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今朝の東京

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レインボーブリッジ方向

 出張で東京に行っていました。上は、今朝の4時30分頃の品川から東京湾方面です。
 ついでに国会図書館にも少しだけ寄って、「賢治が愛したバラ」についても調べてみました。しかしよくわかりませんねぇ・・・。謎は深まるばかり、ですがこれはまたもう少し目鼻がついてからご報告いたします。

 明日と明後日はまだ京都で仕事なのですが、12日(土)の夜にはうまくいけば旅先から更新できるかも・・・。

西ヶ原など

富士山 今日は昨日とはうってかわってよい天気で、ホテルの窓からは富士山も見えました。ふだんあまり東京に来ない私にとっては、都内から見る富士山など初めての経験で、ちょっと感激です。

 都内は、どこも桜が満開、というかもうかなり散り始めていました。永田町で地下鉄を降りると、このあたりの地面にも桜の花びらがいっぱいです。

 今回、国会図書館でコピーしたのは、あの『漢和対照 妙法蓮華経』(「赤い経巻」)の島地大等による解説部分、エルンスト・ヘッケル『生命之不可思議』の一部分、『北上市史』の飯豊森に関する部分などです。
 あと、昭和9年に「旅館新聞社」というところから国会図書館前の桜出版された『全国旅館名簿』というものも閲覧を申し込んだのですが、現在製本準備中とのことでコピーはさせてもらえず、別室で係員の監視の下でおそるおそる見せてもらいました。

 賢治が宿泊した旅館については、東京に関してはほとんど調べつくされた感がありますが、他の地域の宿に関しても、もう少し知りたかったのです。結局、大したことはわかりませんでしたが、そのなかで1921年に父親と京都へ来た際に泊まったのは、『【新】校本全集』の年譜では「三条小橋の旅館布袋屋」と記されていますが、この『全国旅館名簿』では「三條小橋東詰」に「布袋館」が載っており、はたしてどちらが正式の名称だったのだろうかと思いました。
 賢治の京都における宿については、盛岡高等農林時代の修学旅行で泊まったとされる「西富家」ともども、またいずれレポートをしたいと思っています。

 午後2時ごろに図書館を出ると、地下鉄に乗って北区の西ヶ原に向かうことにしました。ここは、賢治の時代には国立の農事試験場があったところで、彼は盛岡高等農林学校時代の修学旅行の際にこの試験場を見学し、1921年の家出出京中にも、恩師関豊太郎博士に会いにここを訪れたようです。後に関豊太郎氏は、下記のように書き残しています。

 大正九年の秋、私は盛岡を辞して東京に帰つて、農林省農事試験場で引続き仕事をし、傍ら東京農業大学で教鞭を執つてゐる。大正十一年のことだと思ふが、宮沢氏は木綿袴をつけ朴木歯の下駄をはき、突然と試験場へ来訪されたので、四方山話で退庁時間となつたから、自宅へ伴ひ話の続きを進行させた。(関豊太郎「宮沢賢治氏に対する追憶」より)

 上記で、賢治が訪ねてきたのを「大正十一年のことだと思ふ」と関博士が記しているのは、上にも書いたように現在は大正十年の家出中のことと解釈されています。

農事試験場記念碑 西ヶ原にあった農事試験場は、現在は移転してしまって跡地は「滝野川公園」などになっていますが、公園の一角には、「農業技術研究発祥の地」と刻まれた右のような立派な石碑が建てられていました。ここは、賢治自身が科学者として専攻した分野の、当時の全国一のメッカだったわけですね。
 この左横にある副碑には、「明治26年にこの地に農事試験場が創設されて日本における農業研究が始まってから、昭和55年の筑波研究学園都市への移転まで87年間、「西ヶ原」は常に近代農学を先導し 我が国における農業関係試験研究機関の母体として 多くの輝かしい業績により農業の発展に寄与してきた」と刻まれていました。

北区立飛鳥中学校 賢治が関博士を職場に訪ねた後に、お邪魔したという博士の自宅は、奥田弘さんの調査によって、現在は区立飛鳥中学校のある場所にあったということがわかっています。試験場跡から歩いて10分ほどのところにさしかかると、ふいに住宅地の只中から吹奏楽の練習の音が聞こえてきて、この中学校が現れました。

 さて、桜の季節とあって、この後はこの近くで隅田川の川べりに出てみようと思いました。
 賢治に「隅田川」という文語詩がありますが、これは、1921年の上記のような師弟の出会いの折に、どこかで「花見」をした際の情景だろうと推測されています。この辺のことは、当サイトの「滝廉太郎「隅田川」」というページにも書きましたが、私としては、関博士と賢治が隅田川に行くとすれば、この西ヶ原のすぐ近くの川べりだったのではないかと、なんとなく思っていたのです(最下段の地図参照)。

 ところが、実際に行ってみると、このあたりはお花見をするような雰囲気ではなく、また「泥洲」というものがある様子でもなかったのです。
 下写真は、西ヶ原の対岸の方から(下の地図では「隅田川」の「隅」の字の上あたりから)、東の方を見たところです。白い大きな建物は、日本製紙や読売新聞の工場ですね。

隅田川1

 また、下の写真は、同じ場所から西南の方を見たところです。

隅田川2

 宮沢俊司氏は、『宮沢賢治文語詩の森 第二集』に収められた評釈の中で、作品「隅田川」の舞台を、この近くの「荒川放水路」(当時)の方ではないかと推測しておられますが、そもそもこの問題の難しさは、同じ川の流れのうちで「隅田川」と呼ばれる範囲が当時と今とでは大幅に違ってしまっていること、「泥洲」や「芦生へ」がどこにあったかということについても、おそらく状況は全く変わっていること、などを考慮に入れなければならないところにあります。
 私のような他所者には、とても手に負えそうにありませんが、最後に花の季節にちなんで、替え歌「隅田川」をどうぞ。

「隅田川(滝廉太郎曲)」(MP3: 1.44MB)

西ヶ原と隅田川

国会図書館「三度目の正直」

 ホテルで朝食を済ませると、国会図書館に向かいました。これで今年は3回目となります。
 今日調べたかったのは、「オホーツク挽歌」行の帰路における1923年8月7日の大泊→稚内の連絡船が欠航した可能性を指摘する説に関する最終確認、それから1926年以前に賢治が帝国図書館で閲覧できたはずの、生理学関係の専門書に関することです。

 8月7日の稚泊連絡船に関しては、やはり萩原昌好さんの著書における指摘のとおり、この日の船に確かに貴族院議員の視察団が乗船して大泊から稚内に渡ったことが、8月9日~10日の「樺太日日新聞」の複数の記事から確認できました。したがってこの便が「欠航していた」ということはありえません。
 そうすると、「一九二三、八、七、」の日付を持つ「鈴谷平原」に、「こんやはもう標本をいつぱいもつて/わたくしは宗谷海峡をわたる」との記述があることから、賢治がこの船に乗船していた可能性はかなり高いことになります。この船上の出来事と推測される「宗谷〔二〕」に登場する立派な「紳士」が、貴族院議員だったのではないかという思いつきを含め、この辺のことについてはしばらく前にも書きました。
 また、8月8日に賢治が稚内に着いていたとなれば、9日と10日に札幌ですごす時間を持つことも可能になり、「札幌市」に記された思い出の有力候補として、あらためて浮上します。

加藤元一『生理学』 一方、「1926年以前の生理学書」という件に関しては、実はそもそも私はこれが調べたくて、今年の春から国会図書館に足を運びつづけていたのでした。このたび「三度目の正直」で、やっと目的としていた成果を上げることができました。すなわち、1923年に刊行された加藤元一著『生理学』上巻(右写真)p.384に、「正常なる神経繊維は悉無律に従ふ」との記載を確認できたのです。
 と言っても、これだけではどういう意味があるのか不明でしょうが、私としては賢治がこのような知識を持っていたことが、「詩ノート」の「〔黒と白との細胞のあらゆる順列をつくり〕」という作品の土台にあったのではないかと、かねてから思っていたのでした。
 このことについては、いずれきちんとまとめてみたいと思います。

 『生理学』のマイクロフィッシュのコピーを受けとると、午後3時に予定より早く国会図書館を後にしました。
 表に出ると、しばしの間その住人を失っている国会議事堂が、陽射しに照らされてそびえていました。私はこの5~6月頃には、当時上程されていたある法案に関して、柄にもなく議員会館に日参するようなことをしていたのですが(おかげでついでに図書館ものぞけたのですが)、解散で廃案になってしまうと、あっけないものでした。

国会図書館から望む議事堂

「文信社」発行の講義録

 1921年1月23日に突然家出をして東京で生活を始めた賢治にとって、どうやって収入を得ていくかということが、 まず問題となりました。1月27日に、なんとかバイト先を見つけると、故郷の親戚関徳弥にあてて、次のように報じています(書簡185)。

三日目朝大学前で小さな出版所に入りました。謄写版で大学のノートを出すのです。朝八時から五時半迄座りっ切りの労働です。 周囲は着物までのんでしまってどてら一つで主人の食客になってゐる人やら沢山の苦学生、辯(ベンゴシの事なさうです) にならうとする男やら大抵は立派な過激派ばかり 主人一人が利害打算の帝国主義者です・・・。

 この「小さな出版所」というのが、本郷にあった「文信社」という店でした。「銀河鉄道の夜」の「二、活版所」の場面を、 ちょっと彷彿させるところもあります。
 当時、 東京帝大経済学部に入学していた学生で、後に釜石市長になる鈴木東民という人が、たまたま当時の文信社で賢治と出会い、 次のように書き残しています(「筆耕のころの賢治」) 。

 宮沢賢治と識ったのは、1920年の初冬のころであった(注:実際は1921年)。そのころ東大の赤門前に、「文信社」 という謄写屋があった。そこの仕事場でわたしたちは識り合ったのである。「文信社」は大学の講義を謄写して学生に売っていた。 アルバイト学生だったわたしはそこへノオトを貸して一冊につき月八円、ガリ版で切った謄写の原紙の校正をして、 四ペエジにつき八銭の報酬をうけていた。賢治の仕事はガリ版で謄写の原紙文信社『生理学總論』を切ることであった。かれはきれいな字を書いたから、 報酬は上の部であったろうと思うが、 それでも一ペエジ二〇銭ぐらいのものだったろう。この仕事を専門にしている人でも、 一日に一〇ペエジ切るのは容易でないといわれていた。(中略)
 休憩時間にここの主人の居間兼事務所の八畳でお茶を飲んでいたときに、 何かの話からかれが花巻の生れで土地で知られた旧家の宮沢家の息子さんであることをわたしは知った。 そんなことから私たちは急に親しくなったのであった。(中略)
 そのころのかれは袴を必ずつけていたが、帽子はかぶらなかった。今でこそ無帽はあたりまえのことになったが、当時、 袴をつけて無帽というのは異様に感じられたものだ。その袴の紐にいつも小さい風呂敷包がぶらさがっていた。最初、 わたしはそれを弁当かと思っていたが、童話の原稿だということだった。もしもこれが出版されたら、 いまの日本の文壇を驚倒させるに十分なのだが、残念なことに自分の原稿を引きうけてくれる出版業者がいない。 しかし自分は決して失望はしない。必ずその時が来るのを信じているなどと微笑を浮かべながら語っていた。・・・

 当時の賢治が切ったガリ版印刷が残っていたらおもしろいのですが、現在国会図書館に収められている文信社発行の書籍で、 1921年に出版されたものを調べてみると、残念ながら活版印刷のものしかありませんでした。

 そこでそのかわりに、賢治が関わっていた仕事がどんなものだったのかという雰囲気だけでもつかみたいと思い、 国会図書館でコピーしてみたのが、右写真の『生理学總論 下巻』です。賢治上京の前年、1920年の文信社発行です。

 これは、当時の東京帝大医学部の生理学教授・永井潜博士による講義ノートのようで、学生の講義録をもとに、さらに8冊もの英・ 独の関連文献を参考にしつつ編集したと謳っています。ただし、この「関連文献参照」は、文信社が行ったものではなく、講義ノートを提供した学生が自分で勉強して付けていたものを、一緒に文信社が引き継いだものだろうと私は思います。
 ちなみに永井潜博士(1876-1957)は、 1903年から1906年まで英独仏留学、1915年から東京帝大医学部教授(生理学)、1923年から台北帝国大学医学部長、 という経歴の人でした。

 実際に上の講義録の内容を見てみると、たとえば3頁4行目からの本文の一節は、「元来 Naturwissenschaft ナルモノハ unorganische Welt ニ於テ得タルモノナレバ之レヲ organische Welt タル Physiologie ニ anwerden シテ正シキ説明ヲ得ルヤ否ヤハ Frage ナリ・・・」などという調子で、日本語とドイツ語がちゃんぽんです。洋行帰りの先生で、 こういう講義をする人は、たしかに20年くらい前にはありました。
 それにしても、文信社の講義録はあくまで整然と文章が連なり、挿入される欧字も、きれいな筆記体で書かれています。さすが、 昔の大学生は勉強家だったようですね。

 賢治自身の思いはともかく、彼のように英語およびドイツ語の語学力が十分にあった人材は、 このような特殊な原稿のガリ版切りとしては、きっと重宝されたのだろうな、と思います。

また国会図書館

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 たまたま近くで用事があったので、あいまにまた国会図書館に寄ってみました。
 賢治が家出した1921年に、文信社から刊行された書籍で国会図書館に所蔵されている本を検索すると、「模範行政法総論便覧」 「模範行政法各論便覧」という二冊があって、ひょっとしてここに賢治のガリ版の筆跡が残っていないかと思って調べてみたのですが、 文信社の書籍にしては珍しくこれは活版印刷でした。

 では、賢治が文信社で行っていた「筆耕」とはどんなものだったのか、その一つの例を明日アップしてみたいと思います。

東京(2)

 朝食をすませると、9時すぎにホテルを出て、山手線・地下鉄有楽町線で国会図書館に向かい、 手続きをすませて館の中に入ったのは10時前でした。

国会図書館 賢治が上京するたびに通っていた上野の「帝国図書館(現・国際子ども図書館)」 に収められていた厖大な蔵書は、 1961年にはほぼすべてが国会図書館に移管されました。ですから、現在もここには、 その昔に賢治が手にとって読んだかもしれない本が、ちゃんと保存されているわけです。

 今日おもに調べたかったのは、「詩ノート」に属する「〔黒と白との細胞のあらゆる順列をつくり〕」 という作品の背景となっている知識を、賢治はどんな本から得たのだろうか、ということでした。
 賢治の蔵書の中にあったという『生理学粋』(1927年版)や、『解剖学名彙』(1917年版)というような本をコピーしたり、 作品が最初に書かれた1927年までに出版された生理学や心理学の専門書を、順に読んでみたりしました。
 実際に閲覧を申し込んでみてわかったのですが、これくらい古い本は、実はすべて縮小撮影され「マイクロフィッシュ」 という状態で保存されており、一般の閲覧者はそれを専用の器械で拡大して見るということしかできないのです。したがって、 賢治が読んだかもしれない本たちに、直に触れることはできなかったのは、ちょっと残念でした。

 当初の調査目的の方は、さほど顕著な成果もなかったのものの、偶然に「東京文信社」 から1920年に発行されたガリ版刷りの東大の講義録を見つけたり、William James の名前の当時の読み方について少し気がつくことがあったり、それなりには興味を持って作業をしていました。
 文信社の講義録は、家出した賢治がアルバイトをしていた前年のものでしたが、日本語の文章の中に、 専門用語は筆記体の英語やドイツ語がびっしり混ざっているような文体です。賢治のように英語やドイツ語に十分習熟した人材は、 たしかにこんな原稿のガリ版切りとしては、重宝されただろうと感じました。
 途中で図書館内の喫茶室でカレーを食べ、また解読を続けていましたが、まるで「虫めがね君」みたいに長時間マイクロフィルムを見ていると、 さすがに眼も疲れてきました。
 5時半頃、何点かのコピーを後日郵送してもらうよう依頼して、荷物をまとめて国会図書館を後にしました。

 また永田町駅から有楽町線に乗り、池袋へ向かいました。すでに駅周辺では、お勤めの人の帰宅ラッシュが始まっています。
 池袋駅から東京芸術劇場まで少し歩くと、「こんにゃく座」に電話して予約してあったチケットを受付で受けとり、6時半には開場です。 こぢんまりとしたホールで、いちばん後ろの席でしたが、何人か横の方には林光さんや萩京子さんがすわっておられました。

 午後7時から、第一部の「耕耘部の時計」が20分ほど、10分休憩して、7時半から、「鹿踊りのはじまり」 が50分というプログラムです。
 「耕耘部の時計」では、奥の幕に大きな時計の文字盤を映写し、その前で歌と演技が繰り広げられていきました。農場で働く農夫たちが、 新入りを受け容れていく過程の素朴な暖かさが、ユーモアと諧謔をもって描かれます。 賢治の原作から感じられる微妙な疎外感のようなものはなく、終始おもしろく演じられるドラマでした。

「鹿踊りのはじまり」チラシ 休憩後の「鹿踊りのはじまり」のステージは、 舞台後ろに天井からカーテンのように一面垂らされた多数の紐のようなものが、太陽の光に揺れるすすきに見立てられ、 舞台の空間には何か薄い煙のようなものも漂い、チンダル現象によって照明のライトが何本か交錯する光線に見えていました。
 そこに、「そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあひだから、夕陽は赤くなゝめに苔の野原に注ぎ・・・」という、 私が高校生の頃にいちばん好きだった書き出しのフレーズが、とつぜん合唱によって歌いだされたものですから、 もう冒頭からじーんときてしまいました。
 細かい描写は省きますが、もちろんクライマックスは、6匹の鹿により相次いで歌われる方言短歌の部分です。
 林光さんの音楽は、ヴァイオリン、クラリネット、アコーディオン、パーカッションというたった4人の編成で、つねに躍動的で、 時に抑えられた情感が顔をのぞかせ、不思議な響きで歌や踊りを包みました。歌い手たちは、みんな身体の活き活きとした律動性が印象的でした。

 余韻にひたりながら劇場を出ると、池袋駅南側のガードをくぐり、数人ほどの行列ができていた「無敵家」というラーメン屋さんの前に並んで、 豚骨ラーメンを食べました。博多とは違った太めの麺で、背脂もけっこう載っていますが、一日の疲れを癒やしてくれるようでした。
 このあと、山手線に乗ってホテルに帰りました。

 明日は、朝6時すぎの新幹線に乗り、そのまま京都で仕事に出勤することになります。