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「主観性」から「客観性」へ

 賢治が『春と修羅』を書いた時期、具体的には1922年1月から1924年1月頃までという2年間ですが、この間の賢治の「心の遍歴」というものは、大きな波乱に満ちていました。
 最大の要因は、1922年11月の妹トシの死という出来事で、その内実は「無声慟哭」三部作や、樺太旅行における挽歌群に、記録されています。これは、確かに詩集『春と修羅』の最大のテーマの一つとも言えるものですが、しかしそれ以外にも、たとえば同僚堀籠文之進との葛藤という問題も、当時の賢治にとっては相当の重みを持つものだったと思われます。この悩みが、詩集前半部の代表作である「春と修羅」や「小岩井農場」の、隠れた主題だったのではないかと私は感じていて、それについては以前に「「〈みちづれ〉希求」の昇華」という記事などに書きました。

 私が上の記事で考えてみたことは、賢治は「一人の人とどこまでも一緒に行こう」と一途に求める「〈みちづれ〉希求」の苦悩と挫折を通り抜け、「全ての生き物と一緒に本当の幸福を目ざす」という、一種の菩薩行を己の究極の目標として見定めることにより、この危機を乗り越えたと言えるのではないかということでした。「個別的・主観的な愛」から、「普遍的・客観的な愛」への超克です。

 そして、この時期の賢治における「主観性」から「客観性」への変化は、愛や人間関係という領域においてだけでなく、この世界で生起する現象をどう認識するか、すなわち「世界観」という部分においても、同時並行的に変動が起こっていたのではないかと、私は思うのです。

現象としての真空

 私たちの常識的な感覚では、あるいは古典力学的には、「真空」というのは「何もない空間」であり、それが何らかの「もの=実体」であるなどというのは一種の論理矛盾ですが、20世紀以降の物理学では、「真空」も一つの物理的対象として、すなわち「実体」として扱われるようになっています。
 宮澤賢治の作品では、「銀河鉄道の夜」の「一、午后の授業」で、先生が、「そんなら何がその川の水にあたるかと云ひますと、それは真空といふ光をある速さで伝へるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮んでゐるのです」と説明していますが、ここで「真空といふ光をある速さで伝へるもの」と言っているところに、まさにこの近代物理学的な真空観が表れています。「真空=もの」だと言うのです。

 この、「真空」が「光をある速さで伝へるもの」だという先生の言葉は、アインシュタインが特殊相対性理論(1905)の出発点とした命題で、ここに端的に、当時の賢治がアインシュタインの理論を、少なくとも表面的には知っていたことが表れています。
 ところで、これに関して『定本 宮澤賢治語彙辞典』の「真空」の項の解説には、次のように書かれています。

これまで童[銀河鉄道の夜]での「真空」の記述が、アインシュタインの特殊相対性原理の受容を意味すると解釈されてきたが、検討を要するかもしれない。賢治の「真空」理解は、光が横波で電磁気と一体の現象であることを予言したマクスウェルに近いところがある。マクスウェルはエーテルの存在を前提としており、この点も賢治の「真空」の認識に近い。

 この説明を読むと、まるで賢治の考えがアインシュタインの理論よりもマクスウェルのそれに近いという風に受けとれますが、もちろんアインシュタインも、「光が横波で電磁気と一体の現象である」ことを前提としていることに違いはありませんから、この比較はちょっと意味不明です。もし賢治がアインシュタインよりもマクスウェルを信じていたのなら、ジョバンニの先生は午后の授業において、天の川の水のことを「エーテルといふ光をある速さで伝へるもの」と言わなければならなかったわけですが、これを「真空」と言っているところにこそ、賢治のアインシュタイン理解が表れているわけです。

 つまり、「真空とは光の媒質である」ということであり、ここにおいて真空は「何もないだけの空間」ではなく、物理学的実体と見なされているわけです。あるいは、いつも仏教的立場から「非・実体論」を採っていた賢治のことを思えば、「真空は実体である」と言うよりも、「真空とは、ひとつの現象である」と言っておいた方が、より似つかわしいかもしれません。

 この「真空は媒質である」という命題を、少し変えて「真空は溶媒である」に置き換えたところに生まれたのが、あの「真空溶媒」という作品です。
 液体の中に、さまざまな物質が溶け込んでしまうと形が見えなくなるように、「真空」そのものが溶媒として、いろんな物を溶かして消してしまうというお話ですね。

……もうおそい ほめるひまなどない
虹彩はあはく変化はゆるやか
いまは一むらの軽い湯気ゆげになり
零下二千度の真空溶媒しんくうようばいのなかに
すつととられて消えてしまふ
それどこでない おれのステツキは
いつたいどこへ行つたのだ
上着もいつかなくなつてゐる
チヨツキはたつたいま消えて行つた
恐るべくかなしむべき真空溶媒は
こんどはおれに働きだした
まるで熊の胃袋のなかだ
それでもどうせ質量不変の定律だから
べつにどうにもなつてゐない

思索メモ2  以上、このあたりまでは、「真空」の特殊相対性理論的解釈およびその派生物としていちおう理解できるように思いますが、では右図に記されたような「真空」概念になると、どうでしょうか。
 これは『新校本全集』では「思索メモ2」と呼ばれているもので、書簡484aの下書きを消して書かれています。この書簡484aというのは、羅須地人協会設立時の会員であった伊藤与蔵に宛てたもので、書簡そのものは1933年8月30日付けですから、このメモも賢治の最晩年、おそらく亡くなる1か月前頃に書かれたものではないかと推測されます。
 「科学より信仰への小なる橋梁」と題され、物質の成り立ちに関する階層的な図式が書かれていて、これは「思索メモ1」とも、ほぼ同内容のものです。

 これを横にしてみると、下記のようになります。

思索メモ2

 この図は、賢治が想定していた「異世界」(=「異空間」)の成り立ちを示そうとしたもののようです。「異単元」というのは、異世界を構成する最小単位、すなわちこの世界では「電子」に相当するもので、それがさらにその世界の物質や生物を構成して、全体として「異世界」に至る、ということでしょう。この図式において私が面白いと思うのは、「この世界」と「異世界」が、「真空」を共通の基盤としている、というところです。
 ここでもしも、「真空」が古典力学におけるように「何もない空間」であれば、それは両者の「共通基盤」には成りようがなく、「この世界」と「異世界」は、ただ真空の中に併存しているだけで、真空は単なる「容れ物」にすぎません。しかし賢治のモデルではそうではなくて、「真空というもの」が両者を「媒介している」ところが、とても興味深いと思うのです。
 ちなみに、「真空」がそのように異空間を媒介しているという考えは、「阿耨達池幻想曲」にも記されています。

虚空に小さな裂罅ができるにさういない
  ……その虚空こそ
     ちがった極微の所感体
     異の空間への媒介者……

 ここでは「真空」ではなく、仏教的に「虚空」と記されていますが、それが「異の空間への媒介者」だと言うのです。
 この賢治のモデルを仏教の方から見れば、我々がこの世界で「実体」と思っているものも、実は我々がそう感じているだけの「現象」で、それは突きつめていくと「空(虚空)」であり、それが「空」であるからこそ、「異世界」にも変じることができる、というような感じになるのかもしれません。

 しかしそれでは、賢治が「科学より信仰への小なる橋梁」と書いているように、仏教だけでなく科学の側においても、このように「真空」が、この世界の構成単位と別の世界の構成単位を媒介するなどという理屈があるのだろうかと考えてみると、何か似たのがあるように思います。

粒子対の生成

 上の図は、陽子(p)にガンマ線(γ)を照射すると、何もないところ(=真空)から電子(e-)と陽電子(e+)の「対」が生成するという現象を表していて、1932年にアメリカの物理学者カール・デイヴィッド・アンダーソンが発見しました。この「電子」に対する「陽電子」のように、通常存在する素粒子と質量・スピンが同じで電荷が逆の粒子のことを「反粒子」と呼び、たとえば陽子に対しては反陽子が、対応する反粒子です。
 「反粒子」が存在するからには、反粒子ばかりで構成された「反物質」や、反物質ばかりでできた「反世界」というものが、宇宙のどこかに存在するのではないかというのが、私の子供の頃のSF小説の定番ネタの一つでしたが、これこそまさに、賢治が図にしている「異単元―異構成物―異世界」という階層構造そのものです。
 現実には、粒子と反粒子が出会うと、上図と逆の反応が起こり、莫大なエネルギーを放出して両方とも消滅してしまうので、残念ながらこの宇宙に「反世界」が安定して存在することは不可能なのですが、少なくとも概念的には、そのような「異世界」を、科学的に考えてみることが可能なのです。

 そしてまた面白いことに、そのような粒子と反粒子の生成や消滅を媒介しているのが、「真空」そのもの物理的性質であるというところがまた、賢治のモデルとぴったり符合しています。
 イギリスの物理学者ポール・ディラックは、陽電子が発見されるよりも前の1930年に、量子力学を相対性理論に対応させた自らの「ディラック方程式」を成立させるために、「真空とは、負のエネルギーの電子によって満たされた状態である」という、通称「ディラックの海」の理論を提唱していましたが、このように真空が奇妙奇天烈な性質を持っていると考えることによって、1932年に発見された電子・陽電子対の生成という現象も、理論的に説明がついたのです。
 その後、「場の量子論」が構築されていくに伴い、「ディラックの海」などというものは考えなくてもよくなりましたが、ここに至って、昔は物理現象が起こる「舞台」あるいは「容れ物」にすぎなかった「真空」が、「場」と名前を変えて、物理学の主役に踊り出たわけです。現代の物理学では、もはや「素粒子」を実体として扱うのではなく、すべての現象は「場」の相互作用として記述されるようになっています。
 そしてまたこれは、「五輪峠(下書稿(二)初期形」で賢治が思い描いている世界観に、通ずるところがあります。

五輪は地水火風空
むかしの印度の科学だな
空というのは総括だとさ
まあ真空でいゝだらう
火はエネルギー これはアレニウスの解釈
地と[削除]
[削除]
風は物質だらう
世界も人もこれだといふ
心といふのもこれだといふ
今でもそれはさうだらう
   そこで雲ならどうだと来れば
   気相は風で
   液相は水
   地大は核の塵となる
   光や熱や電気や位置のエネルギー
   それは火大と考へる
   そして畢竟どれも真空自身と云ふ。

 すなわち、「地水火風空」という昔の五元素を、「地水風」という物質と、「火」というエネルギーに分け、最終的には物質もエネルギーも、それらを総括する「空」に、すなわち「畢竟どれも真空自身」に帰せられる、というのです。
 この「真空」を「場」と読みかえれば、素粒子もエネルギーも、「場」の一つの様態として記述されるという、「場の量子論」そのものになります。

 ただし、賢治がアインシュタインの理論に触れていたのは確かだとしても、陽電子が発見された1932年は賢治の死の前年で、これが「異単元」と呼びうるものだとは、当時まだ専門家でも誰も考えてもみなかったでしょうし、「場の量子論」が形をとり始めるのも、1950年代以降のことです。賢治が知らなかったはずのこういう知見を、後から当てはめて「賢治の先見性」などと持て囃すのは、後世の勝手な解釈の押し付けだとは思いますが、しかしそれでもこの類似性は不思議です。
 なかでも「真空」が、無内容な「空虚」ではなくて、物質を孕みエネルギーを帯びた「ひとつの現象」だと賢治が考えていたと思われるところが、何より面白いと私は思うのですが、彼はいったいどうやって、こんなことを思いついたのでしょうか。
 私が想像するところでは、一つには前述のように、「空」に関する仏教の教理を、物理的な「真空」のアナロジーとして適用してみたのではないかということと、そしてもう一つには、賢治自身が「何もないところ」に物が見えたり声が聴こえたりするという、幻覚体験をする人だったので、このように豊穣な「真空」イメージを抱くに至ったのではないのだろうかと、思ったりします。
 しかしもちろん、これは賢治自身に聞いてみなければわかりません。

雲と風の日

 前回、「あのくしゃくしゃの数字」という記事に書いたように、「晴天恣意」(「春と修羅 第二集」)という作品は、賢治が水沢の緯度観測所に出かけて、その年の気候や作況について予測するために、三陸沖の海水温などの最新のデータを調査し分析する作業を行う中での一コマだったのだろうと、私は思っています。
 ちょっと長い作品ですが、まずここに引用しておきます。

一九
  晴天恣意
               一九二四、三、二五、

つめたくうららかな蒼穹のはて
五輪峠の上のあたりに
白く巨きな仏頂体が立ちますと
数字につかれたわたくしの眼は
ひとたびそれを異の空間の
高貴な塔とも愕ろきますが
畢竟あれは水と空気の散乱系
冬には稀な高くまばゆい積雲です
とは云へそれは再考すれば
やはり同じい大塔婆
いたゞき八千尺にも充ちる
光厳浄の構成です
あの天末の青らむま下
きらゝに氷と雪とを鎧ひ
樹や石塚の数をもち
石灰、粘板、砂岩の層と、
花崗斑糲、蛇紋の諸岩、
堅く結んだ準平原は、
まこと地輪の外ならず、
水風輪は云はずもあれ、
白くまばゆい光と熱、
電、磁、その他の勢力は
アレニウスをば俟たずして
たれか火輪をうたがはん
もし空輪を云ふべくば
これら総じて真空の
その顕現を超えませぬ
斯くてひとたびこの構成は
五輪の塔と称すべく
秘奥は更に二義あって
いまはその名もはゞかるべき
高貴の塔でありますので
もしも誰かゞその樹を伐り
あるひは塚をはたけにひらき
乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと
かういふ青く無風の日なか
見掛けはしづかに盛りあげられた
あの玉髄の八雲のなかに
夢幻に人は連れ行かれ
見えない数個の手によって
かゞやくそらにまっさかさまにつるされて
槍でづぶづぶ刺されたり
頭や胸を圧し潰されて
醒めてははげしい病気になると
さうひとびとはいまも信じて恐れます
さてそのことはとにかくに
雲量計の横線を
ひるの十四の星も截り
アンドロメダの連星も
しづかに過ぎるとおもはれる
そんなにもうるほひかゞやく
碧瑠璃の天でありますので
いまやわたくしのまなこも冴え
ふたゝび陰気な扉を排して
あのくしゃくしゃの数字の前に
かゞみ込まうとしますのです

 集中して行っていた作業に一段落を付け、ちょっとひと息ついて、心地よい疲労感とともに空の雲を眺め、空想の翼を広げる・・・。そんな賢治の様子は、2年前の「雲の信号」(『春と修羅』)という作品の時と、ちょうど同じです。もっともこの時は、陰気な室内で数字を相手にするのではなくて、農学校で農具の手入れか何かをしていたようですが。

 ところでどちらの作品にも、雲の下にある「山」が、初めの方に少しだけ登場します。「雲の信号」では、4~6行目に「山はぼんやり/岩頸だつて岩鐘だつて/みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ」と描写されています。岩頸や岩鐘というのは、農学校から西の方向に連なる、奥羽山系の山々のことでしょう。
 一方、「晴天恣意」の方には山の固有名詞が入っていて、まず「下書稿(一)」では2行目に「原体山の右肩あたりに」と書かれますが、それが「下書稿(一)手入れ形」では「種山ヶ原の右肩あたり」に変えられ、さらに「下書稿(二)手入れ形」では、「五輪峠の上あたりに」となります。
 原体山も種山ヶ原も五輪峠も、水沢から見れば東北東の方角にあたり、雲が位置する方向を表すという意味では、山が変わっても大した違いは起こらないのですが、なぜ賢治はこんなに細かく山の名前にこだわったのか、ちょっと不思議なところです。
 ただ、この山々のある方向、すなわち賢治が見ていた雲が浮かんでいた方角が、水沢から見るとちょうど遠野の方角にあたることには、作品の着想の上で意味があるかもしれません。詩の中ほどでは雲に関連して、『遠野物語』を彷彿とさせるような、かなり恐ろしい伝承が語られるのです。
 下の地図で、赤の(M)は水沢緯度観測所、水色の(1)は原体山、(2)は種山ヶ原、(3)は五輪峠の位置を示しています。正式名称が「原体山」という山は今は見あたらないのですが、現在「原体剣舞連」詩碑が建っている「経塚森」がそれではないかととりあえず推測し、その場所にマーカー(1)を立てています。いずれにせよ、緯度観測所からこれらの山に向けて引いた線をさらに延ばしていくと、遠野に至ることがおわかりいただけるでしょう。

 ◇          ◇

 ところでこの「晴天恣意」の草稿については、「星のおじさん」こと草下英明氏が、「『晴天恣意』への疑問」(『宮澤賢治と星』所収)という文章において、疑問を呈しておられます。
 草下氏がこの「晴天恣意」という作品に親しんでこられたのは、十字屋版全集に掲載されていた形(今で言う「下書稿(一)手入れ形」)だったところ、第二次筑摩書房版全集では一転して「下書稿(二)手入れ形」が本文に採用されたので、違和感を禁じ得ないというのです。
 草下氏は書きます。

・・・にもかかわらず、私はこの改訂に賛成する気にはなれないのである。
 私が問題にするのは、三十行目の「雲量計の横線をひるの十四の星も截り」という部分である。雲量計とは、文字通り解釈すれば、雲の分量を計る測定器、温度計や湿度計、風速計などと同じ気象観測用の器具のように聞える。しかし、私が調べた範囲では、もちろん気象庁へも問合わせた結果、雲の量を計数的に計る装置――つまり雲量計と呼ばれる器具は公式には存在しないのである。(中略)
 私は、これに気が付くと、さっそく宮澤清六さんに手紙を書き、この改訂には疑問がある旨を申上げたところ、すぐ次の御返事をいただいた。返事の内容は次のようなものである。(昭和四十三年三月)
 賢治の『春と修羅』第二、三、四集の詩稿には、定稿のあるもの、第一稿だけのもの、第一稿から第四稿まであるものと、まちまちである。『晴天恣意』には、死の直前清書された定稿はなく、第一稿と第二稿だけがあるだけで、十字屋版全集では編集の時の考えで第一稿が採用された。筑摩版の時には、編集担当の方と再研究検討の上、内容はどうあろうともこの詩は第二稿(賢治自身がのちに手を入れて直したもの)をとろうという方針であった。(中略)
 ここで私共は、いささか困ってしまうのである。この詩には、全く定稿がないのだから、十字屋版にのった第一稿は、賢治の意志によって第二稿の如くに改変され、更に推敲をかさねて、もっと訂正されるべき途上にある作品と見なければならない。「雲量計云々」はおそらく賢治の思い違い、誤記又は訂正不十分の個所であるのだろう。問題は、今後どのように形を変えるか分らない、しかも、もうどうにも変りようもない状態の詩を、私たちは首をひねって読まなければならないということである。ここに賢治の作品を鑑賞する、非常な困難性があるのだ。或はまた、大げさに言えば賢治全集の成立そのものにかかわる重大問題を蔵しているともいえるのだ。

 「賢治全集の成立そのものにかかわる」問題意識は、その後『校本全集』の登場によって一つの発展的な解決を見ることになりますが、この作品に関してはたしかに、「天頂儀の蜘蛛線を/ひるの十四の星も截り」という表現の方に、捨てがたい魅力があります。緯度観測所ならではの「天頂儀」という特殊な装置を小道具として、昼の天頂を静かに人知れず星が移動し、蜘蛛の糸でできた幽かな線を横切っていく・・・。そのイメージには、幻想的な雰囲気も漂います。
 これに比べると「雲量計の横線」というのは、ちょっと具体的な想像もつきにくく、詩的表現として一歩譲る感じがしてしまいます。

 ところが、草下英明氏はその後、上記の文章の「補註」において、この「雲量計」に関する須川力氏の論考を紹介しつつ、自分が上の文を書いた時点の認識について、「赤面せざるを得ない」と率直な筆致で思いを綴っておられます。
 須川力氏は、水沢緯度観測所の技官を務めておられた方で、「宮澤賢治と天文学」という文章の中で、自らの経験をもとに「雲量計」の正体を明らかにしてくれました。
 以下は、草下英明氏の文章からの孫引きです。

 すなわち「雲量計の横線は一寸意味不明だが、恐らく当所構内のピラス子午儀室と変電室との間の芝地に、以前櫛形測雲計が立って居た。その櫛の横線を指したものが想像される」とある。私(=草下氏:引用者注)は早速、須川氏に問合わせて櫛形測雲計という器具について伺ってみたところ、須川氏が緯度観測所に着任した当時(昭和十八年)はすでにこの器具は撤去されていたが、要するに柱の先にテレビのアンテナの様な縦棒と横に何本かの線を組合わせたものが取付けてあり、下からそれを見上げて、雲量を眼視する際の眼視範囲や方向の目安にするだけの器具であるという。つまり雲量を直接測定する計器ではない。しかし賢治は、恐らく「これで雲の量をしらべるのだ」と言われて、雲量計と速断したのではないかということだ。

 すなわち、「雲量計」は正しい名称ではなくて、本当は「櫛形測雲計」と言うらしいのです。しかしそう言われてもまだよくわかりませんので、これがいったいどんな器具だったのか、ちょっと調べてみました。
 'Salem Clock Shop'というオレゴン州の櫛形測雲計時計店のサイトに、'Comb Nephoscope'(櫛形測雲計)の図と説明がありましたので、右に図を引用します。
 名前のとおり、櫛の形をしていますね。この櫛の「背」の部分の長さは2.5-3mほどあって、観測者は下から櫛の歯の間を通して雲を目視し、支柱を回転させて雲が動いて行く方向と櫛の背の棒が平行になるようにします。これによって、雲の動きの方向が同定できます。
 そしてさらに、櫛の歯に相当する横棒の間を雲が通過する時間を測定することによって、雲が動いていく速さがわかります。そして雲の高度がわかれば、実際の雲の速度を計算することもできるわけです。
 わざわざこんな道具で雲が動く方向や速度を調べる目的は、それによって高層の風の向きと強さがわかるわけで、これは気象学的には役に立つデータのようです。
 つまり、この器具で「櫛の歯」にあたる棒が、賢治の言う「雲量計の横線」なのでしょう。実際、この横線は空の雲が通過していくのを観測するための目安ですから、雲のかわりに「ひるの十四の星」が横切っていくさまを想像するというのは、器具本来の趣旨からも見ても妥当なことです。
 ただ、これは雲の「量」を計るわけではありませんから、「雲量計」という呼び方は正しくなかったというわけですね。

◇          ◇

緯度観測所創立五十周年記念切手 さて、右の切手は、緯度観測所創立五十周年を記念して1949年に発行された切手で、描かれている立派な器械が「天頂儀」です。それにしても、草下英明氏が心から残念がっておられたように、この詩のモチーフとして用いるならば、やはり「天頂儀の蜘蛛線」の方が、より魅力的に感じます。なのに、賢治が推敲によってこれを「雲量計の横線」に変えてしまったのは、いったいなぜだったのでしょうか。
 私なりに推測するその理由は、「晴天恣意」という作品全体を貫くテーマが「雲」なので、小道具もそれに合わせて星ではなく「雲量計」を採ったということなのではないかというものです。何ともありきたりの理屈で恐縮ですが・・・。

 というのは、最初に見たように作品の冒頭部分でも、雲の下の山の名を「原体山」→「種山ヶ原」→「五輪峠」という風に推敲過程で変えていましたが、これもやはり作品内容との関係によるのだろうと思うのです。
 上の地図を見ていただいたらわかるとおり、3つの中で最初の「原体山」だけは平野の人里から近くに位置しています。これは「里山」のような小山ですが、作品の中ほどで「古生山地の峯や尾根/盆地やすべての谷々には/おのおのにみな由緒ある樹や石塚があり/めいめいに何か鬼神が棲むと伝へられ・・・」というような箇所との対応では、北上山地のもっと奥深い場所の方が似つかわしいので、まず「原体山」から「種山ヶ原」に改められたのではないでしょうか。
 さらに、「下書稿(二)手入れ形」においては、雲とは結局「地水火風空」の五つの要素が合わさったものであり言わば空中の巨大な五輪塔に他ならないという認識が示されたことにもとづいて、これを地上の五輪塔と対比させるために、「五輪峠」こそがふさわしい山として選ばれたのではないでしょうか。
 後年の推敲によって、最初にスケッチされた時のモチーフは徐々に姿を変えていってしまいますが、内容はより深く思索的になり、全体の統一感というのも増していったように感じます。

◇          ◇

 この「晴天恣意」を読むと、早春の澄み切った青空をバックに、白い巨きな雲が鮮やかにそびえ立っている様子が目に浮かんでくるような気がします。たまたま作品中には「雲量計」も出てくることですので、実際にこの日の水沢の気象条件がどんな具合であったのかということを、調べてみました。
 下図は、前回も引用した「中央氣象臺月報 全國氣象表」から、大正13年3月の水沢の気象記録です。 (クリックすると別窓で拡大表示されます。)

「中央氣象臺月報 全國氣象表」(大正13年3月水沢)

 ところがこれを見ると、ちょっと意外なことに気が付きます。「晴天恣意」が書かれた1924年(大正13年)3月25日、場所も賢治がいたのと完全に同じ水沢緯度観測所で観測された気象なのですが、この日は単純に「晴天」とは言いにくいような、かなり雲の多い日だったのです。
 上表の下段に「雲量」の欄がありますが、この表で3月25日のところを見ると、それぞれ2時、6時、10時、14時、18時、22時の雲の量のは、順にそれぞれ、3、7、9、10、4、2、です。これは、全天が雲に覆われた状態を「10」として、その比率を表す数字ですから、例えば午前10時および午後2時の時点では、それぞれ全天の「10分の9」と「10分の10」にわたって雲が広がっていたわけです。つまり、気象学上の定義によれば、「曇り」だったんですね。
 一方で、さらにその右の欄の「日照時数」を見ると、3月25日は10.2時間もあります。全体的な雲の多さにもかかわらず、日の出から日の入りまでの約12時間のうち、太陽は大部分は雲の隙間から顔を覗かせていたわけです。ちなみに、この年の3月のうちで日照時間が10時間を超えていたのは、あと3月18日の「10.38時間」しかありませんから、この時期のこの地方としては、明るい日差しに恵まれた一日だったと言えます。賢治がタイトルにことさら「晴天」と付けたのも、このあたりに理由があるのでしょう。

 この日の天候についてさらに特徴的な点を挙げると、上段の「風ノ方向及速度」によれば、午前10時に北風が風速12.2m/s、午後2時にやはり北風が9.5m/sで、かなり風の吹き荒れる日だったということです。「ビューフォート風力階級」によれば、風速10.8~13.8m/sの範囲は「雄風」と呼ばれ、「木の大枝が揺れ、傘がさしにくくなる、電線が唸る」という状況だそうです。下段右端の「記事」の欄には、この日にはという記号が記入されており、「烟霧」「霜」とともに「暴風」があったということですから、瞬間的にはもっと強い風も吹いたのでしょう。

 賢治が水沢緯度観測所で強い風を体験していたとなると、これはひょっとして「風の又三郎」のイメージの中にも少しはまぎれ込んでいるのではないかと、ふと考えてみたくもなりますね。
 下記は、「風野又三郎」の中から、九月五日に「水沢の臨時緯度観測所」の話が出る直前のところで、又三郎が上海の気象台の上空を飛んだ時の様子です。

その次の日僕がまた海からやって来てほくほくしながらもう大分の早足で気象台を通りかかったらやっぱり博士と助手が二人出てゐた。
『こいつはもう本たうの暴風ですね、』 又あの子供の助手が尤らしい顔つきで腕を拱いてさう云ってゐるだらう。博士はやっぱり鼻であしらふといった風で
『だって木が根こぎにならんぢゃないか。』と云ふんだ。子供はまるで顔をまっ赤にして
『それでもどの木もみんなぐらぐらしてますよ。』と云ふんだ。その時僕はもうあとを見なかった。なぜってその日のレコードは八米だからね。

 賢治が水沢緯度観測所を訪ねた日は、又三郎が「どの木もみんなぐらぐら」にさせたレコードの「八米」をも上まわる、風の日でもあったのでした。

あのくしゃくしゃの数字

 1924年(大正13年)3月24日、賢治は雪の降る五輪峠を歩いて越え、人首(ひとかべ)という集落で一泊して、翌25日は水沢にある緯度観測所を訪ねたようです。この間の様子は、「 〔湧水を呑まうとして〕 」、「五輪峠」、「丘陵地を過ぎる」、「人首町」、「晴天恣意」という連作に描かれています(「五輪峠詩群」参照)。
 「五輪峠」には、「何べんも何べんも降った雪を・・・」という一節が出てきますが、国会図書館近代デジタルライブラリーから、「中央氣象臺月報 全國氣象表」(下図)というのを調べてみると、この年の3月に入ってから24日までの期間のうち、水沢で雪が降らなかったのは7日間だけで、あとは「何べんも何べんも」雪が降りつづく日々だったことがわかります。(下図はクリックすると、別窓で拡大表示されます。)

「中央氣象臺月報 全國氣象表」(大正13年3月水沢)

 それにしても、賢治はこの日、何のためにわざわざ雪の峠越えをして水沢までやって来たのでしょうか。その目的は明示されてはいませんが、「水沢緯度観測所にて」と副題のある「晴天恣意」の下書稿には、最初の方に「数字につかれたわたくしの眼は・・・」と書かれていますし、最後は次のように終わります。

そんなにもうるほひかゞやく
碧瑠璃の天でありますので
いまやわたくしのまなこも冴え
ふたゝび陰気な扉を排して
あのくしゃくしゃの数字の前に
かゞみ込まうとするのです

 つまり、彼はこの観測所にある何らかの「くしゃくしゃの数字」=数値データを調べるために、ここを訪れたのではないかと思われます。

 水沢緯度観測所というとまず何よりも、当時世界で6ヵ所だけ設置されていたという国際的な緯度観測の最先端施設です。またここは、「土神ときつね」に「水沢の天文台」として登場するように、高性能の天体望遠鏡を有する天文観測所でもありました。
 緯度観測所の機能としてはこの二つが有名ですから、賢治がここに何かを調査しに来たとすれば、まず思い浮かぶのは、こういった領域のデータを見に来たのではないかということです。
 しかし、この頃の賢治は農学校に勤めており、もとより地球物理学にも天文学にも関心は高かったでしょうが、それらを調査するとすれば自分の専門外の「趣味」に属することになります。もちろん趣味も多彩な賢治でしたが、私が想像するのは、この時彼は農作物とりわけ米の作況を予想するために、気象や海水温のデータを調べようとやって来たのではないか、ということです。

◇          ◇

 賢治の恩師である盛岡高等農林学校の関豊太郎教授は、1907年(明治40年)に「東北の凶冷と沿岸潮流との関係に就きて」(『官報』明治40年4月15日-16日)という論文を発表しています。この研究の意義については、1966年に小沢行雄氏が、「低海水温の内陸気温に及ぼす影響について」(防災科学技術総合研究報告 第6号 1966年3月)という論文の冒頭で、次のように高く評価しています。

 東北地方・北海道地方など北日本の冷害凶作が夏期の著しい低温によってもたらされることは明らかである。ところでこの夏期低温を誘致する原因については、古く明治40年代から調査研究が進められ、三陸北海道沖の海水温の低さが注目されてきた。すなわち関は岩手県の広田湾及び宮古湾の沿岸水温から明治38年の凶冷の原因を考察し、寒潮面上を吹送してくる北東風又は東風は冷涼で陸地の温度を低下させること、一方太平洋上の温暖な海面からくる風は海岸付近の寒流上の冷気にふれて細霧を生じ雨をもたらすと説き、冷害年における海水温の異常を詳述した。この論文は冷害と海水温とを結びつけた考察の端緒であり、ここに指摘されている冷害年には沿岸海水温が異常に低くなるという事実は今日においても変更の余地はない。

 1915年から1920年まで関教授のもとで学んだ賢治は、この関教授の業績について当然勉強し、その後も冷害について考える際には、「三陸北海道沖の海水温」を意識していたはずです。また実際、この水沢緯度観測所訪問の前年である1923年に書いた「宗谷挽歌」には、

(根室の海温と金華山沖の海温
 大正二年の曲線と大へんよく似てゐます。)

という一節が出てきます。場所は根室と金華山沖、すなわちまさしく「三陸北海道沖」に該当しており、少なくとも賢治はこの水沢訪問の前年には、「三陸北海道沖の海水温」をしっかりと頭に入れていたわけです。
 やはり国会図書館近代デジタルライブラリーで、「農商務統計表」から岩手県の米の収量を調べると、平年は702,480石に対して、大正2年(1913年)は461,405石で、平年を100とした作況指数は66と、極端な凶作でした。賢治が「大正二年の曲線と大へんよく似てゐます」と気にしているのは、この年も凶作にならないかと心配なのでしょう。

 この頃まで、彼はこういった気象データを水沢緯度観測所で調査していたのだろうと私は思うのですが、ちょうどこの年の7月末以降は、彼は「盛岡測候所」で調べるとともに、所長の福井規矩三氏に教えを請うようになったようです。
 後に福井規矩三氏からの口述筆記で作成された「測候所と宮澤君」という文章には、この頃の状況は次のように書かれています(日本図書センター『宮沢賢治研究資料集成 第2巻』より)。

 大正十三年は岩手県はひどい旱害であつたが、その年の七月末頃、あの君に始めてお目にかかつた。土用の入りの日じやつたが、別に紹介状もなしにやつて来られた。服装は背広で、それから屡々お目にかかつたが、いつも洋服であつたやうに思ふ。ごく質素な方で、身の廻りののことなどは頭になかつた方と思ふ。そのときも帰つてからていねいな手紙をくだされたが、なくしてしまつた。大正十三年の旱天は、岩手県では近ごろではなかつた旱害の記録で、以前は何時でも水が余つてゐたので、水不足で作付が出来ないといふことはなかつた。大正七年にもちよいとした小規模な旱天があつたが、大正十三年のは、とてもとてもきつかつた。雨が不足で一般に植付が困難であつたが、ことに胆沢郡永岡附近が水廻りが悪かつた。花巻方面はさほどでもなかつたが、後も雨が不足で作物が困難になつてきをつた。

 この年の旱害は、賢治が4月の時点で予想して、「測候所」という作品に「・・・・・・凶作がたうたう来たな・・・・・・」と書いているものでしょう。今回取り上げている3月25日の水沢緯度観測所訪問から10日あまりで再び「測候所」に赴いているとは、よほど凶作が気になっていたのだろうと思われます。
 盛岡測候所が開所したのは前年の1923年(大正12年)9月のことで、これを受けて翌大正13年7月以降の賢治は、気象データをここで入手するようになったことは福井氏の話によってわかりました。ではそれまではどこで調査をしていたのかとなると、やはり前述のように水沢緯度観測所だと思われます。
 盛岡測候所ができるまでは、岩手県内にはあとは三陸海岸沿いに宮古測候所があっただけですが、花巻から北上山地を越えて宮古まで行くというのは、非常に大変なことです。測候所機能も備えていた水沢緯度観測所に行っていたと考えるのが、自然でしょう。

 ちなみに、金華山沖の海水温については、水沢観測所のお隣の測候所である宮城県石巻測候所が、1916年(大正5年)以降「金華山漁場ノ海水温」として発表しています(下図)。私としては、賢治が上の「宗谷挽歌」で触れたデータの由来は、この冊子のシリーズだろうと思うのです。(下図は国会図書館近代デジタルライブラリーより、「金華山漁場ノ海水温 第1号」(宮城県石巻測候所,1919)のp.19。クリックすると別窓で拡大表示されます。)

『金華山漁場沖ノ海水温』より

 当時、水沢緯度観測所がこの冊子を所蔵していたという証拠はつかめていません。しかし、設立2年後の1888年(明治21年)以降、測候所として毎日6回の気象観測を継続し、全国に設置された測候所の一つとしての役割も果たしていた水沢緯度観測所としては、「お隣の測候所」の刊行物も、当然保有していただろうと考えます。

 すなわち、賢治が1924年3月25日に水沢緯度観測所において「かゞみ込」んでいた「くしゃくしゃの数字」とは、上記のように延々と何枚も続く、このような表のデータだったのだろうと思います。
 「宗谷挽歌」では、「(海温の)曲線」と記されていますが、この冊子にはグラフは掲載されておらず、数字が上のような表になっているだけです。賢治は、自分でこの表からデータをピックアップして、グラフにする作業もしていたのではないかと、私は思うのです。

奥州宇宙遊学館(旧水沢緯度観測所)
奥州宇宙遊学館(旧水沢緯度観測所)

腐って流される者たち

 古今東西を問わず、政治家というのは腐敗するものだという固定観念があるようで、今ではマスコミが「政治と金」という呪文を繰り返すだけでも、そこに確実に腐敗が存在するという雰囲気が見事に立ちのぼります。もっとも政治家に限らず、最近は相撲界でも地方公務員でも企業でも検察官でも、どこでも腐敗のネタには事欠かないようで、多くの人にとってはちょっと食傷気味の話題かもしれません。
 宮澤賢治の詩や童話の多くは、こういうテーマとはまったく無関係な世界が描かれているのですが、中にごく一部ですが、そんなモチーフも出てきます。

 賢治の最初期の童話「蜘蛛となめくぢと狸」において、飢餓の底からがむしゃらに這い上がってきた「赤い手長の蜘蛛」は、ついに妻や子供とともに立派な網を構え、「虫けら会の相談役」を依嘱されるまでに昇り詰めます。ただその過程では、かなり手荒なことまでやってきたようですね。
 そして、すでにひとかどの名士となった蜘蛛が、さらなる高みを目ざそうとした時、突如破局が訪れます。

 それから蜘蛛は、もう一生けん命であちこちに十も網をかけたり、夜も見はりをしたりしました。ところが困ったことは腐敗したのです。食物がずんずんたまって、腐敗したのです。そして蜘蛛の夫婦と子供にそれがうつりました。そこで四人は足のさきからだんだん腐れてべとべとになり、ある日たうたう雨に流れてしまひました。

 悪いことをしてきた奴が、自業自得で腐って流れてしまう、という結果になったわけです。小沢俊郎氏は、この蜘蛛を「商業資本家」の象徴と解読していますが、獲物の多さを追求するだけでなく、「虫けら会の相談役」になることを元同級生のなめくじに自慢するところなど、政治的な「力」にこだわっていた面もあるようです。
 蜘蛛の結末はちょっと哀れな感じもしますが、これ以外にも同じようなモチーフが登場する作品が、いくつかあります。

 一つは、「詩ノート」にある「政治家」という草稿。

一〇五三
  政治家
               一九二七、五、三、

あっちもこっちも
ひとさわぎおこして
いっぱい呑みたいやつらばかりだ
     羊歯の葉と雲
        世界はそんなにつめたく暗い
けれどもまもなく
さういふやつらは
ひとりで腐って
ひとりで雨に流される
あとはしんとした青い羊歯ばかり
そしてそれが人間の石炭紀であったと
どこかの透明な地質学者が記録するであらう

 「さういふやつらは/ひとりで腐って/ひとりで雨に流される」というのですから、「赤い手長の蜘蛛」の最期と同じですね。こんどの悪役は、ストレートに「政治家」です。

 それからもう一つは、やや簡略化された形ですが、「なめとこ山の熊」に出てくるあの嫌味な荒物屋です。

けれども日本では狐けんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。

  この世の仕組みは、「狐けん」のように公平にはまわっていませんが、それでも「こんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく」と、賢治は言うのです。消えていく原因が、法治システムや不正を糺そうとする何らかの社会運動によるのではなく、「ひとりで」消えて流れてしまうというのが、3つの例に共通するところです。
 また「春と修羅 第二集」の「五輪峠」の前半には、

それで毎日糸織を着て
ゐろりのヘりできせるを叩いて
政治家きどりでゐるんだな
それは間もなく没落さ
いまだってもうマイナスだらう

という箇所があって、その辺の地主が「政治家きどり」でいるようですが、この人物に対しても賢治は、「間もなく没落さ」と、なぜか根拠も示さず予言しています。

 というような感じで、このようにいくつかの違った時期の作品に、共通するモチーフが登場しているとなると、何かその背景には、元になった賢治の経験なり思想があったのではないかと、考えてみたくなります。
 そこで、上の作品中で最も古い「蜘蛛となめくぢと狸」が書かれた時期を確認すると、宮澤清六著「兄賢治の生涯」の中には、次のような記述があります。

 大正七年に二十二歳で農林学校本科を卒業したが、つづいて地質や土壌を研究するために学校に残り、四月から関博士の指導で、稗貫郡の土性調査をはじめた。同級の小泉多三郎、神野幾馬という人といっしょに、西は「なめとこ山」のもっと奥の深山に分け入り、東は高山植物の宝庫、海抜一九一四米の早池峯山までを調査したが、これもまた後の農村関係の仕事と関聯を持つことになった。
 この夏に、私は兄から童話「蜘蛛となめくぢと狸」と「双子の星」を読んで聞かせられたことをその口調まではっきりおぼえている。処女作の童話を、まっさきに私ども家族に読んできかせた得意さは察するに余りあるもので、赤黒く日焼けした顔を輝かし、目をきらきらさせながら、これからの人生にどんな素晴らしいことが待っているかを予期していたような当時の兄が見えるようである。

 すなわち、1918年(大正7年)夏までには、「蜘蛛となめくぢと狸」は完成していたというわけですね。
 そこで、この年までに何か日本で上のようなモチーフと関連したような政治的な出来事があったのかということを調べてみます。Wikipedia によれば、この当時に「政治の腐敗」が問題となった事件として、次のような出来事がありました。

1902年(明治35年): 教科書疑獄事件
1908年(明治41年): 日本製糖汚職事件
1914年(大正3年)1月: シーメンス事件
             5月: 大浦事件
1924年(大正13年): 復興局疑獄事件
1925年(大正14年): 陸軍機密費横領問題

 この中に、賢治の「蜘蛛となめくぢと狸」に影響を与えた事件があるとすれば、その規模と社会的衝撃の大きさからも、1918年の少し手前に起きたという時期からも、1914年1月~3月に政界を揺るがした「シーメンス事件」が、最も気になるところです。この年18歳になる賢治は、盛岡中学を卒業して、岩手病院に入院する直前という頃でした。

 さてシーメンス事件とは、ドイツの大企業シーメンス社が、無線電信局の発注をめぐって日本の海軍高官に贈賄を行っていたことが発覚したことに、端を発します。たまたま当時の山本権兵衛内閣は、首相の山本が海軍大将であるのをはじめ海軍を基盤としており、増税とともに海軍を拡張する予算を国会に提出していたため、税負担への国民の不満もこれを契機に一気に爆発して、政界を巻き込んだ一大騒動に発展していったのです。
 新聞は連日、海軍の腐敗を書き立て、野党は衆議院に内閣弾劾決議案を提出しますが、これが否決されると、日比谷公園の「内閣弾劾国民大会」に集まっていた4万人とも言われる民衆は憤激して国会議事堂を包囲し、構内に入ろうとして官憲と衝突したということです。
 結局この後、山本内閣は総辞職に追い込まれることになります。しかし政界の混乱はこれでも収まりません。総辞職を受け元老会議は、貴族院議長で徳川宗家16代当主徳川家達を後継首班に推薦しますが、徳川一門には明治政府が徳川を「朝敵」としたことをまだ根に持っている部分もあって、結局徳川家達は首相就任を辞退します。
 続いて元老会議は、枢密院顧問官の清浦奎吾を推し、清浦は大正天皇から組閣の大命降下を受けます。しかし、超然主義の清浦に対しては立憲政友会と立憲国民党の二大政党が野党となることを宣言、さらに予算復活を拒否された海軍も非協力の態度をとったことから、7日後に清浦はやむなく組閣を断念する事態に追い込まれました。結局その後、大隈重信に首相のお鉢はまわってきました。

 余談ながらこの時、清浦奎吾が組閣断念の直前に記者団にぼやいたという言葉が伝えられています。「大和田の前を通っているようなもので、匂いだけはするが、御膳立てはなかなか来ない。」
 「大和田」というのは、当時東京で人気の鰻屋の名前(現在も営業中)で、「前を通ると旨そうな匂いはするが、中に入れば混雑していていつまで待っても鰻丼が食べられない」という有様を、組閣の状況に喩えたものでした。これを受けて世間では、鰻の匂いを嗅がされた(大命降下)だけで結局は鰻丼(首相の地位)にありつけなかった清浦を嘲笑して、これを「鰻香内閣」(匂いだけで現実には味わえない幻の内閣)と呼んだということです。

 いずれにせよ、徳川家達の内閣も清浦奎吾の内閣も、国民が何もしないうちに「ひとりで流れてしまった」わけですね。
 そこで私は、賢治の詩「政治家」の、「さういふやつらは/ひとりで腐って/ひとりで雨に流される」というところを連想してしまうのです。

 しかし本当は、上のような連想を補強するためには、もっときちんとした調査をしなければなりませんね。賢治が目にしたかもしれない当時の新聞記事における表現なんかも調べられればよいのでしょうが、とりあえず今回はそのような時間も素材もなかったので、思いついたことのみ書いてみました。


 ところで、冒頭にも触れたように政治の腐敗というのは時代を越えた普遍的な問題でしょうが、くしくも最近また、100年近く前のシーメンス事件を彷彿させるような事件がありました。
 アメリカ合衆国の連邦法の一つとして、「連邦海外腐敗行為防止法」という法律があるそうです。これは、アメリカで上場している企業が、外国の公務員や政党や候補者に賄賂を贈ることを禁止するものですが、シーメンス社は2001年から2007年の間に、南米、アジア、中近東、アフリカの諸国の公務員4000人以上に対して約14億ドルの賄賂を支払ったとされ、このため同社は連邦証券取引委員会に対して3億5000万ドルの課徴金を、司法省による刑事訴追に対して4億5000万ドルの罰金を、さらにミュンヘン検察庁に対して2億100万ドルの罰金を支払ったということです。これは、「連邦海外腐敗行為防止法」違反に関して支払われた金額としては、史上最大のものだということです。
 歴史は繰り返すと言いますが、シーメンス社のような世界的大企業でも、ビジネスのためには100年近く昔にやったと似たことを、今日でも行わざるをえないんですね。

 たとえ「腐敗行為防止法」というような昔よりも厳しい法律があっても、残念ながら賢治が期待したように、「腐敗してひとりで雨で流れてしまう」というわけには仲々いかないようです・・・。

五輪塔と追善供養

 北京五輪の野球日本代表チーム「星野ジャパン」の熱戦の興奮が、まだ冷めやらぬ今日この頃ですが、「オリンピック」を初めて「五輪」と訳した(?)のは、1936年のベルリン・オリンピックの際に読売新聞記者だった、川本信正氏という人だそうです。

 川本氏は1936年のベルリン・オリンピックで水泳の前畑秀子らが活躍したとき、読売新聞社の担当記者だった。整理部記者から「ベースボールを野球とした伝で、記事の見出しに使える短い訳語はないものか」と持ちかけられ、以前から五大陸を示すオリンピックマークからイメージしていた言葉と、剣豪宮本武蔵の著「五輪書」を思い出し、とっさに「五輪」とメモして見せたら、早速翌日の新聞に使われた。(「朝日新聞」1996.6.18)

 ですから、「北京五輪」という言葉は他の漢字文化圏では通用せず、地元中国では、「北京奥(会)」などと表記されているようですね。


 というのは、今日の本題とはまったく関係のない話でした。
 賢治の作品「五輪峠」(「春と修羅 第二集」)には、古い「五輪の塔」との感動的な出会いが描かれています。

がらんと暗いみぞれのそらの右側に
松が幾本生えてゐる
藪が陰気にこもってゐる
なかにしょんぼり立つものは
まさしく古い五輪の塔だ
苔に蒸された花崗岩(みかげ)の古い五輪の塔だ

 この五輪の塔は、現在も五輪峠に行けば見ることができます。峠道を登りきったあたりの斜面に、側碑とともに立っています。側碑を見てみると、これが建てられたのは「文化十二年」(=1815年)で、戒名が「仙塚看永信士」という人の追善供養が目的だったようです。

五輪峠の五輪塔


 さて一方、現在は花巻の身照寺にある宮澤賢治のお墓も、五輪塔の形をしています。向かって右が宮澤家代々のお墓、左が、賢治のお墓です。

宮澤家の墓および賢治の墓

 このように、賢治のお墓が「五輪塔」として建てられたいきさつについて、賢治研究家の故小倉豊文さんは、次のように書いておられました(小倉豊文「二つのブラックボックス」,北辰堂『宮沢賢治の宗教世界』所収)。
 まず当初は、賢治のお墓は独立しておらず、浄土真宗安浄寺にある宮澤家代々のお墓に、納骨されていたということです。

 私は政次郎翁に安浄寺の宮沢家の墓地に案内されたことがある。そこで賢治の遺骨が一基の先祖代々の墓石の下に納められていると知り、「世間の人が賢治を如何にもてはやしても、家では決して特別扱いはさせません」といった言葉をきいた時は、父の「えらさ」に頭がさがり、さらには浄土真宗の「倶会一処」の信仰に感じ入ったのであった。(上掲書p.258)

 しかしその後・・・。

 ところが昭和二十五~六年頃だったと思う。訪れた私に、翁は「賢治の墓を作ろうと思いますが……」と話しかけて来た。私はその十年ほど前に前述した「別に墓を作らぬ」といった、翁の言葉を思い出したが、既に眼と足が不自由になっていた喜寿の老翁に対して前言に違うと詰問する勇気が出ず、もし作るなら墓碑銘を刻んだ普通の墓ではなく、二十回忌記念の供養塔として、賢治が好んでいたらしい五輪峠にもちなんで、無銘の五輪塔にしたらよかろうという意味を述べ、もしそうするなら設計図の適当なものを送ると約したのである。そして帰ってから、懇意にしていた当時の石造美術の学問的権威者天沼俊一博士に頼み、鎌倉時代の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した。鎌倉時代が石造美術の黄金期であり、五輪塔はこの時代の代表的造形でもあったからである。
 ところが数年後に訪問すると、その五輪塔が完成したとのこと。清六氏に案内されると、そこは安浄寺ではなく、前述した南部日実上人の縁で出来た身延山系法華の説教所が寺になった、賢治の勤めていた花巻農学校の後身の花巻農業高等学校近くの身照寺の墓地であった。前に見た安浄寺の墓地にあった宮沢家の代々墓に隣接して、私が送った設計図通りの五輪石塔が建っており、石塔は無銘だったが、その背後に高い大きな木柱が建てられ、それには「宮沢賢治之墓」という文字が見られたのである。私は内心唖然としたまましばらく無言でいると、清六氏は昭和二十七年に父も含めて宮沢家は日蓮宗に改宗し、五輪塔建立と共に宮沢家の安浄寺の墓を移した次第を物語ってくれた。私も関与していた筑摩書房版第一回の賢治の全集の最後の第十一巻の出たのが昭和三十二年二月二十七日であったが、建塔・移墓はそのころであったとのこと。政次郎翁が八十四歳で永眠したのは、同じ年の三月一日である。
 従って私は、政次郎翁の真宗から法華宗に転じた信仰の由来をきく機会を永久に失った。だから翁の宗教信仰は、賢治のそれと共に永遠のブラック・ボックスなのである。(上掲書p.261-262)

 現在は、身照寺の「賢治の墓」の背後には、「宮沢賢治之墓」という木柱は建っていませんが、後ろにある数本の卒塔婆には、いずれも「真金院三不日賢居士」という賢治の法号が書かれています。
 五輪峠にある五輪塔と、この賢治のお墓の五輪塔を比べると、かなり形が違っていて、賢治のお墓の方が端正な感じがしますが、小倉豊文氏によればこれは鎌倉時代の五輪塔を模しているというわけですね。
 ただ、小倉氏の記述の中で一つだけわからないのは、政次郎氏から「賢治の墓」について相談を受けたのは「昭和二十五~六年」とあり、その後に、天沼俊一博士から「鎌倉時代の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した」とされていますが、天沼俊一氏は、すでに1947年(昭和22年)に亡くなっているはずなのです(Wikipedia-「天沼俊一」参照)。実際に「賢治の墓」について相談が行われたのは、上の記述よりもう少し前のことだったのでしょうか。


 それから最後に、小倉豊文氏自身のお墓について。小倉氏のお墓は、千葉県東金市にあって、そのお墓の横には、賢治の歌碑「病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり/みのりに棄てばうれしからまし」が建てられています(下写真)。小倉氏ご自身の遺骨は、この歌碑の下に納められているのではなくて、その隣の小倉家代々の墓で眠っておられるのですが、二つの石標が並んでいる様子は、宮沢家の場合と似ています。
 小倉豊文氏が亡くなられたのは賢治生誕百年の1996年でしたが、この歌碑が建立されたのは1955年8月6日、広島に原爆が落とされたちょうど10年目の日でした。歌碑は、亡き奥様の「十回忌記念供養塔」だったのでしょう。
 じつは小倉氏の奥様・文代夫人は、広島で被爆して亡くなられたのでした。当時、小倉氏は奥様の葬儀として、文代夫人が生前愛してやまなかった賢治の詩を唱えつつ野辺送りをするという、「賢治葬」を行ったのだそうです(小倉豊文『絶後の記録』)。
 まさに、「賢治葬」にふさわしい追善供養碑です。

小倉家墓地内歌碑

五輪峠の歌

 田川広之さんとおっしゃるギター奏者の方が、「賢治の『五輪峠』に曲を付けてみた」とのことで楽譜を送って下さいました。
 下記は、その旋律に私が伴奏を付けて、VOCALOID の歌を入れてみたものです。ここで演奏を公開することを快くご了承いただいた田川広之さんに、感謝申し上げます。

 今回、田川さんが曲が付けられたのは、賢治の「五輪峠」の「下書稿(一)」において現れる、独特の民謡のような雰囲気を持った一節です。残念ながらこの部分は、その後の推敲によって削除されてしまうので、最終形となる「下書稿(二)」では見ることはできません。しかしこの一節に、東北地方の民俗的な奥深さにも通ずるような不思議な魅力を感じるのは、田川さんや私だけではないでしょう。

 「五輪峠」という作品において、賢治はこの峠に登りながら、それまでの彼の理解では、「地輪峠」「水輪峠」「空輪峠」・・・などと五つの峠が並んでいるので「五輪峠」と呼ばれているのかと思っていたのに、実際には一つの峠しかなくて、そこに昔から「五輪塔」が建っているから「五輪峠」と名づけられているのだと知ります。そうすると、賢治は自分が想像していた「五つの峯が/頭の中でしづかに消える」のを感じ、そこから「存在」や「観念」の相対性ということについて、哲学的な空想をめぐらせていく・・・という展開になっていくのです。
 この過程において登場する今回の民謡調の一節は、そのような彼の幻想の中に現れた「歌の幻」ようで、あたかも「五つの峯がしづかに消える」のと同じように、推敲の進行とともにテキストから消え去っていきます。

 下記の歌の伴奏は、「太棹三味線」と「鈴」にしました。テキストに「みちのくは風の巡礼」と出てくることから連想して、雪道を歩いていく巡礼の姿をイメージしていて、巡礼が出てくる他の作品の雰囲気も、少しだけ背景にあります。


「五輪峠の歌 (宮澤賢治詩・田川広之曲)」(MP3: 1.96MB)


みちのくの
五輪峠に
雪がつみ
五つの峠に雪がつみ
その五の峯の松の下
地輪水輪また火風
空輪五輪の塔がたち
一の地輪を転ずれば
菩提のこころしりぞかず
四の風輪を転ずれば
菩薩こゝろに障碍なく
五の空輪を転ずれば
常楽我浄の影うつす
みちのくの
五輪峠に雪がつみ
五つの峠に…… 雪がつみ……