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おお朋だちよ 君は行くべく...

 「農民芸術概論綱要」の、「農民芸術の綜合」という節の最後に、次の言葉があります。

おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう

 この言葉の意味がちょっと気になったのですが、これは具体的には、どういうことを言っているのでしょうか。
 ごく普通に考えれば、「農民芸術」という企画について論じ、それを一緒に実践していこうと、農村の若者たちに呼びかけるこの「概論綱要」の主旨からすると、ここに出てくる「行く」というのは、農民芸術の活動を進めて行く、ということかと思われます。そして、「朋だち」である「君」がまず農民芸術を実践して行けば、やがては全ての農民もそれに続いて「行く」であろう、という風に解釈することができます。

 長詩「小岩井農場」には様々な側面があり、様々な解釈が可能でしょうが、その初期形における重要なモチーフの一つは、「農学校の同僚の堀籠文之進と仲良くなりたいが、うまく行かない」という賢治の悩みでした。
 もっとも、この堀籠をめぐる葛藤に関する記述は、後の推敲によって削除され、全く痕跡をとどめない状態にされてしまうので、出版された『春と修羅』に掲載されている形態を見るかぎりは、そのようなモチーフはうかがい知れません。しかし賢治が、この日の小岩井農場散策を途中で取りやめ、引き返すという決断をしたのも、実は堀籠に対する気持ちによるところが大きく、早く花巻に戻って農学校に寄れば、日直をしている堀籠と一緒にチョコレートを食べられるかもしれない、と考えたからだったのです。

 もちろん、賢治が引き返した直接のきっかけは、よく知られているように「雨が降り出したから」だったのですが、「下書稿」や「清書後手入稿」を見ると、彼は雨が降り出すかなり前から、「もう柳沢へ抜けるのもいやになった」と記し、何時の列車に乗れば農学校に寄るのに都合がいいかなどと、しきりに考えているのです。

五時の汽車なら丁度いゝ。
学校へ寄って着物を着かへる。
堀篭さんも奥寺さんもまだ教員室に居る。
錫紙のチョコレートをもち出す。
けれどもみんながたべるだらうか。
それはたべるだらう、そんなときなら
私だって愉快で笑はないではゐられないし
それにチョコレートはきちんと、
新らしい錫紙で包んであるから安心だ。

 賢治はこんなことを考えながら、しかし引き返す決断はできないまま歩みを進めていたところに、急に雨が降ってきたので、これ幸いとばかりに「引っ返せ 引っ返せ」と自分に掛け声をかけ、Uターンをしたのです。
 この一連の流れを見ても、当時の賢治にとって堀籠に関する悩みが、どれほどのウェイトを占めていたのか、ということがわかると思います。

 実際にこの1922年5月21日(日)、小岩井農場から予定を早めて花巻に戻った賢治が、農学校に立ち寄って堀籠文之進とともにチョコレートを食べたのかどうかはわかりません。しかし賢治にとって、堀籠との関係をめぐる葛藤は、その後も続いていたようです。
 それを物語るのは、『新校本全集』の「年譜篇」の1923年3月4日の項に記されている、二人の間の特異な出来事です。

 同僚堀籠文之進と一関へハイキング。途中一切英会話。一関で上演中の歌舞伎を見物し、10時を過ぎる。汽車もなく、飲み屋で休み、月夜を幸い帰る。
 途中、たまたま信仰の話に及んだとき、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」といい堀籠の背中を打った。
 「ああこれでわたくしの気持ちがおさまりました。痛かったでしょう。許してください」といい、平泉駅につき待合室のベンチで休み、夜明けとともに下り列車に乗り、花巻まで一睡する。

 職場の同僚である堀籠の背中を打つというこの賢治の行動は、前回も引用したような、「穏やかで、温和で、謙虚な」賢治の人柄のイメージからすると、かなり意外なものです。このような行動の背景には、何らかの強い「感情」の存在を想定せざるをえません。
 この時二人は、「信仰の話」をしていたということで、賢治が「どうにも耐えられない」と言った理由は、おそらく堀籠が、自分は賢治と同じ信仰を持つことはできないと、はっきり言明したか何かだったのでしょう。日蓮系の教団では、周囲の人に「折伏」をして、少しでも多くの信者を獲得することを特に重視しますので、この時賢治が「一人の信者を獲得し損ねた」ことは、かなり残念な結果だったことでしょう。
 しかし、当時の賢治にとって堀籠が、単なる折伏の対象としての「一人」にしか過ぎなかったとは、到底思えません。もしそれだけのことだったなら、賢治が周囲の人に日蓮の教えを勧めた際には、相手が断るたびごとにその人の背中を叩いていたはずですが、もちろん実際はそんなことはありません。ですから、ここで賢治に堀籠の背中を打たせた「感情」は、堀籠という個人に対して、特別に向けられていたものだったということになります。

 その感情とは、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか」という賢治の言葉に表れているように、「自分と一緒に歩んで行く人を求める」という思いでしょう。「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニがカムパネルラに言った、「どこまでもどこまでも一緒に行かう」という願いと同型なのが印象的で、これは賢治にとって、重要なテーマだったのだろうと推測されます。
 このような、「生涯の同伴者を求める」という賢治の強い感情のことを、ここでは「〈みちづれ〉希求」と名づけておこうと思います。〈みちづれ〉という言葉は、賢治が「無声慟哭」において、トシにとっての賢治自身のことを、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」と呼んだことからとっています。

 思えば、宮澤賢治という人は、『春と修羅』の時期の少し前から、〈みちづれ〉を強く希求しては失うという挫折を、下記のように毎年経験していました。

  • 1921年7月: 保阪嘉内との別れ
  • 1922年11月: トシの死
  • 1923年3月: 堀籠文之進への諦め(上述)

 このような悲痛な体験の連続は、彼に深い喪失感と孤独感をもたらしたでしょうが、これらの苦悩の直視と昇華こそが、『春と修羅』という詩集の、本質的なテーマだったと言えるのではないでしょうか。

 前回も見たように、詩「春と修羅」で抉り出された「自らの《修羅》性」とは、童話「土神ときつね」において類型化されているように、土神の象徴する「修羅の瞋恚的側面」と、狐の象徴する「修羅の諂曲的側面」という二面に分けて考えることができます。そして、そのどちらの側面も、「小岩井農場」の初期形に描かれたように、堀籠に対する過剰で一方的な「〈みちづれ〉希求」と、現実との齟齬において、自覚され記載されたものでした。

 長詩「小岩井農場」は、当初は堀籠に対するこのような心理的=《修羅》的葛藤を主要なモチーフとしていましたが、推敲の過程でそこに含まれる個人的要素は削り取られ、最終的にはただ「個別的(主観的)な愛」を超克して、「普遍的(客観的)な愛=宗教情操」に昇華すべきだという理念のみが、高らかに謳われることになります。推敲後の「小岩井農場」では、堀籠の名前すら出ず、ただ「さびしい」とか「さびしくない」とかいう抽象的な言葉だけが残され、最後の「宗教情操」をめぐる大団円に至るので、その具体的な意味がわかりにくくなっていますが、もとはこの作品のテーマも、「〈みちづれ〉希求」に関連した苦悩だったわけです。

 また、トシの死後の「無声慟哭」の章と、「オホーツク挽歌」の章の諸作品が、トシに対する「〈みちづれ〉希求」の挫折と、その後の苦悩を描いたものであることも、言うまでもありません。そしてここでも賢治は、「青森挽歌」の《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉に集約されるように、「個別的(主観的)な愛」を超克して、「普遍的(客観的)な愛」に昇華しなければならない、という結論に至ります。

 詩集『春と修羅』の最後の章である「風景とオルゴール」では、個別の人間に対する「〈みちづれ〉希求」を昇華する一つの方向性として、「自然への愛」への志向が描かれています。「過去情炎」では、賢治は梨の木に対して「待つてゐたこひびとにあふやうに」接し、「一本木野」では、自然の中を歩く恩恵を「こひびととひとめみること」とでも取りかえると言った後、「わたくしは森やのはらのこひびと」と宣言します。

 以上のように、賢治は己れの過剰な「〈みちづれ〉希求」が招来する苦悩を、『春と修羅』の諸作品を書きつつ推敲しつつ必死で乗り越えて、ついには新たな段階に入っていったように見えます。したがって、彼の生涯のうちで、そのような葛藤が作品のテーマとなっていた時期は、せいぜい数年間にすぎません。
 しかし、若き日の彼がこのような経験をしたことが、その後も含めた彼の作品に、独特の奥深さと陰翳をもたらしてくれたことは、確かだと思います。

 それから、賢治のこの感情は独特なもので、作品の記述などから想像するに、それはおそらく世間一般の「友情」とか「家族愛」などをはるかに超越する強度だったと、考えざるをえません。この「独特さ」を無視して、賢治の具体的行動や作品の描写を、普通人の心理に当てはめて解釈しようとすることから、「保阪嘉内に対する感情は同性愛だった」とか、「トシとの間には禁断の愛があった」などという俗説が生まれてしまうのだと思います。『宮沢賢治の真実』で今野勉氏は、堀籠文之進に対する感情も同性愛として論じておられますが、保阪嘉内の場合も含め、彼らを〈みちづれ〉として求めた賢治の感情を、「性欲」を伴った「愛」と解釈すべき根拠は、わかっている範囲では何も見出せません。

 私としては、賢治のこの独特の感情に何か名前があった方が、上記のような俗な誤解を招きにくくなるのではないかと思い、とりあえず「〈みちづれ〉希求」と呼んでみた次第です。

 以前に私は「《願以此功徳 普及於一切》」という記事で、賢治が「青森挽歌 三」の初期形に書いたものの後に削除した《願以此功徳 普及於一切》という言葉が、最終形の「青森挽歌」における《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な啓示への導きになったのではないかと、考えてみました。
 その記事にも書いたように、「願以此功徳 普及於一切」とは、『法華経』の「化城喩品第七」に出てくる「偈」の一節で、これに「我等與衆生 皆共成佛道」という言葉が続き、あわせて「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」と読み下します。善根を修することによってその人に備わる徳性(=功徳)を、その人だけのものとせず、広く一切の衆生に振り向けて、皆で一緒に成仏しようということで、これがまさに大乗仏教で言う「回向」という概念の意味するところです。

 一方、現実にはこの「願以此功徳 普及於一切」という言葉は、その「法華経」由来にもかかわらず、特に法華経を重んじる宗旨だけでなく、日本ではほとんどの仏教宗派において、死者の「法要」の最後に唱えられる「回向文」として用いられています。
 下の動画は、真言宗の在家用仏前勤行次第だということですが、クリックしていただければ、「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」との言葉を聞くことができます。

 ということで、「青森挽歌 三」の中に、なぜ唐突に「願以此功徳 普及於一切」という言葉が登場するのかという疑問に対する答えとしては、賢治が青森に向かうこの夜行列車の中で、ずっとトシの死後の行方について思い巡らし、彼女の冥福を祈った上で、その自らの祈りを、妹一人だけの死後の幸福にとどまらず、全ての衆生の幸福に向けようとする、彼の意思の表現だったのだろう、ということになります。

 ここまでは、すでに「《願以此功徳 普及於一切》」という記事に書いたことだったのですが、その後私は、賢治の妹トシが1920年(大正9年)に書いた「自省録」の中にも、この同じ言葉があることに気がつきました。
 それは、次のようにして現れます。

 彼女が凡ての人人に平等な無私な愛を持ちたい、と云ふ願ひは、たとへ、まだみすぼらしい、芽ばえたばかりのおぼつかないものであるとは云へ、偽りとは思はれない。
 「願はくはこの功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆倶に――」と云ふ境地に偽りのない渇仰を捧げる事は彼女に許されない事とは思へないのである。
 この願ひと矛盾した自己の幸福をのみ追求した事を彼女は愧ぢねばならない。懺悔しなければならぬ。そして人人の彼女に加へた処置を甘んじてうけなければならぬ。排他に対する当然の報償としてうけなければならぬ。(宮沢淳郎著『伯父は賢治』所収「宮沢トシ自省録原文」より)

 この「自省録」という文章において、トシは自分自身のことを「彼女」という三人称で記していますので、上で「彼女」と書かれているのは、トシ自身のことです。
 上の引用文を読んだだけでは、これはいったい何のことを言っているのかわかりにくいと思いますが、そもそもトシの「自省録」とは、彼女が日本女子大学を卒業し、結核療養を経て、母校の花巻高等女学校の教諭心得になろうとする時期に、自らが女学校時代に関わったある「事件」による心の痛手を乗り越えようと、その胸中を内省し、整理した記録なのです。

 実は、トシは女学校時代に若い音楽教師に対して憧れの気持ちを抱き、その思いを当該教師に包み隠さずに親しく接していたので、彼女の気持ちは衆目の知るところになっていたようですが、教師の方は別の女生徒の方がお気に入りだったようで、図らずもここに三角関係のような状況が生まれてしまいました。その噂が新聞記者の耳に入り、興味本位に脚色されて、「音楽教師と二美人の初恋」と題して『岩手民報』に3日間の連載で記事になったものですから、当時としては一大スキャンダルになったのです。
 傷ついたトシは、自分自身の名誉失墜以上に、自らを案じてくれる家族を悲しませてしまったことで自分を責め、「もう一日も早くこの苦しい学校と郷里からのがれ度いと云ふ願ひの外には、麻の様に乱れた現在を整理する気力も勇気も全く萎え果て」、「全く文字通りに彼女は学校から逃れ故郷を追はれた」という形で、東京の日本女子大学に入学しました。
 トシはその後も、この「事件」について考えることは慎重に避けながら学生生活を送っていたようですが、卒業後の1920年、事件の舞台となった母校に勤務することになり、意を決してこの体験に向き合おうとしたようです。
 かくして「自省録」の冒頭は、次のように始まります。

 思ひもよらなかった自分の姿を自分の内に見ねばならぬ時が来た。最も触れる事を恐れて居た事柄に今ふれねばならぬ時が来た。『自分もとうとうこの事にふれずには済まされなかったか』と云ふ悲しみにも似た感情と、同時に「永い間摸索してゐたものに今正面からぶつかるのだ、自分の心に不可解な暗い陰をつくり自ら知らずに之に悩まされゐたものの正体を確かめる時が来た」と云ふ予期から希望を与へられて居る。(宮沢淳郎著『伯父は賢治』所収「宮沢トシ自省録原文」より)

 そしてトシは、自分が音楽教師に対して抱いた感情の推移をたどり、また自らの行動を省みつつ、順を追って問題を分析していきます。相手の教師の行動や態度について客観的な評価を行い、さらに世間から向けられた苛酷な非難を自分はいかに受けとめるべきかという考察に続いて、結局トシが自らの最も反省すべき点として挙げたのは、自分が音楽教師に対して抱いた感情が、「排他的な愛情」であったということでした。

 彼女には世間を不当と責める権利がない。彼女は、黙って、人人の与へるものを受けなければならぬ。彼女はかうして世間の意思に対して消極的に是認する以上に、尚考ふべき事がある。
 彼女は冷酷な世間を止むを得ず是認する前に、自身を世間に対しては冷酷でなかったか、と反省する必要がありはしないか。
 云ふまでもなく彼女の求むる所は享楽(たとへそれがどんな可憐なしほらしい弁解がついても)以上には出なかったらしい。それは表面愛他的、利他的な仮面を被っても畢竟、利己的な動機以上のものではなかったらしい事を認めなければならない。或特殊な人と人との間に特殊な親密の生ずる時、多くの場合にはそれが排他的の傾向を帯びて来易い。彼等の場合にも亦そうではなかったか? 他の人人に対する不親密と疎遠とを以て彼等相互の親密さを証明する様な傾きはなかったか?
 彼等の求めたものは畢竟彼等の幸福のみで、それがもしも他の人人の幸福と両立しない場合には、当然利己的に排他的になる性質のものではなかったか?
 彼女の反省はこの問に否とは云ひ得ないのである。
 利己の狭苦しい陋屋から脱れて一歩人が神に近づき得る唯一の路であるべき「愛情」が美しいままに終る事が少くて、往往罪悪と暗黒との手をひきあうて来る事は実に delicate な問題である。愛の至難な醇化の試練に堪え得ぬものが愛を抱く時――それは個人に向けられたものであらうと家庭や国家に向けられたものであらうと――頑迷な痴愚な愛は、自他を傷つけずにはおかないであらう。煩悩となり迷妄となり修道の障りとならずにゐないであらう。(宮沢淳郎著『伯父は賢治』所収「宮沢トシ自省録原文」より)

 当時まだ21歳の女性が書いた文章としては、本当に冷静で理知的で驚かされますが、とりわけ自らが教師に対して抱いてしまった愛情に関する総括の仕方には、非凡なものがあると思います。普通ならば、学校における恋愛沙汰でスキャンダルを招いた自分を反省するとなれば、「生徒でありながら先生を好きになるとは、自分の立場をわきまえていなかった」とか、「たとえ異性に好意を抱いても、女としてはそういう感情を表に出すような、はしたないことは慎むべきだった」などというような形に収めるのが常識的な感じがしますが、トシの考えは違います。
 上の文章において彼女は、自分も含めた人間が「愛情」を抱くということは肯定しながらも、自らの場合はその愛が「排他的」であったことが、問題だったとするのです。
 さらに、彼女は続けます。

 彼女の現在はまだまだ云ひ様もなく低い。真の愛、などは口にするだに憚られる僭越ではあるけれども、彼女は最早現状に満足せずして高められ浄めらるるを求むると云ふに躊躇しないであらう。盲目な痴愚な愛に満足しない、求めないと云ふに躊躇しないであらう。彼女は未だ真の愛の如何なるものかを知らない。けれども、「これが真の愛ではない」と見分けうる一つの路は、それが排他的であるかないか、と云ふことである。
 彼女と彼との間の感情は排他的傾向を持ってゐた、とすれば、彼女の眠ってゐた本然の願ひが、さめた暁には到底、彼女に謀反を起こさせずにおかなかったであらう。自分から、自分等の感情に息詰りを感じて、どう云ふ形でかこれを破り、捨てずにはおかなかったであらう。或はこれを排他的なものでないものに、醇化しやうとする、身に過ぎた重荷に苦しまねばならなかったであらう。此点に於ても、彼等の、今、離れ終わったと云ふ事は自然な正当な事ではなかったか。(宮沢淳郎著『伯父は賢治』所収「宮沢トシ自省録原文」より)

 そして、上記の後に、最初に引用した「願はくはこの功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆倶に――」を含む部分が続くのです。
 ここでやっと、トシが「願以此功徳 普及於一切」という法華経の一節を引いてきた文脈が、皆様にもわかっていただけたかと思います。彼女は、「排他的でない愛」の一つの典型的なあり方として、この経文を提示しているのです。

 さて、トシがこのように目ざそうとする「排他的でない愛」あるいは「真の愛」とは、最初に引用した部分にあるように、「凡ての人人に平等な無私な愛」ということでしょうが、考えてみれば、これはまさに、賢治が生涯をかけて追求したテーマでもあります。
 「青森挽歌」のキーワードである、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という一節もそれを表していますし、「農民芸術概論綱要」の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」もそうでしょう。
 山根知子氏は、著書『宮沢賢治 妹トシの拓いた路』の中で、トシのこの「排他的な愛」という概念と、賢治の書簡下書252aにおける「私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから」という考え方との共通性を指摘しておられますが、私もまさにそのとおりだと思います。

 ここに見られる、「愛」に対するトシと賢治の考えの特徴は、単に「普遍的な愛」を賞揚するだけではなくて、「排他的・個別的な愛」というものを、ほとんど否定してしまうというところにあります。普通ならば、「普遍的な愛」というのは立派で結構なものとして讃えながらも、しかしもう一方では、家族や恋人や親友を特に大切にする「排他的な愛」というのも、それはそれであってもよいと認めるのが一般的でしょうが、彼らはそうではありません。トシにとって排他的な愛は、「煩悩となり迷妄となり修道の障りとならずにゐない」ものであり、賢治にとっては「ひとりをいのつてはいけない」として禁じられ、「一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません」と打ち捨てられるものだったのです。

 このように、トシが「自省録」において打ち出した倫理観と賢治のそれとは、ぴったりと重なり合っているのですが、それらが同じであるのは、その結論においてだけではなく、そこに至るプロセスに関してもそうでした。
 トシは、一時は「お互ひに好意を持ち合って居る」と信じていた男性から、新聞沙汰を機に一転して「侮辱と憎しみの詞」を伝え聞くようになり、「心の痛みは絶頂に達し」、「重ね重ねの打撃に魂を打ち砕かれて」しまったのですが、この苛酷な喪失体験の底から、驚くべき強靱さをもって立ち直ろうとします。
 すなわちトシは、「彼女と彼との間の感情は排他的傾向を持ってゐた、とすれば、彼女の眠ってゐた本然の願ひが、さめた暁には到底、彼女に謀反を起こさせずにおかなかったであらう」と述べて、自らの愛は排他的であったが故に、いずれ破綻するのは当然のことだったとして過去の自分を否定し、「彼等の、今、離れ終わったと云ふ事は自然な正当な事」として、苦難を肯定的に受容するのです。そしてその受容からあらためて出発し、「普遍的な愛」への道を踏み出そうとするのです。

 このような道筋は賢治の場合も同じで、すなわち賢治はある時期までは、トシを喪った悲しみに耐えられず苦しみ続けたのですが、サハリンへの旅の後のいつしか、そのように一人の肉親にとらわれるのは利己的な執着なのだとして、それまでの自分をやはり否定するのです。そして、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないこと」は当然の帰結であるばかりか、「なんといふいゝことだらう」として、その喪失を積極的に肯定する段階に至るのです(「薤露青」)。
 そして彼はその肯定の上に立って、「手紙 四」や「銀河鉄道の夜」初期形三では、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」という立場を宣言しました。

 トシと賢治が各々のトラウマから立ち直っていったプロセスは、このようにほぼ同型になっており、二人とも、(1)自らの喪失の苦悩を、排他的あるいは利己的な愛に基づいたものとしてまずは否定し、(2)だから別離は不可避なものであったと「合理化」して、その喪失を肯定的に受け容れます。(3)そして両者とも、そこからさらに進んで、その苦しみをより普遍的な愛へと昇華しようとするのです。
 そしてここで注目すべきことは、その二人に共通する道筋の「かなめ」の部分に、「願以此功徳 普及於一切」という法華経の一句が位置しているということです。

 さて、このようにして賢治がトシと同じような道を歩んでいったのだとすると、気になるのは、はたして賢治がトシの「自省録」を読んでいたのかどうかということです。『伯父は賢治』によれば、宮沢淳郎氏は1987年(昭和62年)に父主計氏の遺した書類を整理していて、偶然トシのこの原稿を発見したということです。これは、淳郎氏の母であり賢治およびトシの末妹であるクニが、何らかのいきさつで、受け継いだものだったのでしょう。
 その内容からして、まだトシが存命中には、いくら家族であっても彼女が自分から見せるとは、ちょっと考えにくい気がします。それとも、「賢治とトシ」という親密な兄妹関係ならば、自ら兄に読んでもらうということもあったでしょうか?
 でも一般的には、トシの死後に親が遺品を整理していて見つけたのではないかと考えてみる方が、常識的な感じがします。
 すると一つの可能性としては、トシの死後に「形見分け」として、クニがこの原稿を譲り受けたということも考えられますが、しかしトシの死の時点でまだクニが15歳だったことを思うと、いくら姉のものとは言え、親としてはこのようなスキャンダラスな恋愛沙汰を扱った文章を、まだ女学生の少女に渡すというのは、ちょっと考えにくい気がします。
 となると、クニが受け取ったのはもっと後のことかとも思われますが、具体的なことはどうにもわかりません。

 結局いろいろ考えてみても、賢治が妹トシの「自省録」を読んでいたかどうかということは、現時点では不明と言わざるをえません。ただしかし、もし仮に読んでいなかったとしても、彼女がここに記した「願以此功徳 普及於一切」という言葉は、彼女が賢治から法華経を教えてもらう中で、出会ったもののはずです。
 ですから、上記のような「同型性」という意味でも、この言葉に二人が込めていた思いは、一緒に共有していたと思われるのです。そして、「願以此功徳 普及於一切」という言葉が、1920年の「自省録」から、1923年の「青森挽歌 三」へと受け継がれたのだと見るならば、トシは果たせなかった「排他的な愛を否定し普遍的な愛を目ざす」という理想の追求が、ここでトシから賢治へと託されたとも言えるのです。
 そして上にも述べたように、これはバトンを受けた賢治にとっても、生涯のテーマとなりました。

 山根知子氏は、著書『宮沢賢治 妹トシの拓いた路』の第二部第一章「賢治の前を歩んだトシ」において、このように「トシから賢治へ」という方向性の影響関係について、詳しく考察しておられます。トシの「自省録」における「排他的な愛」という概念についても、成瀬仁蔵の宗教思想の反映を解き明かし、また賢治の作品への影響についても分析しておられます、
 私は、トシの「自省録」に「願以此功徳 普及於一切」が登場することに触発されて、今回の記事のようなことを思い巡らしていたところ、山根氏の著書を読んでみるとほとんど同様の事柄が、すでにはるかに詳細に述べられていることに気づきました。
 私としては、この法華経の言葉が、賢治の「青森挽歌 三」において引き継がれていること、そして二人がこの言葉に象徴される同型の道をたどって、深刻な外傷体験を乗り越えていったと思われることを、ここにわずかに付け加えさせていただきたいと思います。

賢治の他界観の変遷図

 4月7日の「宮沢賢治研究会」での発表「宮沢賢治の他界観―その非仏教的側面と現代的意義」まで1週間を切り、スライドと配付資料の準備に追われているところです。新たなブログ記事を書く時間もありませんので、本日はそのスライドの中の1枚、「トシ追悼過程における他界観の軌跡」を、GIFアニメーションにしてご紹介します。

 トシ追悼過程における他界観の軌跡

 1922年11月から1924年7月までの期間の、トシのことを扱っていると推測される17の口語詩を、その背景に想定される他界観に従って、分類・配置してみたものです。
 賢治がイメージしていたトシの行方は、仏教的な「超越他界観」から始まって、まもなく非仏教的な「山上他界観」や「海上他界観」を行きつ戻りつするようになり、最終的には「隣接他界観」に至る、という軌跡になっているのではないのかというのが、私の論旨の一つです。

ありえたかもしれない結婚

 最近はもっぱら、死んだトシに対する賢治の思いについてばかり書いていますが、今日はまた違った角度も含めたお話です。

 1924年5月に修学旅行を引率して北海道へ向かう際に書かれた「津軽海峡」で賢治は、この海峡付近で二つの海流が出会って水が混じり合う現象を称して、「喧びやしく澄明な/東方風の結婚式」と描写しています。定稿では、このアイディアは詩を構成する題材の一つという趣きですが、その「下書稿(一)」の段階では、タイトルは「水の結婚」となっており、この「結婚」というモチーフが、作品のメインテーマだったことがわかります。
 さらに、その修学旅行の帰途でやはり津軽海峡を航行しながら書かれた「〔船首マストの上に来て〕」には、「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に/いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」という一節があり、ここに出てくる「marriage」の語は、やはり先の「津軽海峡」と同じく、二つの海流が混じり合うことを指していのでしょう。

 そのようにして、「結婚」という言葉が何となく重なって出てくる感じがするところ、上記「〔船首マストの上に来て〕」の数時間後に青森発上り列車からの眺めを描いていると推定される、「〔つめたい海の水銀が〕」の「下書稿(二)」には、つい先日も引用した次のような箇所があります。

    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 ここで賢治は、珍しくも自分の「妻」について言及していて、つまり自らの「結婚生活」を描いているわけです。

 このように、「結婚」というテーマが数日間のうちに何度も登場することについて、私は何となく不思議に感じていたのですが、実はこの「1924年5月」という時期は、澤口たまみさんの『宮澤賢治 愛のうた』によれば、一時は賢治と恋愛関係にあり、たがいに結婚まで考えていたという女性・大畠ヤスが、別の男性と結婚してアメリカに旅立つ時だったのです。

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 すなわち、上掲書のp.205には、次のように記されています。

 大正十三(一九二四)年五月、ヤス子は結婚した男性とともに、渡米することになっていました。

 この記述では、1924年5月にヤスが渡米したのがまだ事実として確認されたわけではなかったようにも読めますが、『宮澤賢治センター通信 第17号』に掲載されている、澤口たまみさんの2012年12月14日の講演「宮沢賢治『春と修羅』の恋について、続報」の記録には、次のように書かれています。

◆ヤスの遺族からの証言
 『宮澤賢治 愛のうた』を出版したのち、大畠ヤスの遺族より「この本に書かれた恋は事実である」との証言をいただいた。ヤスより九歳年下の妹トシ(ヤスの妹もまたトシである)は、ヤスに頼まれて賢治に手紙を届けたことがあり、賢治からは返事を貰って帰ってきた、という。
 賢治とヤスは相思相愛であり、一時は宮澤家より結婚の申し入れもあったとされる。ヤスの母が大反対であったために、この恋は実らなかった。ヤスは傷心のまま、東和町の及川修一という医師との結婚を承諾し、大正十三年五月に渡米した。ふたりの恋が記された『春と修羅』が出版された、一か月のちのことである。

 「大畠ヤス=賢治の恋人」説に対しては、これまではいろいろな意見もあったようですが、上記のように大畠ヤスの遺族の方から、ヤスの妹さんが賢治との間の手紙の仲立ちをしていたという証言まであるとなれば、信憑性も非常に高まってきます。
 そして、二人の恋がかなわず、ヤスが結婚して1924年5月に渡米したというのも、遺族の証言から事実として確認されたことのようです。

 となると、同じこの1924年5月に賢治が、作品の中で何度も「結婚」というテーマを扱い、さらには「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」などと、自らの過去世における「結婚」についても描いているというのは、注目すべきことだと思います。
 すなわち、「〔船首マストの上に来て〕」に「あたらしく marriage を終へた海」という表現があり、またその全体に祝祭的な雰囲気が漂っている背景には、ヤスの結婚に幸あれと祈る賢治の心情が込められていた可能性があります。
 また、「〔つめたい海の水銀が〕」の「下書稿(二)」で賢治は、もしかしたら自分とヤスとの間にありえたかもしれない「結婚」についても、ふと思いをめぐらしたのかもしれません。「青森挽歌」にあったように、「みんなむかしからのきやうだい」=「すべての衆生は過去世において一度は兄弟姉妹だったことがある」のだとすれば、今生では結ばれなかったヤスと自分だって、果てしない輪廻転生のうちには(たとえ魚どうしだとしても)夫婦だったことがあったはずです。

 もちろん上記は、あくまでも一つの仮説的な考え方に過ぎませんが、しかしもしこういう見方が成り立つのなら、この修学旅行における他の作品の解釈にも、別の視点がありえることになります。
 たとえば、この間ずっと亡きトシへの思いの表現として解釈してきた「」の下書稿(一)「海鳴り」において表出されている激情を、大畠ヤスとの別離の悲嘆として理解していけない理由はありません。
 賢治が、

わたくしの上着をずたずたに裂き
すべてのはかないのぞみを洗ひ
それら巨大な波の壁や
沸きたつ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ

と謳った時、その「やりどころのないさびしさ」の中には、ヤスとの悲恋による感情も入っていて当然ということになります。

 このようなことを考えてみつつ、私がふと連想したのは、1995年7月に行われたシンポジウム「「春と修羅 第二集」のゆくえ ―結論にかえて」における、栗原敦さんの発言です。この辺の問題に対するとても重要な指摘と思いますので、少し長くなりますが下記に引用させていただきます。

 ただ、つまりその事を考えてみますとね、質問を生かして話してしまうんですが、『春と修羅』第一集の終わりの「風景とオルゴール」の章などを見ていきますと、そこには、非常に手の込んだ仕掛があって、男女の大人の愛情、性愛の様なものに引かれる気持ちや、実際に何かがあった。伝記上は、特定の人の名前はまだわかっておりませんし、これからも、隠れて消えたままになるかも知れないけれど、もしかしたら特定の女性とお付き合いが、それなりに深まったものとしてあったかもしれないと、思わせるような、思わせぶりな、表現をして、且つ、その思わせぶりな表現を否定し、克服する姿で、振り切るという様な道の選び方が、書いてあると私は思うんです、そして、「第二集」の方になってきて、先程、密教風のとか、性愛の話というか、情欲に近いような、そういうものみたいなのが、密教やその他の考え方と、溶け合う形で、もっと進んだ姿で書かれているような気がします。そのことが、しかし、やはり、先程、入沢さんも言われた様に、ある時期からまた、消えていく。それは、『春と修羅』第一集というのは、「風景とオルゴール」という章の、作品の日付は、大正一二年くらいになりますけど、実際、詩集が刊行されたのは、一三年ですから、我々がもっている「第二集」というのは、もちろん、赤罫詩稿用紙にきれいに清書されたのは、もっと後だとしても、原型はすでに手元にありますから、同じ時期に内容的にはダブっている時期があると思うんですね。そういう様な何かが、仮にやはり、大正一三年の夏詩群と呼んでみたい様な時期まで、かなり色濃く、それらが同調する必然性があった。しかし、そういう姿で、私に言わせると、性愛、妹さんというものに対してですね、あけっぴろげの愛情とか、愛着とかを出すのは安全なんです。最近では、安全じゃなくて、それは、近親相姦の現実的行為があるとか、そういう風な感じに、言いかねない情況にいまありますけれど、ある意味では逆に妹への愛というのは、愛着とか愛執を出しても、普遍的な愛というものとさほど、衝突しないで理解できる。安全性があると思うんですね、そういうものによって、大げさにいえば、ある種のカムフラージュというのがなされたと思うのです。カムフラージュといっても、隠すという意味ではなくて、自分の持っているテーマ、思想に対する強調として、個別、具体的なものとして、ある典型化された図式、禁欲の思想と、その情愛の思想とのバランスとか、表裏の入れ替りみたいなものを、賢治ははかりながら、表現化しているんじゃないかと思いますが。(宮沢賢治学会イーハトーブセンター発行『「春と修羅 第二集」研究』p.260-261)

 初めの方にある、「特定の女性とのお付き合いが、それなりに深まったものとしてあったかもしれない」が、「特定の人の名前はまだわかっておりません」という状態だったところに、最近の澤口たまみさんのお仕事によって、「大畠ヤス」という可能性が、とみにクローズアップされてきているわけです。
 そして栗原さんによれば、賢治はこの「特定の女性」に対する思いと、トシを亡くした喪失体験との両方を、『春と修羅』と「春と修羅 第二集」の頃に抱えていたと思われるが、前者はより「安全」である後者の中に、カモフラージュされる形で表現されているのではないか、というのです。

 すなわち、「春と修羅 第二集」の「津軽海峡」や「〔つめたい海の水銀が〕」の「下書稿(二)」に込められている感情は、前回「ネガとポジの行程」という記事でも書いたように、私としては妹トシに対するものだろうと考えているわけですが、同時にそこには、大畠ヤスへの思いも込められている可能性があるのです。
 これは、「トシへの感情か、ヤスへの感情か」という二者択一で考えるべきものではなくて、賢治によって両方が巧妙に重ね合わされているのではないかというのが、栗原さんのご指摘の私なりの解釈です。

「トシの行方」の二系列

1.仏教的輪廻転生観と、もう一つの要素

 トシの死後、賢治は自分の妹がいったいどこへ行ってしまったのか、今どこでどうしているのか、長期間にわたって考え続けました。その様子はいくつもの作品に描かれていますが、その内容を詳しく見ていくと、当時の賢治の心の中には、大きく分けて二つの系列のイメージや考えがあったのではないかと思われます。

 その一つの系列は、熱心な仏教徒だった賢治としては当然のことながら、仏教の輪廻転生観に基づいた考えです。
 それはすでにトシの臨終の前から、「永訣の朝」の最後の場面で始まっています。

どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

 ここで賢治は、トシが天上すなわち「天界」に転生することを、祈っているのです。
 そして、トシの死後半年あまりが経った「風林」では、あたかも上の祈りが叶ったかのように、トシが「天界」にいることを示唆する「通信」が記されています。

 (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
  光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか
  …………此処あ日あ永あがくて
        一日のうちの何時だがもわがらないで……
  ただひときれのおまへからの通信が
  いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)

 ここには、美しい光や妙なる楽音に包まれ、永劫とも思える時間を過ごすトシがいます。

 しかしこれに対して、その翌日に書かれた「白い鳥」において賢治は、妹の存在を次のように感じとっています。

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
  (それは一応はまちがひだけれども
   まつたくまちがひとは言はれない)

 ここで賢治は、朝の光の中を飛ぶ「白い鳥」を見て、それを「死んだ私の妹だ」ととらえているわけです。人間が死んだ後に鳥になるとすれば、これは仏教的には「畜生界に転生した」と解釈することもできますが、しかしこれに続けて賢治が引用するのは、ヤマトタケルの白鳥伝説です。

  (日本武尊の新らしい御陵の前に
   おきさきたちがうちふして嘆き
   そこからたまたま千鳥が飛べば
   それを尊のみたまとおもひ
   芦に足をも傷つけながら
   海べをしたつて行かれたのだ)

 『古事記』に記されているこの説話は、仏教的な輪廻転生ではなく、「死者の魂が鳥になる」という日本の固有信仰に基づいています。もとよりこのヤマトタケルの例に限らず、古来から日本には同様の伝説がたくさんあって、例えば柳田国男の『遠野物語』には、「オット鳥」になった長者の娘の話(五一)や、「馬追鳥」になった奉公人の話(五二)や、カッコウとホトトギスになった姉妹の話(五三)などの「小鳥前世譚」がいくつも収められていますし、折口信夫も「「とこよ」と「まれびと」と」において、「祖々の魂」が鳥と化して、常世と此土を往還するという古代の信仰について述べています。
 すなわち、賢治が「白い鳥」に、わざわざヤマトタケル伝説を引用していることからすると、ここで彼が白い鳥を妹の化身と感じたのは、仏教の輪廻転生観に拠ったのではなく、このような鳥にまつわる日本古来の信仰に触発されたのだと考えるべきでしょう。

 しかし、「妹が鳥になる」というこの賢治の想念は、その妹を探してサハリンへ向かう途上の「青森挽歌」においては、また様相を異にしてきます。すなわち、その140行目から191行目にかけて、賢治が妹の状況について想像をめぐらす内容は、次のように展開していくのです。

そしてそのままさびしい林のなかの
いつぴきの鳥になつただらうか
l'estudiantina を風にききながら
水のながれる暗いはやしのなかを
かなしくうたつて飛んで行つたらうか
(中略)
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それがそのやうであることにおどろきながら
大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた
わたくしはその跡をさへたづねることができる
(中略)
暗紅色の深くもわるいがらん洞と
意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声
亜硫酸や笑気のにほひ
これらをそこに見るならば
あいつはその中にまつ青になつて立ち
立つてゐるともよろめいてゐるともわからず
頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち 

 ここでもやはり賢治は、まずは妹が「いつぴきの鳥になつただらうか」と想像するのですが、それに続けて彼は、妹が「天界」にいる様子、「地獄界」にいる様子へと、考えを巡らせていきます。ここでは彼は、仏教で「六道」と称される「天」「人」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」という輪廻転生先に従って、妹の行方を考えているわけです。

 このように、賢治が考える「トシの行方」は、これまでのところ「仏教的輪廻転生観」と「日本固有信仰」という二つの系列の要素が、あざなえる縄のように絡み合って表れるのですが、そういった変転は次の「宗谷挽歌」にも見てとれます。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。

 ここで最初に賢治は、もしもトシが自分を呼んだら、自ら海に落ちようと考えています。この賢治の決意は、彼が「トシは海中にいる」と想定していたと考えなければ、理解することはできません。ここで、もしも海の底が仏教に言う「地獄界」なのであれば、このトシの境遇を輪廻転生の結果と考えることもできますが、実は仏教教理における地獄は「地下一千由旬(1万km以上)」という隔絶された距離にあって、賢治が海に飛び込んだからと言って到達できる場所ではないのです。
 すなわち、この部分の賢治の考えは仏教的なものとは言えず、何か別の他界観によるものと考えざるをえません。

 次に賢治は、上記を否定するように、トシは「呼ぶ必要のないとこに居る」とあらためて考え直します。その理由は、括弧内に記されているように、トシは立派な衣装を着て「まっすぐにのぼって行った」のだからというのです。すなわち、トシは「天界」に転生したのだから、海の中から賢治を呼ぶなどありえないということで、これは仏教的な輪廻転生観に基づいた考えです。
 しかし、それでも賢治は心からそう信じるには至らず、しばらく後ではまた次のような疑念を吐露します。

とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
そんなしあはせがなくて
従って私たちの行かうとするみちが
ほんたうのものでないならば
あらんかぎり大きな勇気を出し
私の見えないちがった空間で
おまへを包むさまざまな障害を
衝きやぶって来て私に知らせてくれ。
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。
 ( おまへがこゝへ来ないのは
   タンタジールの扉のためか、
   それは私とおまへを嘲笑するだらう。)

 ここで賢治は、あらためてトシが天界に往生していない可能性を想定して、もしその場合には「いままっすぐにやって来て/私にそれを知らせて呉れ」と彼女に懇願し、さらにその上で「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、決意を記しているのです。

 つまり結局、「宗谷挽歌」における賢治は、一方では仏教的にトシの天界往生を信じようとしながら、どういうわけかもう一方では、彼女が「海の中」に囚われているという考えを、抱き続けているのです。彼の中で、仏教的な死生観と、それとは異なった別の考えは、入れ替わるように交代して現れ、その感情は揺れ動いています。

 そして、これが次の「オホーツク挽歌」以後になると、むしろ仏教的な考えは影を潜め、トシの居場所は次のようにイメージされています。

わびしい草穂やひかりのもや
緑青は水平線までうららかに延び
雲の累帯構造のつぎ目から
一きれのぞく天の青
強くもわたくしの胸は刺されてゐる
それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない

 賢治は、サハリンの栄浜の海岸からはるか沖を眺め、トシは海の「青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」と想像しています。これも、仏教的な輪廻転生先として解釈することは困難です。

 さらに、「噴火湾(ノクターン)」には、次のように記されています。

駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない

 ここでは一転して「海」ではなく、山の上の雲の中に、トシがいるのではないかと想像されていますが、これもまた仏教の教理から理解することはできません。

 以上見たように、仏教とは異質なこの第二の系列において、賢治は死んだトシが「海の中」にいたり、また「海の彼方」にいたり、あるいは「山上の雲の中」にいたりすると想像しているわけです。
 ここで、死者が山の上にいる、または海の彼方や海の中にいるというイメージから、私がどうしても連想せざるをえないのは、柳田国男以来の民俗学が、仏教伝来以前の日本固有の死生観として明らかにしてきた、二種類の祖霊信仰です。

 その一つは、死者の魂は里を見下ろす山の上に昇り、そこにとどまって子孫を見守るとするもので、柳田国男が『先祖の話』などで詳しく展開した死生観です。
 賢治が「噴火湾(ノクターン)」において、駒ヶ岳の山上の雲にトシを感じたことの背景には、このような日本固有の霊魂観の影響があったのではないかと、私は感じます。

 そしてもう一つ、こちらの方が賢治の死生観を考える上ではより重要なのではないかと思うのですが、日本列島では古来より、死者の魂は海の彼方や海の中にある「常世の国」に行くという祖霊信仰があったのです。その地の名前は、奄美大島から沖縄、先島諸島に至る南西諸島では、「ニライカナイ」と呼ばれてきました。
 上に見たように、賢治は「宗谷挽歌」では、死んだトシは海中にいると想定しており、また「オホーツク挽歌」では、海の彼方の水平線のあたりにトシがいて、「なにをしてゐるのかわからない」と思っています。「海の彼方」あるいは「海の中」に死者のいる他界があるというイメージは、まさに南島で信じられている「ニライカナイ」に符合しているのです。

 この「ニライカナイ」という言葉は、南西諸島で使われているだけで、九州以北の本土では用いられていませんが、「海の彼方に常世の国がある」という他界観そのものは、実は古い時代には日本列島全体で、広く共有されていたと考えられています。
 柳田国男は、「ニライカナイ」の「ニ」は、『古事記』などに「死者の国」として登場する「根の国」の「根」と同源の語であるとしていますし、海の果ての浄土への往生を目ざして、船で沖へ漕ぎ出して行くという「補陀洛渡海」は、有名な那智勝浦の補陀洛山寺にかぎらず、土佐の足摺岬、熊本県玉名市、鳥取県青谷岬などでも行われていた伝承が残っています。また後述するように、海中の楽土としての「竜宮」の伝説や、海幸彦・山幸彦の「綿津見の宮」も、同根のものと考えられています。
 すなわち賢治が、海の彼方・海の底に、死んだトシがいるのではないかと考えていたことは、仏教以前の日本古来の死生観に、はるかにつながっているのではないかと思われるのです。

 そう思ってさらに他の作品を見てみると、上記以外にも興味深い事柄が出てきます。
 賢治は、サハリン行の翌年の1924年5月に、修学旅行の引率としてまた北海道に渡り、この時にも亡きトシをめぐって重要な内的ドラマが繰り広げられたのではないかということについて、先日「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書きました。この旅行中、彼が苫小牧の海岸でスケッチした「」の先駆形「海鳴り」には、次のような箇所があります。

そのまっくろなしぶきをあげて
わたくしの胸をおどろかし
わたくしの上着をずたずたに裂き
すべてのはかないのぞみを洗ひ
それら巨大な波の壁や
沸きたつ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ
いまあたらしく咆哮し
そのうつくしい潮騒えと
雲のいぶし銀や巨きなのろし
阿僧祗の修陀羅をつつみ
億千の灯を波にかかげて
海は魚族の青い夢をまもる

 ここで賢治は、夜の荒海に向かって、おそらくトシをめぐる自らの胸の苦悩を浄化してくれと懇願しているわけですが、下から3行目に出てくる「阿僧祗の修陀羅をつつみ」という言葉が注目されます。以前に「竜宮の経典」という記事に書いたように、「阿僧祗の修陀羅」とは厖大な経典という意味で、これは「海中の竜宮には莫大な量の華厳経が蔵されている」という伝説に基づいた記述と考えられます。
 一方、「竜宮」という概念は、柳田国男が「海神宮考」で考察したように、「海底の仙郷」という意味において、南島の「ニライカナイ」と同じルーツを持つものと考えられます。すなわち、この箇所で賢治は、竜宮やニライカナイに相当するような海中の他界をイメージしているわけで、するとこれは次の行の、「海は魚族の青い夢をまもる」という言葉にもつながっていきます。
 すなわち、ここで「青い夢」を守られている「魚族」とは、死んで海中の他界へ行った者たちを象徴していると考えることができ、するとその中には、「宗谷挽歌」で海中にいると想定されていたトシも、含まれているかもしれないのです。

 さらに、この修学旅行における最後の作品である「〔つめたい海の水銀が〕」の先駆形で、「島祠」と題されている「下書稿(二)」の全文は、次のようなものです。

一三三
  島祠
               一九二四、五、二三、
うす日の底の三稜島は
樹でいっぱいに飾られる
パリスグリンの色丹松や
緑礬いろのとゞまつねずこ
また水際にはあらたな銅で被はれた
巨きな枯れたいたやもあって
風のながれとねむりによって
みなさわやかに酸化されまた還元される
    それは地球の気層の奥の
    ひとつの珪化園である
海はもとより水銀で
たくさんのかゞやかな鉄針は
水平線に並行にうかび
ことにも繁く島の左右にあつまれば
ラの声もなかばは暗む
    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 これは、青森県の浅虫温泉のすぐ沖に浮かぶ、「湯の島」を描いたものですが、その最後の4行が注目されます。「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき」ということは、この島がまだ海中に沈んでいた時、ということだと思われ、そして「珪化園」と形容されるこの島の綺麗な様子に加え、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」というイメージは、まさに「竜宮」そのものです。
 すなわち、「海鳴り」に続いてその2日後にも、賢治の心中には海中の「竜宮」が思い描かれていたのです。

 ということで、賢治が「死んだトシの行方」と関連して、いくつかの作品で想定していた「海中」や「海の彼方」というイメージには、南島の「ニライカナイ」や「竜宮」の概念に、やはり通ずるものがあるのです。
 また、先日「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書いたように、「〔船首マストの上に来て〕」という作品において賢治は、トシの死を受容する上で自らが体験した何か大きな心境の変化を描いたのではないかと私は思うのですが、そこでも彼にとって「海」という場所が、大きな役割を果たしたことが見てとれました。やはり彼にとって海とは、死と密接につながった何かを帯びた「他界」だったのではないでしょうか。

 しかしそれでは、はたして当時の賢治は、この「ニライカナイ」=海中あるいは海の彼方の他界という概念を、知識として持っていたのでしょうか。彼は、このような他界観を知った上で、「トシは海の中や彼方にいる」と考えていたのでしょうか。

2.賢治は「ニライカナイ」を知っていたか

 賢治の最も重要な親友の一人に、「禊教」という教派神道の家に生まれた保阪嘉内がいました。その「嘉内」という名前の由来について、大明敦編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(山梨ふるさと文庫)に、次のような説が紹介されています。

 明治二十九年十月十八日、嘉内は善作・いまの長男として、生を受けた。「嘉内」という珍しい名は、奄美・沖縄地方で海の彼方にあると信じられていた楽土「ニライカナイ」に由来し、この地にも微かに残る古層の稀人信仰に基づくという。

 もしもこのように、保阪嘉内の名前が「ニライカナイ」に由来しており、さらに嘉内自身がその意味するところを知っていたとすれば、親友だった賢治も、嘉内からそれを聞いた可能性が当然あるわけです。
 その一方、韮崎市の発行する「広報にらさき」2009年8月号の特集「アザリア記念会」において、嘉内の長男の保阪善三氏は、次のように述べておられます。

善三さんと嘉内の名前について

 先祖代々についで行く名前が 「善蔵」 というのですが、私が1月3日生まれだったので蔵を三という字に変えて、長男ですが三という字がついています。これは祖父がつけたのだと思います。嘉内という名については、沖縄の「ニライカナイ」からなんていう人もあるようですが、やはり4代くらい前の先祖に「嘉蔵」という名がありますので、私はその関係じゃあないかと思いますね。嘉内という名が突然出たわけではありません。

 というわけで、双方で意見が分かれているようですが、私としては、嘉内が生まれた1896年(明治29年)という時点で、まだ「ニライカナイ」という言葉は沖縄以外の本土ではほとんど知られておらず、たとえ嘉内の父親が教派神道の熱心な信者だったとしても、これを知っていて息子の名前に付けたということは、考えにくいのではないかと思うのです。

 ここで、「ニライカナイ」という言葉が本土で知られていった経過を簡単に振り返ってみると、この語が本土に最初にもたらされたのは、江戸時代初期に琉球王国に渡った袋中良定という僧が、帰国後に著した『琉球神道記』に、「ギライカナイ(儀来河内)」という言葉を記したのを嚆矢とするようです。この版本は、1648年に初版が出たようですが、重要文化財に指定された「古文書」ですので、明治になってもよほど専門の研究者でないかぎり、これを直接見ることは無理だったでしょう。
 また『琉球神道記』が活字となって出版されたのは、1934年(昭和9年)のことでしたから、この刊本の記載が嘉内の命名や賢治の知識となったことはありえません。

 次に注目すべきは、「沖縄学の父」と言われる民俗学者・言語学者の伊波普猷の業績です。伊波は、16-17世紀頃に首里王府によって編纂された歌謡集「おもろさうし」を研究し、1911年に『古琉球』を出版しましたが、その中では高離島の祭で神に告げる詞の一部に、その意味の説明はないものの、「ニライカナイ」という語が登場しています。
 さらに伊波は、1924年に『琉球聖典おもろさうし選釈』を刊行しましたが、ここでは、「にるや。かなやは、にらい・かないのこと、何れも海の彼方の理想郷の義」との説明がなされています。

 一方、伊波に刺激を受けた柳田国男は、1920年から1921年にかけて、奄美から沖縄、先島を旅し、その旅行記を「海南小記」と題して、1921年の3月から5月まで朝日新聞に連載しました。この「海南小記」には、直接「ニライカナイ」という言葉は出てきませんが、「初夏の暁の静かな海を渡って、茲に迎へらるゝ神をニライ神加奈志と島人は名づけて居た」との記載があります。
 柳田が、「ニライカナイ」という言葉を最初に用いたのは、南島の旅行を終えた1921年2月に久留米で行った講演「阿遅摩佐の島」において、「ギライカナイは又ニライカナイとも謂ひまして、海のあなた天の外の、神々の御住国であります。沖縄人の Valhalla であります」と述べた時ではないかと思われます。この「阿遅摩佐の島」が「海南小記」に併収して出版されたのは、1925年のことでした。

 また、柳田と並び称される折口信夫は、1923年5月に「琉球の宗教」を著し、「琉球神道で、浄土としてゐるのは、海の彼方の楽土、儀来河内(ギライカナイ)である。(中略)儀来は多く、にらい・にらや・にれえ・ねらやなど発音せられ、稀には、ぎらい・けらいなど言はれてゐる。河内は、かない・かなや・かねやと書く事がある。」と述べています。

 以上、「ニライカナイ」に関する中央論壇の動きをざっと見たかぎりでは、保阪嘉内が生まれた1896年の時点では、本土ではたとえ宗教関係者といえども、「ニライカナイ」という言葉とその意味を知っていた人は、まだいなかったのではないかと思われるのです。
 また、1923年8月にサハリンに旅をした賢治も、この時点で「ニライカナイ」という言葉やその意味を知っていたとすれば、3か月前に刊行された『世界聖典全集 後輯 第15巻』に収録された、折口信夫の「琉球の宗教」を通じてということくらいしか考えられず、これもかなり可能性の低いことと言わざるをえません。

 すなわち賢治が、「ニライカナイ」に代表されるような死生観――「死者は海の彼方・海の底にある常世へ行く」という思想について、この時点で知識として知っていたとは考えにくいのです。しかしながら、いつとはなしに周囲の人々から吸収した日本古来の他界観、あるいは一種の「集合的無意識」のなせるわざなのか、また彼の宗教的感性の鋭さによるものか、理屈ではない何かの感覚によって、彼は「死んだ妹は海の奥にいる」と、ばくぜんとイメージするようになったのではないでしょうか。

 宮澤賢治は熱心な仏教徒であったことから、従来はその死生観についても、専ら仏教的な観点のみから研究が行われてきました。しかし、今回上記で見たように、彼が死後のトシについて抱いていたイメージや想念には、実は仏教とは異なった日本固有の他界観に由来する部分も、かなりあったと思われるのです。
 私自身も、賢治は最終的に「薤露青」や「〔この森を通りぬければ〕」などに至って、つねにトシを身近に感じるような心境に至ったのではないかと考えていますが、これも仏教的な教理からは、まったく説明のつかないことです。
 しかし、たとえば柳田国男が指摘するように、日本ではもともと死者の霊は遠くへは行かずにこの国の中に留まって生者を見守ると考えられていたこと、また「幽顕二界」の交通が頻繁に意識されてきたこと(『先祖の話』より)からすれば、そのような心境も、もっと無理なく理解できるようになるのではないかと思うのです。

1.草稿の様子

 『新校本全集』で「補遺詩篇 I 」として分類されている、「〔船首マストの上に来て〕」という作品があります。
 これは「作品」というよりも、「断片」と呼んだ方がよいのかもしれませんが、音楽用五線紙に鉛筆で書いた後、作者によって消しゴムで全面的に抹消されたというもので、なおかつ「おそらく冒頭・末尾を欠いている」(『新校本全集』第五巻校異篇)と推測されています。ところで、「五線紙に鉛筆で書かれた後に消しゴムで抹消」というと、あの印象的な作品を思い出しますが、それについてはまた後で触れます。

 まずは、全集に収録されているその全文を掲載しておきます。

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
煙とつはきれいなかげらふを吐き
そのへりにはあかつきの星もゆすれる
 ……船員たちはいきなり飛んできて
    足で鶏の籠をころがす
    鶏はむちゃくちゃに鳴き
    一人は籠に手を入れて
    奇術のやうに卵をひとつとりだした……
さあいまけむりはにはかに黒くなり
ウヰンチは湯気を吐き
馬はせはしく動揺する
うすくなった月はまた煙のなかにつゝまれ
水は鴇いろの絹になる
東は燃え出し
その灼けた鋼粉の雲の中から
きよめられてあたらしいねがひが湧く
それはある形をした巻層雲だ
 ……島は鶏頭の花に変り
    水は朝の審判を受ける……
港は近く水は鉛になってゐる
わたくしはあたらしく
marriage を終へた海に
いまいちどわたくしのたましひを投げ
わたくしのまことをちかひ
三十名のわたくしの生徒たちと
けさはやく汽車に乗らうとする
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
 ……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ
発動機の音や青い朝の火や
 ……みんながはしけでわたるとき
    馬はちがった方向から
    べつべつに陸にうつされる……

2.いつ・どこの出来事か

 冒頭部がおそらく欠如しているために、内容が唐突に始まりますが、これが船の上の情景を描いているのは確かでしょう。現存一行目の「船首マストの上に来て」の主語が欠けていますが、終わりの方に「かもめ」が登場することを考えると、マストの上に来ているのは、そのかもめだ解釈するのが自然です。
 15行目に「東は燃え出し」とあることから、作品中の時刻は日の出前、航路はどこかは記されていませんが、21行目に「港は近く」と書かれているので、もうすぐ港に到着するようです。
 そして、25行目の「三十名のわたくしの生徒たちと/けさはやく汽車に乗らうとする」という言葉が、この船旅の正体を明らかにしてくれます。「わたくしの生徒たち」と言うからには、この生徒たちは賢治の農学校における教え子にほかならず、これだけの生徒を引率して船に乗り、早朝に汽車に乗るとなると、賢治の伝記的事項からして、これは1924年(大正13年)5月18日から23日にかけて行われた、花巻農学校修学旅行の道中と推測できます。翌大正14年3月の卒業生は、名簿によれば34名ですから、この中の一部の生徒が修学旅行に不参加だったと考えれば、「三十名のわたくしの生徒たち」という表現とも符合します。

 この修学旅行中に、賢治たち一行が船に乗ったのは、往路の青森→函館、帰路の室蘭→青森の2回で、前者の船上では「津軽海峡」がスケッチされています。『校本全集』第十六巻(下)補遺・伝記資料篇p.224によれば、往路の船は5月19日の朝7:55に青森港を出て、昼の12:55に函館港に着き、一行は函館で肥料工場や五稜郭、函館公園を見学した後に、23:15の列車で小樽に向かっていますから、上草稿26行目の「けさはやく汽車に乗らうとする」という描写とは食い違っています。
 帰路では、5月22日の17:00に室蘭港を出航し、翌23日の朝4:20に青森港着、続いて6:15青森駅発の東北本線下り列車に乗ったと推定されていますから、日の出前に「港は近く」、そして「けさはやく汽車に乗らうとする」というこの草稿の記述と、ぴったり一致します。

 すなわち、この「〔船首マストの上に来て〕」という草稿は、その内容からして、修学旅行引率の帰途1924年5月23日の明け方の、青森港に近づきつつある船上の情景と考えられるのです。

 それでは、どうしてこれが他の修学旅行中の作品と一緒に、「春と修羅 第二集」として分類されていないのかというと、それはこの草稿の状態のためです。
 『新校本全集』における詩草稿の分類ルールでは、「春と修羅 第二集」のカテゴリーに分類するためには、草稿に「日付」がつけられていて、その日付が1924年1月~1926年3月という期間に入っている必要があるのです。冒頭部が欠けているこの「〔船首マストの上に来て〕」には日付がついていないので、「春と修羅 第二集」には分類できません。
 いったんこの期間の日付を持っていた草稿が、その後の改稿によって日付を喪失した場合には、それは「春と修羅 第二集補遺」として分類されることになりますが、「〔船首マストの上に来て〕」は現存稿しか残っていないので、これにも該当しません。
 では、そのかわりにどこに分類されるかというと、草稿が書かれている用紙が、自作のいわゆる「詩稿用紙」ではなく、また「手帳」でもないため、冒頭に記したように「補遺詩篇 I 」になるわけです。
 『新校本全集』の分類は、草稿の「形式」をもとにしているためにこのようになるのですが、ただその「内容」としては、ここに書かれているのは「春と修羅 第二集」の中でも一つの重要なトピックを成す、「北海道修学旅行」の一情景なのです。

陸奥湾から望む下北半島
陸奥湾から望む下北半島

3.その内容――トシの死との関係

 さて、その内容を見ていくと、まずは全体に漂う明るい雰囲気が、何より印象的です。17行目の「きよめられてあたらしいねがひが湧く」、22行目からの「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に/いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」というところなどに、それは最も表れています。
 作品にあふれるこの「明るさ」の要因は、一つには賢治が修学旅行の引率者として、30名の生徒に事故もなく、本州も目の前というところまで無事帰り着いたという、教師としての「安堵感」にあるのかもしれません。「三十名のわたくしの生徒たちと/けさはやく汽車に乗らうとする」という箇所には、何か「責任を果たした」という達成感がにじんでいるように感じられます。何せ青森から汽車に乗ってしまえば、あとはそのまま花巻ですから。

 22行目の「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に」という箇所の意味は、往路でやはりこの海峡を渡る際に書いた「津軽海峡」の「下書稿(一)」が、「水の結婚」と題されていたことを引きついでいるのだと思われます。水が結婚するとは不思議な表現ですが、「津軽海峡」における、「しばしば海霧を析出する/二つの潮の交会点」という表現が、その内容を物語っているのでしょう。
 実際、津軽海峡には対馬海流の支流である「津軽暖流」が西から東に流れていて、これが津軽海峡を東に出たあたりで、北から来る寒流の「親潮(の接岸分枝)」とぶつかるので、「二つの潮の交会点」と言われているのかと思われます。(下図は、「海上保安庁」サイトの「北海道周辺の海流」より)

北海道周辺の海流

 海流同士の出会い・融合を「結婚(marriage)」に喩える着想は、すでに往路からあったわけですが、帰路にはそれがよりいっそう祝祭的な雰囲気を帯びています。
 ここにも、先ほども述べた引率教師としての安堵感や達成感の影響があるのでしょう。

 以上は、まあ一般的に異論のないところかと思われますし、私もこれまではこんな風に考えながら、この作品を読んでいました。しかし最近になって私は、修学旅行が無事に終わりそうだというだけで、「きよめられてあたらしいねがひが湧く」とか、「いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」とまで言うのは、ちょっと大げさすぎないかという感じもしてきました。
 そこで、何か他に賢治のこの感情の由来はなかったのだろうかと考えてみると、上に挙げたような特徴的表現から、5月22日の日付を持つ(しかし実際には5月21日の夜の情景と推測される)、「」の先駆形「海鳴り」を連想しました。やはり賢治は修学旅行の途中で、この時は苫小牧の海岸に一人で出て、荒れた海を眺めつつ次のように記していたのです。

そのあさましい迷ひのいろの海よ海よ
そのまっくろなしぶきをあげて
わたくしの胸をとどろかせ
わたくしの上着をずたずたに裂け
すべてのはかないねがひを洗へ
それら巨大な波の壁や
沸き立つ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ

 私が思ったのは、ここに出てくる「すべてのはかないねがひを洗へ」という賢治の苦悩に満ちた叫びと、「〔船首マストの上に来て〕」に出てくる「きよめられてあたらしいねがひが湧く」という新鮮な感情は、セットになって対応しているのではないかということでした。苫小牧における「はかないねがひ」は、その後この船上で「洗」われ「きよめられて」、「あたらしいねがひ」として「湧」きあがったという風に、一つながりに理解すべきものではないでしょうか。

 そうなると、この「ねがひ」の中身は何なのか、ということが問題になりますが、上記の「海鳴り」に表れている激しい感情は、中地文氏が「「一二六 海鳴り」考」(『「春と修羅 第二集」研究』所収)に述べておられるように、やはり1年半前に亡くなった妹トシをめぐる思いだったと考えざるをえません。
 この前年の夏に、亡き妹を探してサハリンまで旅をし、宗谷海峡やサハリンの栄浜で苦悩のうちに眺めた「北の海」に、ここで賢治はしばらくぶりに一人で向かい合ったのです。また、「海鳴り」において「うしろではパルプ工場の火照りが・・・」として登場する工場は王子製紙苫小牧工場ですが、賢治がサハリンを訪ねた表面上の目的は、大泊の王子製紙会社に生徒の就職を依頼するためでした。同じ王子製紙の建物や煙突を見て、賢治がサハリン旅行を思い出さなかったはずはありません。
 また、「海鳴り」の最後の次の箇所からも、トシが連想されます。

 ……砂丘のなつかしさとやはらかさ
    まるでそれはひとりの処女のようだ……
はるかなはるかな汀線のはてに
二点のたうごまの花のやうな赤い灯もともり
二きれひかる介のかけら
雲はみだれ
月は黄金の虹彩をはなつ

 「なつかしさとやはらかさ」とともに思い出される「処女」とは、賢治にとって当時トシ一人だけだったとまでは断定できないでしょうが、その最も大切な一人であったことは間違いありません。また、「二点のたうごまの花」「二きれひかる介のかけら」として繰り返される「二」という数字も、前年に「噴火湾(ノクターン)」でトシのことを考えながら、「車室の軋りはかなしみの二疋の栗鼠」「室蘭通ひの汽船には/二つの赤い灯がともり」として「二」に執着していたことを、思い起こさせます。

 このように、草稿「海鳴り」が、当時なお賢治が抱え続けていたトシの喪失の悲しみを海にぶつけるものだったとすれば、そのわずか3日後を描いた「〔船首マストの上に来て〕」の明るく希望に満ちた調子は、それまでの彼の苦悩が、ここで何か大きく変化した可能性を示しています。
 「海鳴り」に記されている「すべてのはかないねがひ」とは、前年までの彼の作品を省みれば、「再びトシに会いたい」という、叶わぬ願望のことだろうと推測されます。賢治は、それは不可能なことだと理性ではわかっていながら、この時点でもまだそのような気持ちに苛まれ続けていたので、荒海に対してそれを「洗へ」と、懇願したのだと思われます。
 そして、この「ねがひ」という言葉からここでさらにもう一つ連想するのは、やはり前年の「青森挽歌」における、次のような表現です。

  (宗谷海峡を越える晩は
  わたくしは夜どほし甲板に立ち
  あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
  からだはけがれたねがひにみたし
  そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

 ここでは賢治は「けがれたねがひ」と呼んでいますが、やはりその内容としては、「トシとの再会の願い」だったと思われます。
 そして、「〔船首マストの上に来て〕」において、ついにその「けがれ」は「きよめられて」、「あたらしいねがひが湧く」に至ったのではないでしょうか。

 もちろん、賢治が書いた多くの作品中で、彼が「ねがひ」という言葉で表現した内容には様々なものがありますから、「青森挽歌」における「 ねがひ」と、「海鳴り」における「ねがひ」と、「〔船首マストの上に来て〕」における「ねがひ」とが、すべて同じことを指していると、機械的に決めつけることはできません。しかし、9か月あまりという近接した時期のうちに、「北の海と向き合う」という共通した状況において、彼が同じ「ねがひ」という言葉に込めた思いが、一つながりのものだったと考えてみることは、さほど不自然なことではないと思います。

 そう思って読んでいくと、23行目に出てくる「いまいちどわたくしのたましひを投げ」という表現もまた、気になってきます。上記の「青森挽歌」の段階で、「宗谷海峡を越える晩は・・・」として計画されていた賢治の「挑戦」の内容は、「宗谷挽歌」において部分的に示唆されていますが、そこに賢治はこう書いていました。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。

 すなわち、ここで賢治は、もしもトシが自分を呼んだら、海に身を投げようと決心していたと言うのです。幸いにして、彼は実際に身を投げるには至りませんでしたが、しかし実際に彼がそのような覚悟をしていたのだとすれば、それはすでに「魂を海に投げていた」と言ってもよいのではないでしょうか。
 私としては、これが「〔船首マストの上に来て〕」の23行目の、「いまいちどわたくしのたましひを投げ」という表現の伏線だったのではないかと思うのです。
 一度目の投擲は、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」という宣言を伴うもので、ここで賢治は海と「対決」しようとしたわけです。
 そして、翌年の修学旅行の帰途に、二度目の投擲が行われたのです。賢治は北海道から青森に向かう船上から海へ、「いまいちど」、「たましひを投げ」たのですが、今度は「水があんな朱金の波をたゝむのは/海がそれを受けとった証拠だ」と、彼は見てとりました。
 すなわち賢治はこの時、海と「和解」したのです。

 つまり、私が仮説的に考えているのは、次のようなことです。賢治は修学旅行中の苫小牧で「海鳴り」をスケッチした1924年5月21日の夜には、まだトシの喪失の悲嘆の中で、彼女との再会に固執する思いを断ち切れずに苦悩していたが、5月23日の早朝には、何かその感情が「きよめられ」るような心境に到達し、そのことを「〔船首マストの上に来て〕」に記したのではないか・・・。

4.心境変化と<海>

 とすると、次に気になるのは、何が短期間のうちに賢治の心境を、そのように変えたのだろうかということです。ただ残念ながら、この頃の作品や賢治の伝記的事項を見てみるかぎり、私にはまだそれははっきりわかりません。
 一般に、このような心境変化というものは、何か特定の明確なきっかけがあって起こることもありますが、また一方では、多くの要因の積み重ねや時間の経過によって、徐々にまたは突然起こり、特に「何のため」とは言いがたいこともあるものです。ですから、そのような「きっかけ」を探る試みが、必ずしも何かの結果につながるものともかぎりません。
 私としては、この問題については今後も考えていきたいと思っていますが、とりあえずここでは、賢治の<海>に対するとらえ方の変化に、着目してみたいと思います。上では、それを「対決」と「和解」と表現しましたが、以下でこれをもう少し詳しく見てみます。

 まず、1923年8月の「宗谷挽歌」の段階では、「海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち」というように、賢治にとって海は、「鬼神」をも宿す邪悪な場所のようにとらえられていました。「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」という覚悟をしていた彼にとって、海という場所は、自分たちを囚える牢獄にもなりうるものでした。
 「宗谷挽歌」で賢治は、トシからの呼びかけを期待し、呼ばれたら海に飛び込もうとも思っていたわけですが、ふつう人は誰かから呼ばれたら相手がいる(と思う)方に行くものですから、これはつまり当時の賢治のイメージとして、死んだトシは「海の中に囚われている」と想定していたことを示唆しています。この見方に立てば、二人を隔てる「タンタジールの扉」とは、海そのものであったとも言えます。

 これに対して、1924年5月21日の「海鳴り」では、海はやはり「あさましい迷ひのいろ」を呈してはいますが、賢治は自ら「海よ海よ」と呼びかけ、「わたくしの上着をずたずたに裂け」「すべてのはかないねがひを洗へ」「やりどころないさびしさをとれ」と、海に対して苦悩からの救済を懇願しています。ここでやはり海は恐ろしい存在でありながらも、なおかつ彼にとって「救済者」となりうる可能性も帯びているのです。また、「阿僧祗の修陀羅をつつみ/億千の灯を波にかかげて/海は魚族の青い夢をまもる」とあるように、海は尊い仏典を蔵し、生命を育む場所としてもイメージされています。
 このように、「海鳴り」で肯定的な存在へと転換しつつあった<海>は、2日後の「〔船首マストの上に来て〕」において、新たな境地に至った賢治の「たましひ」を、「受けとった」のです。「朱金の波をたゝむ」という形で、それは賢治を祝福さえしてくれました。

 内陸の地で生まれ育ち、中学生の修学旅行まで海を見たことのなかった賢治にとって、海というものは当初はさほど親しみを感じる存在ではなかっただろうと思われます。この中学時代の短歌をもとにした文語詩「〔われらひとしく丘に立ち〕」でも、海は「あやしきもののひろがり」と表現されています。
 上に見たように、1923年から1924年にかけて賢治の「海」に対する態度は、大きな転回を見せているわけですが、これは別の角度から見れば、賢治の「亡きトシ」に対する態度の変化を、象徴しているとも言えるでしょう。当初は、海は「死」の側に立って、自分とトシとの間を引き裂く障壁でしたが、いつしかそれは、賢治の苦しみを浄化し、生命力を与える存在ともなっていきました。これは、賢治がトシの死を、自ら受け容れていったことの表れとも言えるでしょう。

青森沖のかもめ
青森沖のかもめ

5.テキストの抹消

 この「〔船首マストの上に来て〕」という草稿が、もしも上記のように、賢治の心境の上で重要な画期となるものであったのならば、いったいなぜ彼はそのテキストを、消しゴムで抹消してしまったのでしょうか。
 それは最終的には、作者に聞いてみなければわからないでしょうが、しかし彼は他にも多くの草稿を書きながら、出版から除外したり、推敲や改稿において一部や全部を削除したりしていますから、それらの様子から推測することができるかもしれません。

 賢治は、『春と修羅』の「無声慟哭」や「オホーツク挽歌」の章において、トシの死と自らの悲嘆を真正面から作品化して刊行しましたが、その際にも「宗谷挽歌」は、『春と修羅』には収録しませんでした。
 その理由として杉浦静氏は、「激越な内容ゆえに公表をはばかり、その部分を削除したが、そのために〈定稿〉へ至らなくなってしまったという可能性は否定できない」と指摘するとともに、そこに表れているトシへの強い執着が、《けつしてひとりをいのつてはいけない》という「青森挽歌」の倫理と齟齬をきたしてしまうために、外さざるをえなかったのではないかということを述べておられます(蒼丘書林『宮沢賢治 明滅する春と修羅』)。

 また、それよりさらに後、『春と修羅』刊行後のある時期以降の賢治は、自らの妹のことを直接作品に書くことを、さらに意識して抑制するようになった節があります。
 たとえば上記の「海鳴り」も、「下書稿(一)」の段階では上のように、名指しはしないながらもトシをめぐる苦悩が記されていたのに、その「下書稿(二)」では「」と改題されるとともに、そのような苦悩に関する部分は全て削除され、海辺で月の光と戯れる牛の微笑ましい姿だけを描く作品へと変貌してしまいます。

 「〔船首マストの上に来て〕」と同じく、音楽用五線紙に書かれ、消しゴムで抹消されていた「薤露青」では、賢治はそこに記した自らの思いが「わたくしの亡くなった妹」に関することであると具体的に指定しつつ、「わたくしの胸いっぱいの/やり場所のないかなしさ」などという形で、生の感情をストレートにうたっていました。栗原敦氏は、「パネルディスカッション「春と修羅 第二集」のゆくえ」(『「春と修羅 第二集」研究』所収)において、この作品の「センチメンタルな、悲しい弱虫のところ」が、作者による抹消の要因だったのではないかという趣旨の発言をしておられますが、やはりこれも妹への個人的感傷を直接的に表現したものだったために、抹消されなければならなかったのではないでしょうか。
 「〔船首マストの上に来て〕」も、いくら肯定的な形であれ、やはり妹の死にまつわる自分の私的な心情を記したものであったため、賢治は抹消すべきと判断したのではないかと思うのです。

  ただ、上記のように「海鳴り」が「」へと改稿されて、トシの死という主題が抹消されていった一方で、同じ日付を持ちつつ別の方向性に変化していった一つの作品が、目にとまります。「春と修羅 第二集」には、「」と同じ5月22日付を持つ作品として、「」と題した詩があり、「牛」と「馬」が並ぶとまるで対になっているかのようにも見えるのですが、この「」の推敲の前後の変化が、興味深いのです。
 「馬」の「下書稿(一)初期形」は、次のように6行だけの小さな作品です。

  馬

いちにちいっぱいよもぎのなかにはたらいて
馬鈴薯のやうにくさりかけた馬は
あかるくそそぐ夕陽の汁を
食塩の結晶したばさばさの頭に感じながら
はたけのヘりの熊笹を
こっそり一枚だけ食べた

 これに対して、その「下書稿(一)手入れ形」は、次のような18行になります。

  馬

いちにちいっぱいよもぎのなかにはたらいて
馬鈴薯のやうにくさりかけた馬は
あかるくそそぐ夕陽の汁を
食塩の結晶したばさばさの頭に感じながら
はたけのヘりの熊笹を
ぼりぼりぼりぼり食ってゐた
それから青い晩が来て
やうやく厩に帰った馬は
高圧線にかかったやうに
にはかにばたばた云ひだした
馬は次の日冷たくなった
みんなは松の林の裏へ
巨きな穴をこしらえて
馬の四つの脚をまげ
そこへそろそろおろしてやった
がっくり垂れた頭の上へ
ぼろぼろ土を落してやって
みんなもぼろぼろ泣いてゐた

 5行目までは同じですが、熊笹の食べ方が変わり、そして馬はその晩、何の前触れもなく突然に死んでしまうのです。人間の「みんな」は、馬を丁寧に埋葬し、「ぼろぼろ泣いて」、その死を悼みました。ほんの短い作品ながら、「死」というものの理不尽さと悲しさが、際立って身にしみます。
 「海鳴り」から「」への変化は、「下書稿(一)」から「下書稿(二)」への改稿であるのに対して、「」の変化は「下書稿(一)」の上での推敲ですから、二つの変化は同じ段階のものではありませんが、しかし前者においては死者との別離と悲嘆というテーマが「削除」された一方で、後者においてはその同じテーマが新たに「付加」されているというところに、一対の作品の相補的な関係を想像する次第です。

 「トシの死」というテーマは、具体的・個人的な形では、テキストから周到に消されていった一方で、その代わり、より普遍化され寓話化された形で、逆にそれは積極的に描かれるようになっていったということなのかもしれません。
 作品において直接トシの死そのものが扱われることは、1924年8月以降は一切なくなったのに対して、ちょうどその頃から「銀河鉄道の夜」が書き始められたのも、きっとこれと同じ流れなのでしょう。

 奇しくも、「〔船首マストの上に来て〕」の現存末尾が、「みんながはしけでわたるとき/馬はちがった方向から/べつべつに陸にうつされる」という形で、「馬」の運命に対する関心の表明で終わっているところも、何となく面白く感じます。
 こちらの馬は、元気に海を渡って、これから本州で生きていくのでしょうか。

海上から望む青森市
海上から望む青森市

 自宅の録画機に、たまたま「ネバーランド」という映画が自動録画されていたので、とくに期待もせずに連休の深夜にぽーっと見始めたのですが、これがとても感動的な作品でした。
 物語は、戯曲「ピーター・パン」を書いたイギリスの劇作家、ジェームズ・バリの生涯における一コマを、実話をもとに描いたものです。

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 作品の不評や妻との不仲に悩んでいた劇作家バリは、ケンジントン公園を散歩している時に、4人の男の子を連れた未亡人シルヴィアと出会います。彼は母子家庭の苦労を放っておけず、子供たちの良き遊び相手になりながら、未亡人を支え始めます。様々な困難を抱える家族でしたが、とくに三男ピーターは、父の死の悲しみに閉じこもりがちで、なかなか心を開きませんでした。しかしバリが彼に、「書くこと」の素晴らしさを伝えようとするうちに心の交流が生まれ、またバリ自身も4人の子供たちにインスピレーションをもらいながら、新作劇「ピーター・パン」を制作していきます。
 完成した「ピーター・パン」の初演は、大成功でした。子供たちも劇場に招待されましたが、少し前から重い病に伏せっていたシルヴィアは、その舞台を見に行くことはできませんでした。
 しかしバリは、シルヴィアの自宅の居間で、「ピーター・パン」の特別上演を行います。シルヴィアは念願の「ネバーランド」を目にすることができたのですが、まもなく彼女は世を去ってしまうのでした。
 またしても喪失の悲しみに打ちひしがれる少年ピーターでしたが、映画の最後で、そのピーターとバリが、初めて出会ったケンジントン公園のベンチで、彼女の死について言葉をかわします。(上のDVDのカバーの場面ですね。)

 このラストシーンが本当に素晴らしくて、Amazon のレビュー欄を見ても、「巻き戻して見た」「涙が止まらなかった」というコメントがたくさん並んでいます。
 とうとうピーターは、父に続いて母も亡くしてしまったわけですが、実はジェームズ・バリも、子供時代に両親を亡くしていたのです。そしてまたバリにとっては、いつしか深く心の支えとなっていたシルヴィアを失ったことも、さらなる喪失体験でした。
 映画のラストは、この「大切な人を失う」という、人間にはどうしようもない悲しみをめぐる対話です。

ピーター: まさか、母さんがいなくなるなんて。
バリ:  僕も思ってなかった。

     でも、ほんとうは……、
     お母さんは今もいる。
     だって、お母さんは君の心の、全部のページに
     いるんだから。
     いつだって、そこにお母さんはいる。
     いつだって。

ピーター: でも、どうして母さんは死んじゃったの?
バリ:  わからない。

     でも、君のお母さんについて考えると…、
     僕はいつも、あの人がなんて幸せそうだったかを
     思い出すんだ。
     居間に座って、
     自分の家族についての劇を見ていた。
     大人にならない子供たちの劇……。

     お母さんはね、ネバーランドに行ったんだ。
     そして君は、いつでも好きな時に、
     お母さんに会いに行ける。
     ただ君が、自分でそこへ行きさえすればいいん
     だ。
ピーター: どうやって行くの?
バリ:  信じることでだよ、ピーター。
     信じるだけ。

ピーター: 僕、母さんが見える。

(完)

こちらのページに掲載されている台本原文からの私訳です。)

「ネバーランド」1

「ネバーランド」2
(画像は、東芝エンタテイメント(株)発売のDVDより)

 ピーターの質問、「どうして母さんは死んじゃったの?」に対して、そのまま答えるとすれば、「病気のため」ということになりますが、バリはそうは答えず、「わからない」と言います。ピーターの質問の真意は、「母の死因」などという表層的なところにはないことを、バリーもわかっていたからです。きっと、ピーターがもっと大きかったら、「僕の母が、理不尽にも、『死』などという運命を甘受しなければならなかったのは、いったい何故なのか?」、あるいは「僕をこれほど絶望させ、僕たちをこれほど苦しめる、この『死』というものは、いったい何なのか?」と問いかけたかもしれません。
 バリを心から信頼するようになったピーターは、父の死以来ずっと自分の心の最も内奥にあった、この最も重大な問題を、最後に意を決してバリに投げかけたのです。そして、バリはこの問いに、いったん「わからない」と言いましたが、次いで自分とともに永遠にいるであろうシルヴィアの姿について語ります。そして、「お母さんはね、ネバーランドに行ったんだ」と答えるのです。

 「ネバーランド(Neverland)」とは、劇中でピーター・パンたちが暮らしている場所の名前ですが、その意味は、「どこにもない土地」です。「ユートピア(utopia)」という言葉が、ギリシア語の「どこにもない場所」という意味の造語であるのと、同じ成り立ちですね。
 ですから、バリがピーターに答えた、「お母さんはネバーランドに行った」というのは、「どこにもない土地に行った」ということで、これは言いかえれば、「お母さんは、どこに行ったかわからない」というのと、同じことを言っているのです。

 ここで私は、賢治の「薤露青」の、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」という一節を、連想せずにはいられません。
 ある時から、賢治にとってトシも、「どこへ行ってしまったかわからない」からこそ、逆に「どこにでもいる」存在になったのです。バリやピーターがシルヴィアについて、「いつだって、そこにお母さんはいる」「いつでも好きな時に会いに行ける」「母さんが見える」と言うのと同じように、賢治も「薤露青」や「〔この森を通りぬければ〕」に記したように、そこかしこからトシの声が聞こえるようになったのです。
 そしてこれによって賢治は、トシの喪失の悲嘆から、真の意味で救われていったのでした。

 大切な人との「死別」をテーマとしたこの映画は、私の思うところでは宮澤賢治が妹トシに対して持つに至ったと同じような、「死者との関係性」について描いているように感じられました。

 それにしても、ジョニー・デップという俳優の、奥の深さというか引き出しの多さには、あらためて感嘆しました。ここでもバリという人物の持つ悲しみ、ユーモア、葛藤などを、本当に素敵に表現していました。また、少年ピーターを演じた子役のフレディ・ハイモアも可愛くて切なくて、心に残りました。すっかりフレディに感心したジョニー・デップは、自分が「チャーリーとチョコレート工場」の主役に決まった時、「チャーリー役はフレディに」と監督に強く推薦したのだそうです。あと、劇場支配人のダスティン・ホフマンも、年を経ていい味ですよね。
 これは、お薦めの映画だと思いました。

宮澤賢治 『永訣の朝』の授業 トシへの約束 宮澤賢治 『永訣の朝』の授業 トシへの約束
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 高校における「永訣の朝」を題材とした国語授業を収めた、石黒秀昭氏の『宮澤賢治『永訣の朝』の授業 トシへの約束』(幻冬舎)は、「風林」に対するとても興味深い解釈を提示しています。
 石黒氏は、まず生徒たちに、プリントで配布した「風林」を読ませます。

   風林

  (かしはのなかには鳥の巣がない
   あんまりがさがさ鳴るためだ)
ここは艸があんまり粗く
とほいそらから空気をすひ
おもひきり倒れるにてきしない
そこに水いろによこたはり
一列生徒らがやすんでゐる
  (かげはよると亜鉛とから合成される)
それをうしろに
わたくしはこの草にからだを投げる
月はいましだいに銀のアトムをうしなひ
かしははせなかをくろくかがめる
柳沢の杉はなつかしくコロイドよりも
ぼうずの沼森のむかふには
騎兵聯隊の灯も澱んでゐる
《ああおらはあど死んでもい》
《おらも死んでもい》
  (それはしよんぼりたつてゐる宮沢か
   さうでなければ小田島国友
      向ふの柏木立のうしろの闇が
      きらきらつといま顫えたのは
      Egmont Overture にちがひない
   たれがそんなことを云つたかは
   わたくしはむしろかんがへないでいい)
《伝さん しやつつ何枚、三枚着たの》
せいの高くひとのいい佐藤伝四郎は
月光の反照のにぶいたそがれのなかに
しやつのぼたんをはめながら
きつと口をまげてわらつてゐる
降つてくるものはよるの微塵や風のかけら
よこに鉛の針になつてながれるものは月光のにぶ
《ほお おら・・・・・・》
言ひかけてなぜ堀田はやめるのか
おしまひの声もさびしく反響してゐるし
さういふことはいへばいい
  (言はないなら手帳へ書くのだ)
とし子とし子
野原へ来れば
また風の中に立てば
きつとおまへをおもひだす
おまへはその巨きな木星のうへに居るのか
鋼青壮麗のそらのむかふ
 (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
  光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか
  ・・・・・・・・・・・・此処あ日あ永あがくて
          一日のうちの何時だがもわがらないで・・・・・・
  ただひときれのおまへからの通信が
  いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)
とし子 わたくしは高く呼んでみやうか
 《手凍えだ》
 《手凍えだ?
  俊夫ゆぐ凍えるな
  こないだもボダンおれさ掛げらせだぢやい》
俊夫といふのはどつちだらう 川村だらうか
あの青ざめた喜劇の天才「植物医師」の一役者
わたくしははね起きなければならない
 《おゝ 俊夫てどつちの俊夫》
 《川村》
やつぱりさうだ
月光は柏のむれをうきたたせ
かしははいちめんさらさらと鳴る

 そして、この詩について、教師の石黒氏は生徒たちに問いかけ、次のような対話か行われます。

教師  この詩の中にトシの(Ora Orade Shitori egumo)の言葉の前に、賢治とトシが交わしたと思われる会話がある。それを抜き出しなさい。

生徒  16行目の《ああおらはあど死んでもい》と17行目の《おらも死んでもい》

教師 そうですね。《ああおらはあど死んでもい》はトシがいった言葉でしょう。《おらも死んでもい》はその言葉を聞いた賢治が言ったのです。そして、その賢治の言葉にトシが答えたらしい言葉がある。何行目ですか?

生徒  32行目の《ほお おら・・・・・・》

教師  そうです。32行目の《ほお おら・・・・・・》の・・・・・・は何かが省略されている。何が省略されているのでしょうか?

生徒  (Ora Orade Shitori egumo)「わたしはわたしひとりでいくもん」とトシは言った!

教師  そうです。32行目のトシの言葉《ほお おら・・・・・・》の・・・・・・で何を言ったのか隠されていますが、実際に言ったのが(Ora Orade Shitori egumo)でしょう。つまり、トシは「私は一人で死ぬもん」と言ったのです。

 石黒氏は、「風林」に出てくる《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》という会話は、トシと賢治の間で実際に交わされた言葉を、賢治がここで思い出しているのだと、解釈しておられるわけです。

 この「風林」という作品は、トシの死から約6か月後の1923年6月3日に、賢治が農学校の生徒たちを引率して岩手山に登った際のスケッチであると推定されています。時刻は夕方のたそがれで、生徒たちは草原に一列横になって休憩しています。賢治も、「草にからだを投げ」て、休みながら景色を眺めています。
 するとそこに問題の、《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》という言葉が現れるのです。ここで賢治は、妹トシとの会話を回想しているのでしょうか。

 しかし、この言葉の次の行には、「それはしよんぼりたつてゐる宮沢か/さうでなければ小田島国友」とあり、そのつながりを見ると、この二重括弧《 》で囲まれた言葉は、この時賢治が実際に耳にしたものであり、それを言ったのが「宮沢」か「小田島国友」かどちらだろうか?と、賢治が推測していると考えるのが自然ではないでしょうか。数行後に出てくる、「たれがそんなことを云つたかは…」という言葉も、この《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》という会話の「話者」のことだと思われます。
 ちなみに、『新校本全集』第十六巻(下)補遺・伝記資料篇のp.116-117に掲載されている「稗貫郡立農蚕講習所・稗貫農学校・花巻農学校在職時指導生徒卒業生名簿」を参照すると、ここに「宮沢」とあるのは、大正14年3月卒業生の「宮沢(臼崎)吉太郎」のことかと推測され、「小田島国友」は、大正13年3月卒業生です。(大正14年卒業生は、この詩が書かれた時点では第1学年、大正13年卒業生は第2学年にあたります。)
 あと、この作品に出てくる生徒名を上記名簿で探すと、「佐藤伝四郎」は大正13年卒業生におり、《おゝ 俊夫てどつちの俊夫》《川村》と出てくるのは、字が一つ違っていますが、大正13年卒業生の「長坂(川村)俊雄」と推測されます。「どっちの俊夫」とあるのは、同じ学年に「高橋俊雄」もいるためでしょう。「言ひかけてなぜ堀田はやめるのか」という「堀田」は、やはり大正13年卒業生の「堀田昌四郎」と思われます。
 このように、作品中の名前は、すべて現実の生徒と対応しているのです。

 また、作品32行目に出てくる《ほお おら・・・・・・》も、その次の行に「言ひかけてなぜ堀田はやめるのか」とあるところから、堀田伝四郎が実際に言った言葉だと考えられます。石黒氏は、やはりこれはトシの言葉だと解釈し、この「・・・・・・」の部分は賢治が省略したのであって、実際にはここに(Ora Orade Shitori egumo)が続いたのだと考えておられますが、この解釈では次の行の「言ひかけてなぜ堀田はやめるのか」が、意味不明になります。

 石黒氏が、賢治とトシの会話であると解釈しておられる上記の言葉以外にも、この作品には二重括弧《 》で囲まれた会話文が、いくつも出てきます。それは、25行目の《伝さん しやつつ何枚、三枚着たの》、50-53行目の《手凍えだ》《手凍えだ?/俊夫ゆぐ凍えるな/こないだもボダンおれさ掛げらせだぢやい》、57-58行目の《おゝ 俊夫てどつちの俊夫》《川村》、の三か所です。これらはいずれも、生徒たちが実際にしゃべった言葉と思われます。
 そのような中で、もしも《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》《ほお おら……》に限っては、トシと賢治の会話を賢治が回想しているのならば、他の作品における賢治の表記方法から推測すると、ここは二重括弧ではない別の記号で表すはずだと、私は思います。
 すなわち、すべてが同じ二重括弧で表記されているところからも、《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》《ほお おら・・・・・・》は、それ以外と同じく生徒の言葉だったと考えるのが妥当だろうと、私としては思うのです。

 ただしかし、この《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》《ほお おら・・・・・・》という言葉が、トシの死に臨む賢治の気持ちの一側面を「代弁」するものだったのだろうということは、私も強く感じるところです。
 《ああおらはあど死んでもい》に関しては、「噴火湾(ノクターン)」の中で、実際にトシが述べた言葉として、回想されています。

七月末のそのころに
思ひ余つたやうにとし子が言つた
  《おらあど死んでもいゝはんて
   あの林の中さ行ぐだい
   うごいで熱は高ぐなつても
   あの林の中でだらほんとに死んでもいいはんて》

 トシがこれを言った7月末のある日、これに対して賢治がどう言ったかは記されていません。《おらも死んでもい》と言ったのかもしれませんが、そうでなかったのかもしれません。
 ただし、賢治がそれを口にしていようといまいと、その心の中には、今後どこまでもトシに付き添って行ってやりたい、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という気持ちが強くあっただろうということは、私も以前からいくつかの記事で書いてきたとおりです。
 そして、そのような賢治の気持ちを「否定」したトシの言葉が、「永訣の朝」における(Ora Orade Shitori egumo)だったのです。だからこそ、このトシの言葉は、ここだけローマ字で表記されなければならないほど、賢治にショックを与えたのです。
 石黒氏は、この本の「あとがき」に、次のように書いておられます。

 「先生の解釈は汚らわしい。」
 もう何年も前の話だが、私は同僚の国語教師に『永訣の朝』の(Ora Orade Shitori egumo)の授業を見せた。妹トシが(Ora Orade Shitori egumo)と言ったのは、兄の賢治が自分も死ぬと言ったからだと授業をした。それに対して、同僚はこうコメントしたのである。
 その時ばかりではない。私は国語教師の仲間たちと国語の教材の勉強会を毎月行っていた。私が『永訣の朝』の(Ora Orade Shitori egumo)の解釈を披露したところ、仲間たちが激しく怒り出した。そんな解釈があるはずはない、お前の解釈はオカシイと。だが、彼らの反発は私の解釈のどこがどう間違っているのかを指摘するものではなく、ただ、ただ、感情的にそんなことがあり得るはずがない、賢治がそんなことを妹のトシに言うはずがないという、非論理的な反発だった。

 石黒氏の解釈は、一般に流布している宮澤賢治という人の、聖人君子的なイメージにはそぐわないので、こういう反発を受けるのでしょう。賢治が実際にトシに向かって、トシが死んだら自分も死ぬと言ったのかどうかについては、私にはわかりませんが、しかし少なくとも心の中では、そのように思いつめていたのだと、私も石黒氏と同じように思います。
 そして、たとえ賢治が口に出して言っていなかったとしても、トシには兄の考えがはっきりとわかっていて、だからこそ彼女は、“Shitori egumo”=「(兄さんと一緒ではなく)一人で行くもん」と言ったのだと、私も思います。
 この点については、私も石黒氏の説に、深く共感する者です。

 さて、「風林」に戻りますが、この岩手山登山において、十代半ばの生徒がふと、《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》などという会話をしたというのは、たしかにちょっと異様なことではあります。
 たとえ若者でも、辛くて苦しくて「死にたい」と言うことはありえますが、この作品における《死んでもい》は、いい意味で、感動して出た言葉でしょう。人間は、何か人生をかけるほどの願いがかなった時、あるいは恍惚として我を忘れた時、ひょっとしたら「ああ俺はもう死んでもいい」とつぶやくことがあるかもしれませんが、まだ人生もこれからという思春期の少年が、「死んでもいい」などと口にする状況は、はたしてどんなものだったのでしょうか。仲間と一緒に岩手山に登り、雄大な景色に心を奪われて、この言葉を発したということでしょうか・・・。

 私にはちょっとどのような状況だったのかはわかりませんが、しかしそれをふと耳にした賢治にとっては、この言葉は心に非常に大きな波紋を引き起こしたことでしょう。これはまさに、前年の7月末にトシが言った言葉に、ぴったりと重なるからです。
 動揺した賢治は、いったい誰がこんなことを言ったのだろうと、一瞬考えようとしますが、しかしすぐに、「たれがそんなことを云つたかは/わたくしはむしろかんがへないでいい」と思い直します。
 その言葉の話者は、生徒の誰かでもあるとともに、賢治にとってはトシでもあるからです。

 《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》という会話を耳にした直後、賢治は「向ふの柏木立のうしろの闇が/きらきらつといま顫えた」のを見ますが、それを賢治は、「Egmont Overture にちがひない」と感じます。
 ベートーヴェンの「エグモント序曲」で、「闇がきらきらっと顫える」という感じの箇所としてどこがあるだろうかと考えてみましたが、序奏の冒頭の、どーんと重厚に強奏が響くところは、トシの言葉を思い出した賢治のショックを表すにはいいですが、「きらきらっと」という感じではありません。序奏のもう少し後の木管の掛け合いのところとか、提示部に入って第二主題の後半のやはり木管の奏する部分とかだと、「きらきらっと顫える」感じもします。

 一方、原子朗さんの『定本 宮澤賢治語彙辞典』を見ると、音楽の響きというよりも、「エグモント」というゲーテの戯曲の内容と、この時の賢治の心理の関連性の方が、ここでは重要だったのかと思えてきます。ゲーテの「エグモント」によれば、アルバ公爵という圧制者に対して抵抗したエグモント伯が、公爵に捕えられ、死刑を宣告されます。そして、エグモントの恋人クレールヒェンは、エグモントを救おうとするもかなわず、絶望して自殺してしまいます。その幕切れで、刑場に向かうエグモントは、「最愛の者を救うために、喜んで命を捨てること、我のごとくあれ」と叫ぶというのです。
 死を運命づけられたエグモントよりも、クレールヒェンは先に死んでしまうのですが、しかしここには、トシに対して「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思いつめていた賢治と、相通ずるものがあります。生徒たちの《ああおらはあど死んでもい》《おらも死んでもい》という言葉から、賢治が自分とトシを連想した時、このエグモントとクレールヒェンも、一緒に心に現れたのかもしれません。

 ふと私は、ここで賢治はトシの(Ora Orade Shitori egumo)という言葉を思い出して、その語尾の“egumo”から、“Egmont”を連想したのかもしれないということも想像しましたが、さすがにこれはこじつけでしょうね。

 下の、クルト・マズア指揮ライプチヒゲヴァントハウス管弦楽団による演奏は、東ドイツの「平和革命」の20周年を記念したものだそうです。ゲーテとベートーヴェンというこの国を代表する芸術家によって作られた、「圧政からの解放」という主題に基づいた作品は、まさにこの演奏会の趣旨にふさわしいものですね。

賢治と現代日本の死生観

 以前に「千の風になって」という記事において、賢治がトシとの死別の苦悩から救われていったのは、1924年7月頃になって、「死んだトシの存在を身近に感じられる」という心境に至ったことによるのではないか、ということを書いてみました。
 この記事では、当時の賢治が到達した心境が、現代日本の死生観にも共通するものがあるという例として、ひと頃流行した「千の風になって」という歌の歌詞や、哲学者の森岡正博氏が東日本大震災後に書いた「私たちと生き続けていくいのち」という文章を引用しました。森岡氏の文章の一部を再び引用させていただくと、「死者」についての氏の考えは、下の部分に最も象徴されています。

 しかし、人生の途中でいのちを奪われた人たちは、けっしてこの世から消滅したわけではない。その人たちのいのちは、彼らを大切に思い続けようとする人々によっていつまでもこの世に生き続ける。私たちの心の中に生き続けるだけではなくて、私たちの外側にもリアルに生き続ける。

 この中で、死者が「私たちの外側にもリアルに生き続ける」というところが、何より特徴的で印象的です。「死者が生き続ける」という表現が、単なる「比喩」ではないということを明らかにするために、わざわざ「リアルに」という言葉が用いられていますが、同じような事柄を、死者の側から歌っているのが、「千の風になって」だったわけです。

 最近、さまざまな形でこのような死生観――死者がこの世で私たちと一緒にいるという意識――に触れることが多いように感じるのですが、とりわけ現代の葬送儀礼の変化に、それは典型的に表れていると思います。

 日本では、江戸時代に幕府によって「檀家制度」が整えられて以来、葬式はそれぞれの「家」が所属する「檀那寺」が執り行い、遺骨は定まった墓地に埋葬するという方式が、昭和の時代までほぼ一貫していました。しかし最近になって、そのような枠組みにとらわれないさまざまな形の葬儀や遺骨の扱いが、行われるようになっています。

 たとえば、「手元供養」という方法は、遺骨(遺灰)の一部または全部を墓に納骨せずに遺族が手元にとどめ置いて、亡き人を偲ぶよすがにするというもので、納骨容器に入れて自宅の居間や仏間に安置するという方法もあれば、遺骨を入れたペンダントや、遺骨の一部を七宝焼きのように焼成したアクセサリーを身につけるというものもあります。たとえば「おこつ供養舎」という会社の「手元供養品」というページを見ていただくと、さまざまな種類の「遺骨アクセサリー」が掲載されています。
 いずれも、故人を「遠くに葬り去る」ということに抵抗感があったり、「いつも故人と身近にいたい」という気持ちが強い場合に、その思いを具現化する方法として行われているようです。
 こうすれば、折々に「墓参」をする時だけではなく、年中つねに「手元」で故人を感じていられるというわけですね。

 あるいは、最近は遺骨を墓地に埋葬せずに粉砕して散布する「散骨」という方法も、かなり一般的に行われるようになっています。海に撒く「海洋散骨」というのもあれば、ロケットに乗せて宇宙空間に打ち上げるという「宇宙葬」というものまであって、「小さなお葬式」という会社の「海洋散骨」のページでは、全国各地の海域に散骨するプランが提供されていますし、「銀河ステージ」という会社のサイトを見ると、「宇宙飛行プラン」「人工衛星プラン」「月旅行プラン」「宇宙探険プラン」などという各プランと、その料金も書かれています。

 ところで一見すると、遺骨をつねに見える身近な場所に置く「手元供養」と、遺骨を広大な場所に散布してしまってどこに行ったかわからなくする「散骨」とでは、全く正反対の方向を目ざしているように思えますが、実はこの二つが心の奥底ではつながり合っていることが、「千の風になって」の歌詞に表れています。

  千の風になって
              新井満(訳詩)
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって
畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように
きらめく雪になる
朝は鳥になって
あなたを目覚めさせる
夜は星になって
あなたを見守る

 歌詞の一番は、死んだ人はお墓にはおらず、「大きな空を吹きわたって」いるということを言っていて、これはまさに「散骨」のイメージですが、二番になると、そのように空間全体に行き渡っているからこそ、雪や、鳥や、星になって、「いつも生者のすぐ傍らに」いることができるのだ、ということが歌われています。
 「特定のどこにもいない」からこそ、「どこにでもいる」のです。

 これはちょうど賢治が、「トシの行方」を必死になって探しても何も得られず、結局「薤露青」において、「どこへ行ってしまったかわからない」ということを受け容れるとともに、トシの「声」をあちこちから聞くことができるようになったことと対応しているようで、興味深いところです。

 「手元供養」「散骨」「千の風になって」に表れている現代日本の死生観は、死後はまた六道のいずれかの世界において輪廻転生を繰り返していくという伝統的な仏教のそれとは、大きく異なっています。まあ、現代日本で仏教色が薄れているのは無理もないところかと思いますが、しかし、仏教を篤く信仰していたはずの賢治が、亡きトシに対して抱いていたであろうイメージが、仏教ではなくこの現代日本の死生観に近いというのは、とても不思議なことです。
 それはいったい何故なのだろうと考えたりしていましたが、その理由として最近一つ思うのは、どちらも「彼岸における故人の生」について、あまり考えようとしないところが共通しているのではないか、ということです。

 まず現代日本では、今も葬式の大半は「仏式」で行われており、故人が亡くなってまもない頃には、「今ごろはあの世でお父さんに会って思い出話をしてるかな」などと、「あの世」について話題にすることもあります。
 しかし、本当に「地獄」や「極楽浄土」や「天界」などというものがあって、人間が死んだらそのどこかで新たな生を送るのだと心から信じている人は、今やごく少数になっているのが現状でしょう。多くの現代人が「死後」について抱いているイメージとしては、せいぜい「安らかに眠っている」というくらいで、「彼岸」や「あの世」の存在と、そこで死者が送っている「生」を、具体的に思い描いている人は、はたしてどれくらいいるでしょうか。

 そもそも、仏教にかぎらずキリスト教でもイスラム教でも、その他ほとんどの宗教では、生きているうちに良いことをした人は死後に「天国」のような素晴らしい場所に行ける一方、悪いことをした人は「地獄」のようなひどい場所で苦しい目に遭う、という教えがあります。このような教えが果たしている役割の一つは、「だから悪いことはせず、良いことをしましょう」と、生きている人に倫理を説くということがあるでしょう。そして、良いことをしていると自覚している人にとっては、この教えは「死の恐怖」を軽減してくれる効用もあります。
 それに加えてもう一つ、宗教がこのように死後の世界を想定することの効用としては、「遺された人の悲しみを和らげる」ということもあるように思います。大切な人を亡くしてしまって、遺族や親しかった人たちは悲しくて仕方がないけれども、故人はきっと天国に行って新たに安らかな生を送っているに違いないと信じることができれば、遺された人としては、「それならば自分は辛くてもこの人の死を受け容れよう」と思うことができるわけです。「別世界における死者の幸福」という救いによって、喪失の苦しみを緩和するのです。
 ところが、前述のように現代日本では、たとえ遺族であっても、「故人があの世で幸福に暮らしている」ということを、昔ほどには実感をもって信じることができなくなっているでしょう。このため、昔の人のように「別世界における死者の幸福」という救いと引き替えにして、喪失の悲しみに耐えるということができません。
 そこで現代人はその代わりに、「別世界」ではなく「この世界」に死者がとどまって、自分たちと一緒にいると想定することによって、死別の寂しさを乗り越えようとしているのではないでしょうか。

 翻って、宮澤賢治の場合も、トシの死後しばらくはその喪失の苦しみに打ちひしがれ、サハリンまで旅行をしたこともありましたが、その途上の「青森挽歌」において、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という考えに思い到ます。そしてこれ以後は、トシが天界に往生するように祈ったり、トシの次生における幸福を願ったりすることを、自らに禁じてしまったのです。この思想は、「〔手紙 四〕」のテーマとして引き継がれ、「銀河鉄道の夜」の底にも流れています。
 すなわち、ここで賢治もまた、「別世界における死者の幸福」という救いと引き替えにして、喪失の苦しみを和らげるということができなくなったわけです。そして、このために彼もまた、「別世界」ではなく「この世界」にトシの存在を感じることによって、最終的には救われていったのではないでしょうか。

 もちろん、賢治としては、何もそのように意図したわけではなかったのでしょうが。

 「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」という有名な三部作は、この世のトシの「最後の朝」の情景を描いたものであり、もちろんまだこの時点では、トシは生きています。そして、この三作の次の作品である「風林」は、トシの死から半年あまりも経った後の出来事を記しています。
 それでは、トシが臨終を迎えるまさにその場面の状況はどこに描かれているのかというと、それは「青森挽歌」の中に、賢治の回想として記録されているのです。
 「青森挽歌」の前半のクライマックスにあたる本文の86行目から139行目で、私が以前に「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事において、<III トシの死の状況の具体的回想>と呼んでいた部分です。
 下に、その部分だけ抜粋して再掲します。

<III トシの死の状況の具体的回想>

 ところで今回、私がちょっと興味深いと感じ、考えてみたいのは、97行目・98行目の、次の言葉です。

それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう

 さてここで、「幻視」「幻聴」という言葉が使われているのは、いったいどういう意味なのでしょうか。

 「幻視」という語の一般的な意味は、「実際にはないものが、あたかもあるように見えること」、「幻聴」の意味は、「実際には音がしていないのに、聞こえるように感じること」です。(いずれも三省堂『大辞林』より)
 したがって、「青森挽歌」の上記の時点で、もしトシがまだかろうじて生きていて、周囲の様子がかすかにでも見えたり、聞こえたりしていたのであれば、それらは「実際にあるもの」の知覚ですから、「幻視」でも「幻聴」でもありません。どんなに弱々しいものであったとしても、それは正常な視覚や聴覚の残存です。
 そして、もしもこの時点でトシが既に死んでいたのであれば、幻視・幻聴であろうと、正常な視覚・聴覚であろうと、もはや不可能なはずです。一般常識としては、死んだ人に周囲の事物が見えたり聞こえたりすることないと考えられていますが、仮にそういうことがあったとすれば、それは一種の超自然的現象であって、普通はそれを「幻視」「幻聴」とは呼びません。

 というわけで、「それはまだおれたちの世界の幻視をみ/おれたちのせかいの幻聴をきいたらう」という言葉は、いったいどういう意味なのだろうかということが問題になるわけですが、私としてはこれは、「幻視」「幻聴」という言葉に、賢治が独自に込めた意味をもとにして理解すべきところだと考えます。

 私の想定するその「賢治独自の意味」とは、「幻視」「幻聴」とは、「異空間」の現象が見えたり聞こえたりすることだ、というものです。
 上に見たように、辞書的な意味では、これらは「実在しない事物の知覚」ということになるのですが、賢治にとっては、幻視・幻聴の対象は、ただ単に「実在しない」のではなく、「私たちのこの世界には実在しないが、異世界(異空間)には実在する」ことになるのです。

 実際のところ、生前の賢治が「異世界」「異空間」の実在を信じ、この世界とは異なる世界の出来事を見たり聞いたりした(と自分で思っていた)というエピソードは、しばしば紹介されています。
 賢治が、「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」(下書稿(二))の草稿裏に書き残し、「思索メモ1」と呼ばれているものがあります。下に掲げたのは、『新校本全集』第十三巻の(下)に掲載されている、そのメモの写しです。

「思索メモ1」

 この中の、「一、」の部分を書き出すと、次のようになっています。

                             異構成―異単元
                                      \
一、異空間の実在  天と餓鬼、  分子―原子―電子―真空
    感覚幻想及夢と実在、

 ここには、「実在」する「異空間」の例として、「天と餓鬼」が挙げられており、「幻想及夢と実在」という部分は、われわれの世界へのこれらの「異空間」の存在の顕れは、「幻想」や「夢」という形をとる、という意味かと思われます。

 賢治における「天」の世界の顕れとして、すぐに連想するのは、「小岩井農場」パート九の、次の箇所です。

 (天の微光にさだめなく
  うかべる石をわがふめば
  おゝユリア しづくはいとど降りまさり
  カシオペーアはめぐり行く)
ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張つて
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
・・・・・・はさつき横へ外れた
あのから松の列のとこから横へ外れた
  《幻想が向ふから迫つてくるときは
   もうにんげんの壊れるときだ》
わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
  《あんまりひどい幻想だ》

 ここで賢治は、ユリア、ペムペルと呼ぶ二人の童子の姿を見ますが、その少し後では「どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は」と触れられ、あるいはパート四には「緊那羅のこどもら」という言葉も見えることから、賢治はこの童子たちを「天」の存在と考えていたと推測されます。そして、自分がこのような異界の者を見ることについては、「幻想」と表現しています。

 また、賢治にとっての「餓鬼」の世界の顕れとしては、白藤慈秀著『こぼれ話 宮沢賢治』(杜陵書院)の、「餓鬼との出合い」という章に、賢治が同僚教師の白藤氏に語った、次のような言葉が記されています。

 田圃の畦道の一隅に大きな石塊が置かれてあるので不思議に思いました。畦の一隅に何故このような石が一つだけ置かれてあるかと疑い、この石には何んの文字も刻まれていないからその理由はわからない、何んの理由なしに自然に石塊一つだけある筈はない。これには何かの目じるしに置かれたに相違ないと考えた。その昔、この辺一帯が野原であったころ人畜類を埋葬したときの目じるしに置いたものに相違ない。また石の代りに松や杉を植えてある場所もある。こういうことを考えながらこの石塊の前に立って経を読み、跪座して瞑想にふけると、その石塊の下から微かな呻き声が聞えてくるのです。この声は仏教でいう餓鬼の声である。なお耳を澄ましていると、次第に凄じい声に変ってきました。それは食物の争奪の叫びごえであったと語った。

 この賢治の話に対して、白藤慈秀氏は、「「ガキ」の世界というのは私どもの感覚によって、とらえられる世界でありますか」と、至極まっとうな、少し皮肉も混ざったような質問を返していますが、賢治は「それはできます」と答えたということです。

 このように、賢治は「異界」の声を聴くことがしばしばあったようですが、自分がそのような体験をすることを、自ら「幻聴」と呼んでいて、それはたとえば「比叡(幻聴)」とか「鬼言(幻聴)」などという作品名にもなっています。

 以上のような状況を図にしてみると、下のようになります。

賢治にとっての「幻視」「幻聴」

 賢治や私たちが住んでいるこの世界と、「天界」や「餓鬼界」など仏教でいう「十界」の他の世界との間には、通常は越えられない「壁」があり、その壁が上図では黒く分厚い境界で示されています。この「壁」のために、私たちはその向こうの出来事について、通常は何も知ることはできません。
 しかし賢治は、時折その壁の向こう側の事物を見たり聞いたりする(と感じる)ことがあり、彼はこのような自らの知覚体験のことを、「幻視」「幻聴」と呼んでいたのです。

 それでは、この賢治の用語法を、「それはまだおれたちの世界の幻視をみ/おれたちのせかいの幻聴をきいたらう」という「青森挽歌」の表現に当てはめてみると、どうなるでしょうか。
 トシが、この時点で「幻視」あるいは「幻聴」を体験しているとすれば、これらの知覚は賢治的な意味では、上記のような「異世界」を隔てる「壁」を越えて、もたらされていることになります。つまり、既にこの時トシは、「おれたちの世界」からすると通常は越えられない「壁」の向こう側に、行ってしまっているのです。

 すなわち、ここで賢治が「幻視」「幻聴」という言葉を使ったということは、取りも直さずこの時点で賢治が、「トシは死んだ」と認識していたことを示しているのです。
 これを図示すると、下のようになります。

トシにとっての「幻視」「幻聴」

 ここでは、最初に掲げた図における「賢治の体験」としての幻視・幻聴とは、矢印が反対向きになっていますが、しかしいずれも一つの世界から別の世界へと、越えられないはずの壁の向こうへ知覚が「越境」していることをもって、賢治はこれを「幻視」「幻聴」と呼ぶのです。

 では、どの時点で賢治はトシが死んだと判断したのか、本文をさかのぼって見れば、91行目の「にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり」という箇所をもって、賢治はトシの臨終と認識したと考えておくのが妥当でしょう。

 ところで、以前に「あいつは二へんうなづくやうに息をした」という記事に書いたように、現在から振り返ってみると、上の時点ではまだトシは亡くなっていなかったと思われます。この後に、賢治が「万象同帰のそのいみじい生物の名を/ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」のに対してあたかも応えるように、トシは「二へんうなづくやうに息をした」という動きを見せましたが、これは医学的には「下顎呼吸」という、終末期に出現する特殊な呼吸だったと考えられるのです。
 そのような事情もあったものですから、これまで私は、賢治がトシの耳もとで「ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」り、それに応えるようにトシが「うなづいた」と見たりしたのは、トシの臨終をおおむね認めながらも、「ひょっとしたら今はまだ生きているかもしれない」という一縷の望みを託しながら、そのような行動や観察をしたのかもしれないとも思い、この時点における賢治の真意を図りかねていました。
 しかし、上のように考えてみると、この97行目・98行目で既に賢治は、「トシは死んだ」
とはっきり認めていたということになります。

 となると、その明確な認識にもかかわらず賢治が、あえて「ちからいつぱい」叫び、それに対してトシが「うなづいた」と自分に言い聞かせていたのは、一般的な言葉でいえば、彼は一種の「奇跡」を信じようとしていたということになります。
 その奇跡の
「証明」のために、《ヘッケル博士》までもが召喚されたのは、このような前提において理解すべきことかと、あらためて思う次第です。

マリヴロンと虹

 「めくらぶだうと虹」と、「マリヴロンと少女」という二つの童話は、登場するキャラクターは異なっていますが、ストーリーは全く同じと言ってもよい内容です。それもそのはずで、後者は、前者の草稿に赤インクで大幅に手入れをするという形で、誕生したのです。 ちなみに下写真が、その「赤インク」が入った1頁目です。

「めくらぶだうと虹」「マリヴロンと少女」草稿
『新校本宮澤賢治全集』第8巻口絵より

 手入れ前の「めくらぶだうと虹」は、地上のめくらぶどうが、天上の虹を讃え敬い、虹に対するかぎりない憧れを述べ、自分を教え導いて下さいと懇願するのに対して、虹の方は、自分もめくらぶどうも価値においては同じである、すべては無常であるとともに「まことのひかり」の中では不滅なのだと説き、すがるめくらぶどうを残して消え去る、というお話です。
 「美のはかなさと永遠性」というようなテーマを、大乗仏教的世界観のもとに、賢治らしい繊細な自然描写によって綴ったもの、とでも言えるでしょうか。

 手入れ後の「マリヴロンと少女」においては、前者における「虹」が有名声楽家の「マリヴロン」に、「めくらぶだう」が「彼女を崇拝する少女」に、それぞれ置き換えられます。配役は変わるものの、物語の構造は同一で、それぞれが述べる台詞も、大まかには共通しているのです。

 「めくらぶだうと虹」が書かれたのは1921年秋頃と推定されており(『宮沢賢治大辞典p.215)、これが「マリヴロンと少女」へと書き換えられたのは、だいたい賢治が羅須地人協会を始めた頃、すなわち1926年あたりと考えられているようです。
 その根拠として、たとえば佐藤泰正氏は、「宮沢賢治――その改稿の問いかけるもの」(『国文学 解釈と鑑賞』平成13年8月号)において、作品中でマリヴロンが述べる「正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです」「鳥はうしろにみなそのあとをもつものです」という言葉と、「農民芸術概論綱要」の思想との共通性を挙げておられますし、また天沢退二郎氏は、『《宮沢賢治》論』所収の「〈読み書き〉の夢魔を求めて」の中で、次のように書いておられます。

 「めくらぶだうと虹」から「マリヴロンと少女」への転位は、こうして、<死との関係>から<限界芸術論>への道すじとして読めること、しかもなお、その道すじは、ひばり=詩人に調子はずれの歌をうたわせることをやめないということが、私たちの足をなおここにとどめさせるのだ。『春と修羅』第一集の詩人を、農民劇や「修学旅行復命書」の限界芸術者へと向かわせるにいたる原点にやはりとし子の死があったことを、「めくらぶだうと虹」→「マリヴロンと少女」は暗示する。

 ここはとても難しい箇所で、全体としては私の理解能力を越えているのですが、最後の部分を読むと、「めくらぶだうと虹」→「マリヴロンと少女」という書き換えには、「とし子の死」が何らかの意味で関係している、ということを天沢氏は考えておられるようです。したがってその書き換えの時期は、やはり妹トシの死よりも後、ということになります。
 そして私としても、(天沢氏の論旨全体は理解できないながらも)上の結論部分に関してはなぜか同感で、すなわち「マリヴロンと少女」には、どこか「トシの死の後の賢治の思想」に通ずるものがあるような気がするのです。
 あまり、きちんと筋道立てて述べられるような根拠はなくて、「何となくそう感じる」という程度の事柄なのですが、それは下記のようなことです。

 前述のように、「めくらぶだうと虹」と「マリヴロンと少女」とは、その基本的な中身はほとんど同じと言ってよいと思うのですが、それでも微妙に違っているところがいくつかあります。
 たとえば、物語の最後の場面で、めくらぶどう/少女の必死の懇願に対して、虹/マリヴロンが答える言葉です。

 まず、「めくらぶだうと虹」。

「私を教へて下さい。私を連れて行って下さい。私はどんなことでもいたします。」
「いゝえ私はどこへも行きません。いつでもあなたのことを考へてゐます。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。いつまでもほろびるといふことはありません。けれども、あなたは、もう私を見ないでせう。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。私はあなたにお別れしなければなりません。」
 停車場の方で、鋭い笛がピーと鳴りました。
 もずはみな、一ぺんに飛び立って、気違ひになったばらばらの楽譜のやうに、やかましく鳴きながら、東の方へ飛んで行きました。
 めくらぶだうは高く叫びました。
「虹さん。私をつれて行って下さい。どこへも行かないで下さい。」
(後略)

 次は「マリヴロンと少女」における、上記に相当する場面。

「私を教へて下さい。私を連れて行ってつかって下さい。私はどんなことでもいたします。」
「いゝえ私はどこへも行きません。いつでもあなたが考へるそこに居ります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人は、いつでもいっしょにゐるのです。けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。では。ごきげんよう。」
 停車場の方で、鋭い笛がピーと鳴り、もずはみな、一ぺんに飛び立って、気違ひになったばらばらの楽譜のやうに、やかましく鳴きながら、東の方へ飛んで行く。
「先生。私をつれて行って下さい。どうか私を教へてください。」
(後略)

 ここで私が注目したいのは、虹/マリヴロンの最後の言葉です。大まかには同じなのですが、いくつかの相違点があるので、下記において、それを一文ずつ比較してみます。異なっている部分を、赤字にしておきますので、上と下を見比べてみて下さい。

虹の言葉

  1. いゝえ私はどこへも行きません。
  2. いつでもあなたのことを考へてゐます
  3. すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。
  4. いつまでもほろびるといふことはありません。
  5. けれども、あなたは、もう私を見ないでせう
  6. お日様があまり遠くなりました。
  7. もずが飛び立ちます。
  8. 私はあなたにお別れしなければなりません

マリヴロンの言葉

  1. いゝえ私はどこへも行きません。
  2. いつでもあなたが考へるそこに居ります
  3. すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人は、いつでもいっしょにゐるのです。
  4. (削除)
  5. けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません
  6. お日様があまり遠くなりました。
  7. もずが飛び立ちます。
  8. では。ごきげんよう

 文の番号で言えば、1.、6.、7. は、全く同じです。2.、3.、5.、8.がそれぞれ異なっており、4.は、「マリヴロンと少女」では削除されています。
 それでは、2.、3.、5.、8.の違いを、一つ一つ見てみましょう。

 まず、2.では、「めくらぶだう」における「考へてゐます」が、「マリヴロン」では「考へるそこに居ります」となっていて、マリヴロンがそこに「存在している」ことが際立っています。
 また、3.においても、前者の「いつでもいっしょに行くのです」が、後者では「いつでもいっしょにゐるのです」になっていて、ここでも「行く」が「ゐる」に変えられることにより、マリヴロンの「存在」が強調されているように感じられます。
 「めくらぶだう」における「考へてゐます」というのは、そこに一緒にいなくてもできることですし、「まことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行く」というのも、たとえその身が離れていても(「まことのひかり」を共有しておれば)可能であることに、注目しておきたいと思います。

 4.の文が前者にあったのに後者では削除されたのは、どういう意味があるのでしょうか。前者において、「ほろびるということはありません」と言われているのは、「虹」のことではないですよね。「すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行く」という、一つの「法」とでも言うべき真実が、「滅びない」のでしょう。「マリヴロンと少女」においてこれが消されているのは、あえてこのことは説く必要なないと作者が考えたのでしょうか。

 5.は、両者で主語の異なった文になっています。前者において「あなたは、もう私を見ないでしょう」とあるのは、対象は本来は滅びることはないのに、それを見るこちら側の問題によって、滅びたように思ってしまうのだということでしょうか。
 後者で、「けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません」とマリヴロンが言うのは、その直前に「そこに居ります」「いつでもいっしょにゐるのです」と言っていたことと一見矛盾するようですが、この矛盾こそが、作品の眼目でもあるのでしょう。

 8.は、前者では「別れ」という言葉が使われていて、本当に「別れてしまう」という感じが強いのですが、後者では「では、ごきげんよう」と、とても気軽な挨拶で、まるで、またいつでも会えるというような雰囲気です。


 以上のような相違点があるわけですが、手入れ前の「めくらぶだうと虹」における虹の言葉から私が感じるのは、たとえお互いは離れていても、「いっしょに行く」=信念を共有して進むことはできるのだ、というような考えです。「存在」よりも、「法」あるいは「道」の不滅を説くという感があり、その不滅性がおびやかされるとすれば、「あなたはもう私を見ない」というような、こちら側の信念の問題だということでしょうか。
 これに対して、手入れ後の「マリヴロンと少女」におけるマリヴロンの言葉から私が感じるのは、「いつでもあなたが考へるそこに居ります」とか「いつでもいっしょにゐるのです」という言葉に象徴されるように、「ずっと対象ともにある」という感覚です。その対象は、「もう帰らなければなりません」とか「では、ごきげんよう」という風に目の前から去ってしまうようではありますが、それでも本当は、「いつでもいっしょにゐる」のです。

 ということで、結論として私が今回の記事で言いたいのは、「めくらぶだうと虹」の方には、ひょっとして保阪嘉内との「別れ」という体験の影響があったのではないか、「マリヴロンと少女」の方には、トシとの死別と悲嘆の影響があったのではないか、ということなのです。
 前者は、1921年の秋に書かれたと推定されているので、この年7月の嘉内との悲しい別れの、少し後です。
 後者は、1926年の手入れであれば、1922年11月のトシの死よりは、後のことです。
 したがって、時期としては、それぞれが嘉内との別れ、トシとの別れと関係したとしても、矛盾はありません。

 「めくらぶだうと虹」が、保阪嘉内と別れを反映しているという前提で読んでみると、2..の「いつでもあなたのことを考えています」とは、嘉内は賢治と離れていても、賢治のことを考えてくれている、という風にも解釈できます。
 3.の、「まことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行く」が表しているのは、たとえ生身の賢治と嘉内は「物別れ」になって、離ればなれでいたとしても、2人の志は同じであり、同じ道を進んでいるのだ、という風に解釈することもできます。

 「マリヴロンと少女」が、トシとの死別と関係しているとすれば、ここに記されている「いつでもあなたが考へるそこに居ります」とか「いつでもいっしょにゐるのです」という言葉は、以前に「千の風になって」や「そしてみんながカムパネルラだ」という記事に書いたように、賢治がトシの死を乗り越えて、「いつも身近にトシの存在を感じられる」というような心境に至ったのではないか、という私の仮説につながってきます。
 1924年の7月に賢治は、「〔この森を通りぬければ〕」、「〔北上川は熒気をながしィ〕」、「薤露青」などの作品を書きますが、そこにはトシの「声」やトシとの会話があふれています。この頃に、トシの「不在」を真に受容できるようになったことが、逆説的にその「遍在」の認識への扉を開いてくれたのではないかと、私は思っているのですが、「マリヴロンと少女」における、「いつでもあなたが考へるそこに居ります」等の言葉に、相通ずるものを感じるのです。たとえば、「いつでもいっしょにゐる」と言いながら、「もう帰らなければなりません」「では、ごきげんよう」と言うという「矛盾」は、トシが「不在」かつ「遍在」という「逆説」と似ています。

 「めくらぶだうと虹」と、「マリヴロンと少女」を見比べていて、ばくぜんとそのようなことを思いました。

 先日も考えてみた、「青森挽歌」の前半部のクライマックスとも言うべき部分を、また下記に引用します。

 《耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい》
さう甘へるやうに言つてから
たしかにあいつはじぶんのまはりの
眼にははつきりみえてゐる
なつかしいひとたちの声をきかなかつた
にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた
それからあとであいつはなにを感じたらう
それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう
わたくしがその耳もとで
遠いところから声をとつてきて
そらや愛やりんごや風、すべての勢力のたのしい根源
万象同帰のそのいみじい生物の名を
ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき
あいつは二へんうなづくやうに息をした
白い尖つたあごや頬がゆすれて
ちいさいときよくおどけたときにしたやうな
あんな偶然な顔つきにみえた
けれどもたしかにうなづいた
   《ヘツケル博士!
    わたくしがそのありがたい証明の
    任にあたつてもよろしうございます》
 仮睡硅酸の雲のなかから
凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は……
 (宗谷海峡を越える晩は
  わたくしは夜どほし甲板に立ち
  あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
  からだはけがれたねがひにみたし
  そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)
たしかにあのときはうなづいたのだ

 賢治がトシの臨終の前後の様子を細かく想起し、彼女の「感官」や「意識」がどのような経過をたどっていったのかということを、必死になって跡づけようとしているところです。
 トシの死からは、すでに8か月以上も経った時点での心象スケッチですが、実に詳細に記されていることに驚かされます。きっと賢治は、トシの死からこの方ずっと、何度も何度もこの時の情景を思い返さずにはいられず、これはその後もまるで目の前で繰り広げられる情景のように、ずっと心に焼き付いていたのでしょう。
 今日は、この記録の素晴らしい克明さを頼りにしつつ、この時のトシの状態について、少し医学的に考えてみようと思います。

 まず、上記引用の最初の、《耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい》という言葉から推測されるトシの病状に関しては、以前にも「耳ごうど鳴って・・・」という記事に書いてみたことがありました。
 下の図(Wikimedia Commons より)は耳の構造を表したものですが、喉の奥(咽頭部)と耳の奥(鼓室)は、「耳管」と呼ばれる細い管でつながっています。この管はふだんは閉じているのですが、唾を飲み込んだ際などには一時的に開くので、飛行機で高い空を飛んでいる時などに、鼓室内と鼓膜の外に気圧差ができて耳が詰まったような感じになった際に、唾を飲み込むと解消するのは、この耳管を空気が通って両側の気圧が同じになるからです。

耳の構造

 さて、肺結核になると、結核菌は痰とともに肺から喀出されて、喉の奥(咽頭部)にたくさんたまりますが、その菌は咳をした時などに咽頭部から耳管を通って、鼓室に入り込んでしまいます。そして結核菌は、この部分にも病巣を作ることになり、これを「中耳結核」と言います。中耳結核は、最近では非常に稀になっていますが、戦前には肺結核の患者にかなりの割合で合併していたと言われています。
 中耳結核によって引き起こされる症状としては、蝸牛など内耳の部分の障害によって徐々に耳が聴こえにくくなる、「進行性感音性難聴」が典型的とされています。一方、鼓膜や鼓室内の組織も結核菌によって侵されていますから、やはり咳をした時などに、鼓膜が破れたり、鼓室内で出血が起こったりすることもあります。この場合は、突然に耳が聴こえなくなるのです。

 トシの場合は、「耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい」と言っていますから、ここでわかるのは、トシには急に「ごう」という音が聴こえたこと、そしてその音ともに、耳が全く聴こえなくなったということです。
 「ごう」と鳴ったというのは、この時に鼓膜が破れるか鼓室内で出血が起こるか、何かそういう突発的な事態が起こったということであり、そのどちらかが起こったとすれば、以後そちら側の耳は聴こえなくなってしまうでしょう。これが、トシの耳が聴こえなくなった時に起こっていた事態だと思われます。
 ただし、耳は左と右と二つありますから、「さつぱり聞けなぐなつたんちやい」となるためには、両耳ともに聴力が失われている必要があります。両側の耳で、先ほど述べたような鼓膜穿孔あるいは鼓室出血が同時に起こるということは、確率的に考えにくいですから、あらかじめ片方の耳は感音性難聴などで聴力が消失していた上に、まだ聴こえていたもう一方の耳にも、この時に突然の鼓膜穿孔か鼓室出血が起こったと考えるべきかと思います。

 さて、以上はすでに記事にしていたことのおさらいでしたが、本日ここで考えてみたいのは、冒頭の引用の19行目に記されている、「あいつは二へんうなづくやうに息をした」という部分についてです。
 先日の記事でも触れたように、この時のトシの「うなづく」動作は、賢治が彼女の天界往生への希望を託した「証し」として、作品中でも非常に重要視されています。「二へんうなづくやうに息をした」」、「けれどもたしかにうなづいた」、「たしかにあのときはうなづいたのだ」と、三度にもわたって思い返されたこの動作は、実際にはどういうものだったのでしょうか。
 その13行前では、「にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり…」と書かれているのに、ここでまた「うなづくやうに息をした」とは、いったいどういうことだったのでしょうか。

 結論から申し上げると、この時トシが「うなづくやうに息をした」というこの呼吸の仕方は、「下顎呼吸」というものだったのではないかと、私は考えています。
 「下顎呼吸」というのは、一般的には人が亡くなる間際の数分間くらいに見られる、通常とは異なった呼吸パターンのことで、「死戦期呼吸」とも呼ばれます。たとえば、読売新聞の医療サイト「yomiDr.(ヨミドクター)」の記事「「呼吸停止」が別れの時ではない」には、次のように説明されています。

 その最後の呼吸は、下顎を大きく上げることから「下顎呼吸」と呼ばれます。下顎呼吸を数分続けた後、最後の呼吸は人によってそれぞれの様態がありますが、目を僅かに開いたり、ひときわ大きく下顎を上げたりしたのち、呼吸が停止します。

 賢治は「うなづくやうに息をした」の次の行に、「白い尖つたあごや頬がゆすれて…」と書いていますが、これは上の yomiDr.の記事で「ひときわ大きく下顎を上げたりしたのち、呼吸が停止します」と書いてある現象に相当すると思われます。
 その直前にトシの耳もとで大きく叫んだ後、何かその反応がないかと懸命に見つめていた賢治にとっては、このようなトシの呼吸の様子が、「うなづくやうに息をした」と見えたとしても、何の不思議もありません。
 また賢治が、「あのきれいな眼が/なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた」と書いているのも、上の記事引用中で、「目を僅かに開いたり…」と書かれている部分に相当するのではないかと思われます。

 トシが最期に、賢治の叫んだ言葉に「うなづいた」のかどうかという切実な問題を、死期における一般的現象に還元してしまうのは、あまりにも即物的で興醒めな印象があるかもしれませんが、医学的には上記のようなことだったのではないかと、私としては思うのです。

 そうしてみると、「青森挽歌」本文中で「にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり…」と書かれている時点では、まだ本当の呼吸停止になっていたわけではないことになります。
 死期が近づいてくると、呼吸はしているかしていないかわからないほど弱々しくなり、呼吸の数も極端に減って、間隔が15秒もあくこともありますから、まだ呼吸が完全に停止していなくても、周囲の家族が「呼吸が止まった」と思ってしまうことは十分にありえます。また血圧も低下して、手首などでは脈拍も触れにくくなっていたでしょうから、「脈も打たなくなった」と思われたのでしょう。
 そして、賢治が呼ばれて駆けつけた後、顎や頬をを動かすような「下顎呼吸」に移行して、「二へんうなづくやうに息をした」ということだったのではないかと、私は推測します。

 ところで、上に引用させていただいた yomiDr.の「「呼吸停止」が別れの時ではない」という記事には、下顎呼吸の説明の後に、次のような一節があります。

反応がなくても…最期まで聞こえている
 人の耳は最期まで聞こえていると言います。ある患者さんは胃潰瘍からの大吐血で窒息し、心停止・呼吸停止を来たしましたがその後完全復活しました。彼は何と意識レベルが一番悪い状態で私と指導医が交わした会話を覚えていました。もちろんその際は何の反応もありませんでしたが、後日「聞こえていた」と私たちに伝えたのです。彼のように死の直前にあった人でも声は聞こえていたわけですから、今死にゆく方々も、たとえ反応がなかったとしても声は聞こえている可能性があると考えられます。
 また死の三徴候を確認した時点でも、人の全ての細胞が死んでいないことを考えれば、たとえ呼吸停止・心停止を来たし、ピクリともその方が動かなくても、声はまだ聞こえている可能性もあると思います。
 ただ、見た目には呼吸が止まっていると、亡くなったと思いがちですし、反応もなく動きもしなければ、一般の方も「もう声は届かない」と思いがちなのはよくわかります。

 前回の記事では、賢治の叫びは果たしてトシに聴こえたのか、それに対してトシはうなずいてくれたのかという問題を、必死になって追求しようとする賢治の姿を、作品において跡づけてみました。そこには、ドイツの生物学者ヘッケルの学説までも持ち出して、トシには確かに自分の声が聴こえていたのだと、何とかして自らを納得させようとする賢治がいました。
 しかし、上の引用記事において大津秀一医師が書いておられるところでは、たとえ本人が呼吸停止・心停止をきたした後でも、周囲の人の声は、まだ聴こえている可能性があるのです。
 もしそうであれば、賢治が「ちからいつぱい」叫んだ言葉が、実際トシの耳に聴こえていたということも、医学的にはありえるわけです。たとえ、「うなづくやうに息をした」のは臨終前の「下顎呼吸」に過ぎず、トシが意識的にうなずいたものではなかったとしても、この時のトシの耳には、賢治の言葉が届いていたかもしれないのです。
 ただ、上で大津医師が挙げられた事例ように、そのような生死の境から幸運にも生還できた方の場合には、「聴こえていた」ということが後で確認できるのに対して、トシの場合は残念ながら、そのまま帰らぬ人となってしまいました。

 結局、トシの耳に果たして賢治の言葉が聴こえたのかどうか、生きている者として確かめる手段は、何もなかったわけです。だからこそ賢治は、トシの死後にあれほど執拗なまでに、彼女との「通信」を求め続けたのかもしれません。実際のところはどうだったのか、と・・・。

 しかし、その死から11年後に、やっとあの世で賢治と再会できたトシは、今度こそしっかりと、「あの時の兄さんの言葉は、ちゃんと聴こえていたのよ」と、笑顔で伝えることができたのではないかと、そんなこともふと考えてみる次第です。

 お正月の記事では、佐藤恵子著『ヘッケルと進化の夢』という本についてご紹介しましたが、正月休みにこの本を読みながら、私はあらためて「青森挽歌」に登場する《ヘツケル博士》の意味について考えてみました。すなわち、《ヘツケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》という一節は、いったいどういう意味なのか、「そのありがたい証明」とは、いったい何の証明なのか、という問題です。

 これについては、もう10年以上も前に、「《ヘツケル博士!》への呼びかけに関する私見」という記事で、その時点での私の考えを書いてみたことがありました。当時の論旨を要約すると、「そのありがたい証明」とは、ヘッケルが提唱した「反復説」、すなわち「個体発生は系統発生を反復する」という学説の証明であり、賢治の考えでは、自分がトシと「通信」を交わすことによって仏教の「輪廻転生説」を検証することができれば、それは「輪廻転生説の科学化」とも言える「反復説」を証明することにもつながる、というものだったのではないかということでした。
 一方、今年のお正月以来私は、この箇所についてまた違った考えをするようになってきたので、今日はそのことを書いてみようと思います。

 まず、以前に「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事において、この作品を<I>から<V>までに区分した中から、ヘッケル博士の登場する<III トシの死の状況の具体的回想>の部分を、下記に掲げておきます。右側に行番号を付けていますので、以下の説明中で適宜ご参照下さい。

「青森挽歌」<III>

 作品のこの部分では、トシの臨終の様子が具体的に回想されるわけですが、ここで賢治はただ手当たり次第にその時の出来事を思い出しているのではありません。
 内容を見ていただいたらわかるとおり、86行目では耳が聞こえなくなったこと、93-95行目では目が見えなくなったということをまず確認し、97-98行目では、その後もトシはこの世の幻視や幻聴を感じたのではないか、という推測を述べています。
 つまりここで賢治は、トシの臨終前後の「感官」の状態について、意識的に記憶を整理しているのです。

 そして、このようにしてトシの感官の状態を振り返った上で、賢治が本題として持ち出すテーマは、彼が「いみじい生物の名を/ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき」に、はたしてトシがそれに対して「うなづいた」のか、という問題です。賢治はこれについて、執拗なまでに考えをめぐらします。
 すなわち、まず104行目では、「あいつは二へんうなづくやうに息をした」と、事実をそのまま記していますが、次に108行目では、「けれどもたしかにうなづいた」と、彼女が「うなづいた」ことを断定的に述べます。そして、「ヘッケル博士」への言及をはさんで119行目では、実に三度目に「たしかにあのときはうなづいたのだ」と記すのです。
 この一連の流れにおいて、「うなづいた」という言葉を畳みかけるように繰り返して、作品の声調が高まってくるところは、「青森挽歌」前半部における一つのクライマックスを形づくっていると言えるでしょう。

 そして、賢治がこれほどまでに、「トシが『うなづいた』かどうか」という問題にこだわっている理由は、この問題が、作品全体を貫くテーマであるところの「トシは天界に往生したのか?」という問題に対して、重要な意味を持っていたからだと思われます。
 すなわち、トシの「臨終正念」に関する問題です。

 「臨終正念」とは、「邪念のない正しい信仰を持って臨終を迎える」ということで、人は最期の時にこれが正しくできておれば、浄土真宗ならば浄土への往生が、日蓮系の宗派ならば天界への往生が、かなえられるという教えになっています。
 賢治が、トシの臨終に際してこの「臨終正念」をはっきりと意識していたであろうことは、早くも1976年に杉浦静氏が、「賢治文学における「死」のイメージと<臨終正念>」(『近代文学論』7号)という論文において指摘されました。
 杉浦氏は、日蓮が臨終正念について触れた書簡「妙法尼御前御返事」を引用し、人の死に際の顔色が白い場合は天に往生するのだと述べていることを、紹介しておられます。

 天台云はく「白々は天に譬ふ」と。大論に云はく「赤白端正なる者は天上を得る」云云。天台大師御臨終の記に云はく「色白し」と。玄奘三蔵御臨終を記して云はく「色白し」と。一代聖教の定むる名目に云はく「黒業は六道にとゞまり、白業は四聖となる」と。此等の文証と現証をもってかんがへて候に、此の人は天に生ぜるか。(『平成新編 日蓮大聖人御書』より)

 杉浦氏によれば、賢治が「無声慟哭」においてトシの顔貌や匂いについて記しているのも、あるいは「青森挽歌」後半部では《おいおい、あの顔いろは少し青かつたよ》とか《…あのときの眼は白かつたよ/すぐ瞑りかねてゐたよ》 などと、その顔色を中傷する「魔」の声が入るのも、賢治が「臨終正念」という観点から、トシの最期の顔の相を特に気にかけていたからです。

 ではここで、トシにおける顔の肌の色が実際にどうであったかを確かめてみると、「青森挽歌」105行目に「白く尖ったあごがゆすれて…」とあるように、幸いなことに白かったのです。
 そうであれば、日蓮の「妙法尼御前御返事」を読んでいたであろう賢治は、安心してトシの天界往生を信じてもよいはずです。ところが、それでも賢治が安心しきれなかったのは、実は日蓮自身が臨終正念において本当に重視していたのは、顔色という外面的な事柄だけでなく、心や行いにおける信仰のあり方だったからだと思われます。下記は、やはり「妙法尼御前御返事」からの引用です。

 しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととはねさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり。(『平成新編 日蓮大聖人御書』より)

 すなわち、臨終において「南無妙法蓮華経」の題目を唱えながら亡くなった者は、成仏間違いないというのです。
 もちろん賢治も、このことは強く意識していたはずで、彼が死に近いトシに題目を熱心に唱えさせていたことを、トシに看護婦としてついていた細川キヨという女性が、森荘已池氏に語っています。

 豊沢町にうつってくると、やっぱり目にみえてよくありませんでした。古い家で、陰気でしたし、その上カヤをつってびょうぶでかこいますから、とてもくらくて穴ぐらにでも入ったようなのです。賢さんはいっしょにうつってきて、二階のへやにおられました。そしてときどき二階からおりてきては、ナムメョウホウレンゲキョウ何に彼にうんぬんと大きなこえでとなえて、としさんにも寝たまま手を合わさせて、ナムメョウホウレンゲキョウととなえさせるのでした。
 私は、まったくハラハラとして気が気でありませんでした。とても弱っている病人に、あんなマネをさせてはよくないと思ったのです。うしろから、小指でつついただけで、つんのめってしまって倒れるような病人があるものです。としさんはそれと同じことです。でも信仰のためなら、それもしかたのないことだろうと思って黙っておりました。お父さんお母さんとちがう信仰に一生けんめいなのですから、付添いの私なんか何かいえる筋合いのものでもありませんでした。(森荘已池『宮沢賢治と三人の女性』より)

 このように、衰弱したトシに相当の無理をさせながらも、「南無妙法蓮華経」を唱えさせ続けていた賢治でしたが、しかし彼女のまさに最期の場面においては、題目を唱えさせることができなかったのだろうと思われます。
 もしも、トシが臨終に際して唱題を行ったとすれば、賢治はその事実を「青森挽歌」の上掲の部分に記さないはずはありません。ところが、テキストにはそのようなことは何も書かれておらず、それに作品中の記述を読めば、賢治は実際のところトシの呼吸と脈が止まってしまってから後に、その枕元へ「はしつて行つた」のです。

にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた

 愛する妹の死の瞬間、すなわち「呼吸がとまり脈がうたなくな」ったまさにその時点に立ち会えなかったことは、賢治にとっては悔やんでも悔やみきれないことだったろうと思います。
 賢治が駆けつけた時、もはや意識を失ったトシに、自ら題目を唱えさせることは不可能でした。

 そして、その時に賢治がとった行動は、トシの「耳もとで」、「万象同帰のそのいみじい生物の名を/ちからいつぱいちからいつぱい叫」ぶということでした。私が思うには、賢治のこの行動は、「本人自身が題目を唱えつつ臨終を迎える」という、臨終正念のための最善の方法を実行できなかったため、それに代わる次善の策として、行われたものだったのではないでしょうか。
 先日、「万象同帰のそのいみじい生物の名」と題した記事において私は、この時に賢治が叫んだのは「生物の名」であるということから、日蓮の描いた「本尊」に記されている諸仏や諸菩薩の名前ではないかと推測してみました。後で触れる日寛の「臨終用心抄」の中で、臨終の際には「本尊と我と一躰也と思惟して…」ということを重視していることにもよります。しかし本日の議論においては、これは鈴木健司氏らが考えておられるように、賢治が叫んだのは「南無妙法蓮華経」だったと考えても、同じことです。
 いずれにせよ賢治はこの時、トシの天界往生を助けようとして、とにかくそのために効力があるとされる言葉を、力の限りに叫んだのだと思います。


 しかし、たとえそれがいくら偉大な力を持った言葉だったとしても、まだ賢治にとっては問題が残ります。
 すでに少し前に耳が聞こえなくなり、そして今や呼吸も脈も止まってしまい、明らかに「死」の境を越えてしまったように見えるトシ(の遺体)に対して、今さら言葉を聴かせてやることに、果たして意味はあるのでしょうか?

 この問題に関しては、「万象同帰のそのいみじい生物の名」でも引用した日寛の「臨終用心抄」という文書に、賢治にとっては一縷の望みが記されています。

一、唯今と見る時本尊を病人の目の前に向へ耳のそばへより臨終唯今也、祖師御迎ひに来り給ふ可し、南無妙法蓮華経と唱へ給へとて病人の息に合せて速からず遅からず唱題すべし、已に絶へ切つても一時ばかり耳へ唱へ入る可し、死ても底心あり或は魂去りやらず死骸に唱題の声聞かすれば悪趣に生るる事無し。

 すなわち、命が「已(すで)に絶へ切つても」、題目を「一時ばかり耳へ唱へ入る可し」ということを、日寛は推奨しているのです。何となれば、「死ても底心あり或は魂去りやらず」とのことで、人間は死んでもその深い奥底には「底心」というものがあり、魂はまだ去らないのだというのです。そして、「死骸に唱題の声聞かすれば悪趣に生るる事無し」とも述べて、死んでからでも唱題を聞かせれば、「悪趣」(=地獄・餓鬼・畜生)に転生することはないと、保証してくれています。
 この、「已に絶へ切つても…耳へ唱へ入る」という行為こそ、まさにトシの息が絶えた後に賢治が行った、「その耳もとで…ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」という行為そのものであり、この箇所は、彼がとった行為の有効性を、根拠づけてくれるものだと思います。

 「青森挽歌」のテキストでは、上掲の<III トシの死の状況の具体的回想>の後半部のほとんど、すなわち120行目から139行目までずっと、臨終後のトシに日寛の言う「底心」が存在したということを、何とかして確かめようとする賢治の思索が、縷々記されています。
 すなわち、「わたくしたちが死んだといつて泣いたあと/とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ/ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで/ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない」とか、「たしかにとし子はあのあけがたは/まだこの世かいのゆめのなかにゐて/落葉の風につみかさねられた/野はらをひとりあるきながら/ほかのひとのことのやうにつぶやいてゐたのだ」という箇所などがそうです。
 このように、死後のトシにも「底心」が残っていて、「魂」の活動がまだかすかにでも続いていたのだとすれば、賢治が耳もとで「ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」ことにも、何らかの意味があったことになるわけです。


 さてこのように考えれば、賢治はトシの臨終への遅刻を挽回して、彼女の天界往生を助ける行為ができたのではないかと思われるのですが、しかしご存じのように賢治という人は、上記ような教えを信ずる「宗教者」としての側面とはまた別に、「科学者」としての側面も兼ね備えていました。科学者として合理的に考えてみると、日寛が言うような理屈は、かなり危ういものにも感じられます。
 科学者・賢治は、ここでまだトシの天界往生を安心して信ずるまでには、至らなかったかもしれません

 ところがここに、「生」と「死」を隔てる深い溝を強引にも乗『生命之不可思議』り越えて、生物と無生物、あるいは有機体と無機体というものは、本来はシームレスに繋がっており、両者は連続しているのだという説を唱えた科学者がいました。
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、その大胆な「一元論」によって一世を風靡したドイツの生物学者、エルンスト・ヘッケルです。

 生前の賢治は、ヘッケルの代表的著作の“Die Lebenswunder”(邦訳『生命の不可思議』)を、原書で持っていました。
 下記は、『生命之不可思議』上巻(大日本文明協会事務所刊,1915)の、「第十三章 感覚」の一部です。

 有機体を分析する時、無機自然物体に発見せられざる原素を見ることなし。吾人は有機体の運動は、無機体と同じく重学の法則に従ふを見る、又、吾人は生活物質に於ける力の変化、即ちエネルギー代謝は、無機物に於けると同様に生じ且同じ刺激に依りて惹起せらるゝを信ず。以上の経験よりして、吾人は『刺激の知覚』(客観的意味に於ける感覚、及び主観的意味に於ける感情)も一般に両者に存在すると結論せざるべからず。総ての自然物体は、或意味に於て悉く『感覚を有す』。一元論が『死せる』物の一部を無感覚と認むる唯物論的解釈と相異する点は、物質に対する此のエネルギー説的理解に存す。

 すなわち、ヘッケルが提唱した「一元論」に立てば、「死せる物」も、生物と程度こそ違え、「感覚を有す」のです。このように、生物と無生物を連続した存在としてとらえる考え方は、やはり同様のアニミズム的な感性を持っていた賢治にとっては、共感するところも多かったのではないでしょうか。
 そして、もしもヘッケルが言うように「生ける者」と「死せる物」の活動(エネルギー代謝)が連続しているのならば、ついさっきまで生きていたトシが息絶えた後にも、何らかの「感覚」があり、それ相応の「意識」があっても、おかしくないように思えます。

 さて、ここでついに問題の箇所に到達しました。「青森挽歌」109-111行目に出てくる、《ヘツケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》という言葉の意味するところは、このようなヘッケルの考え(=一元論)のことであり、これが真実であるということを確認することこそが、「そのありがたい証明」なのではないかと、私は考えるのです。

 本文中でこの言葉は、臨終直後のトシが賢治の叫びに応えて、「二へんうなづくやうに息をした」(104行目)、「けれどもたしかにうなづいた」(108行目)と続き、彼女の感覚や運動がまだ保たれていたと信ずる気持ちが、頂点まで高まった瞬間に現れます。そしてこの言葉のさらに少し後で、賢治は三たび「たしかにあのときはうなづいたのだ」(119行目)と繰り返すのです。
 すなわち、このテキストの構造からすると、ヘッケルの「ありがたい証明」とは、「賢治の声がトシに届き、トシはそれにうなずいたに違いない」という問題の、ど真ん中に関わっているはずです。そして、ヘッケルの「証明」を上記のように理解すれば、これは上記の問題の解決につながるのです。

 もしもトシからの「通信」が得られて、あの時たしかに彼女は「うなづいた」のだということが確認できれば、それはヘッケルが言うところの「無機体も感覚を有す」という説の「証明」にもなると賢治は考えたのではないか、これがこの箇所に関する私の解釈です。
 そして、114-118行目の、(宗谷海峡を越える晩は/わたくしは夜どほし甲板に立ち/あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり/からだはけがれたねがひに みたし/そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)という箇所に描かれている賢治の決意は、この「挑戦」によってトシとの「通信」を実現しようということだと考えます。

 ただ、このように自分の妹の天界往生を確信するという目的のために、ヘッケルの説の「証明」をしようというのは、賢治の倫理観からするとあまりに利己的な動機にもとづいたものと言えるでしょう。このヘッケル博士に対する呼びかけが、「凍らすやうなあんな卑怯な叫び声」という風に否定的に位置づけられているのはこのためでしょうし、また宗谷海峡での挑戦の動機が、「けがれたねがひ」と表現されているのも、同じ理由によると思われます。
 作品の最後で、《けつしてひとりをいのつてはいけない》として現れる言葉の伏線が、すでにここにあるとも言えます。

 ところで、この《ヘツケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》という言葉は、二重括弧《 》で括られていますから、「「青森挽歌」の構造について(1)」で述べたように、これは賢治の潜在意識の底から発せられ、彼にとっては「幻聴」として体験された言葉と思われます。
 賢治としては、臨終のトシが自分の叫んだ言葉にうなずいてくれたと信じたい、そしてその天界往生を信じたい、という願望が非常に強かった一方で、そんなに自分の妹の幸せばかりを祈ってはいけないとして、そういう思いを抱くことに対する内的な禁止・抑圧も、また強かったのだろうと思います。このように、自分の心の中に激しい二律背反が存在する時に、一方を自我から切り離して(=解離)自分の外部に投影し、あたかも外から声が聴こえるような体験が起こるということがあります。
 これが、この《ヘツケル博士!…》という言葉が、この時の賢治にとっては「幻聴」として感じられたことの原因だったのだろうと、私は思っています。

 以上のような、賢治が「青森挽歌」において抱えていた問題群と、その解決のための典拠を図にすると、下記のようになります。

「青森挽歌」の問題群

 トシの天界往生の問題は、右側の様々な論拠を参照しつつ段々と下の問題に置き換えられていき、最下段でヘッケルが説くように無機体にも感覚があるのか、という問題に行き着きます。
 もしもこのヘッケルの学説が「証明」できれば、今度は左側を段々と昇って、まずこれは臨終直後のトシが賢治の声を知覚できたことの尤もらしい説明となり、次にそれはトシが「うなづいた」ことを根拠づけ、すると臨終時のトシは「本尊」(または「題目」)と一体であったことになり、これはすなわち「臨終正念」ということであり、最後にトシは天界往生したという結論が導かれる、というわけです。

 なお、右側に並べている論拠のうち、日蓮の書簡とヘッケルの著書は、確かに賢治は読んでいたと思われるのですが、日寛の「臨終用心抄」という文献は、日蓮系の教団においては重要なもののようですが、賢治が読んでいたという証拠は何もありません。
 ただ、ちょうど「幾何」の問題を解く際に適当な「補助線」を引いてやると筋道がきれいに見えてくるように、「青森挽歌」が孕んでいる数々の謎に対して、この「臨終用心抄」という足場を置くと、全体が論理的に繋がるように見えてくるのです。

 最後に、上の図を動画にしてみたものを下に載せておきます。「青森挽歌」の前半部において、賢治の心の底にあった理屈の流れを表そうとしたものです。

「青森挽歌」前半部のフローチャート

 トシの死の翌年のサハリン旅行における最後の作品が、「噴火湾(ノクターン)」です。
 この作品における賢治は、噴火湾(内浦湾)に沿って走る列車に乗って、車窓から夜明けの景色を眺めていますが、心の中はやはりトシのことでいっぱいです。
 詩の最後、すなわちこの悲しみの旅における賢治の最後の言葉は、次のように結ばれます。

噴火湾のこの黎明の水明り
室蘭通ひの汽船には
二つの赤い灯がともり
東の天末は濁つた孔雀石の縞
黒く立つものは樺の木と楊の木
駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
  (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 北の最果てへの旅を終えようとするこの時にも、やはり悲しみに沈む賢治の心は癒えていなかったということが、ここに如実に表れています。
 ちなみに、この箇所で「室蘭通ひの汽船」の二つの灯火が見えていることから、以前に私は「噴火湾で列車から汽船を見る」という記事において、賢治が乗っていたのは「急行2列車」で、これはおそらく午前4時14分頃のことであり、場所は「野田追」駅と「落部」駅の中間で、列車が海岸沿いに出たあたりではないかと推測してみたことがありました。
 しかし、今日取り上げるのはそこではなくて、作品の中ほどあたりの、次の箇所です。

一千九百二十三年の
とし子はやさしく眼をみひらいて
透明薔薇の身熱から
青い林をかんがへてゐる
フアゴツトの声が前方にし
Funeral march があやしくいままたはじまり出す

 ここに出てくる'Funeral march'とは、「葬送行進曲」のことです。もちろん、賢治のイメージにあるのは、前年のトシの「葬送」でしょう。
 花巻に帰った後の8月31日に書かれた「雲とはんのき」にも、「これら葬送行進曲の層雲の底・・・」という言葉が出てきますから、この時期の賢治の心象風景の BGM としては、ずっと何らかの Funeral march=葬送行進曲が、鳴り続けていたのでしょう。
 ところで、この「葬送行進曲」という言葉が、たんに象徴的な意味で使われているのではなくて、賢治にとって何かある特定の曲を指しているという可能性は、彼がクラシックレコードの蒐集家であったことを思えば、十分にありうることです。「フアゴツトの声が前方にし/Funeral march があやしくいままたはじまり出す」という描写の具体性も、ここで賢治の心の中には、実際にメロディーが流れていたのではないかと思わせます。

 そして、『宮澤賢治の聴いたクラシック』(小学館)の著者の萩谷由喜子氏も、そのように考えられたようです。

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 この本は、賢治とクラシック音楽の関わりについての詳しい解説とともに、当時のSPレコードから復刻した珍しいCDが2枚も付いているという素晴らしいものです。
 そのCDには、「噴火湾(ノクターン)」に登場する'Funeral march'の推定曲として、ベートーヴェンのピアノソナタ第12番「葬送」第3楽章の吹奏楽編曲版が収録されていて、本文p.72には次のような解説が付けられています。

賢治の心象スケッチ『春と修羅』には『オホーツク挽歌』として一挙収載された5編の口語詩がある。その5編は大正11年11月27日に24歳で世を去った最愛の妹トシを悼む一連の挽歌だが、その最終詩『噴火湾(ノクターン)』に「ファゴツトの聲が前方にしFuneral march があやしくいままたはじまり出す」という詩句がある。「ファゴツトの聲が前方にし」というヒントから、詩の中の「Funeral march」をピアノ・ソナタ第12番の第3楽章のバンド演奏盤と推定し、ヴェルセラ・イタリアン・バンドの録音を収録した。

 実際、ベートーヴェンのピアノソナタ第12番第3楽章は、作曲者によって'MARCIA FUNEBRE'と題されている、クラシック音楽の中でも代表的な葬送行進曲の一つです。ここに収録されているその吹奏楽編曲版は、CDとして世界初復刻ということでとても貴重なものなのですが、ただ私としては、これを「噴火湾(ノクターン)」の'Funeral march'だと推定するには、少なくとも次のような2つの問題点があるように思うのです。

 問題の一つは、確かにこの吹奏楽編曲にはファゴットも使われているようですが、低音部は常に金管楽器とユニゾンで重ねられており、「ファゴットの音色だけ」が聴こえるような箇所は、ほとんど存在しないのです。したがって、まず「フアゴツトの声が前方にし」て、次いで「Funeral march があやしくいままたはじまり出す」という、作品中の描写と具体的に対応するような部分は、この演奏には出てきません。
 一方、「フアゴットの声」とか、「いままた・・・はじまり出す」とかいうこの箇所の賢治の描写は非常に具体的ですので、私にはどうしても、これは実際の音楽の進行と対応しているのではないかと感じられるのです。

 問題点のもう一つは、この吹奏楽編曲版のベートーヴェンのピアノソナタ第12番第3楽章のSPレコードを、生前の賢治が聴いていたという証拠がないことです。
 賢治が実際にどんなレコードを聴いていたのかということについては、(1)賢治が遺品として残したレコード、(2)賢治が友人に贈ったレコード、(3)羅須地人協会時代に作った「レコード交換用紙」に賢治自身が記載したレコード、(4)友人等によるよる証言、という形で知ることができますが、このいずれにも、上記のレコードは含まれていないのです。もちろん、ここに含まれていないからと言って、賢治がこれを持っていた、あるいは聴いたことがあったという可能性を否定することはできませんが、この説をとるためには、そういう一つの「仮定」を追加する必要が出てくるわけです。

 これに対して私自身の考えは、「噴火湾(ノクターン)」における'Funeral march'とは、同じベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の第2楽章なのではないか、というものです。
 この楽章も、作曲者自身によって、'Marcia funebre'(=葬送行進曲)と、イタリア語でタイトルが付けられています(下図)。

ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章冒頭

 そして、生前の賢治がこの曲を実際に聴いていたことを、親交の深かった斎藤宗次郎氏が書き記しています。下記は、『四次元』第二巻第九号(昭和25年10月)に収載された斎藤宗次郎「懐しき親好」の一部です。(『宮澤賢治研究資料集成』第7巻p.214)

 何時の頃か忘れたが、賢治さんが始めて蓄音機を求めた時、私は妻とと共に賢治さんに招かれ、二階の広い室の一隅で父君と四人頭を聚めて色々のレコードを聴いたことがある。此頃の賢治さんは、音楽に対する興味其観賞の力が大いに進んで居られたであろう。名曲に魅せらるる様子は感心の至りであった。其後私も蓄音機を求めたので、賢治さんはベートーヴエンのクロイツエルソナタや第三第七交響楽などのレコードを借りに見えたこともあり、時には令弟を伴つて来て、私の求康堂の店頭に腰を下し、ヘンデル・シユーベルト・チヤイコフスキー・シヤリアピンなどのレコードを聴き楽んで帰られたこともあつた。

 すなわち、上の分け方で言えば「(4)友人等による証言」によって立証されるわけですが、賢治はベートーヴェン交響曲第3番のレコードを、少なくとも斎藤宗次郎に借りて聴いていたことは、確かなのです。

 すると次の課題は、「フアゴツトの声が前方にし/Funeral march があやしくいままたはじまり出す」というように音楽が進行する箇所が、この曲に実際に存在するのかということです。
 結論から言えば、それは第2楽章の43小節目から始まるファゴットのソロに導かれて、やがて50小節目からオーボエによる第一主題(すなわち葬送行進曲の主題)が現れるところだろうと、私は考えています。
 下に、その箇所の楽譜を引用します。

ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章2

ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章3

ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章4

 上の1頁目および2頁目で、赤い色を付けてあるところが、「フアゴツトの声が前方にし」に相当する部分です。1頁目の最後の2小節からファゴットのソロが始まり、これは2小節後からは他の木管楽器と重ねられますが、さらにその2小節後には、六度の音程でクラリネットと美しく絡みます。
 そして、2頁目の最後の青い色を付けたところから、オーボエに第一主題(葬送行進曲の主題)が再び現れ、3頁目へと続きます。つまり、ここが「Funeral march があやしくいままたはじまり出す」に相当するのです。(以上、引用楽譜はいずれも全音楽譜出版社のポケットスコアによります。)

 音楽の流れとしてはこうなっているのですが、楽譜で見ていただくよりも「百見は一聞に如かず」ということで、この箇所の実際の演奏をお聴きいただきましょう。
 下の演奏は、カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団による、「ベルリンフィルハーモニー創立100周年記念演奏会」(1982)のライブです。第2楽章が始まる直前(15:47)から再生されるように設定してありますが、問題のファゴットのソロは、18:36から始まります。

 この18:36から、ファゴット高音域の、独特の哀愁を帯びた調子で推移的な旋律が奏でられ、そこにフルートや他の木管が加わり、一瞬クラリネットだけが残って、またファゴットが繊細に寄り添います。
 そして19:05からは、オーボエが再び第一主題を奏で始めます。上記一連の少し前の18:12には、オーボエで流麗な長調の第二主題が導入され、いったん曲想が転換した後ですから、この19:05にて再び短調の第一主題が現れた時の印象は、まさに「Funeral march があやしくいままたはじまり出す」という表現が、絶妙に当てはまる感じがします。

 以上、これは賢治が実際に聴いていた曲であること、また上のように作品中の描写と美しく対応している箇所が存在していることから、私としてはこれこそが、「フアゴツトの声が前方にし/Funeral march があやしくいままたはじまり出す」という部分だろうと、自分では深く納得している次第です。

 余談ながら、上のベルリン・フィルのライブにおいて、オーボエの首席を務めているのはローター・コッホ、クラリネットはカール・ライスター、そしてファゴットはギュンター・ピースクという面々であり、私としてはベルリン・フィルの木管セクションを「超人集団」として崇拝していた学生時代を思い出す、懐かしい演奏です。
 カラヤンによる端整な造型、弦楽器の圧倒的な力量とも相まって、これはベートーヴェン「英雄」の歴史的名演の一つとも言える記録ではないかと、今回YouTubeで視聴して感じました。

「宗谷挽歌」と歎異抄

 十代半ばまでの宮澤賢治は、家の宗派であった浄土真宗を深く信仰していて、16歳の時には父あての書簡の中で、「小生はすでに道を得侯。歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し侯。」(書簡6)という宣言までしていました。3歳頃には、「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦していたという逸話が残っている賢治ですが、きっと「歎異抄」にも馴れ親しんでいたことでしょう。
 そんな賢治が、少なくとも1918年2月には、浄土真宗から離れて完全に法華経にはまり込んでいたことが、父あての「書簡44」や「書簡46」から見てとれます。そして、死の当日に父に伝えたという遺言も、「国訳妙法蓮華経を千部作って配って下さい」というものでしたから、その信仰は死ぬまで変わらなかったと言えるでしょう。

 しかし、このように法華経や日蓮に深く帰依し続けていた賢治の信仰心や思想に、実は「浄土真宗的」な要素が分かちがたく結びついていたということを、松岡利夫著『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』という本は詳しく分析してみせてくれていますし、私自身も以前に「けつしてひとりをいのつてはいけない」という記事などで触れました。
 上記の私の記事で取り上げたのは、「青森挽歌」に突如として出現する《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という命題は、「歎異抄」において親鸞が言ったとされる、次の言葉をルーツに持っているのではないか、ということでした。

 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。
 そのゆへは、一切の有情は、みなもつて世々生々の父母兄弟なり、いづれもいづれも、この順次生に、佛になりて、たすけさふらうべきなり。                   (『歎異抄』第五条より)

 すなわち、親鸞は父母への孝行のために念仏を唱えたことは一度もない、なぜなら一切の生き物は皆、輪廻転生のうちには自分の父母兄弟だったこともある存在なので、この次の生で(自分が死んで浄土に生まれて)仏になってから、あらためて皆をお救いするべきだからだ、というのです。
 ここで親鸞は、父母兄弟のことを「いのつてはいけない」と禁止まではしていませんが、少なくともそれは無意味なことだと見なしています。現代の浄土真宗は、おそらくここまで潔癖な態度はとっておらず、他の宗派と同じように亡くなった方のための「法事」も執り行っているのでしょうが、この親鸞の言葉は今の日本人の感性とは一線を画しているので、とても印象的です。

 一方、賢治がこの頃も信じていたはずの日蓮は、近親者を亡くした遺族が故人の死後の幸いを祈るのは当然のことであり、またそれは善いことでもあると言い、大いに行うよう積極的に勧めていました。ですから、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という命題は、日蓮の考えとは異なっているのです。
 前掲の松岡利夫著『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』によれば、日蓮にも「六道四生の一切衆生は皆父母也」という言葉があり(「法蓮抄」)、やはりすべての生き物が父母であったということは述べていますが、賢治は「みんなむかしからのきやうだい」と書いているところを、日蓮は「父母」だけを挙げているのに対して、親鸞は上記のように「父母兄弟」としています。したがって松岡利夫氏は、「青森挽歌」のこの箇所は日蓮ではなく親鸞の影響を受けたものであろうと、推断しておられます。

 そして今日ふと思ったのは、「青森挽歌」の翌日に書かれた「宗谷挽歌」の、次の箇所についてです。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 詩の前半部によれば、稚内からサハリンへ向かう連絡船の甲板に立っている賢治は、もしもトシがどこからか自分を呼ぶ声が聞こえたら、「私はもちろん落ちて行く」という決心を固めています。
 何のためにトシが賢治を呼ぶのかというと、トシが死んだ結果、「われわれが信じわれわれが行かうとするみち」、すなわち法華経が、「まちがひ」であったと判明したならば、その事実を「まっすぐにやって来て/知らせて呉れ」というわけです。
 この理屈に立つならば、トシが賢治のもとにやって来て再会すること、あるいは会えないまでも二人で通信をかわすことは、「ひとりをいのる」行為に伴うものではなく、現世で法華経を信仰している人すべてにその誤りを伝えるための行いであり、すなわち「みんなのほんたうの幸福を求めて」の行為なのですから、「青森挽歌」でもたらされた上記の啓示には違反しません。

 しかし、この「理屈」を皆さんはどう評価されるでしょう。確かに、一応の筋は通っていますが、でもその理屈の皮を一枚めくれば、とにかくトシと会いたい、声を聞きたい、という肉親の愛情に基づいた賢治の本心が、ありありと見えてしまうように、私には感じられます。「ひとりをいのつてはいけない」との制約を自らに課しながら、それでもなおトシと会いたい一心で構築した、綱渡りのごとき論理のように、私には思えるのです。

 いずれにせよ、もしもトシが、夜の船上にいる賢治にそのようなことを知らせてくれたら、賢治は「もちろん落ちて行く」という覚悟を決めていて、そして海中に沈む賢治とトシの二人=「私たち」は、「このまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、自らに言い聞かせています。

 私がふと感じたのは、この「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」という箇所は、これも「歎異抄」の次の部分と、どこか似ているのではないか、ということです。

 念仏は、まことに、浄土にむまるるたねにてははんべらん、また、地獄におつべき業にてははんべるらん。惣じてもって存知せざるなり。たとひ、法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。 (『歎異抄』第二条より)

 念仏というものが、浄土に生まれる契機になるのか地獄に落ちる罪業になるのか知らないが、たとえ法然上人に騙されて地獄に落ちたとしても、何ら後悔すべきではない、と親鸞は言うのです。

 賢治が封ぜられるのは、まずは「このまっくらな海」ですが、地獄にいて苦しんでいるトシのもとに行くのですから、最終的にはやはり地獄です。そして、地獄に落ちる理由は、賢治とトシも、法然と親鸞も、どちらも「信仰が間違っていたから」ということで共通しています。
 後悔すべきでない理由は、賢治の場合は「みんなの幸福」のためだから、親鸞の場合は「他に方法がないから」、ということで異なっていますが、トシと再会できる賢治と同様に、きっと親鸞は地獄で法然に会えるでしょう。
 親鸞が法然から直に教えを受けられたのはわずか6年のことで、承元元年に法然は讃岐へ、親鸞は越後へと流罪になり、これが二人の今生の別れとなりました。「歎異抄」では上の箇所に続いて、「地獄は一定すみかぞかし」という有名な一節が出てきますが、トシのもとへ行く賢治と同じく親鸞にとっても、「お慕いする法然上人と一緒なら、たとえ地獄でも・・・」という気持ちがあったのかもしれません。

 ということで、この二つの状況にはある種の共通点を感じ、私としては「青森挽歌」のみならず翌日の「宗谷挽歌」においても、賢治の深層意識からは、むかし親しんだ「歎異抄」の思想や言葉が、思わずにじみ出てきていたのではないか、という気がするのです。

対馬丸
「宗谷挽歌」において賢治が乗船していたと推測される「対馬丸」
(萩原昌好著『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」への旅』より)

トシとアイスクリーム

 去る9月23日に岩手県普代村で行われた、「『敗れし少年の歌へる』詩碑建立十周年記念式典」と、「『発動機船一』詩碑建立除幕式典」という催しに参加するために、花巻の阿部さんの車に乗せていただいて、23日から24日にかけて花巻から普代まで片道4時間を往復しました。
 途中で通過した北三陸の野田村には、同村特産の「野田塩」と牛乳を使用した、「のだ塩アイス」という名物があります。これは、先日「アイスクリームの製法」という記事においてふと想像してしまったような、まさに「塩味のアイスクリーム」なのです。

のだ塩アイス

 そんなことから連想して、トシとアイスクリームのことについて車の中で阿部さんとしばらく話をしていたのですが、その際に阿部さんが、やはりアイスクリームに関して貴重なエピソードを教えて下さいました。

 賢治の時代に、花巻に「精養軒」という西洋料理店があって、賢治もしばしば通っていたことは、よく知られています。その精養軒の創始者の長男さんが、阿部さんに語ってくれたというお話です。
 長男さんによれば、トシが花巻で療養していた時期に、宮澤家から精養軒に対して、「トシに食べさせるため」ということで何度かアイスクリームの注文があったのだそうです。当時まだ子供だった精養軒の長男さんは、その注文に応じて作られたアイスクリームが店の器の底に少し残っているのを、思わず指ですくってなめた記憶があり、その美味しさはずっと忘れられなかったというのです。

 あるいは、佐藤隆房著『宮沢賢治 ―素顔のわが友―』(冨山房)には、次のような箇所があります。

 病臥一年、大正十一年の夏となり、町家の暑気は病人には殊更たえがたい様子なので、七月のある日、とし子さんを町の南郊桜の宮沢家の寮(後に賢治さんが羅須地人協会をおいたところ)に移しました。
 その頃、ようやく町に出来た精養軒という洋食屋からアイスクリームを買って、自転車に乗らない賢治さんが、炎天の下を溶けるのを気にしながら走った姿も目に残ります。(p.101)

 つまり、賢治がトシにアイスクリームを食べさせるというエピソードは、前回記した東京の永楽病院から始まり、花巻精養軒のアイスクリームを経て、臨終の床の「みぞれ」に至り、そして最後には「天上のアイスクリーム」への祈りと昇華されるというわけです。

 当時アイスクリームというのは、高級レストランの息子でも普段は口にできない珍しい食べ物だったのでしょうが、家族がここまでしてトシに食べさせてやっているところからすると、彼女の好物だったのではないでしょうか。トシは、東京で女子大学生としての生活を経験していましたから、永楽病院に入院するまでに、すでにアイスクリームとの出会いがあったのかもしれません。

アイスクリームの製法

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 1919年(大正8年)1月6日に賢治が書いた「書簡105」は、日本女子大学在学中に東京で病に倒れたトシを看病しながら、その病状を父親に報告するために、毎日のように出していた手紙の1枚です。

[105] 1919年1月6日 宮澤政次郎あて 封書
(表)巌手県花巻川口町豊沢町 宮澤政次郎様 平信
(裏)一月六日 東京市小石川区雑司ケ谷町一三〇 雲台館 宮澤賢治拝(封印)〆

拝啓
一昨日及昨日の手紙にて折角御心配の御事と存じ候 然るに昨夜は体温も三十八度二分食慾無く渇き甚しき様には御座候へども元気変りなく医師より許可を得て、《蓋ろ重湯の代りとして》アイスクリームを食し候。右牛乳、卵、塩等は差し入れ、氷及器械は病院の品を用ひ附添の者之を作り今後も毎日之を取るべく候。
外に苹果を折角望み候へども、蓮根水と共に之は尚許可を得る迄に至らず候。
今度は又熱上る様の事なく順調に回復致すべく候間御心配被下間敷候。
宅にてはどなたも変り御座無く候や 又本日寄せ書きの葉書到着難有御礼有之候。
旧歳末の繁忙中、永々と滞在誠に恐れ入り候。太郎さん清六の英語等は今度は仕方無之候。皆様にも宜しく御礼奉願候
                                       敬具
   大正八年一月六日                      賢治拝
 父上様

 文中に出てくる、賢治がトシにアイスクリームを作って食べさせたというエピソードが、臨終の間際のトシのためにやはり賢治がみぞれを取ってきて食べさせる、「永訣の朝」の一場面につながるという意味で 、印象的な書簡です。「食慾無く渇き甚しき」というトシの状態に対して、賢治が何とかしてやりたいと苦心した結果なのでしょう。
 「今後も毎日之を取るべく候」とありますから、一時期のトシは、毎日アイスクリームを食べていたと思われます。3年後に彼女が、兄への最後の頼みとして、(あめゆじゆとてちてけんじや)と言った背景には、きっと東京の永楽病院で食べさせてもらったこのアイスクリームの記憶があったに違いありません。
 そして賢治もそれをわかった上で、「どうかこれが天上のアイスクリームになつて・・・」と祈ったのでしょう。
 (この書簡は、11月29日に行う「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」でも、取り上げる予定です。)

 ところで、この手作りのアイスクリームに関して、「右牛乳、卵、塩等は差し入れ、氷及器械は病院の品を用ひ・・・」と記述がありますが、材料の「牛乳、卵」はよいとして、「塩」とあるのがちょっと不思議です。
 「重湯の代りとして」と書いてあるところを見ると、これはひょっとして「塩味のアイスクリーム」だったのだろうか?などとも考えたりしましたが、その製造方法について考えてみると、答えがわかりました。

 下の画像は、1888年(明治21年)に出版された、『軽便西洋料理指南』(洋食庖人著)という本の、「アイスクリーム(氷菓子)の製法」という項目です。国会図書館デジタルコレクションに収められている中では、最も古いアイスクリームの作り方でした。

アイスクリームの製法

 材料は、牛乳と砂糖と卵の黄身で、凍らす前に鍋で熱を加え、「レモン汁少し」を落としています。
 そしてこれを「ブリキ製の筒」に入れて凍らすのですが、その凍らせ方というのが、「深き桶に入れて筒の周囲に氷塊に鹽(しお)澤山交ぜたるものを入れブリキ筒を廻すべし」というのです。つまり、氷に塩を混ぜ合わせることによって起こる「凝固点降下」を利用しているわけですね。
 氷に塩を混ぜると温度が下がるというのは、皆さんも小学校の理科の実験で経験されたのではないかと思いますが、理論的にはこの方法によって-21.3℃まで下がるのだそうです。

 ということで、賢治がトシに食べさせたアイスクリームの製法も、おそらくこれだったのでしょう。材料の「牛乳、卵、塩等」とある「塩」は、「氷及器械は病院の品を用ひ・・・」の「氷」とともに、冷却用だったということになります。

 ちなみに、なぜ氷に塩をかけると温度が下がるのかというと、氷の表面には少量ながら液体状態(=過冷却)の水の層があって、ここに塩が溶け込んでできた食塩水は「凝固点降下」のために零度以下でも凍らないために、氷を構成している水分子は、徐々に液化して食塩水の方へ移行していきます。(氷表面の過冷却の水の層が食塩水となってしまうために、平衡を保とうと氷から新たな過冷却水がどんどん供給されていくのです。)この際に、固体の氷⇒液体の水という状態変化に伴って熱が吸収されるので、どんどん温度が下がっていくわけです。
 「過冷却の水」という独特の緊張をはらんだ状態は、化学オタクの賢治もお気に入りだったようで、「阿耨達池幻想曲」や「インドラの網」に出てきますが、この状態のおかげで、筒の中ではアイスクリームができあがるのです。

「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐ行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。」

 「銀河鉄道の夜」初期形第三次稿の終わり近くのこの箇所で、黒い大きな帽子をかぶった人が言う「みんながカムパネルラだ」という言葉の意味は、どのように解釈したらよいのでしょうか。
 一般的な理解としては、「お前が出会う人はみんな、長い長い輪廻転生のうちには、一度はお前の親きょうだいや親友だった人ばかりなのだから、お前がカムパネルラを大切に思うならば、お前はそれと同じ気持ちで、すべての人の幸いを探していかなければならない」ということになるでしょうか。
 このように解釈すれば、これは倫理的な観点から、「人はこうあるべきだ」という「当為」を述べた命題だということになります。

 一方、私は最近「千の風になって」という記事にも書いたように、トシの死後に賢治がその死をどのように受けとめていったのだろうかということについて考えるうちに、上記のような理解とはまた別のとらえ方について、いろいろ思うようになりました。
 それは、上のように「当為」として人が意識的に引き受けるというのではなくて、それはある意味では「現実」なのだという、一種の「気づき」に関わるものです。

 そのような「気づき」は、たとえばいつも取り上げる「薤露青」にも、現れています。

声のいゝ製糸場の工女たちが
わたくしをあざけるやうに歌って行けば
そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が
たしかに二つも入ってゐる
  ・・・・・・あの力いっぱいに
       細い弱いのどからうたふ女の声だ・・・・・・

 ここで賢治は、製糸場の工女たちのざわめきを聴きながら、彼女たちのまぶしい声の中に、妹トシの声が「二つも入ってゐる」のに驚きます。
 ふと気がつくと、まるで「みんながトシ」なのです。

 以前の私は、この箇所で工女たちが「わたくしをあざけるやうに歌って」行くということから、ここには賢治の孤独感や、いつまでも悩み続けている自分への情けなさが投影されていて、つまりこれは賢治の悲しみを表しているのかと思っていました。
 しかし、その「あざけるやう」な声の中に、愛する妹の声も入っていることに注目するならば、この「あざけり」を単純にネガティブな意味だけに解釈するのは、ちょっと違うような気もしてきます。

 そう思って、「薤露青」の2日前の、7月15日の日付を持つ「〔北上川は熒気を流しィ〕(下書稿(三))」を見ると、ここにも妹トシの「声」が入っていると考えざるをえません。そしてそこには、たとえば次のような兄と妹のやり取りが出てきます。

(学名は何て云ふのよ)
(ひやかしちゃいけないよ)
(知らないんだわきっと)
(学名なんかうるさいだらう)
(Oenothera lamarkeana ていふんだ)
(ラマークの発見だわね)
(ああ)
  やれやれ一年も東京で音楽などやったら
  すっかりすれてしまったもんだ、

 ここで、「一年も東京で音楽などやったら」というところには脚色が入っているのでしょうが、ここには明らかに、東京の日本女子大学で学んでいたトシの面影があります。
 あるいはその少し前では、(そんなら豚もミチアねえ)と妹に突っ込まれて、兄は(かなはないな おまへには)と、やり込められたりもしています。

 持ち前の利発さに加えて、都会的な向こうっ気の強さも身につけてきた妹に対し、兄はまさにたじたじとなっていますが、彼はそんな風に妹にからかわれることを、積極的に楽しんでいるようでもあります。
 そして、「薤露青」において、妹の声の工女たちが「わたくしをあざけるやうに歌って」行くという箇所にも、同じような賢治の気持ちが入っているのではないかと感じるのです。若々しく無邪気な工女たちの声は、上のように兄をからかったお転婆なトシの一面を連想させ、懐かしく心温まる思いも抱かせたのではないかと、私は考え直してみたりもするのです。

 いずれにせよ、先日「千の風になって」という記事に書いたように、ちょうどこの頃の賢治が、「死んだ妹がいつも近くにいる」と感じるようになっていたとすれば、妹はさまざまな人の「声」を借りて、その存在を現しているということでもあっただろうと思うのです。
 また前回、「「探索行動」としてのサハリン行」という記事に書いたように、大切な人を喪った人は、街の雑踏の中にふと現れた後ろ姿に、「その人」を見ることもよくあります。
 目や耳や、さまざまな感官を通して、まさに「みんながカムパネルラ」になるのです。

 ところで、一人の私の知人が、「薤露青」を読んでこんな感想を話してくれました。

「妹の声」が混じって聴こえるというのは、そういうのは私もよくあるので、わかる気がします。
私は子どもの頃から、よく祖母に 「あんたは墓守りをしてや」と言われていて、祖母は私に、お墓の掃除や手入れの仕方を、丁寧に教えてくれていました。そして、将来おばあちゃんが死んでから、あんたがお墓の手入れをしに来て、掃除をしたりお花を生けたりした後に、「しといたで」とおばあちゃんに言ってくれたら、おばあちゃんはお墓の中から、「おおきに」って返事をするからな、と言ってくれていたんです。
それなのに、祖母が亡くなってからのある日、お墓に来てきちんと手入れをして、「しといたで」と祖母に声をかけても、何も返事がなかったんです。
がっかりして帰り道についたら、途中のバス停で、一人のおばあさんがバスがわからなくて困っていたので、教えてあげました。
そしたら、そのおばあさんが、「ありがとう」と言ってくれたんです。
おばあちゃんが、この人の口を借りて言ってくれたんだな、と思いました。
亡くなったおばあちゃんに、「包まれている」ような感じがしました。

 これも、「みんながカムパネルラだ」ということだと思います。

 ここにおいて、黒い大きな帽子をかぶった人が言う「そしてみんながカムパネルラだ」という命題は、「当為」としてのみならず、一つの「現実」として、立ち現れてくるのです。

千の風になって

 トシの死による悲しみと苦悩を、賢治はどのようにして受容し、昇華したのか・・・。
 このテーマについて考えていくと、深い孤独や迷いに満たされた「オホーツク挽歌」の詩群や、まだ危うい綱渡りをしているような「〔手紙 四〕」を経て、結局は「〔この森を通りぬければ〕」および「薤露青」に至って、ある一つの安定した境地に到達したように、思われます。
 これまでも何度か引用したように、「〔この森を通りぬければ〕」においては、

わたくしは死んだ妹の声を
林のはてのはてからきく
  ・・・・・・それはもうさうでなくても
       誰でもおなじことなのだから
       またあたらしく考へ直すこともない・・・・・・

という形で、「妹の声」は静かな諦念とともに受けとめられ、「薤露青」においては、

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

として、妹の「不在」は肯定的に評価されます。これがなぜ「いゝこと」として肯定されるのかという理由は、この部分の推敲前の第一形態が下記のようになっていたことを知れば、一応理解することができます。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことから
     ほんたうのさいはひはひとびとにくる・・・・・・

 すなわち、特定の一人への愛に固執し続けることが不可能であるからこそ、人はそこを越えてすべての衆生への愛へと向かい、「ほんたうのさいはひ」を目ざすことができるのだという、あの「銀河鉄道の夜」のテーマです。

 ここまでのところは、これまでもしつこいほどに、何度も考えたとおりです。
 今回考えてみたいのは、上のようにして妹の死に思想的に整理をつけることは、確かに《倫理的には》正しいことかもしれないけれど、賢治自身はこのように考えることによって、《心情的には》本当に楽になったのだろうか、はたして賢治の気持ちは現実にこれで癒されたのだろうか?という問題です。
 もしもこれが、賢治が無理をして理屈で考えたことにすぎず、トシへの肉親としての愛を、ただ一方的に断念しただけだったのならば、それは賢治にとって、あまりにも苛酷で寂しいことに思えてしまいます。

 この問題に対する私の考えは、実は上のような「整理」というのは、賢治が単に理屈の上だけで考えたことではなく、これによって彼は《心情的にも》、かなり気持ちの平安を得られるようになっていったのではないか・・・というものです。

 私がそう考える根拠の一つは、「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」における賢治は、まるで何気ない様子で、「妹の声」を聴くことができるようになっていることです。
 その様子は、「〔この森を通りぬければ〕」では次のように記されます。

蛍が一さう乱れて飛べば
鳥は雨よりしげくなき
わたくしは死んだ妹の声
林のはてのはてからきく

 そして「薤露青」では、次のように。

声のいゝ製糸場の工女たちが
わたくしをあざけるやうに歌って行けば
そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声
たしかに二つも入ってゐる
  ・・・・・・あの力いっぱいに
       細い弱いのどからうたふ女の声だ・・・・・・

 思えば賢治は、トシの死後ずっと、この世にいなくなった妹が今いったいどこにいるのか、その手がかりをひたすら探し求め、そして妹からの「通信」を待ち焦がれていました。翌夏には、そのためにはるばるサハリンにまで行ってしまったほどでした。
 しかし結局、賢治が得ることができた「通信」は、「青森挽歌」によれば、ただ1回だけでした(「私のうけとつた通信は/母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ」)。これはおそらく、「風林」において、「・・・・・・此処あ日あ永あがくて/一日のうちの何時だがもわがらないで・・・・・・/ただひときれのおまへからの通信が/いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ」と記されているエピソードに対応しているのでしょう。賢治はいつか、汽車に乗っていて眠りに落ちたその夢の中で、このようなトシの言葉を聴いたのでしょう。

 ところが上記のように、1924年(大正13年)7月になって、賢治がもはやトシの行方や通信を追い求めないという心境に達したところ、7月5日(「〔この森を通りぬければ〕」)、7月17日(「薤露青」)と、短い間に2度も、トシの声を耳にすることになったのです。
 あるいはまた、この二つの作品の間の7月15日に書かれた「〔北上川は熒気をながしィ〕」という作品は、そのほぼ全篇が、賢治とトシ(と一部では弟)を思わせる会話で構成されているのです。そこには、利発で愛嬌のあるトシの魅力が、満ちあふれるようです。
 すなわち、この7月における賢治は、妹トシが亡くなってからの2年弱の歳月の中で、おそらく最も身近にトシを感じとっているのです。

 それでは賢治にとって、この時期におけるトシの「接近」は、果たして偶然のことだったのでしょうか。

 私は、これは偶然ではなくて、賢治がトシのことを「そのまゝどこへ行ってしまったかわからない」という形で、安んじて受容できたことと、表裏一体の関係にある現象なのだと思います。
 それはたとえば、「青い鳥」を必死に探し求めている時は見つからなかったけれど、探すことを諦めたら、「青い鳥」は身近にいたことに気づく、ということにも似ています。
 トシが「何処にいるのか?」、「何を伝えようとしているのか?」という形で、焦点を絞って対象を特定しようとすると、どうしてもそれを捉えることはできませんでした。しかし、賢治がそのような追求をやめてしまい、すべてをありのままに受け容れようというスタンスに変わった時、トシは実はそこかしこに、「あまねく」存在していたのです。さまざまな形でトシの声は賢治を訪れ、トシとの会話もあふれ出しました。

 もちろん賢治は、死んだトシが「リアルにそこに存在している」、とまで作品に書いているわけではありません。
 しかし、1924年(大正13年)7月の「〔この森を通りぬければ〕」、「〔北上川は熒気をながしィ〕」、「薤露青」というトシの面影がポジティブに漂う三作品、さらには同年8月の日付を持ち、女学生のような「むすめたち」が輝く「」などの作品を見ると、この頃の賢治が、トシをとても近いところに感じながら、日々を送るようになっていたのは確かだろうと、私には思われるのです。

 ここに至って、トシの死によって深い傷みを負った賢治の心は、やっと一定の回復を見せたと言ってよいのではないかと、私は思います。「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないこと」が「いゝこと」であるのは、単に《倫理的に》よいばかりでなく、《心情的に》も、賢治にとって安寧をもたらしてくれるものだったのです。

 ところでこのように、「死者がつねに生者の近くにいてくれている」と想定する「死生観」は、本来は輪廻転生を基本とする仏教的なそれとは、相容れないものです。むしろこれは、「ご先祖様が草葉の陰から見守ってくれている」という考えや、柳田国男の祖霊論に似ており、日本の伝統的な死生観と共通するものがあるように思われます。そしてさらに、賢治がトシの声をひそかに聴いている様子は、それらよりももっと個人的で、親密なな色彩を帯びているような感じもします。
 このような、「身近な・親密な死者」というイメージから私が連想するのは、アメリカ発祥とされる詩を新井満氏が訳し、2006年に秋川雅史氏が歌って広く知られるようになった、「千の風になって」の歌詞です。

  千の風になって
              新井満(訳詩)
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって
畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように
きらめく雪になる
朝は鳥になって
あなたを目覚めさせる
夜は星になって
あなたを見守る

 ここで歌われているのも、死者はお墓にはいないし、「特定のどこかにいる」というものではない、ということです。言わば、「どこへ行ってしまったかわからない」のです。
 しかし、特定のどこかにはいないからこそ、風となって空をわたり、光となってそそぎ、そしてまた(賢治に対するトシのように)、鳥になって声を聴かせることもできる、というのです。

 この歌が、2005年には阪神大震災10周年を機に広まり、2006年にはNHK紅白歌合戦でも歌われるほど愛唱されるようになったのは、その喚起するイメージが、何か現代の日本人の感性に響くところがあったのでしょう。
 ただ、この歌詞の内容自体は、すでに触れたように、一般的な仏教の死生観とは異なったもので、「散骨」などという新たな死のあり方にも関連するような、どこか現代的なイメージを伴っています。松尾剛次氏はこの歌のことを、「われわれの葬礼習俗への挑戦ともいえるものだ」(平凡社新書『葬式仏教の誕生』p.12)とも評しておられます。

 ということで、仏教を篤く信仰していた賢治が、個人的な苦悩の末に、図らずもこの「千の風になって」にも似た、現代的な死生観に接近していたとすれば、これはなかなか興味深いことだと思う次第です。

 最後にもう一つ、やはり同様の死生観を表したものとして、哲学者の森岡正博氏が、2011年3月に朝日新聞に寄せた、「私たちと生き続けていくいのち」という素晴らしい文章を、引用させていただきます。

   私たちと生き続けていくいのち

 2011年3月11日の震災で、多くの方々のいのちが奪われた。
 ある生存者は語る。津波が襲ってきたとき、妻の手を握りしめていたが、強い波の力によって彼女を流されてしまった、と。目の前で愛する者が消えてゆき、自分だけが生き残ってしまったという慟哭は、それを聴く者の心にも突き刺さる。自分は愛する者を守りきることができなかった、最後の瞬間に何もしてあげることができなかったという自責の念は、どんな言葉をかけられたとしても、おそらく消えることはないだろう。
 しかし、人生の途中でいのちを奪われた人たちは、けっしてこの世から消滅したわけではない。その人たちのいのちは、彼らを大切に思い続けようとする人々によっていつまでもこの世に生き続ける。私たちの心の中に生き続けるだけではなくて、私たちの外側にもリアルに生き続ける。
 たとえばふとした街角の光景が、たわいない日常や、自然の移りゆきのただ中に、私たちは死んでしまった人のいのちの存在をありありと見出すのだ。彼らは言葉を発しないけれども、この世から消え去ったわけではない。
 人生は一度限りであるから、どんな形で終わったにせよ、すべての人生は死によって全うされている。すべての亡くなった方の人生は聖なる者として閉じた。そして彼らのいのちはこれからずっとこの世で私たちと共にいる。私たちは彼らに見守られて生きていくのである。      (森岡正博『生者と死者を繋ぐ』春秋社より)

 トシの死を前に、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」とひそかに考えていた賢治にとって、なすすべなく妹を「ひとりで」逝かせてしまったことは、上の津波生存者の方と同じように、理不尽な「自責の念」を背負いこんでしまうきっかけになっただろうと、私は思います。
 そして、最終的にその深い心の傷は、亡くなったトシの「いのち」を身のまわりに感じ、上で森岡氏が記すように「共にいる」という感覚を持つことによって、やっと癒えはじめたのではなかと、私は思うのです。

 賢治自身は、「みんなのさいはひ」を目ざすという原則的な立場から、もはやこのような個人的な親密な感情を、直接に作品に書きこむことはしなくなりました。ですから、その後の賢治が上のようにトシの存在を感じるようになっていたとしても、私たちはその痕跡を作品の行間から、ふと垣間見るしかありません。
 ちなみに、私がそのような意味で、トシの面影を何となく感じる作品としては、上述の「〔北上川は熒気をながしィ〕」や「」に加えて、後者が晩年になって「変奏」された「春 変奏曲、」のにぎやかでまぶしい少女たち、「〔ふたりおんなじさういふ奇体な扮装で〕」の「曠原淑女」、「発動機船 一」における「頬のあかるいむすめたち」などがあります。

 これらはいずれも、私たち後世の読者にとっては、ふと街の雑踏ですれ違った姿に故人の面影を重ねるに似た、儚い試みなのかもしれません。しかし私は個人的に、そこに生き続けているトシの「いのち」を見るような気がするのです。
 きっと賢治も、その時何かを感じとっていたのではないかと、私には思えてなりません。