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如来的あるいは地質学的視点

 「青森挽歌」の最後は、次のように終わります。

     《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます

 ここで二重括弧に囲まれた《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉の意味は、全ての人間(あるいは全ての衆生)は、悠久の時間の中で輪廻転生を繰り返すうちに、互いに兄弟となったことが必ずあるのだから、その中でことさら今生の肉親についてだけ祈るというのは無意味なことだ、ということになるでしょう。
 私たちでも、生き物たちが生まれかわり死にかわりするたびに、様々な出会いと別れを繰り返していくそのような生命の連鎖を、理屈として想像することはできますが、三世十方にわたる全てを見通す能力=「天眼」を備えた仏(如来)にとっては、それは直に目に見え感得される眺望だということになります。
 賢治は、このようにして全ての生命が一体であると考えることによって、自分も妹トシのことばかりを祈っていてはいけないと、自らを戒めたのです。

 この「青森挽歌」の舞台は、1923年7月31日の夜から8月1日の未明、賢治が花巻から青森に向かっていた東北本線下り夜行列車の中で、当時の時刻表調査によると、青森駅着は午前4時30分とされています。作品中の時間を考えてみると、最初の方に「はるかに黄いろの地平線/それはビーアの澱をよどませ」とあることから、ほんの少し地平線は明るくなってきているのかと思われ、また終わりの方では「ぢきもう東の鋼もひかる」と書かれており、もう夜明けは近いのだと推測されます。ちなみに、1923年8月1日の青森市における日の出は4時32分、市民薄明開始は4時1分でした。
 そもそも「青森挽歌」というタイトルからして、これは青森県内の情景だということを作者が示しているわけですが、作品が幕を閉じる段階では、終着駅の青森に、かなり近づいていると考えておいてよいでしょう。

 さて、この「青森駅に着く少し手前」というのは、逆向きの列車に乗れば「青森駅を発車して少し行ったところ」ということになりますが、翌1924年の修学旅行からの帰途において、ちょうどこのあたりで書かれた作品があります。
 「〔つめたい海の水銀が〕」がそれで、下記はその「下書稿(二)」で、「島祠」と題されていた段階の全文です。

    島祠
               一九二四、五、二三、

うす日の底の三稜島は
樹でいっぱいに飾られる
パリスグリンの色丹松や
緑礬いろのとゞまつねずこ
また水際にはあらたな銅で被はれた
巨きな枯れたいたやもあって
風のながれとねむりによって
みなさわやかに酸化されまた還元される
    それは地球の気層の奥の
    ひとつの珪化園である
海はもとより水銀で
たくさんのかゞやかな鉄針は
水平線に並行にうかび
ことにも繁く島の左右にあつまれば
鴎の声もなかばは暗む
    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 一行目の「三稜島」とは、陸奥湾に浮かぶ「湯の島」のことで、列車の車窓からもすぐ目の前に、かわいらしい三角の形で見えます。 下の写真は、青森駅からは17.2km東の、「浅虫温泉駅」(賢治の当時は「浅虫駅」)からの眺めです。

東北本線から見る「湯の島」
浅虫温泉駅を通る列車から見る「湯の島」

 上の写真では小さくて見えにくいですが、島の下部の中央より少し左寄りのあたりには、この島に祀られている弁財天の社の、朱色の鳥居も見えています。これこそが、賢治が下書稿(二)のタイトルとした「島祠」なのでしょう。
 賢治はよほどこの島の風景が気に入ったのか、初夏のその木々の色を、「パリスグリン」「緑礬いろ」「あらたな銅で被はれた」などと様々な瑞々しい言葉で表現し、島全体を「ひとつの珪化園」とも呼んでいます。

 最後から4行目の「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき」という箇所の意味は、島全体が海の中に沈んでいて、海底にあった時、ということでしょう。実際にこの「湯の島」が、過去のある時代には海中に没していたのかどうか私にはわかりませんが、青森市から4kmほど内陸に入った台地にある三内丸山遺跡は、縄文時代には海に面した海岸段丘にあったと言われていますから、島も含めてこのあたりの地形は、その後隆起して今のようになったのかもしれません。
 いずれにせよ、朱い鳥居も含めて島全体が海中にあるところを想像すると、それはまるでおとぎ話の竜宮城のような景色です。そしてさらにここからがこの作品の真骨頂なのですが、賢治はこの不思議な海中世界で、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」と言うのです。

 「鱗をつけたやさしい妻」というのですから、その「妻」とは魚なのでしょう。そして魚と夫婦になっているということは、賢治自身も魚だったというわけです。
 1918年5月19日付けの保阪嘉内あて書簡63には、次のような一節があります。

もし又私がさかなで私も食はれ私の父も食はれ私の母も食はれ私の妹も食はれてゐるとする。私は人々のうしろから見てゐる。「あゝあの人は私の兄弟を箸でちぎった。となりの人とはなしながら何とも思はず呑みこんでしまった。私の兄弟のからだはつめたくなってさっき、横はってゐた。今は不思議なエンチームの作用で真暗な処で分解して居るだらう。われらの眷属をあげて尊い惜しい命をすてゝさゝげたものは人々の一寸のあわれみをも買へない。」
私は前にさかなだったことがあって食はれたにちがひありません。

 ここで賢治は、自分が過去世において魚だったことを想像しつつ、本当にそうだったに違いないとまで言っているわけですが、設定こそ違えど、「島祠」に出てくるのも、その「魚としての過去世」です。

 さて、この「島祠」に見られる世界観は、この現世以外の別の輪廻転生の「世」を見ているという点においては、「青森挽歌」に現れた如来的な視点と共通していますが、それが目ざす発想の方向性は、正反対を向いていると言えます。
 「青森挽歌」の、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という思想は、全ての衆生が実は互いに肉親であり一体であるという認識に立って、だから一つの世における個別の愛だけにとらわれるのではなく、全ての生き物の救済をこそ目ざさなければならない、と説くものでした。
 それは、法華経の言葉で言えば、「我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」というような、大乗仏教的な「究極の幸福」を志向するものです。

 これに対して、「島祠」が扱っているのは、上のような全ての時間・空間を射程に入れた壮大なスペクタクルではなくて、地質学的な時間と空間におけるたった一点、すなわち陸奥湾の海底に美しい秘境があって、そこで魚である自分がやさしい妻と暮らしていた、というただそれだけのエピソードに、焦点を当てているのです。
 魚の一生は、本当にはかないものでしょうが、それでもやさしい妻との生活には、魚としての「ささやかな幸福」があったはずです。修学旅行の帰途、無事に引率教師としての責任を果たせそうでほっとしていた賢治は、車窓の景色を見てふとこのような空想をしたのです。

 ただ、こんな小さな幸せに甘んじるなどという生き方は、本来の真面目な賢治にとっては、あまり素直に肯定できるものではなかったはずです。そんな小市民的(小魚的?)な満足には安住せずに、全ての人の幸せのために、たとえ自らは苦しくとも努力を重ねるべきだというのが、彼の基本的な考えでした。「青森挽歌」の、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉も、まさにそんな賢治らしい禁欲的な思想の表現です。
 一方、この「島祠」で賢治が描いた世界というのは、そういう真面目な賢治の考えとは一線を画しますが、むしろそれへの一つのアンチテーゼになっているのではないかと、私には思えるのです。全ての時間と空間に通ずる普遍的な「善」を求めるかわりに、四次元空間の中で何の変哲もないただ一点の、そのかけがえのなさを愛でるという視点が、ここには提示されています。
 ここからふと私が連想するのは、たとえば「〔はつれて軋る手袋と〕」という作品の中の、次のような一節です。

板やわづかの漆喰から
正方体にこしらえあげて
ふたりだまって座ったり
うすい緑茶をのんだりする
どうしてさういふやさしいことを
卑しむこともなかったのだ

 この箇所が、作品全体の中でどういう意味を持っているのかということはちょっとわかりにくいのですが、しかしここには、素朴な家で静かに暮らす夫婦の様子が描かれているようで、そして賢治はそのような小市民的な生き方を、(何かの後悔とともに?)あらためて肯定しているように思えるのです。

 それからあともう一つ、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という一節から連想することがあります。
 それは、前年夏の「宗谷挽歌」において賢治は、

けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く

と、自ら海に飛び込むことさえ覚悟し、さらに

みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

と自らに言い聞かせていたことです。
 ここにも表れているように、賢治は死んだトシが、なぜか海の底に囚われていると考えていたような節がありますし、また「」の下書稿(一)の「海鳴り」でも、彼は海に向かって挑むように苦悩をぶつけ、また同時に「海よしづかに青い魚族の夢をまもれ」と、魚の保護を海に懇願していたのです。
 すなわち、当時の賢治にとって海とは、亡きトシが住む他界のように想定されていた面があり、「海に封ぜられても悔いてはいけない」と思い詰めていたのは、トシに再会することの代償でもあったのでしょう。

 そのような賢治が、「海に封ぜられる」という運命を一種のファンタジー化したものが、童話断片「サガレンと八月」だったのではないかと思うのですが、翌年に書かれたこの「島祠」は、その新たな肯定的なファンタジー化とも言えるのではないでしょうか。竜宮城のような海底の秘境で、「鱗をつけたやさしい妻と」一緒に暮らすというのであれば、「海に封ぜられる」ことさえも、はかなくささやかな幸せとともに、甘受してもよいかもしれません。

 以上、青森駅のやや東を走る列車内というほぼ同じ場所で着想された、二つの作品を見てみました。
 1923年の下り列車における「青森挽歌」の《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉と、1924年の上り列車における「島祠」の「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」というイメージとは、どちらも輪廻転生観に基づいた、如来的=地質学的視点を前提としているところは共通していたのですが、前者は、普遍的な「善」=「究極の幸福」のためには、この世の個人の感情などにとらわれるなと説くのに対して、後者は、はかない生における個の「やさしさ」を大切にしつつ、「ささやかな幸福」に目を向けるものでした。
 二つの作品の方向性は、対極を志向するものと言えます。

 前回の「津軽海峡のかもめ」という記事では、死んだトシが鳥になったのではないかという賢治のイメージに基づいて、二つの作品を比較してみましたが、今回は、亡きトシが海に囚われているのではないかという、前者とは大きく異なったイメージが関連しているようでした。
 鳥なのか海なのか、亡きトシの行き先をいったいどう理解したらよいのか、それは賢治にとっても理屈でどうこうできるものではなかったのでしょうし、ある時期までは両方のイメージが混然として、悩める賢治の心の中で揺れ動いていたのかと思われます。

 そしてやはり、1923年夏のサハリン旅行の往路と、1924年の北海道修学旅行の復路で、ほぼ同じ場所で着想された対照的な内容の二作品が、「対」になっているように思われるというのが、前回と今回を通して感じられたことでした。

「トシの行方」の二系列

1.仏教的輪廻転生観と、もう一つの要素

 トシの死後、賢治は自分の妹がいったいどこへ行ってしまったのか、今どこでどうしているのか、長期間にわたって考え続けました。その様子はいくつもの作品に描かれていますが、その内容を詳しく見ていくと、当時の賢治の心の中には、大きく分けて二つの系列のイメージや考えがあったのではないかと思われます。

 その一つの系列は、熱心な仏教徒だった賢治としては当然のことながら、仏教の輪廻転生観に基づいた考えです。
 それはすでにトシの臨終の前から、「永訣の朝」の最後の場面で始まっています。

どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

 ここで賢治は、トシが天上すなわち「天界」に転生することを、祈っているのです。
 そして、トシの死後半年あまりが経った「風林」では、あたかも上の祈りが叶ったかのように、トシが「天界」にいることを示唆する「通信」が記されています。

 (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
  光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか
  …………此処あ日あ永あがくて
        一日のうちの何時だがもわがらないで……
  ただひときれのおまへからの通信が
  いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)

 ここには、美しい光や妙なる楽音に包まれ、永劫とも思える時間を過ごすトシがいます。

 しかしこれに対して、その翌日に書かれた「白い鳥」において賢治は、妹の存在を次のように感じとっています。

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
  (それは一応はまちがひだけれども
   まつたくまちがひとは言はれない)

 ここで賢治は、朝の光の中を飛ぶ「白い鳥」を見て、それを「死んだ私の妹だ」ととらえているわけです。人間が死んだ後に鳥になるとすれば、これは仏教的には「畜生界に転生した」と解釈することもできますが、しかしこれに続けて賢治が引用するのは、ヤマトタケルの白鳥伝説です。

  (日本武尊の新らしい御陵の前に
   おきさきたちがうちふして嘆き
   そこからたまたま千鳥が飛べば
   それを尊のみたまとおもひ
   芦に足をも傷つけながら
   海べをしたつて行かれたのだ)

 『古事記』に記されているこの説話は、仏教的な輪廻転生ではなく、「死者の魂が鳥になる」という日本の固有信仰に基づいています。もとよりこのヤマトタケルの例に限らず、古来から日本には同様の伝説がたくさんあって、例えば柳田国男の『遠野物語』には、「オット鳥」になった長者の娘の話(五一)や、「馬追鳥」になった奉公人の話(五二)や、カッコウとホトトギスになった姉妹の話(五三)などの「小鳥前世譚」がいくつも収められていますし、折口信夫も「「とこよ」と「まれびと」と」において、「祖々の魂」が鳥と化して、常世と此土を往還するという古代の信仰について述べています。
 すなわち、賢治が「白い鳥」に、わざわざヤマトタケル伝説を引用していることからすると、ここで彼が白い鳥を妹の化身と感じたのは、仏教の輪廻転生観に拠ったのではなく、このような鳥にまつわる日本古来の信仰に触発されたのだと考えるべきでしょう。

 しかし、「妹が鳥になる」というこの賢治の想念は、その妹を探してサハリンへ向かう途上の「青森挽歌」においては、また様相を異にしてきます。すなわち、その140行目から191行目にかけて、賢治が妹の状況について想像をめぐらす内容は、次のように展開していくのです。

そしてそのままさびしい林のなかの
いつぴきの鳥になつただらうか
l'estudiantina を風にききながら
水のながれる暗いはやしのなかを
かなしくうたつて飛んで行つたらうか
(中略)
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それがそのやうであることにおどろきながら
大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた
わたくしはその跡をさへたづねることができる
(中略)
暗紅色の深くもわるいがらん洞と
意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声
亜硫酸や笑気のにほひ
これらをそこに見るならば
あいつはその中にまつ青になつて立ち
立つてゐるともよろめいてゐるともわからず
頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち 

 ここでもやはり賢治は、まずは妹が「いつぴきの鳥になつただらうか」と想像するのですが、それに続けて彼は、妹が「天界」にいる様子、「地獄界」にいる様子へと、考えを巡らせていきます。ここでは彼は、仏教で「六道」と称される「天」「人」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」という輪廻転生先に従って、妹の行方を考えているわけです。

 このように、賢治が考える「トシの行方」は、これまでのところ「仏教的輪廻転生観」と「日本固有信仰」という二つの系列の要素が、あざなえる縄のように絡み合って表れるのですが、そういった変転は次の「宗谷挽歌」にも見てとれます。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。

 ここで最初に賢治は、もしもトシが自分を呼んだら、自ら海に落ちようと考えています。この賢治の決意は、彼が「トシは海中にいる」と想定していたと考えなければ、理解することはできません。ここで、もしも海の底が仏教に言う「地獄界」なのであれば、このトシの境遇を輪廻転生の結果と考えることもできますが、実は仏教教理における地獄は「地下一千由旬(1万km以上)」という隔絶された距離にあって、賢治が海に飛び込んだからと言って到達できる場所ではないのです。
 すなわち、この部分の賢治の考えは仏教的なものとは言えず、何か別の他界観によるものと考えざるをえません。

 次に賢治は、上記を否定するように、トシは「呼ぶ必要のないとこに居る」とあらためて考え直します。その理由は、括弧内に記されているように、トシは立派な衣装を着て「まっすぐにのぼって行った」のだからというのです。すなわち、トシは「天界」に転生したのだから、海の中から賢治を呼ぶなどありえないということで、これは仏教的な輪廻転生観に基づいた考えです。
 しかし、それでも賢治は心からそう信じるには至らず、しばらく後ではまた次のような疑念を吐露します。

とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
そんなしあはせがなくて
従って私たちの行かうとするみちが
ほんたうのものでないならば
あらんかぎり大きな勇気を出し
私の見えないちがった空間で
おまへを包むさまざまな障害を
衝きやぶって来て私に知らせてくれ。
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。
 ( おまへがこゝへ来ないのは
   タンタジールの扉のためか、
   それは私とおまへを嘲笑するだらう。)

 ここで賢治は、あらためてトシが天界に往生していない可能性を想定して、もしその場合には「いままっすぐにやって来て/私にそれを知らせて呉れ」と彼女に懇願し、さらにその上で「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、決意を記しているのです。

 つまり結局、「宗谷挽歌」における賢治は、一方では仏教的にトシの天界往生を信じようとしながら、どういうわけかもう一方では、彼女が「海の中」に囚われているという考えを、抱き続けているのです。彼の中で、仏教的な死生観と、それとは異なった別の考えは、入れ替わるように交代して現れ、その感情は揺れ動いています。

 そして、これが次の「オホーツク挽歌」以後になると、むしろ仏教的な考えは影を潜め、トシの居場所は次のようにイメージされています。

わびしい草穂やひかりのもや
緑青は水平線までうららかに延び
雲の累帯構造のつぎ目から
一きれのぞく天の青
強くもわたくしの胸は刺されてゐる
それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない

 賢治は、サハリンの栄浜の海岸からはるか沖を眺め、トシは海の「青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」と想像しています。これも、仏教的な輪廻転生先として解釈することは困難です。

 さらに、「噴火湾(ノクターン)」には、次のように記されています。

駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない

 ここでは一転して「海」ではなく、山の上の雲の中に、トシがいるのではないかと想像されていますが、これもまた仏教の教理から理解することはできません。

 以上見たように、仏教とは異質なこの第二の系列において、賢治は死んだトシが「海の中」にいたり、また「海の彼方」にいたり、あるいは「山上の雲の中」にいたりすると想像しているわけです。
 ここで、死者が山の上にいる、または海の彼方や海の中にいるというイメージから、私がどうしても連想せざるをえないのは、柳田国男以来の民俗学が、仏教伝来以前の日本固有の死生観として明らかにしてきた、二種類の祖霊信仰です。

 その一つは、死者の魂は里を見下ろす山の上に昇り、そこにとどまって子孫を見守るとするもので、柳田国男が『先祖の話』などで詳しく展開した死生観です。
 賢治が「噴火湾(ノクターン)」において、駒ヶ岳の山上の雲にトシを感じたことの背景には、このような日本固有の霊魂観の影響があったのではないかと、私は感じます。

 そしてもう一つ、こちらの方が賢治の死生観を考える上ではより重要なのではないかと思うのですが、日本列島では古来より、死者の魂は海の彼方や海の中にある「常世の国」に行くという祖霊信仰があったのです。その地の名前は、奄美大島から沖縄、先島諸島に至る南西諸島では、「ニライカナイ」と呼ばれてきました。
 上に見たように、賢治は「宗谷挽歌」では、死んだトシは海中にいると想定しており、また「オホーツク挽歌」では、海の彼方の水平線のあたりにトシがいて、「なにをしてゐるのかわからない」と思っています。「海の彼方」あるいは「海の中」に死者のいる他界があるというイメージは、まさに南島で信じられている「ニライカナイ」に符合しているのです。

 この「ニライカナイ」という言葉は、南西諸島で使われているだけで、九州以北の本土では用いられていませんが、「海の彼方に常世の国がある」という他界観そのものは、実は古い時代には日本列島全体で、広く共有されていたと考えられています。
 柳田国男は、「ニライカナイ」の「ニ」は、『古事記』などに「死者の国」として登場する「根の国」の「根」と同源の語であるとしていますし、海の果ての浄土への往生を目ざして、船で沖へ漕ぎ出して行くという「補陀洛渡海」は、有名な那智勝浦の補陀洛山寺にかぎらず、土佐の足摺岬、熊本県玉名市、鳥取県青谷岬などでも行われていた伝承が残っています。また後述するように、海中の楽土としての「竜宮」の伝説や、海幸彦・山幸彦の「綿津見の宮」も、同根のものと考えられています。
 すなわち賢治が、海の彼方・海の底に、死んだトシがいるのではないかと考えていたことは、仏教以前の日本古来の死生観に、はるかにつながっているのではないかと思われるのです。

 そう思ってさらに他の作品を見てみると、上記以外にも興味深い事柄が出てきます。
 賢治は、サハリン行の翌年の1924年5月に、修学旅行の引率としてまた北海道に渡り、この時にも亡きトシをめぐって重要な内的ドラマが繰り広げられたのではないかということについて、先日「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書きました。この旅行中、彼が苫小牧の海岸でスケッチした「」の先駆形「海鳴り」には、次のような箇所があります。

そのまっくろなしぶきをあげて
わたくしの胸をおどろかし
わたくしの上着をずたずたに裂き
すべてのはかないのぞみを洗ひ
それら巨大な波の壁や
沸きたつ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ
いまあたらしく咆哮し
そのうつくしい潮騒えと
雲のいぶし銀や巨きなのろし
阿僧祗の修陀羅をつつみ
億千の灯を波にかかげて
海は魚族の青い夢をまもる

 ここで賢治は、夜の荒海に向かって、おそらくトシをめぐる自らの胸の苦悩を浄化してくれと懇願しているわけですが、下から3行目に出てくる「阿僧祗の修陀羅をつつみ」という言葉が注目されます。以前に「竜宮の経典」という記事に書いたように、「阿僧祗の修陀羅」とは厖大な経典という意味で、これは「海中の竜宮には莫大な量の華厳経が蔵されている」という伝説に基づいた記述と考えられます。
 一方、「竜宮」という概念は、柳田国男が「海神宮考」で考察したように、「海底の仙郷」という意味において、南島の「ニライカナイ」と同じルーツを持つものと考えられます。すなわち、この箇所で賢治は、竜宮やニライカナイに相当するような海中の他界をイメージしているわけで、するとこれは次の行の、「海は魚族の青い夢をまもる」という言葉にもつながっていきます。
 すなわち、ここで「青い夢」を守られている「魚族」とは、死んで海中の他界へ行った者たちを象徴していると考えることができ、するとその中には、「宗谷挽歌」で海中にいると想定されていたトシも、含まれているかもしれないのです。

 さらに、この修学旅行における最後の作品である「〔つめたい海の水銀が〕」の先駆形で、「島祠」と題されている「下書稿(二)」の全文は、次のようなものです。

一三三
  島祠
               一九二四、五、二三、
うす日の底の三稜島は
樹でいっぱいに飾られる
パリスグリンの色丹松や
緑礬いろのとゞまつねずこ
また水際にはあらたな銅で被はれた
巨きな枯れたいたやもあって
風のながれとねむりによって
みなさわやかに酸化されまた還元される
    それは地球の気層の奥の
    ひとつの珪化園である
海はもとより水銀で
たくさんのかゞやかな鉄針は
水平線に並行にうかび
ことにも繁く島の左右にあつまれば
ラの声もなかばは暗む
    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 これは、青森県の浅虫温泉のすぐ沖に浮かぶ、「湯の島」を描いたものですが、その最後の4行が注目されます。「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき」ということは、この島がまだ海中に沈んでいた時、ということだと思われ、そして「珪化園」と形容されるこの島の綺麗な様子に加え、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」というイメージは、まさに「竜宮」そのものです。
 すなわち、「海鳴り」に続いてその2日後にも、賢治の心中には海中の「竜宮」が思い描かれていたのです。

 ということで、賢治が「死んだトシの行方」と関連して、いくつかの作品で想定していた「海中」や「海の彼方」というイメージには、南島の「ニライカナイ」や「竜宮」の概念に、やはり通ずるものがあるのです。
 また、先日「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書いたように、「〔船首マストの上に来て〕」という作品において賢治は、トシの死を受容する上で自らが体験した何か大きな心境の変化を描いたのではないかと私は思うのですが、そこでも彼にとって「海」という場所が、大きな役割を果たしたことが見てとれました。やはり彼にとって海とは、死と密接につながった何かを帯びた「他界」だったのではないでしょうか。

 しかしそれでは、はたして当時の賢治は、この「ニライカナイ」=海中あるいは海の彼方の他界という概念を、知識として持っていたのでしょうか。彼は、このような他界観を知った上で、「トシは海の中や彼方にいる」と考えていたのでしょうか。

2.賢治は「ニライカナイ」を知っていたか

 賢治の最も重要な親友の一人に、「禊教」という教派神道の家に生まれた保阪嘉内がいました。その「嘉内」という名前の由来について、大明敦編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(山梨ふるさと文庫)に、次のような説が紹介されています。

 明治二十九年十月十八日、嘉内は善作・いまの長男として、生を受けた。「嘉内」という珍しい名は、奄美・沖縄地方で海の彼方にあると信じられていた楽土「ニライカナイ」に由来し、この地にも微かに残る古層の稀人信仰に基づくという。

 もしもこのように、保阪嘉内の名前が「ニライカナイ」に由来しており、さらに嘉内自身がその意味するところを知っていたとすれば、親友だった賢治も、嘉内からそれを聞いた可能性が当然あるわけです。
 その一方、韮崎市の発行する「広報にらさき」2009年8月号の特集「アザリア記念会」において、嘉内の長男の保阪善三氏は、次のように述べておられます。

善三さんと嘉内の名前について

 先祖代々についで行く名前が 「善蔵」 というのですが、私が1月3日生まれだったので蔵を三という字に変えて、長男ですが三という字がついています。これは祖父がつけたのだと思います。嘉内という名については、沖縄の「ニライカナイ」からなんていう人もあるようですが、やはり4代くらい前の先祖に「嘉蔵」という名がありますので、私はその関係じゃあないかと思いますね。嘉内という名が突然出たわけではありません。

 というわけで、双方で意見が分かれているようですが、私としては、嘉内が生まれた1896年(明治29年)という時点で、まだ「ニライカナイ」という言葉は沖縄以外の本土ではほとんど知られておらず、たとえ嘉内の父親が教派神道の熱心な信者だったとしても、これを知っていて息子の名前に付けたということは、考えにくいのではないかと思うのです。

 ここで、「ニライカナイ」という言葉が本土で知られていった経過を簡単に振り返ってみると、この語が本土に最初にもたらされたのは、江戸時代初期に琉球王国に渡った袋中良定という僧が、帰国後に著した『琉球神道記』に、「ギライカナイ(儀来河内)」という言葉を記したのを嚆矢とするようです。この版本は、1648年に初版が出たようですが、重要文化財に指定された「古文書」ですので、明治になってもよほど専門の研究者でないかぎり、これを直接見ることは無理だったでしょう。
 また『琉球神道記』が活字となって出版されたのは、1934年(昭和9年)のことでしたから、この刊本の記載が嘉内の命名や賢治の知識となったことはありえません。

 次に注目すべきは、「沖縄学の父」と言われる民俗学者・言語学者の伊波普猷の業績です。伊波は、16-17世紀頃に首里王府によって編纂された歌謡集「おもろさうし」を研究し、1911年に『古琉球』を出版しましたが、その中では高離島の祭で神に告げる詞の一部に、その意味の説明はないものの、「ニライカナイ」という語が登場しています。
 さらに伊波は、1924年に『琉球聖典おもろさうし選釈』を刊行しましたが、ここでは、「にるや。かなやは、にらい・かないのこと、何れも海の彼方の理想郷の義」との説明がなされています。

 一方、伊波に刺激を受けた柳田国男は、1920年から1921年にかけて、奄美から沖縄、先島を旅し、その旅行記を「海南小記」と題して、1921年の3月から5月まで朝日新聞に連載しました。この「海南小記」には、直接「ニライカナイ」という言葉は出てきませんが、「初夏の暁の静かな海を渡って、茲に迎へらるゝ神をニライ神加奈志と島人は名づけて居た」との記載があります。
 柳田が、「ニライカナイ」という言葉を最初に用いたのは、南島の旅行を終えた1921年2月に久留米で行った講演「阿遅摩佐の島」において、「ギライカナイは又ニライカナイとも謂ひまして、海のあなた天の外の、神々の御住国であります。沖縄人の Valhalla であります」と述べた時ではないかと思われます。この「阿遅摩佐の島」が「海南小記」に併収して出版されたのは、1925年のことでした。

 また、柳田と並び称される折口信夫は、1923年5月に「琉球の宗教」を著し、「琉球神道で、浄土としてゐるのは、海の彼方の楽土、儀来河内(ギライカナイ)である。(中略)儀来は多く、にらい・にらや・にれえ・ねらやなど発音せられ、稀には、ぎらい・けらいなど言はれてゐる。河内は、かない・かなや・かねやと書く事がある。」と述べています。

 以上、「ニライカナイ」に関する中央論壇の動きをざっと見たかぎりでは、保阪嘉内が生まれた1896年の時点では、本土ではたとえ宗教関係者といえども、「ニライカナイ」という言葉とその意味を知っていた人は、まだいなかったのではないかと思われるのです。
 また、1923年8月にサハリンに旅をした賢治も、この時点で「ニライカナイ」という言葉やその意味を知っていたとすれば、3か月前に刊行された『世界聖典全集 後輯 第15巻』に収録された、折口信夫の「琉球の宗教」を通じてということくらいしか考えられず、これもかなり可能性の低いことと言わざるをえません。

 すなわち賢治が、「ニライカナイ」に代表されるような死生観――「死者は海の彼方・海の底にある常世へ行く」という思想について、この時点で知識として知っていたとは考えにくいのです。しかしながら、いつとはなしに周囲の人々から吸収した日本古来の他界観、あるいは一種の「集合的無意識」のなせるわざなのか、また彼の宗教的感性の鋭さによるものか、理屈ではない何かの感覚によって、彼は「死んだ妹は海の奥にいる」と、ばくぜんとイメージするようになったのではないでしょうか。

 宮澤賢治は熱心な仏教徒であったことから、従来はその死生観についても、専ら仏教的な観点のみから研究が行われてきました。しかし、今回上記で見たように、彼が死後のトシについて抱いていたイメージや想念には、実は仏教とは異なった日本固有の他界観に由来する部分も、かなりあったと思われるのです。
 私自身も、賢治は最終的に「薤露青」や「〔この森を通りぬければ〕」などに至って、つねにトシを身近に感じるような心境に至ったのではないかと考えていますが、これも仏教的な教理からは、まったく説明のつかないことです。
 しかし、たとえば柳田国男が指摘するように、日本ではもともと死者の霊は遠くへは行かずにこの国の中に留まって生者を見守ると考えられていたこと、また「幽顕二界」の交通が頻繁に意識されてきたこと(『先祖の話』より)からすれば、そのような心境も、もっと無理なく理解できるようになるのではないかと思うのです。

「サガレンと八月」の続き

 「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」
 西の山地から吹いて来たまだ少しつめたい風が私の見すぼらしい黄いろの上着をぱたぱたかすめながら何べんも通って行きました。
 「おれは内地の農林学校の助手だよ、だから標本を集めに来たんだい。」 私はだんだん雲の消えて青ぞらの出て来る空を見ながら、威張ってさう云ひましたらもうその風は海の青い暗い波の上に行ってゐていまの返事も聞かないやうあとからあとから別の風が来て勝手に叫んで行きました。

 童話「サガレンと八月」は、その書き出しからして本当に切なく魅力的ですが、残念なことにこの作品は、未完に終わっています。タネリという少年が、母親の戒めを破って、浜辺で透明なくらげを透かして物を見てしまったために、犬神によって海に連れ去られ、蟹の姿に変えられて海底でチョウザメの下男にされてしまうのですが、ここで作者は執筆を中断しているのです。
 はたしてこの後、物語はどういう風に展開していく予定だったのか、賢治ファンならどうしても知りたいと思ってしまうところですが、それは今となっては知る由もありません。
 以下は、それについて私なりに勝手に空想してみた、「きれぎれのものがたり」です。

1.サハリンの海の虜囚

 「サガレン」とはサハリン(樺太)の古称で、賢治が1923年(大正12年)にサハリンを訪ねたのは「八月」でしたから、この旅行と「サガレンと八月」が密接に関連していると考えるのは、ごく自然なことです。
 実際、天沢退二郎氏は「幻の都市《ベーリング》を求めて」(『《宮沢賢治》論』所収)の中で、「この一九二三年八月の樺太旅行のときに書かれたか、少なくとも着想されたと考えられる童話断片「サガレンと八月」」と書いていますし、鈴木健司氏は「「サガレンと八月」から受けとったもの」(『宮沢賢治 幻想空間の構造』所収)において、「「サガレンと八月」には「オホーツク挽歌」の裏の世界が描かれている」と述べています。鈴木氏が指摘しているとおり、「サガレンと八月」の自然描写は、「オホーツク挽歌」のそれと、かなりの部分で共通しているのです。

 そうすると、「サガレンと八月」の物語内容も、サハリンを旅した時の賢治の考えや心情と関係しているのではないかと考えてみることができますが、比べてみるとそこには確かに共通する要素が認められます。
 上述のように、「サガレンと八月」で主人公のタネリは、海底でチョウザメの下男にされてしまうのですが、以前にもご紹介したように、ロシアでは昔からサハリン島の形が「チョウザメ」に喩えられるのです。
サハリンとチョウザメ チェーホフによるドキュメント『サハリン島』には、次のような記述があります。

 サハリンは、オホーツク海中にあつて、ほとんど1000露里に亙るシベリアの東海岸と、アムール河口の入口とを大洋から遮断してゐる。それは、北から南へ長く延びた形をしてゐて、蝶鮫を思はせる格好だ、と言ふ著述家の説もある。(岩波文庫版上巻p.40)

 その比喩の妥当性については、右のように並べた図を見ていただければ、一目瞭然でしょう。

 もし「チョウザメ」が「サハリン島」を表しているとすれば、「海底にあるチョウザメの住みかで下男として使われる」という設定は、「サハリンの海底に囚われる」という事態の、実に巧みな隠喩になっています。
 そしてこれは、「宗谷挽歌」における、賢治の下記の表現にもつながっていきます。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
(中略)
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。
(後略)

 すなわち、宗谷海峡において賢治は、トシから呼ばれたら自ら海に落ちようと思い詰めていて、その結果として「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」とも、考えていたのです。
 つまり、「サガレンと八月」におけるタネリの境遇――サハリンの海底に囚われるという状態は、賢治がこの地を訪ねるにあたって、実は自ら秘かに覚悟を定めていたことだったのであり、それはひょっとしたら賢治自身がそうなったかもしれない運命を描いているのです。
 また、やはり「宗谷挽歌」で賢治は、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」と宣言していますが、ここで彼が想定している海の「鬼神」の一つが、タネリをさらった「犬神」なのでしょう。

 それでは、そもそも賢治がサハリンの海の虜囚となるかもしれない危険を冒そうとした目的は、いったい何だったのでしょうか。
 それは、「宗谷挽歌」のテキストの上では、「みんなのほんたうの幸福を求めて」、つまり仏教的真理を求めるための自己犠牲と位置づけられています。しかしよく考えてみると、この箇所のすぐ前には「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら/いままっすぐにやって来て/私にそれを知らせて呉れ」と記されており、トシの方から「やって来て」、「知らせて呉れ」るのならば、彼が真理を知るためにはそれで十分であって、何も賢治が海に落ちて「封ぜられ」る必要はありません。
 やはり賢治にとって、サハリンの海に封ぜられかねない危険を冒す本当の目的は、「死んだトシに会う」ということにあったのだと、私は思います。そもそもこれこそが、彼のサハリン旅行の目的でした。
 そして、「宗谷挽歌」の冒頭には、「けれどももしとし子が夜過ぎて/どこからか私を呼んだなら/私はもちろん落ちて行く」とありますが、人はふつう誰かから呼ばれたら、呼んだ相手がいると思う方へ行こうとするでしょうから、賢治が海に「落ちて行く」と考えていたということは、やはり彼の想定では死んだトシは、海の底にいると思われていたわけです。

 つまり賢治は、この旅において自分がトシに会えるとすれば、その形として次のようなイメージを抱いていたのではないでしょうか。すなわち、サハリンで自分はトシに呼ばれるかまたは鬼神に挑まれるかして、海に落ちて封ぜられるが、そこでついに自分は、妹との再会を果たすことができるのではないか・・・。
 まさにここのような幻想こそが、鈴木健司氏の言う「「オホーツク挽歌」の裏の世界」の内実だったのだと、私は思います。そしてこれが、私が「サガレンと八月」の物語の「続き」を想像する上での、大きな鍵になります。
 タネリは犬神に拉致されて「海に封ぜられ」た後、彼はそこで(賢治にとっての妹に相当する)誰かに、「会う」ことになるのではないでしょうか。

2.「おまへの兄さん」という表現

 もしも、賢治の思いを直接そのまま童話にすれば、タネリが海底に囚われてそこで遭遇するのは、タネリ自身の「死んだ妹」だということになりますが、「サガレンと八月」の残された草稿には、タネリに妹がいたとか死んだとかいう記述はどこにもありません。
 しかしそのかわり、タネリには兄がいる(いた?)ようで、それは次のような母親の言葉に、一か所だけ登場します。

「ひとりで浜へ行ってもいゝけれど、あそこにはくらげがたくさん落ちてゐる。寒天みたいなすきとほしてそらも見えるやうなものがたくさん落ちてゐるからそれをひろってはいけないよ。それからそれで物をすかして見てはいけないよ。おまへの眼は悪いものを見ないやうにすっかりはらってあるんだから。くらげはそれを消すから。おまへの兄さんもいつかひどい眼にあったから。」

 すなわち、タネリの兄は、「くらげで物をすかして見る」ということをしてしまったために、「いつかひどい眼にあった」というのです。
 それでは、この兄は、今はいったいどうしているのでしょうか。

 物語では、タネリの兄の現況については何も触れられていませんから、いったんは「ひどい眼にあった」彼も、今はタネリたちと一緒に元気に暮らしているという可能性も残っています。しかし、母親が上のようにわざわざタネリに警告していることからして、「兄がくらげを透かして見たためにひどい眼にあった」という出来事は、それまでタネリにはあまり知らされていなかったらしい、ということがわかります。
 これは、もしも兄弟が同居しているのだとしたら、ちょっと不思議なことです。年が近い兄弟であれば、兄が「ひどい眼にあった」などという一大事は、弟のタネリもその場で見聞きしていたはずです。
 もしも二人がかなり年の離れた兄弟で、兄がそのような眼にあった時に、まだタネリは物心ついていなかったとしても、その後兄弟が一緒に暮らしておれば、タネリの成長過程において、そのようなエピソードが家族の話題に上らなかったはずはありません。とりわけ、「くらげを透かして物を見てはいけない」というのは、子供の身の安全に関わる大変重大な注意事項でしょうから、家庭において平素からそのような話がされていなかったというのは、とても不自然に感じられます。

 ここで、一つの仮説として想定されるのが、タネリの兄もタネリと同様、くらげを透かして物を見てしまったために、犬神によって海にさらわれ、それ以後ずっと家に帰ってきていないのではないか、ということです。もしそうであれば、母にとってこの出来事は痛切なトラウマとなっており、それについて家族で話題にすることさえ辛く、くらげの危険性についてもこの時まではタネリにちゃんと話せていなかったかもしれません。そう考えると、上記の不自然さは説明がつきます。

 さらにそれを支持するような具体的根拠の一つに、母親による「おまへの兄さん」という表現があります。もしも兄弟がいつも一緒に暮らしていて、タネリにとって「兄さん」が自明の存在であったならば、わざわざ「おまへの」を付けずに、単に「兄さんもいつかひどい眼にあったから」と言うのではないでしょうか。すなわち、ここで母親がことさら「おまへの兄さん」という言い方をしているのは、ただ「兄さん」と言っただけではタネリにはぴんと来ないという状況があるからであり、これは「兄はタネリと一緒には暮らしていない」という事態を、表しているのではないでしょうか。

 ここで、賢治の他の童話においては、親が自分の子供に向かってその兄や姉のことをどう呼んでいるのか、ざっと調べてみました。
 一通り見たかぎりでは、「親が子供に対しその兄や姉を呼称する」という場面は、「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」にありました。
 まず「ひかりの素足」では、最初の方で父親が次男の楢夫に話しかけている、次の場面です。

「なして怖っかなぃ。お父さんも居るし兄なも居るし昼ま で明りくて何っても怖っかなぃごとぁ無いぢゃぃ。」

 ここでは父親は兄の一郎のことを、方言で「兄な(あぃな)」と呼んでいますが、標準語であればこれは「兄さん」というところでしょうか。ここには、「お前の」というような言葉は付けられていません。
 また「銀河鉄道の夜」には、ジョバンニの母がジョバンニに語りかける次のような場面があります。

「あゝあたしはゆっくりでいゝんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ。」

 ここでも、母はジョバンニに「姉さん」と言っています。母とジョバンニの間で、「姉さん」と言えば自明の存在ですから、これを「お前の姉さんがね・・・」などと言うと、かえってよそよそしい感じもしそうです。

 以上たった二つではありますが、賢治の他の童話において、親が子供に向かってその兄・姉を呼ぶ際に「おまへの・・・」という言葉を付けている例はありませんでした。「サガレンと八月」において、母親が息子に「おまへの兄さん」と言っているのは、タネリにとって「兄」とは、いつも身近にいて親しんでいる存在ではないということを、暗示しているのではないかと思うのです。

 タネリの兄が不在であるとすれば、その原因としては上述のように、彼が「いつかひどい眼にあった」事件を疑ってみるのが、最も自然です。
 そして、兄がタネリと同じ禁忌破りのために海に連れ去られたのだとすれば、このたびまた同じ目に遭ったタネリは、海底において自分の兄に遭遇できる可能性が、十分にあることになります。

 すなわちここに、「死んだ妹に会うためならば海に封ぜられてもよい」という、当時の賢治の強い願望が、物語の形をとって現れるのです。

3.再会のその後

 さて、そうなると現在残された「サガレンと八月」の、次の展開の可能性が、一つ見えてきます。
 蟹に姿を変えられたタネリは、病気のチョウザメのもとでこき使われながら辛い日々をすごし、地上の母のことを思っては孤独にさいなまれることでしょうが、そんなある日、もう長らく会っていなかった兄に、偶然に海底で再会することになるのです。
 兄も、蟹に姿を変えられているのかもしれませんし、他の海生小動物になっているのかもしれません。お互いに姿形は違ってしまっていますが、それでも兄弟だからこそわかる何かが、あったのでしょう。どちらかが先に気がついて声をかけ、互いに相手を確認すると、しばし二人でうれし涙を流したかもしれません。
 しかし、そこから先は、一筋縄ではいきません。長年囚われの身になって、その海底からの脱出がいかに困難であるか、兄の方は身に沁みてわかっていたでしょう。
 それでも、一人だけではできなかったことも、二人で力を合わせれば、活路が開けるかもしれません。母親が待つ地上に帰還するために、二人は秘かに連絡を取り合いながら、コツコツと準備を進めていくことでしょう。

 そして、とうとう脱出計画が実行に移される日が、やって来るでしょう。ここから先の結末は、これはもう作者に聞かなければわかりませんが、理屈の上では四通りがありえます。
 (1)二人とも帰還、(2)タネリは帰るが兄は残留、(3)兄は帰るがタネリは残留、(4)二人とも脱出に失敗し残留、という四つです。

 四つのうちのどれにするか、あとは個人個人で自由に考えたらよいようにも思いますが、あえて蛇足として、私個人のイメージを書いておきます。
 まず、最もあってほしくない結末は、(4)の二人とも脱出できず残留、というものです。これでは、最後までハラハラしながら読んできた読者にとっては、「割に合わない」感じだけが残ってしまいそうです。
 それに賢治の場合は、トシと二人で「海に封ぜられる」ことの「意味」は、「宗谷挽歌」に書かれているように「みんなのほんたうの幸福を求めて」ということにあったわけですが、タネリと兄との場合には、そのような大義名分はありません。賢治の本心では、トシに再会できるならばそのまま海に封ぜられてもよいと思っていたかもしれませんが、タネリの方はそもそも兄に会おうとして海に入ったわけではありませんでした。すなわち、この童話の内部には、「二人とも封ぜられてしまう」という理不尽な結末に見合うような「意味」は、存在しないのです。

 次に、(1)二人とも帰還、というのは、最も喜ばしいハッピーエンドです。一般的に言って、このように兄弟二人が苦難に負けず、力を会わせ機転を利かせて脱出に成功するというストーリーは、童話として十分に存在価値があると私は思います。
 ただ気になるのは、賢治がこの童話を書いたサハリン旅行中あるいはその直後の心境です。トシの喪失の悲しみが癒えない当時の彼の心情からすると、そんなハッピーエンドなんて白々しいかぎりで、この時期の彼ならばそのような結末にはしなかったのではないかというのが、私の想像です。

 となると、、(2)タネリは帰るが兄は残留、(3)兄は帰るがタネリは残留という、どちらか一人だけが帰りもう一人は残るというパターンの、いずれかの可能性が高い感じがします。
 このうちのどちらがありそうかと考えると、私としては(2)の方ではないかと思います。「主人公だけが生きて帰り、愛するもう一人は死んでしまう」というのが、「ひかりの素足」の一郎と楢夫、「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラなど、賢治の物語の一つのパターンであり、その背後には「妹が死に、自分だけが残る」という彼自身の痛切な体験があるからです。
 (2)も(3)も、その最後のクライマックスにおいて、何かの事情で二人ともが生還することはできないことが明らかになると、あえて残留を選んだ方はもう一方を生きて帰還させるために、一種の「自己犠牲」を行うという状況が想定されます。一般に、多くの自己犠牲の物語においては、年長の者が年少の者を助けるために自らを犠牲にするというのが通例で、やはりこの場合は兄が弟タネリを助けて、自分は残留を選択する(「俺の分も母さんを大切にしてやってくれよ!」などと言って…)というのが、お話としても収まりがよくなるのではないかと思います。

 あと、タネリの主人であるチョウザメというのは、見かけは恐ろしいけれど本当はそんなに悪いキャラではないのではないか、というのが私の個人的な印象です。犬神に新しい下男を連れて来られて、初めてタネリにかけた言葉は、「うう、お前かい、今度の下男は。おれはいま病気でね、どうも苦しくていけないんだ」というものでした。
 物語の終盤で、タネリが脱出計画を開始するにあたり、いったんチョウザメはそれに気づいてタネリを制止し、これで万事休すかと思われたが、ふと小さなタネリを不憫に思い、犬神には内緒でこっそり逃がしてやったのではないか・・・、などと想像したりもします。

 以上、長々とお付き合いいただいて恐縮でしたが、風が運んできたような私の勝手な空想でした。

1.草稿の様子

 『新校本全集』で「補遺詩篇 I 」として分類されている、「〔船首マストの上に来て〕」という作品があります。
 これは「作品」というよりも、「断片」と呼んだ方がよいのかもしれませんが、音楽用五線紙に鉛筆で書いた後、作者によって消しゴムで全面的に抹消されたというもので、なおかつ「おそらく冒頭・末尾を欠いている」(『新校本全集』第五巻校異篇)と推測されています。ところで、「五線紙に鉛筆で書かれた後に消しゴムで抹消」というと、あの印象的な作品を思い出しますが、それについてはまた後で触れます。

 まずは、全集に収録されているその全文を掲載しておきます。

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
煙とつはきれいなかげらふを吐き
そのへりにはあかつきの星もゆすれる
 ……船員たちはいきなり飛んできて
    足で鶏の籠をころがす
    鶏はむちゃくちゃに鳴き
    一人は籠に手を入れて
    奇術のやうに卵をひとつとりだした……
さあいまけむりはにはかに黒くなり
ウヰンチは湯気を吐き
馬はせはしく動揺する
うすくなった月はまた煙のなかにつゝまれ
水は鴇いろの絹になる
東は燃え出し
その灼けた鋼粉の雲の中から
きよめられてあたらしいねがひが湧く
それはある形をした巻層雲だ
 ……島は鶏頭の花に変り
    水は朝の審判を受ける……
港は近く水は鉛になってゐる
わたくしはあたらしく
marriage を終へた海に
いまいちどわたくしのたましひを投げ
わたくしのまことをちかひ
三十名のわたくしの生徒たちと
けさはやく汽車に乗らうとする
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
 ……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ
発動機の音や青い朝の火や
 ……みんながはしけでわたるとき
    馬はちがった方向から
    べつべつに陸にうつされる……

2.いつ・どこの出来事か

 冒頭部がおそらく欠如しているために、内容が唐突に始まりますが、これが船の上の情景を描いているのは確かでしょう。現存一行目の「船首マストの上に来て」の主語が欠けていますが、終わりの方に「かもめ」が登場することを考えると、マストの上に来ているのは、そのかもめだ解釈するのが自然です。
 15行目に「東は燃え出し」とあることから、作品中の時刻は日の出前、航路はどこかは記されていませんが、21行目に「港は近く」と書かれているので、もうすぐ港に到着するようです。
 そして、25行目の「三十名のわたくしの生徒たちと/けさはやく汽車に乗らうとする」という言葉が、この船旅の正体を明らかにしてくれます。「わたくしの生徒たち」と言うからには、この生徒たちは賢治の農学校における教え子にほかならず、これだけの生徒を引率して船に乗り、早朝に汽車に乗るとなると、賢治の伝記的事項からして、これは1924年(大正13年)5月18日から23日にかけて行われた、花巻農学校修学旅行の道中と推測できます。翌大正14年3月の卒業生は、名簿によれば34名ですから、この中の一部の生徒が修学旅行に不参加だったと考えれば、「三十名のわたくしの生徒たち」という表現とも符合します。

 この修学旅行中に、賢治たち一行が船に乗ったのは、往路の青森→函館、帰路の室蘭→青森の2回で、前者の船上では「津軽海峡」がスケッチされています。『校本全集』第十六巻(下)補遺・伝記資料篇p.224によれば、往路の船は5月19日の朝7:55に青森港を出て、昼の12:55に函館港に着き、一行は函館で肥料工場や五稜郭、函館公園を見学した後に、23:15の列車で小樽に向かっていますから、上草稿26行目の「けさはやく汽車に乗らうとする」という描写とは食い違っています。
 帰路では、5月22日の17:00に室蘭港を出航し、翌23日の朝4:20に青森港着、続いて6:15青森駅発の東北本線下り列車に乗ったと推定されていますから、日の出前に「港は近く」、そして「けさはやく汽車に乗らうとする」というこの草稿の記述と、ぴったり一致します。

 すなわち、この「〔船首マストの上に来て〕」という草稿は、その内容からして、修学旅行引率の帰途1924年5月23日の明け方の、青森港に近づきつつある船上の情景と考えられるのです。

 それでは、どうしてこれが他の修学旅行中の作品と一緒に、「春と修羅 第二集」として分類されていないのかというと、それはこの草稿の状態のためです。
 『新校本全集』における詩草稿の分類ルールでは、「春と修羅 第二集」のカテゴリーに分類するためには、草稿に「日付」がつけられていて、その日付が1924年1月~1926年3月という期間に入っている必要があるのです。冒頭部が欠けているこの「〔船首マストの上に来て〕」には日付がついていないので、「春と修羅 第二集」には分類できません。
 いったんこの期間の日付を持っていた草稿が、その後の改稿によって日付を喪失した場合には、それは「春と修羅 第二集補遺」として分類されることになりますが、「〔船首マストの上に来て〕」は現存稿しか残っていないので、これにも該当しません。
 では、そのかわりにどこに分類されるかというと、草稿が書かれている用紙が、自作のいわゆる「詩稿用紙」ではなく、また「手帳」でもないため、冒頭に記したように「補遺詩篇 I 」になるわけです。
 『新校本全集』の分類は、草稿の「形式」をもとにしているためにこのようになるのですが、ただその「内容」としては、ここに書かれているのは「春と修羅 第二集」の中でも一つの重要なトピックを成す、「北海道修学旅行」の一情景なのです。

陸奥湾から望む下北半島
陸奥湾から望む下北半島

3.その内容――トシの死との関係

 さて、その内容を見ていくと、まずは全体に漂う明るい雰囲気が、何より印象的です。17行目の「きよめられてあたらしいねがひが湧く」、22行目からの「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に/いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」というところなどに、それは最も表れています。
 作品にあふれるこの「明るさ」の要因は、一つには賢治が修学旅行の引率者として、30名の生徒に事故もなく、本州も目の前というところまで無事帰り着いたという、教師としての「安堵感」にあるのかもしれません。「三十名のわたくしの生徒たちと/けさはやく汽車に乗らうとする」という箇所には、何か「責任を果たした」という達成感がにじんでいるように感じられます。何せ青森から汽車に乗ってしまえば、あとはそのまま花巻ですから。

 22行目の「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に」という箇所の意味は、往路でやはりこの海峡を渡る際に書いた「津軽海峡」の「下書稿(一)」が、「水の結婚」と題されていたことを引きついでいるのだと思われます。水が結婚するとは不思議な表現ですが、「津軽海峡」における、「しばしば海霧を析出する/二つの潮の交会点」という表現が、その内容を物語っているのでしょう。
 実際、津軽海峡には対馬海流の支流である「津軽暖流」が西から東に流れていて、これが津軽海峡を東に出たあたりで、北から来る寒流の「親潮(の接岸分枝)」とぶつかるので、「二つの潮の交会点」と言われているのかと思われます。(下図は、「海上保安庁」サイトの「北海道周辺の海流」より)

北海道周辺の海流

 海流同士の出会い・融合を「結婚(marriage)」に喩える着想は、すでに往路からあったわけですが、帰路にはそれがよりいっそう祝祭的な雰囲気を帯びています。
 ここにも、先ほども述べた引率教師としての安堵感や達成感の影響があるのでしょう。

 以上は、まあ一般的に異論のないところかと思われますし、私もこれまではこんな風に考えながら、この作品を読んでいました。しかし最近になって私は、修学旅行が無事に終わりそうだというだけで、「きよめられてあたらしいねがひが湧く」とか、「いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」とまで言うのは、ちょっと大げさすぎないかという感じもしてきました。
 そこで、何か他に賢治のこの感情の由来はなかったのだろうかと考えてみると、上に挙げたような特徴的表現から、5月22日の日付を持つ(しかし実際には5月21日の夜の情景と推測される)、「」の先駆形「海鳴り」を連想しました。やはり賢治は修学旅行の途中で、この時は苫小牧の海岸に一人で出て、荒れた海を眺めつつ次のように記していたのです。

そのあさましい迷ひのいろの海よ海よ
そのまっくろなしぶきをあげて
わたくしの胸をとどろかせ
わたくしの上着をずたずたに裂け
すべてのはかないねがひを洗へ
それら巨大な波の壁や
沸き立つ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ

 私が思ったのは、ここに出てくる「すべてのはかないねがひを洗へ」という賢治の苦悩に満ちた叫びと、「〔船首マストの上に来て〕」に出てくる「きよめられてあたらしいねがひが湧く」という新鮮な感情は、セットになって対応しているのではないかということでした。苫小牧における「はかないねがひ」は、その後この船上で「洗」われ「きよめられて」、「あたらしいねがひ」として「湧」きあがったという風に、一つながりに理解すべきものではないでしょうか。

 そうなると、この「ねがひ」の中身は何なのか、ということが問題になりますが、上記の「海鳴り」に表れている激しい感情は、中地文氏が「「一二六 海鳴り」考」(『「春と修羅 第二集」研究』所収)に述べておられるように、やはり1年半前に亡くなった妹トシをめぐる思いだったと考えざるをえません。
 この前年の夏に、亡き妹を探してサハリンまで旅をし、宗谷海峡やサハリンの栄浜で苦悩のうちに眺めた「北の海」に、ここで賢治はしばらくぶりに一人で向かい合ったのです。また、「海鳴り」において「うしろではパルプ工場の火照りが・・・」として登場する工場は王子製紙苫小牧工場ですが、賢治がサハリンを訪ねた表面上の目的は、大泊の王子製紙会社に生徒の就職を依頼するためでした。同じ王子製紙の建物や煙突を見て、賢治がサハリン旅行を思い出さなかったはずはありません。
 また、「海鳴り」の最後の次の箇所からも、トシが連想されます。

 ……砂丘のなつかしさとやはらかさ
    まるでそれはひとりの処女のようだ……
はるかなはるかな汀線のはてに
二点のたうごまの花のやうな赤い灯もともり
二きれひかる介のかけら
雲はみだれ
月は黄金の虹彩をはなつ

 「なつかしさとやはらかさ」とともに思い出される「処女」とは、賢治にとって当時トシ一人だけだったとまでは断定できないでしょうが、その最も大切な一人であったことは間違いありません。また、「二点のたうごまの花」「二きれひかる介のかけら」として繰り返される「二」という数字も、前年に「噴火湾(ノクターン)」でトシのことを考えながら、「車室の軋りはかなしみの二疋の栗鼠」「室蘭通ひの汽船には/二つの赤い灯がともり」として「二」に執着していたことを、思い起こさせます。

 このように、草稿「海鳴り」が、当時なお賢治が抱え続けていたトシの喪失の悲しみを海にぶつけるものだったとすれば、そのわずか3日後を描いた「〔船首マストの上に来て〕」の明るく希望に満ちた調子は、それまでの彼の苦悩が、ここで何か大きく変化した可能性を示しています。
 「海鳴り」に記されている「すべてのはかないねがひ」とは、前年までの彼の作品を省みれば、「再びトシに会いたい」という、叶わぬ願望のことだろうと推測されます。賢治は、それは不可能なことだと理性ではわかっていながら、この時点でもまだそのような気持ちに苛まれ続けていたので、荒海に対してそれを「洗へ」と、懇願したのだと思われます。
 そして、この「ねがひ」という言葉からここでさらにもう一つ連想するのは、やはり前年の「青森挽歌」における、次のような表現です。

  (宗谷海峡を越える晩は
  わたくしは夜どほし甲板に立ち
  あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
  からだはけがれたねがひにみたし
  そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

 ここでは賢治は「けがれたねがひ」と呼んでいますが、やはりその内容としては、「トシとの再会の願い」だったと思われます。
 そして、「〔船首マストの上に来て〕」において、ついにその「けがれ」は「きよめられて」、「あたらしいねがひが湧く」に至ったのではないでしょうか。

 もちろん、賢治が書いた多くの作品中で、彼が「ねがひ」という言葉で表現した内容には様々なものがありますから、「青森挽歌」における「 ねがひ」と、「海鳴り」における「ねがひ」と、「〔船首マストの上に来て〕」における「ねがひ」とが、すべて同じことを指していると、機械的に決めつけることはできません。しかし、9か月あまりという近接した時期のうちに、「北の海と向き合う」という共通した状況において、彼が同じ「ねがひ」という言葉に込めた思いが、一つながりのものだったと考えてみることは、さほど不自然なことではないと思います。

 そう思って読んでいくと、23行目に出てくる「いまいちどわたくしのたましひを投げ」という表現もまた、気になってきます。上記の「青森挽歌」の段階で、「宗谷海峡を越える晩は・・・」として計画されていた賢治の「挑戦」の内容は、「宗谷挽歌」において部分的に示唆されていますが、そこに賢治はこう書いていました。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。

 すなわち、ここで賢治は、もしもトシが自分を呼んだら、海に身を投げようと決心していたと言うのです。幸いにして、彼は実際に身を投げるには至りませんでしたが、しかし実際に彼がそのような覚悟をしていたのだとすれば、それはすでに「魂を海に投げていた」と言ってもよいのではないでしょうか。
 私としては、これが「〔船首マストの上に来て〕」の23行目の、「いまいちどわたくしのたましひを投げ」という表現の伏線だったのではないかと思うのです。
 一度目の投擲は、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」という宣言を伴うもので、ここで賢治は海と「対決」しようとしたわけです。
 そして、翌年の修学旅行の帰途に、二度目の投擲が行われたのです。賢治は北海道から青森に向かう船上から海へ、「いまいちど」、「たましひを投げ」たのですが、今度は「水があんな朱金の波をたゝむのは/海がそれを受けとった証拠だ」と、彼は見てとりました。
 すなわち賢治はこの時、海と「和解」したのです。

 つまり、私が仮説的に考えているのは、次のようなことです。賢治は修学旅行中の苫小牧で「海鳴り」をスケッチした1924年5月21日の夜には、まだトシの喪失の悲嘆の中で、彼女との再会に固執する思いを断ち切れずに苦悩していたが、5月23日の早朝には、何かその感情が「きよめられ」るような心境に到達し、そのことを「〔船首マストの上に来て〕」に記したのではないか・・・。

4.心境変化と<海>

 とすると、次に気になるのは、何が短期間のうちに賢治の心境を、そのように変えたのだろうかということです。ただ残念ながら、この頃の作品や賢治の伝記的事項を見てみるかぎり、私にはまだそれははっきりわかりません。
 一般に、このような心境変化というものは、何か特定の明確なきっかけがあって起こることもありますが、また一方では、多くの要因の積み重ねや時間の経過によって、徐々にまたは突然起こり、特に「何のため」とは言いがたいこともあるものです。ですから、そのような「きっかけ」を探る試みが、必ずしも何かの結果につながるものともかぎりません。
 私としては、この問題については今後も考えていきたいと思っていますが、とりあえずここでは、賢治の<海>に対するとらえ方の変化に、着目してみたいと思います。上では、それを「対決」と「和解」と表現しましたが、以下でこれをもう少し詳しく見てみます。

 まず、1923年8月の「宗谷挽歌」の段階では、「海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち」というように、賢治にとって海は、「鬼神」をも宿す邪悪な場所のようにとらえられていました。「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」という覚悟をしていた彼にとって、海という場所は、自分たちを囚える牢獄にもなりうるものでした。
 「宗谷挽歌」で賢治は、トシからの呼びかけを期待し、呼ばれたら海に飛び込もうとも思っていたわけですが、ふつう人は誰かから呼ばれたら相手がいる(と思う)方に行くものですから、これはつまり当時の賢治のイメージとして、死んだトシは「海の中に囚われている」と想定していたことを示唆しています。この見方に立てば、二人を隔てる「タンタジールの扉」とは、海そのものであったとも言えます。

 これに対して、1924年5月21日の「海鳴り」では、海はやはり「あさましい迷ひのいろ」を呈してはいますが、賢治は自ら「海よ海よ」と呼びかけ、「わたくしの上着をずたずたに裂け」「すべてのはかないねがひを洗へ」「やりどころないさびしさをとれ」と、海に対して苦悩からの救済を懇願しています。ここでやはり海は恐ろしい存在でありながらも、なおかつ彼にとって「救済者」となりうる可能性も帯びているのです。また、「阿僧祗の修陀羅をつつみ/億千の灯を波にかかげて/海は魚族の青い夢をまもる」とあるように、海は尊い仏典を蔵し、生命を育む場所としてもイメージされています。
 このように、「海鳴り」で肯定的な存在へと転換しつつあった<海>は、2日後の「〔船首マストの上に来て〕」において、新たな境地に至った賢治の「たましひ」を、「受けとった」のです。「朱金の波をたゝむ」という形で、それは賢治を祝福さえしてくれました。

 内陸の地で生まれ育ち、中学生の修学旅行まで海を見たことのなかった賢治にとって、海というものは当初はさほど親しみを感じる存在ではなかっただろうと思われます。この中学時代の短歌をもとにした文語詩「〔われらひとしく丘に立ち〕」でも、海は「あやしきもののひろがり」と表現されています。
 上に見たように、1923年から1924年にかけて賢治の「海」に対する態度は、大きな転回を見せているわけですが、これは別の角度から見れば、賢治の「亡きトシ」に対する態度の変化を、象徴しているとも言えるでしょう。当初は、海は「死」の側に立って、自分とトシとの間を引き裂く障壁でしたが、いつしかそれは、賢治の苦しみを浄化し、生命力を与える存在ともなっていきました。これは、賢治がトシの死を、自ら受け容れていったことの表れとも言えるでしょう。

青森沖のかもめ
青森沖のかもめ

5.テキストの抹消

 この「〔船首マストの上に来て〕」という草稿が、もしも上記のように、賢治の心境の上で重要な画期となるものであったのならば、いったいなぜ彼はそのテキストを、消しゴムで抹消してしまったのでしょうか。
 それは最終的には、作者に聞いてみなければわからないでしょうが、しかし彼は他にも多くの草稿を書きながら、出版から除外したり、推敲や改稿において一部や全部を削除したりしていますから、それらの様子から推測することができるかもしれません。

 賢治は、『春と修羅』の「無声慟哭」や「オホーツク挽歌」の章において、トシの死と自らの悲嘆を真正面から作品化して刊行しましたが、その際にも「宗谷挽歌」は、『春と修羅』には収録しませんでした。
 その理由として杉浦静氏は、「激越な内容ゆえに公表をはばかり、その部分を削除したが、そのために〈定稿〉へ至らなくなってしまったという可能性は否定できない」と指摘するとともに、そこに表れているトシへの強い執着が、《けつしてひとりをいのつてはいけない》という「青森挽歌」の倫理と齟齬をきたしてしまうために、外さざるをえなかったのではないかということを述べておられます(蒼丘書林『宮沢賢治 明滅する春と修羅』)。

 また、それよりさらに後、『春と修羅』刊行後のある時期以降の賢治は、自らの妹のことを直接作品に書くことを、さらに意識して抑制するようになった節があります。
 たとえば上記の「海鳴り」も、「下書稿(一)」の段階では上のように、名指しはしないながらもトシをめぐる苦悩が記されていたのに、その「下書稿(二)」では「」と改題されるとともに、そのような苦悩に関する部分は全て削除され、海辺で月の光と戯れる牛の微笑ましい姿だけを描く作品へと変貌してしまいます。

 「〔船首マストの上に来て〕」と同じく、音楽用五線紙に書かれ、消しゴムで抹消されていた「薤露青」では、賢治はそこに記した自らの思いが「わたくしの亡くなった妹」に関することであると具体的に指定しつつ、「わたくしの胸いっぱいの/やり場所のないかなしさ」などという形で、生の感情をストレートにうたっていました。栗原敦氏は、「パネルディスカッション「春と修羅 第二集」のゆくえ」(『「春と修羅 第二集」研究』所収)において、この作品の「センチメンタルな、悲しい弱虫のところ」が、作者による抹消の要因だったのではないかという趣旨の発言をしておられますが、やはりこれも妹への個人的感傷を直接的に表現したものだったために、抹消されなければならなかったのではないでしょうか。
 「〔船首マストの上に来て〕」も、いくら肯定的な形であれ、やはり妹の死にまつわる自分の私的な心情を記したものであったため、賢治は抹消すべきと判断したのではないかと思うのです。

  ただ、上記のように「海鳴り」が「」へと改稿されて、トシの死という主題が抹消されていった一方で、同じ日付を持ちつつ別の方向性に変化していった一つの作品が、目にとまります。「春と修羅 第二集」には、「」と同じ5月22日付を持つ作品として、「」と題した詩があり、「牛」と「馬」が並ぶとまるで対になっているかのようにも見えるのですが、この「」の推敲の前後の変化が、興味深いのです。
 「馬」の「下書稿(一)初期形」は、次のように6行だけの小さな作品です。

  馬

いちにちいっぱいよもぎのなかにはたらいて
馬鈴薯のやうにくさりかけた馬は
あかるくそそぐ夕陽の汁を
食塩の結晶したばさばさの頭に感じながら
はたけのヘりの熊笹を
こっそり一枚だけ食べた

 これに対して、その「下書稿(一)手入れ形」は、次のような18行になります。

  馬

いちにちいっぱいよもぎのなかにはたらいて
馬鈴薯のやうにくさりかけた馬は
あかるくそそぐ夕陽の汁を
食塩の結晶したばさばさの頭に感じながら
はたけのヘりの熊笹を
ぼりぼりぼりぼり食ってゐた
それから青い晩が来て
やうやく厩に帰った馬は
高圧線にかかったやうに
にはかにばたばた云ひだした
馬は次の日冷たくなった
みんなは松の林の裏へ
巨きな穴をこしらえて
馬の四つの脚をまげ
そこへそろそろおろしてやった
がっくり垂れた頭の上へ
ぼろぼろ土を落してやって
みんなもぼろぼろ泣いてゐた

 5行目までは同じですが、熊笹の食べ方が変わり、そして馬はその晩、何の前触れもなく突然に死んでしまうのです。人間の「みんな」は、馬を丁寧に埋葬し、「ぼろぼろ泣いて」、その死を悼みました。ほんの短い作品ながら、「死」というものの理不尽さと悲しさが、際立って身にしみます。
 「海鳴り」から「」への変化は、「下書稿(一)」から「下書稿(二)」への改稿であるのに対して、「」の変化は「下書稿(一)」の上での推敲ですから、二つの変化は同じ段階のものではありませんが、しかし前者においては死者との別離と悲嘆というテーマが「削除」された一方で、後者においてはその同じテーマが新たに「付加」されているというところに、一対の作品の相補的な関係を想像する次第です。

 「トシの死」というテーマは、具体的・個人的な形では、テキストから周到に消されていった一方で、その代わり、より普遍化され寓話化された形で、逆にそれは積極的に描かれるようになっていったということなのかもしれません。
 作品において直接トシの死そのものが扱われることは、1924年8月以降は一切なくなったのに対して、ちょうどその頃から「銀河鉄道の夜」が書き始められたのも、きっとこれと同じ流れなのでしょう。

 奇しくも、「〔船首マストの上に来て〕」の現存末尾が、「みんながはしけでわたるとき/馬はちがった方向から/べつべつに陸にうつされる」という形で、「馬」の運命に対する関心の表明で終わっているところも、何となく面白く感じます。
 こちらの馬は、元気に海を渡って、これから本州で生きていくのでしょうか。

海上から望む青森市
海上から望む青森市

対馬丸の姿

 「対馬丸」というと、太平洋戦争中の1944年8月22日、政府命令による沖縄からの学童疎開輸送中にアメリカ海軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没し、1476名の犠牲者を出した悲劇が有名です(Wikipedia「対馬丸事件」参照)。
 この「対馬丸」は、1915年にイギリスのグラスゴー造船所で建造された大型貨物船で、欧州航路やアメリカ航路に就航した後、太平洋戦争開戦後に日本陸軍に徴傭されたものですが、今日ご紹介するのは、同じ船名ながら日本の三菱長崎造船所で1905年に建造されたもっと小さな船で、山陽汽船が運営する関釜連絡船として就航し、その後鉄道省の所有となって、1923年6月から北海道の稚内とサハリンの大泊を結ぶ「稚泊連絡船」になったものです。

 この稚泊連絡船「対馬丸」に乗って、賢治は1923年8月2日に宗谷海峡を渡り、船上での状況を「宗谷挽歌」(『春と修羅』補遺)として書き残しました。
 また、帰途では8月7日または9日に乗船し、やはりその様子を「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」(補遺詩篇 I)に書いたと推測されます。さらにこれは、文語詩「宗谷〔二〕」に改作された可能性があります。
 (「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」がこの帰途の船上のことと思われる根拠としては、以前の記事「西洋料理店のような?」をご参照下さい。)

 今回、この記事で「対馬丸」をご紹介しようと思った理由は、たまたまネットで検索をしていたら、「札幌市中央図書館デジタルライブラリー」に、この対馬丸のかなり鮮明な写真の絵葉書を目にしたからです。
 下のリンクが、そのページです。

稚泊連絡船 対馬丸

 こちらのサイトでは拡大表示をすることもできますし、またダウンロードをすれば1667×1072ピクセルという大きな画像が得られるので、賢治が乗った対馬丸というのがどんな船だったのか、かなり具体的に見ることができます。
 すなわち、賢治が「宗谷挽歌」を、「こんな誰も居ない夜の甲板で・・・」と書き出したのも、「宗谷〔二〕」で「そらの微光にそゝがれて/いま明け渡る甲板は/綱具やしろきライフヴイ/あやしく黄ばむ排気筒」と描写したのも、この船の甲板だったわけです。
 また彼はこの船上で、「けれどももしとし子が夜過ぎて/どこからか私を呼んだなら/私はもちろん落ちて行く」とまで思い詰めるという、ちょっと尋常ではない精神状態にあったのでした。

 一方、国会図書館の近代デジタルライブラリーでは、「造船協会」編の『日本近世造船史 附図』という本を見ることができますが、ここには「対馬丸」の船体図が掲載されています(下図は同書より「第37図」)。

対馬丸船体図

 そして、「天翔艦隊」というサイトの、「最果ての海に:第一章 最北の鉄道連絡船」というページには、対馬丸および壱岐丸の船内について、次のように書かれています。

 ブリッジの真下にあたる上甲板の前部室を一等客社交室(サロン)兼出入り口広間(エントランス・ホール)とし、その下のメインデッキには一等食堂がある。両者の間は楕円形の吹き抜けと階段で結ばれており、天井には色ガラスの天窓(スカイライト)が設けられた。天窓の模様には山陽鉄道の社章が模されおり、これは晩年に至るまでそのまま残されていた。

 ここで、上の「船体図」の中の、上甲板前部の「一等客社交室」と、その下の「一等食堂」のあたりを拡大すると、下図のようになっています。

対馬丸一等客社交室・食堂

 上の方に楕円形に見えるのが、さきほどのサイトで「両者の間は楕円形の吹き抜けと階段で結ばれており・・・」と書かれている箇所と思われ、下の方に「TABLE.」などとあるのが、一等食堂でしょう。
 「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」という作品断片において、いきなり「大きな西洋料理店のやう」と形容されているのは、この豪華な造りの「一等食堂」のことではないだろうかと、私は個人的に推測してみているところです。

 

 「宗谷挽歌」には、賢治と死んだトシとの間を隔てるものとして、「タンタジールの扉」という言葉が出てきます。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。 
    (おまへがこゝへ来ないのは
    タンタジールの扉のためか、
    それは私とおまへを嘲笑するだらう。)

『タンタジールの死』 この「タンタジール」とは、ベルギーの詩人・劇作家であるモーリス・メーテルリンクが、1894年に書いた戯曲「タンタジールの死」に由来しており、日本ではたとえば1914年に翻訳が刊行されています。このように作品中に名前が引用されているのですから、おそらく賢治自身、この「タンタジールの死」を読んでいたと考えてよいでしょう。(右画像は、国会図書館デジタルライブラリーより、1914年に日吉堂本店から刊行された同書の扉です。)

 メーテルリンク初期の象徴主義作品の典型の一つと言われるこの戯曲は、暗い谷で暮らす二人の姉と爺やのもとへ、幼い弟タンタジールが海を渡って戻されて来た場面から始まります。
 彼ら姉弟と爺やは、谷底に建つ古い城の一角にある部屋で暮らしています。城には高い塔があって、その塔の中には女王が住んでいると言われていますが、誰もその姿を見た者はありません。すでに父親は亡くなり、二人の兄も行方が知れず、冒頭からこの家族には、死の影が色濃く漂っています。そして、長姉のイグレーヌも、次姉のベランジエールも、爺やのアグロワールも、帰ってきた幼いタンタジールが、塔の女王によって連れ去られてしまうのではないかと、なぜかひどく怯えている様子なのです。
 ベランジエールは、たまたま塔の下まで行った際に、女王が子供を見たがっているという侍女たちの会話を耳にしたと、姉に報告します。そして女王の召使いたちが、今夜にもここに来るかもしれないというのです。そこで姉たちは部屋の扉を見張り、爺やは剣を膝に置いて、タンタジールの番を始めました。
 夜になると案の定、扉の外に大勢の人の気配が現れました。姉たちは、必死に扉を押さえて抵抗しましたが、結局開けられてしまい、爺やが突き出した剣も、あっけなく折れました。もう駄目かと思った時に、気を失っていたタンタジールが我に返り、扉はまた閉められて、幼な児は助かったのです。
 その夜遅く、また女王の三人の侍女は、ひそかにタンタジールを連れ去る相談をしていました。姉二人もタンタジールも爺やも、ぐっすりと眠りこんでいますが、タンタジールは姉イグレーヌにしっかりと抱き付き、姉の長い黄金色の髪を自分の手にからめ、さらに堅く歯でも噛みしめています。決して離れまいとする二人は、「水の中に溺れかゝつてゐるやうに、互に、扼(つか)み合つてる」状態なのです。それでもしかし、侍女たちはこっそりと忍び込み、イグレーヌの髪をハサミで切って、タンタジールを連れ去ってしまいました。
 その時タンタジールが遠ざかりながら上げた声で、姉たちは目を覚まして、弟の不在に気がつきます。しかしベランジエールはショックのあまり昏倒してしまい、イグレーヌが一人、道に落ちている自分の金髪をたどって、城の塔に至ります。
 彼女が夢中で階段を昇っていくと、塔の円天井の下に、大きな鉄の扉がありました。その扉の隙間にまた金髪が挟まっていたので、イグレーヌは確かにここにタンタジールがいることを悟ります。姉が、激しく扉を叩いて弟の名前を呼ぶと、弱々しい返事とノックが返ってきました。イグレーヌは必死になって扉を押したり引いたり、何とかして開けようとしますが、びくともしません。
 そのうちにタンタジールは、「あいつの息がかかる」と言い出し、さらに「あいつが僕の喉をおさえる」と訴えはじめましたので、イグレーヌは狂ったように扉を引っ掻き、やがてその爪ははがれ、扉に打ちつけたランプも砕けて、とうとうあたりは真っ暗になってしまいました。
 最後は絶望のうちに、重い扉をはさんで姉と弟はキスをかわし、やがてイグレーヌの耳には、扉の向こうで小さな体が倒れる音が聞こえたのです・・・。

 これは、物語としてはごく単純で、最初からタイトルに示された結末に向けて、ただ進んでいくだけなのですが、それでも読者は、何か心の奥に強く迫ってくるものを感じざるをえません。すべての登場人物にも観客にも、始めから恐ろしい結末が見えていながら、それでもその進行を如何ともできない人間の無力さが露呈し、全てを超越した「死」というものの底知れぬ強大な力が、ひしひしと迫って来ます。

 そしてこのように、「愛する者の死を予期し、何とかしてそれに抗おうとしながらも、結局はその愛する者を失ってしまう」というプロセスは、ずっと病床にあったトシを見守り続けていた賢治の日々と、まさに重なるものだったはずです。きっと賢治は、1922年の初め頃から11月までずっと、この作品における長姉イグレーヌと同じ心境を味わいつづけていたに違いありません。
 とりわけ私にとって印象深いのは、最後の晩にイグレーヌとタンタジールが、「水の中に溺れかゝつてゐるやうに、互に、扼(つか)み合つてる」と描写されている箇所です。
 以前に私は、賢治が1922年8月に書いた短篇「イギリス海岸」において、もし生徒が溺れた時には「たゞ飛び込んで行って一諸に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一諸について行ってやらうと思ってゐた」と記している心の底には、実は死んでいくトシに対する自らの気持ちがあったのではないかと、推測してみました。「タンタジールの死」のこの箇所における、「水の中に溺れかゝつてゐるやうに」という比喩は、まさにこの「イギリス海岸」の表現を思い起こさせます。
 さらにまた私は、賢治が1922年9月以降に手入れをした可能性もある童話「双子の星」において、チュンセとポウセが彗星にだまされて天から海へと墜落していく際に、「二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです」と書かれている箇所にも、トシから離れずどこまでも一緒に行ってやりたいという賢治の思いが投影されているのではないかと推測してみました。「タンタジールの死」において、「互に、扼(つか)み合つてる」というイグレーヌとタンタジールの様子は、「しっかりとお互の肱をつかみました」というチュンセとポウセにそっくりのように、私には思えます。

 つまり、このメーテルリンクの「タンタジールの死」という戯曲は、トシの死に怯えていた頃の賢治にとっては、まさに身に迫るように切実なものであり、そのような思いはひょっとして、上記のような作品における表現にも影響を与えていたのではないかと、私は思うのです。
 「宗谷挽歌」に登場する「タンタジール」という言葉は、「死」という絶対的な断絶を表現するというためだけでなく、賢治の心の中では、上記のような一連の思い入れを込めたものだったのではないかと、私はひそかに想像する次第です。

「タンタジールの死」より 

 さて、それからあともう一つ、私はこの「タンタジールの死」に関連して思い浮かぶものがあります。それは、「青森挽歌」の中に登場する、「ギルちゃん」という存在です。

あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはいるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
 (草や沼やです
  一本の木もです)
 《ギルちやんまつさをになつてすわつてゐたよ》
 《こおんなにして眼は大きくあいてたけど
  ぼくたちのことはまるでみえないやうだつたよ》
 《ナーガラがね 眼をぢつとこんなに赤くして
  だんだん環をちいさくしたよ こんなに》
 《し、環をお切り そら 手を出して》
 《ギルちやん青くてすきとほるやうだつたよ》
 《鳥がね、たくさんたねまきのときのやうに
  ばあつと空を通つたの
  でもギルちやんだまつてゐたよ》
 《お日さまあんまり変に飴いろだつたわねえ》
 《ギルちやんちつともぼくたちのことみないんだもの
  ぼくほんたうにつらかつた》
 《さつきおもだかのとこであんまりはしやいでたねえ》
 《どうしてギルちやんぼくたちのことみなかつたらう
  忘れたらうかあんなにいつしよにあそんだのに》

 ここで、二重括弧《 》で囲まれている内容は、以前に「「青森挽歌」の構造について(1)」で考えてみたように、作者賢治にとって「幻聴」として体験された言葉であろうと推測されます。
 そしてここに出てくる「ギルちゃん」は、死んでゆくトシを象徴するような存在かと思われますが、その正体についてはよくわかりません。一説には、この「ギルちゃん」とは実は蛙であり、環を作る「ナーガラ」は蛇のことなのではないかと言われており、これは「草や沼やです」という舞台設定や、「おもだか」という水生植物が出てくることからも、一定の説得力があります。
 しかしここで私が気になるのは、「ギル」というその名前です。これは「タンタジール」という名前の一部に由来しているのではないかと、ふと感じたのです。
 タンタジールは、もとのフランス語の綴りでは Tintagiles ですが、この後ろ半分の'giles'は、別の読み方をすれば、「ギル」と読むこともできます。そして、メーテルリンクの「タンタジールの死」におけるこの幼な子には、何となく「ギルちゃん」を連想させる場面が、いくつかあるのです。

 まず次の引用は、第二幕の冒頭です。

     第二幕

  城の内の一室、それに、アグロワアルとイグレエヌ坐せり。
  次でベランヂエール登場す
ベランヂエール。 タンタヂールは何処に居るの?
イグレエヌ。 此処に居るのよ、余り大きな声で話さないやうに
  ね、他の部屋で寝て居るんだから。少し顔の色が青いの、体が
  良くないやうだわ、旅の疲れが出たんだわ――それに長い事
  海の上に居たんだから。それとも、ひょっとしたら、此のお城の
  空気が、あの子の小さな魂を脅かしたのかもしれないわ。泣い
  て居ても、何うして泣くんだか自分でも判らないの。

 ここでタンタジールは、「少し顔の色が青い」と言われています。
 そしてまた、その少し後のところ。

  ベランヂエール、タンタヂールを腕に懐きつゝ隣の部屋より来る
ベランヂエール。 起きてるのよ……。
イグレエヌ。 顔の色が悪いのね……、何うしたんだらう?
ベランヂエール。 わたしにも判らないの……黙って、唯だ泣くの
  よ……。
イグレエヌ。 タンタヂールや……。
ベランヂエール。 あら、そっぽを向いて了ふわ。
イグレエヌ。 わたしが判らないやうだわ……タンタヂールや、
  お前何処に居るか知ってて?――お前と話しているのは
  姉さんよ……何をそんなにひとっとこを見つめて居るの?
  此方をお向き……さ、姉さんと遊ばうよ……。
タンタヂール。 いや……いや……。

 ここでもタンタジールはやはり顔色が悪く、ただ「ひとっとこ」を見つめるばかりです。一時的には姉のことが「判らない」ような様子を見せて、誘われても一緒に遊ぼうとしません。
 さらに、その少し後の箇所。

タンタヂール。 来たよ姉さん――、何うして灯は点って居ない
  の?
イグレエヌ。 灯は点ってるのよ、坊や……天井から垂っている
  ランプが見えないの。
タンタヂール。 うん、うん、……あれは小さいんだね、……外に
  点いて居ないの。
イグレエヌ。 外にはもうありは仕ないわ、あれで何でも見えるん
  だから……。
タンタヂール。 あゝ……。
イグレエヌ。 まあ、お前の眼は窪んだのねえ……。

 まだここでも、タンタジールの目はあまりよく見えていないような様子なのです。

 ということで、上に挙げた箇所におけるタンタジールの様子は、「青森挽歌」のギルちゃんが、「まっさを」になり、また「青くてすきとほるやう」になっていたこと、「眼は大きくあいてたけど/ぼくたちのことはまるでみえないやうだつた」こと、そして友だちと遊ぼうとしなかったことなどと、かなりよく似ているように、私には思えるのです。
 つまり、「青森挽歌」のこの部分で、ふと「ギルちゃん」をめぐるお話が語られた背景には、やはり当時の賢治の心に焼き付いていた「タンタジールの死」という戯曲があったのではないかと、私は考えるのです。

※ 本文中に引用した「タンタジールの死」のテキストや画像は、国会図書館デジタルライブラリーより、1914年に日吉堂本店から刊行された『タンタヂールの死: 附・群盲』(小島春潮訳)によっています。

「宗谷挽歌」と歎異抄

 十代半ばまでの宮澤賢治は、家の宗派であった浄土真宗を深く信仰していて、16歳の時には父あての書簡の中で、「小生はすでに道を得侯。歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し侯。」(書簡6)という宣言までしていました。3歳頃には、「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦していたという逸話が残っている賢治ですが、きっと「歎異抄」にも馴れ親しんでいたことでしょう。
 そんな賢治が、少なくとも1918年2月には、浄土真宗から離れて完全に法華経にはまり込んでいたことが、父あての「書簡44」や「書簡46」から見てとれます。そして、死の当日に父に伝えたという遺言も、「国訳妙法蓮華経を千部作って配って下さい」というものでしたから、その信仰は死ぬまで変わらなかったと言えるでしょう。

 しかし、このように法華経や日蓮に深く帰依し続けていた賢治の信仰心や思想に、実は「浄土真宗的」な要素が分かちがたく結びついていたということを、松岡利夫著『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』という本は詳しく分析してみせてくれていますし、私自身も以前に「けつしてひとりをいのつてはいけない」という記事などで触れました。
 上記の私の記事で取り上げたのは、「青森挽歌」に突如として出現する《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という命題は、「歎異抄」において親鸞が言ったとされる、次の言葉をルーツに持っているのではないか、ということでした。

 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。
 そのゆへは、一切の有情は、みなもつて世々生々の父母兄弟なり、いづれもいづれも、この順次生に、佛になりて、たすけさふらうべきなり。                   (『歎異抄』第五条より)

 すなわち、親鸞は父母への孝行のために念仏を唱えたことは一度もない、なぜなら一切の生き物は皆、輪廻転生のうちには自分の父母兄弟だったこともある存在なので、この次の生で(自分が死んで浄土に生まれて)仏になってから、あらためて皆をお救いするべきだからだ、というのです。
 ここで親鸞は、父母兄弟のことを「いのつてはいけない」と禁止まではしていませんが、少なくともそれは無意味なことだと見なしています。現代の浄土真宗は、おそらくここまで潔癖な態度はとっておらず、他の宗派と同じように亡くなった方のための「法事」も執り行っているのでしょうが、この親鸞の言葉は今の日本人の感性とは一線を画しているので、とても印象的です。

 一方、賢治がこの頃も信じていたはずの日蓮は、近親者を亡くした遺族が故人の死後の幸いを祈るのは当然のことであり、またそれは善いことでもあると言い、大いに行うよう積極的に勧めていました。ですから、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という命題は、日蓮の考えとは異なっているのです。
 前掲の松岡利夫著『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』によれば、日蓮にも「六道四生の一切衆生は皆父母也」という言葉があり(「法蓮抄」)、やはりすべての生き物が父母であったということは述べていますが、賢治は「みんなむかしからのきやうだい」と書いているところを、日蓮は「父母」だけを挙げているのに対して、親鸞は上記のように「父母兄弟」としています。したがって松岡利夫氏は、「青森挽歌」のこの箇所は日蓮ではなく親鸞の影響を受けたものであろうと、推断しておられます。

 そして今日ふと思ったのは、「青森挽歌」の翌日に書かれた「宗谷挽歌」の、次の箇所についてです。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 詩の前半部によれば、稚内からサハリンへ向かう連絡船の甲板に立っている賢治は、もしもトシがどこからか自分を呼ぶ声が聞こえたら、「私はもちろん落ちて行く」という決心を固めています。
 何のためにトシが賢治を呼ぶのかというと、トシが死んだ結果、「われわれが信じわれわれが行かうとするみち」、すなわち法華経が、「まちがひ」であったと判明したならば、その事実を「まっすぐにやって来て/知らせて呉れ」というわけです。
 この理屈に立つならば、トシが賢治のもとにやって来て再会すること、あるいは会えないまでも二人で通信をかわすことは、「ひとりをいのる」行為に伴うものではなく、現世で法華経を信仰している人すべてにその誤りを伝えるための行いであり、すなわち「みんなのほんたうの幸福を求めて」の行為なのですから、「青森挽歌」でもたらされた上記の啓示には違反しません。

 しかし、この「理屈」を皆さんはどう評価されるでしょう。確かに、一応の筋は通っていますが、でもその理屈の皮を一枚めくれば、とにかくトシと会いたい、声を聞きたい、という肉親の愛情に基づいた賢治の本心が、ありありと見えてしまうように、私には感じられます。「ひとりをいのつてはいけない」との制約を自らに課しながら、それでもなおトシと会いたい一心で構築した、綱渡りのごとき論理のように、私には思えるのです。

 いずれにせよ、もしもトシが、夜の船上にいる賢治にそのようなことを知らせてくれたら、賢治は「もちろん落ちて行く」という覚悟を決めていて、そして海中に沈む賢治とトシの二人=「私たち」は、「このまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、自らに言い聞かせています。

 私がふと感じたのは、この「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」という箇所は、これも「歎異抄」の次の部分と、どこか似ているのではないか、ということです。

 念仏は、まことに、浄土にむまるるたねにてははんべらん、また、地獄におつべき業にてははんべるらん。惣じてもって存知せざるなり。たとひ、法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。 (『歎異抄』第二条より)

 念仏というものが、浄土に生まれる契機になるのか地獄に落ちる罪業になるのか知らないが、たとえ法然上人に騙されて地獄に落ちたとしても、何ら後悔すべきではない、と親鸞は言うのです。

 賢治が封ぜられるのは、まずは「このまっくらな海」ですが、地獄にいて苦しんでいるトシのもとに行くのですから、最終的にはやはり地獄です。そして、地獄に落ちる理由は、賢治とトシも、法然と親鸞も、どちらも「信仰が間違っていたから」ということで共通しています。
 後悔すべきでない理由は、賢治の場合は「みんなの幸福」のためだから、親鸞の場合は「他に方法がないから」、ということで異なっていますが、トシと再会できる賢治と同様に、きっと親鸞は地獄で法然に会えるでしょう。
 親鸞が法然から直に教えを受けられたのはわずか6年のことで、承元元年に法然は讃岐へ、親鸞は越後へと流罪になり、これが二人の今生の別れとなりました。「歎異抄」では上の箇所に続いて、「地獄は一定すみかぞかし」という有名な一節が出てきますが、トシのもとへ行く賢治と同じく親鸞にとっても、「お慕いする法然上人と一緒なら、たとえ地獄でも・・・」という気持ちがあったのかもしれません。

 ということで、この二つの状況にはある種の共通点を感じ、私としては「青森挽歌」のみならず翌日の「宗谷挽歌」においても、賢治の深層意識からは、むかし親しんだ「歎異抄」の思想や言葉が、思わずにじみ出てきていたのではないか、という気がするのです。

対馬丸
「宗谷挽歌」において賢治が乗船していたと推測される「対馬丸」
(萩原昌好著『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」への旅』より)

 252行に及ぶ長大な「青森挽歌」の最後は、次にようして終わります。

     《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます

 これからサハリンへと向かう夜汽車の中、妹トシの死をめぐって延々と苦しい思索を続けてきた賢治が、この時とりあえずたどり着いた結論が、これでした。
 以前「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事で書いたように、この作品において《二重括弧》で印付けられたテキストは、作者がこの時「幻聴」として耳にした言葉だったと考えられます。したがって、ここに現れる《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉は、それまで思索に沈潜していた賢治にとっては、その意識を破って突然にどこかから降ってきた「メッセージ」として、体験されたことでしょう。そして、その意味深長な内容に鑑みれば、これは当時の賢治にとって、「如来」か誰か超越的な存在から与えられた、一種の「啓示」のように響いたのではないかと思います。

 この言葉を受けとった賢治は、「ああ わたくしはけつしてさうしませんでした」と弁明し、さらに「妹だけが救われるように祈ったことは一度もない」と、付け加えます。
 しかしここで賢治の答えが、「さういのりはしなかつた!」と自信を持って確言するのではなくて、「…とおもひます」と気弱な表現になっていることは、目を引きます。この賢治はまるで、生徒が教室で不意に先生から指名されて、どぎまぎしながら答えているようにも見えます。
 自分がそう祈ったのか祈らなかったのか、本人ならわかっているでしょうに、なぜ彼はこんなにうろたえているのでしょうか。

 そこでこのやり取りをもう少し細かく見てみると、彼が狼狽している理由が、何となくわかってくる感じがします。実はここで幻聴の主は、「けつしてひとりをいのつてはいけない」と言っているのに対して、賢治は、「あいつだけがいいとこに行けばいいと/さういのりはしなかつた…」という風に、ほんの少し焦点をずらして応答しているのです。
 確かに賢治は、「妹だけがいい所に行き、他の人は行かなくてよい」などと祈ったことは、一度たりともなかったでしょう。しかしここで彼に提示された命題は、「ひとりをいのつてはいけない」だったのです。妹が亡くなってからの賢治は、もちろん他の人のことを祈ることもあったでしょうが、おそらくその厖大な時間を、「たつたひとりのみちづれ」である妹の死後の行方について心を悩ませ、その幸いを祈ることに、費やしていたのではないでしょうか。彼が、自分の妹という「特定の一人」のことを祈っていた事実は、否定しようがありません。
 賢治はそれを自覚していたので、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という厳しい指摘によって、まさに己れの痛いところを突かれたのだと思います。そして動揺しながらも咄嗟に、「でも、あいつだけが、とは祈っていないと思う」と返答するしかなかったのだと思うのです。
 これは些細なことのようですが、賢治は信仰においてこういう細部にもこだわる潔癖さを持つ人だったので、彼がこの場でこの答えを返したことで、己れを無罪放免にできたとは、到底思えません。
 以後この問題は、彼の心に深く刺さる棘となって、彼に解決を迫りつづけることになったでしょう。

 私が思うに、トシの死後ずっとその輪廻転生先について心を悩ませていた賢治は、自分が肉親の情にとらわれてひたすら「ひとり」のことばかり考えつづけていることに対して、すでにこの時点までにかなりの葛藤を抱きつつあったのではないでしょうか。
 その葛藤の由来は、「いつまでもそんなことばかり考えていても、どうにもならないじゃないか」とか、「この頃の俺は本当にどうかしている」というような、現実的理性の声でもあったでしょうし、「個人の幸福ではなく、世界ぜんたい、全ての衆生の幸福を追求すべし」という、彼の本分たる大乗仏教的倫理観との齟齬にもあったでしょう。
 そしてまたしても「ひとり」について考える「青森挽歌」の、長く苦しい思索による疲労が極限に達した時、彼はもはやそのような内心の矛盾を、意識下に抑圧しておくことができなくなったのでしょう。そしてその矛盾を破るべく彼の「超自我」からの声は、仏教的な装いをまとい、まさに超越的な「幻聴」として彼を襲ったのだと思います。

 そしてこれ以降、トシの死をめぐる賢治の苦悩には、さらにもう一つの要素が追加されることとなりました。それまでもテーマとなっていた、「トシは今どこにいて何をしているのか」という懸案に加えて、そういった疑問に心を悩ませつつ、なおかつ同時に「けつしてひとりをいのつてはいけない」という新たな命題をも顧慮しなければならないという、まさに「ジレンマ」を背負いこんだのです。

 この命題は、その後の賢治の作品においても探求が続けられます。
 賢治がサハリンから帰って書いた「〔手紙 四〕」においては、これは次のように変奏されます。

チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいていゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。

 また、「銀河鉄道の夜」(初期形第三次稿)では、「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人」が、次のように言いました。

「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてさうなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」

 これは、その後ずっと賢治に課せられつづける宿題となったのです。

 しかしあらためて考えてみると、そもそもなぜ、「ひとりをいのつてはいけない」のでしょうか?

 《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉は、前半部分に表れている輪廻転生観からしても、明らかに仏教的な命題であると言えるでしょう。しかし、本当に仏教ではそのように考えられているのでしょうか。
 「故人の冥福を祈る」とか、「誰それの供養のためにお経を上げる」とか、特定の誰か一人のために祈りを捧げるという行為は、仏教的にも広く行われている事柄ではないでしょうか。

 これに関して、まずは賢治が深く信仰していた日蓮の教えを見てみましょう。
 すると日蓮自身は、近親者を亡くした遺族が、故人の死後の幸いを祈るのは当然のことであり、またそれは善いことでもあり、大いに行うよう積極的に勧めていたことがわかります。

 例えば次の書簡は、10年前に父を亡くした南条時光という信徒が、身延山にいる日蓮に「かしら芋」を贈ったことに対して、日蓮が書いた礼状です。(『上野殿御返事(阿那律果報由来)』)

〔前略〕
此の身のぶのさわは石なんどはおほく候。されどもかゝるものなし。その上夏のころなれば、民のいとまも候はじ。又御造営と申し、さこそ候らんに、山里の事ををもひやらせ給ひてをくりたびて候。所詮はわがをやのわかれをしさに父の御ために釈迦仏・法華経へまいらせ給ふにや。孝養の御心か。
さる事なくば、梵王・帝釈・日月・四天その人の家をすみかとせんとちかはせ給ひて候は、いふにかひなきものなれども、約束と申す事はたがへぬ事にて候に、さりともこの人々はいかでか仏前の御約束をばたがへさせ給ふべき。もし此事まことになり候はば、わが大事とおもはん人々のせいし(制止)候。又おほきなる難来るべし。その時すでに此の事かなうべきにやとおぼしめして、いよいよ強盛なるべし。
さるほどならば聖霊仏になり給ふべし。成り給ふならば来りてまほ(守)り給ふべし。其の時一切は心にまかせんずるなり、かへすがへす人のせいし(制止)あらば、心にうれしくおぼすべし。恐々謹言。

 すなわち、時光が忙しい中をわざわざ日蓮に贈り物をしたのは、亡き父への別れ惜しさから、父の供養として釈迦仏・法華経に捧げたのであって、その行ないは時光の孝養心の表れであると、日蓮は解釈しています。そして、時光がその心がけで信仰に励むならば、必ずや父の聖霊は成仏するであろうこと、そして成仏したならば息子である時光のところへ来て、時光を守護してくれるだろうと述べ、励ましているわけです。
 これを賢治の場合にあてはめてみれば、トシへの供養を贈る先としては、「日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対服従致します」(書簡177)と彼自らが帰依した田中智学に、すなわち国柱会に贈るべきだということになるでしょう。そして実際、賢治がトシの死後まもなく国柱会あてに「金壱百円」を贈ったことが、この年12月23日付け『天業民報』に掲載されています(「●金壱百円也 岩手宮沢賢治殿/(右は令妹登志子遺志ニ依リ)」)。賢治の農学校の月給が80円だった頃のことです。
 日蓮の書簡の言葉を信じれば、このような追善供養をして信仰に励めば、トシは必ず成仏できるはずですし、成仏したら賢治のところへ来て、彼を守護してくれるに違いありません。

 また、次の書簡は、富木常忍という下総の信徒が、母を亡くした翌月にその母の遺骨を首に懸けて、はるばる身延山まで日蓮を訪ねてきたという出来事を受け、その信徒の帰国後に送ったものです。(『忘持経事』)

〔前略〕
離別忍び難きの間、舎利を頸に懸け足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。其の中間往復千里に及ぶ。国々皆飢饉して山野に盗賊充満し、宿々粮米乏少なり。我身は羸弱にして所従亡きが若く、牛馬も期に合せず。峨々たる大山重々として、漫々たる大河多々なり。高山に登れば頭を天にウち、幽谷に下れば足雲を踏む。鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非ざれば越え難し。眼は眩き足は冷ゆ。羅什三蔵の葱嶺・役の優婆塞の大峰も只今なりと云云。
然る後、深洞に尋ね入りて一庵室を見る。法華読誦の音青天に響き一乗談義の言山中に聞ゆ。案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五躰を地に投じて合掌し、両眼を開き尊容を拝するに、歓喜身に余り心の苦み忽ち息む。我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬へば、種子と菓子(このみ)と、身と影との如し。教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道なり。吉占師子・青提女・目ケン尊者は同時の成仏なり。是の如く観ずる時無始の業障忽ち消え、心性の妙蓮は忽ちに開き給ふか。然して後に随分仏事を為し、事故無く還り給ふ云云。恐々謹言。

 すなわち富木常忍は、母との離別に耐えかねて、母の遺骨を首に懸け、困難な道を足に任せて下総から身延まで馳せ参じ、日蓮と感動の再会を果たします。そして遺骨を釈尊の宝前に安置し五体投地をして合掌し、目を開いて釈尊の像を拝むと、歓喜が身に余り心の苦しみも消えて、「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり」という、亡き父母との一体感に打たれたというのです。そして日蓮の記述は、「親子の同時成仏」という事柄にまで至ります。
 常忍はこの法悦的体験の後、「随分仏事を為し」とありますが、その中には苦労して持参した母の遺骨を、身延山に埋骨するという手続きも含まれていたはずです。
 これを賢治の場合にあてはめてみれば、富木常忍の身延山行きは、「トシの遺骨を国柱会まで持参して納骨する」ということに相当するでしょう。ちなみに、国柱会から授けられたトシの戒名は、死の翌年1月9日付けになっていますから、この時に納骨が行われたと考えるのが、まずは自然です。
 実際、ちょうど1月11日まで賢治は弟清六とともに東京に出てきていて、その間一時的に賢治は姿をくらましていたと清六は回想していますから、『新校本全集』年譜篇は、「この時の(賢治の)行動は明確ではないが、静岡県三保の国柱会本部へ行ったと推定される」としています(p.252)。ただし、国柱会への納骨については、同年の春に父政次郎と妹シゲが行ったというシゲの回想もありますので、「賢治は東京で納骨の手続きのみを行ない、遺骨は父とシゲが持参した」という堀尾青史氏の見解も、年譜篇には併記されています。
 どちらにしても、トシの遺骨が翌年春までに、遺族の手によって国柱会本部に納骨されたことは確かです。

 日蓮が死者の供養について説いた遺文は他にもありますが、管見のかぎりで典型的と思われた二つの例を挙げてみました。いずれにおいても日蓮は、特定の故人を思う遺族が供養の品を日蓮に贈ったり、あるいは遺族が納骨に来たりすることを賞賛し、そのような行ないは故人にとっても遺族にとっても価値あるものだということを、力説しています。「ひとりをいのる」ことを、積極的に肯定しているのです。
 そして、現に賢治はトシの死を受けて、当代における日蓮の代理とも考えた田中智学=国柱会のもとへ、日蓮が書いたように追善供養を贈り、また納骨も行いました。
 賢治が日蓮の言葉を本当に信じていたならば、これだけのことをしたからにはもう、トシの成仏を確信して何も思い悩む必要はないはずですし、自分がこうやってトシという「ひとり」の肉親のことを切に祈っていることに対して、何ら後ろめたい思いを抱くこともないはずです。

 それなのに、いったい賢治はなぜ、「けつしてひとりをいのつてはいけない」などと考えたのでしょうか。

 ここで日蓮から目を転じて、賢治もある時期まで深く信仰していた、浄土真宗の教えを見てみましょう。
 親鸞の言葉を弟子が書き記した『歎異抄』の「第五条」には、次のように書かれています。

一 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。
 そのゆへは、一切の有情は、みなもつて世々生々の父母・兄弟なり、いづれもいづれも、この順次生に、佛になりて、たすけさふらうべきなり。
 わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念佛を廻向して、父母をもたすけさふらはめ。ただ、自力をすてて、いそぎ(浄土の)さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと云々。

【現代語訳】 この親鸞は、亡き父や母の孝行のために追善供養のお念仏を申したことは一度もありません。
 そのわけは、すべてのいのちあるものは、遠いむかしから今まで、いくたびとなく生まれかわり死にかわりするあいだに、あるいは父母となり、または兄弟姉妹となってきました。したがって、この世のいのちがおわって、浄土に生まれて仏になったうえで、すべてのいのちあるものを助けなければなりません。
 この念仏が、もしわたしが善い行ないをつみ重ねた上で得たのであれば、その念仏の功徳を父や母にさしあげて、お助けすることもできましょう。しかし、この念仏はわたしの力で得たものではありません。
 そういうことですから、自力の思いをすてて、すみやかに浄土に生まれてさとりを開いたならば、父母や兄弟姉妹たちが、迷いの世界に生まれて、どのような苦しみの中にあろうとも、仏の持つ不思議な力によって、まずこの世で縁のあったものから救ってさしあげます。
 このように、聖人は仰せになりました。
                   (角川ソフィア文庫『歎異抄』より)

 親鸞は、自分の父母のために祈ったことは一度もないと言い、その理由として、(1)限りない時間をかけて輪廻転生を繰り返すうちに、全ての生物が一度は自分の父母兄弟となったことがあるのだから、かりに今生だけの肉親を救ったとしても、そのことに本質的な意味はない、(2)自力で父母を救おうなどというのは思い上がりにすぎず、我々はただ他力による浄土往生を願うほかはない、という二点を挙げています。
 だから我々が目ざすべきことは、まずは「いそぎ(浄土の)さとりをひらき」、その後に、「神通方便をもて、まづ有縁を度すべき」だとしているのです。先日の「なぜ往き、なぜ還って来たのか(3)」という記事に出てきた言葉にすれば、まずさっさと「往相」を遂げて、その後「還相」によって皆を救済せよ、ということですね。

 この親鸞の言葉を見ると、「一切の有情は、みなもつて世々生々の父母・兄弟なり」という部分は、明らかに賢治の命題の中の「みんなむかしからのきやうだいなのだから」というところに、対応しています。
 そして、親鸞は「ひとりをいのつてはいけない」などと、表面上は禁止の言葉までは述べていませんが、自分の力で「祈る」などという行いは、親鸞の立場からすれば「本願他力の意趣にそむく」ことになるでしょう。すなわち、親鸞からすれば、「ひとりを」であろうと「一切の有情を」であろうと、いずれのために「祈る」ことも、煩悩具足の我らにとっては、身の程知らずの愚行にすぎないのです。

 ということで、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という、「青森挽歌」に現れてその後しばらく賢治の課題となった言葉は、親鸞の思想に由来しているのではないかと、私は考えるのです。
 賢治は、親鸞には幼い頃から親しんでいましたから、その考えや言葉がふと心の底から湧き出してくるということは、可能性としてはありえることかもしれません。しかしそれにしても、上に引用したような日蓮の考えをしっかりと胸に刻んでおれば、何も己れの針路を、「けつしてひとりをいのつてはいけない」などという方向に定めることはなかったのではないかとも思うのです。

 いったいなぜ当時の賢治は、まるで日蓮の教えから離れるかのようにして、むかし信じた親鸞的な思想に回帰するに至ったのでしょうか。

 この疑問への答えとして、私が考える一つの仮説は、トシの死後しばらくの間の賢治は、かなり深刻な信仰上の迷いに陥っていたのではないか、というものです。
 それは例えば、「宗谷挽歌」における、「私たちの行かうとするみちが/ほんたうのものでないならば…」とか、「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら…」という箇所にも、表れているのではないかと思います。

 そして、それにも増して私がどうしても考えずにいられないのは、トシの死後の宮澤家の状況です。
 もちろん、家族全員がトシの死を深く悲しんでいたことでしょう。しかし、浄土真宗に深く帰依する父や母や妹たちは、トシの死後の「行方」などについて思い悩むこともせず、そんなことは他力に任せ、ただ阿弥陀如来の回向だけを信じて、家族一緒に静かに仏壇に向かい、南無阿弥陀仏を唱えていたことでしょう。
 これに対して、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」を失ってしまった賢治には、もはや家庭内に「同じ立場で」悲しみを共有できる同志はありませんでした。たった一人、二階の自室の「御本尊」の前で、南無妙法蓮華経を唱えるしかなかったのです。そして、悲しめば悲しむほど、賢治の孤立は深まり、苦悩も大きくなっていったでしょう。

 そもそも、深い心の傷を負った人間に、回復の希望を与えうるものがあるとすれば、それは周囲の人々との「つながり」です。逆に言えば、深く傷ついた人にとって、最も恐るべき事態は、「孤立」です。
 トシの死後の宮澤家において、これは家族の誰の悪意によるものでもなかったのですが、賢治は自ずと宗教的孤立に追い込まれざるをえませんでした。唯一人でトシを悼むしかない賢治の目から見ると、自分以外の家族は皆、ともに悲しみを分かち合い、おそらく真宗的な諦観も漂わせながら、淡々と日常を送っていたことでしょう。
 その状況が生まれた原因は、法華経や日蓮の教義にあるわけではなく、ただ賢治の中で、深い悲しみと孤立が悪循環を形成していただけなのですが、賢治にとっては、この己れの苦しみは自らの信仰に由来する問題なのかと、ふと感じることもあったでしょう。そのような迷いが、「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら…」というような言葉を生じさせる要因にもなったのではないかと、私は思うのです。

 そして、トシの死の前後の賢治を襲ったそのような宗教的苦悩が、前回に書いた「往相」と「還相」という真宗的な物語の構造や、今回述べたような親鸞的思想への揺り戻しを、彼にもたらしたのではないかと、そんな風に私は考えてみるのです。

オホーツク行という「実験」

 賢治が1923年(大正12年)夏にサハリンに旅した目的は、表向きは農学校の教え子の就職斡旋のためということでしたが、この間に書かれた「青森挽歌」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」など長大な挽歌群を見ると、この旅が妹の死と深く関連したものであったことは、明らかです。
 その「関連」の中身について、『新校本全集』年譜篇は(堀尾青史氏による『旧校本全集』の年譜を引き継ぎ)、この旅の意味を「亡くなった妹トシとの交信を求める傷心旅行」と表現し、鈴木健司氏は「《亡妹とし子との通信》という隠された目的のあったことも確かなことだ」(『宮沢賢治 幻想空間の構造』p.175)と記しておられます。

 私もこれらの説のとおり、この旅における賢治がトシとの通信あるいは交信を切望し、妹が今どこでどうしているのか、何としても知りたいと願う気持ちがあったのは確かだろうと思います。しかし、私が思うところはそれにとどまらず、賢治がここで本当に求めていたのは、トシとの通信だけではなく、「トシの後を追って自分も妹と一緒に行く」ということだったのではないかと、ひそかに思っているのです。
 今日は、私がそのように考える理由について、トシの死の前、当日、死の後、という順に賢治の作品を追って、整理してみたいと思います。

 その前に確認しておきたいのは、ここで私が言いたいのは、「賢治は妹の後追い自殺をしようと企てていた」ということではありません。ひょっとしたら、この世に残された者から見ると自殺と映るような結果になったのかもしれませんが、賢治の本来の意図は、そうではなかったのです。
 たとえば北方のどこかに、「異空間への接続ステーション」があって、死ぬことなく「死後の世界」に行ける可能性があるかもしれません。実際、「ひかりの素足」でも「銀河鉄道の夜」でも、主人公は大切な人とともに死後の世界へ往って、また還ってきています。
 などと言うと、いい大人が旅行を計画した動機としては、かなり荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、しばしば異界と「交信」し、異空間の実在を信じていた賢治にとっては、これはそんなに無茶な話ではなかったろうと思うのです。少なくとも、「ある種の事を行えば、それに応じた結果が期待される」という意味において、この旅は賢治の意識の中で、宗教的には一つの「儀式」と言えるものだったでしょうし、自然科学的には一つの「実験」と言えるものだったのではないかと、私は思うのです。

1.トシの死の前

 以前の記事にも書いたことですが、賢治は1922年11月のトシの死の少なくとも数ヶ月前から、もしも妹が臨終を迎える時が来たら、自分もともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と考えていたのではないかと、私は思っています。

 ところでこの、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という言葉は、1922年8月に書かれたと推定される「イギリス海岸」の中に、登場するものです。生徒を引率してイギリス海岸に来た賢治は、もしも泳いでいる生徒が溺れた時に自分が取る行動として、次のように思っていたというのです。

もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。

 生徒に対する賢治のこのありあまるほどの責任感に、もちろん嘘はなかったのでしょう。しかし、あまりにも大仰なこのような言葉が、ふと彼の口をついて出てきた背景には、当時下根子桜の別宅で着実に死へと近づきつつあった妹の存在があったはずだと、私は思うのです。
 賢治は、実はトシに対してこそ、常々このように思い詰めていたのではなかったでしょうか。

 また、童話「双子の星」において、チュンセとポウセが彗星にだまされて、天空から海の底に落とされてしまう箇所には、次のような言葉があります。

 二人は青ぐろい虚空をまっしぐらに落ちました。
 彗星は、「あっはっは、あっはっは。さっきの誓ひも何もかもみんな取り消しだ。ギイギイギイ、フウ。ギイギイフウ。」と云ひながら向ふへ走って行ってしまひました。二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです。

 「双子の星」のテキストには、吉田源治郎著『肉眼に見える星の研究』と共通した表現が見られることから、その現存稿が書かれたのは、1922年9月の同書刊行以後だろうという説があります(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の中地文氏による「双子の星」解説)。そうであれば、この作品の完成も、トシの死のほんの少し前のことになります。
 そして、この作品における「双子」という存在が、賢治とトシという兄妹をモチーフの一つとしていることは多くの人の認めるところであり、その二人が「どこ迄でも一諸に落ちやうとした」と賢治が記していることの意味は、やはり見逃すことができません。
 ここでも賢治は、トシが死ぬ時にはその肱をしっかりとつかみ、「どこ迄でも一諸に落ちやう」と、考えていたのではないでしょうか。

 さらに賢治には、もっと直接的に、一緒に死後の世界に至る「兄弟」をテーマとした作品もあります。吹雪における兄弟の遭難を描いた童話「ひかりの素足」では、兄の一郎は弟の楢夫にぴったりと寄り添い、弟を献身的に守りながら、二人一緒に「あの世」にたどり着きますが、この作品の第一形態が成立したのは、1922年前半頃までと推定されています(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の杉浦静氏による「光の素足」解説)。
 やはりトシの死が近づきつつあった年に書き始められたこのお話も、その構想そのものが、「妹に付き添って死後の世界へも同行し、その身を守ってやりたい」という賢治の願望を、反映したものだったのではないでしょうか。

 じりじりと死の影に迫られつつある妹を見守りながら、1922年という年の賢治は、ずっと一人でこういうことを思い詰めていたのではないかと、私は思うのです。
 しかしいずれにせよ、愛する妹の最期の日は、否応なくやってきました。 

2.当日 

 1922年11月27日、トシの臨終の床で、何が起こったでしょうか。賢治は心のどこかでは、たとえば妹と一緒に兄も仏に導かれて別の世界に至るような、何かそんな超自然的な出来事を期待していたのかもしれません。
 しかし現実には、そのようなことは起こりませんでした。「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」に記録されいるような会話がおそらく行われ、その後トシは一人で旅立って行ったのです。

 しかしここで、「松の針」に出てくる次のような部分には注目しておくべきだろうと、私は思います。

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ

 賢治は、妹が「けふのうちにとほくへさらうとする」こと自体は不問にする一方で、「ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか」ということを、問いつめているのです。
 思えば「永訣の朝」の冒頭も、「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」でした。このような場合、普通ならば「死なないでくれ」と訴えるのがお決まりのパターンでしょうが、賢治はその日のうちに妹が死んでしまうそのこと自体は、じたばたせずに受け容れていたのです。
 そしてその一方で賢治は、妹が「ひとりでいかうとする」ことには、異議を唱えるのです。「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ/泣いてわたくしにさう言つてくれ」と懇願し、自分が妹の死に同行する可能性を、何とかして引き出そうとするのでした。

 このような賢治のスタンスは、次の「無声慟哭」でも同様です。

わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

 上で太字にしてみたように、ここでも賢治は、妹が「ひとり」行こうとすることを、どうしても認めようとしません。

 つまり、賢治は妹の「死」は認めつつも、「ひとりで」を認めないのです。
 これこそ、賢治がトシの死のかなり前から、「妹が死ぬ時には同行しよう」とずっと思い詰めていたことの表れだろうと、私は思うのです。 

3.死の後 

 しかし、トシは結局、「ひとりで」行ってしまいました。残された賢治の喪失感ははかりしれないものだったでしょう。悶々として一篇の詩も生まれない日々が、半年あまりも続きました。
 そのような月日の果てに企画されたのが、翌年夏のサハリン旅行でした。トシの死の当日まで抱えていた上のような賢治の思いは、この時どうなっていたでしょうか。

 サハリン行への途上で書かれた作品のうち、その賢治の気持ちを最もはっきりと表しているのは、「宗谷挽歌」です。「妹の死に同行する」ことをその死の当日までずっと願いつづけていた賢治の思いは、その死後8ヵ月あまりを経てもなお綿々と続いていたことが、ここで明らかになります。
 その冒頭部分を、下に引用します。

   宗谷挽歌

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。 

 宗谷海峡を渡る船の甲板にいる賢治は、もしも妹が自分を呼んだなら、「私はもちろん落ちて行く」と決意しています。
 また、上の最後の引用行においても、「どうして私が一諸に行ってやらないだらう」と書いています。
 まさに賢治はここでも、トシと一緒に「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思っているのです。
 さらに、上記のしばらく後の部分には、次のような箇所もあります。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 「われわれが信じわれわれの行かうとするみち」とは、法華経信仰に違いありませんが、もしもそれが「まちがひであったなら」自分に知らせに来てくれと、賢治はトシに頼んでいます。もし賢治がそれを聞いたなら、「私はもちろん落ちて行く」という決意を実行に移すでしょうが、そのまま「まっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、自らに言い聞かせています。
 このような行動は、第三者から見れば「自殺」以外の何ものでもありませんが、賢治もそれは意識しているので、「宗谷挽歌」の文中には、自分が船員から自殺者と疑われているのではないかと、気にする箇所も出てくるわけです。

 このようにして、妹のもとへ行けるなら死んでもよいという決意のもと、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」という心構えを持って、賢治は宗谷海峡に臨んだわけです。
 さかのぼれば、前日の「青森挽歌」において、すでに賢治は次のように書いていました。

(宗谷海峡を越える晩は
 わたくしは夜どほし甲板に立ち
 あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
 からだはけがれたねがひにみたし
 そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

 この言葉のとおり、賢治は宗谷海峡を越える晩に「夜どほし甲板に立ち」、何かが起こることを期待したのです。この「挑戦」こそ、賢治にとっては一つの「儀式」であり、「実験」だったのだと思います。
 しかし結局、賢治が期待したような出来事は、この海上では起こりませんでした。海を渡った賢治は、サハリンに到着します。

 そして、サハリンの玄関口である大泊(ロシア名コルサコフ)の港から、彼はまた鉄道に乗って、一路北を目ざします。そして、当時の「樺太東線」の終着駅である、栄浜(ロシア名スタルドブスコエ)の駅に降り立ちました。
 下の地図で、マーカーを立ててある場所が栄浜です。

 私が推測するには、賢治がこの旅行において、宗谷海峡に続いてもう1ヵ所「何か」を期待して臨んだ地が、この栄浜だったのではないかと思うのです。
 この場所は、当時の日本において、鉄道で行くことのできる最北の地点でしたが、この「最果ての浜辺」というロケーションにも、何らかの思い入れがなされていたではないでしょうか。

 賢治はその浜辺に出て、オホーツク海と向かい合い、「オホーツク挽歌」を書くのですが、このテキスト中に出てくる「仮眠」に対して、香取直一氏と鈴木健司は、「《亡妹トシとの通信》を求めた意志的な行為」と解釈しておられます(香取直一「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」および鈴木健司「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」)。私もこの着眼に、同感です。
 最果ての浜辺で、貝殻を口に含んで行った「仮眠」は、賢治によってなされた次なる「儀式=実験」だったのだろうと、私は思うのです。

 「オホーツク挽歌」という作品は、本文中の二つの空白行によって、三つの部分に分かたれていますが、その二番目の部分を、下に引用します。

白い片岩類の小砂利に倒れ
波できれいにみがかれた
ひときれの貝殻を口に含み
わたくしはしばらくねむらうとおもふ
なぜならさつきあの熟した黒い実のついた
まつ青なこけももの上等の敷物と
おほきな赤いはまばらの花と
不思議な釣鐘草とのなかで
サガレンの朝の妖精にやつた
透明なわたくしのエネルギーを
いまこれらの濤のおとや
しめつたにほひのいい風や
雲のひかりから恢復しなければならないから
それにだいいちいまわたくしの心象は
つかれのためにすつかり青ざめて
眩ゆい緑金にさへなつてゐるのだ
日射しや幾重の暗いそらからは
あやしい鑵鼓の蕩音さへする

 この18行は、「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」という自らの行為への、注釈になっています。その仮眠の理由を、賢治はエネルギーの恢復のためとか、心象がつかれているからなどと説明していますが、しかしその本当の目的は、眠っている間にトシのもとへと行ってくることだったのではないかと、私は思うのです。
 それはちょうど「銀河鉄道の夜」において、ジョバンニが天気輪の丘で「仮眠」に入り、その間に死んだカムパネルラとともに異界を旅してきたことに相当します。この時のオホーツクの浜辺における賢治の仮眠は、「銀河鉄道の夜」におけるジョバンニのそれの、原型とも呼べるものだったのではないでしょうか。

 「オホーツク挽歌」における賢治のこの仮眠が持つ意味について考えるには、この作品と童話「サガレンと八月」との関係に注目する必要があるでしょう。
 鈴木健司氏は、「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」の二つが「ネガとポジの関係」にあると指摘し、さらに踏み込んで「オホーツク挽歌」の仮眠において賢治が体験した内容が、「サガレンと八月」として作品化されたと論じておられます。
 両作品における舞台設定の共通性を見ても、これは非常に説得力のある仮説であると、私も思います。しかし、鈴木氏が栄浜における賢治の「仮眠」についてここまで鋭く論じられながら、その仮眠の目的が、《亡妹トシとの通信》を行うことだったと結論づけておられるところは、私としてはやや物足りなく感じてしまうのです。
 「サガレンと八月」が、<異界へ行く物語>であることに鑑みれば、ここにおいて賢治が期待していたことも、単なる「通信」にとどまらず、「身をもって異界へ行く」ことだったと解釈すべきではないでしょうか。
 それは、「サガレンと八月」において海の底に連れ去られたタネリの運命について考えることによっても、浮き彫りにされます。

 「サガレンと八月」で少年タネリは、母親の与えた禁忌を破った結果、恐ろしい犬神によって海の底に連れて行かれ、蟹の姿にされて「チョウザメの下男」として幽閉されます。
 ところでサハリンという島の形は、日本では「鮭」の姿に喩えられますが、ロシアにおいては、「チョウザメ」の形と言われているのです。下記は、チェーホフの『サハリン島』からの引用です。

 サハリンは、オホーツク海中にあつて、ほとんど1000露里に亙るシベリアの東海岸と、アムール河口の入口とを大洋から遮断してゐる。それは、北から南へ長く延びた形をしてゐて、蝶鮫を思はせる格好だ、と言ふ著述家の説もある。(岩波文庫版上巻p.40)

 サハリンを蝶鮫にたとへることは、南部の場合は殊にふさはしく、全く魚の尾鰭にそつくりである。尾の左端はクリリオン岬、右は――アニーワ(亜庭)岬と呼ばれ、その間の半円形をなした入江を――アニーワ湾といふ。(岩波文庫版上巻p.248)

サハリンとチョウザメ  このチョウザメの喩えは、右の図をみていただければ一目瞭然です。島全体のスリムさは、鮭よりもチョウザメの方がぴったりきますし、南端の尾びれの形といい、東に突き出た北知床半島(テルペニア半島)が背びれに対応するところといい、比喩の迫真性に関しては、鮭よりもチョウザメの方に軍配を上げざるをえません。
 賢治は、文語詩「宗谷〔二〕」において、中知床岬(アニーワ岬)のことを、「サガレン島の東尾」と表現していますから、サハリン島の形が「魚」に喩えられることを知っていたのは確かです。これが鮭だったのかチョウザメだったのかはわかりませんが、「サガレンと八月」というサハリンを舞台とした童話に、「チョウザメ」が出てくるのですから、これはサハリンという土地を象徴するものと解釈するのが自然でしょう。

 すなわち、「サガレンと八月」の主人公が、他ならぬ「チョウザメ」の下男として海の底に閉じ込められるという物語は、実は作者である賢治が、サハリンという土地に囚われ、その海底に沈められるという事態を、象徴していると解釈すべきでしょう。
 そうなると、賢治が栄浜での「仮眠」において期待していたのは、やはりトシとの「通信」にとどまらず、自らがトシの居場所へと赴くことだったと考えるべきと思います。
 自ら宗谷海峡を渡る船の甲板から飛び込むことによってか、あるいは栄浜の海岸からタネリのように拉致されることによってか、いずれにしても賢治が亡き妹のもとへ行きたいという願望とともに、ひそかに心に期していた「異界への旅」は、「サガレンと八月」におけるタネリと同じ運命を、招き寄せるおそれがあったのです。

 それでは、「オホーツク挽歌」において栄浜の海岸で仮眠をとった賢治は、ジョバンニとカムパネルラのように、その夢の中でトシに会うことができたのでしょうか。
 これについて考えるためには、「オホーツク挽歌」の作品中のどこで「仮眠」が行われたのかということを、同定しておく必要があります。この問題に関して鈴木健司氏は、二つの空白行によって三つに分かたれた作品の「パート2」(=上の引用部分)と「パート3」の間で賢治は仮眠をとり、この際に「サガレンと八月」に結実する《幻想体験》が現れたと推定しておられます。「パート1」「パート2」はまだ朝方の時間であるのに対して、「パート3」には「(十一時十五分 その蒼じろく光る盤面)」という詩句があり、その間に時間的断絶があると思われることを、その根拠として挙げておられます。
 私も、鈴木氏の考えに賛成です。作者は、「パート2」では「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」と述べていることからまだ眠っていないわけですが、「パート3」には「わたくしが樺太のひとのない海岸を/ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき…」という詩句があって、この時点ではすでに「睡つたりしてゐる」からです。
 そうすると、「パート3」を読めば「仮眠」後の賢治の様子がわかるということになります。ということで、その内容を見てみると、まず目に入るのは、「とし子はあの青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」という言葉です。つまり、仮眠の後にも、賢治はトシに関する具体的な情報を持っていないのです。
 あるいはまた、「いまするどい羽をした三羽の鳥が飛んでくる/あんなにかなしく啼きだした/なにかしらせをもつてきたのか」という、鳥に対する思い入れも書きとめられています。これは、旅行前の6月の「白い鳥」の流れを引いて、鳥の鳴声の中にトシからのメッセージを読みとろうとする姿勢で、もしもその直前にトシと会えたり通信が得られたりしていたのならば、こんな風に鳥の声を頼りなく聴くこともなかったでしょう。
 すなわち、このオホーツクの海岸における仮眠という「実験」によっても、賢治は期待したようにトシのもとへ行くことは、できなかったのです。
 その意味で、未完に終わっている「サガレンと八月」という童話は、賢治の実験が成功しなかったということにおいても、結末に至ることなく放置されたということにおいても、二重の意味で「流産させられた」作品だったと言うことができるでしょう。

 では、「オホーツク挽歌」におけるこのような体験は、結局のところ賢治に何を与えたのでしょうか。
 香取直一氏は次のように述べて、賢治はこれを契機に、トシの「行方」について思い悩まなくてよい心境に到達したのだと、考えておられます。

玉随の雲に漂って行ったあの一羽の鳥は、《とし子》が蒼空の彼方へ行ったこと、そこから《通信》はこないが、《通信》をよこす必要のない処・眼前に望まれる樺太のような花のきれいな光あふれる浄らかなところへ行ったことをものがたっているのだ。賢治にはこう信じられていたのであろう。(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)が記されたのも、やはり必然であったと思われるのである。(「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」より)

 一方、鈴木健司氏は次のように述べ、賢治はこの時、香取氏の言うようにトシの往生の地を《浄土》と信じたというわけではないのではないかとしておられます。

 香取のいう「必然」とはどのようなことか。賢治にとって、妹とし子の往生の地が「光りあふれる浄らかなところ(浄土)」に違いないと確信することと、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやくことが、どのような必然の糸で結ばれているというのだろうか。おそらく私の解釈は香取の主張するところとは異なっている。賢治が「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやいたのは、妹とし子の往生の地が《浄土》と信ぜられた結果としてではなく、《浄土》であり続けるためにつぶやいたのである。なぜなら、妹とし子の浄土往生を支えうるのは、己れの信仰の正しさの確認以外になく、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という語には、この場合、破地獄としての陀羅尼(呪文)の作用が託されていると考えられるからである。(「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」より)

 そして鈴木氏は、「オホーツク挽歌」の終結部に出てくる「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という梵語による唱題の意味について、次のように述べます。

「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやかれたことは、賢治が妹とし子のいない現実世界を受容したことを意味するのであり、それは取りも直さず、《亡妹とし子との通信》の断念の表白でもあるのだ。

 この鈴木氏の見解について、私は半分は賛成です。
 すなわち、鈴木氏が上の後半で述べているように、「オホーツク挽歌」以後の賢治は、もうそれまでのようにトシとの「通信」に執着することはなくなります。その後の作品には、「通信」というテーマは出てこなくなるのです。
 一方、前半部の「賢治が妹とし子のいない現実世界を受容した」という点については、この時点の賢治はまだ「受容」にまでは至っていないと、私は考えざるをえません。
 たとえば、サハリンからの帰途の「噴火湾(ノクターン)」では、トシに関して次のような思いが綴られています。

駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
  (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 ここに描かれている賢治にとっては、「何べん理智が教へても」、やはりさびしさは癒えません。そして彼が、「どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ」理由は、「妹とし子のいない現実世界」を、まだ受容しきれていないからに他なりません。
 あるいはまた、サハリン旅行から帰ってから書いた「〔手紙 四〕」の冒頭には、次のように記されています。

 わたくしはあるひとから云ひつけられて、この手紙を印刷してあなたがたにおわたしします。どなたか、ポーセがほんたうにどうなつたか、知つているかたはありませんか。 

 ここでも、チュンセの死んだ妹ポーセが「ほんたうにどうなつたか」を知りたいという賢治の願望は、まだ強く持続しているのです。妹の行方を知る手段として、トシ本人からの「通信」を求めるという以前のやり方は用いられず、「手紙に託して探す」という方法がとられますが、それでもやはり賢治は、まだ「妹とし子のいない現実世界」を受容しているとは言えません。

 サハリン行から後の作品を順に追って見ていくと、賢治が本当の意味でトシの死を受容できるようになったのは、さらに翌年の「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」、そしてその頃に書き始められた「銀河鉄道の夜」に至ってのことだったろうと、私は考えます。
 賢治がその境地まで至った道筋は、崇高な「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」の一例とも言えるものであり、またそのうちに記事にしてみたいと思っています。

 では、賢治が結局オホーツク行という企図によって得た最大の収穫は何だったのかとあらためて考えてみると、私としては、「青森挽歌」の終わり近くに出てくる次の一言の啓示だったと思います。

《みんなむかしからのきやうだいなのだから
 けつしてひとりをいのつてはいけない》

 この認識が、「〔手紙 四〕」の重要なテーマとなり、「〔この森を通りぬければ〕」と「薤露青」を支え、さらには後の「銀河鉄道の夜」にも引き継がれることになっていきます。

大槌の「風の電話」と賢治の挽歌

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風の電話は心で話します
静かに目を閉じ
耳を澄ましてください
風の音又は浪の音が
或は小鳥のさえずりが聞こえたなら
あなたの想いを伝えて下さい
想いはきっとその人に届くでしょう
                       佐々木格「風の電話」より

 「ベルガーディア鯨山」とは、釜石の会社を早期退職した佐々木格さんが、大槌町の郊外の高台に開いた、広大な庭園の名前です。
 ここには、佐々木さんが一つ一つ石を積んで建てた「森の図書館」(下写真)や・・・、

森の図書館

やはり佐々木さんが自ら木材を組み上げて作った「ツリーハウス」(下写真)などが建ち並んでいますが・・・、

ツリーハウス

それらの建物から少し離れて、海の景色が美しい場所にぽつんと建っている白い電話ボックスが、「風の電話」(下写真)です。

風の電話

 電話ボックスの中には、昔ながらの黒電話が一つ置かれているのですが、この電話機の線は、どこにも繋がっていません。ですから、この電話では物理的には、誰とも話はできないのです。
 しかしこの電話機には、他の普通の電話にはないような、特別な機能があります。実はこれは、この世の人と、亡くなった人の心をつなぐために、佐々木さんが設置したものなのです。

 佐々木格さんは、2010年の冬に、いとこを病気で亡くされました。悲しみに沈むご親族の力になればと考え、佐々木さんはこの庭園内に電話ボックスを設置し、暖かくなったら周囲に花を植えようと、2011年の春が来るのを待っていました。
 するとそこに、震災が起こったのです。ここ大槌町では、1万5千人の人口のうち、1284人が死亡または行方不明という惨事になりました。

 このような状況で、この電話が何か人の役に立つかもしれないと思った佐々木さんは、急いで周りの植栽を行いました。そして、これを「風の電話」と名づけて完成したのが、2011年4月のことでした。
 その頃まだ大槌では、現実の電話線も復旧していなかったのですが、5月に新聞記事で紹介されたことをきっかけに、ここを訪れる人がだんだんと増えてきたということです。

 「風の電話」を訪ねてきた方は、まずはこの庭園を散策したり、ベンチに座って海を眺めたりするのだということです。その後、電話ボックスに入って受話器を取り、しばしの時間を持たれるのです。
 ボックス内に置かれているノートに、その思いを書き付けて帰られる方も、たくさんあります。また、千葉県のボランティア団体から寄贈された小さな木彫りのお地蔵さんも置いてあって、ここを訪れる人は、お地蔵さんを自由に持ち帰ってよいことになっています。

 私自身も、2月12日の早朝に、「風の電話」を体験させていただきました。
 電話ボックスの扉を開けて中に入り、また扉を閉めると、中は思ったよりも静かでした。ガラスはきれいに磨かれています。

風の電話の内部

 ノートやお地蔵さんを眺めた後、受話器を手に取ってしばらく耳にあててみました。そして、今は会えないある人に対して、ずっと伝えたかったことを、心に念じてみました。

 実際に「風の電話」を体験して感じたことは、ここに入ってみると、自分を何かに「ゆだねる」というような気持ちが、なぜか湧いてくるということでした。

 しかしまあ、どこにも線の繋がっていない電話の受話器を取って、亡くなった人と「対話」をするなんて、ちょっと「芝居がかった」行為に感じられる向きもあるかもしれません。はたしてこんなことが、何かの役に立つのだろうかという疑問も、ありうるでしょう。
 それでも、この行為に確かな「意味」が存在していることは、震災から年月が経った今でも、わざわざここを訪れて受話器を手にする人が跡を絶たず、中には何度も来られる人もいるという事実が、はっきりと証明してくれています。私がここを訪ねたのは2月11日でしたが、震災から「月命日」にあたるこの日、「風の電話」を訪れる人を取材しようと、複数の新聞社の人も来ていました。

 この舞台装置が「芝居がかった」ものにならずに、実際にしっかりと機能を果たしている理由は、いろいろと考えられます。
 一つには、この電話が位置しているロケーションによるところもあるのでしょう。電話ボックスが設置されているのは、被災地の懐で、豊かな自然に囲まれ、手入れされ落ち着いた庭園の中です。そして、何よりもこの場所からは、あの三陸の海の、「あの日」とは異なった美しい姿を、望むことができるのです。
 そしてまた、この電話を設置して、それを守り続けている佐々木格さんのお人柄も、非常に大きな要素となっていることでしょう。ここに来ればいつでも佐々木さんが優しく迎えてくれて、丁寧に庭園を案内してくれたり、風の電話を使った後はお茶を飲みながら話を聴いてくれたりすることは、多くの人にとって心強い癒やしとなっていることでしょう。
 さらに、ここを訪れる方々同士の横のつながりも生まれ、「子を亡くした親の会」などの自助グループができていることも、当事者の方々にとっては、強い力になっていることでしょう。会の仲間と一緒に、みんなでピザの生地をこね、「森の図書館」の1階に造り付けられている石窯で焼いて食べるという会合も、開かれているのだそうです。

風の電話の内部

 佐々木さんによると、この電話を訪ねて来られた方でも、あまりにも悲しみが深い場合は、最初は電話ボックスに入ることにさえ抵抗感を抱かれるのだそうです。
 そういう方も、しばらくすると入ってみようという気持ちになられますが、それでも当初は、ほとんど言葉も出てこないということです。

 しかしそのうちに多くの方は、抱えてきた悲しみを佐々木さんに切々と話されるようになるのだそうです。それは初めのうちは、亡くなった方に対して自分を責める気持ち、生き残ってしまったことへの罪責感が、ほとんどだということでした。
 それでもいつしか、そのお話もだんだんと穏やかになり、表情も柔和になっていかれるということです。

 大切な人を失い、自分だけが生き残ってしまった時、人はしばしば「サバイバーズ・ギルト(生存者の罪責感)」という感情を抱いてしまいます。「なぜ自分はあの人を助られなかったのか」、「もしもあの時ああしておれば助けられたのではないか」、「自分が殺してしまったようなものだ」、「こんなことなら自分こそ死ねばよかったのだ」、などという思いが、無限ループのように心の中で渦巻きます。このような罪責感は、その人を失った痛切な記憶と固く結びついているので、その記憶がよみがえるたびに、まるで「自動思考」のように発動してしまい、人はなかなかこのループから抜け出すことができません。

 私が「風の電話」で感じた、「自分を何かにゆだねるような気持ち」は、このような「自動思考」を幾分なりとも解除してくれて、心が再び自然な流れを取り戻す上で、一定の役割を果たしてくれているのかもしれないと、ふと思ったりもしました。
 自分の心に浮かぶ考えや感情に流されたり、それらに対して価値判断を差しはさむことなく、ただ心に湧いてくることを客観的に観察しようとするという、「マインドフルネス」という心理アプローチがありますが、この「風の電話」に入ることは、意図せずにこの「マインドフルネス」に似たような心の状態を、作り出してくれているようにも感じました。
 ガラス張りで、中からは周囲の美しい風景がすっきりと見渡せる一方で、一人だけの静かな「守られた空間」でもあるというような不思議な感覚が、何らかの作用をしてくれているのかもしれません。

風の電話からの景色

 上に記したように、人間が深い「悲しみ」を段階的に昇華していく作業のことを、「グリーフ・ワーク」と言います。私は去る2月11日に、佐々木格さんと、県立大槌病院の心療内科医である宮村通典さんと一緒に、宮澤賢治が最愛の妹トシを亡くした後に経験したであろう「グリーフ・ワーク」について、暖炉の火の燃える「森の図書館」で、しばらくお話しをしました。

 トシを亡くした日、賢治は「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」という不朽の三部作を書き付けましたが、その日からおよそ半年間は、少なくとも『春と修羅』に収められる作品は書いていない、文字どおり「無声」の時期が訪れます。
 翌年の6月以降、また創作は再開されますが、今度は「オホーツク挽歌」の章の諸作品のように長大なものが続き、言葉は堰を切ったように大量にあふれ出します。このあたりは、佐々木さんが、「風の電話」を訪れる方々を見ていて感じられた上記のプロセスと、同じような経過とも言えます。

 そして、賢治が「青森挽歌」に記している言葉、「なぜ通信が許されないのか/許されてゐる…」に表現されている葛藤は、まさに故人との「通信」を求めて、「風の電話」を訪れる人々とも、共通するものだと言えます。古今東西にあまねく、さまざまな「霊媒」と呼ばれる人々の存在があるのも、何とかして死者と通信をしたいという、人間の普遍的な願望によるものでしょう。
 賢治の場合は、青森へ向かう夜行列車の中や、稚泊連絡船の甲板や、サハリンの栄浜の海岸などが、トシとの「通信」を可能にするための舞台設定だったように思われます。一方、ここ大槌の「風の電話」には、上に記したようにさまざまな要素が絡み合って、「通信」のための絶妙の環境装置が備わっているわけです。

 賢治にとっても、もちろん一回の旅行だけで、その深刻な「グリーフ・ワーク」が終了したわけではありませんでした。その後もさまざまな作品に、彼の心の軌跡は表れています。
 そして最終的には、たとえば「銀河鉄道の夜」に代表されるような、「人の死の受けとめ方」へと結晶していったのです。

 古今東西、大切な人の死をどう受けとめるかという「ワーク」に求められているのは、きっと本質的にはみんな同じことなのだと思います。

 佐々木さんが設置したこの「風の電話」は、去年には可愛い絵本にもなって、出版されています。
 登場する動物たちのけなげさが、心に沁みます。

かぜのでんわ かぜのでんわ
いもとようこ

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やまのうえに 1だいの でんわが おいてあります。
きょうも だれかが やってきました。
せんのつなっがていない そのでんわで はなしをするために・・・。
                           (「かぜのでんわ」より)

あのくしゃくしゃの数字

 1924年(大正13年)3月24日、賢治は雪の降る五輪峠を歩いて越え、人首(ひとかべ)という集落で一泊して、翌25日は水沢にある緯度観測所を訪ねたようです。この間の様子は、「 〔湧水を呑まうとして〕 」、「五輪峠」、「丘陵地を過ぎる」、「人首町」、「晴天恣意」という連作に描かれています(「五輪峠詩群」参照)。
 「五輪峠」には、「何べんも何べんも降った雪を・・・」という一節が出てきますが、国会図書館近代デジタルライブラリーから、「中央氣象臺月報 全國氣象表」(下図)というのを調べてみると、この年の3月に入ってから24日までの期間のうち、水沢で雪が降らなかったのは7日間だけで、あとは「何べんも何べんも」雪が降りつづく日々だったことがわかります。(下図はクリックすると、別窓で拡大表示されます。)

「中央氣象臺月報 全國氣象表」(大正13年3月水沢)

 それにしても、賢治はこの日、何のためにわざわざ雪の峠越えをして水沢までやって来たのでしょうか。その目的は明示されてはいませんが、「水沢緯度観測所にて」と副題のある「晴天恣意」の下書稿には、最初の方に「数字につかれたわたくしの眼は・・・」と書かれていますし、最後は次のように終わります。

そんなにもうるほひかゞやく
碧瑠璃の天でありますので
いまやわたくしのまなこも冴え
ふたゝび陰気な扉を排して
あのくしゃくしゃの数字の前に
かゞみ込まうとするのです

 つまり、彼はこの観測所にある何らかの「くしゃくしゃの数字」=数値データを調べるために、ここを訪れたのではないかと思われます。

 水沢緯度観測所というとまず何よりも、当時世界で6ヵ所だけ設置されていたという国際的な緯度観測の最先端施設です。またここは、「土神ときつね」に「水沢の天文台」として登場するように、高性能の天体望遠鏡を有する天文観測所でもありました。
 緯度観測所の機能としてはこの二つが有名ですから、賢治がここに何かを調査しに来たとすれば、まず思い浮かぶのは、こういった領域のデータを見に来たのではないかということです。
 しかし、この頃の賢治は農学校に勤めており、もとより地球物理学にも天文学にも関心は高かったでしょうが、それらを調査するとすれば自分の専門外の「趣味」に属することになります。もちろん趣味も多彩な賢治でしたが、私が想像するのは、この時彼は農作物とりわけ米の作況を予想するために、気象や海水温のデータを調べようとやって来たのではないか、ということです。

◇          ◇

 賢治の恩師である盛岡高等農林学校の関豊太郎教授は、1907年(明治40年)に「東北の凶冷と沿岸潮流との関係に就きて」(『官報』明治40年4月15日-16日)という論文を発表しています。この研究の意義については、1966年に小沢行雄氏が、「低海水温の内陸気温に及ぼす影響について」(防災科学技術総合研究報告 第6号 1966年3月)という論文の冒頭で、次のように高く評価しています。

 東北地方・北海道地方など北日本の冷害凶作が夏期の著しい低温によってもたらされることは明らかである。ところでこの夏期低温を誘致する原因については、古く明治40年代から調査研究が進められ、三陸北海道沖の海水温の低さが注目されてきた。すなわち関は岩手県の広田湾及び宮古湾の沿岸水温から明治38年の凶冷の原因を考察し、寒潮面上を吹送してくる北東風又は東風は冷涼で陸地の温度を低下させること、一方太平洋上の温暖な海面からくる風は海岸付近の寒流上の冷気にふれて細霧を生じ雨をもたらすと説き、冷害年における海水温の異常を詳述した。この論文は冷害と海水温とを結びつけた考察の端緒であり、ここに指摘されている冷害年には沿岸海水温が異常に低くなるという事実は今日においても変更の余地はない。

 1915年から1920年まで関教授のもとで学んだ賢治は、この関教授の業績について当然勉強し、その後も冷害について考える際には、「三陸北海道沖の海水温」を意識していたはずです。また実際、この水沢緯度観測所訪問の前年である1923年に書いた「宗谷挽歌」には、

(根室の海温と金華山沖の海温
 大正二年の曲線と大へんよく似てゐます。)

という一節が出てきます。場所は根室と金華山沖、すなわちまさしく「三陸北海道沖」に該当しており、少なくとも賢治はこの水沢訪問の前年には、「三陸北海道沖の海水温」をしっかりと頭に入れていたわけです。
 やはり国会図書館近代デジタルライブラリーで、「農商務統計表」から岩手県の米の収量を調べると、平年は702,480石に対して、大正2年(1913年)は461,405石で、平年を100とした作況指数は66と、極端な凶作でした。賢治が「大正二年の曲線と大へんよく似てゐます」と気にしているのは、この年も凶作にならないかと心配なのでしょう。

 この頃まで、彼はこういった気象データを水沢緯度観測所で調査していたのだろうと私は思うのですが、ちょうどこの年の7月末以降は、彼は「盛岡測候所」で調べるとともに、所長の福井規矩三氏に教えを請うようになったようです。
 後に福井規矩三氏からの口述筆記で作成された「測候所と宮澤君」という文章には、この頃の状況は次のように書かれています(日本図書センター『宮沢賢治研究資料集成 第2巻』より)。

 大正十三年は岩手県はひどい旱害であつたが、その年の七月末頃、あの君に始めてお目にかかつた。土用の入りの日じやつたが、別に紹介状もなしにやつて来られた。服装は背広で、それから屡々お目にかかつたが、いつも洋服であつたやうに思ふ。ごく質素な方で、身の廻りののことなどは頭になかつた方と思ふ。そのときも帰つてからていねいな手紙をくだされたが、なくしてしまつた。大正十三年の旱天は、岩手県では近ごろではなかつた旱害の記録で、以前は何時でも水が余つてゐたので、水不足で作付が出来ないといふことはなかつた。大正七年にもちよいとした小規模な旱天があつたが、大正十三年のは、とてもとてもきつかつた。雨が不足で一般に植付が困難であつたが、ことに胆沢郡永岡附近が水廻りが悪かつた。花巻方面はさほどでもなかつたが、後も雨が不足で作物が困難になつてきをつた。

 この年の旱害は、賢治が4月の時点で予想して、「測候所」という作品に「・・・・・・凶作がたうたう来たな・・・・・・」と書いているものでしょう。今回取り上げている3月25日の水沢緯度観測所訪問から10日あまりで再び「測候所」に赴いているとは、よほど凶作が気になっていたのだろうと思われます。
 盛岡測候所が開所したのは前年の1923年(大正12年)9月のことで、これを受けて翌大正13年7月以降の賢治は、気象データをここで入手するようになったことは福井氏の話によってわかりました。ではそれまではどこで調査をしていたのかとなると、やはり前述のように水沢緯度観測所だと思われます。
 盛岡測候所ができるまでは、岩手県内にはあとは三陸海岸沿いに宮古測候所があっただけですが、花巻から北上山地を越えて宮古まで行くというのは、非常に大変なことです。測候所機能も備えていた水沢緯度観測所に行っていたと考えるのが、自然でしょう。

 ちなみに、金華山沖の海水温については、水沢観測所のお隣の測候所である宮城県石巻測候所が、1916年(大正5年)以降「金華山漁場ノ海水温」として発表しています(下図)。私としては、賢治が上の「宗谷挽歌」で触れたデータの由来は、この冊子のシリーズだろうと思うのです。(下図は国会図書館近代デジタルライブラリーより、「金華山漁場ノ海水温 第1号」(宮城県石巻測候所,1919)のp.19。クリックすると別窓で拡大表示されます。)

『金華山漁場沖ノ海水温』より

 当時、水沢緯度観測所がこの冊子を所蔵していたという証拠はつかめていません。しかし、設立2年後の1888年(明治21年)以降、測候所として毎日6回の気象観測を継続し、全国に設置された測候所の一つとしての役割も果たしていた水沢緯度観測所としては、「お隣の測候所」の刊行物も、当然保有していただろうと考えます。

 すなわち、賢治が1924年3月25日に水沢緯度観測所において「かゞみ込」んでいた「くしゃくしゃの数字」とは、上記のように延々と何枚も続く、このような表のデータだったのだろうと思います。
 「宗谷挽歌」では、「(海温の)曲線」と記されていますが、この冊子にはグラフは掲載されておらず、数字が上のような表になっているだけです。賢治は、自分でこの表からデータをピックアップして、グラフにする作業もしていたのではないかと、私は思うのです。

奥州宇宙遊学館(旧水沢緯度観測所)
奥州宇宙遊学館(旧水沢緯度観測所)

死ぬことの向ふ側まで

 短篇「イギリス海岸」は、賢治が農学校教師をしていた或る夏の、輝かしい思い出のような作品です。

 夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処がありました。
 それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上川の西岸でした。東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截って来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。

イギリス海岸

 当時は、海のない花巻の町の小学校でも、夏には石巻の海岸まで子どもたちを連れて行っていたようですし、「隣の女学校」(=花巻高等女学校)では臨海学校の催しを始めていました。でも農学校にはそういう行事はなかったので、賢治は海を知らない生徒たちのために、北上川の河岸を「海岸」と呼ぶ「見立て」を行ったわけです。

 賢治は、農学校からこの「イギリス海岸」へ生徒たちを引率して出かけて、みんなが泳ぐのを嬉しそうに眺めていました。ただ、賢治はあまり泳げなかったので、もしも川の深いところで溺れる生徒が出たら、救助することはできなかったのです。
 そのことについては、教師として生徒に付き添っている責任もありますから、賢治ももちろん考えていました。ただ、その時に彼が考えていた内容というのが、賢治らしいと言えばいかにも賢治らしいのですが、学校の先生としてはちょっと異例の事柄でした。

実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。

 これは、先に「災害と賢治」においても引用した、非常に印象的な箇所です。ここには、賢治が生徒を思う気持ちの強さが表われていると読むこともできるでしょうし、また「私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです」という表現からは、一瞬の喜びや恍惚のために我を忘れてしまう、賢治独特の性向が垣間見えるような気もします。「打つも果てるもひとつのいのち」と歌った、あの若人たちの踊り「原体剣舞連」にも通ずるような・・・。

 しかし、いくら賢治のことと言え、これはあまりに大仰な覚悟です。ここには何か、別の事情もひそんでいるのではないか?
 そんな疑問から、この「飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という言葉の背景について、今日はちょっと考えてみました。

◇          ◇

 まず、この「イギリス海岸」という短篇が書かれた時期を、確認しておきます。実はこの作品テキスト中には、次のような月日の記載が出てきます。

 次の朝早く私は実習を掲示する黒板に斯う書いて置きました。

     八月八日
農場実習 午前八時半より正午まで
  除草、追肥   第一、七組
  蕪菁播種    第三、四組
  甘藍中耕    第五、六組
  養蚕実習    第二組
 (午后イギリス海岸に於て第三紀偶蹄類の足跡標本を採収すべきにより希望者は参加すべし。)

 そこで正直を申しますと、この小さな「イギリス海岸」の原稿は八月六日あの足あとを見つける前の日の晩宿直室で半分書いたのです。

 そして、この作品草稿の末尾には、(一九二三・八・九・)という日付が書き込まれているのです。8月9日ならば上の作中の月日ともぴったりと合いますし、この作品は、1923年8月9日に書かれたという風に、まずは思われます。
 ところが困ったことに、実は賢治はこの「1923年8月9日」という日には旅行中で、サハリンから花巻へ帰る途上にあったのです。短篇を書くだけなら旅行中でも不可能とは言えませんが、生徒たちとイギリス海岸へ行ったという内容とは合致しません。
 それに、作品中には「隣の女学校」という表現が出てきますが、1923年8月には、農学校の近くには女学校はなかったのです。賢治が就職した1921年12月の時点で、当時の「稗貫郡立稗貫農学校」の隣には、確かに「花巻高等女学校」があったのですが、1923年4月に農学校は県立に昇格して「岩手県立花巻農学校」と改称されるとともに、校舎も現在は花巻市文化会館などがある花巻の西のはずれに移転したのです。(下地図は、『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)補遺・伝記資料篇p.204「花巻付近概念図(大正初期)」より、下線は引用者)

花巻付近概念図(大正初期)

 つまり、賢治が在職中で、隣に女学校があった夏というのは、1922年の夏だけだったのです。したがって現在は、「イギリス海岸」草稿日付の「一九二三」は賢治の誤記であり、この作品は1922年の8月9日に書かれたものと推定されています。

 ということで、次にこの1922年8月という時期について考えてみると、これは、妹トシの死(1922年11月27日)の3ヵ月少し前にあたります。すでに彼女の病状は悪化の一途をたどっており、賢治の目から見ても、愛する妹の死はそう遠くないと感じざるをえなかった頃でしょう。
 私は、「イギリス海岸」に書かれている「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」というのは、この頃に賢治が妹トシに対して、ひそかに抱いていた気持ちだったのではないかと思うのです。

 というのは、妹の臨終の様子を描いた詩「松の針」には、次のような箇所があるのです。

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ

 賢治は、死んで行く妹が「ひとりでいかうとする」のを悲しみ、「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ」とまで願っていたのです。これは言い換えれば、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行って」やりたいと、賢治自身が思っていたということになるでしょう。

 あるいは、トシの死の翌年のサハリンへの旅の途中に書かれた「宗谷挽歌」は、次のように始まります。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。

 この時賢治は、宗谷海峡を渡る連絡船の甲板にいて妹のことを考えているのですが、ここでも彼は「松の針」におけるように、死んだ妹が自分を呼ぶことを想像しています。そしてもしも呼ばれたら、躊躇することなく甲板から海へと「たゞ飛び込んで」、妹のいる向こう側の世界へ行く覚悟をしていたわけです。

 つまり私としては、この「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という考えは、もちろんイギリス海岸において賢治が生徒たちに対して思っていたことでもあるでしょうが、そのもともとの由来は、この頃には日一日と死に近づきつつあったトシに対して彼が抱いていた感情だったのではないかと思うわけです。

 ◇          ◇

 そう思ってこの「イギリス海岸」という短篇を読むと、作者賢治はまぶしい夏の陽射しの下、生命を謳歌するように遊び戯れる少年たちの様子に目を細めながらも、同時に暗い病室において着実に死に引き寄せられつつある妹のことを常に考え続けていたのだろうと、あらためて感じるのです。

イギリス海岸
(イギリス海岸の写真2枚は2009年9月21日に撮影)

 以前に『宮沢賢治とサハリン』という記事でご紹介した素敵な本の著者、藤原浩さんからご連絡をいただきました。
サハリン このたび、藤原さんも立案に関わって、H.I.S.という旅行会社が今年の9月、「宮沢賢治の軌跡を辿るサハリン5日間」というツアーを企画しているのだそうです。
 出発は、9月6日と13日の2コース。5日間で13万8000円。6日出発便には、藤原さんも同行されるのだそうです。

 今回は特に「宮沢賢治」に焦点を当てたツアーなので、その行程は、「とにかく『賢治が行った場所』『行ったかもしれない場所』に絞っています。それ以外のところは、たとえ人気スポットであっても足を伸ばしておりません。」(藤原氏)とのこと。そして日本語のガイド付きで、「オホーツク挽歌」の栄浜や白鳥湖など、宮沢賢治ゆかりのある6ヶ所を巡るのだそうです。

 それから今回のツアーのもう一つの意義は、往復ともに賢治がサハリンへ渡った「稚泊連絡船」に相当する「稚内―コルサコフ航路」を利用するのですが、この「稚内―コルサコフ航路」は今年度一杯で廃止になる可能性がかなり高いのだそうです。
 すると、「宗谷挽歌」の世界を直接体験できるのは、今回が最後のチャンスということになるかもしれないわけですね。

 賢治が前年に亡くなったトシの魂を追い求め、「銀河鉄道の夜」のインスピレーションの一つの源泉にもなったと言われるサハリン。この、北の最果ての地を一度訪れてみたいという方にとっては、大きなチャンスだと思います。ツアーの最少催行人数は、10名とのこと。
 私も行きたくて行きたくて仕方がないのですが、どうしても仕事を休めない・・・(泣)。

 ところで、サハリンへ行かれる方にも、行かれない方にも、藤原浩著『宮沢賢治とサハリン』は、サハリンにおける賢治の足跡や、彼の推定旅行日程、サハリンの風物の豊富な写真も載っていて600円という、とても魅力的でお買い得なブックレットです。
 実用的なガイドブックとしても、座右に置いて眺めるためにも、お奨め!

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【参考エントリ】
「オホーツク挽歌」詩群
『宮沢賢治とサハリン』
「宗谷〔二〕」の紳士は貴族院議員?
西洋料理店のような?
冥界としてのサハリン
7日乗船説と9日乗船説(1)
7日乗船説と9日乗船説(2)
7日乗船説と9日乗船説(3)

 『春と修羅』、「春と修羅 第二集」などの作品の中から、賢治がトシの「死後の行方」について思い、言及した箇所を、以下に順に挙げてみます。

(1) 1922.11.27
   「永訣の朝
     けふのうちに
     とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

   「松の針
     ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
     ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
     わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
     泣いてわたくしにさう言つてくれ

   「無声慟哭
     おまへはじぶんにさだめられたみちを
     ひとりさびしく往かうとするか
     (中略)
     おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
     (中略)
     どうかきれいな頬をして
     あたらしく天にうまれてくれ

(2) 1923.6.3 「風林
     おまへはその巨きな木星のうへに居るのか
     鋼青壮麗のそらのむかふ
        (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
         光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか

(3) 1923.8.1 「青森挽歌
     あいつはこんなさびしい停車場を
     たつたひとりで通つていつたらうか
     どこへ行くともわからないその方向を
     どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
     たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
     (中略)
     とし子はみんなが死ぬとなづける
     そのやりかたを通つて行き
     それからさきどこへ行つたかわからない
     それはおれたちの空間の方向ではかられない
     (中略)
     なぜ通信が許されないのか
     許されてゐる そして私のうけとつた通信は
     母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ
     どうしてわたくしはさうなのをさう思はないのだらう
     (中略)
     ほんたうにあいつはここの感官をうしなつたのち
     あらたにどんなからだを得
     どんな感官をかんじただらう
     なんべんこれをかんがへたことか
     (中略)
     あいつはどこへ堕ちやうと
     もう無上道に属してゐる

(4) 1923.8.2 「宗谷挽歌
     けれどももしとし子が夜過ぎて
     どこからか私を呼んだなら
     私はもちろん落ちて行く。
     とし子が私を呼ぶといふことはない
     呼ぶ必要のないとこに居る。
     もしそれがさうでなかったら
      (あんなひかる立派なひだのある
       紫いろのうすものを着て
       まっすぐにのぼって行ったのに。)
     もしそれがさうでなかったら
     どうして私が一緒に行ってやらないだらう。
     (中略)
     とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
     おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
     そんなしあはせがなくて
     従って私たちの行かうとするみちが
     ほんたうのものでないならば
     あらんかぎり大きな勇気を出し
     おまへを包むさまざまな障害を
     衝きやぶって来て私に知らせてくれ。

(5) 1923.8.4 「オホーツク挽歌
     わたくしが樺太のひとのない海岸を
     ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
     とし子はあの青いところのはてにゐて
     なにをしてゐるのかわからない

(6) 1923.8.11 「噴火湾(ノクターン)
     駒ヶ岳駒ヶ岳
     暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
     そのまつくらな雲のなかに
     とし子がかくされてゐるかもしれない
     ああ何べん理智が教へても
     私のさびしさはなほらない
     わたくしの感じないちがつた空間に
     いままでここにあつた現象がうつる
     それはあんまりさびしいことだ
         (そのさびしいものを死といふのだ)
     たとへそのちがつたきらびやかな空間で
     とし子がしづかにわらはうと
     わたくしのかなしみにいぢけた感情は
     どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

(7) 1923後半? 「〔手紙 四〕」

けれども私にこの手紙を云ひつけたひとが云つてゐました。「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒のあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。チユンセがもしポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである。チユンセがもし勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向つて進まないか。」
 それからこのひとはまた云ひました。「チユンセはいいこどもだ。さアおまへはチユンセやポーセやみんなのために、ポーセをたづねる手紙を出すがいい。」 そこで私はいまこれをあなたに送るのです。

(8) 1924.7.5 「〔この森を通りぬければ〕
     鳥は雨よりしげくなき
     わたくしは死んだ妹の声を
     林のはてのはてからきく
        ……それはもうさうでなくても
           誰でもおなじことなのだから
           またあたらしく考へ直すこともない……

(9) 1924.7.17 「薤露青
     声のいゝ製糸場の工女たちが
     わたくしをあざけるやうに歌って行けば
     そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が
     たしかに二つも入ってゐる
     (中略)
        ……あゝ いとしくおもふものが
           そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
           なんといふいゝことだらう……


 すなわち、当初から賢治は、トシが「とほくへいつてしまふ」ことは諦めて受け容れながらも、「どこへ行かうとするのだ」という問題に、悩みおののいていました。
 次に「青森挽歌」や「宗谷挽歌」では、「どこへ行つたかわからない/それはおれたちの空間の方向ではかられない」と頭では理解しつつも、それでもトシからの通信を求めつづけます。賢治の苦悩は、サハリンの自然によって、一時は少し癒やされたようにも見えましたが、この旅行の最終作品である「噴火湾(ノクターン)」も、「わたくしのかなしみにいぢけた感情は/どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ」と結ばれます。

 一つの変化が起こるのは、旅行後に書いたと思われる「〔手紙 四〕」です。ここではやはり死んだポーセを「たづねる」という行為は続けられながらも、「たづねる」主体はポーセの兄のチユンセではなくて、「云ひつけ」によって手紙を出す「私」になります(「「手紙四」の苦悩」参照)。
 一人の人間の中で相反する思いが闘っている状態が「葛藤」ですが、人は時に、心の中の葛藤に耐えきれなくなると、相反する思いのそれぞれを心の中で別の「人格」に分担して背負わせるという対処をとることがあります。この機制は精神医学的には「解離」と呼ばれ、その最も極端な形は「多重人格」という形で現れます。
 賢治は「〔手紙 四〕」において、これと類似のことを、文学的な形態において実行したとも言えます。すなわち、あらゆる衆生のための行動=真の仏教徒としての行動と、死んだ妹の行方を「たづねる」行動=肉親としての行動を、「チユンセ」と「私」という別の人格に分担させることによって、葛藤を解消したわけです。

 そして最終的には、1924年7月の2作品において、さらに賢治は気持ちの整理をつけているようです。「それはもうさうでなくても/誰でもおなじこと」で、「またあたらしく考へ直すこともない」・・・。そして「薤露青」に至っては、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」という境地が語られます。
 これはとても逆説的で不思議な感情のようですが、しかしその逆説性にこそ、賢治の苦悩の跡が感じられるような気もします。

 と、思っていたら、「小岩井農場」においても、このような逆説的感情の描写が見られるのですね。「パート一」で、賢治が馬車に乗ろうか乗るまいか迷っているところです。

これはあるひは客馬車だ
どうも農場のらしくない
わたくしにも乗れといへばいい
馭者がよこから呼べばいい
乗らなくたつていゝのだが
これから五里もあるくのだし
くらかけ山の下あたりで
ゆつくり時間もほしいのだ
あすこなら空気もひどく明瞭で
樹でも艸でもみんな幻燈だ
もちろんおきなぐさも咲いてゐるし
野はらは黒ぶだう酒のコツプもならべて
わたくしを款待するだらう
そこでゆつくりとどまるために
本部まででも乗つた方がいい
今日ならわたくしだつて
馬車に乗れないわけではない
 (あいまいな思惟の蛍光
  きつといつでもかうなのだ)
もう馬車がうごいてゐる
 (これがじつにいゝことだ
  どうしやうか考へてゐるひまに
  それが過ぎて滅くなるといふこと)

 ここでは結局、賢治が迷っているうちに馬車は動き出してしまうのです。普通なら、こんな時あわてて呼びとめようとしたり、諦めてからも自分の優柔不断さを悔やんだりしそうなものですが、賢治は、「これがじつにいゝことだ/どうしやうか考へてゐるひまに/それが過ぎて滅くなるといふこと」と、肯定的にとらえているのです。
 これは「薤露青」の、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」にも通ずるものだと思うのですが、「小岩井農場」では若干「悔しまぎれの開き直り」と聴こえなくもなかった言葉が、「薤露青」においては、深い仏教的な悟りをも感じさせています。

 いずれにしても、このようなちょっと珍しい感じ方は、トシを喪う前から、賢治のどこかに備わっていたものなのだろうと思うのです。

「手紙四」の苦悩

 生前の賢治が秘かに印刷して配布した、一連の「手紙」と呼ばれる文章の中でも、最後の「〔手紙 四〕」は、最も有名で、また読む人の心に切実に訴えかけるものがあります。
 これは、賢治が1923年(大正12年)に、「樺太旅行、とりわけ「青森挽歌」で得た成果を周りの人々に伝えるため」(木嶋孝法『宮沢賢治論』)に、書いたものと言われています。内容は、「無声慟哭」詩群および「オホーツク挽歌」詩群と、「銀河鉄道の夜」の、そのちょうど中間に位置するものと言えるかもしれません。賢治とトシを連想させる「チュンセ」と「ポーセ」という兄妹が登場して、妹は死に、兄はチュンセの行方を探し求めます。

 ところで、この「〔手紙 四〕」の最後は、次のように終わります。

 どなたかポーセを知ってゐるかたはないでせうか。けれども私にこの手紙を云ひつけたひとが云つてゐました 「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである。チユンセがもし勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向つて進まないか。」 それからこのひとは云ひました。「チユンセはいいこどもだ。さアおまへはチユンセやポーセやみんなのために、ポーセをたづねる手紙を出すがいい。」 そこで私はいまこれをあなたに送るのです。

 「手紙を云ひつけたひと」の言葉は、「銀河鉄道の夜」初期形三におけるブルカニロ博士を連想させますね。賢治の愛読者にとっては、何か懐かしい響きをおびているでしょう。

 しかし、ちょっと考えてみると、上の「手紙を云ひつけたひと」の言葉の真意には、理解しにくいところがあります。
 最初に、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。」と断定しながら、後でこの手紙の書き手に対しては、「さアおまへはチユンセやポーセやみんなのために、ポーセをたづねる手紙を出すがいい。」と言って、「ポーセをたづねる」よう指示を出します。「むだだ」と言った直後に、なぜあえてそれをせよと言うのでしょうか。
 この点に関して佐藤泰正氏は、次にように述べています(『手紙一、二、三、四』,「国文学 解釈と鑑賞868 平成15年9月号」所収)。

(「〔手紙 四〕」の引用の後) すでに語る所は明らかだが、矛盾は残る。「ポーセをたづねることは無駄だ」と言い、また「みんなのためにポーセをたづねる手紙を出すがいい」という。しかしこれは矛盾とみえて、矛盾ではあるまい。言わばこの作品自体のすべてが「ポーセをたづねる手紙」であり、それが詩人の手によって、ほかならぬ匿名の手紙という形で届けられたという所に、この作品の持つ倫理的主題はみごとに生きる。

 しかし上の文章をちょっと読んだだけでは、なぜ「矛盾とみえて、矛盾ではあるまい」ということになるのか、正直私にはわかりにくいです。思わず「どなたか矛盾の解き方を知ってゐるかたはいないでせうか」と、たづねたくなってしまいます。

 などと冗談はさておき、あらためて冷静に考えてみると、これはおそらく「ポーセの実の兄であるチユンセ」がポーセをたづねるのはむだだが、「第三者である手紙の書き手」がたづねるのであれば、それはよいのだ、ということになるのでしょう。
 「青森挽歌」において、

《みんなむかしからのきやうだいなのだから
 けつしてひとりをいのつてはいけない》

という、(如来の?)言葉が現れたことと、これは直接につながっているのだろうと思います。兄が肉親の情によって妹を「たづねる」ことは、「ひとりをいの」ることになってしまうから、「むだ」なのでしょう。

 思えばこの問題は、まさに賢治の「オホーツク挽歌」の旅において、最大の葛藤となっていたことでした。
 賢治は死んだ妹を「たづね」て、トシとの通信を求めて、遙かサハリンまで旅したわけですが、これはチユンセがポーセを探し求めたように、肉親の愛情にもとづいた行動だったことは、否定できないでしょう。「けつしてひとりをいのつてはいけない」と、仏教者としての賢治は頭では考えながらも、その心は妹の行方を求め、妹の後生に幸あれと祈る気持ちを、抑えることができなかったのだと思います。

 この葛藤を解決するために、当時の賢治が考えた理屈は、「宗谷挽歌」に表れています。

とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
そんなしあはせがなくて
従って私たちの行かうとするみちが
ほんたうのものでないならば
あらんかぎり大きな勇気を出し
私の見えないちがった空間で
おまへを包むさまざまな障害を
衝きやぶって来て私に知らせてくれ。
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 すなわち、賢治がトシからの通信を求めている理由は、肉親の情のためではなくて、「私たちの行かうとするみちが/ほんたうのものでないならば」、あるいは「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら」、そのことを明らかにするという目的のために、通信を求めているのだと言っているのです。それは、トシの幸福ではなく、「みんなのほんたうの幸福」のためだというのです。
 そして、それがトシ一人の幸福を願うためではないということをさらに明確に示すために、「私たち(=賢治+トシ)はこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、決意も述べています。

 この「合理化」は、いちおう筋は通っていますが、「みんなのほんたうの幸福を求めて」トシの行方を捜すのが、現実にトシの兄でもある賢治だったので、どうしても理屈の綱渡りをしているような危ういところはありました。そこに「肉親の情」が、一片も入っていないという証拠はないのです。
 しかしこれが「〔手紙 四〕」になると、兄チユンセの代わりに、「手紙の書き手」がポーセの行方を「たづねる」という形で、人物が別になっていますから、理屈がよりすっきりとしています。賢治が、「オホーツク挽歌」の旅の間ずっと感じ続けていたであろうモヤモヤが、ちょっと晴れている感じはします。


 それはともかく、「〔手紙 四〕」の文章を読んで、私がとにかく強く感じることは二つあって、一つは、妹の死後に兄が感じている罪責感の深さです。文中では、チユンセが生前のポーセをいじめたエピソードが執拗なまでに紹介され、またポーセの死後に至っても、その転生した「蛙」をチユンセが石で叩いてしまうことによって、間接的に示されます。この罪責感は、いったい何なのでしょうか。
 それからもう一つは、「オホーツク挽歌」の旅から帰っても、賢治はなお、「行方をたづねる手紙」をたくさんの人々に送らずにはいられなかった、その気持ちです。

 トシの死の翌年になって、北の最果てへの旅もして、初盆を終えても、賢治の気持ちは「整理がつく」どころではなかったことが、にじみ出ている感じがします。

 賢治は1923年8月に、北海道を縦断してサハリンに至る「オホーツク挽歌」の旅をして、翌1924年5月には、花巻農学校の修学旅行の引率教諭として、再び北海道を訪れています。
 前者から後者までの期間は9ヵ月足らずで、同じ北海道を旅したのですから、後者の道中においては前者に関するいろいろな追想があっても不思議ではないと思うのですが、なぜか後者=1924年の修学旅行における作品群には、まったくと言ってよいほど、前年の旅行のことを連想させる記述は出てこないのです。

 もちろん、傷心の一人旅と生徒を引率した団体旅行という状況の違いはありますし、二つの旅の間に、賢治の心にそれだけの変化があったと考えることもできます。しかし、賢治はある場所で心象を書きとめる際、しばしば以前にその場所を訪れた時のことに触れる傾向があって、例えば「小岩井農場」「パート一」では、「冬にきたときとはまるでべつだ」と書いて、1月に「屈折率」「くらかけの雪」を書いた時の訪問に言及していますし、また1923年の「津軽海峡」(『春と修羅』補遺)においては、「中学校の四年生のあのときの旅ならば・・・」と、岩手中学の修学旅行で津軽海峡を渡った時のことを回想しています。
 したがって、1924年の北海道における作品群に、1923年の北海道の追憶が全く登場しないというのは、やはり不自然だと思うのです。すなわち、1924年の作品群において前年のことが出てこないのは、たんなる偶然ではなくて、賢治は意図的にそれを避けて作品を書いたのではないかと、私は考えてみるのです。

 しかし、かりにそのように賢治が意図していたとしても、以前に「若き日の最澄(2)」に書いたように、1924年修学旅行中の「」の下書稿(一)の推敲過程においては、トシのことを再び追想しているとしか考えられないような、激しい感情表現や仏教的な言葉が出現しているのを見ました。まだ初期の下書稿においては、作者として抑えきれない記憶が、あふれ出てきていたということかもしれません。
 そして、これ以外にも「修学旅行詩群」の中には、前年の旅と関連しているのではないかと気になる表現が、さらに二・三ですが、見られると思うのです。

(1)
 その一つは、「〔船首マストの上に来て〕」(補遺詩篇 I)という作品断片です。これは、「春と修羅 第二集」には分類されていませんが、やはり1924年の修学旅行の帰途、青函連絡船で青森港に入る直前の状況と推測されます。無事に生徒たちを引率して本州まで帰ってきたという、教師としての安堵感が感じられる作品です。
 この中に、下記のような一節があります。

わたくしはあたらしく marriage を終へた海に
いまいちどわたくしのたましひを投げ
わたくしのまことをちかひ
三十名のわたくしの生徒たちと
けさはやく汽車に乗らうとする
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ

 ここに出てくる、「(海に)いまいちど私のたましひを投げ・・・」という表現が、ちょっとドキッとしてしまうところです。
 「いまいちど」とは、どういう意味でしょうか。賢治は、この修学旅行において、自分の魂を海に投げるようなことを、それまでにもしていたのでしょうか。
 それはわかりませんが、ここでどうしても思い出すのは、前年の旅行において賢治は、少なくとも「魂を投げる覚悟で」、トシとの交信を求めていたことです。
 例えば「宗谷挽歌」の冒頭は、

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。

と始まり、最後は、

さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
私は試みを受けやう。

で終わります。
 1924年に「いまいちどわたくしのたましひを投げ」と言われる前提の、「最初の一度」とは、前年の宗谷海峡の甲板における決死の行動だったのではないだろうか・・・というのが、私の勝手な空想の一つです。

青森港
青森港(2006.8.16)

(2)
 もう一つは、「〔つめたい海の水銀が〕」の下書稿(二)の最後に出てくる、

    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

という一節です。
 この作品は、やはり修学旅行の帰途に、青森湾に浮かぶ湯ノ島を眺めつつ書かれたものと推測されますが、上に引用したのは、何とも不思議な賢治の幻想です。
 そこが「島でも陸でもなかった」ということは、この島が海底に沈んでいた時代のことかと思われ、作者はそこに、「魚の夫婦として」棲んでいたというのです。輪廻転生における過去生の一つにおいて、そのようなことがあったと、賢治は感じたのでしょうか。

 ところで、ここに出てきた「魚になって海中にいる」というテーマですが、私は、賢治がオホーツク挽歌行においても、やはりそのようなことを考えていたふしがあったように感じるのです。
 というのは、やはり「宗谷挽歌」において、死んだトシに呼びかける次のような一節があるからです。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 「みんなのほんたうの幸福」のためなら、「私たち=賢治とトシ」は、「海に封ぜられても悔いてはいけない」というわけですが、「海に封ぜられる」とは、すでに死んでいるトシにとっては、そのまま魚に転生すること、賢治はこの場で死んで、やはり魚に転生する、ということになるのではないでしょうか。

 さらに、「牛」(下書稿(一))には、

海よしづかに青い魚族の夢をまもれ
  ……砂丘のなつかしさとやはらかさ
     まるでそれはひとりの処女のようだ……

という一節があるのですが、それまではひたすら波が激しく荒れるよう挑戦的に呼びかけておきながら、ここでは急に一転して「海よしづかに青い魚族の夢をまもれ」と言っているのが、不思議に感じられます。
 私は、ここで賢治は、トシが魚に転生した可能性をふと思って、「しづかに・・・まもれ」と海に願ったのではないのだろうかとも思ってみているのですが、どうでしょうか。

 いずれも、空想的な可能性の積み重ねにしかすぎませんが、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という不思議に魅力的なイメージは、賢治とトシが「海に封ぜられた」輪廻転生の姿なのかもしれない、などと私は夢想してみるのです。
 もちろん、「〔つめたい海の水銀が〕」を書いた時の賢治が、そこまで意識していたとまで考えるわけではありません。ただ、前年に彼が「海に封ぜられて魚になる」可能性について考えていたとすれば、翌年にふと青森で竜宮城のようにかわいい島を見た時、その海底で「鱗をつけたやさしい妻」と暮らすという幻想が湧く、潜在的なきっかけにはなったかもしれないと思うのです。

湯ノ島
湯ノ島(2006.8.16)

(3)
 あともう一つ私が気になることとして、「凾館港春夜光景」に出てくる、「喜歌劇オルフィウス」があります。
 これは、賢治が東京の「浅草オペラ」で、オッフェンバックの喜歌劇「地獄のオルフェ」(一般的な邦題は「天国と地獄」)を見たことがあったとすれば、函館公園の照明から、その喜歌劇の舞台照明を連想したということと解釈できますが、はたしてここで他のオペレッタではなくて「喜歌劇オルフィウス」が登場するのは、偶然なのでしょうか。

 そのことについては、また稿をあらためて考えてみたいと思います。

オホーツク挽歌行の旅程
1923年オホーツク挽歌行の旅程

6.「手宮文字」について

 前回は、「雲とはんのき」(『春と修羅』)に登場する「手宮文字=おまへが刻んだその線」の内容とはどういうものだったのだろうかということについて、考えてみました。
 今回は、その「線」とはどんな形をしていたのかということについて、私の想像するところを書いてみます。

 最初にもう一度、作品の該当箇所を抜粋しておきます。

感官のさびしい盈虚のなかで
貨物車輪の裏の秋の明るさ
   (ひのきひらめく六月に
    おまへが刻んだその線は
    やがてどんな重荷になつて
    おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)
 手宮文字です 手宮文字です
こんなにそらがくもつて来て
山も大へん尖つて青くくらくなり
豆畑だつてほんたうにかなしいのに

 先日も書いたように、賢治は1923年6月に、どこかに線刻文字のようなものを刻んだのではないかと私は考えているのですが、作品中に「手宮文字です 手宮文字です」という「合いの手」が入ってくるのは、賢治がこの時に刻んだ「線」には、当時の呼び方で「手宮文字」(=手宮洞窟の線刻画)を連想させるようなところがあったのではないかと思います。

 その手宮洞窟の線刻画とは、下のようなものです(イギリスの地質学者ジョン・ミルンによる1880年の模写)。

手宮洞窟陰刻画(ジョン・ミルン模写)

 これが「古代文字」であるという説は、発見当初からあったようですが、1913年(大正2年)に、考古学者・人類学者である鳥居龍蔵が、これは「突厥文字」(古代トルコ文字)であるという説を発表しました。突厥文字というのは、「世界の文字」というサイトの該当ページで見ることができますが、たしかに形は似た感じはします。
 1918年(大正7年)には、広島高等師範教授の中目覚という人が、突厥文字との立場から、これを「我は部下を率ゐ大海を渡り・・・闘ひ・・・此洞穴に入りたり」と「解読」し、また1944年には、地元小樽の小学校校長だった朝枝文裕という人が、これは支那古代文字であるとして、「舟を並べて来たり、この地にいたり、本営を置く。帝この下に入る。変あり、血祭す」と、新たな「解読」をしたりしています。
 しかし、学界においては、すでに1920年頃にこれは文字ではなく「壁画」であるとの説が有力となり、戦後1950年に隣の余市町でフゴッペ洞窟が発見され、その中にこの手宮のものと類似した壁画が発見されるに至って、さらに考古学的な価値が再認識されています。

 ただ、このような「学界の定説」にもかかわらず、それと並行する形で、これが「文字」であるという理解は世間には根強く続いていたようで、1922年(大正11年)の「皇太子殿下行啓記念写真帖」にも、手宮洞窟訪問時の写真には「手宮洞窟古代文字ニ向ハセラル」とタイトルが付けられていますし、賢治自身も現に1923年の時点において、「手宮文字」と書いているわけです。
 ちなみに、「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」の1968年のヒット曲「小樽の女」の二番の歌詞には、「偲べば懐かし 古代の文字よ・・・」という一節が出てきますし、今も小樽には、「古代文字ラーメン」というラーメン屋さえ存在しています。(^_^;;


7.賢治の「暗号文字」

 ちょっと話がそれてしまいましたが、問題は、宮澤賢治自身が、「手宮文字」に似た「線」を刻んだとすれば、それはどのようなものだったのか、ということです。
 賢治が、そのような奇妙な「文字」を実際に書いたという点で、私に思いあたるのは、賢治が盛岡高等農林学校2年だった1916年8月に、東京から盛岡にいる親友の高橋秀松あてに出した、一枚の葉書です。『【新】校本全集』第十五巻に収められている[書簡18]を見ると、の中に、次のような箇所があるのです(『【新】校本全集』よりコピー)。

「書簡18」末尾

 これは、まさに「暗号文字」ですが、葉書の最初に鉛筆で書き込まれているということです。「校異篇」を見ると、『昭和四十二年筑摩書房版全集』においてなされたその「解読」は、
暗号解読
ということだそうです。
 つまり、上の文は、「私ハ 待ッテヰマス、待ッテヰマス」となるのです。東京に出てドイツ語の勉強を始めた賢治は、秘かに親友に上京を誘いかけているわけで、実際これを受けとった高橋秀松は、すぐに東京まで来て賢治と同宿し、「東京独逸学院」に一緒に通いました。

 「校異篇」は、これにつづいて≪備考≫として、「暗号文字」に関して次のように説明をしてくれています。

 暗号文字は賢治と高橋だけの間で使用されたもの。高橋の記憶によれば、この文字は前年の一学期の終り頃から使用しはじめたもので、案出の動機は次のような事情によるものという。
 賢治は当時、毎日一、二首(時には更に多く)の短歌や詩を作り、暗号文字によりいわば日記代りのノートに書きつけていた。また時折は大学ノートの一頁に短歌を一首ずつ書いて、自啓寮(高等農林学校寄宿舎)の同室者五人(高橋を含む)に披露するのを常としていたが、ある日上級の室友に「これが歌か詩なもんか」と冷やかされた。それ以来、彼は作品を高橋だけに見せることとし、ついには鍵を与えないまま暗号のノートを高橋に渡し、高橋は独力で解読した。

 すなわち、賢治はこの暗号文字を、1915年から日常的に、日記や短歌の表記に使用していたようなのです。そうすると、アルファベットは上の7つだけではなくて、ローマ字表記に必要な文字は、すべて存在していたのでしょう。

 そして、私は思うのですが、この縦線が多く線刻っぽい字体は、上に載せた手宮洞窟の壁画の線に、どこか似ていないでしょうか。

 じつは私は、1923年6月に賢治が、「トシとの通信がかなうならば、私は死んでもよい」という内容のことをどこかに「線で刻んだ」際には、8年前に自ら発明したこの「暗号文字」を用いたのではないか、と考えているのです。呪術的な意味を込めて「暗号文字」を用いたとも思えますが、何よりもその形に注目した時、「手宮文字です 手宮文字です」という作品中の言葉は、私にとって最もすっきりと納得できるのです。

 賢治が具体的にどうやってこの暗号化されたアルファベットを作りだしたのかということはわかりませんが、それを使い始めた1915年というと、鳥居龍蔵氏の「北海道手宮の彫刻文字に就いて」という講演録はすでに発表されており、世間も「古代文字」について関心を高めていた頃です。
 もしも当時、暗号文字を見せられた高橋秀松と賢治との間で、「これはまるで、手宮文字みたいだな」などという会話がかわされていたならば、「手宮文字です 手宮文字です」という言葉が、記憶の奥底から甦ってくるというのも、十分にありそうなことに思えるのです。


8.おわりに

 繰り返しになりますが、賢治は1923年6月に、自分が学生時代に使っていた(手宮文字に似た)暗号文字によって、「トシとの通信がかなうならば、私は死んでもよい」という内容のことを、呪術的な意味を込めてどこかに刻みつけたのではないか、というのが今回私の考えてみたことでした。
 この秘かな「賭け」を実行に移してみたのが、「オホーツク挽歌」の旅行、とりわけ宗谷海峡で賢治がとった行動だったのだと思います。そして、旅行から帰って少ししてから、それをあらためて思い出したところが、「雲とはんのき」に出てくる「ひのきひらめく六月に/おまへが刻んだその線」の正体なのではないかと、私は思うのです。

 ところで、この「線を刻んだ」ことは、彼がおそれたように、その後「重荷になつて」「男らしい償ひ」を彼に強いたでしょうか。
 夜の宗谷海峡で、トシが賢治を「呼ぶ」ということは結局なく、彼は死なずにすみました。彼が「オホーツク挽歌」の旅行に懸けていた、「愛する妹に、死後の世界までも一緒について行ってやりたい」という願いは、結局かなわなかったわけですが、しかしこのテーマは、その後の賢治にとってずっと「重荷」のように、ついてまわります。「手紙 四」も「ひかりの素足」も「銀河鉄道の夜」も、結局は同じテーマを扱ったものです。
 「銀河鉄道の夜」においてジョバンニは、死んだカンパネルラにいったんは「呼ばれ」て銀河鉄道に同乗しました。しかし、やはり「どこまでも一緒に」行くことはできず、現実の世界に戻ったのでした。

 また逆に、「春と修羅 第二集」の「」では、「わたくしはどこまでも孤独を愛し/熱く湿った感情を嫌ひますので」と書き、また小笠原(高瀬)露あての書簡[252a]には、「私は一人一人について特別な愛というやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛をもつものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから。」と書いたように、ある時期からの賢治は、人との過度の親密さを避けるようになった節があります。
 これは、究極の目的としては「世界ぜんたい」の幸福のためなのかもしれませんが、現実の生活において「一人一人について特別な愛」を持たないように自らを仕向けるということが、賢治がこの一連の苦闘の後にとった、彼なりの「償ひ」なのかもしれません。
 それはちょっと、寂しすぎる感じもしますが。

1.はじめに

 『春と修羅』に収められている「雲とはんのき」(1923.8.31)という作品には、先日私が小樽で見てきた、「手宮文字」という言葉が出てきます。作品の半ば過ぎあたり、それが登場する文脈を抜粋すると、次のようになっています。

感官のさびしい盈虚のなかで
貨物車輪の裏の秋の明るさ
   (ひのきひらめく六月に
    おまへが刻んだその線は
    やがてどんな重荷になつて
    おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)
 手宮文字です 手宮文字です
こんなにそらがくもつて来て
山も大へん尖つて青くくらくなり
豆畑だつてほんたうにかなしいのに 

 この作品は、全体としても素直には意味がとらえにくいのですが、中でもこのあたりは、とりわけ謎めいている感じです。
 「ひのきひらめく六月におまへが刻んだその線」というのは何なのでしょうか? 「男らしい償ひ」とは何なのでしょうか? そして「手宮文字」がどうしたというのでしょうか?

 この辺の解釈について、秋枝美保氏は『宮沢賢治の文学と思想』(朝文社)第二章の「心象スケッチ「雲とはんのき」における「手宮文字」の意味」において、ここで「手宮文字」が象徴しているのは、当時の時代思潮の変化および賢治自身の方向転換としての、「国家主義からの離脱」という事態なのではないかと述べておられます。
 秋枝氏による綿密な史料的検討は、非常に奥深く示唆的なものですが、ここでは私なりにまた違った角度から、この箇所の意味するところについて考えてみたいと思います。


2.トシの死の残響および六月の線刻文字

 お読みいただければわかるとおり、「雲とはんのき」という作品は、全体として透明な輝きと、静かな「かなしみ」に満たされています。その「かなしみ」の由来を考える際に鍵になるのは、終わりから7行目に出てくる、「これら葬送行進曲の層雲の底」という言葉だと思います。
 これは、この作品のわずか20日前に書かれた「噴火湾(ノクターン)」において、作者がトシの追憶にひたっている時に、「Funeral March があやしくいままたはじまりだす」として登場した「葬送行進曲」が、まだ作者の心の奥底で鳴り響きつづけていることを示しています。
 すなわち、「雲とはんのき」という作品の基底には、やはり妹トシの死という問題があることを、まず押さえておく必要があるでしょう。もちろんこれは、作者が「オホーツク挽歌」の旅から帰ってまだ間もないことを思えば、当然のことではありますが。

 その上で、問題の「ひのきひらめく六月に/おまへが刻んだその線」というのは、いったい何なのかということです。
 まず第一に、この「おまへ」というのは、作者賢治が自分自身に呼びかけていると解釈するのが、自然でしょう。すると第二に、賢治は「六月」に、どこかに何かの「線」を刻んだという出来事があったのだろうと思われます。第三に、その「線」は、賢治に「重荷になる」とか「償ひを強ひる」とかいう結果を招く可能性があると想定されていることから、単なる無意味な「線」ではなくて、何らかの「記号」として、「意味」を帯びた「線」であったと考えるべきでしょう。
 この記号性は、次の行に出てくる「手宮文字」が、(後には否定されましたが)「線刻文字」の一種と考えられていたこととも照応します。「手宮文字です 手宮文字です」という行は、一字だけ「字下げ」されていて、これはこの行が、その前の「おまへが刻んだその線」に関して、地の文とも括弧内とも異なった(作者の)意識レベルから発せられたコメントであることを、示していると思われます。
 まとめて言えば、作者賢治は「六月」に、どこかに(手宮文字のような)何らかの意味を帯びた「線」を刻みつけたが、そこに彼が込めた意味内容は、その後「重荷」になって自身に「償ひ」を強いるような事柄だった、ということが推測されるわけです。

 それでは、賢治がここで書いた「内容」というのは、いったいどんな事柄だったのかということが、次の問題です。それを考えるためには、「六月」にまでさかのぼってみる必要があるでしょう。


3.1923年6月作品との関係

 まず、賢治が線を刻んだ「六月」というのが、いつの「六月」だったのかという疑問がありますが、たとえば前年の六月だったら「去年の六月」などと書きそうなものです。「雲とはんのき」が書かれた八月の時点で単に「六月」と言えば、つい二ヵ月前、1923年6月と考えるのが自然でしょう。いちおう念のために、『春と修羅』において前年(1922年)の6月の作品を見てみると、「林と思想」「霧とマツチ」「芝生」「青い槍の葉」「報告」「風景観察官」「岩手山」「高原」「印象」「高級の霧」という10作品がありますが、「雲とはんのき」の基底にあるはずのトシのことには、いずれもまったく触れていません。
 したがって、この「六月」とは、1923年6月のことと考えて検討を進めます。

 『春と修羅』において、1923年6月の日付を持つ作品は、「風林」「白い鳥」の二つです。前年11月に妹を亡くした悲嘆を歌う「無声慟哭」の章の最後の二作品で、どちらも、農学校の生徒たちと岩手山方面に来た時の情景を描いています。

 まず「風林」では、最初は抑制した筆致であたりの景色や生徒たちの様子をスケッチしていますが、途中から、「とし子とし子/野原へ来れば/また風の中に立てば/きつとおまへをおもひだす」との言葉とともに、妹への思いがあふれ出てきます。そして、「ただひときれのおまへからの通信が/いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)/とし子 わたくしは高く呼んでみようか」として、「通信」というテーマが、ここで初めて登場します。
 さらに、この作品でちょっと異様な印象を与えるのは、本文16行目に現れる「《ああおらはあど死んでもい》/《おらも死んでもい》」という言葉です。これは、生徒たちの会話だと思われますが、いったいどういう文脈で、十代の少年がお互いに「あとは死んでもいい」などと語り合ったのでしょうか。岩手山から眺める景色の美しさに、死んでもよいほど感動したのでしょうか。
 これは、賢治の作品にしばしば現れる「幻聴」の類ではなく、現実の言葉として書きとめられていますが、この言葉が作者の印象に強く残ったことは、作品のその後の部分からも感じられます。賢治は、その言葉を誰が発したのか少し考えてみた上で、「たれがそんなことを云つたかは/わたくしはむしろかんがへないでいい」と記していますが、つまり賢治はこの言葉を具体的文脈から切り離して、より「普遍性を持った一つの言表」として受けとめようとしているのです。
 「私は後は死んでもよい。」―― この言葉が賢治に与えた「何か」が、約6ヵ月ぶりに「心象スケッチ」作品を生む力となったのではないかとさえ、私には思われます。

 次の作品「白い鳥」では、翌朝の光の中を啼きかわしながら飛ぶ「二疋の大きな白い鳥」を、賢治は死んだ妹トシの化身と見なそうとします(「それはわたくしのいもうとだ/死んだわたくしのいもうとだ/兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」)。
 そして賢治自身は、「ゆふべは柏ばやしの月あかりのなか/けさはすずらんの花のむらがりのなかで/なんべんわたくしはその名を呼び」とあるように、何度もトシに呼びかけたことを書いています。前作「風林」において、「わたくしは高く呼んでみようか」と記したことを、さっそく実行に移したわけです。
 しかし、賢治がトシに呼びかけた結果は、「たれともわからない声が/人のない野原からこたへてきて/わたくしを嘲笑した」という虚しいものでした。「白い鳥」の啼き声も、それが「かなしい」ことだけはわかっても、兄に何を伝えようとしているのかは理解できません。
 すなわち、「白い鳥」に描かれているのは、賢治がトシとの「通信」を強く望み、それを何度も試みながらも、かなえられないという現実です。

 ということで、1923年6月の二作品から、ここで私が抽出してみる要素は、次の二つです。まずは、(1)賢治が妹トシとの「通信」を切望しつつもかなわない現実、それから、(2)「私は後は死んでもいい」という言葉です。
 この二要素は、それぞれ別々に賢治に現れ、彼を深くとらえた事柄ですが、もしこれらが賢治の中で結び付けば、次のような一つの陳述になります。

 「もしもトシとの通信がかなうならば、私は後は死んでもよい。」

 私の言いたかったことの一つは、これです。私としては、この1923年の「ひのきひらめく六月」に、賢治がある種の呪術的な願望も込めて、記号的な線によって刻みつけたのは、上のような内容の事柄だったのではないかと考えるのです。
 それを証明してくれる直接的な証拠は、残念ながらありません。しかし、「オホーツク挽歌」の旅そのものの目的が、賢治自身にとっては「トシとの通信」であったことは、多くの研究者が認めていることです。それに、もう少し作品に踏み込めば、その旅行中に賢治が、「もしトシとの通信がかなうならば、私は死んでもよい」と考えていた節があることも、読みとることができるのです。


4.「オホーツク挽歌」の世界へ

 「オホーツク挽歌」詩群の世界が錯綜している要因の一つは、そこで賢治は「トシとの通信」を切望し、「トシの後生の幸せ」を願っているのは事実なのに、一方では「みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない(「青森挽歌」)」という仏教本来の教えに縛られ、自分がトシのことばかり考えてしまうのは間違いであると思い、彼自身の心が矛盾を抱え、葛藤をつづけていることにあります。
 もちろん、賢治はその葛藤を何とかしたくてやむにやまれず旅に出たわけですし、またその葛藤の凄まじさと切実な表現が、これらの作品の比類ない魅力になっているわけでもありますが。

 この矛盾を解消するために、「自分はトシとの通信を望んでいるが、それはトシ一人のためなのではなくて、衆生みんなのためである」と合理化しようとして、賢治は例えば「宗谷挽歌」(『春と修羅』補遺)の半ばあたりにおいて、次のような理屈を述べています。
 もしも、「私たちの行かうとするこの道(=法華経に基づいた仏教信仰)がほんたうのものでないならば」、トシがそれを「さまざまな障害を衝きやぶって来て私に知らせてくれ」ることによって、その「まちがひ」が明らかになる。そうすれば、それが結局は「みんなのほんたうの幸福」につながる・・・。
 これは、ややこじつけのような感もありますが、当時の賢治にとっては一つの切実な思いだったでしょう。いずれにしても、「オホーツク挽歌」詩群の作品は、このような葛藤をはらみ、動揺する賢治の気持ちが、つねに背後にあることを踏まえて読む必要があると思います。

 さて、話を戻して、「オホーツク挽歌」詩群の最初の作品である「青森挽歌」には、次のような一節があります。

   (宗谷海峡を越える晩は
    わたくしは夜どほし甲板に立ち
    あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
    からだはけがれたねがひにみたし
    そしてわたくしはほんたうに挑戦しよう)

 「わたくしはほんたうに挑戦しよう」というのは何への「挑戦」かと言えば、やはり「トシとの通信」への挑戦だと思います。ここで賢治が「挑戦」などという戦闘的な言葉を使っている理由については、後でも述べますが、彼はトシとの通信を実現するためには、何らかの「鬼神」のようなものとの対決を想定していたからではないかと思われます。
 また、自分のこの願望を「けがれたねがひ」と表現しているのは、上にも述べたように、賢治は自分が妹との通信に執着することを、仏教的には正しくないことと感じていたからだと思います。


5.「宗谷挽歌」が示してくれること

 以上から、「宗谷海峡を越える晩」が挑戦の焦点になるわけですから、その晩のことを記した「宗谷挽歌」(『春と修羅』補遺)について、ここで検討しなければなりません。

 この作品は、次のように始まります。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。

 冒頭から、賢治の思いは揺れています。(A)「私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。/それはないやうな因果連鎖になってゐる。」と書いた直後に、(B)「けれどももしとし子が夜過ぎて/どこからか私を呼んだなら/私はもちろん落ちて行く。」と書き、またその直後に(C)「とし子が私を呼ぶといふことはない」と直前の仮定を否定します。そう言いながら、さらに(D)「もしそれがさうでなかったら/どうして私が一諸に行ってやらないだらう。」とまた逆を想定します。
 ここで賢治が考えているのは、[1]死んだトシは天界に転生したので、「呼ぶ必要のない所に居る」、したがって「通信も来ない」という、彼としては信じたい方の可能性、もう一つは、[2]トシが、畜生・餓鬼・地獄のいわゆる「三悪道」のいずれかに転生している可能性という二つで、[2]の場合には、トシが賢治に呼びかけるという「通信」を期待しているのです。
 初めの5行(A)では[1]と考えられ、次の3行(B)では[2]と考えられ、さらに次の2行(C)ではまた[1]と考えられ、次の6行(D)では[2]と考えられ、賢治の思いは交互に目まぐるしく変わっています。
 そして、「どこからか私を呼んだなら/私はもちろん落ちて行く。」とあるように、さらにまた「もしそれがさうでなかったら/どうして私が一諸に行ってやらないだらう。」とあるように、もしもトシから「通信」が来たらならば、「自分も死ぬ」ということを、賢治ははっきりと言明しています。

 さらにここで注意しておくべきことは、これらの箇所で賢治は、通信を受けとったら自分は「自殺する」と言っているのか、ということです。これについては、「自殺ではない」ということを、彼は次の箇所で示してくれているようです。

 (私を自殺者と思ってゐるのか。
  私が自殺者でないことは
  次の点からすぐわかる。
  第一自殺をするものが
  霧の降るのをいやがって
  青い巾などを被ってゐるか。
  第二に自殺をするものが
  二本も注意深く鉛筆を削り
  そんなあやしんで近寄るものを
  霧の中でしらしら笑ってゐるか。)

 しかしながら、トシからの通信を受けとった時点で、もしも賢治が自分の意志で夜の海に飛びこめば、それは「自殺」になってしまいます。そうではなくて、「通信を受けとったら、自分は(自殺でなく)死ぬ」ということを賢治が前もって言明できるというのは、果たしていかなる場合に可能なのでしょうか。
 それは、「トシとの通信がかなうなら、ひきかえに自分の生命を奪ってもよい」ということを、前もって何者かに「宣言」し、「約束」していた場合でしょう。他者によって生命が奪われるのなら、自殺にはならないからです。

 これこそが、「ひのきひらめく六月」に、賢治が線刻文字で書きつけた内容だったのではないかということは、前述したとおりです。


 それにしても、ここで賢治が自分の側からの一方的な「契約」をしようとした相手というのは、いったい誰だったのでしょうか。この問題を示唆してくれる「宗谷挽歌」の最後は、次のように終わっています。

〔この間、原稿数枚なし〕
永久におまへたちは地を這ふがいい。
さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
私は試みを受けやう。

 すなわち賢治は、「鬼神たち」の「試みを受けやう」と、覚悟していたようなのです。前述のように、トシからの通信が来るとすれば、それはトシが畜生・餓鬼・地獄のいずれかの世界に居る場合であって、その際にはこれらの三悪道を管理しているのは、鬼神の一種と見なされるからでしょう。
 この6月に、賢治が秘かに「線刻文字」によって表現していたのは、正統な仏教的祈りではなくて、このような鬼神のごときものに向けての呪術的なメッセージ(「挑戦」)だったと思われるのです。相手が相手だけに、8月末になっても賢治は、「やがてどんな重荷になつて/おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない」と、一抹の宗教的な不安を感じていたのではないでしょうか。また、自分から「死んでもいい」と一度言ったからには、その償いにたとえ生命が懸かっても、「男らしく」いさぎよく応じなければ、という覚悟もあったのかもしれません。


 さて、「雲とはんのき」に出てくる「おまへが刻んだその線」の、記号論的な意味内容(シニフィエ)は、以上のようなものではないかというのが、ここまでで私が言いたかったことです。
 次回には、「手宮文字」と呼ばれたその「線」の表現形態(シニフィアン)は、いったいどんなものだったのかということについて、考えてみたいと思います。

[ この項つづく ]