タグ「国柱会」が付けられている記事

「摂折御文 僧俗御判」の目的

1.「摂折御文 僧俗御判」とは何か

 『新校本宮澤賢治全集』第14巻の「雑纂」の項目に、「摂折御文 僧俗御判」と題された賢治作成の「抜き書き集」が収められています。その前半は、田中智学の著書『本化摂折論』の中で智学が経典や日蓮遺文を引用している部分を書き出したものであり、後半は、霊艮閣版『日蓮聖人御遺文』からの抜粋になっています。
 全集校異篇の《補説》によれば、この抜き書き集の目的は、「あくまで賢治自身の信仰のためのメモであり、〔中略〕教化的発想とは立脚点を全く異にする」ということで、つまり他人に見せるためではなく自分用に作成した覚え書きと考えられるものです。また、賢治がこれを作成したのは、使用されている用紙から、1920年(大正9年)夏頃と推定されるということです。

 何よりまず、この題名の読み方からして難しいですが、全集校異によれば、これは「ショウシャクゴモン・ソウゾクゴハン」と読むのだそうです。そして、前半の『本化摂折論』からの抜き書きが「摂折御文」に、後半の『日蓮聖人御遺文』からの抜き書きが「僧俗御判」に相当するというのが、新校本全集の解釈です。

賢治は日蓮主義者だったのか(2)

 先日は「賢治は日蓮主義者だったのか(1)」という記事において、賢治はいったい田中智学や日蓮主義の思想のどこに惹かれて、他ならぬ国柱会に入ったのだろうかという疑問について考えようとしました。いちおう考えてはみたのですが、田中智学の独特の主張に賢治が共感していたことを示す証拠はどうしても見つけられず、それは依然として謎のままでしたし、むしろ賢治は、智学の思想内容に感銘を受けて入会したというような、「内的」な動機によったのではなく、たまたま彼が求めていた時にそれが目の前に強力な「乗り物」のように現れたので、是非もなくそれに跳び乗ったというような、「外的」な要因によったのではないか、などと考えてもみました。
 しかしその後、前回の考察にはちょっと見落としがあったのではないかという気が何となくしてきて、今回もう一度取り上げてみようと思います。見落としというのは、次のような事柄です。

賢治は日蓮主義者だったのか(1)

 お正月に、大谷栄一著『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』を読みました。

日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈 日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈
大谷 栄一

講談社 (2019/8/22)

Amazonで詳しく見る

 600ページ以上もある大部な本ですが、明治時代の半ばから太平洋戦争突入に至る国家主義の勃興とその暴走のプロセスを、宗教思想の面から鮮やかに跡づける内容で、面白く一気に読み終えました。
 印象に残る記述もいろいろありましたが、内村鑑三と田中智学という同じ年の生まれの二人の宗教者を挙げて、「「ふたつのJ(JesusとJapan)」を愛した内村にならえば、智学は「ふたつのN(NichirenとNippon)」のために生きた」と評した言葉は、言い得て妙だと思いました。

ごまかしのない国体の意義

 「「短篇梗概」等」として分類されている賢治の作品に、「大礼服の例外的効果」というのがあります。盛岡高等農林学校を思わせる学校の、何かの式典のような舞台設定のもとに、「校長」と、旗手「富沢」との間の、微妙な心理の綾が描かれているものです。
 ここに登場する旗手「富沢」とは、現実に盛岡高等農林学校在籍中に旗手を務めた、「宮沢」賢治自身が一つのモデルになっているのでしょう。作品では、若々しい自由な精神と、古い「体制的」な精神との間の、危うい葛藤が描かれ、そしてそのような対立を超越したところに見え隠れする、普遍的な「美」というものが暗示されています。短い素描的な形式をとりながら、独特の魅力をたたえた作品です。

 その中に、下記のような一節があります。

校長はちょっとうなづいてだまって室の隅に書記が出して立てて置いた校旗を指した。
富沢はそれをとって手で房をさばいた。校長はまだぢっと富沢を見てゐた。富沢がいきなり眼をあげて校長を見た。校長はきまり悪さうにちょっとうつむいて眼をそらしながら自分の手袋をかけはじめた。その手はぶるぶるふるえた。校長さんが仰るやうでないもっとごまかしのない国体の意義を知りたいのです と前の徳育会でその富沢が云ったことをまた校長は思ひ出した。それも富沢が何かしっかりしたさういふことの研究でもしてゐてじぶんの考へに引き込むためにさう云ってゐるのか全く本音で云ってゐるのか、或は早くもあの恐ろしい海外の思想に染みてゐたのかどれかもわからなかった。卒業の証書も生活の保証も命さへも要らないと云ってゐるこの若者の何と美しくしかも扱ひにくいことよ 扉がまたことことと鳴った。

 「富沢」が放つ強い自意識は、現実には穏和な優等生であった賢治自身の態度よりも、退学になった保阪嘉内のそれを、連想させるものです。その一方で、嘉内の退学を知った賢治がとった行動には、この作品と通底するような、「学校の権威などものともしない」雰囲気もありました。下記は、妹シゲによる回想です(保阪庸夫「賢治と父」:川原仁左エ門編著『宮沢賢治とその周辺』所収)。

或る日突然帰宅した兄がただならぬ気色で学校を止めると言ひ張つて父をはじめ私達を驚かせました。お友達一人丈けを退学にさせておけないといふ事で今先生方全部の会合の中で何かを宣言して来た様子でした。その教授会?の席上で校長先生が「ほんとうの幸せとは何か、宮沢君からそれを聞こうじやないか」と言われたと云ふのが耳に残つて居ります。

 ここで、教員の会合に乗り込んだ賢治が、「ほんとうの幸せ」というようなことを持ち出して議論するのは、後年の作品にも続くいかにも「賢治らしい」思想として、至極納得のいくことです。しかし、「大礼服の例外的効果」における「富沢」が、「校長さんが仰るやうでないもっとごまかしのない国体」というものを問題にしているところは、賢治の作品としてはちょっと異色の光を放っています。
 「国体」などというものについて、生前の賢治が「さういふことの研究」をしていた形跡はありませんし、ましてや賢治の他の作品にも、登場することはありません。
 いったいなぜここで、「国体」が持ち出されたのでしょうか。その背景は、何だったのでしょうか。

 まず前述のように、賢治の親友である保阪嘉内が、1918年(大正7年)3月に退学処分を受けたこと、それに対して賢治が強く反発し、校長を含む教員と論争を行ったらしいことは、作品の背景として重要なことでしょう。
 そしてもう一つ、この前年に起こっていた「『国柱新聞』発禁事件」という出来事も、作品に登場する「国体」との関連において、注目すべきことではないかと、私は考えます。

 1917年(大正6年)7月、国柱会の機関誌『国柱新聞』182号は、「安寧秩序を乱す」との理由で、内務省から発売禁止の処分を受けました。
 処分の対象となったのは、この号に掲載されていた「公園伝道」という短篇小説で、主人公が上野公園を通りかかった時に聞いた演説の中で、弁士が述べた次のような一節が、問題とされました。

たゞ皇統連綿、万世一系といふ丈けで尊貴といふのならば、それは無内容の国体である。

上野公園における国柱会の街頭演説(大正10年) 弁士は、これに続いて「真理的に無限の価値を有して居ない国体論などは、理智の発達した現代人には何の尊敬が起らう。」と、「一知半解の愛国者の国体論」を否定した上で、「日蓮聖人の国体観はそんな無内容なものではない。仏教の根本教理を以て日本国体の内容を開顕された大宗教大哲学としての日本国体である。」として、国柱会の「日蓮主義」の観点からの国体観を述べます。
 全体を通して読むと、この弁士は毫も「国体」という観念を否定しているわけではなく、ただその日蓮主義的な意義を強調しようとしたのだと言えますが、「無内容の国体」などという言葉尻がとらえられて、「安寧秩序を乱す」と判断されたのでしょう。
 しかし実は、これに似た言葉はすでに1913年(大正2年)に、田中智学自身が述べていたのです(「国体の権化明治天皇」:『獅子王文庫』所収)。

 日本のえらいのは、皇統連綿万世一系と直に云ふが、皇統連綿万世一系はえらいものではない。皇統連綿万世一系であるから日本はえらいのではない。日本はえらいから皇統連綿万世一系なのである。

 上記の短篇小説中の弁士の言葉は、この田中智学の言葉を敷衍したにすぎなかったわけですが、以前には問題にされなかったことが、この時には内務省の検閲に引っかかってしまったのです。
 この発売禁止処分に対して、当然ながら国柱会は強く反論し、次の183号の「遺憾千万/国家の不幸!」と題した巻頭言では、「我党の言論が国体を危ふくし秩序を紊すものと解せられたるは実に破天荒の珍事」と訴え、184号の巻頭言「国体発揚の時来れり」においては田中智学が直々に、「事の真相を叙べ、これに対する予の所感を開陳して、一は内務省大臣以下当局の管理に質し、一は因て以て世人に吾が国体の何たるかを開示せんとす」と述べ、「日本国体の真意義」という論文を掲載しました。
 国柱会は、処分の撤回を求めて内務省と交渉を重ねたようですが、結局撤回はなされませんでした。「主義、目的はよくても、用語がいけない」との理由だったそうです。しかし、発売禁止になったのは182号一号だけで、183号からはまた通常どおり認可されています。(「『国柱新聞』発禁事件」の経過に関しては、多くを大谷栄一著『近代日本の日蓮主義運動』によった)

 というような一連の経過があったわけですが、賢治はこの時点ではまだ国柱会の会員ではなかったとは言え、ほかならぬ保阪嘉内の影響によって、田中智学や国柱会の活動については、すでに常々かなりの注目をしていたはずです。「『国柱新聞』発禁事件」の経緯についてもきっと知っていただろうと思いますし、そこで問題になっていたのが、「国体」の意義についてであったことも、理解していたでしょう。
 そこで、「大礼服の例外的効果」という短篇の梗概を書く際に、保阪嘉内退学への思いに加え、富沢に「校長さんが仰るやうでないもっとごまかしのない国体の意義を知りたいのです」という発言をさせたのではないかと、私は思うのです。嘉内退学と『国柱新聞』発禁とは、1年と間をおかない同時代の出来事だったのです。
 思えば、保阪嘉内の処分の直接的原因となったという、「おい今だ、今だ、帝室をくつがえすの時は」という言葉も、結局は日本の「国体」に関わるものでした。

 時代背景を見てみると、1917年(大正6年)から1918年(大正7年)という時期は、第一次大戦の好況に社会の一部は潤いながらも、米をはじめとした物価は高騰を続け、米騒動(1918年)、小作争議、労働争議など、社会全体が大きな動揺をしていた時でした。さらに1917年のロシア革命も、思想的に大きな衝撃をもって受けとめられていました。
 政府は、このような不穏な空気を抑えるためにイデオロギー的統制を強め、1917年(大正6年)9月には内閣直属の「臨時教育会議」が設置されて、そこでは「大戦による思想上の変動に対して国民道徳を徹底させ、国体観念を強固にするという国家主義的な方針」が審議されました。実際の教育現場では、「敬神崇祖、思想善導の諸政策」として、大正天皇の御真影の下賜、祝日大祭日行事、皇室の歓送迎行事、神社参拝などが実施されたということです(『近代日本の日蓮主義運動』より)。

 というわけで、『国柱新聞』のような、本来は国家主義的なメディアまでもが発売禁止処分を受けたのは、上記のような厳しい思想統制の流れのもとで起こった現象だったのです。
 そして現在から眺めれば、1918年の保阪嘉内の、単なる「若気の至り」と言うべき筆のすべりまでもが、理不尽に重大な「退学」という結果を招いたのも、このような時代のなせるわざだったのかと、思われるのです。

旧盛岡高等農林学校校長室と校旗
旧盛岡高等農林学校校長室と校旗

 前回の記事では、「公衆食堂」とはどういうものだったのかということについて、少し整理をしてみました。これを念頭に置きつつ、前々回の記事につづいて、「公衆食堂(須田町)」という作品の舞台について考えてみます。

    公衆食堂(須田町)

あわたゞしき薄明の流れを
泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら
食器の音と青きむさぼりはいともかなしく
その一枚の皿
硬き床にふれて散るとき
人々は声をあげて警しめ合へり

 わざわざ題名に(須田町)と書いてあるのですから、この食堂が、大正末期から東京各地に多数の支店を出して賑わった「須田町食堂」ではないかと推測するのも、一つの当然の考え方でしょう。
 しかし、私としては、これは「須田町食堂」ではなくて、上野(下谷坂本町)に当時あった「公衆食堂」における情景なのではないかと、思うのです。そう考える理由について、以下に書きます。


1.作品の書かれた時期

 この「公衆食堂(須田町)」という作品は、前回も述べたように、「「東京」ノート」の「一九二一年一月より八月に至るうち」という見出しの付いた部分に記されています。「一九二一年一月より八月」と言えば、ちょうど賢治が家出をして東京で国柱会の活動やガリ版切りの仕事をしながら、一方で初期の童話を書いていた時期にあたります。
 ノート上でこの作品の前後には、「雲ひくく桜は青き夢の列/汝は酔ひしれて泥洲にをどり」という、関豊太郎博士との花見(1921年4月頃)の情景を題材としたと思われる短歌や、「われはダルゲを名乗れるものは/つめたく最后のわかれをかはし・・・」という、保阪嘉内との別れ(1921年7月頃)に関連したと思われる断章など、いずれもこの家出上京中の出来事が反映したテキストが並んでいます。したがって、これらに挟まれて存在する「公衆食堂(須田町)」も、やはりこの頃の体験に由来していると考えるのが、まずは自然だと思います。
 ただ、「「東京」ノート」そのものは、1930年(昭和5年)頃に書かれたと推定されているものです(『【新】校本全集』第十三巻校異篇p.33)。それ以前の何らかの草稿をもとにして、東京における作品群をこの時期にまとめて記入したと思われますが、1921年から1930年までにかなりの時間経過はありますから、その間の上京、すなわち、1923年、1926年、1928年の賢治の東京における体験が、「「東京」ノート」のこの箇所に挿入されたという可能性も、完全には否定できません。
 しかし、文語体で短い断章を連ねていく作品スタイルは、やはり1921年頃に書かれたと推定される「冬のスケッチ」にも類似しており、1923年~1928年頃の賢治の詩作品とは、明らかに異なるものです。
 すなわち、やはり「公衆食堂(須田町)」は、1921年(大正10年)の上京中の体験にもとづいているのだろうと、私としては推測します。

 そこで、「須田町食堂」の方の歴史を振り返ると、実はこの大正10年には、まだ「須田町食堂」は開業していなかったのです。下の画像は、現代の「須田町食堂」のパンフレットから抜粋したものですが、ここに書いてあるように、最初にこの食堂が創業したのは、大正13年(1924年)のことでした。

須田町食堂パンフレット

 したがって、もしも「公衆食堂(須田町)」という作品が、1921年(大正10年)の上京中の体験にもとづいていたとすれば、その舞台は「須田町食堂」ではありえなかったことになります。
 一方、前回「大正期東京市の「公衆食堂」」という記事で見たように、1921年(大正10年)には、すでにいくつかの「公衆食堂」が東京市内に開設されて、かなり繁盛していました。まず、1920年(大正9年)4月に、公衆食堂第一号としてオープンした「神楽坂公衆食堂」と、さらに同年中にできた「上野公衆食堂」が存在し、「当時非常に好評を博し利用者は多」かったことが記録されています。これらに続いて、「大正10年度(1921年度)」の開設とされているのが、日本橋、神田橋、本所の各食堂ですが、これらのうちにも、賢治のいた8月までに営業を始めていたものがあった可能性もあります(『外食券食堂事業の調査』より)。
 すなわち、「公衆食堂」であれば、十分に作品の舞台となりうるのです。


2.食堂の雰囲気・等級

 さて、作品「公衆食堂(須田町)」における食事風景の描写からまず浮かび上がるのは、慌ただしく黙々と、「むさぼり」「飯を食む」ことにのみ集中している人々の姿です。そこには「都市の孤独」が感じられると前々回に述べましたが、それとともに、「われら」という一人称の視点や、「警め合」うという人間関係から、どこかにそこはかとない「仲間意識」のようなものも潜在しているように思える、とも書きました。
 このような、知らない客同士の「仲間意識」、あるいは食堂の「おばちゃん」や「おっちゃん」との間に醸し出される一種の「疑似家族意識」というものは、一昔前まで、いわゆる「大衆食堂」においては体験することのできるものでした。
 次の文は、遠藤哲夫ほか著『大衆食堂の研究』(三一書房)という本の中にあった、昭和30年代の「大衆食堂」に関する記述です。

 食堂の家族がいて、黒い学生服を着た男、汗をたっぷりかいた印半纏の男、油のにおいがする作業服の男、白い開襟シャツの会社員、東京育ちのやつも上京したてのやつも、いろいろな欲望をかかえて、みーんな一緒にめしをくった。

 この描写は、まさに賢治の「公衆食堂(須田町)」において、「飯を食むわれら」の面々と想定しても、ぴったりくるものです。「上京したてのやつ=賢治」の姿まで、入っているではありませんか。私が、「仲間意識」と呼んだものを、遠藤氏はもっと端的に、「食堂の家族」と名づけたわけです。
 そして、ここが大事なところなのですが、このような「連帯感」は、上品にとりすましたレストランなんかには決して生まれるものではなくて、貧しい中で必死に飯を食う「仲間」だからこそ、共有されるものだと思うのです。
 つまり、「公衆食堂(須田町)」の舞台となった食堂は、そのような「大衆食堂」的な場所だったはずです。

 さて一方、「須田町食堂」の方はどうだったのでしょうか。こちらも、決して高級な店ではなく、コストパフォーマンスの良さで当時の客を引きつけたのだそうですが、上に掲載したパンフレットの一節には、「華やかな大正文化を彩る文豪や文化人、さらには政治家、芸人、力士など各界の著名人にも愛され親しまれたと云います」と書かれています。もしもこれが事実なら、「大衆食堂」とは少しランクが違ってきてしまいます。
 ただ、上のパンフレットは店側が宣伝のために作ったものなので、多少は華やかな面を誇張して表現している可能性もないとは言えません。

『大東京うまいもの食べある記』(昭和8年) そこで、より同時代に近い客観的な資料として、昭和8年に刊行された、白木正光編『大東京うまいもの食べある記』(丸ノ内出版社)という本を見てみます。現代のグルメ本のはしりのようなものですが、これは、当時かなり評判を呼んでベストセラーになったものだそうです。
 この本の中に、「須田町食堂」の上野駅地下支店の説明と、レポート記事が掲載されている箇所があるのです。当時、すでに「須田町食堂」は東京市内に何軒もの支店をチェーン展開して急成長していましたが、この上野駅地下支店は、その中でも大規模な店舗だったようです。店の雰囲気も、支店の中ではかなり上等な方なのでしょう。

◇須田町食堂 ― 驛の地下室に明治製菓喫茶部と並んでありますが、場内も廣く、大衆向と云ひ條、装飾設備も立派なもので、驛食堂として実に模範的食堂です。
                  ―― ◇ ――
S 「これはまつたく立派だ、例の須田町食堂の先入観で尻込む人があるかも知れんが、こゝなら誰が來ても恥かしくないね」
N 「同感、この天井のあかり取りなど、まがひものだが、全部ステインド硝子ですよ、それに女給さんが松坂屋の食堂に輪をかけた丁寧さも特筆に値ひします」
H 「早速お茶の熱いのと取替へて呉れるなど訓練も満点」

 こゝの朝定食(二十銭)を試食すべく早朝に動員されて些か不機嫌だつた食べ歩き同人達も、第一印象の好感にすつかり氣をよくする。やがて誂えた定食が運ばれる。献立、揚げと葱の味噌汁。焼海苔。白菜。大根、馬鈴薯に小間切肉のごつた煮。それに香の物。御飯も一人一人櫃に這入つて茶碗が添へてある。

N 「註文してから恰度十一分かゝりましたが、定食としては少し時間を食ひ過ぎますね、氣ぜはしい驛食堂であり、それにお定まりの定食で見たところ特別時間のかゝる献立でもないのに、これはもつと短縮の工夫がほしい」
S 「献立は二十銭にしてはよいな、焼海苔にわさびを添えたのもなんでもないやうで氣がきいて居る、味噌汁も普通の甘辛味噌を使ってゐるが味は悪くない、但しごつた煮はから過ぎて一寸いたゞきかねる」
H 「牛鍋、よせ鍋共に(卅銭)ホウその上に湯豆腐(十銭)がありますよ、すべての卓に電熱装置があるし、全く豪勢なものですね」

 上の状況が、すべての「須田町食堂」に共通というわけではないのかもしれません。しかし、総体として私が感じるのは、これは現代に移し変えてみると、「大衆食堂」というよりも「ファミリーレストラン」に近い存在だったのではないか、ということです。上に紹介されている須田町食堂においては、価格が安いこともセールスポイントの一つではありますが、それに加えて、「小綺麗さ」や「サービスの良さ」なども大きな売りにしているところが、まさに「ファミレス的」です。チェーン展開していたところも、また似ています。

 で、「公衆食堂(須田町)」という作品に戻ると、この作品に見られるような「大衆食堂的猥雑さ」や「仲間意識」は、現代のファミリーレストランに行っても感じられないのと同様に、当時の「須田町食堂」にも、なかったのではないかと思うのです。


3.題名についてどう考えるか

 というわけで、「須田町食堂説」に否定的な見解を述べてきましたが、それでは、「公衆食堂(須田町)」という題名については、どう考えたらよいのでしょう。

 ここでまず確認しなければならないのは、当時、須田町に「公衆食堂」は存在しませんでしたから、題名における「公衆食堂」という部分と「須田町」という部分は、どうしても両立しないということです。論理的に考えると、(1)「公衆食堂」が正しくて「須田町」が誤りか、(2)「公衆食堂」が誤りで「須田町」が正しいか、(3)両方とも誤りであるか、3つのうちのいずれかであるということになります。
 最初の(1)が、私の考えに相当しますす。
 (2)については、その中の有力な可能性が「須田町食堂説」でしたが、それが考えにくいことは上に述べました。「須田町食堂以外の、須田町内の別の食堂」という可能性もありますが、これについては資料がありません。少なくとも、当時の須田町内に、ある程度有名な「大衆食堂的」な店があったという証拠は見つけられませんでした。
 (3)に至っては、ほとんど題名としては無意味だったということになってしまいますが、強いてこの線で「公衆食堂」ではない「大衆食堂的」店舗を挙げれば、大正6年に芝区新幸町に開業した「平民食堂」と、大正9年に神田にできた「昌平橋簡易食堂」があります(『大東京綜覧』、『外食券食堂事業の調査』)。後者は、須田町からも近いということで多少の関心は引かれるところです。また、賢治の下宿や勤め先の文信社から近いところとしては、当時やはり安い洋食屋として人気を博していた、「本郷バー」という店があります。大正5~6年頃に創業して、ライスカレーが5銭、カツが7~8銭という安値が評判を呼んで、勤人、学生、車夫、小僧さんなども多く利用していたということですから、賢治も東京滞在中に訪れた可能性は考えられます。しかしいずれにしても、「公衆食堂(須田町)」が、実は「昌平橋簡易食堂」あるいは「本郷バー」のことだったというのでは、あまりにも名前に関連がなさすぎます。

 結局、私としては(1)を採用して、賢治がある夕方に食事をしてこの作品の舞台となったのは、「須田町」ではないけれども、どこかの「公衆食堂」だったのではないかと考えます。
 「公衆食堂」という言葉の方を重視するのは、大正10年にはまだ各地の開設が始まって間もなかったものの、「当時非常に好評を博し利用者は多」かったという話題性、「公衆食堂」という新たなネーミングが与えたであろう印象などを考えると、実際に賢治が「公衆食堂」で食事をして、それを正しく題名に記録した可能性が高いと考えるからです。
 この場合、残念ながら(須田町)の方は誤りと考えざるをえません。なぜ(須田町)という言葉が書かれたのかはわかりませんが、たとえば、その後の賢治の上京(1926年、1928年)において、今度は賢治は「須田町食堂」の新たな繁盛ぶりについて耳にしていて、その記憶が、1930年(昭和5年)頃に「「東京」ノート」に作品を記入する際に、混入してしまったのかとも思ったりします。ことに、1926年12月の上京時には、須田町からも遠くない神田錦町の上州屋に1ヵ月近く滞在して、いろいろと活動を行っていますから、この間に実際に「須田町食堂」を訪れた可能性もないとは言えません。


4.では、どこの公衆食堂か

 最後に、賢治がこの作品の舞台としたのが、1921年(大正10年)当時あった「公衆食堂」のいずれかだったとすると、その中のどこだったのか、ということが残された問題です。
 時はまだ関東大震災前で、上にも述べたように、すでに「神楽坂」と「上野」には、前年から開業している公衆食堂があり、また大正10年度(1921年度)のうちには、「日本橋」、「神田橋」、「本所」の3ヵ所も営業を始めます。


A: 賢治の下宿; B: 文信社; C: 国柱会本部; D: 帝国図書館
1: 神楽坂公衆食堂; 2: 上野公衆食堂; 3: 日本橋公衆食堂; 4: 神田橋公衆食堂; 5: 本所公衆食堂

 上の地図で、緑色の(A)、(B)、(C)、(D)が、賢治が1921年の上京中に、最も足繁く動いたであろう活動拠点です。
 赤い(1)、(2)、(3)、(4)、(5)が公衆食堂の位置ですが、(1)の神楽坂と(2)の上野は、1920年のうちに開業していたのがわかっている店舗です。(3)、(4)、(5)は、1921年度中には開業しましたが、賢治が東京にいた8月までに、どれが確実に営業開始していたかということはわかりません。
 さて、この地図で見ると、公衆食堂のうちでは、(2)の「上野公衆食堂」が、何と言っても賢治の生活圏に最も近接して存在していたことがわかります。おそらく賢治の典型的生活としては、朝に下宿(A)を出て、午前中(4時間?)文信社(B)においてガリ版切りの仕事をし、そして昼から国柱会本部(C)へ行って、種々の奉仕活動をしていたと思われます。上野公衆食堂(2)があった下谷坂本町は、上野鶯谷にある国柱会で午後の活動を終えて、下宿へ帰る前に夕食をとるとすれば、格好の位置になります。
 (1)の「神楽坂公衆食堂」も、下宿から3km余りで、時々食事に行くのは十分可能です。また(4)の「神田橋公衆食堂」はやや遠くなりますが、問題の「須田町」には最も近い場所にあります。(3)の日本橋公衆食堂や(5)の本所公衆食堂は、平素の生活圏の中とは言えないでしょうが、日本橋には、東京滞在中なにかと世話になった、小林六太郎氏の家がありました。

 結局、賢治の日常の動線に最も沿っていて、作品のように夕方に訪れる可能性が高かったのは、(2)上野公衆食堂ということになり、この店舗が、「公衆食堂(須田町)」の作品舞台として、まず候補に挙げられるのではないかというのが、現時点での私の考えです。
 長々と書いてきた割には、もう一つぱっとしない結論ですが、作品が1921年の体験であること、場所が「公衆食堂」であること、という2つの仮定から出発すると、こういうことになりました。

 宮澤賢治と金田一京助は、生涯に一度だけ直接会っているようですが、賢治の方は、それについて何も書き残していません。
 金田一京助は、「啄木と賢治」という短いエッセイに、その時のことを簡単に記しています。

 ただ、その「啄木と賢治」という文章には、細かく見ると微妙に異なった二つのバージョンがあるようなのです。(1)『四次元』号外ー宮澤賢治思慕特集(1957)に掲載されたものと、(2)金田一京助随筆選集第二巻「思い出の人々」(1964)に収められているものです。

 まず、前者(1)では、賢治との出会いについて、次のように書かれています。

 賢治は、法華経の信者でその苦心の「国訳妙法蓮華経」の一本は私なども恵投に預かったが、それよりも、盛岡高等農林卒業後、上京して田中智学師の法華経行者の一団に投じ、ある日上野の山の花吹雪をよそに、清水堂下の大道で、大道説教をする一味に交り、その足で私の本郷森川の家を訪ねて見えた。中学では私の四番目の弟が同級で、今一人同じ花巻の名門の瀬川君と三人、腕を組んで撮った写真を見ていたから、顔は知っていたのだが、上野でよもやその中に居られようとは思いもかけず、訪ねてみえたのは、弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたかと思ったが、必ずしもそうではなかった。一、二語、私と啄木の話を交えたようだったが、外に大した用談もなし、また、私から、下宿はと聞かれて、しかとした答はなく、寝るくらいはどこにでも、といった風で、結局、田中智学先生を慕って上京し、あの大道説教団の中にいたということだったのには、私の顔が、定めしけげんな表情をしたことだったろうと恥ずかしい。

 次に、(2)において同じ部分は、次のようになっています。

 賢治の方は法華経の信者で苦心の「国訳妙法蓮華経」一部は私も送っていただきましたが、いつの年でしたか、ある時本郷森川町の私の寓へひょっこりたずねてみえたことがありました。中学時代、私の四番目の弟が同級で、いま一人同じ花巻の名門の瀬川さんと、三人で腕をくんでとった写真がありましたので、かなりお親しくしていたことが、わかっておりましたが、私の寓にみえましたのは、それで弟をたずねてみえたのでしたか、それとも、弟が亡くなっていて弔問の意味であったのでしょうか、それとも、直接に私自身をたずねられたのでありましたか、一、二語啄木のうわさなどした記憶がありますが、私は東大におりましたので、もしか東大入学というふうな心をもって訪問されたかと思ったら、そうでもなかったようです。また下宿でもたずねているのかと思ったらそうでもありませんで、結局、田中智学先生を慕って上京し、その大道説教団の中にいる、と話された時には、さだめし私の顔がけげんな表情をしたことだったでしょうと思います。その数日前に、私は上野の清水堂の下の大道に、田中さんの大道獅子吼の姿をみうけて返ったことだったのですから。

 賢治が東京で田中智学の説教団の中にいたというのですから、二人が出会ったのは、1921年に賢治が家出して上京していた時代のことですね。

 さて、「啄木と賢治」の二つのバージョンの相違点を整理してみると、次のようなことが気づかれます。
 まず一つは、(1)では、賢治が上野の大道説教団にいた「その足で」、金田一の家を訪ねて来たと書かれていますが、(2)では、金田一が上野で田中智学を見かけたのは賢治の訪問の「数日前」だったとされていることです。
 もう一つは、弟の他人に関する記述です。(1)では、「弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたかと思ったが、必ずしもそうではなかった」と記されていて弟の死には触れられず、(2)では、「弟をたずねてみえたのでしたか、それとも、弟が亡くなっていて弔問の意味であったのでしょうか」と、一応弟の死に言及されています。

 ここで重要なのは、金田一京助の弟で賢治の同級生だった金田一他人は、「他人篇」でも述べたとおり、すでに前年の1920年11月に、自殺して亡くなっていたということです。
 賢治が訪ねてきた時に金田一京助が、弟の死を失念していたということはありえませんから、(1)にある「弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたのかと思ったが」というのはおかしな話で、少なくともこれは、金田一が賢治来訪時に「思った」ことではありえません。これは金田一が、この「啄木と賢治」という文章を書く時点で、「あの時賢治が来た目的は何だったのか」と、記憶をたどり推測している中で「思った」ことでしょう。
 7年後に文章に手を入れた際には、さすがにこの時すでに弟が亡くなっていたことに気づいて、「弔問の意味であったのでしょうか」と付け加えていますが、やはりこれとて、1964年時点の金田一京助が、「推測」していることにすぎません。

 つまり、この二つのエッセイを書いた時点で金田一京助は、「賢治がなぜ自分を訪ねて来たのか」という来訪目的について、まったく憶えていなかったのです。
 (2)の方でも、「東大入学」が目的だったのか、「下宿探し」が目的だったのか、などとあれこれ書き連ねて迂遠な印象を与えますが、これも、訪れた賢治が意図不明のあいまいな態度に終始したということではなくて、金田一京助が執筆時点であれこれ記憶をまさぐっているためなのでしょう。
 しかしそれにしても、賢治の来訪目的は何だったのでしょう。


 ところで、この時の二人の出会いについては、もう一つ別の伝承もあります。森荘已池著『ふれあいの人々 宮澤賢治』に収められている、「金田一先生とバッタリ」という一節です。

 筆者(森荘已池)が昭和14年に上京したとき、東京で賢治の親友藤原嘉藤治氏に伴われて杉並の金田一京助氏邸でうかがった寸話である。
 金田一先生が上野の坂下を通りかかると、国柱会の旗を立てた大道説教に人が集まっていた。
 そこに金田一先生が通りかかると、教団の中からひょっこり出て来た宮沢賢治が、ていねいに金田一先生におじぎをした。
 金田一先生の弟さんと賢治は、盛岡中学校で同級生だったので、金田一先生は賢治を知っていた。
 突然の路上のこととて、先生は驚かれたが、ニコニコ笑っている賢治は、いつも屋外にいるらしく、たくましい顔いろだった。
 金田一先生は、賢治が「バレイショを食べ、水を飲んでいます」ということに、 「はァ、そうですか―」と答えて、破顔一笑した。(後略)

 これは、上の金田一京助自身の記述と比べると、「上野の大道説教団」など共通部分もあるのですが、その説教団から賢治が直接出てきて会ったことになっていて、賢治が金田一の自宅に訪ねたという話ではありません。
 これは、やはり金田一京助本人の書いた方が正しくて、森荘已池が金田一の話を聞いて勘違いしたのか、1970年にこの話を新聞連載に書くまでの間に、頭のなかで記憶が変化してしまったのか、いずれかでしょう。
 佐藤竜一著『宮沢賢治の東京』では、上記の森荘已池の記載を下敷きにして、こちらでは上野公園で出会った後、賢治がその足で金田一の家を訪ねたとしていますが、これも同様です。この出会い以前の段階では、東京の街中で偶然出会って相手の顔を同定できるほど、一方が他方の顔をよく知っていたとは思えません。


 文献的には以上のようになっているのですが、ここで私として考えてみたいのは、さっきも少し書いたように、この時賢治が金田一京助を訪問した目的は何だったのか、ということです。賢治にしてみれば、わざわざ金田一京助の住所を調べて訪ねているのですから、別に意図もなくぶらりとやって来たとは思えません。いったい何が目的だったのでしょうか。

 結論から言うと、私の考えでは、これはやはり賢治が同級生他人の死を悼んで、弔問のために訪れたのだと思うのです。
 賢治が上京したのは1921年1月下旬でしたが、花巻を出るまでに、すでに金田一他人の自殺については知っていただろうと思われます。地元の「岩手日報」には、賢治が家出をした「事件」さえも二度にもわたって掲載されるくらいですから、今をときめく金田一財閥につながる東大生が自殺をしたとなると、さぞ大きな記事が載ったことでしょう。それを、かつての同級生である賢治が目にしなかったとは考えられません。
 金田一京助は、賢治たちが盛岡中学校で同級生になった時点ですでに東大の学生でしたから、賢治は他人から、兄が東大に行っていることは聞かされていただろうと思われます。ひょっとしたら石川啄木と親交があることも、聞いたかもしれません。
 東京で本屋や図書館に行けば、『あいぬ物語』(1913)や『北蝦夷古謡遺篇』(1914)など金田一京助の編書や著書がすでに並んでいたはずですから、ひょっとすると東京に出てきてから賢治は、これらを手に取っていたかもしれません。
 いずれにしても、亡き同級生の兄であり郷土の先輩でもある「金田一京助」が同じ東京に住んでいると思うと、賢治は弔問に訪れたい気持ちを抑えられなかったのではないでしょうか。

 私が賢治の訪問を、弔問のためと考える理由は、ちょっと逆説的ですが、上の(1)にはそのようなことが全く触れられず、逆に「弟がその頃法科大学にいたから、それを訪ねて見えたか」などと、ピント外れのことが書かれているからです。(2)の方には、「弔問の意味であったのでしょうか」と少しだけ触れてはいますが、会見の中で当然話題となったであろうその弟の死のことについて、内容的には全く触れられていません。
 (1)の文章について、牛崎敏哉さんは「宮沢賢治における金田一京助」の中で、「書き方は不自然」「どこか不思議な文章」と書いておられますが、まさにその通りで、これは本当に不可解な文章です。

 私は、金田一の文章のこの部分が、これほど不自然になってしまっている理由は、数ヵ月前の弟の自殺が、それほどまでに彼に大きなショックを与えていたからだろうと思います。
 人間は、外傷的な体験=トラウマに遭遇すると、その後は当該の出来事や周辺の事柄についてなるべく考えずにいようとする心理的機制が働くので、関連事項の記憶があいまいになったり、何気ない記憶がすっぽりと抜け落ちていたりすることがあります。そのような人の「回想談」を聞くと、肝心のところがぼかされているようで、独特の迂遠さや不自然さを感じるものですが、まさに上記の(1)(2)の金田一京助の文章は、そのような論旨の典型です。
 すなわち、彼が賢治来訪の目的を失念してしまったのは、それが彼にとって最もつらい記憶=弟の自死に関わることだったからではないかと、私は考えるのです。

 この日、賢治は亡き同級生に対する哀悼の辞を述べたくて、兄京助の住居を訪ね、彼の東京での最期の日々について、話を聴いたのではないでしょうか。敬愛していた学年一番の秀才だったのに、前途も洋々たるものだったはずなのに、なぜ自ら死を選んだのか、友として尋ねてみたかったのも無理はないと思います。
 『身も魂も 金田一他人遺稿集』によれば、亡くなる数日前にも他人は兄を訪ね、人生についていろいろと質問しています。これに対して、ちょうど間もなくアイヌ語に関する特別講演を京大で行う予定を控えていた京助は、その準備に忙しく十分に答えられなかったので、弟に誤解を与えていたかもしれないと、述べています。そのような心残りと罪の意識をかかえた兄に対して、賢治はいったい何と言って慰めの言葉をかけて上げられたでしょう。
 もちろんこのような話以外にも、「啄木について一、二語」、また下宿についての話もかわされたかもしれません。しかし、会談の中心は、金田一京助によっては書きとめられなかった、上記のような対話だったのだと思うのです。

 当時の賢治と金田一京助は、実はごく近くに住んでいました。また賢治が勤めていた文信社と金田一の家の距離はわずか300mほどだったので、牛崎敏哉さんは「宮沢賢治における金田一京助」において、「それならなぜ賢治が京助を訪ねたのが一回だけなのかなど、様々に憶測が生まれる」と書いておられます。(下の地図で、A が賢治の下宿、B が文信社、C が金田一京助宅。)

 一回しか訪問しなかった理由として私が想像するのは、この時の二人の会見は、賢治にとっても金田一にとっても、とても悲しくつらいものだったので、あえて賢治も再訪を遠慮して、一回だけに終わってしまったのではないかということです。

 ただ、この年の6月に東京で「啄木会」が結成された時、賢治が「同志名」に名を連ねたのは、この会見の時に金田一京助から誘いがあったからかもしれません。この会の設立のために、金田一京助は大きな貢献をした人だったからです。
 もしもこの啄木会の会合があったとすれば、その時に賢治と金田一京助は、二回目の顔合わせをしていたでしょう。

 そしてさらにその後、これは牛崎敏哉さんが「宮沢賢治における金田一京助」において明らかにしてくれたことですが、1923年の8月、それぞれ鎮魂の旅をしていた二人は、ある所で不思議なニアミスをします。それは、牛崎さんが「時空間の運命的共時性」と表現された現象ですが、その詳しい内容については、岩手日報社刊『北の文学』第50号所収の同論文を、ぜひご一読下さい。

上野清水堂の桜
安藤広重「名所江戸百景」より「上野清水堂不忍之池」

国柱会・妙宗大霊廟

 午後から新幹線に乗って、東京に向かいました。たまたま、高校野球の「桐光学園」の選手たちと同じ車両に乗り合わせましたが、みんな車中ではおとなしくマンガを読んだり眠ったりしていて、新横浜駅で静かに降りていきました。あとで調べてみると、昨日の試合で「京都外大西」に敗れたのですね。「疲労」と「充実感」が混ざったような雰囲気でした。

 東京に着くともう日は傾きかけていましたが、賢治の歌碑の写真を撮りなおしたかったので、江戸川区一之江というところにある国柱会本部を目ざしました。ここは東京都の東南の端っこの方で、少し南に行くともう千葉県浦安のディズニーランドがあるような場所です。
妙宗大霊廟 いくつか電車を乗り換えて一之江にたどり着くと、現在は国柱会の中心施設となっている「妙宗大霊廟」を拝観させていただきました(右写真)。
 「【新】校本全集」の年譜にも記されていますが、賢治の妹トシの遺骨の一部は、ここに「合同安置」されています。しかしいかなる運命のいたずらか、賢治の遺骨は、ここには入っていません。

 賢治が熱烈に身を投じた国柱会は、田中智学が「純正日蓮主義」を掲げて創始した在家仏教集団で、田中のカリスマ性のもとには高山樗牛や石原完爾など多くの人々が集まり、一時は日本の国粋主義の思想的支柱となっていた観もありました。

 現在も、国柱会の目的は、「日蓮聖人の立正安国の精神を体して、この地上に絶対平和世界・仏国土真世界を実現」することとされています。もちろん理念としてはそうなのでしょうが、近年、実質的に行っている活動の中心は、この「妙宗大霊廟」という一種の共同墓申孝園入口地の管理供養と、横にある「申孝園ロータスヴィラ」という有料老人ホーム(左写真の赤レンガのビル)の運営という二本柱になっているようです。
 国柱会のホームページ自体のタイトルも、「一之江・妙宗大霊廟」となっていますし、今ではここに納骨してもらえる条件は、国柱会会員でなくてもよいどころか、「宗旨・宗派は問わない」ことになっています。「老人ホーム+お墓」というカップリングが「ビミョー」ですが、今ではここは、「誰でも入れるお墓」なんですね。
 その昔の国柱会が、ラディカルな思想性によって当時の若者を惹きつけたことを思えば、時代の流れを感じます。

 さて、この「妙宗大霊廟」のユニークさは、いったん納骨され「合同安置」されてしまうと、霊廟には生きた人間は立ち入れないことになっているので、遺族は個々に自分の身内の墓参をするのではなくて、すべての人々を合わせて祀る上写真の「塔」を拝むだけになるということです。田中智学が考え出したこの「一塔合安」という方法は、もちろん宗教的な意味づけもなされていますが、狭い日本における「墓地問題の完全な解決」ということを、その謳い文句にしていました。

 しかし私としては、「そこに祀られているすべての死者の魂が融け合う」というような場だからこそ、この霊廟に宮澤家の中ではトシの遺骨だけが寂しく納められているという現実が、よけいに痛切に感じられてしまいます。賢治の生前に、納骨に関する遺言は何もなかったとされているため、死後彼の遺骨は、まず宮澤家の菩提寺である安浄寺の墓に納められ、1951年父政次郎氏の日蓮宗改宗に伴って現在の身照寺に改葬されましたが、国柱会の方に祀られることはありませんでした。
 思えば1922年11月、浄土真宗の安浄寺で行われたトシの葬儀の日、ひとり賢治は分骨を強硬に主張し、自ら持参した小さな鑵に彼女の遺骨の一部を分け入れ、それを当時はまだ静岡県三保にあった国柱会妙宗大霊廟に安置する手筈をとったのでした。オホーツクの旅でも彼女にあれほど呼びかけていたのに、暗い廟でずっと彼を待ち続けているトシのところへなぜ行ってやろうとしなかったのか、これは私が以前から不思議に思っていた点です。

 その理由として一応考えられることは、(1)賢治は死期を前に国柱会から心が離れていたか何かの理由で、意図的に妙宗大霊廟への納骨を遺言しなかった、(2)遺言するつもりだったが、その時間がないうちに亡くなってしまった、(3)遺言したが、遺族がそれを望まずその事実も公にしなかった、というようなことです。
 (1)は、彼は死ぬまで国柱会の会員でしたし、たとえ一時の信仰が冷めていたとしても、先に納骨したトシのことを思えば、意図的に避けたということはないでしょう。(3)に関しては、「年譜」を参照すると、トシの遺骨を静岡三保の妙宗大霊廟に実際に届けたのは、父政次郎と妹シゲだったという説も有力で、伝えられる父の姿勢からしても考えにくいことです。
 そうすると、(2)が真相ということになるのでしょうか。

 「年譜」で賢治の臨終の1933年9月21日の項を見ると、もはや死期の近いことを悟った父に「なにか言っておくことはないか」と聞かれ、賢治は次のように答えています。「国訳の妙法蓮華経を1000部つくってください」、そして「『私の一生の仕事は、このお経をあなたのお手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れて無上道にはいられることをお願いするほか、何もありません』と書いておいてください」。
 そして父が、「たしかに承知した。おまえもなかなかえらい」と応じ、「そのほかにないか」と尋ねると、「いずれあとで起きて書きます」と言っています。
 しかし、このあと母を残して家族が階下に降りると、賢治はオキシフルの消毒綿で身体を拭き、眠りに入るように息絶えてしまいました。

 この時、もし賢治が起きて文字を書くことができておれば、遺言によって東京一之江の妙宗大霊廟にも、賢治の遺骨が納められることになったのではないか、そう私は思ったりします。
 そうなっておれば、オホーツクでも交信のかなわなかった兄妹は、ここで11年ぶりにめぐり逢えたわけですね。

品川のホテルから望むレインボーブリッジ