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 一昨日に花巻から送られてきた、宮沢賢治学会イーハトーブセンターの会誌『宮沢賢治研究Annual Vol.26』(2016)に、拙稿「宮沢賢治のグリーフ・ワーク ―トシの死と心の遍歴―」を、掲載していただきました。

「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」

 昨年11月の「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」で、竹崎利信さんの「かたり」とともにお話ししたこと、それから今年の5月に岩手県大槌町の講演会でお話しさせていただいたことを、論文の形にまとめてみたものです。

 これはそもそも、文学の「研究論文」として書いたというものではなく、上記のような成り立ちの経緯が示すように、東日本大震災の復興を支援するための催しの場で、あるいは被災地の方々に直接語りかける場で、宮沢賢治という人の、一つの等身大の「像」を描いてみようとしたものでした。「あの宮沢賢治も、死別の悲しみを抱えて尋常ではない苦悩を体験し、そしていつしかその悲しみを引き受けて、また歩いて行った人だった」ということを、跡づけてみようとしたものです。
 そのような事情もあってこの論文は、賢治の作品テキストを批判的に検討してみたり、「創作」のダイナミズムに分け入ったりするというようなものではなく、賢治が書いた言葉を、言わば作者の「生の声」として、受けとっていくものでした。

 ですから、巻末の「編集後記」において編集者の方が、この論文について「作品と作家の距離が密接であるため、一見、かなり素朴な作家論と映ることも否めません」と、評しておられるのは、まさにご指摘のとおりと思います。これはただ素朴に、ナイーブに、作品のままに作家を浮き彫りにしようとしたものにすぎません。
 しかしこの「編集後記」の上記の箇所の少し後で、「そして、その意図のもと、私たちは、賢治のいわば同伴者となり、愛する人の「不在」から「遍在」を受け入れるに至る、彼の「グリーフ・ワーク」を疑似体験することになります」と評していただいた言葉は、今回の論文を投稿させていただいた私にとって、とても嬉しい贈り物でした。
 「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」でも、大槌町の講演会でも、何とかして皆さんと一緒に賢治の同伴者となって、彼の心の旅を一緒に体験してみたいということが、微力ながら私が目ざそうとしたことだったからです。

 遅くなりましたが、先月の4日に行った「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都」の会計報告を申し上げます。
 台風による雨が続いていたにもかかわらず、ご参加下さった方はちょうど90名でした。はるばる宮城県や北海道からお越しいただいた方もありました。あらためまして、厚く御礼申し上げます。
 参加費としてお一人2000円ずつをいただきましたが、さらに会場にて募金をいただいた方もありました。総収入から必要経費を差し引きまして、結局 16万0815円 を、「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」が行っている「イーハトーブ復興支援義援金」に、本日寄付する手続きをして参りました。
 ご協力いただきまして、本当にありがとうございました。

 下は、当日の写真から・・・。

開演前
開演前

童話「ひかりの素足」朗読と読経
童話「ひかりの素足」朗読と読経

能「光の素足」後場のはじまり
能「光の素足」・後場のはじまり

対談
対談

 「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」は、上記の「イーハトーブ復興支援義援金」によって、地震・津波で甚大な被害を被った地域の学校図書館などに本を届ける活動を行うということです。次世代の子どもたちの力になればと、願います。

 震災からは半年あまりがたちましたが、被災地の復興はまだ端緒についたところです。原発事故の出口は全く見えないばかりか、私たちは国として原発を廃止しようというスタートラインにさえ、まだ立てていません。
 考えていると、苦しいこともいろいろ出てきますが、きっと賢治だったら、悲観に沈んだままではいないでしょう。
 「いづれ、明暗は交替し、新らしいいゝ歳も来ませうから、農業全体に巨きな希望を載せて、次の仕度にかかりませう。」(大正15年「羅須地人協会集会案内」より)

 私どもも、ぼちぼちまた「次の仕度」にかかろうと思います。

「イーハトーブ復興支援義援金」
「イーハトーブ復興支援義援金」シンボルマーク

 天沢退二郎他編『宮澤賢治イーハトヴ学事典』(弘文堂)が、ついに刊行されました。

宮澤賢治イーハトヴ学事典 宮澤賢治イーハトヴ学事典
天沢 退二郎

弘文堂 2010-11-30
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 150名もの研究者による、賢治世界の隅々まで至る詳しい解説、美しい装丁、松井なつ代氏による控えめながら不思議で魅力的なイラストなど、手もとにあるだけで嬉しくなるような本です。

 ところで、従来の代表的な賢治関係の辞典・事典としては、原子朗著『新・宮澤賢治語彙辞典』(東京書籍, 1999)がありました。

新・宮沢賢治語彙辞典 新・宮沢賢治語彙辞典
原 子朗

東京書籍 1999-07
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 原子朗氏という一人の研究者が全てに責任を負う一貫した記述は、賢治の作品を読んでいて何か疑問が湧いた時にまず参照してみる拠り所として、長らく定評がありました。「語彙辞典」という名称が示すように、賢治の作品等に出てくる5000項目もの「ことば」を、辞書的に説明してくれている本です。
 これは現在は絶版になっていますが、来年には改訂された『定本・宮澤賢治語彙辞典』が出る予定ということで、これも楽しみです。(懐は大変ですが・・・。)

 さらに賢治の事典としては、渡部芳紀編『宮沢賢治大事典』(勉誠出版, 2007)もあります。

宮沢賢治大事典 宮沢賢治大事典
渡部 芳紀

勉誠出版 2007-07
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 こちらは、全体が大きく「第一部 作品篇」と「第二部 一般項目篇」に分かれていて、86名の研究者が分担執筆しています。上の『語彙辞典』に比べると、項目数は少なく、個々の記述は長く、やや大項目主義的と言えるでしょうか。
 編集者は記述内容には介入せず、自ら「各項目はそれぞれの執筆者の文責になる」と断っていることから示唆されるように、全体的な統一性はさほど意識されていません。「作品篇」にそれぞれ【参考文献】が挙げられている点は、より深く調べたい際には便利です。

 あと、賢治に関する「キー・ワード」をいろいろと選び出して解説を付けた本としては、

宮沢賢治キーワード図鑑 (コロナ・ブックス) 宮沢賢治キーワード図鑑 (コロナ・ブックス)

平凡社 1996-07
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とか、

宮沢賢治ハンドブック (Literature handbook) 宮沢賢治ハンドブック (Literature handbook)
天沢 退二郎

新書館 1996-06
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などもあります。
 これらも、よりコンパクトなものではありますが、大項目主義的な「事典」の一種と言えるでしょう。

 それにしても、一人の人間に関してこれだけ多種類の「辞典」「事典」が企画され出版されるというのは、こんなことは実に稀です。
 このような「現象」の原因として考えられることの一つには、

(1) 賢治ファンの数は非常に多いので、企画に見合う需要がある

という現実的なこともあるでしょう。ただし、今回の本も含めて上の3つの事典・辞典はいずれもかなり高価で、そんなにどんどん売れるものではないでしょうから、商業的に採算がとれるのかはわかりませんが・・・。
 もう少し賢治作品の中身と関係した理由として考えられるのは、

(2) 賢治の作品に出てくる語彙は難解で、辞典の一つもほしくなる

ということで、これは私も含めて多くの賢治ファンの、偽らざる実感ではないでしょうか。自然科学、宗教、思想、種々の芸術分野に関する賢治の造詣は深く、彼はまさに多面的な人でした。各分野の専門用語は、何気なく作品中にも登場するので、読んでいてわからない言葉が出てくるのはしょっちゅうです。そんな時に、辞典・事典があれば非常に重宝するというわけですね。

 さて、以上の2つは常識的に考えていかにもありそうな理由ですが、私としてはもう一つ、賢治作品の受容のされ方に、他の多くの作家とは異なったところがあるのではないかということを感じています。
 それは、

(3) 賢治世界は人々によって、「データベース的受容」(東浩紀)をされている

のではないか、ということです。 
 東浩紀氏が、文化受容の様態の一つを表す言葉として使いはじめたこの「データベース的」という語に関しては、少し説明をしておく必要があるでしょう。

◇          ◇

 東浩紀氏は、著書『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(講談社現代新書)において、近代までの文化がその背景に「大きな物語」を潜在させていたのに対して、ポストモダンにおいては「大きな物語」が凋落し(リオタール)、それに代わって「データベース的受容」がなされるようになったと主張しました。「大きな物語」とは、例えば「皇国史観」であったり、「科学の進歩が幸福な未来を約束する」という素朴な信念であったり、共産主義社会への期待であったり、または「エコロジカルな生活文化が地球を救う」という考えであったりしたでしょう。しかし現代は、これら何か一つの価値観を、一つの国の国民が全体で共有することは、不可能な時代になっています。
 このような時代と平行するように、人々による文化の受容のされ方も変化したというのが東氏の論旨です。
 下の図は、深層に「大きな物語」が想定されていた「近代の世界像」の、東氏によるシェーマです。(東浩紀著『動物化するポストモダン』p.51より)

近代の世界像

 近代においては、個々の「小さな物語」の背後には、何らかの思想・人生観・価値観等の「大きな物語」が想定されていたというわけです。個々の作品を享受することは、その物語を通して「作者は何を言わんとしているのか」ということを考え、解釈することだったとも言えます。読者の側が作品に対して受身の立場から解釈を行うわけで、上図の「私は物語を通して決定される」というのは、そのことの表現でしょう。
 例えば、夏目漱石でも、志賀直哉でも、武者小路実篤でも、小林多喜二でも、三島由紀夫でも、そして現代では大江健三郎でも、読者は作品の背景にそのような「大きな物語」を想定しつつ読むことが可能ですし、また一般にはそのようにして読まれてきたと思います。
 そして実は宮澤賢治も、長らくその背景に、「大きな物語」を背負わされてきました。戦前には、清貧の生活をしつつ農民のために献身した「賢者の文学」として、そして戦後になると、ある時は「反戦主義」の文学として、あるいは「自然との共生を謳ったエコロジー思想の先駆」として、また理想の教育のモデルとして、時には菜食主義の唱道者として・・・。

 しかし、そのような賢治受容のあり方に、一種の変化が起こってきます。それは、いつ起こったと特定できるようなものではなく、一つの「脱物語化」がなされ、また別の物語が提出され・・・というプロセスをなすものでした。賢治が何らかの「物語」に組み込まれようとする動きに対して、またそれを批判する言説が登場するという経過が見られるのです。
 戦後まもなくに佐藤勝治氏が『宮沢賢治批判』を出して、賢治の思想には社会変革の視点がないと批判したり、中村稔氏が「雨ニモマケズ」を「宮沢賢治のあらゆる作品の中でもっとも、とるにたらぬ作品のひとつであろうと思われる」と書いて「雨ニモマケズ論争」が起こったり、矢幡洋氏が『賢治の心理学 献身という病理』において、賢治の「献身」を病理的と指摘したり、押野武志氏が『宮沢賢治の美学』において、賢治とファシズムの通底可能性について分析したり、ひいては吉田司氏が『宮沢賢治殺人事件』において、身も蓋もないほどの賢治批判を展開したり・・・。
 それらは、賢治に対する反感に基づいていたり、あるいは逆に賢治への深い共感に基づいていたりしましたが、結果としてこれらは、宮澤賢治という人物に後から被せられていた「神話」を剥ぎ取り、あるいはその作品の背後に何か自分に都合のよい「物語」を読みとって、その思想の「御旗」として賢治を担ぎ上げるというようなことを、難しくさせてくれたという効用がありました。

 もちろん、生前の賢治自身は、「法華経」という「大きな物語」を終生深く信じ、「宗教と科学の統合」というようなことも夢想していました。国柱会に赴いた時期には、「法華文学の創作」を志していたこともあったかもしれませんが、現実に彼が残した作品世界を見ると、それを何か一貫した特定の思想なり価値観によって説明することは困難です。
 賢治自身も、書いていますよね。

 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしにはそのみわけがよくつきません。なんのことだかわけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです(『注文の多い料理店』序より)。

 私たちが生きているこの世界が、「わけがわからない」ことだらけで、矛盾や理不尽がいっぱいあるように、賢治の作品「世界」もまさにそうなのだと思います。それでも私たちは、この世界を素晴らしいと思うのと同じように、あるいはその素晴らしさがさらに濃縮されて詰まっているものとして、賢治の世界を受けとめているのではないでしょうか。
 その賢治の「世界」の名前こそ、彼自身が名付けた「イーハトヴ」なのです。今回出版された辞典が「イーハトヴ学事典」と名付けられているところは、その意味でまさに象徴的だと思います。

 というような感じで、私は全体としての賢治の作品世界を、賢治個人の伝記的事項からも相対的に離れ、特定の思想や宗教や価値観やなどの「大きな物語」を超越した「世界のようなもの」と感じるのですが、このような様態で作品を享受することを、東浩紀氏は「データベース的」と呼んでいるのです。
 下の図は、「大きな物語」を欠いた「ポストモダンの世界像」の、東浩紀氏によるシェーマです。(東浩紀著『動物化するポストモダン』p.51より)

ポストモダンの世界像

 賢治の世界をとらえるのに「データベース」などという言葉を使うと、何か違和感があるかもしれませんが、私にとっては、何種類も刊行されている賢治に関する事典・辞典の存在そのものが、文字どおりデータベースを体現するものように思えます。
 『イーハトヴ学事典』の「序」に、

執筆者の異なる項目間の、矛盾や、意見の相違などには、編集委員が介入して調整するということは必ずしも行っていないので、読者・研究者のみなさんには、各項目の末尾に記された【関連項目】をぜひ御併読下さるようお願いしておく。

と断り書きがあることも、強いて首尾一貫性を追求しようとしないその「データベース的性格」を、端的に示してくれているのではないでしょうか。
 また、言葉そのままに『データベース宮沢賢治の世界』という本もあったりします。

データベース宮沢賢治の世界―魅せられし人々の軌跡 (1999年版) データベース宮沢賢治の世界―魅せられし人々の軌跡 (1999年版)
中西 敏夫

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 さらに東浩紀氏は、ポストモダンにおける文化受容のあり方を最も尖端的に示す領域として、「オタク文化」を取り上げています。そこでは、オリジナルな作品の「世界」を共有する様々なバリエーション的作品が、プロではない一般の消費者によって、どんどん「二次創作」されているのです。東氏は、これこそがポストモダンにおける文化の、典型的な受容・消費形態であると主張します。
 「二次創作」というのは、題材は例えば「ガンダム」でも「エヴァンゲリオン」でもいいのですが、その個々の作品エピソード(=小さな物語)の背景にある「世界設定」は共有しつつ、その世界の中で同じキャラクターたちによって繰り広げられる「別の(小さな)物語」を創作することです。それらを掲載した「同人誌」は多様な形で流通しており、その最も大規模な場が、世界最大級の屋内イベントと言われる「コミックマーケット」です。
 最近のオタク文化におけるこの「二次創作」という現象の席巻は、かつてボードリヤールが予見したように、ポストモダン社会においては作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シミュラークル」という中間形態が支配的になるという説に対応していると、東浩紀氏は指摘しています。

 ところで、数ある作家の中で宮澤賢治も、不思議と「二次創作」の題材となることの多い存在なのです。『宮沢賢治カバー・バージョンズ』(河出書房新社)という本には、井坂洋子、伊藤比呂美、角田光代氏など16名もの作家が、賢治の作品設定をもとに執筆した「二次創作」が集められていますし、

宮沢賢治カバー・バージョンズ 宮沢賢治カバー・バージョンズ
井坂 洋子 ほか

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また「第16回宮沢賢治賞」を受賞した高橋源一郎氏の『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』(集英社文庫)は、これも広い意味で「二次創作」ですね。

ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ (集英社文庫) ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ (集英社文庫)
高橋 源一郎

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 賢治の作品と関連した「二次創作」は、これら以外にも種々ありますが、ここにおいても、賢治世界は創作のための「データベース」として機能しているわけです。
 上に引用した東浩紀氏の「ポストモダンの世界像(データベース・モデル)」という図において、「私が物語を読み込む」とは、与えられた作品群を通して背後のデータベースを読み込むことにより、このようにして設定を共有する「シミュラークル」としての新たな創造行為を行うことを指しています。

 そしてさらにもう一点、私がとくに宮澤賢治に関して非常に興味深いと思うのは、一般の人々による「賢治データベース」へのアクセス方法として、真に特徴的なもう一つの「経路」があることです。
 それは、専門家、アマチュアを問わず、広大な裾野を持った非常に多くの研究者・愛好家が、それぞれに自分の流儀で「賢治研究」を行っているという現象です。その大きな一つの拠点として、プロ・アマを問わない集まりである「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」という組織も活動しています。
 実にこの「学会」ほど不思議な集まりはなくて、そこでは芸術院会員の偉大な詩人や、卒論に賢治を選んだばかりの学生や、童話の読み聞かせをしている主婦や、文学や物理学や地学の高名な学者や、その他さまざまな仕事をしている一般の賢治愛好家が集まり、どんな場合も互いに「先生」を付けずに「さん」で呼び合い、賢治について自分の「研究」したことを発表したり、熱く語り合うのです。これは奇しくも、「コミックマーケット」においては同人誌の発行者も「買い専」も含めて、「参加者はすべて対等である」という思想があることに、似ているようでもあります。
 いずれにしても、プロ・アマが区別なく「研究」という形で、「賢治世界」というデータベースを充実させていこうと日夜努力を惜しまない状況は、かなり独特のことだと思います。どんな作家にもそれぞれ研究者はいますが、賢治のようなケースは、他に類を見ないことです。これも、オタク文化における二次創作においては、プロ・アマの垣根は消滅しつつあることに対応しているように思われます。

 そのようにして集積された「知」は、情報の塊として見れば「データベース」であり、体系的な「学」として見れば、このたびの辞典のタイトルにある「イーハトヴ学」ということになるのでしょう。
 「イーハトヴ学」の下位分野としては、これまで例えば「賢治地理」(小沢俊郎)、「賢治鳥類学」(赤田秀子)、「イーハトーブの植物学」(伊藤光弥)、「宮沢賢治的建築学」(2007年冬期セミナー)、「イーハトーブ温泉学」(岡村民夫)、「イーハトーブ看護学」(大八木敦彦)などが研究されてきましたが、今回の辞典では、その構成は下のようなものとなっています。(同書p.ix-xi)

宮澤賢治イーハトヴ学辞典の構成

二相系いろいろ

 去る9月22日の夕方から23日の昼すぎまで、花巻に行ってきました。今年は21日の賢治祭は平日とあって参加することができず、22日の仕事を早めに終わらせて、伊丹空港を17時発の飛行機に乗りました。花巻空港には18時25分に到着し、それからタクシーで「宮沢賢治学会・参加者懇親会」が行われている「なはんプラザ」に向かい、会場にたどり着いたのは、終了間際の18時40分頃。

宮沢賢治学会・参加者懇親会

 とりあえず大いそぎで知り合いの方々にあいさつをして、少しだけ残っているお酒を「駆けつけ三杯」w。そうこうするうちに閉会の時間となりましたが、今年は懇親会の最後にみんなで歌うのが恒例の「精神歌」を、すでに最初に歌ったとのことで、あっさりとお開きでした。
 それからOさんの車に乗せてもらって、宿泊先の大沢温泉へ向かいました。

大沢温泉・自炊部

 温泉につかってから、賢治学会のお仲間とともに、懇親会の二次会。その晩は2時頃に就寝しました。

◇          ◇

 翌朝はあいにくの雨でしたが、またOさんに乗せていただいて、「宮沢賢治イーハトーブ館」で行われる「研究発表会」へ。
 今年は8題の発表がありましたが、会場が一つにまとめられていたので、すべての演題を興味深く聴かせていただきました。なかでも、原子内貢さんによる「江刺の地質と作品『十六日』『泉ある家』」は、作品中の細かい描写と地質学の知見や当時の地形図を照らし合わせ、それぞれの作で舞台となっている「家」は「ここにあった!」とピンポイントで特定した調査で、見ていて痛快でした。こういうことを教えていただくと、私としてはどうしても現地へ行ってみたくなってしまいます。

 神代瑞希さんの発表「化学の視点から捉える賢治作品のおもしろさ~なぜ雲はたよりないカルボン酸のイメージなのか~」は、応用化学を専攻しておられる立場から、『春と修羅』の「風景」という作品の一行目「雲はたよりないカルボン酸」という隠喩を取り上げ、なぜ賢治はここで「雲」を「カルボン酸」に喩えたのかということを考察したものでした。昔から親しんできた一節でしたが、たしかになぜ「カルボン酸」なのか、言われてみれば不思議です。

     風景

雲はたよりないカルボン酸
さくらは咲いて日にひかり
また風が来てくさを吹けば
截られたたらの木もふるふ
 さつきはすなつちに廐肥(きうひ)をまぶし
   (いま青ガラスの模型の底になつてゐる)
ひばりのダムダム弾(だん)がいきなりそらに飛びだせば
  風は青い喪神をふき
  黄金の草 ゆするゆする
    雲はたよりないカルボン酸
    さくらが日に光るのはゐなか風だ

宮沢賢治学会・研究発表会

 神代さんは、カルボン酸の説明や従来のこの部分の解釈を紹介した後、結局このイメージは、代表的なカルボン酸である酢酸から由来しているのではないかという考えを示されました。酢酸は融点が比較的高く、たとえば実験室に置いてある試薬も冬になると凍ったりすることから、「はっきりしない⇒たよりない」という印象が生まれたのではないか、「酢酸が凍ったり溶けたりする様子が高等農林の体験等から思い出されたのでは?」「雲ができたり消えたりするイメージ?」との推測です。
 また発表時のスライドでは、(1)過冷却状態にある液体の酢酸に、核となる微粒子を入れると見る見る固化して、液体と固体が共存した状態になる様子、(2)酢酸に炭酸塩を入れると二酸化炭素の泡が発生して、まるで雲が湧くように見える様子、という二種類の動画も見せて下さって、とても印象的でした。

 ところで私はこの(1)の動画を見て、「二相系」ということを連想しました。「二相系」とは、液体と固体のような二つの異なった「相」が共存している状態のことで、賢治の作品にも何度か登場する言葉です。
 あの「永訣の朝」には、「雪と水とのまつしろな二相系をたもち・・・」として出てきますが、賢治は固体の「雪」とそれが溶けた「水」とを共存させたまま(=「みぞれ」の状態で)、慎重に妹の「さいごのたべもの」を採取しました。

 一方、「雲」というものも、空気や水蒸気という気体の中に、微細な水滴が浮遊している「二相系」です。
 「晴天恣意(下書稿(一)」には、

畢竟あれは
葡萄状した界面をもつ、
空気と水の二相系、
つめたい冬の積雲です

という雲の描写もあります。
 そして、神代さんが今回の研究発表会で動画によって示して下さったように、過冷却状態から固化しつつある酢酸も、固体と液体が共存する「二相系」を成しているのです。
 雲も酢酸も、どちらも「二相系」を形成する点においても、共通点があるわけですね。

 さらに帰宅してから調べてみると、賢治の作品で雲とカルボン酸が出てくるものとしては、「冬のスケッチ」第一七葉に、次のような箇所がありました。

     ※
きりの木ひかり
赤のひのきはのびたれど
雪ぐもにつむ
カルボン酸をいかにせん。

 この第一七葉には、「からす、正視にたえず」という、「恋と病熱」の元となった表現もあり、『春と修羅』ではその7つ後の作品である「風景」における雲とカルボン酸を結ぶイメージが、この箇所に由来している可能性は高いと思われます。
 そしてこの「冬のスケッチ」では、カルボン酸が「雪ぐもにつむ」と記されているのです。「つむ」と表現されるからには、このカルボン酸は液体ではなく固体であり、それが「つむ」という動的な変化を示しているということは、何らかの形でその固体カルボン酸が析出しつつある状況を、作者はイメージしていのではないかと感じられます。
 すなわち、今回の発表で神代さんが動画で示されたように、「酢酸が固化しやすく二相系を呈しやすい」という点が、賢治が「雲はたよりないカルボン酸」という隠喩を用いた具体的根拠として一つ考えられることです。

 あと、もう一つ考えられるのは、この「カルボン酸」は酢酸ではなく、より長鎖の(=炭化水素が長く連なった=高級)脂肪酸を指しているという可能性です。脂肪酸も、カルボン酸の一種なのです。
 高級脂肪酸は外見的に石鹸や蝋のような質感をしていますから、「雲」に喩えるのも十分ありえることで、『新宮澤賢治語彙辞典』の「カルボン酸」の項にも、「賢治作品でカルボン酸や脂肪酸が雲の形容に用いられるのは、(中略)高級脂肪酸特有の白蝋色から雲を連想した、と考える方が自然だろう」とあります。
 この場合は、上の「冬のスケッチ」第一七葉にある「雪ぐもにつむ/カルボン酸」という描写、すなわち「固体カルボン酸が析出しつつある状況」とは、油脂を鹸化してできた「石鹸膠」を塩析すると、石鹸成分(カルボン酸塩)が析出して浮かび上がってくる様子がイメージされているのかもしれない、などと考えたりもします。
 ちなみに、「石鹸膠」というものも、グリセリンなどの液体に固体のカルボン酸塩が懸濁した状態で、これも「二相系」なんですね。

 などと、神代さんが発表で提示して下さった動画は、いろいろと私の勝手な連想を刺激してくれました。

 最後に下の写真は、今回花巻に向かう飛行機から見た雲海、果てしなく眼下に広がる「二相系」です。正面の空の小さな白い点は、小さいけど仲秋の名月です。
 これはまるで氷山の浮かぶ南氷洋のようにも見えますが、海に氷山が浮かんでいる状態も、液体と固体の「二相系」・・・。
 『新宮沢賢治語彙辞典』によれば、「二相系は、(中略)たえず変化し運動してやまない現象としての賢治世界を、あるいは生成変化してゆく作品の様相を象徴しているキイワードだと言えるだろう」とのことでした。

南氷洋のような雲海と仲秋の名月

花巻第四日

 今朝の『岩手日日新聞』には、昨日「イーハトーブ賞奨励賞」を受賞した桑島法子さんの記事が、とりわけ大きく載っていました。当該記事への下のリンクは、しばらくは生きていると思います。写真は、壇上で賞を受け取るところでしょうね。

 さて今日は、9時からイーハトーブ館で「宮沢賢治研究発表会」です。演題は、「『雨ニモマケズ』を『十界互具論』より見た一考察(その二)」、「『銀河鉄道の夜』第四次稿成立についての一試論』、「闘争の空へ―宮沢賢治『春と修羅』試論」、「風野又三郎の『大循環』、ジェット気流予見の謎」、「賢治の二つの曼陀羅『永訣の朝』と『雨ニモマケズ』、そして『銀河鉄道の夜』に関する考察」、「宮沢賢治と保阪嘉内の『訣別』をめぐって」、「『稲作挿話』に関する土壌肥料科学的考察」という、いずれも重厚な7篇でした。
 中でも、白木健一氏による「風野又三郎」に出てくる「ジェット気流」という新知見をどうして賢治が世界的な公式発表の前に童話にできたのかという考察、大明敦氏による賢治と嘉内の「訣別」とされてきた出来事の見直しの提言、田知本正夫氏による農学の専門家からの「稲作挿話」の解釈と、氏自身の壮大な未来の構想のご紹介が、私にとっては興味深かったです。

田知本正夫氏「『稲作挿話』に関する土壌肥料科学的考察

 ただ、「発表会」を聴いていて私が勿体なく思ったのは、用意されたたくさんの資料のうち半分ほど進んだところで時間切れとなってしまい、せっかくの研究発表がやや尻切れトンボ的になってしまうケースが、いくつか見られたことです。このような研究発表をする際に、事前に時間を計りながら「予行演習」をしてから来られないのか、ちょっと不思議に感じました。

◇          ◇

 さて、発表会が終わってイーハトーブ館から外に出てみると、残念ながら小雨が降り出していました。じつは今日の午後は、東和地区にある丹内山神社に行ってみようと思っていたのです。
 バス路線は(かの岩手県交通も含めて)、自分で調べた範囲ではわからなかったので、一昨日に駅前の「花巻観光協会」で、丹内山神社へのアクセスを質問してみました。そうするとやはりバスはなく、釜石線の土沢あたりからタクシーに乗るしかないのだそうです。さすがに、「その地方の有力者は?」ということまでは尋ねませんでしたが…。

 というわけで、昼食後に新花巻駅から釜石線、土沢駅で降りてタクシーに乗ると、あとは15分ほどで鬱蒼と薄暗い神社に着きました。
 ここは、高橋克彦著の小説『火怨』では、重要な宗教的拠点と位置づけられている場所で、実際に中央勢力の支配が及ぶ以前から、何らかの聖地として崇敬されていた可能性が示唆されている場所です。坂上田村麻呂による「蝦夷」征服後は、例によって田村麻呂伝説と関連づけられていきますが、いずれにせよここは岩手の中でも、かなり神秘的なスポットではあります。

 まだ連休とは言え、小雨降る森の奥には、人っ子一人いませんでした。広大な神域には多くの社殿が散在し、たしかに周囲の鄙びた雰囲気からすると異様なほど大規模な神社です。ただ、「十一面観音」も祀られていることからわかるように、ここは元来は神仏習合の信仰の場所であったようです。

丹内山神社

 私が今日ここへ来てみた目的は、この神社の参道にある「二の鳥居」のたもとに、賢治の「祭日〔一〕」の詩碑があるからでした(下写真)。作品冒頭に出てくる「谷権現」とは、この丹内山神社のことだったんですね。「権現」という言葉にも、神仏習合が現れているようです。

「祭日〔一〕」詩碑と「二の鳥居」

 で、ホテルに帰って、昨日の分と今日の分のブログをとりあえずここまで書いたところ、今は午後8時です。

「早池峰」のホタテとサンマ

花巻第三日

 今朝の「岩手日報」によると、昨日イギリス海岸を訪れた自動車は6000台、うち7割は県外ナンバーだったということです。そりゃあ混雑していたわけですね。

 さて、今日は宮沢賢治賞・イーハトーブ賞等の贈呈式、宮沢賢治学会イーハトーブセンターの定期総会や懇親会などが行われる日です。
 10時前に花巻駅前の「なはんプラザ」へ行き、開会を待っていました。

宮澤賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式

 例年ならば、式の最中もとくに写真撮影の制限はありませんでしたので、吉本隆明さんや桑島法子さんをしっかりカメラに収めようとはりきっていたのですが、開会直前に、「ビデオやカメラの撮影は禁止」とのアナウンスがありました。とても残念でしたが、それで式に関しては、上に載せた開会前の写真だけです。

 吉本隆明さんは新幹線の都合で遅れて会場に到着されるとのことで、各奨励賞のお二人の授賞式から始まりました。
 岡村民夫さんに関しては、後の「リレー講演」の部分で触れるとして、まずは桑島法子さんの「受賞の挨拶」が、感動的でした。
 これまで公式には年齢は非公表だったはずの桑島さんが、今回は印刷されたパンフレットでも、そして挨拶の中でも、ご自身の現在の年齢をはっきりと繰り返しながら、今回の受賞を人生に位置づけて語るとことが、一つ印象的でした。
 そして、いったんは挨拶が終わったように見えてマイクの電源も切れてから、もう一度「私ごとですが…」と前置きして、切実な言葉が述べられました。それはおおむね次のような内容だったように思います。
 「どなたか、花巻の『劇団らあす』の牛崎志津子さんにお伝え下さい。その公演があるたびに駆けつけ、『金ヶ崎の桑島です』と言ってりんどうの花束を渡していた少女は、いま、このような場に呼んでいただけるまでになりました。夢への何のとっかかりもなく不安だらけだった私が、声優になるという勇気と希望を持てたのは、牛崎先生のおかげです。」 そして桑島さんは、まさに壇上で声を詰まらせたのです。

 すでに、声優の世界ではスターとしての位置を十分に確立し、もう安定した活躍をずっと続けていたはずの彼女の口から、今になってこのような言葉が述べられるとは、本当に驚きでした。彼女が今回の受賞に対して、相当に何か期するものがあったのだろうということを、あらためて感じました。
 月並みながら、「本当におめでとうございます」という言葉を、謹んで申し上げます。


 10時40分頃には吉本隆明さんが車椅子で会場に到着され、あらためて「宮沢賢治賞」の授賞が執り行われました。
 授賞の挨拶からそのまま「特別講演」になだれこんだの吉本さんのお話は、「列車が着く間際になってからビールを飲んじゃって…」という前置きと関連していたのかいないのか、たしかに話題がどんどんふくらんで、こちらも追いかけていくのに必死になるという面はあったものの、現在もこの85歳の偉大な思想家の脳の中では、あふれるがごとくいろんなイメージが湧き出していることを感じさせました。

 お話は、吉本氏が青年時代に好きな賢治の詩を部屋の天井に貼って、いつもそれを仰いで眺めながら、「いつか自分も宮沢さんのような人になれるだろうか」と思っていたが、後からわかってみればそれは「青春のいたずら」で、とんでもない段違いの人だった、というエピソードの紹介から始まりました。
 そのような話をしながら吉本氏は、ずっと車椅子から仰向けになるほどにホールの天井を見上げつつ、両手を差し上げてまるで高みにあるものを掴もうとするような仕草を続け、そのまま次の「横と縦の関係」という話に入って行かれました。
 「普通の人間は、社会であれ、家族であれ、男女であれ、『横の関係』を志向するが、宮沢さんという人は、銀河系とか、つねに『縦の関係』を志向していた」という、やや抽象的なお話です。これは簡単に言い換えてしまえば、賢治はいつもどこか「超越的なもの」を志向しつづけていたということを言わんとされているのかもしれませんが、もっと深い意味があるのかもしれません。
 しかしいずれにしても、「横の関係を志向しない」ということは、いくら表面的には誰にも優しく献身的に接し、皆に慕われていても、本質的には非常に孤独でありつづける、ということになるのでしょう。そこに、賢治の多くの作品の根底に流れる「かなしみ」や「孤独」が関係しているのかもしれません。そして同時に、上へ上へと手を伸ばしながら語り続ける吉本氏の姿を見ていると、ひょっとしてこの話は若き日の詩人・吉本隆明にも重なっているのかもしれない、という気がしたりもしたのでした。

 その他にも吉本氏のお話は、「宗教と科学の関係」や、「ほんとうのほんとう」という賢治の言葉についてや、いつ尽きるともなく続いたのですが、帰りの新幹線の時間があるということで係員から耳打ちされて、特別講演とともに授賞式は終了しました。

 もし可能ならばサインをもらおうと、吉本隆明著『宮沢賢治』(1989)の単行本や、桑島法子『イーハトーブ朗読紀行』のDVDなどを持参していたのですが、とてもそんな時間はありませんでした。

◇          ◇

 午後の「賢治研究リレー講演」では、まず「宮沢賢治賞奨励賞」を受賞された岡村民夫さんが、「黄瀛の光栄」と題して話をされました。
 「駄洒落が好きなもので」とユーモラスにおっしゃしましたが、これは賢治と同時代に生きた中国の詩人である黄瀛(コウエイ)が花巻温泉に宿泊した機会に賢治を訪ね(ここにも「温泉力」が!)、最後に賢治が「黄瀛さんにお会いできて光栄です」と駄洒落(?)を言ったという由緒を下敷きにしておられます。
 そして、黄瀛が帰国してから刊行した第二詩集の最後に、「私は中華民国国民に生まれた光栄を感じる」と記していたことは、この時の賢治の言葉への秘められた答礼であったのかもしれない、という魅力的な推測を述べられて講演は終わりました。さらにもう一段これには落ちがあって、午前中に岡村氏が受賞の挨拶の最後で、「受賞できて光栄です」と述べられたのは、この午後の講演への「伏線」だったという、駄洒落どころかオシャレなお話でした。

 この後、故宮城一男氏制作による「津軽・山田野を訪ねて」というスライドの上映があり、清六氏が弘前師団で兵営に就いていた頃、賢治が兵舎を訪ねた跡をたどり、清六氏が現地を再訪した際の写真などが紹介されました。私もこの場所にはいつか行ってみたいと思っていましたので、旅情をかきたてられました。

「津軽・山田野を訪ねて」

 司会の方が言われたとおり、中央に飾られた賢治の写真と清六氏が、まるで見つめ合っているようです。

 この後、「イーハトーブ・サロン ―私と賢治―」で7名の方がそれぞれの賢治との関わりについて話をされ、5時半からは、恒例の「参加者交流・懇親会」です。
 例年のように中野由貴さんの企画で、今年のテーマは「銀河鉄道の食堂車」です。「銀河鉄道の夜」に出てくるいろいろな食べ物が趣向を凝らして並べられ、その中でも人気と注目を集めたのが、「白金豚の塩竃焼き プリオシン海岸風」でした。これは、塩で固められてオーブンで蒸し焼きにされた豚三枚肉の塊を、ハンマーで割って取り出すところを、プリオシン海岸における「化石の発掘」に見立てたものです。(下がその「発掘」シーン)

白金豚の塩竃焼き プリオシン海岸風

 その他にも、「ホワイトチョコレートの雁」、童話に出てくる野菜等を使ったサラダなど、いつもながら美味しいものがいっぱいでした。そして、岩手の雑穀や「陸羽132号のおにぎり」や、星の名前の飲み物、地酒などですね。

 懇親会途中にもいろんな演し物がありましたが、最後は、やはり例によって「精神歌」です。

「精神歌」合唱

 終了後二次会は、賢治学会「湯治組」の方々にお誘いいただき、鉛温泉にて楽しく癒されるひとときをすごしました。Oさん、Nさん、男性のOさん、ありがとうございました。

プリンパフェ・托鉢風
プリンパフェ・托鉢風

賢治賞贈呈式など

 今日も遅くなってしまいましたので、とりあえず写真をアップします。

会場のNAHANプラザ。
NAHANプラザ玄関

花巻市長から賞状を受けとられる、イーハトーブ賞受賞の高嶋由美子さん。
高嶋由美子さん受賞

パルヴァースさんの受賞挨拶第一声は、「チョー気持ちいい!」でした(笑)。
ロジャー・パルヴァースさんの挨拶

パルヴァースさんの記念講演。現代の危機と、賢治の思想の世界的意義について。
記念講演

懇親会。高村光太郎にちなんだ、趣向を凝らした料理が並びました。
懇親会

懇親会の終わり。新代表理事に選ばれた、杉浦静さんによる乾杯の言葉。
懇親会・新代表理事

今年の賢治祭関連行事

  • 9月19日(金)
     9:00~   花巻農業高校「賢治先生を偲ぶ会」
                花巻農業高校 賢治銅像前
  • 9月21日(日)
     13:00~  賢治の里で賢治作品を読む会
                宮沢賢治イーハトーブ館
     17:00~  賢治祭
                桜町 雨ニモマケズ詩碑前 (雨天時は南城小学校体育館)
  • 9月22日(月)
     10:00-12:00 第18回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式
     13:30-14:15 宮沢賢治学会定期総会
     14:30-15:30 賢治研究リレー講演
     15:45-16:45 イーハトーブ・サロン 私と賢治
     17:00-19:00 参加者交流・懇親会
                  いずれも 花巻駅前 NAHAN プラザ
  • 9月23日(火)
     9:30-12:00 研究発表
                  宮沢賢治イーハトーブ館

 今年は、花巻農業高校の「賢治先生を偲ぶ会」が、19日(金)に行われるようです。21日が日曜日のためでしょうか。

賢治祭の鹿踊り

 宮沢賢治学会イーハトーブセンターから、今年の冬季セミナーと来年の春季セミナーの案内が届きました。

 冬季セミナーは、11月26日(土)~27日(日)に花巻のイーハトーブ館において、「東北砕石工場と宮沢賢治」というテーマで行われます。1日目には、当時の工場長鈴木東蔵氏の四男である鈴木豊氏のお話、2日目には『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』などの著書のある佐藤通雅氏の講演、最後に水沢市の国立天文台水沢観測所へのバスツアー、という構成です。

 春季セミナーは、2006年3月25日(土)~26日(日)に花巻温泉の「千秋閣」において、「極東ビヂテリアン大祭 ~宮沢賢治と温泉~」というテーマで行われます。1日目には、シンポジウム「リゾートとしてのイーハトーブ」、花巻温泉「松雲閣」の特別公開、2日目にはシンポジウム「ベジタリアン宮沢賢治 ―イーハトーブの豊かな雑穀文化」が行われます。

 奇しくもどちらのセミナーにも、賢治にゆかりがあってもうすぐ取り壊される予定の建物を、最後に見ておこうという企画が入っています。冬季セミナーの方では、水沢の「旧緯度観測所本館」、春季セミナーの方では、花巻温泉の旅館「松雲閣」です。

 旧緯度観測所の方は、私は数年前に列車の待ち時間を利用して、水沢駅から急いで行ってみようとしましたが、時間がなく途中で引き返した、という記憶があります。
松雲閣本館 松雲閣に関しては、来年に取り壊しになる建物は、当初は「松雲閣別館」として建てられたもので、最初に建てられた本館(右写真)は、すでに1979年に解体されています。
 賢治の「一九三一年度極東ビヂテリアン大会見聞録」という作品中に登場する「松雲閣」は、はたして本館か別館かどちらだったのでしょうか。作品を見ると、賢治は実際に建物の中に入ったこともあるような感じですね。
 また以前私は、賢治が文語詩「林館開業」という作品で風刺したのは、この「松雲閣(本館)」のことではないかと考えてみたことがありました

 ということで、どちらのセミナーもおもしろそうなのですが、私はスケジュール上いずれも参加はむずかしそうで、残念です。