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発表のスライド

 以前に「1921年と1931年」という記事において、その1枚目のスライドをご紹介した発表を、昨日してきました。
 とくに賢治に関心を持った人の集まりではないので、準備しながら心配でしたが、暖かく真面目に聞いていただけたのでほっとしました。

 賢治の作品からの引用スライドもいろいろ出したのですが、下はその発表の最後のスライド4枚です。

自他の未分→「心象スケッチ」

『宗教的経験の諸相』(W.James)

神秘体験のファントム仮説(安永)

「心象」の体験線モデル

 これだけでなんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、要は、賢治の特異な体験を「解離」という機制によってとらえようとする柴山雅俊氏の説は、作品における記述にも非常にあてはまると思われ、またこのような特性は、賢治が「心象」という言葉によって自他未分の形で自らの体験を記述しようとしたことにも通底しているのではないかということが、言いたかったのです。

 「自他(主客)未分」という観点は、賢治だけでなく当時の海外や日本(西田幾多郎など)の思想にも共通したものがあったのだろうというご指摘などもいただき、私にとって非常に参考になりました。
 賢治の世界観が形成される背景には、仏教やウィリアム・ジェイムズにとどまらず、もっと他にも源流があったのではないかということは、私もかねてから感じていたところです。今後も微力ながら考えてみたいと思っています。

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「心象」の体験線モデル
『解離性障害』
「写生」と「心象スケッチ」

「北辰館」と「雲台館」

 年末は忙しくて記事にするひまがなかったのですが、去る12月20日に、賢治学会の用事があって、東京に行ってきました。
 その日の午前中に、賢治の足跡を訪ねて少し都内を徘徊してきましたので、遅くなりましたがご報告です。

 まずは1916年(大正5年)、賢治が盛岡高等農林学校2年の夏に、「独逸語夏季講習会」を受講するために宿泊していた旅館「北辰館」です。
「北辰館」地図(奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」より) 奥田弘氏の「宮澤賢治の東京における足跡」(小沢俊郎編『賢治地理』所収)は、昭和42年の時点で明らかになっていた資料に基づいて、賢治の東京での行動を詳細に位置づけた古典的労作ですが、その中に右のような地図が付いています。
 旅館の名前は、奥田氏の文献では「北宸館」という文字になっていますが、その理由については私はわかりません。当時発見されていた唯一の資料だった、高橋秀松あて「書簡18」の住所記載の文字がそのように読めたのでしょうか。現在では、『新校本全集』の第十五巻を見ると、「北辰館」と記されています。
 あと、この地図における方角もちょっと不思議で、奥田氏は上がほぼ北であるように方位記号を書いておられますが、実際にはこの地図では上が東、北は左になります。

 ところで奥田氏の上記論文内では、北辰館について次のように述べられています。

 さて、この時の宿泊先となったの「北宸館」は、略図(6)のとおりである。都電停留所、麹町二丁目から、四谷より一つ目の道を右折すると、鈴木コーヒー店というところが、そうである。近くの古老の話によると、「北宸館」は、比較的大きい旅館で、下宿兼用の旅館でなかったという。当時は、附近に下宿専用の小規模の旅館や「素人下宿」の旅館が多かったそうだ。

 しかし現在は、奥田氏の同定された「鈴木コーヒー店」という店もなくなっていて、2004年7月に現地を訪れたかぐら川さんは、「賢治 in 麹町1916 (2)」という記事において、その場所が「麹町鈴木ビル」というビジネスビルになっていることを確認されました。「鈴木」さんというおそらくこの地所のオーナーと思われる方の名前が、由緒を留めていますね。

 2009年12月20日の朝にこの場所に来てみると、黄色っぽい色をした「麹町鈴木ビル」が、真っ先に私の目にも入りました。この時ちょうど、東隣の家(上の地図では「鈴木コーヒー」の上隣)の住宅で高齢の女性が玄関まで出てきておられたので、「昔ここに‘鈴木コーヒー’という店がありましたか?」と尋ねてみると、「鈴木コーヒーはこのお隣でしたよ」と教えて下さいました。
 調子に乗って、「さらにその昔には‘北辰館’という旅館がありませんでしたか?」とお聞きしましたが、「それはわかりません」とのお答えでした。さすがに、奥田氏の文献に出てくる「古老」とは、時代が変わってしまっているようです。
 で、下の写真が現在の「麹町鈴木ビル」です。北西の方向から写しています。

麹町鈴木ビル

 賢治はここにしばらく滞在して「東京独逸学院」に通い、途中からは同じ麹町三丁目(当時)の「栄屋旅館」というところに移っています。すぐ近くなのでしょうが、この「栄屋旅館」の方の詳しい位置はまだわかりません。

 さて、ここから東南東の方角に行くと、すぐに皇居の「半蔵門」(下写真)があります。半蔵門

 江戸時代に城の警護を担当していた服部家(代々「服部半蔵」を襲名)の屋敷がこの門の前にあったことから、こう呼ばれたそうです。この門を起点として、甲州街道(現在の国道20号線)が始まりますが、これは江戸城有事の際は、将軍がこの門から出て西へ向かい、幕府天領である甲府に避難するという目的を秘めた道路整備だったのだといいます。

 ところで賢治は、この1916年の上京中に、甲斐に住む保阪嘉内のことを思って次の短歌を書き送りました。

甲斐に行く万世橋の停車場をふっとあわれにおもひけるかな。

 東京独逸学院のあった神田からほど近くには、当時の中央本線の始発駅である万世橋駅があり、そこが大正時代には「甲斐への起点」を象徴していました。
 つまり、この夏の賢治は、たまたま甲斐へ向かう「道路」の起点近くで寝泊まりしながら、甲斐へ向かう「鉄道」の起点近くへと通っていたというわけです。賢治と嘉内を結ぶ「見えない糸」ですね。

 半蔵門を後にして、内堀通りを北へ行くと、すぐに左手にはイギリス大使館が見えてきます。下写真で左側の塀が大使館、その前に続く木々が、有名な桜並木です。

イギリス大使館前桜並木

 北辰館のあった場所から神田方面へ行くなら、この通りよりも西方で、たとえば現在は地下鉄半蔵門線が下を走っている大妻通りなどを、靖国通りまで北上するという経路もあるのですが、私なら景色もきれいなこのイギリス大使館横を通る内堀通りの方を通学路にするでしょう。もう少し行くと、右手に皇居のお堀も見えてきて、さらによい雰囲気です。
 賢治がこの道を毎日通っていたのなら、上京中の賢治の短歌、

大使館低き練瓦の塀に降る並木桜の朝のわくらば

に出てくる「大使館」を、道沿いに長く続く「イギリス大使館」と考えるのも自然です(詳しくは、以前の記事「大使館の桜」参照)。
 大使館の正面玄関は下のような感じ。

イギリス大使館正面玄関

 そして、大使館に沿って北に歩いて行くと、右下写真のようなモニュメントが建てられていました。金属板には、次のような言葉が記されています。

桜植樹記念碑1898年、当時の英国公使 サー・アーネスト・サトウが、この地に初めて桜を植えました。植樹100周年を記念して、1998年春、ここに駐日英国大使館は新たに桜を植え、日英両国の友好の証とします。

この記念碑は、紀宮清子内親王殿下によって除幕されました。
1998年4月3日

シルビア・オーウェンズ作 1963年 英国生まれ

 さらに北に進むと、千鳥ヶ淵の交差点のところに「千鳥ヶ淵周辺のご案内」と題された千代田区が立てた案内板がありました。そこには、「明治34年(1901)に代官町通りが内堀通りまで整備されたときに、新たに土橋が築かれ、半蔵濠と分かれて今の形になりました。」と記してありました。
 すなわち、「代官町通り」が整備されたのは1901年ということですから、当時の賢治の通学路としては、千鳥ヶ淵交差点からこの代官町通りを抜けて神田方面へ出たという可能性も否定はできず、当時のフランス大使館前を通ることもできなくはありません。しかし総合的に考えると、やはり賢治の短歌に出てくる「大使館」は、イギリス大使館だろうと私としては思います。
 下写真が、当時フランス大使館があったあたりです。現在は、東京法務局や九段合同庁舎などがあります。

フランス大使館があった場所

 以上で、1916年夏の賢治の東京滞在関連地めぐりはひとまず終えて、今度は1918年末~1919年3月の、トシ看病のための滞在地の方へ向かいました。

 九段下駅から地下鉄東西線に乗り、飯田橋で有楽町線に乗り換えて、護国寺駅で降ります。音羽通りを少し南に行って、大塚警察署の角を西に曲がると、「三丁目坂」という坂道です。この坂を上って首都高速の高架をくぐり、最初に左(南)へ入る細い路地を折れると、そこが昔「雲台館」があったという場所です。
 下図は、やはり奥田弘氏の「宮澤賢治の東京における足跡」(小沢俊郎編『賢治地理』所収)より引用した地図です。

「雲台館」等地図(奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」より)

 奥田氏が訪ねた昭和41年の時点では、そこには賢治の頃の「雲台館」の建物がそのまま残っていて、「東京鉄道管理局音羽寮」として使われていたということですが、現在はもうその建物はなくなって、民家になっています。
 下の写真は、路地を南から北へ向かって写したもので、右手の民家の場所が、昔「雲台館」があったというあたりです。

「雲台館」のあった場所

 「三丁目坂」案内板賢治と母イチは、毎朝この路地を抜けて、「三丁目坂」を上り、「永楽病院(東大病院小石川分院)」に通っていたわけですね。「三丁目坂」と呼ばれた由縁は、「旧音羽三丁目から、西の方目白台に上る坂だったから」という即物的な説明が、右の案内板に書かれていました。

 「雲台館」のあった場所からは、歩いて数分で「永楽病院」のあった場所まで行くことができます。
 しかし知らない土地で、一時は生命まで危ぶまれたトシの病状を心配しながら行き来する坂道は、賢治や母にとって心細いものだったに違いありません。

 そして下の写真が、昔「永楽病院」のあった跡地です。現在は取り壊しを待つだけの無人の建物ですが、2001年6月まではやはり「東大病院分院」として、一線の診療を行っていました。

東大病院分院

 私はここを訪ねたのは今回が初めてなのですが、ちょっとした感慨がありました。1960~70年代にはこの病院で、安永浩氏とか中井久夫氏とか、著名な精神医学者が仕事をしておられたということで、個人的にはこの「東大分院」という名前には、独特のオーラを感じていた頃がありました。たまたま賢治の縁でその地に来ることになるとは、不思議な巡り合わせです。
東京大学(目白台)診療棟他解体工事のお知らせ ただ、塀には右のような「解体工事のお知らせ」が貼ってあって、「工事予定期間」の欄を見ると、「平成21年4月15日から」「平成21年12月18日まで」となっています。何かの都合で工事が遅れているのかもしれませんが、もしも予定通り12月18日に解体が終わっていたら、12月20日に私がここに来た時には、建物はなくなっていたわけです。
 解体後は、ここには外国人研究者・留学生向けの宿舎や文系の研究所を建設する計画があるとのことで、私が「東大分院」の建物を最後に見られたのは、ちょっとした幸運のおかげでした。
 お正月をはさんで、現時点ではまだこの建物は存在しているのだろうと思いますが、近いうちには姿を消すでしょう。

 これでお昼近くになりましたので、トシがいた「責善寮」の跡なども見てみたかったのですがそれはあきらめて、護国寺駅に戻って地下鉄に乗り、麹町駅で降りて「かわかみ」でラーメンを食べ、午後から会議がある大妻女子大学へと向かいました。

「写生」と「心象スケッチ」

 ほんとうは「『赤光』と『春と修羅』」などという大それたエントリを書いてみたく思ったのですが、到底いきなり手に余るので、とりあえず各々の方法論である(と各々の作者自身が言っている)「写生」と「心象スケッチ」ということについて、考えた事柄を書いてみます。

 「写生」は、言うまでもなく正岡子規が、俳句、短歌、散文などの方法論として提唱した概念ですが、近代以降の文学に大きな影響を与えました。その弟子たちによって、「写生」という言葉はさまざまに深められ拡張されていきますが、斎藤茂吉が自らの「写生」の定義を精緻化していくのは、『赤光』の刊行よりも少し後からのことです。
 一方、「心象スケッチ」とは、宮澤賢治が独自に考え出し、詩、童話において実践しようとした方法論です。「心象」や「スケッチ」という言葉の各々は、それまでにも使用されていましたが、彼の言うところの「心象スケッチ」は、とりわけ『春と修羅』が世に現れた時には、あまりにも独創的で風変わりなものと思われましたし、もちろんそれを流派として継承する弟子も出ませんでした。

 対照的な二つの方法論のようではありますが、この二つの言葉に共通するのは、どちらも「絵画の用語」を文学に輸入したものである、ということです。絵画において、「写生する」ということと「スケッチする」ということは、どちらも対象を忠実に「写す」という行為でしょうが、前者の方がより緻密な作業をイメージさせるのに対して、「スケッチ」というと、より素早く描くという感じはします。賢治が手帳にすごいスピードで文字を書きとめていたという証言を、ちょっと連想させますね。
 ただ、文学上の「写生」が、とにかく個人の主観的な歪曲や理屈を排して客観的な記述を推奨したのに対して、賢治の「心象スケッチ」の典型である『春と修羅』を読むと、「客観的」の対極にあるような主観的な描写や、幻想的あるいは超現実的な表現があふれていて、やはり内容も大きく異なったもののように感じられます。
 しかしここで面白いのは、宮澤賢治自身は、「心象スケッチ」というのは作者が恣意的に拵えた創作物ではなくて、何らかの対象の「そのとほり」の記録であるということを、繰り返し強調していることです。
 彼は、『春と修羅』の「」においては、

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです
 
これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしき

それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします

と書き(強調は引用者)、また『注文の多い料理店』の「序」には、

 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかにふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。

と書いています(強調は引用者)。また、岩波茂雄あて書簡(214a)には、『春と修羅』の内容について、

 わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。(中略)詩といふことはわたくしも知らないわけではありませんでしたが厳密に事実のとほりに記録したものを何だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした。

とまで表現しているのです。

 すなわち、「写生」も「心象スケッチ」も、絵画における方法論に名を借りつつ、何らかの対象を、「そのとほり」に描写することを目標とするという点で、非常に似ているわけです。

 では、似たようなことを標榜しながら、「写生」を旨とする正岡子規やアララギ派の短歌と、「心象スケッチ」による賢治の『春と修羅』の方法論は、どこが違っているのでしょうか。

◇          ◇

 まず正岡子規は、「写生」についてたとえば次のように書いています(「叙事文」より)

 以上述べし如く実際の有のまゝを写すを仮に写実といふ。又写生ともいふ。写生は画家の語を借りたるなり。又は虚叙(前に概叙といへるに同じ)といふに対して実叙ともいふべきか。更に詳にいはゞ虚叙は抽象的叙述といふべく、実叙は具象的叙述といひて可ならん。要するに虚叙(抽象的)は人の理性に訴ふる事多く、実叙(具象的)は殆んど全く人の感情に訴ふる者なり。虚叙は地図の如く実叙は絵画の如し。地図は大体のの地勢を見るに利あれども或一箇所の景色を詳細に見せ且つ愉快を感ぜしむるは絵画に如く者なし。文章は絵画の如く空間的に精細なる能はざれども、多くの粗画(或は場合には多少の密画をなす)を幾枚となく時間的に連続せしむるは其長所なり。

 「理性に訴えるのでなく感情に訴える」ことを目ざす、というわけです。次の文は直接には絵画について述べたものですが、「感情的写生」という言葉が出て来ます(「文学美術評論」より)。

 そこで油画が這入つて来ていよいよ写生が完全に出来るやうになつた。此写生は無論感情的写生(理屈的写生といふたのに対していふ)であつて、人が物を見て感ずる度合に従ふて画くから、鯉を画いても鱗を三十六枚画きはせぬ、さりとて東山時代のやうに大きな点を打つて鱗の符牒にして置くのでは無い。それで実物見たやうに出来る。

 さらに『俳諧大要』では、次のように述べられます。

 主観客観とを合同して一種非の大文学を製出せざるべからず。主観に偏僻し客観に拘泥するものは、固より其至る者に非ざるなり。(太字部は原文では傍点による強調)

 「実際の有のまゝ」と言う一方で、「感情的」であることを肯定し、「主観と客観とを合同」とも言うものですから、子規が亡くなった後に弟子の間でその解釈にニュアンスの相違が出てくるのも無理からぬことに思えます。実際、子規没後3年足らずの1905年に、伊藤左千夫と長塚節の間に起こった「写生をめぐる論争」も、写生において主観はどの程度関与するのかということが中心だったようです。

 そんな経過の後、その緻密な論理と、有無を言わせぬほどの実作上の存在感によって、こういった対立を止揚したのが、斎藤茂吉だったと思います。
 斎藤茂吉は、1919年「短歌に於ける写生の説」の「第四「短歌と写生」一家言」において、次の有名な写生の定義を記します。

 実相に観入して自然・自己一元の生を写す。これが短歌上の写生である。ここの実相は、西洋語で云へば、例へば das Reale ぐらゐに取ればいい。現実の相などと砕いて云つてもいい。自然はロダンなどが生涯遜つてそして力強く云つたあの意味でもいい。この自然の大体の意味を味ふのに和辻氏の文章が有益である。『私はここで自然の語を限定して置く必要を感ずる。ここに用ひる自然は人生と対立せしめた意味の、或は精神・文化などに対立せしめた意味の哲学的用語ではない。むしろ生と同義にさへ解せらる所の(ロダンが好んで用ふる所の)人生自然全体を包括した、我々の対象の世界の名である。(我々の省察の対象となる限り我々自身をも含んでゐる) それは吾々の感覚に訴へる総ての要素を含むと共に、またその奥に活動してゐる生そのものをも含んでゐる』 かう和辻氏は云ふ。予の謂ふ意味の自然もそれでいい。「生」は造化不窮の生気、天地万物生々の「生」で「いのち」の義である。「写」の字は東洋画論では細微の点にまでわたつて論じてゐるが、ここでは表現もしくは実現位でいい。(太字部は原文では傍○)

 ここでまず注目すべき点は、「自然・自己一元の生」を写すのが、写生であると定式化しているところです。これは、上に引用した子規の「主観と客観とを合同して一種非主非客の大文学を製出」というところを、より具体的に表現したものとも言えるでしょう。
 「写生」だからといって、表現者は対象から距離を隔てた純粋な観察者ではないのですね。「自然・自己一元」となった上での表現だ、というのです。

 しかしその際には、いかにすれば表現者が「自然・自己一元」となるのか、ということが問題です。そしてその方法論として茂吉が提示しているのが、「実相に観入して」ということになります。
 ここで「実相」というのは、ドイツ語で das Reale と言い換えられていて、これは英語ならば‘reality’として、とりあえず常識的には理解できます。しかし「観入」という言葉が、難しいところですね。
 これについて斎藤茂吉自身は、1934年になって書かれた「観入といふ語に就て」という文章の中で、次のように述べています。

 なるほど、私の造つた『観入』の熟語は仏典などにある意味その儘ではない。寧ろ独逸の美学や詩論などにある、“Anschauung”といふ語の意味も含んでゐるだらう。併し此の独逸語は、観相とか直観とか翻してゐるものだから、その儘採つて私の歌論に役立たせるには何か足りないところがある。そして、独逸語には“Hineinschauen”といふやうな語もあり、何かさういふところから暗指を得て、私は、『観入』といふ熟語を造つたのであつた。

 ここに出てくる“Hineinschauen”とは、日常語としては「のぞき込む」などという意味ですが、“schauen”=「見る」に、“hin-”=「向こうへ」+“ein-”=「中へ」という接頭辞が付加された形になっています。茂吉の文脈で分析的に解釈しなおせば、「自らを対象の方へ向け」・「さらに対象の中に入り」・「見る」、ということになるでしょうか。
 この「向こうへ・中へ」ということに関連して、「源実朝雑記」という文章には、次のような箇所があります。

 自然を歌ふのは性命を自然に投射するのである。Naturbeseelung である。自然を写生(窪田氏等の用ゐる意味とちがふ)するのは、即ち自己の生を写すのである。

 Naturbeseelung とは、「自然に生命を吹き込む」という感じだと思いますが、ここでも自分の生命を「自然に投射する」という、(対象へ向けた)「動き」が重要なようです。そしてこの「動き」こそがさきほどの“hinein-”という接頭辞と対応しており、結局「観入」の「入」という文字に込められているのだと思います。

 また斎藤茂吉は、「観入」という行為についてさらに平易に具体的に、次のようにも述べています(「短歌初学門」)。

 観入が突嗟にして出来る時があらば、記憶が好い人なら記憶して居るし、記憶の悪い人なら手帳に書きとどめて置く。その時直ぐ表現になる、つまり歌言葉になつたなら、直ちに手帳に書きつけ置く方が便利である。また観入が早く出来ない時には、長いあひだ凝視してゐる。いろいろと視てゐる。さうすると同じ山でもいろいろの処が見えて来る。今まで見えてゐなかつたものがいろいろ様々になつて見えて来る。今までただぼんやりと見えてゐたものが、今度は鮮明に見えて来る、即ち具象化して来る。これが即ち観入である。それだから観入の過程として、集中が必要であるのが無論であるから、人によつては『集中』に主点を置いて、対象集中は即ち自我集中でもあるから、その自我集中体験を以て、観入と同義にいふ人もゐる。それはどちらでも好い。

 これを読むと、斎藤茂吉自身は、「観入」とはかなりの程度まで意識的な作業ととらえていたことがわかります。

 ここでひとまずまとめると、「実相に観入する」とは、表現者が自らを対象に投げ入れ、そこで「自然・自己一元」の境地を体現しようとする行為のようです。ただし、その「一元」のもとには、和辻哲郎の言葉によれば、「我々の省察の対象となる限り我々自身を含んでいる」のであって、裏を返せば、それを感得し表現する「自己」の別の側面は、ある程度の客観性を持った観察者・表現者として、その外に存在しつづけるということになるのだと思います。
 そしてその「観入」の作業は、かなり意識的になされるものだということも、茂吉は言っています。

◇          ◇

 さて、それでは賢治の「心象スケッチ」はどうでしょうか。
 ここで興味深いことは、賢治もまたその「心象スケッチ」において、茂吉の言葉にいう「自然・自己一元の生」を表現しようとしていたことです。
 『春と修羅』の「」では、

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

と述べ、すべてが「こゝろのひとつの風物」であると見なし、また

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料(データ)といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません

として、やはりすべては「われわれがかんじてゐるのに過ぎません」と述べます。ついでにもう一つ例を挙げれば、「銀河鉄道の夜(第三次稿)」でブルカニロ博士が、

ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だって歴史だってたゞさう感じてゐるのだから、・・・

と語るところもそうです。
 このような世界観は、「すべては仮象である」とする仏教的なそれと共通のもので、もちろん賢治が仏教を信じ学ぶ過程で、このような認識を身につけていった面もあるでしょうが、賢治の成長過程をたどってみると、理屈や信仰によってこういう風に考えるようになったというよりももっと以前から、賢治の中に自然にこういう感じ方が生まれていたように思えます。
 いずれにしても、「すべては心象である」と見なすことは、賢治の立場を唯心論的な「一元論」に整理してくれます。

 あるいは、佐藤通雅氏は著書『賢治短歌へ』(洋々社)において、賢治の短歌の分析を通じて、短歌においてもやはり「自己と対象の融合」という事態が起こっていることを明らかにしてくれました。(以下強調は引用者)

 この転倒が、文学的策略・修辞・技法となるのは、前衛短歌以降である。賢治の場合は、まったく無意識の産物だ。その無意識がどのようにして生じたのか、もういちど75から79へとよみかえしてみると、はじめの段階では作者がいて、岩手山や雲・西火口原・湖などの対象を目の前にしている。しかし77の「あまりに青くかなしかりけり」、78の「みずうみの青の見るにたえねば。」を頂点として、主役は湖自身へと移ってしまう。つまり賢治という主体は後退し、対象との同化がはじまり、ついには両者の境界は視界から消え去ってしまう。(p.83)

 赤い傷に痛みをおぼえたのは、なによりも賢治自身だったはずだ。しかし、ほとんど同時に黒板に感情移入してしまっている。その結果、自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう。(p.89)

 前衛短歌は、近代以後、一人称であるために狭小化した形式を乗り越える方法として、多様な<われ>を設定した。仮構としての、劇としての<われ>を取り込むことによって、格段の自由をえたともいえる。賢治の歌も、そこにいて交叉が可能になった。しかし彼の<われ>の多様性は、方法としてでなく、<われ>そのものを他とおなじ位置に解消させる。(p.180)

 賢治の「心象一元論」は、斎藤茂吉が自己を対象の方へ「投入」することによって「自然・自己一元の生」に至ろうとしたことと対照的に、対象を自己の心象の中に「回収」してしまうことによって、結果的に「自然・自己一元の生」となっているわけです。すなわち、二つの方法論はまるで逆を向いたベクトルのようでもあります。
 また、佐藤通雅氏の指摘するように、賢治がこのような形で表現活動をしているのは、意識して特異な方法をとろうとしたのではなく、「無意識」のうちにそういう体験をしているところも、茂吉の意識的な「観入」と異なっています。
 賢治が「自然・自己一元の生」を、その最も感動的な形で体感し、表現したものとして、「種山ヶ原(下書稿(一))」の中の次の一節があります。

雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

 この恍惚とした体験は、「種山ヶ原の情景を詩にしよう」と意識して招来されたものではなく、作者が種山ヶ原を歩いていた時に、どうしようもなく彼を捉えて放さなかった自然との一体感であり、作者にとっては受動的・無意識的に訪れたものだったのでしょう。

◇          ◇

 ということで、斎藤茂吉の「写生」=「実相観入」と、宮澤賢治の「心象スケッチ」を検討してみましたが、これをわかりやすくするために(?)、ちょっと図式化してみます。
 援用させていただくのは、以前にも「「心象」の体験線モデル」という記事においてご紹介した、安永浩氏の「ファントム空間論」です。

 まず、下のような「体験線」と呼ばれる簡単な図が基本となります。

「体験線」

 図の左端の「e」は、「自極」と呼ばれ、すべての「私は…」という体験の出発点を表します。これは一つの極限概念で、形もなければ広がりもない、幾何学上の「点」のようなものとされます。またこの点は脳のどこかに定位できるようなものでもなく、あくまで「私」の体験出発点としての、理念的な場所です。
 この「e」から右へ矢印が出ていて、これは「自」から「他」へ、「主体」から「対象」へ向かう方向を表しています。おそらくフッサールの現象学における「志向性」という概念はこの矢印に相当し、このことから安永氏は「e」のことを、「現象学的自極」と呼んだりもします。

 一方、右端にある「f」は、「対象極」と呼ばれ、ちょうどカントの言う「物自体」に相当します。「他」なるものの理論的な極限点で、これそのものは主体にとって直接に体験できるものではありません。人間は、生物学的に与えられた視覚や聴覚や触覚などの感覚器官を通じて世界を体験できるだけであり、我々が「世界」と思っているのは、そのような特定の体験手段によって構成された世界の「図式」にすぎません。

 というわけで、その少し左にある「F」が、そのようにして構成された「対象図式」を表しています。これは「f」よりも少し手前に位置していますが、これはこの場所に、主体が対象を認識する「知覚像」が定位されることを表しています。

 また、「e」の少し右には、「E」という記号があります。これは「自我図式」と呼ばれ、対象化された構成物としての「私」です。私は私自身の「感覚」も「感情」も「考え」も「身体」も、それぞれ認識することができ、言い換えれば私は私自身をも一つの対象としてとらえることができます。このように「認識される自己」が定位される場所が、「F=自我図式」であるというわけです。
 ウィリアム・ジェイムズは、自らを意識する主体としての「われ」=「主我」と、客体として意識される「われ」=「客我」を区別しました。この用語にあてはめれば、「e」が「主我」、「E」が「客我」ということになります。

 以上が、「体験線」というものの一般的な説明ですが、まずこの図式を用いて、斎藤茂吉の言う「写生」=「実相観入」とはどのように表せるかということを、考えてみます。
 「観入」とは、自己(の生)を、対象に「投射する」、あるいは、対象に向かい、入り、見るということでした。投げ入れらた結果、自然と一元化する「自己」とは、和辻哲郎の説明によれば「我々の省察の対象となる限り」の「我々自身」ということですから、「体験線」においては「自我図式=E」に相当します。
 「E」が「F」に向かって投入され、一体化するというのですから、下のような事態として図式化することができるでしょう。

実相観入

 斎藤茂吉も一人の「天才」として、このような「自然・自己一元の生」を、意識的というよりも対象に即して直観的に把握していたのだと思いますが、彼の歌論を見るかぎりは、「実相観入」とはかなり能動的で意識的な営為であるように読めます。
 いずれにせよ、観入によって自己(E)と自然(F)が一体となった境地を、表現者である「e」が、「観る」わけです。

 一方、賢治の「心象スケッチ」における「自他の融合」は、もっと無意識的で受動的に起こるものだったようです。
 融合に至る一つの要素として、「自己の拡大」というべき事態があることは、たとえば「林と思想」(『春と修羅』)という作品から見てとれます。

そら ね ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈のかたちのちいさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ
 こゝいらはふきの花でいつぱいだ

 ここでは、作者の「自我図式」の内にあるはずの「わたしのかんがへ」が、「対象図式」に位置する向こうの林に流れて行って溶け込んでいる、というのです。

 これに対して、融合を引き起こすもう一つの要素としては、逆に対象図式が自己の方へと迫り近づいてくるという事態もあるようです。
 これはたとえば、「小岩井農場」(『春と修羅』)パート九に出てくる、

   《幻想が向ふから迫つてくるときは
    もうにんげんの壊れるときだ》

という言葉にも表れていると思いますし、また「〔その恐ろしい黒雲が〕」(「疾中」)における、

その恐ろしい黒雲が
またわたくしをとらうと来れば
わたくしは切なく熱くひとりもだえる
北上の河谷を覆ふ
あの雨雲と婚すると云ひ
森と野原をこもごも載せた
その洪積の台地を恋ふと
なかばは戯れに人にも寄せ
なかばは気を負ってほんたうにさうも思ひ
青い山河をさながらに
じぶんじしんと考へた
あゝそのことは私を責める
病の痛みや汗のなか
それらのうづまく黒雲や
紺青の地平線が
またまのあたり近づけば
わたくしは切なく熱くもだえる

という箇所も、自然が自分に迫り、呑み込まれそうになる感覚が描かれています。自然の方から自分に接近してくるという体験は、「わたくしは森やのはらのこひびと」(「一本木野」)として、賢治にかぎりない喜びをもたらしてくれるものでもありましたが、時には恐ろしいものでもありました。

 このように、自己の拡大、対象の切迫という二つの要因によって、自己と自然の一体化が起こる状況は、次のように図式化してみることができます。

「賢治的心象」

 ここでも、結果的には「実相観入」と同様に、「E」と「F」が近接することによって、「自然・自己一元の生」という体験が現れるのです。ただし、これは私の思うところでは賢治の生来の素質によるところが大きく、意図的に行うのではなくて受動的に没入してしまうということだったのではないかと、感じています。

◇          ◇

 以上、茂吉の方法論としての「写生=実相観入」と、賢治の方法論としての「心象スケッチ」が、似たようでもありまるで異なっているようでもあるのが興味深かったので、私なりに少し比較検討してみました。
 なお、「体験線」という図式については、安永浩氏ご自身による「O.S.ウォーコップの次世代への寄与」という Web ページにおいて触れられていますので、関心がおありの方はご参照下さい。

 それとやはりそのうちにいつか、「『赤光』と『春と修羅』」ということについても、考えてみたいと思っています。

斎藤茂吉記念館
斎藤茂吉記念館

『解離性障害』

 柴山雅俊著 『解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理』(ちくま新書)という本を読みました。

解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書) 解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)
柴山 雅俊

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 「解離」という心理メカニズムは、一部では現代社会を理解するための重要なキーワードとしてもてはやされ、たとえば、香山リカ著 『多重化するリアル 心と社会の解離論』(2002)とか、斎藤環著 『解離のポップ・スキル』(2004)など、いずれも精神科医が「解離」という観点から相次いで本を出して、最近の社会現象について興味深い切り口を提供してくれていました。

 今回とりあげる『解離性障害』は、社会評論的な上記の2冊などとは異なって、その名のとおり「解離性障害」という一群の精神疾患について、医学的な解説をしている本です。
 著者は「まえがき」において、「本書は一般向けではあるが、私自身の気持ちとしては解離の病態に苦しんでいる人たちに向けて書いたつもりである。(中略) さらに患者を支える家族、友人、恋人にぜひ読んでほしいと思っている。」と書いておられますが、内容はかなり専門的です。上のカスタマー・レビューの一つにあるように、「専門医が読んでも面白い」ものだと思います。

 ところで何でまた、本日ここでこの本をとりあげたかというと、この本の第七章「解離とこころ」には、「宮沢賢治の体験世界」と副題が付けられていて、賢治が多くの作品に記述している特異な体験について、「解離」という観点から分析が行われているからです。

 まず著者は、第七章の章の趣旨について次のように述べます。

 私が専門としている精神医学とは病の学問であり、それを作家にそのままあてはめて論じることはできない。賢治の生育歴を調べても、彼がなんらかの病気であったと判断する根拠はない。しかし、私には作品のところどころに解離の主観的な体験と類似したものが見出されるように思われてならない。彼の心的世界は明らかにわれわれの体験世界とは異なっているところがある。それを単に精神病や神秘体験として理解するのではなく、解離、とりわけ意識変容の観点から了解の幅を広げようと試みようとするのが本章である。

 そして、たとえば

79 うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり

という有名な短歌に詠まれている「背後からの視線」は、著者が言うところの「気配過敏症状」として、解離性障害の人がしばしば体験する現象と非常に似ていると指摘します。
 あるいは、童話「インドラの網」の冒頭の、

 そのとき私は大へんひどく疲れてゐてたしか風と草穂との底に倒れてゐたのだとおもひます。
 その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずゐぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやってゐました。

というところなどは、やはり解離現象の「体外離脱体験」とみることもできるとしています。

遠隔化と近接化 著者は、本書の第四章「解離の構造」において、意識の変容のあり方について「遠隔化と近接化」という観点から、整理をしています(右図)。
 「遠隔化」においては、「周囲世界は膜の向こう側へと隔たったものとして体験される。感覚の鮮明さが減弱してゆき、ぼんやりとした表象、夢のようなものへと外界は引き寄せられている。これを知覚の表象化と表現することもできよう」と著者は説明します。これは例えば、著者が第七章の「離人症」の項で挙げている賢治の短歌、

165 ぼんやりと脳もからだもうす白く消え行くことの近くあるらし

に詠まれている体験に相当するのでしょう。

 一方、「近接化」においては、逆に「表象が知覚化する」のが特徴とされます。言い換えると、一般には心の中のイメージとして体験される事柄(表象)が、まるで外界からの知覚のように体験されるのです。この「知覚化」が、現実と区別できないほどの実感を持つ場合には、「幻覚」になります。
 思えば賢治は、幻聴、幻視など、自分が体験した種々の幻覚を描いたと思われる作品を多く残しています。(例を挙げればきりがないほどですが、たとえば「比叡(幻聴)」や、「小岩井農場」における、ユリア、ペムペルなど。) これらの幻覚は、統合失調症という病気において現れる幻覚とは異なっていて、「解離性幻覚」と呼ばれる特徴を持っているのですが、これこそが上記のような意味で「表象が現実味を帯びて知覚化したもの」と考えられるわけです。

 同じようなことを、以前に私は安永浩という人の提唱した「体験線」というモデルを用いて、説明しようとしたことがありました(「「心象」の体験線モデル」参照)。私もこの時は、賢治の独自の感覚においては「自我図式」と「対象図式」が近接して、表象が知覚化するということを言おうとしました。

 あらためて眺めると、賢治の作品は「表象の知覚化(幻覚化)」に満ちています。「心象スケッチ」における「心象」とは、表象の知覚化あるいは知覚の表象化によって、「表象と知覚が渾然一体となったもの」に、賢治が独自の意味をこめて与えた呼び名である、とさえ言ってもよいかもしれません。

◇        ◇

 最後の方は、勝手に私の解釈や考えを述べるような形になってしまいましたが、この柴山雅俊著 『解離性障害』 第七章は、宮澤賢治に関する久々の本格的な病跡学的論述と言えるものだと思います。
 賢治の作品に見られる独特の体験描写を、単に精神医学や心理学の用語にあてはめて事足れりとするのではなく、著者は「解離」という視点を導入することによって、彼の体験の全体像を、有機的に把握する可能性を示してくれています。

 賢治の病跡学と言えば、福島章著 『宮沢賢治―芸術と病理』(金剛出版新社, 1970)、のちに改版されて 『宮沢賢治―こころの軌跡―』(講談社学術文庫, 1985)が、古典的な名著だったと思います。残念ながら、どちらも現在は絶版になっていますが、賢治の一生を細かく跡づけて、その基底に「躁」と「うつ」が交代する「周期性性格」を指摘した論には、確かに説得力がありました。これは賢治の生涯を理解する上でも、有益な視点をもたらしてくれたと思います。
 同じ著者が1996年に刊行した 『不思議の国の宮沢賢治』(日本教文社)は、失礼ながら今ひとつ面白くなかったものですから、この柴山氏の著書は、私にとっては上記のように、「宮澤賢治に関する久々の本格的な病跡学的論述」と感じられたのです。

 伝え聞くところによれば柴山雅俊氏は、福島章氏が研究のために集めておられた賢治に関する多数の資料を、すでに譲り受けておられるとのことです。その「継承」関係には、何か象徴的なものさえ感じます。

 新たな時代の、賢治の病跡学的研究の発展を期待するところです。

「心象」の体験線モデル

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 先日ご紹介したように、佐藤通雅氏は『賢治短歌へ』において、賢治の短歌がふつうの<一人称詩>から独特の「ふみはずし」をしているという特徴を指摘し、それを眼球で網膜に像が結ばれない状態などに喩えて説明をしておられました。
 この本を読みながら、私はまた別の説明モデルを考えてみました。

 安永浩という精神病理学者がおられて、1970年代から1980年代にかけて、「ファントム空間論」などの独自の理論を発表し、注目されていました。(現在 Web 上では、「O.S.ウォーコップの次世代への寄与――「パターン」、「パターン逆転」、「ファントム空間論」――」というページにおいて、その一端を見ることができます。)
 こ「体験線」の安永浩氏はかつて、「体験線」と呼ぶところの一本の右向きの矢印(図1)を描いて、人間の体験を説明しました。(この図は上の Web ページでも、「図5」として出てきます。)
 図の左端の「e」は、「自極」と呼ばれ、「私は~」という体験の出発点を表します。これは一つの極限概念で、形もなければ広がりもない、幾何学上の「点」のようなものとされます。脳のどこかに定位できるようなものではなく、あくまで「私」の体験出発点としての、理念的な場所です。
 この「e」から右へ矢印が出ていて、これは「自」から「他」へ、「主体」から「対象」へ向かう方向を表しています。おそらくフッサールの現象学における「志向性」という概念はこの矢印に相当し、このことから安永氏は「e」のことを、「現象学的自極」と呼んだりもします。

 一方、右端にある「f」は、「対象極」と呼ばれ、ちょうどカントの言う「物自体」と同じく、「他」なるものの理論的な極限点です。これは、主体にとって直接に体験できるものではなく、その少し左にある「F=対象図式」を通して、はじめて認識が可能となります。私たちは外界を、あくまで視覚・聴覚などの感覚を通じて、各自の神経系が構築した「像」として対象を認識しているわけですが、その「知覚像」が構成される場所が、「F」であるというわけです。
 また、「e」の少し右には、「E」という記号があります。これは「自我図式」と呼ばれ、対象化された実体としての「私」です。人間は、自分自身をも対象としてとらえることができるので、ウィリアム・ジェイムズは、自らを意識する主体としての「われ」=「主我」と、客体として意識される「われ」=「客我」を区別しました。これに従えば、主我が「e」、客我が「E」ということになります。「主我e」と「客我E」
 「図1」の左端の部分を拡大すると、「図2」になり、この矢印は、主体(=e)が「自分自身(と感じるもの)=E」を認識するという事態を表していることになります。

 「図3」は、通通常の「われ」常の場合に一般に「われ」として体験される部分を、赤く囲って示しています。「B」という記号で示しているのは、自らの「身体」です。「体験線」の図で身体は、自我図式 Eよりも外に、すなわち体験線の下流に位置づけられます。「われ」と言う時に、身体を意識して含めている場合とそうでない場合があるかもしれませんので、これは薄いグレーで示してあります。


 さて以上は、安永浩氏が「体験線」というモデルによって述べておられる事柄を、私なりに要約したものでした。
 次に、賢治が短歌の一部や「心象スケッチ」において描いている「心象」なるものを、私がこの模式をもとに表してみたのが、「図4」です。
賢治的「心象」 「自我図式 E」は、異様に拡散し、通常よりもかなり右の方に位置しています。一方、「対象図式 F」は、異様に「われ」に接近し、通常よりもそうとう左に位置しています。結果として、E と F が接近してしまい、結局この両者を一括りにして主体 e が体験するのが、賢治的な意味における「心象」であると言えるのではないでしょうか。
 『賢治短歌へ』において佐藤通雅氏が用いた表現を使えば、「賢治という主体は後退し、対象との同化がはじまり、ついには両者の境界は視界から消え去ってしまう」=「自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう」=「<われ>そのものを他とおなじ位置に解消させる」・・・、このような事態は、「体験線」において模式的には、「E と F の接近」として表すことができるでしょう。
 もちろん、賢治の多くの作品においても、「自」と「他」がまったく同一化しているわけではなく、上の図のように E と F は一応の距離は保っています。しかし、たとえば短歌で言えば、

299 星群の微光に立ちて
    甲斐なさを
    なげくはわれとタンクのやぐら。

のように、「われ」と「タンクのやぐら」の感情が並列されたり、口語詩で言えば、

そら、ね、ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈のかたちのちいさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ

というふうに「わたしのかんがへ」が林に溶け込んだり(「林と思想」)、通常なら自分の内的現象と感じられる事柄と、外的な事柄が接近して、相互の境界があいまいになっているのです。
 さらに、

雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

という「種山ヶ原(下書稿(一)」に至っては、E と F はほとんど一体となって溶け合っているとも思えます。
 すなわち、E と F の相対的な位置は、賢治においてもさまざまに揺れ動いているようなのです。

 最幻聴のモデル後に、賢治の作品にしばしば現れる「幻聴」というものについても、このモデルをもとにして考えてみることができます。
 「図5」がそれですが、この図で自我図式 E のすぐ右にある  という記号は、主体の心の中における無意識的な考えや言葉を表しているとします。これは、図において青い実線により E と一緒に囲まれているごとく、本来ならば自我図式のもとにあるはずのものです。しかし、賢治的「心象」においては、対象図式 F がすぐ近くまで来ているために、青い点線のように、対象図式に組み込まれて知覚されてしまう可能性が出てきてしまうのです。
 そうなると、この「考え」や「言葉」は、自分の中からではなくて外部の対象から由来しているように感じられてしまうことになり、すなわち、「幻聴」として体験されるというわけです。