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光太郎・食堂など補遺

 先日、「「聚楽の二階」の賢治と光太郎(2)」を書いた後に、入沢康夫氏の「賢治の光太郎訪問」(『賢治研究』80号, 1999)を、遅ればせながら読むことができました。本来ならばこれは、この問題について何か書こうとするなら真っ先に読んでおかねばならない基本文献だったはずですが、その内容も知らずに考察のまねごとをするなど、私の無茶もいいところでした。

 で、その入沢氏の「賢治の光太郎訪問」によれば、『〔旧〕校本全集』年譜に引用されていた手塚証言……賢治と光太郎と手塚武が、光太郎宅で会った後、上野まで歩いて「いっぱいやりながら鍋をつついた」という話……は、「校本全集編纂刊行が進行している最中に、手塚氏から天沢退二郎氏へ、そして堀尾氏へという経路で、書信によってもたらされたもの」で、「堀尾氏が、それまでの「玄関先での立ち話」説とはあまりに違う証言内容に驚き、手塚氏によくよく念を押したところ、手塚氏から「この記憶に絶対間違いはない」との確言があり、年譜に採用されることになった」という由来のものだったそうです。
 しかし、その手塚氏自身がはるか以前に「宮澤賢治君の霊に」と題した追悼文の中で、「僕はその機会を失した。今にして非常に残念に思ふ。高村さんだけが逢つた。後で草野君と高村さんを訪ねた時、いろいろ君の話をきき・・・」と書いていることをあらためて再発見し報告したのが、入沢氏のこの「賢治の光太郎訪問」でした。入沢氏はこの論考の最後を、

 このことに気付いてからの私の気持は、「後年の手塚武の記憶には、誰か別な人との会食の記憶が(賢治について後日得た知識も加わって)混入したのではないか」とするほうに強く傾いている。関係者がひとりも生存しない今、決定的な答は出ないのかもしれないけれども。

と結んでおられます。
 すなわち、「別人混同説」を、はっきりと一つの可能性として打ち出したのは、この入沢論文が嚆矢であったようで、その priority は、ここで再確認しておきたいと思います。私の記事は、そんなことも知らずに書いた不躾なものでしたが、意図せずその説の末席を汚していたわけです。


 あともう一つ、それより以前に書いていた「公衆食堂(須田町)」という作品の舞台をめぐっては、「賢治の事務所」の加倉井さんが、「緑いろの通信」3月3日号でふたたび取りあげていただいています。その考察において加倉井さんは、作品舞台の有力な可能性として、「昌平橋簡易食堂」を挙げて下さいました。たしかに、「須田町」からの距離としては非常に近い場所に位置しており、気になるところです。

 ここで、記事へのコメントでいただいた説も含め、もう一度、候補地を整理してみます。

 
公衆食堂◯
公衆食堂X



(存在しない)
神田青物市場内の民間食堂



上野公衆食堂
神田橋公衆食堂
昌平橋簡易食堂


 上記で、「神田青物市場」というのは、関東大震災の頃まで、神田須田町一丁目、神田多町二丁目付近一帯に発展していた東京最大の青果市場で、町の中に市場があるというよりも、「市場の中に町がある」という状況だったそうです。現在も、須田町1丁目10番地には「神田青果市場発祥之地」という石碑が立っているそうです。
 そのような神田市場の中には、市場に集うたくさんの人々を当て込んだ安い食堂がいくつもあったということを、塩見さんがコメントでお知らせ下さいました。これはまさに、「須田町の食堂」ということになります。

 下段左の「上野公衆食堂」は、当時の賢治の生活から、最も訪れた可能性が高いと私が推測した公衆食堂、「神田橋公衆食堂」は、1921年の時点で最も須田町に近かったと考えられる公衆食堂です(直線距離700m)。

 今回、加倉井さんが推挙していただいたのが下段右の「昌平橋簡易食堂」で、何と言ってもこの店は、旧須田町交差点まで直線距離ならば220mほどという、「須田町への近さ」が注目点です。中村舜二著『大東京綜覧』(1925)でもわざわざ一項を立てて紹介されていますが、これは、中村舜二氏自身が東京市議時代に、この店の開設に関与したことにもよるでしょう。

 私としては、題名の「公衆食堂」という言葉を文字通り受けとるか、現在の「大衆食堂」に相当するような一般的意味で用いたと考えるか(当時そのような用法があったかはわかりませんが)、というところが一つの分かれ目かと思うのですが、いずれの店とも決めがたい状況です。

 加倉井さんがおっしゃるように、「結局のところ諸説さまざまです。」

昭和4年頃の須田町界隈
昭和4年頃の須田町界隈。左上の方に「堂食町田須」の看板が見える。
(『聚楽50年のあゆみ』より)

 前回の記事では、「公衆食堂」とはどういうものだったのかということについて、少し整理をしてみました。これを念頭に置きつつ、前々回の記事につづいて、「公衆食堂(須田町)」という作品の舞台について考えてみます。

    公衆食堂(須田町)

あわたゞしき薄明の流れを
泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら
食器の音と青きむさぼりはいともかなしく
その一枚の皿
硬き床にふれて散るとき
人々は声をあげて警しめ合へり

 わざわざ題名に(須田町)と書いてあるのですから、この食堂が、大正末期から東京各地に多数の支店を出して賑わった「須田町食堂」ではないかと推測するのも、一つの当然の考え方でしょう。
 しかし、私としては、これは「須田町食堂」ではなくて、上野(下谷坂本町)に当時あった「公衆食堂」における情景なのではないかと、思うのです。そう考える理由について、以下に書きます。


1.作品の書かれた時期

 この「公衆食堂(須田町)」という作品は、前回も述べたように、「「東京」ノート」の「一九二一年一月より八月に至るうち」という見出しの付いた部分に記されています。「一九二一年一月より八月」と言えば、ちょうど賢治が家出をして東京で国柱会の活動やガリ版切りの仕事をしながら、一方で初期の童話を書いていた時期にあたります。
 ノート上でこの作品の前後には、「雲ひくく桜は青き夢の列/汝は酔ひしれて泥洲にをどり」という、関豊太郎博士との花見(1921年4月頃)の情景を題材としたと思われる短歌や、「われはダルゲを名乗れるものは/つめたく最后のわかれをかはし・・・」という、保阪嘉内との別れ(1921年7月頃)に関連したと思われる断章など、いずれもこの家出上京中の出来事が反映したテキストが並んでいます。したがって、これらに挟まれて存在する「公衆食堂(須田町)」も、やはりこの頃の体験に由来していると考えるのが、まずは自然だと思います。
 ただ、「「東京」ノート」そのものは、1930年(昭和5年)頃に書かれたと推定されているものです(『【新】校本全集』第十三巻校異篇p.33)。それ以前の何らかの草稿をもとにして、東京における作品群をこの時期にまとめて記入したと思われますが、1921年から1930年までにかなりの時間経過はありますから、その間の上京、すなわち、1923年、1926年、1928年の賢治の東京における体験が、「「東京」ノート」のこの箇所に挿入されたという可能性も、完全には否定できません。
 しかし、文語体で短い断章を連ねていく作品スタイルは、やはり1921年頃に書かれたと推定される「冬のスケッチ」にも類似しており、1923年~1928年頃の賢治の詩作品とは、明らかに異なるものです。
 すなわち、やはり「公衆食堂(須田町)」は、1921年(大正10年)の上京中の体験にもとづいているのだろうと、私としては推測します。

 そこで、「須田町食堂」の方の歴史を振り返ると、実はこの大正10年には、まだ「須田町食堂」は開業していなかったのです。下の画像は、現代の「須田町食堂」のパンフレットから抜粋したものですが、ここに書いてあるように、最初にこの食堂が創業したのは、大正13年(1924年)のことでした。

須田町食堂パンフレット

 したがって、もしも「公衆食堂(須田町)」という作品が、1921年(大正10年)の上京中の体験にもとづいていたとすれば、その舞台は「須田町食堂」ではありえなかったことになります。
 一方、前回「大正期東京市の「公衆食堂」」という記事で見たように、1921年(大正10年)には、すでにいくつかの「公衆食堂」が東京市内に開設されて、かなり繁盛していました。まず、1920年(大正9年)4月に、公衆食堂第一号としてオープンした「神楽坂公衆食堂」と、さらに同年中にできた「上野公衆食堂」が存在し、「当時非常に好評を博し利用者は多」かったことが記録されています。これらに続いて、「大正10年度(1921年度)」の開設とされているのが、日本橋、神田橋、本所の各食堂ですが、これらのうちにも、賢治のいた8月までに営業を始めていたものがあった可能性もあります(『外食券食堂事業の調査』より)。
 すなわち、「公衆食堂」であれば、十分に作品の舞台となりうるのです。


2.食堂の雰囲気・等級

 さて、作品「公衆食堂(須田町)」における食事風景の描写からまず浮かび上がるのは、慌ただしく黙々と、「むさぼり」「飯を食む」ことにのみ集中している人々の姿です。そこには「都市の孤独」が感じられると前々回に述べましたが、それとともに、「われら」という一人称の視点や、「警め合」うという人間関係から、どこかにそこはかとない「仲間意識」のようなものも潜在しているように思える、とも書きました。
 このような、知らない客同士の「仲間意識」、あるいは食堂の「おばちゃん」や「おっちゃん」との間に醸し出される一種の「疑似家族意識」というものは、一昔前まで、いわゆる「大衆食堂」においては体験することのできるものでした。
 次の文は、遠藤哲夫ほか著『大衆食堂の研究』(三一書房)という本の中にあった、昭和30年代の「大衆食堂」に関する記述です。

 食堂の家族がいて、黒い学生服を着た男、汗をたっぷりかいた印半纏の男、油のにおいがする作業服の男、白い開襟シャツの会社員、東京育ちのやつも上京したてのやつも、いろいろな欲望をかかえて、みーんな一緒にめしをくった。

 この描写は、まさに賢治の「公衆食堂(須田町)」において、「飯を食むわれら」の面々と想定しても、ぴったりくるものです。「上京したてのやつ=賢治」の姿まで、入っているではありませんか。私が、「仲間意識」と呼んだものを、遠藤氏はもっと端的に、「食堂の家族」と名づけたわけです。
 そして、ここが大事なところなのですが、このような「連帯感」は、上品にとりすましたレストランなんかには決して生まれるものではなくて、貧しい中で必死に飯を食う「仲間」だからこそ、共有されるものだと思うのです。
 つまり、「公衆食堂(須田町)」の舞台となった食堂は、そのような「大衆食堂」的な場所だったはずです。

 さて一方、「須田町食堂」の方はどうだったのでしょうか。こちらも、決して高級な店ではなく、コストパフォーマンスの良さで当時の客を引きつけたのだそうですが、上に掲載したパンフレットの一節には、「華やかな大正文化を彩る文豪や文化人、さらには政治家、芸人、力士など各界の著名人にも愛され親しまれたと云います」と書かれています。もしもこれが事実なら、「大衆食堂」とは少しランクが違ってきてしまいます。
 ただ、上のパンフレットは店側が宣伝のために作ったものなので、多少は華やかな面を誇張して表現している可能性もないとは言えません。

『大東京うまいもの食べある記』(昭和8年) そこで、より同時代に近い客観的な資料として、昭和8年に刊行された、白木正光編『大東京うまいもの食べある記』(丸ノ内出版社)という本を見てみます。現代のグルメ本のはしりのようなものですが、これは、当時かなり評判を呼んでベストセラーになったものだそうです。
 この本の中に、「須田町食堂」の上野駅地下支店の説明と、レポート記事が掲載されている箇所があるのです。当時、すでに「須田町食堂」は東京市内に何軒もの支店をチェーン展開して急成長していましたが、この上野駅地下支店は、その中でも大規模な店舗だったようです。店の雰囲気も、支店の中ではかなり上等な方なのでしょう。

◇須田町食堂 ― 驛の地下室に明治製菓喫茶部と並んでありますが、場内も廣く、大衆向と云ひ條、装飾設備も立派なもので、驛食堂として実に模範的食堂です。
                  ―― ◇ ――
S 「これはまつたく立派だ、例の須田町食堂の先入観で尻込む人があるかも知れんが、こゝなら誰が來ても恥かしくないね」
N 「同感、この天井のあかり取りなど、まがひものだが、全部ステインド硝子ですよ、それに女給さんが松坂屋の食堂に輪をかけた丁寧さも特筆に値ひします」
H 「早速お茶の熱いのと取替へて呉れるなど訓練も満点」

 こゝの朝定食(二十銭)を試食すべく早朝に動員されて些か不機嫌だつた食べ歩き同人達も、第一印象の好感にすつかり氣をよくする。やがて誂えた定食が運ばれる。献立、揚げと葱の味噌汁。焼海苔。白菜。大根、馬鈴薯に小間切肉のごつた煮。それに香の物。御飯も一人一人櫃に這入つて茶碗が添へてある。

N 「註文してから恰度十一分かゝりましたが、定食としては少し時間を食ひ過ぎますね、氣ぜはしい驛食堂であり、それにお定まりの定食で見たところ特別時間のかゝる献立でもないのに、これはもつと短縮の工夫がほしい」
S 「献立は二十銭にしてはよいな、焼海苔にわさびを添えたのもなんでもないやうで氣がきいて居る、味噌汁も普通の甘辛味噌を使ってゐるが味は悪くない、但しごつた煮はから過ぎて一寸いたゞきかねる」
H 「牛鍋、よせ鍋共に(卅銭)ホウその上に湯豆腐(十銭)がありますよ、すべての卓に電熱装置があるし、全く豪勢なものですね」

 上の状況が、すべての「須田町食堂」に共通というわけではないのかもしれません。しかし、総体として私が感じるのは、これは現代に移し変えてみると、「大衆食堂」というよりも「ファミリーレストラン」に近い存在だったのではないか、ということです。上に紹介されている須田町食堂においては、価格が安いこともセールスポイントの一つではありますが、それに加えて、「小綺麗さ」や「サービスの良さ」なども大きな売りにしているところが、まさに「ファミレス的」です。チェーン展開していたところも、また似ています。

 で、「公衆食堂(須田町)」という作品に戻ると、この作品に見られるような「大衆食堂的猥雑さ」や「仲間意識」は、現代のファミリーレストランに行っても感じられないのと同様に、当時の「須田町食堂」にも、なかったのではないかと思うのです。


3.題名についてどう考えるか

 というわけで、「須田町食堂説」に否定的な見解を述べてきましたが、それでは、「公衆食堂(須田町)」という題名については、どう考えたらよいのでしょう。

 ここでまず確認しなければならないのは、当時、須田町に「公衆食堂」は存在しませんでしたから、題名における「公衆食堂」という部分と「須田町」という部分は、どうしても両立しないということです。論理的に考えると、(1)「公衆食堂」が正しくて「須田町」が誤りか、(2)「公衆食堂」が誤りで「須田町」が正しいか、(3)両方とも誤りであるか、3つのうちのいずれかであるということになります。
 最初の(1)が、私の考えに相当しますす。
 (2)については、その中の有力な可能性が「須田町食堂説」でしたが、それが考えにくいことは上に述べました。「須田町食堂以外の、須田町内の別の食堂」という可能性もありますが、これについては資料がありません。少なくとも、当時の須田町内に、ある程度有名な「大衆食堂的」な店があったという証拠は見つけられませんでした。
 (3)に至っては、ほとんど題名としては無意味だったということになってしまいますが、強いてこの線で「公衆食堂」ではない「大衆食堂的」店舗を挙げれば、大正6年に芝区新幸町に開業した「平民食堂」と、大正9年に神田にできた「昌平橋簡易食堂」があります(『大東京綜覧』、『外食券食堂事業の調査』)。後者は、須田町からも近いということで多少の関心は引かれるところです。また、賢治の下宿や勤め先の文信社から近いところとしては、当時やはり安い洋食屋として人気を博していた、「本郷バー」という店があります。大正5~6年頃に創業して、ライスカレーが5銭、カツが7~8銭という安値が評判を呼んで、勤人、学生、車夫、小僧さんなども多く利用していたということですから、賢治も東京滞在中に訪れた可能性は考えられます。しかしいずれにしても、「公衆食堂(須田町)」が、実は「昌平橋簡易食堂」あるいは「本郷バー」のことだったというのでは、あまりにも名前に関連がなさすぎます。

 結局、私としては(1)を採用して、賢治がある夕方に食事をしてこの作品の舞台となったのは、「須田町」ではないけれども、どこかの「公衆食堂」だったのではないかと考えます。
 「公衆食堂」という言葉の方を重視するのは、大正10年にはまだ各地の開設が始まって間もなかったものの、「当時非常に好評を博し利用者は多」かったという話題性、「公衆食堂」という新たなネーミングが与えたであろう印象などを考えると、実際に賢治が「公衆食堂」で食事をして、それを正しく題名に記録した可能性が高いと考えるからです。
 この場合、残念ながら(須田町)の方は誤りと考えざるをえません。なぜ(須田町)という言葉が書かれたのかはわかりませんが、たとえば、その後の賢治の上京(1926年、1928年)において、今度は賢治は「須田町食堂」の新たな繁盛ぶりについて耳にしていて、その記憶が、1930年(昭和5年)頃に「「東京」ノート」に作品を記入する際に、混入してしまったのかとも思ったりします。ことに、1926年12月の上京時には、須田町からも遠くない神田錦町の上州屋に1ヵ月近く滞在して、いろいろと活動を行っていますから、この間に実際に「須田町食堂」を訪れた可能性もないとは言えません。


4.では、どこの公衆食堂か

 最後に、賢治がこの作品の舞台としたのが、1921年(大正10年)当時あった「公衆食堂」のいずれかだったとすると、その中のどこだったのか、ということが残された問題です。
 時はまだ関東大震災前で、上にも述べたように、すでに「神楽坂」と「上野」には、前年から開業している公衆食堂があり、また大正10年度(1921年度)のうちには、「日本橋」、「神田橋」、「本所」の3ヵ所も営業を始めます。


A: 賢治の下宿; B: 文信社; C: 国柱会本部; D: 帝国図書館
1: 神楽坂公衆食堂; 2: 上野公衆食堂; 3: 日本橋公衆食堂; 4: 神田橋公衆食堂; 5: 本所公衆食堂

 上の地図で、緑色の(A)、(B)、(C)、(D)が、賢治が1921年の上京中に、最も足繁く動いたであろう活動拠点です。
 赤い(1)、(2)、(3)、(4)、(5)が公衆食堂の位置ですが、(1)の神楽坂と(2)の上野は、1920年のうちに開業していたのがわかっている店舗です。(3)、(4)、(5)は、1921年度中には開業しましたが、賢治が東京にいた8月までに、どれが確実に営業開始していたかということはわかりません。
 さて、この地図で見ると、公衆食堂のうちでは、(2)の「上野公衆食堂」が、何と言っても賢治の生活圏に最も近接して存在していたことがわかります。おそらく賢治の典型的生活としては、朝に下宿(A)を出て、午前中(4時間?)文信社(B)においてガリ版切りの仕事をし、そして昼から国柱会本部(C)へ行って、種々の奉仕活動をしていたと思われます。上野公衆食堂(2)があった下谷坂本町は、上野鶯谷にある国柱会で午後の活動を終えて、下宿へ帰る前に夕食をとるとすれば、格好の位置になります。
 (1)の「神楽坂公衆食堂」も、下宿から3km余りで、時々食事に行くのは十分可能です。また(4)の「神田橋公衆食堂」はやや遠くなりますが、問題の「須田町」には最も近い場所にあります。(3)の日本橋公衆食堂や(5)の本所公衆食堂は、平素の生活圏の中とは言えないでしょうが、日本橋には、東京滞在中なにかと世話になった、小林六太郎氏の家がありました。

 結局、賢治の日常の動線に最も沿っていて、作品のように夕方に訪れる可能性が高かったのは、(2)上野公衆食堂ということになり、この店舗が、「公衆食堂(須田町)」の作品舞台として、まず候補に挙げられるのではないかというのが、現時点での私の考えです。
 長々と書いてきた割には、もう一つぱっとしない結論ですが、作品が1921年の体験であること、場所が「公衆食堂」であること、という2つの仮定から出発すると、こういうことになりました。

大正期東京市の「公衆食堂」

 作品「公衆食堂(須田町)」の題名になっている「公衆食堂」という言葉は、現在は使われていません。よく似た言葉で、今も使われる「大衆食堂」という呼称があって、これらはだいたい同じような意味なのかと当初私は思っていたのですが、調べてみると、これが実は違っているようなのです。
 遠藤哲夫ほか著『大衆食堂の研究』(三一書房)という本によれば、「大衆食堂」という言葉が一般に使われるようになったのは、昭和初期以降と推定されています。当時からこの「大衆食堂」という言葉が意味していたのは、民間の経営で比較的低廉な食事を供する食堂のことで、現在使われているのと同義です。
 これに対して「公衆食堂」とは、1918年(大正7年)に全国的に発生した「米騒動」を受け、東京市が1919年(大正9年)に神楽坂に開設した市営の食堂を第一号として、その後東京の各地に設置された、庶民のための公営の食堂のことなのです。最盛期には16ヵ所ほどになったそうですが、あくまでこれは「官」が実施する救貧的な公益事業であり、民間の食堂のように営利を目的とするものではありませんでした。(そう言えば「公衆便所」とか「公衆電話」も、「官」が「民」のために設置したものだったことを、思い出します。)

外食券食堂事業の調査(東京都民生局) 東京都民生局が1949年(昭和24年)にまとめた「外食券食堂事業の調査」というガリ版刷りの報告書があって、その中の「公益食堂の意義および歴史的役割」という項に、下のような記述があります。なお、ここでは民間設立のものを含めて、「公益食堂」という呼称が用いられていますが、大正時代から昭和初期における一般的呼称は、前述のように「公衆食堂」でした。

 公益食堂は庶民の食生活難を排除し、社会不安を緩和するところにその意義を見出す事が出来るのであつて、即ち本都に於ける公益食堂設立の嚆矢は、大正六年一月に社会政策事業団によつて芝区新幸町に設立された平民食堂であるが、当時既に物価は暴騰の一途をたどり、殊に著しい米価の騰貴(註、大正六年一月の16円37銭が年末には23円86銭、七年末には40円59銭)のため庶民生活は極度に困窮し、その設立は誠に時宜を得たものであつたが、遂に大正七年八月富山県滑川町の漁夫の主婦50人による米価廉売懇願運動を契機として、全国的に米騒動が惹起して、政府は急遽その対策として米廉売所、公益市場、公益食堂等の施設の設置に努力し、かくて公益食堂は米騒動を直接の動機として国家的背景のもとに全国都市に続々発生した。
 しかし東京府、東京市直接の設立はこれに遅れ、大正九年四月に牛込区神楽坂に市の施設として、この種の食堂を開始したのが最初であり、引続き同年中に上野食堂が開設され、この設立目的として一般公衆に対し低廉にして栄養に富む食事を供給することを表示したので、当時非常に好評を博し利用者は多く、その成績は極めて良好であつた。次いで大正十年度に入ると三菱合資会社より25万円の寄附があつたので市内五ヶ所に食堂増設の計画を樹て、日本橋、神田橋、本所の各食堂は次々と事業を開始し、三味線堀食堂も又建築落成し事業開始準備中のところ偶々大正十二年九月の大震火災に遭遇して、神楽坂食堂を除いて全部消失したのであるが、この災害によつて市民生活は徹底的な被害を被り、ここに益々食堂の必要が叫ばれるに至り、取敢えず府は東京府社会事業協会に委託して、日暮里、寺島、大島の臨時宿泊所に簡易食堂を併設せしめ、市も又震災善後会の寄附金15万円で市内に10ヶ所の仮設食堂を設けた。しかしその後震災地の復興と共に区劃整理その他の関係から仮設食堂は漸次閉鎖され、大正十五年末には九段、両国、上野、神楽坂の4ヶ所のみが残されたのであるが一方では内務省交附金25万円を得て5ヶ所の増設計画が持たれ、この結果として眞砂町、猿江、大塚、丸の内が事業を開始した。又これとは別に、首都復興事業として50万円の予算で大正十三年度より五ヶ年計画により、三味線堀、神田、柳島、九段、相生町(緑町)、上野、新宿茅場町、田町、深川、の計10ヶ所が開設された。これら食堂を設立順に示すと第1表の通りである。

第1表 市設公益食堂一覧

 これは、第二次大戦後になってからの歴史的な回顧ではありますが、米騒動や関東大震災に影響されながら、東京の「公衆食堂」ができていく過程が整理して記述されているので、あえて長文を引用しました。

「東京市設社会事業一覧」(大正14年)より「公衆食堂」 次に、同時代における記録として、東京市社会局が1925年(大正14年)に刊行した、「東京市設社会事業一覧」という文書を見てみます。
 右が、その「事業要覧」という項目の中の「公衆食堂」の部分で、大正14年4月1日現在の状況ということです。先に引用した「外食券食堂事業の調査」で述べられた歴史的流れに位置づけると、これは関東大震災後に10ヶ所の「仮設公衆食堂」が設けられた後、徐々にその整理が進んでいた時期に当たりますね。
 この時点で、正式の「公衆食堂」としては、震災を生き延びた「神楽坂公衆食堂」があり、あとは、神田、日本橋、両国、本所、三味線堀、深川、丸ノ内、九段、上野の9ヵ所に、「假設公衆食堂」があります。

 最下段に、各店共通の至ってシンプルなメニューとその値段が示されていて興味深いですが、「定食」が朝は10銭、昼と夜は15銭、「うどん」が種物は15銭、普通が10銭、「牛乳1合」が7銭、「パン(ジャムバタ付半斤)」が8銭、コーヒーが5銭、となっています。
  1921年(大正10年)、賢治が家出上京中に母イチあてに出した手紙(書簡193)に、「食事も十二三銭出せば、実に立派なものです」との記述がありますが、だいたいそのレベルに相当する価格です。

 別のページに掲載されているこれらの食堂の利用者数を見ると、最も繁盛していたのは「丸ノ内假設公衆食堂」で、大正13年4月から大正14年3月における一日平均の朝定食の販売数が1048食、昼定食は1442食、夜定食が1146食で、これはまさに驚くべき数字です。いったいどれほど大規模な食堂だったのだろうと思いますが、上に掲げた「外食券食堂事業の調査」の「第1表」を見ると、丸ノ内食堂の座席数は202で、お昼には7回転以上していたことになります。これが「平均」の数値というのがすごいですね。
 公衆食堂の利用者数ランキングは、これに次いで、「神楽坂公衆食堂」、「上野假設公衆食堂」という順になっていますが、これらの店でも、やはり一日平均一食あたり数百食から千食以上が出ています。

『大東京綜覧』 あともう一つ同時代的な記録として、東京市会議員の中村舜二という人が1925年(大正14年)に刊行した、『大東京綜覧』という本の、「公衆食堂と其利用者」という項の一部を引用しておきます。

 學生勞働者は云ふに及ばず、所謂洋服細民や獨身生活者、その他一般庶民階級に非常に歓迎せられて居るのが、近時の所謂公衆食堂である。
 歐米諸國では、簡易軽便本位の公衆的食堂は、公共的にも營利的にも夙に發達して居るが、日本では未だ創設時代とも云ふべき新しき試みの一つである。大正六七年の交と記憶するが、彼の社會事業家の加治時次郎氏が、一食拾銭の平民食堂を新橋に開設したのが、聊もこの事業の皮切りである。その後神田慈善協會の経營に係る昌平橋簡易食堂が同じく一食拾銭を標榜し、純乎たる非營利の社会事業として、大正九年十一月から開業し、大に人氣を集めたのに刺激され、東京市の社會局が大正十年五月に、先づ下谷區坂本町に開設したのを手始めに、段々と數を増して最近に至つて居る。

 この文章に続いて、「東京市設公衆食堂入場者数並發賣金額表」というものも掲載されていて、それによれば「大正13年中」の11ヵ所の公衆食堂の延べ入場者の合計は、何と1186万0774人となっています。当時の東京市の人口は約220万人でしたから、この数字の大きさがおわかりいただけるでしょう。また、一人一食平均の単価は、12銭ということでした。
 なお、上の文章では、市営の公衆食堂としては、「東京市の社會局が大正十年五月に、先づ下谷區坂本町に開設したのを手始めに」と書かれていますが、これは最初に掲げた「外食券食堂事業の調査」によれば二番目に開設された、「上野食堂」のことではないかと思われます。


 いずれにしても、これらの資料からわかるのは、市営の「公衆食堂」という存在が、いかに大正時代後半の東京市民、とりわけ「一般庶民階級」に、爆発的に浸透したかということです。
 大正10年、12年、15年、昭和3年に上京している賢治のことですから、そのような東京の状況は当然よく知っていたはずで、作品題名に「公衆食堂」とあれば、この東京市営食堂のことを指していたと考えるのが、最も自然です。

 しかしここで、その題名には、「公衆食堂(須田町)」とあるのが問題です。今回挙げたどの文書を見ても、「公衆食堂」が須田町に存在した、という記録はないのです・・・。

[ つづく ]

 「「東京」ノート」に記されていた、「公衆食堂(須田町)」と題された作品があります。「一九二一年一月より八月に至るうち」という見出し(?)のもとに、◎印で区切られた断章のようなものが多数並んで記されている中の一つですが、これには題名が付けられているので、いちおう独立した一つの詩作品と見なしてよいものでしょう。
 下記が、その全文です。

    公衆食堂(須田町)

あわたゞしき薄明の流れを
泳ぎつゝいそぎ飯を食むわれら
食器の音と青きむさぼりはいともかなしく
その一枚の皿
硬き床にふれて散るとき
人々は声をあげて警しめ合へり

 人生には、いろいろな「食事の風景」というものがありえます。よく、「食事は人とのコミュニケーションの象徴である」と言われ、ホームドラマで食事場面がしばしば登場するのも、それが人間関係における何かを表現する、格好の舞台設定となるからでしょう。
 で、賢治を含むこの「公衆食堂」での食事風景から感じられるのは、まず何より「都会の孤独」です。時刻は日も暮れてきた夕刻、客は仕事や学校を終えた労働者や学生なのでしょう。みんな慌ただしく黙々と飯を食っている様子を、賢治は「いともかなしく」と描写します。
 しかしその孤独の一方で、2行目に「われら」という一人称複数の視点が出てきます。おそらく賢治は知人と一緒に食事に来たわけではなく一人なのだと思いますが、この「われら」とは、偶々この朝に、食堂で一緒に「飯を食む」ことになった者全体を指すのでしょう。また最後の行で、周囲から飛んだ「警しめ」の言葉とは、「気をつけろ!」とか「もっと落ち着いて食え!」などだったのかもしれませんが、一見すると殺伐とした食事風景ながら、ドジを踏んだ者を「罵る」のではなく「警しめ合」うというところにも、この食堂に会した他人同士の間に通じている、何かの「仲間意識」のようなものを私は感じるのです。
 つまり、この場末の食堂にあるのは、群衆の中の孤独であるとともに、その都会で懸命に日々を生きつつ今夕たまたま一緒に飯を食っている者同士の、そこはかとない「連帯感」でもあるのです。

 「「東京」ノート」に記されている見出しの日付(「一九二一年一月より八月」)からすると、これは賢治が家出上京していた頃の情景かと思われます。田舎から独り東京へ出て来た賢治は、このように急ぎ食事をとっては家に帰る日常において、「本当に都会で一人暮らしをしている」ということを、心から実感したのではないかと思います。


 ところで、この作品の舞台となった「食堂」がいったいどこだったのかということが、どうしても気になるところです。作品の題名には、賢治がわざわざ(須田町)と記入していることから、これは大正末期から東京でチェーン展開を行っていた、「須田町食堂」ではないかという説があります。
 当時、「須田町食堂」を経営していた「聚楽」という会社は、実は現在もホテルやレストランを多数経営している大会社ですが、ちょうど最近になって、懐古的にまた「須田町食堂」という名前をリバイバルさせて、秋葉原に店舗を出しているところです。

須田町食堂

 上の写真は、私が以前ちょっとしたついでに、その新版「須田町食堂」に行ってみた時のものです。入口に出てきておられるウェイトレスさんがメイドの格好をしているのは、「ここが秋葉原だから」ではなくて(笑)、単にレトロ調の雰囲気を出すためでしょう。
須田町プレート この時に私が食べたのは、右の「須田町プレート」というメニューでした。チキンライスに、ポークソテー、小さいグラタン、ズッキーニや茄子の南欧風の炒め物、サラダ、カップスープが付いたものです。
 これは「大人のお子様ランチ」というコンセプトのようで、味はまずまずでしたが、1800円という値段は、立地条件にもよるのでしょうか。お店は、「秋葉原UDX」という、駅からすぐ近くの近未来的な雰囲気のビルに入っていたのです。

 ただ、いろいろ考えてみると、賢治の「公衆食堂(須田町)」の舞台となったのは、この食堂の前身の「旧・須田町食堂」ではなかっただろうと、私は思うのです。
 そのあたりについて、また次回に書いてみたいと思います。

 鍵になるのは、「公衆食堂」とはいったい何なのか、ということです。 

[ つづく ]