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進退谷まったのです

書簡182 1921年(大正10年)1月24日、突然の家出をして東京に着いた賢治は、まず山梨にいる親友の保阪嘉内に、右のような葉書を出しました。(書簡182:画像は山梨県立文学館『宮沢賢治 若き日の手紙』より)

突然出京致しました
進退谷まったのです
二三日は夜丈け表記に
帰ります その後の事は
又追って御報知致しませう

 まったく簡潔な文面ですが、その第1文と第3-4文は、事実を情報として伝えているだけであるのに対して、第2文は、この出京の「動機」あるいは「本人の心境」を表しています。
 この文面だけでは仔細はわかりませんし、受け取った嘉内の方も、さぞ心配になったことでしょう。しかし、その切羽詰まった雰囲気は、まさに当時の賢治の心理状態を表現しているようです。
 なかでも、「谷まった」と書いて「きわまった」と読ませるというのは、何とも言えず切実な感じです。このちょっと珍しい用字も含めて、この葉書は賢治の書簡の中でも、とりわけ印象深いものの一つです。

 ところで、この「谷」の字を「きわまる」と読ませることに関しては、落語のネタの一つにもなっているんですね。
 下記は、三代目三遊亭金馬の、「嘘つき彌次郎」という噺です。

 ほら吹き男が怪しげな冒険譚を語るという内容なんですが、この13分19秒あたり、猪に追いかけられて松の木に上った男がふと気がつくと、木の上に恐ろしげな天狗がいて、上へも下へも動けなくなります。

「上は天狗、下は猪。進退ここにタニまった。」
「キワまったんだろ。」
「字に書きゃおんなじだよ。」

 (^o^)…。しかし、こういうのがギャグになるということは、昔の人でも「谷まった」を「キワまった」と読むべきところを、間違って「タニまった」と言いそうになるところがあったのかもしれません。

 この「谷(キワ)まる」というやや馴染みのない訓読みについて、『角川漢和中辞典』では次のように説明されています(改行は引用者)。

「きわまる・きわめる」の同訓は、窮・谷・究・極。
窮は、ゆきづまり、また苦しむ事、「困窮」。
谷は、「きわまる」とは読むが、「きわめる」とは読まない、谷に落ちたように、あとへも先へも行けぬこと。
究は、行けるところまで行きつくすこと、物事の奥底までたずねきわめること、困窮の意には用いない、「研究」。
極は、頂上・至極の意、ゆきついてもはやその先のないこと、「極上」。

 同じ「きわまる」でも、漢字が異なるとこのような意味の違いがあるということですが、私が調べたかぎりの用例では、「谷まる」の主語としては「進退」しか見つけられませんでした。つまり、「進退谷まる」という言葉は、一種のイディオムとして使われているようなのです。

 さて、この「進退谷まる」という表現の用例を歴史的にさかのぼると、その淵源は、はるか紀元前の中国の『詩経』にあるようです。
 『詩経』の「大雅」という項目に収められている「桑柔」という詩篇に、次のような箇所があります(「詩経のすべて」より)。

瞻彼中林、牲牲其鹿。
朋友已譖、不胥以穀。
人亦有言、進退維谷

(書き下し文)
彼の中林を瞻(み)れば、牲牲(しんしん)たる其の鹿あり。
朋友已に譖(いつわ)り、胥(あい)以て穀(よ)みんぜず。
人亦言えること有り、進退維(こ)れ谷(きわ)まれり、と。

 これは、世の政治の乱れを嘆く詩で、鹿という動物は少しの食べ物があっても仲間と分かち合って食べるという協調性があるのに、今の朝廷では、群臣が互いに讒言をなして仲が悪い。そのために世の中は、進むことも退くこともできぬ窮地に陥っている、という意味だそうです。

 『詩経』は、中国の古典である「四書五経」の一つとして、本家中国でも広く学ばれ、その文化を輸入した日本でも、基礎教養として尊重されました。
 平安時代まで、政治や学問の正式な文書は漢文で記されていましたから、このような中国の古典において用いられている表現は、日本人が物を書く際のベースになったでしょう。

 私が調べた範囲で、この「進退谷まる」という表現が日本で最初に使われているのは、平安時代初期の貞観11年(869年)に完成した4番目の正史、『続日本後紀』の巻十四です。「六国史」〔全文〕より、引用させていただきます。

乙酉。文章博士從五位上春澄宿禰善繩。大内記從五位下菅原朝臣是善等。被大納言正三位藤原朝臣良房宣稱。先帝遺誡曰。世間之事。毎有物恠。寄祟先靈。是甚無謂也者。今隨有物恠。令遠司卜筮。先靈之祟明于卦兆。臣等擬信。則忤遺誥之旨。不用則忍當代之咎。進退惟谷。未知何從。

 先帝の遺誡に、「世間では物の怪が現われるたびに亡者の祟りだとするが、これは謂われのないことだ」とある。しかし今、物の怪の出現に際し占わせてみると、明らかに亡者の祟りと出ている。もし我々が占いを信じれば遺誡に背き、占いを用いなければ祟りを受けることになる。進退これ谷まって、どうしたらよいかわからない、という話です。
 ここでは「進退惟谷」となっていて、『詩経』の「進退維谷」とは一字違っていますが、漢和辞典によれば「維」と「惟」は「これ」という意味では同義の字ということです。邨岡良弼(櫟斎)が大正時代に著した『続日本後紀纂詁』でも、この箇所に、「毛詩、人亦有言、進退維谷、注谷、窮也」という注釈が付けられていて、『詩経』からの引用であると判断されています。

 『続日本後紀』の後、「進退谷まる」という語の用例には約100年のブランクがあり、次に出現するのは、平安時代も中期になります。
 管見のかぎりで、「進退谷まる」という言葉の日本における2番目の用例は、橘直幹という公卿が天暦8年(954年)に書いた天皇への奏状でした。『本朝文粋』巻六に収録されているもので、下記は『本朝文粋註釈 上』より、その箇所の引用です。

年齢漸傾。満頭霜雪一半。進退惟谷。毎歩山川千里。

 だんだん年をとって頭髪も半分白くなり、千里果てしなき官途を歩んできて、進退もきわまった、ということのようです。用字は、『続日本後紀』を踏襲して、「進退惟谷」となっています。
 余談ですが、この奏状は橘直幹が民部大輔という役職への登用を望んで村上天皇に提出したものの、その中の一句が天皇の機嫌を損じたために任官はかなわなかったということです。しかし、天皇もこれを名文と感じ入って座右に置き、後に内裏が火災に遭った際には、「直幹が申文は取出たりや」と臣下に問うたという逸話があって、これは鎌倉時代に『直幹申文絵詞』という絵巻物の題材ともなっています。

 このように当代きっての名文家に使用されたことが影響してか、上記の後「進退惟谷」の用例は、天延3年(975年)の「祭亀山神文」、永延2年(988年)の「尾張国解文」と、相次ぐようになります。
 平安中期に右大臣まで務めた藤原実資は、とりわけ「進退惟谷」という表現がお気に入りだったのか、その日記『小右記』には、この言葉が6回も登場します。次の文は、長和4年(1015年)の用例です(「東京大学史料編纂所」の「古記録フルテキストデータベース」より)。

雖有所憚進退惟谷、歩行之程可近々、仍内々所思也、  

 ご覧のように、ここでも「コレ」を表す字は「惟」となっています。

 「東京大学史料編纂所」の「古記録フルテキストデータベース」および「平安遺文フルテキストデータベース」の検索結果によれば、平安時代におけるこれ以後の用例は4つありますが、いずれにおいても「コレ」の字には「惟」が用いられていて、やはり『続日本後紀』および「橘直幹奏状」の影響下にあったのでしょう。

 さて、「進退谷まる」という言葉の使用において、次に大きな画期をなす存在は、鎌倉時代に成立した『平家物語』です。実は、私がこの言葉に関心を持って調べてみるきっかけとなったのも、先週のNHK大河ドラマ「平清盛」の中の台詞に、この言葉が出てきたためだったのです。
 時は安元3年(1177年)、平家追い落としを企てる「鹿ヶ谷の変」が発覚して、怒りに燃えた平清盛が、その黒幕の後白河法皇を幽閉するために兵を出そうとした際、嫡男の重盛が清盛を諫める場面です。下のテキストは、「平家物語 百二十句本(京都本)」から引用しています。

かなしいかな、君(きみ)の御(おん)ために奉公(ほうこう)の忠(ちゆう)をいたさんとすれば、迷盧(めいろ)八万(はちまん)の頂(いただき)よりもなほ高き親の恩、たちまちに忘れんとす。いたましきかな、不孝の罪をのがれんとすれば、君の御ためにすでに不忠の逆臣ともなりぬべし。進退ここにきはまれり。是非いかにもわきまへがたし。

 重盛としては、自分が仕えていた後白河法皇に忠義を尽くせば父清盛を裏切ることになるし、父に従えば不忠の逆臣となってしまうというジレンマに陥り、「進退ここにきはまれり」というわけです。上の写本では、「きはまれり」と平仮名で表記されていますが、「高野本」では、「進退(しんだい)惟(これ)谷(きはま)れり」となっていて、『続日本後紀』の用字と同じです。

 私が思うに、平安時代まではこの「進退きはまる」などという表現を使うのは、漢文が読み書きできる貴族や学者に限られていたのが、『平家物語』という国民的な語りの文学の、とりわけ名場面で使用されたことによって、この言葉は一気に人口に膾炙することになったのではないでしょうか。そしてその余波が、はるか800年もの時を経て現代にまで及び、日常用語としても「進退きわまる」という表現が気軽に使われるという形で、私たちに残されているのだと思うのです。

 『平家物語』のこの名場面は、江戸時代後期の頼山陽による『日本外史』においては、より簡潔で力強い表現となって受け継がれています。下記は、岩波文庫版からの引用。

忠ならんと欲すれば則ち孝ならず、孝ならんと欲すれば則ち忠ならず。重盛の進退ここに窮(きはま)る

 先週のNHK大河ドラマ「平清盛」でも、窪田正孝の演ずる平重盛が、上の台詞をほぼそのままに切々と訴えていました。
 ただ、頼山陽は「きわまる」に、「谷」ではなくて「窮」の字をあてています。

 その後は、『平家物語』との関係に伴い、鎌倉以降の「進退谷まる」の用例は、二つの系統に分かれていきます。
 一つは、やはり京都の公家の日記である『猪隈関白記』『民経記』や、室町時代の『建内記』などに見られる用法で、「進退惟谷」という表現がほぼ忠実に守られていきます(A)。
 もう一つの流れは、『平家物語』を受け継ぐように勃興してきた、種々の口承文芸や戦記物で、そこでは「これ」「ここに」「きわまる」などの用字法も、いろいろに修飾されていきます(B)。

 前者(A)に関しては、もともとの本流だったとは言え、京都の公家の政治的力が弱まっていくのに平行して、その社会的文化的な意味も、減弱していったと言わざるをえません。
 後者(B)は、『平家物語』の後を受けて、武士の時代とともに次第に世に広まっていきました。その例としてまず挙げられるのは、鎌倉時代末期に成立したと言われる『曽我物語』です。この物語では、2ヵ所に「進退きわまる」という表現が出てきますが、下記はその一つです(「国民文庫版」より)。

既に二三段ぎり違へて、弓打ち上げて、引かんとする所に、思はぬ岩石に馬を乗り掛けて、四足一つに立て兼ねて、わななきてこそ立ちたりけり。下ろすべき様も無く、又上すべき所も無く、進退此処にきはまれり。上下万民、是を見て、只、「それそれを」とぞ申しける。

 また、室町時代前半に書かれた戦記文学である『太平記』では、巻第四、第六、第九、第十七、第二十の5ヵ所で、「進退きわまる」という言葉が使われています。
 その「巻第四」では、以下のとおり(「国民文庫版」より)。

進で前なる敵に蒐らんとすれば、敵は嶮岨に支へて、鏃を調へて待懸たり。引返て後なる敵を払はんとすれば、敵は大勢にて越兵疲れたり。進退此に谷て敗亡已に極れり。

 戦記物において、「進退きわまる」場面は、まさに手に汗握るクライマックスとなるので、この言いまわしとの相性もいいのでしょう。

 上記以外では、室町時代の辞書の一種である『節用集』や、桃山時代の『天草版伊曽保物語』、江戸初期の『日葡辞書』などにも、「進退ここにきはまる」という言葉が出てくるそうです(「「進退惟谷」をめぐっての夢想」より)。これも、上の分け方で言えば(B)に属する流れと言えます。
 一方、「J-TEXTS(日本文学電子図書館)」に収録されている日本の古典は一とおり検索してみましたが、上記以外の文書、すなわち『古事記』『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』『将門記』『保元物語』『平治物語』『義経記』『承久記』『純友追討記』『奥州後三年記』『陸奥話記』『徒然草』『栄花物語』『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』『神皇正統記』には、この表現は見出されませんでした。

 さて、ここまで延々と「進退きわまる」の用例を調べてみた理由は何かと言えば、宮澤賢治が切羽詰まって「進退谷まったのです」という言葉を葉書に書いた背景には、何か具体的にその出典があったのではないかと、ふと思ったからです。
 すなわち、この時の賢治は、日蓮や田中智学の教えに忠実たらんとすれば父親に逆らうことになるし、父親の言うとおりにすれば教えに反することになるという状況にあったわけで、『平家物語』における平重盛とちょうど同じく、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」だったのです。
 私はNHKドラマでこの言葉を耳にした時、平重盛と当時の賢治が重なり合って感じられ、彼が家出直後の葉書に「進退谷まったのです」という言葉を書いた際には、まさに賢治自身も平重盛の「忠孝の葛藤」を思い出して、この語を使ったのではないか、と感じたのでした。
 そう思っていろいろと文献を調べると、上記のようなたくさんの用例が出てきたのですが、そのうちに私は、これこそまさに賢治が依拠したところの出典だろうという文書に、出会うことができたのです。

 それは、日蓮が55歳の建治2年(1276年)に、叡山に籠もる前の師であった清澄寺の道善房の供養のために書いた、『報恩抄』です。その中に、以下の一節があります(『昭和定本日蓮聖人遺文』より)。

日蓮此を知りながら人々を恐れて申さずば、「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さざれ」の仏陀の諫暁を用いぬ者となりぬ。いかんがせん。いはんとすれば世間をそろし。止とすれば仏の諫暁のがれがたし。進退此(ここ)に谷(きわまれ)り

 すなわち、叡山から離れて立宗宣言を行う前の日蓮としては、各宗派の言っていることはすべて謗法(=法華経に違背すること)と考えるが、周囲からの反感を恐れてこれを指摘しなければ、「教を匿さざれ」という釈尊の諫めを無視することになってしまうし、逆に思い切って自らの信念を表明すれば、世間の人々からの迫害が恐ろしいという、二律背反をかかえていたわけです。そしてその状況が、「進退此に谷(きわまれ)り」だったのです。

 ここにおいて日蓮が、『平家物語』に出てくる表現を下敷きにしたのだと考えるためには、日蓮は『平家物語』を読んでいたということの証拠が必要となってきますが、実は読んでいたらしいのです。少なくとも、後世の人々が見るような完成された『平家物語』の形ではなくとも、後に大きな『平家物語』になる元となった、様々な群小作品を読んでいたことは確実のようです。
 今成元昭氏は、日蓮の時代には『平家物語』はまだ完成しておらず、日蓮はその原型となる物語群(『平家』と総称)を読んでいたという説を提唱されましたが、その講演「日蓮聖人の『平家物語』受用を通して布教教化のあり方を考える」においては、日蓮遺文に引用された数々の逸話と『平家物語』の共通性、その遺品の中に「平家要所少々」という名で『平家』の抜き書きがあったこと等を挙げ、そしておそらく日蓮は文永4年~7年(1267年~1270年)頃に、これらの原型的物語を読んだのだろう、ということを論じておられます。
 つまり、日蓮が建治2年(1276年)に、自らの信念を貫くか、争いを避けるか、という二者択一を迫られて、「進退此に谷り」と書いたその時は、まさに『平家物語』またはその原型に親しんだ後、さかんに他の遺文にもそれらに由来する逸話を引用していた頃だったのです。
 すなわち、日蓮の『報恩抄』における用例も、上の分け方で言えば(B)の流れに属するわけです。

 ということで、最後に宮澤賢治の話に戻ります。
 日蓮が、『平家物語』の言葉を借りて『報恩抄』に表現していたこの宗教的ジレンマこそ、家出前の賢治が抱えていた悩みと、同型だったのです。皆と対立してでもあくまで信仰を貫くか、家族や周囲の期待に応えるために信念を曲げて妥協するか、それは当時の賢治にとっても、容易に解決しがたい難問でした。
 その葛藤に苦しんでいたちょうどその時に、この『報恩抄』も含む日蓮遺文集(「御書」)が、店番をしていた賢治の背中に、偶然にもばったりと落ちてきたというのです。
 賢治の心には、同じく「進退此(ここ)に谷(きわまれ)り」という状況において、信念に忠実に果敢な行動に出た先師日蓮のことが、思い浮かんだことでしょう。

 保阪嘉内あての葉書に書かれた一言、「進退谷まったのです」の内には、これらの咄嗟の思いと積年の苦悩が、込められているのだろうと思うのです。

日蓮聖人御遺文集
賢治旧蔵の『日蓮聖人御遺文集』(『写真集 宮澤賢治の世界』より)

 去る1月20日に東京大学は、今後5年前後で現在の春入学から秋入学に全面移行東京大学「入学時期のあり方に関する懇談会・中間まとめ」よりすることを目ざすと発表しました。右は、同大学「入学時期のあり方に関する懇談会・中間まとめ」による、秋入学のイメージ図です。
 改革の目的として「中間まとめ」には、(1)国際標準となっている秋季入学に合わせることで、学生・教員の国際流動性を高めること、(2)高校卒業から大学入学までのいわゆる「ギャップターム」を利用して、学生に多様な体験を積ませること、などが挙げられています。
 これには他大学も歩調を合わせるように検討を始めているということですから、もしも実現すれば、「サクラサク」「サクラチル」とかいう言葉でも人々の季節感覚に染みついた大学入学という行事が、大きく変わるわけですね。

 ところで、日本の大学が現在のような春入学になったのは、明治の最初からではなくて、当初は欧米に合わせて秋入学だったところ、大正時代に春入学に変えられたという歴史があったようです。
 以下は、「読売新聞 COME ON ギモン」からの引用です。

 1877年(明治10年)、東京開成学校と東京医学校が合併して帝国大学、現在の東京大学ができます。当時は文明開化と欧化一直線の時代。帝大の学年の始まりも欧米流の秋、9月10日(~翌年7月15日)でした。
 それが今の春入学に転換したのは1921年(大正10年)。主に、初等・中等教育の学校とそれを支える師範学校の学事暦に合わせるためでした。
 そもそも小中学校、師範学校も最初から春入学だったわけではなく、4月入学に統一されたのは明治時代中頃。1886年の高等師範学校に始まり、尋常師範(89年)、全国の小学校(92年)、中学・高等女学校(1900年)の順に春入学が定着します。
 そのうちの師範学校が春入学に転じたのは主に次の理由からでした。(1)炎熱7月の学年末試験は不合理、(2)行政の会計年度に学事暦が一致しないのは不便、(3)徴兵(20歳)の届けが4月に早められたため、高年齢入学者が徴兵免除の特典を得るには4月入学が必要――。
 大学と旧制高校は明治期こそ秋入学を継続していましたが、大正になり、政府が理由の(1)と(2)を盾に春入学を迫ると1919年、まず旧制高校が、続いて20年に大学も受け入れました。

 ということで、帝国大学が現在の春入学に改められたのは、1921年(大正10年)からだったということですが、この「1921年(大正10年)」というのは、賢治ファンにとっては特に気になる年の一つですよね。
 この年の1月、彼は家出をして東京へ行き、ガリ版切りのアルバイトをしながら国柱会の布教活動に従事しつつ、狭い下宿で厖大な童話の創作にいそしんだのです。

◇          ◇

 1921年1月23日の午後、店番をしていた賢治は棚から背中に日蓮の「御書」が落ちてきたことに啓示を受けたかのように家を飛び出し、列車に乗って翌朝には上野駅に着きました。
 彼はすぐに国柱会を訪ねて、そこに寄宿させてもらうつもりだったようですが、「東京に親戚でもあればそこに落ちつくように」と言われて会館を後にします。住居と生活費の確保に迫られた賢治は、東大赤門前の「文信社」という「小さな出版所」にガリ版切りのアルバイト口文信社「生理学総論」を見つけて、その近くに下宿を確保しました。「出版所」と言っても一般向けに出すのではなくて、真面目な東大生から有償で講義ノートを借り、それをガリ版刷りにして、ちゃんとした講義ノートを持っていない(不真面目な)東大生向けに売る、という事業だったようです。巧みな商売と言えばそのとおりで、主人は「利害打算の帝国主義者」だと賢治は書いています(書簡185)。その出版物の実例の一つは、以前に「「文信社」発行の講義録」という記事にアップしました(右図)。
 個人的に思い返してみれば、30年ほど前には京都にも同様のことをしている業者はあって、当時はもう「ガリ版」ではなくて「コピー」でしたが、試験前になると大学前に屋台が出て、優等生のノートをいくつも並べて売っていました。「文信社」の例を見ると古くから続いていた商売のようですが、ネットに自分のノートを公開している学生もある昨今では、こういう業者はもうなくなってしまったのでしょうか。

 閑話休題。この「文信社」時代に賢治は、同じ岩手出身で東京帝大経済学部の学生となる、鈴木東民という人物に出会います。鈴木は1895年生まれで賢治より1歳年長ですが、母の実家が花巻にあったということで、二人は急速に親しくなりました。鈴木東民が書き残している当時の賢治の様子は、第三者による記録が少ないこの時期の賢治に関する、貴重な証言です。
 以下は、鈴木東民「筆耕の頃の賢治」(草野心平編『宮澤賢治研究』筑摩書房)からの引用です。

 宮澤賢治と識つたのは、1920年の初冬の頃であつた。そのころ東大の赤門前に、「文信社」という謄寫屋があつた。そこの仕事場でわたしたちは識り合つたのである。「文信社」は大學の講義を謄寫して學生に賣つていた。アルバイト學生だつたわたしはそこへノオトを貸して一冊につき月八圓、ガリ版で切つた謄寫の原稿の校正をして、四ペエジにつき八銭の報酬をうけていた。賢治の仕事はガリ版で謄寫の原稿を切ることであつた。かれはきれいな字を書いたから、報酬は上の部であつたろうと思うが、それでも一ペエジ二〇銭ぐらいのものだつたろう。この仕事を専門の職業としている人でも、一日に一〇ペエジ切るのは容易でないといわれていた。

 「1920年の初冬」とありますが、これを「1920年12月より始まる冬」と解すれば、賢治が1921年1月に上京して文信社に勤めはじめたという事実経過と一致します。鈴木東民の回想は続きます。

 賢治もわたしもこの仕事場では新米であつた。かれはわたしよりさきに上京していたのかもしれないが、ここのアルバイトをするようになつたのは、わたしとほとんど同時だつたのではないかと思う。わたしはこの年の夏に仙臺の二高(旧制)を卒業し、十月に上京して「文信社」のアルバイトにありついたのであつた。休憩時間にここの主人の居間兼事務所の八畳でお茶を飲んでいたときに、何かの話からかれが花巻の生れで土地で知られた旧家の宮澤家の息子さんであることをわたしは知つた。そんなことからわたしたちは急に親しくなつたのであつた。そのころわたしの母は宮澤家のすぐ近所に、同じ町内に住んでいた。

 鈴木は、アルバイトを始めたのは賢治とほとんど同時だったのではないかと書いていますが、彼が10月に上京してすぐ開始したとすれば、3ヵ月は差があったわけです。しかし、「着物までのんでしまってどてら一つで主人の食客になってゐる人やらたくさんの苦学生、辯にならうとする男やら大低は立派な過激派ばかり」(書簡185)が集まっている中では、新入りが来てもすぐにはわからなかったのかもしれません。

 さてここで、鈴木東民が東京帝大に入学したのは、正確にはいつだったのだろうという疑問が生じます。
鎌田慧『反骨 鈴木東民の生涯』(講談社文庫) 上の文章には、「この年(=1920年)の夏に仙臺の二高(旧制)を卒業し」とあり、また鎌田慧による評伝『反骨 鈴木東民の生涯』(講談社文庫)巻末の年譜にも、1920年の項に「二高卒業」とありますから、この年に旧制第二高等学校を卒業したのは、かなり確度が高いでしょう。
 一方、東大入学については、鎌田慧著『反骨』の年譜には、1920年の項に「二高卒業」に引き続き、「東京帝国大学経済学部入学」と書かれています。これを素直に解釈すれば、1920年の秋に入学したことになります。
 しかし、上の「筆耕の頃の賢治」の記述を見ると、「この年の夏に仙臺の二高(旧制)を卒業し、十月に上京して「文信社」のアルバイトにありついた」とあります。秋入学なら、新学期は9月から始まりますから、「十月に上京」というのでは間に合いません。さらに、「二高卒業」のことは書いてあるのに、「十月に上京」の前に「東大入学」のことが書いてないのは、やや不自然です。
 ということで、鈴木東民が東大に入学したのは、1920年秋ではなくて、1921年春だったのではないか、という可能性も考えられるわけです。

 この時期は、前述のようにちょうど帝国大学が秋入学から春入学に移行する年に重なっていたためにややこしいのですが、念のためこの前後の東大の学年暦について、確認しておきます。
 東京帝国大学の1920年(大正9年)の「学年」は、9月から始まりました。下図は、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」から、『東京帝國大學一覧 從大正八年 至大正九年』の「第一章 學年暦」のページです。

『東京帝国大学一覧 從大正八年 至大正九年』

 大正9年までは、9月11日が「學年始ル」とされていました。
 次に、同じく「近代デジタルライブラリー」から、『東京帝國大學要覧 從大正十年 至大正十一年』の「第一章 學年暦」です。

『東京帝国大学要覧 從大正十年 至大正十一年』

 大正10年からは、4月1日が「學年始ル」となっています。
 となると、大正9年9月に入学した学生は、いつから「大学2年」になったのだろうという疑問がまた湧いてきますが、これは大正10年4月からだったようです。つまり、この年の「大学1年」は半年余りしかなかったわけですね。例えば、大正9年9月に東京帝国大学に入学した川端康成の第一学年は実質7ヵ月だった旨が、「東京紅團」の「川端康成散歩 東京帝大時代を歩く」に紹介されています。

 鈴木東民の話に戻ると、大正9年夏に第二高等学校を卒業した鈴木にとっては、川端康成と同じく大正9年9月に東大に入学することもできたわけです。ただしこれは、「十月に上京」という本人の回想に照らし合わせると若干の難点があることは、すでに触れました。
 あらためて、鈴木東民が入学したのは、大正9年9月か大正10年4月か、どちらだったのか。
鈴木東民年譜より これをさらに考えるために、彼の卒業年を調べてみると、前述の鎌田慧著『反骨 鈴木東民の生涯』の年譜(右図)には、1923年(大正12年)の項に、「東京帝国大学卒業。大阪朝日新聞入社。」と書かれています。すると、当時の帝国大学は修業年限3年でしたから、1921年(大正10年)4月に入学したのであれば、卒業は1924年(大正13年)春となってしまい、この記述とは合いません。一方、1920年(大正9年)9月に入学しておれば、実質的な在学期間は2年半ですが、1923年春に卒業となり、この年に就職したという鎌田慧氏の右年譜と一致します。

 しかしまたこの説にも難点があって、鎌田氏の評伝本文にも記されていることですが、1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災の際に、鈴木東民は東京で被災しているのです。『反骨』によれば、「そのころ、東民は麻布のある家の居候になっていた。大手商社の上海支店長の留守宅で、子どもの教育をみたりの用心棒兼用だった。」とありますから、彼は一時的に東京に来ていたのではなく、東京で生活していたのです。これは、「1923年に大阪朝日新聞に就職した」という記述とは合致しません。
 さらに『反骨』には、震災直後に鈴木東民が、東大の恩師である吉野作造の研究室に行ったことも記されています。

 東民はこのとき、大阪朝日新聞への入社がきまっていた。それで恩師の吉野作造に挨拶するため東大へむかい、吉野の研究室の書籍を毛布に包んでなんどかはこびだした、とセイはきかされている。

 「セイ」というのは東民の妹ですが、9月の時点で「就職内定」していたのであれば、卒業は翌1924年(大正13年)3月で、大阪朝日新聞入社は4月だと考えるのが自然です。吉野作造の研究者の方による「Essais d'hermeneutique」というブログにも、1923年9月1日に吉野は午前10時に出勤し、大阪朝日新聞に就職が内定していた学生の鈴木東民の紹介状を河上肇あてに書いていた、とあります。この記載は、吉野作造の「吉野日記」に依っているのではないかと推測しますが、機会があれば確認してみたいと思っています。
 このように、鈴木東民が関東大震災の時点で学生だったとすれば、その大学卒業・就職が1923年だったというのはもちろんありえないことで、実はそれは1924年春のことだったのではないでしょうか。すなわち、この頃の鈴木の経歴は、下記のようになものだったのではないかと、私は考えるのです。
 鎌田慧氏による年譜のズレは、ちょうど秋入学から春入学へという変化の年に重なったために、生じたものではないでしょうか。

1920年 7月  第二高等学校卒業
      10月  上京 「文信社」でアルバイト開始
1921年 1月? 賢治と知り合う
        4月  東京帝国大学入学
1923年 9月  関東大震災に遭う
1924年 3月  東京帝国大学卒業
        4月  大阪朝日新聞入社

 となると、鈴木東民は、夏に旧制高校を卒業してから翌年春に大学に入学するまでの約半年の自由時間の間に、賢治と出会ったわけです。それは、たまたま学制変革の年に当たったために現われた、一種のモラトリアムでした。彼はこの間に上京して、文信社で出版校正に携わりましたが、それは、在学中から「帝国大学新聞」に所属し、卒業後は大阪朝日新聞に就職してジャーナリストの道を歩んだ鈴木東民の、出発点とも言える仕事だったかもしれません。
 現在、東大が打ち出している秋入学計画では、春に高校を卒業して秋に大学に入学するまでの猶予期間を「ギャップターム」と呼び、これを利用して学生に「質の高い多様な体験を積ませる」と謳っています。東民と賢治の出会いも、お互いにとってそのような貴重な体験だったのではないでしょうか。

◇          ◇

 鈴木東民は「筆耕の頃の賢治」において、さらにその後の賢治との関わりについても記しています。

 その翌年の夏休みが終つてわたしが上京したときは、もうかれは東京にいなかつたのではないかと思う。かれの姿を「文信社」の仕事場に見ることはなかつた。それから数年経つてわたしが大阪朝日新聞の記者として、京都支局につとめていたとき、萬朝報という新聞の文藝欄で、かれの最初の詩集、「春と修羅」の批評を讀んだ。評者は放浪の詩人、辻潤であつたが、日本の詩壇にかつてその例を見ない傑作だといつて絶讃していた。わたしはうれしくてたまらなかつた。賢治は風呂敷の中味を童話だといつていたが、詩も一緒に入れてあつたのかもしれない。いずれにせよかれの腰のものが世の脚光を浴びるときが來たのだと、わたしは思つた。手をふるわせながらわたしはお祝いの手紙をかいた。すると折り返して豪華本の「春と修羅」をかれは送つてよこした。その二年後にわたしはヨオロッパに渡り、十年経つて帰國したときには、宮澤賢治はもはやこの世の人ではなかつた。しかし若い日の自信にみちた彼の壮語は現實となつていた。
 1921年の夏休みに、母のもとに帰つたわたしは、宮澤家に招待されて御馳走になつたことがある。學生のくせにお酒まで遠慮なしに頂戴した。その時のお給仕役がかれで、無器用な手つきでお銚子などを運んで來たものである。もちろんかれは一滴も酒は飲まなかつた。若いときのこととはいえ、今その時のことを回想して、わたしは自分の無作法さに汗の流れる思いがする。それは貧乏ぐらしをしていたわたしたち母子によせてくれたかれの好意であつた。わたしにとつて終生忘れることのできない思い出である。
 文信社の仕事場でも、かれはわたしの健康を気遣い、アルバイトはほどほどにしてくがよいといつて、しばしば注意してくれた。しかしわたしの校正の仕事よりも、鐵筆で油紙に一字一字刻むかれの労苦の方が、比較にならぬほど辛いものであつたろう。

 この後の鈴木東民は、ドイツに渡ってヒトラー批判を展開したり、戦後は読売争議の先頭に立ったり、釜石市長に当選して「橋上市場」の建設を実現する一方、環境への配慮から新日鉄釜石の公害問題を追及した結果、四選ならず落選するなど、文字どおり「反骨」の生涯を貫きました。

 もしも賢治が長生きしていたら、二人の間にどんな交友が続いただろうと、想像します。

アグニ神との再会

 1916年(大正5年)4月13日、盛岡高等農林学校の「自啓寮」に、新入生の保阪嘉内が入寮しました。室長は、2年の宮澤賢治。自己紹介で嘉内が「トルストイを読んで百姓の仕事の崇高さを知り、それに浸ろうと思った」と述べたのに対し、賢治は「トルストイに打込んで進学したのは珍しい」と評したといいます。
 この後、短歌創作に熱心だった二人が親しくなっていったのは自然なことだったでしょう。4月22日には、賢治と嘉内は石川啄木に思いをはせるために、二人で盛岡中学のバルコニーに立っています。

 そして5月20日には、寮全体の懇親会が行われました。この時、各部屋ごとに何か余興をやることになっていて、賢治たちの「第九室」は、なんと新入生の嘉内が書いた脚本をもとに、劇を上演したのです。主演、演出も嘉内がつとめたのですが、入寮から1ヵ月と少しでこの活躍とは、嘉内の積極的な性格を存分に示しています。
 劇の題名は、「人間のもだえ」。そのあらすじは、「全能の神アグニ」「全智の神ダークネス」「恵の神スター」のもとに3人の人間が現れ、それぞれの悩みや弱さを訴え、互いを羨んでばかりいるのに対し、神たちは「お前たちは土の化物だ」「人間はみんな百姓だ。百姓は人間だ。百姓しろ。百姓しろ。百姓は自然だ」と教え、農業こそが「永遠の国」への道であることを教える、というものです。
 単純ですが明快な主張で、まさに農林学校の学生の演し物にふさわしいと言えるでしょう。登場人物の一人は人間の「女」で、もちろん男子学生が女装して演じましたから、その辺には観客の笑いをとる仕掛けもちゃんとしてあったというわけです。
 ちなみに、脚本冒頭の嘉内と賢治の扮装を記した部分を、ここに引用しておきます。

□全能の神(アグニ) 頭赤毛旋回す。赤色ギリシア服。赤色シャツ。口に墨にて大きく隈取る。笞と松明とを持つ、赤顔。              (保阪)
□全智の神(ダークネス) 地頭、顔真黒、体全部黒、目のまわり銀隈。服黒色。望遠鏡と厚き洋書とを持つ                     (宮沢氏)

 首席入学して、前年に続きこの年も特待生だった秀才・賢治が「全智の神」をやるのはぴったりという感じですが、入学早々自分に「全能の神」の役を割り当てた嘉内も、相当な肝っ玉ですね。

 ここで、嘉内が名付けた神様の名前がちょっと不思議なのですが、「全智の神ダークネス」「恵の神スター」は、ごく簡単な英語の名前であるのに対して、自分が演じる「全能の神」だけは、「アグニ」という聞き慣れない名前にしてあります。
火の神「アグニ」(18世紀細密画より) 調べてみると「アグニ」とは、インドの古代神話『リグ・ヴェーダ』にも現れ、その後ヒンズー教に取り入れられた「火の神」だということです(Wikipedia参照:右写真も同頁より引用)。嘉内がなぜここに全能の神としてインドの「アグニ」を持ってきたのかはよくわかりませんが、その扮装が上記のように真っ赤であることを見ると、やはり「火の神」としてイメージしていたのでしょう。熱血漢だった嘉内のキャラクターには、火の神はぴったりですが。
 それに、劇の最後で「アグニ」は手にしている松明で人間たちが「永遠の国」へと向かう行く手を照らしてやるのですが、これは翌年の7月に賢治と嘉内が一緒に夜の岩手山に登った際、消えそうな松明の火を二人で吹きつつ、将来を誓い合ったというエピソードにもつながる感じで面白いです。

 それにしても、賢治が顔を真っ黒に塗って、目のまわりに銀の隈取りをしているところも、ぜひ見てみたかったものですね。

 下の有名な写真は、自啓寮「第九室」の面々が、「人間のもだえ」を上演して1週間後の5月27日に、盛岡高等農林学校の植物園で写したものです。劇も好評を博して互いの絆も深まり、一つここは同室の仲間で、記念写真でも撮っておこうということになったのでしょうか。
 手前で大胆に腹ばいになっているのが保阪嘉内(全能の神アグニ)、後列中央が宮澤賢治(全智の神ダークネス)、右端が岩田元兄(恵の神スター)、右から二人目が伊藤彰造(土人)、左端が萩原弥六(英雄)、左から二人目が原戸藤一(女)を、それぞれ演じました。

盛岡高等農林学校植物園にて
植物園における寮友の記念写真(『新校本宮澤賢治全集第十六巻上』(筑摩書房)より)

◇          ◇

 さて時は変わって、1921年(大正10年)。この年の1月に賢治は家出をして、8月か9月頃まで東京で一人暮らしをするのですが、7月13日の関徳弥あての手紙には、「私は書いたものを売らうと折角してゐます」との言葉が出てきます。先日の韮崎における望月善次さんの講演では、賢治の「文学的自立」への志向を示す重要なポイントとされていました。
 この時、賢治が「書いたもの」を売ろうとしていた先はどこだったのか、確定的な史料は残っていませんが、鈴木三重吉が1918年(大正7年)に創刊した童話雑誌『赤い鳥』が、その重要な目標だったのではないかという説が有力です。
 例えば恩田逸夫氏は、次のように書いています(「宮沢賢治の童話文学制作の基底」)。

 賢治は中央文壇と関係があったわけではないから、彼の童話制作開始の時期と赤い鳥の創刊とは偶然に軌を同じくしているにすぎぬかもしれない。しかし、賢治がそれ以前から外国の童話などに関心を持っていたことは考え得ることであるし、『赤い鳥』発刊によって創作意欲にまで高められたことは想像できるのである。賢治の童話多産の年が、大正十年の上京の時とされているが、この際には『赤い鳥』の運動は明らかに彼の注目するところとなっていたであろう。多かれ少なかれその影響下にあったことは想像にかたくない。

 あるいは野口存弥氏は、「編集サイドからみた大正児童文学(7) 宮沢賢治の童話」において・・・。

 大正七年半ばに突然、自然発生的に書き始めたというようなことはあるはずがないとみなければならない。すでに触れたとおり、『赤い鳥』創刊号は大正七年六月下旬に発売され、書店に並べられた。恐らく賢治は創刊号を読み、とくに芥川龍之介の「蜘蛛の糸」から深い示唆を受けたのではないかと推定される。

 また最近では井上寿彦氏が『賢治、『赤い鳥』への挑戦』において、賢治の初期の童話にはかなり長編のものと原稿用紙10枚程度に短いものが混在しており、またルビが振ってあるものとないものも混在しており、短くてルビの付いている作品は、『赤い鳥』の「募集創作童話」に応募することを念頭に書かれたものではないかと推測しておられます。

 ということで、賢治が東京にいた1921年(大正10年)の『赤い鳥』を見てみると、一月号と二月号にわたって、芥川龍之介の「アグニの神」という童話が連載されているのです!
 上海を舞台にインド人の老婆などが出てくる伝奇的な物語ですが、そのテキストは青空文庫で読めますので、よろしければご参照下さい。

 つまりこういうことです。東京に出て童話を書いていた賢治は、『赤い鳥』の誌上で久しぶりに「アグニの神」に再会していた可能性が非常に高いと思われるのです。野口存弥氏の推測のように、創刊号で芥川龍之介に示唆を受けていたのなら、なおさらです。
 5年前に自分も一緒に、生まれて初めて演じた劇、そこで親友の嘉内が演じていた「アグニの神」。思わずも懐かしい名前に遭遇して、賢治はどんな思いでこの芥川の小篇を読んだのでしょうか。私には、とても興味深く感じられます。

 そして、そのまたしばらく後、賢治はその「火のような」男、保阪嘉内にも久しぶりに会い、それが生涯で最後の面会になるのです。

青年賢治の目ざした仕事

 青年時代までの賢治が、自分の将来の職業や目標についてどのように考えていたのか、賢治自身が書いたものから抜粋してみます。

  • 1907年(明治40年)2月:10歳(花巻尋常高等小学校4年の綴り方)
    私はお父さんの後をついで、立ぱな質屋の商人になります。

 これはまだ「青年賢治」になる前の、番外篇的エピソードであるが、賢治が小学校で種々な影響を受けた八木英三担任が退職するにあたり、「立志」という題で児童に綴り方を書かせた際に、賢治が書いたという一文である。
 ここには、まだあどけない健気な「孝行息子」の姿がある。

  • 1917年(大正6年)1月16日:20歳(トシあて[書簡30])
    私もまあ、大低学校を出てからの仕事の見当もつきました――則ち木材の乾溜、製油、製薬の様な就れと云へば工業の様な仕事で充分自信もあり又趣味もあることですからこれから私の学校の如何に係らず決して心配させる様な事はありません。

 盛岡高等農林学校2年時に、日本女子大在学中の妹トシに書き送った内容。初めて賢治が自分の意思や知識にもとづき、将来の希望について述べた。ここでまず挙げられたのは、「化学工業」的な仕事である。

  • 1918年(大正7年)2月1日:21歳(政次郎あて[書簡43])
    就ては教授の御考にては小生同級の鶴見氏又は小生の中一人学校の研究生として残り費用は大体稗貫郡より得て本土性の調査を行ひ他によき就職口のあり次第之に廻すとの事に御座候(中略)
    扨て右は兼て父上の御勧め下され候如く研究科にも残り稗貫郡の仕事にても有之又研究中も大体月二十円位は得べく誠に好適なる様に御座候へども小生は之を望み兼ね申し候 研究科には残り候とも土性の調査のみにては将来実業に入る為には殆んど仕方なく農場、開墾ならば兎に角差当たり化学工業的方面に向ふには全く別方面の事に有之候

 高等農林学校卒業を目前に控えた時期の父あて書簡で、父は研究生として学校に残ることを勧めるのに対し、賢治は「化学工業的方面に向ふ」には土性調査は役に立たないことを理由に、研究生にはなりたくないと言っている。
 賢治はやはりこの時点でも、前年にトシに告げていた「化学工業的方面」を目ざしていたことがわかる。「土性調査などやっても役に立たない」と言っているが、実はこの経験が将来の「肥料設計」においては役立つことになるのが、人生の不思議である。

  • 1918年(大正7年)2月2日:21歳(政次郎あて[書簡44])
    先づは自ら勉励して法華経の心をも悟り奉り働きて自らの衣食をもつくのはしめ進みては人々にも教へ又給し若し財を得て支那印度にもこの経を広め奉るならぱ誠に誠に父上母上を初め天子様、皆々様の御恩をも報じ折角御迷惑をかけたる幾分の償をも致すことゝ存じ候
    依て先づ暫らく名をも知らぬ炭焼きか漁師の中に働きながら静かに勉強致したく若し願正しければ更に東京なり更に遠くなりへも勉強しに参り得、或は更に国土を明るき世界とし印度に御経を送り奉ることも出来得べくと存じ候

 前の書簡の翌日付のものであるが、ここでは「先づ暫らく名をも知らぬ炭焼きか漁師の中に働きながら静かに勉強致したく・・・」と、前日の「化学工業的方面」とは全く違ったことを述べている。
 いきなり「炭焼き」や「漁師」など肉体労働者になるとはあまりに極端な主張で、なかなか希望を受け容れてくれない父親への反発が感じられる。

  • 1918年(大正7年)6月20日:21歳(政次郎あて[書簡71])
    (研究生としての今後の予定を記した後)
    右の如くにては今年及来年四月迄は全く書籍二三冊も読み難く又自分の研究等は勿論出来ざる次第にて実は来年四月に至り候とも全く何の仕事に従事すべきや見当附かざる次第に御座候
    (続いて最近は実験でも失敗ばかりしていることを述べ)
     仍て本日先生にその事情を総て話し且つは失敗の詫をも致し候。特に早く林の中か海浜かにて静なる職業に従事しとし子の保養等も出来る様致し度き旨等も申し述べ候。且つ若し成る事ならば本年末迄に予定の仕事を総て終へて一月よりは諸方工場の見学等に歩き度き旨申し候。

 結局、賢治は父の意見に従い4月から研究生となったのだが、早くも6月には、研究生を辞めたいと教授と父親に願い出る。理由は、「忙しくて自分の勉強や研究ができない」「自分には実験や分析は向いていない」「続けていても将来の仕事の見当が附かない」等々。
 続いて述べるところの、「早く林の中か海浜かにて静なる職業に従事し」という部分は、「炭焼き」や「漁師」になると言った2月の書簡とつながっていると思われ、「一月よりは諸方工場の見学等に歩き」という部分は、「化学工業的方面」の仕事との関連と思われる。

  • 1918年(大正7年)6月22日:21歳(政次郎あて[書簡72])
    序を以て私の最希望致し候職業の初め方をも申し上げ候
    実は私の今迄勉強したる処にては最、地に関係ある則ち岩石、鉱物等を取扱ひたくは存じ候へども右の仕事はみな山師的なることのみ多く到底最初より之を職業とは致し兼ね候
    依て他に一定の職業有之候はば副業的に例へばセメントの原料を掘りて売るとか石灰岩や石材を売るとかその他に極めて小規模の工場にて出来る精錬の如き事も有之可成実験的に仕事を続け得べくと存じ候

    (続いて岩手県内で産出の見込みのある鉱物を列挙した後)
    依て最初は極めて小規模に炭焼の煙より薬品の分離等を致し旁ら香料の蒸留とか油類の抽出等をも行ふとすれば充分の事と存じ候
    就ては斯る林の仕事は材木より調材迄は若し可能ならば直接に経営せざる方最望ましき所に有之就ては只今単に炭を焼き居り候処にてその煙を用ふるを最得策と致し候
    (中略)
    若し林の仕事不可能なるときは花巻の近くにて単に諸製材所の鋸屑を買ひ集めて薬品を製する事も得べく候

 前の書簡で研究生を辞めたいと言って、父から「忍耐力がない」とたしなめられた賢治は、性に合わない実験も「忍びを習ふ道場」と思って続けるつもりだと書いた後、自分の将来の職業の希望について、より詳しく述べる。
 まず、ここで初めて「岩石、鉱物等を取扱」う、鉱業的方面の仕事が登場したことが注目される。以前の賢治は化学工業的方面を希望していたのであるから、この変化には、稗貫郡土性調査に従事してこの方面の知識を得たことの影響が大きいと思われ、それは少年時代に「石コ賢さん」と呼ばれた彼自身の嗜好にも合致するものであった。
 具体的に挙げられている内容のうち、「石灰岩や石材を売る」という事業が、この十数年後に東北砕石工場の技士兼セールスマンとして現実化したことは、興味深い。石灰肥料を売るだけでは採算が難しくなった東北砕石工場の新規事業として、建築用の人造石材製造を提案したのは賢治であり、そこにはこの頃の着想が生かされていると言える。ただし、その石材を売り込むために、重い見本を持って上京し病に倒れたのは、この上ない悲劇だったが。
 さらにこの書簡では、以前にやけくそ的に言い出した「炭焼きになる」という話が、「炭焼きの煙から薬品等を抽出する」という化学工業的な事業に結びつけられているのも面白い。

  • 1918年(大正7年)〔8月〕:21歳(保阪嘉内あて[書簡83a])
    私は長男で居ながら家を持って行くのが嫌で又その才能がないのです。それで今私は父に、どうかこれから私を家が雇って月給の十円も呉れる様な様式(形式ではない、本統に合名会社にでもして仕事をするつもりです ことに鉱業的なこと、又工業原料的なこと)にして呉れまいかと頼んでゐます。そして又この辺では沢山仕事はありますがみな大きな資本が要ります。とても私などが経営できる事はありません。とにかくこの様にして三十五迄も働けば私の父と私の母とが一生病気にかゝっても人に迷惑をかけないで済む様な状態に私の家がなります。それは私が稼いでそうなるのではなくて今私の家にある株券(少しの)や何かゞ生活費さへ償って行けばひとりでに三万円位にはなるでせう。(中略)
    今の夢想によればその三十五迄には少しづゝでも不断に勉強することになってゐます。その三十五から後は私はこの「宮沢賢治」といふ名をやめてしまってどこへ行っても何の符丁もとらない様に上手に勉強して歩きませう。それは丁度流れて、やまない私の心の様に。

 保阪嘉内にあてて、上の書簡で父親に述べたようなことを「合名会社」としてやりたいということを書き送る。後半は、35歳を過ぎたら家を出て自由に暮らしたいということであろうか。

  • 1918年(大正7年)〔12月初め〕:22歳(保阪嘉内あて[書簡93])
    私のうちでは今の商売を大正九年まで続けて居ればそれから後は学費もあまり要らないし学校を出たものはみな働くし先づ仮令父が今の様に病気でも何とか出来るのです 今私が私の望むように東京へでも小工場を持つといふことは家としては非常な損ですし又当分は不可能です
    又私一人、家にかゝはりない私、箇人としてはさっぱりそんなもうけることはしたくありませんししなくても畑の三段歩も耕してゐれば静に自分を完成して行くことが出来るのです。けれどもそれは私丈のことです。
    みんなの為を思ふならば先づ自分を完成しなければなりませんがその道/方法は自分の為でもほかのひとの為でもいゝ訳だらうと思ひました
    (中略)
    けれども若しできるならば早く人を相手にしないで自分が相手の仕事に入りたいと思つてゐます
    えらい人たちは烈しい人の心の中で恐れず怒らず自分の道を進んで行くやうですが私には当分そんなことは見込ありません やはり険しい世界へ入ればそれにばかり気をとられてしまひます それですから大正九年以後の私の仕事は今からお約束致しかねます 多分はまだ林のなかへは入り兼ね小さな工場を造つてその中で独りで、しんみりと稼ぎませう。

 これも保阪嘉内あて書簡であるが、「東京へでも小工場を」という希望が登場している。
 この書簡も前の書簡もそうであるが、この頃の賢治には、「世の中や人のために尽くす」という発想は見られず、「人を相手にしないで自分が相手の仕事」を目ざしている。

  • 1919年(大正8年)1月31日:22歳(政次郎あて[書簡135])
    然れどもいつまでこの儘にも参らざる訳故幸有之とし子の方も定まり候はゞ早速仕事に掛り度と存じ候。
    その方法は大体次の如くに致し候。
    先づ第一期に於ては
    (一)、飾石、宝石及印材ノ研磨。(仕上ノミ、)
         (小器具、宝石用小函、文鎮等ノ製造。)
    (二)、金属部ヲ買入レテネクタイピン、カフスボタン、指環等ノ製造。
    (三)、鍍金。
    (四)、(砂金ヲ地方ヨリ買入、債権ヲ市内ヨリ買入)
    丈を適宜取り合わせて始め、製品は小売店、(市内及地方。)の確実なる所へ売り度、尤も東京には指環宝石等の買入商は多く有之候。
    右仕事にて一定の収入を得る見込に至らば、人をも使ひ、実際に収入を得たる後には次第に第二期の仕事則ち以上の外に
    (五)、鉱物合成(宝石人造。)
    (六)、宝石飾石改造。
         (不良の宝石を良質に変ずる等。)
      及副業として
    (七)、絵具製造。
    を始め度と存じ候。

 前年末に東京で病に倒れたトシを看病するため上京中の手紙。トシの病状もほぼ落ち着き、この機会にかねての「東京へでも小工場を」という希望を実現すべく、父に積極的に働きかける。計画の内容は、「化学工業」の方向ではなく「岩石・鉱物」の関係である。
 賢治はこの直後にも、小工場の設備予算の見積もりなどを書き送って父の賛同を求めるが、現実家の父はこれを認めない。

  • 1919年(大正8年)2月5日:22歳(政次郎あて[書簡140])
    私の職業等は又後の問題に致しても宜しく候へどもそれ程までに稼ぐと云ふ事が心配なるものに御座候や。何卒私に落ちつきてまじめに働くべき仕事を御命令被成下度候。車の後押にても純粋の百姓にても何にても宜しく候。又は私に自由に働く事を御許し下され候や。宝石等を扱えばこそ都会に住む事も必要に御座候。どこにても宜しく候。

 トシの病状が回復して花巻に帰るべき時期が近づき、賢治にも焦りが見える。「車の後押にても純粋の百姓にても何にても宜しく候」と、またやけくそ的なことを言っている。「車の後押」については、『新校本全集』第十五巻の「校異篇」に、『明治世相百話』からの次の引用がある。「山ノ手方面には急勾配の坂が多く、九段をはじめ湯島の切通し、神田の明神坂、小石川の富坂などみな急坂で道幅も今の半分以下、坂下にはルンペンの立ちん坊がゐて、一銭づつで荷車や人力の後押し、見るも気の毒なほどに骨が折れた。」
 このような「車の後押」と、「純粋の百姓」とが並列されているところに、当時の賢治の「百姓」に対する意識が現れているのではなかろうか。

  • 1919年(大正8年)〔7月〕:22歳(保阪嘉内あて[書簡152a])
    私ならば労働は少くとも普通の農業労働は私には耐え難いやうです。これはちいさいときからのからだの訓練が足りない為ですからもし本当に稼ぎたいと思ふならばこれからでも遅くはない。稼ぐのを練れるには遅くはない。けれどもその間は私の家は収入を得ない。少くとも収入は遥に減ずる。
     あゝ私のからだに最適なる労働を与へよ。この労働を求めて私は満二ヶ年aからb、bからc、つかれはててやっぱりもとのまゝです。もう求めません。商人は生存の資格がないと云ふものも出て来い。きさまは農業の学校を出て金を貸し、古着をうるのかと云ふ人もあるでせう。これより仕方ない。仕方ないのですから仕方がないのです。

 労働に対する悲観とあきらめにも似た気持ちを述べる。「きさまは農業の学校を出て金を貸し、古着をうるのかと云ふ人もあるでせう。これより仕方ない。仕方ないのですから仕方がないのです」という言葉から考えると、この時点では(渋々ではあるが)家業を継ぐ気持ちになっていたのであろうか。

  • 1920年(大正9年)〔2月頃〕:23歳(保阪嘉内あて[書簡159])
    これからさきのことは予定はしてありますがどう変るやら。とにかく私にはとても私の家を支えて行く力がありませんので多分これは許して貰へるでせう。三十余年を私のために柄にもない商売の塵のなかに閉ぢこもりなほ私を開放しやうとする私の父に感謝いたします。

 「私にはとても私の家を支えて行く力がありませんので多分これは許して貰へるでせう」「私を開放しやうとする私の父に感謝」という言葉からは、家業を継がなくてよいと父からも認めてもらえる(したがって自分は継がない)という見通しが持てたことが、推測される。家業は弟の清六が継ぐという雰囲気が、家庭内で徐々に固まってきたのだろうか。
 では自分は何をするのかとなると、「予定はしてありますがどう変るやら」とだけ言う。

  • 1920年(大正9年)8月14日:23歳(保阪嘉内あて[書簡168])
    来春は間違なくそちらへ出ます 事業だの、そんなことは私にはだめだ 宿直室でもさがしませう。まづい暮し様をするかもしれませんが前の通りつき合ってください。今度は東京ではあなたの外に往来はしたくないと思ひます。真剣に勉強に出るのだから。

 前の書簡で「予定はしてあります」と言っていたのは、「東京に出て勉強する」ということだったようである。
 「宿直室でもさがしませう」との言葉は、実際に翌年に家出上京して国柱会館に飛びこみ、「下足番でもビラ張りでも何でも致しますからこちらでお使ひ下さひますまいか」と言ったことの前触れのようでもあるし、また後年の「〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕」において、「そしてまもなくこの学校がたち/わたくしはそのがらんとした巨きな寄宿舎の/舎監に任命されました」という箇所も連想させる。

  • 1921年(大正10年)〔1月中旬〕:24歳(保阪嘉内あて[書簡180])
    お便り拝見いたしました
    あなたは春から東京へ出られますか
    お仕事はきまってゐますか
    私の出来る様な仕事で何かお心当りがありませんか
    学術的な出版物の校正とか云ふ様な事なら大変希望します
    今や私は身体一つですから決して冗談ではありません
    けれどもあなたにひどく心配して戴く事は願ひません 学校へは頼みたくないのです
    勉強したいのです 偉くなる為ではありません この外に私は役に立てないからです

 1月23日の家出上京の直前の書簡である。「学術的な出版物の校正」という目算は、「宿直室」という案よりも実際に家出中に「文信社」で行った仕事に近づいている。
 それにしても、「勉強したいのです」「この外に私は役に立てないからです」との言葉が悲痛である。現実の賢治は後年になると、教師として、農業指導者として、たぐいまれなほど「人のために尽くした」生涯を送ったと見なされるようになるのだが。

  • 1921年(大正10年)〔12月〕:25歳(保阪嘉内あて[書簡199])
     暫らく御無沙汰いたしました。お赦し下さい。度々のお便りありがたう存じます。私から便りを上げなかったことみな無精からです。済みません。毎日学校へ出て居ります。何からかにからすっかり下等になりました。それは毎日の NaCl の摂取量でもわかります。近ごろしきりに活動写真などを見たくなったのでもわかります。又頭の中の景色を見てもわかります。それがけれども人間なのなら私はその下等な人間になりまする。しきりに書いて居ります。書いて居りまする。お目にかけたくも思ひます。愛国婦人といふ雑誌にやっと童話が一二篇出ました。一向いけません。学校で文芸を主張して居りまする。芝居やをどりを主張して居りまする。けむたがられて居りまする。笑はれて居りまする。授業がまづいので生徒にいやがられて居りまする。
    春になったらいらっしゃいませんか。関さんも来ますから。さよなら。

 7月の東京における保阪嘉内との重大な会見を経た後、農学校に就職したことを報じた書簡である。この間いろいろあったが、賢治はやっと「仕事」に就くことができた。
 やや自らを茶化すような筆致ながら、「学校で文芸を主張して居りまする。芝居やをどりを主張して居りまする。」というところは、嘉内とともに『アザリア』で青春をかけた「文芸」を、さらに賢治が嘉内から多くを教えられた「芝居」を、今も自分がやろうとしていることについて、ぜひ親友に伝えたい気持ちが行間からにじみ出ているようである。

  • 1925年(大正14年)6月25日:28歳(保阪嘉内あて[書簡207])
    お手紙ありがたうございました。
    来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます いろいろな辛酸の中から青い蔬菜の毬やドロの木の閃きや何かを予期します わたくしも盛岡の頃とはずゐぶん変ってゐます あのころはすきとほる冷たい水精のやうな水の流ればかり考へてゐましたのにいまは苗代や草の生えた堰のうすら濁ったあたたかなたくさんの微生物のたのしく流れるそんな水に足をひたしたり腕をひたして水口を繕ったりすることをねがひます
    お目にもかゝりたいのですがお互ひもう容易のことでなくなりました 童話の本さしあげましたでせうか

 現在わかっているかぎりでは、賢治が保阪嘉内にあてた最後の書簡である。
 この書簡に関しては、大明敦氏が述べられたように、また最近「りんご通信」において signaless さんが書いておられるように、「来春は私教師をやめて本統の百姓になって働きます」の、「も」という一文字に、賢治がこめた万感の思いを想像せざるをえない。
 ここに至って、かつて嘉内が語っていた理想と、賢治自身の生き方が、やっと重なり合ったのである。

◇          ◇

 もちろん、賢治の仕事はまだここで終わっているわけではありませんが、とりあえず20代までを通覧すると、賢治の目ざした「仕事」は、次のように推移していきました。

  1. 家業を継ぐ(小学生~)
           ↓
  2. 化学工業的事業(盛岡高等農林学校2年~)
    木材の乾溜、製油、製薬等。「炭焼きの煙」利用の話も。
           ↓
  3. 鉱物・岩石関係の事業(盛岡高等農林学校研究生~)
    岩手県内の鉱物の採取販売案から、東京における小工場案へ。
           ↓
  4. 家業を継ぐ(1919年頃)
    父とのさまざまな議論の後、あきらめにも似た心境で。
           ↓
  5. 家業を継がず、東京で(保阪嘉内とともに)「勉強」(1920年~)
    賢治としては、日蓮主義の「勉強」のつもりであったろう。
           ↓
  6. 保阪嘉内は上記の方針に同意せず、失意の帰郷(1921年夏)
    結局、この年の12月から農学校教師となる。
           ↓
  7. 農学校を辞職して、羅須地人協会を始める(1926年春~)

◇          ◇

 長々と書簡などを引用してしまいましたが、今回の記事で私が言いたかったのは、簡単に次のことです。
 賢治は、高等農林学校の農学科まで卒業しましたが、自らが農業と関わろうと考えた様子は、上のように少なくとも農学校に就職するまでは、全く見られなかったという事実です。
 高等農林在学中はもちろん、1918年に卒業してから1921年の終わりに農学校教師となるまで3年以上、おもに化学工業または鉱業に関連した事業を模索してはみましたが、その企画は父親から見ると机上の空論にすぎず、賢治もそれを具体化させることはできませんでした。この間、賢治が農業に対して関心を払っていた形跡はありません。
 もちろんその後の賢治は、教師として科学的な農業の普及に努め、さらには自ら「本統の百姓」になって、羅須地人協会の活動や肥料相談などを通じて、農民の生活の改善に身を捧げました。これはまぎれもない事実ですし、その尊い志をもって「農聖」と讃える人もあります。
 しかし、ある時期までの賢治は、そのような生き方をしようとは、考えてもいなかった青年だったのです。

 それでは、賢治はどのような経緯で、「農民のために生きよう」と考えるようになったのでしょうか。
 その一つの要因は、農学校教師として生徒たちとじかに接することにより、農家の生活の実態に触れ、何とかしてその改善のために力を尽くしたいと思うようになったことでしょう。

 そしてもう一つの要因として私がどうしても強く意識するのは、保阪嘉内の存在です。嘉内は、甲府中学在学中から弁論部で「美的百姓」「花園農村の趣味及び目的」などの演説を行い、後者の結びでは「諸君百姓たれ」と述べています。また彼は、盛岡高等農林学校に入学した年に自ら脚本を書いて寮の懇親会で上演した「人間のもだえ」という劇においても、最後に「人間はみんな百姓だ。百姓は人間だ。百姓しろ。百姓しろ。百姓は自然だ。」と、神に言わせています。
 ただ、嘉内はこのような農業観を盛岡高等農林学校在学中にも折に触れ周囲に語っていたはずですが、親友であった賢治の方は、自らの生き方に関しては、この嘉内の考えから影響を受けていた様子はありません。それは上に見たとおりで、1921年の家出上京中にも、特に農業への関心は示していません。

 そのような賢治の考えが、どこから変化したのか?
 私はそれは、1921年7月の、嘉内との深刻な「会見」が契機となったのだろうと思います。この時、二人の間でどのような議論が行われたのかはわかりませんが、おそらく嘉内は、自ら百姓となって農村に尽くす昔からの決意を語ったのではないかと、私は思います。賢治は、あらためて国柱会への入会を嘉内に迫ったかもしれませんが、そうだとすれば、賢治の観念的なレベルの話と、嘉内の具体的・現実的な話は、なかなかかみ合わなかったでしょう。
 話し合いは物別れに終わったのだろうと思いますが、賢治の心の中には、無念さや悲しみとともに、嘉内が農業にかける熱い思いが、あらためて強く刻まれたのではないかと、私は思うのです。
 上のように賢治の考えを時系列でたどってみても、家出上京してから花巻に帰郷するまでの間の時期というのが、転回点としてどうしても重要に感じられるのです。

 これが、1921年の嘉内との「会見」が、賢治の考え方の転機になったのではないかと思う理由です。長々と書いた割に、結論は平凡でした。

保阪嘉内 宮沢賢治 花園農村の碑
「保阪嘉内 宮沢賢治 花園農村の碑」(山梨県韮崎市)

「石場浜乗船」のこと

『【新】校本全集』年譜篇p.222より 1921年(大正10年)に賢治が家出上京していた間の4月上旬、父政次郎氏は賢治を誘って、二人で伊勢~比叡山~奈良をめぐる関西旅行を行いました。右のテキストは、『【新】校本全集』年譜篇p.222に記載されている、その「第三日」の初めの部分をコピーしたものです。

 ここに書かれている旅行中の事実経過は、政次郎氏が後年、おそらく賢治の没後に語った内容にもとづいているのだと思いますが、本日検討してみたいのは、この中の「大津駅下車。琵琶湖岸石場浜から湖南汽船にのり・・・」という部分です。
 当時の賢治父子の足どりをたどってみようと調べているうちに、この時期の「湖南汽船」が、大津の「石場」の港に発着していたのかどうか、不確かな感じがしてきたのです。


 歴史的にみると、石場港は、琵琶湖の舟運において重要な役割を果たしてきた港でした。
 「急がば回れ」という諺がありますが、その由来は、

もののふの矢橋の船は速けれど
         急がば回れ瀬田の長橋

という、室町時代の連歌師・柴屋軒宗長の歌から来ているのだそうです(「語源由来辞典」参照)。
 東海道を旅する際には、大津宿石場港から草津の矢橋を結ぶ「矢橋の渡し」を利用する方が距離的に近く、たいていの場合は速いのだけれど、舟というものは天候に左右されて危ないので、大きく南を回って「瀬田の長橋(=瀬田の唐橋)」を渡る方が安全確実である、ということを、この歌は意味しているのだそうです。
 また、「近江八景」の一つである「矢橋の帰帆」も、この石場港と矢橋港を往き交う帆舟を、比叡山と夕空を背景に眺めたものでした。

 ということで、江戸時代から明治初期までは、大津のメイン・ポートとして栄えた石場港だったのですが、どうも明治後期以降は、次第に他の港にその座を譲って、衰退していったようです。
 私が最初に「石場浜から湖南汽船にのり・・・」という記述に疑問を持ったのは、明治末期の大津市の様子を示す、下の図を見た時でした。

初期の東海道線
(『琵琶湖汽船100年史』より)

 そもそもこの図は、明治末期までの国鉄大津駅は東海道本線の上にはなくて、スイッチバックの支線上の駅だったことを示すものですが、大津駅の湖岸には、「太湖汽船乗り場」があって、紺屋関駅の湖岸には、「湖南汽船乗り場」があるのに、石場駅の湖岸には、何もないのです。

 同じような状況は、古い資料においても確認できます。下の図は、1895年(明治28年)に京都で「第4回内国勧業博覧会」が開かれた際に、滋賀県にも観光客を誘致しようと作られた「近江案内略記」という観光地図の一部です。

近江案内略記(1895)
(『新修大津市史 第五巻』より)

 ちょっと見にくいですが、ここでも、「大津ステーション」の左方には「太湖汽船會社」があって、湖岸には船の絵と錨の印があり、右方には「湖南汽船會社」があって、やはり湖岸には船の絵と錨の印があるのに、右端の「石場」の湖岸には、大きな木が一本描かれているだけです。
 すでに明治時代後半の石場浜は、港としての機能はあまり果たしていなかったのではないかと、心配になってきます。

湖南汽船会社・湖南航路の切符(昭和初期) ところで、賢治たち父子が大津から坂本まで乗船した、湖南汽船の定期航路運航が始まったのは、1894年(明治27年)のことでした。以下に、『新修大津市史』の記述を引用します。

 翌明治二十七年、湖南汽船は湖南の探勝を目的に、大津―石山、大津―坂本間の定期航路運航をもって、湖上遊覧船営業に乗り出したのである。湖南汽船の定期航路の開始は、琵琶湖遊覧汽船の始まりにあたるが、遊覧船の営業は、営業収益の下降的傾向にあった湖南汽船の歯止めとなり、以後順調な営業の発展をみていったのである。一方、太湖汽船も湖南汽船と相前後して遊覧船航路を開拓し、明治二十八年以降は収入・利益とも明治二十二年以前の状態に復すことができた。(中略)
 遊覧汽船客誘致が成功してか、湖南汽船は明治三十六年以降収入・利益とも順調な発展をみた。なかでも第一次大戦後の好景気は湖上遊覧時代を出現させ、大正九年(1920)には京阪電気鉄道株式会社と提携して船車連帯運輸による「八景めぐり」を開始し、同十五年には同社の融資も得て遊覧船明治丸・大正丸・平安丸の鋼鉄船を建造し、さらに同年には南郷遊覧をさらに発展させるため、宇治川ラインの遊覧船就航を計画、モーターボート夕照号、秋月号の進水をみたのである。(強調は引用者)

 琵琶湖の水上運送は、湖岸に東海道線が全通するなど陸上交通の発達によって、明治中頃に一時的な打撃を受けますが、ここで単なる貨客運送から遊覧・観光に重点を移すことによって、また勢いを盛り返していったというわけです。
 賢治父子が琵琶湖で汽船に乗った1921年(大正10年)とは、まさに上述の「湖上遊覧時代」にあたり、2人が汽船の上で食事をとったのも、そんな時代の観光旅行の一コマだったわけですね。

 それから、右の方にずらっと並べた写真は、『琵琶湖汽船100年史』という本に掲載されていた、「湖南汽船会社」の、「湖南航路」の切符です。
 これらは、昭和初期のものということで、賢治たちの旅行の時のものと同一とは限りませんが、切符に記載されている港を、北から順に並べてみると、下のようになります。

  • 坂本
  • 唐崎
  • 三井寺
  • 浜大津
  • 紺屋関
  • 膳所
  • 瀬田
  • 石山寺
  • 南郷

 琵琶湖南部の観光地が並んでいますね。もちろん、これらの切符がすべての区間を網羅しているとはかぎりませんから、ここに「石場」が出ていないからといって、これも、湖南航路の寄港地に「石場」が含まれていなかったという証拠になるわけではありません。
 しかし、上の二つの図や、この12枚の切符から浮かび上がる状況を合わせると、明治後期以降には「石場」という港があまり使われていなかったのではないか、そして湖南航路の停泊港になっていなかったのではないか、という危惧を生じさせます。

 それでは、もしも賢治父子が乗船したのが「石場港」ではなかったとしたら、それはどこだったのでしょうか。
 それを考えるためには、当時の「大津駅」の場所を再確認する必要があります。

 最初に掲げた図においては、明治末の「大津駅」は、琵琶湖岸(現在の京阪浜大津駅の場所)にありました。しかし、賢治父子が旅行した1921年(大正10年)には、またこの時と状況が変わっていたのです。
 1913年(大正2年)に、大津電車軌道(現在の京阪電車石山坂本線の前身)が旅客営業を開始すると、上の図で「大津線」と書かれている支線は旅客営業を廃止して貨物線にされてしまい、上記の「馬場駅」が、新たに「大津駅」と改称されたのです。
 つまり、1921年に賢治父子が下車した「大津駅」は、上の図の「馬場駅」(現在のJR膳所駅)だったわけです。

 となると、上にまとめた「湖南航路」の停泊港のうちで、その「大津駅」から最も近いのは、「膳所港」ということになります。その場所は現在の近江大橋の西のたもとのあたりで、当時の大津駅からは、道のりにして1.3kmほどになります。
 次に近い港は、湖南汽船本社の傍で、湖南航路の中心でもある「紺屋関港」です。ここは、当時の大津駅から1.8kmの距離です。
 どちらの港だったかは断定できませんが、距離的に近いこと、また政次郎氏が「石場浜」と勘違いした要因として、当時の大津の繁華街からは少し南東にはずれた港だったという意識があったかもしれないことから、「膳所港」だったのかもしれないと、私は思います。
 1921年当時における、湖南航路の停泊港をはっきりと示してくれる資料があれば、事情は明確になったはずなのですが、そのような資料が見つけられなかったので、今回は間接的な資料による「推測」にとどまりました。


 ところで、本題からは少しそれますが、冒頭に引用した図が示していたように、ある時期までの国鉄大津駅は、現在の位置ではなくて、今は京阪電車の浜大津駅がある場所にあり、馬場駅からスイッチバックで入るようになっていました。これは、(旧)逢坂山トンネルの滋賀県側出口はかなり高い位置にあって、湖岸の高さにある大津駅から直接列車が向かうことができなかったためだったということですが、さらに前述のように大正初期に、「大津駅」の名称はそれまでの「馬場駅」に移動させられて(=2代目「大津駅」)、表面上は、スイッチバックなどという非効率なことをしなくてよくなります。
 しかし一方、当時の東海道線は、京都側においても、トンネル工事の事情でいったん「稲荷」(現在は奈良線)の駅まで南下してから、滋賀県側に抜けるというまわり道をしていました。こちらの非効率を改善するために、京都駅から真っ直ぐ東に抜けるルートで「新逢坂山トンネル」が掘削され、滋賀県側の東海道線のルートはそれまでより北側を走るように変更されて、大津駅もまたまた滋賀県庁の南西に移動し(3代目「大津駅」)、新たな東海道線が営業を開始したのが、1921年(大正10年)8月1日のことでした。そしてそれまでの大津駅(2代目)は「馬場駅」に名称が戻されるとともに、旅客営業はいったん廃止されます。

 すなわち、賢治たち父子が訪れた1921年4月、大津駅(2代目)と旧東海道線は、くしくも廃止寸前の時期にあたっていたというわけなのです。

明治末と現在の東海道線
赤色は現在の東海道線

 「「東京」ノート」に記されていた、「公衆食堂(須田町)」と題された作品があります。「一九二一年一月より八月に至るうち」という見出し(?)のもとに、◎印で区切られた断章のようなものが多数並んで記されている中の一つですが、これには題名が付けられているので、いちおう独立した一つの詩作品と見なしてよいものでしょう。
 下記が、その全文です。

    公衆食堂(須田町)

あわたゞしき薄明の流れを
泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら
食器の音と青きむさぼりはいともかなしく
その一枚の皿
硬き床にふれて散るとき
人々は声をあげて警しめ合へり

 人生には、いろいろな「食事の風景」というものがありえます。よく、「食事は人とのコミュニケーションの象徴である」と言われ、ホームドラマで食事場面がしばしば登場するのも、それが人間関係における何かを表現する、格好の舞台設定となるからでしょう。
 で、賢治を含むこの「公衆食堂」での食事風景から感じられるのは、まず何より「都会の孤独」です。時刻は日も暮れてきた夕刻、客は仕事や学校を終えた労働者や学生なのでしょう。みんな慌ただしく黙々と飯を食っている様子を、賢治は「いともかなしく」と描写します。
 しかしその孤独の一方で、2行目に「われら」という一人称複数の視点が出てきます。おそらく賢治は知人と一緒に食事に来たわけではなく一人なのだと思いますが、この「われら」とは、偶々この朝に、食堂で一緒に「飯を食む」ことになった者全体を指すのでしょう。また最後の行で、周囲から飛んだ「警しめ」の言葉とは、「気をつけろ!」とか「もっと落ち着いて食え!」などだったのかもしれませんが、一見すると殺伐とした食事風景ながら、ドジを踏んだ者を「罵る」のではなく「警しめ合」うというところにも、この食堂に会した他人同士の間に通じている、何かの「仲間意識」のようなものを私は感じるのです。
 つまり、この場末の食堂にあるのは、群衆の中の孤独であるとともに、その都会で懸命に日々を生きつつ今夕たまたま一緒に飯を食っている者同士の、そこはかとない「連帯感」でもあるのです。

 「「東京」ノート」に記されている見出しの日付(「一九二一年一月より八月」)からすると、これは賢治が家出上京していた頃の情景かと思われます。田舎から独り東京へ出て来た賢治は、このように急ぎ食事をとっては家に帰る日常において、「本当に都会で一人暮らしをしている」ということを、心から実感したのではないかと思います。


 ところで、この作品の舞台となった「食堂」がいったいどこだったのかということが、どうしても気になるところです。作品の題名には、賢治がわざわざ(須田町)と記入していることから、これは大正末期から東京でチェーン展開を行っていた、「須田町食堂」ではないかという説があります。
 当時、「須田町食堂」を経営していた「聚楽」という会社は、実は現在もホテルやレストランを多数経営している大会社ですが、ちょうど最近になって、懐古的にまた「須田町食堂」という名前をリバイバルさせて、秋葉原に店舗を出しているところです。

須田町食堂

 上の写真は、私が以前ちょっとしたついでに、その新版「須田町食堂」に行ってみた時のものです。入口に出てきておられるウェイトレスさんがメイドの格好をしているのは、「ここが秋葉原だから」ではなくて(笑)、単にレトロ調の雰囲気を出すためでしょう。
須田町プレート この時に私が食べたのは、右の「須田町プレート」というメニューでした。チキンライスに、ポークソテー、小さいグラタン、ズッキーニや茄子の南欧風の炒め物、サラダ、カップスープが付いたものです。
 これは「大人のお子様ランチ」というコンセプトのようで、味はまずまずでしたが、1800円という値段は、立地条件にもよるのでしょうか。お店は、「秋葉原UDX」という、駅からすぐ近くの近未来的な雰囲気のビルに入っていたのです。

 ただ、いろいろ考えてみると、賢治の「公衆食堂(須田町)」の舞台となったのは、この食堂の前身の「旧・須田町食堂」ではなかっただろうと、私は思うのです。
 そのあたりについて、また次回に書いてみたいと思います。

 鍵になるのは、「公衆食堂」とはいったい何なのか、ということです。 

[ つづく ]

謹賀新年・二見浦

二見浦の朝日


 あけましておめでとうございます。

 お休みにもかかわらず更新の間隔が少し空いてしまいましたが、12月30日から今日まで、田舎に帰省しておりました。西日本では、ほとんど年末まで穏やかな日和がつづいていたところ、最後の大晦日になってぐっと冷え込み、雪もちらついたのです。

 振りかえれば、昨年は十分に記事の更新ができず、ほとんど週に2回できればよい方、という感じになっていました。今年こそは、せめて週3回くらいをめざします、と言いたいところなのですが、それも個人的な事情でなかなか難しいところがあります。
 しかし、何とか頑張って地道に書きつづけていきたいと思いますので、どうか愛想をつかさずに、今年もよろしくお願い申しあげます。

 ところで上の写真は、伊勢の二見浦の日の出の様子です。と言っても、こんな素晴らしい写真を私が撮影してきたわけではありません。今日乗った新幹線の中で、『ひととき』という車内誌の1月号をパラパラとめくっていると、小澤實さんという俳人が、「芭蕉の風景」と題したエッセイで、「二見浦」を取り上げておられたのです。
 小澤氏によると、「おくのほそ道」の旅に出る直前に芭蕉は、「二見文台」と呼ばれる文台(俳諧の席で、句を記録する懐紙を置く台)を作らせたそうです。台の表には、「二見浦の夫婦岩の初日の出」の図を描かせ、台の裏には、「うたがふな潮(うしほ)の花も浦の春」という句を、みずから墨書しました。句意は、「夫婦岩に潮が散って花のように見える。疑ってはならない、それは二見浦の新春を示すもの、疑ってはならない。めでたい浦の景色は伊勢二見の神そのものを表すものでもある、けっして疑ってはならない」というものだそうです(小澤實氏による)。

 それからもう一つ、こちらの方が有名な句だと思いますが、「おくのほそ道」の結句は、「蛤のふたみにわかれ行(ゆく)秋ぞ」というものです。この「ふたみ」には、蛤の「蓋と身のように」別れがたきを別れるという意味と、この後つづけて芭蕉が向かおうとしていた伊勢の「二見」が掛けてあるのですが、「おくのほそ道」の直前と最後に「二見」が登場するのには、何か特別な理由があるのでしょうか。

 この疑問を解くべく、小澤氏は、二見浦の海岸にある「二見興玉(おきたま)神社」に注目されました。この神社は、神武天皇を大和へ案内した猿田彦命を祭神としていることから、「道中安全」の御利益があるとされ、旅に出る人々が無事に「帰る」ことを祈ってたくさんの「蛙」の石像を奉納するために、それらは「二見蛙」と呼ばれるようになっています(「二見蛙」についてはこちらのページも参照)。
 つまり芭蕉は、自分と曾良が奥州へ遙かな旅をするにあたって、無事な帰還を二見の神に祈り、その旅から帰り着くや、神への感謝を捧げるためにまたすぐに二見に赴いたのではなかったかというのが、小澤氏の推論です。新春早々、とても興味深く読んだエッセイでした。
 家に帰ってちょっとネットで調べてみると、太平洋戦争の時にも、「無事カエル」ことを祈って、陶製の小さな「二見蛙」の御守りを持って出征した兵士が多くあったようですね。


 さて、そこで連想したのが、賢治が家出中の1921年に、父政次郎に誘われて、伊勢神宮→比叡山延暦寺→法隆寺、という関西旅行をした際のことです。
 賢治が法華経に凝り固まり、父祖の浄土真宗に反発するあまり家出をしてしまったものですから、父の政次郎氏は何とかして息子の宗教的視野を広げて冷静にならせるべく、この旅行のプランを立てたようです。延暦寺は、日蓮も親鸞も若い時に修行をした地であり、「法華と念仏が一体であるという教え」を具現化した「にない堂」という建物もある所ですから、まさにうってつけの宗教的意味を持っています(「根本中堂」歌碑のページも参照)。また、法隆寺は言うまでもなく日本の仏教の伝説的始祖というべき聖徳太子の創建であり、ここで政次郎氏は賢治に次のように語ったと言うことです(関登久也『宮沢賢治物語』)。

千三百年も前に聖徳太子がお建てになったこの寺が日本仏教発生の地として、そのまま残っていることは有り難いことだ。太子は釈迦をまつり、その脇に観音をまつり、御母の冥福のためといって阿弥陀仏をまつっておられる。これは太子の仏に対する信仰のあり方であろう。

 さらに、政次郎氏は法隆寺に行く前に、聖徳太子墓所のある大阪府の叡福寺にも参詣しようと計画していたようで、ここもまた、親鸞も日蓮も参籠修行したことがあるとの言い伝えがある寺だったのですが、ここは交通や時間の関係で中止したようです。

 つまり、この旅行で参詣した(しようとした)寺院に関しては、日蓮と親鸞、法華と念仏が、実は元をたどれば根は同じところにあるということを、仏教史的に示唆してくれる場所が、周到に選ばれていたわけです。
 しかし、「伊勢神宮」だけは、さすがにちょっと異質な感じはします。それでも、いくら「法華経一直線」だった当時の賢治といえども、天皇や国家神道は尊崇していたわけですから、日本の宗教的ルーツに触れさせて「法華経を相対化させる」ということで、伊勢参りにも意味があると政次郎氏は考えたのかな、などと思っていました。

 ところがここでちょっと年譜を見直してみると、この時、父子は伊勢神宮を参拝した後に、二見浦の旅館に泊まったのです。

伊勢参宮。ここも雨であった。外宮参拝後(中略)、内宮に詣でる。それより二見ヶ浦に出、海辺の旅館に入り、父子二人枕を並べて寝た。このときの短歌「伊勢」一二首。
第三日、二見浦駅より京都行にのり大津駅下車。(『【新】校本全集』年譜篇)

 この時に、賢治は下のような短歌を詠んでいて、二見浦の海岸で日の出を見たようです。したがって、海岸ですぐ目の前にある「二見興玉神社」にも、ついでに参った可能性は、十分にあるわけです。

      ※二見
774 ありあけの月はのこれど松むらのそよぎ爽かに日は出でんとす。

 そして、もし政次郎氏が、この二見興玉神社の御利益が「無事帰る」ということだということをあらかじめ知っていたとすれば、賢治をわざわざこの海岸に連れてきた理由が、十分に得心できるものになります。
 どうか息子が、何とも厄介な「家出」から、早く家に「カエル」ようにと、父はぜひとも祈願したかったのではないかと、私はふと思ったのです。

伊勢神宮と二見興玉神社

 宮澤賢治と金田一京助は、生涯に一度だけ直接会っているようですが、賢治の方は、それについて何も書き残していません。
 金田一京助は、「啄木と賢治」という短いエッセイに、その時のことを簡単に記しています。

 ただ、その「啄木と賢治」という文章には、細かく見ると微妙に異なった二つのバージョンがあるようなのです。(1)『四次元』号外ー宮澤賢治思慕特集(1957)に掲載されたものと、(2)金田一京助随筆選集第二巻「思い出の人々」(1964)に収められているものです。

 まず、前者(1)では、賢治との出会いについて、次のように書かれています。

 賢治は、法華経の信者でその苦心の「国訳妙法蓮華経」の一本は私なども恵投に預かったが、それよりも、盛岡高等農林卒業後、上京して田中智学師の法華経行者の一団に投じ、ある日上野の山の花吹雪をよそに、清水堂下の大道で、大道説教をする一味に交り、その足で私の本郷森川の家を訪ねて見えた。中学では私の四番目の弟が同級で、今一人同じ花巻の名門の瀬川君と三人、腕を組んで撮った写真を見ていたから、顔は知っていたのだが、上野でよもやその中に居られようとは思いもかけず、訪ねてみえたのは、弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたかと思ったが、必ずしもそうではなかった。一、二語、私と啄木の話を交えたようだったが、外に大した用談もなし、また、私から、下宿はと聞かれて、しかとした答はなく、寝るくらいはどこにでも、といった風で、結局、田中智学先生を慕って上京し、あの大道説教団の中にいたということだったのには、私の顔が、定めしけげんな表情をしたことだったろうと恥ずかしい。

 次に、(2)において同じ部分は、次のようになっています。

 賢治の方は法華経の信者で苦心の「国訳妙法蓮華経」一部は私も送っていただきましたが、いつの年でしたか、ある時本郷森川町の私の寓へひょっこりたずねてみえたことがありました。中学時代、私の四番目の弟が同級で、いま一人同じ花巻の名門の瀬川さんと、三人で腕をくんでとった写真がありましたので、かなりお親しくしていたことが、わかっておりましたが、私の寓にみえましたのは、それで弟をたずねてみえたのでしたか、それとも、弟が亡くなっていて弔問の意味であったのでしょうか、それとも、直接に私自身をたずねられたのでありましたか、一、二語啄木のうわさなどした記憶がありますが、私は東大におりましたので、もしか東大入学というふうな心をもって訪問されたかと思ったら、そうでもなかったようです。また下宿でもたずねているのかと思ったらそうでもありませんで、結局、田中智学先生を慕って上京し、その大道説教団の中にいる、と話された時には、さだめし私の顔がけげんな表情をしたことだったでしょうと思います。その数日前に、私は上野の清水堂の下の大道に、田中さんの大道獅子吼の姿をみうけて返ったことだったのですから。

 賢治が東京で田中智学の説教団の中にいたというのですから、二人が出会ったのは、1921年に賢治が家出して上京していた時代のことですね。

 さて、「啄木と賢治」の二つのバージョンの相違点を整理してみると、次のようなことが気づかれます。
 まず一つは、(1)では、賢治が上野の大道説教団にいた「その足で」、金田一の家を訪ねて来たと書かれていますが、(2)では、金田一が上野で田中智学を見かけたのは賢治の訪問の「数日前」だったとされていることです。
 もう一つは、弟の他人に関する記述です。(1)では、「弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたかと思ったが、必ずしもそうではなかった」と記されていて弟の死には触れられず、(2)では、「弟をたずねてみえたのでしたか、それとも、弟が亡くなっていて弔問の意味であったのでしょうか」と、一応弟の死に言及されています。

 ここで重要なのは、金田一京助の弟で賢治の同級生だった金田一他人は、「他人篇」でも述べたとおり、すでに前年の1920年11月に、自殺して亡くなっていたということです。
 賢治が訪ねてきた時に金田一京助が、弟の死を失念していたということはありえませんから、(1)にある「弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたのかと思ったが」というのはおかしな話で、少なくともこれは、金田一が賢治来訪時に「思った」ことではありえません。これは金田一が、この「啄木と賢治」という文章を書く時点で、「あの時賢治が来た目的は何だったのか」と、記憶をたどり推測している中で「思った」ことでしょう。
 7年後に文章に手を入れた際には、さすがにこの時すでに弟が亡くなっていたことに気づいて、「弔問の意味であったのでしょうか」と付け加えていますが、やはりこれとて、1964年時点の金田一京助が、「推測」していることにすぎません。

 つまり、この二つのエッセイを書いた時点で金田一京助は、「賢治がなぜ自分を訪ねて来たのか」という来訪目的について、まったく憶えていなかったのです。
 (2)の方でも、「東大入学」が目的だったのか、「下宿探し」が目的だったのか、などとあれこれ書き連ねて迂遠な印象を与えますが、これも、訪れた賢治が意図不明のあいまいな態度に終始したということではなくて、金田一京助が執筆時点であれこれ記憶をまさぐっているためなのでしょう。
 しかしそれにしても、賢治の来訪目的は何だったのでしょう。


 ところで、この時の二人の出会いについては、もう一つ別の伝承もあります。森荘已池著『ふれあいの人々 宮澤賢治』に収められている、「金田一先生とバッタリ」という一節です。

 筆者(森荘已池)が昭和14年に上京したとき、東京で賢治の親友藤原嘉藤治氏に伴われて杉並の金田一京助氏邸でうかがった寸話である。
 金田一先生が上野の坂下を通りかかると、国柱会の旗を立てた大道説教に人が集まっていた。
 そこに金田一先生が通りかかると、教団の中からひょっこり出て来た宮沢賢治が、ていねいに金田一先生におじぎをした。
 金田一先生の弟さんと賢治は、盛岡中学校で同級生だったので、金田一先生は賢治を知っていた。
 突然の路上のこととて、先生は驚かれたが、ニコニコ笑っている賢治は、いつも屋外にいるらしく、たくましい顔いろだった。
 金田一先生は、賢治が「バレイショを食べ、水を飲んでいます」ということに、 「はァ、そうですか―」と答えて、破顔一笑した。(後略)

 これは、上の金田一京助自身の記述と比べると、「上野の大道説教団」など共通部分もあるのですが、その説教団から賢治が直接出てきて会ったことになっていて、賢治が金田一の自宅に訪ねたという話ではありません。
 これは、やはり金田一京助本人の書いた方が正しくて、森荘已池が金田一の話を聞いて勘違いしたのか、1970年にこの話を新聞連載に書くまでの間に、頭のなかで記憶が変化してしまったのか、いずれかでしょう。
 佐藤竜一著『宮沢賢治の東京』では、上記の森荘已池の記載を下敷きにして、こちらでは上野公園で出会った後、賢治がその足で金田一の家を訪ねたとしていますが、これも同様です。この出会い以前の段階では、東京の街中で偶然出会って相手の顔を同定できるほど、一方が他方の顔をよく知っていたとは思えません。


 文献的には以上のようになっているのですが、ここで私として考えてみたいのは、さっきも少し書いたように、この時賢治が金田一京助を訪問した目的は何だったのか、ということです。賢治にしてみれば、わざわざ金田一京助の住所を調べて訪ねているのですから、別に意図もなくぶらりとやって来たとは思えません。いったい何が目的だったのでしょうか。

 結論から言うと、私の考えでは、これはやはり賢治が同級生他人の死を悼んで、弔問のために訪れたのだと思うのです。
 賢治が上京したのは1921年1月下旬でしたが、花巻を出るまでに、すでに金田一他人の自殺については知っていただろうと思われます。地元の「岩手日報」には、賢治が家出をした「事件」さえも二度にもわたって掲載されるくらいですから、今をときめく金田一財閥につながる東大生が自殺をしたとなると、さぞ大きな記事が載ったことでしょう。それを、かつての同級生である賢治が目にしなかったとは考えられません。
 金田一京助は、賢治たちが盛岡中学校で同級生になった時点ですでに東大の学生でしたから、賢治は他人から、兄が東大に行っていることは聞かされていただろうと思われます。ひょっとしたら石川啄木と親交があることも、聞いたかもしれません。
 東京で本屋や図書館に行けば、『あいぬ物語』(1913)や『北蝦夷古謡遺篇』(1914)など金田一京助の編書や著書がすでに並んでいたはずですから、ひょっとすると東京に出てきてから賢治は、これらを手に取っていたかもしれません。
 いずれにしても、亡き同級生の兄であり郷土の先輩でもある「金田一京助」が同じ東京に住んでいると思うと、賢治は弔問に訪れたい気持ちを抑えられなかったのではないでしょうか。

 私が賢治の訪問を、弔問のためと考える理由は、ちょっと逆説的ですが、上の(1)にはそのようなことが全く触れられず、逆に「弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたか」などと、ピント外れのことが書かれているからです。(2)の方には、「弔問の意味であったのでしょうか」と少しだけ触れてはいますが、会見の中で当然話題となったであろうその弟の死のことについて、内容的には全く触れられていません。
 (1)の文章について、牛崎敏哉さんは「宮沢賢治における金田一京助」の中で、「書き方は不自然」「どこか不思議な文章」と書いておられますが、まさにその通りで、これは本当に不可解な文章です。

 私は、金田一の文章のこの部分が、これほど不自然になってしまっている理由は、数ヵ月前の弟の自殺が、それほどまでに彼に大きなショックを与えていたからだろうと思います。
 人間は、外傷的な体験=トラウマに遭遇すると、その後は当該の出来事や周辺の事柄についてなるべく考えずにいようとする心理的機制が働くので、関連事項の記憶があいまいになったり、何気ない記憶がすっぽりと抜け落ちていたりすることがあります。そのような人の「回想談」を聞くと、肝心のところがぼかされているようで、独特の迂遠さや不自然さを感じるものですが、まさに上記の(1)(2)の金田一京助の文章は、そのような論旨の典型です。
 すなわち、彼が賢治来訪の目的を失念してしまったのは、それが彼にとって最もつらい記憶=弟の自死に関わることだったからではないかと、私は考えるのです。

 この日、賢治は亡き同級生に対する哀悼の辞を述べたくて、兄京助の住居を訪ね、彼の東京での最期の日々について、話を聴いたのではないでしょうか。敬愛していた学年一番の秀才だったのに、前途も洋々たるものだったはずなのに、なぜ自ら死を選んだのか、友として尋ねてみたかったのも無理はないと思います。
 『身も魂も 金田一他人遺稿集』によれば、亡くなる数日前にも他人は兄を訪ね、人生についていろいろと質問しています。これに対して、ちょうど間もなくアイヌ語に関する特別講演を京大で行う予定を控えていた京助は、その準備に忙しく十分に答えられなかったので、弟に誤解を与えていたかもしれないと、述べています。そのような心残りと罪の意識をかかえた兄に対して、賢治はいったい何と言って慰めの言葉をかけて上げられたでしょう。
 もちろんこのような話以外にも、「啄木について一、二語」、また下宿についての話もかわされたかもしれません。しかし、会談の中心は、金田一京助によっては書きとめられなかった、上記のような対話だったのだと思うのです。

 当時の賢治と金田一京助は、実はごく近くに住んでいました。また賢治が勤めていた文信社と金田一の家の距離はわずか300mほどだったので、牛崎敏哉さんは「宮沢賢治における金田一京助」において、「それならなぜ賢治が京助を訪ねたのが一回だけなのかなど、様々に憶測が生まれる」と書いておられます。(下の地図で、A が賢治の下宿、B が文信社、C が金田一京助宅。)

 一回しか訪問しなかった理由として私が想像するのは、この時の二人の会見は、賢治にとっても金田一にとっても、とても悲しくつらいものだったので、あえて賢治も再訪を遠慮して、一回だけに終わってしまったのではないかということです。

 ただ、この年の6月に東京で「啄木会」が結成された時、賢治が「同志名」に名を連ねたのは、この会見の時に金田一京助から誘いがあったからかもしれません。この会の設立のために、金田一京助は大きな貢献をした人だったからです。
 もしもこの啄木会の会合があったとすれば、その時に賢治と金田一京助は、二回目の顔合わせをしていたでしょう。

 そしてさらにその後、これは牛崎敏哉さんが「宮沢賢治における金田一京助」において明らかにしてくれたことですが、1923年の8月、それぞれ鎮魂の旅をしていた二人は、ある所で不思議なニアミスをします。それは、牛崎さんが「時空間の運命的共時性」と表現された現象ですが、その詳しい内容については、岩手日報社刊『北の文学』第50号所収の同論文を、ぜひご一読下さい。

上野清水堂の桜
安藤広重「名所江戸百景」より「上野清水堂不忍之池」

 1921年夏、家出先の東京で「トシ ビヨウキ スグ カヘレ」という電報を受けとった賢治は、大きなトランクを下げて花巻駅のホームに降り立ち、弟清六に迎えられました。弟はまずそのトランクの大きさに驚き、兄は決まり悪そうに苦笑いして、「やあ」と言ったそうです(宮澤清六「兄のトランク」)。

 その兄弟再会の場面に続く、次の箇所は有名です。

 さて、そのトランクを二人で、代りがわりにぶらさげて家へ帰ったとき、姉の病気もそれほどでなかったので、「今度はこんなものを書いて来たんじゃあ」と言いながら、そのトランクを開けたのだ。
 それがいま残っているイーハトーヴォ童話集、花鳥童話や民譚集、村童スケッチその他全集三・四・五巻の初稿の大部分に、その後自分で投げすてた、童話などの不思議な作品群の一団だった。
 「童児(わらし)こさえる代りに書いたのだもや」などと言いながら、兄はそれをみんなに読んでくれたのだった・・・。

 さて、ここで賢治が自身とその作品との関係について述べた、「童児(わらし)こさえる代りに書いた」という表現には、いったいどのような意味が込められているのでしょうか。今日は、それをちょっと考えてみたいのです。


 まず感じとれるのは、東京での自らの家出生活についての示唆ですね。彼は東京滞在中に女性と親しくなったり、ましてや子をもうけたりすることはなく、粗食に耐えつつ創作と宗教奉仕活動に明け暮れ、文字通り「禁欲的」な生活を送っていたようです。
 「家出した息子が久しぶりに故郷に現れ、驚く家族を前に、妻を紹介したり赤ん坊を見せる」などという話がありますが、満25歳にならんとする賢治の家出生活は、その対極にあったわけです。

 ちなみに、同郷の先輩である石川啄木の場合には、盛岡中学校を退学になった後、16~17歳と18~19歳の頃に出京して中央文壇と交友を深め、19歳で堀合節子と結婚し、20歳で長女をもうけ、26歳の死の直後に次女が生まれています。
 賢治は、このように自らが起点となる「家族」を持つということには、終生意を向けることはなく、その「代りに」、書くことにエネルギーを注ぎました。


 それからあともう一つ、この言葉に関しては、また別の観点からの理解もできるでしょう。それは、賢治としては自らが創造した作品のことを、「我が子の代わりのような存在だ」と言っているのだと、受けとめてみることです。
 このような解釈に立てば、賢治作品の持つ独自の特徴が、またあらためて腑に落ちる感じもしてくるんですね。

 第一は、賢治の作品の「成長」という特徴です。彼は、作品をいったん紙の上に書いてからも、それに「一定の推敲を加える」などという生やさしいスタンスではなくて、本当にいつまでも果てしない書き直しを重ねます。これによってそのテキストは、何年も十何年もの間たゆまぬ発展を続けることになりますが、これはまさに、親が子を「手塩にかけて育てる」という態度にそっくりだと思うのです。
 芸術的創造物というものを「果実」に喩えて表現することもありますが、果実というのはいったん熟して穫り入れたら、あとはそれを「味わう」だけですね。これに対して、赤ん坊を産んだ後もずっと精魂込めて育てていくという行動は、哺乳動物としては(とりわけ人間にとっては)、種の存続を賭けるほどに決定的な特徴です。

 それから第二は、賢治作品の多くに付けられている「日付」のことです。『春と修羅』第一集~第三集の全作品や、『注文の多い料理店』に収められた童話に見るように、賢治は作品を最初に書きつけた年月日を、几帳面に記録していました。そしてこの日付は、テキストが後に何度も稿を改めて書き直されていっても、何年たっても最初のまま保存されていきます。これは「発想日付」などと呼ばれたりしていますが、その意義や解釈については、様々な説があるようです。

 ところでこの「年月日」というのは、もしも作品が「我が子」だとすれば、その「生年月日」にあたるわけですね。
 親が子の誕生日をいつまでも心に留めるように、賢治は厖大な数の愛し子が世に生まれ出た日を、それぞれ成長の姿とともに書きとめていたのだろうか・・・というのは、あまり学問的ではないものの、作品日付に関する一つの空想です。

晩年の賢治がスケッチした親戚の子

「文信社」発行の講義録

 1921年1月23日に突然家出をして東京で生活を始めた賢治にとって、どうやって収入を得ていくかということが、 まず問題となりました。1月27日に、なんとかバイト先を見つけると、故郷の親戚関徳弥にあてて、次のように報じています(書簡185)。

三日目朝大学前で小さな出版所に入りました。謄写版で大学のノートを出すのです。朝八時から五時半迄座りっ切りの労働です。 周囲は着物までのんでしまってどてら一つで主人の食客になってゐる人やら沢山の苦学生、辯(ベンゴシの事なさうです) にならうとする男やら大抵は立派な過激派ばかり 主人一人が利害打算の帝国主義者です・・・。

 この「小さな出版所」というのが、本郷にあった「文信社」という店でした。「銀河鉄道の夜」の「二、活版所」の場面を、 ちょっと彷彿させるところもあります。
 当時、 東京帝大経済学部に入学していた学生で、後に釜石市長になる鈴木東民という人が、たまたま当時の文信社で賢治と出会い、 次のように書き残しています(「筆耕のころの賢治」) 。

 宮沢賢治と識ったのは、1920年の初冬のころであった(注:実際は1921年)。そのころ東大の赤門前に、「文信社」 という謄写屋があった。そこの仕事場でわたしたちは識り合ったのである。「文信社」は大学の講義を謄写して学生に売っていた。 アルバイト学生だったわたしはそこへノオトを貸して一冊につき月八円、ガリ版で切った謄写の原紙の校正をして、 四ペエジにつき八銭の報酬をうけていた。賢治の仕事はガリ版で謄写の原紙文信社『生理学總論』を切ることであった。かれはきれいな字を書いたから、 報酬は上の部であったろうと思うが、 それでも一ペエジ二〇銭ぐらいのものだったろう。この仕事を専門にしている人でも、 一日に一〇ペエジ切るのは容易でないといわれていた。(中略)
 休憩時間にここの主人の居間兼事務所の八畳でお茶を飲んでいたときに、 何かの話からかれが花巻の生れで土地で知られた旧家の宮沢家の息子さんであることをわたしは知った。 そんなことから私たちは急に親しくなったのであった。(中略)
 そのころのかれは袴を必ずつけていたが、帽子はかぶらなかった。今でこそ無帽はあたりまえのことになったが、当時、 袴をつけて無帽というのは異様に感じられたものだ。その袴の紐にいつも小さい風呂敷包がぶらさがっていた。最初、 わたしはそれを弁当かと思っていたが、童話の原稿だということだった。もしもこれが出版されたら、 いまの日本の文壇を驚倒させるに十分なのだが、残念なことに自分の原稿を引きうけてくれる出版業者がいない。 しかし自分は決して失望はしない。必ずその時が来るのを信じているなどと微笑を浮かべながら語っていた。・・・

 当時の賢治が切ったガリ版印刷が残っていたらおもしろいのですが、現在国会図書館に収められている文信社発行の書籍で、 1921年に出版されたものを調べてみると、残念ながら活版印刷のものしかありませんでした。

 そこでそのかわりに、賢治が関わっていた仕事がどんなものだったのかという雰囲気だけでもつかみたいと思い、 国会図書館でコピーしてみたのが、右写真の『生理学總論 下巻』です。賢治上京の前年、1920年の文信社発行です。

 これは、当時の東京帝大医学部の生理学教授・永井潜博士による講義ノートのようで、学生の講義録をもとに、さらに8冊もの英・ 独の関連文献を参考にしつつ編集したと謳っています。ただし、この「関連文献参照」は、文信社が行ったものではなく、講義ノートを提供した学生が自分で勉強して付けていたものを、一緒に文信社が引き継いだものだろうと私は思います。
 ちなみに永井潜博士(1876-1957)は、 1903年から1906年まで英独仏留学、1915年から東京帝大医学部教授(生理学)、1923年から台北帝国大学医学部長、 という経歴の人でした。

 実際に上の講義録の内容を見てみると、たとえば3頁4行目からの本文の一節は、「元来 Naturwissenschaft ナルモノハ unorganische Welt ニ於テ得タルモノナレバ之レヲ organische Welt タル Physiologie ニ anwerden シテ正シキ説明ヲ得ルヤ否ヤハ Frage ナリ・・・」などという調子で、日本語とドイツ語がちゃんぽんです。洋行帰りの先生で、 こういう講義をする人は、たしかに20年くらい前にはありました。
 それにしても、文信社の講義録はあくまで整然と文章が連なり、挿入される欧字も、きれいな筆記体で書かれています。さすが、 昔の大学生は勉強家だったようですね。

 賢治自身の思いはともかく、彼のように英語およびドイツ語の語学力が十分にあった人材は、 このような特殊な原稿のガリ版切りとしては、きっと重宝されたのだろうな、と思います。

 1ヵ月ぶりの歌曲の新規アップロードですが、ただしこれは賢治オリジナルの歌ではありません。
 彼の文語詩「隅田川」 というのが、私の頭のなかではどうしてもあの滝廉太郎による名曲「花」のメロディーで流れてしょうがないので、思い切って 「歌曲の部屋 ~別室~」に、 この替え歌の一種を「滝廉太郎「隅田川」 」として載せてみました。

関豊太郎博士 しかし、舞台設定の共通性といい、旋律と詩の適合性といい、 一方でまたその情景の極端な対照に漂うアイロニーといい、これはこれで面白いと思いませんか?

 この妙なお花見が、1921年4月の出来事であり、そこに登場する「踊る酔っ払い」が、盛岡高等農林学校元教授の関豊太郎博士 (右写真)だというのは、ほぼ定説と言ってもよいようですが、その具体的な場所と参加者に関しては、異説もあるようです。