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二相系いろいろ

 去る9月22日の夕方から23日の昼すぎまで、花巻に行ってきました。今年は21日の賢治祭は平日とあって参加することができず、22日の仕事を早めに終わらせて、伊丹空港を17時発の飛行機に乗りました。花巻空港には18時25分に到着し、それからタクシーで「宮沢賢治学会・参加者懇親会」が行われている「なはんプラザ」に向かい、会場にたどり着いたのは、終了間際の18時40分頃。

宮沢賢治学会・参加者懇親会

 とりあえず大いそぎで知り合いの方々にあいさつをして、少しだけ残っているお酒を「駆けつけ三杯」w。そうこうするうちに閉会の時間となりましたが、今年は懇親会の最後にみんなで歌うのが恒例の「精神歌」を、すでに最初に歌ったとのことで、あっさりとお開きでした。
 それからOさんの車に乗せてもらって、宿泊先の大沢温泉へ向かいました。

大沢温泉・自炊部

 温泉につかってから、賢治学会のお仲間とともに、懇親会の二次会。その晩は2時頃に就寝しました。

◇          ◇

 翌朝はあいにくの雨でしたが、またOさんに乗せていただいて、「宮沢賢治イーハトーブ館」で行われる「研究発表会」へ。
 今年は8題の発表がありましたが、会場が一つにまとめられていたので、すべての演題を興味深く聴かせていただきました。なかでも、原子内貢さんによる「江刺の地質と作品『十六日』『泉ある家』」は、作品中の細かい描写と地質学の知見や当時の地形図を照らし合わせ、それぞれの作で舞台となっている「家」は「ここにあった!」とピンポイントで特定した調査で、見ていて痛快でした。こういうことを教えていただくと、私としてはどうしても現地へ行ってみたくなってしまいます。

 神代瑞希さんの発表「化学の視点から捉える賢治作品のおもしろさ~なぜ雲はたよりないカルボン酸のイメージなのか~」は、応用化学を専攻しておられる立場から、『春と修羅』の「風景」という作品の一行目「雲はたよりないカルボン酸」という隠喩を取り上げ、なぜ賢治はここで「雲」を「カルボン酸」に喩えたのかということを考察したものでした。昔から親しんできた一節でしたが、たしかになぜ「カルボン酸」なのか、言われてみれば不思議です。

     風景

雲はたよりないカルボン酸
さくらは咲いて日にひかり
また風が来てくさを吹けば
截られたたらの木もふるふ
 さつきはすなつちに廐肥(きうひ)をまぶし
   (いま青ガラスの模型の底になつてゐる)
ひばりのダムダム弾(だん)がいきなりそらに飛びだせば
  風は青い喪神をふき
  黄金の草 ゆするゆする
    雲はたよりないカルボン酸
    さくらが日に光るのはゐなか風だ

宮沢賢治学会・研究発表会

 神代さんは、カルボン酸の説明や従来のこの部分の解釈を紹介した後、結局このイメージは、代表的なカルボン酸である酢酸から由来しているのではないかという考えを示されました。酢酸は融点が比較的高く、たとえば実験室に置いてある試薬も冬になると凍ったりすることから、「はっきりしない⇒たよりない」という印象が生まれたのではないか、「酢酸が凍ったり溶けたりする様子が高等農林の体験等から思い出されたのでは?」「雲ができたり消えたりするイメージ?」との推測です。
 また発表時のスライドでは、(1)過冷却状態にある液体の酢酸に、核となる微粒子を入れると見る見る固化して、液体と固体が共存した状態になる様子、(2)酢酸に炭酸塩を入れると二酸化炭素の泡が発生して、まるで雲が湧くように見える様子、という二種類の動画も見せて下さって、とても印象的でした。

 ところで私はこの(1)の動画を見て、「二相系」ということを連想しました。「二相系」とは、液体と固体のような二つの異なった「相」が共存している状態のことで、賢治の作品にも何度か登場する言葉です。
 あの「永訣の朝」には、「雪と水とのまつしろな二相系をたもち・・・」として出てきますが、賢治は固体の「雪」とそれが溶けた「水」とを共存させたまま(=「みぞれ」の状態で)、慎重に妹の「さいごのたべもの」を採取しました。

 一方、「雲」というものも、空気や水蒸気という気体の中に、微細な水滴が浮遊している「二相系」です。
 「晴天恣意(下書稿(一)」には、

畢竟あれは
葡萄状した界面をもつ、
空気と水の二相系、
つめたい冬の積雲です

という雲の描写もあります。
 そして、神代さんが今回の研究発表会で動画によって示して下さったように、過冷却状態から固化しつつある酢酸も、固体と液体が共存する「二相系」を成しているのです。
 雲も酢酸も、どちらも「二相系」を形成する点においても、共通点があるわけですね。

 さらに帰宅してから調べてみると、賢治の作品で雲とカルボン酸が出てくるものとしては、「冬のスケッチ」第一七葉に、次のような箇所がありました。

     ※
きりの木ひかり
赤のひのきはのびたれど
雪ぐもにつむ
カルボン酸をいかにせん。

 この第一七葉には、「からす、正視にたえず」という、「恋と病熱」の元となった表現もあり、『春と修羅』ではその7つ後の作品である「風景」における雲とカルボン酸を結ぶイメージが、この箇所に由来している可能性は高いと思われます。
 そしてこの「冬のスケッチ」では、カルボン酸が「雪ぐもにつむ」と記されているのです。「つむ」と表現されるからには、このカルボン酸は液体ではなく固体であり、それが「つむ」という動的な変化を示しているということは、何らかの形でその固体カルボン酸が析出しつつある状況を、作者はイメージしていのではないかと感じられます。
 すなわち、今回の発表で神代さんが動画で示されたように、「酢酸が固化しやすく二相系を呈しやすい」という点が、賢治が「雲はたよりないカルボン酸」という隠喩を用いた具体的根拠として一つ考えられることです。

 あと、もう一つ考えられるのは、この「カルボン酸」は酢酸ではなく、より長鎖の(=炭化水素が長く連なった=高級)脂肪酸を指しているという可能性です。脂肪酸も、カルボン酸の一種なのです。
 高級脂肪酸は外見的に石鹸や蝋のような質感をしていますから、「雲」に喩えるのも十分ありえることで、『新宮澤賢治語彙辞典』の「カルボン酸」の項にも、「賢治作品でカルボン酸や脂肪酸が雲の形容に用いられるのは、(中略)高級脂肪酸特有の白蝋色から雲を連想した、と考える方が自然だろう」とあります。
 この場合は、上の「冬のスケッチ」第一七葉にある「雪ぐもにつむ/カルボン酸」という描写、すなわち「固体カルボン酸が析出しつつある状況」とは、油脂を鹸化してできた「石鹸膠」を塩析すると、石鹸成分(カルボン酸塩)が析出して浮かび上がってくる様子がイメージされているのかもしれない、などと考えたりもします。
 ちなみに、「石鹸膠」というものも、グリセリンなどの液体に固体のカルボン酸塩が懸濁した状態で、これも「二相系」なんですね。

 などと、神代さんが発表で提示して下さった動画は、いろいろと私の勝手な連想を刺激してくれました。

 最後に下の写真は、今回花巻に向かう飛行機から見た雲海、果てしなく眼下に広がる「二相系」です。正面の空の小さな白い点は、小さいけど仲秋の名月です。
 これはまるで氷山の浮かぶ南氷洋のようにも見えますが、海に氷山が浮かんでいる状態も、液体と固体の「二相系」・・・。
 『新宮沢賢治語彙辞典』によれば、「二相系は、(中略)たえず変化し運動してやまない現象としての賢治世界を、あるいは生成変化してゆく作品の様相を象徴しているキイワードだと言えるだろう」とのことでした。

南氷洋のような雲海と仲秋の名月

冒険王・横尾忠則

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 兵庫県立美術館で開催されている、「冒険王・横尾忠則」という展覧会を見に行ってきました。会期は8月24日(日)までです。横尾忠則という類い希なアーティストの、ごく初期のイラストやデザインから、最新作まで網羅した、圧倒的な展示でした。
 ピカソにしても、岡本太郎にしても、天才的な芸術家というのは、もの凄いパワーをもっているんだなあ、ということをあらためて体感して、しばらくは言葉も出ないほどでした。

 ところで、私がこの展覧会に行った一つの間接的な理由には、横尾忠則氏の最近の大作の一つ、「花巻温泉」という作品の実物を見てみたかったということがありました。そして、1.8m×2.3mほどあるその絵は、展示の最後の部屋に、ドーンと架かっていました。
 中央に宮澤賢治の立ち姿があって、場所はどうやら「イーハトーブ館」の前のアプローチと水場のようです。その水場で、女性たちが温泉のように入浴していて、あといろんなコラージュとともに、賢治の手には心臓が・・・、という作品でした。
 「ファイブエル」という雑誌に連載中の「横尾忠則の温泉主義」という記事には、「花巻温泉」と題して、この作品の創作のために横尾氏が花巻温泉を訪れた際のエピソードが書かれています。

 展覧会場を出る際には、この「花巻温泉」のポストカードをたくさん買ってきましたので、もし見てみたいという方は、お送りいたしますよ。
 それからこのポストカードは、横尾忠則氏のオフィシャルサイトの、ONLINE SHOP の中のPOST CARD のページにも、小さいですが見本写真が載っています。「商品ID :PA-162」というのがそれです。

 ところで、作品をそのままコピーしてこの場に掲載すると著作権に触れるでしょうから、横尾氏もよくやるように、他の画家の作品を「引用」したり「パラフレーズ」するという手法で、下に名画「花巻温泉」のイメージを再現してみました。(本物は、アクリル画とコラージュの組み合わせですが、下では賢治の写真とイーハトーブ館の写真を加工しています。)

横尾忠則「花巻温泉」のイメージ
横尾忠則「花巻温泉」のパラフレーズ

 ところで、このような創作を見ていてちょっと思ったのは、いつかこの場でも話題にしたように、宮澤家の遺族の方々が賢治の肖像写真などを「商標登録」していて、それらの画像が「賢治の人格や作品などに関係なく」使われてしまわないように、管理をしておられるという話のことです。この横尾忠則氏の作品の場合は、例えば多く裸の女性の姿と一緒に賢治の肖像が用いられたりしていますが、「賢治の人格や作品に関係なく」使用されていることにはならないのでしょうか?
 以前に小さな村が建てた詩碑に、賢治のシルエットの絵が入っていた時にも、ご遺族は強硬に抗議をされたということでしたが、横尾氏の場合にはどうされるのか、個人的には注目しています。


 閑話休題、最近書籍の分野では、岡村民夫著『イーハトーブ温泉学』(みすず書房)が刊行されて、賢治の世界に関する「温泉学的」分析をたいへん興味深く読ませていただいたところでした。共時的に、横尾作品とどこかで通じ合っているようで、面白く感じました。

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 岡村 民夫

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宮沢賢治記念館など

 もう今日の昼すぎには花巻を発ってしまいますが、最後に「宮沢賢治記念館」と、周辺の施設に寄っておくことにしました。

 荷物をかかえて胡四王山の「宮沢賢治記念館」に着くと、このたび副館長となられた牛崎敏哉さんに、まずご挨拶をしました。あいかわらずお忙しそうにしておられましたが、その後わざわざ最新の「宮沢賢治記念館通信」なども私のところまで持ってきていただいて、かえって恐縮しました。どうもありがとうございました。

「フランドン農学校の豚」企画展 館の恒例の「企画展」では、童話「フランドン農学校の豚」を取り上げて、原文テキストの紹介、大がかりでユーモラスなイラスト、人形によるオブジェ、アニメーション映像などを駆使して、作品を手にとるようにわかりやすく示してくれていました(右ポスター)。
 たくさんの子どもたちも、面白そうに展示を楽しんでいましたが、私自身は今回の企画展を見て、賢治のこの童話は図らずも現代の「尊厳死」の問題に対しても、一つの問いかけをしてくれているように感じました。

 童話では、「家畜撲殺同意調印法」という法律が王から布告され、以後この国の家畜は、自分自身の同意なしに殺されることは、なくなります。しかし果たしてこれが、「慈悲深い」法律だったのか否かは、童話そのものが如実に示してくれています。
 形式上は、フランドン農学校の豚は一方的に殺されたのではなくて、その爪印を押した「承諾書」によって、本人も自分の死を納得し受け容れていたのだということが、担保されているかのように見えます。しかし、この「承諾」は、豚の自由意志に基づくものではなく、学校側が豚を監禁し、豚に行動の自由はないという、圧倒的に不平等な環境下でなされたものでした。上のポスターに見るように、豚は威圧する校長の前で、泣く泣く「爪印」を押す羽目になったのです。

 人間に関しても、「尊厳死」を法制化すべきという意見や、終末期医療のあり方をめぐって、最近もさまざまな議論が行われていますが(例えばこちらのページ)、これらについても今日はいろいろと考える機会になりました。人間の場合においても、表面上は「本人が自らの死に同意していた」ように見えても、その置かれた状況によっては、現実にいろいろな問題が起こりうるのです。「いのちの重さをみつめて」という、今回の企画展の副題が、まさに実感される思いでした。
 この問題については、できればまたいずれ稿を改めて書いてみたいと思います。

「わらべ」像 さて、牛崎さんにお礼を言って賢治記念館を後にすると、陽射しのまぶしい坂を下りて今度は「宮沢賢治童話村」に行き、ここに昨年9月にできた「わらべ像」を見ました(右写真)。
 ご覧のように、生き生きとした子どもの姿の銅像ですが、もともとは賢治の作品とは関係なく、盛岡市出身の彫刻家高橋枡旺(ますお)氏が10年ほど前に、自分のお子さんのために制作されたものだそうです。それを、「国際ソロプチミストアメリカ日本北リジョン花巻」が、設立20周年を記念して、昨年花巻市に寄贈したものだそうです。
 童話村の入口からも近い小川のほとりに立っていて、台座のプレートには、「あんまり川をにごすなよ」という、「風の又三郎」(あるいは「さいかち淵」)からの一節が刻まれています。

 この後、「イーハトーブ館」に寄って、間村俊一氏の「鉛筆のジョバンニ」展に感嘆し、少しだけ本を買って、空港に向かいました。

 これまでいつも花巻空港を発つのは夕方でしたが、今日は真夏の昼の、明るすぎるほどの光の中で、左手に胡四王山を見ながら離陸しました。その山頂のトサカのような巨きな杉の木々も見下ろし、飛行機は次には旧天王山や物見崎の上を、南に向かいました。

イーハトーブ音楽祭など

 今日は、伊丹発10時50分といういつもより少し遅い便に乗り、お昼すぎに花巻に到着しました。関西から東北地方へ飛ぶあいだ、通過したどこの空も晴れ渡っていました。

 空港を出ると、まず「イーハトーブ館」に少しだけ寄って、『ワルトラワラ』25号で牛崎敏哉さんが、私の去年発表した「「黒と白との細胞」による千億の明滅」にご親切にも触れていただいているのを購入し、ホテルに荷物を置いて、下根子の賢治詩碑に向かいました。
 花巻の町を歩くとすごい暑さで、はじめてこの町を訪れた8年前のことを思い出します。その後、お盆の頃には岩手県地方を旅することが多いのですが、だいたいその旅行中に、その年最初の「つくつく法師」の鳴き声を耳にするのが、毎年の恒例になっています。その例にもれず、今日の午後、下根子の林の中で、今年初めて「つくつく法師」の声を聞きました。

 詩碑前の広場は、日曜日にもかかわらず静かでした。強い日差しを背後から浴びながらも、しっとりと湿り気を含んだような、あの大きな碑石をしばらくぶりに拝んで、広場の東の端の方の木陰で、1時間ほど過ごしました。
 それから、また市街地の方へ戻るべく歩きはじめましたが、「桜地人館」の前に、賢治の格好をした「案山子」のようなものが立っていて、最初に目にした時は、一瞬ぎくっとしてしまいました(下写真)。前からこんなの、ありましたっけ?

賢治案山子

 炎天下、また豊沢川を渡って、賢治生家や「蔵」の前を通り、上町を西に進み、鍛冶町にある賢治の母イチの実家「宮善」(現「宮澤商店」)に向かいました。ここでは数年前賢治産湯の井戸から、賢治の生誕月である8月だけ、賢治が「産湯」をつかったという「井戸」が公開されているのです(右写真)。
 宮澤商店の立派な門を入ると、賢治記念会の方が現れて、とても丁寧に説明をして下さいました。そして、実際にその井戸から釣瓶で水を汲み上げる体験もさせていただきました。
 井戸水は水温14℃ほどということで、ほんとうに冷たく気持ちのよいものでした。(ちなみに、この時の気温は34℃。)

 「産湯の井戸」を後にして、上町の方に戻ると、すでにさっきからにぎやかな音楽が流れてきていた、「大堰川プロムナード」に行ってみました。ここでは、今年が第一回目となる「イーハトーブ音楽祭」という催しが、行われていたのです。
 花巻以外からも含めて50以上のグループが参加し、4つの会場に分かれて、それぞれの人々がそれぞれの歌や演奏を繰り広げています。
 今年からは、これまで毎年8月に行われていた「賢治生誕祭」はなくなってしまいましたが、この「イーハトーブ音楽祭」は、「みんなで新しい花巻の夏祭りを創りましょう」という言葉をキャッチフレーズにしており、生誕祭のなくなった夏を、これから盛り上げてくれるイベントに育っていくのかもしれません。

イーハトーブ音楽祭2007

 下からは、会場の雰囲気を少しだけお聴きいただけるようにしてみました。5時前の「フィナーレ」の中から、懐かしい「遠い世界に」です。

イーハトーブ音楽祭2007フィナーレより(MP3: 273KB)

花巻(2)

市役所前の朝焼け 目覚ましを6時にかけてあったので、何とか頑張って起きて着替えると、6時半頃に表に出てみました。 まだ薄暗い中を、雪を踏んで市役所の方まで行く途中、出会ったのは雪かきをしている男の人一人だけの静かな朝です。
 じつは、朝7時に市役所のスピーカーから流れるはずの「精神歌」のチャイムを近くで聴きたくてここまできてみたのですが、今日が日曜日であることを忘れていました。そろそろ東の空が紅くなってきた頃に、いったんホテルに帰りました。

 朝食をとると、まずイーハトーブ館に向かい、現在展示中の「鈴木東蔵展」と「全賢フェスタ」を見て、それから書店で今は絶版になっている本を1冊買い、2階の図書室で少し資料をコピーさせてもらいました。館を出て、「ポランの広場」と名づけられている庭園や遊歩道も今日はすべて雪に埋もれたところを苦労して登り、久しぶりに宮沢賢治記念館を見ました。
 連休中とは言え、さすがに雪の中観光客は少なく、のんびりと楽しむことができました。

マルカンラーメン このあと、お昼は「マルカンデパート」の展望大食堂で、「マルカンラーメン」というのを食べました。 言わば、ラーメンの上に、たっぷりの八宝菜を豆板醤風味にした「あん」が掛かっているというもので、 この食堂の人気メニューの一つです。 それにしても、さすがにここはいつもながら大盛況です。
 このあと、また雪の花巻の街を歩いて、林風舎に寄ったりお茶を飲んだりしてから、ホテルに帰りました。

 イーハトーブ館でコピーしてきた資料の一つは、川原仁左衛門編『宮沢賢治とその周辺』の一部ですが、これが「賢治の初恋の看護婦さん」を、日詰出身の高橋ミネさんと同定した最初の文献だったわけです。実際に川原氏の記述を読むと、そう言える証拠というものは特に記載されていないのですが、なぜかその後も大半の研究者は、この説を支持しているようです。
 やはりなんと言っても、胡四王山から「紫波の城」を望んだ短歌群(小川達雄『隣に居た天才』参照)や、文語詩「」を見ると、ある時期の賢治が紫波のあたりに特別な思い入れをしていたことは十分に感じられます。また小川達雄氏の調査によれば、川原仁左衛門氏の奥さんの実家は、高橋ミネさんの実家(「高福」という日詰の大きな八百屋)の筋向かいで、川原氏は何か根拠となるような重要な情報を直接に聞いていたのではないか、というのが小川氏の推測です。
居酒屋「早池峰」 明日は天候が許せば、この日詰のあたりを訪ねてみたいと思っています。

 夜は、居酒屋「早池峰」へ行きました。こたつの席に座れなかったのは残念でしたが、お刺身の盛り合わせ(鯛、マグロ、カンパチ、ホタテ、イカ、それになぜか卵焼きも)と、味噌仕立ての「早池峰鍋」(写真奥)、鯛のかぶと焼き等をおいしくいただきました。
 花巻という内陸の地にありながら、このお店は海の幸も比較的新鮮で、いつもたっぷり食べられて価格も良心的だと思います。

80年目の「異途への出発」(2)

 朝起きると、窓の外は雪景色でした(右写真)。知らないうちに、 夜のあいだにかなり降っていたようです。

 朝食をとってロビーで待っていると、8時30分に、花巻農業高校の阿部弥之さんが来られました。阿部さんとは、昨年後半から 「普代村に賢治歌曲のチャイムを作る計画がある」ということでご相談を受けて以来、花巻のりんごを送っていただいたり、 いろいろとご懇意にさせていただいていました。今回、私が三陸地方を旅行すると申し上げると、さまざまな便宜をはかっていただき、 本当に恐縮してしまうほどでした。

 今日はまず、阿部さんの車に乗せてもらって、イーハトーブ館に向かいました。 雪はまだどんどん降り積もっていくので心配になりますが、阿部さんによれば「今日はまだ優しい雪でよかったですね」ということです。 自動車は、昔の岩手軽便鉄道の跡に沿って走っていき、ここが昔の郡役所、稗貫農学校跡、女学校跡、などと阿部さんの解説つきです。 猿ヶ石川が北上川に注ぐあたりでは、木々はまさに「岩手軽便鉄道の一月」を彷彿とさせ、 「鏡を吊し」たように一本一本真っ白になっていました。
 イーハトーブ館の玄関前の石段は除雪してありましたが、一部は凍結してつるつるになっています。気をつけるように、 と阿部さんに言われながら館に入りました。2階の事務所に上がると、牛崎敏哉さんにお願いして、かなり昔に出ていた「原体剣舞連」 の宮澤清六さん朗読によるソノシートを聴かせていただき、ICレコーダに録音しました。朗読の最後の部分が、独特の節回しで歌曲 「剣舞の歌」 になっていくので、今度いつかこの曲を編曲する時の参考にするためです。
 2階の図書室から階下に降りると、「賢治曼陀羅展」というガラス絵の展覧会をやっていたので、しばらく見ていました。BGMとして、 私が昔に寄贈したCDが流れていて、 うれしいような恥ずかしいような変な気持ちです。

 イーハトーブ館をあとにすると、いよいよ三陸へ向かいます。そもそも今回の旅行で私は、 昨年秋に普代村にできた詩碑を見学するとともに、 ちょうど80年前の今ごろの賢治の旅の跡に、 ちょっとでも触れてみたかったのです。
 賢治のルートとは少しだけ違いますが、まず在来線で盛岡へ、盛岡からは新幹線で二戸まで行き、ここから太平洋岸の久慈まで、 バスに乗りました。雪に覆われた峠道を、バスはくねくねと進んでいきます。しかし天候は徐々に回復して、雪もやんできているようでした。
 久慈からは、三陸北リアス鉄道に乗って、南へ走ります。左手に見える海は、さすがに一面とても深い紺色をして、いかにも冷たそうです。 いくつかの鉄橋を渡り、午後4時頃に普代駅で列車を降りると、郵便局の職員の方が車で迎えに来てくれていました。 これも阿部さんからのご配慮の一環です。

 昨年の秋に建立された「敗れし少年の歌へる」詩碑は、 普代郵便局長の金子功さんが中心になり尽力して実現されたものですが、これからその金子さん運転の車で、北三陸海岸のドライブを楽しんだ後、 詩碑へも案内していただけることになったのです。
 ドライブは、まず「発動機船 一」に 「雑木の崖のふもとから/わずかな砂のなぎさをふんで/石灰岩の岩礁へ・・・」とある通称「ネダリ浜」(右写真) の白壁を黒崎の展望台から眺め、さらに夕暮れの北山崎海岸の展望台へと続きました。車の外に出ると、 とにかく北から吹きつける風がすごかったです。道路に電光表示される温度計には、マイナス5度と出ていました。

 金子さんのお話を聞きながらのドライブに、しばし時のたつのを忘れていましたが、さすがに北山崎海岸から国道に戻る頃には、 あたりは暗くなってきたので、この辺で引き返して堀内漁港の詩碑に向かいました。金子さんが詩碑を建立しようと思い立たれたいきさつや、 その後の苦労話についてもいろいろうかがいましたが、これはまた「石碑の部屋」で詩碑紹介のページを作成する時に、ご紹介することにします。
 漁港脇の「まついそ公園」にある詩碑に着いた時には、もう日はとっぷりと暮れて、フラッシュをたいて撮影するのがやっとでした。 しかし建立者じきじきに案内していただけるとは、詩碑フリークとしてこれに勝る光栄はありません。
 さて、ドライブはまだ終わりません。賢治が1925年1月6日の夜に宿泊し、「文語詩篇ノート」に「寒キ宿」として登場するのは、 野田村下安家にある現在の「小野旅館」の前身であるというのが現在の一応の通説となっていますが、「金子説」ではそうではなくて、 もう少し奥に入った「島川家」という旧家だったのではないかということで、その家の前にも車を走らせていただきました。少なくとも賢治は、 その家の裏手の旧道から山を越えて、下安家の集落に入ってきたのです。

 それから安家川の河口をまわって、今晩私が泊まる宿、問題の「小野旅館」に送り届けてもらいました。 金子さんには多大な感謝とともに、阿部さんからもらった花巻のりんごも、おすそ分けさせていただきました。
 今日のスケジュールはまだ最後にあと一つ、金子さんが帰られてからしばらくたった午後7時に、普代村の合唱団のメンバーの方が3人、 わざわざ宿に訪ねて来られました。お茶を飲みながら、詩碑の除幕式における合唱のこと、 そして賢治歌曲を題材とした普代村のチャイムの選考計画などについて、お話を聞きました。

 今日は最初から最後まで、本当にいろいろな方にお世話になり、イーハトーブの人情の暖かさに触れさせていただいた一日でした。 それに引きかえ80年前の賢治の旅は、まるでみずから進んで孤独を求めたようにさえ思えます。