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津軽海峡のかもめ

1.「津軽海峡」(『春と修羅』補遺)におけるかもめ

上野発の夜行列車 おりた時から
青森駅は雪の中
北へ帰る人の群れは 誰も無口で
海鳴りだけをきいている
私もひとり連絡船に乗り
こごえそうなかもめ見つめ泣いていました
ああ 津軽海峡 冬景色
        (作詞: 阿久悠「津軽海峡・冬景色」より)

 石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」においても、青函連絡船から見るかもめは、主体の悲しみの象徴だったようですが、宮澤賢治が1923年夏にサハリンへ向かった途上でも、やはりこの海鳥は同じような役回りにあったと思われます。
 以下、少し長いですが、「『春と修羅』補遺」より「津軽海峡」を引用します(下線は引用者)。

   津軽海峡
       ――  一九二三、八、一、――

夏の稀薄から却って玉髄の雲が凍える
亜鉛張りの浪は白光の水平線から続き
新らしく潮で洗ったチークの甲板の上を
みんなはぞろぞろ行ったり来たりする。
中学校の四年生のあのときの旅ならば
けむりは砒素鏡の影を波につくり
うしろへまっすぐに流れて行った。
今日はかもめが一疋も見えない。
 (天候のためでなければ食物のため、
  じっさいべーリング海峡の氷は
  今年はまだみんな融け切らず
  寒流はぢきその辺まで来てゐるのだ。)
向ふの山が鼠いろに大へん沈んで暗いのに
水はあんまりまっ白に湛え
小さな黒い漁船さへ動いてゐる。
(あんまり視野が明る過ぎる
 その中の一つのブラウン氏運動だ。)
いままではおまへたち尖ったパナマ帽や
硬い麦稈のぞろぞろデックを歩く仲間と
苹果を食ったり遺伝のはなしをしたりしたが
いつまでもそんなお付き合ひはしてゐられない。
さあいま帆綱はぴんと張り
波は深い伯林青に変り
岬の白い燈台には
うすれ日や微かな虹といっしょに
ほかの方処系統からの信号も下りてゐる。
どこで鳴る呼子の声だ、
私はいま心象の気圏の底、
津軽海峡を渡って行く。
船はかすかに左右にゆれ
鉛筆の影はすみやかに動き
日光は音なく注いでゐる。
それらの三羽のうみがらす
そのなき声は波にまぎれ
そのはゞたきはひかりに消され
  (燈台はもう空の網でめちゃめちゃだ。)
向ふに黒く尖った尾と
滑らかに新らしいせなかの
波から弧をつくってあらはれるのは
水の中でものを考へるさかなだ
そんな錫いろの陰影の中
向ふの二等甲板に
浅黄服を着た船員は
たしかに少しわらってゐる
私の問を待ってゐるのだ。

いるかは黒くてぬるぬるしてゐる。
かもめがかなしく鳴きながらついて来る。
いるかは水からはねあがる
そのふざけた黒の円錐形
ひれは静止した手のやうに見える。
弧をつくって又潮水に落ちる
 (きれいな上等の潮水だ。)
水にはいれば水をすべる
信号だの何だのみんなうそだ。
こんなたのしさうな船の旅もしたことなく
たゞ岩手県の花巻と
小石川の責善寮と
二つだけしか知らないで
どこかちがった処へ行ったおまへが
どんなに私にかなしいか。
「あれは鯨と同じです。けだものです。」

くるみ色に塗られた排気筒の
下に座って日に当ってゐると
私は印度の移民です。
船酔ひに青ざめた中学生は
も少し大きな学校に居る兄や
いとこに連れられてふらふら通り
私が眼をとぢるときは
にせもののピンクの通信が新らしく空から来る。
二等甲板の船艙の
つるつる光る白い壁に
黒いかつぎのカトリックの尼さんが
緑の円い瞳をそらに投げて
竹の編棒をつかってゐる。
それから水兵服の船員が
ブラスのてすりを拭いて来る。

 最初の方の8行目に、「今日はかもめが一疋も見えない」とありますが、中ほど47行目では、「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」となっており、おそらくかもめは、途中から賢治の前に姿を現したのでしょう。
 しかしそもそも賢治が、実際に目の前にある情景だけでなく、わざわざ「今日は見えない」存在について、まず初めに書き記した理由は何だったのだろうかと考えてみると、この時彼は、津軽海峡のかもめに会うことをあらかじめ期待して、連絡船に乗り込んだのではなかったかという気がしてきます。

 「今日はかもめが一疋も見えない」の「今日は…」という対比の相手は、5行目の「中学校の四年生のあのときの旅ならば…」になりますので、賢治は中学校の修学旅行の際には、津軽海峡でかもめを目にしていたのでしょう。その時の記憶があったので、彼は今日もかもめに会えるかと思って青森港から乗船したのに、船が動き出してもその鳥の姿は見えず、ここまでは賢治の期待は裏切られていたのではないでしょうか。

 私がこのように彼の気持ちを推測する理由は、47行目の「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」という一節にあります。
 と言うのも、かもめという白い色をした鳥が、「かなしく鳴きながら」、賢治が乗った船について来る描写からは、どうしても2か月前の「白い鳥」の、次の一節を思い起こさずにはいられないからです。

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる

 上の「白い鳥」が、死んだ妹の化身であったように、津軽海峡でかなしく鳴きながら賢治の船について来るかもめも、彼にとっては妹の象徴だったはずです。そして実際、賢治がこのかもめを見た後のテキストでは、「こんなたのしさうな船の旅もしたことなく/たゞ岩手県の花巻と/小石川の責善寮と/二つだけしか知らないで/どこかちがった処へ行ったおまへが/どんなに私にかなしいか…」と、トシの回想が始まるのです。

 この日の未明、「青森挽歌」において、「いつぴきの鳥になつただらうか」「かなしくうたつて飛んで行つたらうか」と想像したトシの幻影を、ここで再び賢治は津軽海峡のかもめに見たのです。

2.「〔船首マストの上に来て〕」(補遺詩篇 I )におけるかもめ

 さて、賢治の作品において、次に津軽海峡が舞台となるのは、翌年5月の北海道修学旅行の往路で書かれた、上記と同名の「津軽海峡」ですが、この作品には「かもめ」や「鳥」は登場しません。
 そこで注目すべきは、この旅行の復路、室蘭から青森に向かう船上で書かれた「〔船首マストの上に来て〕」という作品断片です。ここにまた、かもめが姿を見せるのです。
 下記は、その残存している全文です。

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
煙とつはきれいなかげらふを吐き
そのへりにはあかつきの星もゆすれる
 ……船員たちはいきなり飛んできて
    足で鶏の籠をころがす
    鶏はむちゃくちゃに鳴き
    一人は籠に手を入れて
    奇術のやうに卵をひとつとりだした……
さあいまけむりはにはかに黒くなり
ウヰンチは湯気を吐き
馬はせはしく動揺する
うすくなった月はまた煙のなかにつゝまれ
水は鴇いろの絹になる
東は燃え出し
その灼けた鋼粉の雲の中から
きよめられてあたらしいねがひが湧く
それはある形をした巻層雲だ
 ……島は鶏頭の花に変り
    水は朝の審判を受ける……
港は近く水は鉛になってゐる
わたくしはあたらしく marriage を終へた海に
いまいちどわたくしのたましひを投げ
わたくしのまことをちかひ
三十名のわたくしの生徒たちと
けさはやく汽車に乗らうとする
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
 ……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ
発動機の音や青い朝の火や
 ……みんながはしけでわたるとき
    馬はちがった方向から
    べつべつに陸にうつされる……

 こちらの作品は、さびしさを湛えた前年の「津軽海峡」とは対照的に、祝祭的な雰囲気に満ちています。以前に、「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事で考察したように、この時の賢治は、トシの死をめぐって何か大きく肯定的な心境変化を遂げたのではないかとも、私は推測しています。

  この断片冒頭、「船首マストの上に来て/あるひはくらくひるがへる」と描写されている存在がはたして何であるのか、この箇所だけからはわかりません。しかし後半の29行目に、「……かもめの黒と白との縞……」、32行目に「かもめは針のやうに啼いてすぎ」とあることからすると、これこそがかもめに違いありません。今回はかもめは、賢治の乗る船の「船首マストの上に」、来ていたのです。
 そして、先日「鳥となって兄を守る妹」という記事でご紹介したように、沖縄地方の伝承では、このように航海中に船の柱に白い鳥が来るのは縁起の良いこととされていて、なぜならその鳥は、「おなり神(姉妹神)」の象徴と考えられていたからです。これについて先日の記事では、伊波普猷が1927年に書いた「をなり神」の一部を引用しましたが、今回は伊波が賢治のこの旅行と同じ1924年に出版した、『琉球聖典おもろさうし選釈』から引用してみます。

琉歌にも、
   船の艫なかい、白鳥しらとやが居ちよん、
   白鳥しらとややあらぬ、おみなりおすじ。
といふのがあるが、これは船の艫に、白鳥しらとりが止まつてゐる、否々、白鳥しらとりではない、私を守護してくれる、姉妹の生ける霊である。の意だ。これで見ると白鳥しらとりが「をなり神」の象徴であることもわかる。沖縄では航海中白鳥しらとりが船の柱などに止まるのを縁起のいゝことゝされてゐた、それは陸が近くなつたことを知らして呉れるから。さういふところから白鳥しらとりは自然その守護神なるおみなりおすじ丶丶丶丶丶丶丶の象徴にされたのであらう。こゝでいふ白鳥はスワンのことではなくて、単に白い鳥といふことである。

 すなわち、沖縄の伝承に照らしてみると、やはりこのかもめは「妹の象徴」と解釈できるわけで、その点では前年の「津軽海峡」の「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」というところと同じです。しかし、こちらの「船首マストの上に」来ているかもめは、兄賢治にとっては「守護神」であり、「幸運の象徴」でもあるのです。
 そして、このかもめが持つ肯定的な意味合いが、作品全体の明るさの重要な構成要素になっているのです。

3.「ネガ」と「ポジ」

 つまり、私が思うのはこういうことです。
 1923年に津軽海峡を北に往きつつ書かれた「津軽海峡」と、1924年に津軽海峡を南に還りつつ書かれた「〔船首マストの上に来て〕」とは、どちらも亡き妹トシの化身とも言える「かもめ」が海上で現れるという点において、ちょうど「対」になった二作品と言えるが、各々においてそのかもめが象徴している意味内容を比べると、前者では「白い鳥」と同様に「兄との死別の悲しみに暮れる妹」であるのに対して、後者では「兄を守護し幸いをもたらす妹」であり、まさに対極的な意味づけができるのではないか、ということです。
 もちろん、賢治が当時、「白い鳥=おなり神」といった沖縄の伝承を知っていたとは思えないのは、先日も検討したとおりなのですが、しかし少なくとも、マストの上をひるがえって飛び、針のように啼くこちらのかもめには、前年にはなかった躍動性があふれています。賢治はこちらのかもめに対しては、「かなしく鳴きながらついて来る」かもめとは、何か明らかに違ったとらえ方をしているのです。
 すなわち、寂しく悲しい「津軽海峡」と、輝かしく明るい「〔船首マストの上に来て〕」という二作品は、ほぼ同じ海峡上における「北向き」と「南向き」という空間的な対蹠性にとどまらず、その内容も含めて、言わば「ネガ」と「ポジ」をなす関係にあると言えるのではないでしょうか。

 そしてこれら二作品の関係を、このように位置づけることができるならば、それはさらに私にとっては、次のような二つの事柄を示唆してくれるように思えます。

 一つは、死んだトシと鳥を関連づけるというこの認識パターンが、当時の賢治にとっていかに根深く重い意味を持っていたのかということの、再確認です。それは、1923年夏の「白い鳥」と「青森挽歌」に始まり、最後は翌年夏の「鳥の遷移」や「〔この森を通りぬければ〕」に及んでいますが、実は「津軽海峡」にも引き継がれていた上に、さらに翌年5月の「〔船首マストの上に来て〕」でも重要な意味を帯びていたわけです。あらためて、「鳥としてのトシ」を描く作品群の連鎖が、浮き彫りになってきます。
 そうなると、同じこの期間において「鳥」が登場する他の作品、たとえば「山火」とか「〔祠の前のちしゃのいろした草はらに〕」などに出てくる「鳥」にも、どこかにそのようなトシのイメージの痕跡はなかったか、もう一度見直しておいた方がよいのかもしれません。

 そしてもう一つは、「ネガ」と「ポジ」の関係にあるのは、単に上の一対の二作品だけにとどまるのか、という問題です。ひょっとしたら、1923年8月の旅と、1924年5月の旅との間には、他にも対応関係があるのではないか、という疑問が起こります。
 これについては、また次回に考えてみたいと思います。

陸奥湾のかもめ

「牛」詩碑アップ

 先週の5月21日に、苫小牧で除幕式が行われた「牛」詩碑を、「石碑の部屋」にアップしました。

「牛」詩碑(正面)

「牛」詩碑(背面)

 碑石は、幅2.7m、高さ1.3mもあるという立派なもので、日高産の蛇紋岩だそうです。独特の存在感のある形をしているので、題材の「牛」にちなんで、「これは大きな『ベゴ石』のようだなあ」と言っている人もいました。

 私は、前日土曜の夜遅くに飛行機で新千歳に着いて、その晩は苫小牧市にいる古い友人と一緒に、街のお寿司屋さんでホッキ貝やホッキカレーらツブ貝を食べて、当日の朝は、苫小牧名物という「ホッキカレー」を、駅の建物にある「カフェ駅」でいただきました。
 右の写真のように、ホッキ貝の身がゴロゴロとたくさん入ったカレーで、貝らしい歯ごたえも旨みも、心地よいものです。

 それから、賢治が夜に一人散策して「牛」を着想した場所と推測される、「前浜」地区へ向かいました。
 私はこの浜辺には、ちょうど10年前の2007年5月にも来たことがあったのですが、当時は幅の狭い砂浜しかなかったところが、今は「ふるさと海岸」と名づけられてきれいに整備され、広々とした砂浜も復活していました。

ふるさと海岸の遊歩道

 遊歩道沿いには、上のような「木柵」も設けられていますが、もちろん今は牧場の跡形もありません。

ふるさと海岸の砂浜

 ふるさと海岸から、除幕式の行われる旭町3丁目7まで歩いて戻ると、大通りに面した会場には、もうたくさんの人が集まっていました。

 右のような「除幕」に続いて、詩「牛」の朗読、詩に曲を付けた歌の披露、来賓の挨拶、用地を提供された不動産会社の社長さんへの感謝状贈呈などがあり、30分ほどで式は終わりました。
 この後、会場をグランドホテルニュー王子に移して、宮澤和樹さんの講演、宮沢賢治学会イーハトーブセンター代表理事の富山英俊さんや、地元で賢治に関する活動に取り組んでおられる方々によるシンポジウムがありました。コーディネーターの斉藤征義さんの、「一番好きな賢治の作品は何ですか?」という質問に、富山さんが「青森挽歌」を挙げられたのが印象的でした。

 ところで賢治が、苫小牧で夜の浜辺に出て、「海鳴り」に記されたような苦悩を体験したのは、1924年5月21日の晩でした。
 そしてその翌晩には、彼はもう室蘭港から青森へ向かう船中の人となっていたのです。前回「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書いたように、「海鳴り」と「〔船首マストの上に来て〕」との間に賢治の心境の大きな変化があったとすれば、これは実質的には1日の間に起こったことだったわけです。

 この室蘭―青森航路のように、「夜をずっと船上で過ごし、目的の港に着く直前に夜明けを迎える」というのは、賢治にとってはその前年に宗谷海峡を渡った稚泊連絡船以来のことです。(修学旅行往路の青森―函館は、昼間の便でした。)
 稚内から大泊に渡った時の状況は、あの「宗谷挽歌」に一部が記されていたわけですが、9か月ぶりの夜の船上では、宗谷海峡における「挑戦」とはまた大きく方向性の異なった、心の動きがあったのでしょう。
 賢治の心境変化の上で、「宗谷挽歌」と同じ「夜の船上」という環境が、何か大きな役割を果たしたのではないかとも思ったりします。

1.草稿の様子

 『新校本全集』で「補遺詩篇 I 」として分類されている、「〔船首マストの上に来て〕」という作品があります。
 これは「作品」というよりも、「断片」と呼んだ方がよいのかもしれませんが、音楽用五線紙に鉛筆で書いた後、作者によって消しゴムで全面的に抹消されたというもので、なおかつ「おそらく冒頭・末尾を欠いている」(『新校本全集』第五巻校異篇)と推測されています。ところで、「五線紙に鉛筆で書かれた後に消しゴムで抹消」というと、あの印象的な作品を思い出しますが、それについてはまた後で触れます。

 まずは、全集に収録されているその全文を掲載しておきます。

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
煙とつはきれいなかげらふを吐き
そのへりにはあかつきの星もゆすれる
 ……船員たちはいきなり飛んできて
    足で鶏の籠をころがす
    鶏はむちゃくちゃに鳴き
    一人は籠に手を入れて
    奇術のやうに卵をひとつとりだした……
さあいまけむりはにはかに黒くなり
ウヰンチは湯気を吐き
馬はせはしく動揺する
うすくなった月はまた煙のなかにつゝまれ
水は鴇いろの絹になる
東は燃え出し
その灼けた鋼粉の雲の中から
きよめられてあたらしいねがひが湧く
それはある形をした巻層雲だ
 ……島は鶏頭の花に変り
    水は朝の審判を受ける……
港は近く水は鉛になってゐる
わたくしはあたらしく
marriage を終へた海に
いまいちどわたくしのたましひを投げ
わたくしのまことをちかひ
三十名のわたくしの生徒たちと
けさはやく汽車に乗らうとする
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
 ……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ
発動機の音や青い朝の火や
 ……みんながはしけでわたるとき
    馬はちがった方向から
    べつべつに陸にうつされる……

2.いつ・どこの出来事か

 冒頭部がおそらく欠如しているために、内容が唐突に始まりますが、これが船の上の情景を描いているのは確かでしょう。現存一行目の「船首マストの上に来て」の主語が欠けていますが、終わりの方に「かもめ」が登場することを考えると、マストの上に来ているのは、そのかもめだ解釈するのが自然です。
 15行目に「東は燃え出し」とあることから、作品中の時刻は日の出前、航路はどこかは記されていませんが、21行目に「港は近く」と書かれているので、もうすぐ港に到着するようです。
 そして、25行目の「三十名のわたくしの生徒たちと/けさはやく汽車に乗らうとする」という言葉が、この船旅の正体を明らかにしてくれます。「わたくしの生徒たち」と言うからには、この生徒たちは賢治の農学校における教え子にほかならず、これだけの生徒を引率して船に乗り、早朝に汽車に乗るとなると、賢治の伝記的事項からして、これは1924年(大正13年)5月18日から23日にかけて行われた、花巻農学校修学旅行の道中と推測できます。翌大正14年3月の卒業生は、名簿によれば34名ですから、この中の一部の生徒が修学旅行に不参加だったと考えれば、「三十名のわたくしの生徒たち」という表現とも符合します。

 この修学旅行中に、賢治たち一行が船に乗ったのは、往路の青森→函館、帰路の室蘭→青森の2回で、前者の船上では「津軽海峡」がスケッチされています。『校本全集』第十六巻(下)補遺・伝記資料篇p.224によれば、往路の船は5月19日の朝7:55に青森港を出て、昼の12:55に函館港に着き、一行は函館で肥料工場や五稜郭、函館公園を見学した後に、23:15の列車で小樽に向かっていますから、上草稿26行目の「けさはやく汽車に乗らうとする」という描写とは食い違っています。
 帰路では、5月22日の17:00に室蘭港を出航し、翌23日の朝4:20に青森港着、続いて6:15青森駅発の東北本線下り列車に乗ったと推定されていますから、日の出前に「港は近く」、そして「けさはやく汽車に乗らうとする」というこの草稿の記述と、ぴったり一致します。

 すなわち、この「〔船首マストの上に来て〕」という草稿は、その内容からして、修学旅行引率の帰途1924年5月23日の明け方の、青森港に近づきつつある船上の情景と考えられるのです。

 それでは、どうしてこれが他の修学旅行中の作品と一緒に、「春と修羅 第二集」として分類されていないのかというと、それはこの草稿の状態のためです。
 『新校本全集』における詩草稿の分類ルールでは、「春と修羅 第二集」のカテゴリーに分類するためには、草稿に「日付」がつけられていて、その日付が1924年1月~1926年3月という期間に入っている必要があるのです。冒頭部が欠けているこの「〔船首マストの上に来て〕」には日付がついていないので、「春と修羅 第二集」には分類できません。
 いったんこの期間の日付を持っていた草稿が、その後の改稿によって日付を喪失した場合には、それは「春と修羅 第二集補遺」として分類されることになりますが、「〔船首マストの上に来て〕」は現存稿しか残っていないので、これにも該当しません。
 では、そのかわりにどこに分類されるかというと、草稿が書かれている用紙が、自作のいわゆる「詩稿用紙」ではなく、また「手帳」でもないため、冒頭に記したように「補遺詩篇 I 」になるわけです。
 『新校本全集』の分類は、草稿の「形式」をもとにしているためにこのようになるのですが、ただその「内容」としては、ここに書かれているのは「春と修羅 第二集」の中でも一つの重要なトピックを成す、「北海道修学旅行」の一情景なのです。

陸奥湾から望む下北半島
陸奥湾から望む下北半島

3.その内容――トシの死との関係

 さて、その内容を見ていくと、まずは全体に漂う明るい雰囲気が、何より印象的です。17行目の「きよめられてあたらしいねがひが湧く」、22行目からの「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に/いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」というところなどに、それは最も表れています。
 作品にあふれるこの「明るさ」の要因は、一つには賢治が修学旅行の引率者として、30名の生徒に事故もなく、本州も目の前というところまで無事帰り着いたという、教師としての「安堵感」にあるのかもしれません。「三十名のわたくしの生徒たちと/けさはやく汽車に乗らうとする」という箇所には、何か「責任を果たした」という達成感がにじんでいるように感じられます。何せ青森から汽車に乗ってしまえば、あとはそのまま花巻ですから。

 22行目の「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に」という箇所の意味は、往路でやはりこの海峡を渡る際に書いた「津軽海峡」の「下書稿(一)」が、「水の結婚」と題されていたことを引きついでいるのだと思われます。水が結婚するとは不思議な表現ですが、「津軽海峡」における、「しばしば海霧を析出する/二つの潮の交会点」という表現が、その内容を物語っているのでしょう。
 実際、津軽海峡には対馬海流の支流である「津軽暖流」が西から東に流れていて、これが津軽海峡を東に出たあたりで、北から来る寒流の「親潮(の接岸分枝)」とぶつかるので、「二つの潮の交会点」と言われているのかと思われます。(下図は、「海上保安庁」サイトの「北海道周辺の海流」より)

北海道周辺の海流

 海流同士の出会い・融合を「結婚(marriage)」に喩える着想は、すでに往路からあったわけですが、帰路にはそれがよりいっそう祝祭的な雰囲気を帯びています。
 ここにも、先ほども述べた引率教師としての安堵感や達成感の影響があるのでしょう。

 以上は、まあ一般的に異論のないところかと思われますし、私もこれまではこんな風に考えながら、この作品を読んでいました。しかし最近になって私は、修学旅行が無事に終わりそうだというだけで、「きよめられてあたらしいねがひが湧く」とか、「いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」とまで言うのは、ちょっと大げさすぎないかという感じもしてきました。
 そこで、何か他に賢治のこの感情の由来はなかったのだろうかと考えてみると、上に挙げたような特徴的表現から、5月22日の日付を持つ(しかし実際には5月21日の夜の情景と推測される)、「」の先駆形「海鳴り」を連想しました。やはり賢治は修学旅行の途中で、この時は苫小牧の海岸に一人で出て、荒れた海を眺めつつ次のように記していたのです。

そのあさましい迷ひのいろの海よ海よ
そのまっくろなしぶきをあげて
わたくしの胸をとどろかせ
わたくしの上着をずたずたに裂け
すべてのはかないねがひを洗へ
それら巨大な波の壁や
沸き立つ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ

 私が思ったのは、ここに出てくる「すべてのはかないねがひを洗へ」という賢治の苦悩に満ちた叫びと、「〔船首マストの上に来て〕」に出てくる「きよめられてあたらしいねがひが湧く」という新鮮な感情は、セットになって対応しているのではないかということでした。苫小牧における「はかないねがひ」は、その後この船上で「洗」われ「きよめられて」、「あたらしいねがひ」として「湧」きあがったという風に、一つながりに理解すべきものではないでしょうか。

 そうなると、この「ねがひ」の中身は何なのか、ということが問題になりますが、上記の「海鳴り」に表れている激しい感情は、中地文氏が「「一二六 海鳴り」考」(『「春と修羅 第二集」研究』所収)に述べておられるように、やはり1年半前に亡くなった妹トシをめぐる思いだったと考えざるをえません。
 この前年の夏に、亡き妹を探してサハリンまで旅をし、宗谷海峡やサハリンの栄浜で苦悩のうちに眺めた「北の海」に、ここで賢治はしばらくぶりに一人で向かい合ったのです。また、「海鳴り」において「うしろではパルプ工場の火照りが・・・」として登場する工場は王子製紙苫小牧工場ですが、賢治がサハリンを訪ねた表面上の目的は、大泊の王子製紙会社に生徒の就職を依頼するためでした。同じ王子製紙の建物や煙突を見て、賢治がサハリン旅行を思い出さなかったはずはありません。
 また、「海鳴り」の最後の次の箇所からも、トシが連想されます。

 ……砂丘のなつかしさとやはらかさ
    まるでそれはひとりの処女のようだ……
はるかなはるかな汀線のはてに
二点のたうごまの花のやうな赤い灯もともり
二きれひかる介のかけら
雲はみだれ
月は黄金の虹彩をはなつ

 「なつかしさとやはらかさ」とともに思い出される「処女」とは、賢治にとって当時トシ一人だけだったとまでは断定できないでしょうが、その最も大切な一人であったことは間違いありません。また、「二点のたうごまの花」「二きれひかる介のかけら」として繰り返される「二」という数字も、前年に「噴火湾(ノクターン)」でトシのことを考えながら、「車室の軋りはかなしみの二疋の栗鼠」「室蘭通ひの汽船には/二つの赤い灯がともり」として「二」に執着していたことを、思い起こさせます。

 このように、草稿「海鳴り」が、当時なお賢治が抱え続けていたトシの喪失の悲しみを海にぶつけるものだったとすれば、そのわずか3日後を描いた「〔船首マストの上に来て〕」の明るく希望に満ちた調子は、それまでの彼の苦悩が、ここで何か大きく変化した可能性を示しています。
 「海鳴り」に記されている「すべてのはかないねがひ」とは、前年までの彼の作品を省みれば、「再びトシに会いたい」という、叶わぬ願望のことだろうと推測されます。賢治は、それは不可能なことだと理性ではわかっていながら、この時点でもまだそのような気持ちに苛まれ続けていたので、荒海に対してそれを「洗へ」と、懇願したのだと思われます。
 そして、この「ねがひ」という言葉からここでさらにもう一つ連想するのは、やはり前年の「青森挽歌」における、次のような表現です。

  (宗谷海峡を越える晩は
  わたくしは夜どほし甲板に立ち
  あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
  からだはけがれたねがひにみたし
  そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

 ここでは賢治は「けがれたねがひ」と呼んでいますが、やはりその内容としては、「トシとの再会の願い」だったと思われます。
 そして、「〔船首マストの上に来て〕」において、ついにその「けがれ」は「きよめられて」、「あたらしいねがひが湧く」に至ったのではないでしょうか。

 もちろん、賢治が書いた多くの作品中で、彼が「ねがひ」という言葉で表現した内容には様々なものがありますから、「青森挽歌」における「 ねがひ」と、「海鳴り」における「ねがひ」と、「〔船首マストの上に来て〕」における「ねがひ」とが、すべて同じことを指していると、機械的に決めつけることはできません。しかし、9か月あまりという近接した時期のうちに、「北の海と向き合う」という共通した状況において、彼が同じ「ねがひ」という言葉に込めた思いが、一つながりのものだったと考えてみることは、さほど不自然なことではないと思います。

 そう思って読んでいくと、23行目に出てくる「いまいちどわたくしのたましひを投げ」という表現もまた、気になってきます。上記の「青森挽歌」の段階で、「宗谷海峡を越える晩は・・・」として計画されていた賢治の「挑戦」の内容は、「宗谷挽歌」において部分的に示唆されていますが、そこに賢治はこう書いていました。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。

 すなわち、ここで賢治は、もしもトシが自分を呼んだら、海に身を投げようと決心していたと言うのです。幸いにして、彼は実際に身を投げるには至りませんでしたが、しかし実際に彼がそのような覚悟をしていたのだとすれば、それはすでに「魂を海に投げていた」と言ってもよいのではないでしょうか。
 私としては、これが「〔船首マストの上に来て〕」の23行目の、「いまいちどわたくしのたましひを投げ」という表現の伏線だったのではないかと思うのです。
 一度目の投擲は、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」という宣言を伴うもので、ここで賢治は海と「対決」しようとしたわけです。
 そして、翌年の修学旅行の帰途に、二度目の投擲が行われたのです。賢治は北海道から青森に向かう船上から海へ、「いまいちど」、「たましひを投げ」たのですが、今度は「水があんな朱金の波をたゝむのは/海がそれを受けとった証拠だ」と、彼は見てとりました。
 すなわち賢治はこの時、海と「和解」したのです。

 つまり、私が仮説的に考えているのは、次のようなことです。賢治は修学旅行中の苫小牧で「海鳴り」をスケッチした1924年5月21日の夜には、まだトシの喪失の悲嘆の中で、彼女との再会に固執する思いを断ち切れずに苦悩していたが、5月23日の早朝には、何かその感情が「きよめられ」るような心境に到達し、そのことを「〔船首マストの上に来て〕」に記したのではないか・・・。

4.心境変化と<海>

 とすると、次に気になるのは、何が短期間のうちに賢治の心境を、そのように変えたのだろうかということです。ただ残念ながら、この頃の作品や賢治の伝記的事項を見てみるかぎり、私にはまだそれははっきりわかりません。
 一般に、このような心境変化というものは、何か特定の明確なきっかけがあって起こることもありますが、また一方では、多くの要因の積み重ねや時間の経過によって、徐々にまたは突然起こり、特に「何のため」とは言いがたいこともあるものです。ですから、そのような「きっかけ」を探る試みが、必ずしも何かの結果につながるものともかぎりません。
 私としては、この問題については今後も考えていきたいと思っていますが、とりあえずここでは、賢治の<海>に対するとらえ方の変化に、着目してみたいと思います。上では、それを「対決」と「和解」と表現しましたが、以下でこれをもう少し詳しく見てみます。

 まず、1923年8月の「宗谷挽歌」の段階では、「海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち」というように、賢治にとって海は、「鬼神」をも宿す邪悪な場所のようにとらえられていました。「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」という覚悟をしていた彼にとって、海という場所は、自分たちを囚える牢獄にもなりうるものでした。
 「宗谷挽歌」で賢治は、トシからの呼びかけを期待し、呼ばれたら海に飛び込もうとも思っていたわけですが、ふつう人は誰かから呼ばれたら相手がいる(と思う)方に行くものですから、これはつまり当時の賢治のイメージとして、死んだトシは「海の中に囚われている」と想定していたことを示唆しています。この見方に立てば、二人を隔てる「タンタジールの扉」とは、海そのものであったとも言えます。

 これに対して、1924年5月21日の「海鳴り」では、海はやはり「あさましい迷ひのいろ」を呈してはいますが、賢治は自ら「海よ海よ」と呼びかけ、「わたくしの上着をずたずたに裂け」「すべてのはかないねがひを洗へ」「やりどころないさびしさをとれ」と、海に対して苦悩からの救済を懇願しています。ここでやはり海は恐ろしい存在でありながらも、なおかつ彼にとって「救済者」となりうる可能性も帯びているのです。また、「阿僧祗の修陀羅をつつみ/億千の灯を波にかかげて/海は魚族の青い夢をまもる」とあるように、海は尊い仏典を蔵し、生命を育む場所としてもイメージされています。
 このように、「海鳴り」で肯定的な存在へと転換しつつあった<海>は、2日後の「〔船首マストの上に来て〕」において、新たな境地に至った賢治の「たましひ」を、「受けとった」のです。「朱金の波をたゝむ」という形で、それは賢治を祝福さえしてくれました。

 内陸の地で生まれ育ち、中学生の修学旅行まで海を見たことのなかった賢治にとって、海というものは当初はさほど親しみを感じる存在ではなかっただろうと思われます。この中学時代の短歌をもとにした文語詩「〔われらひとしく丘に立ち〕」でも、海は「あやしきもののひろがり」と表現されています。
 上に見たように、1923年から1924年にかけて賢治の「海」に対する態度は、大きな転回を見せているわけですが、これは別の角度から見れば、賢治の「亡きトシ」に対する態度の変化を、象徴しているとも言えるでしょう。当初は、海は「死」の側に立って、自分とトシとの間を引き裂く障壁でしたが、いつしかそれは、賢治の苦しみを浄化し、生命力を与える存在ともなっていきました。これは、賢治がトシの死を、自ら受け容れていったことの表れとも言えるでしょう。

青森沖のかもめ
青森沖のかもめ

5.テキストの抹消

 この「〔船首マストの上に来て〕」という草稿が、もしも上記のように、賢治の心境の上で重要な画期となるものであったのならば、いったいなぜ彼はそのテキストを、消しゴムで抹消してしまったのでしょうか。
 それは最終的には、作者に聞いてみなければわからないでしょうが、しかし彼は他にも多くの草稿を書きながら、出版から除外したり、推敲や改稿において一部や全部を削除したりしていますから、それらの様子から推測することができるかもしれません。

 賢治は、『春と修羅』の「無声慟哭」や「オホーツク挽歌」の章において、トシの死と自らの悲嘆を真正面から作品化して刊行しましたが、その際にも「宗谷挽歌」は、『春と修羅』には収録しませんでした。
 その理由として杉浦静氏は、「激越な内容ゆえに公表をはばかり、その部分を削除したが、そのために〈定稿〉へ至らなくなってしまったという可能性は否定できない」と指摘するとともに、そこに表れているトシへの強い執着が、《けつしてひとりをいのつてはいけない》という「青森挽歌」の倫理と齟齬をきたしてしまうために、外さざるをえなかったのではないかということを述べておられます(蒼丘書林『宮沢賢治 明滅する春と修羅』)。

 また、それよりさらに後、『春と修羅』刊行後のある時期以降の賢治は、自らの妹のことを直接作品に書くことを、さらに意識して抑制するようになった節があります。
 たとえば上記の「海鳴り」も、「下書稿(一)」の段階では上のように、名指しはしないながらもトシをめぐる苦悩が記されていたのに、その「下書稿(二)」では「」と改題されるとともに、そのような苦悩に関する部分は全て削除され、海辺で月の光と戯れる牛の微笑ましい姿だけを描く作品へと変貌してしまいます。

 「〔船首マストの上に来て〕」と同じく、音楽用五線紙に書かれ、消しゴムで抹消されていた「薤露青」では、賢治はそこに記した自らの思いが「わたくしの亡くなった妹」に関することであると具体的に指定しつつ、「わたくしの胸いっぱいの/やり場所のないかなしさ」などという形で、生の感情をストレートにうたっていました。栗原敦氏は、「パネルディスカッション「春と修羅 第二集」のゆくえ」(『「春と修羅 第二集」研究』所収)において、この作品の「センチメンタルな、悲しい弱虫のところ」が、作者による抹消の要因だったのではないかという趣旨の発言をしておられますが、やはりこれも妹への個人的感傷を直接的に表現したものだったために、抹消されなければならなかったのではないでしょうか。
 「〔船首マストの上に来て〕」も、いくら肯定的な形であれ、やはり妹の死にまつわる自分の私的な心情を記したものであったため、賢治は抹消すべきと判断したのではないかと思うのです。

  ただ、上記のように「海鳴り」が「」へと改稿されて、トシの死という主題が抹消されていった一方で、同じ日付を持ちつつ別の方向性に変化していった一つの作品が、目にとまります。「春と修羅 第二集」には、「」と同じ5月22日付を持つ作品として、「」と題した詩があり、「牛」と「馬」が並ぶとまるで対になっているかのようにも見えるのですが、この「」の推敲の前後の変化が、興味深いのです。
 「馬」の「下書稿(一)初期形」は、次のように6行だけの小さな作品です。

  馬

いちにちいっぱいよもぎのなかにはたらいて
馬鈴薯のやうにくさりかけた馬は
あかるくそそぐ夕陽の汁を
食塩の結晶したばさばさの頭に感じながら
はたけのヘりの熊笹を
こっそり一枚だけ食べた

 これに対して、その「下書稿(一)手入れ形」は、次のような18行になります。

  馬

いちにちいっぱいよもぎのなかにはたらいて
馬鈴薯のやうにくさりかけた馬は
あかるくそそぐ夕陽の汁を
食塩の結晶したばさばさの頭に感じながら
はたけのヘりの熊笹を
ぼりぼりぼりぼり食ってゐた
それから青い晩が来て
やうやく厩に帰った馬は
高圧線にかかったやうに
にはかにばたばた云ひだした
馬は次の日冷たくなった
みんなは松の林の裏へ
巨きな穴をこしらえて
馬の四つの脚をまげ
そこへそろそろおろしてやった
がっくり垂れた頭の上へ
ぼろぼろ土を落してやって
みんなもぼろぼろ泣いてゐた

 5行目までは同じですが、熊笹の食べ方が変わり、そして馬はその晩、何の前触れもなく突然に死んでしまうのです。人間の「みんな」は、馬を丁寧に埋葬し、「ぼろぼろ泣いて」、その死を悼みました。ほんの短い作品ながら、「死」というものの理不尽さと悲しさが、際立って身にしみます。
 「海鳴り」から「」への変化は、「下書稿(一)」から「下書稿(二)」への改稿であるのに対して、「」の変化は「下書稿(一)」の上での推敲ですから、二つの変化は同じ段階のものではありませんが、しかし前者においては死者との別離と悲嘆というテーマが「削除」された一方で、後者においてはその同じテーマが新たに「付加」されているというところに、一対の作品の相補的な関係を想像する次第です。

 「トシの死」というテーマは、具体的・個人的な形では、テキストから周到に消されていった一方で、その代わり、より普遍化され寓話化された形で、逆にそれは積極的に描かれるようになっていったということなのかもしれません。
 作品において直接トシの死そのものが扱われることは、1924年8月以降は一切なくなったのに対して、ちょうどその頃から「銀河鉄道の夜」が書き始められたのも、きっとこれと同じ流れなのでしょう。

 奇しくも、「〔船首マストの上に来て〕」の現存末尾が、「みんながはしけでわたるとき/馬はちがった方向から/べつべつに陸にうつされる」という形で、「馬」の運命に対する関心の表明で終わっているところも、何となく面白く感じます。
 こちらの馬は、元気に海を渡って、これから本州で生きていくのでしょうか。

海上から望む青森市
海上から望む青森市

 去る3月31日に、大阪府柏原市の「柏原市立歴史資料館」で展示されている、「宮沢賢治が見た「100年前の柏原」」という企画を見に行ってきました。
 JR関西本線の「高井田」という駅で降りて北に向かい、古墳のある小さな丘を越えて5分ほど歩くと、この資料館の横に出てきます。

柏原市立歴史資料館

 この日にうかがうことをあらかじめお伝えしていたところ、館の事務室では資料館の方と柏原歴史研究会の代表の方が迎えて下さって、3月12日に開催された「「宮沢賢治と柏原」研究フォーラム」の様子や、3月25日に実施された「100年前に賢治が来た柏原は?見学ツアー」の状況について、丁寧に説明をして下さいました。

 そもそも、今回の「賢治来柏100年記念プロジェクト」という企画は、3年ほど前に柏原市民の方が、私のサイトの「農商務省農事試験場畿内支場」とか「運命の柏原駅」という記事をたまたまご覧になって、「あの宮沢賢治が柏原市に来ていたとは!」と市役所の方と話題にされていたことが、事の発端だったということです。
 その後、市教育委員会の文化財保護課や、柏原歴史研究会の方々が関連した調査を行い、今年の初めから具体的なプロジェクトの準備を開始して、今回の企画の実現に至ったとのことです。

 さて、3月12日に行われた「「宮沢賢治と柏原」研究フォーラム」では、賢治が盛岡高等農林学校の修学旅行で柏原市の農事試験場畿内支場を見学した際の詳細について、当時の農事試験場の状況や、賢治が乗ってきた鉄道について、3人のパネリストの方々がそれぞれの研究成果を発表され、市民の方々が熱心に聴講されたということでした。

 鉄道研究の観点からは、当時の賢治が乗ってきたと推測される蒸気機関車の写真も紹介されました。

王子駅に停車する8620形機関車

 上の写真は、当時の関西線にも走っていた、大正時代の代表的客貨両用の機関車「8620形」です(当日の配付資料より)。
 賢治が柏原市を訪れた1916年3月25日からちょうど100年後、「100年前に賢治が来た柏原は?見学ツアー」の参加者は、賢治が乗ったと推測される「五一番列車」の、奈良駅発10時6分→柏原着10時47分という時刻に合わせて、奈良駅を10時1分発→柏原駅着10時32分という「大和路快速」に乗り込み、柏原駅では「ようこそ賢治さん」という横断幕を持った柏原市長らに出迎えられたということです。

 100年前に柏原駅を降りた賢治たちは、駅の目の前にある広大な農事試験場を見学したわけですが、当時この畿内支場では、イネの育種交配の日本における第一人者だった加藤茂苞(しげもと)が、精力的に研究を進めていました。賢治の同級生・森川修一郎の記録によれば、修学旅行生に説明を行ったのは畿内支場の「場長」だったということですが、中でも育種の具体的方法については、「其方法としては在来種より単に良種を撰出するもの、ミユーテイシヨンにより良種を改良するもの及相互の掛け合わせにより良きものを得るものとの三法であつて、其各法の優劣易不易等に就いて…」などと専門的に詳しい講話を聞いたとのことですから、この研究の責任者であった加藤茂苞も、その場にいた可能性は十分に考えられます。
 そして加藤は、この1週間後の4月1日に、秋田県大曲の陸羽支場の場長として栄転し、ここであの「陸羽132号」の誕生にも関わるのです。
 後の賢治が、在野の農業技術者として、岩手県に「陸羽132号」を普及させるために熱心な活動を繰り広げることになる重要な「伏線」が、この日の見学でイネ育種研究の最前線を目の当たりにしたことにあった可能性があるのです。

畿内支場硝子室

 上の写真は、当時の畿内支場で品種交配研究のために使用されていた、「硝子室」です(当日の配付資料より)。
 イネの人工的な交配は、あらかじめ雄しべを取り除いたイネの花の雌しべに、別のイネの雄しべから採取した花粉を振りかけることによって行います。この作業は、真夏の暑い盛りに、花粉が遠くへ飛んでしまわないように風のない閉め切った空間で行わなければなりませんし、イネの花というのは咲いてから1時間から2.5時間ほどで閉じてしまうので、とても集中力を求められるものなのだそうです。そして受粉をさせた後も、そのまま屋外でイネを育てていると、スズメなどが来て勝手に他のイネの花粉を付けてしまうおそれもあるため、上のような「ガラス室」の中で、育成管理を続けなければなりません。
 写真のような、全国でも他の農事試験場にはない大規模なガラス室がこの畿内支場に存在していた理由は、少し前に大阪で行われた博覧会の展示用のガラス室を払い下げてもらったためだということで、この設備があったおかげで当時の畿内支場は、イネの交配育種研究では日本一(ということは事実上の世界一)の実績を挙げられたのです。そして加藤茂苞も、この設備のもとで研究を行うために、わざわざ秋田県大曲の陸羽支場から畿内支場に移ってきたのです。
 もともと東北出身の加藤茂苞と宮沢賢治という二人が、この関西の地でたまたま出会い、それが賢治のその後の活動にも影響を与えていたとすれば、とても興味深いことです。

 「陸羽132号」は、それ自身としても冷害に強く東北の飢饉を救う品種となっただけでなく、その後さらなる品種育成の出発点となり、「農林1号」、「コシヒカリ」、「ササニシキ」、「あきたこまち」、「ひとめぼれ」など、その後の日本における代表的なお米を生み出していきます。そのような品種が生まれる源流の一つが、ここ柏原市の「畿内支場」にあったのです。
 残念ながら、畿内支場はその後1924年(大正13年)に廃止され、地元の柏原市においても、その存在はいったん忘れられかけていたようです。しかし、今回の賢治関連のイベントを契機に、ある時期の日本の農業の発展に多大な貢献をしたこの施設を、地元からも見直していこうという機運が、高まっているということです。
 下の写真は、柏原駅の西口近くに立てられた、農商務省農事試験場畿内支場の跡地の案内板です。昨年の2月に柏原市の教育委員会が設置したもので、宮沢賢治の来訪にも触れてくれています。

「農商務省農事試験場畿内支場跡」案内板

     農商務省農事試験場畿内支場跡
 JR柏原駅の北側には、明治三六年(一九〇三)から大正一三年(一九二四)ごろまで、農商務省の宇治試験場畿内支場がありました。農事試験場とは、当時、農産物の改良のために設置されていた施設です。東京の本場のほか、全国に支場が設置されていました。そのうちの一つが、畿内支場です。畿内支場の総面積は、明治三六年ごろで約二万七五〇〇平方メートル。明治四一年(一九〇八)ごろからは、それに加えて旧奈良街道(今町通り―古町通り)の西側にも約三万五〇〇〇平方メートルもの農地を借地していました。当時、支場には、全国から約三五〇〇品種もの水稲が集められており、日本で初めて人工交配に成功するなど稲の品種改良研究に関しては、全国のトップレベルにあったようです。
 大正五年(一九一六)年には、宮沢賢治が盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)の修学旅行で同級生らとともに見学に訪れています。
  平成二七年(二〇一五)二月
                            柏原市教育委員会

 また、現在の柏原駅舎は2007年に全面改築されて橋上駅になっていますが、1889年(明治22年)に建てられ、賢治が乗降した際に使った旧駅舎の正面入口に敷かれていた花崗岩の敷石が、今は柏原駅西口のベンチの脇に「旧駅舎メモリアルモニュメント」として保存されています。
 縦向きに置かれているこれらの石の上を、100年前に賢治たちが歩いたというわけです。

柏原駅西口旧駅舎メモリアルモニュメント

 「柏原市立歴史資料館」の「宮沢賢治が見た「100年前の柏原」」は、この4月下旬まで展示されているということですので、関心のある方はぜひ一度ご覧に行かれることをお勧めします。

 さらに、今年8月27日の賢治の誕生日(生誕120周年!)の頃には、今度は柏原市立図書館において、賢治の作品を取り上げる企画を開催する予定とのことですので、こちらもまた楽しみにしたいと思います。

柏原市立歴史資料館・宮沢賢治が見た「100年前の柏原」

【謝辞】 貴重な時間をさいてご説明を下さった、柏原歴史研究会の桝谷政則様と、柏原市立歴史資料館の石田成年様に、心より感謝申し上げます。

 大阪府柏原市の「まちの魅力づくり課」の方から、お知らせをいただきました。
 柏原市というと、賢治が1916年(大正5年)3月に、盛岡高等農林学校の修学旅行で訪れ、農事試験場を見学した場所ですが、このたび柏原市では、賢治の訪問100周年を記念して、「宮澤賢治来柏100周年プロジェクト」という催しを行うのだそうです。
 下が、そのイベントのチラシです。クリックすると拡大表示されます。

宮澤賢治来柏100周年記念プロジェクト(表)

宮澤賢治来柏100周年プロジェクト(裏)

 開催される企画は、以下のとおりです。

平成28年3月25日(金)
100年前に賢治が来た柏原は? 見学ツアー
集合: (1) 午前9時40分: JR奈良駅・正面改札口
または(2) 午前10時30分: JR柏原駅改札口集合も可
   ※集合は(1)か(2)のいずれかを選択
コース: JR柏原駅から徒歩で、旧「農商務省農事試験場畿内
     支場」跡地周辺を散策、12時30分頃JR柏原駅で解散
参加費: 300円 (資料・保険代)
申込先: 柏原おいなーれガイドの会(連絡先はチラシを参照)

平成28年3月12日(土)
「宮沢賢治と柏原」研究フォーラム
  これまでに「宮沢賢治と柏原」について調査・研究してきた結果
  わかってきたことを発表し、参加者全員でさらに史実を深めま
  す。
時間: 午後1時30分~3時30分
会場: 柏原市立男女共同センター(フローラルセンター)
パネリスト: 石田成年(市立歴史資料館)
        寺本光照(鉄道写真家)
        宮本和幸(柏原市教育委員会)
資料代: 500円
申込先: 柏原歴史研究会(連絡先はチラシを参照)

平成28年3月1日~4月下旬
宮沢賢治が見た『100年前の柏原』
  賢治が目にした100年前の柏原の姿を紹介します。
会場: 柏原市立歴史資料館

 「見学ツアー」は、賢治の柏原訪問(1916年3月25日)と、月日まで合わせた企画ですね。
 私も、できれば全ての催しに参加したいところなのですが、残念ながら3月12日の「研究フォーラム」も、25日の「見学ツアー」も、どちらも仕事と重なって行けません。せめても、期間中に「柏原市立歴史資料館」の資料展示だけでも見てこようと思っています。

 関西地方では、数少ない宮澤賢治関係の企画ですので、興味をお持ちの方は、ぜひ参加されてはと思います。


 ちなみに、当ブログで賢治の柏原訪問を取り扱った記事は、主に下記の二つです。

・「農商務省農事試験場畿内支場」 (2008年6月19日)
・「運命の柏原駅」 (2008年10月19日)

 前者は、1916年に賢治が修学旅行で訪れた農事試験場について、後者は1921年に父と柏原駅を「通過」した時のことについて述べています。

辺見庸『瓦礫の中から言葉を』

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 北上川中流の町・花巻で生まれ育ち、中学校ではより上流に位置する県都・盛岡へと進学した宮澤賢治は、その中学の修学旅行において、北上川を蒸気船で下ることになりました。そして、河口の町・石巻で、生まれて初めて海を見たのです。今からちょうど100年前、1912年(明治45年)のことでした。
 北上川とともに育った賢治が、その川が海に出会う地点で、やはり自らも海に出会ったのは、何かの運命が導くところだったようにも思われます。「花巻」と「石巻」という、対になったような名前の町。

 ところでこの初対面において、海に対する賢治の第一印象というのはどうだったのでしょうか。当時の作品から推測すると、それは海の雄大さや美しさに「感激」したり「喜び」を感じたりというようなものではなかったようなのです。15歳の賢治が修学旅行の折りに詠んだ下記の短歌を読むと、彼は海に対して、何か不気味さや不吉さを覚えたように見えます。

まぼろしとうつつとわかずなみがしら
きほひ寄せ来るわだつみを見き

 あるいは、この短歌を晩年になって改作した下の文語詩には、より詳しく描写されています。

「われらひとしく丘に立ち」詩碑われらひとしく丘に立ち
青ぐろくしてぶちうてる
あやしきもののひろがりを
東はてなくのぞみけり
そは巨いなる鹽の水
海とはおのもさとれども
傳へてききしそのものと
あまりにたがふここちして
ただうつつなるうすれ日に
そのわだつみの潮騒の
うろこの國の波がしら
きほひ寄するをのぞみゐたりき

 賢治にとって初めて見る海は、幻か現実か疑うような「あやしきもの」で、こちらへ向かって迫るように「きほひ寄せ来る」様子だったのです。

 この時に賢治たちが海を望んだ場所、すなわち「われらひとしく丘に立ち」の「丘」とは、石巻市の中心部から少し海よりにある、「日和山」と呼ばれる小山でした。
 その昔お城もあったこの山の上には、その後「日和山公園」という公園が造成され、1988年に賢治の上記の文語詩を刻んだ上写真のような詩碑も建てられたので、私は2000年の夏にここを訪ねてみました。下は、その時の写真です。

日和山公園から北上川河口を望む(2000)

 北上川の河口にかかる日和大橋と、その向こうの太平洋が見えています。この日は晴れていたので、海は「青ぐろくしてぶちうてる」という感じではありません。しかしこれが、賢治が初めて海を見た時の眺望です。

 その後私は昨年の11月に、医療支援のために石巻に行く機会がありました。11年ぶりに日和山公園から南を望むと、その風景は下のようになっていました。

日和山公園から北上川河口を望む(2011)

 ここで私は、先の震災の直後にこの日和山公園に避難してきたたくさんの人々が、このアングルから眺めたであろう映像を、想像せずにはいられませんでした。
 太平洋から「きほひ寄せ来る」ようにせり上がってきた「巨いなる鹽の水」は、おそらく「青ぐろくしてぶちうてる」色をして、眼下に広がる町並みを飲み込んでいったでしょう。人々は、足元の山麓まで押し寄せる津波を、まるで「まぼろしとうつつとわかず」という心地で、茫然と見るしかなかったのではないでしょうか。
 賢治がこの場所から初めて海を見た時に感じた不気味さや不吉さは、99年後に現実となる上のような光景を、幻視したものではなかったか・・・。そんな思いに私はとらわれたのでした。
 もちろんそんなことはありえないとわかっていながら、震災を境に私は、賢治による上の短歌と文語詩を、この地を襲った津波と切り離して読むことができなくなってしまったのです。

◇          ◇

 作家・詩人の辺見庸氏は、上写真のように茶色の荒野が広がる、石巻市南浜町の出身です。先日私は、辺見氏の『瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ』という本を読みました。

瓦礫の中から言葉を―わたしの<死者>へ (NHK出版新書 363) 瓦礫の中から言葉を―わたしの<死者>へ (NHK出版新書 363)
辺見 庸

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 故郷・石巻について、辺見庸氏は書いています。

 わたしが育った石巻および三陸の沿岸都市は、つねに、気配、兆しというものを孕んでいた。わたしは太平洋沿いの海岸近くに住んでいて、いつも潮騒と海鳴りを聞きながら、なにかの気配を感じていた。耳の底にはいまでも、遠雷のような低い響きがあります。海のうねりが磯でくだけるときに空気とこすれ、空気をまきこんで発する音が海鳴りですが、それは台風や津波などがくる前兆とされていました。
 気配、兆しとは、これから、いつか正確にはわからないけれども、今後にやってくるもの、襲ってくることの見えないさきがけです。その気配、兆しというのは、いったいなにかということをずっと考えながら育ってきたのです。なにかがやってくる。なにかというのはよいことではないらしい。よからぬこと、それも途方もないことがやってくるとからだの奥で感じて育ちました。(p.46)

 辺見氏が言うような「気配・兆し」を、私は賢治が石巻で詠んだ短歌やそれをもとにした文語詩に対して、感じるようになってしまったのです。それは、私個人が石巻で感じたことの、勝手な思い入れに違いありませんが。

 この辺見氏の本は、訥々とした重厚な口調で、震災後の日本にあふれる厖大なまやかしの「言葉」を、厳しく斥けます。
 震災の後、この被災地出身の作家・詩人に対しては、いろいろな新聞記者がコメントを求めに来ました。

 3.11後、わたしはいくつかの新聞のインタビューを受けました。「日本はどうなると思うか」「日本はどのように再生すべきか」といった質問をよくされました。生来ひねくれ者のわたしは、記者の言葉からして鬆のたったダイコンやゴボウみたいに感じて不愉快になり、「この際いっそ滅びてみてもよいのではないか」「べつに再生しなくてもかまわないのではないか」などとまぜかえしました。
 すると若い記者らは一瞬あきれ顔になって、聞こえなかったふりをするか、または「本気か」と問うてきたりするので、反射的に「本気だ」と答えたのですが、わたしのそうした応答は、案の定、新聞に一行も載ってはいないのでした。(p.142)

 本書では、上の言葉に見るほどに、故郷に深い傷を負った作家が、オーウェルの『一九八四年』、原民喜の『夏の花』、石原吉郎のいくつかの文章、ブレヒトの『亡命者の対話』、折口信夫の詩「砂けぶり」、川端康成の「空に動く灯」、串田孫一との対談、堀田善衛の『方丈記私記』などを参照しながら、大震災によって壊されてしまった「既成の観念、言葉、文法」を超える表現を、探求していきます。

 辺見氏は、入れかわり訪れる上述のような若い記者たちに絶望しながらも、本書の最後で出会った37歳の記者との間には、不思議な心の通い合いを見出します。

 堀田善衛のどこが好きなのかわたしは問うてみました。少し間をおいてから、記者はポツリと言いました。
「なんだか、救われるから……」
「たとえば?」とわたしはさらに問いました。記者は『広場の孤独』のことや『方丈記私記』のことを話してくれました。これまであまりそのことを他人に話したりしていないようで、思いが整理されておらず、なんだか不得要領でした。ですから、あらかた忘れてしまいましたが、「『人間存在というものの根源的な無責任さ』という言葉に救われました」と彼がぼそっと語ったことは、こちらが反射的にすこしたじろいだので、かえってしっかり記憶しています。(p.172)

 『方丈記私記』は、私も偶然ながら石巻に行った時に携行して読んでいました。それで、鴨長明が体験した平安末期の地震、飢饉、大火、疫病と、堀田善衛が体験した東京大空襲とが、たしかに私にとっても、震災後の状況と重なり合ったのです。

◇          ◇

 さて、辺見庸氏の『瓦礫の中から言葉を』という本には、各章の終わりに辺見氏自身の詩が引用され載せられていて、印象的です。ただ、その最終章だけは、別の詩人の作品抜粋が掲げられて、本文は閉じられます。

 別れぎわにあの青年(引用者注:上記の記者)は最後の質問をしました。「3.11後に読んだ文でいちばんよかったものはなんですか」。わたしは宮澤賢治の「眼にて云ふ」(「疾中」所収)という詩にとても感動した、と迷わず答えました。何十年も前に読んだことがあるけれども、大震災後に読んだら、どういうわけか眼が洗われるように風景が見えてきたのです。わたしは末期の視界を思いました。逝く者の視界にこそ、本物の言葉がありました。
 青年はメモをとりながら「読んだことがない……」とつぶやきました。いまごろはきっともう読んだことでしょう。そして、わたしとはちがう風景を想い描いて心をおどらせたのではないでしょうか。
 その詩の最後の十行はこうです。

血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないのがひどいです
あなたの方からみたら
ずいぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。

奈良県農事試験場の場所

 3月11日を境に、世の中が変わってしまいました。被災地から離れた西日本にいても、それまで感じていたことや、未来に向けて抱いていたことが、すべて一瞬にして土埃のように消し飛んでしまったかのようです。
 まだ茫然とした感覚がどこかで続いていますが、いつまでも手をこまねいているわけにもいきませんので、最近は何か身近なところからできることはないかと、ようやく考えるようになってきました。

 そんな中から形をとってきたのですが、来たる4月17日(日)に、京都の「アートステージ567」というイベントスペースにおいて、震災救援のための賢治にちなんだチャリティイベントを、ささやかながら開催できることになりそうです。
 具体的なことは、また確定し次第ここに書き込みますので、どうかよろしくお願いいたします。

◇          ◇

 さて、今日の記事は「3月24日」という日付けにちなんで・・・。

1916年3月24日 今から95年前、1916年(大正5年)の3月24日、賢治は盛岡高等農林学校の修学旅行で奈良を訪れ、「奈良県農事試験場」を見学しました(右画像は、『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)年譜篇p.108より)。
 この記述の出典は、盛岡高等農林学校「校友会報」第三十一号(大正5年7月15日発行)に掲載されている「農学科第二学年修学旅行記」に、賢治の同級生菅原俊男が書いている内容によります。菅原による元の記載は、下のとおり。

やがて奈良に着き直に同県立農事試験場を参観した。麦の採種用一粒播麦の豊凶考査試験畿内支場にて交配せる品種試験、大麦品種試験(太政官六角シユバリー等)等は主なる試作であつた而して本県に適せる麦の主なる品種は、チクマ、相州、豊年等である。一般に農家の麦に対する希望は、二毛作及用途の関係上丈短く揃ひ、しかも収穫期の早きものであると。又蔬菜としては、甘藍、みぶな、鹿児島菜等で殊に後の二者は、此の地方に特有なものであると。やがて当場を辞し、夕方で随分寒かつたので、一同急いで対山館に着いた。時に午后六時過ぎ。

 ここで「県立農事試験場」と書いてあるのは、当時の正式な名称では「奈良縣農事試験場」ということだったようですが、その住所は、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」に収められている「奈良縣農事試験場要覧」という1903年(明治36年)に刊行された冊子に、「奈良市大字油坂小字宮ノ前」にあったと書かれています。しかし、住所表記法が現在とは異なっているため、正確にどこにあったのかは、これまで少なくとも私にはわかりませんでした。
 そうしたところ、先日たまたま「奈良県立図書情報館」のサイトで奈良の古い地図を眺めていたら、「實地踏測 奈良市街全図」という1917年(大正6年)に刊行された地図に、「農事試験場」が記載されているのを見つけました。下図がその一部です。

實地踏測 奈良市街全図

 「農事試験場」は地図の左端、「奈良(三條)停車場」の北西にある四角い敷地です。ちょっと字が小さくなって見にくいですが・・・。
 同じ地域を、現在の衛星写真で見ると下のとおりです。

 「實地踏測 奈良市街全図」上で、三条通からの距離とJR線からの距離を計測してプロットすると、左端のマーカーの位置が、農事試験場があった場所と推測されます。
 ではその場所が、現在はどうなっているのか・・・。上の衛星写真で、マーカーを中心部にドラッグしておいて、左上の[+]ボタンを押して拡大していくと、「新大宮グランドハイツ」というマンションになっているのがわかります。

 ちょうど来月の初めに奈良に行く予定があるので、もし可能ならば現地を見てみたいと思っています。

奈良縣農事試験場全景
奈良縣農事試験場全景(『奈良縣農事試験場要覧』より)

奈良縣農事試験場全図
奈良縣農事試験場全図(『奈良縣農事試験場要覧』より)

【関連記事】
奈良における賢治の宿
「対山楼」のあった場所

旧「大東館」跡

 宮澤賢治の盛岡中学4年時(1912年)修学旅行の日程は、次のようなものでした。

  • 5月27日
    午前3時30分、盛岡発一関行き東北本線上り列車乗車。
    午前7時3分、一関下車。狐禅寺へ徒歩4km。
    狐禅寺の岸場から北上川汽船「岩手丸」乗船。
    約6時間半で石巻着。日和山に登り、賢治は生まれて初めて海を見た。
    渡波町にて製塩の見学。石巻泊。
  • 5月28日
    金華山へ向かう予定を強風のため変更し、10時に船で松島へ。
    瑞巌寺を見学し、再び船で塩竃へ。
    賢治はここで一行から離れ、菖蒲田で療養中の伯母・平賀ヤギを一人で見舞う。
    「大東館」で伯母と会い、ともに磯を歩く。その晩は大東館泊。
  • 5月29日
    人力車も利用して駅へ戻り、朝8時20分塩釜発の列車に乗り9時仙台着。
    助役や巡査に修学旅行一行の宿を尋ね、12時に旅館「堺屋」で合流。12時55分発列車で平泉へ向かい、中尊寺を見学。23時25分盛岡駅に帰り着く。

 中学4年修学旅行
賢治の修学旅行・一関以南のルート

 汽船で北上川を下るという行程も、当時ならではのものです。そして、それまで岩手県の花巻と盛岡という内陸しか知らなかった賢治は、石巻の日和山から、生まれて初めて「海」を見ました。

まぼろしとうつゝとわかずなみがしらきそひよせ来るわだつみを見き

 一行は、翌5月28日は、石巻港から船で松島へ向かいました。このあたり以降の旅の様子を、賢治は盛岡に戻った5月30日に、父あての手紙で報告しています(書簡4)。それは次のように始まります。

謹啓 昨夜夜十一時帰盛仕り候 今日は一日睡り只今この手紙を認め居るにて候 小遣は二円にて甚だ余り申し候 石の巻を出発仕りしは午前十時頃にて候へき 船は海に出で巨濤は幾度か甲板を洗ひ申し候 白く塗られし小き船はその度ごとに傾きて約三十分の後にはあちこちに嘔げる音聞こえ来り小生の胃も又健全ならず且つ初めての海にて候へしかばその一人に入り申し候 約一時間半にて松島に着浅黄色の曇れる日の海をはしけにて渡り瑞巌寺を見物致し小蒸気に乗りて塩釜に到り申し候 松島は小生の脳中に何等の印象をも与へ申さずわづかに残れるは雄島の赤き橋と瑞巌寺の古美術位の物にて候

 ということで、賢治は塩竃に着きました。15歳の少年が、父親に対して自分のことを「小生」と記しているのは、何となく微笑ましいですね。
 そして賢治はここで引率の先生の許可を得て、近くで療養していた伯母・平賀ヤギを見舞ったのです。

 賢治の父政次郎の姉ヤギは、一度結婚したものの1893年に離婚して、実家に戻っていました。賢治が生まれた1896年から、1902年に再婚するまでの間、彼の幼少期に同居することとなり、賢治を非常に可愛がったと言われています。浄土真宗を篤く信仰し、寝床の中で賢治に親鸞の「正信偈」や蓮如の「白骨の御文章」を子守歌のように繰り返し聞かせ、賢治が3歳にしてこれらを暗誦したというエピソードを育みました。また、賢治が粘土で作った仏像を、後年も大事に仏壇に安置して礼拝していたともいうことです(佐藤隆房『宮沢賢治』)。
 この優しい伯母ヤギは、1902年に平賀常松と再婚しますが、病気になり宮城県七ヶ浜村菖蒲田の旅館に、滞在して療養生活をしていたのです。
 この修学旅行ではちょうど近くまで行くので、賢治の胸の中には伯母を見舞おうという計画が、おそらく出発前からあったのでしょう。しかし、引率の先生に願い出たのは、塩竃に着いてからでした。そして「無理に先生の許可を得」て、一人で寂しい漁村へ向かって歩き出したのです。

塩釜にて無理に先生の許可を得その夜八時半迄に仙台に行く事を約して只一人黄き道を急ぎ申し候 曇れる空、夕暮、確かなる宛も無き一漁村に至る道、小生は淋しさに堪へ兼ね申し候 無意識に称名の起り申し候 肥れる漁夫鋭き目せる車夫等に出合ふ度に小生の顔を見つゝ冷笑する如き感を与へられ不快なる心もて塩釜より約一時間両び海を見黒き屋根の漁夫町を望み申し候 波の音は高く候へき。

 心細さのあまり無意識に「称名」(=南無阿弥陀仏)が口に出たのは、それを伯母ヤギが繰り返し教えてくれたからでもあるでしょう。
 淋しさと不安に怯えつつも、賢治は7kmほど離れた菖蒲田の集落に、何とかたどり着きました。

「この町に宿屋何軒ありや。」と聞けば六軒ありと答へられ一軒一軒を尋ねても伯母上を見んと思ひまづ渚より岩にかけられし木の階を登り大東館と書かれたる玄関の閉まれる戸幾度か叩き申し候へど答無ければ宿は他の方かと思ひて家を東の方にまはればこゝには戸無くランプの灯赤きに人二人居るが硝子越しに見え申し候 宿主の居る方を聞かんと存じ中をのぞき候ところ思ひきや伯母さまにて候へき 今一人は下女にて候へき

 「一軒一軒を尋ねても」という強い覚悟で漁村をまわろうとした賢治は、幸運にも一軒目で、懐かしい伯母の顔を発見します。
 感動的な再会と、二人で語り合う場面が続きます。

不思議さうなる顔して小生を見居りしが甚だ喜ばれし面もちにてしきりに迎へられ遂にその夜の九時の塩釜発の汽車にて仙台に行く事とし夕食をごちそうに相成りあちこちよりの手紙を見せられ申し候、伯母さまは幾度もおぢいさんや父上母上のお心に泣きたりと申され候、海は次第に暗くなり潮の香は烈しく漁村の夕にたゞよひ濤の音風の音は一語一語の話の間にも入り来りて夜となりその夜は遂に泊められ申し候

 前日に生まれて初めて海を見た賢治にとって、この海辺の宿での一夜は、さらに「海」というものの印象を強く焼きつけてくれたのでしょう。「海は次第に暗くなり潮の香は烈しく漁村の夕にたゞよひ濤の音風の音は一語一語の話の間にも入り来りて夜となり・・・」という一節は、後の賢治の作品をもかすかに連想させるような、独特の描写です。
 伯母の身の上を案じる賢治の手紙は続きます。

伯母さまはずいぶんやせ申し候 血色はよろしきやうに見え候へども一日の食物は土鍋一つの粥のみと聞き申し甚だ驚き申し候 仙台の大内といふ人及静助さんはずいぶん親切にする由にて候
菖蒲田には客たゞ一人、伯母さまあるのみにて今はずいぶん淋しく私にても只一人かの地にあらばずいぶん心細く思ふべく候 すべてに不自由なしとは云はれ候へどもあまり永くかの地に止りたしと思はれぬ様は言葉のはしはしに見え候へき

 その夜と翌日について、賢治の手紙は下のように終わります。

九時半頃小生は先に睡り申し候 この夜咳の音に二度ばかり目覚め申し候 翌朝朝食を少しおそく食ひ八時二十分の汽車に間に合ふ為大急ぎにて来路を歩みとても間に合はざるやうなれば半分路より俥に乗り申し候 九時仙台着 助役に小生の宿を聞き巡査に幾度か尋ねて堺屋といふ宿屋に着し十二時一行と合し申し候
先づは以上伯母さまのことを御報知迄                敬具

 以上、賢治が父に、伯母ヤギとの再会について報告した手紙の全文でした。

 一方、賢治が晩年になって書きつけた「「文語詩篇」ノート」には、この時のことについて次のように記されています。

五月 仙台修学旅行
伯母ヲ訪フ。松原、濤ノ音、曇リ日
                  磯ノ香
伯母ト磯ヲ歩ム。夕刻、風、落チタル海藻
           岩ハ洪積

 晩年になってからも、この情景はとても印象に残っていたのでしょう。夕方、賢治が伯母と一緒に磯を歩いたことが記されています。

 さて、この時に賢治の伯母は宿に「客たゞ一人」という状況だったということですが、この「大東館」という旅館は、明治時代にできた非常に由緒ある旅館だったということです。
 現在の七ヶ浜町が発行している菖蒲田浜の案内には、次のように書かれています。

大東館(だいとうかん)
 明治21年、菖蒲田海水浴場が開設されたことに併せて、大東館が建てられました。
 当時の海水浴は、「潮湯治」(しおとうじ)とも呼ばれ、療養を目的に全国へ広まりました。18世紀の中頃、イギリスの医師が海岸に患者を集め、海水に浸らせたのがその始まりと言われています。大東館はいわば湯治をするための療養(保養)施設で、財界人や軍人などの有名人の来館が後を絶たなかったといわれています。
 上棟式には若きありし日の「大東館」後藤新平(後の満鉄初代総裁・東京市長)も出席したといいます。その後も、文人では島崎藤村や宮沢賢治なども訪問しています。しかし、場所は岬の突端にあり風や波によって浸食が激しく、建替の話もあったそうですが、結局は撤去されてしまいました。

 上の「撤去前の大東館」の写真も、七ヶ浜町の発行している案内に掲載されているものです。
 「幽霊屋敷」のようになって残っていた大東館の建物は、1991-1992年ごろに、取り壊されたということです。

◇          ◇

 さて、先週の連休に私は、賢治が伯母と感動的な再会を果たした「大東館」の跡を見てみたくて、「シオーモの小径」を訪ねた後、タクシーで七ヶ浜町の菖蒲田に向かいました。

 下が、菖蒲田の漁港です。

菖蒲田漁港

 そして、上の写真で向こうの方に小さな林のように見えている場所が、その昔に「大東館」があった場所です。
 岬のように海へ突き出ている小高い丘の斜面を登ると、旅館跡は今は下のような空き地になっています。

「大東館」跡地

 ちょうど近くで犬を散歩させていたおじいさんに確認してみましたが、確かにこの場所に「大東館」があったとのことでした。
 岬の東側には、下のような磯や砂浜があります。

大東館わきの磯

 賢治が「伯母ト磯ヲ歩ム」と書き残したのはこのあたりのことかと、思いをはせました。二人が歩いたのは今から98年前、ヤギが42歳、賢治が15歳の初夏のことです。

 そしてこの時に賢治は、無理をしてでも伯母を訪ねておいて正解だったでしょう。平賀ヤギは、療養の甲斐もなくその半年後の1912年12月1日に、世を去ったのです。

 賢治が晩年の1931年ごろに使用していた「雨ニモマケズ手帳」のp.77-78には、次のような書き込みがあります。

雨ニモマケズ手帳「為菩提平賀ヤギ」

 右端に「為菩提平賀ヤギ」、すなわち「平賀ヤギの菩提の為」と題して、「南無妙法蓮華経」の題目が7回書かれています。手帳でこの少し前には、「11.3」と記された「〔雨ニモマケズ〕」が書かれていることからすると、賢治がこのページを書いたのは、伯母平賀ヤギの命日である12月1日のことではないかと推測されます。

 当時まだ珍しかった離婚、再婚後の病気、孤独な療養、43歳での死など、幸薄かったかに見えるヤギの生涯ですが、賢治が死ぬまでこの伯母のことを思っていた様子を、うかがわせる書き込みです。

シオーモの小径

 先の連休に、宮城県の塩竃と七ヶ浜、それから福島に行ってきました。今回から何度かに分けて、そのご報告をいたします。

 まずは、20日(土)夜の京都駅八条口から。「杜の都」にちなんだ「フォレスト号」というバスに乗り・・・

フォレスト号乗車

・・・21日(日)の朝に仙台駅に着きました。

フォレスト号下車

 夜中にはかなり雨も降っていたようなのですが、仙台に着くと幸い雨は上がっています。しかし風はとても強い。
 仙台駅の食堂街の「牛タン定食」で腹ごしらえをすると、仙石線に乗って本塩釜駅に向かいました。

 上でもすでに二種類が出てきた「しおがま」の漢字表記に関して。市で定めた正式な用字は「塩竃」だそうですが、一方で「塩釜」という表記も認められているということです(塩竃市HP「竃の字ついて」)。実際、市役所の公式文書では「塩竃」で、他方JRの駅名は、「塩釜」「本塩釜」「西塩釜」「東塩釜」となっています。
 もともと「釜」は金属製の大きな鍋のことであり、「竃」はその釜を掛けて煮炊きするための据え付け設備(=かまど・へっつい)のことですから、字の意味する対象は違います。むかし塩竃あたりの砂浜には、海水を沸騰させて塩を作るための「かまど」が多く設けられていたので、それが地名になったということです。
 ちなみに、「猫の事務所」に出てくる「かま猫」は、金属鍋の中で寝るのではなくて「かまど」の中で寝るのですから、これも「釜猫」ではなくて「竃猫」ですね。

 さて、15歳の賢治は、1912年(明治45年)5月28日に盛岡中学の修学旅行で石巻から船に乗り、松島の瑞巌寺を経て、この塩竃港に着いています。ここで彼は引率の先生の許可を得て団体から離れ、7kmほど離れた菖蒲田というところで病気療養していた伯母・平賀ヤギを、一人で訪ねました。彼はその時の様子を父に報告する感動的な手紙を残しているのですが、これについてはまた後日に触れる予定です。
 一方、少年小説「ポラーノの広場」の「五、センダード市の毒蛾」の章において、レオーノキューストはイーハトーヴォ海岸地方に出張を命ぜられます。

 次の朝わたくしは番小屋にすっかりかぎをおろし一番の汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったりそしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのやうな下級の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞりをたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました。けれどもファゼーロ! あの暑い野原のまんなかでいまも毎日はたらいてゐるうつくしいロザーロ、さう考へて見るといまはたくしの眼のまえで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを踊ったりうたったりしてゐる娘たちや若ものたち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなの〔数文字分空白〕とひとりでこゝろに誓ひました。
 そして八月卅日の午ごろわたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着きそこから汽車でセンダードの市に行きました。卅一日わたくしはそこの理科大学の標本をも見せて貰ふやうに途中から手紙をだしてあったのです。わたくしが写真器と背嚢をもってセンダードの停車場に下りたのはちゃうど灯がやっとついた所でした。

 上記の地名のうち「サーモ」とは、三陸海岸の北端の八戸市・「鮫」地区のことと考えられ、「シオーモ」は塩竃、「センダード」は仙台に、容易に比定できます。記録上わかっているかぎりでは、賢治が塩竃を訪れたのは前述の中学校修学旅行の時だけのようであり、「小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に行きそこから汽車でセンダードの市に行き・・・」という経路が修学旅行の際のものと同じであることからも、修学旅行における塩竃の記憶が、ここに反映されているのだろうと思われます。
 「イーハトーヴォ」「モリーオ」「サーモ」「シオーモ」「センダード」のいずれも、現実の地名(「岩手」「盛岡」「鮫」「塩竃」「仙台」)に、語呂がよくなるように語尾の子音を加減して、さらに、(1)名詞の語尾は"-o"で終わり、(2)後ろから二番目の音節にアクセントが置かれて長音化する、というエスペラントの規則に従って造語されています。

 「ポラーノの広場」というお話は、モリーオ市の博物局に勤めていた青年技官レオーノキューストが、農民の集う「広場」の成り立ちと経緯について書き誌したという形をとっています。
 物語には、冷たい高原の空気のように郷愁と哀感が漂っていますが、この「五、センダード市の毒蛾」という章は起承転結の「転」にあたる部分で、キューストは休暇を兼ねた出張でモリーオ市を離れ、海岸地方を楽しく旅しながら標本を集めます。全体の中でここだけには、賑やかな夏の雰囲気が満ちているところです。

 そんな「シオーモ」=塩竃に、この3月17日に賢治の造語にちなんだ「シオーモの小径(こみち)」という名前の、文学碑の並ぶ散策路ができたと聞いて、今回私はやってきました。
 先にも少し触れたように、塩竃市にはJRの駅がいくつもありますが、港に近いのは仙石線の「本塩釜」駅です。

本塩釜駅

 この駅で降りると、「シオーモの小径」がある「マリンゲート塩竃」までは800mほどです。
 海辺に出ると、向こうの方に石碑が並ぶ光景が見えてきました。

「シオーモの小径」と「御座船」

 左に停泊している竜や鳳凰をかたどった鮮やかな船は、塩竃の「みなと祭」の際に神輿を載せて海を渡る「御座船」なのだそうです。奥へ続く歩道の右側に、石碑が並びます。

 まず最初にあるのは、地元塩竃の俳人・佐藤鬼房の句碑です。この「小径」は、鬼房が全国各地からやって来た文学者を迎えるような形で配置されているのだそうです。

馬の目に 雪ふり湾を ひたぬらす 鬼房

馬の目に
雪ふり湾を
ひたぬらす
    鬼房

佐藤鬼房
    (さとう おにふさ)
大正八年~平成十四年
    (一九一九~二〇〇二)
岩手より二歳の時に塩竃に移り
住み、働きながら句作に励む。
戦後を代表する俳人。市内権現
堂に<鬼房小径>がある。
  俳句は昭和二十年作『海溝』より。

 次は、並んで立つ白秋と牧水。

白秋と牧水

みちのくの千賀の塩釜雨ながら
網かけ竝めぬほばしらのとも
                  白秋

   塩釜より松島湾へ出づ
鹽釜の入江の氷はりはりと
裂きて出づれば松島の見ゆ
                  牧水

 そしていよいよ次が、賢治の「ポラーノの広場」。

宮澤賢治「ポラーノの広場」碑

そして八月三十日の午ごろ、
わたくしは小さな汽船で
となりの縣のシオーモの港に着き、
そこから汽車でセンダードの
市に行きました。
       「ポラーノの広場」より
                宮澤賢治

 上の石碑の下端は凹型になっていて、横に金属の棒が通してあるのですが、この金属の棒に見えるものは鉄道のレールで、碑の周囲に敷いてある石とともに、開業当時の旧塩釜駅で使われたものだそうです。
 上部には石巻から船で塩竃へ、そして汽車で仙台へ、というルートを表わす地図も刻まれています。凝った造りの見事な石碑です。

 次は、斎藤茂吉。さすがに風格のある歌です。碑石に四角くくり抜かれた穴は、立方体の「塩の結晶」を象徴しているのだそうです。

斎藤茂吉歌碑

松島の海を過ぐれば鹽釜の
    低空かけてゆふ焼けそめつ
                   茂吉

 さらに次は、与謝野寛・与謝野晶子夫妻。

与謝野寛・与謝野晶子歌碑

鹽釜の出口をふさぐ炭船のあひだに青き松島の端
                                寛
雁皮紙をいと美しく折り上げて松をさしたる千賀の浦島
                                晶子

 次には、田山花袋の紀行文まで。

田山花袋「山水小記」

 鹽竃の町は半は港で半は漁市
といふさまであつた。大漁の模様
のついたどてらを着た漁師、細
い通りに處々に並んでゐる青楼
の浅黄の暖簾、ある旗亭から三
味線の音が湧くやうに聞こえた。

 深く入込んだ 入江、そこに集
まつてゐる帆檣や和船や荷足
や水脈は黒く流れて、潮は
岸の旅舎の影を静かに揺かした。
          『山水小記』より
             田山花袋

 そして、正岡子規。

子規句碑

   籬嶋
涼しさのこゝを扇のかなめかな
                  子規

 最後は、この小径が完成した際の除幕式にも出席されたという高橋睦郎氏の歌碑。高橋氏は、佐藤鬼房の句に感動して面会して以来、たびたび塩竃を訪れて縁も深いのだそうです。一本の石碑の二面に一首ずつ刻まれています。

高橋睦?歌碑1   高橋睦?歌碑2

みちのくの千賀の塩竃釜に得む塩のはつかも笑みかけたまへ
                                     睦郎

塩の城(き)のザルツブルクに聞きしより年どし遠しサラリー縁起
                                     睦郎

 一首目は、先の白秋の歌にも出てきた「みちのくの千賀の塩竃」という昔からの歌枕を詠み込み、さらに「釜に得む塩の」までを含めた部分が、「はつかも」の枕詞のような役割を果たしている、古風な形式の歌。「ちょっとでもいいから笑みかけて下さい」という切実な思いを、長々と飾って歌う様子は、ちょっと万葉的かも。
 それに対して二首目は、「ザルツブルク」「サラリー」という外国語の入ったモダンな歌。モーツァルトの生地であり、現在も音楽の町として有名なオーストリアのザルツブルクは、古くから岩塩の産地として栄え、Salz(=塩)、Burg(=城)という名であることから、「塩の城(き)」というわけです。一方、塩はラテン語では sal というそうですが、古代ローマでは兵士の給料として塩を支給したことから、これが「サラリー=給料」という言葉の語源になったという話が、「サラリー縁起」でしょう。
 一首目は「千賀の塩竃」(近の塩)を、そして二首目は「遠の塩」(ザルツブルク)を詠んで、対をなしているのだそうです。塩竃もザルツブルクも、「塩」で発達してその名を冠する町なんですね。
 この高橋氏の短歌には、古典的な情緒と知的な言葉の技法があわさった、奥の深い味わいを感じました。

 「シオーモの小径」の説明の碑石。

シオーモの小径

シオーモの小径

塩竃を訪れた、近現代の文学者
たちの作品と一緒に、小径の散
策をお楽しみ下さい。シオーモ
は、宮澤賢治が『ポラーノの広
場』で、塩竃をイメージして付
けた架空のまちの名です。
      平成二十二年三月十七日
          塩竃市長 佐藤 昭

 ほんとうに、近現代の文学者が綺羅星のごとく並んでいる感じですね。

 もう一度振り返ると、点々と並ぶ石碑群と塩竃の港、市街はこういう風に見えます。いちばん手前にある大きな碑は、塩竃に港が開かれた時に建てられた「築港の碑」です。

「シオーモの小径」と塩竃港

京都における賢治の宿(2)

 以前に「京都における賢治の宿(1)」という記事で、1921年(大正10年)に賢治が父の政次郎氏と宿泊した「布袋館」という旅館があった場所の現状について、ご報告しました。
『新校本全集』年譜篇p.107-108 今回は、1916年(大正5年)に賢治が盛岡高等農林学校の修学旅行で京都を訪れた時に宿泊したという、旅館「西富家」です。
 右の画像は、『新校本全集』年譜篇のp.107-108に記載されている1916年3月23日の修学旅行生一行の動向で、文章の最後に「三条の旅館西富家に宿泊」として出てきます。この記述の根拠は、大正5年7月発行の盛岡高等農林学校「校友会報」に掲載された「農学科第二学年修学旅行記」に、賢治の同級生の原勝成が「三月二十三日」の記録として書いた、次の文です。

それより電車に乗して旅館なる西富屋に向つた。時に午后四時半日漸く西山に傾かんとしてゐた。

 「京都における賢治の宿(1)」で取り上げた「布袋館」は、残念ながら現存していないのですが、この「西富家」さんは、嬉しいことに現在も「要庵 西富家」という立派な旅館として営業しておられるのです。
 そこで私としては、ぜひ一度この旅館に宿泊してみたいというのが長年の夢でした。このたび、その念願を果たせましたので、ここにご報告する次第です。

 最初に、旅館の場所を確認しておきます。上の年譜記事では「三条の旅館」とだけ書いてありますが、その詳しい場所を、当時の資料で見てみましょう。

 まず下の画像は、1913年(大正2年)に「交通社出版部」から発行された『帝国旅館全集』という全国の旅館一覧です。

『帝国旅館全集』より

 赤線部分に「西富屋」があり、住所は「同富小路下ル」、すなわち「六角富小路下ル」と記されています。
 次に下の画像は、1926年(大正15年)に「全国同盟旅館協会」が発行した『全国旅館案内』です。

『全国旅館名簿』より

 赤線部分に「西富屋」があり、住所は「同六角南」、すなわち「富小路六角南」となっています。
 京都における地名表示では、南北と東西の通りを座標のように用いて、「下ル」とはそれらの通りの交差点から「南に行く」ということですから、「六角富小路下ル」でも、「富小路六角南」でも、結局は同じ場所を指すことになります。
 ただ、ここでちょっと気になるのは、どちらの資料においても、『新校本全集』年譜篇に書かれている「西富」ではなく、「西富」と旅館名が記されていることです。この問題については、また後述します。

 次に、現在の地図で「六角富小路下ル」を見てみましょう。

 地図の上の方の東西の通りが「六角通」、中央の南北の通りが「富小路通」です。この2つの通りの交点から南へ行くと、西側の緑色の長方形の区画に表示されているように、現在も「旅館西富家要庵」があります。すなわち、大正時代と同じ「六角富小路下ル」の場所で、現在も変わらず営業しているわけですね。
 間口が狭く奥行きが長いために「鰻の寝床」と呼ばれる、京都の町家らしい敷地です。(上の地図で、右上の[地図+写真]のボタンをクリックして画像を切り替えていただいても、附近の建物の様子が見られて面白いですよ。)

 ところでここの町名は、上の地図にも書かれているように「骨屋之町」というちょっと怖いような名前ですが、これは昔からこのあたりに「扇の骨」を作る職人が多く住んでいたために、こう呼ばれるようになったのだということです。地図でも、上端の右の方に「宮脇賣扇庵」という名前が見えますが、ここは、観光客もたくさん訪れる有名な京扇子の老舗です。
 「西富家」がリニューアルした際には、このような「扇の町」の「要」となることを願って、「要庵」という名前を冠したのだそうです。

◇               ◇

 前置きがえらく長くなってしまいましたが、それではいよいよ「要庵 西富家」に入っていきます。まず下の写真は、その門構えです。

要庵西富屋・門構え

要庵西富屋・蛍道 6月ということで、竹籠にあじさいが飾られていますね。

 格子戸から奥の玄関を覗いてみると、右のような感じです。
 細い路地に灯火をを並べたこういったエントランスは、京都では「鰻の寝床」形になった料理屋さんなんかでもよく見られるもので、「蛍道」とも呼ばれます。これはこれで風情のあるもので、歩いて中に入っていく際には、何となくワクワクしてきます。

 玄関を開けて旅館に入ると、まず「桐壺」という名前の部屋に通されて、冷たい「葛切り」に「はったい粉」をまぶしたものを出して下さいました。これをいただきながら、チェックインの手続きをします。

 ところでこの部屋には、下のような年期の入った看板が飾ってありました。

「西富家」看板

 ここは1873年(明治6年)創業ということですから、今年で136年になるという老舗で、これがいつ頃に作られた看板なのかはわかりませんが、これを見るとこの旅館の名称は、やはり昔から「西富」だったようです。『帝国旅館全集』や『全国旅館名簿』に記されていた「西富」の方は間違いで、盛岡高等農林学校「校友会報」や『新校本全集』年譜篇に記されていたのが正しかったようです。

 またこの部屋には、下のような額も掛けられていました。

「西富屋」定価表

 これは、大正10年3月の時点での「定価表」で、「一等」は5円、「二等」は4円、「三等」は3円と記されています。次の行に、「昼飯料は宿泊料の半額以内を申受候」と書いてあることからすると、これは「1泊2食付き」の料金なのでしょう。
 この値段が現在のどのくらいに相当するのか、換算は一律にはできるものではありませんが、例えば「田中貴金属工業」のサイトにある「年次金価格推移」を規準にしてみると、大正6年の金1gが1円36銭、平成20年の金1gが2937円ですから、上のそれぞれの料金に(2937÷1.36)をかけると、「一等」が10798円、「二等」が8638円、「三等」が6479円ということになります。これは、修学旅行生の宿泊代としては、まあ現在に置き換えてみても妥当な線かな、という感じです。
 ただ、現在の5代目主人になられてから、それまでは「修学旅行向け」だった旅館のコンセプトを大きく変えて、9室だけの風雅な懐石旅館にリニューアルされました。これが現在の「要庵 西富家」で、ですから宿泊料金も、上記の換算額よりは高くなっています。

 さて、これらの古い貴重な資料を見ながら「葛切り」をいただくと、私たちが宿泊する部屋に、案内してもらいました。

 「桐壺」の隣には立派なワインセラーがあって、下のようになっていました。ブルゴーニュを中心に揃えておられるとのこと。

ワインセラー

 で、宿泊するお部屋は、下のような感じでした。

西富屋「松風」(1)

西富屋「松風」(2)

 部屋で少しだけくつろいでから、お風呂に入りました。部屋にもすでにお湯の張られた浴室が付いているのですが、旅館の地階にある浴場の方に行きました。浴室内には、丹後地方の職人さんが作られたという可愛らしい人形が、たくさん飾られています。脱衣場には、氷水で冷やされた小さな缶のビールもサービスされていました。

 部屋に戻ってビールを飲みながら、夕食を待ちます。町の真ん中にあるのに、不思議なほどの静けさです。

 さて、お待ちかねの夕食は本格的な懐石料理で、まず先付けの「冬瓜饅頭」から始まりました。冬瓜を柔らかく煮て冷やした中に、海老やその他の小さな具が入っていて、葛で固めてあります。冷たい「だし」も美味しい。

冬瓜饅頭

 次は、「鮑と賀茂茄子の吸物」。賀茂茄子には軽く油が含ませてあって、鮑とともにこくのある味です。

鮑と賀茂茄子の吸物

 お造りは、よこわのたたきと剣先いか。「よこわ」というのは、マグロの幼齢魚の関西地方における呼び名です。この器などは、主人と女将が陶芸家に形や大きさを依頼して、作陶してもらったものだそうです。

よこわのたたきと剣先いかのお造り

 次は「八寸」。最初は、一辺が「八寸」どころかその二回りも大きい豪快な正方形の陶器の皿に、二人分が盛られて運ばれてきました。皿の上には、6月の「夏越しの祓」にちなんだ茅の輪が飾られています。そこから目の前で、今度は可愛らしく一人分ずつを下写真のように取り分けてくれました。
 内容は右から順に、青梅、鯖の棒寿司、瓜、甘藷、蛸の柔らか煮、小芋の衣かつぎ、鱧の肝、鱧の南蛮漬け、ほおづきに入った鶉の卵の黄身の塩漬け。
 どれも小さいけれど、本当に繊細な味なんですよね。

八寸

 次に「うちわかえで」の葉っぱをかぶせて運ばれてきたのは、「雲丹の飯蒸し」。おこわの上に雲丹を載せて蒸してあって、枝豆が取り合わせてあります。おこわに雲丹の香りや旨みが溶け込んで、雲丹もふんだんに盛られて、一緒に食べるとうっとりする味。

雲丹の飯蒸し

 次は、琵琶湖の鮎の塩焼き。まだ柔らかくて、頭から食べられます。蓼酢などつけなくても、鮎そのものの香りが豊潤です。

鮎の塩焼き

 そうそう、先述のようにこの旅館には見事なワインセラーがあって、とりわけブルゴーニュが充実しているのですが、私はどうしてもボルドーの方が好きなので、ポムロールの安いのを一本頼んで料理をいただきながら飲んでいました。すると女将さんがおっしゃるには、ソムリエの田崎真也さんもこの宿に泊まられた時に、「ポムロールを鮎に合わせてはりました」とのことで、なんか恐縮。私はそんなに深く考えてのことではありません。

 さて料理も終わりに近づき、きれいな銅鍋で出てきたのは、「鱧と蓴菜の鍋」。京都で鱧は、来月の祇園祭の季節とセットになった魚ですが、もうその時期も目の前です。蓴菜のとろみとだしが溶け合って、さっと炙って香ばしい鱧によく絡みます。

鱧と蓴菜の鍋

 最後に、ご飯とおつまみが運ばれてきました。ユニークな3×3の9つの区画に分かれた正方形の皿は、やはり特注のものだそうで、茄子や瓜の漬け物、鰻や岩海苔の佃煮、塩辛、たたき牛蒡、その他いろいろなご飯のおかずが、きれいに並んでいます。これぞ「迷い箸」です。また特筆すべきは、釜で炊いてそのまま部屋まで運ばれ、目の前で熱々をよそってもらう「ご飯」の美味しさでした。

ご飯とおつまみ

 デザートは、「水無月豆腐と巨峰のゼリー」。

水無月豆腐と巨峰のゼリー

 とういことで、素晴らしい懐石料理とともに夜が更けました。

◇               ◇

 翌日の朝食は、下のような感じ。

朝食

 飛竜頭の炊いたん、だし巻き、切り干し大根の炊いたん、ひじき、ちりめん山椒、鯛の子など、「京のおばんざい」が並ぶ献立です。前夜の懐石が「ハレ」の料理であるのに対して、朝食は「ケ」の料理という趣向なのだそうです。
 「ケ」などとは言いながら、「だし巻き」などやはり絶品でした。

 以上、なんか料理の紹介ばかりになったような気もしますが、賢治もその昔に宿泊した「西富家」に関する体験レポートでした。
 しかし、賢治たちが泊まった当時とは、全く雰囲気は変わってしまっているのでしょうね。


 今回私たちは、住所は近くのくせにわざわざ泊まりにきたものですから、女将さんに「今日は何かの記念日どすか?」などと尋ねられたりしました。これには、「大正時代に賢治さんが泊まった宿に、自分も一度泊まってみたかったんです」と、正直に告白しました。
 そして『新校本全集』年譜篇の、「三条の西富家」が出てくる箇所は、コピーして女将さんに差し上げてきました。


 なおこの旅館では、宿泊でなく料理だけをいただくこともできます。もちろん要予約ですが、お昼の懐石料理、または夜の懐石料理を、お座敷で楽しめるのです。京都に来られる賢治ファンの方の方にとっては、本格的な京都らしさとともに(気持ちだけ)賢治のゆかりを味わえる、一つの選択肢ではあるかと思います。

【関連記事】
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桂橋際の「万甚さん」(1)
桂橋際の「万甚さん」(2)

運命の柏原駅

 1921年(大正10年)の賢治と父政次郎氏の関西旅行において、不思議なことの一つは、聖徳太子廟のある叡福寺に参詣するためにわざわざ大阪まで行きながら、なぜか同寺への参詣は中止して、法隆寺へ向かったことです。
 この頃、叡福寺では「聖徳太子千三百年遠忌」が執り行われており、やはり「伝教大師千百年遠忌」が行われていた比叡山延暦寺と並んで、そもそもこの旅行の二本柱とも言うべき目的地のはずでした。そして父子は、当日朝に叡福寺への行き方を尋ねるために、京都で中外日報社を訪れるという手間までかけたのに、どうして近くまで行ってから、参詣をやめてしまったのでしょうか。

 この謎を考えるためにいくつかの資料を見てみたいのですが、まずその前提として、ここで叡福寺へのアクセスを、整理しておきます。
 京都から、当時の大阪府南河内郡磯長村にあった叡福寺に行くには、まず京都駅から国鉄東海道本線に乗って大阪駅へ行き、ここから城東線(現在の大阪環状線の東半分)に乗り換えて湊町駅(現在のJR難波駅)または天王寺駅へ行き、さらにここで関西本線に乗り換えて、柏原駅で下車します。柏原駅からは、当時の大阪鉄道(現在の近鉄道明寺線)に乗り、さらに道明寺駅で乗り換えて(現在の近鉄長野線)、太子口喜志駅で下車、ここから徒歩約3.5kmで、叡福寺に到着します。

 父子関西旅行に関しては、当事者が直に書き残したものとしては賢治の短歌しかなく、後年の間接的な「二次史料」として、佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史の各氏が政次郎氏から聞き書きした文章があります(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)。
 ここで、叡福寺参詣を中止した経緯について、三氏の記述を順に検討してみます。

 まず佐藤隆房氏は『宮沢賢治』(1942)において、次のように書いています。

 次の日の朝も早く宿を立ち、三十三間堂の近くにあった中外日報社を訪ねて行きました。それは聖徳太子の磯長の廟に行く道順をたずねるためでした。高野に行く線に乗ればよいと教えてもらったのですが、結局分かりにくい所なので方針を変え、奈良線に乗って奈良に向かいました。まず法隆寺駅に降り、寺に着いたのは午後二時頃でした。

 上の記述でまず誤りと思われるのは、「奈良線に乗って奈良に向かいました」という箇所です。奈良線というのは、京都から木津までの国鉄線ですが、実質的にはさらに木津から奈良まで関西本線に接続して、奈良までは一本の列車で運行します。つまり、「奈良線に乗って奈良に向かいました」ということならば、大阪は通らずに、京都から直接奈良に行ったことになってしまうのです。これは、大阪を経由したとする小倉豊文氏や堀尾青史氏の記述と、食い違ってしまいます。
 叡福寺(磯長の廟)に行くことを取りやめた経緯については、「教えてもらったのですが、結局分かりにくい所なので方針を変え」と書いてあります。「分かりにくい所」であるのはそのとおりですが、ここでは「方針を変え」たのが、どの時点であったのかということが問題です。「奈良線に乗って」という部分も含めて上記の記述をそのまま受けとれば、父子は京都にいる間に方針を変えて、直接奈良に向かったということになるでしょう。
 これは、理屈としてはありえることですが、上述のように小倉・堀尾氏の記述、そして現在『新校本全集』年譜篇にも採用されて現在の定説に近い扱いを受けている「大阪経由説」と相違してしまいますので、この佐藤氏の記述は、認めにくいと言わざるをえません。

 次に小倉豊文氏の記述ですが、「旅に於ける賢治」(1951)には、次のように書かれています。

 大阪市も全く素通りで、梅田の大阪駅から関西線始発駅の湊町へいそいだ。ところが当時磯長に行くのには関西線柏原駅に下車して大阪鉄道に乗り換え、更にもう一度道明寺で乗り換えて太子口喜志に下車、それから約一里を徒歩しなければならない。慣れぬ旅人には相当面倒である。そこで二人は柏原途中下車を中止してそのまま法隆寺駅まで乗つてしまつた。そしてそこで下車して法隆寺に参詣することにしたのである。「同じ太子の遺蹟であれば…」との下心であつたらしい。

 この記述から感じられる疑問としては、大阪で4回もの乗り換えがあり、確かに「慣れぬ旅人には相当面倒」なのは事実ですが、それは京都の中外日報社で行き方を聞いた時からわかっていたことのはず、それを承知の上で大阪まで来ておいて、せっかく近くまで来てからなぜ急に、「柏原途中下車を中止」という判断を下したのか、ということです。
 しかしこの疑問は、やはり小倉豊文氏の「『雨ニモマケズ手帳』新考」(1978)を読むと、私としては氷解しました。

 最後に前述の京都から法隆寺へ行くのに大阪を廻った異様な行程について記しておく。この旅行の父の計画については前述したが、聖徳太子の聖蹟では先ず河内の叡福寺の墓参りを予定していた。そこで京都に着くと年来愛読していた「中外日報」社に立寄って道筋を教わり、大阪に出て関西線に乗り、柏原駅で大阪鉄道河内長野行の電車に乗換え、太子口喜志駅に下車して徒歩参詣する心算だったのである。ところが柏原駅を乗り過してしまった。そこで叡福寺を法隆寺に振りかえたのだとのこと。「帝国文庫」と共に政次郎から聴いた思い出の笑話の一つである。

 すなわち、意図的に叡福寺参詣を中止したのではなくて、図らずも「柏原駅を乗り過して しまった」というのです。そうだったのなら、近くまで来てから急に方針が変わったのも納得がいきます。父子は前日に比叡山越えを敢行して、かなり疲れていたでしょうし、この日も朝から出かけていますから、車中で二人ともちょっと居眠りしてしまったとしても、不思議はありません。

 最後に、堀尾青史氏の『年譜 宮澤賢治伝』の記述を見ておきます。

第四日、父愛読の中外日報社へいき磯長村叡福寺への交通をきき、大阪へ出て汽車に乗ったが教え方がまずかったか、線がちがうのであきらめて奈良へ出、興福寺門前の宿に泊る。

 ここでは、叡福寺参詣中止の理由を、「線がちがうのであきらめて」と書いてあります。この時父子は、間違った路線に乗ってしまったのでしょうか。
 しかし、大阪から法隆寺を経て奈良へ向かうのは「関西本線」であり、その途中に、叡福寺への乗り換えの柏原駅はあるのです。二人が現実に法隆寺や奈良に着いている以上、関西本線に乗ったのは確かですし、それならば柏原駅も通るはずなのです。
 それでもこれを前提に堀尾氏の記述を強いて解釈すれば、例えば関西本線に乗る前に、どこかの乗換駅で間違えて別の線に乗ってしまって引き返し、それで余分な時間を費やしてしまったので、叡福寺参詣をあきらめた、などということならば理解できなくはありません。しかしそのような場合には、「線がちがうのであきらめて」とは表現せずに、「線をまちがえて遅くなったのであきらめて」などと書くのが自然でしょう。
 少なくとも二人が乗った、法隆寺や奈良に至る線は、「線がちがう」わけではなかったのです。

 以上、叡福寺参詣中止をめぐる三氏の記述はそれぞれに違っていて、錯綜しています。しかし、私としては上記のように、小倉豊文氏が「『雨ニモマケズ手帳』新考」に書いている、「(関西本線で)柏原駅を乗り過ごしてしまったから」というのが、最も納得のいく説明なのです。


 さてここで二人が乗り過ごしたらしい関西本線柏原駅とは、実は賢治が5年前にはちゃんと下車して、農商務省農事試験場畿内支場に向かった駅でした。すなわち1916年(大正5年)3月25日、盛岡高等農林学校修学旅行に参加していた賢治は、午前10時6分の奈良駅発関西本線下り五一列車に乗り、10時47分に柏原駅で下車したのです。
 下の図は、柏原駅と畿内支場の敷地です。(『農商務省農事試験場畿内支場一覧』(1903)より:赤字部分は引用者追加)

畿内支場と柏原駅

 賢治たちは柏原駅で下車し、すぐ北西の畿内支場に行き、イネの人工交配による品種改良について、場長から詳しい講義を受けています。当時、この畿内支場は西ヶ原の農事試験場本場にもなかったような大規模なガラス温室設備を有し、これを用いてイネの人工交配研究においては世界の最先端の業績を上げていました。
 そしてその中心を担っていた加藤茂苞は、賢治がここを見学した1916年に、山形にある陸羽支場の場長へと転任し、そこで1921年(大正10年)に、あの「陸羽132号」が誕生するのです。
 後年に、賢治が農業指導者として「陸羽132号」を強く推奨するようになった背景には、学生時代にここ柏原村で聴いた、イネの品種改良の有効性に関する講義の影響も、きっと潜在していたのではないでしょうか。その意味では、この柏原の地は、賢治にとって重要な場所の一つと言ってもよいのではないかと思うのです。


 最後に下の写真は、現在の柏原駅です。線路の左奥が、畿内支場の建物施設があったあたりで、線路の向こうは、試験用畑地が広がっていたであろう場所です。
 賢治父子はここで乗り換えることはできませんでしたが、現在も柏原駅は、JR関西本線から近鉄道明寺線への接続駅の役割を果たしています。

現在の柏原駅

旅行の準備・今昔

 先日、神戸へ行ったついでに、大阪にも少し寄ってきました。一つは、賢治たちが1916年(大正5年)の盛岡高等農林学校修学旅行において見学しようとした、「大阪府立農学校」の跡地です。
 今は区役所や警察署などがあって、大阪市生野区の中心部になっているこの場所は、当時は東成郡鶴橋町の一角でした。現在、「生野区民センター」の前には、下のような記念碑が建てられています。

大阪府立農学校跡記念碑

 碑に刻まれている文は、下記の通りです。

この附近
 大阪府立農学校跡
  行け猪飼野の畦伝ひ
  學の道を履みわけて
  朝に鍬の柄をとれば
  こゝに治産の基あり

大阪府立農学校は大阪府立大学農学部の前身で 近代農業の指導者を養成するため 国の農業振興政策に基づき大阪府が全国にさきがけて明治二十一年堺市車之町に開校したが同二十三年十一月 当時の東成郡鶴橋村大字岡(現在の生野区勝山南三丁目と勝山北三丁目の一帯)の地に移転し 大正十五年九月 市街化の進行により堺市舳松村に再移転するまで優美な洋式木造建築の本館を擁する画期的な教育施設であった
農学校の開設はこの地に近代の幕あけを告げ 生野区発展の糸口になった 現在 区役所をはじめとする官公署の諸施設や府立桃谷高等学校をはじめとする校園等が立ち並び 他区に例を見ない行政文教の地となっているのも大阪府立農学校の遺産にほかならない

 ということで、農学校がその後の地域発展の端緒となったということなのです。文中に「優美な洋式木造建築の本館」と書かれているのは、ちょっと小さな写真ですが、下のようなものでした。

大阪府立農学校本館

 ところが、賢治たち一行は、この大阪府立農学校を見学しようと、わざわざ天王寺駅から2kmあまりを歩いて訪ねたのですが、この日は「休校」だったので、見学はできず空振りに終わったということなのです。
 以下、「農学科二年修学旅行記」より、賢治の同級生森川修一郎による3月25日の記載から。

此処(注:農事試験場畿内支場)にて中食を終へ、直に場長殿に送られて柏原発車大阪天王寺着直に府立農学校に向ふ。幸か不幸か其日同校は休校中に付き、唯校舎や農場畜舎等を歩いたのみで、大した得る所もなかつた。が唯府立として其設備の完全なのに驚いた。我校にも大きな畜舎や温室等欲しいと思つた。

 「幸か不幸か・・・」という表現が、なんか面白いですね。学生も疲れていて、見学が中止になって実はホッとした本音が出ているのでしょうか。
 それにしても、国立の盛岡高等農林学校の方が、府県立の農学校よりも明らかに「高等」で、格としても上であるにもかかわらず、当時の大阪府立農学校は、高農生を羨ましがらせるほどの設備を擁していたわけですね。上の記念碑文が謳う「画期的な教育施設」というのも、単なる自画自賛ではなかったわけです。


 ということで、賢治たちの修学旅行における一つの顛末はこれで終わりなのですが、ちょっとここで私として気になることは、当時の修学旅行においては、このように「行ってみたが見学できなかった」というエピソードが、なぜかよく目に付くのです。
 この年の関西地方修学旅行においても、上記の大阪府立農学校だけでなく、3月20日には東京で「関東酸曹株式会社に行つたけれども、本年一月より同所縦覧謝絶との事で在た」ことがあり、またその翌日に駒場の農科大学に行ったが、「農科大学はあやにくの休日、内部が見られなかつたのが残念」だったと記録されています。
 また、賢治が花巻農学校に在職中の北海道修学旅行においても、札幌で「農事試験場参観の予定なりしも時期未だ早く見学その効なきを以て直ちに電車に乗じ中島公園の植民館に赴く」(「〔修学旅行復命書〕」)との記載がありました。

 今の時代の修学旅行だったら、担当の先生があらかじめ綿密に調査をして、見学を希望する施設があれば必ず先方に予約をしてから本番の旅行に臨むと思うのですが、当時は、「何月何日に修学旅行の団体で伺いますのでよろしく」というような事前連絡さえ、あまりしていなかったのかと考えざるをえません。
 現代の情報化社会とは、人々が旅行に臨む態度や考え方も違っていたのでしょうが、「修学旅行」ですら上のような状況なのですから、一般人の80~90年前の「旅行」というのは、なおさら現代ほどには、事前の準備や計画の周到さにはこだわっていなかったのだろうかと思ったりします。

 そして、そういう風に考えてみると、1921年(大正10年)に賢治と父政次郎が二人で関西旅行をした際、遅い時刻から比叡山を越えて京都に着くのに苦労したり、聖徳太子廟のある叡福寺の場所を当日の朝になってから「中外日報社」に尋ねに行ったり、そして結局はその叡福寺に行かずに終わってしまったり、今の私たちから見たら何か「場当たり的」で「出たとこ勝負」の旅行をしているように見えるのも、当時にしてみればさほど変わったことではなかったのかもしれない、などと思ったりするのです。

ミヤケンと歩く京都地図(1)

 「ミヤケンと歩く京都地図(1)~1916年修学旅行篇~」というのを作ってみました。まずは、一度お試しください。

 ブラウザは、できるだけ広い画面にして見ることをお勧めします。宮澤賢治それでも、説明が書いてある「吹き出し」が、切れてしまう場合があるかもしれません。そのような際は、地図面をマウスでドラッグして、動かしてみてください。
 左上の縮尺切り替えボタンの[-]を押して、よりマクロな視点で眺めてみたり、右上の「航空写真」ボタンを押してみたりするのも、面白いかもしれません。

二見浦と伊勢

二見浦の日の出

 昨日から今日にかけて、二見浦と伊勢神宮に行ってきました。
 上の写真は、今朝の二見浦です。日の出のしばらく前から浜に出てその時を待っていたのですが、予定時刻をかなり過ぎて、やっと厚い雲の上から、太陽の一片が顔を出したところです。

 賢治が1921年(大正10年)4月に父政次郎と伊勢神宮に参拝した後、この二見浦の旅館に泊った際にも、

       ※ 二見
774 ありあけの月はのこれど松むらのそよぎ爽かに日は出んとす。

という歌を詠んでいて、この「日の出の名所」において朝日を見るために、松林の続く海岸へ出てみたことが推測されます。

 そして、この海岸に出てみるとわかることなのですが、上の写真にある「夫婦岩」をバックに日の出を見ようとすると、どうしても「二見興玉神社」という神社の境内に立ち入ることになります。下の写真の鳥居をくぐって進み、少し右にカーブしたあたりから、夫婦岩が見えるのです。

二見興玉神社

 すなわち、やはり賢治はこの朝に、計画的であったかどうかはともかく、結果的には二見興玉神社にも詣でていたのではないかと思うのです。
二見蛙 そして、この神社の境内は、ほんとうにどこも「蛙、蛙、蛙・・・」なんですね。そのそもそもの由来は、二見興玉神社の祭神である猿田彦命が、邇邇芸尊の天孫降臨に際して道案内の役割を果たしたことから、「道中安全の神」として信仰を集めて二見蛙いたことによるのだそうです。そこから、この神社に「無事カエル」ことを祈願した人が、帰還後に加護を感謝して、様々な蛙を奉納してきたために、徐々に境内には蛙があふれることになったのです。

 賢治がこのような蛙を目にしていたかどうかはわからないのですが、松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出る直前に「二見文台」を作り、帰還直後に二見を訪ねるという行動をしたのは、やはり「無事カエル」ことを祈願してであったのだろうということを、俳人の小澤實氏が書いておられました。詳しくは、今年のお正月に「謹賀新年・二見浦」という記事でご紹介させていただいたとおりです。

 問題は、父政次郎が家出中の賢治をここに連れてきたことにも、そういう隠された意味(「息子が無事(家に)カエルように・・・」)があったかどうなのかということですが、伊勢神宮参拝の後に二見浦に宿泊するというのは、ごく一般的な観光ルートですから、あまり意図的と決めつけることもできなさそうです。

二見蛙と夫婦岩

 さて朝食をすませると、賢治が1916年(大正5年)修学旅行において宿泊した、「二見館」という旅館のあった場所に行ってみました。
 賢治自身が、盛岡高等農林学校の「農学科第二学年修学旅行記」において、伊勢神宮から二見浦に至る部分を担当して、次にように書いています。

二見ヶ浦に向ひ直ちに立石に行けば折りから名物の伊勢の夕凪にて一波立たず油を流したるが如き海上はるかに知多の半島はまぼろしの如くで其の風景の絶佳云はん方なしだ。一同二見館に宿り翌朝日の出を拝し静なる朝凪を利用して汽船にて三河国蒲郡に着し直ちに東京に向つた。

 上記で、「立石」というのは「夫婦岩」のことで、あるいはこの辺の海岸を「立石浜」と言うことから、浜辺に出たことを指しているのかもしれません。
 そして、下から二行目に出てくる「二見館」という旅館は、つい最近までは営業していた由緒ある旅館だったのですが、1999年(平成11年)に休業してしまいました。

二見館

 上の写真は、その旧「二見館」の玄関側にあたる場所です。現在も立派な大きな木造の建物が残されていて、もったいないような感じです。
 また、この建物の向こう側には、「賓日館」というさらに見事な建築があり、これも一時は「二見館別館」となっていたそうですが、二見館の休業後は二見町の所有となり、合併によって伊勢市に引き継がれています。

 二見浦を後にすると、伊勢神宮の外宮と内宮、それから賢治父子の旅行にならって、「神宮徴古館」「神宮農業館」を見てまわりました。
 「神宮徴古館」(下写真)の建物の外壁は創建当時のままということで、賢治もこの立派なエントランスをくぐったわけです。前に広がる庭園と併せ、とても威厳のある美しさを保っています。

神宮徴古館


 というわけで、暑い一日にたくさん歩きまわってきましたが、「かえる」のおかげで、最後は無事、家に帰り着くことができました。

二見かえる(二見興玉神社)

桂橋際の「万甚さん」(2)


(A) 万甚本店, (B) 万甚別館

 現在の呼び方では、「八条通」が桂川を渡る橋が「桂大橋」ということになるのですが、その昔、まだここには橋が架かっていない時代には、ちょうどこの場所で、舟による「渡し」が行われていたのでした。
 山陰や丹波の方から京都に入るこの道は「山陰街道」と呼ばれ、桂川の西側は、「下桂今戸」という宿場町として栄えていたということです。特に江戸時代には、参勤交代の大名行列もこの渡し舟を利用し、毎年莫大な舟賃を地元に落としていきました。渡しの付近には、「兵衛」という人が創業した「万甚」をはじめ、他にも「柏平」など三軒ほどの旅籠屋が立ち並び、往還の旅行者を相手に繁盛していたということです。

桂大橋たもとの常夜燈 江戸時代も終わり近くの弘化3年(1846年)には、地元の関係者が出資して、渡し舟の安全航行のために石造りの大きな「常夜燈」を建てました。この常夜燈は、現在も桂大橋の西詰に残っていて、往時を偲ばせます(右写真)。
 高さ3mもある石燈籠は、「川の灯台」とも言うべき存在として、夜の渡し舟からも確かな目印となったことでしょう。
 先日、「桂橋際の「万甚さん」(1)」でご紹介した写真では、桂橋の南側に常夜燈が見えましたが、現在はこれは北側に移動されています。

 そして、この常夜燈の台座部分には、これを建てるために出資をした人々の名前が刻まれているのですが、下の写真のように、「万屋甚吉」「万屋嘉助」という名前も見えます。この人たちは、旅籠屋「万甚」の経営者一族と思われます。

常夜燈の台座

 明治に入ると、大名の参勤交代もなくなり、また正確な年代は不明ながら、明治初期のうちに桂川にもついに「土橋」が架けられました。これをもって渡し舟はその役割を終えて、「舟仲間」「浜方」は解散します。
 しかしそれでも街道筋の店々は、薬、豆腐、饅頭などの新しい商売を始め、賑わいは続いていました。

 旅籠屋「万甚」が、旅館業だけでなく高級料亭として営業を拡大していったのも、この頃のことと思われます。そして、明治16年(1883)にここで創業した饅頭屋が、現在までその「のれん」を守っているのが、街道筋南側で桂橋から二軒目にある、「御菓子司 中村軒」です。
 下の図は、中村軒のお女将さんがコピーをしてくださった、大正時代頃の桂橋から山陰街道筋の商店街の一部です。

大正期桂商店街

 この図で、桂大橋(桂橋)の西端の南角には、赤枠で囲んだ「万甚別館(料理旅館)」があり、また少し西へ行った街道の北側には、やはり赤枠で囲んだ「万甚本店」があります。
 賢治たち修学旅行生が訪れたのが、この「万甚」であるとして、その「本店」と「別館」のどちらだったのかということが問題ですが、「本店」の方は、桂離宮から流れ出る川の水を引き入れて料理をし、部屋の窓からは借景として離宮の建物も見えたという、品格の高い料亭だったのに対して、「別館」の方は、一般の旅行客を相手に、食事を出したり宿を提供したりする「料理旅館」で、二階には広間もあったということです。
 したがって、何十人かの修学旅行生を一度に入れて食事を出すのなら、「万甚別館」の方だっただろうというのが中村軒のお女将さんのご意見で、私自身もそう考えます。「桂橋際」という表現にも、別館のあった位置の方が、ぴたりと当てはまります。

 残念ながら、現在は本店も別館もその建物は残っておらず、本店は昭和初期頃に、近くから出火した火事で全焼してしまい、跡地はその直後に宮内省によって買い取られ、現在は桂離宮の敷地の一部になっています。
 「万甚別館」も、戦後まもなくに廃業し、その建物は一時、川向かいの「帝国化成」という会社が買い取って社員寮にしていたそうですが、現在は取り壊され、跡地は生コン会社の社長さん宅になっています。

 というわけで、下の写真が、「万甚別館」の跡地の現在の様子です。正面が、「万甚別館」があった場所です。右端の電柱の奥の瓦屋根の建物は、「御菓子司 中村軒」です。

「万甚別館」のあった場所


 さて、ここまでの文章において記してきたように、賢治たち修学旅行生一行が訪れたと推測される店の名前は、地元の人にお聴きするかぎりでは、「万甚楼」ではなくて「万甚」でした。前回の記事でご紹介した写真の説明も、「料亭「万甚」」となっていました。
 『【新】校本全集』年譜篇などこれまでの文献では、この店の名前は盛岡高等農林学校「校友会報」に掲載された「修学旅行記」をもとに、「万甚楼」とされていましたが、今回の結果と少しだけ違っています。この点については、いずれあらためて調べてみたいと思っています。

 最後にもう一つ、中村軒のお女将さんは、下のような写真もお貸し下さいました。
 これは南側の上空から撮影されたもので、交差点の角の大きな屋根の建物が、後ろ側から見た元「万甚」の建物です。この時点では、上述のようにすでに別会社の社員寮になっていて、裏庭には洗濯物が干してあります。
(写真をクリックすると、別ウィンドウで拡大表示されます。)

桂橋・山陰街道と万甚別館

桂橋際の「万甚さん」(1)

 1916年(大正5年)に盛岡高等農林学校の修学旅行で、賢治たち一行が最初に京都に到着した際の様子は、『【新】校本全集』年譜篇では、次にように記されています。

三月二三日(木) 曇。午前四時九分京都駅着。東西本願寺を訪れ、桂橋際の万甚楼に六時到着。

 ここに出てくる「万甚楼」というのは、名前からして料理屋か旅館のようで、おそらく修学旅行生一行は、この「万甚楼」で朝食をとってしばし休憩でもしたのではないかと想像されるのですが、その「万甚楼」とは具体的にどこにあってどんなお店だったのか、京都に住む私にとってずっと疑問のままでした。これまでネットや図書館で調べた範囲では、わからずにいたのです。

 ところが、先月ふとしたことで Web 検索をしている時に、「京のお菓子歳時記六月号<2008>」というメールマガジンのバックナンバーを見つけました。そしてそこには、

戦前中村軒の隣は万甚さんという川魚の料亭があって、舟を桂川に浮かべ、とった鮎を食べさせてはったけど、その万甚さんも今はなくなってしまいました。

という記述があるではありませんか。

 「中村軒」という老舗のお菓子屋さんは、まさに桂橋(現在の桂大橋)のすぐ近くにあるようですから、ここに出てくる料亭「万甚さん」こそ、以前から探していた「万甚楼」のことではないかと、胸を躍らせた次第です。

 その後、「中村軒」さんにメールを出したり、電話でお話を聴いたり、そして先日の日曜日には、直接「中村軒」を訪ねて、美味しいかき氷をいただきながら、「万甚さん」についてお女将さんからお話をお聴きしてくることができました。
 そして、やはり中村軒の隣にあった「万甚」(別館)こそ、賢治たち修学旅行生一行が訪ねた「万甚楼」だったと、確信するに至りました。

 その詳細については、まだもう少し資料を整理しなければならないのであらためて次の機会にご報告をさせていただくことにしますが、とりあえず下の写真は、まだ残っていた頃の「万甚」の建物です。(『桂東学区自治連合会20周年記念誌』より)

 左端の方に見えているのが桂橋、右側の建物が「万甚」、さらに右端に縞模様の「ビニールひさし」が少しだけ見えるのが、「中村軒」です。
 下の説明には、「昭和48年、桂大橋西詰にあった料亭「万甚」」と書かれていますが、実際には料亭「万甚」は戦後間もなくに廃業してしまい、この写真の時点では川向かいの会社が買い取って、社員寮として使用していたということです。

 しかし、建物は大正時代のそのままで、修学旅行で賢治たちが朝食をとったのも、おそらくこの屋根の下だったわけです。

在りし日の「万甚」の建物

 ご親切にも、あらかじめご近所に「万甚さん」の記憶についていろいろと尋ねていただいたり、様々な資料をお貸しいただいた中村優江さんに、あらためて心から感謝申しあげます。

農商務省農事試験場畿内支場

『新校本全集』第十六巻(下)年譜篇p.108 「関西における賢治」について調べているうちに、また『【新】校本全集』年譜篇の記載で、一つ気になることが出てきました。

 1916年(大正5年)の、盛岡高等農林学校の修学旅行における「3月25日」の行程について、『【新】校本全集』年譜篇には、右のように書いてあります。
 賢治たち一行が、奈良を後にして「大阪へ向かう途中、奈良県立試験場畿内支場を参観。」となっていますが、この「畿内支場」というのは、「奈良県立試験場」の支場ではなくて、正式名称としては「農商務省農事試験場」、すなわち国立の試験場の、「支場」だったのです。

 国立の農事試験場の歴史を見てみると、1886年(明治19年)に、「農務局仮試験場」が設置され、これが1893年(明治26年)に農商務省農事試験場になります。これは東京・西ヶ原にあった施設で、賢治の恩師である関豊太郎博士も一時在職していたところですね。
 この農事試験場(本場)に対して、全国各地に6ヵ所の「支場」を設けることは、すでに1892年(明治25年)に予算が通過していて、大阪、宮城、石川、広島、徳島、熊本の6支場が設置されました。1896年(明治29年)には、それぞれの支場が改称されて、上記はそれぞれ畿内支場、東奥支場、北陸支場、山陽支場、四国支場、九州支場となり、さらに東海支場、陸羽支場、山陰支場の3ヵ所も増設されました。(徳島県立農業試験場八十年史より)

 この、農商務省農事試験場「畿内支場」が当時の農業界でその名を馳せていたのは、何と言ってもイネの人工的品種改良における、画期的な業績によってでした。
 「育種史」というページの1904年(明治37年)の欄には、

 農事試験場畿内支場で、イネおよびムギ類の品種改良に着手.イネは加藤茂苞が担当.
 農事試験場畿内支場で全国から水稲品種を集めた結果、その数約3,500品種となる.
 加藤茂苞がイネの人工交配に成功

と書いてあり、この加藤茂苞(かとう・しげもと)氏は、荘内日報社の「郷土の先人・先覚」のページでも、「我が国品種改良の父」として紹介されています。

 上の『【新】校本全集』年譜篇の記載は、盛岡高等農林学校の「校友会報」に掲載された「農学科第二学年修学旅行記」の、森川修一郎による以下の記述をもとにしていると思われます。(『【新】校本全集』第十四巻校異篇p.21)

途中畿内支場を参観した。時期が悪かつた為、幾多の稲の品種栽培試験の有様を見る事が出来なかつかのは、実に残念であつたが、同場に於ける米麦試験の結果は、其日をして十分価値あらしめた事と思ふ。其上場長より懇ろなる御講話を承つた事は、吾々一同深く感謝に堪へぬ次第である。其講話の大体は支場の設立は明治二十六年なるも、三十七年より其迄の方針を変じて専ら品種の事、殊に米麦の品種に付き研究を始めた事、・・・(後略)

 すなわち、明治37年(1904年)に、加藤茂苞が本格的にイネの人工交配を始めたことは、畿内支場そのものの「方針を変じ」、支場として全力を投入したもとでの研究であったことがわかります。
 そして、すでにこの当時の「畿内支場」とは、日本におけるイネの品種改良のメッカとなっていました。遠く盛岡高等農林学校の学生にとっても、その名前は尊崇の対象であったことが、上の「修学旅行記」の雰囲気からも感じられます。

 さて、この時の体験は、賢治にも何らかの印象を残したでしょうし、じつは後年になって賢治自らが地元農家に推奨していた「陸羽132号」は、後に加藤茂苞が「陸羽支場」場長であった時に、指導して作り出された品種だったのです。
 あるいは、この「畿内支場」のあった大阪府南河内郡柏原村は、この5年後に賢治が父とともに聖徳太子廟のある叡福寺を訪ねようとして、汽車を乗り過ごしてしまった因縁の場所にもなるのですが、それらの話は、また別の機会にいたしましょう。

 賢治は1923年8月に、北海道を縦断してサハリンに至る「オホーツク挽歌」の旅をして、翌1924年5月には、花巻農学校の修学旅行の引率教諭として、再び北海道を訪れています。
 前者から後者までの期間は9ヵ月足らずで、同じ北海道を旅したのですから、後者の道中においては前者に関するいろいろな追想があっても不思議ではないと思うのですが、なぜか後者=1924年の修学旅行における作品群には、まったくと言ってよいほど、前年の旅行のことを連想させる記述は出てこないのです。

 もちろん、傷心の一人旅と生徒を引率した団体旅行という状況の違いはありますし、二つの旅の間に、賢治の心にそれだけの変化があったと考えることもできます。しかし、賢治はある場所で心象を書きとめる際、しばしば以前にその場所を訪れた時のことに触れる傾向があって、例えば「小岩井農場」「パート一」では、「冬にきたときとはまるでべつだ」と書いて、1月に「屈折率」「くらかけの雪」を書いた時の訪問に言及していますし、また1923年の「津軽海峡」(『春と修羅』補遺)においては、「中学校の四年生のあのときの旅ならば・・・」と、岩手中学の修学旅行で津軽海峡を渡った時のことを回想しています。
 したがって、1924年の北海道における作品群に、1923年の北海道の追憶が全く登場しないというのは、やはり不自然だと思うのです。すなわち、1924年の作品群において前年のことが出てこないのは、たんなる偶然ではなくて、賢治は意図的にそれを避けて作品を書いたのではないかと、私は考えてみるのです。

 しかし、かりにそのように賢治が意図していたとしても、以前に「若き日の最澄(2)」に書いたように、1924年修学旅行中の「」の下書稿(一)の推敲過程においては、トシのことを再び追想しているとしか考えられないような、激しい感情表現や仏教的な言葉が出現しているのを見ました。まだ初期の下書稿においては、作者として抑えきれない記憶が、あふれ出てきていたということかもしれません。
 そして、これ以外にも「修学旅行詩群」の中には、前年の旅と関連しているのではないかと気になる表現が、さらに二・三ですが、見られると思うのです。

(1)
 その一つは、「〔船首マストの上に来て〕」(補遺詩篇 I)という作品断片です。これは、「春と修羅 第二集」には分類されていませんが、やはり1924年の修学旅行の帰途、青函連絡船で青森港に入る直前の状況と推測されます。無事に生徒たちを引率して本州まで帰ってきたという、教師としての安堵感が感じられる作品です。
 この中に、下記のような一節があります。

わたくしはあたらしく marriage を終へた海に
いまいちどわたくしのたましひを投げ
わたくしのまことをちかひ
三十名のわたくしの生徒たちと
けさはやく汽車に乗らうとする
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ

 ここに出てくる、「(海に)いまいちど私のたましひを投げ・・・」という表現が、ちょっとドキッとしてしまうところです。
 「いまいちど」とは、どういう意味でしょうか。賢治は、この修学旅行において、自分の魂を海に投げるようなことを、それまでにもしていたのでしょうか。
 それはわかりませんが、ここでどうしても思い出すのは、前年の旅行において賢治は、少なくとも「魂を投げる覚悟で」、トシとの交信を求めていたことです。
 例えば「宗谷挽歌」の冒頭は、

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。

と始まり、最後は、

さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
私は試みを受けやう。

で終わります。
 1924年に「いまいちどわたくしのたましひを投げ」と言われる前提の、「最初の一度」とは、前年の宗谷海峡の甲板における決死の行動だったのではないだろうか・・・というのが、私の勝手な空想の一つです。

青森港
青森港(2006.8.16)

(2)
 もう一つは、「〔つめたい海の水銀が〕」の下書稿(二)の最後に出てくる、

    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

という一節です。
 この作品は、やはり修学旅行の帰途に、青森湾に浮かぶ湯ノ島を眺めつつ書かれたものと推測されますが、上に引用したのは、何とも不思議な賢治の幻想です。
 そこが「島でも陸でもなかった」ということは、この島が海底に沈んでいた時代のことかと思われ、作者はそこに、「魚の夫婦として」棲んでいたというのです。輪廻転生における過去生の一つにおいて、そのようなことがあったと、賢治は感じたのでしょうか。

 ところで、ここに出てきた「魚になって海中にいる」というテーマですが、私は、賢治がオホーツク挽歌行においても、やはりそのようなことを考えていたふしがあったように感じるのです。
 というのは、やはり「宗谷挽歌」において、死んだトシに呼びかける次のような一節があるからです。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 「みんなのほんたうの幸福」のためなら、「私たち=賢治とトシ」は、「海に封ぜられても悔いてはいけない」というわけですが、「海に封ぜられる」とは、すでに死んでいるトシにとっては、そのまま魚に転生すること、賢治はこの場で死んで、やはり魚に転生する、ということになるのではないでしょうか。

 さらに、「牛」(下書稿(一))には、

海よしづかに青い魚族の夢をまもれ
  ……砂丘のなつかしさとやはらかさ
     まるでそれはひとりの処女のようだ……

という一節があるのですが、それまではひたすら波が激しく荒れるよう挑戦的に呼びかけておきながら、ここでは急に一転して「海よしづかに青い魚族の夢をまもれ」と言っているのが、不思議に感じられます。
 私は、ここで賢治は、トシが魚に転生した可能性をふと思って、「しづかに・・・まもれ」と海に願ったのではないのだろうかとも思ってみているのですが、どうでしょうか。

 いずれも、空想的な可能性の積み重ねにしかすぎませんが、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という不思議に魅力的なイメージは、賢治とトシが「海に封ぜられた」輪廻転生の姿なのかもしれない、などと私は夢想してみるのです。
 もちろん、「〔つめたい海の水銀が〕」を書いた時の賢治が、そこまで意識していたとまで考えるわけではありません。ただ、前年に彼が「海に封ぜられて魚になる」可能性について考えていたとすれば、翌年にふと青森で竜宮城のようにかわいい島を見た時、その海底で「鱗をつけたやさしい妻」と暮らすという幻想が湧く、潜在的なきっかけにはなったかもしれないと思うのです。

湯ノ島
湯ノ島(2006.8.16)

(3)
 あともう一つ私が気になることとして、「凾館港春夜光景」に出てくる、「喜歌劇オルフィウス」があります。
 これは、賢治が東京の「浅草オペラ」で、オッフェンバックの喜歌劇「地獄のオルフェ」(一般的な邦題は「天国と地獄」)を見たことがあったとすれば、函館公園の照明から、その喜歌劇の舞台照明を連想したということと解釈できますが、はたしてここで他のオペレッタではなくて「喜歌劇オルフィウス」が登場するのは、偶然なのでしょうか。

 そのことについては、また稿をあらためて考えてみたいと思います。

オホーツク挽歌行の旅程
1923年オホーツク挽歌行の旅程

函館へ行ってきました

 その後も忙しくてご報告が遅れましたが、けっきょく去る5月18日(日)に、函館で開かれた賢治セミナーに行ってきました。
 ほんとうは17日(土)の、「津軽海峡の船旅」や「夜の函館散歩」にも行きたかったのですが、これはスケジュールの都合で断念し、この日は仕事が終わってから新幹線で東京まで移動して、羽田空港近くのホテルに泊まっていました。

 それで、18日(日)の朝7時40分羽田発の飛行機に乗り、函館へ飛んだのです。下写真は、もう本州も北端に近づいた頃、飛行機の左眼下に見えた岩木山です。

岩木山

 9時ちょうどに函館空港に着くと、タクシーに乗って、今日のセミナーの会場である「サン・リフレ函館」という施設に向かいました。車は、やや曇った津軽海峡の海を左手に見ながら走ります。

宮沢賢治函館セミナー

 会場に着くと、受付をすませて資料を受けとって、今日のプログラムの開始を待ちました。
 天沢退二郎さんの「「青森挽歌」から北へ」、栗原敦さんの「「函館港春夜光景」を読む」という二本立ての講演なのですが、私としては、現在の賢治詩の研究の代表格でもあるこのお二人の話を聴くべく、今回は函館までやってきたのです。

天沢退二郎氏講演

 天沢さんは、いつもの味のある調子で青森から北の鉄道路線をたどり、(途中、「駅」や「停車場」その他の興味深い定義にも言及され)・・・、

栗原敦講演

 栗原さんは、当時の「函館新聞」等のコピーも配布して下さって、この時代の函館公園における花見がどんなに賑やかだったか、それが賢治の作品にいかに反映しているか、ということについてわかりやすく説明してくださいました。

 セミナーが終わると、ややあわただしい中でも旧知の方々とのご挨拶をかわし、あるいは初めて off-line でお会いできた方とも名刺の交換などをして、賢治セミナーならではの交流を持つことができました。
 周囲の人からは、(ただ半日のプログラムのために)よくぞまあ関西から北海道まで来たものですね、というような「感嘆」とも「呆れ」ともつかないような言葉を、(光栄にも)かけていただきました。私はその場では、もぞもぞと適当なことを答えておりましたが、あらためて胸に手を当てて考えてみると、やはり「好きですから!」としか言いようがないですね。

 その後、私は残念ながら帰りの予定が詰まっているので、皆さんと別れて会場を後にし、また函館空港から飛行機に乗った次第です。

函館空港
函館空港

若き日の最澄(2)

 前回の最後に触れたように、賢治が作品中で直接「若き日の最澄」に言及した箇所があって、それは、「春と修羅 第二集」所収「」の「下書稿(一)」=旧題「海鳴り」の手入れ形に出てくる、「伝教大師叡山の砂つちを掘れるとき・・・」という一節です。

 そもそもこの「牛」は、賢治が農学校教師時代に生徒の修学旅行を引率して北海道へ行った際に、苫小牧の海岸を夜一人散策した時の情景や心象をスケッチした作品なのですが、その推敲過程は、かなり複雑で意味のわかりにくいところが多いのです。

 以下では順を追って、そのテキストと推敲途中で現れる言葉を見てみます。

苫小牧の砂浜(前浜)
苫小牧の海岸(前浜)

1.下書稿(一)の第一形態

 まず、その「下書稿(一)」の最初の形態では、月夜の砂浜とそこで遊ぶ牛、そして荒々しい波濤や潮騒が描かれます。この段階では、まだ「伝教大師」は登場しません。
 印象的なのは、

そのあさましい迷ひのいろの海よ海よ
そのまっくろなしぶきをあげて
わたくしの胸をとどろかせ
わたくしの上着をずたずたに裂け
すべてのはかないねがひを洗へ
それら巨大な波の壁や
沸き立つ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ

というような激しい感情表現です。賢治は荒海に対して、「わたくしの上着をずたずたに裂け」という自虐的な思いとともに、「すべてのはかないねがひを洗へ」「やりどころのないさびしさをとれ」という願いをぶつけています。
 さて、北海道の海と、このような深い悲しみの表現との取り合わせは、どうしてもその前年の「オホーツク挽歌」の旅における、亡き妹トシへの思いを想起させずにはおきません。前年の旅行で賢治は、トシとの「交信」を強く求めながら果たせませんでしたが、ここに出てくる「すべてのはかないねがひを洗へ」との言葉は、翌年になっても賢治がまだ、実はそのような「ねがひ」をあきらめきれずにいることを、示唆しているようでもあります。
 また、上記の引用箇所に見られるような、海に対する賢治の「挑戦的」な態度は、「宗谷挽歌」の最後の、

さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
私は試みを受けやう。

という宣言を、いまだに引き継いでいるかのようです。
 さらに、作品の終わり近くで、

  ……砂丘のなつかしさとやはらかさ
     まるでそれはひとりの処女のようだ……

として連想されている「ひとりの処女」とは、この時期の賢治にとって、やはりトシをおいては考えにくいでしょう。加えてそれに続く行には、

はるかなはるかな汀線のはてに
二点のたうごまの花のやうな赤い灯もともり
二きれひかる介のかけら

というふうに、「二」という数字が繰り返し現れます。これはたとえば、前年の「噴火湾(ノクターン)」において、

   (車室の軋りはかなしみの二疋の栗鼠)

とか、

室蘭通ひの汽船には
二つの赤い灯がともり

とかいう形で、やはり「二」が重ねられていたことを思い出させます。「二」とは、賢治とトシの「二人」の象徴なのでしょう。

 というようなわけで、この「下書稿(一)」第一形態において賢治は、北海道の海と9ヵ月ぶりに再会して、思わず「オホーツク挽歌」行の時にタイムスリップしたかのように、トシへの思いを胸に、荒波と対峙するのです。


2.下書稿(一)の推敲過程

 さて次の段階では、このテキストに対して、「鉛筆で」大幅な推敲が加えられます。ここにおける推敲の特徴の一つは、仏教的な用語がふんだんに出てくることにあります。

 まず、第一形態の「やりどころないさびしさをとれ」の下方余白には、「おおよそ次のように判読される一行がいったん記され、ゴムで消してある」とのことです(『【新】校本全集』第三巻校異篇より…以下も同様)。

……我[不愛→(削)]身命但[惜→(削)]無上[(ナシ)→なる]道を惜しまん?

 さらに、「雲のいぶし銀や巨きなのろし」の下には、「下方余白を用いて、一旦書いた詩句を消しゴムで消した上に次の詩句を書いて挿入」しているということです。

阿僧祗(ママ)の修[多→陀]羅をつつみ
億千の灯を波にかかげて
[青い→海は]魚族の青い夢をまも[れ→る]
(一行アキ)
伝教大師叡山の砂つちを掘れるとさ(ママ)(「き」の誤記か?)
(なお、このあと、下方余白には、やや大きな字で、次の記入があり、そのうち「新な経巻や」以下はゴムで消してあるが、接続不明)
[諸→(削)]すべてこれらは法滅の相[である→でないのか]
西域から発掘される新な経巻や
[それらは→すべては]不信の所感でないのか


 これらの手入れ内容について、順に考えてみます。
 上記のうち、まず「我[不愛→(削)]身命但[惜→(削)]無上[(ナシ)→なる]道を惜しまん?」という一行は、「法華経勧持本第十三」の偈頌の一節、「我不愛身命但惜無上道」、すなわち、「我は身命を愛せずして、ただ無上道のみを惜しむ」の引用と思われます。
 ここから連想されるのは、やはり「オホーツク挽歌」行の際の賢治です。この時彼は、自らの生命を賭けて、トシとの通信を願っていたのだろうと私は考えているのですが、たとえば「宗谷挽歌」において、

みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

という箇所が表しているのもその一例です。ここで賢治は、海にさらわれてもよい覚悟で深夜の船の甲板に立ち、いわば「我不愛身命但惜無上道」を実践する「行」をしようとしていたのだと思います。(なぜ、トシと通信することが「みんなのほんたうの幸福」につながるのか、という賢治の理屈については、「「雲とはんのき」の手宮文字(1)」で触れましたので、よろしければご参照下さい。)

 次の、「阿僧祗(ママ)の修[多→陀]羅をつつみ」については、まず「阿僧祇」とは数の単位で、とにかく非常に多きな数のこと、「修陀羅」とは梵語の sutra (経典)のことです。つまりこれは、「海中に厖大な経典がつつまれている(封ぜられている)」という状況を表しているようで、仏教的には、「白法隠没(びゃくほうおんもつ)」と呼ばれる「末法」の現象を描いているのではないかと考えます。この少し後に、「これらは法滅の相でないのか」と出てくることとも、これは関連しているでしょう。
 さらに、日蓮の遺文(「御書」)の一つ「南条兵衛七郎殿御書」には、末法の時代について、次のような記述があります。

正像より五濁やうやういできたりて、末法になり候へば五濁さかりにすぎて、大風の大波を起して岸を打つのみならず、又波と波とをうつなり。

 賢治は、この晩の苫小牧の海の荒波の様子から、上の日蓮遺文の「大風の大波を起して岸を打つのみならず、又波と波とをうつ」という描写を連想して、末法思想が意識に上ったのかもしれません。

 さて、ここでやっと今日の本題の、「伝教大師叡山の砂つちを掘れるとき」にたどり着きました。伝教大師(最澄)が、なぜ叡山の砂つちを掘ったのか、そしてその時どうしたのか、ということが問題ですが、賢治がこの箇所で言及しようとしていたのは、「八舌の鑰(はちぜつのかぎ)」という延暦寺の口伝のことと思われます。
 下に、日蓮遺文の「一代聖教大意」から、その伝説について述べている部分を引用します。この話は、日蓮遺文以外では例えば『神皇正統記』(北畠親房)などにおいても紹介されていますが、賢治が読んだ可能性が高いのは、日蓮遺文の方かと考えます。

日本之伝教大師比叡山建立の時、根本中道之地を引給し時、地中より舌八有る鑰を引き出したりき。此鑰を以て入唐の時に天台大師より第七代妙楽大師の弟子道邃和尚に値ひ奉て、天台の法門を伝へし時、天機秀発の人たりし間、道邃和尚悦て天台之造り給へる十五之経蔵を開き見せしめ給しに、十四を開で一の蔵を開かず。其時伝教大師云く、師此一蔵を開き給へと請ひ給ひしに邃和尚の云く、此一蔵は開くべき鑰無し。天台大師自ら出世して開給ふべしと云々。其時伝教大師日本より随身の鑰を以て開き給ひしに、此経蔵開きたりしかば経蔵之内より光室に満たりき。其光の本を尋れば一念三千之文より光を放ちたりし也。ありがたかりし事也。其時道邃和尚は返て伝教大師を礼拝し給ひき。天台大師の後身と云々。依て天台之経蔵の所沢は遣り無く日本に亘りし也。天台大師之御自筆の観音経、章安大師之自筆之止観、今比叡山の根本中堂に収めたり。

 すなわち、若き日の最澄が根本中堂を建てるために地を引いた時、舌が八つある鑰を地中から掘り出したが、それは後に彼が唐に渡った時、天台大師知顗が遺した最奥の経蔵の錠に、ぴたりと合うものだったというのです。
 200年も昔に中国で亡くなった知顗の経蔵の鍵を、日本で掘り出したなどというのは、明らかに後世になって日本で作られた伝説でしょうが、日蓮はこの物語を、叡山の最澄が中国の知顗から法華経の正統を血脈相承したという根拠とし、自らの立場の正当化の一部ともしています。
 賢治にとってもこの話は印象的だったようで、1921年の父との関西旅行中に延暦寺で詠んだ短歌にも、

みまなこをひらけばひらくあめつちにその七舌のかぎを得たまふ。(784)

という作があります。「八舌」でなく「七舌」になっているところは、賢治の勘違いのようですが。
 面白いのは、今も延暦寺には、この時の(?)「八舌の鑰」が、寺の重宝として保存されているということで、延暦寺HPの「八舌鑰」のページに、その由来が載っています。

八舌の鑰
八舌の鑰(左端)

  ということで、「伝教大師叡山の砂つちを掘れるとき」という言葉そのものの意味は、上に見たようなものでしょうが、次の問題は、賢治はここに「八舌の鑰」のエピソードを持ってくることで、いったい何が言いたかったのか、この話は作品の前後とどのように関連しているのか、ということです。
 直接的には、作者の目の前に砂浜が広がっていたので、「叡山の砂つち」を連想したということかもしれませんが、賢治はたったそれだけの思いつきで、この言葉を書きつけたわけではないでしょう。この段階の推敲で、この箇所の前後にもいくつかの仏教用語が相次いで登場することから考えると、作者としては背景に何らかの仏教的なイメージや意図を持ちつつ、これらの詩句を書き加えていったのではないかと思うのです。
 しかし、それはいったいどんなイメージだったのでしょうか。


3.上行菩薩としての日蓮、そして賢治は・・・

 賢治が生涯で最も尊んだ経典は「法華経」、仏教者は「日蓮」、ということでほぼ異論はないでしょう。そして上に見たように、この作品の推敲過程でも、そこに登場する仏教的な語句は、法華経の一節であるか、日蓮遺文と関連していると思われるものかの、いずれかでした。
 したがって、ここでも日蓮の思想との関連において、賢治の推敲の背景にあった思いについて、考えてみたいと思います。

 先に、「法華経勧持本第十三」の偈頌の一節、「我不愛身命但惜無上道」という語句が、推敲過程で書き加えられているのを見ました。この偈頌に関して日蓮は、「開目頌」において、次のように述べています。

而るに法華経の第五の巻勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此国に生れずば、ほとをど世尊は大妄語の人八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ぬべし。
(中略)
日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん。

 上記の「法華経の第五の巻勧持品の二十行の偈」の中に、「我不愛身命但惜無上道」が入っているわけですが、まさに日蓮はこの言葉どおり身命をかえりみず法華経の無上なることを説き、それによって、偈にあるとおりに周囲から迫害を受けました。そして、そのような行動をもって、自らを「法華経の行者」として貫いたのです。
 前述のように、日蓮は「八舌の鑰」の口伝を一つの根拠として、中国から日本に法華経の真髄が正統的に伝え移された(血脈相承)と考え、自分が他ならぬその日本の叡山で法華経を学んだことの意義を、強調します。
 当時一般的だった仏教の時代区分によれば、天台大師や伝教大師の時代はまだ「像法」の末期でしたが、西暦でいえば1052年を境に、世は「末法」に入ったと考えられていました。その末法の時代に日蓮は、不惜身命の態度で法華経の流布を行って様々な迫害を受けますが、それはまさに、「法華経勧持本第十三」の偈頌において、

諸の無智の人の 悪口・罵詈などし 及び刀杖を加うる者あらんも・・・

という箇所や、

濁世の悪比丘は 仏の方便の 宜しきに随って説く所の法を知らずして
悪口して顰蹙(まゆをしか)め 数数、擯出(ひんずい)を見(あらわ)して・・・

と書かれている内容を地でいくものでした。(「擯出」とは、「所払い」のことで、日蓮がたびたび伊豆や佐渡に流罪になったことに相当するというのです。)
 「開目抄」において日蓮は、自らがこのように受けている迫害は、あらかじめ法華経に記されていた内容のとおりであり、自らが日本に生まれてこういう目に遭っていることこそが、法華経の予言の正しさを証明していると主張したのです。日蓮は、そのような自分自身のことを、「法華経従地涌出品第十五」に記されている「地涌の菩薩」の一人である「上行菩薩」の生まれ変わりとも、考えていたようです。

 ひるがえって、賢治の方はどうでしょうか。じつは賢治自身も、自らを「菩薩」と考えていたという大胆な説があります。以下は、木嶋孝法著『宮沢賢治論』(思潮社)の一節です。(p.79)

 大正九年七月の書簡で、賢治は「願」を日蓮に預けたことを告げている。その願は、大正六年の七月十四日に賢治が、親友の保阪嘉内と岩手山に登った際に立てたもので、おそらくは「四弘誓願」であって、その一つに「無辺の衆生を度すこと」というのがある。このような願が立てられるということは、当時、すでに賢治が、自分は悟っていると思っていたか、自分は菩薩であるという自負を持っていたと考えられる。

 あるいは、同書のp.99では、トシとの交信を追い求めていたことについて、

(賢治は)どうしてこのように、死者との交信、もしくは死を追体験することに拘泥するのであろう。
 賢治は、自分は菩薩であるという切符を手放したくはない。そのためには、死者との交信を果すか、もしくは生死の世界を自由に往き来できなければならない、と考えているのである。そうできることを、菩薩の力能と考えていたのだ。

 私としては、賢治が自らを菩薩と自覚していたと断定するだけの自信はまだありませんが、それでもある時期までは、自らの仏教的使命に関して、かなりの自負は持っていたのだろうと考えます。それは、トシの死後の「白い鳥」において、

それはじぶんにすくふちからをうしなつたとき
わたくしのいもうとをもうしなつた

と書いている、自らの「すくふちから」という言葉にも表れていると思いますし、「宗谷挽歌」における、

永久におまへたちは地を這ふがいい。
さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
私は試みを受けやう。

との宣言にも、尋常ではない使命感があふれています。
 賢治は、かりに自らを「菩薩」とまでは考えていなかったにしても、命を賭けてトシとの交信を試みるということに、「菩薩行」的な、いわば「我不愛身命但惜無上道」を体現する行動としての意味を見出していたのではないかと、私は思うのです。
 そして、そう考えることによって、「下書稿(一)」の推敲過程で現れる仏教的な語句の連なりを、全体として理解できるのではないかと思います。

 9ヵ月ぶりに北海道の夜の荒海と再会した賢治の胸には、前年の船上での決死の「行」のことが甦ったのだと思います。そしてあらためてまた、「わたくしの上着をずたずたに裂け」「すべてのはかないねがひを洗へ」「やりどころのないさびしさをとれ」という激情的な思いが、まず起こったのでしょう。そして後日になって、冷静な状況で推敲の手入れをした際には、オホーツク海での命がけの記憶から、思わず伝教大師や日蓮の行跡への連想が働いたのではないかと思うのです。
 あの時の自分の挑戦も、末法の世にありながら、はるか伝教大師や日蓮に連なる、法華経的な衆生済度を目ざそうとしたものではあったと・・・。


4.下書稿(一)の最終形態

 上に見たような複雑な推敲が行われた「下書稿(一)」ですが、「……我[不愛→(削)]身命但[惜→(削)]無上[(ナシ)→なる]道を惜しまん?」の行は、作者によって消しゴムで消されます。また、後方の下余白に書き込まれた字句も、「新な経巻や…」以下はやはりゴムで消され、消し残された部分も、接続は不明のまま放置されます。

 結局、下書稿(一)最終形態の終わり近くの部分は、

伝教大師叡山の砂つちを掘れるとき
  ……砂丘のなつかしさとやはらかさ
     まるでそれはひとりの処女のようだ……

という形になります。
 しかしこれではまるで、叡山の砂つちを掘った伝教大師その人が、「砂丘のなつかしさとやはらかさ/まるでそれはひとりの処女のようだ…」と、官能的な感慨にひたっているようにも読めてしまいますね。「伝教大師叡山の砂つちを掘れるとき」の一行は、作者による消し忘れとする考えもありえるでしょう。
 でも一方、これはこれで、当時23歳の「若き日の最澄」のエピソードとしては、魅力的な感じもします。
 「一念三千」「十界互具」という世界観からすれば、当時の最澄がいかに悟りに近いところにいたとしても、その心象の中には、きっと「やはらかな処女」のイメージもあったはずですから。

賢治詩の歩道プレート(苫小牧)