった勉強家であったと語っている。(佐藤成)

 賢治という人は生来本質的に、人を責めること、人を煽動すること、声を高くして人や世に訴えたり呼びかけたりするというようなことを好まない人であった。(佐藤隆房)

 とにかく常に明るくて、微笑の絶えない人でした。賢治のお母さんという人も、観音様のように非常になごやかな感じの人でした。とにかく彼の居る一帯の雰囲気がなごやかになるような、そういう人だった。
 普段の賢治は、けっしていばらない人でした。話す相手にあわせて、話をしたのです。(藤原嘉藤治)

 ということで、周囲から見た賢治は、《修羅》的な「怒り」や「攻撃性」からは、程遠いタイプの人だったようです。ただしかし、どんな人間も一面だけでは捉えられないもので、たとえば上の佐藤隆房氏の証言には「人を煽動すること、声を高くして人や世に訴えたり呼びかけたりするというようなことを好まない人」とありますが、農学校に就職する同じ年の中頃までは、彼は東京で国柱会の宣伝奉仕活動に従事し、「声を高くして人や世に訴えたり呼びかけたり」ということをやっていたのも事実です。
 またその前年には、次のような手紙も書いています。

突然ですが。私なんかこのごろはブリブリ憤ってばかりゐます。何もしやくにさわる筈がさっぱりないのですがどうした訳やら人のぼんやりした顔を見ると、「えゝぐづぐづするない。」 いかりがかっと燃えて身体は酒精に入った様な気がします。机へ座って誰かの物を言ふのを思ひだしながら急に身体全体で机をなぐりつけさうになります。いかりは赤く見えます。あまり強いときはいかりの光が滋くなって却て水の様に感ぜられます。遂には真青に見えます。確かにいかりは気持が悪くありません。関さんがあゝおこるのも尤です。私は殆ど狂人にもなりさうなこの発作を機械的にその本当の名称で呼び出し手を合わせます。人間の世界の修羅の成仏。そして悦びにみちて頁を操ります。(保阪嘉内あて書簡165)

 この書簡は、1920年の6月-7月頃のものとされており、「いかり」が「真青」に見えるという色彩的な共感覚や、「その本当の名称」として「修羅」を挙げているところも含め、「春と修羅」という作品に通ずることころが大きいと感じられます。

 ただし上の書簡でも、自分の内に「いかり」が煮えたぎっていて、「机をなぐりさうに」なることもあると書いてあるだけで、実際に彼がその怒りを外に「表出」したとまでは、書かれていません。本来の「修羅」は、単に「内心に怒りを秘めている」だけではなく、「闘諍を好む」性質を持っているわけで、怒りを何らかの形で外に出す存在です。
 では、賢治自身は、実際に「怒りをあらわにする」ということがあったのでしょうか。

 一つの例としては、盛岡高等農林学校の修学旅行中のエピソードとして、同級生の大谷良之が書き残しているものがあります。箱根の関を、同級生8人で歩いて越えようとしていた時のことです。

関所跡も近づいて土地も広く開け畑地が見える所にさしかかつた。「関所跡までどれ位ありますか」と農夫に聞いたところ「そうじやのー、あと二里あるで」と返答があつた。所が大きな声で「馬鹿野郎、嘘つくなツ」と宮沢君が叫んだ。私は農夫が怒つて追いかけて来はしないかと恐ろしかつたが、彼は平気な顔をしておる。あの温厚な悪い言葉一つ言つたことのない彼が、あんなに叫んだのは彼のあの鋭どい感覚で農夫が大嘘をついたのを見破り、純情の彼としては我慢できなかつたのであろう。(川原仁左エ門『宮沢賢治とその周辺』)

 大谷自身が、「あの温厚な悪い言葉一つ言つたことのない彼が……」と言っているように、このような激しい表出は、賢治にしては非常に珍しいことだったようですが、それでも全くなかったわけではないことがわかります。

 まとめると、賢治という人は、一般的に言えば全く怒りっぽい人でも粗暴な人でもなく、むしろその逆だったと思われるのですが、自らの心のうちに「怒り」を抱えて苦しむことは実際にあり、まれにはそれを表出することもあったようです。こういったことは、誰でも多かれ少なかれあって当然と思いますが、賢治の感受性の強さのためか、あるいは自分自身に対する「厳しさ」や「潔癖さ」のためか、そのような自分を耐え難く感じていた、ということかと思います。

 と、以上のような事柄は、賢治の《修羅》性について、これまでにも言われてきたことだと思いますし、特に新味はないでしょうが、今回私が気になったのは、「修羅」が持つもう一つの側面についてです。
 仏教において「修羅」という存在は、「怒り」や「攻撃性」によって特徴づけられるとともに、もう一つ「諂曲」という要素も、重要なものとされています。「諂曲」の「諂」とは「へつらう」、「曲」とは「心を曲げる」ということで、合わせて「自分の意志を曲げて相手にこびへつらうこと」(『日本国語大辞典』)です。

 この「諂曲」は、日蓮の「観心本尊抄」において、「修羅」の本質的特徴として、次のように説かれています。

しばしば他面を見るに、或時は喜び、或時はいかり、或時は平らかに、或時は貪り現じ、或時はおろか現じ、或時は諂曲てんごくなり。瞋るは地獄、貧るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏して現はれざれども委細に之を尋ぬれば之有るべし。

 ここで日蓮は、はたして人間に仏性は備わっているのか、という問題を説き明かすために、人間の様々な「顔」を見てみれば、そこには「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」の六道が表れているのだということを、述べています。すなわち、「瞋」っているのは地獄、「貪」っているのは餓鬼、「癡か」なのは畜生、「諂曲」をするのは修羅、「平らか」なのは人、「喜ぶ」のは天、だというのです。日蓮は、「瞋り」は「地獄」の方に当てはめる一方、「修羅」の特徴としては「諂曲」を挙げていて、むしろこちらの方を重視しているようにも見えます。
 そしておそらく日蓮のこのような記述を背景として、賢治の「春と修羅」の心象世界は、「いちめんのいちめんの諂曲模様」によって覆われているのです。「諂曲」は、「怒り」とともに、賢治が己れの《修羅》性を問題にする上では、もう一つの重要な側面だったはずです。
 それでは、賢治は具体的に自分のどのような部分を、「諂曲」として認識し、自戒していたのでしょうか。現実の賢治には、「諂曲」と言えるような側面が実際にあったのでしょうか。

 これは、生前の賢治の人となりにおいて、「怒り」や「攻撃性」を探すよりも、さらに難しいことに思えます。周囲人々の証言によれば、彼は嘘や偽りを特に嫌がり、人に媚びへつらうような態度をとることがあったとは、到底思えないのです。
 上にも引用した、佐藤成著『証言 宮澤賢治先生』には、次のような記載があります。

 宮沢君は嘘をつく人間が大きらい、往来で行きあっても見向きもしない。(大谷良之)

 賢治はいつでも相手を見透かしてものをいっている。嘘や偽りは大嫌いで、真実純真、そういうものがすき、どんな偉そうな人でも恐れない、弱点をすぐ見破るという人であった。(藤原嘉藤治)

 先生は嘘やいつわりを極度に嫌われた。またいやなことはいやとはっきりすれば喜ばれ、義理にもいやなことを承諾したりするとかえって機嫌が悪かった。正直の徳を尊ばれた。(菊井清人 大・十五卒)

 以上のように、賢治を知る人の証言や、伝記的な記録から、彼が実際に「意志を曲げて媚びへつらう」ようなことをしたという証拠を探し出すのは、不可能なような気がするのですが、それではなぜ賢治が自らの心象世界を、「いちめんのいちめんの諂曲模様」と描写したのか、このままではその理由がわかりません。
 そこで、この「諂曲模様」が具体的にどういうことを意味しているのかということについて、これまでの研究者の解釈を参照してみようと思うのですが、有名なフレーズの割には、あまり多くの解説はないようです。

 その中で、まず恩田逸夫氏は、「詩篇「春と修羅」の主題と構成」(天沢退二郎編『「春と修羅」研究 II』學藝書林所収)において、次のように説明しています。

 さて、賢治は自己の心象風景を自然の風景に托して「諂曲模様」といって自戒しています。「諂」とは媚びへつらうことで、ここでは自分自身を甘やかす傾向でしょう。「曲」とはねじまげた誤れる受けとり方です。賢治のこのような暗い心情とは対照的に、天からは春の琥珀色のキラキラした陽光が降り注いでいます。

 この解釈では、賢治が媚びへつらっているのは「自分自身」に対してであり、彼は自らの内にある「自分自身を甘やかす傾向」を自戒して、このように表現したと考えられています。つまりこれは、「自己欺瞞」の一種だというわけです。
 恩田氏がこのように解釈した理由は、賢治が「他人に対して媚びへつらっていた」という状況が想定しにくいために、「自分に対して」と考えざるをえなかったということかと思いますが、しかし「自分で自分に諂曲する」というのは、理屈としては言えなくもないかもしれませんが、この言葉の現実の解釈としては、非常に無理があるように思います。
 そもそも「修羅」の本質は、自分ではなく他者と争って優位に立とうとすることであり、その際の手段として、多くの場合は好戦的に戦いますが、しかし相手が強いと見ると「媚びへつらって」、少しでも自分を有利に見せようとするのが「諂曲」のはずです。
 したがって、この解釈にはちょっと賛同できません。

 次に、今野勉氏の『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』(新潮社)を、見てみます。

 「諂曲」とは、「へつらうこと」だが、そのままでは意味をなさない。日蓮の『観心本尊抄』に「瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡かなるは畜生、諂曲は修羅」とある。ここで「諂曲」を「こびへつらう」とすると、「修羅」は、こびへつらう人となってしまう。島地大等の『妙法蓮華経』の「方便品第二」に、「諂曲心不実しんふじつ」という言葉が出てくる。島地は「諂曲」の字の右に「てんごく」とルビを付し、左側に片仮名で「ヨコシマ」とカナを当てている。すなわち「よこしま」である。「諂曲心不実」は「邪にして心不実なり」だ。とすると、日蓮の「諂曲は修羅」は「邪なるは修羅」と解さなければならない。『梵漢和対照・現代語訳 法華経』でも、訳者で仏教学者の植木雅俊は「諂曲」を「心のひねくれたものたち」としている。「諂曲模様」は、したがって「邪な模様」、すなわち「正常ではない、異端の様相」という意味としていいだろう。賢治の立っている心象風景は、「邪」な風景なのだ。
〔中略〕
 賢治は、自らを「邪な修羅」としている。「冬のスケッチ」に賢治は、「このこひしさをいかにせん/あるべきことにあらざれば」という言葉を遺した。
 「この恋は、あってはならないものだ」という、罪の意識が賢治の中にはある。「自分は邪なことをしている」という意識だ。それを強烈に示す言葉が、保阪あての賢治の手紙にある。

 すなわち今野氏は、もしも「諂曲」を「媚びへつらう」という意味に解釈すると、「「修羅」はへつらう人となってしまう」から「意味をなさない」、という根拠に基づいて、「諂曲」とは「邪」という意味である、と解釈しなおすわけです。 そして、賢治が自らのことを「邪」と考えた理由は、保阪嘉内に対する同性愛を抱いていることに対する罪の意識であるというのが、今野氏の説です。
 しかし、すでに上に見たように、修羅とは一面ではまさに「へつらう人」であるというのが仏教の教説であり、それを賢治が理解していなかったはずはありません。

 最後に、宮澤清六氏の「『春と修羅』への独白」を見てみます。この清六氏の文章は、「研究」というよりは、『春と修羅』の諸作品をもとにした「随想」とも言うべきものですが、それでも個々の作品について、作者のすぐ側にいた人ならでは解釈が記されているので、いろいろと教えられるところが多いものです。
 この「『春と修羅』への独白」(ちくま文庫『兄のトランク』所収)から、「諂曲」と関係している部分を抜き出すとすれば、次の部分がそうでしょう。

  心象のはひいろはがねから
  あけびのつるはくもにからまり
  のばらのやぶや腐植の湿地
  いちめんのいちめんの諂曲模様

 幾億の巧智にたけた蜘蛛やなめくじや狸やねずみ。
 世界いっぱいに張りめぐらされた精巧きわまる舶来製のトラップやかすみあみ。
 さては各地に駐屯する山猫博士、カイロ団長、オッペル達の群落。
 億千の鳥やけものや羽虫のむれ。
 それらが毎日殺し合ったりだましたり、接合したり離散したり、そねみあったりけなしたり、ひだりになったりみぎになったり、ただもう、せわしくせわしく発生したり消滅したりしているのだ。
 しかもそのまたひとつひとつが、どれでも彼自身の中のみんなであることがあまりにも明らかで、世界ぜんたいのさいわいがはるかにはるかに遠方であることに心痛み、修羅の怒りは燃えさかり、修羅は地面に慟哭し、風景もなみだにゆれるのだ。

 上記のうち、「諂曲」に関連する表現としては、「蜘蛛やなめくじや狸やねずみ」が「巧智にたけた」と形容されているところ、そしておそらく彼らが仕掛けた「精巧きわまる舶来製のトラップやかすみあみ」、「それらが毎日殺し合ったりだましたり…」という箇所などが、「心を曲げて媚びへつらう」という意味に通じているのかと推測されます。
 そうすると、「諂曲」という性質を帯びているのは、賢治という個人ではなく、「蜘蛛やなめくじや狸やねずみ」、あるいは「山猫博士、カイロ団長、オッペル達の群落」なのだというのが、清六氏の解釈なのでしょう。ただし、これらの悪者たちと賢治は無関係なのではなく、「しかもそのまたひとつひとつが、どれでも彼自身の中のみんなである」という、『春と修羅』の「」に記されたような相互包含の世界を形成しているのですから、賢治自身もこのような「諂曲」性と、分かちがたく絡み合っているということになるのでしょう。
 これも、一つの見方かとは思いますが、しかし私として違和感を覚えるのは、特に作品「春と修羅」における賢治の自我は、このように世界と密接に繋がり合っているというよりも、非常に強く孤立し、全世界から疎外され、一人だけ浮いているように、私には感じられるからです。通り過ぎる農夫を見ても、「ほんたうにおれが見えるのか」との疑念を抱くのは、対象から何かで隔てられているような疎外感のためかと思いますし、「風景」を「ゆすれ」させている「なみだ」も、自分と外界との間の透明な壁のようです。
 私が「春と修羅」という作品から感じる、このような深い孤独感・疎外感からすると、「おれはひとりの修羅なのだ」という自己認識は、どうしても「世界ぜんたい」のものではなく、自分がたった「ひとり」で背負っている、「業」のようなものに思われるのです。私としては、賢治が抉り出した「修羅性」は、あくまで自分個人のものであり、清六氏の解釈のように彼が世界とともに担っているとは、どうしても思えないのです。

 以上のように、私から見ると、賢治の「諂曲性」については、これという妥当な解釈が見当たらないというのが実感です。賢治はいったい、自分のどのような部分が「へつらう人」だと認識し、自戒していたのだろうか、というのが今回の記事の主題です。

 この問題について別の角度から考えてみるために、賢治の童話「土神ときつね」を参照してみます。
 「土神ときつね」には、粗暴で怒りっぽい土神と、上品で弁舌爽やかだが少し不正直な狐と、その二人が思いを寄せる樺の木が出てきます。この土神と狐は、対照的な存在ではありますが、どちらも賢治自身のある側面を象徴しているということは、これまでにも指摘されてきました。
 土神は、素朴な驚きの目で自然を見る感性を持つ一方で、自らの感情を処理できず、苦悩しています。狐は、西洋の科学や文学の知識が豊富で、それらを魅力的に語ることができます。どちらの特性も、まさに賢治らしいと言えますし、またこの作品の改作を検討したメモに、土神を「退職教授」に、狐を「貧なる詩人」にするという案があり、これもそれぞれ賢治の人生の一側面に対応しています。

 一方、二人のうちで土神の方は、「修羅」を象徴する存在と解釈できることも、多くの研究者によって指摘されてきました。怒りっぽく乱暴なところはもちろん「修羅」の特徴ですし、詩「春と修羅」との関連では、土神の棲んでいるのが「湿地」であること、怒りに燃えると「歯噛み」をして「その辺をうろうろ」すること、通り過ぎる木樵から姿が見えないこと、最後ではその泪が雨のよう降るところなどが、「春と修羅」に共通した描写と言えます(栗原敦氏などによる)。

 今回、私としてはこれに加えて、実は「修羅」を象徴しているのは「土神」だけではなくて、「狐」もまた「修羅」の一側面を表しているのではないかということを、考えてみたいのです。
 すなわち、怒りっぽく乱暴な、修羅の「瞋恚的側面」を土神が体現しているのに対し、その「諂曲的側面」――相手に取り入るために媚びへつらい、自分を良く見せるためには事実を「曲げて」嘘もついたりする部分――を、「狐」が体現しているのではないかと考えるわけです。
 このような観点が、「土神ときつね」という作品を理解する上でどんな意味を持つかということは、また別途考えるとして、とりあえず今回はこの解釈を、「賢治の内の修羅の諂曲的側面」を考える上での、補助線として利用してみたいと思います。

 上述のように、生身の賢治を対象として、「どこに諂曲があるのか」と直接探してみても、なかなか見つけるのは難しいのですが、ここで賢治と「諂曲」との間に、この「狐」を置いてみると、見えてくるものがあるように思います。
 もちろん賢治は、この狐のように嘘をついて人を騙したりすることはなかったでしょうが、それでも下記のような例を見ると、調子に乗ってちょっと大言壮語してしまうことは、あったのかもしれません。
 「小岩井農場」の清書後手入稿で、「春と修羅補遺」に「〔小岩井農場 第五綴 第六綴〕」として分類されている草稿の、次の箇所を見てみます。

  ※※※※※※※※ 第五綴
鞍掛が暗くそして非常に大きく見える
あんまり西に偏ってゐる。
あの稜の所でいつか雪が光ってゐた。
あれはきっと
南昌山や沼森の系統だ
決して岩手火山に属しない。
事によったらやっぱり
石英安山岩かもしれない。
これは私の発見ですと
私はいつか
汽車の中で
堀籠さんに云ってゐた。
(東のコバルト山地にはあやしいほのほが燃えあがり
 汽車のけむりのたえ間からまた白雲のたえまから
 つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。
 その汽車の中なのだ。
 堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた。)
堀籠さんは温和しい人なんだ。
あのまっすぐないゝ魂を
おれは始終をどしてばかり居る。
烈しい白びかりのやうなものを
どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。
こっちにそんな考はない
まるっきり反対なんだが
いつでも結局さう云ふことになる。
私がよくしやうと思ふこと
それがみんなあの人には
辛いことになってゐるらしい。

 ここで賢治は、同僚教師の堀籠文之進と何とかして親しくなりたいと思って、いろいろ話しかけたりしているのですが、なかなかうまく行きません。引用部の終わりの方で、「温和しい」堀籠さんに対して賢治が、「おれは始終をどしてばかり居る。/烈しい白びかりのやうなものを/どしゃどしゃ投げつけてばかり居る」というところなどは、土神がぜひとも樺の木と仲良くなりたいのに、不器用で乱暴な印象ばかり与えて逆効果を招いているところと、そっくりに感じられてしまいます。
 この部分は私にとって、賢治の「土神的な側面」、すなわち「修羅の瞋恚的側面」を、表しているように思えます。

 これに対して、その前の方で「鞍掛山は南昌山や沼森の系統に属し、岩手山の系統とは異なっていて、石英安山岩があるかもしれない」という地質学的な知見を得意気に堀籠さんに披露し、「これは私の発見です」と言って自慢までしているところからは、私はあの「狐」の樺の木に対するおしゃべりを、連想してしまうのです。
 鞍掛山が岩手山よりも地質学的にかなり古いという説は、「国立公園候補地に関する意見」においても、「ぜんたい鞍掛山はです/Ur-Iwate とも申すべく……」などと書かれており、賢治の十八番の一つでした。これは、現代の地質学から見ても正しいということですが、しかしこれを「私の発見です」とまで主張するのは、ちょっと賢治の勇み足ではないでしょうか。
 科学の分野で「自分の発見」と言うためには、それを学会で発表するなり、論文にして学術雑誌に投稿するなりして、その分野の研究者コミュニティに承認される必要がありますが、賢治はそういう手続きを踏んだわけではなさそうです。確かに、彼は独力でこれを「発見」したのかもしれませんが、それより前に別の研究者が、すでに発見し報告していた可能性もあります。
 こういう風に、思わずちょっと「話を盛って」しまい、相手の気を引こうとしているところが、「土神ときつね」における「狐」のおしゃべりに似ているように、私は思うのです。
 そして、あの「狐」が象徴するのが「修羅の諂曲的側面」だったとすれば、賢治は自分自身の行動のうちで、こういう部分を「諂曲的」だと捉えて、反省し、自己嫌悪を抱いていたのではないかと、私は推測するのです。

 もしも、このような読み方が成り立ちうるのなら、「小岩井農場」の下書稿段階では、樺の木に対して「土神」と「狐」が対照的なアプローチをしつつ争っていたように、堀籠さんの気を引こうとする賢治が「修羅の二側面(=瞋恚性と諂曲性)」を露呈して、葛藤していた様子が記録されているのだと、考えることができます。
 ただし、「小岩井農場」のそのような側面は、その後の推敲によって抹消され、最終的にはもっと抽象化された形で、人間一般における「愛」のあり方として昇華され、理論化されることになります。

 長詩「小岩井農場」の推敲は、元あったその九つの「パート」のうち三つも抹消するような大規模なものでしたが、上記のような視点からその作業の意味を考えてみると、それは一方では、賢治が「主観的な愛」を「客観的な愛」へと昇華しようとした過程であり、そしてもう一方では(それと表裏をなす動きとして)、「主観的な〈幻想〉観」を「客観的な〈幻想〉観」へと転換した過程だと言うことができるのではないかと私は思うのですが、これについてはまたいつか、別稿で考えてみたいと思います。

賢治が聴いた餓鬼の声

思索メモ1 賢治が言うところの「異空間」について考える上で、重要な資料の一つが、「思索メモ1」と呼ばれる書き付けでしょう。
 「春と修羅 第二集」の「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」下書稿(二)の裏面に記されたそのメモは、全体としては右画像のようなものですが、この中で「異空間」に関しては、次のような記述が見られます。

 まず、最も高い位置から大きな見出しのように「一、十界を否定し得ざること」と書かれ、これが棒線で抹消され、次に段を下げて、「一、異空間の実在 天と餓鬼、幻想及夢と実在、」、次に「二、菩薩佛並に諸他八界依正の実在内省及実行による証明」と記されています。

 ここには、「十界」「菩薩佛並に諸他八界依正」と書かれていますから、賢治の言う「異空間」とは、仏教の教理における「十界」のことを、とりわけその中でも「諸他八界」すなわち「人」と「畜生」のいるこの世界以外の「八界」、すなわち仏界、菩薩界、声聞界、縁覚界、天界、修羅界、餓鬼界、地獄界のことを、指していると思われます。
 「依正」とは、「依正二報」すなわち「正報=過去の業の報いとして得た有情の心身」と、「依報=その心身のよりどころとなる国土・環境」のことで、結局は八つの異空間と、各々において生きる存在を併せて指すことになります。

 そして、「一、異空間の実在」の下に、「天と餓鬼」とあるのは、この八界のうちでもとくに「天界」と「餓鬼界」を例示しているのでしょうが、なぜ特にこの二界が取り上げられているのかと考えると、おそらく賢治にとってはこれら二つが、次の行にある「幻想及夢」によって「実在」を感じとれる異空間の典型だったからではないかと、私は思います。

 「天」については、賢治は「小岩井農場j」では「天の鼓手」「緊那羅のこどもら」(パート四)や「瓔珞をつけた子」(パート九)を幻視していますし、「風林」では「此処あ日あ永あがくて/一日のうちの何時だがもわがらないで」という、天界にいるトシからと思われる「通信」を受けとった旨を記しています。天界は賢治にとっては、不思議と近くに感じられる異空間だったようなのです。「インドラの網」には、「天の空間は私の感覚のすぐ隣りに居るらしい」との言葉もあります。

 一方、「餓鬼」に関しては、賢治が「餓鬼の声」を聴いたという話を、農学校の同僚教師の白藤慈秀が書き残しています。

      餓鬼との出合い

 宮沢さんは学校の農業実習が終ると、実習服のままの姿で、いつもの心象スケッチ集をポケットに入れて出て行く。どこに行くというあてもなく気のむくまま、足のすすむままに歩いていく。実習の疲れも忘れ、きのうは田圃のほとり、今日は野原というように思索の頭を下げながら静かに歩いていく姿が思い出される。
 そして夕刻に学校に帰って来る。私はこのようなとき、いつもどこに行って来ましたかとたずねると、きょうは学校から程近い北万丁目付近の田圃を歩いて来ましたという。今日はどんなことをスケッチして来ましたかと聞くと次のようなことを話された。
 田圃の畦道の一隅に大きな石塊が置かれてあるので不思議に思いました。畦の一隅に何故このような石が一つだけ置かれてあるかと疑い、この石には何んの文字も刻まれていないからその理由はわからない、何んの理由なしに自然に石塊一つだけある筈はない。これには何かの目じるしに置かれたに相違ないと考えた。その昔、この辺一帯が野原であったころ人畜類を埋葬したときの目じるしに置いたものに相違ない。また石の代りに松や杉を植えてある場所もある。こういうことを考えながらこの石塊の前に立って経を読み、跪座して瞑想にふけると、その石塊の下から微かな呻き声が聞えてくるのです。この声は仏教でいう餓鬼の声である。なお耳を澄ましていると、次第に凄じい声に変ってきました。それは食物の争奪の叫びごえであったと語った。
 宮沢さんに「ガキ」の世界というものは私どもの感覚によって、とらえられる世界でありますかと問うた。宮沢さんはそれはできます、と答えた。この問題についてしばらく論じ合ったことがあった。宮沢さんは高僧伝の中から餓鬼に関しての実話を引証して話された。(白藤慈秀『こぼれ話宮沢賢治』より)

 賢治という人は、日常的にこのような「声」が聞こえてしまう人だったわけですね。
 つまり、「天および餓鬼」は、賢治がその「幻想及夢」によって、特にありありと「実在」を感じられる「異空間」だったということから、この思索メモに記されているのでしょう。

 ということで、賢治の言う「異空間」とは、仏教的な「十界」からこの世界を除いた「八界」を指していたということが、彼の残した「思索メモ1」からは読みとれるのですが、仏教に関しては賢治に劣らず見識のあった白藤慈秀が、いみじくも上記引用の最後に「ガキの世界というものは私どもの感覚によってとらえられる世界でありますか」と問い質したように、仏教経典によれば「地下五百由旬」に存在するという「餓鬼界」の存在の声が聞こえるというのは、本来の仏教教理から見ると、かなり怪しげな話ではあります。
 ただしかし、上で賢治が語ったように、人や動物が葬られた跡に、餓鬼がさまよい出てくるという話は、別に賢治の創作ではなくて、日本では中世から信じられてきた民間信仰なのです。
 折口信夫は、1926年(大正15年)に発表した「餓鬼阿弥蘇生譚」というちょっとおどろおどろしいタイトルの論文で、次のように述べています。

餓鬼は、我が国在来の精霊の一種類が、仏説に習合せられて、特別な姿を民間伝承の上にとる事になつたのである。北野縁起・餓鬼草子などに見えた餓鬼の観念は、尠くとも鎌倉・室町の過渡の頃ほひには、纏まつて居たものと思はれる。二つの中では、北野縁起の方が、多少古い形を伝へて居る様である。山野に充ちて人間を窺ふ精霊の姿が残されて居るのだ。
餓鬼の本所は地下五百由旬のところにあるが、人界に住んで、餓鬼としての苦悩を受け、人間の影身に添うて、糞穢膿血を窺ひ喰むものがある。おなじく人の目には見えぬにしても、在来種の精霊が、姿は餓鬼の草子の型に近よつて来、田野山林から、三昧や人間に紛れこんで来ることになつたのは、仏説が乗りかゝつて来たからであらうと思ふ。私はこの餓鬼の型から、近世の幽霊の形が出て来たものと考へてゐる。其程形似を持つた姿である。

 すなわち、賢治がその声を耳にしたような、「山野に充ちて人間を窺ふ精霊」としての餓鬼という存在は、仏教本来のものと言うよりも、「我が国在来の精霊の一種類が、仏説に習合せられて、特別な姿を民間伝承の上にとる事になつた」ものなのです。
 折口も挙げている「餓鬼草紙」は、平安時代末期に描かれた絵巻ですが、そのうちの「塚間餓鬼」という絵には、死者の葬られた塚からさまよい出てきた餓鬼たちの姿が、描かれています。

餓鬼草紙
「東京国立博物館 名品ギャラリー」より

 賢治が散歩中に見た、人畜類を埋葬した跡の「石塊」の下にも、上図のような餓鬼がうごめいていたということなのでしょう。

 私は、先々月の宮沢賢治研究会での「宮沢賢治の他界観」という発表において、賢治が抱いていた種々の宗教的想念は、純粋に仏教的なものには収まらず、日本の固有信仰の影響も相当に受けていたのではないかということをお話ししたのですが、彼の「餓鬼」のイメージに関しても、それは当てはまるのではないでしょうか。彼が目にしたような昔の人畜の塚に、何らかの「精霊」がひそんでいるという伝承は、仏教というよりも日本の民間信仰に由来するものだったのです。

 ところで、賢治が妹たちを連れて岩手山に登った時のエピソードを、妹シゲが森荘已池に回想して述べて次のようにいます。

私たちは、おにぎりは二つずつしか持ちませんでしたが、登るのが辛くなったときは、「こんなものでも棄てたくなる程重いものだから」といって兄さんが持ってくれました。八合目あたりで、食べようとしたとき、私のひとつのおにぎりがころころころげおちて、砂礫だらけになり、食べられなくなりました。兄さんは、ひろってきて、「御供養をしよう」と、おにぎりをいくつにも小さく割って、餅まきでもするように、あたりへまきました。

 この「御供養」は、山野にひそむ餓鬼や鬼神に食べ物を分け与えることによって祟りを防ごうとする「散飯(さば)」という行為で、「施餓鬼供養」の一種と言えます。こういう何気ないところにも、賢治の素朴な宗教心というものが垣間見えています。

水溶十九の過燐酸石灰

 「小岩井農場」のパート七に、次のような一節があります。

  (こやし入れだのすか
   堆肥たいひ過燐酸くわりんさんどすか)
  (あんさうす)
  (ずゐぶん気持のいゝどこだもな)
  (ふう)
〔中略〕
 (三時の次あ何時だべす)
 (五時だべが ゆぐ知らない)
過燐酸石灰のヅツク袋
水溶すゐやう十九と書いてある
学校のは十五%だ

 賢治が、小岩井農場で使っている肥料について農夫に尋ね、その「過燐酸石灰」が入っている袋を見て、そこに記されている「水溶十九」という文字を確かめたところです。農学校で用いている製品を思い出し、「学校のは十五%だ」と比べています。

 さて、この「過燐酸石灰」というのは、代表的な化学肥料の一つで、「窒素、リン酸、カリ」という植物の生育に欠かせない三大要素のうち、リン酸を施すために使われるものです。リン酸は、特に植物のエネルギー代謝や、タンパク合成、生殖過程に不可欠で、とくに開花や結実に関わるため、「花肥(はなごえ)」「実肥(みごえ)」とも呼ばれます。
 歴史的には、「化学肥料の父」と呼ばれるドイツのリービッヒが、従来から肥料として使われていた骨粉(主成分は種々のリン酸カルシウム塩)に硫酸を作用させると、肥料としての効力が増すことを1840年に発見し、この有効成分が、水溶性の第一リン酸カルシウム(Ca(H2PO4)2・H2O)であることを突き止めました。その後1843年には、骨粉よりも大量に得られるリン鉱石に硫酸を加えるという製法によって、大規模な肥料工場がヨーロッパに次々と建設されるようになります。
 日本では、1886年から高峰譲吉が取り組み、1888年より量産が始まっています。

 「過リン酸石灰」という名称で呼ばれるのは、単一の化学物質ではなく、骨粉やリン鉱石などのリン酸カルシウム塩に硫酸などの強酸を作用させて得られる物質の総称で、主な成分は上記の第一リン酸カルシウムと、硫酸カルシウム(石膏)ですが、その他に第二リン酸カルシウム、リン酸マグネシウム、リン酸鉄、リン酸アルミニウム等も含んでいます川瀬惣次郎著『肥料学』
 このうち、第一リン酸カルシウムが水溶性で、肥料として施すと速効性にすぐれていることから、これを「水溶リン酸」と呼び、過リン酸石灰全体のうちに水溶リン酸が占める比率をもって、肥料としての品質の指標としているのです。これが「水溶十九」の意味でした。

 賢治自身も所蔵していた肥料学の教科書である川瀬惣次郎著『肥料学』(明文堂1921,右写真は国会図書館デジタルライブラリーより)のp.514には、過リン酸石灰の水溶リン酸含有量による品質分類が、下の表のように載せられています。

水溶リン酸の含有量と品質

 これによれば、「水溶十九」であった小岩井農場の過リン酸石灰は「優等品」であり、「十五%」であった農学校の肥料は、「普通品」だというわけです。
 さすがは当時最先端の小岩井農場!ということで、農学校教師の賢治としては、少しうらやましい気持ちが湧いたのかもしれません。
 農夫との最初の会話において、(堆肥ど過燐酸どすか)(あんさうす)とあるのは、火山灰性の酸性土壌においては、過リン酸だけを施したのでは土壌中に含まれる「アロフェン」という粘土鉱物とリン酸が結合してしまって植物が吸収できなくなるので、堆肥などの有機肥料と一緒に施肥すると、吸収がよいのだということです。

 賢治は晩年に、東北砕石工場の販売促進案として、「貴工場に対する献策」という企画書を鈴木東蔵に出していて、その中で「石灰岩抹」を肥料として売る際に、「炭酸石灰」という名称にすることを提案しています。この方が、「どこか肥料としては貴重なものでもあり、利目もあるといふ心持ちがいたします」と書いていますが、そのような言葉のイメージは、すでに化学肥料として有名になっていた「過燐酸石灰」との名前の類似に由来している部分も大きかったのではないかと、ふと感じました。

 ところで、最近ももちろん「過リン酸石灰」は、肥料として重用されていて、ちょっとアマゾンで調べても、下記のようにたくさんの製品が出ています。

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 いちばん上の商品の袋には大きく「17.5」と書いてありますが、他の製品もいずれも水溶リン酸の含有量は17.5%で、川瀬惣次郎の『肥料学』では「中等品」にあたるこれが、最近は主流のようですね。

 以前に私は、「この命題は可逆的にもまた正しく」という記事を書いて、「小岩井農場」の最後近くに出てくるこの一行が、何を意味しているのかということを考えようとしたことがありました。
 そして最近になって、「賢治がトシの死の苦悩をどのように昇華したのか」ということについて考えるうちに、前回とはまた違う解釈の可能性についても思い至るようになったので、今日はそれについて書いてみます。

 まず、「小岩井農場」パート九において、この一行が出てくる前後の箇所を、引用しておきます。この賢治最長の詩が、これからクライマックスに差しかかるところです。

  ちいさな自分を劃ることのできない
 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ
すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて
さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
この命題は可逆的にもまた正しく
わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
けれどもいくら恐ろしいといつても
それがほんたうならしかたない

 引用部分の下から4行目に、「この命題は可逆的にもまた正しく」が位置しています。
 ここにおいて、「この命題」と呼ばれているのは、その箇所に先立つ部分の内容を指しているわけですが、あえてその命題の内容を大ざっぱに単純化すると、次のようにまとめられるでしょう。

  1. 正しい願いに燃えて、自分と他人と全ての生き物と一緒に至上福祉に至ろうとするのが、本来の「宗教情操」である。
  2. 1を追求しようとして挫折した結果、その代わりに自分がただ一人の人だけとともに、完全に永久にどこまでも一緒に行こうとするのが、「恋愛」である。
  3. しかし2を目ざしても現実には、(完全に永久にどこまでもというような)その本質部分を達成することは不可能なので、無理にごまかして人をそのように動かす傾向が、「性欲」である。
  4. (上記において、「宗教情操」「恋愛」「性欲」は、生物にある種の行動をとらせようとする「動因」であると言えるが、)1→2→3という動因の順序は、様々な「生物の種類」に対応している。(ここで言う「生物の種類」とは、仏教における衆生の「十界」を指していると思われ、具体的には例えば、「菩薩」は「宗教情操」に対応し、「天」は「宗教情操」と「恋愛」に、「人」は「宗教情操」「恋愛」「性欲」に、「畜生」は「性欲」に、対応していると思われる。)

 そして、「この命題は可逆的にもまた正しく…」という言葉は、(1)まず上記の命題が正しいとともに、(2)その「逆の命題」もまた正しい、という二つのことを主張しているわけですが、ではその「逆の命題」とは、いったいどのような事柄を主張をするものでしょうか。

 これについて考えてみたのが、前回の記事でした。この時はいろいろと理屈をこねた挙げ句、「人間よりも高次の存在(生物)であっても、場合によっては頽落して人間と同等の存在になったり、さらに人間もより下等な存在に墜ちることもありえる」というのが、ここで言われている「逆命題」であろうと考えました。
 これは、上記の4において、「動因の順序」→「生物の種類」という対応関係を、「生物の種類」→「動因の順序」という風に、「逆」に入れ換えるという解釈でした。このように理解すれば、「小岩井農場」のこの部分と、同日にスケッチされた「〔堅い瓔珞はまっすぐ下に垂れます〕」という草稿との、内的なつながりがすっきりと腑に落ちる、という事情もありました。

 これに対して、今回考えるのは、1→2→3という「動因の順序」における、「逆」の方向性です。

 賢治が、1922年11月の妹トシの死の苦悩を、自らのうちに受け容れ、昇華していく過程において、一つの大きな画期となったのは、1924年7月に書かれた「薤露青」という作品だったと思います。
 その中でも、終わり近くに現れる次の箇所が、トシの死を賢治が新たに位置づける上で、とくに重要な意味を持っていると、私は考えます。

……あゝ いとしくおもふものが

   そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
   なんといふいゝことだらう……

 これ以前の賢治は、「いとしくおもふもの=トシ」が、「そのまゝどこへ行ってしまったかわからないこと」の苦痛に耐えかねて、あちこちでトシに呼びかけたり、トシとの「通信」を試みたり、翌夏にはその行方を追うようにサハリンまで旅をしたりしました。
 しかし、これらの試みの結果は空しく終わり、賢治の孤独は癒されませんでした。ところが、「薤露青」のこの箇所においては、「どこへ行ってしまったかわからないこと」が、それまでとは逆に、「なんといふいゝことだらう」と認識されるという、価値の転倒が行われているのです。
 この作品以前には、このように明確にトシの死を肯定的に位置づけたものは見当たりませんので、それで私はこの作品のこの箇所を、賢治にとっての一つの重要な里程標と考えるのです。

 ただここで、「いとしくおもふものが/ そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」と言われても、なぜそれが「いゝこと」であるのか、この論理には謎のような部分が残されています。こう言われただけでは、誰もすんなり同意できるものではないでしょう。

 そこで、「薤露青」の草稿を参照してみると、この引用部分は、最初の第一形態においては下記のように書かれていたことがわかります(『新校本全集』第三巻校異篇p.247)

……あゝ いとしくおもふものが
   そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことから
   ほんたうのさいはひはひとびとにくる……

 この形であれば、賢治の「論理」はかなり理解しやすくなっています。
 すなわち、「愛しく思う者がどこへ行ってしまったかわからない」という厳然たる事実があるからこそ、人はそれを諦念とともに受け容れざるをえず、そのおかげで「一人だけ」にいつまでも執着しつづけられなくなり、結果として人はふたたび「みんなの幸い」について考えられるようになる、というわけです。これは、たとえば「銀河鉄道の夜」において、カムパネルラを失った後にジョバンニが目ざすべき方向性として、作者が暗示していることでもあります。
 「どこへ行ってしまったかわからないことから/ほんたうのさいはひはひとびとにくる」という第一形態の方が、意味としては直接的でわかりやすいのは明らかですが、おそらく賢治としては、これではあまりにも教訓的に響いてしまうという懸念から、より抽象化して、「なんといふいゝことだらう」と改めたのではないでしょうか。

 さて、「薤露青」のエッセンスがここにあるとすれば、これは冒頭の「小岩井農場」の「命題」につながります。

 ずっとトシという一人の魂に固執しつづけ、その行方をいつまでも追い求めようとした賢治の行動の動因は、上に1→2→3として要約した系列の中では、2「恋愛」に相当します。もっとも、賢治とトシの場合は「兄妹愛」であって、一般的な意味での「恋愛」とは異なりますが、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」という、この箇所の定義には合致しています。(以前、「オホーツク行という「実験」」という記事では、賢治はトシとともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と常々考えていたということについて書きました。)
 ですから、ここでは「恋愛」を広義に解釈して、賢治がトシに示したような「個別的な愛」を含むものと理解しておきましょう。
 さて、小岩井農場の命題によれば、一人の人と「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かう」という方向でいくら努力をしても、そこには避けられない限界が存在します。この限界にぶつかっても、それでも強引に人を衝き進めようとする傾向として現れるのが、3の「性欲」でした。
 つまり、人間は往々にして、2→3の方向へと堕落してしまうというのが、ここでの賢治の考えです。

 これに対して、「薤露青」の草稿第一形態で示されている論理は、逆の方向性を指し示しています。
 すなわち、「いとしくおもふもの」が、その死によって「そのまゝどこへ行ってしまったかわからない」状態になってしまうということは、確かに上記の命題の2にあるように、「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かう」とする願望が、挫折させられることまさにそのものです。もとの命題では、そうなると 3の方向への頽落が起こったのですが、しかし「薤露青」第一形態では、むしろそのことのおかげで、「ほんたうのさいはひはひとびとにくる」と言うのです。これは、命題における1「至上福祉」に相当する状態です。
 つまりここでは、2→1という方向へと、逆の向きへの進展が起こるというのです。

 私が今回の記事において書いておきたかったのは、「時にはこのようにして、2→3ではなく、2→1という逆も起こりうる」という事態こそが、賢治が「小岩井農場」パート九に記した「この命題は可逆的にもまた正しく」という字句の意味だったのではないか、ということです。
 その次の行に、「わたくしにはあんまり恐ろしいことだ」と賢治が書いているのは、愛する人の魂が「どこへ行ってしまったかわからない」というのは、彼にとっては本当に心の底から恐ろしいことだからでしょう。それでも、「けれどもいくら恐ろしいといつても/それがほんたうならしかたない」のです。
 そしてこの現実を、「ほんたうならしかたない」と受容するおかげで、人間が「個別的な愛」にとどまらず、そこを越えて「至上福祉」へ向かうという可能性も、開けてくるというわけです。

 ただ、このように「小岩井農場」のテキストを解釈することは、賢治の考えの時間的な変遷からして、はたして妥当なのかという問題は残ります。
 「小岩井農場」がスケッチされた1922年5月21日は、トシの死のまだ半年以上も前のことです。この時点では、もちろん賢治の考えが上記のようなものになっていたことはありえませんし、1923年8月の「オホーツク挽歌」の章の時期でさえ、彼はまだトシの死を上のように受けとめるには至っていませんでした。
 先にも述べたように、賢治が今日述べたような考えに到達したのが明らかなのは、「薤露青」の1924年7月を待たなければなりません。

 となると、1922年5月の日付のある「小岩井農場」に、このような思想を読みとろうとするのは、後からの勝手なこじつけなのかもしれません。
 それは、ひょっとしたらそうなのかもしれません。しかし、『春と修羅』に収められている「小岩井農場」にしても他の作品にしても、1924年4月における『春と修羅』出版の直前ぎりぎりまで、かなりの推敲が重ねられつつ思想的にも深化を続けていたということは、たとえば杉浦静氏が『宮沢賢治 明滅する春と修羅』(蒼丘書林)で明らかにしておられるとおりです。
 ですから私としては、1924年7月の「薤露青」から3か月ほど前の『春と修羅』刊行時点までに、すでに賢治の心の中ではトシの死の受容を通して、「個別的愛の乗り越え」へという大きな変化が起こりつつあって、その変化が「小岩井農場」の最終形態に反映されたという可能性も、一概に否定はできないのではないかと思っている次第です。

9月に比叡山でお話ししたこと(1)

 この9月に比叡山延暦寺で行われた賢治忌法要が行われた後、記念講演としてお話をさせていただいた内容を、ここに掲載しておきます。この話は、8月に東京の宮沢賢治研究会で発表させていただいたものと、概ね同じです。
 ちょっと長いので、今回はその前半部です。

0.はじめに

 今日は宮沢賢治さんの命日ですが、賢治さんゆかりの比叡山延暦寺において、この貴重な機会にお話をする機会を与えていただき、大変光栄に存じます。

 私は、普段は精神科の医者をしておりまして、全然宮沢賢治と関係ないことを仕事にしています。ただ、賢治の作品が子供の頃からとても好きでしたので、昔から彼の作品をあれこれ読んだり、また賢治ゆかりの地を訪ね歩いたりしていました。
 これらの趣味的な活動は、仕事とは関係なくやっていたのですが、一方で賢治という人について、彼は普段どんなことを考えていたんだろう、どういう思いでこの作品を書いたんだろう、とかいろいろ考えていくうちに、どうしても自然に精神科医という立場、職業的な視点からも考えてしまうところがありました。今日は、そういう中から出てきたお話をさせていただこうと思います。

 宮沢賢治という人は、一方では本当に努力の人、刻苦勉励の人だったと思います。亡くなる2-3日前にも、農家の人が肥料について相談に来た時に、すでに重篤な病状であったにもかかわらず、また家族が止めたにもかかわらず、長時間その人の相談に乗って、それが死期を早めてしまったのではないか、という話もあります。そういう風に、自分の命さえ省みずに「人の役に立とう」という仕事をした人ですね。とことん自分の力を振りしぼって、多方面の活動に邁進しました。
 しかしその一方で宮沢賢治という人は、ありきたりの言葉ですが、まさに「天才的な感性」を持った人でもありました。どうしてこんな風な言葉が書けるんだろう、どうしてこんな角度から世界を見ることができるんだろうとか、不思議なところが一杯あります。今まで他の人が全く使わなかったような言葉で世界を描写しつつ、またそれが「言われてみれば確かにそうだなあ」という感じの表現でもあって、このあたりになると単なる「努力の人」という範疇を超えて、まあ本当に常人離れした感性としか言いようがない部分が、どうしてもあるように思います。
 賢治ももちろん、私たちと同じように悩み、苦しみつつ生きた人ですが、このように他の人とちょっと違う形で世界が見えたり、物事を感じたりしていた部分もあるのではないか。いろいろな作品を読んでいると、私としてはどうしてもそういう感じがするのです。

 そういう部分について、今日は少し精神科医としての立場もまじえて、考えてみたいと思います。

1. 震災の夜に思ったこと

(1) 「世界ぜんたい幸福にならないうちは…」の本当の意味
 あの震災の夜のことから、話を始めさせていただきます。
 皆さんもいろんなところで3年半前の震災を体験されたと思いますが、私は京都におりました。このスライド(図1)は、震災の夜にNHKテレビで放送されていた映像です。

スライド1
(図1)

 3月11日の20時12分と書いてありますね。自衛隊のヘリコプターから、気仙沼市のあたりを撮影したもので、気仙沼市一帯が、このように津波に襲われ火事が起こって、炎に包まれています。私は震災の夜に、この映像を、まさに茫然として見ていました。
 「いったい何でこんなことが起こるんだろう」という以外に何の言葉も出ず、途方もない衝撃を受けていました。そして、いろんな思いが心の中で渦巻きました。
 一つは、これだけのことが東北地方で起こっているのに、今、自分は安全な場所でテレビを見ている。自分はここでこんな風に傍観していていいんだろうか、という気持ちにとらわれました。今まさに、たくさんの人が、これだけ大変な目に遭っているのに、自分だけがぬくぬくと暖かい部屋にいて許されるんだろうかなど、何か自分が被災者の人々に対して限りなく申しわけないような、一種の「罪悪感」が湧きました。
 それからもう一つは、自分に何かできることがあれば現地に行きたい、でも行くこともできない、今行っても大した役に立つこともできないという、自分に対する空しさを感じました。これだけのことが起こっているのに、自分には何もできないという、底知れない「無力感」です。

 こういう気持ちに渦のようにとらわれながら、私は茫然とテレビを見ていたのですが、この時ふと私の心には、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉が、浮かびました。これは賢治の「農民芸術概論綱要」という草稿の中にある言葉なんですが、なぜかこれが浮かぶとともに、私はこの言葉の本当の意味が、この時初めてわかったような気がしました。

 この言葉は、宮沢賢治が書き遺したものの中でも有名なもので、いろんなところでしばしば引用されます。これはとても賢治らしく、美しく崇高な言葉ですが、ただそれまで私にとっては、あまりにも自己犠牲的に思えて、ちょっと「しんどい」感じもしていました。
 この言葉は、「全体が幸せにならないうちは、自分個人が幸せになってはいけない、自分はならないんだ」と言っているように聞こえますし、あるいは「個の幸福」よりも「全体の幸福」が優先すると解釈すれば、「全体主義」を思わせるところもあります。ですから以前の私にとっては、これはとても立派ではあるけれども、一方で息苦しくも感じたのです。もしもこれを皆でスローガンのように奉じるとしたら、かなり抵抗感もありました。

 それが、たまたまこの震災の夜にテレビを見ている時に、この言葉の本当の実感というか、今までは分かっていなかったその意味が、ありありと自分に立ちのぼってくるように感じたのです。
 私のその時の感覚を言葉にすると、「この全ての被災地の、全ての被災者にに安寧が訪れないかぎりは、私自身の安寧もあり得ない」、というような感じでした。今思えば何とも力み返ったような考えですが、実際この晩には、そんな感じがしていたのです。そしてこれが、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の言葉への連想に、つながりました。

 そこではたと気づいたのは、宮沢賢治という人は、まさに今の自分のような気持ちを終生にわたって抱えつつ、生きた人だったのではないかということでした。つまり、私のような凡人は、大震災の夜という非常事態に置かれて、そこで初めて普段と違う感覚で、自分と世界との間のこのような特別な関係を感じとり、それはまた時間とともに薄れていってしまうのですが、実は賢治という人は、普段からいつもずっとこういう感覚で、生き続けていたのではないでしょうか。

 そう考えれば、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉の意味するところが、私のような者にも具体的に実感できると思いました。

(2) 震災によって現出した「一体性」

 ではなぜ私は、ほかならぬ震災の夜に、こういう「宮沢賢治的」な仕方で、この「自分と世界との特別な関係」を、感じとることができたのでしょうか。
 私の考えるところでは、この賢治的な感覚が私に現れた原因は、震災や津波という莫大な自然の力が、人間が普段この世界に張りめぐらしている「境界線」というものを、一気に取り払ってしまったからだと思います。

 人間という生き物は、この世界の中に様々な垣根を、あるいは境目を作って生活しています。例えば、野原の中では雨も風もあり、寒かったり暑かったりしますから、人は「家」というものを建てて、屋根や床や壁で外界との間に境界を作り、自分たちが暮らしやすい環境を作って生活をします。しかし今回の震災では、そういう家々が地震で崩れ、津波で流されてしまったために、人は境界のない大自然の中に、いったん裸で投げ出されてしまいました。
 また人間は、海辺や川岸には、海や川の水を防ぐための「堤防」を築いて、人間の生活空間を守ってきました。しかし、これも津波によって押し流されてしまい、海と陸との境界が消滅してしまいました。
 さらに原子炉の圧力容器や格納容器というのは、生物にとって有害な放射能が周囲に漏れ出さないように本来は作られているものですが、これも震災と津波によって破壊され、原子炉の内部と外部の境界が一部で失われたために、今も続く深刻で悲惨な事態が起こりました。

 以上は、物理的な境界線に起こった出来事です。しかし問題は、物理的なものだけにとどまりません。
 震災や津波から避難してきた人々は、かなりの期間にわたって体育館などに設けられた「避難所」で生活することを余儀なくされました。そこでは、普通の住宅にあるようなプライバシーは保てず、全ての人々が分け隔てなく一体となって生活するしかありません。ここでも、普段の社会生活にある「境目」が、消滅したのです。
 また私が、被災地から遠く離れた場所で、見知らぬ人々に対して、「被災した全ての人々に安寧が訪れないかぎり、私自身の安寧もあり得ない」というようなことを思ったりしたのも、普段は物理的な距離や縁の薄さに隔てられている東北地方との間の「境界線」が、いったん心理的には消滅してしまったことによるのでしょう。
 震災と津波が、人間が普段設けている様々な「境界線」を一時的に消滅させてしまったというのは、こういうことです。

 人間が、物理的に自分の生活空間を守るためだけでなく、「プライバシー」という形で自分と他人の領域を分けて暮らしたり、ある程度までは「他人のことは他人のこと」として気にしないようにして生活しているのは、各々の心の安定のためでもあります。「この世の全ての人のことを、我がことのように考えましょう」というのは、建前としてはその通りですが、あまり他人の心配ばかりしていたのでは自分の身が持たないので、普段はみんな自分と他人との間には、一定の線を引いて暮らしています。
 そのような境界線が、震災によって一時的に失われると、人々は非日常的な「一体性」を獲得します。被災地から離れた場所でも、普段は仕事に追われている人が休みをとって被災地にボランティアに行ったり、これまで寄付などしたことない人が義援金を寄せたり、そのような姿が、全国のあちこちで見られました。普段から、事件や事故で人が亡くなったというニュースは数限りなく報道されていても、大震災はそれらとは違い、多くの日本人にとって「他人事」ではなかったのです。「これは皆で何とかしなければならない」という思いが、少なくともある時期までは、日本全体で共有されていたと思います。

 そして、私が先に「賢治的な感覚」と呼んだものの正体が、まさにこれなのだと思います。この感覚の中では、世界は様々な境界によって区切られてはいません。「個を超えた、世界との一体感」があります。
 一般人が、震災のような特別な非日常的状況において獲得するこの感性を、宮沢賢治という人は、いったい何の因果か、いつも常に身にまとい続けていたのではないかと、私は思うのです。その感覚のやむにやまれぬ表現が、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉だったのでしょうし、賢治の他の作品を見ても、彼が常々こういう風に感じていたということが、いろいろな形で表れています。

スライド4
(図2)

(3) 賢治作品に見る「個を超えた一体性」

 先に引用した「農民芸術概論綱領」の中には、「新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある」という言葉もあります。人間やいろいろな生き物が、別個にばらばらに存在しているのではなくて、一つの生き物になっていくということで、これも「個を超えた一体性」を表していると思います。

 あるいは、「小岩井農場」という詩は、賢治が広大な小岩井農場を訪ねて歩いている時の心象を描写したものですが、その中に、「ちいさな自分を劃ることのできない/この不可思議な大きな心象宙宇のなかで・・・」という一節があります。この宇宙全体に比べて、自分なんて小さなものですが、その宇宙における「自分」という存在は、他からそれだけを区切って取り出せるものではない、と言うのです。この小さな自分は、たとえちっぽけでも孤立しているわけではなくて、実は大宇宙と一体であるということが、「小岩井農場」のこの箇所で描かれていると思います。

 そして私が考えるには、これが大事なところなのですが、賢治にとってはこのような言葉で描かれている事態は、詩的修辞や想像力の産物ではなくて、本当に自分の実体験として、理屈抜きに感じていたことなのだと思うのです。
 賢治は自分の作品のことを「詩」と呼ばれるのを好まず、自ら「心象スケッチ」と呼んで、「ありのままをその通りに書いた」ということをあちこちで述べていますが、上のような感覚こそが、賢治にとって「ありのまま」だったのだと思います。

 結局、冒頭でご紹介した、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉の趣旨は、「個人の幸福よりも全体の幸福が先にあるべきだ」とか、「全体の幸福が実現されるまで個人は幸福になるべきではない」というような「べき論=当為」ではなくて、賢治にとってはまさに「あり得ない」という、不可避の「事実」だったのだと思います。「そうあるべき」とか「理想論」とか「信念」として言っているのではなくて、「望むと望まざるとにかかわらず、世界とはこのようなものだ」という、彼にとっての事実をありのままに述べたにすぎないと思うのです。
 喩えて言えば、人間の体というのは文字通り「一体」ですから、体全体は病気なのに、その中の一本の指だけが幸福であるということはあり得ません。体が全体として健康で平穏であって、初めて一本の指も、安寧でいられます。これと同じ意味で世界は一体のものであるというのが、賢治の基本的な認識だったのだと思います。

 先ほどの賢治忌法要において、延暦寺の横山照泰師の法話をお聞きしましたが、その際に「自他不二」という言葉をお教えいただきました。その意味は、「自己と他者は二つではない、一つである」ということでしたが、これはまさに今ここで申し上げているように、「自己と他者は別個にではなく、一体となって存在している」という宮沢賢治の感覚を、図らずも表現してくれている言葉だと思います。

2.賢治の心性と作品の特異さ

(1) 自己と世界の一体感の由来=自我境界の薄さ

 ということで、宮沢賢治には独特の「自己と世界の一体感」があったのだろうということを申し上げましたが、ではこの「一体感」というのは、いったいどういう性質のものなのでしょうか。私自身、精神科の医師という立場からも、これは関心を引かれる問題でした。

 この「自己と世界の一体化」とは、自分と他者との間の境目が薄らぎ、自分と他者、あるいは自分と世界とが、一体となり融合しているということですが、これと同じ感覚のことを、ロマン・ロランというフランスの文学者は、「大洋感情」という言葉で呼びました。
 ロマン・ロランは、「宗教の本質は何か」という問題について、精神分析学の創始者であるフロイトとの間で書簡を交わして議論をしたことがあるのですが、これはその往復書簡の中に出てくる言葉です。
 ロランよれば「大洋感情」とは、広い海のように「限界がない感覚」だということです。たとえば、自分が海に浮かんでいて、自分と海との間の境目がいつしか溶けてしまい、どこまでが自分でどこからが海という区別もなくなり、自分が広大な海そのもの(あるいは世界全体)に一体化している感覚、と言ってもよいでしょう。ロランはまたこれを、「永遠なるものの感覚」とも表現し、これが全ての宗教の根源にあると考えました。

 これに対してフロイトは、より即物的な自然科学的な立場からこの「大洋感情」を分析し、この感覚は、乳幼児期のまだ自他が未分化な段階への「退行」であると考えました。
 これについてちょっとご説明すると、生まれたばかりの赤ん坊というのは、「自分」と「他人」とを区別する認識を、まだ持っていないのです。まだ目の見えない赤ちゃんは、お腹が空いたら泣いて、すると口のあたりにおっぱいが現れるので、それを口に含んで吸ったら満たされる、ということを日々繰り返していますが、ここに現れるおっぱいというのは母親のもので「自分の一部ではない」とか、この口や自分の泣き声は「自分のものだ」とか、そういう区別はまだできないのです。そのうちに、一般に生後6ヵ月くらいになると、自分が自由に動かせる手足は「自分の一部だ」という感覚を持つようになり、一方で自分の自由にならないおっぱいや、その他のいろいろな外的存在は「自分ではない」ものだと認識するようになります。「自他の区別」ができるようになるのです。

 精神分析学の言葉ではこのことを、自己と他者との間に「自我境界」が形成されていく、と言います。文字通り、自分とそれ以外の存在との間に存在する見えない「境界」のことです。赤ん坊は、成長とともに徐々に「自我境界」を獲得していき、間もなく自分と他人の区別を間違えるなどということはなくなります。
 しかし一方で、大人になってからも時に幼少期の感覚が甦って、まるでその頃の段階に戻ったかのように感じたり振る舞ったりすることがあり、これを「退行」と言います。フロイトは、「大洋感情」を体験している大人は、まだ「自我境界」が形成されず自他が未分化だった乳幼児期へと一時的に「退行」して、自分と自分以外の存在が区別されず一体となっていた、太古の感覚を体験しているのだと考えました。

スライド6
(図3)

 大人においても「自我境界」が曖昧になってしまうような例として、フロイト自身が挙げているのは、恋人同士のような特別に親密な関係です。もちろん恋人のそれぞれも、各自が別の人格であるという自覚はありますから、自我境界が完全に消滅しているわけではありませんが、相手の喜びを自分の喜びと感じ、自分と相手の思いを重ね合わせようとするうちに、どこまでが自分でどこからが相手なのか、自他が渾然一体となる感覚が生まれるのです。ここでは、自我境界が薄くなってしまっています。
 母親と赤ん坊という関係においても、同じようにお互いがお互いの一部であるかのように感じつつ、生きている面があります。これは、子供が小さな赤ん坊である間は正常なことですが、子供が成長してからもこのような関係が続いてしまうと、その自立を阻害することもあります。
 また、大型のトラックなどを運転している時に、人間は気持ちが大きくなるということが言われます。この場合は、運転者の「自我」が自動車の大きさまで拡大しているということなのかもしれませんね。

スライド7
(図4)

 ということで、自己と世界とが一体化しやすかった宮沢賢治という人は、この言葉を用いて表現すれば、「自我境界が薄い人」という風に言うことができます。

(2) 自己の拡大・消滅

 さて、宮沢賢治という人が、普通の人よりも自我境界が薄かったとして、ではそれは彼の世界観に対して、どんな影響をもたらしたのでしょうか。

 「自我境界」というのは、「自己」とその外界との間を隔てている境界面というわけですから、それが「薄い」ということは、「自己と外界との区別が薄い」、ということになります。

スライド8
(図5)

 上のスライドのように表せば、「自己」というのは、この世界に浮かぶ一つの「島」のような存在です。周りを取り囲んでいるのは、自分ではない存在=「非自己」ですから、「自己」というのは、「非自己」という海に浮かんでいる島のようなものだとも言えます。
 上の(図5)では、「自己」と「非自己」との間には実線の境界線があり、両者は赤色と白色ではっきりと区別されています。これに対して下の(図6)では、自己を囲む線が点線になって「稀薄化」しており、その色としても、「自己」と「非自己」との差は、薄くなっています。

図6
(図6)

 次に、この「島」のように「非自己」の海に浮かぶ「自己」を垂直面で切ったと想定して、その断面図を考えてみます。
 下の(図7)が、その断面図です。

図7
(図7)

 これは一種のグラフのようなものと思っていただいたらよいのですが、横軸は、この「世界」の空間的広がりを表しています。縦軸は、右端に小さく書いてあるように、「自我感情の強度」というものを表しています。この「自我感情」という言葉について、少しご説明をしておきます。

 「自我感情」とは、「自我エネルギー」と呼ばれることもありますが、これもフロイトの言葉で、個人が、自分の「自我」に対して供給しているエネルギーのことです。
 と言っても何のことかわかりにくいと思いますが、人間は誰しも自分自身のことを「自分という存在」として自覚し、守り、支え、動かしています。そして、その活動を支えている動力として、何らかの「心的なエネルギー」が働いていると想定してみることができるでしょう。
 もちろん、これは外部から物理的に測定できるようなエネルギーではなくて、一種の比喩的な想定ですが、たとえば「自尊心」というのは、そのエネルギーのわかりやすい表現の一つです。自尊心を感じている時、人は自分で自分に対して、ある種のエネルギーを供給しているのです。このように明白な形だけではなくて、基本的には自分という存在が、この机や椅子や外界とは異なって、自分にとって唯一無二の「自己」として浮き出して感じられるのは、自分という存在に対して特別なエネルギーが供給され、自己としての特性を帯びているからなのです。

 一般に人間の活発さというものが、気分や体調によって高くなったり低くなったりするのと同じく、自我感情も、時により増大したり減少したりします。自我感情が高揚した時には、自分に力がみなぎり、自信にあふれて何でもできそうに感じたりもしますが、逆に自我感情が低下した時には、自分が取るに足りないちっぽけな存在に思えたりします。
 石川啄木の短歌に、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買い来て/妻としたしむ」というものがありますが、これなどは「自我感情の低下」の様子を表現している好例だと思います。もっともこの時の啄木は、妻だけは自分を支えてくれるだろうと思える程度には、まだしも自我感情が保たれていいたことが救いだったわけで、かりにそれがもっと低下しておれば、「妻からも軽蔑される」と感じたかもしれません。
 同じ頃の啄木には、「おほどかの心来れり/あるくにも/腹に力のたまるがごとし」とか、「腕拱みて/このごろ思ふ/大いなる敵目の前に躍り出でよと」という短歌もありますが、こちらの方はかなり自我感情が高揚した時のものでしょう。

 このような「自我感情」というものをグラフにしてみると、(図7)のように、この世界の中で「自己」が存在している箇所では、「これは私である」という自我感情がぐっと高まり、自己から離れると、すぐに低下する、という形になります。
 スライドの中央あたりの赤い水平線を境に、上が「自己」、下が「非自己」と書いてありますが、これが「島」にとっての「海面」のレベルを表しています。海面上に出ている部分が、その十分に強い自我感情によって「自己」と感じられる場所であり、水面下に没しているのは「非自己」です。
 そしてこれは全体として、非常に急峻な岩礁が、海面上に突き出ているような断面図になっています。この急峻さは、「自己」と「非自己」の間には自我感情の大きな落差が存在しているという一般的な事実に対応しているもので、言い換えればこれは、「自我境界が明確である」ということを意味しています。これが、自我境界の明確な、一般成人の「自己」の存在様式です。

 さて、このような「自己」において、「自我感情」が高まるとどのようなことが起こるでしょうか。それを表してみたのが、下の(図8)です。

図8
(図8)

 ここでは「島」が全体として地殻上昇して、より高く海面上に突き出ています。自己の内では高揚感や能力感がかなり高まっているわけですが、(図5-6)のようにこの「島」を上から眺めると、それが海面において占める面積は、さほど大きく変わってはいません。この図では、岩礁の根元の方が太くなっているために、少しだけ面積は大きくなっていますが、それでも高さの変化に比べたら微々たるものです。

 次に、逆に「自我感情」が低下した場合の様子が、次の(図9)です。

図9
(図9)

 「島」は、下の方に沈下して、その高さはかなり減少しています。少し波が高くなると、島の中心部にもしぶきがかかりそうです。
 しかし、この場合も「島」の面積は、さほど変わってはいません。上の場合と逆に、少しだけ小さくなってはいるでしょうが、それでも高さの変化に比べると、さほど大きな違いではありません。

 すなわち、「自我境界」が明確である場合には、「自我感情」が変化しても、「自己」の範囲や大きさは、さほど変化しないのです。これはまあ当然のことで、一般の大人は、心的なエネルギーが増大したり減少したりしたからと言って、自分そのものが大きくなったり小さくなったりしたように感じるわけではありません。

 一方これに対して、「自我境界」が稀薄化し、曖昧になっている場合を図にしたのが、下の(図10)です。

図10
(図10)

 先ほどと何が変わっているのかと言うと、「島」は低く、「海」は浅くなり、その高低差によって表していた「自己」と「非自己」の落差が、狭まっているわけです。
 このように形が変化しただけでも、「島」は波のしぶきをかぶりやすくなっているわけで、これは「自己」の中心部までもが、周囲の環境の影響を、より受けやすくなっていることを表しています。しかし、この種の「自己」の特徴がより顕著に表れるのは、自我感情が変化した時のことです。

 右の(図11)は、「自我境界」が稀薄であるような個体において、「自我感情」が高揚した時の様子です。

図11

 ここでは驚くべきことに、さっきまで「非自己」であった海の部分が消滅してしまい、全てが「自己」の色彩を帯びています。
 これはどういうことかと言うと、「世界」の隅々にまで「自己」が遍く充満して、世界中の全てが「自己」と感じられる状態、言い換えれば「自己」と「世界」が一体化した状態です。
 なかなか常人には、このような状態を実感できる機会は少ないでしょうが、これこそが、先に論じたロマン・ロランの言う「大洋感情」というものに相当するのではないでしょうか。自分が世界全体と溶け合う、「永遠なるものの感覚」です。

 そして、宮沢賢治の作品にも、このような自己と世界との一体感の描写が、いろいろと出てきます。その例を、右の(図12)に挙げてみました。

図12
(図12)

 まず最初のものは「春と修羅 第二集」に収められている「種山ヶ原」という詩の初期形の一部です。賢治が大好きだった高原を一人で歩いた時の描写ですが、「あゝ何もかもみんな透明だ/雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに/風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され/じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で/それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と謳っています。賢治は、高原の自然の中で全く恍惚として、光や風や水とまさに一体となって、溶け合っています。
 二番目の例は、『春と修羅』に収められている「林と思想」という作品です。ここでは自分が世界全体と完全に一体化しているわけではありませんが、「わたしのかんがへ」が、向こうの林へと「流れて行つて」「溶け込んでゐる」という体験が描かれています。賢治の心の活動は、周囲の自然と部分的に融合しています。
 三番目の「まづもろともに…」は、先にもいくつか引用した「農民芸術概論綱要」の一節で、これも有名ないかにも賢治らしい言葉です。「みんな一緒に宇宙の微塵になって、果てしない空に散らばろう」と仲間に呼び掛けているわけですが、あらためて具体的に考えると、いったい何を一緒にしたいのかよくわかりません。もちろん、文字通り自分たちの体を粉砕して撒布しようと言っているわけではないでしょう。
 結局これも、上の「種山ヶ原」のように、「自分自身がそのまま大宇宙と一体化するような、そういう境地へと、ともに至ろう」という呼びかけと解釈するのが、一番自然だろうと思います。もっとも、呼びかけられたからと言って、皆がそうできるわけではないでしょうが…。

 以上、自我境界が稀薄化している場合に自我感情が高まったら、「自己と世界の一体化」が起こるということをご説明しましたが、今度はそのような曖昧な自我境界の人において、自我感情が低下した際にはどうなるかということを、考えてみます。
 その様子が下の(図13)です。

図13

 ご覧のように、ここでは「島」の全体が海面下に水没してしまって、「自己」として表面に顔を出している部分は、なくなってしまいます。
 すなわち、ここにおいて本人にとって「自己」というものは、あたかも「消滅」してしまったかのように感じられるのです。
 これも、一般人にはぴんと来にくい感覚でしょうが、賢治の作品にはやはりこのような体験があれこれ出てきますので、その例を(図14)に挙げてみました。

図14
(図14)

 上の作品は、まだ中学生の頃に作った短歌ですが、自分の脳やからだが、だんだん「うす白く」「消え行く」ような感覚を詠んでいます。どんな感じだったのか想像してみるしかありませんが、とにかくこの時の賢治は、自分が消滅していくような感覚を抱いたのでしょう。
 下の長い文章は、高等農林学校を卒業した23歳の頃に、親友の保阪嘉内にあてた手紙の一節です。「われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。」という言葉が、激しく5回も繰り返されています。一般に宮沢賢治というと、穏やかな人徳者というイメージがあるかもしれませんが、若い頃にはこれほどの実存的な苦悩を抱えていた人でもありました。ここでは、自分という存在を突き詰めた挙げ句に、「われはなし」という心の叫びが綴られます。「すべてはわれにして、われと云はるゝものにしてわれにはあらず」という風に、全てが自己でありながら同時に自己ではないと述べているところは、まさに(図11)と(図13)で起こっている真逆の事態が、実は表裏一体であることを示してくれていると思います。

 以上お示ししたような賢治の作品の一風変わった特徴は、これまでも多くの方が指摘しているところです。
 たとえば下の(図15)は、佐藤通雅氏が、賢治短歌の特徴を分析した労作『賢治短歌へ』(洋々社)という本からの抜き書きです。

図15
(図15)

 佐藤氏が、賢治の短歌において「賢治という主体は後退し、対象との同化がはじまり、ついには両者の境界は視界から消え去ってしまう」「自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう」と述べておられるところは、まさに私がこれまでご説明してきた「自己と世界の一体化」です。また、賢治の短歌において、「彼の<われ>の多様性は、方法としてでなく、<われ>そのものを他とおなじ位置に解消させる」と述べ、賢治の作品の特異さは、単に文学的な表現としてなされているのではなく、彼独特の<われ>のあり方そのものに関わっていると指摘しておられるところも、これまで述べた私の思いと一致します。
 そして佐藤通雅氏は、通常の一人称を解体していくような賢治のこの特異な<われ>のあり方を、<超一人称>の方向と呼んでおられます。

(3) 外的現実と内的心象の同一視

 さて、自我境界の薄さに由来する賢治の「自己」の独特さは、彼が精力的に展開した「心象スケッチ」という方法論の基礎とも、密接に関係しています。

 賢治が生前に唯一刊行した詩集『春と修羅』の序文には、この世界では様々な現象が生起するように感じられるが、詰まるところは「それらも畢竟こころのひとつの風物です」述べて、自らの『春と修羅』は、その現象を「そのとほり」に記録した「心象スケッチ」であると書いています。すなわちこれらの作品は、作者の「内的世界」の描写なのです。
 一方、やはり唯一刊行した童話集『注文の多い料理店』の序文には、「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」と書かれていて、こちらは逆に外的世界から「もらってきた」というのです。

図16
(図16)

 それでは二つの作品集は、正反対の方法論で作られたのかというと、もちろんそうではありません。賢治は、外の世界で起こる現象(外的現実)と、心の中で繰り広げられる現象(内的心象)とは同一のものと考えていたので、どちらを描いても、結局は同じことになるのです。

図17
(図17)

 これを常識的な認識論の立場から理解しようとすると、たとえば現実世界にある白い雲を見ると、心の中にも白い雲のイメージが生まれますから、外的現実と内的心象が「同じ」であるのは当たり前のことのように思われます。
 しかし賢治の認識は、そういうことではありませんでした。外界にある「本物の雲」と、心でイメージしているその「似姿の雲」とが「二重に」存在しているのではなくて、それらは本当は「ただ一つの現象」であるにすぎない、というのです。

 このことを、実際に賢治が書いたものから見てみましょう。

図18
(図18)

 (図18)の最初の例は、親友の保阪嘉内が盛岡高等農林学校を退学になった時に送った手紙ですが、親友が退学になったことと、自分が徴兵されたらシベリアで戦死するかもしれないということを取り上げて、「退学も戦死もなんだ みんな自分の中の現象ではないか」「保阪嘉内もシベリアもみんな自分ではないか」と言っています。退学になったとかシベリアで戦死するとかいう、現実世界の出来事は、「自分の中の現象」にすぎないと言うのです。これは退学になった親友を慰めるつもりで書いた手紙だったのですが、この言葉が果たして親友の慰めになったのだろうかというところが、ちょっと気になります。
 二番目の例は、「銀河鉄道の夜」の初期形に出てくるものですが、「ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だって歴史だってたゞさう感じてゐるのだから…」と、ここでも同じような世界観が語られます。
 三番目の例は、やはり親友保阪家内あての手紙の一節ですが、上記のように自分の心の中に現れることと、現実の出来事が同一だという理屈で行くと、心でふとイメージしただけのことでも、それは現実に起こってしまうのではないかという、ちょっとオカルト的な事態になってきます。ここでは、椅子に座って「ふと心が高い方へ行」くと、虚空に巨きな人が横たわっているのが見えたが、その姿はちょうどその頃亡くなった盛岡高等農林学校の先生だったのだろう、と言うのです。賢治は先生の死を予知した、というわけですね。

 こういう風に、外的現実と内的心象とを区別せず単一のものとする考え方は、仏教的には「唯識」の思想にも通ずるところがあるでしょう。しかし、賢治は仏教を学んだために知性的にこう考えるようになったのではなくて、それよりも前から、理屈以前の感性として、このように考えていたのではないかと思われます。
 そして、賢治のこの独特な世界観も、先ほどからお話している自我境界の薄さということから、説明することができます。

 通常は、世界の中に自己がいて、世界には自己以外にも、生物・無生物含めていろいろな存在があります。下の(図19)のように、自己は、世界のごく一部にしかすぎません。

図19
(図19)

 しかし、賢治のように自我境界の薄い人は、時に自我感情が高揚すると、自己と世界とが一体化して融合するという境地に至ることがあります。
 その状態が、(図20)です。

図20
(図20)

 ここでは自己がはるかに拡大して、「世界=自己」となっています。そのために、普通は自己の「外部」にあって、自分とは別個に独立した存在であったものたちが、あたかも自己の内部に所属しているかのような状態になっています。
 ここでは、「外的現実」と「内的心象」という区別はもはや意味をなさなくなり、「心象」をスケッチすることが、取りも直さずそのまま「外的現実」を記述することになるのです。
 これこそが、彼が『春と修羅』において打ち立てた、「心象スケッチ」の方法論であると言えます。

(4) 小括

 以上、いろいろとお話してきましたが、いったんここまでのところを簡単にまとめておきます。

図21
(図21)

 宮沢賢治の作品や書簡に表れたその心性の特徴について考えてみると、彼は「自我境界が薄い」というタイプの人だったと思われます。これは、彼が意識的にそうしたとか、勉強してそのような感覚を身に付けたとかいうものではなくて、彼の天性のものだったのではないかと思います。そしてこの特徴が、彼の人間性や作品に、ある種の独特さを与えました。

 一つは、たとえば「種山ヶ原」の初期形に見られるような、自己と世界が一体化してエクスタシーを感じるような体験を彼にさせ、その詩的霊感の源泉となりました。そのような作品は、枚挙にいとまがありません。

 また一つには、この感性によって賢治は常に自己と世界とが不可分の一体であると感じていたために、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉に表現されるような、世界に対する独自の倫理的スタンスをとることとなりました。
 賢治の子供の頃のエピソードとして伝えられている話に、他の子が手押し車に轢かれて指を怪我した時に、思わず駆け寄って「痛かべ、痛かべ」と言いながらその子の指を口に入れて吸ってやったとか、小学校で先生に怒られて水の入った鉢を持って廊下に立たされている子がいると、重いだろうと同情してその水を飲んでしまった、とかいうものがあります。
 このように、理屈以前に「他人の痛みを自分の痛みとして感じてしまう」というところも、自我境界が薄く、自他を一体のものとして感じていたからでしょう。

 このような倫理的姿勢は、彼の宗教的な態度にも、大きな影響を与えたはずです。すなわち、信仰によって自分自身の極楽往生を願うという浄土教的な信仰に飽き足らず、全ての衆生の救済という理想へ向けて、自らを積極的に駆り立てる方向へと、彼を動かしたのではないでしょうか。つまり、このような性向は、青年期に彼を浄土真宗から日蓮宗へと転向させる動因の一つになった可能性があります。

 以上は主に、自我感情が高揚して自己と世界が一体化する傾向にある時に起こったことでしたが、時にエネルギーが低下した時には、賢治は自己が消滅するような感覚にとらわれることもありました。これは彼に苦しみを与えたようですが、これも自我境界の薄さのために起こってしまうことでした。

 また、自我境界の薄さは、外的現実を内的心象を同一視するという、独特の世界観の形成にもつながり、『春と修羅』において開花する「心象スケッチ」という方法論に結実しました。

 以上、震災の夜に感じたことをきっかけに、賢治の心性や作品を包摂的に理解すべく考察を行ってみましたが、次にはこれを精神医学的にもう少し広い視点からとらえてみたいと思います。

(後半に続く)

【参考文献】
ロマン・ロラン: 136ジークムント・フロイトに(1927年12月5日).『ロマン・ロラン全集』第36巻(みすず書房)
ジークムント・フロイト: 文化への不満.『幻想の未来/文化への不満』(光文社古典新訳文庫)
佐藤通雅: 『賢治短歌へ』(洋々社)

「光のすあし」は誰か

   童話「ひかりの素足」は、吹雪における子どもの遭難物語として、その描写の迫真性が、読む者の心に切実に訴えかけます。
 一方で、このお話そのものの全体は、一個の宗教的説話として造型されています。物語のクライマックスは、あくまで一郎や楢夫を含めた人々が、「貝殻のやうに白くひかる大きなすあし」の人によって救済されることにあり、そこから見れば二人の吹雪の道行きや、一郎が楢夫に示すけなげな献身は、救済に至るためのプロセスにすぎません。
 賢治はここで、国柱会において勧められたように「法華文学ノ創作」を実践しているのだと言えるでしょう。しかし現代の私たちにとっては、正直なところ「救済」の荘厳さや有難さよりも、何気ない二人の子どもの会話やしぐさ、死へと向かって荒れ狂う吹雪、一郎の楢夫への愛の描写などの方が、物語においてはるかに印象的であると言わざるをえません。そういう「副次的」なところに日本でも比類のない文章を書いてしまうところが、また賢治の真骨頂と言えるのでしょうが…。

 先日の「なぜ往き、なぜ還って来たのか(1)」では、この一郎の楢夫に対するいたわりがこれほどまでに読む者の胸に迫るのはなぜなのか、当時の賢治の死んだ妹への愛が、ここに凝縮されているからではないかと考えてみました。
 この方向での考察をさらに続けてみたい気持ちはあるのですが、なかなか道行きは容易ではありません。
 そこで本日は、いったんこういった物語の意味や内容に関する議論は置いておき、その「宗教的説話」としての形式に関する問題を整理してみたいと思います。

 この物語の設定に関し、仏教的な観点から議論になってきたこととして、少なくとも次の三点があります。
   (1) 「うすあかりの国」とはどこか
   (2) 「にょらいじゅりゃうぼん」という言葉はどこから発せられたのか
   (3) 「光のすあし」の人は誰か

 これらの論点のうち、(1)(2)に関しては、工藤哲夫氏の「中有と追善―「ひかりの素足」論」(和泉書院刊『賢治考証』所収)が、綿密な文献の検討によって、私にとっては確定的とも感じられる結論を提示してくれているので、それをご紹介します。(3)に関しては、さすがの工藤氏も「よく分からない」としておられますが、私の個人的な思いを述べます。

 それにしても、工藤哲夫氏の賢治研究における真摯で徹底的な姿勢は、すごいものだと感じています。

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工藤 哲夫

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◇          ◇

(1) 「うすあかりの国」とはどこか

 「ひかりの素足」において、吹雪で遭難した一郎と楢夫が行く「うすあかりの国」は、これまで多くの人によって「地獄」であると解釈されてきました。
 伊藤雅子氏は、端的に「「ひかりの素足」は地獄に仏の物語である」と述べ(「光のすあしは誰か」)、西山令子氏は「その地獄の様相は日蓮の地獄観と重なる点が多い」として(「「ひかりの素足」考」)、いずれも「うすあかりの国」は仏教的な意味での「地獄」であるとしています。
 一方、五十嵐茂雄氏は次のように、これは「地獄界」ではなく「餓鬼界」であるとしました(「ひかりの素足」の諸相」)。

 このように考えてゆくと、確かに「うすあかりの国」の描写は地獄的ではあるが、先にあげた冒頭の模糊とした表現、また目連伝説や、冥界という原義を持ち、さらに一種の往還が可能な場所としての冥府たる餓鬼界をこれに相当させるのが妥当のように思われる。

 これらに対して、田口昭典氏は、「うすあかりの国」とは仏教に言う「中有」のことであるとの説を提唱しました(『賢治童話の生と死』洋々社)。
 言われてみれば、私たちが知っている程度の仏教の教えでも、死んだ人はまず四十九日間は「中有(中陰とも言う)」にとどまり、この間に次の輪廻転生先が決まるということになっていたと思います。ですから、現代においてもこの間には、「初七日」に始まり「四十九日(満中陰)」に至る法要が営まれるわけですね。
 仏教的には、「極悪と極善とは中有なくして直ちに悪趣又は善趣に入る」ということもあるらしいですが、一郎や楢夫が「極悪」とは考えにくいですから、二人が死の直後に「地獄」に行ってしまうというのは、理屈としてもおかしいわけです。
 また、この四十九日間は、死者が生と死、陽と陰の狭間にいるためにここは「中陰」呼ばれるわけですが、「うすあかりの国」という名称自体も、そのような中間性を暗示しているように思えます。

生命の連続―生と死の繰り返し 右の図は、田口昭典氏の『賢治童話の生と死』(洋々社)に掲載されているもので、物語において一郎の属した世界を、仏教的な見地から位置づけたものです。倶舎論では、「生有」「本有」「死有」「中有」を合わせて「四有」と呼び、「生有」とは生まれる瞬間、「本有」とは人間なら人間としてこの世で生きている期間、死有とは死ぬ瞬間のことです。そして、死んでから次の「生」までの期間が、「中有」なのです。
 ところで、私たちの通常の感覚で「ひかりの素足」を読むと、「一郎は臨死体験をしたが死ななかった」と理解するのが一般的でしょうが、仏教的な理屈によれば、いったん「中有」に行ったということは、すなわち「死んだ」ことになるようです。上図のように「一郎の蘇生した世界」は「後世」、すなわち「いったん死んでから転生した先」ということになっているのが、ちょっと不思議です。

 工藤哲夫氏は、田口昭典氏の「中有」説を深化・徹底させる方向で、主に賢治が読んでいたと推定される日蓮遺文における「中有」の描写と、「うすあかりの国」の描写を対照しつつ読み解いていきます。
 例えば、「十王讃歎鈔」には、次のような箇所があるということです。

さても罪人冥冥として足に任せて行程に。我のみ此道に來。歟と覺るに。目にはさだかに見ェねども。罪人いたみ叫ぶ聲時時耳に聞ゆ。其時胸さわぎ怖ろしきに又獄卒の聲と覺しきも聞ゆ。こは如何せんと思ふ處に、程もなく羅刹の形を見る。今までは僅かに名をこそ聞つるに。今親り此を見る怖しさ云計なし。其後は前後に付そひ息をもくれず責かくれば。

 死んだ人が、何処ともわからず彷徨い歩き、ここに来たのは自分一人だけなのかと思っていると、同じ境遇の他の人々の「痛み叫ぶ声」が聞こえてきます。次いで羅刹=鬼を見て、その後は鬼に前後に付き添われて、息もくれずに責めかけられるという状況になるのです。
 この様子は、賢治が「ひかりの素足」の「うすあかりの国」で描いている情景にそっくりです。鬼などが出てきて残酷な仕打ちをするものですから、私たちはここを地獄かと思ってしまうのですが、仏教的には「中有」の世界でもこういう状況だというのですね。
 ここで興味深いのは、「十王讃歎鈔」では死者が一人で歩くうちに他の者達と出会うことになっていますが、「ひかりの素足」では死んだ一郎はすぐに楢夫を見つけ、二人で歩くうちに、「何ともいへずいたましいなりをした子供らがぞろぞろ追はれて行く」のに合流します。
 このように、仏典とは微妙に異なって、「一人」ではなく「二人」になっている点にも、賢治がこの物語に託した特別な思いが表われているのではないかと思います。そもそもこの物語は、「死ぬことの向ふ側まで(妹トシに)一緒について行ってやらう」という作者の願いが、底流にあるのだろうと思うからです。

 工藤氏は、これ以外にも数多く「十王讃歎鈔」の記述と「うすあかりの国」の類似点を提示して、これは賢治が日蓮遺文を参考にして「中有」の情景を再現して見せようとしたものであることを例証します。それは私にとっては十分に説得力のある論です。

(2) 「にょらいじゅりゃうぼん」という言葉はどこから発せられたのか

 さて、上記のような「うすあかりの国」の残酷さは、どこからか「にょらいじゅりゃうぼん第十六。」という言葉が漂ってくることによって、一変してしまいます。 以下は、その部分の描写。

「楢夫は許して下さい、楢夫は許して下さい。」一郎は泣いて叫びました。
「歩け。」鞭が又鳴りましたので一郎は両腕であらん限り楢夫をかばひました。かばひながら一郎はどこからか
「にょらいじゅりゃうぼん第十六。」といふやうな語がかすかな風のやうに又匂のやうに一郎に感じました。すると何だかまはりがほっと楽になったやうに思って
「にょらいじゅりゃうぼん。」と繰り返してつぶやいてみました。すると前の方を行く鬼が立ちどまって不思議さうに一郎をふりかへって見ました。列もとまりました。どう云ふわけか鞭の音も叫び声もやみました。しぃんとなってしまったのです。気がついて見るとそのうすくらい赤い瑪瑙の野原のはづれがぼうっと黄金いろになってその中を立派な大きな人がまっすぐにこっちへ歩いて来るのでした。どう云ふわけかみんなはほっとしたやうに思ったのです。

 言うまでもなく、ここで「風のように」感じられた言葉は、法華経の中の白眉とも言うべきその第十六章のタイトル、「如来寿量品」です。
 物語の形式上は、これは最も重要な箇所とも言えるでしょうが、上の引用を見ていただいたらわかるとおり、いったい誰が最初にこの言葉を発したのか、お話の中でははっきりしません。
 八木公生氏は、この問題について次のように述べておられます(「イーハトーヴはユートピアか―童話にみる救済の構造―」)。

 誰がその言葉を発したのか。登場人物の誰でもないことはたしかである。では、誰が―。この疑問に答えてくれるのは、巨きな光る人の次の発言である。
「こわいことはない。おまえたちの罪は、この世界を包む大きな徳の力にくらべれば、太陽の光とあざみの棘の先の小さな露のようなもんだ。なんにもこわいことはない。」
 これは、「にょらいじゅりゃうぼん」ということばの起源が、この世界を包む大きな徳の力そのものであることを示唆したものである。そして、ここには、一郎の献身的行為は、この世界を包む大きな徳の力、そのひとつのかたちである「にょらいじゅりゃうぼん」にあずかることにおいて初めて、その十全な意義、つまり救済(蘇生)に値する価値を担い得るという理解があるように思う。

 つまり、この「にょらいじゅりゃうぼん」という言葉は、特定の人物が言ったのではなくて、「この世界を包む大きな徳の力」に由来するのだというわけです。
 これに対して工藤哲夫氏は、先の「十王讃歎鈔」には、死者の家族らが経を唱えるなど功徳を積むことにより、死者の運命に良い影響(冥福)を与えられるとする「追善」の効用が殊に強調して述べられていることを指摘し、この「にょらいじゅりゃうぼん」という言葉は、二人の子どもから離れた現実世界(娑婆)において誰かが唱えた言葉が、追善供養の働きを成したのだ、と考えます。

 例えば「十王讃歎鈔」には、次のような箇所があります。

身の罪業は御札(ぎょさつ)の面に隠れなく顕れて候上は争ひ申すべきにあらず。去ながら娑婆に子供もあまた候間其中に若も孝子有て定て善根を送る可く候。偏に大王の御慈悲にて且く御待候へと歎き申せば。大王面には瞋り給へども内には御慈悲深き故に。汝が罪業一一に隠れ無き上は地獄に堕すべきれども先先(まづまづ)待べしと宣ふ。然れば罪人の喜び限り無し。此の如く待給に孝子善根をなせば亡者罪人なれども地獄をまぬがるゝ也。されば大王も追善を随喜し給て。汝には似ざる子供とて。褒美讃歎し給也。

 すなわち、そのままでは地獄に堕されるような罪人でも、中有にいる間にその子供が善根をなせば、地獄をまぬがれることができるというのです。
 また日蓮は、「上野尼御前御返事」において、「烏龍」「遺龍」という中国の書家親子の例を引いています。
 烏龍は生前「仏法をかたきとし」たために、死んで無間地獄に落ちて苦しんでいましたが、ふとそこに金色の仏一体が出現して、大水を大火に投げ入れたように苦しみが和らぎました。烏龍は合掌して、何という仏様かと尋ねたところ、「我は是汝が子息遺龍が只今書くところの法華経の題目六十四字の内の妙の一字也」と答え、さらに「八巻の題目は八八六十四の満月と成り給へば無間地獄の大闇即大明となり」、そこは常寂光の都となるとともに、烏龍や他の罪人はみんな蓮の上の仏となったというのです。

 それまで地獄で苦しんでいた罪人たちが、(その中の一人の息子がこの世で法華経の題目を書いただけで)全員一挙に仏に成ってしまうというわけです。法華経の有り難さを強調するあまり、話がちょっと極端になりすぎている感は否めませんが、これは「にょらいじゅりゃうぼん」という一言によって「うすあかりの国」の状況が一変してしまうという、「ひかりの素足」の展開を彷彿とさせるところがあります。

 さらにこの話は、盛岡高等農林学校を卒業した賢治が、母親を亡くしたばかりの保阪嘉内に宛てた手紙で述べていたことにも通じます(1918年6月書簡75)。

此の度は御母さんをなくされまして何とも何とも御気の毒に存じます
御母さんはこの大なる心の空間の何の方向に御去りになったか私は存じません
あなたも今は御訳りにならない あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう。
あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい。
あなたの書くのはお母様の書かれるのと同じだと日蓮大菩薩が云はれました。
あなたのお書きになる一一の経の文字は不可思議の神力を以て母親の苦を救ひもし暗い処を行かれゝば光となり若し火の中に居られゝば(あゝこの仮定は偽に違ひありませんが)水となり、或は金色三十二相を備して説法なさるのです。 (後略)

 この嘉内あて書簡と、日蓮の「上野尼御前御返事」の関連性については、鈴木健司氏が「死後の行方 とし子・転生」(『宮沢賢治 幻想空間の構造』所収)においてすでに指摘されているところです。上の「あなたの書くのはお母様の書かれるのと同じだと日蓮大菩薩が云はれました」という箇所などは、「上野尼御前御返事」において父烏龍が、「汝カ書キし字は我が書キし字也」と言うところに相当しています。

 ただこの時点で、現世にいる一郎と楢夫の親族(父親など)は、二人の子どもが吹雪の中に埋もれているという状況については、まだ知る由もなかったはずです。本来は「追善」とは、死者の冥福を祈って行うものですから、厳密に言うとこの「にょらいじゅりゃうぼん」という言葉は、追善供養には当たらないことになります。
 しかし、たとえ追善のつもりでなくとも、烏龍と遺龍の例のように、遺族が意図せず書いたり唱えたりした言葉も、死者のための効用があるとされています。ですからここで聞こえてきた「にょらいじゅりゃうぼん」は、父親なり二人の子どもの家族が、その安否を気遣ってかあるいは無意識にか、口にした言葉だったという風に解釈することもできるわけです。

(3) 「光のすあし」の人は誰か

 「にょらいじゅりゃうぼん」という言葉とともに「うすあかりの国」には、「貝殻のやうに白く光る大きなすあし」の人が現れ、苦しんでいた人々や鬼たちさえも、その圧倒的な力によって救済します。
 この「人」こそが、物語の表向きの中心をなすわけですが、それがどういう存在なのか、これもなぜかはっきりとは描かれていません。ただ、「如来寿量品」の内容から考えると、ここに超越的存在が登場するとすればそれは「釈迦如来」であるはずですし、そう解釈する説が一般的です。
 しかし、この「光のすあし」の人は釈迦如来ではなく、別の存在であるとする説もあります。以下は、大塚常樹著『宮沢賢治 心象の記号論』(朝文社)より。

 このような「如来寿量品」の称名とともに出現した「立派な大きな人」として考え得る最初の可能性は≪釈迦如来≫であろう。しかし「立派な瓔珞をかけ」た姿は仏像では菩薩形である。その姿を重視すれば、「如来寿量品」の聞き手であり、直前の「従地涌出品」で、未来に如来となって釈迦に代わって娑婆世界に出現すると予告される≪弥勒菩薩≫の可能性がでてくる。同じ「従地涌出品」で釈迦の説法を聞く四菩薩の一人で、日蓮上人が自らをその再臨であると主張した≪上行菩薩≫の可能性もある。
 賢治テクストに織り込まれた思考からみるとどうなるか。『永訣の朝』(『春と修羅』〔宮沢家本〕」では妹の転生先が「兜卒の天」として規定されている。これは利他行を重視する大乗仏教徒が、未来仏である≪弥勒菩薩≫が待機する≪兜率天≫に死後に生まれ変わることを願ういわゆる≪兜率上生信仰≫である。『永訣の朝』のメッセージとの整合性を考慮すれば、「立派な大きな人」は、≪弥勒菩薩≫である可能性が最も高いと言えるだろう。

 つまり、これは「弥勒菩薩である」という説です。ただし、「光のすあし」の人が「瓔珞をかけていた」ということ以外に、弥勒菩薩であることを支持する具体的な根拠があるわけではなく、これは他の作品をもとにした一つの推測と言えるでしょう。

 そして、この「ひかりの素足」という物語に秘められた仏教的典拠について、最も詳しく考察をしておられる工藤哲夫氏は、この問題については「よく分からない」としておられます。

 「光のすあし」の人は誰か。確定的な意見に辿り着くことができていない。「にょらいじゅりゃうぼん第十六」という言葉、及び「法蓮鈔」の「妙の一字[中略]変じて金色ノ釈迦佛となる」「一一の文字変じて日輪となり日輪変じて釈迦如来となり」からすると釈迦仏(如来)と考えてもよさそうであるが、よく分からない。分からないのは、白く光るということと「すあし」ということの意味を追究し切れていないからである。宿題としておきたい。

 結局、物語の流れからすると「釈迦如来」とするのが妥当に思われるが、作品中に具体的に描かれているその姿を細かく仏典に照合するなどして考えていくと、なかなかぴたりと当てはまる存在がない、ということかと思います。

 しかし私としては、この物語における「光のすあし」の姿の描写は、仏典の記述ではなくて、賢治自身が実際に見た幻視にもとづいているのだろうと思うのです。したがって、その特徴の典拠を仏教の文献に探索する試みは、徒労に終わるのではないかと考えます。

 賢治の作品を読んでいる方はたいていご存じのように、「白いすあし」の不思議な人が登場するのは、この「ひかりの素足」だけではありません。
 「一九二二、五、一二、」の日付のある「手簡」(「春と修羅 補遺」)という作品の後半には、つぎのように書かれています。

あなたは今どこに居られますか。
早くも私の右のこの黄ばんだ陰の空間に
まっすぐに立ってゐられますか。
雨も一層すきとほって強くなりましたし。

誰か子供が噛んでゐるのではありませんか。
向ふではあの男が咽喉をぶつぶつ鳴らします。

いま私は廊下へ出やうと思ひます。
どうか十ぺんだけ一諸に往来して下さい。
その白びかりの巨きなすあしで
あすこのつめたい板を
私と一諸にふんで下さい。

 ここで「あなた」と呼びかけられている存在は、「白びかりの巨きなすあし」を持っているのでしょうし、賢治が「あなたは今どこに居られますか/早くも私の右のこの黄ばんだ陰の空間に/まっすぐに立ってゐられますか」と問いかけている様子からすると、普通に目に見える存在ではないのでしょう。
 また、「一九二二、五、二一、」の日付の「小岩井農場」(『春と修羅』)の「パート四」には、次の記述があります。

たよりもない光波のふるひ
すきとほるものが一列わたくしのあとからくる
ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り
またほのぼのとかゞやいてわらふ
みんなすあしのこどもらだ
ちらちら瓔珞もゆれてゐるし
めいめい遠くのうたのひとくさりづつ
緑金寂静のほのほをたもち
これらはあるひは天の鼓手、緊那羅のこどもら

これは「こどもら」ですが、やはり「すあし」で「瓔珞」も掛けています。
 そしてその「パート九」。

ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張つて
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
……………はさつき横へ外(そ)れた
あのから松の列のとこから横へ外れた
  《幻想が向ふから迫つてくるときは
   もうにんげんの壊れるときだ》
わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
  《あんまりひどい幻想だ》
わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ
どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは
ひとはみんなきつと斯ういふことになる
きみたちとけふあふことができたので
わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
血みどろになつて遁げなくてもいいのです
 (ひばりが居るやうな居ないやうな
  腐植質から麦が生え
  雨はしきりに降つてゐる)
さうです、農場のこのへんは
まつたく不思議におもはれます
どうしてかわたくしはここらを
der heilige Punktと
呼びたいやうな気がします
この冬だつて耕耘部まで用事で来て
こゝいらの匂のいゝふぶきのなかで
なにとはなしに聖いこころもちがして
凍えさうになりながらいつまでもいつまでも
いつたり来たりしてゐました
さつきもさうです
どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は
  《そんなことでだまされてはいけない
   ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる
   それにだいいちさつきからの考へやうが
   まるで銅版のやうなのに気がつかないか》
雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです
あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも
その貝殻のやうに白くひかり
底の平らな巨きなすあしにふむのでせう

 上の最後の、「あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも/その貝殻のやうに白くひかり/底の平らな巨きなすあしにふむのでせう」という箇所などは、「ひかりの素足」における表現と、言葉もほとんど共通しています。

 一郎はまぶしいやうな気がして顔をあげられませんでした。その人ははだしでした。まるで貝殻のやうに白くひかる大きなすあしでした。くびすのところの肉はかゞやいて地面まで垂れてゐました。大きなまっ白なすあしだったのです。けれどもその柔らかなすあしは鋭い鋭い瑪瑙のかけらをふみ燃えあがる赤い火をふんで少しも傷つかず又灼けませんでした。

 「小岩井農場」においては、「わたくしはずゐぶんしばらくぶりで/きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た」と書かれていて、文字どおり解釈すれば賢治はこの日には問題の「すあし」の存在を「見た」ということになります。「しばらくぶり」と言うからには、以前にも見たことがあったのでしょう。
 一方、その9日前の日付を持つ「手簡」は、「あなたは今どこに居られますか」と問いかけ、「私と一諸にふんで下さい」と懇願する形で終わっていることから、この日には見なかったのだろうと推測されます。

 このような作品中の記述は、もちろん創作芸術のことですから、作者が実際にそのような体験をしたと断定することはできません。
 しかし賢治の場合は、自分の「心象スケッチ」について、「それぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました」と述べていますし(岩波茂雄あて書簡)、他の作品にも幻聴や幻視の描写がたくさんあります。また、周囲の人にも自分の神秘体験についてしばしば語っていますから、彼の「心象スケッチ」に書かれている内容は、賢治が実際に体験したことだったと考えてよいだろうと、私は思っています。
 それを、「神秘体験」あるいは宗教的な意味を帯びた啓示と理解するか、「解離性幻覚」と呼ぶか、解釈する立場は種々ありうるでしょうが、いずれにせよ賢治がそれをありありと体験していたことに、間違いはないだろうと考えます。

 ですから、作品中で「立派な大きな人」の足がなぜ「白い」のか、なぜ「すあし」なのか、なぜ「瓔珞をかけている」のか、その個々の特徴について仏典に由来を探したり、象徴的な意味を分析したりしても、期待するような結果は得られないのではないかと、私は考えています。

 詳しい草稿研究によれば、童話「ひかりの素足」の第一形態が成立したのは、1922年の前半頃までとされています(杉浦静「ひかりの素足」,学燈社『宮沢賢治の全童話を読む』所収)。これはまさに、先に挙げた「手簡」や「小岩井農場」がスケッチされたのと同時期です。このように繰り返し作品化されているということは、この「白い素足の人」という視覚的イメージが、当時の賢治にとって重要なものだったということを示唆しているのだろうと考えられます。
 この頃、賢治の心の中では、すでに1922年1月に書いていた「水仙月の四日」における「子どもの吹雪遭難」というモチーフがあったでしょう。そして彼が、トシの死の前後に抱いていた「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」というモチーフ、それに救済者としての「白い素足の人」というイメージが融合する形で、この「ひかりの素足」という物語が生まれたのではないでしょうか。

 ですから、「「光のすあし」の人は誰か?」という問いに対しては、「賢治が幾度か幻視した人で、名前や由来は不詳」というのが、私の答えです。
 その属性や外見的特徴は、賢治にとっては「向こうから現われた」ものなのでその意味するところは不明ながら、それをモチーフに「ひかりの素足」を宗教物語として創作する際に、釈迦如来として造型したということだろうと思います。

耕耘部の「時計」の動き

 数ページほどの短篇作品「耕耘部の時計」は、賢治の1923年(大正12年)頃の作と推定されています。

 小岩井農場とおぼしき大きな農場の農夫室に、立派な「巴里製」の時計が掛かっています。ある日、赤シャツを着た若い農夫が新入りでやってきたのですが、朝や昼にその掛時計と自分の腕時計とを見較べると、いつも不思議な「ずれ」があるのです。時によって、針が進んでいたり遅れていたりする、怪しい時計です。いったいどうなっているのかとその新入りは訝りつつ一日の仕事を終えて、農夫室でくつろぎながらふと時計を見ると、目の前でその動きの正体が判明しました。
 何のことはない、時計の針のねじが緩んでいて、針はある場所で一気に飛んでしまうという可笑しな動きをしていたのです。

 作品は、軽いミステリー仕立てで進行しつつ、その登場人物においては、合理的な発想や好奇心を持つ若い農夫と、ありのままの不合理を受け入れつつ日々を送る古い農夫たちとの対照が、鮮やかに描かれています。古い農夫たちは、若い農夫の一挙手一投足をを揶揄したり、時に冷笑する態度を見せますが、それは陰湿な疎外になってしまう一歩手前で止められていて、作品の明るさを保っています。
 しかしこの両者の微妙な関係には、賢治自身が周囲の農民たちに抱いていた印象が、どこか投影されているのかもしれません。

 ところで本日とり上げる問題は、この物語の重要な小道具である「ねじの緩んだ時計」の針は、具体的にはどんな動きをしていたのだろうか、ということです。50分の位置から一気に15分の位置に飛ぶところは最後に明らかになりますが、話を細かく読んで考えてみると、実はそれ以外の時も、かなり複雑な動きをしているみたいなのです。
 まずお話の中から、時計の動きを記述している箇所を、抜き出してみましょう。

     一、午前八時五分

(前略)
 赤シャツは右腕をあげて自分の腕時計を見て何気なくつぶやきました。
「あいつは十五分進んでゐるな。」 それから腕時計の竜頭を引っぱって針を直さうとしました。
(後略)

     二、午前十二時

(前略)
 その時、向ふの農夫室のうしろの雪の高みの上に立てられた高い柱の上の小さな鐘が、前後にゆれ出し音はカランカランカランカランとうつくしく雪を渡って来ました。(中略)赤シャツの農夫はすこしわらってそれを見送ってゐましたが、ふと思ひ出したやうに右手をあげて自分の腕時計を見ました。そして不思議そうに、
「今度は合ってゐるな」とつぶやきました。

     三、午后零時五十分

(前略)
「さあぢき一時だ、みんな仕事に行って呉れ。」農夫長が云ひました。
 赤シャツの農夫はまたこっそりと自分の腕時計を見ました。
 たしかに腕時計は一時五分前なのにその大きな時計は一時二十分前でした。農夫長はぢき一時だと云ひ、時計もたしかにがちっと鳴り、それに針は二十分前、今朝は進んでさっきは合ひ、今度は十五分おくれてゐる、赤シャツはぼんやりダイヤルを見てゐました。

    四、

(略)
 その時です。あの蒼白い美しい柱時計がガンガンガンガン六時を打ちました。
 藁の上の若い農夫はぎょっとしました。そして急いで自分の腕時計を調べて、それからまるで食ひ込むやうに向うの怪しい時計を見つめました。腕時計も六時、柱時計の音も六時なのにその針は五時四十五分です。今度はおくれたのです。さっき仕事を終って帰ったときは十分進んでゐました。さあ、今だ。赤シャツの農夫はだまって針をにらみつけました。二人の炉ばたの百姓たちは、それを見て又面白そうに笑ったのです。
 さあ、その時です。いままで五時五十分を指していた長い針が俄かに電(いなづま)のように飛んで、一ぺんに六時十五分の所まで来てぴたっととまりました。
「何だ、この時計、針のねじが緩んでるんだ。」

 物語には、異なった時刻を示す時計が出てくるので、念のため最初に確認しておかなければならないのは、章題となっている「午前八時五分」とか「午前十二時」「午后零時五十分」という時刻は、どの時計の示している時間なのか、ということです。
 これに関しては、「二、午前十二時」でお昼の鐘を聴いた若い農夫が、「今度は合ってるな」とつぶやいていること、それから「三、午后零時五十分」では昼休みをとっている農夫が、少し時間がたって「腕時計は一時五分前」で柱時計は「一時二十分前」と確認していることから、「章題の時刻は、若い農夫の腕時計の時刻=正しい時刻を示している」と考えられます。
 あと些細なことですがもう一つ。「一、午前八時五分」では、若い農夫は農場の掛時計が15分進んでいることを確認した後、「腕時計の竜頭を引っぱって針を直さうとしました」とありますが、ここで彼は自分の腕時計の時刻を修正したのでしょうか。
 彼は、自分の腕時計の方が正しく、掛時計の方が間違っていることを知っています。それでも、職場の時間に従うために、あえて正しくない掛時計の方に自分の時計を合わせるという行動をとる可能性もありますが、もしここでそうしたとすれば、「三、」以降で、正しい時刻と掛時計の時刻を比較することはできなくなってしまいます。
 したがって、この最初の場面では、農夫は自分の腕時計の「針を直さうと」はしたものの、実際には針は動かさなかったと考えられるのです。

 ということで、「耕耘部の時計」の動きについて、物語中で記述されていることをあらためて整理しなおすと、次のようになります。

  • 午前8時5分には、15分進んでいた。すなわち8時20分を指していた。
  • 午前12時に何時何分を指していたかはわからないが、農夫室にいた人は正確な時刻を知ることができて、鐘を鳴らした。
  • 午後0時55分には、0時40分を指していた。
  • 若い農夫が仕事を終えて農夫室に帰ってきた時には(時刻不明)、時計は10分進んでいた。
  • 午後6時には、5時45分を指していた。そしてこの時、6時の時報が鳴った。
  • その後、長針は5時50分の位置から6時15分の位置まで、一気に飛んだ。

 それからあともう一点だけ、考えておきたいことがあります。もしも「耕耘部の時計」が、ねじの緩みのためとは言え、8時台、9時台、10時台・・・と、それぞれ異なった長針の狂い方をしているのだとしたら、読者としてはこの時計の具体的な動きに関して、上に箇条書きにしたこと以上を知ることは不可能です。考察もここで終わりにせざるをえません。
 しかし幸いなことに、物語を読むと、農場で働いている農夫たちはこの時計を見て、容易に正しい時刻を「分単位で」読みとっているようなのです。すなわち、この時計の長針の動きは、何時台でも共通しているのだろうと推測することができます。

◇          ◇

 さて、以上の予備的考察をもとにして、「耕耘部の時計」の長針の動きを考えてみると、以下のようになります。正しい時刻では0分にあたる、「耕耘部の時計の45分」から、順を追って見てみましょう。

「耕耘部の時計」の長針

  1. 本来のX時0分には、耕耘部の時計は(X-1)時45分を指し、この時、時計はX回の時報を打つ(「四、」より)。
  2. 長針は、45分から50分の位置まで動いた後(A)、ここから15分の位置まで(B)、時計回りに一気に飛ぶ(「四、」より)。
  3. 次に長針は、15分から20分の位置まで進む(C)。針が20分にある時、本来の時刻はX時5分である(「一、八時五分」より)。
  4. したがって、長針が(A)(B)(C)の区域を回るのに要する時間は計5分である。このうち、(B)に要する時間は一瞬であるので、(A)と(C)を合わせた時間がほぼ5分ということになる。つまり、(A)(C)区間の長針の平均角速度は、正常な時計の2倍になっている。
  5. 続いて、長針が(D)の区間を回って40分の位置に来た時、正しい時刻はX時55分である(「三、午后零時五十分」の記述より)。したがって長針は、盤面上では20分間である(D)の区間を、50分かけて回ったわけである。すなわち、(D)区間の長針の平均角速度は、正常な時計の0.4倍になっている。
  6. さらに、X時55分に40分の位置にあった長針は、(X+1)時0分に、45分の位置に至る。すなわち、(E)区間は5分かけて動くわけであり、正常な時計の長針と同じ角速度である。

 以上が、「耕耘部の時計」の記述から読み取れる、1時間における長針の動きです。

 今回私は、この動きを再現する「時計の模型」を、Flash+ActionScript を用いて作ってみました。具体的シミュレーションをするにあたり、ここでは上の設定に以下の条件を追加しました。

  1. (A)(B)(C)(D)(E)の各区間内では、長針は等角速度運動をすることとした。
  2. (B)区間で、長針が50分位置から15分位置まで動くのに要する時間を、1秒とした。

 いずれも、時計の動きを単純化するための設定です。
 ということで、下のボタンを押していただくと、「耕耘部の時計」の模型が、別ウィンドウで表示されます。



 長針が45分になったところで時報が鳴りますので、「音」にご注意下さい。また、盤面下部に表示されるデジタル時計は、もちろん当時の「耕耘部の時計」には付いているはずもありませんが、これが本来の「正しい時刻」を表示しています。盤面の針と、見較べてみて下さい。
 時計がちゃんと表示されない場合、お使い Flash Player のヴァージョンが古いことが原因かもしれません。こちらのページから、新しい版をダウンロードしてみて下さい。

◇          ◇

 ということで、他愛もないおもちゃを作ってみたわけですが、このようなシミュレーションをしてみたことによる、思わぬ収穫もありました。
 ミステリー仕立てのこの短篇は、最後に「種明かし」がなされて終わるのですが、それでも物語上はわからないままになっていることが、一つだけあります。 それは、「四、」において、若い農夫が「さっき仕事を終って帰ったときは十分進んでゐました」と回想している、この「仕事を終えて帰ってきた」時刻は、いつなのかということです。
 ここで、上記のモデルに従えば、すなわち(D)の区間で長針は等速で運行していたと仮定すると、「耕耘部の時計が10分進んで見えた」時刻がいつなのか、という問題を解くことが可能になります。

 それは、正しい時刻では、5時13分に起こる現象なのです。

 「耕耘部の時計」は、本来の5時5分には、5時20分を指しています(「一、八時五分」と同様)。
 それから8分(=480秒)が経過した時、正しい時刻は、もちろん5時13分です。そしてこの時、「耕耘部の時計」は、5時20分の位置から480秒×0.4=192秒(3分12秒)進んでいますから、5時23分を指しています。すなわち、「耕耘部の時計」は、「10分進んで」いるわけです。
 この時刻より後は、「耕耘部の時計」はどんどん正常な時計に追いつかれていき、30分では逆転されてしまいますので、「10分進んで」見える時刻は、ここしかありません。
 すなわち、若い農夫が仕事を終えて農夫室に帰ってきたのは、5時13分台のことではないかと推測されるのです。

 ところでこの物語の章題において、「一、」「二、」「三、」にはそれぞれ時刻が書いてあるのに、「四、」だけには書いてありません。岡澤敏男氏は、「〈賢治の置土産~七つ森から溶岩流まで〉134 六原から転入してきた男」(盛岡タイムス2009年11月14日)において、この「四、」の時刻について「午后五時?」と記しておられます。大正後期の小岩井農場における農夫の冬期の就業時間を考えて、そう推測されたようです。
 もしも、午後5時が仕事の終わる時刻だったとすれば、それから若い農夫が農夫室に引き上げてきたら5時13分だったというのは、ちょうど話が合いそうな頃合いではありませんか。

 それから、彼は石炭炉の火にあたりながら、手帳に今日の仕事をメモしたり、他の農夫の話に耳を傾けたりしてくつろいでいるうちに、午後6時(耕耘部の時計では5時45分)を迎え、時報の音に驚かされるのです・・・。

小岩井農場

Carbon di-oxide to sugar

 「小岩井農場」の下書稿の中に、次のような箇所があります。

口笛を吹け。光の軋り、
たよりもない光の顫ひ、
いゝや、誰かゞついて来る
ぞろぞろ誰かゞついて来る。
うしろ向きに歩けといふのだ。
たしかにたしかに透明な
光の子供らの一列だ。
いいとも、調子に合せて、
いゝか そら
足をそろえて。
 Carbon di-oxide to sugar
 Carbon di-oxide to sugar
 Carbon di-oxide to sugar
 Carbon di-oxide to sugar
みちがぐんぐんうしろから湧き
向ふの方にたゝんで行く
あのむら気の四本の桜が
だんだん遠くなって行く
いったいこれは幻想なのか
幻想ではないぞ。
透明なたましひの一列が
小岩井農場の日光の中を
調子をそろへてあるくといふこと
これがどうして偽だらう。

 推敲後の段階では「パート四」となる部分で、賢治は農場本部の建物を過ぎ、ひばりの鳴き声を聞いて、「むら気な四本の桜」も過ぎます。寂しさをまぎらすように口笛を吹きながら歩いていると、ふと後ろから「光の子供たち」がついて来るように感じます。その子供たちとともに、足をそろえて行進をしようと、'Carbon di-oxide to sugar'という掛け声でリズムをとったのです。
 'carbon dioxide'とは「二酸化炭素」で、すべての生命に密接に関わる物質ですが、最近はとみに悪者にされることが多い役まわりです。'sugar'は、もちろん「糖」ですね。

 ところでこの'Carbon di-oxide to sugar'という掛け声は、『春と修羅』の初版本のテキストには登場しません。その中間にある「詩集印刷用原稿」と呼ばれる草稿段階において、作者によって(Carbon di-oxide to sugar)という部分は消され、それぞれ(コロナは八十三万二百……)、(コロナは八十三万四百……)、(コロナは七十七万五千……)、と書き換えられるのです。この推敲後の、(コロナは…)というフレーズは、童話「イーハトーボ農学校の春」において、「太陽マヂックのうた」として登場するものですね。
 ここで、'Carbon di-oxide to sugar'が、「太陽マヂックのうた」によって置き換えられたという事実には、その意味を考える上で重要なポイントがあると思うのですが、そのことについてはまた後で触れます。
 今日考えてみたいのは、'Carbon di-oxide to sugar'という言葉は、いったい何のことを言っているのかということです。

 岡澤敏男氏は『賢治歩行詩考』(未知谷)において、これについて次のように述べておられます。

 この<Carbon di-oxide to sugar>とは「炭酸ガスでお砂糖に」とでもいうのでしょうか。やっぱり科学者らしいお囃子です。どこか英国童謡『マザー・グウス』風*のリフレーンは、賢治流の小粋でナンセンスなリズム感をうかがわせます。

 そして脚注では、「炭酸ガスでお砂糖に」について次にように説明されています。

* 盛岡高等農林学校の農学科第二部在学当時の賢治が、砂糖精製の技法として炭酸ガス飽充法を学ぶ機会があったと思われます。子供たちの行進を励ます囃子言葉としては唐突な感じもしますが、マザー・グウスのもつ機智や軽快性とはどこか通じ合うものを感じさせます。これは豊かな化学的知識から生まれた童謡でした。炭酸ガスと砂糖の取り合わせの機智と軽快なリフレーンをみれば、すばらしい本歌取りといってよいでしょう。

 「炭酸ガス飽充法」というのは、私もまったく知らなかったのですが、上にあるようにサトウキビや甜菜(サトウダイコン)などから直接搾った、糖分を含んだ液(粗製製糖液)を、精製するための方法だそうです。
 サトウキビの搾り汁に石灰を加えて不純物を除き、それをそのまま加熱濃縮したものを固めると「黒砂糖」ができますが、石灰を加えた搾り汁にさらに炭酸ガスを吹き込んで、炭酸カルシウムとともに不純物を沈殿させて除去し煮詰めると、白い砂糖ができるのだそうです。
 賢治がこのような砂糖精製法を知っていて、'Carbon di-oxide to sugar'と表現したというのが、岡澤氏の説です。

 これは奥深く、たしかに「豊かな化学的知識」を前提とした解釈ですが、しかし私は以前から、この'Carbon di-oxide to sugar'というのは、植物による「光合成」のことを言っているのではないかと思っていたのです。

 葉緑素を持った植物は、太陽光のエネルギーを利用して、二酸化炭素(と水)から、ブドウ糖・果糖・蔗糖などの糖を作ります。これが光合成です。得られた糖類は、植物自身によってさらにデンプンなどにまで重合される場合もありますが、まず得られるのは、ブドウ糖、果糖などの単糖(C6H12O6)です。化学式で書くと、下のような反応ですね。

6CO2 + 12H2O → C6H12O6 + 6H2O + 6O2

 つまり、二酸化炭素(carbon di-oxide)が、糖(sugar)になるわけで、これこそが'Carbon di-oxide to sugar'ということではないかと思うのです。日本語に訳せば、「二酸化炭素を糖に!」です。
 高度な岡澤説に比べると、中学校の理科で習うような簡単な解釈でお恥ずかしいのですが、私がこう考える理由としては、当時の賢治が抱いていたと思われる「太陽礼賛」とも言うような感情との関連もあります。

 上にも挙げた「イーハトーボ農学校の春」という作品は、「太陽マヂックのうたはもう青ぞらいっぱい、ひっきりなしにごうごうごうごう鳴ってゐます。」という書き出しで始まり、少し後には次のような箇所もあります。

  (コロナは六十三万二百
   あゝきれいだ、まるでまっ赤な花火のやうだよ。)
 それはリシウムの紅焔でせう。ほんたうに光炎菩薩太陽マヂックの歌はそらにも地面にもちからいっぱい、日光の小さな小さな菫や橙や赤の波といっしょに一生けん命に鳴ってゐます。カイロ男爵だって早く上等の絹のフロックを着て明るいとこへ飛びだすがいいでせう。
 楊の木の中でも樺の木でも、またかれくさの地下茎でも、月光いろの甘い樹液がちらちらゆれだし、早い萱草やつめくさの芽にはもう黄金いろの小さな澱粉の粒がつうつう浮いたり沈んだりしてゐます。

 賢治自身も高ぶった気持ちを抑えられないような筆致でつづく文章には、まさに太陽を讃え、春を歓ぶ気持ちがあふれています。上の文中で、太陽を浴びた植物の中に「甘い樹液がちらちらゆれだし」という箇所や、「もう黄金いろの小さな澱粉の粒がつうつう浮いたり沈んだり」という箇所などは、光合成によって植物の中に糖やデンプンが産生されていることを、科学者賢治が詩的に描いているところでしょう。
 先にも述べたように、「小岩井農場」の「詩集印刷用原稿」という段階において、(Carbon di-oxide to sugar)という掛け声は、(コロナは八十三万二百……)などの「太陽マヂックのうた」に置き換えられるのですが、このことも、すでに'Carbon di-oxide to sugar'という言葉が、じつは太陽への讃歌であったことを表しているのではないでしょうか。

 二酸化炭素に水という無機物が、太陽光のエネルギーによって、糖類や炭水化物などの尊い有機物に変化する・・・これこそまさに「太陽マヂック」と言わずして、何と言いましょう!


 あと最後に、'Carbon di-oxide to sugar'という掛け声が、いつしか「太陽マヂックのうた」に変容した……どちらにも作者の同じような思いがこめられていた……という由緒から、二つの歌を重ねてみるというお遊びをしてみました。変な音楽ですので、ほんの冗談のつもりでお聴き下さい。
 'Carbon di-oxide to sugar'は「巡音ルカ」の英語歌唱、「太陽マヂックのうた」は Kaito です。

「光合成と太陽マヂックの二重唱」(MP3: 1.62MB)

 「小岩井農場」の「パート九」の終わり近くに、次のような有名な箇所があります。

  ちいさな自分を劃ることのできない
 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ
すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて
さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
この命題は可逆的にもまた正しく
わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
けれどもいくら恐ろしいといつても
それがほんたうならしかたない
さあはつきり眼をあいてたれにも見え
明確に物理学の法則にしたがふ
これら実在の現象のなかから
あたらしくまつすぐに起て

 賢治の典型的な世界観、そして世界に対する己の態度を表現したものとして、しばしば引用され論じられることも多い部分です。見田宗介氏は『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』において、これを「長詩のおわりの、思想的な結語のごとき個所」と呼んでおられます。
 それだけ重要と考えられてきた箇所ですが、今日ここで考えてみたいのは、下から3分の1あたりにある「この命題は可逆的にもまた正しく」という言葉の意味するところです。
 私は以前に、「《ヘッケル博士!》への呼びかけに関する私見」という記事において、この「可逆的」という言葉の意味を、「ほんらい生物学的には、種は自然選択によって適者生存の方向へ変化(=進化)し、個体は発生過程で未熟な段階から成熟した段階へと変化(=発生)していくが、賢治はその変化に「逆方向」もありうる、と言っている」のだと解してみましたが、その後もう少し詳しく考えてみると、上記の解釈は間違っていたのではないかと思うようになりました。
 そこで、あらためてきちんと考えてみようというのが、本日の趣旨です。

 まず問題は、「可逆的にも正しい」という言葉の意味です。これは圧縮した表現でやや寸詰まりになっていると思いますが、これをくだいて言い換えれば、(1)「この命題は可逆的(reversible)である」すなわち「この命題の[逆]も、一つの命題として成立する」という主張と、(2)「その[逆の命題]なるものも、また正しい」という主張と、二つのことを同時に言っているのだと思われます。
 そこで、この[逆の命題]とは何なのか、ということが次の問題になります。いくつかの考え方がありえます。

1.形式論理学的な「逆」

 論理学においては、「PならばQである(P⇒Q)」という命題があるとすると、「QならばPである(Q⇒P)」という命題のことを「逆命題」と呼びます。ちなみに、「PでないならばQでない(¬P⇒¬Q)」のことを「裏命題」、「QでないならばPでない(¬Q⇒¬P)」のことを「対偶命題」と呼びます。元の命題が真ならば、その対偶は必ず真になりますが、逆や裏は真とは限りません(「逆は必ずしも真ならず」)。
 たとえば、「地球は丸い」という命題は真ですが、その逆の「丸いものは地球である」という命題は偽です。ここで「地球は丸い」という命題の「逆命題」は何であるかということを考える際に、「地球は丸い」という元の命題を、「(物体xは地球である)ならば(物体xは丸い)」という形に、変項xを含んだ表現に分解してみるとわかりやすくなります。この形式ならば、その逆命題は「(物体xは丸い)ならば(物体xは地球である)」となることは明らかであり、それは「丸いものは地球である」と言い換えられます。

 以上を前置きとして、このような形式論理学によって、賢治が提出した命題の「逆」を考えてみます。
 ここで「元の命題」は、上の引用において「この命題は可逆的にもまた正しく」の前行までの部分になります。その内容を要約すれば、「ある宗教情操→恋愛→性慾」という、さまざまな「個体間相互作用」とでも言うべき活動の「漸移」があって、その漸移のなかの種々の過程に対応して、「さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある」のだ、ということになるでしょうか。
 ここで想定されている「さまざまな生物の種類」とは、賢治にとっては仏教的な「十界」だったと思われますから、図示すると、下のようになります。とりあえず、「ある宗教情操」には「菩薩」、「恋愛」には「人」、「性慾」には「畜生」を対応させています。

元の命題(1)

 さて、これは複雑な命題なので、やはり上の「地球は丸い」のように、変項を含んだ命題に書き直してみると、次のようになります。

(個体xが、Aという個体間相互作用を示す)ならば、(個体xは、Bという生物種に属する)

 ここで、「個体間相互作用」と呼んでいるものの内容としては、恋愛と性慾の中間的な形態や、恋愛に少しだけ宗教情操の混じったものなど、さまざまな段階のものがありえるでしょうが、系列の中のどの段階にあるかによって、生物の種類が決まるというのです。

 元の命題が上記であれば、その逆命題は、次のようになります。

(個体xが、Bという生物種に属する)ならば、(個体xは、Aという個体間相互作用を示す)

 生物種の方から、個体間相互作用が一意的に決定するというのです。これを図示すれば、下のようになります。

逆の命題(1)

 さてこれが、はたして賢治の言いたかったことでしょうか。ちょっと私にはそうは思えません。
 上記の「元の命題」と「逆命題」がどちらも正しいということは、生物種と個体間相互作用の間には、固定した「一対一対応」の関係があることを意味します。たとえば、人間には「恋愛関係」しかありえないし、逆に「恋愛関係」を持つ生物は人間だけである、ということになります。これでは、現実にも合いませんし、これを賢治が「わたくしにはあんまり恐ろしいことだ」と言うとも思えません。
 実際、「恋愛」はかなり人間的な営みではあるでしょうが、人はもっと即物的な「性慾」にとらわれた行動をすることもありえますし、また一方で時には凡夫も「正しいねがひに燃えて/じぶんとひとと万象といっしょに/至上福祉にいたらうとする」こともあるでしょう。また、動物のカップルが、性慾のためだけでなく相手のことを思いやる行動をとる(ように見える)こともあるでしょう。このように、どの「界」にも他の「界」の特性が一部備わっているという考えが、賢治も信じていたはずの「十界互具」という思想です。

 結局ここで考えてみた事柄は、常識的な観念とも、賢治の思想とも異なっています。すなわち、形式論理学的な解釈では、この箇所は理解できないようです。

2.唯物論的解釈としての「逆」

 ちなみに、「小岩井農場」のこの箇所について、吉本隆明氏は、次のように述べておられます(「喩法・段階・原型」:『宮沢賢治』所収)。

 宗教から恋愛へ、そして性慾へと連続して流れてゆく情操と願望のうつりかわり(変態)という理念は、宮沢賢治の生涯の理念であるとともに、生涯によってじっさいに演じられたドラマだった。この考え方はふつう倒さだ。人間の身体の生理的なうつりゆきの必然的な過程で、性慾がきざし、さかんになり、思春期にはいって、ひとりの異性をもとめる願望に結晶してゆく。この願望がうまく遂げられず、そのあげく宗教的な自己救済や人間救済の願いを持つようになる。そんな過程はありうる。だがこの逆はない。宮沢賢治がスケッチャーとしてここで展開している考え方は、逆だった。これはただの詩的修辞とみなさないとすれば、宮沢賢治の生涯の謎を理念化したものだといえる。

 吉本氏が賢治の考えに対して、「この考え方はふつう倒さだ」「宮沢賢治がスケッチャーとしてここで展開している考え方は、逆だった」と評する時、そのはるか背後には、マルクスが「ヘーゲルの弁証法は倒さに立っている」と断じたことが、かすかに連想されていたのではないかと、私は勝手に想像します。いずれにしても、吉本氏が指摘するとおり、一般には、性慾が昇華されて恋愛感情になり、「愛」の感情がより普遍化される時、一つの宗教情操が生まれるという方が、よくある考え方でしょう。
 賢治の命題はその逆なわけですが、これをマルクスがヘーゲルを逆転させたように、もう一度倒さにすることで、「逆の命題」を得ることができます。それは、上にも述べたように、「性慾が昇華されて恋愛になり、愛が普遍化されて宗教情操になる」という命題であり、いわば唯物論的な立場からの宗教の解釈です。

 これが、賢治の言う「この命題は可逆的にもまた正しく」ということの意味するところかもしれません。もしも、賢治が全存在をかけて信仰する宗教情操が、もとをたどれば性慾の昇華されたものにすぎないとすれば、それが「わたくしにはあんまり恐ろしいこと」と感じられるのも、無理もないでしょう。
 これは一つの仮説として成立すると思いますが、しいて難点を挙げるとすれば、以下のようなことが考えられます。
 その一つは、作品テキストでは上で論点となった「宗教情操→恋愛→性慾」という記述の後に、「すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて/さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある」という2行があり、その次に「この命題は可逆的にもまた正しく」という一節が来るという配列の順序です。ごく素直に読めば、「この命題」という言葉は、その直前の内容を指しているように感じられ、「宗教情操→恋愛→性慾」の部分であると解釈するためには、少しだけ飛躍しなければなりません。
 もう一つの難点は、賢治の世界観との関係です。私が理解するところでは、当時も賢治が考えていたのは、「宗教と科学はいずれ一体化する」というようなことだと思うのですが、上記のような理解に立つと、宗教と科学は、融合するような関係ではなくて、「逆」すなわち対立関係になってしまいます。

 したがって私としては、この仮説も棄却したい感じがします。

3.変態の起こる領域の「逆」

 最後に考えてみるのは、1.の変形とも言えるもので、1.のように元の命題を論理的な「逆命題」にするのではなく、意味内容を生かして一部だけを入れ替えるものです。「逆にする」理屈として厳密さには劣りますが、より現実的ではあると思います。

 これに関しては、図を見ていただくのが早いでしょう。まず、テキストにある「元の命題」が下記です。

元の命題(2)

 次に、上下を入れ替えた「逆」の命題が、下記です。

逆命題(2)

 すなわち、すべての生き物は、その行動や心の持ちよう、あるいは信仰のあり方によっては、十界のうちの上位の段階から下位の段階に「堕ちて」しまうこともあるのだというのです。
 この現象は、仏教における「輪廻転生」のことと解釈することができます。「ねがひから砕けまたは疲れ」たり、あるいは「むりにもごまかし得やうとする」と、生物は下位の段階に輪廻転生してしまうことになり、これは賢治にとって、「あんまり恐ろしいことだ」と感じられるのも当然でしょう。

 もっともこの図にあるように、仏教的には「菩薩」の段階にある存在が本当に下に「堕ちて」しまうということはないのでしょうから、これは図式化することの限界に由来する誤差と言うべきかと思います。
 ただし、「小岩井農場」とちょうど同じ1922年5月21日の日付を持つ作品「〔堅い瓔珞はまっすぐ下に垂れます〕」の中には、「ねがひから砕け」堕ちるのではなく、「願ひによって堕ち」る人のことが出てきます。

こんなことを今あなたに云ったのは
あなたが堕ちないためにでなく
堕ちるために又泳ぎ切るためにです。
誰でもみんな見るのですし また
いちばん強い人たちは願ひによって堕ち
次いで人人と一諸に飛騰しますから。

 ここに登場する「いちばん強い人たち」とは、まさに「菩薩」のことなのでしょう。これより前の箇所では、「天人が堕ちる」ことについて記され、また上のように「あなたが堕ちる」ことについても書かれていて、この項の意味での「逆命題」が、生き物が「堕ちる」ことについて示唆していることとつながるようです。

 というわけで、上記のように同日付作品との関連性からも、私としてはこの3.の解釈が、もっとも妥当なのではないかと思うところです。
 と言うか、このように考えてみることによって、同日付に書かれた「小岩井農場」と「〔堅い瓔珞はまっすぐ下に垂れます〕」というかなり印象の違う二作品の関係が、浮かび上がってくるように思えるのです。

熊野観心十界曼陀羅
熊野観心十界曼陀羅

制御しないという思想

 先月に私は、「悩みの果てに「いゝこと」と感じる」という変な題名のエントリにおいて、「小岩井農場」や「薤露青」に表れた賢治の思いを、「逆説的で不思議な感情」あるいは「珍しい感じ方」と書きました。
 しかし、あらためてゆっくり考えてみると、私自身の奥底にも、この「感じ方」に何となく共鳴できる部分があるんですね。ひょっとしてこれは、さほど「逆説的」で「珍しい」感情ではなくて、どこか人間にとって普遍的な性質も帯びているのではないかとも思ったのですが、皆さんはいかがお感じでしょうか。
 とりあえず、それについて考えてみるのが今回の趣旨です。

 まず、先日の当該記事で引用した作品部分を再掲しておきます。
 一つは、『春と修羅』の「小岩井農場」「パート一」で、賢治が小岩井駅で汽車を降りた後、農場まで馬車に乗ろうかどうしようかと迷う箇所です。

これはあるひは客馬車だ
どうも農場のらしくない
わたくしにも乗れといへばいい
馭者がよこから呼べばいい
乗らなくたつていゝのだが
これから五里もあるくのだし
くらかけ山の下あたりで
ゆつくり時間もほしいのだ
(中略)
そこでゆつくりとどまるために
本部まででも乗つた方がいい
今日ならわたくしだつて
馬車に乗れないわけではない
 (あいまいな思惟の蛍光
  きつといつでもかうなのだ)
もう馬車がうごいてゐる
 (これがじつにいゝことだ
  どうしやうか考へてゐるひまに
  それが過ぎて滅くなるといふこと)

 結局、賢治があれこれ考えているうちに馬車は動き出してしまって、乗ることはできなかったのですが、賢治はここで残念がったりすることもなく、「これがじつにいゝことだ」と受け容れるのです。

 そしてもう一つは、「春と修羅 第二集」の「薤露青」です。

声のいゝ製糸場の工女たちが
わたくしをあざけるやうに歌って行けば
そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が
たしかに二つも入ってゐる
(中略)
   ……あゝ いとしくおもふものが
      そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
      なんといふいゝことだらう……

 前年には、亡くなった妹を追うようにサハリンまで旅をして、妹がどこへ行ったのかを知ろうと必死になっていた賢治ですが、上の作品では、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」と述べます。

 この二つに共通しているのは、自分の「意思」がかなえられず、それを越えたところで物事が進んでいってしまう時、それを不本意とせず、「いゝこと」として肯定しているところです。
 人間というのはある種の「能動性」を持っていて、自らの意思で世界に関わり、それを操作・制御しようとする側面があるでしょう。そして、そのような活動が挫折させられた時には、多少なりともフラストレーションを感じるのが通例だと思うのですが、ここで賢治が表現しているのは、そのような系列とは、また別の感性であるようです。


 ここで、分野はまったく離れてしまいますが、立岩真也という社会学者の述べておられるところを、少し引用させていただきます。立岩真也氏は、生命倫理の領域を中心にラディカルな思索を展開しておられる方で、偶然にも私と同年生まれであるにもかかわらず、その著作はいずれも圧巻です。

 私的所有論  私的所有論
 立岩 真也

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 上の『私的所有論』という著書の中で立岩氏は、ハリスというイギリスの哲学者・倫理学者が提示した「サバイバル・ロッタリー」という思考実験を紹介しています。

 すべての人に一種の抽選番号(ロッタリー・ナンバー)を与えておく。医師が臓器移植をすれば助かる二、三人の瀕死の人をかかえているのに、適当な臓器が「自然」死によっては入手できない場合には、医師はいつでもセントラル・コンピューターに適当な臓器移植提供者の供給を依頼することができる。するとコンピューターはアト・ランダムに一人の適当な提供者のナンバーをはじき出し、選ばれた者は他の二人ないし、それ以上の者の生命を救うべく殺される。

 まるで冷え冷えとした近未来SFを思わせるような設定ですが、多くの人は、このようなやり方には強い抵抗感を覚えるでしょう。しかし、それはなぜなのでしょうか?
 「最大多数の最大幸福」を善とする「功利主義」の立場からは、1人が犠牲になっても何人かの生命が救われるならば、この方法が正当化されることになります。しかし私たちはなぜか、それを実行しません。
 かりに他の惑星の知的生命体から見ると、私たち地球人は臓器移植の技術を持っているにもかかわらず、何らかの「感情」のために上のような方法を実施しないことによって、医学的には救えるはずの生命を見殺しにしているわけです。彼らは私たちのことを、何と残酷な生命体だ、と思うかもしれません。
 しかし私たちは、彼らにどのように説明すれば、私たちの気持ちをわかってもらえるでしょう?

 Wikipedia の「臓器くじ」という項には、この「サバイバル・ロッタリー」に対して想定される様々な反論と、またそれに対する再反論が掲載されています。
 そこに書かれているもの以外では例えば、「これは神の領域を侵すことになるから認められない」という意見もあるでしょう。しかし、これまでにも「人工授精」や「遺伝子組み換え」など他の多くの技術が、最初は「神の領域の侵犯」と非難されながらも、しばらくすると普通に実施されるようになりました。「サバイバル・ロッタリー」は、これらと何が違うのでしょうか?
 また私たちは、目的は何であれ、単に「人を殺す」ということに抵抗感があるために、「サバイバル・ロッタリー」を認めたくないのかもしれません。では、どこかの映画にあったように、親が我が子に臓器提供するために「自殺」するというのならどうでしょうか。この場合も私たちの多くは、これを「美談」とは見なさずに、自殺しようとする親を止めようとすると思いますが、その理由は何なのでしょうか?

 立岩真也氏は上掲書において、「サバイバル・ロッタリー」に対する様々な「反論」を詳細に検討し、そしてこれまで一般に出されている論点だけでは、私たちが抱く抵抗感を説明しきれないことを、明らかにします。そして、次のような新たな考え方を提示します。

 私が制御できないもの、精確には私が制御しないものを、「他者」と言うとしよう。その他者は私との違いによって規定される存在ではない。それはただ私ではないもの、私が制御しないものとして在る。私達はこのような意味での他者性を奪ってはならないと考えているのではないか。
(中略)
 もっと積極的に言えば、人は、決定しないこと、制御しないことを肯定したいのだ。人は、他者が存在することを認めたいのだと、他者をできる限り決定しない方が私にとってよいのだという感覚を持っているのだと考えたらどうか。自己が制御しないことに積極的な価値を認める、あるいは私達の価値によって測ることをしないことに積極的な価値を認める、そのような部分が私達にあると思う。自己は結局のところ自己の中でしか生きていけない。しかし、その自己がその自己であることを断念する。単に私の及ぶ範囲を断念するのではない。それは別言すれば、他者を「他者」として存在させるということである。自己によって制御不可能であるがゆえに、私達は世界、他者を享受するのではないか。また、制御可能であるとしても、制御しないことにおいて、他者は享受される存在として存在するのではないか。(p.105)

 上のような考え方は、「制御すること・できること」に価値を置いてきた、西洋を中心とした近代の思想とは、まったく別の視点を与えてくれます。「制御すること」の価値に関しては、例えば立岩氏も引用しておられるのですが、フレッチャーというアメリカの思想家・倫理学者が、次のように述べています。

 人間たるということは、我々がすべてのことをコントロールの手中に置かなければならないということを意味する。このことが、倫理用語のアルファでありオメガである。選択のないところには、倫理的行為の可能性は存在しない。我々が強いられて余儀なく行為することは、すべて非倫理的で道徳とは無関係(amoral)なことである。(「遺伝子操作の倫理学的側面」, 1971)

 むろん立岩氏は、上のように「すべてのことをコントロールの手中に」置こうとする人間の性質を、毫も否定しているわけではありません。ただ、人間の感性は、それとは逆の価値に対しても開かれているのではないか、ということを述べているのです。

 生命などというたいそうなものについてだけではない。思想・信条を取り下げさせられることや、制服を着ないことや、髭を生やすことをあきらめさせられることを認めないこともまた同じである。それらを奪おうとしないのは、髭を生やすことが何かすばらしいことだから、その人の何かもっともな理由によって選択されたことだからではなく、その人の何かの役に立つというのではないその人の生の様式が許容されるべきだと私達が考えているからではないか。
 そのような価値を私達は持っており、多分失うことはないと思う。人は、操作しない部分を残しておこうとするだろう。それは、人間に対する操作が進展していく間にも、あるいはその後にも残るだろう。それは全く素朴な理由からで、他者があることは快楽だと考えるからである。(p.115)

 立岩氏の著書では、このような視点をもとに、さらに「能力主義」や「優生学」の検討に進むのですが、その続きは、上掲書そのものを読んでいただくことにしましょう。
 それにしても、立岩氏の論を読んだ時、私は目からうろこが落ちる思いがしたものでした。思えば、人が誰かを愛するのも、相手が「私が制御できない他者」だからであり、この感情は得てして「相手を制御したい」という欲求と裏腹になりがちではあるものの、「制御できた」と感じた途端に、愛情が冷めるという人さえあるほどです。(この場合、本当は「相手を制御できる」という思い込みが間違いなのでしょうが。)
 あるいは、人から愛されることの喜びも、相手が「制御できない他者」であるからこそ、なのでしょうね。


 と、話がだんだん逸れていくので、この辺でそろそろ冒頭の賢治の話に戻らないといけませんが、上のようなことも考えてみた後でもう一度、「小岩井農場」や「薤露青」で賢治が「いゝこと」と感じた状況を見てみると、それはやはり自分が制御できない(あるいは制御しようとない)領域に、その対象があるという場面においてだったことがわかります。
 馬車に乗るか乗らないかを自分で選択できず、死んだ妹の行方を知ることができず、そのような状況は、「すべてのことをコントロールの手中に置かなければならない」と考える人にとってはフラストレーションでしかないでしょうが、賢治は、「いゝこと」と言うのです。
 これこそ、「(制御されない)他者があることを快楽だと考える」、立岩氏の論と一致した感覚ではないでしょうか。
 一見「逆説的な」「不思議な」感覚に見える賢治の反応を、このような大きな枠組みから見ることもできるのではないかと、私は思ったのでした。


 あと、蛇足かもしれませんが、もう一歩だけ進めてみます。立岩氏も、上のような考え方を「「文化」の差異や独自性にも還元する必要もない」と述べておられますが(具体的には、「西洋的」なものと「東洋的」なものの対比として論じることには問題もあると指摘しておられますが)、ここで私としてどうしても連想してしまうのは、浄土真宗の開祖・親鸞における、「自力」よりも「他力」に焦点を当てた思想です。

 念仏は、行者のために、非行非善なり。
 わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに、他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには、非行非善なりと云々。(『歎異抄』第八条)

 自分自身で何か善いことをしようとさかしらに考えるよりも、阿弥陀如来の本願にすべてを任せてしまう方がよいという考えは、法然や親鸞の当時の日本人にとっても、「逆説的」なものだったでしょう。しかし同時に、大いなる「安心」を与えてくれる教えとして、鎌倉時代の人々の間に爆発的に広まりました。
 現代においても親鸞の思想は広く受容されていますが、その要素の一つとして、これが人間の中にある「制御しない(できない)ことの快」(立岩)という感覚を、見事に射抜いてくれるということがあるからなのではないかと、私のような不信心者には思えたりもします。

 そして、賢治の場合も、そのような「快」を感じていたのかもしれません。すでに「小岩井農場」に現れていることから明らかなように、賢治が、制御・操作できないことを「いゝこと」と言明したのは、トシの死の後の苦悩よりも以前からのことでした。
 ひょっとしたらこのような彼の感覚の基盤には、幼い頃から親しんでいた浄土真宗の教えも、どこか関与しているのではないかと、私は思ったりもしてみるのです。

歎異抄(蓮如書写本)

「どろの木」と「銀どろ」(2)

 前回は、日本在来種の「どろの木」と、明治中期の外来種である「銀どろ」とは、ひとまず別の種であることを確認するとともに、このたび韮崎市に植樹された「銀どろ」の木の標柱には、「「ぎんどろ」の木/別名 どろの木」と記されていることから、「どろの木」という概念には、狭義と広義の2つの用法があるのだろうかと推測しました。この場合、狭義では日本古来の在来種の「どろの木」のみを指すのに対して、広義ではそれに加えて、「銀どろ」も含む呼称として用いられるのだと考えれば、いちおう辻褄が合います。

 ちなみに、保阪嘉内が『アザリア』掲載の短歌で用いた言葉は、「どろの木」の方だけでした。 他に、保阪庸夫・小澤俊郎著『宮澤賢治 友への手紙』に掲載されている資料を見るかぎりでも、嘉内が「銀どろ」という語を用いている例は、見つけられませんでした。


 で、今回は、嘉内の用例をもう少し詳しく見ておきます。まず、『アザリア』第二輯には、嘉内の次の短歌が掲載されています。

どろの木のあんまり光る葉をよけんと引きしカーテンに青空が透く

 これは、盛岡高等農林学校の、寮の窓辺での情景でしょうか。カーテンを引いて光をよけなければならないほど、どろの木の葉が「あんまり光る」というところが、何より印象的です。ここで推測されることとして、これほどまで葉が光っていたとすると、嘉内が見ていたのは在来種の(狭義の)「どろの木」ではなくて、外来種の「銀どろ」だったのではないでしょうか。
 前回の表にまとめてみたように、狭義の「どろの木」の葉の裏にも、「樹脂を分泌するため白っぽい光沢」はあるようで、たとえばこちらのページの一番下の写真のような感じです。しかしこれは、カーテンで遮光しなければならないほどまぶしく光るという様子ではありません。
 一方、「銀どろ」の方は、こちらのページにあるように、葉の裏には綿毛が密生していて、「日の光を浴びるとまばゆいばかりの輝きを見せる」というのです。
 すなわち、ここで嘉内が「銀どろ」のことを「どろの木」と表現したとすれば、前回の分類で言えば、嘉内は「どろの木」という言葉を「広義」で用いていた、ということになります。
 ですから、今回植樹された「銀どろ」の標柱に、「「ぎんどろ」の木/別名 どろの木」と記されたことは、「嘉内的」には妥当だったのかもしれません。

 次に、『アザリア』第一号に掲載された、やはり嘉内作の「六月草原篇」という連作短歌十首を見てみます。

   六月草原篇                 嘉内

六月のこの草原の艸々はギヤマン色す、笑ひたくなる
六月のこの草原に立ちたれば足の底よりかゆき心地す
どろの木は三本立ちて鈍銀(にぶぎん)の空に向へり 女はたらき
三本のどろの木に出て幹に入る鈍銀の空鈍銀の空
にぶぎんの空のまんなかに猫が居る、悲しき猫よ眼をつむりたる
Taraxacum Vulgare などといふ花のおほかた此の草のうちにあり
にりんさう、谷間をすべて埋めたり、まったく山を行く人もなし
広き野に羊を飼へる人を見る、細き羊の毛のとぶが見ゆ
農場の農夫はみんな昼深き睡に陥ちて湯ひとりたぎる
農場の農婦は草の上に寝る、毛虫一匹顔にかゝれど

 この連作の舞台がどこだったのかと考えてみると、「草原」があって、「羊を飼へる人」がいて、「農場の農夫」や「農場の農婦」がいる場所・・・となると、これは盛岡近郊では、「小岩井農場」をおいて他にはないでしょう。
 岡澤敏男著『賢治歩行詩考』によれば、小岩井農場に「育羊部」ができて羊の飼育が始まったのは、1903年(明治36年)頃のことで、その後1910年(明治43年)に育羊部は廃止され、羊の飼育管理は「耕耘部」に移管されたということです。嘉内が上の短歌を詠んだ1917年には、羊は耕耘部で飼われていたはずで、「どろの木」もその近くにあったのではないかと思われます。

 さて、今度は賢治の「春と修羅 第二集」の作品、「遠足統率」です。これは、1925年5月7日に、農学校教師の賢治が生徒たちの遠足を引率して小岩井農場を訪れた時のものですが、その最初の方には、次のような一節があります。

そこには四本巨きな白楊(ドロ)が
かがやかに日を分劃し
わづかに風にゆれながら
ぶつぶつ硫黄の粒を噴く

 そして最後の方には、

くらい羊舎のなかからは
顔ぢゅう針のささったやうな
巨きな犬がうなってくるし

という描写が出てきます。

 すなわちこの時、小岩井農場の「羊舎」からやはり遠くないところに、「四本の巨きな白楊(ドロ)」が立っていたというのです。
 嘉内が見た「三本のどろの木」と、数が一本違うのは気になるところですが、しかしどちらも羊の飼育場所の近くだったという共通点を考えると、これらは同じ木々のことだったのではないかと思えてきます。

 はたして賢治は、昔の嘉内の短歌のことを憶えていたのでしょうか。それはわかりませんが、いずれにしても8年もの歳月をへだてて、くしくも嘉内と賢治は、同じ「どろの木」を作品に描いたのではないでしょうか。
 そしてそのような経緯を思えば、今回韮崎市において「保阪嘉内・宮沢賢治花園農村の碑」の傍らに植樹された「銀どろ」の若木が、他ならぬ「小岩井農場」から寄贈されたたものであったことは、2人の不思議な縁を、まさに象徴するようです。
 これらの作品において嘉内が「どろの木」と呼び、賢治が「白楊(ドロ)」と記したのが、上に述べた「狭義のどろの木」なのか、広義のそれなのかはわかりませんが、もしも嘉内の『アザリア』第二輯の短歌のようにこれも「銀どろ」だったのならば、今回の記念行事に寄贈された木は、賢治と嘉内が小岩井農場で見た木の、はるかな子孫である可能性さえ、なきにしもあらずということになります。

 思えば今年は、嘉内が小岩井農場において「どろの木」の短歌を詠んでから、90周年にあたる年です。

黒沢尻南高校にあった賢治寄贈の「銀どろ」の木
黒沢尻南高校(当時)にあった賢治寄贈の「銀どろ」

 今日は午後1時からNHKのBS2で、「体感☆いわて 宮沢賢治が愛した理想郷(イーハトーブ)」という生放送の番組がありました。賢治の人となりを紹介するとともにゆかりの地を訪ね、岩手の美しい自然を体験する、というような企画です。
 スタジオのゲストとして、映画監督の山本晋也さん、盛岡出身のタレント山川恵里佳さんとともに、イーハトーブ館の牛崎敏哉さんが出演しておられて、牛崎さんは賢治に関していろいろ奥深い解説をする役どころでした。

 番組の内容は、小岩井農場や狼森あたりを歩く「雫石と賢治を語る会」のメンバーの中継、花巻農業高校にある「賢治先生の家」(羅須地人協会の建物=下写真)からの中継、スタジオにさまざなま賢治愛好家(「ケンジスト」と呼ばれる)を招いてのお話、などでした。
 その「ケンジスト」の一人としては、先月にその画廊を訪ねさせていただいた滝田恒男さんも出演し、たくさんの絵が紹介されていました。滝田さんの絵は「味がある」と、山本晋也監督もベタぼめです。

 それにしても今日の岩手県はとてもよい天気で、岩手山の姿も美しく空に映えていました。

体感☆いわて 宮沢賢治が愛した理想郷(イーハトーブ)

「小岩井農場」詩碑アップ

 先日、JR小岩井駅前で見てきた「小岩井農場」詩碑を、「石碑の部屋」にアップしました。新たな碑のアップは、去年の連休に訪れた「丹藤川」碑以来、1年ぶりです。


 ところで、今回の詩碑に刻まれたテキストの直前には、下記のように小岩井駅前の風景が描かれています。

JR小岩井駅つつましく肩をすぼめた停車場と
新開地風の飲食店
ガラス障子はありふれてでこぼこ
わらじや sun-maid のから凾や
夏みかんのあかるいにほひ

 当時の面影を残していると言われる小岩井駅のかわいらしい駅舎(右写真)は、今も「つつましく肩をすぼめた」ように見える気もします。

 また、駅前の商店は、現在は下の写真のようになっています。

小岩井駅前の商店

 「新開地風の飲食店」とあるのは、小岩井駅の開業とともに工藤政治という人が開いた、「工藤商店」という飲食店だったようです(岡澤敏男著『賢治歩行詩考』より)。上の写真で右から2軒目は、現在「工藤輪店」という自転車店になっていますが、ご子孫のお店でしょうか。

 ちなみに、森荘已池著『ふれあいの人々 宮澤賢治』には、若き日の森荘已池氏が賢治に誘われて、一緒に小岩井農場に行った時のおもしろい逸話が収められています。夕方にふらっと森の家にやって来た賢治は、突然「小岩井農場に行ってみましょう」と言い、二人は急いで盛岡を発ちました。
 以下、森荘已池の記述です。

 小岩井駅に降りると、あたりはもう暗かった。「何か食べましょうか」と賢治は言った。が、駅前には数軒の家があるだけ。角から四、五軒目が「ソバ屋兼飲み屋」で、たった一軒明るくて、ガヤガヤ騒ぐ声がしていた。
 私たちがソバを二ぜん食べる間、木こりか、イカダ流しのような労働者風・田舎風の人たちは、ぴたっと、ものを言わなくなった。あんなにガヤガヤしていた人たちが、全く無言になった。私は変にこわくなって、おかわりのソバが、やっとノドをおりた。
 賢治がお金を払って、ふたり外に出ると、飲み屋の中はまたガヤガヤとにぎやかになった。

 店から出ると賢治は、二人が店にいる間、なぜ周囲の人たちが声をひそめていたのかという不思議の原因について、謎解きをしてみせます。というのは、森が何度も自分に対して「賢治さん」と呼びかけて話していたので、人々は「検事」が店にやってきたのかと勘違いして、警戒していたのではないかというのです。
 この時の「ソバ屋」というのが、「工藤商店」だったのでしょうね。「春谷暁臥」(「春と修羅 第二集」)という作品が書かれた、夜の徒歩旅行の際のエピソードです。


 さて、「小岩井農場」のテキストに戻ります。前記の「飲食店」の描写の後に、「わらじや sun-maid のから凾や/夏みかんのあかるいにほひ」とありますが、また岡澤氏の調査を参照すると、これは当時駅前に田沼春松という人が開いた「田沼商店」という食品・雑貨店のことだそうです。上の写真で、左端のスーパーは「キャメルマートたぬま」というお店で、こちらも80年以上前と同じ名字を冠した店舗で、現在も食品や雑貨を売っておられるわけですね。

 ところで、ここに出てくる「sun-maid のから凾」というのは一見すると何のことかわかりませんが、この‘sun-maid’というのは、カリフォルニアにある大規模な干しぶどうの製造販売会社の名称で、同社製の干しぶどうの空き箱が、田沼商店に置かれていたのでしょう。

SUN-MAIDロゴ SUN-MAID 社のサイトによれば、同社は1912年に‘California Associated Raisin Company’として創業し、1915年(大正4年)に‘SUN-MAID’という商標(右写真)を用い始めています。
 「小岩井農場」が書かれたのは、その登場からわずか7年後ですから、当時こんな片田舎で、アメリカ輸入のハイカラな乾燥果物が売られていたというのは、ちょっとした驚きです。さすがに、牛乳やパターも作る大規模な西洋式農場のお膝元、というところでしょうか。
 また、それを目ざとく見つけて書きとめているところも、いかにも賢治らしい感じですね。
 SUN-MAID(=太陽の乙女)のキャラクター図案は、公募によって1916年から用いられているとのことで、下の画像は1921年、すなわち「小岩井農場」が書かれた前年に同社から発行された、「干しぶどう」を使ったレシピ集の小冊子です。現在とほとんど変わらない乙女の姿で、このような絵柄が、賢治の見た「から凾」にも描かれていたのでしょうか。

SUN-MAID社1921年小冊子

 なお、加倉井厚夫さんの「賢治の事務所」の中の「駅玄関付近から駅前の町並みを見る」というページには、小岩井駅前のわかりやすいパノラマ写真も掲載されていますので、ご参照ください。

花巻へ

5月3日スポーツ紙

 スポーツ新聞の並ぶ新幹線ホームから10時06分に「のぞみ」に乗り込んで、お昼すぎに東京で乗り換え、新花巻駅はいったん通り過ぎて、盛岡から田沢湖線経由で小岩井駅に降りたのは、午後4時すぎでした。車中では本ばかり読んでいたのですが、窓の外はほんとうによい天気です。

 今日まず小岩井駅までやって来たのは、先日もここに書いたように、つい10日ほど前にこの駅前に新たな賢治詩碑ができたからです。
「小岩井農場」詩碑 賢治が「つつましく肩をすぼめた停車場」と書いた駅舎を出ると、すぐ目の前に詩碑は建っていました。右写真は、碑面に小岩井駅舎の写りこんだ詩碑の様子です。

汽車からおりたひとたちは
さつきたくさんあつたのだが
みんな丘かげの茶褐部落や
繋(つなぎ)あたりへ往くらしい
西にまがつて見えなくなつた

 『春と修羅』の「小岩井農場」からとられた碑文は、1922年5月21日の昼前にこの駅を降りた人々の動向を描いています。この碑は、今年の「賢治生誕110周年」を記念して、「小岩井自治会」と「まちづくり推進委員会」が建立したということですね。
 この作品の詩碑は、農場そのものの中に建てられた碑に続いて、二つめだと思います。

 駅前の景色は、おそらく当時の面影もなく変わってしまっているのだろうと思いますが、岡澤敏男『賢治歩行詩考』によれば、現在の商店街にある「キャメルマートたぬま」や「工藤輪店」などは、昔の伝統を引き継いでいるようです。
 このあたりの事柄については、今日撮った写真とともに、またいずれご紹介したいと思います。

 田沢湖線上り列車までの時間は20分ほどでしたので、あとは駅の跨線橋から岩手山の姿を撮影して、また16時38分に盛岡行きの列車に乗りました。このあたりは、これまでも何度か訪れていますが、私としては今までで最もきれいに岩手山の姿を見ることができました。

小岩井駅から岩手山

 盛岡から東北本線で花巻に引き返し、ホテルに荷物を下ろすと、夜の食事には「風耿」というお店へ行きました。
 この「風耿」というのは、「菊花品評会」句碑のページにも書いたように、宮澤賢治が生前に使っていた「俳号」の一つです。

風耿「浜焼きコース」 賢治生家にもほど近い双葉町で、「海旬野趣料理」という看板を掲げているこの店は、全国の地酒や焼酎、エーデルワイン、各種一品料理とともに、三陸産の海の幸を各自が炭火で焼きながら食べるという「浜焼き」コース(右写真)を売りにしています。とりわけ、サザエ、ホッキ貝、ホタテ貝、ハマグリ、牡蠣などの貝類が豊富で、「貝好き」の方にはこたえられないでしょうね。
 左手前の桶の中にあるのは、「風耿」というオリジナルブランドの付いた生酒です。久しぶりにいただいたエーデルワインでは、2年前の大迫町のことも思い出しました。
 また座敷席の壁には、宮澤清六さんの揮毫による「原体剣舞連」の一節の色紙も飾られています。

「原体剣舞連」より

小岩井駅に賢治詩碑

 JR田沢湖線小岩井駅の前に、「小岩井農場」の一節を刻んだ詩碑が建立され、昨日その除幕式が行われたということです。
 こちらのページからは、IBC岩手放送によるそのニュースが見られます。右上の方にある ムービー というところをクリックすれば、TVニュースの映像も視聴できるようになっています。
 その映像から見ると、今回詩碑に刻まれたテキストは、「小岩井農場・パート一」内の

汽車からおりたひとたちは
さつきたくさんあつたのだが
みんな丘かげの茶褐部落や
繋(つなぎ)あたりへ往くらしい
西にまがつて見えなくなつた

という箇所のようですね。

 新たな賢治詩碑の誕生はちょっと久しぶりだと思いますが(「敗れし少年の歌へる」以来かな?)、私にとっては今度の連休の課題がまた一つできてしまいました。

 ついでに、最近の賢治関係のニュースを振り返ると、次のようなものが個人的に気になっています。