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賢治の誕生日

 賢治は明治二十九年八月二十七日に岩手県花巻町で生まれた。戸籍は八月一日生まれとなっているが、明らかに記載の誤りである。
 これは彼が誤られはじめた第一歩であって、将来も誤り伝えられる運命を暗示しているかのようである。(宮澤清六「兄賢治の生涯」, ちくま文庫『兄のトランク』所収)

 これは、弟清六氏による賢治の伝記の書き出しの部分です。「将来も誤り伝えられる運命」という言葉には、兄の最大の理解者たることを自負し、世の中における賢治受容の実態に対しておそらく悲憤も感じた清六氏の、心の声が現れているようでもあります。
 しかしそれほどまでに賢治は「誤り伝えられ」てきたのか、そしてそれは具体的にはどういう点においてだったのでしょうか。今は亡き清六氏に、あらためて聴いてみたい思いにかられますが、賢治についてのブログなど綴っている私のような者としては、もって自戒の言葉とせねばと感じます。
 ちなみに、上記の清六氏の文章は、「昭和39年、岩崎書店版『宮沢賢治童話全集第七巻』所載「兄、賢治の一生」から取捨して筑摩書房刊『宮沢賢治研究』(1969年8月)に発表し、思潮社刊『現代詩読本12 宮沢賢治』(1979年12月)に収めるに際しさらに加筆したものである」とのことです。

 ところで、上記の引用で「岩手県花巻町に生まれた」と書かれている部分は、多少の問題をはらんでます。もしも賢治が生まれた当時の行政区分名で書くならば「岩手県里川口町で生まれた」となるはずですし、清六氏が伝記を書いた時点の行政区分名で書くならば「岩手県花巻市で生まれた」となるはずなのですが、なぜか「花巻町」という、その中間の一時代に存在した行政区分名で表記している理由は、よくわかりません(「賢治の出生地住所」参照)。
 しかしそれはさておき、今回考えてみたいのは、出生地ではなく「誕生日」の問題についてです。

 清六氏も指摘しておられるように、賢治の誕生日は、戸籍には「八月一日」と記載されているということです。
 下の文書は、賢治が1921年(大正10年)12月に稗貫農学校に就職するにあたって提出した自筆(大正十年分以降は学校当局による加筆)の「履歴書」です。

宮澤賢治履歴書

 これを見ても、生前の賢治自身が、自分は「八月一日生まれ」と考えていたことがわかります。
 賢治の死後も、1934年刊草野心平編『宮沢賢治追悼』巻頭の「宮沢賢治略歴」、1939年十字屋版『宮沢賢治全集』別巻の「宮沢賢治年譜」、1942年冨山房刊『宮沢賢治』(佐藤隆房著)収録の「宮沢賢治年譜」(宮沢清六編)、これらいずれにおいても、賢治の出生日は「8月1日」とされていました。

 そこに、戦後になって新たな見解を提出したのが、小倉豊文氏の「二つの『誕生』」(『四次元』1950年10月号)という文章でした。そこには、次のように書かれています。

 第一は賢治の生れた日である。これは、私もかねがね疑問にしていた所であるが、最近、令弟清六さんから可成確実な推定の結果を承ることができたから紹介しておく。それによると、「八月一日」という誕生日は「八月二十七日」と訂正さるべきであるというのである。
 何故こうした訂正を行わねばならなくなつたかというと、明治二十九年八月三十一日に東北地方に大地震が起つた。この地震は岩手秋田の県境に近い岩手県和賀郡沢内村の真昼嶽の断層からおこつた所謂断層地震で、被害は秋田県の方がひどかつたが、花巻の町でも数軒の家が崩壊した位の激震であつた。この時には賢治はすでに生れていた。ところが、この日は旧七月二十三日で、それから十日乃至一週間前の七月十三日から十五日―即ち旧の盂蘭盆会―には、まだ賢治は生れて居なかつた。これは父君政次郎翁のたしかな記憶なのである。(政次郎氏の仏教篤信と博覧強記は実に驚くべきものである。) この年の盂蘭盆会は太陽暦の八月二十一日から二十三日になる。そこで問題が提起された訳なのである。何年か前、父君からこの事を承つて以来、私の疑問の一つになつていた。ところが、周囲の人々の記憶と清六さんの調査によつて、この疑問が漸く氷解されたのである。

 文中にあるように、政次郎氏の「博覧強記」は大したものだったようですが、自分の息子の誕生日を記憶していなかったという点では、ちょっと減点になるのもやむをえません。ただ、当時の慣習として、人の亡くなった日(命日)は重要なこととして記憶に留められるが、「誕生日」というものはあまり重視されていなかったということは、要因としてあるようです。

 それはさておき、この小倉氏の文章の影響力は大きかったようで、1954年刊の『近代日本文学辞典』(東京堂)の「宮沢賢治」の項には「明治二十九年八月二十七日(戸籍上は八月一日)に出生」と書かれ、1956年-1957年の筑摩書房版『宮沢賢治全集』の年譜でも、「八月二十七日出生」とされました。
 しかし、小倉氏の上記の文章には、出生日を「8月27日」と決める根拠として、具体的には「8月21日-23日の盂蘭盆会の時には生まれておらず、8月31日の大地震の時には生まれていた」ということが書かれているのみで、なぜ「27日」と断定できるのかということは記されていません。したがって当然ながらその後、その点への疑問が出されてきました。

 すなわち恩田逸夫氏は、「八月二十七日出生説への質問」と題した書簡形式の文章を『四次元』1960年4月号に掲載されました。そこで恩田氏は、上記のように「27日」と特定できる根拠は何か、と尋ねるとともに、そもそもこのような「疑問」が起こってくることの不思議も指摘します。

 一般に、親にとって、子どもの誕生日が何日であったかを疑問に思うなどということがあるでしょうか。よほど特殊な事情でないかぎり、わが子の誕生日は、はっきりと親の心に刻みつけられているはずです。記憶しているわが子の誕生日が、戸籍の記載と違っているのなら、それは明かに戸籍の方がまちがっているのでしょう。賢治の母堂が実家の鍛冶町でお産をしたことが疑いない事実として確信されているのと同じく、確信している誕生日については証明の必要もないことがらです。
 <戸籍の出生日が違うのではないか>と疑問に思ったり、<本当の誕生日がいつであったか>と、いろいろ事例を挙げて推定してみること自体がまことにおかしなことで、一般には問題にするまでもないことと思われます。

 恩田氏が疑問に思われたことは常識的にはもっともで、私たちにとっても不思議なことです。
 『新校本全集』の「年譜篇」によれば、「出生当時父は商用で関西方面へ旅行中であった」とありますから、帰宅して(妻の実家に行って)待望のわが子の顔を見るとともに、「いつ生まれたのか?」ということを妻なり周囲の人に尋ねそうなものです。その時、「○日に生まれた!」と聞いたその日付は、父としてはかなり心に強く刻まれるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。しかし、賢治の死後まで「8月1日出生」という「誤った」認識を、家族ぐるみで共有していたことからすると、父も母も、賢治出生の時点において、その日付を心に留めるということはなかったのだろうと考えざるをえません。
尋常小学校第一学年修業証書 賢治の尋常小学校時代の一学年ごとの「修業証書」(右写真)も残されていますが、そこにもやはり「明治廿九年八月一日生」と記されています。小学校入学の際には、戸籍謄本などを学校に提出する必要があったでしょうし、その時にも親は戸籍の生年月日を見ているはずですが、当時はそれに疑問は抱かれなかったわけです。

 恩田氏が、「小倉豊文先生 机下」と冒頭に記す書簡体で「八月二十七日出生説への質問」を書いた意図は、小倉豊文氏からの返答を強く期待してのことだったのでしょう。しかし、小倉氏は長らくそれに公には答えておられませんでした。やっと1986年になって、「賢治誕生日考」(洋々社『宮沢賢治6』所収)という文章を発表し、「私が恩田氏の質問に対する応答を公表しなかったのは、私の重大な手落ちであったといわねばならない」と率直な反省も記しておられます。ただこの時、恩田氏はすでに1979年に死去された後でした。唯一の救いは、小倉氏の記憶によれば、すでに恩田氏の質問に答える「私信」は出しておられたということです。
 さて、その小倉豊文「賢治誕生日考」の内容ですが、文中に引用されている宮澤清六氏の小倉豊文氏あての書簡が、唯一最大の根拠となっています。この清六氏の書簡全文は、下記のとおりだったということです。

 「四次元」に賢治の生年月日について、恩田氏があなたに手紙のように書いています。母にもたしかめましたが、大地震(八月三十一日)の日は生後五日であり、旧盂蘭盆会十六日がすんで二・三日と思っていると申していますから、八月二十七日で正しいと思います。私からもそのうちに恩田さんに書きます。

 すなわち、「大地震(八月三十一日)の日は生後五日」という母の記憶が、決め手とされたわけです。
 ところで現代の私たちの多くは、「8月31日が生後5日」というと、31から5を引いて、8月26日が誕生日なのではないかと思ってしまいます。26日の1日後が27日、2日後が28日、と数えると、5日後が31日になるのですから。しかし小倉氏によれば、母の言うこの「生後5日」とは、当日を「第1日」として数える「仏教的慣習」による数え方なので、誕生日は8月27日なるのだということです。

 また、賢治の誕生日に父政次郎氏が疑問を抱いたきっかけとしては、花巻農学校の書記に就職した照井七郎氏が、机の引き出しから上に画像を掲載した賢治の「履歴書」を発見し、それが宮澤家に届けられたことにあったということです。小倉氏は書いています。

発見された履歴書を見て翁(政次郎氏)が賢治の役場の誕生日に疑問を発したのは、地震の約1か月前の七月から八月初めにかけて、翁は商用で関西地方に居り、旧盆には帰宅していて、地震に遭った記憶が確かであったからである。

 ただし、ここにはまた一つ新たな問題が現れています。上に『新校本全集』「年譜篇」の記載を引用したように、賢治の「出生当時父は商用で関西方面へ旅行中であった」はずだったのですが、上の引用では、(賢治出生直前の)「旧盆には帰宅していて」とあり、そうならば父は賢治出生の時にも家にいたことになってしまうのです。

 奥田弘氏は、「宮沢賢治についての二つの考察」(『宮沢賢治研究資料探索』所収)という文章を書き、1998年の時点でもう一度、小倉氏と恩田氏のやりとりを整理されました。そして、政次郎氏が賢治出生の時点で花巻にいたか否かという、上記の疑問点についても触れ、結局「この記憶が確かであるならば、弟治三郎の出生届代行は、どのような事情があったのか、宮沢家からは説明されていない。賢治生誕前後について家人の記憶に基づく記述は混乱しているといわざるをえない。」と、まとめておられます。

 さてここでもう一度、冒頭に引用した清六氏の「兄賢治の生涯」に戻ってみると、賢治が出生後の問題の大地震について、次のように書かれています。

 賢治は長子であったので、その頃の風習で母の実家の同じ町内の鍛冶町で生まれた。
 母はそのとき二十歳であったが、産後五日目の朝、前に書いたような地が破れて水が噴き出し、沢山の家屋がつぶれた大地震がおこった。

 ここで気になるのは、大地震の発生が「産後五日目の」と書かれていることです。陸羽地震は、1896年(明治29年)8月31日午後5時6分に起こったということで(「岩手県立博物館だより」「Wikipedia」参照)、「朝」ではなくて「夕方」のことだったのです。奥田弘氏の言われるとおり、「賢治生誕前後について家人の記憶に基づく記述は混乱しているといわざるをえない」のです。
 母親のイチさんとしても、何十年も前の記憶ですから錯誤が起こるのも無理もないことですが、一般的に考えて、「ある出来事が起こったのが朝だったのか夕方だったのか」という記憶の方が、「ある出来事から別のある出来事までに何日が経過していたか」という記憶よりも、思い起こしやすいものだろうと考えられます。皆さんも、何十年か昔の記憶について、この二種類の記憶想起を試してみていただければわかると思います。
 ですから、「朝か夕か」ということにさえ錯誤がある母の地震記憶において、「産後五日目」という数字の方もどこまで正しいかと考えると、残念ながらそれは十分な確度があるとは言えないでしょう。もちろんこれは、当事者からの一次情報として、他に手がかりのない現時点では最大限に重視すべきものではありますが。

 以上、資料の中にはかなり古いものもあったので、私自身が最近になってやっとまとめて目を通すことができた感想を、述べさせていただきました。現在は通説となっている「8月27日出生説」も、根拠はかなり心もとないものであるわけです。
 このような状況からすると、『新校本全集』「年譜篇」の1896年8月1日の項には、「戸籍簿によればこの日、(中略)父政次郎・母イチの長男として誕生。」と記され、8月27日の項には、「戸籍簿には右のように八月一日出生となっており、賢治自筆の履歴書にもそのように認められているが、(中略)前後の事情から二七日出生が正しいとされている。」と記されていることは、客観的で妥当な記述の仕方だと、あらためて感じます。
 上田哲氏は『図説 宮沢賢治』(河出書房新社)の中で、「八月一日出生説」からの変化の経緯を概観した後、

八月二十七日説を遺族が言い出したのは敗戦後である。それには遺族たちの強い意向が感じられる。それまで戸籍の生年月日には異をとなえなかった宮沢家の急なこの変化は、そういわなければならない、なんらかの事情が生じたためだろうか。

とまで推測しておられます。確かに不思議な経緯ではあります。

 ただ私は、花巻市で毎年8月27日を中心として「賢治生誕祭」が催されることに関しては、結構で素晴らしいことだと思っています。賢治の出生日に関して「謎」が残っていることは事実としても、とりあえず私たちとしては今の段階での「落としどころ」を持っておいた方が安らぎますし、客観的根拠はともかく「8月27日」というのが直接のご家族の最終的な認識だったからです。少なくとも、2月11日を「建国記念日」とすることよりは、比べられないほどまともな扱いでしょう。
 上田氏の言われるような「なんらかの事情」の有無はともかく、このような事柄に関しては、(もしかして将来何か決定的な証拠が現れるまでは)家族の思いを尊重してあげたい気がします。

 ただし、あの世の賢治は、「俺の誕生日は8月1日じゃなかったのか?」といぶかっているでしょうが。

仏教を知らなかったら

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 小倉豊文氏の、「二つのブラック・ボックス―賢治とその父の宗教信仰」(『宮沢賢治』第2号, 洋々社)という文章の中に、次のような一節があります。

 その政次郎翁が問わず語りに「私が仏教を知らなかったら三井・三菱くらいにはなれましたよ」と、苦笑まじりに言ったことを私は確かにきいている。

 この政次郎氏の言葉は、その後もよく引用されて有名になっていますが、その「苦笑」の意味は何だったのでしょうか。なまじ仏教など知ってしまったばかりに資本家に徹しきれなかった自らに向けられているのか、あるいは逆に「外道」のように利潤追求に明け暮れる当時の財閥の姿に向けられているのか…。いずれにしてもこの言葉は、政次郎氏という人の一筋縄ではいかないようなしたたかさを示しているように思えます。
 それにしても、これだけの大言をさらっと言えるというのは、すごい自信ですね。また実際の商売においても、きっと政次郎氏はそれだけの手応えを感じていたのでしょう。

 一方、同じ文章の別の場所で、小倉豊文氏はまた次のようなことも書いています。

 ある時、翁はしみじみとした口調で、賢治が早熟な子であり、仏教を知らなかったら遊蕩児になってしまったろうという意味の述懐をしたことがあった。この時、私は無遠慮に「私はなまじ仏教を知らなかったら、日本はすばらしいボードレールのような大詩人をもったと思いますよ」と放言したのであったが、翁は語をついで「何しろ私が色欲旺盛な頃に生ませた子ですから、因果な子ですよ」と真顔でしんみりつぶやいたので、ヒヤリさせられたことを忘れない。賢治は父が二十二歳、母が十八歳の時に結婚した翌年に生まれたのである。だが、それを直ちに賢治の早熟な天才と因縁づけ、我が身の罪悪・妄念の結晶と考えている政次郎翁の信仰には、私は全くついてゆけぬものを感ぜざるを得なかった。

 ここにあるのは「親の因果が子に報い…」という発想のようで、これを小倉氏は「政次郎翁の信仰」と見なしています。しかし、仏教の正統的な教義にこういうことが説かれているわけではないでしょうから、当時はこういった俗信があったのでしょうか。
 それにしても、賢治を聖人君子のように思う人からすると、びっくりするような見方でしょうね。

 いずれにせよ、政次郎氏の「仮説」によれば、もしもこの父子が仏教を知らなかったら、父は三井・三菱クラスの財閥を築き、そして息子はその財産を遊蕩に費やしてしまっただろう、というわけです
 この会話において小倉氏が、やはり父の遺産をもとに散財のかぎりを尽くし、あげくは準禁治産者とされたボードレールの名前をとっさに出したのは、まさに鋭い着想という感じですが、私としては、そういった「もう一つの賢治の生涯」や、その場合にどんな作品を書いただろうということにも、興味を覚えざるをえません。

 ところで先月、「チップの払い方」という記事において、賢治が女給や芸者に非常識なほど多額のお金を渡してしまう癖があったことを書きましたが、この小倉氏の文章には、そのような賢治の振る舞いのルーツとなるようなことも書かれています。

 賢治の家のある豊沢町の東側に並行した裏町通には遊女屋が並んでいた。当時、遊女たちは「籠の鳥」といわれていて、自由に外出が許されない。そこで金に困ると店の遣手婆が遊女にたのまれて衣類を宮沢の店に入質にもって来るのが常であった。そんな場合に賢治が店に居合わすと「かわいそうだ。世の中が不公平だ、父の家業がいやだ」といって、オイオイ泣き出すので、妹のシゲさんがいつもなだめるのに骨折ったとのこと。これは私がシゲさんに直接聴いたことである。入質に来た人の言うままに金を貸してやって、父に「あれでは店がつぶれてしまう」と叱られた話は、今まで多く伝えられているところだ。

 一人前の社会人になってからも、不幸な境遇の女性を見ると、金を渡さずにいられなくなるというのは、上のような環境や体験ともどこかでつながっているのでしょう。

 そして、もしも賢治が「遊蕩児」になっていたら、遊女や女給に「金を渡す」だけでなくて、「情けをかける」ということにも、ならざるをえなかったでしょう。ただしその場合、たとえ金はいくらあったとしても我が身は一つですから、社会的にはのっぴきならない状況に陥ることもあるのが、世の常です。
 同じ北東北の富裕な家に生まれた太宰治が、21歳の時にカフェの女給と心中未遂事件を起こし(女給は死亡)、その後も何度か心中未遂、最期は既遂に至ったことを、ここでちょっと連想してしまいます。太宰治もキリスト教や聖書に強い関心を持ちながらも、賢治にとっての仏教のような信仰には至らなかったわけで、もしも賢治みたいに宗教に染まりきっていたら、別の人生や作品があったのでしょう。しかしそれでは、私たちの知っている「太宰」ではなくなってしまいますね。
 一方、賢治だって「自己破壊的」な傾向を秘めていましたから、もしも宗教なしに遊蕩の道に入っていたとしたら、太宰のように自ら身を滅ぼすような行動に走った可能性も、十分にあったような気がしてしまいます。

 あるいは私は、井原西鶴の『好色一代男』の世之介のことも連想します。考えうるかぎりの遊蕩児の極致とも言うべき世之介も、生野銀山の一山を所有する父の遺産を相続してからは、散財のかぎりを尽くしました。34歳で母から銀2万5千貫目を受けとった世之介が、「これはとおもう女はすべて請け出し、名高い女郎衆を残らず買わずにおくものか」と宣言するスケールは、女給や芸者に法外なチップを渡す賢治とは桁が違いますが、一つだけ現実の賢治と世之介の共通点もあります。

 それは、二人とも、後継ぎの子孫を残さない「一代男」だったところです。

にない堂父子参詣説(2)

延暦寺西塔・にない堂(常行堂と法華堂)

 上の写真は、延暦寺の西塔地区にある通称「にない堂」です。正式には左側が「常行堂」、右側が法華堂で、二つの堂が渡り廊下で連結された対称形になっています。この廊下を「天秤棒」に見立てて、怪力の弁慶ならば肩にかけて「担う」ことができるだろうということから、「にない堂」と呼ばれているわけです。
 延暦寺パンフレットによれば、このにない堂の形は、「法華と念仏が一体であるという比叡山の教えを表し、法華堂では法華三昧の、常行堂では常行三昧の修行が行われる」のだそうです。

 さて、前回は本題に入れずに終わってしまいましたが、そもそも私が考えてみたかったのは、延暦寺にある「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」という銘板に記されているように、賢治父子が1921年(大正10年)の旅行において、この「にない堂」にも参詣したのかどうか、ということでした。
 ここでもう一度、銘板のその部分を引用します。

一泊ののち比叡山に直行、伝教大師生誕千百年大法要会の最終日(推定)、まず「不滅の法灯」の根本中堂を拝み、最後に父のすすめで「にない堂(法華堂と常行堂)」を拝んだ。このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって、賢治の和歌その他の作品にも明記されてはいない。

 父子が「にない堂」に参詣したなどということは、上記のように賢治の短歌にも詠まれておらず、またこの旅行に関する重要資料である佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史各氏の文献にも記されておらず(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)、その結果、『【新】校本全集』年譜篇にも、書かれていません。
 これまでは賢治の短歌の内容から、延暦寺において二人が「根本中堂」と「大講堂」を訪れたことは確実と考えられ、また小倉豊文氏の記述から、「大乗院」にも行ったこともかなり有力視されていました。しかし、「にない堂」に行ったという記載は従来はどこにも見出されておらず、これが本当なら、まさに画期的な「新事実」です。

 それで、この「にない堂父子参詣説」について、ここで検討してみようと思うのですが、まずはこの銘板の記載と、従来の他の資料とを比較してみる必要があるでしょう。とりわけ、この「新事実」は、父政次郎氏から小倉豊文氏に伝えられたとされていますから、その小倉氏が残している他の文献と、照らし合わせてみなければなりません。

 ということで、下のような簡単な年表を作ってみました。

 1951年 2月 小倉豊文「旅に於ける賢治」発表(『四次元』第3巻第2号)
 1957年 3月 宮沢政次郎氏 死去
 1957年12月 小倉豊文「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」発表(『比叡山』復刊31号)
 1978年 8月 小倉豊文「『雨ニモマケズ手帳』新考」刊行
 1996年 6月 小倉豊文氏 死去
 1996年10月 「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板設置
 2004年 3月 平澤農一氏 死去

 さて、「にない堂父子参詣説」が、いつ、政次郎氏から小倉豊文氏に伝えられたのかということがまず問題ですが、「銘板」には、「戦後、後日談として」と書いてあるだけで、それ以上具体的なことは不明です。
 ただし、ここで少なくとも言えるのは、政次郎氏から小倉氏に伝えられたのは、1957年3月の政次郎氏の死去よりは前だったはずだということです。これは全く当たり前のことですが、後述するように重要なポイントとなります。

 まず、小倉氏が1951年に発表した「旅に於ける賢治」は、実際には1949年7月に書かれ、1950年11月に校訂されたことが末尾に記されていますが、いずれにしてもこれは政次郎氏の存命中に書かれたものです。この論文中には、「賢治父子がにない堂に参詣した」ということは書かれていないのですが、その執筆時点で小倉氏がこの「新事実」をまだ政次郎氏から聴いていなかったと考えれば、一応の説明はつきます。
 しかし、天台宗宗務局が発行している機関誌『比叡山』の1957年12月号(1957年12月2日発行)に小倉氏が書いた、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」と題された文章に関しては、事情が異なります。この一文は、例の賢治の「根本中堂」歌碑が1957年9月21日に延暦寺で除幕されたことを受けて掲載されたもので、小倉氏がこれを書いたのが、1957年3月1日の宮澤政次郎氏の死去よりも後であったのは、ほぼ確実と言ってよいと考えられます。
 つまり、小倉氏がこの文章を書いてから、さらにその後に政次郎氏から何かの「新事実」を伝えられるということはありえないわけで、この文章は、政次郎氏から小倉豊文氏への「最終情報」に基づいていることになります。

 そこで、そのような位置づけにある「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を読んでみると、次のような一節が目に入ります。

そして、父子同行二人の巡礼は講堂から戒坦院に及ばず、西塔や横川、四明嶽にも至らずして下山を急ぎ、大乗院や無動寺なども、そそくさと堂前を通りすぎたのみで七曲りから白川越にかかり、全く文字通りの「暗夜行路」で京都の街に入り、当時政次郎氏が愛讀していた「中外日報社」に立ち寄って、聖徳太子磯長の墓への道案内を受け、紹介されて近所の宿屋に勞れきった身をあずけたのであった。(強調は引用者)

 すなわち、小倉豊文氏は、政次郎氏の没後に書いた文章においても、賢治父子は(にない堂のある)「西塔」地区へは行かずに下山したと記しているのです。

 したがって、この「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」という史料と、「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板という史料の間には、矛盾があることになります。どちらが正しくてどちらが間違っているかをここで簡単に決めることはできません。例えば、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を書いた頃の小倉豊文氏は、政次郎氏から生前に聴いていた話をなぜか一時的に忘却していて、しかしその後また思い出して、平澤農一氏に書き送ったという可能性も、絶対にないとは言えません。
 しかし、「史料批判」的に客観的に考えるとすると、「出来事」からの経過時間が短いうちに書かれた史料の方が信頼性が高く、また情報源に近い人物が書いた史料の方が信頼性が高いと、まずは考えてみるのが通例です。この場合、1957年に書かれた「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」の方が、1996年に書かれた「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板よりも、また、政次郎氏から直接聴いた小倉氏自身が書いた「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」の方が、政次郎氏→小倉氏→平澤氏→銘板の筆者、と多段階の情報伝達を経た銘板の内容よりも、信頼性が高いだろうと考えるのが、一般論としては合理的なわけです。
 もちろんこれは、現在明らかになっている資料から、どちらの蓋然性が高いかを言っているだけであって、確定的なものではありません。しかし、史料の真偽の考証においては、「満足できる説明がないまま遅れて世に出た、というように、その史料の発見等に、奇妙で不審な点はないか」(Wikipedia)ということも、重要視される要素です。私としては、政次郎氏の没後約40年も経た1996年になって、初めて世に出て来た「新事実」というところに、どうしても不自然さを感じてしまいます。

 ただ、詳しくは次回に述べる予定ですが、1996年10月に行われたこの銘板の「除幕式」には、平澤農一氏も出席しておられたことが、1996年11月発行の『比叡山時報』に記されています。そうすると平澤氏は、「このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって・・・」という銘板の文章も読んでおられたはずで、その内容に何らかの異議を唱えたという話も伝わっていませんから、やはり平澤氏が小倉氏から何かこのような書簡を受けとっていたのは、事実だった可能性が高い気もします。
 となると、小倉→平澤書簡があったことを前提とした上で、考えられる可能性は、

  1. 前述のように、小倉氏は生前の政次郎氏から「にない堂にも行った」という話を聞いていたが、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を書いた時にはその話を忘却して、「西塔には行っていない」と誤って執筆し、後になってまた政次郎氏の話を思い出して、平澤氏に書き送った
  2. 小倉氏は政次郎氏から「にない堂に行った」とは聞いていなかったが、年月が経つうちに記憶があやふやになり、「にない堂に行った」と聞いたことがあるような気がしてきて、平澤氏にそう書き送った
  3. 小倉氏は政次郎氏から「にない堂に行った」とは聞いておらず、その記憶にも変化はなかったが、「もし行っていたら賢治の反応が興味深い」とか、「行っていた可能性も否定はできない」など、小倉氏による考察や推測を平澤氏に書き送ったところ、それが平澤氏から銘板執筆者に伝わる過程で、または銘板執筆者によるバイアスもかかって、「父子がにない堂に参詣した」という話に変化した

というようなところになるでしょうか。なんか、どれを見ても無理矢理っぽいこじつけのような感じがする仮説ばかりですが、皆様なら、どれを選ばれるでしょう。

 私自身は、この3つの中ならば、3. を採ろうかと思います。すなわち、父子はやはり「にない堂」には参詣しておらず、銘板に書かれた「参詣説」は、最近になって生まれた一つの「伝説」なのではないかと、考えるのです。
 確かに、賢治の信じる「法華」と、父の信じる「念仏」が、一体となって繋がっている「にない堂」の構造を思えば、対立していた父子がともに参詣する場所として、これほどうってつけのスポットはありません。
 そしてその構造こそが、延暦寺の思想の象徴だというのです。前回に見たように、「賢治が延暦寺参詣によって新たな宗教的理念を得た」と考えたいという立場があるとすれば、そこに、「にない堂父子参詣伝説」が生まれる土壌は、十分にあるのではないかと、私は思うのです。

[この項つづく]

父子関西旅行の史料

 東京の「宮沢賢治研究会」が、来週10月11日(土)~12日(日)にかけて、「比叡山ツアー」を開催されます。1921(大正10年)年の短歌「比叡」12首の跡をたどり、有志は賢治父子の比叡山越えのルートも踏破してみようという、意欲的な企画です。
 私は、その11日の夜に、宿舎の延暦寺会館で、賢治の関西旅行について話をせよと言われたので、花巻から帰ってから2週間は、その準備に追われていました。

 賢治が関西地方にやって来たのは、1921年(大正10年)の父子旅行と、その5年前の1916年(大正5年)に、盛岡高等農林学校の修学旅行として京都・大阪・奈良・大津をめぐった時の、2回ありました。11日には、両方の旅行について話をさせていただくつもりで、例によってパワーポイントの資料作成をしています。

 ところで、1916年の盛岡高等農林学校の修学旅行に関しては、『【新】校本全集』第十四巻にも掲載されている、「農学科第二学年修学旅行記」(校友会報)という記録があって、参加した学生が分担して旅行の行程や訪問地の詳細を書いてくれています。これは、当事者自身による同時代的記録であり、歴史学における史料批判で言うところの「一次史料」にあたります。一般的には、信頼性が高いと期待できるものです。
 これに、賢治が修学旅行中に詠んだと推定される短歌「大正五年三月より」 256-260 を合わせれば、旅行中の賢治の感慨も、それなりに推し量ることができるでしょう。

 一方、1921年の父子旅行に関しては、賢治の短歌は「歌稿〔B〕大正十年四月」 775-800 が残されていますが、賢治あるいは政次郎氏が直に書き残した「一次史料」というべきものは、存在しません。
 そこで私たちとしては、その欠落を埋めるために、後年に研究者が政次郎氏から聞き書きをした「二次史料」によって、旅行の詳細を推測するという方法を取らざるをえません。
 そのような「二次史料」としては、私の知る限りでは、次の三氏によるものがあります。

    1. 佐藤隆房: 宮沢賢治. 冨山房. 東京, 1942
    2. 小倉豊文: 旅に於ける賢治. 四次元 第三巻第二号, 1951
    3. 小倉豊文: 傳教大師 比叡山 宮澤賢治. 比叡山 復刊第三十一號(通刊256號), 天台宗務庁, 1957
    4. 小倉豊文: 宮沢賢治『雨ニモマケズ手帳』研究. 筑摩書房, 東京, 1996
    5. 堀尾青史: 年譜 宮澤賢治伝. 中央公論社, 東京, 1991

 佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史の三氏のいずれも、政次郎氏と直接に話をする機会が何度もあった人ですし、その記述内容を見ると、それぞれオリジナルなものです。堀尾青史氏の『年譜 宮澤賢治伝』の記述は簡潔で、オリジナルな部分は少ないように見えますが、例えば父子の東京での別れに関して、「午前に東京駅に着いて、午後に父を上野駅に見送った」ということが書かれているのは、この資料だけです。
 上記以外では、例えば関登久也著『宮沢賢治物語』(岩手日報社, 1957)も、父子関西旅行の経過について記していますが、その内容は、佐藤隆房『宮沢賢治』の記述内容を要約したものであり、政次郎氏からのオリジナルな聞き書きではないようなので、ここには含めていません。

 ということで、今度の話の準備として、上記三氏による「父子関西旅行」に関する記述を比較対照する表を作ってみました(下記PDF文書)。

父子関西旅行に関する三氏の記述

 三氏の間でも記述内容にいろいろ食い違いがありますし、それから小倉豊文氏の記載は最も詳しいのですが、政次郎氏から直に聞いた事と、小倉氏が推定した事が、渾然一体となっている部分もあって、慎重な検討を要するでしょう。
 しかしとりあえず11日には、これをもとに父子の比叡山登山・下山ルートや、叡福寺参拝を中止した経緯などについて、また旅行そのものの意味について、考えてみたいと思っています。

父子関西旅行行程

五輪塔と追善供養

 北京五輪の野球日本代表チーム「星野ジャパン」の熱戦の興奮が、まだ冷めやらぬ今日この頃ですが、「オリンピック」を初めて「五輪」と訳した(?)のは、1936年のベルリン・オリンピックの際に読売新聞記者だった、川本信正氏という人だそうです。

 川本氏は1936年のベルリン・オリンピックで水泳の前畑秀子らが活躍したとき、読売新聞社の担当記者だった。整理部記者から「ベースボールを野球とした伝で、記事の見出しに使える短い訳語はないものか」と持ちかけられ、以前から五大陸を示すオリンピックマークからイメージしていた言葉と、剣豪宮本武蔵の著「五輪書」を思い出し、とっさに「五輪」とメモして見せたら、早速翌日の新聞に使われた。(「朝日新聞」1996.6.18)

 ですから、「北京五輪」という言葉は他の漢字文化圏では通用せず、地元中国では、「北京奥(会)」などと表記されているようですね。


 というのは、今日の本題とはまったく関係のない話でした。
 賢治の作品「五輪峠」(「春と修羅 第二集」)には、古い「五輪の塔」との感動的な出会いが描かれています。

がらんと暗いみぞれのそらの右側に
松が幾本生えてゐる
藪が陰気にこもってゐる
なかにしょんぼり立つものは
まさしく古い五輪の塔だ
苔に蒸された花崗岩(みかげ)の古い五輪の塔だ

 この五輪の塔は、現在も五輪峠に行けば見ることができます。峠道を登りきったあたりの斜面に、側碑とともに立っています。側碑を見てみると、これが建てられたのは「文化十二年」(=1815年)で、戒名が「仙塚看永信士」という人の追善供養が目的だったようです。

五輪峠の五輪塔


 さて一方、現在は花巻の身照寺にある宮澤賢治のお墓も、五輪塔の形をしています。向かって右が宮澤家代々のお墓、左が、賢治のお墓です。

宮澤家の墓および賢治の墓

 このように、賢治のお墓が「五輪塔」として建てられたいきさつについて、賢治研究家の故小倉豊文さんは、次のように書いておられました(小倉豊文「二つのブラックボックス」,北辰堂『宮沢賢治の宗教世界』所収)。
 まず当初は、賢治のお墓は独立しておらず、浄土真宗安浄寺にある宮澤家代々のお墓に、納骨されていたということです。

 私は政次郎翁に安浄寺の宮沢家の墓地に案内されたことがある。そこで賢治の遺骨が一基の先祖代々の墓石の下に納められていると知り、「世間の人が賢治を如何にもてはやしても、家では決して特別扱いはさせません」といった言葉をきいた時は、父の「えらさ」に頭がさがり、さらには浄土真宗の「倶会一処」の信仰に感じ入ったのであった。(上掲書p.258)

 しかしその後・・・。

 ところが昭和二十五~六年頃だったと思う。訪れた私に、翁は「賢治の墓を作ろうと思いますが……」と話しかけて来た。私はその十年ほど前に前述した「別に墓を作らぬ」といった、翁の言葉を思い出したが、既に眼と足が不自由になっていた喜寿の老翁に対して前言に違うと詰問する勇気が出ず、もし作るなら墓碑銘を刻んだ普通の墓ではなく、二十回忌記念の供養塔として、賢治が好んでいたらしい五輪峠にもちなんで、無銘の五輪塔にしたらよかろうという意味を述べ、もしそうするなら設計図の適当なものを送ると約したのである。そして帰ってから、懇意にしていた当時の石造美術の学問的権威者天沼俊一博士に頼み、鎌倉時代の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した。鎌倉時代が石造美術の黄金期であり、五輪塔はこの時代の代表的造形でもあったからである。
 ところが数年後に訪問すると、その五輪塔が完成したとのこと。清六氏に案内されると、そこは安浄寺ではなく、前述した南部日実上人の縁で出来た身延山系法華の説教所が寺になった、賢治の勤めていた花巻農学校の後身の花巻農業高等学校近くの身照寺の墓地であった。前に見た安浄寺の墓地にあった宮沢家の代々墓に隣接して、私が送った設計図通りの五輪石塔が建っており、石塔は無銘だったが、その背後に高い大きな木柱が建てられ、それには「宮沢賢治之墓」という文字が見られたのである。私は内心唖然としたまましばらく無言でいると、清六氏は昭和二十七年に父も含めて宮沢家は日蓮宗に改宗し、五輪塔建立と共に宮沢家の安浄寺の墓を移した次第を物語ってくれた。私も関与していた筑摩書房版第一回の賢治の全集の最後の第十一巻の出たのが昭和三十二年二月二十七日であったが、建塔・移墓はそのころであったとのこと。政次郎翁が八十四歳で永眠したのは、同じ年の三月一日である。
 従って私は、政次郎翁の真宗から法華宗に転じた信仰の由来をきく機会を永久に失った。だから翁の宗教信仰は、賢治のそれと共に永遠のブラック・ボックスなのである。(上掲書p.261-262)

 現在は、身照寺の「賢治の墓」の背後には、「宮沢賢治之墓」という木柱は建っていませんが、後ろにある数本の卒塔婆には、いずれも「真金院三不日賢居士」という賢治の法号が書かれています。
 五輪峠にある五輪塔と、この賢治のお墓の五輪塔を比べると、かなり形が違っていて、賢治のお墓の方が端正な感じがしますが、小倉豊文氏によればこれは鎌倉時代の五輪塔を模しているというわけですね。
 ただ、小倉氏の記述の中で一つだけわからないのは、政次郎氏から「賢治の墓」について相談を受けたのは「昭和二十五~六年」とあり、その後に、天沼俊一博士から「鎌倉時代の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した」とされていますが、天沼俊一氏は、すでに1947年(昭和22年)に亡くなっているはずなのです(Wikipedia-「天沼俊一」参照)。実際に「賢治の墓」について相談が行われたのは、上の記述よりもう少し前のことだったのでしょうか。


 それから最後に、小倉豊文氏自身のお墓について。小倉氏のお墓は、千葉県東金市にあって、そのお墓の横には、賢治の歌碑「病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり/みのりに棄てばうれしからまし」が建てられています(下写真)。小倉氏ご自身の遺骨は、この歌碑の下に納められているのではなくて、その隣の小倉家代々の墓で眠っておられるのですが、二つの石標が並んでいる様子は、宮沢家の場合と似ています。
 小倉豊文氏が亡くなられたのは賢治生誕百年の1996年でしたが、この歌碑が建立されたのは1955年8月6日、広島に原爆が落とされたちょうど10年目の日でした。歌碑は、亡き奥様の「十回忌記念供養塔」だったのでしょう。
 じつは小倉氏の奥様・文代夫人は、広島で被爆して亡くなられたのでした。当時、小倉氏は奥様の葬儀として、文代夫人が生前愛してやまなかった賢治の詩を唱えつつ野辺送りをするという、「賢治葬」を行ったのだそうです(小倉豊文『絶後の記録』)。
 まさに、「賢治葬」にふさわしい追善供養碑です。

小倉家墓地内歌碑

賢治の元同級生が住んだ島

 昨夜は、広島にやってきて「みっちゃん総本店」というお店で広島風お好み焼きを食べて、駅裏のホテルに泊まりました。W杯のイングランド-パラグアイ戦をBSで見ていましたが、ベッカムのフリーキックからイングランドが1点を取ったあたりで、不覚にも寝てしまいました。
 そして今朝は、JR呉線8時07分広島駅発の普通列車に乗って、瀬戸内海沿岸の安浦という小さな港町を目ざします。

 ところで今日、私が広島県にやって来た事情は、次のようなものです。

福沢順二氏と「雨ニモマケズ」碑 私がいつも賢治の詩碑めぐりをするにあたって座右の書としている『宮沢賢治の碑・全国編』(吉田精美,2000)という本には、右のような写真が載っています。
 この写真の説明によれば、吉田精美氏はある時、賢治研究家の故小倉豊文氏の長女三浦和子氏から、「父の遺品を整理していたら、アルバムに初めて見る碑の写真があった」と連絡を受けたのだそうです。
 吉田氏が出向いてそのアルバムを見せてもらうと、右の写真の余白には、小倉豊文氏による次のような書き込みがあったということです。

福沢順二氏、賢治と高農同級の富山県人、数奇な運命の後、広島県豊田郡安浦町海上の柏島の神社の留守居をしている。宮沢賢治歌碑と名づくる面白い石碑を自分で(姪の出資の由)たて一人暮らし。一度漁船をやとってたづねたことがある。

 そこで、『新校本全集』十六巻下の「補遺・伝記資料篇」にある「大正四年四月盛岡高等農林学校入学者名簿」および「大正七年三月盛岡高等農林学校得業者名簿」を調べてみましたが、賢治の同級に「福沢順二」という名前はありません。しかしどちらの名簿にも、「中山 順二 (富山)」という学生が林学科の欄に掲載されており、上記の小倉氏の「富山県人」という記載と併せると、この中山順二氏が、後に改姓をされたのではないかと推測されます。

 ということで、賢治の元同級生が何かの事情でこんな小さな島で一人暮らしをしておられて、なおかつ賢治に関する碑を建立されたとなると、私としてはぜひ行ってみたいと思っていました。しかしいろいろ調べてみると、この「柏島」という島は瀬戸内海に浮かぶ無人島で、一般人が島に行くための船などは、ふだんは何も運航していないのです。
 上の小倉豊文氏の書き込みを見ると、「一度漁船をやとってたづねた」とのことですが、個人で船をチャーターするとなると・・・、ちょっと私としても尻込みをしていたのでした。

柏島神社大祭ポスター そんな折、ふとネットで調べものをしていた際に、この柏島にある神社の「大祭」(右写真)というのが年に一回行われていて、その祭日には漁船が本土と島の間を往復して、一般の観光客も柏島に渡れる、ということを目にしたのです。
 それから、本土側から船が出るという安浦町の商工会や漁業協同組合に電話をして問い合わせをした結果、その年一度の例大祭というのが、今年は6月10日(土)と11日(日)に行われることがわかり、船が出る場所や時間も詳しく教えていただいたのです。


 そんなわけで、今朝は広島から呉線に乗っておよそ1時間半、安浦という駅にやってきました。駅から20分ほど歩くと三津口漁港に着いて、「奉寄進」などと書いた幟が立てられているのも見え、また時折太鼓の音も聞こえてきます。
 桟橋に出ると、ふだんは漁船として使わ柏島れている船が、今日は屋根に幌をかけたりして、お祭りの参拝客を島に渡す船になっています。漁師の奥さんたちがテントを張って臨時の乗船券売り場を出していて、柏島までは往復600円でした。

 柏島というのは右の地図のような位置にあって、だいたい 600m×400m くらいの大きさです。
 三津口の港から湾内を見ると下の写真のような感じで、中央に見えるのが柏島です。

三津口湾と柏島

 一隻の漁船に、家族連れ柏島到着やお年寄りの夫婦など20人ほどの一般客が乗り合わせて、犬も何匹かいます。桟橋から出航してしまうと、ほんの10分ほどの船旅で、静かな瀬戸内海にはほとんど波もありませんでした。右の写真は、もう船が島に着く直前のところです。
 島の桟橋に降りると、すぐ前にまず「恵比寿神社」という小さな祠があり、そこから東の方へ海岸を周っていくと、「柏島神社」が見えてきます。

柏島神社 柏島神社(左写真)の社伝によれば、「高倉上皇が治承4年(1180年)に厳島神社に行幸した際、馬島に仮泊して禊ぎをし柏手を打つと、向かいの島から大きくこだまが返ってきたので、この島を柏手島と呼ぶようになり、後に柏島となった」とあります。柏島自体が、「第二宮島」と呼ばれることもあって、柏島神社と厳島神社の縁は深いようです。

 小さな島には「道」と言えるほどのものはありませんが、岸辺に沿って縁日のように屋台が並び、お祭りらしい雰囲気です。しかし私たちはその前を素通りして、賢治の碑がどこにあるのか、ずんずん見てまわりました。
 そして、神社の社務所の前の桜の木の横に、冒頭の写真と同じく「宮沢賢治歌碑」と題された石碑が見つかりました。下の写真で、左が表面、右が裏面です。

柏島「雨ニモマケズ」碑

 表側に刻まれているテキストは、

宮沢賢治歌碑
   雨ニモマケズ風ニモマケズ・・・・
   欲張ラズ腹ヲ立テズ・・・・
   イツモニコニコシテ
      人ノタメニナルコトヲスル・・・
 此の碑ご覧の因で賢治の思想に触れて下さ
 る方のあることを祈念します

そして、裏側に刻まれているテキストは、

宮沢賢治君とは大正四年四月から大正七年三月まで
三年間盛岡高等農林学校で同級生として親しく交友
しました 賢治君を慕う私がこの地に永住した記念
として此の碑を建立します
    昭和五十一年
         柏島神社祢宜
            八十四翁  福沢順二

というものでした。

 賢治による「雨ニモマケズ」の原文とはちょっと字句が違っていますが、福沢氏がこの島に住むようになってから、自分の昔の記憶の中にある「雨ニモマケズ」を、一人思い浮かべて碑にしたのでしょうか。
 裏面には「八十四翁」とありますが、昭和51年(1976年)は賢治が生きていたら満80歳になった年ですから、この時の「八十四」というのは数え年かもしれません。冒頭の写真は、さらにその後、小倉豊文氏が訪ねた時の記念写真のような雰囲気ですが、それにしてもかくしゃくとしたお姿ですね。
 碑には、「此の碑ご覧の因で賢治の思想に触れて下さる方のあることを・・・」と書いてありますが、ふだんは神社の「留守居」が一人でいるだけの孤島ですから、それ以外の人が「此の碑ご覧」になるのは、この年一回の神社のお祭りの時だけということになってしまいます。やって来た地元の人々は、どのような思いでこの一風変わった石碑を眺めていたのだろうと思います。

 「賢治君を慕う私がこの地に永住した記念として此の碑を建立します」という一節を読むと、富山県出身の福沢氏が、盛岡高等農林学校林学科を卒業して、その後いったいどのような経緯をたどって、瀬戸内海に浮かぶ無人島の「留守居」として一生を終えようとされたのか、ほんとうに不思議に思えてきます。
 柏島神社の社務所で、この福沢氏のことについて尋ねてみると、「ああ、あの昔いたおじいさんね・・・」と、その存在を憶えている方はおられたのですが、どういう縁でこの神社の留守居をするようになったのか、知る人はありませんでした。かなり昔に、この島で亡くなられたということですが、そのはっきりした時期も今となっては不明でした。

福沢順二氏(社務所写真) しかし、社務所の座敷の鴨居の上には、生前の福沢順二さんの写真が額に入れて飾ってありましたので、お願いして写させてもらいました(右写真)。
 上の写真は、神官の装束を着けた福沢氏です。福沢氏は神職ではありませんでしたが、年に一度のお祭りの時には人出も多く神社も忙しくなりますから、臨時にこのような装束を付けて手伝いをしておられたそうです。
 下の写真は、社務所の縁側でくつろぐ福沢氏。何を思って、空を仰いでおられるのでしょうか。

 社務所の横には、上の写真でも右奥に見えている小屋があって、これは現在は壊れかけて物置のようになっているのですが、昔はその小屋で福沢氏が暮らしておられたのだと、社務所の方が教えて下さいました。もちろん当時の島には水道も電気も通っておらず、福沢氏はランプで生活していたのだろう、とのことでした。

 結局、福沢氏が柏島に来られた経緯について具体的なことはわからず、社務所の方は私たちを気の毒に思われたのか、柏島の風景を写した貴重な戦前の絵葉書を最後に下さいました。たいへん恐縮しつつお礼を言って、社務所を辞しました。

 表に出ると、屋台のまわりの人々の数はさっきよりも増えているようです。しかし私たちは時間の関係で、残念ながら祭のクライマックスは見ずに帰ることにします。まあ、お祭りを見るのが目的だったわけではなくて、たまたま今日が年に一度だけ、一般人もこの島に渡って来られる日だったという事情ですから・・・。

 島の岸辺には、御輿のような屋根の付いた「御座船」や、たくさんの大漁旗を掲げた漁船が徐々に集まっています(下写真)。
 今日は午後3時から、これらたくさんの船が島のまわりを巡りつつ、「瀬戸内三大管絃祭」の一つと言われる音曲が繰り広げられるのだそうです。このようなところにも、宮島の厳島神社との近縁性が感じられます。

御座船

 それにしても、「永住した記念として」碑を建てておくというのは、よほどの思いを持って、ここを死に場所と定めて、この島にやって来られたのでしょう。年に一度のお祭りの時以外は、自分一人しか住んでいないこの孤独な島の上で、福沢順二さん、あるいは旧姓中山順二さんは、いったいどんな感慨を持って晩年の日々を送られたのでしょうか。そしてなぜこの地で、よりによって60年も昔の一人の同級生のことを思い出して、碑を建てようと思い立たれたのでしょうか。
 その「数奇な運命」について、少なくとも故小倉豊文さんは、直接に聞いておられたはずです。

 奇しくも、今年2006年は、碑が建てられた昭和51年から、30周年にあたっていました。