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 現在、京都大学総合博物館では、「地の宝II 比企鉱物標本」という企画展が行われていますが、関連した催し一環として、来たる9月15日(日)に同博物館で、「宮沢賢治と鉱物」と題した講演会が行われます。

日時: 9月15日(日) 14:00~15:00
タイトル: 「宮沢賢治と鉱物」
演者: 桜井 弘(京都薬科大学名誉教授)

 講師の桜井弘さんは、賢治の作品に出てくる45の元素を、美しい鉱物写真とともに周期律の順に配列した、『宮沢賢治の元素図鑑』(化学同人)を、昨年刊行された化学者で、賢治の作品に対する愛情は、この本の隅々にまで充ちあふれています。ちなみに、賢治の本来の専攻分野は「化学(農芸化学)」でしたが、桜井さんも「化学」がご専門で、なおかつ「鉱物学」や「地質学」の造詣も深いというところも共通しており、科学者としてのスタンスに何か響き合うものがあるのかもしれません。
 講演の終了後には、「展示解説ツアーも開催されるということで、これはとても楽しみな企画だと思います。

宮沢賢治の元素図鑑ー作品を彩る元素と鉱物 宮沢賢治の元素図鑑ー作品を彩る元素と鉱物
桜井 弘 (著), 豊 遥秋 (写真)

化学同人 (2018/6/6)

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 ところで今回の企画展は、明治・大正時代に京都帝国大学教授を務めた比企忠が収集した貴重な鉱物標本を展示するもので、企画展のウェブページでは、下記のように説明されています。

企画展「地の宝II 比企忠鉱物標本」 京都大学総合博物館には、京都帝国大学時代から100年をかけて集められた2万点以上もの鉱物標本が収蔵されています。なかでも工学部由来の比企(ひき)鉱物標本は、現代では入手することのできない、国内では最高峰の鉱物コレクションです。これらの鉱物標本の持つ迫力や美しさは圧倒的で、まさに自然が作り出した「地の宝」といえるでしょう。工学部採鉱冶金学科の教授であった比企忠(ひきただす)は日本中、世界中から鉱物・鉱石を集めており、当時その標本室を見たものからは国宝とも称されていました。その後、比企の鉱物コレクションの存在は学術界からさえも長年忘れ去られていましたが、工学部、そして総合博物館へと丁重に引き継がれてきました。整理を進めていると、すべての標本に比企の手書きのラベルが添えられており、比企忠という研究者の姿や比企が標本に込めた想いまでもが現代によみがえるかのようでした。多くの金属鉱山が閉山した現代の日本ではこれらの標本が持つ学術的な価値はかけがえのないものです。

 これだけでも、鉱物好きの方にとってはまたとない機会でしょう。
 場所は、百万遍の交差点から東大路をすぐ南で、電車の最寄り駅は、京阪の「出町柳」です。

京都大学総合博物館地図

京都市に「風の又三郎」像

 種山ヶ原に設置されている、あの魅力的な「風の又三郎」像(中村晋也氏作)と同じものが、なんと京都市内にもあるよ!と教えて下さった方がありまして、今日は学会で深草の龍谷大学に行ったついでに、一緒に見てきました。
 下が、その又三郎君の写真です。

「風の又三郎」像(京セラ本社前)

 この銅像は、京都市伏見区の京セラ本社ビル前に設置されています。
 以前から京セラ株式会社は、本社ビル内に「京セラギャラリー」を開設して、様々な美術作品を無料で展示していましたが、しばらく前からその一環として、この本社ビル前庭において、中村晋也氏の彫刻作品4体を、道行く誰でも鑑賞可能な状態で設置してくれていたのです。
 ただこの場所は、上写真の背景に見えているような高架の自動車道(第二京阪道路)と、反対側には地上20階建ての京セラビル(95m)に挟まれた、高層都市建造物の「谷間」のような一角で、大自然の中に立つ種山ヶ原の像とは、環境の違いが歴然としています。(「風の又三郎」の書き出しが、「谷川の岸に小さな学校がありました」というのとは、同じ「谷」でも雲泥の差です。)
 私が知るかぎりでは、あの種山ヶ原の像が今もきれいな銅色あかがねいろでつやもあったに比べると、こちらは表面に少し緑青も浮いているようで、やはり排気ガス中の硫黄酸化物や窒素酸化物等の影響があるのかもしれません。

京セラ本社ビル

  しかしそれでも、こちらの又三郎君もやっぱり表情は健気で凜々しく、都会の中でもここだけには、清々しい風が吹き渡っているような感じがしました。思えば彼は、いつも地球上のどこへでも自由自在に飛び回っていますから、時にはこういうごみごみしたところにもやって来て、自然を忘れそうになっている都会人を慰めてくれるのかもしれません。
 今日は日曜日ということで、京セラビル前庭のベンチには、多くの若い人が座ってお昼を食べたりしながら、くつろいでいました。

 それにしても、本日は貴重な時間をさいて案内をして下さったTさんに、ここにあらためて感謝申し上げます。

 ところで、龍谷大学であった日本病跡学会では、午前中に下のような発表をしたのですが、タイトル背景に使った写真は、こちらも偶然に「種山ヶ原」でした。

「宮沢賢治の作品に現れる超常体験と解離」

4月20日は京都造形芸術大へ

 2週間ほど前から体調を崩してしまって、こりゃあ4月20日の講演はどうなるのだろうとやきもきしていたのですが、今日あたりは何とか回復して胸をなでおろしているところです。(^^;)ゞ
 さて、今度の日曜4月20日に京都造形芸術大学の人間館301号室で行われる「宮沢賢治学会京都セミナー《宮沢賢治 修羅の誕生》」の内容は、以前にもご案内したとおり、下記のようになっています。

  9:30 開場
10:00 挨拶 中路正恒
10:10 講演「宮沢賢治、京都に来る」 浜垣誠司
11:20 朗読と解説「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」 牛崎敏哉
13:40 講演「宮沢賢治とジャータカ」 君野隆久
15:00 講演「宮沢賢治と修羅」 中路正恒
16:10 まとめと挨拶 栗原敦

 個人的にいちばん楽しみなのは、やっぱり牛崎敏哉さんによる賢治の詩のパフォーマンスですが、午後のお二人の講演も、きっと重厚なものになるのではないでしょうか。

 会場はとても大きな教室で、まだ席に余裕はあるそうですから、賢治に関心をお持ちの方は、ぜひお越し下さい。
 kenjikyoto2014@gmail.com までメールをいただければ、参加予約をすることができます。

 私自身のスライドもだいたいできて、ぼちぼちと点検しているところです。「パワーポイントという特殊なソフトウェア」(by 古舘伊知郎さん)を使って…。

「宮沢賢治、京都に来る」1

「宮沢賢治、京都に来る」4

 来たる4月20日に、京都市左京区の京都造形芸術大学において、宮沢賢治学会の地方セミナーが、「宮沢賢治―修羅の誕生」と題して開催されます。(下のチラシ画像をクリックすると、別窓で拡大表示されます。)

 京都セミナー2014・チラシ表

 京都セミナー2014・チラシ裏

宮沢賢治学会・京都セミナー2014
                《宮沢賢治―修羅の誕生》

   日時: 2014年4月20日(日) 午前10時~午後4時
   場所: 京都造形芸術大学 人間館301教室
   内容
     講演「宮沢賢治、京都に来る」 浜垣誠司
     朗読と解説「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」 牛崎敏哉
     講演「宮沢賢治とジャータカ」 君野隆久
     講演「宮沢賢治と修羅」 中路正恒
   参加費: 500円(小学生以下無料)
   申込: kenjikyoto2014@gmail.com あてメールにて
      または
      〒606-8271 京都市左京区北白川瓜生山2-116
       京都造形芸術大学 永倉気付
       宮沢賢治学会京都セミナー実行委員会あて往復葉書にて

 実は、この2014年4月20日という日は、1924年4月20日に宮沢賢治が処女詩集『春と修羅』を関根書店から刊行してから、図らずもちょうど90周年の記念日に当たります。先月16日、京都造形芸術大学の中路正恒研究室において、京都セミナーの実行委員会のメンバーが初めて集まって打ち合わせをしている最中に、私はふとこの偶然の符合に気がついて、思わず中路さんに告げたのでした。
 今回のセミナーの日程は、当初はいったん4月19日になりかけていたのが、都合で4月20日に変更になったという経緯もあり、この記念すべき日付は、まさに「図らずも」の結果でした。この日の実行委員会では、皆でしばし「不思議なめぐり合わせ」の感慨を味わった後、中路さんの提案で「宮沢賢治―修羅の誕生」というセミナーのタイトルが、決められました。
 そうです、この言葉には、「『春と修羅』の誕生日」という意味が込められているのです。

 当日のプログラムでは、まず私が導入的に、賢治が2度にわたり京都を訪れた時の様子や、立ち寄ったと推測される場所の現状について、報告をいたします。賢治と京都の「縁」を、浮かび上がらせることができたらと思います。
 次に、宮沢賢治記念館副館長の牛崎敏哉さんが、賢治の「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」(「春と修羅 第二集」)を、賢治が聴いていたであろうジャズの響きに乗せて、スイングしながら朗読し、解説をして下さいます。賢治とクラシック音楽の関連については、近年いろいろな人が論じていますが、今回は新たにジャズとのつながりに光が当てられます。

 休憩をはさんで、京都造形芸術大学に所属するお二人の先生、君野隆久さんと中路正恒さんのご講演は、仏教や哲学思想の方面から、賢治にアプローチするものです。京都という場所は、長らく日本における仏教の中心地でもありました。そのような京都において研究を積み重ねてこられた視点から、賢治論が展開されます。

 4月20日というと、もう桜は散ってしまった頃ではありますが、この時期の京都では、「春の特別公開」を行っているお寺も、たくさんあります。
 会場の教室はかなり大きくて余裕はあるそうですので、皆さまどうぞ、春の京都へお越し下さい。

京都造形芸術大学キャンパスより
京都造形芸術大学キャンパスより

藤田惠子ボタニカルアート展

賢治の童話の中でいつも大切な役割を果たしてくれる植物たち。
植物画で賢治の世界のひとコマを描いてみました。(展示案内より)

 「富小路三条上ル」ですから、「京都における賢治の宿(2)」の「要庵 西富家」の前から、富小路通をちょうど273mほど北へ行ったところです。
 西富家と同じく通りの西側に、上の写真のような入り口があって、この細い路地が「ギャラリーh2O」につながっています。今日はこのギャラリーで、「藤田惠子ボタニカルアート展『京の花散歩―宮沢賢治の植物たち』」という展覧会を見てきました。
 上のかわいい「のれん」が示してくれているように、路地の奥からは、清新な空気が吹いていました。

 藤田惠子さんは岩手県盛岡市のご出身だそうですが、「京の花散歩」というタイトルのように、京都の町なかで出会った、賢治の作品と関連するさまざまな植物を、美しい絵にして紹介してくださっています。
 「ボタニカルアート」とは、単に「植物の絵」というだけではなくて、「植物学的に」正確であることを基本とした、しかしもちろん同時に美術でもある図譜のことなんですね。
 今回、藤田惠子さんが賢治作品との関連で取り上げられたのは、

  • チュウリップ
  • アネモネ
  • オキナグサ
  • タチバナ
  • スズラン
  • ヒナゲシ
  • トウガラシ
  • ハクウンボク
  • アワ
  • ヒエ
  • キキョウ
  • カワラナデシコ
  • ヤナギ
  • タケノコ

という植物たちです。
 その精密な絵を一枚一枚見ていくと、科学者でもあると同時に芸術家でもあった賢治自身のことを、連想しました。

 少しだけ藤田惠子さんご本人とお話できたのですが、「賢治に関する研究はまだ不十分かもしれないけれど…」と謙遜なさったあと、「でも植物学的には正しい絵です」とおっしゃった言葉は、賢治が草野心平に送った書簡にあったという一節、「わたくしは詩人としては自信がありませんが、一個のサイエンティストとしては認めていただきたいと思います」という文言を、まさに彷彿とさせました。

 ところで上の植物のうちで、「タチバナ」と「タケノコ」は、賢治が盛岡高等農林学校の修学旅行で京都に来た際の、

日はめぐり
幡はかゞやき
紫宸殿たちばなの木ぞたわにみのれる

山しなの
たけのこばたのうすれ日に
そらわらひする
商人のむれ

という短歌にもとづいていて、彼が実際に「京都で」目にした植物です。
 そしてちょうどその際に、賢治はこのギャラリーからすぐ近くの旅館に泊まっていたというのも、不思議な縁です。

 「藤田惠子ボタニカルアート展『京の花散歩―宮沢賢治の植物たち』」は、11月8日(日)まで、中京区富小路三条上ルの「ギャラリーh2O」で開催中。時間は12:00-19:00ですが、最終日は17:00までとのことです。

藤田惠子ボタニカルアート展

ミシュランガイド京都・大阪 2010 日本語版 (MICHELIN GUIDE KYOTO OSAKA 2010 Japanese) ミシュランガイド 京都・大阪 2010 日本語版 (MICHELIN GUIDE KYOTO OSAKA 2010 Japanese)

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 とりわけ京都では掲載拒否店が続出したり、その評価基準が議論になったりもしましたが、いろいろな声を尻目に、『ミシュランガイド 京都・大阪 2010』が、一昨日に発売されました。
 京都の「三つ星」には万人の認める高名な懐石料理の老舗が並ぶ一方、フランス料理では、ホテル内のレストランで「一つ星」が一軒だけ、というのがちょっと寂しいですが、まあ冷静に考えてみればやむをえないところかも。

 そんな中で個人的に嬉しかったのが、旅館「要庵 西富家」が、みごと「二つ星」を獲得していたことです。
 93年前に宮澤賢治が宿泊した旅館として、たまたまこの半年に2回も訪れることになり、その料理の素晴らしさには個人的に感嘆していたのですが、ここまで評価されるとは・・・。

 『ミシュランガイド』において「旅館」というカテゴリーは、今回の「京都・大阪」版で京都に関して新たに設けられたようですが、「星」の評価の基準は、あくまで「皿の上のもの」、すなわち純粋に料理に対してということです。そこで並み居る京都の老舗高級旅館を抑えて、旅館として「二つ星」を獲得したのはこの「要庵 西富家」ただ一軒。あと旅館で星が付いたのは、「一つ星」に「柊家」と「美山荘」だけという状態です。
 ちなみに、ミシュランにおける「二つ星」の意味は、「遠回りしてでも訪れる価値がある素晴らしい料理/熟練した技術と丹念な仕事がうかがえる。目を見張るような価値がある。」とのこと。

要庵西富屋・門構え

 もっとも賢治が宿泊した頃とは、旅館としてのコンセプトもまったく変わり、「修学旅行生も泊まる宿」から「高級懐石旅館」になったからこそ今回の星獲得に至ったわけで、現在宿泊しても当時の雰囲気を偲ぶことは難しくなっています。
 しかし、下の表を参照していただきたいのですが、賢治が宿泊したことが確実な宿で、当時と同じ場所で同じ経営が続いている旅館は、現在は全国でおそらくこの「要庵 西富家」だけなのではないかと、私は思います。

 今回の掲載で、しばらくは予約を取るのが難しくなってしまうかもしれませんが、全国の賢治ファンの方々にも知っておいていただいてもよい情報かと思い、記事にさせていただきました。
 西富家のご主人様、お女将さん、おめでとうございます(関連記事「京都における賢治の宿(2)」)。

 『ミシュランガイド 京都・大阪』より


(表1)賢治が宿泊したことが確実な宿

旅館名
所在地
宿泊日
目的
現状
三島屋
盛岡市紺屋町
1909/3/31-4/?
盛岡中学受験
廃業(現「三島内科医院」)
大東館
宮城県宮城郡七ヶ浜村菖蒲田
1912/5/28
修学旅行中伯母ヤギ見舞い
廃業
西富家
京都市下京区富小路六角下ル
1916/3/23
盛岡高等農林学校修学旅行
要庵西富家」として旅館営業中
対山楼
奈良市今小路町
1916/3/24
同上
廃業(現「天平倶楽部」)
二見館
三重県度会郡二見町
1916/3/28
同上
1999年廃業(建物は現存
北辰館
東京市麹町区麹町3丁目
1916/7/31-8/?
「独逸語夏季講習会」受講
廃業(現「麹町鈴木ビル」)
栄家旅館
東京市麹町区麹町3丁目
1916/8/?-9/1?
同上
不明
宮城館
東京市日本橋区薬研堀町41番地
1917/1/4-5
家業の用事
廃業(現「宮城館ビル」)
岡田屋
岩手県下閉伊郡宮古町
1917/7/26
東海岸視察団同行
不明
石川旅館
岩手県稗貫郡大迫町
1918/9/21
稗貫郡土性調査
廃業(現「村田商店」)
雲台館
東京市小石川区雑司ヶ谷町130
1918/12/26-1919/3/?
トシ看病
廃業
布袋館
京都市下京区三條小橋東入ル
1921/4/?
家出中、父と関西旅行
山形屋
札幌市北2条西4丁目
1924/5/20
花巻農学校修学旅行引率
廃業
富士館
苫小牧町王子町5番地                 
1924/5/21
同上
廃業(現「苫小牧駅前プラザegao)
上州屋
神田区神田錦町3丁目19番地
1926/12/3-28?
セロ、オルガン等学習
廃業
八幡館
神田区駿河台南甲賀町12番地
1931/9/20-26
東北砕石工場出張
廃業(現「日本大学カザルスホール」)



(表2)賢治が宿泊したとの推定がある宿

旅館名 所在地 宿泊日 目的 現状
梅乃屋 埼玉県秩父郡国神村 1916/9/3 秩父地方地質見学調査 「梅乃屋旅館」として営業中
寿旅館 埼玉県秩父郡小鹿野町 1916/9/4 同上 2008年末廃業(建物は町が買取)
角屋 埼玉県秩父郡秩父町大宮 1916/9/6 同上 不明
(寒キ宿) 岩手県九戸郡野田村
下安家
1925/1/6 三陸旅行 現「小野旅館」

京都における賢治の宿(2)

 以前に「京都における賢治の宿(1)」という記事で、1921年(大正10年)に賢治が父の政次郎氏と宿泊した「布袋館」という旅館があった場所の現状について、ご報告しました。
『新校本全集』年譜篇p.107-108 今回は、1916年(大正5年)に賢治が盛岡高等農林学校の修学旅行で京都を訪れた時に宿泊したという、旅館「西富家」です。
 右の画像は、『新校本全集』年譜篇のp.107-108に記載されている1916年3月23日の修学旅行生一行の動向で、文章の最後に「三条の旅館西富家に宿泊」として出てきます。この記述の根拠は、大正5年7月発行の盛岡高等農林学校「校友会報」に掲載された「農学科第二学年修学旅行記」に、賢治の同級生の原勝成が「三月二十三日」の記録として書いた、次の文です。

それより電車に乗して旅館なる西富屋に向つた。時に午后四時半日漸く西山に傾かんとしてゐた。

 「京都における賢治の宿(1)」で取り上げた「布袋館」は、残念ながら現存していないのですが、この「西富家」さんは、嬉しいことに現在も「要庵 西富家」という立派な旅館として営業しておられるのです。
 そこで私としては、ぜひ一度この旅館に宿泊してみたいというのが長年の夢でした。このたび、その念願を果たせましたので、ここにご報告する次第です。

 最初に、旅館の場所を確認しておきます。上の年譜記事では「三条の旅館」とだけ書いてありますが、その詳しい場所を、当時の資料で見てみましょう。

 まず下の画像は、1913年(大正2年)に「交通社出版部」から発行された『帝国旅館全集』という全国の旅館一覧です。

『帝国旅館全集』より

 赤線部分に「西富屋」があり、住所は「同富小路下ル」、すなわち「六角富小路下ル」と記されています。
 次に下の画像は、1926年(大正15年)に「全国同盟旅館協会」が発行した『全国旅館案内』です。

『全国旅館名簿』より

 赤線部分に「西富屋」があり、住所は「同六角南」、すなわち「富小路六角南」となっています。
 京都における地名表示では、南北と東西の通りを座標のように用いて、「下ル」とはそれらの通りの交差点から「南に行く」ということですから、「六角富小路下ル」でも、「富小路六角南」でも、結局は同じ場所を指すことになります。
 ただ、ここでちょっと気になるのは、どちらの資料においても、『新校本全集』年譜篇に書かれている「西富」ではなく、「西富」と旅館名が記されていることです。この問題については、また後述します。

 次に、現在の地図で「六角富小路下ル」を見てみましょう。

 地図の上の方の東西の通りが「六角通」、中央の南北の通りが「富小路通」です。この2つの通りの交点から南へ行くと、西側の緑色の長方形の区画に表示されているように、現在も「旅館西富家要庵」があります。すなわち、大正時代と同じ「六角富小路下ル」の場所で、現在も変わらず営業しているわけですね。
 間口が狭く奥行きが長いために「鰻の寝床」と呼ばれる、京都の町家らしい敷地です。(上の地図で、右上の[地図+写真]のボタンをクリックして画像を切り替えていただいても、附近の建物の様子が見られて面白いですよ。)

 ところでここの町名は、上の地図にも書かれているように「骨屋之町」というちょっと怖いような名前ですが、これは昔からこのあたりに「扇の骨」を作る職人が多く住んでいたために、こう呼ばれるようになったのだということです。地図でも、上端の右の方に「宮脇賣扇庵」という名前が見えますが、ここは、観光客もたくさん訪れる有名な京扇子の老舗です。
 「西富家」がリニューアルした際には、このような「扇の町」の「要」となることを願って、「要庵」という名前を冠したのだそうです。

◇               ◇

 前置きがえらく長くなってしまいましたが、それではいよいよ「要庵 西富家」に入っていきます。まず下の写真は、その門構えです。

要庵西富屋・門構え

要庵西富屋・蛍道 6月ということで、竹籠にあじさいが飾られていますね。

 格子戸から奥の玄関を覗いてみると、右のような感じです。
 細い路地に灯火をを並べたこういったエントランスは、京都では「鰻の寝床」形になった料理屋さんなんかでもよく見られるもので、「蛍道」とも呼ばれます。これはこれで風情のあるもので、歩いて中に入っていく際には、何となくワクワクしてきます。

 玄関を開けて旅館に入ると、まず「桐壺」という名前の部屋に通されて、冷たい「葛切り」に「はったい粉」をまぶしたものを出して下さいました。これをいただきながら、チェックインの手続きをします。

 ところでこの部屋には、下のような年期の入った看板が飾ってありました。

「西富家」看板

 ここは1873年(明治6年)創業ということですから、今年で136年になるという老舗で、これがいつ頃に作られた看板なのかはわかりませんが、これを見るとこの旅館の名称は、やはり昔から「西富」だったようです。『帝国旅館全集』や『全国旅館名簿』に記されていた「西富」の方は間違いで、盛岡高等農林学校「校友会報」や『新校本全集』年譜篇に記されていたのが正しかったようです。

 またこの部屋には、下のような額も掛けられていました。

「西富屋」定価表

 これは、大正10年3月の時点での「定価表」で、「一等」は5円、「二等」は4円、「三等」は3円と記されています。次の行に、「昼飯料は宿泊料の半額以内を申受候」と書いてあることからすると、これは「1泊2食付き」の料金なのでしょう。
 この値段が現在のどのくらいに相当するのか、換算は一律にはできるものではありませんが、例えば「田中貴金属工業」のサイトにある「年次金価格推移」を規準にしてみると、大正6年の金1gが1円36銭、平成20年の金1gが2937円ですから、上のそれぞれの料金に(2937÷1.36)をかけると、「一等」が10798円、「二等」が8638円、「三等」が6479円ということになります。これは、修学旅行生の宿泊代としては、まあ現在に置き換えてみても妥当な線かな、という感じです。
 ただ、現在の5代目主人になられてから、それまでは「修学旅行向け」だった旅館のコンセプトを大きく変えて、9室だけの風雅な懐石旅館にリニューアルされました。これが現在の「要庵 西富家」で、ですから宿泊料金も、上記の換算額よりは高くなっています。

 さて、これらの古い貴重な資料を見ながら「葛切り」をいただくと、私たちが宿泊する部屋に、案内してもらいました。

 「桐壺」の隣には立派なワインセラーがあって、下のようになっていました。ブルゴーニュを中心に揃えておられるとのこと。

ワインセラー

 で、宿泊するお部屋は、下のような感じでした。

西富屋「松風」(1)

西富屋「松風」(2)

 部屋で少しだけくつろいでから、お風呂に入りました。部屋にもすでにお湯の張られた浴室が付いているのですが、旅館の地階にある浴場の方に行きました。浴室内には、丹後地方の職人さんが作られたという可愛らしい人形が、たくさん飾られています。脱衣場には、氷水で冷やされた小さな缶のビールもサービスされていました。

 部屋に戻ってビールを飲みながら、夕食を待ちます。町の真ん中にあるのに、不思議なほどの静けさです。

 さて、お待ちかねの夕食は本格的な懐石料理で、まず先付けの「冬瓜饅頭」から始まりました。冬瓜を柔らかく煮て冷やした中に、海老やその他の小さな具が入っていて、葛で固めてあります。冷たい「だし」も美味しい。

冬瓜饅頭

 次は、「鮑と賀茂茄子の吸物」。賀茂茄子には軽く油が含ませてあって、鮑とともにこくのある味です。

鮑と賀茂茄子の吸物

 お造りは、よこわのたたきと剣先いか。「よこわ」というのは、マグロの幼齢魚の関西地方における呼び名です。この器などは、主人と女将が陶芸家に形や大きさを依頼して、作陶してもらったものだそうです。

よこわのたたきと剣先いかのお造り

 次は「八寸」。最初は、一辺が「八寸」どころかその二回りも大きい豪快な正方形の陶器の皿に、二人分が盛られて運ばれてきました。皿の上には、6月の「夏越しの祓」にちなんだ茅の輪が飾られています。そこから目の前で、今度は可愛らしく一人分ずつを下写真のように取り分けてくれました。
 内容は右から順に、青梅、鯖の棒寿司、瓜、甘藷、蛸の柔らか煮、小芋の衣かつぎ、鱧の肝、鱧の南蛮漬け、ほおづきに入った鶉の卵の黄身の塩漬け。
 どれも小さいけれど、本当に繊細な味なんですよね。

八寸

 次に「うちわかえで」の葉っぱをかぶせて運ばれてきたのは、「雲丹の飯蒸し」。おこわの上に雲丹を載せて蒸してあって、枝豆が取り合わせてあります。おこわに雲丹の香りや旨みが溶け込んで、雲丹もふんだんに盛られて、一緒に食べるとうっとりする味。

雲丹の飯蒸し

 次は、琵琶湖の鮎の塩焼き。まだ柔らかくて、頭から食べられます。蓼酢などつけなくても、鮎そのものの香りが豊潤です。

鮎の塩焼き

 そうそう、先述のようにこの旅館には見事なワインセラーがあって、とりわけブルゴーニュが充実しているのですが、私はどうしてもボルドーの方が好きなので、ポムロールの安いのを一本頼んで料理をいただきながら飲んでいました。すると女将さんがおっしゃるには、ソムリエの田崎真也さんもこの宿に泊まられた時に、「ポムロールを鮎に合わせてはりました」とのことで、なんか恐縮。私はそんなに深く考えてのことではありません。

 さて料理も終わりに近づき、きれいな銅鍋で出てきたのは、「鱧と蓴菜の鍋」。京都で鱧は、来月の祇園祭の季節とセットになった魚ですが、もうその時期も目の前です。蓴菜のとろみとだしが溶け合って、さっと炙って香ばしい鱧によく絡みます。

鱧と蓴菜の鍋

 最後に、ご飯とおつまみが運ばれてきました。ユニークな3×3の9つの区画に分かれた正方形の皿は、やはり特注のものだそうで、茄子や瓜の漬け物、鰻や岩海苔の佃煮、塩辛、たたき牛蒡、その他いろいろなご飯のおかずが、きれいに並んでいます。これぞ「迷い箸」です。また特筆すべきは、釜で炊いてそのまま部屋まで運ばれ、目の前で熱々をよそってもらう「ご飯」の美味しさでした。

ご飯とおつまみ

 デザートは、「水無月豆腐と巨峰のゼリー」。

水無月豆腐と巨峰のゼリー

 とういことで、素晴らしい懐石料理とともに夜が更けました。

◇               ◇

 翌日の朝食は、下のような感じ。

朝食

 飛竜頭の炊いたん、だし巻き、切り干し大根の炊いたん、ひじき、ちりめん山椒、鯛の子など、「京のおばんざい」が並ぶ献立です。前夜の懐石が「ハレ」の料理であるのに対して、朝食は「ケ」の料理という趣向なのだそうです。
 「ケ」などとは言いながら、「だし巻き」などやはり絶品でした。

 以上、なんか料理の紹介ばかりになったような気もしますが、賢治もその昔に宿泊した「西富家」に関する体験レポートでした。
 しかし、賢治たちが泊まった当時とは、全く雰囲気は変わってしまっているのでしょうね。


 今回私たちは、住所は近くのくせにわざわざ泊まりにきたものですから、女将さんに「今日は何かの記念日どすか?」などと尋ねられたりしました。これには、「大正時代に賢治さんが泊まった宿に、自分も一度泊まってみたかったんです」と、正直に告白しました。
 そして『新校本全集』年譜篇の、「三条の西富家」が出てくる箇所は、コピーして女将さんに差し上げてきました。


 なおこの旅館では、宿泊でなく料理だけをいただくこともできます。もちろん要予約ですが、お昼の懐石料理、または夜の懐石料理を、お座敷で楽しめるのです。京都に来られる賢治ファンの方の方にとっては、本格的な京都らしさとともに(気持ちだけ)賢治のゆかりを味わえる、一つの選択肢ではあるかと思います。

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桂橋際の「万甚さん」(1)
桂橋際の「万甚さん」(2)

桂橋際の「万甚さん」(2)


(A) 万甚本店, (B) 万甚別館

 現在の呼び方では、「八条通」が桂川を渡る橋が「桂大橋」ということになるのですが、その昔、まだここには橋が架かっていない時代には、ちょうどこの場所で、舟による「渡し」が行われていたのでした。
 山陰や丹波の方から京都に入るこの道は「山陰街道」と呼ばれ、桂川の西側は、「下桂今戸」という宿場町として栄えていたということです。特に江戸時代には、参勤交代の大名行列もこの渡し舟を利用し、毎年莫大な舟賃を地元に落としていきました。渡しの付近には、「兵衛」という人が創業した「万甚」をはじめ、他にも「柏平」など三軒ほどの旅籠屋が立ち並び、往還の旅行者を相手に繁盛していたということです。

桂大橋たもとの常夜燈 江戸時代も終わり近くの弘化3年(1846年)には、地元の関係者が出資して、渡し舟の安全航行のために石造りの大きな「常夜燈」を建てました。この常夜燈は、現在も桂大橋の西詰に残っていて、往時を偲ばせます(右写真)。
 高さ3mもある石燈籠は、「川の灯台」とも言うべき存在として、夜の渡し舟からも確かな目印となったことでしょう。
 先日、「桂橋際の「万甚さん」(1)」でご紹介した写真では、桂橋の南側に常夜燈が見えましたが、現在はこれは北側に移動されています。

 そして、この常夜燈の台座部分には、これを建てるために出資をした人々の名前が刻まれているのですが、下の写真のように、「万屋甚吉」「万屋嘉助」という名前も見えます。この人たちは、旅籠屋「万甚」の経営者一族と思われます。

常夜燈の台座

 明治に入ると、大名の参勤交代もなくなり、また正確な年代は不明ながら、明治初期のうちに桂川にもついに「土橋」が架けられました。これをもって渡し舟はその役割を終えて、「舟仲間」「浜方」は解散します。
 しかしそれでも街道筋の店々は、薬、豆腐、饅頭などの新しい商売を始め、賑わいは続いていました。

 旅籠屋「万甚」が、旅館業だけでなく高級料亭として営業を拡大していったのも、この頃のことと思われます。そして、明治16年(1883)にここで創業した饅頭屋が、現在までその「のれん」を守っているのが、街道筋南側で桂橋から二軒目にある、「御菓子司 中村軒」です。
 下の図は、中村軒のお女将さんがコピーをしてくださった、大正時代頃の桂橋から山陰街道筋の商店街の一部です。

大正期桂商店街

 この図で、桂大橋(桂橋)の西端の南角には、赤枠で囲んだ「万甚別館(料理旅館)」があり、また少し西へ行った街道の北側には、やはり赤枠で囲んだ「万甚本店」があります。
 賢治たち修学旅行生が訪れたのが、この「万甚」であるとして、その「本店」と「別館」のどちらだったのかということが問題ですが、「本店」の方は、桂離宮から流れ出る川の水を引き入れて料理をし、部屋の窓からは借景として離宮の建物も見えたという、品格の高い料亭だったのに対して、「別館」の方は、一般の旅行客を相手に、食事を出したり宿を提供したりする「料理旅館」で、二階には広間もあったということです。
 したがって、何十人かの修学旅行生を一度に入れて食事を出すのなら、「万甚別館」の方だっただろうというのが中村軒のお女将さんのご意見で、私自身もそう考えます。「桂橋際」という表現にも、別館のあった位置の方が、ぴたりと当てはまります。

 残念ながら、現在は本店も別館もその建物は残っておらず、本店は昭和初期頃に、近くから出火した火事で全焼してしまい、跡地はその直後に宮内省によって買い取られ、現在は桂離宮の敷地の一部になっています。
 「万甚別館」も、戦後まもなくに廃業し、その建物は一時、川向かいの「帝国化成」という会社が買い取って社員寮にしていたそうですが、現在は取り壊され、跡地は生コン会社の社長さん宅になっています。

 というわけで、下の写真が、「万甚別館」の跡地の現在の様子です。正面が、「万甚別館」があった場所です。右端の電柱の奥の瓦屋根の建物は、「御菓子司 中村軒」です。

「万甚別館」のあった場所


 さて、ここまでの文章において記してきたように、賢治たち修学旅行生一行が訪れたと推測される店の名前は、地元の人にお聴きするかぎりでは、「万甚楼」ではなくて「万甚」でした。前回の記事でご紹介した写真の説明も、「料亭「万甚」」となっていました。
 『【新】校本全集』年譜篇などこれまでの文献では、この店の名前は盛岡高等農林学校「校友会報」に掲載された「修学旅行記」をもとに、「万甚楼」とされていましたが、今回の結果と少しだけ違っています。この点については、いずれあらためて調べてみたいと思っています。

 最後にもう一つ、中村軒のお女将さんは、下のような写真もお貸し下さいました。
 これは南側の上空から撮影されたもので、交差点の角の大きな屋根の建物が、後ろ側から見た元「万甚」の建物です。この時点では、上述のようにすでに別会社の社員寮になっていて、裏庭には洗濯物が干してあります。
(写真をクリックすると、別ウィンドウで拡大表示されます。)

桂橋・山陰街道と万甚別館

桂橋際の「万甚さん」(1)

 1916年(大正5年)に盛岡高等農林学校の修学旅行で、賢治たち一行が最初に京都に到着した際の様子は、『【新】校本全集』年譜篇では、次にように記されています。

三月二三日(木) 曇。午前四時九分京都駅着。東西本願寺を訪れ、桂橋際の万甚楼に六時到着。

 ここに出てくる「万甚楼」というのは、名前からして料理屋か旅館のようで、おそらく修学旅行生一行は、この「万甚楼」で朝食をとってしばし休憩でもしたのではないかと想像されるのですが、その「万甚楼」とは具体的にどこにあってどんなお店だったのか、京都に住む私にとってずっと疑問のままでした。これまでネットや図書館で調べた範囲では、わからずにいたのです。

 ところが、先月ふとしたことで Web 検索をしている時に、「京のお菓子歳時記六月号<2008>」というメールマガジンのバックナンバーを見つけました。そしてそこには、

戦前中村軒の隣は万甚さんという川魚の料亭があって、舟を桂川に浮かべ、とった鮎を食べさせてはったけど、その万甚さんも今はなくなってしまいました。

という記述があるではありませんか。

 「中村軒」という老舗のお菓子屋さんは、まさに桂橋(現在の桂大橋)のすぐ近くにあるようですから、ここに出てくる料亭「万甚さん」こそ、以前から探していた「万甚楼」のことではないかと、胸を躍らせた次第です。

 その後、「中村軒」さんにメールを出したり、電話でお話を聴いたり、そして先日の日曜日には、直接「中村軒」を訪ねて、美味しいかき氷をいただきながら、「万甚さん」についてお女将さんからお話をお聴きしてくることができました。
 そして、やはり中村軒の隣にあった「万甚」(別館)こそ、賢治たち修学旅行生一行が訪ねた「万甚楼」だったと、確信するに至りました。

 その詳細については、まだもう少し資料を整理しなければならないのであらためて次の機会にご報告をさせていただくことにしますが、とりあえず下の写真は、まだ残っていた頃の「万甚」の建物です。(『桂東学区自治連合会20周年記念誌』より)

 左端の方に見えているのが桂橋、右側の建物が「万甚」、さらに右端に縞模様の「ビニールひさし」が少しだけ見えるのが、「中村軒」です。
 下の説明には、「昭和48年、桂大橋西詰にあった料亭「万甚」」と書かれていますが、実際には料亭「万甚」は戦後間もなくに廃業してしまい、この写真の時点では川向かいの会社が買い取って、社員寮として使用していたということです。

 しかし、建物は大正時代のそのままで、修学旅行で賢治たちが朝食をとったのも、おそらくこの屋根の下だったわけです。

在りし日の「万甚」の建物

 ご親切にも、あらかじめご近所に「万甚さん」の記憶についていろいろと尋ねていただいたり、様々な資料をお貸しいただいた中村優江さんに、あらためて心から感謝申しあげます。

 過日、「「中外日報社」のあった場所」というエントリにおいて私は、賢治父子が1921年(大正10年)の関西旅行の折に訪ねた「中外日報社」は、全集の年譜などに記載されている「七条大橋東詰下ル」ではなくて、より北東の「妙法院前」にあったことを、記しました。そしてその場所は、「現在は旅館の敷地の一部になっている」と、書きました。
 この記述に対して、ある方(かりにAさんとします)がご親切にも、種々の資料や写真とともにご指摘を下さり、中外日報社の旧社屋があったのは、「旅館の敷地の一部」ではなく、そこから細い道を隔てた北側で、現在は民家になっている場所だったことを、教えて下さいました。
 しかも驚くべきことに、その「民家」というのは、中外日報社の旧社屋が(多少の手入れは施されながらも)、そのまま残っている建物だというのです!

 もしそうならば、賢治父子が訪れた建物が今も見られるとは、何という僥倖でしょう。


 さて私が、Aさんから今回ご教示いただいたのは、まず大正15年に移転する前の中外日報社の住所は、「妙法院前側町428番地」で、旅館の場所とは異なり、上記の「民家」の番地と一致するということでした。
 そしてAさんは、昭和35年に「中外日報」紙上に半年にわたって連載されていた、「時光流転」という同社の歴史をたどる記事のコピーを送って下さいました。それが、下のものです(昭和35年7月9日付)。

「中外日報」1960.7.9

 記事の中央の写真が、中外日報社の旧社屋で、記事中には「大正時代は妙法院前側町、昭和園入口北西角にあり、今なお旧社屋は昔の姿のまま誰かの住居になっている。」と書かれています。

 そして、下記の写真は、数年前にAさんが撮影された、「妙法院前側町428番地」の建物です。

中外日報社・旧社屋1

 玄関前の敷石の配列は、「中外日報」紙上の写真とまったく同じですね。窓の形・大きさや、瓦屋根の感じも、同一の建物であることを示唆してくれます。ただし、窓枠の色や、一階部分に「ひさし」のようなものが付いているところは、「中外日報」記事中の写真とは異なるようです。
 しかし少なくとも、昭和35年の時点で「旧社屋は昔の姿のまま誰かの住居になってい」たのならば、この建物はその古さからして、その後にまったく新たに建てられたものではないでしょう。
 多少の改装はなされているものの、たしかにこれこそ、「旧社屋」なのだと思います。

 そして下の写真は、今日のお昼頃に私が現地へ行って写してきた、その建物の写真です。

中外日報社・旧社屋2

 玄関前の植え込みは、以前よりもぶ厚く茂っていて、建物そのものは外から見えにくくなっています。

 ちょっと失礼して、脇の方から・・・。

中外日報社・旧社屋3


 ということで、以前のエントリにおける中外日報社の場所に関する記述は、ここでお詫びとともに訂正させていただきます。m(_ _)m


 ああそれにしても、1921年(大正10年)4月のある朝、旅行中の宮澤賢治と政次郎の父子は、上の写真の建物の玄関に立ち、大阪の叡福寺への行き方を尋ねたわけですね。ちょっと感無量という気持ちになります。

 中外日報社がこの社屋に入ったのが1907年(明治40年)とのこと、よくぞ現在まで取り壊されずに生き残っていてくれたものだと思います・・・。

 上の写真は人工衛星からですが、玄関前の植え込み、屋根の形はよくわかります。

きぬかけの路

 賢治らは1916年3月に、盛岡高等農林学校の修学旅行生として「衣笠村役場」を訪れたということは、以前の記事で触れました(1916年修学旅行の京都(1))。
 今日は、その旧衣笠村のあたりの名所をめぐる「きぬかけの路」という道を、雪のちらつく中、歩いてきました。

 この道は、京都市北西部の「衣笠山」という小さな山の山裾をぐるりとまわるように通っていて、伝承によれば、平安時代初期に宇多天皇が、真夏に「雪景色が見たい」などと無体なことを言い出した際に、この山に白絹を掛けて雪に見立てたということにちなんで、「衣掛けの路」と名づけられています。
 下の地図の右上のボタンで、「航空写真」または「地図+写真」に切り替えていただければ、周囲のだいたいの雰囲気がおわかりいただけるかと思います。


(1)ギャラリー雅堂; (2)堂本印象美術館; (3)café山猫軒


 まずは、昼前に家を出て、地下鉄とバスで金閣寺に行きました。昨夜までちらちらと雪も降っていたようですが、今日の昼すぎの金閣は、檜皮葺の屋根の北半分だけに雪が残っている、下写真のような状態でした。

雪の残る金閣

 金閣寺を出て、右手に進んでいくのが「きぬかけの路」です。460mほど歩くと、右手に「ギャラリー雅堂」(下写真)があります。ここは、木版画家の井堂雅夫さんの個人ギャラリーで、賢治にちなんだ作品を見たり、画文集『宮沢賢治・心象の風景』(1996)やその他のグッズを購入することもできます。
 とりわけ現在は、2月28日までの期間、宮澤賢治の世界や日本の風景を、「絹にアクリル絵の具で描いた肉筆画(タブロー)」32点が、特別展示されています。それは端正で、かつ幻想的な雰囲気の漂う作品でした。なお、井堂さんは、「花巻文化村」の理事長もされている方です。

ギャラリー雅堂

 「ギャラリー雅堂」を後にしてさらに300mほど進むと、「堂本印象美術館」があって、現在は「印象のかたち」という企画展をやっていましたが、今日はここは素通りさせていただきました。

 美術館を過ぎると、道の南側は立命館大学の衣笠キャンパス、北側は直接衣笠山の山裾になって、少し坂道になります。
cafe山猫軒 ゆるい上り坂を越えて、美術館から470mほど行ったあたりに、その名も「山猫軒」という、素敵なカフェがあります。
 入口はこぢんまりしているのですが、階段を下りて店内に入ると、ゆったりした空間が広がります。光の加減が本当に美しく構成されていて、机や椅子などの調度も落ち着いています。
 メニューは、飲み物から種々のケーキ、食事関係も充実しています。奥の本棚には、いろいろ本が置かれていましたが、ちゃんと『注文の多い料理店』もありましたです。
 今日は、ここで一休みして昼ごはんを食べました。私は、「エッグカレードリア」です。

 京都市街の中心部からは離れていて、交通もあまり便利な場所とは言えませんが、金閣寺や龍安寺に来られる機会があれば、この「山猫軒」は、ぜひ立ち寄る価値のあるスポットと思います。

cafe山猫軒店内

 「山猫軒」を出ると、100mも行かないうちに、「龍安寺」の入口です。広い境内を、池などを見ながら進んでいき、靴を脱いで「方丈」に上がると、今日も「石庭」の前の縁側には、老若男女いろんな国からの人々が、座って庭を眺めていました。

龍安寺石庭

 龍安寺からさらに900mほど歩けば、壮大な「仁和寺」があります。上の地図では、「五智山蓮華寺」の卍の西隣の、緑色の部分です。 春になると、やや開花時期の遅い大輪の「御室の桜」が見事なのですが、そちらはまたの機会にして、今日は龍安寺から帰途につきました。

1916年修学旅行の京都(2)

 賢治たち盛岡高等農林学校生の修学旅行の京都における2日目は、御所拝観から始まりました。下記は、校友会報」第三十一号「農学科第二学年修学旅行記」の、菅原俊男による記録です。

 三月二十四日晴天 〔京都、奈良〕  菅 原 俊 男
午前九時宿舎を出発し、電車の便を借り御所に向ひ、同三十分一同服装を整へ、紫宸殿より順次拝観を終る。此の間数十分実に感慨無量恐懼措く処を知らなかつた。十時四十分二条離宮を拝観した。・・・

 「富小路六角下ル」にある旅館西富家から、「電車の便を借り」て御所に向かうとなると、まず700mほど歩いて、「烏丸三条」の停車場から市電烏丸線に乗り、「烏丸中立売」で降りるということになると思います。降りたところが「中立売御門」で、ここから京都御苑に入ると、紫宸殿などのある御所も目の前です。
 現在、紫宸殿や清涼殿などがある御所の内部は、あらかじめ申し込んだ場合か、春と秋の「一般公開」以外では、見ることはできません。下写真は南側の「建礼門」ですが、ふだんはこのように閉ざされています。ちなみに、門の背後に見える大きな屋根が、「紫宸殿」です。

京都御所(建礼門)

 ここの時の体験をもとに賢治が詠んだと推測される短歌が、下記です。紫宸殿というと、「右近の橘、左近の桜」ですね。

256 日はめぐり
    幡はかゞやき
    紫宸殿たちばなの木ぞたわにみのれる

 さて、御所を後にすると、一行は「二条離宮」拝観に向かいます。現在は、たいてい「二条城」と呼ばれていますが、戦前はこのように「二条離宮」と言うのが一般的だったようですね。徳川幕府による呼称が「二条城」で、明治維新後は天皇のものになったから、「離宮」ということなのでしょう。考えてみれば、昔の「江戸城」のことを今は「皇居」と呼んでいるのも、同じことです。下写真は、今日の二条城です。

二条城

 二条城拝観を終えた修学旅行の一団の行程について、菅原俊男君はさらに次のように記録しています。

次で十一時を過ぐる頃七条橋を発し、桃山御陵に参拝、畏敬の念転た禁ずるを得なかつた。後京都府教育会紀伊郡部会学生団体休憩所に小憩し、昼食を済し、府立農事試験場桃山分場を参観した。本場は傾斜地にあつて、全面積は約五町歩、主に園芸に関することを試験して居つた。・・・

 「十時四十分二条離宮を拝観し」、「十一時を過ぐる頃七条橋を発し」たというのですから、超過密スケジュールで、これだけの時間で移動するためには、徒歩でなく電車を使わざるをえません。推測される路線は、京都電鉄堀川線の「二条城前」から乗って、「七条西洞院」で七条線に乗り換え、「七条大橋」で下車、というものです。
京阪七条駅 さらに、「七条橋を発し」というのは、京阪電鉄の「七条」駅(現在は、右写真のように地下駅になっています)から乗車し、「伏見桃山」で下車したのだろうと思われます。
 ちなみに、京阪電鉄では、宇治線もすでに営業していましたから、「七条」から「中書島」まで行き、ここで宇治線に乗り換えて「桃山南口」で下車するというルートもありえます。そしてこちらの方が、下車してから桃山御陵まで歩く距離が短いというメリットはあります。(「伏見桃山」から桃山御陵まで1.6kmに対して、「桃山南口」から桃山御陵までは0.6km。)
 しかし、京阪宇治線というのは運行本数が少なく、現在でもこちらの方がかえって時間がかかってしまいがちで、京阪本線の「伏見桃山」で降りた可能性の方が高いのではないかと思います。

 「伏見桃山」で京阪電車を降りて桃山御陵参道、ひたすら東の方に歩いていくと、自然に桃山御陵の参道になります。今日は午後から雨でしたので、ほとんど人のいない左写真のような道を、少しずつ上りながら、傘をさして歩くことになりました。
 さすがに私などでも、歩くうちに、「だんだんと厳かな場所に近づいて行っている」という雰囲気を、肌に感じてきました。

 上のような参道を1km弱ほど行くと、目の前が少し開けたところに出て、そこが明治天皇の陵である「伏見桃山陵」になっていました(下写真)。

伏見桃山陵

 墳墓は、「上円下方墳」だということで、奥に見える黒っぽい鏡餅のような形をしたところがそれかと思います。Google map や Google Earth の衛星写真で拡大してみると、「上円下方」である様子がよくわかって興味深いので、よろしければお試し下さい。


 桃山御陵に参拝した一行は、次に「京都府教育会紀伊郡部会学生団体休憩所」という、非常に長い名前の休憩所で休み、昼食もとったということですが、これについて『京都府教育会五十年史』(1930)という本を図書館で見てみると、下のような写真が載っていました。

京都府教育会学生休憩所

 そして本文の「紀伊郡部会」の項には、この休憩所について、次のような説明が書かれていました。

明治大帝の御陵の伏見桃山に御治定せられ大正元年九月十五日御歛葬の事あり庶民の参拝を許さるゝや日々集ひ來る者万を以て数ふ。然るに一二有志者の休息所設置あるのみにて団体並に児童生徒を収容するの設備無なりしかば本部会は御陵下の教育団体として之を坐視するに忍びず、応急策として天幕張の休憩所を便宜の地に設けんとせしに事聞するや破格の恩典を以て御大葬儀奉拝所跡の使用を聴許せらる。こゝに於て役員一同感奮事に従ひ参拝許可の第三日たる九月十九日を以て休憩所を開設したるに参拝せる各学校に於ては頗る之を便とし一日の入場学校数五十余職員生徒一万以上に上りしことあり。参拝期間四十余日に収容せし所実に三千八百校人員三十万人に達せり。

 ・・・という謂われのある「休憩所」だったということです。
 この建物は、もちろん現存はしていないでしょうが、具体的にどこにあったのか、上の写真を持って行って御陵の事務所の方に尋ねてみましたが、今日は休日ということもあって人も少なく、詳細はわかりませんでした。
 帰途、「これが跡地では?」と思わせる場所もありましたが、確認はまた後日に譲りたいと思います。

 それにしても修学旅行生のこの日は、朝から御所参拝、二条離宮参拝、桃山御陵参拝、という過密日程で、京都にある「美しい日本」を拝ませられる行事が、立て続けという感じです。「大正デモクラシー」と言われた当時でも、また高等教育機関においてさえも、やはり「皇国教育」は浸透していたのですね。


 さて、休憩と昼食を済ませた一行は、今度は高等農林学校の修学旅行らしく、「府立農事試験場桃山分場」を見学します。
教育大附属桃山中学校 この施設は、現在の京都教育大学附属桃山中学校と同附属桃山小学校の敷地にあったもので、今も中学校の門の脇には、右のような説明板が設置されています。「明治37年には、府立農業試験場桃山分場が設置され、果樹・蔬菜や草花も試作された」という箇所に、由緒が記されています。
 さらにその下に、「後に府立女子師範学校が洛北紫野よりここに移転されたのに伴い試験場は廃止された」とありますが、これは賢治たち一行が見学に来た翌年の、1917年(大正6年)のことでした。1年の違いで、賢治たちは何とか見学ができたわけです。

 在りし日の「桃山分場」の様子については、また「京都北山アーカイブズ」の下記のページが、記録写真を載せてくれています。
  ・京都府立農事試験場桃山分場1
  ・京都府立農事試験場桃山分場2
  ・京都府立農事試験場桃山分場3
  ・京都府立農事試験場桃山分場南圃梨開花ノ状
  ・京都府立農事試験場桃山分場孟宗筍掘取ノ状

 ここを見学し終わると、一行は0.9kmほど歩いて、「桃山」駅から国鉄奈良線に乗り、次の目的地である奈良に向かいました。(下写真は、現在のJR桃山駅)

JR桃山駅

1916年修学旅行の京都(1)

京都駅前

 上は、現在のJR京都駅の改札を出たところです。原廣司氏の設計による超モダンな駅ビルが出現してちょうど10年がたちましたが、京都に住む者にとっても、やっとこれに慣れてきた感じです。

 一方、1916年3月23日の早朝に、賢治たち盛岡高等農林学校の修学旅行生は、京都駅に降り立ちました。下記は、「校友会報」第三十一号「農学科第二学年修学旅行記」の、原勝成による記録より。

 三月二十三日曇 〔京都附近〕  原 勝 成
午前四時九分京都七条駅に着いた、駅前の奉祝門は独り御大典当時の賑さを語つてゐる。

 「御大典」というのは、大正天皇の「即位礼」+「大嘗祭」のことで、1915年(大正4年)11月に、京都で行われました。賢治たちが京都を訪れたのは、それから4ヵ月後のことで、各所にそのなごりが残っていたわけです。
 駅前にあった「奉祝門」というのは、「京都北山アーカイブズ」の、「鹵簿進御予習(京都駅前)」という写真で見ることができますが、それにしてもこれは巨大な「門」ですね。こんなのがだだっ広い駅前の広場に立っていたら、盛岡から来た修学旅行生も、さぞ圧倒されたでしょう。

 駅を後にした賢治たち一行は、まず東本願寺と西本願寺を訪れます。東本願寺までが0.7km、さらにそこから西本願寺までが0.9kmで、いずれも徒歩ですね。

 下は、今日の東本願寺。「御影堂」が覆いをかけられて修復工事中です。

東本願寺

 それから下は、西本願寺。こちらも左の方で、やはり「御影堂」の修復工事をしています。

西本願寺

 さらに一行は、西本願寺から「桂橋畔の万甚楼」まで行って、朝食をとりました。
 「桂橋」というのは、桂橋八条通(旧山陰街道)が桂川をまたぐ橋で、1983年に鉄筋コンクリートの近代橋に架け替えられてから、現在の正式名称は「桂大橋」となっているのですが、石造りの親柱には、今も右のように「桂橋」と刻まれています。西本願寺から桂橋まではおよそ3.7kmで、この間も徒歩の移動だったのでしょう。「万甚楼」というのが具体的にどこにあったのかは、ちょっとわかりませんでした。
 桂橋を西に渡った北側には、美しい「桂離宮」があるのですが、賢治たちはここには立ち寄らずに、「府立農林学校」を目ざします。

 京都府立農林学校の校舎はこの当時、葛野郡桂村にあり、「京都府立農林専門学校(旧制)」(Wikipedia)によれば、「阪急桂駅北約200mの地点、京都本線と嵐山線の分岐付近」にあったということですから、下の写真のあたりということになります。今は、まったく面影もありません。

阪急桂駅北200m

 次いで一行が訪ねた「京都府立農事試験場」も、府立農林学校に隣接してあったということです。

 ところで、先日の記事「山しなのたけのこばた」に書いたように、この後一行は「竹林地」へ行って筍栽培の見学をしていますが、そのはっきりした場所はわかりません。しかし、桂村からさほど遠くない洛西地区のどこかの竹林だったのではないかというのが、今のところの私の推測です。
 一行は「竹林地」で筍栽培に関する熱心な説明を受け、お土産として筍を各自二本ずつもらい、続いて「嵐山」に向かいました。洛西地区から嵐山までは、4~5kmくらいはあるのですが、当時はこのあたりに公共交通機関もなく、徒歩で向かったでしょう。

 嵐山の名所「渡月橋」の下を流れる川は、「桂橋」が架かっている同じ桂川の上流にあたりますが、このあたりでは「大堰川」と名前を変えています。昨日の台風4号が降らせた雨の影響で、流れは速く濁っていました。

嵐山

 さて、ここ嵐山からは、一行は「電車にて金閣寺へ行つた」と、原勝成の記録にも書いてあります。
 1916年当時、京都市内あるいは近郊を走っていた電車としては、下記のものがありました。その時点での開通区間も、付記しています。

京都市電
・今出川線: 千本今出川~烏丸今出川
・丸太町線: 千本丸太町~熊野神社前
・四条線: 四条大宮~祇園
・七条線: 七条大宮~七条河原町
・東山線: 熊野神社前~東山七条
・烏丸線: 烏丸今出川~烏丸塩小路
・千本線: 千本今出川~四条大宮
・大宮線: 四条大宮~七条大宮

京都電鉄
・稲荷線: 勧進橋~稲荷
・伏見線: 京都駅前~中書島
・堀川線: 北野~京都駅前

嵐山電車軌道
・嵐山~四条大宮

京阪電鉄
・京阪本線: 大阪天満橋~京都五条
・宇治線: 中書島~宇治

 で、これらのいずれかを利用して、嵐山から金閣寺へ行くとなると、まず「嵐山電車」で「四条大宮」まで行き、そこで市電千本線に乗り換えて、終点の「千本今出川」から歩く(徒歩1.9km)、あるいは千本線の途中の「千本中立売」で京都電鉄堀川線に乗り換え、終点の「北野」から歩く(徒歩1.6km)という二つののいずれかと考えられます。乗り換えの手間と、徒歩の距離にさほど違いがないことを考えれば、前者だったかもしれません。
 いずれにしても、一行はまず嵐山駅から電車に乗ったでしょう(下写真は、京福電鉄嵐山駅)。
嵐山駅

 ここから電車に乗金閣寺ると、現在なら20分足らずで市街地の「四条大宮」に着きます。そこから市電に乗り換えて北に向かい、降りてからさらにしばらく歩くと、金閣寺(正式には「鹿苑寺」)の入り口が見えてきたはずです。
 ここで金閣と庭園を見学した後、一行はやっと帰途につきます。

 金閣寺から1.2kmほど南に歩くと、「衣笠村役場」です。この役場は、当時の「平野小学校」の校地内にあって、この小学校は現在は「京都市立衣笠小学校」になっています。
 「京都府立農林学校・衣笠村役場」の記事に載せた写真を参考にすると、だいたい下写真で右手の校舎のあたりに、「衣笠村役場」はあったと思われます。

衣笠小学校

 当時は、学校の東側にあるこの門が正門でしたが、現在は北側が正門になり、こちらは通用門になっているようです。
北野天満宮 村役場で、村長から直々に衣笠村の農業状態について説明を聞くと、一行は最後に、右写真の北野神社(北野天満宮)に参拝して、「電車に乗して旅館なる西富家に向つた」ということです。


 「西富家」という旅館は、当時の旅館一覧を調べると、住所は「富小路六角下」と書いてあります。北野神社からここまで「電車」で行くとすれば、すぐ前にある「北野」駅から京都電鉄堀川線に乗り、「四条西洞院」で市電四条線に乗り換え、「四条高倉」で下車して、あと500mほど歩く、というルートになると思います。

 下の写真は、当時「西富家」があった場所に、今も「要庵 西富家」として営業を続けておられる旅館です。昔より、敷地面積は小さくなっているかもしれませんが、現在は修学旅行生が泊まるなんて考えられないような、一流の旅館です。(「要庵 西富家」のサイトをご覧いただくと、雰囲気がわかると思います。)
 ちょうど祇園祭の期間なので、玄関に幕がかけられています。

要庵 西富家

京都府立農林学校・衣笠村役場

 先日の記事「山しなのたけのこばた」で、1916年3月26日に賢治が盛岡高等農林学校の修学旅行において、京都府立農林学校や嵐山、金閣寺、衣笠村役場、北野神社などを訪ねたということに触れました。

 この日の主要な目的地だった「京都府立農林学校」については、Wikipedia の「京都府立農林専門学校(旧制)」という項目が、詳しい説明をしてくれています。この学校は何度も名称の変更を経ているようですが、現在の京都府立大学の遠い前身の一つにあたります。賢治が訪ねた1916年当時は、葛野郡桂村―現在の阪急桂駅の北200mほどの場所に校舎があったことが、上記の Wikipedia の説明に書いてあります。
 当時の学校の写真は、ネット上で探しても見つからなかったので、図書館で『京都府立大学百年誌』(1995)という本を見てみると、校地が桂村にあった当時の写真が載っていました(下写真)。賢治たちも、この校舎を訪問したわけですね。

京都府立農林学校(桂時代)

 また、この府立農林学校の隣にあったという「農事試験場」については、「京都北山アーカイブス」に、明治末期ー大正初期の写真が掲載されています(下記リンク)。
  ・京都府立農事試験場1
  ・京都府立農事試験場2
  ・京都府立農事試験場3
  ・京都府立農事試験場4
  ・京都府立農事試験場化学試験室1
  ・京都府立農事試験場化学試験室2


 賢治たち一行がこの後に訪れた、嵐山、金閣寺、北野神社は、もちろん現在も有名観光地ですが、「衣笠村役場」が現在のどこにあったのかということについては、ネット上で調べただけでは、ちょっとわかりませんでした。
 金閣寺などがある京都市北区の一部は、1918年に京都市に合併吸収されるまでは、「葛野郡衣笠村」として京都市とは別の村だったのですが、当時の「村役場」は、どのあたりにあったのか・・・?

 これも図書館で、『京都市立衣笠小学校百周年記念誌』(1973)というのを眺めていると、下のような写真が見つかりました。

平野小学校と衣笠村役場

 「平野小学校」というのは、現在の「京都市立衣笠小学校」で、何とその校地の中に、往時の「衣笠村役場」はあったのです。さらにこの校内には駐在所もあって、小さな村の行政の中心というべき場所だったようですね。

 賢治たち一行が衣笠村役場を訪ねると、村長がみずから、村の農業について詳しく説明をしてくれたようです。下記は、「校友会報」第三十一号「農学科第二学年修学旅行記」の、原勝成による記録より。

こゝ(金閣寺)を見物し終りて、帰途に就き途中衣笠村役場を訪れ、村長より附近の農業状態等を聞いた。実に本村は都会附近として感心すべき処にて、全村殆んど農業にて商業工業を営むものは必ず一家を破滅せしむるものであると云ふことを深く信じて、一生懸命農業に従事してゐるとの事にて、従つて皆富んでゐて実に模範とすべき村である。


 こんどの連休にもし天気がよかったら、賢治の京都における修学旅行跡をたどってみようかとも思っています。

山しなのたけのこばた

 昔から京都産の筍はブランド品として有名ですが、その中でも「山科の筍」というと、最も珍重されてきたものの一つです。京都に住んでいた作家、故高橋和巳氏のエッセイに「山科のタケノコ」(1969)というのがあって、「京都の季節の味といえば、タケノコですね。京都周辺、ことに山崎、山科のタケノコを、関西風の薄味の醤油で味つけをして、こんぶ、鰹節をそえて食べるのがいい。」と書かれています。また、「山科の筍」で検索してみても、いろいろなグルメページがヒットします。

 宮澤賢治が1916年3月、盛岡高等農林学校の修学旅行で京都・奈良方面を訪れた時の短歌の一つに、

257 山しなの
    たけのこばたのうすれ日に
    そらわらひする
    商人のむれ

というのがあります。
 一方、『【新】校本全集』第十六巻の「年譜篇」で、1916年3月23日の項には、次のように記されています。

三月二三日(木) 曇。午前四時九分京都駅着。東西本願寺を訪れ、桂橋際の万甚楼に六時到着。九時府立農林学校、農事試験場を見学。ついで竹林の筍栽培を見、のち嵐山、金閣寺を見物。帰途衣笠村役場に寄り村長より農業状態をきき、北野神社に詣り、三条の旅館西富家に宿泊。(強調は引用者)

 したがって、これまで私は何となく、賢治たちはこの3月23日の農事試験場見学の後、山科まで行って筍栽培を見学し、上記の短歌はその折の体験を詠んだもの、と思っていました。
 山科における筍の産地としては、山科区西部の「西野山」あたりがその中心で、最近たまたま「坂上田村麻呂の墓」ではないかと注目を集め、先日私も訪ねてみた「西野山古墓」(下写真)のあたりも、筍産地の一角です。

西野山古墓

 写真で見るように、標識の後ろは鬱蒼とした竹林が続いていますが、その昔の賢治も、どこかこのあたりの竹林で筍栽培を見たのだろうかと、私はちょっと感慨にひたっていました。


 ところがその後、修学旅行のこの日の行程をもう少し詳しく検討してみると、賢治たち一行がこの日に山科まで行ったとは、ちょっと考えにくいような気がしてきたのです。

 ここでもう一つの資料として、「校友会報」第三十一号の「農学科第二学年修学旅行記」に、賢治の同級生である原勝成が、この日のことについて書いた記録が『【新】校本全集』第十四巻「校異篇」に収められているので、下に抜粋してみます。

三月二十三日曇 〔京都附近〕     原 勝 成
午前四時九分京都七条駅に着いた、駅前の奉祝門は独り御大典当時の賑さを語つてゐる。先輩の山下川見両君は、遠路態々来り迎へられた、一同東本願寺及西本願寺を訪れ。桂橋側なる万甚楼へと急いだ。(中略)
六時頃楼に着いた、夜来の小雨は名残なく霽れ渡り、朝霧は連山に棚引き、京都第一日目を飾つた。こゝにて朝食を取り、佐藤氏の案内により九時頃府立農林学校に行つた。一先生の案内にて農具室農場等を参観した、(中略)
それよりお隣りの農事試験場を参観した。標本室農場の麦の肥料試験、種類試験等を見、又ポーポーと云ふ珍しき木と、その果実を見た、再び農学校に引き返し茶菓の饗応に預り小憩の後辻井氏の竹林地へ向つた。
竹林地は広大にして、全山数丈の竹鬱蒼として茂つてゐた。この辺り竹林は最も大切なる財産にして、一反歩七百円以上の売買価格を有すると云ふことである。之を以つて見ても如何に竹林に利あり、且つ如何に奨励せられつゝあるかは知るに難くないのである。
辻井氏は又吾々の為めに、特に筍掘りの方法を説明し、尚実地に掘って示された、こゝにて筍二本土産として貰ひ受け一同厚く礼を述べて嵐山へと向つた、(後略)

 この日の行程を地図にマークしてみると、下のようになります。

(1) 東本願寺
(2) 西本願寺
(3) 桂橋
(4) 府立農林学校・農事試験場
(5) 竹林地( A or B?)
(6) 嵐山
(7) 金閣寺
(8) 北野天満宮
(9) 旅館・西富家

 各訪問地の間の道のりを見てみると、まず「京都駅」→「(1)東本願寺」が 0.7km、「(1)東本願寺」→「(2)西本願寺」が 0.9km、「(2)西本願寺」→「(3)桂橋」が 3.7 km、「(3)桂橋」→「(4)府立農林学校」が 0.9km です。
 原勝成の記録によれば、ここまでは交通機関の記載はなく、「急いだ」とか「行つた」などの表現が用いられており、徒歩による移動だったのだろうと推測されます。
 次に訪問した「竹林地」がどこだったかはとりあえず措いておき、上記に続く原勝成の嵐山以降の行程に関する記録は、次のようなものです。

風景の美を以つて誇れる嵐山は、一種雄大なる自然美を発揮し、桂川の清流にその影を流し、渡月橋はこの清流に架せられ、一層の風趣を添へてゐる。山へ登る時間もないので桂川畔より眺めて後電車にて金閣寺へ行つた。
金閣と云ひ庭園と云ひすべて当時義満公の栄華を極めたる有様は十分に偲ぶことが出来る。こゝを見物し終りて、帰途に就き途中衣笠村役場を訪れ、村長より附近の農業状態等を聞いた。(中略)
一同此処を辞し去り北野神社に参拝し、それより電車に乗して旅館なる三条の西富家に向つた。時に午后四時半日漸く西山に傾かんとしてゐた。

「(6)嵐山」→「(7)金閣寺」の道のりは約 7km で、この間は「電車にて」と記されています。「(7)金閣寺」→「(8)北野天満宮」は 1.2km で徒歩でしょうが、「(8)北野天満宮」→「(9)西富家」間は 4.7km で、この間も「電車に乗して」と書かれています。


 さて、「(4)府立農林学校」の次に、賢治たちはどこの「竹林地」に行ったのかというのが本日の問題ですが上の地図で(A)の印を付けた位置が、山科の「西野山」です。府立農林学校からこの場所までは、10km 以上ありますが、原勝成の記録には、「小憩の後辻井氏の竹林地へ向つた」とあるだけで、交通機関を利用したような様子は読みとれません。
 さらにこの山科から「(6)嵐山」に向かったとすると、府立農林学校から積算の道のりは 20数km となり、いくら健脚の若者といえども、この日のスケジュールの中で歩いて移動するのは、不可能と思われます。

 となると、この日に賢治たち一行が訪ねた「竹林地」は、もう少し桂や嵐山から近くにあったはずです。私としては、それは当時の桂村一帯(現在の洛西地区)に広範囲に分布していた竹林の、どこか一角だったのではないかと思うのです。
 例えば、上の地図で(B)印を付けた場所は、「京都市洛西竹林公園」です。1970年代にこの地域に「洛西ニュータウン」が建設されるにあたり、もとからあった広大な竹林の多くが伐採されましたが、これはそのごく一部を記念のために残して公園化したものです。賢治の時代には、ここに限らず(4)からもっと近くにも竹林が広がっていたと思われ、「辻井氏の竹林地」も、そのうちのどこかにあったのではないでしょうか。


 というわけで、賢治が短歌で「山しなのたけのこばた」と詠んだのは、実際には山科ではなくて、洛西地区のどこかだったのではないかというのが、本日のところの私の考えなのですが、そう結論づける前に、あと二つほどの他の可能性について検討しておかなければなりません。

 その一つは、翌3月24日に一行が見学した、「府立農事試験場桃山分場」です。ここでも試験作物として筍が栽培されており、こちらの写真を見ていただくと、1909年における「桃山分場孟宗筍掘取ノ状」がわかります(「京都北山アーカイブス」より)。これも、十分に「たけのこばた」と呼べるものですから、賢治がここで短歌を詠んだと考えられなくもありません。
 ただしかし、このような研究施設に、「そらわらひする商人のむれ」がいるというのが、ちょっと決定的にありえなさそうなところです。

 あともう一つの可能性として、一行は3月26日に京都での行程を終えて、「京津電車」で滋賀県大津市に向かいますが、その途中で電車は山科を通過するのです。前にも引用した「校友会報」の修学旅行記のこの日の項には、「八時宿を出で京津電車にて大津に向ふ。山科の辺を過ぐ。大石良雄に有名たり。名所旧跡又多し。追分過ぎて大津に着く。」と記されています。
 この車窓から、賢治が「山しなのたけのこばた」を見て、短歌に詠んだという可能性も考えられなくはありません。しかし、走っている電車から「そらわらひする商人のむれ」を観察するのは、ちょっと困難だろうということ、さらにこの京津電車の沿線には、ほとんど竹林はないことから、やはりこの可能性も無視してよいと思います。


 結局やはり、「山しなのたけのこばた」の舞台は、山科ではなくて洛西地区のどこかだったのではないかと、私としては考えるのです。ただ、ここにまだ二つほどの問題点は残ります。
 一つは、ほとんど事実にもとづいて歌作をしていたと思われる賢治が、なぜ実際には別の場所だったのに、「山しなのたけのこばた」と書いたのかという問題です。これは難問ですが、たとえば賢治はあらかじめ「京都の筍の産地と言えば、山科」という先入観があって、それが思わず短歌の表現に出たのでしょうか。
 もう一つの問題は、「〔歌稿A〕」「〔歌稿B〕」とも、「257 山しなのたけのこばた」の歌は、「256 日はめぐり幡はかゞやき紫宸殿たちばなの木ぞたわにみのれる」の歌の後に位置していますが、旅行の行程では、「竹林地」を訪ねたのは3月26日、御所の「紫宸殿」を拝観したのは翌日の3月27日なのです。原則として時間順に配列されている歌稿において、どうしてここで逆転が起こっているのかということも、原因不明です。


 最後に、「そらわらひする商人のむれ」という表現について。
 その具体的情景についてはいま一つぴんと来ませんが、上記の原勝成の記録を見ると、竹林地の所有者とおぼしき「辻井氏」は、しきりに「この辺り竹林は最も大切なる財産にして、一反歩七百円以上の売買価格を有する」「竹林に利あり」などと、金銭的な側面を強調して述べているようです。
 ひょっとして、これを聴いていた賢治は、「こんな奴は農民ではなくて商人だ」と内心忸怩たる思いがあって、彼らを「そらわらひする商人」と表現したのではないかとも思ったり・・・。

修学旅行に使われた「布袋館」

 賢治が泊まった三条小橋の旅館「布袋館」について昨日書きましたが、この宿は昭和の初期には、京都を訪れる修学旅行生の宿泊にもしばしば使われていたようです。

 跡見女学校(当時)の1928年(昭和3年)修学旅行を記録した「關西修學旅行の記」のページの下の方、「五年生記録係」による「第四日」の項を見ると、「朝九時布袋館を出發、嵐山に向ふ」との記載があります。それにしても当時の女学生による旅行記は、ほんとうに生き生きとしていますね。
 また、デジタル系ライター荻窪圭氏の2001年2月の日記で、02/06 の項を見ると、「新津高等女学校・印南イネさんの修学旅行日程」が引用されていますが、「4月30日金曜日」に、「午前9:30三条駅下車。京都見学。京都泊(布袋館)」とあります。

 この頃の布袋館は、きっとかなり繁昌していたのでしょう。

京都における賢治の宿(1)

 1921年4月、宮澤政次郎氏は、家出して東京にいた賢治を誘い、関西方面の旅をしました。この時、京都にやってきた父子は、「三条小橋の旅館布袋屋」に泊まったということが『【新】校本全集』年譜篇にも記されていますが、「布袋屋」という旅館は現存していません。
 この旅館がどの場所にあったのだろうということが以前から気になっていたのですが、三条小橋商店街理事長の大西弘太郎さんにお尋ねしたところ、現在は「加茂川館」という旅館になっている場所に、戦前は「布袋館」という旅館があったということを、教えていただきました。


 東海道の京都池田屋騒動之址側起点とされている「三条大橋」は、三条通が鴨川を渡る橋ですが、そこから西に90mほどのところ、三条通が高瀬川を渡るところにかかる橋が、「三条小橋」です。
 長さ10mにも満たないようなかわいい橋なのですが、そのすぐ西には新選組の「池田屋事件」の旧跡があったり(右写真)、橋の東の佐久間象山・大村益次郎遭難之碑たもとには「佐久間象山先生・大村益次郎卿遭難之碑」(左写真)があったり、いろいろな歴史的事件の舞台ともなっています。
 この地は、東海道を歩いて旅してきた人が、やっと三条大橋にたどり着いて宿をとるというロケーションにあって、江戸時代から宿屋が多く並んでいたということです。幕末の頃に諸国から集まった志士たちも、この辺の宿に身を潜めたり集結したりしたわけですね。ちなみに左の写真で、「高瀬川」と書かれた石の欄干が、「三条小橋」です。


 さて、この三条小橋から三条通を東へ50mほど行ったところ、通りの北側に面して建つ立派な旅館が、「加茂川館」です(下写真)。

加茂川館

 加茂川館のサイトをご覧いただくと、旅館についてより詳しい情報も見られます。また、こちらをクリックしていただくと、MapFan Web でこの旅館の場所が表示されます。

 この場所に、戦前は旅館「布袋館」があり、その後「近江屋」という旅館だった時代があって、数年前から現在の「加茂川館」となっているということです。

 ところで、三条小橋商店街の大西さんからは、この場所に建つ旅館の歴史について、さらに興味深い情報も教えていただきました。

『東海道中膝栗毛』七編上 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』には、「三条の編笠屋」という旅籠が登場するのですが、この「編笠屋」とは、江戸時代にこの加茂川館のあった場所~すなわち賢治の泊まった布袋館のあった同じ場所~に、実在していた旅籠だったということなのです。右の画像は、岩波文庫版『東海道中膝栗毛』「七編上」の一部ですが、弥次郎兵衛が京の五条大橋のあたりで、相撲取りのような男にからまれそうになるところです。相撲取りが、「こつとらは今三条の編笠屋から出て來たものじや」と言っています。
 思わぬところで、思わぬ由緒に遭遇するものですね。

 三条小橋商店街振興会では、このようなエピソードもあること、そしてこの地が江戸時代には京都の「玄関口」であったことにちなんで、三条大橋のたもとに、弥次郎兵衛と喜多八の銅像を建てています(右下写真)。
弥次喜多像 二人の後ろに見えるのは、鴨川と三条大橋です。


 1921年4月のある日の午後、下坂本の港で汽船を降りた賢治ら父子は、840mもある比叡山を、歩いて滋賀県側から京都府側へ越え、おそらく夕闇の中を三条大橋を渡って、ここにあった「布袋館」という旅館に、荷を解いたのです。
 賢治は24才、政次郎氏もまだ47才とはいえ、二人の健脚には感心させられます。

 下の写真は、二人が越えてきた比叡山(画面中央)を、三条大橋から望んだところです。
 三条大橋から比叡山を望む

(今回の私の問い合わせに対し、ご親切にお答えいただいた三条小橋商店街の大西弘太郎さんに、感謝申し上げます。)