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賢治の貴種流離譚

 折口信夫は、日本の神話や民話、物語などの構造を特徴づける一つの原型として、「貴種流離譚」という形を取り出してみせました。
 これはもともとは、天上界で罪を犯した幼い神が、天を離れて人間界に流れ込み、辛苦を味わった後に人間としての死に至り、再び神界に転生するという神話の形式です。「竹取物語」において、かぐや姫が天上で罪を作ったために地上の竹の中に生まれ落ち、この世でさまざまな経緯があった後、また月の世界に帰ってしまうという筋書きはその典型ですし、折口はまた「源氏物語」の「須磨」「明石」の巻で、禁断の恋を犯した光源氏が、都を離れて辺境で流謫の身となり、「澪標」の巻でまた都に返り咲くというストーリーも、その例として挙げています。
 貴種流離譚という説話構造のパターンは、「山椒大夫」「愛護若」「小栗判官」など中世に起こった説経節においても、広く用いられるものになっていきますし、さらに折口は「義経記」で、源義経という若きヒーローが兄頼朝によって都を放逐され、弁慶とともに諸国を放浪するという話が、広く民衆に愛好されていく背景にも、貴種の流離という「型」を見てとります。

 折口が取り出した貴種流離譚の典型においては、主人公は「おさがみ」という言葉のように、年は若く何らかの高貴な性質を帯びており、それがある種の罪や不遇のために理不尽な環境に追いやられますが、そこで出会った「はぐくびと」によって守られ、世話をされます。主人公はそこで、無力な存在として苦労を重ねた後に、死を迎えて転生するか、あるいはただちに神として昇天する、という結末に至ります(折口信夫「小説戯曲における物語要素」,『日本文学の発生 序説』所収)。

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 さて、このような枠組みをもとにして考えてみると、例えば賢治の童話「雁の童子」は、典型的な「貴種流離譚」の形をとっていることがわかります。
 物語の初めの方で、撃ち落とされた雁から人間の姿になった老人は、死ぬ間際に次のように言います。

 (私共は天の眷属でございます。罪があってたゞいままで雁の形を受けて居りました。只今報ひを果しました。私共は天に帰ります。ただ私の一人の孫はまだ帰れません。これはあなたとは縁のあるものでございます。どうぞあなたの子にしてお育てを願ひます。おねがひでございます。)

 このようにして、老人から依頼を受けた須利耶圭は「雁の童子」を育て、時々まるで大人のようなことを言う童子の様子に驚き、一種の畏敬の念も抱いていきます。
 そして、都の郊外の廃寺跡から天童子の壁画が掘り出された年の春、雁の童子に「お迎ひ」が来て、この世での生を終わるのです。

 つまりこの童話は、幼い高貴な童子とその罪による降下、「育み人」の登場、この世での生涯と天への帰還という型に則っており、まさに「貴種流離譚」のお手本のような構造を備えているわけです。
 そこで、気をつけて賢治の他の作品を見てみると、例えば「双子の星」において、チュンセとポウセは彗星に騙され(しかし王様の許可なくお宮を離れたということにおいては罪を犯し)、海の底に落とされて、ひとでになってしまいます。そこで二人は、他のひとでたちに馬鹿にされたり、鯨に呑まれそうになったりというような目に遭うのですが、最後には海蛇の王様に助けられ、竜巻に乗って天上への帰還を果たします。
 これも、「貴種流離譚」の典型と言えるでしょう。

 また「サガレンと八月」は、途中までしか書かれていない未完の断片ですが、主人公タネリは、くらげを透かして見てはいけないという母親の禁制を破ったために、犬神によって海底に拉致され、そこで苦難が始まるというところで中断しています。普通の男の子と思われるタネリは「貴種」とは言えませんが、連れ去られていく途中で、「ああおいらはもういるかの子なんぞの機嫌を考えなければならないようになったのか」と思って涙し、小さな蟹の姿にされてしまうところなどは、明らかに彼の運命が「没落」であり「流離」であることを示しています。罰によって垂直に下降するこのような動きは、貴種流離譚に特徴的と感じられます。
 そしてもしも、賢治がこの作品を中断せずに終わりまで書いていたら、最後にはタネリは何らかの形で地上に帰還できたのではないかと私は想像しているものですから(「「サガレンと八月」の続き」参照)、そうなればこの物語は、めでたく貴種流離譚として完成するのです。

 さらに、このように貴種流離譚として不完全な形のものも含めて考えていくならば、私としては「貝の火」も気になってきます。
 主人公のホモイは、もとは無邪気な兎の子供でしたが、身を挺してひばりの子供を助けたために、鳥の王から宝珠を贈られ、いったんはすべての動物たちから尊敬される存在になります。しかし、徐々に慢心したホモイは、他の動物をいじめたり、しまいには狐に騙されて鳥を捕まえる片棒をかつぐという愚行に走ったために、宝珠は砕け、さらに失明するという罰も受けてしまいます。
 お話としてはここで終わるのですが、ここまでの筋書きを通覧すると、ホモイという元来は無垢で献身的な子供が、その尊い行いにより敬われる身分になったものの、まもなく「罪」を犯してしまったためにその地位を剥奪され、さらに「光のない世界」に追放されるという形になっており、これはまさに「貴種」の「流離」という構造にほかなりません。完成された「貴種流離譚」となるためには、この後の主人公の遍歴や帰還が必要となりますが、「貝の火」という物語は、その前半部の断片と考えてみることも可能なのです。

 ところで「貝の火」を読む多くの人は、ホモイが受ける罰の苛酷さに恐れおののくとともに、一種の理不尽さも感じるのではないでしょうか。確かにホモイがやったのは愚かで悪いことであり、彼が宝珠を持つ資格はないとしてそれを失うのは当然の報いだとしても、しかしまだいたいけない子供の両目までつぶさなければならない道理が、はたしてあるのでしょうか。
 この問題については、これまで様々な解釈がなされてきたと思いますが、ここで私が思うのは、もしもこの「貝の火」という童話が、全体としては貴種流離譚を成す「大きな物語」の、始まりの部分であると考えれば、この理不尽さも納得できるのではないか、ということです。
 「サガレンと八月」でも、タネリが禁忌を破ったために哀れな蟹に変えられて、チョウザメの下男になるという現存部分だけ終わっては、あまりに理不尽で救いのないお話ですが、私たちはこれが未完のものだと知っており、まだこの後には何か続きがあると思うので、特に違和感を覚えないのです。
 また「雁の童子」でも、前々世の童子が敵の王に殺され、その際に出家の身でありながら恋をしたたという「罪」のために次世では雁として生まれ、そして空を飛んでいたら自分以外の眷属全員が人間によって突然撃ち殺され、天涯孤独になってしまったというところで終わっていたならば、これほど理不尽な話はありません。しかし実際には、その後の須利耶圭との出会いと、短いけれども意味の深い日々の暮らしがあり、「おぢいさんがお迎ひをよこしたのです」に続く童子の最期の言葉があったおかげで、これは宝石のように美しく完成した作品となっているのです。

 すなわち、「貝の火」においても、お話が終わった後のホモイは、ハンディキャップを背負ってきっと様々な困難に立ち向かわざるをえないでしょうが、しかし彼が毅然と生きて命を全うし、そしてその死の間際には、あの幼い日の罪について、雁の老人のように「只今報ひを果しました」と言うことができたならば、そこで大きな円環が閉じたと感じられるでしょう。
 つまり私が思うのは、「貝の火」という作品は、読む者がその後のホモイの生の厳しさと、しかしなおそれを引き受けて生きていく彼の勇気とを想像することによって、はじめて理不尽ではない均衡を保つことができるのではないか、ということです。

 ということで、以上のように賢治の作品の中には、「貴種流離譚」という視点でとらえられるものがいくつかあると思うのですが、しかしはたして賢治自身は、そういう「型」というものを意識して、創作をしていたのでしょうか。
 折口信夫が、「貴種流離譚」という概念を提唱しはじめたのは大正時代の中頃で、1918年に発表した「愛護若」という論文において、この説経節を天皇や親王の流離譚と比較検討したあたりが、最初期の論及かと思われます。これは、賢治が童話の創作を始めるよりも早い時期ですから、理屈としては、賢治がこのような「型」を知った上で童話を構想したということも、考えられなくはありません。
 しかし、当時の賢治の関心領域に「折口信夫」という名前など全くなかったように思いますし、所蔵していた本や彼の残したメモ類にも、こうした分野と関連するものは見当たりません。すなわち、賢治が「貴種流離譚」などという概念を下敷きにして童話を書いたという可能性は、棄却してよいように思われます。おそらく彼は、幼い頃から接してきた様々な物語や説話の中から、無意識のうちにこのような「型」を体得し、それが自然に創作に反映していったのでしょう。

 ただ、上に見たように「雁の童子」や「双子の星」といった賢治の重要な作品に、そして部分的な形ではさらに「貝の火」や「サガレンと八月」にも、共通した一つの「型」が読みとれるということは、彼がこの原型に対して何かひそかな愛着を抱いていたのではないかと、思わず私は想像してしまいます。
 生前の賢治は、周囲に対して必要もないのに何故か申しわけないという気持ちを感じている節があったり、自分を犠牲にしなければならないような衝動に駆られているようだったり、何か「原罪意識」のようなものを持っていたのではないかと思わせるところがあります。
 また、「雁の童子」を読むと、童子について記されたエピソードには、「脳が疲れてその中に変なものが見える」という、賢治が自らの体験として短歌に詠んだようなものがあったり、魚を食べたくないと言って泣き出すというこれもまた賢治のような訴えをしたり、まるでこの童子は賢治自身の自画像ではないかと思わせるところもあります。

 つまり、これは全く私の勝手な空想なのですが、ひょっとして賢治自身も、この世における自分のこの人生が、実は何かの罪を帯びて墜ちてきた、貴種の流離としての身ではないかと、どこかで思っていたのではないか・・・、などと思えてくることがあるのです。

 例えば、「サガレンと八月」や「貝の火」を、大きな貴種流離譚の断片と想定するのと同じように、私たちに見えている彼の生涯も、何か大きな物語の「一部」であると考えてみたら、その全貌はどんな様相を呈してくるでしょうか…。
 …世界の東の果ての島国の北の町に、古着屋の息子として生まれたこの子供は、時々不思議なことを言ったり、美しい言葉で詩を書いたりしつつ、人のために自分の体を壊すほど無理をした挙げ句に、結婚もせずに37歳の若さでこの世を去ったわけですが、彼のこの生涯は、ひょっとしたら前世の誰かが故あって、身をやつした姿だったのかもしれません。
 もしも彼がこの辛苦の生涯によって、何か大切な「報ひを果し」、今はもう別の世界に還っていったのだとしたら、彼のこの世の生の軌跡に対して私が感じてきた悲しみや寂しさも、少しは和らぐような気がするのです。

賢治は水族館を見たのか

1.青森の夜汽車の窓

 「青森挽歌」の書き出しは、じつに印象的です。

   青森挽歌

こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
   (乾いたでんしんばしらの列が
    せはしく遷つてゐるらしい
    きしやは銀河系の玲瓏レンズ
    巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
〔後略〕

 本当に、夜行列車に乗って黒い窓から見知らぬ風景を目を凝らしながら眺めている時の気持ちは、水族館に行って水槽の中の不思議な生き物たちを見ることに、どこか通ずるものがあります。
 「四角いガラス窓を通して、その向こうにある暗い空間の様子を見る」という位置関係が、まさに夜行列車の窓と水族館の水槽とを相似形にしているのでしょうが、共通しているのはおそらくその物理的な状況だけではなくて、何か日常世界を離れて「異界」に来たような、心理的なものも関わっているのかもしれません。この「異界」の感覚は、夜の列車が銀河鉄道へと昇華されるに至って、最大化されます。
 高校生の頃の私は、将来自分が夜行列車でも何でも乗って、自由に旅ができるようになった時のことを想像しながら、この「青森挽歌」を読んでいたものでした。

 ところで、「客車のまど」を「水族館の窓」になぞらえるというこの比喩を着想した賢治自身は、実際に「水族館」を見たことはあったのでしょうか。これほど絶妙の表現が出てくるからには、きっと実物を見ていたのだろうと個人的には思うのですが、作品を含めて賢治自身の書いたものや、関係者の証言の中には、彼が水族館を見たという証拠となる記録はないようです。

 そもそも、賢治の時代に「水族館」というものは、どのくらい一般的なものだったのでしょうか。


2.日本における水族館の歴史

 東海大学海洋科学博物館の設立に尽力してその館長も務め、現在は東海大学名誉教授である魚類学者の鈴木克美氏は、日本における水族館研究の第一人者と呼ぶべき方だと思いますが、その鈴木氏の論文「我が国の黎明期水族館史再検討(2001)」と、著書『水族館 ものと人間の文化史』(法政大学出版局, 2003)などをもとに、日本で作られた水族館を開設順に並べてみると、次の表のようになります。

  名称 所在地 開設時期

1

上野動物園観魚室(うをのぞき)

東京市上野

1882/9/20-?

2

浅草水族館

東京市浅草

1885/10/17-2年未満で閉館

3

第三回内国勧業博覧会水族館

東京市上野

1890/4/1-7/31

4

東京大学理学部附属三崎臨海実験所付属水族館

神奈川県三崎町

1890夏-現在

5

第四回内国勧業博覧会水族室

京都市岡崎

1895/4/1-7/31

6

第二回水産博覧会水族館

神戸市和田岬

1897/9/1-1911

7

浅草公園水族館

東京市浅草

1899/10/1-1933頃

8

日本水族館

大阪市難波

1901/1/6-数年?

9

江ノ島水族館

神奈川県江ノ島

1902/8/24-数年?

10

第五回内国勧業博覧会堺水族館

大阪府堺市

1903/3/1-1961/9

11

横浜教育水族館

横浜市羽衣町

1906/7/13-?

12

東京勧業博覧会教育水族館

東京市上野

1907/3/20-7/31

13

京都市紀念動物園水族室

京都市岡崎

1908-?

14

北海道水産共進会水族館

北海道小樽市

1908

15

第十三回九州沖縄八県連合共進会水族館

福岡市箱崎

1910-1935?

16

名古屋教育水族館

名古屋市東築地

1910/4/10-?

17

富山県共進会魚津水族館

富山県魚津町

1913/9-1944/3

18

第十四回九州沖縄八県連合共進会水族館

大分県大分市

1921/3/15-5/10

19

東北大学理学部附属浅虫臨海実験所付属水族館

青森市浅虫

1924/7-1984/4

20

松島教育水族館

宮城県松島村

1927/4/1-2015/5/10

21

別府市中外産業博覧会水族館

大分県別府市

1928/4/1-5/20

22

大礼記念国産振興東京博覧会水族館

東京市上野

1928/3/24-5/22


 これらの中から、賢治が生まれた1896年から「青森挽歌」が書かれた1923年までの期間に、賢治訪れたことがわかっている場所に存在した水族館を選び出してみると、7、11、13が、ひとまず可能性としては考えられます。しかしこの中では、7の「浅草公園水族館」が、何と言っても最有力候補だろうと思われます。
 賢治は、1916年(大正5年)3月に盛岡高等農林学校の修学旅行の帰りに、浅草に立ち寄って

浅草の
木馬に乗りて
哂ひつゝ
夜汽車を待てどこゝろまぎれず

という短歌を残していますし、この後にも、同年7月-8月には「独逸語夏期講習」を受けるために東京に1か月滞在、あと1917年1月には商用の叔父に同伴して上京、1918年12月から1919年3月まではトシの看病、1921年1月から夏までは家出をして、いずれも東京に滞在していますから、浅草に行けたであろう機会は、何回もあります。
 また賢治は、特に「浅草オペラ」に対して格別の愛着を持っていたようで、劇「飢餓陣営」の構想や、詩「凾館港春夜光景」に出てくる当時の歌手の名前などを見ても、生前の賢治が何度も「浅草オペラ」を見たであろうことは、明らかです。となると、オペラ観劇のついでに、彼が浅草の水族館に立ち寄ったという可能性は、十分に考えられるわけです。

 賢治が、「浅草公園水族館」以外の水族館を見ていた可能性となると、上に触れたように、1916年の修学旅行で京都に行った際に、13の「京都市紀念動物園水族室」を見たか、1917年1月の上京時には横浜にも寄っていますから、この際に11の「横浜教育水族館」を見たということも、完全に否定はできません。しかし、前者では「水族室」という名称が「青森挽歌」とは異なること、1917年の横浜ではスケジュール的に余裕がなかったのではないかと思われることから、やはり私としては、賢治が見たであろう水族館としては、「浅草公園水族館」の一本で考えたいところです。

 ちなみに、上表の19の「東北大学理学部附属浅虫臨海実験所付属水族館」は、1984年に閉館するまで60年にもわたって運営されてきた、当時としては先進的な施設の一つだったということですが、賢治が1923年夏にこの浅虫のあたりを通りながら、「客車のまどはみんな水族館の窓」とつぶやいたちょうど1年後に開館しているのが、面白いところです。


3.浅草公園水族館

 やはり鈴木克美氏の論文「浅草公園水族館覚え書(2003)」によれば、1899年10月11日に開業した「浅草公園水族館」はたいへんな大衆的人気を博し、「日曜のごときは極めて雑踏をなし、かつ室内暗黒なれば、開館の当初は、まま婦女子の櫛笄などを抜き去る無頼漢ありしとかや。館員の語るところによれば、一日平均三千名内外の観覧者ありという」(坪川辰雄「土木門 水族館」風俗画報, 1900)という盛況だったとのことです。
 水族館のあった場所は、下の地図の矢印のところで、Googleマップで調べると現在ここは「雷おこし」の常磐堂の経営する、「雷5656茶屋」というお店がある場所のようです。

 「浅草公園水族館」地図

 また、当時の「グラフ雑誌」と言うべき『風俗画報』という雑誌には、次のような「浅草公園水族館」の外観の絵が載せられています。

「浅草公園水族館」外観
浅草公園水族館覚え書」より

 さらに、水族館の内部の様子は、浮世絵のような見事な多色刷り版画で描かれています。

「浅草公園水族館」
我が国の黎明期水族館史再検討」より

 ところで、上の画像の左下部分にある、水族館の中の様子を拡大すると、下のようになっています。

「浅草公園水族館」

 これを見ると、狭い幅でまっすぐ長い通路の横に、同じ大きさの長方形の「窓」がずらりと並んでおり、これはまさに「客車のまど」と言うにぴったりの景観です。トンネルまたはチューブのように、天井が丸みを帯びた内部の作りは、鉄道列車の中の様子を連想させるもので、やはり賢治が「青森挽歌」の比喩を思いついたきっかけは、この水族館だったのではないかと、ますます考えたくなります。

 さて、このようにオープンの当初は賑わっていた「浅草公園水族館」ですが、大正時代に入ると、徐々に客の入りが減少していきました。盛り返しを狙った経営者は、1913年(大正2年)頃から水族館の2階に演芸場を設け、「娘手踊り」などのアトラクションで、客を取り戻そうとしました。
 ところで上の表からもおわかりのように、当時の水族館というのは、博覧会などの際に一時的に設けられるものが多く、常設として開館したものでも、わずか数年で閉館になっているところがほとんどです。その理由は、当時の知識や技術では、魚などの海の生き物を長期間にわたって飼育しつづけるのは困難で、数年もたつうちには、開館当初に揃えた生き物たちはだんだん死に絶えていくからです。展示生物の減少ともに、人々にも飽きられていって客が減り、経営が苦しくなると新しい生物を補充する予算もなくなって、ますます貧弱な内容になる、という悪循環が起こります。
 上の絵のように見事だった「浅草公園水族館」の水槽も、ある時期からは、「申しわけのように金魚とスッポンを泳がせている」というような状態になっていったという記述もあります(水守三郎「レヴユーからバーレスクへ」)。

 1923年の関東大震災の際には、浅草も壊滅的な被害を受けたということですが、いったんは水族館も何とか再興したようです。そしてその後、1929年(昭和4年)に水族館2階の演芸場は、後に「喜劇王」とも呼ばれる榎本健一(エノケン)を座長とする「カジノ・フォーリ-」として新装オープンし、これが図らずも爆発的な人気を呼ぶことになります。エノケンは、機知に富んだ演出で、レヴューや軽演劇を上演し、「水族館の二階の演芸場は、もともと下の水族館の、いわば客寄せで、水族館の付録のようなものだったが…これは逆になり水族館のほうが付録になってしまった」と、自らも回想しています(榎本健一「“浅草と僕”―思い出すカジノ・フォーリ-, 1955」)。

 このように、水族館そのものは「おまけ」のような地位に甘んずることになりますが、軽妙な演劇や若い女性による華やかなレヴューと、薄暗く不思議な雰囲気の漂う水族館が、一つの建物に共存するという奇妙なマッチングは、当時の文学者たちの創作意欲をかき立てたという一面もあったようです。川端康成は、浅草公園水族館も登場する一連の作品、『浅草紅団』(1929)、『水族館の踊子』(1930)、『浅草の姉妹』(1932)を発表して、これがまた浅草のこの界隈に人々の注目を集めることとなりました。堀辰雄も、ここを舞台に『水族館』(1929)という短篇を書いています。
 『水族館の踊子』における川端の描写は、次のようなものです。

そのガラスは、水槽の底だったのです。水族館で一番大きい水槽だったのです。たひ、すずき、をこぜ、ほうぼう、のどくさり、かれひ、―いろんな魚が泳いでゐましたよ。…その水槽の上が舞台だったのです。真上かどうかは分からないが、とにかく、なんかしかけがあるのか、その水槽を通して穴倉から舞台が見えたのです。…踊子と魚が、同じ水の中にゐるやうにです。


4.賢治の他の作品

 賢治の他の作品で「水族館」が登場するものを調べてみると、「口語詩稿」に分類されている「〔職員室に、こっちが一足はいるやいなや〕」の最後の部分に、次のような箇所があります。

〔前略〕
こどもらがこっそりかはるがはる来て
がらすの戸から口をあいたりのぞくのは
水族館のやうでもある
おとなもそろそろ来てゐるやうだ
日高神社の別当は
いまだに眉をはげしく刻む

 これは、賢治が農学校を退職した後の羅須地人協会時代の作品と思われますが、何かの用事で彼が学校の職員室にやってきた時の情景のようです。職員室にいる賢治たちを、ガラス窓を通して生徒たちが廊下から面白そうに眺めているという場面で、これを「水族館」に見立てるならば、生徒たちが観客で、賢治ら来賓が「魚たち」に相当するのでしょう。廊下の横の窓が「水族館の窓」という状況は、これも上に載せた『風俗画報』の拡大図の、長細い水族館の通路の様子を彷彿とさせます。
 あとこれ以外では、上記作品を文語詩化した「来賓」という作品の「下書稿(一)」の手入れ形に、「児童(こ)らもこもごものぞけるは/水族館のごとくなり」として、さらに「下書稿(二)」の初期形に、「児童(こ)らこもごもにのぞけるは/水族館のけはひなり」として登場していますが、その「定稿」では姿を消しています。

 それからもう一つ、「水族館」ではありませんが、「口語詩稿」の「来訪」という作品が、私は気になります。それは、下記のようなものです。

     来訪

水いろの穂などをもって
三人づれで出てきたな
さきに二階へ行きたまへ
ぼくはあかりを消してゆく
つけっぱなしにして置くと
下台ぢゅうの羽虫がみんな寄ってくる
  ・・・・・・くわがたむしがビーンと来たり、
       一オンスもあって
       まるで鳥みたいな赤い蛾が
       ぴかぴか鱗粉を落したりだ・・・・・・
ちゃうど台地のとっぱななので
ここのあかりは鳥には燈台の役目もつとめ
はたけの方へは誘蛾燈にもはたらくらしい
三十分もうっかりすると
家がそっくり昆虫館に変ってしまふ
  ・・・・・・もうやってきた ちいさな浮塵子
       ぼくは緑の蝦なんですといふやうに
       ピチピチ電燈をはねてゐる・・・・・・
〔後略〕

 これも羅須地人協会時代の作品のようで、賢治が暮らしていたあの建物を描いています。部屋の灯りをつけっぱなしにしておくと、羽虫がたくさん入ってきて、「家がそっくり昆虫館に変ってしまふ」と言っているのですが、じつはこの「昆虫館」という施設も、当時は浅草公園の水族館に隣接して建っていたのです。

 Wikipediaの「木馬館」の説明によれば、1907年に昆虫学者の名和靖が、「浅草公園水族館」の隣に開設したのが「通俗教育昆虫館」、通称「昆虫館」でした。川端康成の『浅草紅団』にも、「花屋敷と昆蟲館――この二つの小屋が、浅草の家庭的な遊び場として、諸君に知れ渡つてゐるのは、もちろん虎夫婦の寝相のためではない。メリイ・ゴオ・ラウンドの木馬があるからだ」として出てきます。
 水族館と同様に、この昆虫館もやがて経営が行き詰まり、1922年には昆虫の展示は2階部分のみとなって、1階には木馬が置かれて名前も「昆虫木馬館」に、次いで「木馬館」となります。ここは現在も名前が残って、「浅草木馬館大衆劇場」になっていますね。

 さて、上の作品で賢治が「家がそっくり昆虫館に変ってしまふ」と書いたのは、浅草公園の「昆虫館」を知った上でのことだったのでしょうか。
 これは「昆虫」と「館」を合わせただけの簡単な語句ですから、賢治の即興的な造語だった可能性も、もちろんあります。しかし私には、「家がそっくり昆虫館に変ってしまふ」という表現の背景には、「昆虫館」という既成の概念があったように、何となく感じられるのです。
 もしそうであれば、当時は東京の浅草以外には「昆虫館」などという施設はなかったと思われますから、賢治が「浅草公園水族館」を訪れていた可能性は、さらにいくぶん高まるとことになります。


5.列車は海中から天上へ

 以上、賢治が「浅草公園水族館」を実際に見ていた体験が、「青森挽歌」の「客車のまどはみんな水族館の窓になる」という一節に反映したのではないか、という私の個人的な想像を述べました。
 ここから先は、さらに空想的なお話です。

 上に引用した、「浅草公園水族館」の通路の拡大図を見ていただいたらおわかりのように、この水族館において観客は、まるで海中のトンネルから魚たちを眺める気持ちになるように作られています。下の図は、「浅草公園水族館」開館の翌年に出版された『少年教育水族館』という本の1ページですが、ここでも「まるで海の底へ遊びに行くやうです」と表現されています。

『少年教育水族館』
水産総合研究センター図書デジタルアーカイブ」より

 この、海中を思わせる「水族館の窓」が、「客車のまど」なのですから、この時の賢治のイメージの中では、列車は海中を走っているということになるでしょう。すなわち、「青森挽歌」が書かれた夜汽車に乗りながら、賢治が「客車のまど」を「水族館の窓」として感じたならば、彼は同時に、「いま自分は列車に乗って海の中を走っている」とも感じたはずです。

 一方、賢治の童話「双子の星」においては、「天上」と「海中」は、対になった相似の場所として、描かれます。
 チュンセとポウセの双子の星たちが、彗星の乱暴によって天上から海の底へ落とされてしまった時、二人は「ひとで」になってしまいます。ここでは、ちょうどどちらも「星形」の、天の「星」と海の「ひとで」が対応物になっているわけですが、賢治はこのようなアナロジーをさらに推し進め、まず「彗星」の自己紹介は、次のようです。

俺のあだ名は空の鯨と云ふんだ。知ってるか。俺は鰯のやうなヒョロヒョロの星やめだかのやうな黒い隕石はみんなパクパク呑んでしまふんだ。それから一番痛快なのはまっすぐに行ってそのまままっすぐに戻る位ひどくカーブを切って廻るときだ。まるで身体が壊れさうになってミシミシ云ふんだ。光の骨までがカチカチ云ふぜ。

 これに対して、二人が海で出会った「鯨」は、次のように言います。

俺のあだなは海の彗星と云ふんだ。知ってるか。俺は鰯のやうなひょろひょろの魚やめだかの様なめくらの魚はみんなパクパク呑んでしまふんだ。それから一番痛快なのはまっすぐに行ってぐるっと円を描いてまっすぐにかへる位ゆっくりカーブを切るときだ。まるでからだの油がねとねとするぞ。

 まさに賢治のユーモアがあふれている箇所ですが、ここでは天の「彗星」と海の「鯨」とが対応物だというわけですね。とにかくこの作品では、「天上」と「海中」の間に、相同性、双対性があるとされていて、チュンセとポウセが墜落することによって「天」と「海」が入れ替わっても、そして最後に天上に戻されることで再び両者が入れ替わっても、双方には相似の世界が広がっているのです。

 それでは、「青森挽歌」において「海中を走る列車に乗っている」賢治に対して、このような「天上」と「海中」の入れ替え操作を行うと、どうなるでしょうか。
 もちろん列車は、天上の空間を、星々の間をめぐりながら走る、ということになるわけです。トシのことを思いながら夜汽車に乗っていた賢治は、ひょっとしたらこういうイメージの変転によって、「銀河鉄道の夜」の着想に至ったのではないかと、私はふと思ってみたりする次第です。

オホーツク行という「実験」

 賢治が1923年(大正12年)夏にサハリンに旅した目的は、表向きは農学校の教え子の就職斡旋のためということでしたが、この間に書かれた「青森挽歌」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」など長大な挽歌群を見ると、この旅が妹の死と深く関連したものであったことは、明らかです。
 その「関連」の中身について、『新校本全集』年譜篇は(堀尾青史氏による『旧校本全集』の年譜を引き継ぎ)、この旅の意味を「亡くなった妹トシとの交信を求める傷心旅行」と表現し、鈴木健司氏は「《亡妹とし子との通信》という隠された目的のあったことも確かなことだ」(『宮沢賢治 幻想空間の構造』p.175)と記しておられます。

 私もこれらの説のとおり、この旅における賢治がトシとの通信あるいは交信を切望し、妹が今どこでどうしているのか、何としても知りたいと願う気持ちがあったのは確かだろうと思います。しかし、私が思うところはそれにとどまらず、賢治がここで本当に求めていたのは、トシとの通信だけではなく、「トシの後を追って自分も妹と一緒に行く」ということだったのではないかと、ひそかに思っているのです。
 今日は、私がそのように考える理由について、トシの死の前、当日、死の後、という順に賢治の作品を追って、整理してみたいと思います。

 その前に確認しておきたいのは、ここで私が言いたいのは、「賢治は妹の後追い自殺をしようと企てていた」ということではありません。ひょっとしたら、この世に残された者から見ると自殺と映るような結果になったのかもしれませんが、賢治の本来の意図は、そうではなかったのです。
 たとえば北方のどこかに、「異空間への接続ステーション」があって、死ぬことなく「死後の世界」に行ける可能性があるかもしれません。実際、「ひかりの素足」でも「銀河鉄道の夜」でも、主人公は大切な人とともに死後の世界へ往って、また還ってきています。
 などと言うと、いい大人が旅行を計画した動機としては、かなり荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、しばしば異界と「交信」し、異空間の実在を信じていた賢治にとっては、これはそんなに無茶な話ではなかったろうと思うのです。少なくとも、「ある種の事を行えば、それに応じた結果が期待される」という意味において、この旅は賢治の意識の中で、宗教的には一つの「儀式」と言えるものだったでしょうし、自然科学的には一つの「実験」と言えるものだったのではないかと、私は思うのです。

1.トシの死の前

 以前の記事にも書いたことですが、賢治は1922年11月のトシの死の少なくとも数ヶ月前から、もしも妹が臨終を迎える時が来たら、自分もともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と考えていたのではないかと、私は思っています。

 ところでこの、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という言葉は、1922年8月に書かれたと推定される「イギリス海岸」の中に、登場するものです。生徒を引率してイギリス海岸に来た賢治は、もしも泳いでいる生徒が溺れた時に自分が取る行動として、次のように思っていたというのです。

もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。

 生徒に対する賢治のこのありあまるほどの責任感に、もちろん嘘はなかったのでしょう。しかし、あまりにも大仰なこのような言葉が、ふと彼の口をついて出てきた背景には、当時下根子桜の別宅で着実に死へと近づきつつあった妹の存在があったはずだと、私は思うのです。
 賢治は、実はトシに対してこそ、常々このように思い詰めていたのではなかったでしょうか。

 また、童話「双子の星」において、チュンセとポウセが彗星にだまされて、天空から海の底に落とされてしまう箇所には、次のような言葉があります。

 二人は青ぐろい虚空をまっしぐらに落ちました。
 彗星は、「あっはっは、あっはっは。さっきの誓ひも何もかもみんな取り消しだ。ギイギイギイ、フウ。ギイギイフウ。」と云ひながら向ふへ走って行ってしまひました。二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです。

 「双子の星」のテキストには、吉田源治郎著『肉眼に見える星の研究』と共通した表現が見られることから、その現存稿が書かれたのは、1922年9月の同書刊行以後だろうという説があります(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の中地文氏による「双子の星」解説)。そうであれば、この作品の完成も、トシの死のほんの少し前のことになります。
 そして、この作品における「双子」という存在が、賢治とトシという兄妹をモチーフの一つとしていることは多くの人の認めるところであり、その二人が「どこ迄でも一諸に落ちやうとした」と賢治が記していることの意味は、やはり見逃すことができません。
 ここでも賢治は、トシが死ぬ時にはその肱をしっかりとつかみ、「どこ迄でも一諸に落ちやう」と、考えていたのではないでしょうか。

 さらに賢治には、もっと直接的に、一緒に死後の世界に至る「兄弟」をテーマとした作品もあります。吹雪における兄弟の遭難を描いた童話「ひかりの素足」では、兄の一郎は弟の楢夫にぴったりと寄り添い、弟を献身的に守りながら、二人一緒に「あの世」にたどり着きますが、この作品の第一形態が成立したのは、1922年前半頃までと推定されています(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の杉浦静氏による「光の素足」解説)。
 やはりトシの死が近づきつつあった年に書き始められたこのお話も、その構想そのものが、「妹に付き添って死後の世界へも同行し、その身を守ってやりたい」という賢治の願望を、反映したものだったのではないでしょうか。

 じりじりと死の影に迫られつつある妹を見守りながら、1922年という年の賢治は、ずっと一人でこういうことを思い詰めていたのではないかと、私は思うのです。
 しかしいずれにせよ、愛する妹の最期の日は、否応なくやってきました。 

2.当日 

 1922年11月27日、トシの臨終の床で、何が起こったでしょうか。賢治は心のどこかでは、たとえば妹と一緒に兄も仏に導かれて別の世界に至るような、何かそんな超自然的な出来事を期待していたのかもしれません。
 しかし現実には、そのようなことは起こりませんでした。「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」に記録されいるような会話がおそらく行われ、その後トシは一人で旅立って行ったのです。

 しかしここで、「松の針」に出てくる次のような部分には注目しておくべきだろうと、私は思います。

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ

 賢治は、妹が「けふのうちにとほくへさらうとする」こと自体は不問にする一方で、「ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか」ということを、問いつめているのです。
 思えば「永訣の朝」の冒頭も、「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」でした。このような場合、普通ならば「死なないでくれ」と訴えるのがお決まりのパターンでしょうが、賢治はその日のうちに妹が死んでしまうそのこと自体は、じたばたせずに受け容れていたのです。
 そしてその一方で賢治は、妹が「ひとりでいかうとする」ことには、異議を唱えるのです。「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ/泣いてわたくしにさう言つてくれ」と懇願し、自分が妹の死に同行する可能性を、何とかして引き出そうとするのでした。

 このような賢治のスタンスは、次の「無声慟哭」でも同様です。

わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

 上で太字にしてみたように、ここでも賢治は、妹が「ひとり」行こうとすることを、どうしても認めようとしません。

 つまり、賢治は妹の「死」は認めつつも、「ひとりで」を認めないのです。
 これこそ、賢治がトシの死のかなり前から、「妹が死ぬ時には同行しよう」とずっと思い詰めていたことの表れだろうと、私は思うのです。 

3.死の後 

 しかし、トシは結局、「ひとりで」行ってしまいました。残された賢治の喪失感ははかりしれないものだったでしょう。悶々として一篇の詩も生まれない日々が、半年あまりも続きました。
 そのような月日の果てに企画されたのが、翌年夏のサハリン旅行でした。トシの死の当日まで抱えていた上のような賢治の思いは、この時どうなっていたでしょうか。

 サハリン行への途上で書かれた作品のうち、その賢治の気持ちを最もはっきりと表しているのは、「宗谷挽歌」です。「妹の死に同行する」ことをその死の当日までずっと願いつづけていた賢治の思いは、その死後8ヵ月あまりを経てもなお綿々と続いていたことが、ここで明らかになります。
 その冒頭部分を、下に引用します。

   宗谷挽歌

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。 

 宗谷海峡を渡る船の甲板にいる賢治は、もしも妹が自分を呼んだなら、「私はもちろん落ちて行く」と決意しています。
 また、上の最後の引用行においても、「どうして私が一諸に行ってやらないだらう」と書いています。
 まさに賢治はここでも、トシと一緒に「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思っているのです。
 さらに、上記のしばらく後の部分には、次のような箇所もあります。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 「われわれが信じわれわれの行かうとするみち」とは、法華経信仰に違いありませんが、もしもそれが「まちがひであったなら」自分に知らせに来てくれと、賢治はトシに頼んでいます。もし賢治がそれを聞いたなら、「私はもちろん落ちて行く」という決意を実行に移すでしょうが、そのまま「まっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、自らに言い聞かせています。
 このような行動は、第三者から見れば「自殺」以外の何ものでもありませんが、賢治もそれは意識しているので、「宗谷挽歌」の文中には、自分が船員から自殺者と疑われているのではないかと、気にする箇所も出てくるわけです。

 このようにして、妹のもとへ行けるなら死んでもよいという決意のもと、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」という心構えを持って、賢治は宗谷海峡に臨んだわけです。
 さかのぼれば、前日の「青森挽歌」において、すでに賢治は次のように書いていました。

(宗谷海峡を越える晩は
 わたくしは夜どほし甲板に立ち
 あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
 からだはけがれたねがひにみたし
 そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

 この言葉のとおり、賢治は宗谷海峡を越える晩に「夜どほし甲板に立ち」、何かが起こることを期待したのです。この「挑戦」こそ、賢治にとっては一つの「儀式」であり、「実験」だったのだと思います。
 しかし結局、賢治が期待したような出来事は、この海上では起こりませんでした。海を渡った賢治は、サハリンに到着します。

 そして、サハリンの玄関口である大泊(ロシア名コルサコフ)の港から、彼はまた鉄道に乗って、一路北を目ざします。そして、当時の「樺太東線」の終着駅である、栄浜(ロシア名スタルドブスコエ)の駅に降り立ちました。
 下の地図で、マーカーを立ててある場所が栄浜です。

 私が推測するには、賢治がこの旅行において、宗谷海峡に続いてもう1ヵ所「何か」を期待して臨んだ地が、この栄浜だったのではないかと思うのです。
 この場所は、当時の日本において、鉄道で行くことのできる最北の地点でしたが、この「最果ての浜辺」というロケーションにも、何らかの思い入れがなされていたではないでしょうか。

 賢治はその浜辺に出て、オホーツク海と向かい合い、「オホーツク挽歌」を書くのですが、このテキスト中に出てくる「仮眠」に対して、香取直一氏と鈴木健司は、「《亡妹トシとの通信》を求めた意志的な行為」と解釈しておられます(香取直一「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」および鈴木健司「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」)。私もこの着眼に、同感です。
 最果ての浜辺で、貝殻を口に含んで行った「仮眠」は、賢治によってなされた次なる「儀式=実験」だったのだろうと、私は思うのです。

 「オホーツク挽歌」という作品は、本文中の二つの空白行によって、三つの部分に分かたれていますが、その二番目の部分を、下に引用します。

白い片岩類の小砂利に倒れ
波できれいにみがかれた
ひときれの貝殻を口に含み
わたくしはしばらくねむらうとおもふ
なぜならさつきあの熟した黒い実のついた
まつ青なこけももの上等の敷物と
おほきな赤いはまばらの花と
不思議な釣鐘草とのなかで
サガレンの朝の妖精にやつた
透明なわたくしのエネルギーを
いまこれらの濤のおとや
しめつたにほひのいい風や
雲のひかりから恢復しなければならないから
それにだいいちいまわたくしの心象は
つかれのためにすつかり青ざめて
眩ゆい緑金にさへなつてゐるのだ
日射しや幾重の暗いそらからは
あやしい鑵鼓の蕩音さへする

 この18行は、「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」という自らの行為への、注釈になっています。その仮眠の理由を、賢治はエネルギーの恢復のためとか、心象がつかれているからなどと説明していますが、しかしその本当の目的は、眠っている間にトシのもとへと行ってくることだったのではないかと、私は思うのです。
 それはちょうど「銀河鉄道の夜」において、ジョバンニが天気輪の丘で「仮眠」に入り、その間に死んだカムパネルラとともに異界を旅してきたことに相当します。この時のオホーツクの浜辺における賢治の仮眠は、「銀河鉄道の夜」におけるジョバンニのそれの、原型とも呼べるものだったのではないでしょうか。

 「オホーツク挽歌」における賢治のこの仮眠が持つ意味について考えるには、この作品と童話「サガレンと八月」との関係に注目する必要があるでしょう。
 鈴木健司氏は、「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」の二つが「ネガとポジの関係」にあると指摘し、さらに踏み込んで「オホーツク挽歌」の仮眠において賢治が体験した内容が、「サガレンと八月」として作品化されたと論じておられます。
 両作品における舞台設定の共通性を見ても、これは非常に説得力のある仮説であると、私も思います。しかし、鈴木氏が栄浜における賢治の「仮眠」についてここまで鋭く論じられながら、その仮眠の目的が、《亡妹トシとの通信》を行うことだったと結論づけておられるところは、私としてはやや物足りなく感じてしまうのです。
 「サガレンと八月」が、<異界へ行く物語>であることに鑑みれば、ここにおいて賢治が期待していたことも、単なる「通信」にとどまらず、「身をもって異界へ行く」ことだったと解釈すべきではないでしょうか。
 それは、「サガレンと八月」において海の底に連れ去られたタネリの運命について考えることによっても、浮き彫りにされます。

 「サガレンと八月」で少年タネリは、母親の与えた禁忌を破った結果、恐ろしい犬神によって海の底に連れて行かれ、蟹の姿にされて「チョウザメの下男」として幽閉されます。
 ところでサハリンという島の形は、日本では「鮭」の姿に喩えられますが、ロシアにおいては、「チョウザメ」の形と言われているのです。下記は、チェーホフの『サハリン島』からの引用です。

 サハリンは、オホーツク海中にあつて、ほとんど1000露里に亙るシベリアの東海岸と、アムール河口の入口とを大洋から遮断してゐる。それは、北から南へ長く延びた形をしてゐて、蝶鮫を思はせる格好だ、と言ふ著述家の説もある。(岩波文庫版上巻p.40)

 サハリンを蝶鮫にたとへることは、南部の場合は殊にふさはしく、全く魚の尾鰭にそつくりである。尾の左端はクリリオン岬、右は――アニーワ(亜庭)岬と呼ばれ、その間の半円形をなした入江を――アニーワ湾といふ。(岩波文庫版上巻p.248)

サハリンとチョウザメ  このチョウザメの喩えは、右の図をみていただければ一目瞭然です。島全体のスリムさは、鮭よりもチョウザメの方がぴったりきますし、南端の尾びれの形といい、東に突き出た北知床半島(テルペニア半島)が背びれに対応するところといい、比喩の迫真性に関しては、鮭よりもチョウザメの方に軍配を上げざるをえません。
 賢治は、文語詩「宗谷〔二〕」において、中知床岬(アニーワ岬)のことを、「サガレン島の東尾」と表現していますから、サハリン島の形が「魚」に喩えられることを知っていたのは確かです。これが鮭だったのかチョウザメだったのかはわかりませんが、「サガレンと八月」というサハリンを舞台とした童話に、「チョウザメ」が出てくるのですから、これはサハリンという土地を象徴するものと解釈するのが自然でしょう。

 すなわち、「サガレンと八月」の主人公が、他ならぬ「チョウザメ」の下男として海の底に閉じ込められるという物語は、実は作者である賢治が、サハリンという土地に囚われ、その海底に沈められるという事態を、象徴していると解釈すべきでしょう。
 そうなると、賢治が栄浜での「仮眠」において期待していたのは、やはりトシとの「通信」にとどまらず、自らがトシの居場所へと赴くことだったと考えるべきと思います。
 自ら宗谷海峡を渡る船の甲板から飛び込むことによってか、あるいは栄浜の海岸からタネリのように拉致されることによってか、いずれにしても賢治が亡き妹のもとへ行きたいという願望とともに、ひそかに心に期していた「異界への旅」は、「サガレンと八月」におけるタネリと同じ運命を、招き寄せるおそれがあったのです。

 それでは、「オホーツク挽歌」において栄浜の海岸で仮眠をとった賢治は、ジョバンニとカムパネルラのように、その夢の中でトシに会うことができたのでしょうか。
 これについて考えるためには、「オホーツク挽歌」の作品中のどこで「仮眠」が行われたのかということを、同定しておく必要があります。この問題に関して鈴木健司氏は、二つの空白行によって三つに分かたれた作品の「パート2」(=上の引用部分)と「パート3」の間で賢治は仮眠をとり、この際に「サガレンと八月」に結実する《幻想体験》が現れたと推定しておられます。「パート1」「パート2」はまだ朝方の時間であるのに対して、「パート3」には「(十一時十五分 その蒼じろく光る盤面)」という詩句があり、その間に時間的断絶があると思われることを、その根拠として挙げておられます。
 私も、鈴木氏の考えに賛成です。作者は、「パート2」では「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」と述べていることからまだ眠っていないわけですが、「パート3」には「わたくしが樺太のひとのない海岸を/ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき…」という詩句があって、この時点ではすでに「睡つたりしてゐる」からです。
 そうすると、「パート3」を読めば「仮眠」後の賢治の様子がわかるということになります。ということで、その内容を見てみると、まず目に入るのは、「とし子はあの青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」という言葉です。つまり、仮眠の後にも、賢治はトシに関する具体的な情報を持っていないのです。
 あるいはまた、「いまするどい羽をした三羽の鳥が飛んでくる/あんなにかなしく啼きだした/なにかしらせをもつてきたのか」という、鳥に対する思い入れも書きとめられています。これは、旅行前の6月の「白い鳥」の流れを引いて、鳥の鳴声の中にトシからのメッセージを読みとろうとする姿勢で、もしもその直前にトシと会えたり通信が得られたりしていたのならば、こんな風に鳥の声を頼りなく聴くこともなかったでしょう。
 すなわち、このオホーツクの海岸における仮眠という「実験」によっても、賢治は期待したようにトシのもとへ行くことは、できなかったのです。
 その意味で、未完に終わっている「サガレンと八月」という童話は、賢治の実験が成功しなかったということにおいても、結末に至ることなく放置されたということにおいても、二重の意味で「流産させられた」作品だったと言うことができるでしょう。

 では、「オホーツク挽歌」におけるこのような体験は、結局のところ賢治に何を与えたのでしょうか。
 香取直一氏は次のように述べて、賢治はこれを契機に、トシの「行方」について思い悩まなくてよい心境に到達したのだと、考えておられます。

玉随の雲に漂って行ったあの一羽の鳥は、《とし子》が蒼空の彼方へ行ったこと、そこから《通信》はこないが、《通信》をよこす必要のない処・眼前に望まれる樺太のような花のきれいな光あふれる浄らかなところへ行ったことをものがたっているのだ。賢治にはこう信じられていたのであろう。(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)が記されたのも、やはり必然であったと思われるのである。(「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」より)

 一方、鈴木健司氏は次のように述べ、賢治はこの時、香取氏の言うようにトシの往生の地を《浄土》と信じたというわけではないのではないかとしておられます。

 香取のいう「必然」とはどのようなことか。賢治にとって、妹とし子の往生の地が「光りあふれる浄らかなところ(浄土)」に違いないと確信することと、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやくことが、どのような必然の糸で結ばれているというのだろうか。おそらく私の解釈は香取の主張するところとは異なっている。賢治が「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやいたのは、妹とし子の往生の地が《浄土》と信ぜられた結果としてではなく、《浄土》であり続けるためにつぶやいたのである。なぜなら、妹とし子の浄土往生を支えうるのは、己れの信仰の正しさの確認以外になく、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という語には、この場合、破地獄としての陀羅尼(呪文)の作用が託されていると考えられるからである。(「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」より)

 そして鈴木氏は、「オホーツク挽歌」の終結部に出てくる「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という梵語による唱題の意味について、次のように述べます。

「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやかれたことは、賢治が妹とし子のいない現実世界を受容したことを意味するのであり、それは取りも直さず、《亡妹とし子との通信》の断念の表白でもあるのだ。

 この鈴木氏の見解について、私は半分は賛成です。
 すなわち、鈴木氏が上の後半で述べているように、「オホーツク挽歌」以後の賢治は、もうそれまでのようにトシとの「通信」に執着することはなくなります。その後の作品には、「通信」というテーマは出てこなくなるのです。
 一方、前半部の「賢治が妹とし子のいない現実世界を受容した」という点については、この時点の賢治はまだ「受容」にまでは至っていないと、私は考えざるをえません。
 たとえば、サハリンからの帰途の「噴火湾(ノクターン)」では、トシに関して次のような思いが綴られています。

駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
  (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 ここに描かれている賢治にとっては、「何べん理智が教へても」、やはりさびしさは癒えません。そして彼が、「どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ」理由は、「妹とし子のいない現実世界」を、まだ受容しきれていないからに他なりません。
 あるいはまた、サハリン旅行から帰ってから書いた「〔手紙 四〕」の冒頭には、次のように記されています。

 わたくしはあるひとから云ひつけられて、この手紙を印刷してあなたがたにおわたしします。どなたか、ポーセがほんたうにどうなつたか、知つているかたはありませんか。 

 ここでも、チュンセの死んだ妹ポーセが「ほんたうにどうなつたか」を知りたいという賢治の願望は、まだ強く持続しているのです。妹の行方を知る手段として、トシ本人からの「通信」を求めるという以前のやり方は用いられず、「手紙に託して探す」という方法がとられますが、それでもやはり賢治は、まだ「妹とし子のいない現実世界」を受容しているとは言えません。

 サハリン行から後の作品を順に追って見ていくと、賢治が本当の意味でトシの死を受容できるようになったのは、さらに翌年の「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」、そしてその頃に書き始められた「銀河鉄道の夜」に至ってのことだったろうと、私は考えます。
 賢治がその境地まで至った道筋は、崇高な「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」の一例とも言えるものであり、またそのうちに記事にしてみたいと思っています。

 では、賢治が結局オホーツク行という企図によって得た最大の収穫は何だったのかとあらためて考えてみると、私としては、「青森挽歌」の終わり近くに出てくる次の一言の啓示だったと思います。

《みんなむかしからのきやうだいなのだから
 けつしてひとりをいのつてはいけない》

 この認識が、「〔手紙 四〕」の重要なテーマとなり、「〔この森を通りぬければ〕」と「薤露青」を支え、さらには後の「銀河鉄道の夜」にも引き継がれることになっていきます。

 短篇「イギリス海岸」に、次のような一文があります。

 実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。

 以前に私は、「死ぬことの向ふ側まで」という記事において、これは表面的には賢治が教え子たちのために思っていたことでもあるのだろうが、実は心の底で、死に近い妹に対して考えつづけていた気持ちが、思わずあふれて出たものではないかと書きました。
 それはやはりそうではないかと今も思うのですが、もう一つ、賢治の最初期の童話である「双子の星」にも、次のような箇所があったことに気がつきました。チュンセ童子とポウセ童子という双子の星が、彗星(ほうきぼし)に騙されて、天上から海の底へと落ちてしまう場面です。

 二人は青ぐろい虚空をまっしぐらに落ちました。
 彗星は、「あっはっは、あっはっは。さっきの誓ひも何もかもみんな取り消しだ。ギイギイギイ、フウ。ギイギイフウ。」と云ひながら向ふへ走って行ってしまひました。二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです。

 双子の星の名前である「チュンセ」と「ポウセ」は、後の「手紙 四」においては、明らかに賢治とトシの投影と思しき、兄「チユンセ」と妹「ポーセ」として登場します。したがって賢治が「双子の星」において、「この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです」と書いていることは、やはり彼が妹に対して抱いていたであろう思い=「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」ということと、何かの関係があるのではないかと考えざるをえません。

 となると、賢治が「双子の星」のこの箇所を書いたのがいつだったのか、と言うことが問題になります。
 従来から、「蜘蛛となめくぢと狸」「双子の星」「貝の火」という三つの童話は、彼の最初期のものと考えられてきました。清六氏による「兄賢治の生涯」(『兄のトランク』所収)には、次のような回想があります。

 大正七年に二十二歳で農林学校本科を卒業したが、つづいて地質や土壌を研究するために学校に残り・・・(中略)
 この夏に、私は兄から童話「蜘蛛となめくぢと狸」と「双子の星」を読んで聞かせられたことをその口調まではっきりとおぼえている。処女作の童話を、まっさきに私ども家族に読んできかせた得意さは察するに余りあるもので、赤黒く日焼けした顔を輝かし、目をきらきらさせながら、これからの人生にどんな素晴らしいことが待っているかを予期していたような当時の兄の姿が見えるようである。

 この記述に従えば、「双子の星」が初めて書かれたのは1918年(大正7年)夏までさかのぼることになりますが、この時期には、トシはまだ日本女子大の学生で、病に倒れてはいません。健康な妹に対して、「どこ迄でも一諸に落ちやう」というのは、ちょっと理解しがたいことです。
 しかし、賢治の他の作品と同じく、「双子の星」もある日急に生まれたわけではないはずです。天沢退二郎氏は、ちくま文庫版『宮沢賢治全集』の解説において、上の清六氏の記述に関連して、次のように述べておられます。

 ここで引かれている清六氏の記憶は信頼できるように思われるが、ただし、このとき清六氏らが読みきかせられたのは、今日私たちが読んでいるテクストと全く同じものだったのではなくて、その先駆段階、下書稿段階であり、細部などいろいろ異同があったものと推定される。賢治の詩や童話の顕著な特質である著しい推敲や改稿の跡は、それらの作品が第一次稿から二次稿三次稿へ、あるいは下書稿(一)から(二)へ、(三)へ・・・・・・の絶えざる変化・転生の過程として在ったことを示している。したがって、「蜘蛛となめくぢと狸」にしてもその現存稿第一形態の成立は右の清六氏の記憶より数年後、一九二一、二年頃かと考えられる。

 ということで、1921~1922年頃となると、トシが死の床に就いていた時期と重なってくるのです。
 より具体的には、中地文氏による『宮沢賢治の全童話を読む』(學燈社)における「双子の星」の解説によれば、次のようになります。

 では、現存稿の成立時期はいつ頃なのか。これについては原稿用紙の種類から大正十年頃かと考えられよう。しかし、草下英明(『宮沢賢治と星』学芸書林)の指摘するように、蠍座の心臓部に位置する一等星アンタレスを「蠍の眼」「赤眼」と捉える発想が吉田源治郎『肉眼に見える星の研究』の影響を受けて生まれたのであれば、大正十一年九月の同書刊行以後ということになる。

 この吉田源治郎著『肉眼に見える星の研究』という本には、上記の「蠍の眼」という発想だけでなく、「アルビレオのトパーズとサファイア」「昴の鎖」など他にも賢治作品に見られる表現の登場していることが草下英明氏によって指摘されており、また恩田逸夫氏も「水仙月の四日」に出てくるカシオペアと水仙の組み合わせの共通性について述べていて、確かに賢治が読んでいた可能性は非常に高いと感じられるものです。
 となると、この本が刊行されたのが1922年(大正11年)9月、短篇「イギリス海岸」が書かれたと推定されるのは1922年8月、トシの死は1922年11月ということで、時期がだいたいそろってきます。

 すなわち私としては、賢治が童話「双子の星」に、「双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです」と書いたのは1922年9月以降で、やはりトシの死が目の前に現実として迫ってきていた頃なのではないかと、推測するのです。