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仏教を知らなかったら

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 小倉豊文氏の、「二つのブラック・ボックス―賢治とその父の宗教信仰」(『宮沢賢治』第2号, 洋々社)という文章の中に、次のような一節があります。

 その政次郎翁が問わず語りに「私が仏教を知らなかったら三井・三菱くらいにはなれましたよ」と、苦笑まじりに言ったことを私は確かにきいている。

 この政次郎氏の言葉は、その後もよく引用されて有名になっていますが、その「苦笑」の意味は何だったのでしょうか。なまじ仏教など知ってしまったばかりに資本家に徹しきれなかった自らに向けられているのか、あるいは逆に「外道」のように利潤追求に明け暮れる当時の財閥の姿に向けられているのか…。いずれにしてもこの言葉は、政次郎氏という人の一筋縄ではいかないようなしたたかさを示しているように思えます。
 それにしても、これだけの大言をさらっと言えるというのは、すごい自信ですね。また実際の商売においても、きっと政次郎氏はそれだけの手応えを感じていたのでしょう。

 一方、同じ文章の別の場所で、小倉豊文氏はまた次のようなことも書いています。

 ある時、翁はしみじみとした口調で、賢治が早熟な子であり、仏教を知らなかったら遊蕩児になってしまったろうという意味の述懐をしたことがあった。この時、私は無遠慮に「私はなまじ仏教を知らなかったら、日本はすばらしいボードレールのような大詩人をもったと思いますよ」と放言したのであったが、翁は語をついで「何しろ私が色欲旺盛な頃に生ませた子ですから、因果な子ですよ」と真顔でしんみりつぶやいたので、ヒヤリさせられたことを忘れない。賢治は父が二十二歳、母が十八歳の時に結婚した翌年に生まれたのである。だが、それを直ちに賢治の早熟な天才と因縁づけ、我が身の罪悪・妄念の結晶と考えている政次郎翁の信仰には、私は全くついてゆけぬものを感ぜざるを得なかった。

 ここにあるのは「親の因果が子に報い…」という発想のようで、これを小倉氏は「政次郎翁の信仰」と見なしています。しかし、仏教の正統的な教義にこういうことが説かれているわけではないでしょうから、当時はこういった俗信があったのでしょうか。
 それにしても、賢治を聖人君子のように思う人からすると、びっくりするような見方でしょうね。

 いずれにせよ、政次郎氏の「仮説」によれば、もしもこの父子が仏教を知らなかったら、父は三井・三菱クラスの財閥を築き、そして息子はその財産を遊蕩に費やしてしまっただろう、というわけです
 この会話において小倉氏が、やはり父の遺産をもとに散財のかぎりを尽くし、あげくは準禁治産者とされたボードレールの名前をとっさに出したのは、まさに鋭い着想という感じですが、私としては、そういった「もう一つの賢治の生涯」や、その場合にどんな作品を書いただろうということにも、興味を覚えざるをえません。

 ところで先月、「チップの払い方」という記事において、賢治が女給や芸者に非常識なほど多額のお金を渡してしまう癖があったことを書きましたが、この小倉氏の文章には、そのような賢治の振る舞いのルーツとなるようなことも書かれています。

 賢治の家のある豊沢町の東側に並行した裏町通には遊女屋が並んでいた。当時、遊女たちは「籠の鳥」といわれていて、自由に外出が許されない。そこで金に困ると店の遣手婆が遊女にたのまれて衣類を宮沢の店に入質にもって来るのが常であった。そんな場合に賢治が店に居合わすと「かわいそうだ。世の中が不公平だ、父の家業がいやだ」といって、オイオイ泣き出すので、妹のシゲさんがいつもなだめるのに骨折ったとのこと。これは私がシゲさんに直接聴いたことである。入質に来た人の言うままに金を貸してやって、父に「あれでは店がつぶれてしまう」と叱られた話は、今まで多く伝えられているところだ。

 一人前の社会人になってからも、不幸な境遇の女性を見ると、金を渡さずにいられなくなるというのは、上のような環境や体験ともどこかでつながっているのでしょう。

 そして、もしも賢治が「遊蕩児」になっていたら、遊女や女給に「金を渡す」だけでなくて、「情けをかける」ということにも、ならざるをえなかったでしょう。ただしその場合、たとえ金はいくらあったとしても我が身は一つですから、社会的にはのっぴきならない状況に陥ることもあるのが、世の常です。
 同じ北東北の富裕な家に生まれた太宰治が、21歳の時にカフェの女給と心中未遂事件を起こし(女給は死亡)、その後も何度か心中未遂、最期は既遂に至ったことを、ここでちょっと連想してしまいます。太宰治もキリスト教や聖書に強い関心を持ちながらも、賢治にとっての仏教のような信仰には至らなかったわけで、もしも賢治みたいに宗教に染まりきっていたら、別の人生や作品があったのでしょう。しかしそれでは、私たちの知っている「太宰」ではなくなってしまいますね。
 一方、賢治だって「自己破壊的」な傾向を秘めていましたから、もしも宗教なしに遊蕩の道に入っていたとしたら、太宰のように自ら身を滅ぼすような行動に走った可能性も、十分にあったような気がしてしまいます。

 あるいは私は、井原西鶴の『好色一代男』の世之介のことも連想します。考えうるかぎりの遊蕩児の極致とも言うべき世之介も、生野銀山の一山を所有する父の遺産を相続してからは、散財のかぎりを尽くしました。34歳で母から銀2万5千貫目を受けとった世之介が、「これはとおもう女はすべて請け出し、名高い女郎衆を残らず買わずにおくものか」と宣言するスケールは、女給や芸者に法外なチップを渡す賢治とは桁が違いますが、一つだけ現実の賢治と世之介の共通点もあります。

 それは、二人とも、後継ぎの子孫を残さない「一代男」だったところです。

にない堂父子参詣説(2)

延暦寺西塔・にない堂(常行堂と法華堂)

 上の写真は、延暦寺の西塔地区にある通称「にない堂」です。正式には左側が「常行堂」、右側が法華堂で、二つの堂が渡り廊下で連結された対称形になっています。この廊下を「天秤棒」に見立てて、怪力の弁慶ならば肩にかけて「担う」ことができるだろうということから、「にない堂」と呼ばれているわけです。
 延暦寺パンフレットによれば、このにない堂の形は、「法華と念仏が一体であるという比叡山の教えを表し、法華堂では法華三昧の、常行堂では常行三昧の修行が行われる」のだそうです。

 さて、前回は本題に入れずに終わってしまいましたが、そもそも私が考えてみたかったのは、延暦寺にある「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」という銘板に記されているように、賢治父子が1921年(大正10年)の旅行において、この「にない堂」にも参詣したのかどうか、ということでした。
 ここでもう一度、銘板のその部分を引用します。

一泊ののち比叡山に直行、伝教大師生誕千百年大法要会の最終日(推定)、まず「不滅の法灯」の根本中堂を拝み、最後に父のすすめで「にない堂(法華堂と常行堂)」を拝んだ。このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって、賢治の和歌その他の作品にも明記されてはいない。

 父子が「にない堂」に参詣したなどということは、上記のように賢治の短歌にも詠まれておらず、またこの旅行に関する重要資料である佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史各氏の文献にも記されておらず(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)、その結果、『【新】校本全集』年譜篇にも、書かれていません。
 これまでは賢治の短歌の内容から、延暦寺において二人が「根本中堂」と「大講堂」を訪れたことは確実と考えられ、また小倉豊文氏の記述から、「大乗院」にも行ったこともかなり有力視されていました。しかし、「にない堂」に行ったという記載は従来はどこにも見出されておらず、これが本当なら、まさに画期的な「新事実」です。

 それで、この「にない堂父子参詣説」について、ここで検討してみようと思うのですが、まずはこの銘板の記載と、従来の他の資料とを比較してみる必要があるでしょう。とりわけ、この「新事実」は、父政次郎氏から小倉豊文氏に伝えられたとされていますから、その小倉氏が残している他の文献と、照らし合わせてみなければなりません。

 ということで、下のような簡単な年表を作ってみました。

 1951年 2月 小倉豊文「旅に於ける賢治」発表(『四次元』第3巻第2号)
 1957年 3月 宮沢政次郎氏 死去
 1957年12月 小倉豊文「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」発表(『比叡山』復刊31号)
 1978年 8月 小倉豊文「『雨ニモマケズ手帳』新考」刊行
 1996年 6月 小倉豊文氏 死去
 1996年10月 「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板設置
 2004年 3月 平澤農一氏 死去

 さて、「にない堂父子参詣説」が、いつ、政次郎氏から小倉豊文氏に伝えられたのかということがまず問題ですが、「銘板」には、「戦後、後日談として」と書いてあるだけで、それ以上具体的なことは不明です。
 ただし、ここで少なくとも言えるのは、政次郎氏から小倉氏に伝えられたのは、1957年3月の政次郎氏の死去よりは前だったはずだということです。これは全く当たり前のことですが、後述するように重要なポイントとなります。

 まず、小倉氏が1951年に発表した「旅に於ける賢治」は、実際には1949年7月に書かれ、1950年11月に校訂されたことが末尾に記されていますが、いずれにしてもこれは政次郎氏の存命中に書かれたものです。この論文中には、「賢治父子がにない堂に参詣した」ということは書かれていないのですが、その執筆時点で小倉氏がこの「新事実」をまだ政次郎氏から聴いていなかったと考えれば、一応の説明はつきます。
 しかし、天台宗宗務局が発行している機関誌『比叡山』の1957年12月号(1957年12月2日発行)に小倉氏が書いた、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」と題された文章に関しては、事情が異なります。この一文は、例の賢治の「根本中堂」歌碑が1957年9月21日に延暦寺で除幕されたことを受けて掲載されたもので、小倉氏がこれを書いたのが、1957年3月1日の宮澤政次郎氏の死去よりも後であったのは、ほぼ確実と言ってよいと考えられます。
 つまり、小倉氏がこの文章を書いてから、さらにその後に政次郎氏から何かの「新事実」を伝えられるということはありえないわけで、この文章は、政次郎氏から小倉豊文氏への「最終情報」に基づいていることになります。

 そこで、そのような位置づけにある「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を読んでみると、次のような一節が目に入ります。

そして、父子同行二人の巡礼は講堂から戒坦院に及ばず、西塔や横川、四明嶽にも至らずして下山を急ぎ、大乗院や無動寺なども、そそくさと堂前を通りすぎたのみで七曲りから白川越にかかり、全く文字通りの「暗夜行路」で京都の街に入り、当時政次郎氏が愛讀していた「中外日報社」に立ち寄って、聖徳太子磯長の墓への道案内を受け、紹介されて近所の宿屋に勞れきった身をあずけたのであった。(強調は引用者)

 すなわち、小倉豊文氏は、政次郎氏の没後に書いた文章においても、賢治父子は(にない堂のある)「西塔」地区へは行かずに下山したと記しているのです。

 したがって、この「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」という史料と、「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板という史料の間には、矛盾があることになります。どちらが正しくてどちらが間違っているかをここで簡単に決めることはできません。例えば、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を書いた頃の小倉豊文氏は、政次郎氏から生前に聴いていた話をなぜか一時的に忘却していて、しかしその後また思い出して、平澤農一氏に書き送ったという可能性も、絶対にないとは言えません。
 しかし、「史料批判」的に客観的に考えるとすると、「出来事」からの経過時間が短いうちに書かれた史料の方が信頼性が高く、また情報源に近い人物が書いた史料の方が信頼性が高いと、まずは考えてみるのが通例です。この場合、1957年に書かれた「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」の方が、1996年に書かれた「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板よりも、また、政次郎氏から直接聴いた小倉氏自身が書いた「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」の方が、政次郎氏→小倉氏→平澤氏→銘板の筆者、と多段階の情報伝達を経た銘板の内容よりも、信頼性が高いだろうと考えるのが、一般論としては合理的なわけです。
 もちろんこれは、現在明らかになっている資料から、どちらの蓋然性が高いかを言っているだけであって、確定的なものではありません。しかし、史料の真偽の考証においては、「満足できる説明がないまま遅れて世に出た、というように、その史料の発見等に、奇妙で不審な点はないか」(Wikipedia)ということも、重要視される要素です。私としては、政次郎氏の没後約40年も経た1996年になって、初めて世に出て来た「新事実」というところに、どうしても不自然さを感じてしまいます。

 ただ、詳しくは次回に述べる予定ですが、1996年10月に行われたこの銘板の「除幕式」には、平澤農一氏も出席しておられたことが、1996年11月発行の『比叡山時報』に記されています。そうすると平澤氏は、「このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって・・・」という銘板の文章も読んでおられたはずで、その内容に何らかの異議を唱えたという話も伝わっていませんから、やはり平澤氏が小倉氏から何かこのような書簡を受けとっていたのは、事実だった可能性が高い気もします。
 となると、小倉→平澤書簡があったことを前提とした上で、考えられる可能性は、

  1. 前述のように、小倉氏は生前の政次郎氏から「にない堂にも行った」という話を聞いていたが、「傳教大師 比叡山 宮澤賢治」を書いた時にはその話を忘却して、「西塔には行っていない」と誤って執筆し、後になってまた政次郎氏の話を思い出して、平澤氏に書き送った
  2. 小倉氏は政次郎氏から「にない堂に行った」とは聞いていなかったが、年月が経つうちに記憶があやふやになり、「にない堂に行った」と聞いたことがあるような気がしてきて、平澤氏にそう書き送った
  3. 小倉氏は政次郎氏から「にない堂に行った」とは聞いておらず、その記憶にも変化はなかったが、「もし行っていたら賢治の反応が興味深い」とか、「行っていた可能性も否定はできない」など、小倉氏による考察や推測を平澤氏に書き送ったところ、それが平澤氏から銘板執筆者に伝わる過程で、または銘板執筆者によるバイアスもかかって、「父子がにない堂に参詣した」という話に変化した

というようなところになるでしょうか。なんか、どれを見ても無理矢理っぽいこじつけのような感じがする仮説ばかりですが、皆様なら、どれを選ばれるでしょう。

 私自身は、この3つの中ならば、3. を採ろうかと思います。すなわち、父子はやはり「にない堂」には参詣しておらず、銘板に書かれた「参詣説」は、最近になって生まれた一つの「伝説」なのではないかと、考えるのです。
 確かに、賢治の信じる「法華」と、父の信じる「念仏」が、一体となって繋がっている「にない堂」の構造を思えば、対立していた父子がともに参詣する場所として、これほどうってつけのスポットはありません。
 そしてその構造こそが、延暦寺の思想の象徴だというのです。前回に見たように、「賢治が延暦寺参詣によって新たな宗教的理念を得た」と考えたいという立場があるとすれば、そこに、「にない堂父子参詣伝説」が生まれる土壌は、十分にあるのではないかと、私は思うのです。

[この項つづく]

にない堂父子参詣説(1)

 比叡山根本中堂の横にある、あの見事な賢治の歌碑「ねがはくは/妙法如來/正遍知・・・」の脇に、賢治父子の延暦寺参詣75周年を記念して、1996年10月に「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」と題した銘板が設置されました。
 歌碑との位置関係は、下のような感じです。

「根本中堂」歌碑と「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板

 左下にある金属製のプレートが「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板、石段を上って奥にあるのが、「根本中堂」歌碑です。ちなみにこれは今年の4月下旬の写真で、しだれ桜がまだ花をつけていました。

 まず、この「宮澤賢治父子延暦寺参詣由来」銘板に刻まれている文章を、ここに引用して掲載させていただきます。

              宮澤賢治父子延暦寺参詣由来
               (参詣七十五周年記念銘板)

 賢治が父の勧めで島地大等著「漢和対照妙法蓮華経」を読み、同経の中の「妙法寿量品」第十六に感動したのは大正三年十八歳。生家の宗教浄土真宗を捨てて、法華経行者として生きていくことを父政次郎に告げたのは大正七年二月。盛岡高等農林研究科二年終了を機に、大正九年五月日蓮主義国柱会に入会。居室の二階には日蓮上人大曼陀羅、一階には阿弥陀仏を祀る二仏併祭の家となった。賢治の日蓮上人帰依は同年十二月。賢治はお題目を、父は代々の念仏を譲らず、家の中の母子はオロオロするばかり。学友等に対する熱心な折伏も成功せず、父に対するお題目の勧めも容れられず、苦しんだ賢治は自己信仰を強めるため花巻の町を太鼓を打ち鳴らしながら「お題目」を門づけして父や親戚を悩ませた。
 賢治は父の念仏信仰の固い事に業を煮やして、大正十年一月二十三日に無断家出、上京、国柱会日蓮思想普及宣伝に奉仕。東大学生のノートの筆稿(ママ)で生計をたて、低カロリーの食事。自己信仰活動の効果も不毛に近かった。
 父は賢治の将来を心配して花巻から上京。下宿先のウナギの寝床の部屋や質素な生活を目のあたりに見て熟慮の末の提案は、「お前の好きな伝教大師などへ父子で参詣する関西旅行の勧め」であった。賢治も特に反論もなく大正十年四月の初め某日六日間の関西旅行に旅立った。先ず伊勢神宮を参拝。一泊ののち比叡山に直行、伝教大師生誕千百年大法要会の最終日(推定)、まず「不滅の法灯」の根本中堂を拝み、最後に父のすすめで「にない堂(法華堂と常行堂)」を拝んだ。このにない堂父子参詣は戦後、後日談として父・政次郎が賢治史研究家・小倉豊文に伝え、小倉がそれを平澤農一関西・賢治の会会長に書き送った新事実であって、賢治の和歌その他の作品にも明記されてはいない。
 この日賢治の延暦寺参詣で得たものは大講堂では「・・きみがみ前のいのりをしらせ」。賢治の認識では伝教大師に問うたいのりは最澄十九歳で入山のときの「願文」であった。同、第五の「回施して悉く皆無上菩提を得せしめん」であったことを賢治は認識体認していたと推定される。又、「根本中堂」のうたは、妙法如来(御本尊薬師如来)を通じての祈願文であった。「・・大師のみ旨成らしめたまへ」のみ旨は、大講堂で伝教大師に対するいのりを確かめたところ、皆に無上得せしめることであったので、賢治は「大師の教えにみそなわして下さい」と歌いあげたものと思われる。
 にない堂の常行堂を拝んでは従来の一派専行から法華経の原点に立ちかえり、伝教大師は「・・悉く皆の無上菩提・・」と言っている事を重視した賢治はみんなの幸福、という目標を案出した。下山後賢治は多数の童話や詩を書いたが、これら自由闊達な宇宙大の作品の制作エネルギーは、父子参詣で得た宗教的理念に根本があると推測される。
 天才賢治を包容力をもって育成したのは父政次郎であり慈母イチの養育にあった。家出滞京窮地の賢治を蘇生させ、彼に仏教文学者の第一歩を踏み込ませたのは、とりわけ父・政次郎の勧めた延暦寺父子参詣、であった事を江湖の方々に末長く伝えるため、賢治生誕百年を記念して、この銘板を建立するものである。
   平成八年十月十三日
               宮澤賢治生誕百年関西記念事業委員会
                    賢治実弟     宮澤清六 撰文
                    延暦寺執行    小林隆彰 謹識

 長い引用になってしまって申しわけありません。この銘板そのものの写真は、下をクリックしていただければ、直接文字が読めるほどの大きな画像で見ることができます。

宮澤賢治父子延暦寺参詣由来(参詣七十五周年記念銘板)

 で、今回は、この銘板に記されている内容について考えてみたいのですが、まず最初に気になるのは、銘板の最後に「宮澤清六 撰文/小林隆彰 謹識」と書いてあるのは、具体的にはどういうことなのか・・・言いかえれば、上の文章を実際に書いたのは誰なのか、ということです。
 「撰文」というのは、普通は「文章を作ること」という意味でしょうが、上の文章の内容からすると、これは清六氏が直接書いたのではなくて、延暦寺に属する方が書いたのだろうと、私には思われます。というのは、後半部分で、延暦寺父子参詣が賢治に与えたプラスの影響、また伝教大師が賢治に与えた影響の大きさが、特に強調して書かれているからです。
 つまり、上の文章は、宮澤清六氏も内容的には了承をした上で、実際には当時の延暦寺執行・小林隆彰師が書かれたものだろうと、私としては推測します。


 次に文章の内容について、考えてみたいことはいくつかありますが、まず上にも触れた、「参拝が賢治に与えた影響」に関して。
 例えば、

にない堂の常行堂を拝んでは従来の一派専行から法華経の原点に立ちかえり、伝教大師は「・・悉く皆の無上菩提・・」と言っている事を重視した賢治はみんなの幸福、という目標を案出した。下山後賢治は多数の童話や詩を書いたが、これら自由闊達な宇宙大の作品の制作エネルギーは、父子参詣で得た宗教的理念に根本があると推測される。

という箇所や、

家出滞京窮地の賢治を蘇生させ、彼に仏教文学者の第一歩を踏み込ませたのは、とりわけ父・政次郎の勧めた延暦寺父子参詣、であった

という箇所にあるように、賢治がこの「延暦寺参詣で得た宗教的理念」が、その後の文学の根本になったと言えるほど、この時に彼は何かを「得た」のか、という問題です。
 その本当のところは、賢治自身に聴いてみなければわからないことなのでしょうが、少なくともこの時に賢治が詠んだ短歌を見るかぎりでは、「新たなものを得た」というような感興は、まったく見受けられないのです。

776 いつくしき五色の幡はかけたれどみこころいかにとざしたまはん。
777 いつくしき五色の幡につゝまれて大講堂ぞことにわびしき。

 これらの歌について、小倉豊文氏は「旅に於ける賢治」において、

形式的な遠忌の盛大やその荘厳の華麗は、法そのものゝ興隆と何のかゝわりがあろう。事実は却つて逆であつて、「妙法如来正遍知」の教えは地に堕ち、「大師のみ旨」は地を払つてしまつてゐる仏教界の堕落、天台法華宗の衰微は「いつくしき五色の幡」が美しければ美しい程「ことにわびしき」ものであり、「みこころいかにとざしたまはん」と歌はずにはゐられなかつたのであろう。

と、天台宗にとってはかなり厳しい筆致で、評しています。賢治は、当時の叡山の状況を批判的にとらえ、嘆かわしい思いを抱いていたというのです。
 また、佐藤隆房氏も『宮沢賢治』において、

根本中堂に参じ大講堂を拝しました。信仰に燃える賢治さんは、参詣人もなく、研学の僧もいない、静かな大講堂を見て内心甚だしく憤懣の思いでした。

と書き、さらに堀尾青史氏も『年譜 宮澤賢治伝』の中で、

それより進んで大講堂へ。開祖伝教大師大遠忌の五色の幡が堂を飾っている。おごそかであり、美しくはあるが賢治には空しく見える。

と書き、いずれも賢治が当時の延暦寺や天台宗を、否定的に見ていたとの認識を示しています。
 開祖である伝教大師その人に対しては深い尊敬の念を歌にしながらも、一方で、自分の目の前にある叡山の現状には否定的であったというわけですが、このような賢治の考えは、延暦寺に参詣してその場で感じたというよりも、彼はもともと以前から、「日蓮の立場から見た天台宗」という一つの見方を、イメージとして強く持っていたところから来ているのだろうと思います。
 ここで「日蓮の立場から見た天台宗」とは、簡単に言えば、法華経を最高の経典として宣揚した伝教大師最澄は素晴らしかったが、彼以後の天台宗は密教や念仏も取り入れて、堕落してしまったという見方です。
 例えば日蓮御書の「三大秘法禀承事」に、

叡山に座主始まつて第三第四の慈覚智証存の外に本師伝教義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん、彼の摩黎山の瓦礫の土となり栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし

とあります。「理同事勝」とは、「法華経」よりも「大日経」の方が勝れているとした第三代天台座主・慈覚大師円仁の説で、このようなことから日蓮は、その後の天台宗は法華を誹謗していると断じました(「早勝問答」)。日蓮に傾倒していた賢治も、このような彼の考えを信じ込んでいたはずで、短歌中の「(伝教大師の)みこころいかにとざしたまはん」とか、「大講堂ぞことにわびしき」という言葉も、こういうところから来ているのだと思います。

 すなわち、賢治はせっかく父と延暦寺に参詣に来たのでしたが、ここで何かを新たに感得したわけではなく、それまで心酔しつつ読んでいた日蓮御書で示されている「型」にあてはめて、延暦寺を見たにすぎなかったのではないかと、私は思うのです。

 賢治がこの時、日蓮の解釈に従って延暦寺を眺めていた様子は、さらに次の二首の短歌にも表れていると思います。

781 みづうみのひかりはるかにすなつちを掻きたまひけんその日遠しも。
782 われもまた大講堂に鐘つくなりその像法の日は去りしぞと。

 781の「すなつちを掻きたまひけん」とは、若き日の伝教大師が根本中堂を建てるために、叡山の地ならしをしたことを指しています。賢治から見ると、「その日」は時間的に遠くなってしまったばかりでなく、開山における最澄の「み旨」の思想からも、(その後の延暦寺は)遠く隔たってしまったという嘆きを詠んでいます。
 782における「その像法の日」という言葉は、781の「すなつちを掻きたまひけんその日」を受けており、最澄が根本中堂を開いた時は、まだ「像法」の時代であったことを踏まえています。ここでことさら「像法」という仏教的時代区分を持ち出す理由は、その後に来る「末法」時代と対比するためと思われます。最澄の「末法燈明記」によれば1052年をもって世は「末法」に入り、日蓮が登場するのも、賢治の参詣も、この末法の時代のことなのです。
 日蓮御書の「観心本尊得意抄」に、

設い天台伝教の如く法のままありとも今末法に至ては去年の暦の如し何に況や慈覚自り已来大小権実に迷いて大謗法に同じきをや、然る間像法の時の利益も之無し増して末法に於けるをや。

とあるように、像法の時代の伝教大師の「法」は、その当時は有意義なものであったが、末法の時代には「去年の暦」のように役に立たなくなっているというのが、日蓮の考えでした。だから末法にあっては、ひたすら法華経に帰依して、「南無妙法蓮華経」と唱えることによってのみ、仏の功徳を受けることができると、日蓮は主張したのです。
 賢治が、自ら鐘をつくことによって、「その像法の日は去りしぞ」と告げ知らせたかった相手とは、実は比叡山全山の天台僧たちだったと言えるのではないでしょうか。
 したがって782の短歌を、私の解釈もこめて意訳すると、次にようになります。
 「私もまた大講堂に鐘をつく。叡山の人々よ目を覚ませ!大師がこの山を開いた像法の日はすでに去り、今やこの末法にあっては、昔の教えに依っていても衆生済度は果たせないのだ。どうかこのことに、皆々も気づきたまえ!」。


 さて、思わず長くなってしまいましたが、まずここで私が言いたかったのは、延暦寺に参詣した賢治の思いは、延暦寺に立てられている前述の「銘板」に記されているような綺麗事ではなくて、もっと苦いものだっただろう、ということです。
 しかし、ここまでは一種の前置きで、私が本来考えてみたかったのは、「銘板」の中に記されている、「父子が延暦寺のにない堂にも参詣した」という「新事実」についてでした。

 ただ、すでにあまりにも長くなってしまいましたので、申しわけありませんが本題に入るのは、次回とさせていただきます。
 

父子関西旅行の史料

 東京の「宮沢賢治研究会」が、来週10月11日(土)~12日(日)にかけて、「比叡山ツアー」を開催されます。1921(大正10年)年の短歌「比叡」12首の跡をたどり、有志は賢治父子の比叡山越えのルートも踏破してみようという、意欲的な企画です。
 私は、その11日の夜に、宿舎の延暦寺会館で、賢治の関西旅行について話をせよと言われたので、花巻から帰ってから2週間は、その準備に追われていました。

 賢治が関西地方にやって来たのは、1921年(大正10年)の父子旅行と、その5年前の1916年(大正5年)に、盛岡高等農林学校の修学旅行として京都・大阪・奈良・大津をめぐった時の、2回ありました。11日には、両方の旅行について話をさせていただくつもりで、例によってパワーポイントの資料作成をしています。

 ところで、1916年の盛岡高等農林学校の修学旅行に関しては、『【新】校本全集』第十四巻にも掲載されている、「農学科第二学年修学旅行記」(校友会報)という記録があって、参加した学生が分担して旅行の行程や訪問地の詳細を書いてくれています。これは、当事者自身による同時代的記録であり、歴史学における史料批判で言うところの「一次史料」にあたります。一般的には、信頼性が高いと期待できるものです。
 これに、賢治が修学旅行中に詠んだと推定される短歌「大正五年三月より」 256-260 を合わせれば、旅行中の賢治の感慨も、それなりに推し量ることができるでしょう。

 一方、1921年の父子旅行に関しては、賢治の短歌は「歌稿〔B〕大正十年四月」 775-800 が残されていますが、賢治あるいは政次郎氏が直に書き残した「一次史料」というべきものは、存在しません。
 そこで私たちとしては、その欠落を埋めるために、後年に研究者が政次郎氏から聞き書きをした「二次史料」によって、旅行の詳細を推測するという方法を取らざるをえません。
 そのような「二次史料」としては、私の知る限りでは、次の三氏によるものがあります。

    1. 佐藤隆房: 宮沢賢治. 冨山房. 東京, 1942
    2. 小倉豊文: 旅に於ける賢治. 四次元 第三巻第二号, 1951
    3. 小倉豊文: 傳教大師 比叡山 宮澤賢治. 比叡山 復刊第三十一號(通刊256號), 天台宗務庁, 1957
    4. 小倉豊文: 宮沢賢治『雨ニモマケズ手帳』研究. 筑摩書房, 東京, 1996
    5. 堀尾青史: 年譜 宮澤賢治伝. 中央公論社, 東京, 1991

 佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史の三氏のいずれも、政次郎氏と直接に話をする機会が何度もあった人ですし、その記述内容を見ると、それぞれオリジナルなものです。堀尾青史氏の『年譜 宮澤賢治伝』の記述は簡潔で、オリジナルな部分は少ないように見えますが、例えば父子の東京での別れに関して、「午前に東京駅に着いて、午後に父を上野駅に見送った」ということが書かれているのは、この資料だけです。
 上記以外では、例えば関登久也著『宮沢賢治物語』(岩手日報社, 1957)も、父子関西旅行の経過について記していますが、その内容は、佐藤隆房『宮沢賢治』の記述内容を要約したものであり、政次郎氏からのオリジナルな聞き書きではないようなので、ここには含めていません。

 ということで、今度の話の準備として、上記三氏による「父子関西旅行」に関する記述を比較対照する表を作ってみました(下記PDF文書)。

父子関西旅行に関する三氏の記述

 三氏の間でも記述内容にいろいろ食い違いがありますし、それから小倉豊文氏の記載は最も詳しいのですが、政次郎氏から直に聞いた事と、小倉氏が推定した事が、渾然一体となっている部分もあって、慎重な検討を要するでしょう。
 しかしとりあえず11日には、これをもとに父子の比叡山登山・下山ルートや、叡福寺参拝を中止した経緯などについて、また旅行そのものの意味について、考えてみたいと思っています。

父子関西旅行行程

「中外日報社」のあった場所

 故あって、「関西における宮沢賢治」について、また調べてみています。

『【新】校本全集』年譜篇より 1921年(大正10年)4月の、賢治と政次郎の父子による関西旅行において、その第四日目の行程は、『【新】校本全集』年譜篇(p.222-223)によれば右記のように始まりました。
 「朝旅館を出て」というのは、前日に比叡山を越えた後、日も暮れてから投宿した三条小橋近くの「布袋館」です。旅館を発った二人は、右記のような目的を持って大阪の「叡福寺」に参詣する計画で、その行き方を尋ねるために、まず「中外日報社」に立ち寄ったというのです。
 「中外日報」は、1897年に創刊された宗教専門紙で、宗教的な好学心の旺盛な政次郎氏にとっては以前からの愛読紙だったということですが、現在もその「総本社」は、京都駅の南にあります。

 で、この朝に賢治と政次郎の二人は、「七条大橋東詰下ル中外日報社を訪ね」たということですので、私は当時に中外日報社があった正確な場所が知りたく思い、先日、メールで中外日報社に問い合わせをしてみました。
 すぐに親切なお返事をいただいたのですが、その内容は、ちょっと意外なものでした。
 以下に、その返信の主要部分を引用させていただきます。

> 中外日報社は大正15年9月に、東山の妙法院前から
> 東区一橋宮ノ内町7番地へ移転しています。
> 妙法院前の社屋は、現在の妙法院の前(道を挟んで向かい側)
> に位置していたようです。
>
> お問い合わせの「七条大橋東詰下ル」は、どうも一橋宮ノ内町
> (川端七条)のあたりのように思われます。
> 年譜の記述は大正10年となっていますから、その当時は
> 妙法院前に社屋があったと思われますが、あるいは後年、場所について
> 取り違えて記録したことも考えられます。
> それはさておき、一橋宮ノ内町の旧社屋跡には、
> 現在、佛眼鍼灸理療学校の校舎が建っています。

 つまり、賢治父子が中外日報社を訪ねた1921年(大正10年)の時点では、社屋は年譜に記載されている「七条大橋東詰下ル」ではなくて「妙法院前」にあり、その後、1926年(大正15年)に社屋が移転した先が、「七条大橋東詰下ル」だったというのです。
 これを地図に表示すると、下のようになります。

 マーカー(1)を付けてあるのが、賢治父子が訪ねた当時に中外日報社があったはずの「妙法院前」です。マーカー(2)は、1926年(大正15年)の移転後の社屋の位置(現在の佛眼鍼灸理療学校)です。
 「七条大橋東詰下ル」という表現は、京都風の位置指示方法ですが、「七条大橋」(上図では、七条通=113黄色の東西の通りが、鴨川を渡る橋)の、東詰=(上図では、「本町6丁目」と書いてある「本町」の字のあたり)から、「下ル=南に進んだ場所」、という意味です。
 すなわち、中外日報社からの返信メールのとおり、1926年の移転後の社屋の位置に、該当しているようです。

 「年譜」の記載と現実との間に、このような食い違いが起こってしまった理由としては、「年譜」のこの箇所の記載はおそらく賢治の死後に父政次郎氏が研究者(堀尾青史氏?)に語った内容にもとづいているのでしょうから、その際の政次郎氏の勘違いにあったのではないかと、私は推測します。
 旅行から少なくとも十数年が経って、政次郎氏が昔語りをした時点では、中外日報社の社屋はすでに「七条大橋東詰下ル」に位置していたわけですから、政次郎氏としては途中で移転したなどとは意識せずに、「中外日報社といえば七条大橋東詰下ル」という、その時点での理解にもとづいて話をされたのだろうと、私は思います。

 さて、このあたりの事情についてちょっと興味深く感じられるのは、佐藤隆房著『宮沢賢治』(冨山房)における、やはりこの関西旅行に関する記述です。
 同書では、下記のように書かれています(p.68)。

 次の日の朝も早く宿を立ち、三十三間堂の近くにあった中外日報社を訪ねて行きました。それは聖徳太子の磯長の廟に行く道順をたずねるためでした。

 こちらの記述では、「中外日報社」の場所を、「三十三間堂の近く」と表現しています。三十三間堂とは、上の地図では「三十三間堂前」の信号の南西に広がる縦長の緑の敷地で、マーカー(1)も、マーカー(2)も、どちらも「三十三間堂の近く」と言うことはできますが、大きな違いは、旅館のあった三条小橋(図で、北北西の方向)から(1)の場所に行くためには三十三間堂の前を通りますが、(2)へ行くのなら、三十三間堂の前は通らない、ということです。
 賢治父子が旅館から中外日報社へ行った道筋としては、市電を利用して、「木屋町三条」→「七条東洞院」(木屋町線)、さらに「七条烏丸」→「東山七条」(七条線)と乗り継ぐという経路が考えられます。そして、市電を降りる東山七条の電停から中外日報社(1)までは、200mほどです。さらに、東山七条の手前の電停が「博物館三十三間堂前」でしたから、中外日報社が「三十三間堂の近く」にあることが、意識されやすい状況にあったのだろうと思います。

 すなわち、政次郎氏が堀尾青史氏(?)に語った際には、「七条大橋東詰下ルの中外日報社」と、後からの知識も思わず混ぜて語ってしまったようですが、佐藤隆房氏に語った際には、中外日報社に行く途中で、近くに三十三間堂があったという、旅行当時の記憶を呼び起こしながら話をしたということかと思います。


 下の写真は、東大路をはさんで妙法院の向かい側、賢治父子が訪ねた時に「中外日報社」があったとされる場所です。現在は旅館の敷地の一部になっています。

1926年移転まで中外日報社があった場所

 下の写真は、1926年(大正15年)9月に移転した後の中外日報社があった場所(=七条大橋東詰下ル)です。

1926年移転後の中外日報社があった場所

 そして下は、現在の「中外日報京都総本社」です。

中外日報京都総本社

中外日報京都総本社看板

布袋「館」

年譜・1921年4月 『【新】校本全集』第十六巻(下)年譜篇(2001)のp.222では、右のように賢治たち父子が比叡山から降りて宿泊した旅館の名を「布袋屋」としています。しかし以前に書いたように、「三条小橋商店街」の方のお話では、三条小橋の近くにあった旅館は、「布袋屋」でなく「布袋館」だったということです。

 し『帝国旅館全集』(1913)ばらく前に国会図書館に行った時に、当時の旅館の名前を収録した書籍によって、これを確認してみました。

 まず、奈良の「対山楼」の時にも参照した、1913年(大正2年)発行の『帝國旅館全集』という本があります(左写真)。
 これは賢治父子の旅行の8年前に出た本ということになります。もちろん、旅行時点とすべての旅館が同じとはかぎりませんが、そのp.89は、下の図のようになっています。

『帝国旅館全集』p.89

  最下段の、右から11番目に、「布袋館」の名前が見えます。住所は、「三條小橋東入ル」です。

『全国旅館名簿』1926 次にもう一つ、上の本より少し後に出た『全国旅館名簿』という本がありました(左写真)。
 「全國同盟旅館協會」というところの編纂で、こちらは賢治父子の旅行の5年後に出ています。
 この本の京都市下京区の一部をコピーしたのが、下の図です。







 

京都市下京区の旅館

 右から10番目に、「布袋館」が載っています。住所は、やはり「三條小橋東」となっています。

 ということで、2つの資料が一致しているので、やはり旅館の名前は「布袋館」が正しかったのだろうと思います。
 『【新】校本全集』年譜篇において「布袋屋」とされているのは、政次郎氏の記憶をもとにした記載かと推測しますが、「対山楼」にかぎらず旅館の名前というものは、微妙な記憶違いをしやすいものなのでしょうか。

坂本~比叡山~三条

 1921年(大正10年)4月、家出中の賢治と花巻から出てきた政次郎の父子は、関西旅行を行いました。その第三日の昼すぎに、二人は湖南汽船を坂本港で降りて、ここから歩いて比叡山を越え、夜になって京都の旅館にたどり着きます。賢治24歳、政次郎もまだ47歳とはいえ、かなりの強行軍です。
 今日はこの行程を、たどってみることにしました。

「比叡山坂本」駅

 上の写真は、JR湖西線の「比叡山坂本」駅です。まずは、ここから琵琶湖岸方面を目ざします。

 まっすぐ湖岸に出て、少し南に行ったところ、現在はマリーナ施設になっているあたりに、昔の「坂本港」があったということです(下写真)。

ヤマハマリーナ(旧坂本港のあたり)

 昔の坂本港の写真は、「琵琶湖河川事務所」のサイトに掲載されていました(下写真=国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所提供)。

旧坂本港

 湖南汽船内で昼食をとった父子は、上の桟橋に降り立って、坂本の街並みを抜け、比叡山を目ざしたわけです。

 坂本港から、比叡山の登り口までは約2.4kmです。この間には、日吉大社の参道に沿って、昔この地に住んでいた「穴太衆」と呼ばれる人々による、独特の石積みが見られます(下写真右側)。

日吉大社参道

 この道の突き当たり近くに、比叡山への登り口があります。延暦寺の「表参道」の入口として、両側に常夜燈が置かれた厳かな石段が、その起点です。

延暦寺表参道入口

 賢治たち父子も、坂本ケーブル坂本駅ここから比叡山に登り始めたわけですね。延暦寺の根本中堂までは、約3kmということです。
 ただ、今日の私はちょっと楽をさせていただいて、登り口からちょっと西にある、右写真の建物を通って行きます。

 これは、坂本側から比叡山に登る、「坂本ケーブル」の坂本駅です。坂本ケーブルとは、全長2025mもある日本最長のケーブルカー路線で、もちろん賢治たち父子が登山をした時にはまだ存在しませんでしたが、意外にもその6年後の1927年には、もう開業していました。上の「ケーブル坂本駅」の建物は、その1927年以来のもので、国の登録有形文化財にも登録されているそうです。

 駅の内部も、下写真のようにレトロな感じでいい雰囲気です。

ケーブル坂本駅(内部)

 ケーブルカーに揺られて11分、終点の「延暦寺駅」に着きました。やはりレトロな駅舎から出ると、琵琶湖が眼下に広がります。

比叡山から眺める琵琶湖

 ケーブルの延暦寺駅から歩いて10分足らずで、延暦寺の本堂にあたる「根本中堂」です(下写真)。

根本中堂

 根本中堂の脇には、賢治の歌碑があります。麓からは2週間遅れで、今まさに満開の桜が、花を添えてくれていました。

賢治歌碑と桜

  根本中堂
ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまへ。(775)

 下写真は、やはり賢治たち父子が参拝した「大講堂」です。

延暦寺・大講堂

いつくしき五色の幡につゝまれて大講堂ぞことにわびしき。(777)

 写真のように、今日も大講堂には「五色の幡」がはためいていました。

 で、次は根本中堂や大講堂のある「東塔」から西の方に30分ほど歩き、「比叡山道標頂」まで行きました。そしてここから、賢治たち父子にならって、歩いて比叡山を下ることにします。京都方面へ降りるロープウェーの駅近くには、右のような道しるべが出ていました。下山路は約5km、修学院の方に出ます。

 山道は、ところどころ険しい箇所もありましたが、おおむねしっかりと踏み固められた道で、歴史も感じさせてくれるような雰囲気でした。その昔、延暦寺の意に沿わぬ事が都であると、僧兵たちが日吉大社の神輿を担いで山を駆け下り、「強訴」を行ったと言われていますが、その際に武装した僧たちが走ったのが、まさにこの道だったわけです。

千種忠顕卿水飲対陣之跡 途中、左写真のような「千種忠顕卿水飲対陣之跡」と書かれた石碑が立っていました。
 千種忠顕という人は、鎌倉時代末期から建武中興時代にかけて、後醍醐天皇に仕えていた公家出身の武将で、後醍醐天皇の隠岐脱出を助けたりもしたそうですが、足利尊氏が後醍醐天皇と袂を分かつと、天皇側の軍を率いてこの比叡山において尊氏の弟・足利直義と戦って敗れ、戦死したということです。
 偶然のことですが、この石碑が建てられたのは、1921年(大正10年)5月ということで、賢治たち父子がここを通った1ヵ月後のことです。賢治たちも、ひょっとして碑の基礎工事などを目にしたでしょうか。

比叡山下山道 場所によっては、「神輿を担いだ僧兵たちがどうやって通ったのだろう」と思わせるような狭い切り通しもあったり(右写真)、先日までの雨でドロドロにぬかるんだところもあったりしましたが、午後5時前には、何とか京都市左京区修学院の比叡山登り口(=「雲母坂(きららざか)」)に降り立つことができました。
 「雲母坂」というのは、比叡山の京都側の地質に花崗岩が多いことから、その中に含まれる雲母が、このあたりの坂道にキラキラと見られていたことによるそうです。
 『【新】校本全集』年譜篇には、賢治たち父子は、「暮れかかる山道を約八キロ、白川の里に降り、・・・」と書かれていますが、京都市の北東部を白川と呼ばれる小川が流れ、「北白川」などの地名があるのも、比叡山の方から花崗岩質の砂が流れてくるので、このあたりの河床が白く見えることに由来しています。

 さて、山道は音羽川という流れのほとりに出て、下の橋は、音羽川に架かった「きらら橋」です。

きらら橋

 ここから、少し市街地の方へ歩くと、曼殊院(下写真)や詩仙堂など、少しマイナーですが静かな観光名所もあります。

曼殊院門跡

 一乗寺のあたりから、比叡山を振り返って見ました。

一乗寺から望む比叡山

 そして最後は、父子がこの晩泊まった宿、「布袋館」のあった場所です。

加茂川館(布袋館跡)

 「布袋館」のことについては、以前に「京都における賢治の宿(1)」に、少し詳しく書きました。

 それにしても、比叡登山にケーブルカーを使うという大きな楽をさせてもらったにもかかわらず、帰ってくると結構疲れましたよ。

「石場浜乗船」のこと

『【新】校本全集』年譜篇p.222より 1921年(大正10年)に賢治が家出上京していた間の4月上旬、父政次郎氏は賢治を誘って、二人で伊勢~比叡山~奈良をめぐる関西旅行を行いました。右のテキストは、『【新】校本全集』年譜篇p.222に記載されている、その「第三日」の初めの部分をコピーしたものです。

 ここに書かれている旅行中の事実経過は、政次郎氏が後年、おそらく賢治の没後に語った内容にもとづいているのだと思いますが、本日検討してみたいのは、この中の「大津駅下車。琵琶湖岸石場浜から湖南汽船にのり・・・」という部分です。
 当時の賢治父子の足どりをたどってみようと調べているうちに、この時期の「湖南汽船」が、大津の「石場」の港に発着していたのかどうか、不確かな感じがしてきたのです。


 歴史的にみると、石場港は、琵琶湖の舟運において重要な役割を果たしてきた港でした。
 「急がば回れ」という諺がありますが、その由来は、

もののふの矢橋の船は速けれど
         急がば回れ瀬田の長橋

という、室町時代の連歌師・柴屋軒宗長の歌から来ているのだそうです(「語源由来辞典」参照)。
 東海道を旅する際には、大津宿石場港から草津の矢橋を結ぶ「矢橋の渡し」を利用する方が距離的に近く、たいていの場合は速いのだけれど、舟というものは天候に左右されて危ないので、大きく南を回って「瀬田の長橋(=瀬田の唐橋)」を渡る方が安全確実である、ということを、この歌は意味しているのだそうです。
 また、「近江八景」の一つである「矢橋の帰帆」も、この石場港と矢橋港を往き交う帆舟を、比叡山と夕空を背景に眺めたものでした。

 ということで、江戸時代から明治初期までは、大津のメイン・ポートとして栄えた石場港だったのですが、どうも明治後期以降は、次第に他の港にその座を譲って、衰退していったようです。
 私が最初に「石場浜から湖南汽船にのり・・・」という記述に疑問を持ったのは、明治末期の大津市の様子を示す、下の図を見た時でした。

初期の東海道線
(『琵琶湖汽船100年史』より)

 そもそもこの図は、明治末期までの国鉄大津駅は東海道本線の上にはなくて、スイッチバックの支線上の駅だったことを示すものですが、大津駅の湖岸には、「太湖汽船乗り場」があって、紺屋関駅の湖岸には、「湖南汽船乗り場」があるのに、石場駅の湖岸には、何もないのです。

 同じような状況は、古い資料においても確認できます。下の図は、1895年(明治28年)に京都で「第4回内国勧業博覧会」が開かれた際に、滋賀県にも観光客を誘致しようと作られた「近江案内略記」という観光地図の一部です。

近江案内略記(1895)
(『新修大津市史 第五巻』より)

 ちょっと見にくいですが、ここでも、「大津ステーション」の左方には「太湖汽船會社」があって、湖岸には船の絵と錨の印があり、右方には「湖南汽船會社」があって、やはり湖岸には船の絵と錨の印があるのに、右端の「石場」の湖岸には、大きな木が一本描かれているだけです。
 すでに明治時代後半の石場浜は、港としての機能はあまり果たしていなかったのではないかと、心配になってきます。

湖南汽船会社・湖南航路の切符(昭和初期) ところで、賢治たち父子が大津から坂本まで乗船した、湖南汽船の定期航路運航が始まったのは、1894年(明治27年)のことでした。以下に、『新修大津市史』の記述を引用します。

 翌明治二十七年、湖南汽船は湖南の探勝を目的に、大津―石山、大津―坂本間の定期航路運航をもって、湖上遊覧船営業に乗り出したのである。湖南汽船の定期航路の開始は、琵琶湖遊覧汽船の始まりにあたるが、遊覧船の営業は、営業収益の下降的傾向にあった湖南汽船の歯止めとなり、以後順調な営業の発展をみていったのである。一方、太湖汽船も湖南汽船と相前後して遊覧船航路を開拓し、明治二十八年以降は収入・利益とも明治二十二年以前の状態に復すことができた。(中略)
 遊覧汽船客誘致が成功してか、湖南汽船は明治三十六年以降収入・利益とも順調な発展をみた。なかでも第一次大戦後の好景気は湖上遊覧時代を出現させ、大正九年(1920)には京阪電気鉄道株式会社と提携して船車連帯運輸による「八景めぐり」を開始し、同十五年には同社の融資も得て遊覧船明治丸・大正丸・平安丸の鋼鉄船を建造し、さらに同年には南郷遊覧をさらに発展させるため、宇治川ラインの遊覧船就航を計画、モーターボート夕照号、秋月号の進水をみたのである。(強調は引用者)

 琵琶湖の水上運送は、湖岸に東海道線が全通するなど陸上交通の発達によって、明治中頃に一時的な打撃を受けますが、ここで単なる貨客運送から遊覧・観光に重点を移すことによって、また勢いを盛り返していったというわけです。
 賢治父子が琵琶湖で汽船に乗った1921年(大正10年)とは、まさに上述の「湖上遊覧時代」にあたり、2人が汽船の上で食事をとったのも、そんな時代の観光旅行の一コマだったわけですね。

 それから、右の方にずらっと並べた写真は、『琵琶湖汽船100年史』という本に掲載されていた、「湖南汽船会社」の、「湖南航路」の切符です。
 これらは、昭和初期のものということで、賢治たちの旅行の時のものと同一とは限りませんが、切符に記載されている港を、北から順に並べてみると、下のようになります。

  • 坂本
  • 唐崎
  • 三井寺
  • 浜大津
  • 紺屋関
  • 膳所
  • 瀬田
  • 石山寺
  • 南郷

 琵琶湖南部の観光地が並んでいますね。もちろん、これらの切符がすべての区間を網羅しているとはかぎりませんから、ここに「石場」が出ていないからといって、これも、湖南航路の寄港地に「石場」が含まれていなかったという証拠になるわけではありません。
 しかし、上の二つの図や、この12枚の切符から浮かび上がる状況を合わせると、明治後期以降には「石場」という港があまり使われていなかったのではないか、そして湖南航路の停泊港になっていなかったのではないか、という危惧を生じさせます。

 それでは、もしも賢治父子が乗船したのが「石場港」ではなかったとしたら、それはどこだったのでしょうか。
 それを考えるためには、当時の「大津駅」の場所を再確認する必要があります。

 最初に掲げた図においては、明治末の「大津駅」は、琵琶湖岸(現在の京阪浜大津駅の場所)にありました。しかし、賢治父子が旅行した1921年(大正10年)には、またこの時と状況が変わっていたのです。
 1913年(大正2年)に、大津電車軌道(現在の京阪電車石山坂本線の前身)が旅客営業を開始すると、上の図で「大津線」と書かれている支線は旅客営業を廃止して貨物線にされてしまい、上記の「馬場駅」が、新たに「大津駅」と改称されたのです。
 つまり、1921年に賢治父子が下車した「大津駅」は、上の図の「馬場駅」(現在のJR膳所駅)だったわけです。

 となると、上にまとめた「湖南航路」の停泊港のうちで、その「大津駅」から最も近いのは、「膳所港」ということになります。その場所は現在の近江大橋の西のたもとのあたりで、当時の大津駅からは、道のりにして1.3kmほどになります。
 次に近い港は、湖南汽船本社の傍で、湖南航路の中心でもある「紺屋関港」です。ここは、当時の大津駅から1.8kmの距離です。
 どちらの港だったかは断定できませんが、距離的に近いこと、また政次郎氏が「石場浜」と勘違いした要因として、当時の大津の繁華街からは少し南東にはずれた港だったという意識があったかもしれないことから、「膳所港」だったのかもしれないと、私は思います。
 1921年当時における、湖南航路の停泊港をはっきりと示してくれる資料があれば、事情は明確になったはずなのですが、そのような資料が見つけられなかったので、今回は間接的な資料による「推測」にとどまりました。


 ところで、本題からは少しそれますが、冒頭に引用した図が示していたように、ある時期までの国鉄大津駅は、現在の位置ではなくて、今は京阪電車の浜大津駅がある場所にあり、馬場駅からスイッチバックで入るようになっていました。これは、(旧)逢坂山トンネルの滋賀県側出口はかなり高い位置にあって、湖岸の高さにある大津駅から直接列車が向かうことができなかったためだったということですが、さらに前述のように大正初期に、「大津駅」の名称はそれまでの「馬場駅」に移動させられて(=2代目「大津駅」)、表面上は、スイッチバックなどという非効率なことをしなくてよくなります。
 しかし一方、当時の東海道線は、京都側においても、トンネル工事の事情でいったん「稲荷」(現在は奈良線)の駅まで南下してから、滋賀県側に抜けるというまわり道をしていました。こちらの非効率を改善するために、京都駅から真っ直ぐ東に抜けるルートで「新逢坂山トンネル」が掘削され、滋賀県側の東海道線のルートはそれまでより北側を走るように変更されて、大津駅もまたまた滋賀県庁の南西に移動し(3代目「大津駅」)、新たな東海道線が営業を開始したのが、1921年(大正10年)8月1日のことでした。そしてそれまでの大津駅(2代目)は「馬場駅」に名称が戻されるとともに、旅客営業はいったん廃止されます。

 すなわち、賢治たち父子が訪れた1921年4月、大津駅(2代目)と旧東海道線は、くしくも廃止寸前の時期にあたっていたというわけなのです。

明治末と現在の東海道線
赤色は現在の東海道線

謹賀新年・二見浦

二見浦の朝日


 あけましておめでとうございます。

 お休みにもかかわらず更新の間隔が少し空いてしまいましたが、12月30日から今日まで、田舎に帰省しておりました。西日本では、ほとんど年末まで穏やかな日和がつづいていたところ、最後の大晦日になってぐっと冷え込み、雪もちらついたのです。

 振りかえれば、昨年は十分に記事の更新ができず、ほとんど週に2回できればよい方、という感じになっていました。今年こそは、せめて週3回くらいをめざします、と言いたいところなのですが、それも個人的な事情でなかなか難しいところがあります。
 しかし、何とか頑張って地道に書きつづけていきたいと思いますので、どうか愛想をつかさずに、今年もよろしくお願い申しあげます。

 ところで上の写真は、伊勢の二見浦の日の出の様子です。と言っても、こんな素晴らしい写真を私が撮影してきたわけではありません。今日乗った新幹線の中で、『ひととき』という車内誌の1月号をパラパラとめくっていると、小澤實さんという俳人が、「芭蕉の風景」と題したエッセイで、「二見浦」を取り上げておられたのです。
 小澤氏によると、「おくのほそ道」の旅に出る直前に芭蕉は、「二見文台」と呼ばれる文台(俳諧の席で、句を記録する懐紙を置く台)を作らせたそうです。台の表には、「二見浦の夫婦岩の初日の出」の図を描かせ、台の裏には、「うたがふな潮(うしほ)の花も浦の春」という句を、みずから墨書しました。句意は、「夫婦岩に潮が散って花のように見える。疑ってはならない、それは二見浦の新春を示すもの、疑ってはならない。めでたい浦の景色は伊勢二見の神そのものを表すものでもある、けっして疑ってはならない」というものだそうです(小澤實氏による)。

 それからもう一つ、こちらの方が有名な句だと思いますが、「おくのほそ道」の結句は、「蛤のふたみにわかれ行(ゆく)秋ぞ」というものです。この「ふたみ」には、蛤の「蓋と身のように」別れがたきを別れるという意味と、この後つづけて芭蕉が向かおうとしていた伊勢の「二見」が掛けてあるのですが、「おくのほそ道」の直前と最後に「二見」が登場するのには、何か特別な理由があるのでしょうか。

 この疑問を解くべく、小澤氏は、二見浦の海岸にある「二見興玉(おきたま)神社」に注目されました。この神社は、神武天皇を大和へ案内した猿田彦命を祭神としていることから、「道中安全」の御利益があるとされ、旅に出る人々が無事に「帰る」ことを祈ってたくさんの「蛙」の石像を奉納するために、それらは「二見蛙」と呼ばれるようになっています(「二見蛙」についてはこちらのページも参照)。
 つまり芭蕉は、自分と曾良が奥州へ遙かな旅をするにあたって、無事な帰還を二見の神に祈り、その旅から帰り着くや、神への感謝を捧げるためにまたすぐに二見に赴いたのではなかったかというのが、小澤氏の推論です。新春早々、とても興味深く読んだエッセイでした。
 家に帰ってちょっとネットで調べてみると、太平洋戦争の時にも、「無事カエル」ことを祈って、陶製の小さな「二見蛙」の御守りを持って出征した兵士が多くあったようですね。


 さて、そこで連想したのが、賢治が家出中の1921年に、父政次郎に誘われて、伊勢神宮→比叡山延暦寺→法隆寺、という関西旅行をした際のことです。
 賢治が法華経に凝り固まり、父祖の浄土真宗に反発するあまり家出をしてしまったものですから、父の政次郎氏は何とかして息子の宗教的視野を広げて冷静にならせるべく、この旅行のプランを立てたようです。延暦寺は、日蓮も親鸞も若い時に修行をした地であり、「法華と念仏が一体であるという教え」を具現化した「にない堂」という建物もある所ですから、まさにうってつけの宗教的意味を持っています(「根本中堂」歌碑のページも参照)。また、法隆寺は言うまでもなく日本の仏教の伝説的始祖というべき聖徳太子の創建であり、ここで政次郎氏は賢治に次のように語ったと言うことです(関登久也『宮沢賢治物語』)。

千三百年も前に聖徳太子がお建てになったこの寺が日本仏教発生の地として、そのまま残っていることは有り難いことだ。太子は釈迦をまつり、その脇に観音をまつり、御母の冥福のためといって阿弥陀仏をまつっておられる。これは太子の仏に対する信仰のあり方であろう。

 さらに、政次郎氏は法隆寺に行く前に、聖徳太子墓所のある大阪府の叡福寺にも参詣しようと計画していたようで、ここもまた、親鸞も日蓮も参籠修行したことがあるとの言い伝えがある寺だったのですが、ここは交通や時間の関係で中止したようです。

 つまり、この旅行で参詣した(しようとした)寺院に関しては、日蓮と親鸞、法華と念仏が、実は元をたどれば根は同じところにあるということを、仏教史的に示唆してくれる場所が、周到に選ばれていたわけです。
 しかし、「伊勢神宮」だけは、さすがにちょっと異質な感じはします。それでも、いくら「法華経一直線」だった当時の賢治といえども、天皇や国家神道は尊崇していたわけですから、日本の宗教的ルーツに触れさせて「法華経を相対化させる」ということで、伊勢参りにも意味があると政次郎氏は考えたのかな、などと思っていました。

 ところがここでちょっと年譜を見直してみると、この時、父子は伊勢神宮を参拝した後に、二見浦の旅館に泊まったのです。

伊勢参宮。ここも雨であった。外宮参拝後(中略)、内宮に詣でる。それより二見ヶ浦に出、海辺の旅館に入り、父子二人枕を並べて寝た。このときの短歌「伊勢」一二首。
第三日、二見浦駅より京都行にのり大津駅下車。(『【新】校本全集』年譜篇)

 この時に、賢治は下のような短歌を詠んでいて、二見浦の海岸で日の出を見たようです。したがって、海岸ですぐ目の前にある「二見興玉神社」にも、ついでに参った可能性は、十分にあるわけです。

      ※二見
774 ありあけの月はのこれど松むらのそよぎ爽かに日は出でんとす。

 そして、もし政次郎氏が、この二見興玉神社の御利益が「無事帰る」ということだということをあらかじめ知っていたとすれば、賢治をわざわざこの海岸に連れてきた理由が、十分に得心できるものになります。
 どうか息子が、何とも厄介な「家出」から、早く家に「カエル」ようにと、父はぜひとも祈願したかったのではないかと、私はふと思ったのです。

伊勢神宮と二見興玉神社

京都における賢治の宿(1)

 1921年4月、宮澤政次郎氏は、家出して東京にいた賢治を誘い、関西方面の旅をしました。この時、京都にやってきた父子は、「三条小橋の旅館布袋屋」に泊まったということが『【新】校本全集』年譜篇にも記されていますが、「布袋屋」という旅館は現存していません。
 この旅館がどの場所にあったのだろうということが以前から気になっていたのですが、三条小橋商店街理事長の大西弘太郎さんにお尋ねしたところ、現在は「加茂川館」という旅館になっている場所に、戦前は「布袋館」という旅館があったということを、教えていただきました。


 東海道の京都池田屋騒動之址側起点とされている「三条大橋」は、三条通が鴨川を渡る橋ですが、そこから西に90mほどのところ、三条通が高瀬川を渡るところにかかる橋が、「三条小橋」です。
 長さ10mにも満たないようなかわいい橋なのですが、そのすぐ西には新選組の「池田屋事件」の旧跡があったり(右写真)、橋の東の佐久間象山・大村益次郎遭難之碑たもとには「佐久間象山先生・大村益次郎卿遭難之碑」(左写真)があったり、いろいろな歴史的事件の舞台ともなっています。
 この地は、東海道を歩いて旅してきた人が、やっと三条大橋にたどり着いて宿をとるというロケーションにあって、江戸時代から宿屋が多く並んでいたということです。幕末の頃に諸国から集まった志士たちも、この辺の宿に身を潜めたり集結したりしたわけですね。ちなみに左の写真で、「高瀬川」と書かれた石の欄干が、「三条小橋」です。


 さて、この三条小橋から三条通を東へ50mほど行ったところ、通りの北側に面して建つ立派な旅館が、「加茂川館」です(下写真)。

加茂川館

 加茂川館のサイトをご覧いただくと、旅館についてより詳しい情報も見られます。また、こちらをクリックしていただくと、MapFan Web でこの旅館の場所が表示されます。

 この場所に、戦前は旅館「布袋館」があり、その後「近江屋」という旅館だった時代があって、数年前から現在の「加茂川館」となっているということです。

 ところで、三条小橋商店街の大西さんからは、この場所に建つ旅館の歴史について、さらに興味深い情報も教えていただきました。

『東海道中膝栗毛』七編上 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』には、「三条の編笠屋」という旅籠が登場するのですが、この「編笠屋」とは、江戸時代にこの加茂川館のあった場所~すなわち賢治の泊まった布袋館のあった同じ場所~に、実在していた旅籠だったということなのです。右の画像は、岩波文庫版『東海道中膝栗毛』「七編上」の一部ですが、弥次郎兵衛が京の五条大橋のあたりで、相撲取りのような男にからまれそうになるところです。相撲取りが、「こつとらは今三条の編笠屋から出て來たものじや」と言っています。
 思わぬところで、思わぬ由緒に遭遇するものですね。

 三条小橋商店街振興会では、このようなエピソードもあること、そしてこの地が江戸時代には京都の「玄関口」であったことにちなんで、三条大橋のたもとに、弥次郎兵衛と喜多八の銅像を建てています(右下写真)。
弥次喜多像 二人の後ろに見えるのは、鴨川と三条大橋です。


 1921年4月のある日の午後、下坂本の港で汽船を降りた賢治ら父子は、840mもある比叡山を、歩いて滋賀県側から京都府側へ越え、おそらく夕闇の中を三条大橋を渡って、ここにあった「布袋館」という旅館に、荷を解いたのです。
 賢治は24才、政次郎氏もまだ47才とはいえ、二人の健脚には感心させられます。

 下の写真は、二人が越えてきた比叡山(画面中央)を、三条大橋から望んだところです。
 三条大橋から比叡山を望む

(今回の私の問い合わせに対し、ご親切にお答えいただいた三条小橋商店街の大西弘太郎さんに、感謝申し上げます。)