タグ「保阪嘉内」が付けられている記事

心はとにかく形だけで...

 先日、「「摂折御文 僧俗御判」の目的」という記事に書いたように、賢治はこの抜き書き集を編むことによって、「折伏」に臨む己れの心を鍛え直し、また「家を出る」覚悟を固めようとしたのではないかと考えているのですが、たとえばその具体的な影響は、次のようなところにも表れているのではないかと思います。

 「摂折御文 僧俗御判」の53番目に引用されている「出家功徳御書」は、僧をやめて還俗しようとしている弟子に対し、日蓮が思いとどまるよう戒める内容の書簡ですが、その中に下記のような箇所があります。 (『新校本全集』第14巻本文篇p.319)

「摂折御文 僧俗御判」の目的

1.「摂折御文 僧俗御判」とは何か

 『新校本宮澤賢治全集』第14巻の「雑纂」の項目に、「摂折御文 僧俗御判」と題された賢治作成の「抜き書き集」が収められています。その前半は、田中智学の著書『本化摂折論』の中で智学が経典や日蓮遺文を引用している部分を書き出したものであり、後半は、霊艮閣版『日蓮聖人御遺文』からの抜粋になっています。
 全集校異篇の《補説》によれば、この抜き書き集の目的は、「あくまで賢治自身の信仰のためのメモであり、〔中略〕教化的発想とは立脚点を全く異にする」ということで、つまり他人に見せるためではなく自分用に作成した覚え書きと考えられるものです。また、賢治がこれを作成したのは、使用されている用紙から、1920年(大正9年)夏頃と推定されるということです。

 何よりまず、この題名の読み方からして難しいですが、全集校異によれば、これは「ショウシャクゴモン・ソウゾクゴハン」と読むのだそうです。そして、前半の『本化摂折論』からの抜き書きが「摂折御文」に、後半の『日蓮聖人御遺文』からの抜き書きが「僧俗御判」に相当するというのが、新校本全集の解釈です。

おお朋だちよ 君は行くべく...

 「農民芸術概論綱要」の、「農民芸術の綜合」という節の最後に、次の言葉があります。

おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう

 この言葉の意味がちょっと気になったのですが、これは具体的には、どういうことを言っているのでしょうか。
 ごく普通に考えれば、「農民芸術」という企画について論じ、それを一緒に実践していこうと、農村の若者たちに呼びかけるこの「概論綱要」の主旨からすると、ここに出てくる「行く」というのは、農民芸術の活動を進めて行く、ということかと思われます。そして、「朋だち」である「君」がまず農民芸術を実践して行けば、やがては全ての農民もそれに続いて「行く」であろう、という風に解釈することができます。

 長詩「小岩井農場」には様々な側面があり、様々な解釈が可能でしょうが、その初期形における重要なモチーフの一つは、「農学校の同僚の堀籠文之進と仲良くなりたいが、うまく行かない」という賢治の悩みでした。
 もっとも、この堀籠をめぐる葛藤に関する記述は、後の推敲によって削除され、全く痕跡をとどめない状態にされてしまうので、出版された『春と修羅』に掲載されている形態を見るかぎりは、そのようなモチーフはうかがい知れません。しかし賢治が、この日の小岩井農場散策を途中で取りやめ、引き返すという決断をしたのも、実は堀籠に対する気持ちによるところが大きく、早く花巻に戻って農学校に寄れば、日直をしている堀籠と一緒にチョコレートを食べられるかもしれない、と考えたからだったのです。

 もちろん、賢治が引き返した直接のきっかけは、よく知られているように「雨が降り出したから」だったのですが、「下書稿」や「清書後手入稿」を見ると、彼は雨が降り出すかなり前から、「もう柳沢へ抜けるのもいやになった」と記し、何時の列車に乗れば農学校に寄るのに都合がいいかなどと、しきりに考えているのです。

五時の汽車なら丁度いゝ。
学校へ寄って着物を着かへる。
堀篭さんも奥寺さんもまだ教員室に居る。
錫紙のチョコレートをもち出す。
けれどもみんながたべるだらうか。
それはたべるだらう、そんなときなら
私だって愉快で笑はないではゐられないし
それにチョコレートはきちんと、
新らしい錫紙で包んであるから安心だ。

 賢治はこんなことを考えながら、しかし引き返す決断はできないまま歩みを進めていたところに、急に雨が降ってきたので、これ幸いとばかりに「引っ返せ 引っ返せ」と自分に掛け声をかけ、Uターンをしたのです。
 この一連の流れを見ても、当時の賢治にとって堀籠に関する悩みが、どれほどのウェイトを占めていたのか、ということがわかると思います。

 実際にこの1922年5月21日(日)、小岩井農場から予定を早めて花巻に戻った賢治が、農学校に立ち寄って堀籠文之進とともにチョコレートを食べたのかどうかはわかりません。しかし賢治にとって、堀籠との関係をめぐる葛藤は、その後も続いていたようです。
 それを物語るのは、『新校本全集』の「年譜篇」の1923年3月4日の項に記されている、二人の間の特異な出来事です。

 同僚堀籠文之進と一関へハイキング。途中一切英会話。一関で上演中の歌舞伎を見物し、10時を過ぎる。汽車もなく、飲み屋で休み、月夜を幸い帰る。
 途中、たまたま信仰の話に及んだとき、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」といい堀籠の背中を打った。
 「ああこれでわたくしの気持ちがおさまりました。痛かったでしょう。許してください」といい、平泉駅につき待合室のベンチで休み、夜明けとともに下り列車に乗り、花巻まで一睡する。

 職場の同僚である堀籠の背中を打つというこの賢治の行動は、前回も引用したような、「穏やかで、温和で、謙虚な」賢治の人柄のイメージからすると、かなり意外なものです。このような行動の背景には、何らかの強い「感情」の存在を想定せざるをえません。
 この時二人は、「信仰の話」をしていたということで、賢治が「どうにも耐えられない」と言った理由は、おそらく堀籠が、自分は賢治と同じ信仰を持つことはできないと、はっきり言明したか何かだったのでしょう。日蓮系の教団では、周囲の人に「折伏」をして、少しでも多くの信者を獲得することを特に重視しますので、この時賢治が「一人の信者を獲得し損ねた」ことは、かなり残念な結果だったことでしょう。
 しかし、当時の賢治にとって堀籠が、単なる折伏の対象としての「一人」にしか過ぎなかったとは、到底思えません。もしそれだけのことだったなら、賢治が周囲の人に日蓮の教えを勧めた際には、相手が断るたびごとにその人の背中を叩いていたはずですが、もちろん実際はそんなことはありません。ですから、ここで賢治に堀籠の背中を打たせた「感情」は、堀籠という個人に対して、特別に向けられていたものだったということになります。

 その感情とは、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか」という賢治の言葉に表れているように、「自分と一緒に歩んで行く人を求める」という思いでしょう。「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニがカムパネルラに言った、「どこまでもどこまでも一緒に行かう」という願いと同型なのが印象的で、これは賢治にとって、重要なテーマだったのだろうと推測されます。
 このような、「生涯の同伴者を求める」という賢治の強い感情のことを、ここでは「〈みちづれ〉希求」と名づけておこうと思います。〈みちづれ〉という言葉は、賢治が「無声慟哭」において、トシにとっての賢治自身のことを、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」と呼んだことからとっています。

 思えば、宮澤賢治という人は、『春と修羅』の時期の少し前から、〈みちづれ〉を強く希求しては失うという挫折を、下記のように毎年経験していました。

  • 1921年7月: 保阪嘉内との別れ
  • 1922年11月: トシの死
  • 1923年3月: 堀籠文之進への諦め(上述)

 このような悲痛な体験の連続は、彼に深い喪失感と孤独感をもたらしたでしょうが、これらの苦悩の直視と昇華こそが、『春と修羅』という詩集の、本質的なテーマだったと言えるのではないでしょうか。

 前回も見たように、詩「春と修羅」で抉り出された「自らの《修羅》性」とは、童話「土神ときつね」において類型化されているように、土神の象徴する「修羅の瞋恚的側面」と、狐の象徴する「修羅の諂曲的側面」という二面に分けて考えることができます。そして、そのどちらの側面も、「小岩井農場」の初期形に描かれたように、堀籠に対する過剰で一方的な「〈みちづれ〉希求」と、現実との齟齬において、自覚され記載されたものでした。

 長詩「小岩井農場」は、当初は堀籠に対するこのような心理的=《修羅》的葛藤を主要なモチーフとしていましたが、推敲の過程でそこに含まれる個人的要素は削り取られ、最終的にはただ「個別的(主観的)な愛」を超克して、「普遍的(客観的)な愛=宗教情操」に昇華すべきだという理念のみが、高らかに謳われることになります。推敲後の「小岩井農場」では、堀籠の名前すら出ず、ただ「さびしい」とか「さびしくない」とかいう抽象的な言葉だけが残され、最後の「宗教情操」をめぐる大団円に至るので、その具体的な意味がわかりにくくなっていますが、もとはこの作品のテーマも、「〈みちづれ〉希求」に関連した苦悩だったわけです。

 また、トシの死後の「無声慟哭」の章と、「オホーツク挽歌」の章の諸作品が、トシに対する「〈みちづれ〉希求」の挫折と、その後の苦悩を描いたものであることも、言うまでもありません。そしてここでも賢治は、「青森挽歌」の《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉に集約されるように、「個別的(主観的)な愛」を超克して、「普遍的(客観的)な愛」に昇華しなければならない、という結論に至ります。

 詩集『春と修羅』の最後の章である「風景とオルゴール」では、個別の人間に対する「〈みちづれ〉希求」を昇華する一つの方向性として、「自然への愛」への志向が描かれています。「過去情炎」では、賢治は梨の木に対して「待つてゐたこひびとにあふやうに」接し、「一本木野」では、自然の中を歩く恩恵を「こひびととひとめみること」とでも取りかえると言った後、「わたくしは森やのはらのこひびと」と宣言します。

 以上のように、賢治は己れの過剰な「〈みちづれ〉希求」が招来する苦悩を、『春と修羅』の諸作品を書きつつ推敲しつつ必死で乗り越えて、ついには新たな段階に入っていったように見えます。したがって、彼の生涯のうちで、そのような葛藤が作品のテーマとなっていた時期は、せいぜい数年間にすぎません。
 しかし、若き日の彼がこのような経験をしたことが、その後も含めた彼の作品に、独特の奥深さと陰翳をもたらしてくれたことは、確かだと思います。

 それから、賢治のこの感情は独特なもので、作品の記述などから想像するに、それはおそらく世間一般の「友情」とか「家族愛」などをはるかに超越する強度だったと、考えざるをえません。この「独特さ」を無視して、賢治の具体的行動や作品の描写を、普通人の心理に当てはめて解釈しようとすることから、「保阪嘉内に対する感情は同性愛だった」とか、「トシとの間には禁断の愛があった」などという俗説が生まれてしまうのだと思います。『宮沢賢治の真実』で今野勉氏は、堀籠文之進に対する感情も同性愛として論じておられますが、保阪嘉内の場合も含め、彼らを〈みちづれ〉として求めた賢治の感情を、「性欲」を伴った「愛」と解釈すべき根拠は、わかっている範囲では何も見出せません。

 私としては、賢治のこの独特の感情に何か名前があった方が、上記のような俗な誤解を招きにくくなるのではないかと思い、とりあえず「〈みちづれ〉希求」と呼んでみた次第です。

マリヴロンと虹

 「めくらぶだうと虹」と、「マリヴロンと少女」という二つの童話は、登場するキャラクターは異なっていますが、ストーリーは全く同じと言ってもよい内容です。それもそのはずで、後者は、前者の草稿に赤インクで大幅に手入れをするという形で、誕生したのです。 ちなみに下写真が、その「赤インク」が入った1頁目です。

「めくらぶだうと虹」「マリヴロンと少女」草稿
『新校本宮澤賢治全集』第8巻口絵より

 手入れ前の「めくらぶだうと虹」は、地上のめくらぶどうが、天上の虹を讃え敬い、虹に対するかぎりない憧れを述べ、自分を教え導いて下さいと懇願するのに対して、虹の方は、自分もめくらぶどうも価値においては同じである、すべては無常であるとともに「まことのひかり」の中では不滅なのだと説き、すがるめくらぶどうを残して消え去る、というお話です。
 「美のはかなさと永遠性」というようなテーマを、大乗仏教的世界観のもとに、賢治らしい繊細な自然描写によって綴ったもの、とでも言えるでしょうか。

 手入れ後の「マリヴロンと少女」においては、前者における「虹」が有名声楽家の「マリヴロン」に、「めくらぶだう」が「彼女を崇拝する少女」に、それぞれ置き換えられます。配役は変わるものの、物語の構造は同一で、それぞれが述べる台詞も、大まかには共通しているのです。

 「めくらぶだうと虹」が書かれたのは1921年秋頃と推定されており(『宮沢賢治大辞典p.215)、これが「マリヴロンと少女」へと書き換えられたのは、だいたい賢治が羅須地人協会を始めた頃、すなわち1926年あたりと考えられているようです。
 その根拠として、たとえば佐藤泰正氏は、「宮沢賢治――その改稿の問いかけるもの」(『国文学 解釈と鑑賞』平成13年8月号)において、作品中でマリヴロンが述べる「正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです」「鳥はうしろにみなそのあとをもつものです」という言葉と、「農民芸術概論綱要」の思想との共通性を挙げておられますし、また天沢退二郎氏は、『《宮沢賢治》論』所収の「〈読み書き〉の夢魔を求めて」の中で、次のように書いておられます。

 「めくらぶだうと虹」から「マリヴロンと少女」への転位は、こうして、<死との関係>から<限界芸術論>への道すじとして読めること、しかもなお、その道すじは、ひばり=詩人に調子はずれの歌をうたわせることをやめないということが、私たちの足をなおここにとどめさせるのだ。『春と修羅』第一集の詩人を、農民劇や「修学旅行復命書」の限界芸術者へと向かわせるにいたる原点にやはりとし子の死があったことを、「めくらぶだうと虹」→「マリヴロンと少女」は暗示する。

 ここはとても難しい箇所で、全体としては私の理解能力を越えているのですが、最後の部分を読むと、「めくらぶだうと虹」→「マリヴロンと少女」という書き換えには、「とし子の死」が何らかの意味で関係している、ということを天沢氏は考えておられるようです。したがってその書き換えの時期は、やはり妹トシの死よりも後、ということになります。
 そして私としても、(天沢氏の論旨全体は理解できないながらも)上の結論部分に関してはなぜか同感で、すなわち「マリヴロンと少女」には、どこか「トシの死の後の賢治の思想」に通ずるものがあるような気がするのです。
 あまり、きちんと筋道立てて述べられるような根拠はなくて、「何となくそう感じる」という程度の事柄なのですが、それは下記のようなことです。

 前述のように、「めくらぶだうと虹」と「マリヴロンと少女」とは、その基本的な中身はほとんど同じと言ってよいと思うのですが、それでも微妙に違っているところがいくつかあります。
 たとえば、物語の最後の場面で、めくらぶどう/少女の必死の懇願に対して、虹/マリヴロンが答える言葉です。

 まず、「めくらぶだうと虹」。

「私を教へて下さい。私を連れて行って下さい。私はどんなことでもいたします。」
「いゝえ私はどこへも行きません。いつでもあなたのことを考へてゐます。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。いつまでもほろびるといふことはありません。けれども、あなたは、もう私を見ないでせう。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。私はあなたにお別れしなければなりません。」
 停車場の方で、鋭い笛がピーと鳴りました。
 もずはみな、一ぺんに飛び立って、気違ひになったばらばらの楽譜のやうに、やかましく鳴きながら、東の方へ飛んで行きました。
 めくらぶだうは高く叫びました。
「虹さん。私をつれて行って下さい。どこへも行かないで下さい。」
(後略)

 次は「マリヴロンと少女」における、上記に相当する場面。

「私を教へて下さい。私を連れて行ってつかって下さい。私はどんなことでもいたします。」
「いゝえ私はどこへも行きません。いつでもあなたが考へるそこに居ります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人は、いつでもいっしょにゐるのです。けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。では。ごきげんよう。」
 停車場の方で、鋭い笛がピーと鳴り、もずはみな、一ぺんに飛び立って、気違ひになったばらばらの楽譜のやうに、やかましく鳴きながら、東の方へ飛んで行く。
「先生。私をつれて行って下さい。どうか私を教へてください。」
(後略)

 ここで私が注目したいのは、虹/マリヴロンの最後の言葉です。大まかには同じなのですが、いくつかの相違点があるので、下記において、それを一文ずつ比較してみます。異なっている部分を、赤字にしておきますので、上と下を見比べてみて下さい。

虹の言葉

  1. いゝえ私はどこへも行きません。
  2. いつでもあなたのことを考へてゐます
  3. すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。
  4. いつまでもほろびるといふことはありません。
  5. けれども、あなたは、もう私を見ないでせう
  6. お日様があまり遠くなりました。
  7. もずが飛び立ちます。
  8. 私はあなたにお別れしなければなりません

マリヴロンの言葉

  1. いゝえ私はどこへも行きません。
  2. いつでもあなたが考へるそこに居ります
  3. すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人は、いつでもいっしょにゐるのです。
  4. (削除)
  5. けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません
  6. お日様があまり遠くなりました。
  7. もずが飛び立ちます。
  8. では。ごきげんよう

 文の番号で言えば、1.、6.、7. は、全く同じです。2.、3.、5.、8.がそれぞれ異なっており、4.は、「マリヴロンと少女」では削除されています。
 それでは、2.、3.、5.、8.の違いを、一つ一つ見てみましょう。

 まず、2.では、「めくらぶだう」における「考へてゐます」が、「マリヴロン」では「考へるそこに居ります」となっていて、マリヴロンがそこに「存在している」ことが際立っています。
 また、3.においても、前者の「いつでもいっしょに行くのです」が、後者では「いつでもいっしょにゐるのです」になっていて、ここでも「行く」が「ゐる」に変えられることにより、マリヴロンの「存在」が強調されているように感じられます。
 「めくらぶだう」における「考へてゐます」というのは、そこに一緒にいなくてもできることですし、「まことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行く」というのも、たとえその身が離れていても(「まことのひかり」を共有しておれば)可能であることに、注目しておきたいと思います。

 4.の文が前者にあったのに後者では削除されたのは、どういう意味があるのでしょうか。前者において、「ほろびるということはありません」と言われているのは、「虹」のことではないですよね。「すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行く」という、一つの「法」とでも言うべき真実が、「滅びない」のでしょう。「マリヴロンと少女」においてこれが消されているのは、あえてこのことは説く必要なないと作者が考えたのでしょうか。

 5.は、両者で主語の異なった文になっています。前者において「あなたは、もう私を見ないでしょう」とあるのは、対象は本来は滅びることはないのに、それを見るこちら側の問題によって、滅びたように思ってしまうのだということでしょうか。
 後者で、「けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません」とマリヴロンが言うのは、その直前に「そこに居ります」「いつでもいっしょにゐるのです」と言っていたことと一見矛盾するようですが、この矛盾こそが、作品の眼目でもあるのでしょう。

 8.は、前者では「別れ」という言葉が使われていて、本当に「別れてしまう」という感じが強いのですが、後者では「では、ごきげんよう」と、とても気軽な挨拶で、まるで、またいつでも会えるというような雰囲気です。


 以上のような相違点があるわけですが、手入れ前の「めくらぶだうと虹」における虹の言葉から私が感じるのは、たとえお互いは離れていても、「いっしょに行く」=信念を共有して進むことはできるのだ、というような考えです。「存在」よりも、「法」あるいは「道」の不滅を説くという感があり、その不滅性がおびやかされるとすれば、「あなたはもう私を見ない」というような、こちら側の信念の問題だということでしょうか。
 これに対して、手入れ後の「マリヴロンと少女」におけるマリヴロンの言葉から私が感じるのは、「いつでもあなたが考へるそこに居ります」とか「いつでもいっしょにゐるのです」という言葉に象徴されるように、「ずっと対象ともにある」という感覚です。その対象は、「もう帰らなければなりません」とか「では、ごきげんよう」という風に目の前から去ってしまうようではありますが、それでも本当は、「いつでもいっしょにゐる」のです。

 ということで、結論として私が今回の記事で言いたいのは、「めくらぶだうと虹」の方には、ひょっとして保阪嘉内との「別れ」という体験の影響があったのではないか、「マリヴロンと少女」の方には、トシとの死別と悲嘆の影響があったのではないか、ということなのです。
 前者は、1921年の秋に書かれたと推定されているので、この年7月の嘉内との悲しい別れの、少し後です。
 後者は、1926年の手入れであれば、1922年11月のトシの死よりは、後のことです。
 したがって、時期としては、それぞれが嘉内との別れ、トシとの別れと関係したとしても、矛盾はありません。

 「めくらぶだうと虹」が、保阪嘉内と別れを反映しているという前提で読んでみると、2..の「いつでもあなたのことを考えています」とは、嘉内は賢治と離れていても、賢治のことを考えてくれている、という風にも解釈できます。
 3.の、「まことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行く」が表しているのは、たとえ生身の賢治と嘉内は「物別れ」になって、離ればなれでいたとしても、2人の志は同じであり、同じ道を進んでいるのだ、という風に解釈することもできます。

 「マリヴロンと少女」が、トシとの死別と関係しているとすれば、ここに記されている「いつでもあなたが考へるそこに居ります」とか「いつでもいっしょにゐるのです」という言葉は、以前に「千の風になって」や「そしてみんながカムパネルラだ」という記事に書いたように、賢治がトシの死を乗り越えて、「いつも身近にトシの存在を感じられる」というような心境に至ったのではないか、という私の仮説につながってきます。
 1924年の7月に賢治は、「〔この森を通りぬければ〕」、「〔北上川はケイ気をながしィ〕」、「薤露青」などの作品を書きますが、そこにはトシの「声」やトシとの会話があふれています。この頃に、トシの「不在」を真に受容できるようになったことが、逆説的にその「遍在」の認識への扉を開いてくれたのではないかと、私は思っているのですが、「マリヴロンと少女」における、「いつでもあなたが考へるそこに居ります」等の言葉に、相通ずるものを感じるのです。たとえば、「いつでもいっしょにゐる」と言いながら、「もう帰らなければなりません」「では、ごきげんよう」と言うという「矛盾」は、トシが「不在」かつ「遍在」という「逆説」と似ています。

 「めくらぶだうと虹」と、「マリヴロンと少女」を見比べていて、ばくぜんとそのようなことを思いました。

かなしみはちからに…

  • 記事分類:

書簡165
保阪嘉内あて書簡165
(山梨県立文学館『宮沢賢治 若き日の手紙』より)

かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは
智慧にみちびかるべし。

 この言葉は、1920年(大正9年)6月~7月頃の投函と推定されている保阪嘉内あて書簡165の上欄外に、90度方向を変えて書かれているものです。
 この時、嘉内は志願兵として東京で入営中、賢治は5月に盛岡高等農林学校の研究生を修了して、なすすべもなく花巻の実家で質屋の店番をする毎日でした。

 書簡そのものの内容としては、下記のように最近の自分は「毎日ブリブリ憤ってばかり」いるということを書き連ねていて、この「いかり」をどう扱ったらよいのかということから、欄外の言葉へと関連してくるのでしょう。本文の進行とパラレルに、上部にもう一つの想念が配置されてポリフォニーを奏でているところは、後の「習作」という作品の構造も連想させます。

(前略)突然ですが、私なんかこのごろは毎日ブリブリ憤ってばかりゐます。何もしやくにさわる筈がさっぱりないのですがどうした訳やら人のぼんやりした顔を見ると、「えゝぐづぐづするない。」いかりがかっと燃えて身体は酒精に入った様な気がします。机へ座って誰かの物を言ふのを思ひ出しながら急に身体全体で机をなぐりつけさうになります。いかりは赤く見えます。あまり強いときはいかりの光が滋くなって却て水の様に感ぜられます。遂には真青に見えます。(後略)

 このような精神状態に対して、「かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし」という命題が提示されるわけですが、それにしてもこれは、非常に意味深く感じられ、また端正な響きのある言葉ですね。
 以前からある程度は注目されていた言葉なのでしょうが、2011年の大震災の直後に、齋藤孝さんがその一部をタイトルにして、『かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば』という本を出されてから、また一段と多くの人々に知られるようになったと思います。
 このあたりの拡散力は、『声に出して読みたい日本語』シリーズ以来際立っている齋藤孝さんの「ことば」に対するセンスや、その人気にも支えられている部分が大きいのでしょう。

かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば かなしみはちからに 心にしみる宮沢賢治のことば
齋藤 孝

朝日新聞出版 2011-06-17
売り上げランキング : 138479

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

 しかしこの「かなしみはちからに…」の広まり具合を少し詳しく見てみると、宮澤賢治の童話や詩が好きで読んできたという従来の一般的読者にとっては、書簡の片隅にあるこの言葉は、作品テキストほどには親しまれておらず、むしろ賢治にかぎらず「名言集」というものを好んでおられるような層の間で、これはよりポピュラーになっているのかとも思います。
 ネット検索から垣間見た、この言葉の流通状況から受ける印象として、そんな感じを持ちました。

 ところで、この言葉に関して一つ気になるのは、これははたして賢治のオリジナルなのか、それとも経典か何かにその元となる語句があるのかどうか、ということです。
 当時満23歳だった賢治は、仏典やその他古今東西の書籍には広く親しんでいたとは言え、まだ社会で仕事をした経験はありませんでした。賢治の才能をもってしても、こういう成熟した人間性の表現を独力でなしえたとすれば、それは驚嘆すべきことに思えます。これは一見して思慮深そうな言葉ですが、後に述べるように、その深さはとても一筋縄でとらえられるものではありません。
 「かなしみ」「欲(ほ)り」「いかり」という問題選択や、その「導き方」という設定は、どこかに出典があるのでしょうか。

 すぐに連想するのは、仏教で「三毒」と呼ばれている、「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」という根本的な「三つの煩悩」です。これを問題の言葉と対応させてみると、「欲(ほ)り」が「貪」に、「いかり」が「瞋」に、とこの二つはきちんと当てはまるのですが、「かなしみ」と「癡」とは明らかに別のものですので、単純にこれが由来とは言えません。
 しかし、「〔雨ニモマケズ〕」のテキストと「三毒」との関連を見てみると、「慾ハナク」が「貪」の否定、「決シテ瞋ラズ」が「瞋」の否定、「ヨクミキキシワカリソシテワスレズ」が「癡」の否定、とこれは登場する順序も含めて、正確にぴたりと対応しますから、「〔雨ニモマケズ〕」を書く際に賢治が「三毒」を意識していたことは明らかです。
 「かなしみ」「欲り」「いかり」という三つの主題を取り上げるにあたり、三つのうち二つを含む「三毒」という概念は、多少ともその発想に影響をあたえていた可能性はあるのでしょうが、それ以上のことは私にはわかりません。
 この言葉の出典について、何かご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示をいただければ幸いです。

 さて、ここで主題となっている「かなしみ」「欲(ほ)り」「いかり」は、いずれも人間にとって「陰性」の感情です。普通は「抱えていると苦しい」これらの情動を、人間はいかに取り扱うべきかということが、この言葉の眼目なのでしょう。
 ここで私としてとても興味深く思うのは、これら陰性の感情にそれぞれ対置されているものが、各々の「対義語」ではない、ということです。

 一般的には、何かが「行き過ぎた」状態にある時に、それをその逆の性質のものによって「中和する」ということは、一つの対処法として有効です。風呂のお湯が熱すぎるので冷たい水を入れて温度を下げるとか、岩手の土壌は酸性に傾いているのでアルカリ性の石灰岩抹を播いて中和する、とかいう方法ですね。
 しかし、「かなしみはちからに・・・」という言葉で示されているのは、このような対処法ではありません。すなわち、「かなしみ」と「ちから」は対義語ではないし、「欲り」と「いつくしみ」も、「いかり」と「智慧」も、それぞれ対立する概念ではありません。

 この言葉によって示されているのは、何か苦しいもの、厄介なものがある場合に、それを「和らげる」とか「鎮める」とかいう形で解決しようとするのではなくて、その苦難自体を、本当の意味で「乗り越える」、あるいは「そこを通り抜けて、新たなより高次の段階へ至ろうとする」という方向性です。
 「悲しみ」の対義語は「喜び」ですが、何か「悲しいこと」がある時に、自分を喜ばせてくれるような「楽しいこと」によって心をまぎらせて、とりあえず苦痛を緩和するというのは、人間が誰しもすることです。多くの場合、苦しみを軽くする方法としてそれが一番手っ取り早いので、好んで採用されますが、しかしその一時的な「喜び」が過ぎ去ると、元の「悲しみ」は、何の変わりもなくそこに存在し続けています。これは、真の意味での解決にはなっていないのです。
 一方、賢治が「かなしみはちからに・・・」という言葉によって示した道筋、すなわち「かなしみ」に対して「ちから」を処方するという方向性は、そうではありません。「かなしみ」から、本当の意味で抜け出そうとするものです。

 私が、この言葉が単に美しく響くだけでなく、一筋縄ではとらえきれない「奥深さ」を持っていると思うのは、まさにこの点によります。それはきれい事ではなくて、人間という存在への十分な理解に基づいた、実践的な叡智です。このように含蓄のある言葉を、学生を終えたばかりで社会人経験もない23歳の「家業見習い」の若者が、ふと友達への手紙に書いたのだとすれば、まさにこいつは「ただ者ではない」と思うのです。
 その「含蓄」の中身にはどのようなものがあるのか、現時点で私が想像する事柄について、以下に順に記してみます。

1.「かなしみ」と「ちから」

 上にも書いたように、「かなしみ」を抱えている人に、その反対物である「よろこび」を与えるという方法は、問題の根本的な解決にはなりません。しかしそれでも、悲しみに沈んでいる人に喜ばせるような贈り物をするとか、被災地の避難所にお笑い芸人が慰問に行って公演をするとかいうことは、それなりに行われますし、無意味とは感じられません。そのことによって、「かなしみ」の原因が取り除かれるということはありませんが、受けとった側も、大抵はそうしてもらってよかったと思うでしょう。
 このような場合、受けとった贈り物や娯楽それ自体によって「かなしみ」が減殺されているのではなくて、「今の自分に対して、こんな優しさや善意を示してくれる人が存在する」というそのことが、かなしみを抱えた人を「力づけて」くれるのではないでしょうか。
 だからこの場合、「かなしみ」に拮抗したのは「よろこび」ではなくて、一緒に与えられた「ちから」だったのではないかと思うのです。

 別の角度から考えてみましょう。
 一般に、人間が「悲しみ」を抱く典型的な場面とは、「身近な人を亡くした」とか、「失恋した」とか、「大切にしていた物が壊れた」とか、何であれ重要な対象の「喪失」という状況です。
 失った対象を、もはや取り戻すことはできません。しかしそれはわかっていても、対象をなおも求め続けようとする欲求を断念し、新たな状況を受け入れて歩み始めるというのは、これもまた容易なことではありません。人はそこで悩み、苦しみますが、このように人間が喪失に直面し、それに対処していくプロセスのことを、フロイトは「悲哀の仕事(Trauerarbeit)」と名づけました(『悲哀とメランコリー』)。
 この「悲哀の仕事」の過程においては、当初は失った対象への断ちがたい思いが渦巻き、恨みや自責の念も錯綜します。しかし人間は、このような感情もあらためて一つ一つ体験し、受けとめ、理解していくことによって、対象と自らの関係について捉え直し、対象が存在しない世界と自分との間に、新たな関わりを築いていくことができるのです。
 「かなしみ」という状態を、避けたりまぎらせたりするべきものとしてでなく、積極的な意味を持った「心の仕事」として遂行するよう位置づけたのが、フロイトの功績の一つでした。そして人間は、たとえどんなに深刻な喪失でも、その「悲哀の仕事」を行うための「ちから」さえ持っていたならば、それをやり遂げることができるのです。

 ですから、「かなしみ」を抱えた人に対して、人がしてあげることができるのは、「ちからづける」ということです。この営みのことを、心理や福祉の領域では、'empowerment'と言います。
 そして、この'empowerment'において実際に起こっている現象は、外から「ちから」を与えるということよりも、そのような人との関わりによって、むしろその人が「自分の中ににあった『ちから』を、あらためて再発見する」ということなのです。

 賢治の、「かなしみはちからにみちびかるべし」という言葉の底には、このような人間の理解があるのだろうと、私は思います。


2.「欲(ほ)り」と「いつくしみ」

 「貪欲」の対義語は、「無欲」です。先ほどの、「過剰な状態を、逆の性質のものによって中和する」という戦略でいくならば、欲が深すぎる人に対しては、そのような煩悩を離れて「無欲」になることを説いたり、「禁欲」や「我慢」を勧めるということになるかと思います。
 しかしこれは、やらないよりは少しましかもしれませんが、やはり誰しも予想ができるように、さほど画期的な効果は期待できないでしょう。
 それではどうしたらよいのでしょうか。

 欲望の対象には様々なものがありえますが、そのあまりにも過剰な状態=ひりひりと灼けつくような渇望に常に苛まれている状態において問題なのは、個々の欲望の対象ではなくて、その人の中でどうしても埋めようのない、深刻な空虚感・欠落感なのだとも言えます。
 この空虚・欠落を、人は何とかして物質的に満たそうと、その代わりとなる物を飽くことなく求め続けますが、結局は代替物で埋めることはできません。目の前の欲望を達成した瞬間に、また渇きは始まります。
 しかし本当に重要なのは、その人の奥底にある空虚感・欠落感なのです。

 たとえば、食べることへの欲求が抑えられず非常に大量のものを食べずにはいられないような状態として、「過食症」という病気があります。過食症の原因には、ケースバイケースで様々な要因が関与しているので、一概に単純化して議論することはできないのですが、一つの説として、その人の中の「愛情飢餓」という問題が関与しているという考えがあります(例えば、黒川昭登・上田三枝子著『摂食障害の心理治療―愛情飢餓の克服』)。
 このような場合には、自分が尊重されていると感じられる対人関係、心から信頼できると思える人とのつながりを体験することが、過食からの回復のために、大きな作用を果たすと言われています。
 ここにおいて力となっているのが、人と人との間で受けとる「いつくしみ」の体験なのではないかと思うのです。

 また、アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症など種々の依存症も、対象への欲求を断ち切れないことに苦悩の根源がありますが、これらの内奥にも、深い空虚感があることがしばしばです。そして、これら依存症の回復においても本質的な力となるのが、断酒会、AA、ダルク、マック、NA、GAなどの「自助グループ」との関わりです。やはりここでも、同じ苦しみを抱えた仲間との間で、真に肯定的な人間関係を経験することが、目に見えない働きをしてくれるのだと思われます。
 ここにおいても、その人間関係の本質を言葉に表せば、「いつくしみ」ということになるのではないかと思います。

 すなわち私としては、賢治が「欲(ほ)りはいつくしみにみちびかるべし」と言っていることの本当の意味は、ここにあるのではないかと思うのです。


3.「いかり」と「智慧」

 「怒り」の対義語は何でしょうか。辞書やネット検索で調べてみても、わかりません。
 ただ、生物学には、'Fight or Flight response'という言葉があり、動物は危険な相手に遭遇した時、極度の緊張下で、「闘うか、逃げるか」という両極端の判断を迫られます。「闘う」に対応する情動が「怒り」で、「逃げる」に対応した情動が「恐れ」ですから、「怒り」の対義語は「恐れ」であると言うこともできるでしょう。
 しかし、「怒り」も「恐れ」も、どちらも陰性の感情ですから、「対義語」とするにはもう一つしっくりきません。
 適切な対義語であるためには、それは陽性の感情で、緊張の反対に弛緩した状態であるべきでしょうから、「怒り」の対義語は「安らぎ」であると考えるのがよいのかもしれません。

 ということで、例によって「過剰な状態を、逆の性質のものによって中和する」という戦略でいくならば、「いかり」を抱えている人に対しては、何とかして「やすらぎ」を提供して、頭に上った血を沈めてもらうというのが、一つの対処法だということになるでしょう。
 そして、これは確かに一般的に行われていることではあります。カッカしている人に、「まあ、まあ、まあ・・・」と穏やかに声をかけて、なるべく静かに話を聞く。そして、あまり感情的になるのも「大人げない」ということで、何とか矛先を収めさせようとする・・・。

 しかし、このような対応が時にどこか胡散臭さを含んでいるのは、「いかり」は大抵は真っ当な理由に基づいたものであり、それをただ単に鎮静化して、「なかったこと」にしてしまったのでは、何ら建設的な対策にはならないからです。社会においては、「怒りを抑える」ことこそが善いことのように言われがちですが、それでは本人には鬱憤が溜まりますし、全体としても進歩がありません。

 ちなみに、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で、「怒り」について次のように述べています。

然るべきことがらについて、然るべきひとびとに対して、さらにまた然るべき仕方において、然るべきときに、然るべき間だけ怒る人は、賞賛される。(岩波文庫版上巻p.155)

 つまり、「適切に怒る」ことが、倫理的に賞賛されるべきことだというのです。アリストテレスによれば、いつも怒りを抑えてばかりいるのは「意気地なし」で、上に述べたような「適切な怒り」こそが、彼が推奨した「中庸」にあたるというのです。
 となると、ここで最も重要になるのが、「然るべきことがらについて、然るべきひとびとに対して、さらにまた然るべき仕方において、然るべきときに、然るべき間だけ」という、怒りの表現の「適切さ」の判断です。
 そしてここで、その大切な「判断」の役割を担うのが、「智慧」だということになるでしょう。

 すなわち、「いかりは智慧にみちびかるべし」という賢治の言葉の真意は、ここにあるのだと私は思います。

 ということで、「かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし」という、宮澤賢治のものと思われる言葉の中には、少なくとも上記のような含意があるのではないかと、私には思えるのです。
 これは、響きとしても美しいので、「名言集」などに収めるにはぴったりですが、いわゆる「美辞麗句」にはとても収まるものではなく、すぐれて「実践的」な言葉だと感じます。
 机上の思弁のみからひねり出せるものではないと思いますので、ですから「学生を終えたばかりで社会人経験もない23歳の家業見習いの若者」のペン先からふと生まれたとすれば、やはりその若者はただ者ではなかったのだな、と思う次第です。

賢治と嘉内の東京

 宮澤賢治と保阪嘉内が、1916年(大正5年)から1921年(大正10年)の間で、東京に滞在していた期間を図にしてみました。
 赤色が賢治の東京滞在、青色が嘉内の東京滞在です。

賢治と嘉内の東京

 とりあえず今はこれだけですが、やはり賢治が書簡166(1920年7月22日)の中で、「東京デオ目ニカヽッタコロハ…」と書いているが一体いつのことだったのかということが、気になるのです・・・。

マレビトのオトヅレ

 一昨年に、「雪の日に来る恋人」という記事を書きました。その時に取り上げたのは、「〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕」(「詩ノート」)という作品でした。

一〇〇四
                             一九二七、三、四、

今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです
ひるすぎてから
わたくしのうちのまはりを
巨きな重いあしおとが
幾度ともなく行きすぎました
わたくしはそのたびごとに
もう一年も返事を書かないあなたがたづねて来たのだと
じぶんでじぶんに教へたのです
そしてまったく
それはあなたの またわれわれの足音でした
なぜならそれは
いっぱい積んだ梢の雪が
地面の雪に落ちるのでしたから

    雪ふれば昨日のひるのわるひのき
    菩薩すがたにすくと立つかな

 その少し前に、この作品に出てくる「あなた」とは保阪嘉内のことではないかと、signaless さんがブログ記事に書いておられて、私もその考えに賛意をこめて、記事を書いたのです。
 この「今日」というのがどういう日であったのかということは、その際の記事で触れたのですが、いわば1921年7月の嘉内との最後の会見以降、賢治がずっと心に抱いていた「農」への思いが、羅須地人協会において「あかるくにぎやかな」形に、ひとまず結晶した日だったと言えるでしょう。

 さて、最近になって私は、賢治が上の作品において、梢の雪が地面に落ちる「巨きな重いあしおと」を聴いて「あなたがたづねてきた」と感じたというのは、象徴的で面白いことだと、あらためて思いました。
 というのは、古代から「まれびと・まろうど(客人)」は、その来訪を知らせる「音」を伴って現れるということになっていたらしいからです。「訪れ(おとづれ)」の語源は、「音・連れ」ということにあり、「訪う(おとなふ)」の語源も「音・なふ」ということです。(『岩波古語辞典』によれば、「おと(音)なふ」の「なふ」という語は、「とも(供)なふ」「うべ(肯)なふ」のように、「上の体言の行為・動作をする意」を表すとのことです。昔は、「門口で咳ばらいをしたり扇子を鳴らしたりして音を立て、来訪を知らせ」たということで、「音」と「来訪」は現代よりも密接に関連していたようです。)

 また折口信夫は、「古代生活の研究 常世の国」(1925)において、次のように書いていました(青空文庫:「古代生活の研究 常世の国」より)。

   八 まれびとのおとづれ

 祖先の使ひ遺した語で、私どもの胸にもまだある感触を失はないのは「まれびと」といふ語である。「まらうど」と言ふ形をとつて後、昔の韻を失うて了うた事と思はれる。まれびとの最初の意義は、神であつたらしい。時を定めて来り臨む神である。大空から、海のあなたから、或村に限つて、富みと齢と其他若干の幸福とを齎して来るものと、村人たちの信じてゐた神の事なのである。此神は宗教的の空想には止らなかつた。現実に、古代の村人は、此まれびとの来つて、屋の戸をオソぶるおとづれを聞いた。音を立てると言ふ用語例のおとづるなる動詞が、訪問の意義を持つ様になつたのは、本義「音を立てる」が戸の音にばかり偏倚したからの事で、神の来臨を示すほと/\と叩く音から来た語と思ふ。まれびとと言へばおとづれを思ふ様になつて、意義分化をしたものであらう。戸を叩く事に就て、根深い信仰と聯想とを、未だに持つてゐる民間伝承から推して言はれる事である。宮廷生活に於てさへ、神来臨して門におとづれ、主上の日常起居の殿舎を祓へてまはつた風は、後世まで残つてゐた。平安朝の大殿祭は此である。
 夜の明け方に、中臣ナカトミ斎部イムベの官人二人、人数引き連れて陰明門におとづれ、御巫ミカムコ(宮廷の巫女)どもを随へて、殿内を廻るのであつた。かうした風が、一般民間にも常に行はれてゐたのであるが、事があまり刺戟のない程きまりきつた行事になつてゐたのと、原意の辿り難くなつた為に、伝はる事尠く、伝へても其遺風とは知りかねる様になつて了うてゐたのである。此よりも古い民間の為来しきたりでは、万葉の東歌アヅマウタと、常陸風土記から察せられる東国風である。新嘗の夜は、農作を守つた神を家々に迎へる為、家人はすつかり出払うて、唯一人その家々の処女か、主婦かゞ留つて、神のお世話をした様である。此神は、古くは田畠の神ではなく、春のはじめに村を訪れて、一年間の予祝をして行つた神だつたらしい。
 此まれびとなる神たちは、私どもの祖先の、海岸を逐うて移つた時代から持ち越して、後には天上から来臨すると考へ、更に地上のある地域からも来る事と思ふ様に変つて来た。古い形では、海のあなたの国から初春毎に渡り来て、村の家々に一年中の心躍る様な予言カネゴトを与へて去つた。此まれびとの属性が次第に向上しては、天上の至上神を生み出す事になり、従つてまれびとの国を、高天原に考へる様になつたのだと思ふ。而も一方まれびとの内容が分岐して、海からし、高天原からする者でなくても、地上に属する神たちをも含める様になつて、来り臨むまれびとの数は殖え、度数は頻繁になつた様である。私の話はまれびとと「常世トコヨの国」との関係を説かねばならなくなつた。

 彼方から来訪する「まれびと」は、戸をたたく風の音、森を揺らす音など様々な物音とともに、この世界に現れるのです。
 これに続いて折口信夫は、「まれびと」がどこからやって来るのかと問い、それは「常世の国」すなわち海の彼方の理想郷であり、また琉球の伝承では「ニライカナイ」と呼ばれる地であっただろうと推論します。

 さてここに、「カナイ」という語が登場しました。
 実は、保阪嘉内の「カナイ」という名前は、「ニライカナイ」に由来するという説があります。大明敦編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(山梨ふるさと文庫)には、次のように記されています。

 「嘉内」という珍しい名は、奄美・沖縄地方で海の彼方にあると信じられている楽土「ニライカナイ」に由来し、この地にも微かに残る古層の稀人(マレビト)信仰に基づくという。ニライカナイからは豊穣をもたらす神が年ごとにこの世に来訪するという信仰があり、神道でいう「常世の国」にあたるものと考えられている。(中略) 嘉内が海の彼方ならぬこの地上に楽園―花園農村を作ろうと志したことを考えると、嘉内自身が稀人そのものであったかのようにさえ思われる。

 保阪嘉内の父親・善作は、神道の一派である「禊教」の熱心な信者であったということで、このような琉球古来の信仰にも詳しかったのでしょうか。
 しかし、嘉内が生まれた1896年(明治29年)の時点で、「ニライカナイ」という言葉が奄美・沖縄以外の本土の人に知られる状態にあったのかどうかについては、検討の余地が残されているように思います。(沖縄県尋常中学校教諭の田島利三郎が琉球の古歌謡集「おもろさうし」を発見したのが1894年(明治27年)頃、「琉球語研究」を発表したのが1900年(明治33年)、伊波普猷が第三高等学校時代に「琉球の歴史と其言語と」「琉球史の瞥見」を発表したのが1901年(明治34年)のことでした。琉球の歴史や民俗に関する研究は、この辺りからやっと始まったのです。)

 しかしいずれにしても、この舞台設定は、私に面白く感じられます。
 ある春の日、「マレビト(客人)」たる保阪嘉内が、花園農村からはるばるやって来て、「巨きなあしおと」とともに賢治を「オト・ヅレ」る・・・。

 それに折口信夫は、「まれびと」は風の音とともに訪れると書いていますが、そう言えば「風の又三郎」も、「どっどど どどうど どどうど どどう」という風の音とともに、ふとこの世界に現れたではありませんか!

雪の羅須地人協会跡

アグニ神との再会

 1916年(大正5年)4月13日、盛岡高等農林学校の「自啓寮」に、新入生の保阪嘉内が入寮しました。室長は、2年の宮澤賢治。自己紹介で嘉内が「トルストイを読んで百姓の仕事の崇高さを知り、それに浸ろうと思った」と述べたのに対し、賢治は「トルストイに打込んで進学したのは珍しい」と評したといいます。
 この後、短歌創作に熱心だった二人が親しくなっていったのは自然なことだったでしょう。4月22日には、賢治と嘉内は石川啄木に思いをはせるために、二人で盛岡中学のバルコニーに立っています。

 そして5月20日には、寮全体の懇親会が行われました。この時、各部屋ごとに何か余興をやることになっていて、賢治たちの「第九室」は、なんと新入生の嘉内が書いた脚本をもとに、劇を上演したのです。主演、演出も嘉内がつとめたのですが、入寮から1ヵ月と少しでこの活躍とは、嘉内の積極的な性格を存分に示しています。
 劇の題名は、「人間のもだえ」。そのあらすじは、「全能の神アグニ」「全智の神ダークネス」「恵の神スター」のもとに3人の人間が現れ、それぞれの悩みや弱さを訴え、互いを羨んでばかりいるのに対し、神たちは「お前たちは土の化物だ」「人間はみんな百姓だ。百姓は人間だ。百姓しろ。百姓しろ。百姓は自然だ」と教え、農業こそが「永遠の国」への道であることを教える、というものです。
 単純ですが明快な主張で、まさに農林学校の学生の演し物にふさわしいと言えるでしょう。登場人物の一人は人間の「女」で、もちろん男子学生が女装して演じましたから、その辺には観客の笑いをとる仕掛けもちゃんとしてあったというわけです。
 ちなみに、脚本冒頭の嘉内と賢治の扮装を記した部分を、ここに引用しておきます。

□全能の神(アグニ) 頭赤毛旋回す。赤色ギリシア服。赤色シャツ。口に墨にて大きく隈取る。笞と松明とを持つ、赤顔。              (保阪)
□全智の神(ダークネス) 地頭、顔真黒、体全部黒、目のまわり銀隈。服黒色。望遠鏡と厚き洋書とを持つ                     (宮沢氏)

 首席入学して、前年に続きこの年も特待生だった秀才・賢治が「全智の神」をやるのはぴったりという感じですが、入学早々自分に「全能の神」の役を割り当てた嘉内も、相当な肝っ玉ですね。

 ここで、嘉内が名付けた神様の名前がちょっと不思議なのですが、「全智の神ダークネス」「恵の神スター」は、ごく簡単な英語の名前であるのに対して、自分が演じる「全能の神」だけは、「アグニ」という聞き慣れない名前にしてあります。
火の神「アグニ」(18世紀細密画より) 調べてみると「アグニ」とは、インドの古代神話『リグ・ヴェーダ』にも現れ、その後ヒンズー教に取り入れられた「火の神」だということです(Wikipedia参照:右写真も同頁より引用)。嘉内がなぜここに全能の神としてインドの「アグニ」を持ってきたのかはよくわかりませんが、その扮装が上記のように真っ赤であることを見ると、やはり「火の神」としてイメージしていたのでしょう。熱血漢だった嘉内のキャラクターには、火の神はぴったりですが。
 それに、劇の最後で「アグニ」は手にしている松明で人間たちが「永遠の国」へと向かう行く手を照らしてやるのですが、これは翌年の7月に賢治と嘉内が一緒に夜の岩手山に登った際、消えそうな松明の火を二人で吹きつつ、将来を誓い合ったというエピソードにもつながる感じで面白いです。

 それにしても、賢治が顔を真っ黒に塗って、目のまわりに銀の隈取りをしているところも、ぜひ見てみたかったものですね。

 下の有名な写真は、自啓寮「第九室」の面々が、「人間のもだえ」を上演して1週間後の5月27日に、盛岡高等農林学校の植物園で写したものです。劇も好評を博して互いの絆も深まり、一つここは同室の仲間で、記念写真でも撮っておこうということになったのでしょうか。
 手前で大胆に腹ばいになっているのが保阪嘉内(全能の神アグニ)、後列中央が宮澤賢治(全智の神ダークネス)、右端が岩田元兄(恵の神スター)、右から二人目が伊藤彰造(土人)、左端が萩原弥六(英雄)、左から二人目が原戸藤一(女)を、それぞれ演じました。

盛岡高等農林学校植物園にて
植物園における寮友の記念写真(『新校本宮澤賢治全集第十六巻上』(筑摩書房)より)

◇          ◇

 さて時は変わって、1921年(大正10年)。この年の1月に賢治は家出をして、8月か9月頃まで東京で一人暮らしをするのですが、7月13日の関徳弥あての手紙には、「私は書いたものを売らうと折角してゐます」との言葉が出てきます。先日の韮崎における望月善次さんの講演では、賢治の「文学的自立」への志向を示す重要なポイントとされていました。
 この時、賢治が「書いたもの」を売ろうとしていた先はどこだったのか、確定的な史料は残っていませんが、鈴木三重吉が1918年(大正7年)に創刊した童話雑誌『赤い鳥』が、その重要な目標だったのではないかという説が有力です。
 例えば恩田逸夫氏は、次のように書いています(「宮沢賢治の童話文学制作の基底」)。

 賢治は中央文壇と関係があったわけではないから、彼の童話制作開始の時期と赤い鳥の創刊とは偶然に軌を同じくしているにすぎぬかもしれない。しかし、賢治がそれ以前から外国の童話などに関心を持っていたことは考え得ることであるし、『赤い鳥』発刊によって創作意欲にまで高められたことは想像できるのである。賢治の童話多産の年が、大正十年の上京の時とされているが、この際には『赤い鳥』の運動は明らかに彼の注目するところとなっていたであろう。多かれ少なかれその影響下にあったことは想像にかたくない。

 あるいは野口存弥氏は、「編集サイドからみた大正児童文学(7) 宮沢賢治の童話」において・・・。

 大正七年半ばに突然、自然発生的に書き始めたというようなことはあるはずがないとみなければならない。すでに触れたとおり、『赤い鳥』創刊号は大正七年六月下旬に発売され、書店に並べられた。恐らく賢治は創刊号を読み、とくに芥川龍之介の「蜘蛛の糸」から深い示唆を受けたのではないかと推定される。

 また最近では井上寿彦氏が『賢治、『赤い鳥』への挑戦』において、賢治の初期の童話にはかなり長編のものと原稿用紙10枚程度に短いものが混在しており、またルビが振ってあるものとないものも混在しており、短くてルビの付いている作品は、『赤い鳥』の「募集創作童話」に応募することを念頭に書かれたものではないかと推測しておられます。

 ということで、賢治が東京にいた1921年(大正10年)の『赤い鳥』を見てみると、一月号と二月号にわたって、芥川龍之介の「アグニの神」という童話が連載されているのです!
 上海を舞台にインド人の老婆などが出てくる伝奇的な物語ですが、そのテキストは青空文庫で読めますので、よろしければご参照下さい。

 つまりこういうことです。東京に出て童話を書いていた賢治は、『赤い鳥』の誌上で久しぶりに「アグニの神」に再会していた可能性が非常に高いと思われるのです。野口存弥氏の推測のように、創刊号で芥川龍之介に示唆を受けていたのなら、なおさらです。
 5年前に自分も一緒に、生まれて初めて演じた劇、そこで親友の嘉内が演じていた「アグニの神」。思わずも懐かしい名前に遭遇して、賢治はどんな思いでこの芥川の小篇を読んだのでしょうか。私には、とても興味深く感じられます。

 そして、そのまたしばらく後、賢治はその「火のような」男、保阪嘉内にも久しぶりに会い、それが生涯で最後の面会になるのです。

第3回 花園農村の碑 碑前祭

 去る10月17日、山梨県韮崎市で行われた「第3回 花園農村の碑 碑前祭」に参加してきました。
 賢治の生涯最高の友人であった保阪嘉内の出身地、山梨県北巨摩郡駒井村―現在の韮崎市藤井町を、私は3年前の11月にも一度訪ねたことがありました。この時は、前月に除幕されて間もない「花園農村の碑」を見学するとともに、嘉内の関連地を訪ねるツアーにも参加し、周囲をめぐる美しい山々とともに甲州の秋を堪能したのでした(「保阪嘉内の故郷を訪ねて(1)」「保阪嘉内の故郷を訪ねて(2)」参照)。
 今回は、それ以来3年ぶりの再訪で、碑前祭も「第3回」になっています。

 16日(土)の夜遅くに甲府に到着して1泊し、翌日の午前は「山梨県立文学館」で開かれていた「井伏鱒二と飯田龍太 往復書簡 その四十年」展を見学しました。親子ほども年の離れた二人の文学者の、師弟愛というのとも異なった独特の信頼と尊敬のあふれる交友の、一コマ一コマが印象的でした。
 お昼ごはんは、甲州名物の「ほうとう」。小麦粉でできた超極太の「きしめん」的なものを、野菜たっぷりの味噌味のだしで煮込んだものです。ボリュームもあって深い味。

ほうとう

 それから、嘉内の生家にも近い「東京エレクトロン韮崎文化ホール」に向かいました。このホールの前庭に、「保阪嘉内 宮沢賢治 花園農村の碑」が建てられていて、そこで「碑前祭」が行われるのです。
 私たちが到着すると、もう会場の準備は整い、すでに加倉井さんや中野さんもはるばる来ておられました。「アザリア記念会」事務局長の向山さんが、甲府中学生の保阪嘉内を模した学生服を着て、迎えて下さいました。新村さんも、暖かいお言葉をかけて下さいました。

 まるで3年前にタイムスリップしたかのような懐かしさでしたが、当時植樹された小岩井農場の「銀どろの木」の成長が、現実に経過した歳月を物語ってくれていました。
 下の写真が、3年前の銀どろ。

銀どろの木2007

 そして下の写真が、今回の銀どろ。

銀どろの木2010

 指くらいの太さだった幹がこんなに立派になり、葉もたくさん茂らせていました。賢治の父の政次郎氏が息子の死後に回想して、「賢治は早死することを悟っていたためか、こうした早く大きくなる木を植えるのが好きだったもなさ」と、森荘已池氏に語ったという言葉を思い出します。

 銀河鉄道をかたどり、嘉内の言葉と賢治の言葉を連結した「花園農村の碑」は、変わらず黒光りして健在でした。

碑前祭会場

 碑前祭では、向山さんの司会のもと、「アザリア記念会」の清水会長や、韮崎市の副市長さんらの挨拶の後、「韮崎市民合唱団」による歌が披露されました。曲目は、嘉内の「アザレア」「藤井青年団団歌」、そして賢治の「星めぐりの歌」。

韮崎市民合唱団

◇          ◇

 碑前祭が30分ほどで終わると、会場を屋内に移して、盛岡大学の望月善次さんの記念講演です。
 先生のお話は、いつも自由闊達とした雰囲気に溢れ、賢治の人となりや作品に、新鮮な光を当てて下さる感じです。自らも短歌創作をされ、石川啄木の研究でも高名な先生は、限られた時間の中で、賢治と嘉内の短歌を具体的に挙げながら、特に嘉内の短歌の魅力について紹介して下さいました。
 今回、特に私の印象に残った望月さんのお言葉。

  • 「アザリア」時代の賢治は、とりたてて特別な存在ではなかった。4人を中心とした仲間が切磋琢磨しあい、賢治にとっても貴重な経験となった。
  • 賢治が生涯において「文学的自立」を図ろうとした重要なポイント、それは家出上京中に関徳弥に、「私は書いたものを売らうと折角してゐます」と書き送った時点である。
  • 賢治は、生涯において何度も挫折を経験するそのたびに成長していった。
  • (会場から、「現代においてなぜ賢治がこんなに人気があるのか」との質問に答えて) いろいろな見方はあろうが、一つは「多面的だから」。

 講演が終わると午後4時、帰りの電車に遅れそうになり、後ろ髪を引かれながら会場を後にしました。
 そうそう、最後に階段を降りる手前で、いつもお世話になっている signaless さんにお声をかけていただき、念願の対面をすることができました。

 韮崎は3年ぶりで、まだたった2回目の訪問にもかかわらず、まるで何度も来ている場所のように心もなごみ、温かい雰囲気にひたることができました。

 「アザリア記念会」の皆様、裏方の皆様、今回もお世話になりましてありがとうございました。

「保阪嘉内の歌曲とDTM(1)」

工藤哲夫『賢治考証』

 先月末に刊行された、工藤哲夫著『賢治考証』(和泉書院)という本を読んでみています。

賢治考証 (近代文学研究叢刊) 賢治考証 (近代文学研究叢刊)
工藤 哲夫

和泉書院 2010-04
売り上げランキング : 583621

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


 「賢治考証」という、端的で虚飾のない題名のとおり、この本は、賢治が依拠した可能性のある大量な文献を非常に精密に渉猟し、堅実な考証を積み上げた論文集です。本の帯には、「恣意的な<読み>を排し、客観的に<論証>し得た(と考える)事だけを書くという態度を貫いた書」とありますが、まさにそれを実感します。章ごとに付された「注」も、詳細で厖大なものです。

 内容を見ると、たとえば、本書第二章の「<二人だけ>の世界―「黄いろのトマト」を手掛りに―」は、ある時期まで、賢治とトシ、あるいは賢治と嘉内という<二人だけ>の世界を求めた賢治が、いかにして変わっていこうとしたかという経過に、注目したものです。
 工藤哲夫氏は、次のように述べます(p.58)。

 賢治は紆余曲折を経て「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」(「〔手紙 四〕」)という言葉に縮約できる命題の了悟(すべきであること)に到達した。「《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》」(「青森挽歌」)という言葉も、「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人」の語りかけ(「銀河鉄道の夜」初期形三」)も同根・同趣のものであろう。
 しかし、かつての、親友保阪嘉内及び妹トシへの恋着は、このいささか公式的とも見えなくもない命題―最終的にそこに辿り着いたとしても―によって超克される程度のものであっただろうか。理念としてでなく、実際に賢治の思想・行動を方向づけた動機という観点からすれば、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」という事から「けつしてひとりをいのつてはいけない」という結論に至る迄の間に飛躍があると思われる。

 この引用の最後で、工藤氏が「飛躍」と表現されたもののことが、私も以前から気になっていて、「悩みの果てに「いゝこと」と感じる」などという記事に書いたりもしました。
 それはさておき、工藤氏の考証は続きます。

 「どうか諸共に私共丈けでも、暫らくの間は静に深く無上の法を得る為に一心に旅をして行かうではありませんか」・「あなたと一諸に行かせて下さい」・「どうか一所に参らして下さい。わが一人の友よ」と保阪嘉内に呼びかけ、<二人だけ>の世界を求めた賢治にとって、嘉内との別離が深刻な打撃を与えたであろうことは想像に難くない。賢治は苦悶の内に、この別離の意味を仏法の中に探し求めたのではなかったか。

そしてついに、賢治蔵書の中から、工藤氏が探り当てた仏典の一節が提示されます。

 そして、見付けたのが、所蔵していた『國譯大蔵經』所収の「國譯大品 受戒篇第一」中の次の一節であった(と推測する)。

[前略]其の時世尊諸比丘に告げて宣へり、「[中略]比丘等、遊行を行へ、衆人の利益の爲に、衆人の安樂の爲に、世間の慈悲の爲に、人天の利益安樂の爲に。二人同一路を行くことなかれ。[後略]

 「二人同一路を行くことなかれ」―この言葉が、天来の叱咤として賢治を撃ったのではないだろうか。と同時に、別離という悲しむべき事態を、反省を含めて肯定的に受け止めようとする機縁となったと考えられる。

 あるいは工藤氏は[注]において、同じく賢治所蔵の『新譯佛教聖典』(大14刊)という本の中から、上と同一内容の記述も探し出しておられます。

 その時、世尊は比丘等に命じたもうよう。「[中略]比丘等よ。世間を憐みすべての人々の幸福のために世を巡れよ。二人して、一つの道を行かぬようにせよ。[後略]

 そして、上の引用の「すべての人々の幸福」という言葉が、「〔手紙 四〕」の、「すべてのいきもののほんたうの幸福」という言葉と通底している可能性も示唆しておられます。

 この、「二人同一路を行くことなかれ」「二人して、一つの道を行かぬようにせよ」という言葉は、何と賢治の核心を衝くものであったでしょう。
 保阪嘉内やトシとの別離を経験した後の賢治が読んでいたら、まさにその心の空隙に染みとおっていったのではないかと、私にも痛切に感じられます。


 その後、工藤哲夫氏は、トシを喪った後の賢治の心の推移を時系列的にたどり、まず「無声慟哭」「オホーツク挽歌」の時期には、トシが「ひとり」逝ったことにこだわり、「<仏法>を十分意識しながらなおその了悟に至らず、「いつしよに行」くことへの妄執との間で引き裂かれて苦闘」していたとします。
 次の「〔手紙 四〕」の段階では、「<仏法>の否応なき実線を経て辿り着いた一つの帰結点」を示しながらも、

この時点に於て賢治の動揺が収束していなかったことは、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と言いながら「ポーセをたづねる手紙を出すがいい」と矛盾したことを述べているその混乱に徴憑を見出すことが可能であろう。

と、まだ混乱があることが指摘されます。この「〔手紙 四〕」の「矛盾」と工藤氏が指摘しておられる点は、私にとっても悩ましいものでしたので、以前に「「手紙四」の苦悩」という記事に書きました。

 その後、賢治の心が平安を得ていくのは・・・。

 「あゝ いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」(「薤露青」)―ここに至って賢治の悲しみ・求道的動揺は漸く鎮静し、<仏法>も了悟の域に達しつつあったと言えようか。

 そして、最後に、

 そして、了悟の段階を経て賢治が最終的に得た明答が、実は<仏法>をその礎とするところの「みんながカンパネルラ」だから[中略]あらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこに行く」ことによってのみ、「ほんたうにカンパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ」(「銀河鉄道の夜」初期形三)というものであった。

ということになります。このあたりの流れは、私が以前にたどった「悩みの果てに「いゝこと」と感じる」とも共通している部分も多くて、こんな専門家の論文と比較するのは素人としておこがましいかぎりですが、素直に嬉しいことです。
 そして、工藤氏は最後に、次のようにしめくくります。

 以上の流れの中に「黄いろのトマト」を置くならば、それは(時系列的に)トシとの別離と「〔手紙 四〕」の間に位置することになる。話は最初に戻る。「黄いろのトマト」は<二人だけ>の世界とその崩壊を描いたものであった。<二人だけ>の強調と悲劇的結末の意味するものは、未だ<仏法>の了悟に至らぬ賢治が、そこ「に近づく一あし」として、一度は自らの悲しみの体験をこそ徹底的に作品化することによって一種の自己治療を試みたということではないだろうか。

 この結語に付け加えることはありません。

「保阪嘉内の歌曲」のページ

 左のメニューにもあるとおり、「歌曲の部屋」に「保阪嘉内の歌曲」というページを新設しました。とりあえず、「藤井青年団々歌」と「勿忘草の歌」の2曲を収録してあります。
 こういう演奏はいつもですが、アップしてからいろいろとアラが気になってくるもので、それぞれ微修正も加えてあります。

制作中・・・

保阪嘉内「勿忘草の歌」

 保阪嘉内が一部を作詞し、おそらく作曲した「勿忘草の歌(保阪家家庭歌)」のDTM演奏を作成してみました。
 これは、冒頭の「捕らよとすればその手から小鳥は空へ飛んで行く」という詞句(「習作」参照)にも表れているように、嘉内が作った歌曲の中でも、賢治とのつながりを最も深く漂わせているものです。

 昨年10月11日に韮崎市で行われた「銀河の誓い in 韮崎・アザリアの友人たち」の催しの際に「韮崎市民合唱団」が唄われた二部合唱の旋律に、簡単なピアノ伴奏を付けました。歌声は、ソプラノが VOCALOID の Meiko、アルトが VOCALOID2 の初音ミクです。
 下リンクから、MP3でお聴き下さい。

♪ 勿忘草の歌(MP3:2.90MB)

【歌詞】(大明敦編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』より引用)

    勿忘草(わすれなぐさ)の歌
         ― 保阪家家庭歌 ―

捕(とら)よとすればその手から小鳥は空へ飛んで行く
仕合わせ尋(たず)ね行く道の遙けき眼路に涙する

抱かんとすれば我が掌(て)から鳥はみ空へ逃げて行く
仕合わせ求め行く道にはぐれし友よ今何処(いずこ)

流れの岸の一本(ひともと)はみ空の色の水浅葱(みずあさぎ)
波悉(ことごと)く口付けしはた悉く忘れ行く

 一番、二番が、とりわけ賢治や古い友人たちとのつながりを感じさせる部分で、これに対して三番は、上田敏の訳詩集『海潮音』(1905年刊)に、ウィルヘルム・アレント作「わすれなぐさ」として収録されているものです。
 この三番の歌詞の「流れ」は、アレントの原文では‘Strom’、すなわち「大河」です。この歌が盛岡高等農林学校の思い出と関係しているとすれば、この「流れ」は北上川を連想させずにはおきません。
 三番の部分のピアノ伴奏にアルペジオを連ねたのは、はずかしながら私なりに北上川の流れに思いをはせたものです。

 末筆ながら、嘉内の歌曲の楽譜等の資料をお送りいただいた「保阪嘉内・宮沢賢治アザリアの会」のご厚意に、心から感謝申し上げます。

【関連記事】
「勿忘草」の人

喪中の賀状

 もうこの時期までには、何人かの知人から「喪中欠礼」の葉書が舞い込んできて、ああ、今年この人の身内にはこういうご不幸があったのかと、しばし思いにふけったりする師走でもあります。
 ところで、この「喪中欠礼=喪中につき年始の挨拶を遠慮する」という習慣に関しては、どの範囲の親族の死までが対象となるのか、喪中の期間はどれだけなのかなどいろいろな考え方はあるようですが、現在の一般的な慣例は、以下の如くだそうです。

  • 死去の際に「喪中欠礼」とする親族の範囲
      夫・妻
      父母・義父母
      子
      生計を共にしている兄弟・姉妹
      生計を共にしている祖父母
      生計を共にしている孫
  • 「喪中」の期間
      1年=すなわち上記近親者が亡くなった翌年の年始挨拶を遠慮

 歴史的なことを調べてみると、近代日本で「喪」とか「忌」とかについて公式に定めたものとしては、1874年(明治7年)の「太政官布告第百八号」に行き着くそうです。

○第百八号 太政官(十月十七日)
服忌ノ儀追テ被仰出ノ品モ可有之候得共差向京家ノ制武家ノ制両様ニ相成居候テハ法律上不都合有之ニ付自今京家ノ制被廃候條此旨布告候事

 これは、当時は服忌の制度に「公家式」と「武家式」の二種類があったのを、その後は簡略な「武家式」に統一するということを布告したものです。
 それではその「武家式」の服忌制度というのがどういうものであったかというと、江戸幕府が元禄期に定めた「服忌令」という規定に、次のように記されているということです。

父母の死      忌中50日間  喪13ヵ月間 (子が服する)
養父母の死     忌中30日間  喪150日間 (子が服する)
継母継父の死   忌中10日間  喪30日間 (子が服する)
夫の死        忌中30日間  喪13ヵ月間 (妻が服する)
妻の死       忌中20日間  喪90日間 (夫が服する)
嫡子の死      忌中20日間  喪90日間 (親が服する)
夫の父母の死   忌中30日間  喪150日間 (妻が服する)
祖父母の死    忌中30日間  喪150日間 (孫が服する)
母方祖父母の死 忌中20日間  喪90日間 (孫が服する)

 儒教的な道徳を反映して、「父母」が何より尊重され、また妻よりも夫が重視されています。妻の父母が亡くなっても、夫は喪に服する必要はないが、逆の場合は「忌中30日間・喪150日間」です。これは妻を亡くした夫の服喪よりも長い期間ですね。
 何よりも、これではあまりにも煩雑なので、現在は初めに述べたような「慣例」になっているのでしょう。

 というような事柄をなぜ調べたりしていたかというと、賢治の時代の年賀状の「喪中欠礼」の習慣がどのようになっていたのかということを、知りたかったからです。
 しかし、当時に実際にどんな慣行が通用していたかということは、ネットで調べた程度ではわかりませんでした。


 さて、1917年(大正6年)9月16日未明、賢治の父方祖父の宮澤喜助が亡くなりました。この時、賢治が祖父の死を看取ったことは、歌稿において「祖父の死」と題された数首に記録されています。

607 香たきてちゝはゝ来るを待てるまにはやうすあかりそらをこめたり
608 足音はやがて近づきちゝはゝもはらからも皆はせ入りにけり
609 夜は明けてうからつどへる町の家に入れまつる時にはかにかなし

 しかし、この翌年の1918年(大正7年)に、賢治は保阪嘉内に宛てて年賀状を出しているんですね。

1918年の嘉内あて年賀状

 現代の慣例の「生計を共にしている祖父母」の「1年以内」の死に該当し、また明治初期に追認された「服忌令」による「祖父母の死」の「喪150日間」にも含まれている正月ですが、この頃には現代ほど、「喪中欠礼」などという習慣が一般的ではなかったのでしょうね。

 まあ、どうでもいいようなことですが、いちおう季節ネタでした。

1.前提

  1. 賢治も嘉内も、「恋の鳥」の歌詞を作品中に引用しているが、二人とも全く同じように言葉を間違えている。このような事態は、二人の一方がもう一方に、歌詞を間違って伝えたことによって起こったと考えるのが自然である(「「勿忘草」の人」参照)。
  2. 歌詞を(誤って)伝えた方法としては、(1)二人が会って話した、(2)書簡で伝えた、という2つが考えられる。
    ここで、賢治から嘉内あての書簡には「恋の鳥」の歌詞が書かれたものは現存しないので、上記をより正確に書き直すと、(1)二人が会って話した、(2)’嘉内が賢治に書簡で伝えた、の2つの方法がありえたことになる。
  3. 賢治は「カルメン」の舞台を実際に見ていて、その際に「恋の鳥」も聴いたと考えられる(「賢治は「カルメン」を見たか(本篇)」参照)。
  4. 問題となる時期前後の賢治の東京滞在は、1917年(大正6年)1月4日~6日、1918年(大正7年)12月26日~1919年(大正8年)3月上旬、1921年(大正10年)1月24日~8月頃。
    一方、嘉内の東京滞在は、1918年(大正7年)4月19日~11月、1919年(大正8年)8月~9月、同年12月~1920年(大正9年)11月。なお、嘉内はこの間の1919年3月4日~12日に盛岡に行っており、東京を「通過」はしている。

2.「カルメン」の上演日

 北原白秋作詞・中山晋平作曲の「恋の鳥」という歌が最初に唄われたのは、松井須磨子がカルメン役を演じた「芸術座」の公演においてでした。
 「芸術座」の「カルメン」は、1919年(大正8年)1月1日が初日で、10日間上演の予定でしたが、1月5日未明に主役の松井須磨子が自殺してしまったため、公演は1月4日で中止となり、「芸術座」も解散してしまいます。
 その後の経緯について、松本克平著『日本新劇史』(筑摩書房, 1975)は、次のように述べています。

 須磨子を失った座員二十余名は、すぐに生活問題に追われなければならなかった。大部分はちりぢりばらばらになっていった。その中の数人はまず中村吉蔵の下に集った。そして二人(引用者注:島村抱月と松井須磨子)の死の生々しい衝撃のまだ消えないうちに「新芸術座」を結成、松竹と提携した。そして三月一日から十四日まで有楽座で旗揚げをした。まことにすばやい旗揚げである。演し物は須磨子の最後の舞台となった『カルメン』と『肉店』で、須磨子の追悼公演という誰でもやる手であった。監督は川村花菱。須磨子の代りは中山歌子であった。(中略)
 中山歌子は帝劇洋劇部の出身だけあってカルメンの「煙草のめのめ」や「恋の鳥」の劇中歌は須磨子よりは音楽的であったという。歌子のカルメンは好評ではあったが、共演者は須磨子の強烈な個性的イメージを払拭することが出来ないで困ったという。(中略)
 つづいて新芸術座は関西巡業に赴いた。さらに九月には『肉店』を『剃刀』につきかえて東北、北海道へ。須磨子の三七日もたたないうちに旗揚げは不謹慎だと言って参加を渋り、浅草の石井漠の「東京歌劇座」や「七声歌劇団」に出演していた田辺若男は、この旅から新芸術座に加わった。『剃刀』の木村為吉の役は田辺の当り役であったからだった。北海道から戻って宇都宮まで来るに及んで須磨子追悼の看板も効き目がなくなり、一座は一文無しになって帰京した。そして陣容を建て直し、再び松竹の手で浅草御国座(後の松竹座)に出演した。カルメンはやはり歌子であった。ホセの森英次郎は退き、新派の村田正雄が代った。
 だが、九ヵ月にわたるカルメンの巡業に人々は疲れ果てた。まして生活のため以外にすでに積極的な目的のない新芸術座であった。
 そこへ大阪の沢正から応援を頼みに来たのであった。沢正の任期と独裁に反旗をひるがえした中田正造、小川隆ら四名は十一月、新国劇を脱退して新声劇を起こし、沢正の剣劇に対抗しようとしていた。吉蔵以下の面々は今や道頓堀を席捲しようとしている沢正を応援することに衆議一決して、ここに新芸術座は解散したのであった。

 また、増井敬二著『浅草オペラ物語』(芸術現代社, 1990)には、「カルメン」公演の略史について、次のように述べられています。

 「カルメン」も日本では新劇として大正八年一月に松井須磨子が演じ、しかも公演中に彼女が自殺したことで知られていた。また浅草オペラでは、大正七年三月に河合澄子が獏与太平の編作した「カーメン」を初演し、また伊庭孝の脚色した高木徳子の「カルメン物語」や、八年十二月に金竜館で、松井須磨子をしのぶ長尾史緑脚色の二場だけの「カルメン」があったが、どれもオペラの原曲とはかなり雰囲気の違うものだった。

 一方、増井敬二著『日本のオペラ』(東京音楽社, 1984)には、大正時代の東京におけるオペラ「カルメン」の上演記録が掲載されています。下の表は同書より抜萃したもので、もとは横に一つながりの表であったものを、スペースの都合上、二段に分けています。

「カルメン」上演日程(1)

「カルメン」上演日程(2)

 上の表で、「8.12.31/金」と書いてあるのは、『浅草オペラ物語』の引用中に「八年十二月に金竜館で、松井須磨子をしのぶ長尾史緑脚色の二場だけの「カルメン」があった」と書かれているものに相当すると思われます。「追悼公演」であることから、おそらく年をまたいで元日以降には行われなかったでしょう。これも、「二場のみ」ではありますが、「松井須磨子追悼」という趣旨からは、劇中で「恋の鳥」が唄われた可能性はあると思われます。
 あと上の表では、大正7年の公演はそれぞれ独自の脚色であり、また大正11年3月20日以降の公演は、ビゼー作曲の原曲どおりの公演ですから、これらの劇中に「恋の鳥」が唄われた可能性はありません。

 以上の資料から、劇中で「恋の鳥」が唄われるヴァージョンの「カルメン」の公演が行われた日程をまとめると、次のようになります。

  1. 1919年(大正8年)1月1日~4日(芸術座):浅草・有楽座
  2. 1919年(大正8年)3月1日~14日(新芸術座):浅草・有楽座
  3. 1919年(大正8年)3月?~8月?(新芸術座):関西巡業
  4. 1919年(大正8年)9月~11月?(新芸術座)東北・北海道巡業
  5. 1919年(大正8年)11月(新芸術座):浅草・御国座
  6. 1919年(大正8年)12月31日(長尾史緑脚色):浅草・金竜館

3.賢治が「カルメン」を見た日

 上の上演日程のうちで、賢治の東京滞在期間と重なるのは、1. および 2. です。賢治は、トシの看病のために、母とともに1918年(大正7年)12月26日に東京に出てきて、「雲台館」に宿泊します。賢治が東京から花巻に帰った正確な日付けはわかっていませんが、1919年(大正8年)3月3日に東京で雛の節句を祝ったと『新校本全集』年譜篇にありますから、3月3日よりは後になります。
中山歌子 賢治がはたして、1月1日~4日の芸術座公演を見たかと考えてみると、この頃はまだ上京して間もなく、トシの容態も重篤でしたから、賢治が呑気に浅草へ観劇に行ったとはちょっと思えません。したがって、賢治が東京で「カルメン」を見たとすると、3月1日から浅草・有楽座で行われていた「新芸術座」の公演だっただろうと思われます。
 ということは、この時「恋の鳥」を唄ったのは、おそらく中山歌子(右写真:松本克平『日本新劇史』より)だったわけですね。

 ただ、賢治が東京で「カルメン」を見たとはかぎらず、上の 4. にあるように「新芸術座」はこの年の9月~11月に東北・北海道巡業もしています。賢治がこれを見た可能性も否定できません。
 しかし、その直前の〔8月20日前後〕と推定されている嘉内あて「書簡154」には、当時の賢治の様子が次のように書かれています。

私の父はちかごろ毎日申します。「きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。何か考へろ。みんなのためになれ。錦絵なんかを折角ひねくりまわすとは不届千万。アメリカへ行かうのと考へるとは不見識の骨頂。きさまはとうとう人生の第一義を忘れて邪道にふみ入ったな。」

 このような家庭の状況では、岩手県のどこかに巡業が来たとしても、「カルメン」などという不道徳な女が出てくる劇を見に行くなどとは、賢治もとても家族に言い出せなかっただろうと思います。この時の興行日程については、また折があれば調べてみたいとも思いますが、私としては賢治が地元近くでこの巡業公演の「カルメン」を見た可能性は、低いと考えます。

 ちなみに、中山歌子による「カルメン」劇中歌のうち、「酒場の唄」「煙草のめのめ」は、「浅草オペラとオーケストラ」というページの下の方から聴くことができます。賢治が観劇したとほとんど同じ頃の録音です。
 それから「恋の鳥」は、拙作のMP3を「とらよとすればその手から…」というページで聴けます。

4.嘉内は「カルメン」を見たか

 嘉内が、上記の「カルメン」公演のいずれかを見たとすると、その可能性がありえるのは、上の「6. 1919年(大正8年)12月31日」のみです。この12月1日から嘉内は1年志願兵として陸軍近衛輜重兵大隊に入り、東京にいたのです。しかし、大晦日の12月31日に嘉内がどういう状況にあったのかはわかりません。休暇であれば故郷に帰っていたかもしれませんし、休暇でなければ観劇など行けません。
 すなわち、ここで嘉内が「カルメン」を見たと仮定することには、若干の無理があるでしょう。

 一方、私として気になるのは、嘉内が1919年(大正8年)3月4日から、元同級生の卒業を祝うために盛岡へ行ったことです。この際、途中で東京を通過しますが、もし東京で途中下車すれば、上の 2. のカルメンを見ることができたわけです。
 それより何よりも、この時、東京にはまだ賢治がいたのです。もしも嘉内が東京で途中下車したとすれば、その理由は「カルメン」を見るためというよりも、賢治に約1年ぶりに会うためだったでしょう。ただ、この「途中下車」という仮定も、かなり空想的なものではあります。

 という風に、客観的に考えてみると、嘉内が「カルメン」を見た可能性は低いと言わざるをえません。
 しかし、ここで冒頭に述べた「前提」に戻ると、もしも嘉内が「カルメン」を見ていなければ、嘉内が賢治あての書簡によって、「恋の鳥」の歌詞を伝えたという可能性は消えます。
 すると、二人が「恋の鳥」の歌詞を共有した方法としては、(1)の「二人が会って話した」というものしか残らなくなります。これまで明らかになっているかぎりでは、「恋の鳥」が世に出た1919年(大正8年)以降で、賢治と嘉内が会ったのは、1921年(大正10年)7月のみです。

5.ありうる可能性

 以上を整理してみます。賢治と嘉内が「恋の鳥」の歌詞を共有した状況として、考えられる可能性は、以下のとおりです。

  1. 賢治は、1919年(大正8年)1月の「芸術座」公演、3月の「新芸術座」公演、9月~11月の東北巡業のいずれかを見た。
    嘉内は、12月31日の長尾史緑脚色公演を浅草・金竜館で見て、その後、「恋の鳥」の誤った歌詞を書簡で賢治に書き送った。
  2. 賢治は、1919年(大正8年)1月の「芸術座」公演、3月の「新芸術座」公演、9月~11月の東北巡業のいずれかを見た。
    嘉内が「カルメン」を見ていたかどうかは問わない。後に「恋の鳥」はかなり流行したので、劇を見ていなくても嘉内がこの歌を知っていた可能性はある。
    そして、1921年(大正10年)7月に賢治と嘉内が東京で会った際、「カルメン」あるいは「恋の鳥」について二人は話し合ったが、どちらかの記憶違いによって、「恋の鳥」の歌詞を誤って共有した。
  3. 嘉内は、1919年(大正8年)3月初めに盛岡へ向かう途中、東京で下車して賢治に会った。
     3a. 賢治は嘉内と会った時すでに1月の「芸術座」公演か3月
        の「新芸術座」公演のいずれかを見ていて、その話を嘉
        内にした際に、「恋の鳥」の歌詞を誤って伝えた。
     3b. 賢治と嘉内は、二人で一緒に、浅草・有楽座で「新芸術
        座」の「カルメン」を見た。観劇後に「恋の鳥」について話
        し合った際に、どちらかの記憶違いによって、歌詞を誤っ
        て共有した。

 それぞれの設定について、どんな印象を持たれたでしょうか。こうやって並べてみると、どれも「ありそうにない」ことに見えてしまうので困りますが、ここまでずっと見ていただいたように、理屈で考えていくと、上のうちのどれか一つは正しいことになるのです。

 1. に関しては、兵役中の嘉内が大晦日に浅草で観劇をしたと仮定するのが、まず苦しいところです。それに、賢治は「カルメン」を見たことをそれまで嘉内に知らせていないわけですから、嘉内も同じ「カルメン」を見たというのは、幸運な偶然です。こんな格好の共通の話題ができたのに、それを知らされた賢治が1920年以降の嘉内あての書簡において、全くこれに触れていないのは、かなり不自然です。
 2. に関しては、二人にとって非常に深刻な、結果的に最後となった会見において、はたして「カルメン」の話などするような余裕があったのか、ということが問題です。賢治としては「恋の鳥」の話などよりも、嘉内が国柱会に入って自分と同じ道を進んでくれるかが、何よりも重要な議題だったはずです。また、賢治が「カルメン」を見てからこの時までに2年もの月日が経過しており、この2年間に賢治から嘉内あての書簡で一度も話題になったことのなかった「カルメン」「恋の鳥」の話が、なぜこの面会時に出てきたのかも不思議です。
 3. は、東京における嘉内の「途中下車」という空想的な仮定から出発しているところが、最大の難点です。賢治と嘉内が東京で、これまでは未知の面会をしていたということにもなってしまいます。しかし、以前に「東京デオ目ニカゝッタコロ」という記事に書いたように、1920年(大正9年)7月22日付けの嘉内あて「書簡166」を見ると、この書簡以前に二人が東京で会っていたのではないかと疑わせるふしもあるのです。

 もしも 3. が正解であれば、これは「東京におけるもう一つの面会」の内容について、若干の示唆を与えてくれているわけです。

【追記】
 その後、この問題にはまだもう一つ別の解がありうることを、signaless さんからご教示いただきました。それは sora さんのご意見なのですが、あらためて私なりに文章にすれば、次のようなことです。

4.  嘉内は、賢治から贈られた『春と修羅』を読み、そこに収めら
   れている作品「習作」に(字句を誤って)引用されていた「恋
   の鳥」の歌詞を、再び引用する形で「勿忘草の歌」に取り入
   れた。

 賢治から嘉内に贈られた『春と修羅』は今も保阪家に現存しており、嘉内が賢治の作品「習作」を読んでいたことは確実です。ですから上記のように考えるのが、最も自然で蓋然性の高い解釈だろうと、今や私も感じます。
 当初私は、二人が距離を置いて情報を伝達する手段としては「書簡」しか念頭になく、賢治から嘉内への書簡で「恋の鳥」に言及したものは現存しないことから、この方向性は頭から除外してしまうという過ちをおかしていました。しかし実は書簡以外に、「『春と修羅』の作品テキスト」という、さらに重要で確実な伝達手段があったのです。

 というわけで、長々とややこしい仮定にお付き合いいただいたのに、貴重なお時間を無駄にしたようで申しわけありません。

 ただ、1919年(大正8年)3月に賢治と嘉内が東京で会わなかったかどうかということは、これとはいちおう別の問題として、残しておきたいと思います。

「勿忘草」の人

 ご存じのように、『春と修羅』所収の「習作」という作品には、「芸術座」および「新芸術座」が演じた「カルメン」の劇中歌、「恋の鳥」の一節が引用されています。

  習作

キンキン光る
西班尼(すぱにあ)製です
  (つめくさ つめくさ)
こんな舶来の草地でなら
黒砂糖のやうな甘つたるい声で唄つてもいい
と┃また鞭をもち赤い上着を着てもいい
ら┃ふくふくしてあたたかだ
よ┃野ばらが咲いてゐる 白い花
と┃秋には熟したいちごにもなり
す┃硝子のやうな実にもなる野ばらの花だ
れ┃ 立ちどまりたいが立ちどまらない
ば┃とにかく花が白くて足なが蜂のかたちなのだ
そ┃みきは黒くて黒檀(こくたん)まがひ
の┃ (あたまの奥のキンキン光つて痛いもや)
手┃このやぶはずゐぶんよく据えつけられてゐると
か┃かんがへたのはすぐこの上だ
ら┃じつさい岩のやうに
こ┃船のやうに
と┃据えつけられてゐたのだから
り┃……仕方ない
は┃ほうこの麦の間に何を播いたんだ
そ┃すぎなだ
ら┃すぎなを麦の間作ですか
へ┃柘植(つげ)さんが
と┃ひやかしに云つてゐるやうな
ん┃そんな口調(くちやう)がちやんとひとり
で┃私の中に棲んでゐる
行┃和賀(わが)の混(こ)んだ松並木のときだつて
く┃さうだ

 上記では横書きになっていますが、原文はもちろん縦書きです。本文の6行目から行頭の文字を、上記では縦に、原文では横に読むと、「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という言葉になります。作品においてはこの言葉と本文を区別するための線が引かれていて、上では点線のように表示されていますが、実際には連続線です。

 さて一方、この「とらよとすれば・・・」という言葉は、保阪嘉内が家族とともによく歌っていたというので「保坂家家庭歌」、あるいは最近は「勿忘草の歌」とも呼ばれる歌にも出てきます。下記が、その歌詞です(『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』より)。

   勿忘草(わすれなぐさ)の歌
            ―保坂家家庭歌―

捕(とら)よとすればその手から小鳥は空へ飛んで行く
仕合わせ尋ね行く道の遙けき眼路に涙する

抱かんとすれば我が掌(て)から鳥はみ空へ逃げて行く
仕合わせ求め行く道にはぐれし友よ今何処(いずこ)

流れの岸の一本(ひともと)はみ空の色の水浅葱(みずあさぎ)
波悉(ことごと)く口付けしはた悉く忘れ行く

 漢字表記は少し違っていますが、「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という言葉は同じです。
 この言葉の出典は何かというと、北原白秋作詞、中山晋平作曲で、1919年(大正8年)に「芸術座」が(のちに「新芸術座」が)演じた「カルメン」の中で歌われる「恋の鳥」という劇中歌です。
 「恋の鳥」の歌詞は、以下のとおりです。

捕へて見ればその手から、
小鳥は空へ飛んでゆく、
泣いても泣いても泣ききれぬ、
可愛いい、可愛い恋の鳥。

たづねさがせばよう見えず、
氣にもかけねばすぐ見えて、
夜も日も知らず、氣儘鳥、
來たり、往んだり、風の鳥。

捕らよとすれば飛んで行き、
逃げよとすれば飛びすがり、
好いた惚れたと追つかける、
翼火の鳥、恋の鳥。

若しも翼を擦りよせて、
離しやせぬぞとなつたなら、
それこそ、あぶない魔法鳥、
恋ひしおそろし、恋の鳥。

 比べていただければわかるとおり、賢治や嘉内の引用は、北原白秋のもとの詞と少し違っています。一番の初めの2行が、おおむね引用部分に相当するのですが、原文は「捕へて見ればその手から、小鳥は空へ飛んでゆく」です。三番の1行目は「捕らよとすれば飛んで行き」となっていて、賢治と嘉内の引用は、一番の初め2行に、三番の冒頭を混ぜ合わせたような形になっています。

 このように、歌の歌詞をちょっと間違えて憶えてしまうということは、誰だってよくあることですが、ここで重要なのは、賢治と嘉内が全く同じ間違いをしているということです。間違いそのものはそれなりの確率であるにせよ、二人がそれぞれ独立して、全く同じ間違いをする確率というのは、非常に低いものです。このような現象が起こった経緯の最も自然な解釈は、「二人のうちの一方が歌詞を間違えて憶えていて、それをもう一人に伝えたために、同じ間違いが共有されてしまった」と推測することです。
 さらに、「二人がこの歌を共有していた」と考えることは、後にそれぞれの作品にその引用が登場することの意味を、より大きなものにしてくれるでしょう。

 賢治の「習作」には、「柘植さん」という名前が出てきますが、これは柘植六郎という盛岡高等農林学校の教授で、園芸などを担当していたということです(『新宮澤賢治語彙辞典』より)。この作品において賢治は、どこかの(スペイン風とも感じられる)気持ちのよいつめくさの草地を歩いているようですが、もう4年あまり前に卒業した盛岡高等農林学校のことを思い出して、書き込んでいるのです。

 さらに、嘉内の「勿忘草の歌」の方には、私はさらに深い意味を感じざるをえません。「わすれな草」の花言葉は、名前のとおり「私を忘れないで下さい」というものですが、嘉内がこの題名に込めた意味は、何なのでしょうか。彼は、いったい誰に向かって、「私を忘れないで」と言っているのでしょうか。

 この歌の一番の2行目、「仕合わせ尋ね行く道の遙けき眼路に涙する」は、まだ一般的な言葉なので解釈はいろいろありえますが、二番の2行目、「仕合わせ求め行く道にはぐれし友よ今何処(いずこ)」に至ってはどうでしょう。「はぐれし友」とは、誰のことなのでしょうか。
 文を素直に読めば、「嘉内はある友と一緒に仕合わせを求めて道を進んでいたが、その後その友と離れてしまった」ということになるでしょう。
 ここで思い起こされるのが、賢治と嘉内が1917年(大正6年)の7月14日から15日にかけて岩手山に登った際に、二人である誓いを立てたと推測されることです。賢治は後々も嘉内にあてて、「夏に岩手山に行く途中誓はれた心が今荒び給ふならば私は一人の友もなく自らと人とにかよわな戦を続けなければなりません」(書簡102a)と書いたり、「曾って盛岡で我々の誓った願 我等と衆生と無上道を成ぜん、これをどこ迄も進みませう」(書簡186)と書いたり、この「誓い」を宝のように大切にしていました。その誓いの内容は、上に「我等と衆生と無上道を成ぜん」との仏教的表現にあるように、「我ら二人、ともに全ての人々の幸せのために人生を尽くそう」というようなことだったのではないかと思われます。

 そうだとすれば、嘉内の「勿忘草の歌」の一番と二番に出てくる「仕合わせ尋ね行く道」「仕合わせ求め行く道」とは、賢治とのこの「誓い」を承けたものではなかったでしょうか。
 すなわち、嘉内が「勿忘草の歌」に歌った「友」とは賢治のことであり、これは遙かな友に「私を忘れないで」と願い、あるいは「自分も賢治を忘れない」という思いを込めて作った歌だったのではないかとも、感じられるのです。そう考えれば、この歌の中に、「捕(とら)よとすればその手から小鳥は空へ飛んで行く」という、自分が賢治と共有していた歌の一部を引用した嘉内の意図も、より明確に理解できると思われます。


 そこで次の課題は、この歌を二人のうちどちらが先に知って、どうやってもう一人に伝え共有したのか、ということです。これに関しては、また長くなりますので、稿を改めて考えてみたいと思います。

ワスレナグサ

藤井青年団々歌

 保阪嘉内が作詞・作曲した、「藤井青年団々歌」の演奏ファイル(MP3)を作ってみました。
 1919年(大正8年)9月1日付けの嘉内のノートに、「藤井青年團々歌」と題された歌詞が書きとめられており、歌はこの頃に作られたものと思われます。

「藤井青年團々歌」

 1918年(大正7年)3月に盛岡高等農林学校から除名処分を受けた嘉内は、いったんは札幌または駒場の農科大学を目ざして東京で受験勉強を開始しますが、さらに6月には、母の死という度重なる不幸に見舞われます。故郷に残された弟妹、家の田畑のことをことを思うと勉強にも身が入らず、結局受験はあきらめて、故郷に帰って農業に打ち込む決心を固めました。
 帰郷した嘉内は、村の青年団の活動にも熱心に取り組み、1919年(大正8年)夏、文部省所管の青年団中央部が行う「青年団指導者講習」の受講者として山梨県から一人だけ選ばれ、東京で講習を受けています(『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』より)。
 おそらくその受講を終えて帰郷してまもなく、嘉内は上のノートに「藤井青年團々歌」を書いたのでしょう。青年たちの前途へ向けた、希望と理想が謳われています。

 それでは、演奏をお聴き下さい。歌声は VOCALOID で、ソプラノが初音ミク、アルトが巡音ルカ、テナーとバスが Kaito という面々です。

♪ 藤井青年団々歌 (MP3: 2.03MB)

藤井青年團々歌

理想の光麗らかに
エデンの園の朝ぼらけ
輝き昇る天津陽に
牧の角笛なり渡る

若き心の感激に
溷濁の世の濤を伏せ
魍魎羅刹もひしがんと
つどひ立ちたり我健児

緋の鎧して益荒雄が
忠血義血流しけん
新府城趾の夏艸は
昔の夢にむせぶらん

紫薫る不盡の峯
赤き血潮は高鳴るを
蒼穹久遠の彼方まで
つどひ進みね我健児

【編曲ノート】

  • 歌詞一番の4行目に「牧の角笛なり渡る」とあることから、曲の前奏は、遠くのホルン三重奏で始めることとした。嘉内の故郷・駒井村は、日本・南アルプスの麓にあるが、彼がここに「角笛」を登場させたことの背景には、ヨーロッパ・アルプスの「アルペン・ホルン」への連想があったかもしれない。一番の歌詞は農村の朝を描いていることから、冒頭の響きも夜明けをイメージしている。
  • 歌詞の三番は歴史をはるかさかのぼり、戦国時代も終わり頃、旧駒井村の西に武田勝頼が築いた新府城と、ここを最後に滅亡した甲斐武田一族の悲劇を歌っている。「夏艸」や「夢」という語は、言うまでもなく松尾芭蕉の「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」を下敷きにしているが、この句が奥州平泉において詠まれたことにおいて、はからずも山梨と岩手の不思議なつながりが生まれている。
    今回の編曲においては、ここでは「戦」を象徴する軍楽ラッパを響かせた。
  • 韮崎市民合唱団による合唱はニ長調であったが、この歌が一種の「田園歌(Pastorale)」でもあるという趣旨を汲んで、今回はヘ長調にしてみた。ホルンの響きとこの調との相性にもよる。
  • (1)嘉内自身が記した上のノート、(2)「銀河の誓い in 韮崎・アザリアの友人たち」(2009.10.11)の記念誌「花園農村の理想を掲げて」のp.16に掲載されている歌詞、(3)その催しの際に「韮崎市民合唱団」が歌った歌詞、の三つの間には、若干の相違がある。なぜこのような異同が生まれたのかは不明だが、歌い継がれるうちに知らずと変化していったのかもしれない。
  • 今回の編曲では、(1)嘉内のノートに記された詞を用いた。
    なお、下記に三種のテキストの相違点を挙げておく。
 
嘉内ノート
記念誌
合唱団歌唱
1 輝き昇る天津陽に 輝きわたる天つ日に 同左
2 魍魎羅刹もひしがんと 蛟龍羅刹もひしがんと 同左
3 緋の鎧して益荒雄が 同左 緋の鎧してもののふが
4 赤き血潮は高鳴るを 若き血潮は高鳴るを 同左
4 蒼穹久遠の彼方まで 悠久久遠の彼方まで 同左
4 つどひ進みね我健児 つどひ進みぬ我健児 つどひ進まん我健児


  • 上記最後の「つどひ進みね」に関して言えば、この「ね」は、「希求・誂え」の意を表す終助詞と思われ、活用語の未然形を承けるものであるから、本来は「つどひ進まね」が文法的には正しいと思われる。
    一方、「記念誌」のように「つどひ進みぬ」では、「ぬ」は動作等の完了を表す助動詞であるから、「(すでに)進んだ」ということで、歌詞の意味としておかしくなる。
    合唱団が歌った「つどひ進まん」は、「つどひ進まね」とおおむね同じ意味になる。
  • 三種の歌詞のうち、私が個人的に好きなのは、オリジナルの「嘉内ノート」である。一番では、太陽が「輝き昇る」方が、動きがあってまさに「夜明け」を表しているし、他の版の歌詞で「輝きわたる」と「鳴りわたる」が連続して重複するよりも、好ましく感じられる。
    また四番では、「嘉内ノート」における「紫薫る」「赤き血潮」「蒼穹久遠」という、行頭の紫・赤・蒼という三色の対照が鮮やかである。

保阪嘉内の歌曲

  • 記事分類:

DVD「銀河の誓い in 韮崎・アザリアの友人たち」 このところ、10月に山梨県韮崎市で行われた「銀河の誓い in 韮崎・アザリアの友人たち」のDVDを、視聴させていただいていました。
 嘉内の生家に近い会場ホールには、「アザリア」の4人のご遺族の皆さんや、4人が出会った盛岡高等農林学校の後身である岩手大学の学長先生、そのほか多くの関係者や専門家が一堂に会し、素晴らしい盛り上がりを見せたイベントだったことが、ありありと感じられます。はたしてまた今後いつか、こんな企画が実現する機会があるでしょうか。
 私も、このような貴重な場に居合わせたかった・・・、と今さらながら悔やんでいます。

 さて、このDVDの中で私がとくに個人的に興味を惹かれたのは、韮崎市民合唱団が、保阪嘉内が作詞・作曲したものを含むいくつかの歌曲を披露してくれたところです。ステージでは、「アザリア」「帰去来」「勿忘草の歌」「藤井青年団団歌」という4曲が歌われましたが、保阪嘉内も賢治に負けず劣らず、仲間とともに唄う「歌」を愛し、それを自分で作ってしまうという才能に恵まれていたことがわかります。
 実はいま私は、この中の「藤井青年団団歌」に、自前で編曲し伴奏を付け、例によって VOCALOID に歌わせる作業をしています。先日の日曜日に新たな記事をアップできなかったのも、この作業に忙殺されていたためでした。一度はだいたい出来上がっていたのですが、迷ったあげく編曲をやり直したりしているので、思いのほか時間がかかってしまっています。

 この歌は、嘉内が1919年(大正8年)9月に作ったもののようですが、賢治が「精神歌」を作るよりも、そしておそらく「星めぐりの歌」を作るよりも、かなり早い時期なんですね。
 「藤井青年団団歌」は、嘉内が地元の青年団の士気を高め、絆を深めようと作った格調高い歌ですが、賢治が稗貫農学校に着任してまだ日も浅い頃に、「精神歌」を作ったことを連想させます。

 はたして賢治は、嘉内がこのような歌を作ったという話を、聞いたことがあったのでしょうか。私は今回、「藤井青年団団歌」に親しく接してみて、賢治が農学校で生徒を教えながらたくさんの歌を作っていった背景には、このような嘉内の活動の影響もあったのではないだろうか、と感じています。

「藤井青年団団歌」

青年賢治の目ざした仕事

 青年時代までの賢治が、自分の将来の職業や目標についてどのように考えていたのか、賢治自身が書いたものから抜粋してみます。

  • 1907年(明治40年)2月:10歳(花巻尋常高等小学校4年の綴り方)
    私はお父さんの後をついで、立ぱな質屋の商人になります。

 これはまだ「青年賢治」になる前の、番外篇的エピソードであるが、賢治が小学校で種々な影響を受けた八木英三担任が退職するにあたり、「立志」という題で児童に綴り方を書かせた際に、賢治が書いたという一文である。
 ここには、まだあどけない健気な「孝行息子」の姿がある。

  • 1917年(大正6年)1月16日:20歳(トシあて[書簡30])
    私もまあ、大低学校を出てからの仕事の見当もつきました――則ち木材の乾溜、製油、製薬の様な就れと云へば工業の様な仕事で充分自信もあり又趣味もあることですからこれから私の学校の如何に係らず決して心配させる様な事はありません。

 盛岡高等農林学校2年時に、日本女子大在学中の妹トシに書き送った内容。初めて賢治が自分の意思や知識にもとづき、将来の希望について述べた。ここでまず挙げられたのは、「化学工業」的な仕事である。

  • 1918年(大正7年)2月1日:21歳(政次郎あて[書簡43])
    就ては教授の御考にては小生同級の鶴見氏又は小生の中一人学校の研究生として残り費用は大体稗貫郡より得て本土性の調査を行ひ他によき就職口のあり次第之に廻すとの事に御座候(中略)
    扨て右は兼て父上の御勧め下され候如く研究科にも残り稗貫郡の仕事にても有之又研究中も大体月二十円位は得べく誠に好適なる様に御座候へども小生は之を望み兼ね申し候 研究科には残り候とも土性の調査のみにては将来実業に入る為には殆んど仕方なく農場、開墾ならば兎に角差当たり化学工業的方面に向ふには全く別方面の事に有之候

 高等農林学校卒業を目前に控えた時期の父あて書簡で、父は研究生として学校に残ることを勧めるのに対し、賢治は「化学工業的方面に向ふ」には土性調査は役に立たないことを理由に、研究生にはなりたくないと言っている。
 賢治はやはりこの時点でも、前年にトシに告げていた「化学工業的方面」を目ざしていたことがわかる。「土性調査などやっても役に立たない」と言っているが、実はこの経験が将来の「肥料設計」においては役立つことになるのが、人生の不思議である。

  • 1918年(大正7年)2月2日:21歳(政次郎あて[書簡44])
    先づは自ら勉励して法華経の心をも悟り奉り働きて自らの衣食をもつくのはしめ進みては人々にも教へ又給し若し財を得て支那印度にもこの経を広め奉るならぱ誠に誠に父上母上を初め天子様、皆々様の御恩をも報じ折角御迷惑をかけたる幾分の償をも致すことゝ存じ候
    依て先づ暫らく名をも知らぬ炭焼きか漁師の中に働きながら静かに勉強致したく若し願正しければ更に東京なり更に遠くなりへも勉強しに参り得、或は更に国土を明るき世界とし印度に御経を送り奉ることも出来得べくと存じ候

 前の書簡の翌日付のものであるが、ここでは「先づ暫らく名をも知らぬ炭焼きか漁師の中に働きながら静かに勉強致したく・・・」と、前日の「化学工業的方面」とは全く違ったことを述べている。
 いきなり「炭焼き」や「漁師」など肉体労働者になるとはあまりに極端な主張で、なかなか希望を受け容れてくれない父親への反発が感じられる。

  • 1918年(大正7年)6月20日:21歳(政次郎あて[書簡71])
    (研究生としての今後の予定を記した後)
    右の如くにては今年及来年四月迄は全く書籍二三冊も読み難く又自分の研究等は勿論出来ざる次第にて実は来年四月に至り候とも全く何の仕事に従事すべきや見当附かざる次第に御座候
    (続いて最近は実験でも失敗ばかりしていることを述べ)
     仍て本日先生にその事情を総て話し且つは失敗の詫をも致し候。特に早く林の中か海浜かにて静なる職業に従事しとし子の保養等も出来る様致し度き旨等も申し述べ候。且つ若し成る事ならば本年末迄に予定の仕事を総て終へて一月よりは諸方工場の見学等に歩き度き旨申し候。

 結局、賢治は父の意見に従い4月から研究生となったのだが、早くも6月には、研究生を辞めたいと教授と父親に願い出る。理由は、「忙しくて自分の勉強や研究ができない」「自分には実験や分析は向いていない」「続けていても将来の仕事の見当が附かない」等々。
 続いて述べるところの、「早く林の中か海浜かにて静なる職業に従事し」という部分は、「炭焼き」や「漁師」になると言った2月の書簡とつながっていると思われ、「一月よりは諸方工場の見学等に歩き」という部分は、「化学工業的方面」の仕事との関連と思われる。

  • 1918年(大正7年)6月22日:21歳(政次郎あて[書簡72])
    序を以て私の最希望致し候職業の初め方をも申し上げ候
    実は私の今迄勉強したる処にては最、地に関係ある則ち岩石、鉱物等を取扱ひたくは存じ候へども右の仕事はみな山師的なることのみ多く到底最初より之を職業とは致し兼ね候
    依て他に一定の職業有之候はば副業的に例へばセメントの原料を掘りて売るとか石灰岩や石材を売るとかその他に極めて小規模の工場にて出来る精錬の如き事も有之可成実験的に仕事を続け得べくと存じ候

    (続いて岩手県内で産出の見込みのある鉱物を列挙した後)
    依て最初は極めて小規模に炭焼の煙より薬品の分離等を致し旁ら香料の蒸留とか油類の抽出等をも行ふとすれば充分の事と存じ候
    就ては斯る林の仕事は材木より調材迄は若し可能ならば直接に経営せざる方最望ましき所に有之就ては只今単に炭を焼き居り候処にてその煙を用ふるを最得策と致し候
    (中略)
    若し林の仕事不可能なるときは花巻の近くにて単に諸製材所の鋸屑を買ひ集めて薬品を製する事も得べく候

 前の書簡で研究生を辞めたいと言って、父から「忍耐力がない」とたしなめられた賢治は、性に合わない実験も「忍びを習ふ道場」と思って続けるつもりだと書いた後、自分の将来の職業の希望について、より詳しく述べる。
 まず、ここで初めて「岩石、鉱物等を取扱」う、鉱業的方面の仕事が登場したことが注目される。以前の賢治は化学工業的方面を希望していたのであるから、この変化には、稗貫郡土性調査に従事してこの方面の知識を得たことの影響が大きいと思われ、それは少年時代に「石コ賢さん」と呼ばれた彼自身の嗜好にも合致するものであった。
 具体的に挙げられている内容のうち、「石灰岩や石材を売る」という事業が、この十数年後に東北砕石工場の技士兼セールスマンとして現実化したことは、興味深い。石灰肥料を売るだけでは採算が難しくなった東北砕石工場の新規事業として、建築用の人造石材製造を提案したのは賢治であり、そこにはこの頃の着想が生かされていると言える。ただし、その石材を売り込むために、重い見本を持って上京し病に倒れたのは、この上ない悲劇だったが。
 さらにこの書簡では、以前にやけくそ的に言い出した「炭焼きになる」という話が、「炭焼きの煙から薬品等を抽出する」という化学工業的な事業に結びつけられているのも面白い。

  • 1918年(大正7年)〔8月〕:21歳(保阪嘉内あて[書簡83a])
    私は長男で居ながら家を持って行くのが嫌で又その才能がないのです。それで今私は父に、どうかこれから私を家が雇って月給の十円も呉れる様な様式(形式ではない、本統に合名会社にでもして仕事をするつもりです ことに鉱業的なこと、又工業原料的なこと)にして呉れまいかと頼んでゐます。そして又この辺では沢山仕事はありますがみな大きな資本が要ります。とても私などが経営できる事はありません。とにかくこの様にして三十五迄も働けば私の父と私の母とが一生病気にかゝっても人に迷惑をかけないで済む様な状態に私の家がなります。それは私が稼いでそうなるのではなくて今私の家にある株券(少しの)や何かゞ生活費さへ償って行けばひとりでに三万円位にはなるでせう。(中略)
    今の夢想によればその三十五迄には少しづゝでも不断に勉強することになってゐます。その三十五から後は私はこの「宮沢賢治」といふ名をやめてしまってどこへ行っても何の符丁もとらない様に上手に勉強して歩きませう。それは丁度流れて、やまない私の心の様に。

 保阪嘉内にあてて、上の書簡で父親に述べたようなことを「合名会社」としてやりたいということを書き送る。後半は、35歳を過ぎたら家を出て自由に暮らしたいということであろうか。

  • 1918年(大正7年)〔12月初め〕:22歳(保阪嘉内あて[書簡93])
    私のうちでは今の商売を大正九年まで続けて居ればそれから後は学費もあまり要らないし学校を出たものはみな働くし先づ仮令父が今の様に病気でも何とか出来るのです 今私が私の望むように東京へでも小工場を持つといふことは家としては非常な損ですし又当分は不可能です
    又私一人、家にかゝはりない私、箇人としてはさっぱりそんなもうけることはしたくありませんししなくても畑の三段歩も耕してゐれば静に自分を完成して行くことが出来るのです。けれどもそれは私丈のことです。
    みんなの為を思ふならば先づ自分を完成しなければなりませんがその道/方法は自分の為でもほかのひとの為でもいゝ訳だらうと思ひました
    (中略)
    けれども若しできるならば早く人を相手にしないで自分が相手の仕事に入りたいと思つてゐます
    えらい人たちは烈しい人の心の中で恐れず怒らず自分の道を進んで行くやうですが私には当分そんなことは見込ありません やはり険しい世界へ入ればそれにばかり気をとられてしまひます それですから大正九年以後の私の仕事は今からお約束致しかねます 多分はまだ林のなかへは入り兼ね小さな工場を造つてその中で独りで、しんみりと稼ぎませう。

 これも保阪嘉内あて書簡であるが、「東京へでも小工場を」という希望が登場している。
 この書簡も前の書簡もそうであるが、この頃の賢治には、「世の中や人のために尽くす」という発想は見られず、「人を相手にしないで自分が相手の仕事」を目ざしている。

  • 1919年(大正8年)1月31日:22歳(政次郎あて[書簡135])
    然れどもいつまでこの儘にも参らざる訳故幸有之とし子の方も定まり候はゞ早速仕事に掛り度と存じ候。
    その方法は大体次の如くに致し候。
    先づ第一期に於ては
    (一)、飾石、宝石及印材ノ研磨。(仕上ノミ、)
         (小器具、宝石用小函、文鎮等ノ製造。)
    (二)、金属部ヲ買入レテネクタイピン、カフスボタン、指環等ノ製造。
    (三)、鍍金。
    (四)、(砂金ヲ地方ヨリ買入、債権ヲ市内ヨリ買入)
    丈を適宜取り合わせて始め、製品は小売店、(市内及地方。)の確実なる所へ売り度、尤も東京には指環宝石等の買入商は多く有之候。
    右仕事にて一定の収入を得る見込に至らば、人をも使ひ、実際に収入を得たる後には次第に第二期の仕事則ち以上の外に
    (五)、鉱物合成(宝石人造。)
    (六)、宝石飾石改造。
         (不良の宝石を良質に変ずる等。)
      及副業として
    (七)、絵具製造。
    を始め度と存じ候。

 前年末に東京で病に倒れたトシを看病するため上京中の手紙。トシの病状もほぼ落ち着き、この機会にかねての「東京へでも小工場を」という希望を実現すべく、父に積極的に働きかける。計画の内容は、「化学工業」の方向ではなく「岩石・鉱物」の関係である。
 賢治はこの直後にも、小工場の設備予算の見積もりなどを書き送って父の賛同を求めるが、現実家の父はこれを認めない。

  • 1919年(大正8年)2月5日:22歳(政次郎あて[書簡140])
    私の職業等は又後の問題に致しても宜しく候へどもそれ程までに稼ぐと云ふ事が心配なるものに御座候や。何卒私に落ちつきてまじめに働くべき仕事を御命令被成下度候。車の後押にても純粋の百姓にても何にても宜しく候。又は私に自由に働く事を御許し下され候や。宝石等を扱えばこそ都会に住む事も必要に御座候。どこにても宜しく候。

 トシの病状が回復して花巻に帰るべき時期が近づき、賢治にも焦りが見える。「車の後押にても純粋の百姓にても何にても宜しく候」と、またやけくそ的なことを言っている。「車の後押」については、『新校本全集』第十五巻の「校異篇」に、『明治世相百話』からの次の引用がある。「山ノ手方面には急勾配の坂が多く、九段をはじめ湯島の切通し、神田の明神坂、小石川の富坂などみな急坂で道幅も今の半分以下、坂下にはルンペンの立ちん坊がゐて、一銭づつで荷車や人力の後押し、見るも気の毒なほどに骨が折れた。」
 このような「車の後押」と、「純粋の百姓」とが並列されているところに、当時の賢治の「百姓」に対する意識が現れているのではなかろうか。

  • 1919年(大正8年)〔7月〕:22歳(保阪嘉内あて[書簡152a])
    私ならば労働は少くとも普通の農業労働は私には耐え難いやうです。これはちいさいときからのからだの訓練が足りない為ですからもし本当に稼ぎたいと思ふならばこれからでも遅くはない。稼ぐのを練れるには遅くはない。けれどもその間は私の家は収入を得ない。少くとも収入は遥に減ずる。
     あゝ私のからだに最適なる労働を与へよ。この労働を求めて私は満二ヶ年aからb、bからc、つかれはててやっぱりもとのまゝです。もう求めません。商人は生存の資格がないと云ふものも出て来い。きさまは農業の学校を出て金を貸し、古着をうるのかと云ふ人もあるでせう。これより仕方ない。仕方ないのですから仕方がないのです。

 労働に対する悲観とあきらめにも似た気持ちを述べる。「きさまは農業の学校を出て金を貸し、古着をうるのかと云ふ人もあるでせう。これより仕方ない。仕方ないのですから仕方がないのです」という言葉から考えると、この時点では(渋々ではあるが)家業を継ぐ気持ちになっていたのであろうか。

  • 1920年(大正9年)〔2月頃〕:23歳(保阪嘉内あて[書簡159])
    これからさきのことは予定はしてありますがどう変るやら。とにかく私にはとても私の家を支えて行く力がありませんので多分これは許して貰へるでせう。三十余年を私のために柄にもない商売の塵のなかに閉ぢこもりなほ私を開放しやうとする私の父に感謝いたします。

 「私にはとても私の家を支えて行く力がありませんので多分これは許して貰へるでせう」「私を開放しやうとする私の父に感謝」という言葉からは、家業を継がなくてよいと父からも認めてもらえる(したがって自分は継がない)という見通しが持てたことが、推測される。家業は弟の清六が継ぐという雰囲気が、家庭内で徐々に固まってきたのだろうか。
 では自分は何をするのかとなると、「予定はしてありますがどう変るやら」とだけ言う。

  • 1920年(大正9年)8月14日:23歳(保阪嘉内あて[書簡168])
    来春は間違なくそちらへ出ます 事業だの、そんなことは私にはだめだ 宿直室でもさがしませう。まづい暮し様をするかもしれませんが前の通りつき合ってください。今度は東京ではあなたの外に往来はしたくないと思ひます。真剣に勉強に出るのだから。

 前の書簡で「予定はしてあります」と言っていたのは、「東京に出て勉強する」ということだったようである。
 「宿直室でもさがしませう」との言葉は、実際に翌年に家出上京して国柱会館に飛びこみ、「下足番でもビラ張りでも何でも致しますからこちらでお使ひ下さひますまいか」と言ったことの前触れのようでもあるし、また後年の「〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕」において、「そしてまもなくこの学校がたち/わたくしはそのがらんとした巨きな寄宿舎の/舎監に任命されました」という箇所も連想させる。

  • 1921年(大正10年)〔1月中旬〕:24歳(保阪嘉内あて[書簡180])
    お便り拝見いたしました
    あなたは春から東京へ出られますか
    お仕事はきまってゐますか
    私の出来る様な仕事で何かお心当りがありませんか
    学術的な出版物の校正とか云ふ様な事なら大変希望します
    今や私は身体一つですから決して冗談ではありません
    けれどもあなたにひどく心配して戴く事は願ひません 学校へは頼みたくないのです
    勉強したいのです 偉くなる為ではありません この外に私は役に立てないからです

 1月23日の家出上京の直前の書簡である。「学術的な出版物の校正」という目算は、「宿直室」という案よりも実際に家出中に「文信社」で行った仕事に近づいている。
 それにしても、「勉強したいのです」「この外に私は役に立てないからです」との言葉が悲痛である。現実の賢治は後年になると、教師として、農業指導者として、たぐいまれなほど「人のために尽くした」生涯を送ったと見なされるようになるのだが。

  • 1921年(大正10年)〔12月〕:25歳(保阪嘉内あて[書簡199])
     暫らく御無沙汰いたしました。お赦し下さい。度々のお便りありがたう存じます。私から便りを上げなかったことみな無精からです。済みません。毎日学校へ出て居ります。何からかにからすっかり下等になりました。それは毎日の NaCl の摂取量でもわかります。近ごろしきりに活動写真などを見たくなったのでもわかります。又頭の中の景色を見てもわかります。それがけれども人間なのなら私はその下等な人間になりまする。しきりに書いて居ります。書いて居りまする。お目にかけたくも思ひます。愛国婦人といふ雑誌にやっと童話が一二篇出ました。一向いけません。学校で文芸を主張して居りまする。芝居やをどりを主張して居りまする。けむたがられて居りまする。笑はれて居りまする。授業がまづいので生徒にいやがられて居りまする。
    春になったらいらっしゃいませんか。関さんも来ますから。さよなら。

 7月の東京における保阪嘉内との重大な会見を経た後、農学校に就職したことを報じた書簡である。この間いろいろあったが、賢治はやっと「仕事」に就くことができた。
 やや自らを茶化すような筆致ながら、「学校で文芸を主張して居りまする。芝居やをどりを主張して居りまする。」というところは、嘉内とともに『アザリア』で青春をかけた「文芸」を、さらに賢治が嘉内から多くを教えられた「芝居」を、今も自分がやろうとしていることについて、ぜひ親友に伝えたい気持ちが行間からにじみ出ているようである。

  • 1925年(大正14年)6月25日:28歳(保阪嘉内あて[書簡207])
    お手紙ありがたうございました。
    来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます いろいろな辛酸の中から青い蔬菜の毬やドロの木の閃きや何かを予期します わたくしも盛岡の頃とはずゐぶん変ってゐます あのころはすきとほる冷たい水精のやうな水の流ればかり考へてゐましたのにいまは苗代や草の生えた堰のうすら濁ったあたたかなたくさんの微生物のたのしく流れるそんな水に足をひたしたり腕をひたして水口を繕ったりすることをねがひます
    お目にもかゝりたいのですがお互ひもう容易のことでなくなりました 童話の本さしあげましたでせうか

 現在わかっているかぎりでは、賢治が保阪嘉内にあてた最後の書簡である。
 この書簡に関しては、大明敦氏が述べられたように、また最近「りんご通信」において signaless さんが書いておられるように、「来春は私教師をやめて本統の百姓になって働きます」の、「も」という一文字に、賢治がこめた万感の思いを想像せざるをえない。
 ここに至って、かつて嘉内が語っていた理想と、賢治自身の生き方が、やっと重なり合ったのである。

◇          ◇

 もちろん、賢治の仕事はまだここで終わっているわけではありませんが、とりあえず20代までを通覧すると、賢治の目ざした「仕事」は、次のように推移していきました。

  1. 家業を継ぐ(小学生~)
           ↓
  2. 化学工業的事業(盛岡高等農林学校2年~)
    木材の乾溜、製油、製薬等。「炭焼きの煙」利用の話も。
           ↓
  3. 鉱物・岩石関係の事業(盛岡高等農林学校研究生~)
    岩手県内の鉱物の採取販売案から、東京における小工場案へ。
           ↓
  4. 家業を継ぐ(1919年頃)
    父とのさまざまな議論の後、あきらめにも似た心境で。
           ↓
  5. 家業を継がず、東京で(保阪嘉内とともに)「勉強」(1920年~)
    賢治としては、日蓮主義の「勉強」のつもりであったろう。
           ↓
  6. 保阪嘉内は上記の方針に同意せず、失意の帰郷(1921年夏)
    結局、この年の12月から農学校教師となる。
           ↓
  7. 農学校を辞職して、羅須地人協会を始める(1926年春~)

◇          ◇

 長々と書簡などを引用してしまいましたが、今回の記事で私が言いたかったのは、簡単に次のことです。
 賢治は、高等農林学校の農学科まで卒業しましたが、自らが農業と関わろうと考えた様子は、上のように少なくとも農学校に就職するまでは、全く見られなかったという事実です。
 高等農林在学中はもちろん、1918年に卒業してから1921年の終わりに農学校教師となるまで3年以上、おもに化学工業または鉱業に関連した事業を模索してはみましたが、その企画は父親から見ると机上の空論にすぎず、賢治もそれを具体化させることはできませんでした。この間、賢治が農業に対して関心を払っていた形跡はありません。
 もちろんその後の賢治は、教師として科学的な農業の普及に努め、さらには自ら「本統の百姓」になって、羅須地人協会の活動や肥料相談などを通じて、農民の生活の改善に身を捧げました。これはまぎれもない事実ですし、その尊い志をもって「農聖」と讃える人もあります。
 しかし、ある時期までの賢治は、そのような生き方をしようとは、考えてもいなかった青年だったのです。

 それでは、賢治はどのような経緯で、「農民のために生きよう」と考えるようになったのでしょうか。
 その一つの要因は、農学校教師として生徒たちとじかに接することにより、農家の生活の実態に触れ、何とかしてその改善のために力を尽くしたいと思うようになったことでしょう。

 そしてもう一つの要因として私がどうしても強く意識するのは、保阪嘉内の存在です。嘉内は、甲府中学在学中から弁論部で「美的百姓」「花園農村の趣味及び目的」などの演説を行い、後者の結びでは「諸君百姓たれ」と述べています。また彼は、盛岡高等農林学校に入学した年に自ら脚本を書いて寮の懇親会で上演した「人間のもだえ」という劇においても、最後に「人間はみんな百姓だ。百姓は人間だ。百姓しろ。百姓しろ。百姓は自然だ。」と、神に言わせています。
 ただ、嘉内はこのような農業観を盛岡高等農林学校在学中にも折に触れ周囲に語っていたはずですが、親友であった賢治の方は、自らの生き方に関しては、この嘉内の考えから影響を受けていた様子はありません。それは上に見たとおりで、1921年の家出上京中にも、特に農業への関心は示していません。

 そのような賢治の考えが、どこから変化したのか?
 私はそれは、1921年7月の、嘉内との深刻な「会見」が契機となったのだろうと思います。この時、二人の間でどのような議論が行われたのかはわかりませんが、おそらく嘉内は、自ら百姓となって農村に尽くす昔からの決意を語ったのではないかと、私は思います。賢治は、あらためて国柱会への入会を嘉内に迫ったかもしれませんが、そうだとすれば、賢治の観念的なレベルの話と、嘉内の具体的・現実的な話は、なかなかかみ合わなかったでしょう。
 話し合いは物別れに終わったのだろうと思いますが、賢治の心の中には、無念さや悲しみとともに、嘉内が農業にかける熱い思いが、あらためて強く刻まれたのではないかと、私は思うのです。
 上のように賢治の考えを時系列でたどってみても、家出上京してから花巻に帰郷するまでの間の時期というのが、転回点としてどうしても重要に感じられるのです。

 これが、1921年の嘉内との「会見」が、賢治の考え方の転機になったのではないかと思う理由です。長々と書いた割に、結論は平凡でした。

保阪嘉内 宮沢賢治 花園農村の碑
「保阪嘉内 宮沢賢治 花園農村の碑」(山梨県韮崎市)

東京デオ目ニカゝッタコロ

 賢治の保阪嘉内あて書簡を読んでいて、ちょっとわからなかったところがありました。
 『新校本全集』では「書簡166」とされている、1920年(大正9年)7月22日付けの嘉内あての封書に、次のような箇所があります。

コチラノコトモ書カナイト変デスカラ書キマセウ。私ハ曾ッテ盛岡ノ終リノ一年半アナタト一諸ニイロイロノ事ヲシタコロカラモハヤ惑ヒマセンデシタ。(タシカニワレワレハ口デコソ云ハネ同ジ願ヲタテタ筈デス。) ケレドモ今日ニナッテ実際ニ私ノ進ムベキ道ニ最早全ク惑ヒマセン。東京デオ目ニカゝッタコロハコノ実際ノ行路ニハ甚シク迷ッテヰタノデス。

 この賢治の文に出てくる、「東京デオ目ニカゝッタ」というのは、賢治と嘉内が東京で会った、ということ以外に解釈しにくいと思いますが、具体的にはいったいいつのことを指しているのだろうかというのが、私の疑問です。

 賢治と嘉内が東京で会ったというと、賢治が家出中の1921年(大正10年)7月(18日?)の、あの重大な会見(最近はその時の出来事を「訣別」と呼ぶべきか否かが話題になっています)が、まず何よりも思い浮かびます。これまで私は、二人が「東京で」会ったのはその一回だけかと思っていたのですが、上の賢治書簡を素直に受けとれば、その前年の7月以前にも、東京で会っていたことになります。

 ただ、現在わかっているかぎりでは、1921年以前に賢治が東京に行ったのは、下記の5回だけのはずです。

  1. 1916年(大正5年)3月20日~22日
    盛岡高等農林学校修学旅行で、西ヶ原農事試験場、駒場農科大学等を見学。この後、関西方面へ。
  2. 1916年(大正5年)7月31日~9月2日
    「独逸語夏季講習会」を受講。途中から高橋秀松も同宿。この後、秩父地方地質調査見学に合流。
  3. 1917年(大正6年)1月4日~5日
    叔父宮澤恒治とともに家業の用事。6日に横浜に寄って帰宅。
  4. 1918年(大正7年)12月26日~1919(大正8年)年3月3日?
    母イチとともに妹トシの看病。後半の時期には、図書館に行ったり国柱会の田中智学の講演を聴いたりする。
  5. 1921年1月24日~8月?
    突然の家出上京。7月に保阪嘉内と会見。

 上記のうちで、1. はまだ保阪嘉内と出会う前、5. は冒頭の「書簡166」より後ですから、当然該当しません。また、2. と 3. の上京中には、それぞれ郷里の駒井村に帰省している嘉内に対して東京の様子を知らせる書簡を送っていて(それぞれ「書簡19」と「書簡28」)、日程からはこの間にも東京で嘉内に会ったとは、考えにくいところです。それに、この頃の賢治はまだ学生で、卒業後の「実際ノ行路ニハ甚シク迷ッテヰタ」様子は、当時の書簡等からは見受けられません。

 残るは、4. のトシの看病の折です。
 嘉内の方のこの頃の動きを見ておくと、すでに1918年(大正7年)3月に盛岡高等農林学校から除名処分を受け、4月から上京して明治大学に籍を置き再度の受験勉強をしていましたが、母の死などもあって故郷で農業に従事する意思を固め、11月には帰郷します。
 この年の大晦日に、賢治は駒井村の嘉内あてに、妹の看病のため上京していることを知らせていますが(「書簡102」)、その中で「あなたと御目にかゝる機会を得ませうかどうですか。若し御序でもあれば日時と時間を御示し下さい。」と、面会を望む気持ちを伝えているところは、注目されます。
 1919年の嘉内は、『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』によると3月4日から12日まで、元同級生の河本義行らの卒業を祝うために、山梨から盛岡に行きます。この際に東京も通過したはずですが、上の賢治のスケジュールを見ていただいたらわかるとおり、二人はギリギリですれ違ってしまうかどうかという日程です。

 というのが、4. の前後の嘉内の動静で、この間にも二人が会ったという証拠は、何もありません。しかし賢治が「東京デオ目ニカゝッタコロハコノ実際ノ行路ニハ甚シク迷ッテヰタノデス」と書いていることとの関係では、確かにトシ看病上京中の賢治は、将来の職業について父親と意見が合わず苦しんでいたのです。「東京で、宝石を研磨したり飾り物を作ったり人造宝石を造る工房をやりたい」と父に頼み込むのですが、そんな見通しの甘い計画を、現実家の父は許しませんでした。
 つまり、この頃の賢治が「実際ノ行路」で迷っていたという記述内容には、合致するのです。

 結局、もし賢治と嘉内が東京で会ったとすれば、4. の期間だった可能性が最も高いと私は思うのですが、やはりはっきりしたことはわかりません。