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未完成霊の舞い

 日本人が古くから死者や霊魂についてどのように考え、受けとめてきたかということに関して、「民俗学」という学問は明治以来こつこつと探究を続けていたわけですが、しかし時まさにすべての日本人が、第二次世界大戦という未曾有の惨禍と厖大な死者に直面するに際して、民俗学者もそのような時代的な使命を帯びた思索を、自ずと展開することになりました。
 柳田國男においては、それは連日の空襲警報下で書き継がれ1946年に刊行された『先祖の話』でしたし、折口信夫の場合は、死の前年にあたる1952年に発表した「民族史観における他界観念」という論文が、それに相当するでしょう。折口の「遺言」とも言われるこの論稿は、日本人の他界観一般を扱ってはいますが、とりわけここで彼は、若くしてあるいは思いを残したままに亡くなった者たちの、「未完成の霊魂」という存在に対して、執拗に思いを巡らせます。林浩平著『折口信夫 霊性の思索者』の表現を借りれば、「先の戦争で生まれた何百万もの死者たちが、無数の「未完成の霊魂」として人界を彷徨うのが折口にはたまらく辛いこと」だったのです。

 折口信夫によれば、人間が充実した生を送り、円満な死を迎えられた場合には、その魂は「完成した霊魂」として、「他界=常世」に至ることができますが、そうではなかった場合、死後には「未完成の霊魂」が残されます。折口は、日本のアニミズムの根源に、そのような未完成霊の存在があると考えました。

日本におけるあにみずむは、単純な庶物信仰ではなかつた。庶物の精霊の信仰に到達する前に、完成しない側の霊魂に考へられた次期の姿であつたものと思はれる。植物なり岩石なりが、他界の姿なのである。だが他界身と言ふことの出来ぬほど、人界近くに固著し、残留してゐるのは、完全に他界に居ることの出来ぬ未完成の霊魂なるが故である。つまり、霊化しても、移動することの出来ぬ地物、或は其に近いものになつてゐる為に、将来他界身を完成することを約せられた人間を憎み妨げるのである。此が、人間に禍ひするでもんすぴりっとに関する諸種信仰の出発点だと思はれる。未完成の霊は、後来の考へ方で言ふ成仏せぬ霊と同じやうに、祟りするものと言つた性質を持つてゐる。

 「未完成霊」なるものが、このように人間を憎み妨げ祟りをするとなると、それは我々にとっては厄介なものですが、それは実は、生きている人間の責任でもあるのです。折口はさらに続けて、未完成霊を大量に一挙に生み出してしまう、戦争という事態に言及します。

御霊の類裔の激増する時機が到来した。戦争である。戦場で一時に、多数の勇者が死ぬると、其等戦没者の霊が現出すると信じ、又戦死者の代表者とも言ふべき花やかな働き主の亡魂が、戦場の跡に出現すると信じるやうになつた。さうして、御霊信仰は、内容も様式も変つて来た。戦死人の妄執を表現するのが、主として念仏踊りであつて、亡霊自ら動作をするものと信じた。それと共に之を傍観的に脇から拝みもし、又眺めもした――芸能的に――のである。戦場跡で行ふものは、字義通りの念仏踊りらしく感じるが、近代地方辺鄙のものは、大抵盂蘭盆会に、列を組んで村に現れる。

 すなわち折口は、未完成霊を扱う宗教的・芸能的行事として、「念仏踊り」というものに注目するのです。さらに続けて折口は述べます。

念仏踊りは、大体二通りあつて、中には盆踊り化する途に立つてゐるものがある。だが其何れが古いか新しいかではなく、念仏踊りの中に、色々な姿で、祖霊・未成霊・無縁霊の信仰が現れてゐることを知る。墓山から練り出して来るのは、祖先聖霊が、子孫の村に出現する形で、他界神の来訪の印象を、やはりはつきりと留めてゐる。行道の賑かな列を組んで来るのは、他界神に多くの伴神== 小他界神== が従つてゐる形として遣つた祖先聖霊の眷属であり、同時に又未成霊の姿をも示してゐる。而も全体を通じて見ると、野山に充ちて無縁亡霊が、群来する様にも思へるのは、其姿の中に、古い信仰の印象が、復元しようとして来る訣なのである。一方、古戦場における念仏踊りは、念仏踊りそのものゝ意義から言へば、無縁亡霊を象徴する所の集団舞踊だが、未成霊の為に行はれる修練行だと言へぬこともない。なぜなら、盆行事(又は獅子踊り)の中心となるものに二つあつて、才芸(音頭)又は新発意シンポチと言ふ名で表してゐる。新発意は先達センダチの指導を受ける後達ゴタチの代表者で、未完成の青年の鍛錬せられる過程を示す。こゝで適当な説明を試みれば、未完成の霊魂が集つて、非常な労働訓練を受けて、その後他界に往生する完成霊となることが出来ると考へた信仰が、かう言ふ形で示されてゐるのだ。若衆が鍛錬を受けることは、他界に入るべき未成霊が、浄め鍛へあげられることに当る。其故にこれは、宗教行事であると共に、芸能演技である。拝むことが踊ることで、舞踊の昂奮が、この拝まれる者と拝むものとの二つを一致させるのである。

 以上、折口信夫の「民族史観における他界観念」から長々と引用させていただきましたが、私が「念仏踊り」に関するこの折口の考察から、どうしても連想せざるをえないのは、賢治の詩「原体剣舞連」なのです。

 岩手県各地に伝わる「剣舞」は、様々な「念仏踊り」の中の一つの形態ですが、特にこの原体地区に伝わる剣舞は、12歳までの少年や少女たちによって舞われる「稚児剣舞」であることが、この舞いの主体が「未成霊」であることを、明瞭に示してくれていると思います。
 さらに、中路正恒氏の「「ひとつのいのち」考」によれば、この原体剣舞あるいはその伝承元である増沢剣舞の由来は、「奥州平泉初代の藤原清衡が、豊田館(江刺市岩谷堂下苗代沢字餅田)に在ったとき、藤原家衡の襲撃を受け、一族郎党皆殺しの目にあい、清衡のみが逃れ」たという事件を契機に、後に清衡がその時に殺された者たちの供養として行い、「特に亡き妻と子の怨霊供養を厚くするために」稚児と女子に演じさせたということです。つまりこれは、まさに戦争による亡霊を弔うために戦場跡で行われるところの、折口の言う「字義通りの念仏踊り」に相当するわけです。

 折口信夫が念仏踊りの中に、成熟した「先達センダチ」が若い「後達ゴタチ」を指導鍛錬し、未完成の若者が労働訓練によって完成されていくという力動を見るように、賢治も「原体剣舞連」において、一方には厳しい「アルペン農」に打ち込む若者=気圏の戦士たちと、他方には「敬虔に年を重ねた師父たち」の両者を見据えているところも、興味深いです。

ときいろのはるの樹液じゆえき
アルペン農の辛酸しんさんに投げ
せいしののめの草いろの火を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹皮まだかはと縄とをまとふ
気圏の戦士わがともたちよ
青らみわたるコウ気かうきをふかみ
楢とぶなとのうれひをあつめ
蛇紋山地じやもんさんちかがりをかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
   dah-dah-sko-dah-dah
肌膚きふを腐植と土にけづらせ
筋骨はつめたい炭酸にあら
月月つきづきに日光と風とを焦慮し
敬虔に年をかさねた師父しふたちよ

 折口が、若者の霊的な鍛錬と芸能的なそれとを重ね合わせていたように、賢治は農業労働と剣舞という芸能をオーバーラップさせており、これは後の「農民芸術概論」にも通じるように思います。

 このように、折口信夫は日本古来の他界観にこの「未完成霊」という考え方を導入することによって、木や石にも霊が宿るという日本的アニミズムを理解したわけです。未完成→完成という霊魂の階梯は、仏教における「成仏」という考え方とも似ていますから、両者の習合も容易に起こりえたというわけでしょう。

近代では、念仏信仰が合理解釈を与へて、「無縁亡霊」なるものを成立させた。これは、昔からあつた未完成霊を、さやうに解し、さやうに処置したのであつた。考へてみると、此翻訳は、必しも妥当であつたとは言はれない。無縁と言ひながら、全く縁者を失うたものばかりではなく、祀られぬ霊を言ふ部分もあつた。こゝに祖先霊魂の一部なることを示してゐるものと見てよい。其と、木霊・石霊とは、自ら大いなる区別があつたのである。祖先霊魂と生活体なる我々との間に、無縁亡霊を置いて、中間の存在のあることを示してゐた。

 ここで折口は、未完成の「祀られぬ霊」の例として、「木霊」「石霊」などを挙げているわけですが、これを読むと私としては、賢治の劇「種山ヶ原の夜」に、柏の木や楢の木の霊や雷神が出てきたことを思い起こさずにはいられません。
 私は以前に、「祀られざる神・名を録した神(2)」という記事において、「産業組合青年会」という詩に出てくる「祀られざるも神には神の神土がある」という謎のような一節の「祀られざる神」とは、賢治が「種山ヶ原の夜」の劇の中に登場させた、これらの霊や神のことを指しているのではないかと考えました。これらの樹木霊は、折口信夫の分類によれば、確かに「未完成霊=祀られぬ霊」に相当します。
 そして、折口がこれらの未完成霊は人間に禍をもたらすと言った言葉のとおり、「種山ヶ原の夜」を上演した翌日に、雷神を演じた生徒は足を怪我してしまったのです。これについは「産業組合のトラウマ?」という記事に書きましたが、賢治はこの生徒の怪我を偶然の出来事とは考えず、劇で舞台に上げた鬼神が「仇を返した」のだと解釈し、「あまりよい神様ではなく、相当下等」となどと表現していました。

 このような存在のことを、折口信夫も「祀られぬ霊」と言っていたわけで、この霊魂観は「産業組合青年会」という詩に対する私の解釈にも支持を与えてくれているように思うのですが、さらに劇「種山ヶ原の夜」の内容を見ると、もう一つ面白い符号があります。
 劇の中では、樹木霊たちが農夫の伊藤に対して、「剣舞踊れ」と要求するのです。下の場面では、伊藤が木の霊たちに、笹戸の長嶺のあたりが払い下げになるかどうか教えてくれと頼むのに対し、樹木霊たちは剣舞を交換条件に持ち出します。

柏木霊「そだら教へらはて、一つ剣舞踊れ。」
伊藤「わがなぃぢゃ、剣もなぃし。」
「そだらうだれ。」
「どごや。」
「夜風のどごよ。」
伊藤歌ふ、(途中でやめる)
「教へろ」
「わがなぃぢゃ、お経までもやらなぃでで。」

 「剣舞踊れ」という樹木霊たちの要求に対し、伊藤は「剣もないし」といったん断りますが、樹木霊は「それなら歌ってくれ」と重ねて求め、どこを歌うのかと聞いた伊藤に、「夜風のどごよ」と答えています。「夜風のどご」とは、詩「原体剣舞連」の下記の部分ですね。

夜風よかぜとどろきひのきはみだれ
月はそそぐ銀の矢並
打つもてるも火花のいのち
太刀のきしりの消えぬひま
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻いなづま萓穂かやぼのさやぎ
獅子の星座せいざに散る火の雨の
消えてあとないあまのがはら
打つも果てるもひとつのいのち
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 賢治が曲も付けて、「剣舞の歌」として歌っていたという部分で、劇中でもこの旋律で歌われたのでしょう。「銀河鉄道の夜」の中に「星めぐりの歌」が出てくるように、賢治の作品の内容について彼の別の作品の登場人物が言及するいう設定が面白いです。

 ということで、伊藤はおそらくこの「剣舞の歌」を歌い始めるのですが、途中でやめてしまってまた払い下げの件を「教えろ」と言うので、樹木霊は「だめだ、お経までもやらないでいて」と拒みます。
 この一連のやり取りは興味深いことに、「念仏踊り」を通して「未完成霊」が「完成霊」になっていくという折口信夫の指摘をまさに証拠立てるように、樹木霊たちは剣舞の踊りを見たり歌を聞くことを願っており、とりわけその「お経」の部分を求めている様子なのです。ここで樹木霊たちは、剣舞の御利益によって、「他界に往生できるような完成霊になること」を求めているようにさえ思えます。

 すなわち、この部分における「祀られぬ霊」と剣舞(念仏踊り)の描写も、まるで折口信夫の理論を先取りしているように私には感じられて、興味深かったのです。

 さて、詩「原体剣舞連」の根底に流れる基調が、「命のはかなさと美しさ」であるということは多くの人の認めるところでしょう。鉦や太鼓のリズムとともに踊りが昂揚していき、最後に上記引用部の「剣舞の歌」に至って、それは頂点に達します。
 私が以前に、「大内義隆の辞世」という記事で書いたのも、「打つも果てるも火花のいのち」という一節などに特に表れた、この「命のはかなさ」という主題に関することでしたし、また森荘已池『宮沢賢治の肖像』によれば、賢治の父政次郎も、賢治がこの詩を朗読するのを聞いて、「これは、物のいのちのハカナサを書いたものだナ」と言って、とても褒めたということです(同書p.228)。

 賢治がこの詩を書く契機となったのは、1917年に地質調査の際に剣舞を見た体験にあり、それは「歌稿〔A〕」の「上伊手剣舞連」と題された4首、 「原体剣舞連」と題された2首、そして同年10月17日発行の『アザリア第三号』に掲載された「原体剣舞連」と題された3首に記録されています。
 しかしここで注意しておくべきは、当時のこれらの短歌には、「命のはかなさ」というモチーフは詠み込まれていなかったということです。

 つまり、賢治が1922年8月に5年前の原体村における体験を、口語詩「原体剣舞連」として作品化した際に、この「命のはかなさ」という主題は新たに付け加えられたものだということになりますが、私は「大内義隆の辞世」という記事を書きながら、いったい何故この時点でこういう‘modify’が行われたのかと、ちょっと不思議に感じていました。
 原体村に伝わる剣舞が「命のはかなさ」を象徴しているとすれば、その一つの要因は、剣舞が実はその昔に若くして殺された少年たちの鎮魂をテーマとしていたということにあるでしょう。賢治自身は、この詩では「悪路王=アテルイ」の征伐を象徴する踊りとして描いていますから、これと藤原清衡の一族の悲劇との関連は知らなかったでしょうが、たとえ討たれる者が悪路王だったとしても、彼はやはりそこに失われる命の刹那性を感じ、折口の言葉を借りれば「拝むことが踊ることで、舞踊の昂奮が、この拝まれる者と拝むものとの二つを一致させるのである」という境地で、恍惚として剣舞に見とれていたことでしょう。

 しかし私としては、ここにあともう一つ、賢治がこの「原体剣舞連」を書いた1922年8月に、とりわけ「命のはかなさ」を感じていただろう事情として考えておきたいことがあります。それは、この頃にはトシの死は3か月先に迫っており、賢治にとってもう妹の命のはかなさは、逃れられない現実として目の前に立ち塞がっていたということです。同じ8月に彼は「イギリス海岸」という作品に、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐた」という言葉を書きつけていたことも、思い起こされます(「死ぬことの向ふ側まで」参照)。
 すなわち、トシがこのまま結婚できずに夭逝したならば、折口の説に従えばやはり「未完成霊」となって野山を彷徨うことになるという、そういう状況に賢治は置かれていたわけです。

 まさにそういう時期において、賢治は5年前に見た稚児剣舞に込められた「命のはかなさ」を、思わずにいられなかったのではないかと考えたりしています。

大内義隆の辞世

大内義隆像(龍福寺蔵) 大内義隆(1507-1551,右画像は Wikimedia Commons より)は、室町時代に周防、長門、石見、安芸、豊前、筑前の守護を務めていた、全国的にも屈指の有力大名でした。
 1528年に、父義興の死により家督を相続した義隆は、九州に出兵して北九州地方を平定し、さらに朝廷に働きかけて「大宰大弐」に叙せられました。これによって大内氏は、大陸との貿易の利権を一手に掌握し、明や朝鮮に対しては「日本国王之印」という通信符を使用していたということです。大陸との交易や、石見銀山の銀採掘で得た莫大な富を背景として、山口には「大内文化」と呼ばれる高度な文化が栄え、一時は戦乱で荒廃した京都を凌ぐとも言われました。
 しかし義隆は、その後半生においては、隣国の尼子氏との合戦で養嗣子の晴持を失ったことを契機に、政治的・領土的野心を喪失し、以後は学問や仏教を重んじ、和歌や連歌、芸能等の公家文化に親しむなど、専ら「文治政治」に傾いていきました。このため、家臣団のうちでも武断派と呼ばれる一派との関係が、徐々に険悪化していきます。ついに1551年、重臣の陶隆房が謀反の兵を挙げ、山口の大内館を襲われた義隆は、長門深川の大寧寺に追い詰められて、そこで一族とともに自刃して果てたのです(大寧寺の変)。
 この時に、大内義隆が詠んだ辞世の歌というのが、後世にまで語り継がれています。

つ人もうたるゝ人も諸共もろとも
     如露亦如電ニョロヤクニョデン応作如是観オウサニョゼカン

 下の句の漢文は、『金剛般若経』の一節で、「露のごとく、またいなづまのごとし。まさにかくのごとき観をなすべし。」などと読み下します。
 歌全体の意味としては、討つ人(陶隆房)も討たれる人(自分)も、ともにその命は、露のようにまた電光のようにはかないものである、しっかりそう心得ておかねばならない、というような感じでしょうか。ちなみに、ここで勝者となって中国地方西部~北九州の実権を掌握した陶隆房は、そのわずか4年後に、この地域の次の覇者となる毛利元就と戦って敗れ、自害に追い込まれました。まさに「討つ人」の運命も、あっけなかったのです。


 ところで、私はこの辞世の歌を読んだ時、思わず賢治の「原体剣舞連」の、次の一節を連想しました。

打つも果てるも火花のいのち
太刀の軋りの消えぬひま
   dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 何となく似ていますよね。
 いずれにおいても、戦いに勝つ者も負ける者も、その命はどちらも非常にはかないものだと歌い、そのはかなさを義隆は『金剛般若経』を引用して「露」と「電光(稲妻)」に比しているのに対し、賢治は「火花」あるいは「太刀の軋り」に喩えています。
 さらに、「原体剣舞連」のこの少し後には、

太刀は稲妻萓穂のさやぎ

という言葉もあり、ここでは先の「太刀の軋り」の「火花」は、「稲妻」に擬されていますから、まさに大内義隆の歌とつながります。

 ということで、私が想像したのは、賢治の「原体剣舞連」の発想の奥には、この大内義隆の辞世の歌のイメージが、何らかの形で関わっていたのではないか・・・ということです。
 賢治の時代において、この大内義隆の辞世の歌が掲載されている本としては、国会図書館デジタルライブラリーでインターネット公開されている範囲で調べると、次のようなものがありました。

 すなわち、明治の終わりから大正にかけて、大内義隆の辞世の歌はかなり広く取り上げられていたように思われますので、もしも賢治がこのような本を読んだり、その内容を耳にしたりしていたら、記憶に残っていた何かが、後に「原体剣舞連」に反映した可能性もあるのではないかと、思った次第です。

現代能「光の素足」

現代能「光の素足」

 先日の日曜日に、現代能「光の素足」公演を見に行ってきました。
 比較的最近、当ブログで「晩年文語詩と「離見の見」」という記事において、柄にもなく「能」に触れたことも、関心を抱いた一つのきっかけでしたし、またその記事でも書いたように、賢治が「臨死体験」をくぐり抜けたと思われることと、今回の中所宜夫氏による能舞台化のコンセプトが、どこか通じるように感じたことも、個人的に興味を惹かれたところでした。

国立能楽堂

 初めて訪ねた東京の「国立能楽堂」は、コンサートホールのような華麗さとはまた違って、威厳と格式のある建物でした。

国立能楽堂・能舞台

 この日、ここで上演された演目は、まず観世喜之氏による舞囃子「山姥」。観世喜之氏(矢来観世家・観世九皐会四世当主)は、今回の舞台を主宰する中所宜夫氏の師でもあります。
 室町時代に観阿弥・世阿弥が能を大成するにあたり、当時流行していた曲舞(クセマイ)を取り入れたことは芸術的に大きな飛躍だったということですが、中所氏が今回の能「光の素足」の後半において、賢治の世界を舞台上に描く際には、この「山姥」の曲舞を手本としたのだそうです。
 観世喜之氏の舞は、さすがに威厳に満ち洗練されたもので、まず最初に圧倒されました。

 次の演目は、山本則重、山本則秀の兄弟による、狂言語り「童話『ひかりの素足』より」。
 舞台上に文台を置いて、賢治の「ひかりの素足」のテキストが、狂言の語りで朗読されます。一郎と楢夫が、すでに地獄で恐ろしい鬼たちに追い立てられながら尖った瑪瑙の原を歩いている場面から始まり、一郎が無意識のうちに「にょらいじゅりゃうぼん。」と唱えることによって、「まっ白なすあしの大きな人」が現れるところまでが語られます。それにしても、この箇所で一郎が幼い楢夫を思いやる様子は、思わず涙がこぼれそうになりますね。
 そしてお話としては幻想的に答えが出ないままにこの語りは終わり、休憩の後、本篇の能「光の素足」に続きます。しかしこの狂言語りが、本篇のための背景を設定してくれているわけです。

 さて、現代能「光の素足」は、山の中で少年が一人、剣舞を踊っている場面から始まります。

「光の素足」台本冒頭

 八名の「地謡」が、地の底から湧き出るような声で、「ダーダーダーダーダースコダーダー・・・」と謡い出し、舞台に現れた少年は、「こんや異装のげん月のした・・・」と「原体剣舞連」の一節を高らかに唱えつつ、一人で勇壮な剣舞を踊りつづけます。この舞の中には、中所宜夫さんが岩崎鬼剣舞保存会から伝授された「型」も取り入れているのだそうで、その意味では「能」の舞としても、斬新な試みなのでしょう。
 するとそこに、不思議な「山人」が現れ、「おう見事なり見事なり若き人。されど何故この山中に。御身ひとりにて舞い遊ぶか。」と尋ねます。「御身ここにて舞いし有様。山の風をも轟かす勢い。まことに気圏の戦士と見えたり。」と・・・。

 この少年こそ、「ひかりの素足」において弟の「楢夫」を失った後も、一人生き延びた「一郎」だったのです。「我ハこの山里に一郎と云う者なるが。幼い日に弟と二人山に入り。吹雪に道を失い死に臨む。我一人のみ助かり。弟を地獄に残す。その日より我が眼にハ。異相の世界が映り。異界の者たちと言葉を交す。里の人我を狂人の如く思いなし。以って親しく交わらず されど我ハ狂人にあらず。ただ人の見ることかなわぬ。異相の世界を。我ハ見るなり。」
 一郎は、里人に狂人と思われ疎外されている孤独を、一人山中で剣舞を舞うことによって紛らそうとしていたわけです。ここで思い起こされるのは、宮澤賢治自身も、様々な「異相の世界」を見る人で、ことあるごとに「変人」扱いされていたことですね。賢治の具体的な異界体験は、『春と修羅』やその「第二集」にも記録されています。その意味で、ここに登場する「一郎」は、若き宮澤賢治の分身とも言える存在なのでしょう。
 この間、能舞台では、「心象の。はいいろはげねから。あけびの。つるハ蜘蛛(ママ)にからまり・・・」などと、一郎の「心象」が地謡で流れています。

 一郎は、目の前に現れた山人が、自分だけにしか見えないと思っていた「異相の世界」を見る人だと知り、何とかして自分のこの苦しみを逃れさせ給え、と懇願します。しかし山人は、「いや御身の心の苦しみハ。御身自らにて越え給え。」と諭し、ただ最後に、「さりながら。今夜星の祭りの時。再びここに来り給わば。我もまたここに来りてその助けともなり申さん。」と言い残して姿を消します。
 そして中入前の地謡。ここには、賢治が妹の死を哀しむ「白い鳥」の状況も投影されています。

山の日早く傾きて。山の日早く傾きて。あからみ渡る空に。樺の木の影も黒くなり。時に似合わぬ白い鳥の。大きな二疋が啼きかわし。そのかなしさに空を仰げばかの。山人ハひかりとなりて姿もみえずなりにけり姿も見えずなりにけり。

 それから、舞台は変わって「星の祭り」にちなみ、「間狂言」として賢治の童話「双子の星」のエピソードが演じられます。今度は狂言ですからちょっと面白おかしく、チュンセ童子とポウセ童子と、大烏、蠍のドタバタが繰り広げられるのです。衣装も、二人の童子は青と緑のチャイナ服のような感じ。
 それにしても、「あかいめだまのさそり、ひろげたわしのつばさ・・・」と、狂言調で謡われるところは、なんとも可笑しかったです。

 さて、この「間狂言」が終わると、一郎が再び登場します。「今夜星の祭りと。里の人が浮かれ騒ぎ。剣舞の声も盛んに上れど。それより離れてこの身一人・・・」
 そこに、昼間の山人が「光の素足」の姿で登場します。「不思議やな白き光に包まれるかと。思えば遠くに金色の。輝きあるかと見るうちに。巨きなる人来るかと見れば。白く大きな素足の人の。童子の如き面影あり。これは如何なる人やらん。」
 そこで山人こと「光の素足」は語ります。「これハ日の如く虚空に住む者なり。先に語りし言葉の如く。今ここに来り君にまみえ。君の苦しみ和らげん。さてもそも御身の舞いし剣舞の。詩(ウタ)も賢治の言葉なれば。今ハ賢治の魂となりて。君に言葉を交すなり。」
 つまり、前半で不思議な山人と見えた人物は、ここで宮澤賢治の「魂」となって舞台上に登場してきたわけです。

  そもそも「夢幻能」というものは、「晩年文語詩と「離見の見」」でも引用させていただいたように、「死者の世界から生者の世界を見る」という形式を取っており、多くの場合、亡霊や神仙、鬼といった超自然的な存在が主役(シテ)として登場し、生身の人間である脇役が彼の話を聞き出すという構造を持っています。ここでは、山人=光の素足が「シテ」として現れ、「ツレ」でありかつ若き日の賢治の面影も漂わせる一郎少年に、「賢治の魂」を語り聴かせるという形になっているのです。
 舞台において「光の素足」が語る「賢治の魂」は、主には「農民芸術概論綱要」に記された様々な言葉であり、その最初と最後は、「まづもろともに輝く宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」というフレーズで締められ、そして真ん中のクライマックスでは、あの「雨ニモマケズ」が「曲舞」で舞われます。
 そもそもこの部分は、能全体の中で最初に出来上がっていた箇所なのだそうです。以下、プログラムに記された中所宜夫氏の解説から。

 新作曲舞「雨ニモ負ケズ」は、賢治という人に対する私の疑問から生まれました。有名な「雨ニモ負ケズ」にしろ「農民芸術概論」にしろ、所詮実現不可能な理想論にしか思えない、まして「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」などと言われてしまっては、ささやかな幸福で満足しようとしている私などは一体どうすれば良いのでしょうか。しかし、そのあたりを自分なりに納得させて、賢治の抱えていた負のイメージである「前障いまだ去らざれば・・・」の言葉と妹トシ子への思いをつないでやれば、「雨ニモ負ケズ」と「概論」は表裏一体のものとなって、私の前に立ち現れて来ました。この過程を描くにあたり、曲舞という形式の持つ力は、それをそのまま一つの作品にしてしまったのです。この曲舞「雨ニモ負ケズ」を色々な場所で演ずるうちに、多くのお客様から賛同の言葉と、是非これを能にして下さいという励ましを頂戴しました。

 そのような人々の励ましを受けて、曲舞「雨ニモ負ケズ」を核として出来上がった能が、この「光の素足」だったわけですね。
 能に関してはまったく造詣のない私ですが、それでもこの「雨ニモマケズ」の部分の舞には、言いしれぬ迫力を感じました。

 最後に、「ともに銀河の塵となり無方の空にちらばらん・・・」に続く、締めくくりの地謡。

山の風をも轟かす。舞のちからを持つならば。言の葉の陰にも宿る。その力をも信じ給え。御身の今の苦しみハ。みずからこころを閉ざす故なり。いつか鎖を解き放れ。必ず大きな光となると。言うかと思えば光ハ失せて。眼を開けばもとの丘の草の。しとねの露に濡れて。遠く祭の声も響き満天に。銀河ハ溢れけり銀河の波ハあふれけり

 という言葉とともに消えていくシテ・光の素足を、ツレ・一郎は見送り、次いで一郎も退場していくのでした。
 ところで上の地謡の情景は、ジョバンニが銀河鉄道の旅を終えて、「丘の草」の中で目覚める場面にもなっているわけです。「ひかりの素足」も、「銀河鉄道の夜」も、二人が死の世界に赴き、一人だけが帰還する物語でした。そうするとこの能に登場する山人=光の素足は、ブルカニロ博士でもあったわけですね。

 賢治自身が「臨死体験」をしていたのではないか、という中所宜夫氏の直観と同様のことは、僭越ながら私も「晩年文語詩と「離見の見」」に書いてみたことでした。私は、それが彼の晩年の文語詩に現れる独特の(死者からのような)視点に関係しているのではないかと感じたのでしたが、中所氏は、童話「ひかりの素足」における臨死体験の生還者である「一郎」を生者の代表に据え、<賢治>に死者の側から語らせるという趣向を、夢幻能の次元で実現されたわけです。

 また私が少し前に、「『宮澤賢治イーハトヴ学事典』あるいは賢治データベース」という記事において勝手に考えてみた舞台に載せれば、この現代能も、広い意味で賢治の「世界」を土台とした、稀代の「二次創作」と言えるのかもしれません。

 まあそんな余談はさておき、とにかく素晴らしい体験をさせていただきました。

能「光の素足」謡本

【注】当初の記事では、一郎のことを誤って「ワキ」と記していましたが、中所宜夫様のご指摘により、「ツレ」と訂正いたしました。お詫び申し上げるとともに、中所宜夫様のご教示に感謝申し上げます。

伊藤卓美「剣舞の歌」
伊藤卓美氏の版画「剣舞の歌」

◇          ◇

 折口信夫は、『日本藝能史ノート』(中央公論社)の「念佛踊り」の章に、次のように書いていました(p.88)。

さて、少し話を念佛踊りの方へ向けたい。古は若い者の魂を後ほど怖れなかつた。まびくことも普通だつた。幼兒の死も、少年期から青年期にかけての人々の死も怖れなかつた。この信仰が段々變つて來た。御靈信仰は若くて恨みを呑んでゐる者の死靈であるといふが、若くてといふことは必須の條件ではない。もとは唯鬱屈した魂の祟りである。それが後に曾我兄弟や義經が出てくるに及んで、若さの観念がつきまとうて來るやうになつた。成年戒を受けずに死んだ者の魂は、里に残つてゐて他處へ行かぬので、次第にその扱ひに恐しさを感じて來て、それを祓ふ式を必要として來る。此が念佛踊りの一つの起原である。そして現存の大部分の田樂の基礎は、この念佛踊りである。

 岩手県地方に伝わる「剣舞(けんばい)」も、その起源は「念仏踊り」にあります。私は折口信夫の上の文章を読んだ時、はからずも賢治の「原体剣舞連」を連想してしまいました。

 賢治は地質調査で通りかかった江刺地方の原体村で、たまたま剣舞を目にして涙が出るほど心を動かされます。岩手で生まれ育った賢治ですから、それまでにも剣舞を見たことはきっと何度もあったはずなのに、この時にそれほどの感動をしたのは、原体村の剣舞はいわゆる「稚児剣舞」で、舞い手はみんな少年たちだったからでしょう。

うす月にひらめきいでし踊り子の異形を見ればわれなかゆかも 593
若者の青仮面の下につくといきふかみ行く夜をいでし弦月     605

 剣舞のルーツである念仏踊りが、もとは若くして死んだ者たちの霊を鎮めるための儀式だったとは、賢治はまったく意識していなかったでしょうし、彼が原体村の剣舞を見た際の感動と、このような由緒とは、関係のないことです。

 しかし、亡くなった少年たちの鎮魂のために、健やかな少年たちがけなげに踊る・・・。そのような情景を想像した時、私には「打つも果てるもひとつのいのち」という、「原体剣舞連」の最後の一行が、否応なく心に浮かんだのです。

 (今日の文章は、理屈のない連想のかけらでした。)

◇          ◇

   原体剣舞連(はらたいけんばひれん)

   dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
こんや異装(いさう)のげん月のした
(とり)の黒尾を頭巾(づきん)にかざり
片刃(かたは)の太刀をひらめかす
原体(はらたい)村の舞手(おどりこ)たちよ
(とき)いろのはるの樹液(じゅえき)
アルペン農の辛酸(しんさん)に投げ
(せい)しののめの草いろの火を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹(まだ)(かわ)と縄とをまとふ
気圏の戦士わが朋(とも)たちよ
青らみわたるこう気をふかみ
楢と掬(ぶな)とのうれひをあつめ
蛇紋山地(じゃもんさんち)に篝(かゞり)をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
   dah-dah-sko-dah-dah
肌膚(きふ)を腐植と土にけづらせ
筋骨はつめたい炭酸に粗(あら)
月月(つきづき)に日光と風とを焦慮し
敬虔に年を累(かさ)ねた師父(しふ)たちよ
こんや銀河と森とのまつり
(じゅん)平原の天末線(てんまつせん)
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
  Ho!Ho!Ho!
     むかし達谷(たった)の悪路王(あくろわう)
     まっくらくらの二里の洞
     わたるは夢と黒夜神(こくやじん)
     首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
     青い仮面(めん)このこけおどし
     太刀を浴びてはいっぷかぷ
     夜風の底の蜘蛛(くも)おどり
     胃袋はいてぎったぎた
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
さらにただしく刃(やいば)を合(あ)わせ
霹靂(へきれき)の青火をくだし
四方(しほう)の夜(よる)の鬼神(きじん)をまねき
樹液(じゅえき)もふるふこの夜(よ)さひとよ
赤ひたたれを地にひるがへし
雹雲(ひゃううん)と風とをまつれ
  dah-dah-dah-dahh
夜風(よかぜ)とどろきひのきはみだれ
月は射(ゐ)そそぐ銀の矢並
打つも果(は)てるも火花のいのち
太刀の軋(きし)りの消えぬひま
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻(いなづま)萱穂(かやほ)のさやぎ
獅子の星座(せいざ)に散る火の雨の
消えてあとない天(あま)のがはら
打つも果てるもひとつのいのち
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

◇          ◇

 賢治はこの詩の最後の10行に節を付けて、「剣舞の歌」として唄っていたということで、劇「種山ヶ原の夜」の中でも劇中歌として使用されます。
 下のファイルは、その節回しで宮澤清六さんが唄っていたソノシートをもとに、私が以前に編曲したものです(「歌曲の部屋」より)。

♪「剣舞の歌」(MP3:2.17MB)

 

まるめろ

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花巻産マルメロ

 花巻でお世話になっている方が、りんごと一緒に「まるめろ」を送ってくださいました。
 この一つの実を机の上に置いておくだけで、家じゅうが爽やかな甘い香りでいっぱいになります。

蛇紋山地に篝をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
   dah-dah-sko-dah-dah
                               (「原体剣舞連」)

栗の梢のモザイツクと
鉄葉細工(ぶりきざいく)のやなぎの葉
水のそばでは堅い黄いろなまるめろが
枝も裂けるまで実つてゐる
                               (「火薬と紙幣」)

けさはじつにはじめての凛々しい氷霧だつたから
みんなはまるめろやなにかまで出して歓迎した
                               (「イーハトブの氷霧」)

青じろいそばの花から
蜂が終りの蜜を運べば
まるめろの香とめぐるい風に
江釣子森の脚から半里
雨つぶ落ちる萓野の岸で
上鍋倉の年よりたちが
けさ集って待ってゐる
                               (「」)



たゝかひにやぶれし神(1)

 「文語詩稿 五十篇」の第二番目に収められている「〔水と濃きなだれの風や〕」は、私のとても好きな作品の一つです。

水と濃きなだれの風や、  むら鳥のあやなすすだき、
アスティルベきらめく露と、 ひるがへる温石の門。

海浸す日より棲みゐて、  たゝかひにやぶれし神の、
二かしら猛きすがたを、   青々と行衛しられず。


 初めの二行は、早池峰山を中心とした北上山地の自然を美しく雄大に描きます。透明で濃密な、まるで液体のような風が吹き、鳥たちは入りみだれ鳴きかわし、アスティルベの小さな白い花に露はきらめき、北上山地特有の大きな蛇紋岩も、風に揺れるかのようです。
 後半になると、一転して「たゝかひにやぶれし神」のことに想いが馳せられます。この「神」の正体は、これまでの研究でもまだ謎のままなのですが、たとえ具体的なモデルがわからなくても、この二行からは神話的で厳かな雰囲気が立ちのぼってきます。
 そして、最後の「青々と行衛しられず。」の結びに至って、読者の心には青々と重なる北上の山々の姿が残り、ふたたび前半で描かれた「自然」に戻るのです。

 ことにその前半部には、賢治独特の感性がきらめいていますが、全体は「五七調」のリズムのどっしりとした安定感に支えられ、まるで万葉集の歌の持つ響きにも通ずるような荘重さも感じられます。


 さて、ここでまた先日に続いて「神」の話になってしまうのですが、後半に出てくる「たゝかひにやぶれし神」について、です。
 信時哲郎さんは「近代文学ページ」の「文語詩稿 五十篇 評釈一」において、この神の正体について、(1)「早池峰の女神」説、(2)「インドラ神話」説、(3)「恐竜」説、というこれまでの研究者による三つの説を紹介し、結局は「正直言ってどれも決定力には欠けると言わざるを得ない」とまとめておられます。
 私は、これにさらに一説を加えるなどという大それたことをするつもりは全くないのですが、実はこの部分を読む時、自分の個人的な「思い入れ」というのがあります。
 それは、この「二かしら猛きすがた」を、蝦夷(エミシ)のリーダーとして朝廷軍に対し果敢に戦い、最後は征夷大将軍・坂上田村麻呂に投降してこの地から去っていった、阿弖流為(アテルイ)、母禮(モレ)という二人の武将に重ねる、という読み方です。

 781年に即位した桓武天皇は、東北の「まつろわぬ民」=蝦夷を征討しようと、786年に蝦夷征伐の動員令を発します。789年に、紀古佐美を将軍とした征討軍が派遣され、2万3000以上の兵を擁する朝廷軍は、当初は戦果を上げつつ進むように見えましたが、巣伏村(現在の水沢市あたり)で北上川を渡ろうとした時、アテルイとモレの率いる数百騎単位の蝦夷軍に急襲され、3000もの死傷者を出して敗退します。アテルイの活躍は、まさに「寡兵をもって多兵を破る」鮮やかなものだったと言われています。
 794年には、朝廷は10万もの大軍を派遣し、今度は蝦夷軍も応戦しきれず、胆沢と志波の地を失います。その後、征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、801年に4万の軍でさらに攻撃を仕掛け、802年に胆沢城を造成して強力な軍事的根拠地とします。ここに及んで、アテルイとモレは、これ以上の抵抗戦争はもはや不可能と判断し、軍勢500余名を率いて田村麻呂の前に投降しました。
 敗軍の将である二人は京都へ連行され、坂上田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず、河内国で処刑されたということです(『日本紀略』)。

 この辺のストーリーは、高橋克彦著の小説『火怨 北の耀星アテルイ』において、劇画調に活き活きと描かれており、興味をお持ちの方には一読をお勧めします。アテルイとモレというのがどんな人物だったのかということについて、史料的には何も残されていないのですが、この小説では、アテルイはすぐれたリーダーシップを持った勇敢な武将として、モレは智略に長けた参謀として登場します。そして二人の間の深い友情の絆が、なにより印象的です。(余談ですが、三谷幸喜脚本の一昨年のNHK大河ドラマ「新選組!」のファンだった者としては、「たゝかひにやぶれし」ところも含め、思わずこれは近藤勇と土方歳三の二人のキャラクターに重なり合ってしまいます。)

 さて、宮澤賢治とこれらの話の関連をあえてたどれば、アテルイがモデルになっていると言われる「悪路王」という存在に行き当たります。ご存じのように、『春と修羅』所収の「原体剣舞連」においてこの「悪路王」が登場するのですが、本来は剣舞と悪路王伝説は無関係なものと考えられていました。しかし中路正恒さんは、「ひとつのいのち考 ―宮沢賢治の「原体剣舞連」をめぐって―」という論考において、すでに現在は廃れてしまった剣舞の一つに、達谷に住む悪路王らしき鬼の討伐と関連する伝承を持ったものがあることを見出し、賢治がこのような伝説を耳にした上で、「原体剣舞連」の中に引用した可能性を示唆しておられます。
 いずれにしても、現在は江刺市に属する原体地区が、アテルイが大活躍した789年の「巣伏村の戦い」の主戦場でもあったことを思うと、不思議な因縁のようなものを感じます。


鹿島神宮「悪路王の首像」 河内国で処刑されたというアテルイとモレが、その後どこに葬られたのかは不明ですが、様々な伝説が残っています。大阪府枚方市の片埜神社の隣に、「アテルイの首塚」と伝えられる「塚」があり、私は一昨年にここを訪ねてみました。また、岩手県平泉町にある「達谷の窟」は、悪路王が田村麻呂に首を刎ねられた場所であるという言い伝えを持っています。さらに、悪路王は都で首を刎ねられたが、「切られた首は、叫び声を上げながら空を飛び、故郷へ帰った」という伝説もあります。賢治の「原体剣舞連」では、悪路王の「首は刻まれ漬けられ」ます。一方、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮には、「悪路王の首像」が伝わっています(右上写真)。

 つまり結局、「行衛しられず。」なのです。

 賢治が、アテルイとモレなどという古代の武将について知っていたかどうかはわかりません。知らなかった可能性の方が高いのではないかとも思います。
 しかし、もしも知っていたら、彼が早池峰山に登っている時に、はるか昔にこの北上山地を縦横無尽に駆けまわり、太古からこの地で暮らしてきた民を守り、最後は消えていった蝦夷のヒーローの「二かしら猛きすがた」を、追想したとしても不思議はなかっただろうと思います。

 しばらく個人的な都合のために更新ができませんでしたが、世情寒々しいこの師走の日々、皆さまお変わりなくお過ごしでしょうか。

 今日、久しぶりに家でテレビを見たのですが、12月4日に放送されたのを録画していた「イーハトーブ幻想~宮沢賢治・音楽への旅~」を再生してみました。「NHKアーカイブズ」と題して昔の番組を再放送しているシリーズで、もとの番組は1992年に制作されたものです。
 私は、当時は見ていなかったので初めての視聴でした。チェリストの倉田澄子さんがチェロをかかえて案内役となり、賢治のもと教え子の長坂(川村)俊雄さんや照井謹二郎さんらを訪ねて話を聴き、また佐藤泰平さんによる賢治歌曲の解説、こんにゃく座による「飢餓陣営」の野外上演、「鶏の黒尾を頭巾にかざ」った原体の稚児剣舞の様子など、とても盛り沢山な内容でした。ほんとうに貴重な映像がいっぱいで、再放送してくれたNHKにも感謝です。

「イーハトーブ幻想~宮沢賢治・音楽への旅~」 番組の構成は、倉田澄子さんによる「精神歌」のチェロ独奏(右写真)に始まり、花巻農業高校の卒業式における生徒たちの「精神歌」の合唱に終わるという形になっていて、さしずめこの歌が、全編を貫いています。小さくて見にくいのですが、右の画面中央には、賢治がうつむいて立つ例の写真の姿があります。実際に田んぼの中に、このような大道具をこしらえてあるようですね。

 またできたら近いうちに、「精神歌」について最近感じたことを書いてみたいと思います。

80年目の「異途への出発」(2)

 朝起きると、窓の外は雪景色でした(右写真)。知らないうちに、 夜のあいだにかなり降っていたようです。

 朝食をとってロビーで待っていると、8時30分に、花巻農業高校の阿部弥之さんが来られました。阿部さんとは、昨年後半から 「普代村に賢治歌曲のチャイムを作る計画がある」ということでご相談を受けて以来、花巻のりんごを送っていただいたり、 いろいろとご懇意にさせていただいていました。今回、私が三陸地方を旅行すると申し上げると、さまざまな便宜をはかっていただき、 本当に恐縮してしまうほどでした。

 今日はまず、阿部さんの車に乗せてもらって、イーハトーブ館に向かいました。 雪はまだどんどん降り積もっていくので心配になりますが、阿部さんによれば「今日はまだ優しい雪でよかったですね」ということです。 自動車は、昔の岩手軽便鉄道の跡に沿って走っていき、ここが昔の郡役所、稗貫農学校跡、女学校跡、などと阿部さんの解説つきです。 猿ヶ石川が北上川に注ぐあたりでは、木々はまさに「岩手軽便鉄道の一月」を彷彿とさせ、 「鏡を吊し」たように一本一本真っ白になっていました。
 イーハトーブ館の玄関前の石段は除雪してありましたが、一部は凍結してつるつるになっています。気をつけるように、 と阿部さんに言われながら館に入りました。2階の事務所に上がると、牛崎敏哉さんにお願いして、かなり昔に出ていた「原体剣舞連」 の宮澤清六さん朗読によるソノシートを聴かせていただき、ICレコーダに録音しました。朗読の最後の部分が、独特の節回しで歌曲 「剣舞の歌」 になっていくので、今度いつかこの曲を編曲する時の参考にするためです。
 2階の図書室から階下に降りると、「賢治曼陀羅展」というガラス絵の展覧会をやっていたので、しばらく見ていました。BGMとして、 私が昔に寄贈したCDが流れていて、 うれしいような恥ずかしいような変な気持ちです。

 イーハトーブ館をあとにすると、いよいよ三陸へ向かいます。そもそも今回の旅行で私は、 昨年秋に普代村にできた詩碑を見学するとともに、 ちょうど80年前の今ごろの賢治の旅の跡に、 ちょっとでも触れてみたかったのです。
 賢治のルートとは少しだけ違いますが、まず在来線で盛岡へ、盛岡からは新幹線で二戸まで行き、ここから太平洋岸の久慈まで、 バスに乗りました。雪に覆われた峠道を、バスはくねくねと進んでいきます。しかし天候は徐々に回復して、雪もやんできているようでした。
 久慈からは、三陸北リアス鉄道に乗って、南へ走ります。左手に見える海は、さすがに一面とても深い紺色をして、いかにも冷たそうです。 いくつかの鉄橋を渡り、午後4時頃に普代駅で列車を降りると、郵便局の職員の方が車で迎えに来てくれていました。 これも阿部さんからのご配慮の一環です。

 昨年の秋に建立された「敗れし少年の歌へる」詩碑は、 普代郵便局長の金子功さんが中心になり尽力して実現されたものですが、これからその金子さん運転の車で、北三陸海岸のドライブを楽しんだ後、 詩碑へも案内していただけることになったのです。
 ドライブは、まず「発動機船 一」に 「雑木の崖のふもとから/わずかな砂のなぎさをふんで/石灰岩の岩礁へ・・・」とある通称「ネダリ浜」(右写真) の白壁を黒崎の展望台から眺め、さらに夕暮れの北山崎海岸の展望台へと続きました。車の外に出ると、 とにかく北から吹きつける風がすごかったです。道路に電光表示される温度計には、マイナス5度と出ていました。

 金子さんのお話を聞きながらのドライブに、しばし時のたつのを忘れていましたが、さすがに北山崎海岸から国道に戻る頃には、 あたりは暗くなってきたので、この辺で引き返して堀内漁港の詩碑に向かいました。金子さんが詩碑を建立しようと思い立たれたいきさつや、 その後の苦労話についてもいろいろうかがいましたが、これはまた「石碑の部屋」で詩碑紹介のページを作成する時に、ご紹介することにします。
 漁港脇の「まついそ公園」にある詩碑に着いた時には、もう日はとっぷりと暮れて、フラッシュをたいて撮影するのがやっとでした。 しかし建立者じきじきに案内していただけるとは、詩碑フリークとしてこれに勝る光栄はありません。
 さて、ドライブはまだ終わりません。賢治が1925年1月6日の夜に宿泊し、「文語詩篇ノート」に「寒キ宿」として登場するのは、 野田村下安家にある現在の「小野旅館」の前身であるというのが現在の一応の通説となっていますが、「金子説」ではそうではなくて、 もう少し奥に入った「島川家」という旧家だったのではないかということで、その家の前にも車を走らせていただきました。少なくとも賢治は、 その家の裏手の旧道から山を越えて、下安家の集落に入ってきたのです。

 それから安家川の河口をまわって、今晩私が泊まる宿、問題の「小野旅館」に送り届けてもらいました。 金子さんには多大な感謝とともに、阿部さんからもらった花巻のりんごも、おすそ分けさせていただきました。
 今日のスケジュールはまだ最後にあと一つ、金子さんが帰られてからしばらくたった午後7時に、普代村の合唱団のメンバーの方が3人、 わざわざ宿に訪ねて来られました。お茶を飲みながら、詩碑の除幕式における合唱のこと、 そして賢治歌曲を題材とした普代村のチャイムの選考計画などについて、お話を聞きました。

 今日は最初から最後まで、本当にいろいろな方にお世話になり、イーハトーブの人情の暖かさに触れさせていただいた一日でした。 それに引きかえ80年前の賢治の旅は、まるでみずから進んで孤独を求めたようにさえ思えます。