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幻の賢治の白バラ

グルス・アン・テプリッツ(花巻温泉バラ園) 2000年代に、日本のバラ愛好家の間では、「グルス・アン・テプリッツ」という真紅の美しいバラが、「賢治の愛したバラ」として非常に有名になり人気を博す一方、賢治研究者の間でこのバラが話題になることは全くないという、扱われ方の極端な不均衡が見られることが、私にはとても不思議でした。様々な賢治研究書にも、バラに関する記述はほぼ皆無で、いったい何を根拠にグルス・アン・テプリッツが賢治のバラと言われているのかも、私にはわかりませんでした。
 そこで、この「グルス・アン・テプリッツ」がいかにして「賢治が愛したバラ」と呼ばれるようになっていったのかという経緯を、私なりに調べ、またいろいろな方からご教示をいただいて、2006年から以下の一連の記事を書きました。

 このたび、「花巻ばら会」のSさんが、「公益財団法人 日本ばら会」の会報誌に、「「宮沢賢治のバラ」を守った花巻ばら会」という文章を発表され、そのコピーを私のもとに送って下さいました。そこには、「賢治のバラ」がたどった数奇な運命が写真とともに簡潔にまとめられ、そのタイトルのとおり、「花巻ばら会」の皆さんが、これまでいかに真摯にこの「賢治のバラ」を守り育てられたかということが、克明に記録されています。

 この「賢治のバラ」の詳しい経緯については、上のブログ記事を順に全て読んでもらえればおわかりいただけるはずなのですが、しかしそれではあまりに理不尽なご苦労をおかけしますので、ここにあらためて大まかにその内容を整理してみると、事の次第は次のようなものでした。

  1. 1928-1929年頃、賢治は花巻共立病院院長・佐藤隆房氏の邸宅の新築祝いに訪問し、後にバラの苗20種を寄贈した。
    これについて、佐藤隆房著『宮沢賢治―素顔の我が友―』には、「秋になり賢治さんは私に立派な薔薇の苗二十種を届けてくれました。その薔薇は今も大切に培養されていて、年ごとに美しい色を咲かせます。(一九二九年)」との記載がある。
    ただし、賢治によるこのバラの苗の寄贈は、彼が1929年にはずっと病床にある重篤な状態だったことを考えると、前年の1928年だった可能性もある。

  2. 時代は降って1964年、「花巻ばら会」が発足した際に、顧問を佐藤隆房氏に依頼したところ快諾され、さらに佐藤隆房氏は花巻ばら会副会長の佐藤昭三氏に、「今、家の庭にも賢治さんがくれたばらが咲いているよ」と言われ、「一度見に来るように」と勧められたので、昭三氏は隆房氏宅を訪問してそのバラを見せてもらった。
    花巻ばら会としては、まもなく開催される創立記念展示会に、ぜひこの賢治ゆかりのバラを展示したいと考え、佐藤隆房氏に依頼して庭に咲いているバラの20輪ほどを切り花としてもらい受け、当日はフラスコに活けて、「賢治ゆかりのバラ」として展示した。
    これが、「賢治のバラ」の最初の公開展示である。しかし当時は、まだこれらのバラの品種名はわからなかった。

  3. さらに時代が降って、1989年に花巻ばら会は創立25周年を迎え、1990年の日本ばら会第10回全国大会開催を花巻で引き受けることになり、全国から集まるバラ愛好家に、ぜひ賢治ゆかりのバラを見てもらおうということになった。そこで会員数人で佐藤隆房氏宅を訪れ、賢治から贈られたというバラの一つが当時市販されていない品種であることを確認し、これを増殖することにして高橋健三会員が接ぎ木を行い、大会期間中にはその二株を「賢治のバラ」として展示した。

  4. その後、花巻ばら会会員の吉池貞蔵氏が、このバラの品種名を何とかして突き止めようと、当時「日本バラの父」と言われた第一人者の鈴木省三氏にその苗を送り、鑑定を依頼した。

  5. 鈴木氏は自宅でその苗を育て、3年後にバラは開花した。するとその花は、奇しくも鈴木氏が子供の頃に父親が最も大切に育てていて、鈴木氏とバラの出会いを作ったとも言える品種「日光」(グルス・アン・テプリッツ)であることが判明した。
    これについて鈴木省三氏は、「京成バラ会」会報『バラの海 第36号』(1995)に、下のような文章を書いている。

「賢治の薔薇が咲いた」(鈴木省三)
(これがおそらく、グルス・アン・テプリッツが「賢治のバラ」として紹介された文献の初出と思われる。)

  1. この「グルス・アン・テプリッツ」は、日本では一時ほとんど栽培されなくなり市販もされていなかったが、鈴木省三氏によるこの紹介を契機に再び人気を集めるようになり、各種のバラ関係の書籍や図鑑等でも、「賢治が愛したバラ」として必ず紹介されるようになり、現在に至っている。

 賢治が佐藤隆房氏に贈ったバラの品種が同定され、それを契機にまた日本各地でたくさん栽培されるようになったのも、佐藤隆房氏が自宅の庭で何十年も大切にそのバラを守り、花巻ばら会の方々がその貴重な株を接木によって殖やし、さらに東京の鈴木省三氏にその苗を送って、鈴木氏が3年がかりで苗を育ててくれたという、このバラに関わった多くの方々の努力の結晶だったわけです。
 当時の賢治が「グルス・アン・テプリッツ」の苗を入手したのは、横浜の輸入商「横浜植木」への注文取り寄せによってだったということもわかっていますが、これを「賢治が愛したバラ」とまで呼ぶのは、やや勇み足の感があります。賢治自身は、あくまでこのバラの苗をただカタログから取り寄せて、世話になっている知人に贈っただけであり、それを自ら育てていた可能性は非常に低いと思いますし、その花を実際に見たかどうかも不明です。あくまで「賢治ゆかりのバラ」という表現に留めておくのがよいでしょう。

 ところで、本日こうやって一つの記事を書いた理由は、以上の話に続くちょっとした後日談を、Sさんが教えて下さったのです。
 上にも引用したように、賢治が佐藤隆房氏に贈ったバラは、元は「20種」もあったはずです。では、グルス・アン・テプリッツ以外の19種?のバラは、その後いったいどうなったのでしょうか。
 賢治の寄贈から何十年の月日が経つうちに、佐藤氏宅の庭には新たなバラも植えられて新旧交代していき、賢治が贈ったバラは次第に姿を消していったというのは、やむをえない時の流れと言えますが、実は最近まで、グルス・アン・テプリッツとは別の賢治ゆかりと思しきバラが、佐藤邸の庭にはまだ2種ほど残っていたというのです。

 そして、花巻ばら会所属のSさんともう一人の方が、そのうちの白バラを譲り受けて、ひそかに「賢治の白バラ」と呼んで大切に育て、ついに開花に成功させたそうなのです。晴れて同定されたその品種は、どちらも「アイスバーグ」というものだったのですが、ところがこれは、賢治の死後20年ほどたってから作出された品種であり、賢治が佐藤隆房氏に贈ったバラではありえないということがわかりました。

 ということで、赤いグルス・アン・テプリッツに続く「賢治の白バラ」は、残念ながら幻に終わってしまったというお話でした。

父子関西旅行の史料

 東京の「宮沢賢治研究会」が、来週10月11日(土)~12日(日)にかけて、「比叡山ツアー」を開催されます。1921(大正10年)年の短歌「比叡」12首の跡をたどり、有志は賢治父子の比叡山越えのルートも踏破してみようという、意欲的な企画です。
 私は、その11日の夜に、宿舎の延暦寺会館で、賢治の関西旅行について話をせよと言われたので、花巻から帰ってから2週間は、その準備に追われていました。

 賢治が関西地方にやって来たのは、1921年(大正10年)の父子旅行と、その5年前の1916年(大正5年)に、盛岡高等農林学校の修学旅行として京都・大阪・奈良・大津をめぐった時の、2回ありました。11日には、両方の旅行について話をさせていただくつもりで、例によってパワーポイントの資料作成をしています。

 ところで、1916年の盛岡高等農林学校の修学旅行に関しては、『【新】校本全集』第十四巻にも掲載されている、「農学科第二学年修学旅行記」(校友会報)という記録があって、参加した学生が分担して旅行の行程や訪問地の詳細を書いてくれています。これは、当事者自身による同時代的記録であり、歴史学における史料批判で言うところの「一次史料」にあたります。一般的には、信頼性が高いと期待できるものです。
 これに、賢治が修学旅行中に詠んだと推定される短歌「大正五年三月より」 256-260 を合わせれば、旅行中の賢治の感慨も、それなりに推し量ることができるでしょう。

 一方、1921年の父子旅行に関しては、賢治の短歌は「歌稿〔B〕大正十年四月」 775-800 が残されていますが、賢治あるいは政次郎氏が直に書き残した「一次史料」というべきものは、存在しません。
 そこで私たちとしては、その欠落を埋めるために、後年に研究者が政次郎氏から聞き書きをした「二次史料」によって、旅行の詳細を推測するという方法を取らざるをえません。
 そのような「二次史料」としては、私の知る限りでは、次の三氏によるものがあります。

    1. 佐藤隆房: 宮沢賢治. 冨山房. 東京, 1942
    2. 小倉豊文: 旅に於ける賢治. 四次元 第三巻第二号, 1951
    3. 小倉豊文: 傳教大師 比叡山 宮澤賢治. 比叡山 復刊第三十一號(通刊256號), 天台宗務庁, 1957
    4. 小倉豊文: 宮沢賢治『雨ニモマケズ手帳』研究. 筑摩書房, 東京, 1996
    5. 堀尾青史: 年譜 宮澤賢治伝. 中央公論社, 東京, 1991

 佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史の三氏のいずれも、政次郎氏と直接に話をする機会が何度もあった人ですし、その記述内容を見ると、それぞれオリジナルなものです。堀尾青史氏の『年譜 宮澤賢治伝』の記述は簡潔で、オリジナルな部分は少ないように見えますが、例えば父子の東京での別れに関して、「午前に東京駅に着いて、午後に父を上野駅に見送った」ということが書かれているのは、この資料だけです。
 上記以外では、例えば関登久也著『宮沢賢治物語』(岩手日報社, 1957)も、父子関西旅行の経過について記していますが、その内容は、佐藤隆房『宮沢賢治』の記述内容を要約したものであり、政次郎氏からのオリジナルな聞き書きではないようなので、ここには含めていません。

 ということで、今度の話の準備として、上記三氏による「父子関西旅行」に関する記述を比較対照する表を作ってみました(下記PDF文書)。

父子関西旅行に関する三氏の記述

 三氏の間でも記述内容にいろいろ食い違いがありますし、それから小倉豊文氏の記載は最も詳しいのですが、政次郎氏から直に聞いた事と、小倉氏が推定した事が、渾然一体となっている部分もあって、慎重な検討を要するでしょう。
 しかしとりあえず11日には、これをもとに父子の比叡山登山・下山ルートや、叡福寺参拝を中止した経緯などについて、また旅行そのものの意味について、考えてみたいと思っています。

父子関西旅行行程

横浜開港資料館

 賢治が、「横浜植木株式会社」の注文販売を利用していたという話は、「賢治の愛したバラ(4)」に引用させていただいた佐藤昭三氏(花巻ばら会名誉会長)の文章「◇宮沢賢治とばら◇」によって、私は知りました。それによると、

花巻病院の院長の佐藤隆房先生が昭和4年頃、花巻の桜町に新居を移したときに、そのお祝にと横浜の輸入商「植木」から取り寄せて賢治自らの手で庭に植えたという由緒あるばらがあります。

 ということです。
 そして、この時に賢治が取り寄せたバラの中に、後に「賢治のバラ」として有名になる「グルス・アン・テプリッツ(和名「日光」)」が含まれていたというところまでは、いろいろな方にご教示いただいて、私にもわかってきました(「賢治が愛したバラ(5)」「賢治が愛したバラ(6)」参照)。

 ところで生前の賢治は、全国のいろいろな会社に注文して、花や野菜の種子、球根、苗などを購入していたようですが、「横浜植木」の名前は、これまで私自身あまり目にしていなかったので、ちょっと全集をひもといて調べてみました。すると、『【新】校本全集』の第十三巻(下)の「本文篇」17ページ、「「MEMO FLORA」ノート」のA17頁にある、「横浜ガーデン」および「横ガーデン」という賢治自身による書きつけが、目に止まりました。
 このページは、他にも花の購入先と思われる会社名が並んでおり、注文数や価格と思われる数字も書き込まれているところから、「横浜ガーデン」というのも、花の購入先なのではないかと推測されます。そして、前述の「横浜植木株式会社」の英名は、「ヨコハマ・ガーデニング・アソシエーション」であったことから、賢治は「横浜植木」のことを「横浜ガーデン」と略記したのではないか、とも思われました。

 まあそれはさておき、「横浜植木」という会社は、賢治の時代からずっと現在も営業しつづけておられるので、賢治がバラを注文したかもしれないのなら、ひょっとしてその当時の記録などが残っていないとも言えません。そこで先日私は、「横浜植木」の「花卉貿易部」というところに、ぶしつけながらメールをお送りして、「もしかして、宮沢賢治の注文書など残っていませんか?」とお訊きしてみたのです。
 すぐさま、ご親切に返信されてきたメールは、以下のとおりでした。

お尋ねの件、当社から野菜の種子をお買い求めになった納品書は残っているようですがバラについては調べて見ませんと解りかねます。
古いカタログ、資料等全て横浜開港資料館に寄贈しまして当社では管理をしておりませんが一度関係者に聞いて再度ご返事をさせて頂きます。
上、取り急ぎご返事迄。

 「えっ! 野菜の種子の(賢治への)納品書は残っているの?!」と一瞬驚きましたが、現在は資料は会社にはなく、「横浜開港資料館」という所に寄贈したということでしたので、実は私は本日、横浜港の桟橋にもほど近いその「横浜開港資料館」に行ってみたのです。

横浜開港資料館

 「横浜開港資料館」は、1931年(昭和6年)に建てられた、もと英国総領事館の建物を使用しており、とてもお洒落で落ち着いた雰囲気です(上写真)。この建物の裏にある「新館」の地下に、資料室や閲覧室があって、そこで私はスタッフの方々にたいへん便宜をはかっていただいて、「横浜植木株式会社」から寄贈された資料を見せていただくことができました。(本当にお世話になり、ありがとうございました。)

 で、結論から言うと、ここには宮沢賢治のものも含め、「注文書」や「納品書」といった類のものは所蔵されておらず、主な資料は、横浜植木株式会社の決算書とか重役会議議事録とか社内報とかいったものでした。まあ、100年以上の歴史がある会社で、すべての顧客の一々の注文書類など保存していたらきりがないでしょうから、これは当然かもしれません。
 ただ、当時の「注文用カタログ」はちゃんと残されていて、これに関しては、わざわざ行ってみた甲斐があったというものでした。

 「横浜植木」では、国内用と海外用に「園藝要覧(GARDEN GUIDE)」というカタログを毎年発行していて、お客はこれをもとに注文するようになっていました。賢治が「(ばらを十五本植えた/そのばらが芽を出さない)」(「〔こんやは暖かなので〕」 )、あるいは「ばらの苗が来て居ります。」(書簡[227])と1927年3月に書いた前年、すなわち1926年のカタログの表紙およびその中で「薔薇」を載せたページは、以下のようなものでした。

『園藝要覧1926』表紙

『園藝要覧1926』バラ1

『園藝要覧1926』バラ2

 ちょっと見にくいですが、上のページに赤線を引いたところに、「グラス、アン、テリツツ」(Gruss an Teplitz)が載っていて、説明には「鮮紅大輪」とあります。値段は、どのバラも、「一本四十銭、十本三円五十銭」ということです。

 というわけで、何も断定することはできないのですが、賢治が「横浜植木株式会社」に「グルス・アン・テプリッツ」の苗を注文して、佐藤隆房氏に贈呈した可能性がありうるということは、言えるわけです。

賢治が愛したバラ(6)

 「花巻ばら会」のSさんという方からメールをいただきました。
 Sさんはこの1月24日に、現在は花巻ばら会の長老でいらっしゃる伊藤弥典さんから、お話をお聴きする機会があったということで、例の「賢治のバラ」に関わる事柄で伊藤弥典さんがお話し下さったことについて、知らせて下さいました。
 前々回の「賢治が愛したバラ(4)」で私の質問にお答えいただいた、岩手バラ会会長の吉池貞蔵さんが、Sさんに「グルス・アン・テプリッツのことなら伊藤弥典さんが詳しい」とおっしゃったので、伊藤さんに連絡をとったのだそうです。

 伊藤弥典さんのお話によれば、やはり昭和3~4年頃、共立病院の佐藤隆房院長の自宅の新築祝いに、賢治は数本のバラを横浜の植木会社から取り寄せたのだそうです。そして賢治はそのバラを、佐藤氏宅の2階の窓から見えやすいようにと、窓辺の下に自ら植えたのだそうです。(ここで「昭和3~4年」とあるのは、実際には昭和3年のことだったろうということについては、「賢治が愛したバラ(5)」で述べました。)

 時は移って戦後、いったんは佐藤院長宅で瀕死状態になっていたそのバラを接ぎ木して復活させたのが、花巻ばら会会員の高橋健三さんと伊藤弥典さんでした。伊藤弥典さんは、当時すでに「リンゴの接ぎ木の第一人者」と言われていたそうで、その「ワザ」によって、瀕死の「賢治のバラ」を蘇らせてくれたのだということです。そういえば私も、先日「花巻温泉バラ園」に行った時に、園長の高橋宏さんから、「接ぎ木の名手」として伊藤弥典さんのお名前を耳にしていました。

 あと、じつはこのお話にはもう少しだけ「つづき」があって、それはとてもワクワクするようなことなのですが、ちょっとした事情があり、今回は残念ながら割愛させていただきます。
 しかし、今年の夏くらいには、ご紹介できるかも?というお話です。乞うご期待。


 ところで、Sさんの素晴らしいサイトの中のこちらのページは、平成17年の花巻の「秋のバラ会」において、佐藤昭三顧問や吉池貞蔵さんや伊藤弥典さんら、「歴史の生き証人」とも言うべき方々からSさんがじかに、賢治とバラの関連についてお話をうかがった直後に書かれたものだそうです。
 私が関心をいだくよりはるか以前から、すでにこのような情報も Web 上で公開されていたのですね。バラの写真も見事ですので、皆様ぜひご覧下さい。

 それから、Sさんがご指摘しておられることで、私も以前から感じていたことなのですが、「グルス・アン・テプリッツ(日光)」を紹介する時に、最近は枕詞のように「宮澤賢治が愛したバラ」と言われ、私のエントリのタイトルもそうなっているのですが、このバラを賢治が「愛していた」という証拠は、じつは何一つ存在しないのですね。賢治がこれを植えたのは確かなようですが、それが咲いたところを賢治が見たかどうかさえも、まだ本当はわかっていないのです。
 Sさんによれば、「賢治が愛したバラ」と言うよりも、「賢治が選んだバラ」と言う方が、より「正確」だとのことで、これには私も全く同感です。


 しかしそれにしても、いろいろと不思議なご縁が広がっていくものです。

賢治が愛したバラ(5)

 先日の「賢治が愛したバラ(4)」へのコメントでミントさんが紹介して下さっているとおり、花巻共立病院長の佐藤隆房氏の著書『宮沢賢治』(冨山房)には、「昭和四年に賢治がバラを届けてくれた」という話が出てきます。p.205の「真夏の一日」という章です。

97 真夏の一日
 昭和四年の真夏のある日、昨年発病した肋膜炎も大分よくなって、元気になった賢治さんは、カラーもワイシャツも着けず、カーキー色の小倉の折り襟の農民服に、ゴムのダルマ靴をはき、つばの広い麦藁帽子をかぶって私の家を訪れました。
 私の家というのは羅須地人協会のある、賢治さんの桜の住居からほど遠くないところにありました。私も当時身体の具合を悪くして、うかない顔をしているところへ、この仲よしが来たので大喜びでした。

(この後、佐藤隆房氏宅の庭の池で賢治が元気に遊んだり、レコードの話をしたり、「北原白秋なんて甘いもんですよ」と賢治が威張って言ったり・・・という描写が続いて、章の最後は次の文章で閉じられます。)

 秋になり賢治さんは私に立派な薔薇の苗二十本を届けてくれました。その薔薇は今も大切に培養されていて、年ごとに美しい色を咲かせます。

 上記の文章は、「昭和四年」のこととされていますし、賢治が桜町の院長宅に薔薇を届けて、それが現在(執筆は昭和17年)も花を咲かせつづけているということですから、これは、佐藤隆房氏が佐藤昭三氏に語った「賢治が佐藤隆房氏の新居の祝いにバラを手植えしてくれた」というという話(「賢治が愛したバラ(4)」参照)と、同一のエピソードだと考えていいでしょう。

 しかしここで、また一つ新たな問題が出てきてしまいます。
 この時の賢治の健康状態について佐藤隆房氏は、「昨年発病した肋膜炎も大分よくなって」と記していますが、実際には「昭和四年(1929年)」というと、もっと病状は重篤だったようなのです。
 新校本全集の「年譜篇」によれば、昭和4年という年は、病気のために外出などはまずできない状態でした。この年の春には、黄瀛の訪問を「5分間だけ」という条件で寝たままで受け、4月28日の日付で、「これで二時間/咽喉からの血はとまらない」との作品が記されています。夏の間も病床の面会記録が残っているだけで、10月12日には堀籠文之進が1時間ほど見舞いに来て、「面やつれして本当に気の毒に耐えず」と自らの日記に書いています。12月頃の宛先不明の書簡下書(書簡252)には、「但し夏以来床中ながらかれこれ仕事はできまして」とありますが、つまりこの年の後半になっても、賢治にとっては「病床で書き物をする」のが精一杯だったようなのです。
 このような年の「真夏の一日」に、佐藤隆房氏が描写したような出来事があったとは到底思えません。したがってこれは隆房氏の勘違いで、別の年のことだったのではないでしょうか。

 ではどの年だったのかと考えてみると、前後どちらの可能性もありえますが、私は前年の昭和3年(1928年)だったのではないか、という気がしています。
 昭和3年の8月10日頃には、賢治は病気に倒れてしまうのですが、6月に大島から帰ってきた後、倒れるまで「真夏」の間は、元気に各地を動きまわっていましたので、この間のことではないかと思うのです。

 昭和3年説を採る理由の一つは、「カーキー色の小倉の折り襟の農民服に、ゴムのダルマ靴をはき、つばの広い麦藁帽子」というスタイルが、羅須地人協会時代の賢治の、典型的な格好だからです。また、「羅須地人協会のある、賢治さんの桜の住居」という表現も出てきますが、昭和4年以降には羅須地人協会は存在しませんし、桜にある宮澤家別邸も「賢治さんの住居」ではなくなっています。
 それからもう一つ、「北原白秋なんて甘いもんですよ」というようなちょっと大口を叩くような言い方は、大病を経た後、非常に謙虚になってしまった賢治の口からは、聞かれないように思うからです。


 あと、佐藤隆房著『宮沢賢治』には、この賢治のバラを囲んで昭和7年に撮影したという下のような写真が掲載されています。何かのパーティのようですが、賢治の母親のイチさんも招待されているんですね。

昭和7年佐藤隆房院長宅

 この写真に関してミントさんが、先日のコメントで興味深い提起をして下さいました。これらのバラは地面に植えられているのではなくて、鉢植えを集めて並べているのではないか、というのです。
 ミントさんがそのように考えられた理由としては、和風の庭園にここだけ密集してバラを植えるのはやや不自然であること、右から2番目の女性の足元(着物の裾)に、植木鉢の円い縁が見えるように思えること、高価な輸入のバラに花巻の寒い冬を無事に越させるには、鉢植えで管理する方が安全と思えること、などを挙げておられます。
 私も、言われてみれば確かにそのように思えてきます。そういえば9月に行った花巻温泉バラ園でも、グルス・アン・テプリッツは普通の庭園ではなくて温室で栽培されていました。

 となると、「賢治が手植えした」というのは、地面に植えたのではなくて鉢に植えたということだったのかもしれないわけですね。

 上の写真が撮られた「昭和7年」は、賢治の死の前年です。昭和6年9月に再び倒れてから亡くなるまで、まず外出などできない病状が続いていた賢治ですが、この日、母のイチが帰宅すると、佐藤院長宅の美しいバラの話を、母から聞かせてもらったでしょうか。

 数年前に自分が贈ったバラは、本当に見事に成長していました。
 そしてこの中の一部の株は、平成の時代に入ってから接ぎ木をして増やされ、「賢治のバラ」として、全国のあちこちにも広がっていくのです。

高村祭

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 今日5月15日は、京都では葵祭、東京ではサッカーW杯日本代表選手発表が行われましたが、花巻市太田の高村山荘では、「高村祭」が開かれました(岩手日報記事参照)。
 この5月15日というのは、賢治祭のように詩人の命日というわけではなくて、光太郎が花巻に疎開してやって来た日なのだそうですね。
 ここで賢治祭における「雨ニモマケズ詩碑」に相当するのは、山荘近くにある「雪白く積めり詩碑」で、当日はこの碑の前で、献花や献茶、詩の朗読などが行われます。

 「智恵子抄泉」碑昨日、「その南の三日月形の村(2)」において「智恵子抄泉」という泉について触れましたが、泉の傍らに建つ碑(右写真)には、光太郎の「案内」という詩から、「山の水は山の空気のやうに美味」という一節が刻まれています。揮毫は、賢治詩碑建立の実行委員長もした、佐藤隆房氏です。
 作品全体を読んで、光太郎が誰を「案内」していたのかを知ると、山荘の裏にあるこの泉が、人々によって自然と「智恵子」の名前を冠して呼ばれるようになった由縁がわかるような気がします。

   案内

三畳あれば寝られますね。
これが水屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のやうに美味。
あの畑が三畝、
いまはキヤベツの全盛です。
ここの疎林がヤツカの並木で、
小屋のまはりは栗と松。
坂を登るとここが見晴し、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、
右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでゐる突きあたりの辺が
金華山沖といふことでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
うしろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん斯ういふところ好きでせう。

 智恵子が亡くなったのは1937年で、光太郎が花巻町の宮澤家から太田村の山荘に移ったのは、8年後の1945年10月でした。ここで彼は農耕自炊をして、7年を過ごします。
 賢治は果たせませんでしたが、光太郎は、「その南の三日月形の村」で生活をすることができたわけですね。

 ところで今年はちょうど、光太郎没後50周年にあたります。

「雪白く積めり」詩碑
「雪白く積めり」詩碑(2006.5.4)