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詩碑と銅像をアップ

 「石碑の部屋」に、「宮澤賢治銅像」と、「これらは素樸なアイヌ風の木柵であります」詩碑をアップしました。この8月と9月に撮影してきたものです。

 後者のページには、作品中に出てくる「アイヌ風の木柵」の説明として、「石と賢治のミュージアム」の伊藤良治館長がご教示下さった解釈を載せました。下の写真は、その話に出てくる「ヌササン」=アイヌの祭壇です。朝もやにけむっています。

朝もやのヌササン
       (「アイヌ民族博物館」刊行『イヨマンテ ―熊の霊送り― 報告書』より)

後ろ手を組み、野を歩く姿

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宮澤賢治銅像

 上は、去る9月21日に花巻農業高校にできた賢治の銅像ですが、ご存じのようにこの像は、農学校の実習田で大正14年に写したという、有名な下の写真をもとにしています。

大正14年肖像写真

 この写真が、賢治がその敬愛するベートーヴェンの姿を模して撮らせた写真だったという話も、有名ですね。

 その「ベートーヴェンの姿」ですが、多数のベートーヴェン肖像画や後世の挿絵などがある中で、「BEETHOVEN HAUS BONN」のデジタルアーカイブなどで探してみたところでは、ユリウス・シュミット(1854-1935)による下の絵画「孤独な巨匠-自然を散策するベートーヴェン」が、最も一般に知られていて、賢治の写真の題材となった可能性が高いのではないかと思います。

シュミット「孤独な巨匠:自然を散策するベートーヴェン」

 ちょっと角度は違いますし、帽子はかぶらず手に持っているところ、右足を踏み出しているところなどは賢治の写真とは異なっていますが、ちょっとうつむき加減の姿勢や、全体の雰囲気は似ています。

 ベートーヴェンが、曲想を練りながらしきりにウィーンの森や郊外の野を歩きまわる習慣を持っていたことは同時代の人々にも知られていて、特に「田園交響曲」が人気を集めるようになってからは、「自然の中のベートーヴェン」というテーマは、何人かの画家によって取り上げられました。
 19世紀後半になって、ロマン派的なベートーヴェン崇拝が広がると、メランコリーに沈み、孤独に野を散策する彼の姿は、さらに時代に好まれる題材となっていったということです。
 ヨハン・ライター(1813-1890)という画家による「荒野のベートーヴェン」という下のようなちょっとこわい絵や・・・、

ライター「荒野のベートーヴェン」

モーリツ・ファン・エイケン(1865-1915)という画家による下記の「アウスバッハのベートーヴェン」などは、まさにそういったロマン派的なベートーヴェン像というものを表しているようです。

エイケン「アウスバッハのベートーヴェン」


 一方、ベートーヴェンの歩き姿に関しては、下記のようなカリカチュアも印象的です。

リューザーによるカリカチュア

 この姿は、帽子を手に持たずかぶっているところが他と違います。これは、ヨハン・ペーター・リューザー(1804-1870)という人が書いたもので、その後も引用されることの多いものですが、生前のリューザーは、ベートーヴェンの実物を見たことはなかったのだそうです。

 また下の絵は、1812年にベートーヴェンがゲーテと会って一緒に散策をした際に、たまたまオーストリア皇后の一行と遭遇して、ゲーテ(左端)は脱帽・敬礼して一行を見送ったのに対し、ベートーヴェン(手前)は昂然と帽子も取らずに行列を横切ったというエピソードを描いたものです。このベートーヴェンの姿も、明らかにリューザーの影響を受けていますね。

「ベートーヴェンとゲーテ」


 最後に下の写真は、ハイリゲンシュタットの「遺書の家」近くにある公園に、1910年に建てられたというベートーヴェンの石像です。

ハイリゲンシュタットのベートーヴェン像

 帽子とステッキを後ろ手に持ち、コートの前を開けているところから、この石像は、上でベートーヴェンの肖像画の最初に挙げた、ユリウス・シュミットの絵をもとにしていると思われます。

 ここで、話は冒頭写真の「賢治銅像」に戻りますが、そうするとこのハイリゲンシュタットのベートーヴェン像は、このたび花巻農業高校に誕生した賢治の銅像と、元をたどれば同じ絵に由来していることになるわけですね。
 つまりこれら二つの像は、時と場所を隔ててはいますが、いわば「兄弟」のような関係にあるのです。

 しかし、二つの像の印象はだいぶ異なっています。
 ベートーヴェンの方は大理石でできていますし、うつ向かずに「昂然と」頭を上げているのに対して、賢治が花巻でとったポーズは、19世紀後半のロマン主義の影響を受けた、「孤独で内省的な」ベートーヴェンのイメージを反映しているかのように思われます。

賢治祭2006

 けっきょく睡眠はあまりとれぬままに5時半頃に起床して、京都駅から6時48分発の「のぞみ」に乗りました。幸いにも、すっきりとした秋晴れの朝です。
 東京には9時すぎに着いて、「はやて」に乗り換え、車中ではだいたい寝ていました。新花巻に着いたのは11時47分でしたから、道中はぴったり5時間です。

 新幹線を降りると駅前の「山猫軒」で昼食をとって、タクシーで花巻農業高校に向かいました。 校内の「第二体育館」で、「賢治先生を偲ぶ会」が朝9時から行われているということでそちらへ向かったのですが、体育館が近づくと、「精神歌」の合唱が聞こえてきます。まさに、最後のプログラムが始まったところでした。
 会場へ滑り込んで、二番の途中から歌に加わって、少しだけ写真を写しました。

賢治先生を偲ぶ会

 体育館でのプログラムが終了すると、会場におられたお知り合いに2人ほどあいさつをして、「羅須庭園」の方に向かいました。

 賢治銅像ここには、すでに除幕式のすんだ「賢治銅像」が、どっしりと立っていました。あの有名な、ベートーヴェンを真似たスタイルの写真をもとにした立像ですが、三次元の像となると、いろんな方向から眺めることができてしまうので、あの写真を見慣れた者からすると、ちょっと不思議な感じです。これまで見られなかったようないろんな賢治さんの表情が見えます。
 私があちこちから眺めたり写真を撮ったりしていると、女生徒が2人、「あれって1000万円かかったんだって…」と小声で話しながら通りすぎていきました。私には、真偽のほどはわかりません。

 いずれにしても、存在感あふれる「賢治先生」の姿が新たにここに出現したことによって、彼のファンにとってはまた一つ見逃せないスポットが生まれたことは、間違いありません。

 この後、羅須庭園で高校生たちによる鹿踊りを見学して、それからいったんホテルに荷物を下ろして、3時半頃から詩碑前広場に向かいました。

 今年の賢治祭については、またいずれきちんとした報告ページを作らなければならないのかもしれませんが、私にとってはこれまで何回か参加してきた中で、最も感動的で印象深い回となりました。
 雲一つない降るような星空に恵まれたおかげもありますし、「賢治銅像」を作られた彫刻家の橋本堅太郎さんのお話の素晴らしさもあったでしょうが、それに加えて、藤原真理さんによる「賢治旧蔵チェロ」を用いた演奏が、圧巻でした。

 本当に信じられないことですが、今晩の藤原真理さんは、ふだんは賢治記念館のガラスケースの中に収められている賢治が所蔵していたチェロそのものを、花巻市の許可を得て借り出し、演奏に使用されたのです。数十年もきちんと演奏家によって手入れもされていない楽器を、急に生演奏に使うなどとは、無謀なことのように思えますが、しかしこの賢治のチェロは、今晩藤原真理さんによって、驚くほどの素晴らしい音色を引き出されたのです。
 「弘法は筆を選ばず」とは言いますが、失礼ながら私などはほとんど骨董的価値しかないのではないかと思っていた「賢治のチェロ」から、数十年の時を経て美しい音楽が流れ出すと、何かの奇跡に立ち会っているような感覚にとらわれました。

 藤原真理 in 賢治祭2006

 藤原さんは、最後の「精神歌」の全員合唱の時にもチェロで伴奏をして下さって、これは参加者皆にとって、素晴らしく贅沢な精神歌でした。

 第一部が終わると、ミーハーの私は真理さんを追いかけて、このために持参したCD「風のかたみー宮澤賢治へのオマージュ」に、サインをしてもらいました。20数年前の大学オケとの共演のことも彼女はちゃんと憶えて下さっていて、あの頃と同じように優雅に美しく、彼女はサインをしてくれました。

藤原真理 le 21 septembre 2006


 あと下の写真は、今日3回目の公演となる花巻農業高校鹿踊り部と、「劇団らあす」による野外劇「風の又三郎」の一場面です。

2006賢治祭 

 

名称・偶像・精神

 盛岡市内丸にある「岩手公園」は、賢治の文語詩「岩手公園」に描かれ、園内にはその詩碑もあるので私も何度か訪れた思い出の地ですが、盛岡市当局はこの公園の名称の変更を計画しているのだそうです。

 形の上では、法的な正式名称としての「岩手公園」は残して、「愛称」を付けるということになるようですが、上記記事を見ても、盛岡市は「愛称を広めることで事実上の名称変更としたい」と目論んでいるようですね。
 これに対しては、上記記事の中にもイーハトーブセンター会員の方の反対の声が掲載されていたり、下記には市会議員からの疑義も出されています。

 そしてついに6月26日には、その愛称を検討する第一回の「懇話会」が、下記のように開かれました。

 座長には、今月1日に岩手大学に設置された「宮沢賢治センター」代表の望月善次氏が選ばれたということですが、出席した委員7人のうちで、新名称を付けることに賛成は4人、慎重論は3人とのことで、先行きは予断を許しません。と言うより、望月先生のお立場は、非常に難しいものではないでしょうか。

 ところで経済的に見ると、最近は施設の名称というものに驚くほどの市場価値が見積もられていて、「ヤフードーム」などは命名権料が5年間で25億円、「味の素スタジアム」は5年12億円、岩手のお隣の「フルキャストスタジアム宮城」でも毎年2億円の値が付いています(いずれも「命名権.com」参照)。もちろん、一度に数万人を収容するスポーツ施設とはいちがいに比べられませんが、それでも盛岡市の観光ビジネス的には、この公園に何か気のきいた名前を付けて、新しいセールスポイントにしようという戦略は、それなりに理解できることではあります。
 しかし、市民や市議会の意見を聴取する手続きをほとんど踏んでいないことや、「愛称を広めることで事実上の名称変更としたい」という盛岡市の手法が何か正攻法ではない姑息な印象を与えるなど、今回の一連の動きにはどうしてもマイナスのイメージが付きまとっています。

 盛岡市当局の計画では、今年9月15日の「岩手公園開園100周年記念日」には、新しい名称を発表するとのことですが、このままでは「しこり」を残すことにならないか、今から心配です。


 さて、その記念日の翌週の賢治忌(9月21日)に、花巻農業高校に賢治の銅像ができるという話は以前にもご紹介していたところですが、下記にもう少し詳しい記事が載っていました。

 こういう話ならば、まあ反対する人もないかと思っていたのですが、記事によれば「これまで銅像建立に難色を示してきた遺族も了解済み」とのことで、従来は宮澤賢治氏のご遺族(宮澤家継承者)は、彼の銅像を作ることには反対しておられたんですね。

 その反対理由は、記事後半によれば「像建立は賢治精神に反する」ということで、ここで何をもって「賢治精神」とするのかは難しいところだと思いますが、まあ「偶像崇拝を排する」というような意味なのでしょうか。
 しかし、「像建立は賢治精神に反する」というような「御触れ」が出るものならば、何かの拍子に「ブログ制作は賢治精神に反する」などと言われてしまうんじゃないかとか、こういうのを見ると私などはちょっと不安になってしまうのです(笑)。


 それはともかく、上の記事の最後に、「花巻農高では、賢治が作詞した『日ハ君臨シカガヤキハ……』という『精神歌』を、校歌がわりに歌っている」と何気なく書いてありますが、この問題については、下の記事をご覧下さい。

 たしか、花巻農業高校と北上農業高校が統合される時にも、その新名称に関して、花巻側はこれまでの「花巻農業高校」、北上側は「イーハトーブ高校(?)」を主張して、なかなか決まらなかったような記憶があります。
 上記記事によれば、「校歌は新校舎の位置決定後に制定する」とのことで、「現在は学校行事などの際は校歌の代わりに賢治が作詞した『精神歌』を歌っている」とありますが、このこと自体はそれほど困ったことなんでしょうかね。

 「まだ校歌がないので行事の時には『精神歌』を歌っている」というのは、80余年前の賢治在職中とまったく同じ状況なだけで、別にノー・プロブレムじゃないかとか、それよりかえって「賢治先生の時代」に戻ったようで、今しばらくはいいんじゃない、とか私などは思ってしまいます。
 それよりずっと難題なのは、校歌の前提となる「新校舎の位置決定」の方だろう?!と思えるのですが、なぜ岩手日報が「校歌決まらず」の方を重視するのか、よくわかりません。
 今後、学校の場所を正式に決めるにあたっては、花巻と北上との間でまた綱引きが行われるのではないかと心配です。しかしそう思ってみると、今回の「賢治立像」の建立というのは、花巻側が現在地に重みを付けるための「布石」を打ったのではないか?などと「賢治精神に反する」ようなことまで考えてしまう、今日この頃です。