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「神様 (2011)」と活断層露頭

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 川上弘美『神様 2011』を、読みました。

神様 2011 神様 2011
川上 弘美

講談社 2011-09-21
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 たった45ページの、新書版と変わらないほど小さな本ですが、ハードカバーで繊細な装幀。表紙には、やさしく目を閉じたような「くま」が描かれています。
 内容は、川上弘美氏が1993年に書いたという初めての短篇「神様」と、2011年3月末に書いた「神様 2011」と、「あとがき」。

 いずれも、淡々とした静かな筆致です。

 「神様」という短篇は、現代の「なめとこ山の熊」であるかのように、ふと思いました。
 「わたし」と「くま」は、まるであたりまえのように対等です。命のやりとりをするような状況とは正反対にいますが、「小十郎」と「熊」のように、ふたりの間には心のかよい合いがあります。
 最後に「くま」は、「熊の神様のお恵みがあなたの上にも降り注ぎますように。」と、「わたし」のために祈ってくれました。「なめとこ山の熊」は、死んだ「小十郎」のために、月と星の光の下で、熊の神様に祈りました。

 ところで、この単行本で、「神様」と「神様 2011」の間には、下のような見開きの挿絵のページがはさまれています。

『神様 2011』挿絵

  前景は野菊と鉄条線、背景は川のようです。これは、「わたし」と「くま」がピクニックに行った川原なのかもしれません。

  「神様 2011」の中で、原発事故は「あのこと」と呼ばれていますが、事故そのものについては、何も述べられているわけではありません。すでに起こってしまったこととして、ひっそりと日常の中にあります。それでも「あのこと」のために私たちが失ってしまったもの、取り返しのつかないものは、淡々とした筆致によって、逆に鮮明に浮かび上がってきます。
 そういうものへの哀惜の念がこみ上げてくるのを、読みながら私は、おさえることができませんでした。
 たった45ページの、新書版と変わらないほど小さな本ですが、なんと強い力を持っているものかと思いました。

 高橋源一郎氏の小説「恋する原発」によれば、川上弘美氏はその後、「神様」と「神様 2011」のテキストを重ね合わせて、「神様 2011」という一つの作品にしたのだそうです。二つの作品を一つにするとは、いったいどういうことか?
 ここに、高橋源一郎氏が「恋する原発」(『群像』11月号)に引用した「神様 2011」を、再引用してみます。冒頭部分です。

 くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。歩いて二十分ほどのところにある川原である。春先に、鴫を見るために、防護服をつけて行ったことはあったが、暑い季節にこうしてふつうの服を着て肌をだし、弁当まで持っていくのは、「あのこと」以来、初めてである。散歩というよりハイキングといったほうがいいかもしれない。
 くまは、雄の成熟したくまで、だからとても大きい。三つ隣の305号室に、つい最近越してきた。ちかごろの引越しには珍しく、このマンションに残っている三世帯の住人全員に引越し蕎麦を同じ階の住人にふるまい、葉書を十枚ずつ渡してまわっていた。ずいぶんな気の遣いようだと思ったが、くまであるから、やはりいろいろとまわりに対する配慮が必要なのだろう。
[中略]
 川原までの道は元水田だった地帯)〔水田に沿っている。土壌の除染のために、ほとんどの水田は掘り返され、つやつやとした土かもりあがっている。作業をしている人たちは、この暑いのに防護服に防塵マスク、腰まである長靴に身をかためている。「あのこと」の後の数年間は、いっさいの立ち入りができなくて、震災による地割れがいつまでも残っていた水田沿いの道だが、少し前に完全に舗装がほどこされた。「あのこと」のゼロ地点にずいぶん近いこのあたりでも、車は存外走っている。)〔舗装された道で、時おり車が通る。どの車もわたしたちの手前でスピードを落とし、徐行しなから大きくよけていく。すれちがう人影はない。たいへん暑い。田で働く人も見えない。〕(「防護服を着てないから、よけていくのかな」
 と言うと、くまはあいまいにうなずいた。
 「でも、今年前半の被曝量はがんばっておさえたから累積被曝量貯金の残高はあるし、おまけに今日の SPEEDI の予想ではこのあたりに風は来ないはずだし」
 言い訳のように言うと、くまはまた、あいまいにうなずいた。くまの足がアスファルトを踏む、かすかなしゃりしゃりという音だけが規則正しく響く。
[後略]

 文中に出てくる( )〔 〕などの記号が謎ですが、以下はそれに関する高橋源一郎氏の説明。

 この「神様 2011」は三つの「層」でできている。「神様」と「神様 2011」で、変更が加えられていない部分はそのまま印刷されている。( )でくくられた部分は、「神様」にはなく「神様 2011」に新たに書き加えられた部分だ。そして〔 〕でくくられた部分は、「神様」にはあったのに「神様 2011」で削除された部分である。

 つまり「神様 2011」においては、「神様」と「神様 2011」との間でどこが変わったのかということを、はっきりと意識しながら読み進められるようになっているのです。この( )〔 〕を用いた表記ルールを知れば、「神様」と「神様 2011」を重ね合わせた作品の題名が、なぜ( )の付いた「神様 2011」になっているのかということも、腑に落ちますね。
 高橋源一郎氏は、つづけます。

 「あの日」の前と後で、世界はすっかり変わってしまった。簡単にいうなら、「あの日」の後、世界には( )でくくられた部分が出現し、世界から〔 〕の部分は消失したのである。
 だから、わたしたちは、この「神様 2011」を、掘り出された地層の断面のように読むことができる。そして、この「地層の断面」こそが、わたしたちが生きている世界の構造なのである。

 過去の地表と、現在の地表とを、それぞれ別々に見るのでなくて、それらが立体的に重なり合っている様子を、高橋氏は「地層」と呼んでいるわけです。
 記号によって分節されたテキストは、ふつうに読むには煩雑ですが、三次元の立体を二次元の紙に印刷した「展開図」を眺める時のように、少しイメージを働かせれば、不思議な「奥行き」が見えてきます。

 ところで私は、ほかにもちょうどこんな風に、テキストに〔 〕とか( )などの記号が付けられた「作品」があったことを、思い出します。 

 一つにそれは、入沢康夫氏の詩「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」です。
 その中の、「第三のエスキス」は、次のように始まります。

かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩
第三のエスキス

〔(ナシ2かつて座亜謙什〔(ナシ2と→を名乗つた人→3と/名乗つた人→4と名乗つた人への〔(ナシ3〕〔一四→1連の散文詩〔(ナシ3エスキス4第二のエスキス)〕

        一、

あなたの〔(ナシ2あとを追つて→2逆にたどつて→3辿つてしばしばは逆に辿つて)〕私たちは長い→2しばらく→3長い旅をして来たのだが〔(ナシ3それでゐて私たちはまだ〔(一字アキ3あなたの本当の→2真実の名前を知らない〔(一字アキ3ただわづかに〔(一字アキ紙の余白に→3)〕〔(一字アキ3あなたが戯れのやうに〔(ナシ3、砂に書き遺して行つた座亜謙什の名でもつて〔(一字アキ3)〕私たちはあなたを〔(ナシ3、あなたの幻を呼ぶ〔(一字アキ2一字アキ私たちが村境の土手に並んで→3。私たちが、国境の土手に一列に並んで、二たび三たび〔(一字アキ3)〕西に向つて声をあげれ→3放て〔(一字アキ3暮春の月が私たちの〔(ナシ→頭上に〔(一字アキ3)〕黒い→3茶けた光を落してよこす一字アキ3幾本となく吊り下げる。
[後略]

 これは、さっきのよりももっと複雑です。「神様 2011」には、原発事故前と事故後の二つの地層が含まれていましたが、この入沢氏の詩には、もっとたくさんの何層ものレイヤーが積み重なっています。
 上記で、123・・・という「上付き数字」は、本来は「丸数字」なのですが、パソコンの機種依存文字を避けるため、ここでは便宜上こうしました。引用部分では1から4までの数字が出てきますが、これは、4回の推敲のそれぞれの段階で、字句がどのように書き換えられたかということを表しているようです。

 この作品において、「あなた」あるいは「かつて座亜謙什と名乗つた人」と呼ばれている人物は誰なのか。それは本来は、「詩」という構築された空間における出来事でしょうが、私たちとしてはひそかに「あの人」のことを考えて読んだとしても、とがめられることはないでしょう。
 「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」が書かれた1977年、筑摩書房から刊行されていた『校本宮澤賢治全集』が完結し、その編集委員であった入沢康夫氏は、まさに「あなたの足あとを辿つて(しばしばは逆に辿つて)」厖大な草稿をめぐる長い旅を、終えたところだったのです。
 なによりも、上の作品で使われている複雑な記号は、その『校本宮澤賢治全集』の編集過程において、作者によるすべての推敲プロセスを表記するために、入沢氏らによって考案されたものでした。

 たとえば下記は、『春と修羅』所収「風の偏倚」における手入れの過程です。「詩集印刷用原稿」における推敲は1として、「菊池本」における推敲は2として、あわせて表示しました。

[前略]
〔(ナシ2杉の列には山鳥がいっぱいに潜み→んで
ペガススのあたりに立ってゐた→2る)〕〔のだが→1)〕
いま雲は一せいに散兵をしき
極めて堅実にすすんで行く
おゝ私のうしろの松倉山には
用意された一万の硅化流紋凝灰岩〔(ナシ1の弾塊があり
〔《(ナシ1(》明治廿九年→1)〕川尻〔(ナシ2断層〔(ナシ→地震のとき以来→1から→2以来/息を殺してま1)〕ってゐる。1
私が→2)〕〔(ナシ→巻時計を光らし過ぎれば落ちてくる
空気の透明度は水よりも強く→)〕
松倉→2ところが→しかも》〕山から生えた木は
敬虔に天に祈ってゐる
〔(ナシ2空気の透明度が→は水よりも強く
辛うじて赤いすすきの穂がゆらぎ→2
[後略]

 宮澤賢治のテキストの「地層」は、『新校本全集』において、たとえばこんな方法で記されています。
 賢治自身が稗貫郡の地層を調査するために山野を歩きまわったように、入沢康夫氏や天沢退二郎氏は、賢治の草稿に何層にも積み重なったレイヤーを調べあげたわけです。

 ところで、上の作品に出てくる「川尻断層」とは、『新宮澤賢治語彙辞典』によれば、「陸羽地震(川尻断層地震とも。賢治誕生4日後の1896(明治29)年8月31日)で生じた断層」とのことです。(ちなみに私は、この作品に出てくる「川尻断層」というのは「川舟断層」の誤記ではないかと個人的に思うのですが、ここでは措いておきます。)
 いずれにせよ、内陸を震源とした大きな地震の際には、活断層の露頭が地上に出現することがあります。最近では、阪神淡路大震災における「野島断層」が有名です。北淡町の小倉地区では、高さ50cm、横ずれ1.5mの地震断層が、長さ140mにわたって地表に現れたということです。

 「あのこと」の前と後で、世界の相貌はどのように変わったのか。それによって、私たちは何を失い、何に侵入されたのか・・・。
 川上弘美氏の「神様 2011」は、原発事故によって日常の中に忽然と(活断層露頭のように)出現した「地層の断面」を、静かに、しかし白日のもとにはっきりと、示してくれています。

「ヒデリ」論の私的メモ

 先日、「入沢康夫『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』」という記事を書いて、入沢さんの近著をご紹介いたしましたが、当該記事に昨日コメントをいただき、「Web上にある入沢康夫氏の「「ヒドリ―ヒデリ問題」について」(宮沢賢治学会イーハトーブセンター・ライブラリ所収)という文章を読んでも納得がいかないので、「迷わぬようにお導きください」との依頼を受けました。
 私は、この問題に関して人様の「導き」をするような立場にはありませんし、ご参考のために何かを書こうとしても、入沢氏の上掲書の内容を受け売りする以上の知識も何も持っていません。この問題に関するモノグラフまで出された専門家を差し置いて私がそのようなことをするなど、僭越きわまりないとも思います。
 そこで、上記コメントのご依頼に対しては、「どうか直接、入沢氏の著書をお読み下さい」とだけお返事をしようかと、当初は考えました。

 しかし、それもあんまり素っ気ない対応ですし、賢治に対する真摯な思いから縁あって拙サイトにコメントを下さったことを思えば、ここは私なりに、入沢康夫氏の『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』の内容をもとに、「なぜ、「ヒデリ」と校訂することが妥当であると、この私も考えているのか」ということを、個人的メモとして記させていただくことにします。
 入沢康夫様、ご著書からかなり多くの引用をさせていただくことになりますが、どうかご容赦下さい。以下の文章では、入沢康夫著『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か 宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一語をめぐって』(書肆山田)のことを『入沢書』と略記します。

 コメントを下さったノラ様は、「なぜ「ヒドリ」では不適切で、「ヒデリ」へと校訂せざるをえなかったか」という点がどうしても納得できないということのようですので、その点を中心に、私の理解している範囲のことを述べます。
 なお、ノラ様のお考えは、ノラ様のこちらのブログ記事の「コメント欄」に長文で書かれています。


1.賢治が実際に「ひどり」と書いた(書きかけた)他の例の存在

 「〔雨ニモマケズ〕」の手帳上のテキストでは、もちろん「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」となっているのですが、賢治が「ひどり」と書いた(書きかけた)のは、この一例だけではありません。

 一つは、「毘沙門天の宝庫」(「口語詩稿」)という作品の下書稿において、「旱魃」という語にルビを振ろうとして、「ひど」まで書いて「ど」の字を消し、続けて「でり」と書いているのです。「ひでり」と書こうとしたが、「ひど」と書きかけて自分で気づいて訂正したわけですね。
 下画像は、『入沢書』p.57に掲載されている「毘沙門天の宝庫」の下書稿において、賢治が「ひ[ど→(削)]でり」と訂正した箇所です(赤丸は引用者)。

「毘沙門天の宝庫」(下書稿)より

 「ひ」の次に「ど」と書いて、グルグルと渦で消し、下に「でり」と書いてあります。
 この作品においては、賢治自身が書きながら気づいたので、「ひどり」という単語としては残りませんでしたから、後に論争の種となることもありませんでした。それでも、「賢治が「ひでり」と書こうとして、うっかり「ひどり」と書きそうになる傾向があったかもしれない」という、一つの所見にはなります。

 ところが、現実に「ひどり」という形で残されてしまった例が、「〔雨ニモマケズ〕」以外にも存在するのです。
 下の画像は、童話「グスコーブドリの伝記」が、1932年(昭和7年)に最初に『児童文学』という雑誌に発表された際の誌面の一部で、『入沢書』p.54に掲載されています(傍線は引用者)。

「グスコーブドリの伝記」(『児童文学』発表形より)

 赤い傍線を引いた部分に、「ひどり」と書いてあります。これは、作者の原稿をもとに活字を組んで出版された最終形態ですから、これを尊重して、「グスコーブドリの伝記」のこの箇所は、あくまでも「ひどり」として現在も出版し、子供たちに読ませるべきでしょうか。
 問題は、ここで「ひどり」と記されている単語の意味も、「〔雨ニモマケズ〕」の「ヒドリ派」の人々が主張するように、「日雇い稼ぎの賃金・またはその労働のこと」なのか、否かです。

 文章の内容を検討すると、「次の年もまた同じやうなひどりでした。」とあることから、その前の年の描写を見ると、「植ゑ付けの頃からさつぱり雨が降らなかつたために、水路は乾いてしまひ、沼にはひびが入つて、秋のとりいれはやつと冬ぢゆう食べるくらいでした。」とあります。
 これは、「ひでり=旱害」の記述以外の何物でもありません。

 かりにここで、前の年に「日雇い稼ぎに出た」などという記載があったとしたら、「次の年もまた同じやうなひどりでした」という文の意味は、「次の年も同じように日雇い稼ぎに出た」と考えられなくもありませんが、前年に「ひでり」の描写があって、「次の年も同じように日雇い稼ぎに出た」では、文章の意味が通りません。どこにも「同じやうな」ところがないのです。

 したがって、「グスコーブドリの伝記」におけるこの「ひどり」の語は、「ひでり」の誤りであると考えられます。当然のことながら、これまで出版された各種全集においては、この箇所は校訂によって「ひでり」と改められています。

 誤りが起きたポイントとしては、(1)作者が原稿に「ひどり」と書き誤っていた可能性、あるいは(2)作者は「ひでり」と書いていたが活字に組む段階で誤って「ひどり」としてしまった可能性、の二つが考えられますが、「毘沙門天の宝庫」下書稿に現れていたように、賢治が「ひどり」と書き誤りやすい傾向をもっていたことからすると、(1)の蓋然性が高いように思われます。そもそも、活字を組む職人さんが、まるで現代の「ヒドリ―ヒデリ問題」を予測したかのように、そんなに都合よく「ひでり」を「ひどり」と組み間違えてくれたとはとても思えません。
 したがって、「グスコーブドリの伝記」においても、賢治は「ひでり」と書こうとして誤って「ひどり」と書いていた可能性が高いのです。
 となると、「〔雨ニモマケズ〕」においても同様に、「ヒデリ」と書こうとして「ヒドリ」と書いてしまった可能性は、やはりありえます。

 ここでちょっと個人的に思うのは、「〔雨ニモマケズ〕」において「ヒドリ」説を主張する方は、「グスコーブドリの伝記」のこの箇所に関しても「ひどり」説を主張されて当然と思うのですが、なぜか「〔雨ニモマケズ〕」のことしか問題にされません。なぜ「グスコーブドリの伝記」も取り上げられないのか、理由を一度お訊きしてみたいものだと思っています。
 もしも、「グスコーブドリの伝記」において、「ひどり→ひでり」の校訂を是とされるならば、「〔雨ニモマケズ〕」だけにおいて非とされるのは、理屈に合わないと思います。


2.同じ手帳に記された類似内容の戯曲メモに「ヒデリ」とある

 「〔雨ニモマケズ〕」が記されている手帳は、賢治が晩年に病床で使っていたものですが、その同じ手帳の少し後には、「土偶坊」と題した一種の戯曲のメモのようなものが記されています。下の画像が、その一部です(『新校本全集』第十三巻(上)「本文篇」p.531より)。

「土偶坊」メモ

 題名と思われる「土偶坊」は、「デクノボウ」と読むのでしょう。右ページの最後の行にも、小さな字ですが「デグノ坊見ナィナ」などと記されています。題名の横には、「ワレワレカウイフモノニナリタイ」と書かれており、これはまさに「〔雨ニモマケズ〕」最終2行の「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」に対応しています。この戯曲?の構想が、「〔雨ニモマケズ〕」の内容と密接に関わっていることを、示唆しています。
 さて、このメモで左ページの「第五景」と題されたところには、「ヒデリ」という言葉が書かれています。すなわち、賢治はおそらく「デクノボー」が主役となるであろうこの戯曲において、「ヒデリ」の場面を考えていたのです。
 この事実も、「〔雨ニモマケズ〕」においても、「ヒドリ」ではなくて「ヒデリ」の時のデクノボーの様子が描かれていると考えることの妥当性を、支持していると思います。


3.「ヒデリ」なら文章の整合性があるが「ヒドリ」では崩れる

(1) 対句的表現
 「〔雨ニモマケズ〕」というテキストは、「雨ニモ」「風ニモ」「雪ニモ」、「東ニ」「西ニ」・・・など、「対句」的表現に満ちています。
 問題の箇所が、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」であれば、それぞれ「旱害」と「冷害」という、気象条件による代表的な農作物への被害として、「対句」をなします。しかし、これが「ヒドリ」ではそのような対応は生まれず、形式としてあまり整いません(『入沢書』p.111と関連)。

(2) 乾燥→涙という意味関係
 これは、原子朗氏の説を紹介する形で『入沢書』p.21に書かれていることです。「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」では、「日雇い労働が辛いから涙を流す」という単なる生理的な涙にすぎない。しかし、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」であれば、その「ナミダ」は、「雨のごとく降ってほしい」という賢治の「心理の」涙なのであり、単なる哀れみや悲しみの涙ではないと、原子朗氏は述べておられます。

(3) 「ヒドリ」とした場合の主体の問題
 「ヒドリ」説をとっておられる方は、この「ヒドリ(日雇い稼ぎ)」を行うのは、作者であると解釈しておられるのか、作者が見ている農民か誰かであると解釈しておられるのか、どちらなのでしょうか。
 「ヒドリ」説の説明を聞いていると、後者のようなニュアンスが感じられるのですが、文章を普通に読むと、なかなかそうは意味がとりにくいと言わざるをえません。

北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ

 上記の文章において、「ツマラナイカラヤメロト」言うのは作者(のめざす姿)であり、「サムサノナツハオロオロ」歩くのも作者(のめざす姿)であり、「ミンナニデクノボート」呼ばれるのも作者(のめざす姿)です。「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」において、「涙を流す」のは作者(のめざす姿)だが、「ヒドリ」を行うのだけが第三者というのは、日本語の文章として不自然です。
 この点について、入沢氏はわかりやすい例を挙げて説明しておられます(『入沢書』p.107-108)。

 「○○○○の時は △△△△する」という文の前半の「○○○○の」のところには、辞書によれば行為か状態・環境を表わす語句(連体修飾語句)が入って「何々が何々する(した)場合には」または「何々が何々である(あった)場合には」という意味になります。
 そして、この「何々が」が特に示されていないなら、その行為や状態は、後半の△△△△する人の行為や、その人の状況(自分の体調や気分・自分の周囲の状況・環境等)であると理解するのが、日本語としての普通な扱いです。
 実例を掲げたほうが判りやすいでしょう。「兄の外出の時は 門口まで見送る」とあれば、外出するのはまぎれもなく兄で、見送る人とは別人ですが、もしも前半に「誰が」を示す語がない文、例えば「外出の時は 帽子をかぶる」という文では、外出するのは、後半の「帽子をかぶる人」であるとうけとるのが、普通でしょう。
 もう一つ別な例を挙げれば、「友人が病気の時は見舞いに行く」と「病気の時は薬を飲む」を比べた時、後者で病気なのは「薬を飲む人」当人であることは、すぐ判るはずです。
 「ヒドリ」が、上記の拡張した意味(日雇い稼ぎの労働)だとしますと、これは行為を表す言葉であり、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」だけでは、それが誰の行為か示されていませんから、さきほど見た例のように、ナミダヲナガす人の行為という意味にとるのが自然です。つまり「日雇い稼ぎをするのは、涙を流すそのひと」ということになり、この行全体の意味は《自分が日雇い稼ぎをする時には涙を流す(ような人にわたしはなりたい)となって、初めに掲げた《日雇い稼ぎをして生きていかねばならぬ貧しい農民の身の上を思いやって涙を流す(ような人にわたしはなりたい)という意味とは、大きくズレてしまいます。

(4) 文章の明快さ
 これも、『入沢本』p.109-110より引用させていただきます。

 この「〔雨ニモマケズ〕」の全体は、読めばすぐ気がつくことですが、内部に籠められている深い思想内容は別として、表面の言葉のつながりや、いちいちの言葉の意味を辿っていく限りでは、対句的表現を多用し、たいへん明快で歯切れよく判りやすく出来ています。物理化学や宗教や哲学などの専門語の使用はいっさい避けて、やさしい日常の共通語(いわゆる標準語)で終始しているのも大きな特徴です。そういう全体の中で、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」の行だけが、このままでは意味がすっきりととり難い、奇妙な一行となっています。ここだけ「ヒドリ」という方言が混じっているというのも、他の行と異なる点ですが、賢治の作品では、たまに方言や方言的言い回しが混じることもありますので、ここではそれは問題にしません。しかし、それをたとえば「日雇い仕事」と置き換え、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」を「日雇いに出なければならぬ農民の辛苦を思って涙を流す」と読もうとしましても、この言い方ではなかなかそういうふうには読みとれない、全体の判りやすく辿りやすい言葉の運び方ともしっくり行かない、という点が問題なのです。


 さらに細かい点まで挙げるとすれば、まだたくさんあるのですが、これ以上となるとやはり『入沢本』を直接読んでいただくのが一番でしょう。

 以上、入沢康夫氏のご著書を全面的に参考にさせていただきましたが、その中から一部を要約したり「つぎはぎ」したりしたのは私の勝手な作業ですので、上の文章の全体としてのわかりにくさや不十分な点は、私の責任にあります。

 入沢康夫著『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』 宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一語をめぐって』(書肆山田)という本を読みました。

「ヒドリ」か、「ヒデリ」か―宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一語をめぐって 「ヒドリ」か、「ヒデリ」か―宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一語をめぐって
入沢 康夫

書肆山田 2010-06
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 言うまでもなく入沢康夫氏は、『校本宮澤賢治全集』『新校本宮澤賢治全集』編纂の中心を担った一人であり、氏の力によって賢治の作品の姿やテクストが初めて明らかになった例も、たくさんあります。
 その入沢氏が、このたび上のような本を上梓されました。その内容と趣旨については、本書の「後記」において入沢氏自らが書いておられることを引用させていただくのが、最も明快でしょう。

 本書は、宮沢賢治が手帳に書き遺した「〔雨ニモマケズ〕」中の「ヒドリ」という一語の取り扱いに関する拙文を集成したものである。読み返せば少々《大人げない》文章というきらいもないではないが、これも、「校本」「新校本」の編纂担当者としての《務め》だったのだと、自らを納得させている。
 1989年の10月に、読売新聞全国版社会面のトップでセンセーショナルに報じられて以来、「〔雨ニモマケズ〕」の「ヒドリ・ヒデリ」問題がクローズアップされ、今日でも、まだその余燼は収まりきってはいない。本書に収録したのは、「ヒドリとは、方言で《日雇い仕事(の賃金)》のこと」という新説に対し、「ヒドリはヒデリの誤記に違いない」とする立場からの、この20年余りの、折に触れての反論であり、解説である。

 《大人げない》などとは滅相もないことで、賢治が書いた一つの文字・言葉をもおろそかにしない入沢氏らの厳格な姿勢が、『校本』『新校本』の業績を成し遂げる根本にあったわけですし、また上の文中にあるように、両全集の「編纂担当者としての《務め》」として、校訂の子細を明らかにしなければならないという強い責任感が、このたった一語(一文字)のために、一冊の本を世に出させたのだと言えるでしょう。

◇          ◇

 さて、賢治が手帳に鉛筆で書いた「〔雨ニモマケズ〕」テキストの原文24行目が、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」となっているのは事実です。

「雨ニモマケズ」手帳

 これを全集編集者は賢治による誤記と考え、本当は作者は「ヒデリ」と書こうとしたと判断して校訂を行っているわけですが、その背景にある厖大な根拠が、本書にまとめられているわけです。具体的なことは、どうか本書をお読みいただいて、入沢氏の綿密詳細な検討に触れていただければと思います。
 そしていったんこの本を通読された方は、「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記であるとする現校訂に、心から納得されるでしょう。

 あと一つ、「ヒドリ」「ヒデリ」論争に加えて、故・小倉豊文氏が一時、これは「ヒトリ」の誤記であるという説を提唱したこともあったということです。この「ヒトリ説」に対しても、入沢氏は本書で論評を加え、小倉氏もある時に入沢氏の講演を聴いて、結局は「ヒトリ説」の旗をいさぎよく撤回されたのだそうです。

◇          ◇

 しかし、私は今でも賢治ファンの方とお話をしていて、まだ「ヒドリ説」に肩入れをしておられ方に遭遇することが、時々あります。
 そのような方は、あえて分布傾向を考えると、地元花巻に多いというのが私の印象です。郷土の生んだ偉人である賢治先生が、「書き誤り」などするはずがない(と思いたい)という心理が働いているように、感じられることもあります。
 「〔雨ニモマケズ〕」の記されている手帳欄外には「11.3」との書き込みがあって、これは11月3日に書かれたと推定されることから、「畏れ多くも『明治節』に書かれたものだから、書き誤りなどあるわけがない」と理屈の通らないことを言う人があったり、「賢治はこの語に、ヒドリ(日雇い仕事)とヒデリの両方の意味を込めたのだろう」などと、無理な折衷案を出す人もあったりします。

 また、とくに最近になって建立される「雨ニモマケズ」の詩碑のうちには、この箇所を「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」と刻んだものもあります。
 下記は、当サイト「石碑の部屋」所収の「雨ニモマケズ」詩碑を分類してみたものです。

原文複写的碑(=推敲跡や書き損じまで含めて刻む)
  ・鎌倉市・光則寺の碑(1985)
  ・裾野市・総在寺の碑(1996)

「ヒデリ」と刻んである碑
  ・下根子桜の碑(1936)
  ・静岡県富士市・田子浦小学校の碑(1966)
  ・宮城県唐桑町の碑(1997)
  ・福岡県筑後市・筑後工藝館の碑

「ヒドリ」と刻んである碑
  ・岩手県住田町の碑(2002)
  ・花巻市・南城中学校の碑(2003)

かな・漢字に変えてある碑
  ・岐阜県石津町・牧田小学校の碑(1972)
  ・奈良市・近鉄奈良駅前の碑(1980)

抜萃・改変を加えた碑
  ・熊本県三角町・戸馳小学校の碑(1975)
  ・広島県・柏島の碑(1976)

 以前は私は、「まあ、いろいろな碑があってもいいかも…」と安易に考えていた頃もありました。しかしその後、入沢氏の論文などを読むうちに、碑を見る人々(とくに子供たち)に賢治の文章の意味をきちんと理解してもらうためには、適切に校訂されたテキストを刻むべきであると考えるようになりました。
 このような観点から見ると、最近2000年代になってから、わざわざ「ヒドリ」と刻んだ碑が作られるようになっていることは、ちょっと気になることです。

◇          ◇

 さて、宮澤賢治さん自身は、後々にこのような事態になるなんておそらく夢にも思わず、ふとこの「〔雨ニモマケズ〕」の文章を手帳に書きつけたのでしょう。
 入沢氏は、今に至ってもまだ収まらない騒ぎについて本書の中で、「それもこれも、せんじつめれば、「〔雨ニモマケズ〕」が、《超有名作品》となってしまった《報い》ということになるのでしょうか?」と嘆じておられます。

南城中学校「雨ニモマケズ」詩碑
羅須地人協会後にもほど近い南城中学校に2003年に建てられた詩碑。
(原文のまま)と但し書きを付けて、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」と刻まれている。

入沢康夫さん芸術院会員に

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 現代日本最高の詩人にして、賢治研究の大先達である入沢康夫さんが、日本芸術院会員に選ばれたと本日発表がありました。以下、公式発表の紹介文です。

入沢 康夫 詩歌。実験的・前衛的な詩と、出雲神話や宮沢賢治の研究で知られる。88年藤村記念歴程賞。島根県出身、神奈川県在住。

 入沢康夫さま、おめでとうございます。
 今年の新会員は15人で、これで会員は計111人になったのだそうです。
 

光太郎・食堂など補遺

 先日、「「聚楽の二階」の賢治と光太郎(2)」を書いた後に、入沢康夫氏の「賢治の光太郎訪問」(『賢治研究』80号, 1999)を、遅ればせながら読むことができました。本来ならばこれは、この問題について何か書こうとするなら真っ先に読んでおかねばならない基本文献だったはずですが、その内容も知らずに考察のまねごとをするなど、私の無茶もいいところでした。

 で、その入沢氏の「賢治の光太郎訪問」によれば、『〔旧〕校本全集』年譜に引用されていた手塚証言……賢治と光太郎と手塚武が、光太郎宅で会った後、上野まで歩いて「いっぱいやりながら鍋をつついた」という話……は、「校本全集編纂刊行が進行している最中に、手塚氏から天沢退二郎氏へ、そして堀尾氏へという経路で、書信によってもたらされたもの」で、「堀尾氏が、それまでの「玄関先での立ち話」説とはあまりに違う証言内容に驚き、手塚氏によくよく念を押したところ、手塚氏から「この記憶に絶対間違いはない」との確言があり、年譜に採用されることになった」という由来のものだったそうです。
 しかし、その手塚氏自身がはるか以前に「宮澤賢治君の霊に」と題した追悼文の中で、「僕はその機会を失した。今にして非常に残念に思ふ。高村さんだけが逢つた。後で草野君と高村さんを訪ねた時、いろいろ君の話をきき・・・」と書いていることをあらためて再発見し報告したのが、入沢氏のこの「賢治の光太郎訪問」でした。入沢氏はこの論考の最後を、

 このことに気付いてからの私の気持は、「後年の手塚武の記憶には、誰か別な人との会食の記憶が(賢治について後日得た知識も加わって)混入したのではないか」とするほうに強く傾いている。関係者がひとりも生存しない今、決定的な答は出ないのかもしれないけれども。

と結んでおられます。
 すなわち、「別人混同説」を、はっきりと一つの可能性として打ち出したのは、この入沢論文が嚆矢であったようで、その priority は、ここで再確認しておきたいと思います。私の記事は、そんなことも知らずに書いた不躾なものでしたが、意図せずその説の末席を汚していたわけです。


 あともう一つ、それより以前に書いていた「公衆食堂(須田町)」という作品の舞台をめぐっては、「賢治の事務所」の加倉井さんが、「緑いろの通信」3月3日号でふたたび取りあげていただいています。その考察において加倉井さんは、作品舞台の有力な可能性として、「昌平橋簡易食堂」を挙げて下さいました。たしかに、「須田町」からの距離としては非常に近い場所に位置しており、気になるところです。

 ここで、記事へのコメントでいただいた説も含め、もう一度、候補地を整理してみます。

 
公衆食堂◯
公衆食堂X



(存在しない)
神田青物市場内の民間食堂



上野公衆食堂
神田橋公衆食堂
昌平橋簡易食堂


 上記で、「神田青物市場」というのは、関東大震災の頃まで、神田須田町一丁目、神田多町二丁目付近一帯に発展していた東京最大の青果市場で、町の中に市場があるというよりも、「市場の中に町がある」という状況だったそうです。現在も、須田町1丁目10番地には「神田青果市場発祥之地」という石碑が立っているそうです。
 そのような神田市場の中には、市場に集うたくさんの人々を当て込んだ安い食堂がいくつもあったということを、塩見さんがコメントでお知らせ下さいました。これはまさに、「須田町の食堂」ということになります。

 下段左の「上野公衆食堂」は、当時の賢治の生活から、最も訪れた可能性が高いと私が推測した公衆食堂、「神田橋公衆食堂」は、1921年の時点で最も須田町に近かったと考えられる公衆食堂です(直線距離700m)。

 今回、加倉井さんが推挙していただいたのが下段右の「昌平橋簡易食堂」で、何と言ってもこの店は、旧須田町交差点まで直線距離ならば220mほどという、「須田町への近さ」が注目点です。中村舜二著『大東京綜覧』(1925)でもわざわざ一項を立てて紹介されていますが、これは、中村舜二氏自身が東京市議時代に、この店の開設に関与したことにもよるでしょう。

 私としては、題名の「公衆食堂」という言葉を文字通り受けとるか、現在の「大衆食堂」に相当するような一般的意味で用いたと考えるか(当時そのような用法があったかはわかりませんが)、というところが一つの分かれ目かと思うのですが、いずれの店とも決めがたい状況です。

 加倉井さんがおっしゃるように、「結局のところ諸説さまざまです。」

昭和4年頃の須田町界隈
昭和4年頃の須田町界隈。左上の方に「堂食町田須」の看板が見える。
(『聚楽50年のあゆみ』より)

 先日の「「経埋ムベキ山」の読み方」というエントリにおいては、つめくさ様、入沢康夫様の懇切なコメントのおかげで、これは「きょう うずむべき やま」と読むのが適切であると、私もしっかりと納得させていただきました。あらためて、ご教示に感謝申し上げます。
 たしか去年の3月にこのサイトをブログ化した際には、これからの目標として、「双方向的な営みができれば・・・」というようなことも書いたおぼえがありますが、「双方向」というより、最近はいろいろと私の方が教えていただくことばかりで、恐縮しております。

 で、今日はまたさらにご教示いただいてしまったことの報告なのですが、その後私は、この件に関してある方から一通のメールをいただきました。
 以下、ご許可をいただいてそのメールからの引用です。

 余談:これは、当面の問題の参考になるかどうか、疑問ですが、賢治童話(口語文)における用例を気が付いた限りで挙げてみますと……

  1.  『銀河鉄道の夜』の「鳥を捕る人」の章
      「砂に三四日うづめなけぁいけないんだ」
  2.  「〔フランドン農学校の豚〕」末尾近く
      「豚はきれいに洗はれて八きれになって埋まった。」
    (これを含む終結部の整った7・5 7・5 のリズムから言えば「うまった」ではなく「うづまった」でしょう)
  3.  「楢ノ木大学士の野宿」の「野宿第一夜」
      「みんな濃い灰に埋ってしまふ。」
      「まはりを熱い灰でうづめて」
  4.  「グスコーブドリの伝記」の「十、カルボナード島」の章
     (両親の遺体について)
      「そつと土(つち)に埋(うづ)めて、」(ルビ原文)
  5.  「狼森と笊森、盗森」冒頭近く
      「その灰でそこらはすつかり埋(うづ)まりました。」(ルビ原
       文)
  6.  「水仙月の四日」末尾近く
      「昨日(きのふ)の子供(こども)の埋(うづ)まつてゐるとこ
       へ」(ルビ原文)
  7. 「ポラーノの広場」最終章
      「五十行の欄になにかものめづらしい博物の出来事をうづめ
       ながら」


 どちらかというと、「覆い隠す」意味のものが多いようですが、それにしても、「埋(う)める」の用例のほうは、差し当たって一つもみつからないのも事実なのです。これがみつかると、賢治も使い分けていた(あるいは、その場の調子で両方使っていた)ことの、手掛りになるのでしょうに。
(引用終わり)

 とまあ、驚くべきことに、賢治はその作品中で、「埋める」という動詞を「うづめる」と読ませている場合がほとんどなんですね。
 その後、「うめる」という読みについても、少しは用例があることがわかりました。

  1. 「カイロ団長」の末尾
      「おい。ビチュコ、そこの穴うめて呉れ。」
  2. 「〔或る農学生の日誌〕」の四月四日の項
      「今年は肥料だのすっかり僕が考えてきっと去年の埋め合せを付け
       る。」
  3. 〔あしたはどうなるかわからないなんて〕」(口語詩稿)
      「りんごなら/馬をうめるくらいに掘れ」

 一応このような用例はありますが、ここで 8. は、「物を」埋めるのではなくて「穴を」埋めるのですから、『日本国語大辞典』による語義からしても、「うずめる」でなくて「うめる」でなければならない必然性があります。
 9. は、「うめあわせ」という合成語ですから、こうとしか言いようがありません。
 10. は、「ウマをウメる」という読みが、一種の「韻」を踏んでいるところから、語調の上で「うめる」の方が採用されているのかもしれません。

 これらを見ると、やはり賢治が「うめる」の方を用いているのはごく一部の特例に限られ、意味的に「うめる」「うずめる」のどちらでも通用しそうな場合には、圧倒的に「うずめる(うづむ)」の方を採っているように思われます。
 つまり、先日の問題に関して、「きょう うずむべき やま」という読みの方を採用すべき理由としては、このような賢治の語法習慣があったらしい(賢治自身もこのように発音していた可能性が高いと思われる)ということも、一つの根拠となるかもしれないと思えるのです。

 それにしても、「漢字の読み方」だけでも、本当に奥が深いものです。

クモの巣の進化

 宮澤賢治の童話「洞熊学校を卒業した三人」、あるいはその初期形「蜘蛛となめくじと狸」を読むと、主人公の一人である「赤い手長の蜘蛛」の巣が、着実に進化していく様子が印象的です。二銭銅貨

 お話のスタートにおいて、すでに洞熊学校の学費でお金を使ってしまった蜘蛛は、無一物から出発し、ひもじいのを我慢しながら一生けん命糸をたぐり出して、やっと小さな二銭銅貨位の網をかけました。
(ちなみにこの「二銭銅貨位の網」という素敵な喩えが、初めてこれを読んだ小学生の時からずっと、私の心に残っています。二銭銅貨は直径31.18mm、なんと可哀らしいクモの巣でしょう!)
 この後、蜘蛛は刻苦勉励を重ね、その網はやがて「一まはり大きく」なり、さらに「三まはり大きくなって、もう立派なかうもりがさのやうな巣」になり、そして最後には、「あちこちに十も網をかけたり」するのです。

 なんと見事なクモの巣の進化でしょう!


 さて、昨日この欄で入沢康夫さんの最新作「クモの巣進化論」のことについて触れましたら、作者様のご高配のおかげで、5月12日朝日新聞(東京版)夕刊文化欄に掲載されていたその詩を、本日拝読することができました。
 それは、もちろん例のよく似た題名の今年上半期ベストセラー本を下敷きとしつつ、実際に描かれているのは、賢治の作品を彷彿とさせるようなけなげなクモの夫婦だったのです。私は少し種明かしをしていただいただけなのですが、一緒に登場する生き物たちの名前も、かのベストセラー本に出てきた用語を象徴的に寓意するものになっているのでした。
 それにしても、入沢康夫さんの作品というのは、どれも読めば読むほど縦横にクモの巣のように張りめぐらされた伏線があるものですが、これはまた全体としては、賢治の作品をユーモラスに「本歌取り」した構造になっていたわけです。
 それは、『アルボラーダ』に収められていた「擬川柳」のように、賢治の世界の意外な別の断面を見るようでもあり、またこちらは「五七五」より長い分、もともとは別の「お話」だったのに、ふと déjà vu のように、賢治世界が顔を覗かせたような印象もあります。

 ちなみに私がこんなブログなどを書いたり、高名な詩人とお近づきになれたりするのも、この進化した「クモの巣」のおかげですが、願わくばこちらの方は、腐敗したり雨に流れたりしないでおいてほしいものです。


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入沢康夫氏「詩歌文学館賞」受賞

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第21回詩歌文学館賞 今日、北上市の日本現代詩歌文学館において、第21回詩歌文学館賞の贈賞式が行われました(岩手日報記事参照)。詩部門の受賞は、以前にもこの欄でご紹介したように、『アルボラーダ』を出された入沢康夫さんでした(右写真・向かって左端が入沢康夫氏)。

 上記記事によれば、式において入沢さんは、「受賞の言葉の代わりに、最新の詩を朗読したい」として、「クモの巣進化論」という作品を朗読されたのだそうです。さすがに「詩人」の面目躍如ですね。
 この「クモの巣」とは、はたして World Wide Web の隠喩でしょうか。私は会場にうかがうことができませんでしたが、ぜひ現場で生の作品をお聴きしたかったものです。

 これからも、詩の創造および賢治研究に、ご活躍をお祈り申し上げています。


 ところで下の画像は、贈賞式を前に私が入沢さんから頂戴して、家宝として大切に(HDDやメモリの中に)保管している、作者の「自筆揮毫」です。
 これは『アルボラーダ』に収められている「是无等等呪」という作品の全文で、贈賞式の主催者から依頼を受けて、入沢さん自ら作成されたということです。今日の会場のどこかには、この原本が飾られていたのではないでしょうか?

是无等等呪

入沢康夫『アルボラーダ』

 Amazon から、入沢康夫さんの詩集『アルボラーダ』が届きました。

 刊行されたのは昨年の9月だったのですが、先日この詩集は、「その年に刊行された詩集・歌集・句集の中からそれぞれ最も優れたもの」として「第21回 詩歌文学館賞」を受賞したのです。同賞は、北上市にある「日本現代詩歌文学館」が制定しているもので、私も以前、花巻を訪ねたついでに、この文学館には行ってみたことがありました。

 入沢康夫さんが、フランス文学研究、賢治研究、賢治全集の校訂・編集において達成してこられた業績については、ここであらためて触れるまでもありませんが、同時に(というよりも、これこそが天職でいらっしゃるのでしょうが)、現代日本を代表する詩人として、時代の最先端で新たな境地を切り開きつづけておられる様には、つねづね凄みさえ感じています。

 『アルボラーダ』に収められた作品はじつに多彩なもので、それらについて正面からコメントできるような力を、私は持ち合わせていません。ただ一方で、私は以前から入沢さんの詩集を開くたびに、各々の詩そのものの鑑賞に加えて、そこかしこに「賢治の影」をさがすという、もう一つのひそかな楽しみも持っていました。
 それは、一方的な邪道の読み方ではあるでしょう。創造物としての「詩」と、現実の賢治研究者としての入沢さんとを、勝手に結びつけるべきではないですね。しかし、全篇に「校本全集」編集作業の余燼が燻るような『かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩』(1978)ではもちろんのこと、最近では『唄 ―遠い冬の』(1997)に収められた「準平原の雨」や「かつて座亜謙什と名乗つた人への最後のエスキス」、また『遐い宴楽 とほいうたげ』(2002)に収められた「燃焼」などを読む時、私は一介の賢治愛好家として、また別の感動も味わっていたのです。

 こんどの『アルボラーダ』では、「哀唱自傷歌」という作品に、萩原朔太郎、草野心平とともに賢治の「像」が登場するのに加え、さらに何と、「擬川柳・笹長根(三十七句)」「続・笹長根(擬川柳十句)」という連作は、すべて賢治の童話や詩の作品世界を、まるで掌に乗るような形で鮮やかに切り取った「擬川柳」が、全部で47句も並べられているという代物です。
 私は、これらを口誦しては声を上げて笑い、また胸に熱いものを感じながら黙読しました。

 で、そのような私は、その中の一部だけでもこの場所に引用させていただくという誘惑に、どうしても打ち勝つことができません。作者様、どうかお許しください。
 下記は、「擬川柳・笹長根」の最後の二句です。これ以外の句をご覧になりたい方は、下にある本の画像をクリックすれば、Amazon の該当ページに飛んで、直接注文ができます。



 

     晩年
たびたび病んで 夢はポラ野をかけめぐる        九捨


     照明
電球はなくとも 光 世に満つる               複霊





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「ヒデリ」と「ヒドリ」

 このページの右下の「賢治情報リンク」にも挙げている「イーハトーブセンター」掲示板に、入沢康夫さんが「 「ヒデリ」の文献的根拠」について、詳細な書き込みをしておられます。ヒドリノトキハナミダヲナガシ
 これまでの入沢さんらの論述については、住田町の「雨ニモマケズ」 詩碑のページでも簡単にご紹介していましたが、今回の書き込みのおかげで、例えば「グスコーブドリの伝記」の発表形においても、 旱害の描写に続いて「ひどり」と書かれていたことなどをあらためて知りました。

 「ヒドリ」を「ヒデリ」と校訂することの妥当性については、すでに決着がついているのは明らかですが、賢治詩碑フリークとしての立場から言えば、よりによって最近建立された「雨ニモマケズ」詩碑の二つ、右写真の住田町のもの(2002年) と南城中学校のもの (2003年)の碑面に「ヒドリノトキハ」と刻まれているのは、いったいどういう意図によるものかと、不思議な感じがぬぐえません。

 やはり世間にはまだ誤解が残っているようなので、入沢さんがあえて今いちど徹底的な論証を提示されるのも、 ご苦労なことながらまた十分に意義のあることだろうと思いました。