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 もう1週間後になりましたが、来たる2月18日(土)に、岩手県大槌町において、「宮沢賢治イーハトーブ三陸沿岸サミットin大槌」という催しが開かれます。

イーハトーブ三陸サミットチラシ表

イーハトーブ三陸サミットチラシ裏

 副題には、「イーハトーブ海岸連携構想」とあり、チラシに描かれた岩手県の地図において、その昔に賢治が旅した三陸の各スポットが、星座のように結ばれています。
 その趣旨について、チラシには次にように記されています。

 宮沢賢治は童話「ポラーノの広場」のなかで三陸海岸を「イーハトーブ海岸」と呼び、その地に暮らす人々がとても親切だったと語っています。
 その「イーハトーブ海岸」の理想を実現するため、三陸沿岸各地に点在している賢治のレガシー(遺産)を「三角標」に見立て、それぞれの地で賢治関連の活動をしている個人や団体が星座のように連携し、三陸沿岸が再び輝く地域になることを目指します。

 当日のプログラムは、下記のようになっています。

プレイベント 13:00-15:00 映画「銀河鉄道の夜」上映会
大槌町 浪板海岸ヴィレッジ にて

第1部 16:00-17:30 パネルディスカッション
三陸沿岸の賢治愛好団体等によるパネルディスカッション
・三陸沿岸における賢治レガシー(遺産)自慢
・連携によって生まれるイーハトーブ海岸の可能性 など
三陸花ホテルはまぎく ジパング にて

第2部 18:00-20:00 交流会
賢治作品の朗読会(フリーアナウンサー畑中美耶子氏)
賢治の音楽会(大久保正人氏)
三陸花ホテルはまぎく ジパング にて

 参加費は無料ながら要予約で、予約・問い合わせは、ベルガーディア鯨山の佐々木さん(0193-44-2544)まで、ということです。
 私は残念ながら参加できないのですが、この催しが実り多いものとなり、三陸沿岸の輝きがいや増すことを、心からお祈りしています。

 次の朝わたくしは番小屋にすっかりかぎをおろし一番の汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったりそしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのやうな下級の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞりをたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました。
                              (「ポラーノの広場」より)

 来たる5月4日(祝)に、岩手県の大槌町で、「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」と題した講演をさせていただくことになりました。下記が、そのチラシです。

大槌宮沢賢治研究会講演会チラシ

大槌宮沢賢治研究会 講演会(参加費無料・予約不要)
「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」
   ―最愛の妹トシを亡くした後の心の軌跡を作品でたどる―
日時: 平成28年5月4日(水・祝日) 14時―16時

主催: 大槌宮沢賢治研究会 ベルガーディア鯨山
後援: 大槌町 大槌町教育委員会 NPO法人心の架け橋いわて

 場所は、大槌町吉里吉里にこの4月にできたばかりの「Remenber HOPE 浪板海岸ヴィレッジ」というところです。地図では下のマーカーの場所で、「三陸花ホテルはまぎく」のすぐ北隣の浜辺にあります。

 今回のお話は、大槌で「風の電話」を運営しておられる佐々木格さんからお受けしたもので、たまたま私が今度の連休に三陸方面に行くので、また佐々木さんのところにお邪魔してもよいかとお聞きしたところ、「それならついでに講演も」というご依頼を頂戴しました。
 内容としては、昨年11月に「第7回 イーハトーブ・プロジェクトin京都」で、竹崎利信さんの「かたり」とともにお届けしたものを、今度は私一人の「講演」という形式で行います。

 佐々木格さんが、先の震災・津波で大切な人を亡くした方々のために、「風の電話」によって提供しておられる活動も、一つの「グリーフ・ワーク」であると言えますが、一人の人間としての宮沢賢治が、かつてどんな「グリーフ・ワーク」の道を歩んだのかということを、大槌の皆さんと一緒にたどってみたいと思います。
 私自身が、直接的に地元の方々の力になる、ということまではなかなかできないと思いますが、宮沢賢治という「先達」が、経験し、苦しみ、考えたことの中に、少しでも参考としてお役に立つことがあれば・・・と思っています。

大槌の「風の電話」と賢治の挽歌

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風の電話は心で話します
静かに目を閉じ
耳を澄ましてください
風の音又は浪の音が
或は小鳥のさえずりが聞こえたなら
あなたの想いを伝えて下さい
想いはきっとその人に届くでしょう
                佐々木格「風の電話」より

 「ベルガーディア鯨山」とは、釜石の会社を早期退職した佐々木格さんが、大槌町の郊外の高台に開いた、広大な庭園の名前です。
 ここには、佐々木さんが一つ一つ石を積んで建てた「森の図書館」(下写真)や・・・、

森の図書館

やはり佐々木さんが自ら木材を組み上げて作った「ツリーハウス」(下写真)などが建ち並んでいますが・・・、

ツリーハウス

それらの建物から少し離れて、海の景色が美しい場所にぽつんと建っている白い電話ボックスが、「風の電話」(下写真)です。

風の電話

 電話ボックスの中には、昔ながらの黒電話が一つ置かれているのですが、この電話機の線は、どこにも繋がっていません。ですから、この電話では物理的には、誰とも話はできないのです。
 しかしこの電話機には、他の普通の電話にはないような、特別な機能があります。実はこれは、この世の人と、亡くなった人の心をつなぐために、佐々木さんが設置したものなのです。

 佐々木格さんは、2010年の冬に、いとこを病気で亡くされました。悲しみに沈むご親族の力になればと考え、佐々木さんはこの庭園内に電話ボックスを設置し、暖かくなったら周囲に花を植えようと、2011年の春が来るのを待っていました。
 するとそこに、震災が起こったのです。ここ大槌町では、1万5千人の人口のうち、1284人が死亡または行方不明という惨事になりました。

 このような状況で、この電話が何か人の役に立つかもしれないと思った佐々木さんは、急いで周りの植栽を行いました。そして、これを「風の電話」と名づけて完成したのが、2011年4月のことでした。
 その頃まだ大槌では、現実の電話線も復旧していなかったのですが、5月に新聞記事で紹介されたことをきっかけに、ここを訪れる人がだんだんと増えてきたということです。

 「風の電話」を訪ねてきた方は、まずはこの庭園を散策したり、ベンチに座って海を眺めたりするのだということです。その後、電話ボックスに入って受話器を取り、しばしの時間を持たれるのです。
 ボックス内に置かれているノートに、その思いを書き付けて帰られる方も、たくさんあります。また、千葉県のボランティア団体から寄贈された小さな木彫りのお地蔵さんも置いてあって、ここを訪れる人は、お地蔵さんを自由に持ち帰ってよいことになっています。

 私自身も、2月12日の早朝に、「風の電話」を体験させていただきました。
 電話ボックスの扉を開けて中に入り、また扉を閉めると、中は思ったよりも静かでした。ガラスはきれいに磨かれています。

風の電話の内部

 ノートやお地蔵さんを眺めた後、受話器を手に取ってしばらく耳にあててみました。そして、今は会えないある人に対して、ずっと伝えたかったことを、心に念じてみました。

 実際に「風の電話」を体験して感じたことは、ここに入ってみると、自分を何かに「ゆだねる」というような気持ちが、なぜか湧いてくるということでした。

 しかしまあ、どこにも線の繋がっていない電話の受話器を取って、亡くなった人と「対話」をするなんて、ちょっと「芝居がかった」行為に感じられる向きもあるかもしれません。はたしてこんなことが、何かの役に立つのだろうかという疑問も、ありうるでしょう。
 それでも、この行為に確かな「意味」が存在していることは、震災から年月が経った今でも、わざわざここを訪れて受話器を手にする人が跡を絶たず、中には何度も来られる人もいるという事実が、はっきりと証明してくれています。私がここを訪ねたのは2月11日でしたが、震災から「月命日」にあたるこの日、「風の電話」を訪れる人を取材しようと、複数の新聞社の人も来ていました。

 この舞台装置が「芝居がかった」ものにならずに、実際にしっかりと機能を果たしている理由は、いろいろと考えられます。
 一つには、この電話が位置しているロケーションによるところもあるのでしょう。電話ボックスが設置されているのは、被災地の懐で、豊かな自然に囲まれ、手入れされ落ち着いた庭園の中です。そして、何よりもこの場所からは、あの三陸の海の、「あの日」とは異なった美しい姿を、望むことができるのです。
 そしてまた、この電話を設置して、それを守り続けている佐々木格さんのお人柄も、非常に大きな要素となっていることでしょう。ここに来ればいつでも佐々木さんが優しく迎えてくれて、丁寧に庭園を案内してくれたり、風の電話を使った後はお茶を飲みながら話を聴いてくれたりすることは、多くの人にとって心強い癒やしとなっていることでしょう。
 さらに、ここを訪れる方々同士の横のつながりも生まれ、「子を亡くした親の会」などの自助グループができていることも、当事者の方々にとっては、強い力になっていることでしょう。会の仲間と一緒に、みんなでピザの生地をこね、「森の図書館」の1階に造り付けられている石窯で焼いて食べるという会合も、開かれているのだそうです。

風の電話の内部

 佐々木さんによると、この電話を訪ねて来られた方でも、あまりにも悲しみが深い場合は、最初は電話ボックスに入ることにさえ抵抗感を抱かれるのだそうです。
 そういう方も、しばらくすると入ってみようという気持ちになられますが、それでも当初は、ほとんど言葉も出てこないということです。

 しかしそのうちに多くの方は、抱えてきた悲しみを佐々木さんに切々と話されるようになるのだそうです。それは初めのうちは、亡くなった方に対して自分を責める気持ち、生き残ってしまったことへの罪責感が、ほとんどだということでした。
 それでもいつしか、そのお話もだんだんと穏やかになり、表情も柔和になっていかれるということです。

 大切な人を失い、自分だけが生き残ってしまった時、人はしばしば「サバイバーズ・ギルト(生存者の罪責感)」という感情を抱いてしまいます。「なぜ自分はあの人を助られなかったのか」、「もしもあの時ああしておれば助けられたのではないか」、「自分が殺してしまったようなものだ」、「こんなことなら自分こそ死ねばよかったのだ」、などという思いが、無限ループのように心の中で渦巻きます。このような罪責感は、その人を失った痛切な記憶と固く結びついているので、その記憶がよみがえるたびに、まるで「自動思考」のように発動してしまい、人はなかなかこのループから抜け出すことができません。

 私が「風の電話」で感じた、「自分を何かにゆだねるような気持ち」は、このような「自動思考」を幾分なりとも解除してくれて、心が再び自然な流れを取り戻す上で、一定の役割を果たしてくれているのかもしれないと、ふと思ったりもしました。
 自分の心に浮かぶ考えや感情に流されたり、それらに対して価値判断を差しはさむことなく、ただ心に湧いてくることを客観的に観察しようとするという、「マインドフルネス」という心理アプローチがありますが、この「風の電話」に入ることは、意図せずにこの「マインドフルネス」に似たような心の状態を、作り出してくれているようにも感じました。
 ガラス張りで、中からは周囲の美しい風景がすっきりと見渡せる一方で、一人だけの静かな「守られた空間」でもあるというような不思議な感覚が、何らかの作用をしてくれているのかもしれません。

風の電話からの景色

 上に記したように、人間が深い「悲しみ」を段階的に昇華していく作業のことを、「グリーフ・ワーク」と言います。私は去る2月11日に、佐々木格さんと、県立大槌病院の心療内科医である宮村通典さんと一緒に、宮澤賢治が最愛の妹トシを亡くした後に経験したであろう「グリーフ・ワーク」について、暖炉の火の燃える「森の図書館」で、しばらくお話しをしました。

 トシを亡くした日、賢治は「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」という不朽の三部作を書き付けましたが、その日からおよそ半年間は、少なくとも『春と修羅』に収められる作品は書いていない、文字どおり「無声」の時期が訪れます。
 翌年の6月以降、また創作は再開されますが、今度は「オホーツク挽歌」の章の諸作品のように長大なものが続き、言葉は堰を切ったように大量にあふれ出します。このあたりは、佐々木さんが、「風の電話」を訪れる方々を見ていて感じられた上記のプロセスと、同じような経過とも言えます。

 そして、賢治が「青森挽歌」に記している言葉、「なぜ通信が許されないのか/許されてゐる…」に表現されている葛藤は、まさに故人との「通信」を求めて、「風の電話」を訪れる人々とも、共通するものだと言えます。古今東西にあまねく、さまざまな「霊媒」と呼ばれる人々の存在があるのも、何とかして死者と通信をしたいという、人間の普遍的な願望によるものでしょう。
 賢治の場合は、青森へ向かう夜行列車の中や、稚泊連絡船の甲板や、サハリンの栄浜の海岸などが、トシとの「通信」を可能にするための舞台設定だったように思われます。一方、ここ大槌の「風の電話」には、上に記したようにさまざまな要素が絡み合って、「通信」のための絶妙の環境装置が備わっているわけです。

 賢治にとっても、もちろん一回の旅行だけで、その深刻な「グリーフ・ワーク」が終了したわけではありませんでした。その後もさまざまな作品に、彼の心の軌跡は表れています。
 そして最終的には、たとえば「銀河鉄道の夜」に代表されるような、「人の死の受けとめ方」へと結晶していったのです。

 古今東西、大切な人の死をどう受けとめるかという「ワーク」に求められているのは、きっと本質的にはみんな同じことなのだと思います。

 佐々木さんが設置したこの「風の電話」は、去年には可愛い絵本にもなって、出版されています。
 登場する動物たちのけなげさが、心に沁みます。

かぜのでんわ かぜのでんわ
いもとようこ

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やまのうえに 1だいの でんわが おいてあります。
きょうも だれかが やってきました。
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                           (「かぜのでんわ」より)

「大槌 宮沢賢治研究会」発足へ

 去る2月11日に私は岩手県大槌町を訪ね、そこで下記の佐々木格さんと宮村通典さんにお目にかかり、とても貴重なお話をお聴きしてくることができたのですが、その詳しい内容はまた次の記事でご報告することとして、まず今回は、来たる2月15日(日)に大槌町において予定されている講演会と、それを機に「大槌 宮沢賢治研究会」が発足予定であることを、ここにご紹介させていただきます。

 下の写真が、2月15日のその講演会の案内チラシです。

「宮沢賢治と大槌の関わりを知る」

宮沢賢治と大槌の関わりを知る

  日時: 平成27年2月15日(日) 13:00-16:00
  場所: 大槌町中央公民館第一会議室(3F) 無料

  第一部 宮沢賢治と大槌の関わり
                ベルガーディア鯨山 佐々木 格
  第二部 宮沢賢治に背中を押されて
                県立大槌病院心療内科医師 宮村 通典
  第三部 大槌 宮沢賢治研究会の発足
                小学生から大人まで参加できます。

  申し込み・問い合わせ先: ベルガーディア鯨山
                Tel. 0193-44-2544 佐々木
  主催: ベルガーディア鯨山
  後援: 大槌町教育委員会

 中心となってこの催しを企画し、第一部の講演もされる佐々木格さんは、釜石市の会社を早期退職後、大槌郊外の高台に「ベルガーディア鯨山」と名づけた美しい庭園を開き、そこに「風の電話」「森の図書館」「ガーデンカフェ」「ツリーハウス」などを、ご自分で製作しておられます。
 今回の催しを機に、「大槌 宮沢賢治研究会」を発足させ、また今後は大槌町内に2基の新たな賢治詩碑を建立する計画も進行中とのことです。
 佐々木さんが運営しておられる「風の電話」という素晴らしい<媒体>に関しては、次回記事でご紹介させていただくつもりです。

 第二部の講演をされる宮村通典さんは、心療内科の医師であり、日蓮宗の僧侶でもあるという方で、先の震災までは長崎県大村市の病院で勤務しておられましたが、震災を機に長崎の病院は退職し、自ら大槌町の病院に赴任して、地元の医療に尽くしておられます。
 私は2月11日に、宮村さんにも親しくお話をうかがうことができたのですが、宮村さんが九州から、はるばる三陸の被災地に身を投じる決断をする上で、大きな力となったのは、賢治が「〔雨ニモマケズ〕」に記した「行ッテ」の精神だったということです。

 今後の大槌町のさらなる復興と、「大槌 宮沢賢治研究会」のご発展を、心からお祈り申し上げます。

ベルガーディア鯨山
ベルガーディア鯨山

 今からちょうど90年前、1925年(大正14年)の1月に、賢治は一人で真冬の三陸地方を旅行しているのですが、この旅行はその目的も具体的な日程も不明で、いろいろと謎に包まれているものです。
 この旅行に関して、『新校本全集』の「年譜篇」に掲載されいている大まかな日程の推測は、以下のようなものです。

〔一月〕
五日 夜陸中種市から久慈へ向う。
六日 暁穹に百の岬が明ける。この夜安家(下安家と推定)
   に宿泊。
七日 下安家より普代を経て羅賀へ出、ここより発動機船に
   乗り夜宮古港着、宿泊したか夜〇時発三陸汽船にの
   りかえ釜石に向かったか(あるいは「函館航路」の他
   の臨機寄港地を用いたか)。
八日 宮古〇時発ならば午前一一時二〇分釜石着。天神町の
   叔父宮沢磯吉家に宿泊。
九日 釜石を出発。仙人峠より釜石湾を見る。仙人峠一二時
   三五分発ならば花巻着午後四時三〇分、三時五五分
   発ならば夜七時四五分着。
以上はあくまでも推測で、詩の内容・日付やノートだけでは確定は困難である。(『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)年譜篇p.286-287より)

 また、木村東吉氏は、『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』(渓水社)において、上記『新校本全集』年譜篇における推測をおおむね踏襲しながらも、7日の発動機船乗船地を、羅賀ではなく、下安家、堀内、大田名部のいずれかであったと推定しておられます。
 この木村氏の推定については、当サイトの「旅程幻想詩群」というページで、ご紹介しています。

 発動機船乗船地に関しては、普代村の堀内港から乗船したとの説に基づき、2004年にこの堀内地区に「敗れし少年の歌へる」詩碑が建立されるなど、今も諸説がありますが、本日取り上げてみたいのは、翌1月8日の、宮古から釜石に向かったと思われる行程についてです。
 発動機船に乗ったのがいずれの港であったにせよ、いったん宮古港に入港したことは、「発動機船 三(下書稿(一))」に、「船は宮古の港にはいる」との一節が出てくることから明らかです。
 しかし、宮古から先の賢治の足どりは、非常にあやふやなものになります。

 1月9日付けの「」に、「釜石湾の一つぶ華奢なエメラルド/……そこでは叔父のこどもらが/みなすくすくと育ってゐた……」とあることから、1月8日の夜に賢治が、釜石の叔父宮澤磯吉宅に泊まったことは、確実と言ってよいと思われます。では、宮古から釜石まで、賢治はどうやって来たのでしょうか。
 ここで、1月8日付けの二つの作品、「発動機船〔断片〕」と、「旅程幻想」を参照しなければなりません。

 まず「発動機船〔断片〕」は、本文4行しかない書きかけの断片ですが、その内容から、作者は船に乗っていると考えられます。「月夜の海」という言葉が出てくることから、時刻は夜と思われますが、しかしこれが1月8日午後の夜だとすると、この晩は釜石の叔父宅に宿泊しているという先ほどの推定との関係で、やや困難が生じます。
 この日の夕方、暗くなってから釜石に向かう船に乗っていて、その後船を降りて叔父宅に行ったと考えることも無理ではありませんが、「Ke!sanサイト」で調べた1925年1月8日の釜石における月の出は15時6分、日の入りは16時44分で、この作品がスケッチされたのが、例えば18時頃だとしても、月の高度はまだ低く、「月夜の海」と言えるほどの情景になるかどうかは疑問です。
 そこで、この「発動機船〔断片〕」に描かれた「月夜の海」は、1月8日の未明の情景だと考えると、より辻褄が合うのです。上記『新校本全集』の年譜における、「宮古〇時発ならば午前一一時二〇分釜石着」という推測も、これと関連していると考えることができます。

三陸汽船時刻表 ちなみに、この「宮古〇時発ならば午前一一時二〇分釜石着」というのは、当時の「三陸汽船」の運航ダイヤです。
 賢治がこの三陸旅行において「三陸汽船」を利用した可能性については、最初に奥田弘氏が「宮沢賢治研究周辺資料〔十一〕」(1989)において指摘し(蒼丘書林『宮沢賢治研究資料探索』所収)、その後木村東吉氏が「旅の果てに見るものは―《春と修羅 第二集》三陸旅行詩群考―」(1994)において、運航時刻も調査されたものです。
 右の複写は、賢治の旅行の1年半前ですが、1923年(大正12年)7月号の『公認汽車汽船旅行案内』を、新人物往来社が1998年に復刻刊行したものです。
 2段目の「復航」欄の該当部分を抜き出すと、以下のとおりです。

宮古発 後 一二、〇〇
山田〃 前  三、四〇
大槌〃     七、三〇
釜石〃   一一、二〇

 この運航時刻に基づいて、『新校本全集』では「午前一一時二〇分釜石着」と推測したのでしょうが、しかしここで賢治が宮古から釜石まで三陸汽船に乗船したのだとしたら、やはり1月8日付けの「旅程幻想」の記述との間に、齟齬が生じてしまいます。
 すなわち、「旅程幻想」においては、「海に沿ふ/いくつもの峠を越えたり/萓の野原を通ったりして/ひとりここまで来たのだけれども…」とありますが、釜石港で下船した場合には、釜石の中心部にある叔父の家に行くまでの間で、こんなにいくつも峠を越えたりすることはありえないのです。
 そこで、木村東吉氏は『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』において、賢治が三陸汽船を降りたのは山田港か大槌港のいずれかであり、そこから釜石までは徒歩で行ったと推測されました。
 こう考えれば、作品の日付および内容と、当時の時刻表を、ひとまず一致させることができます。
 しかしここで、どうしても次の疑問がわいてきます。

【疑問1】 賢治の目的地は釜石だったのに、なぜ釜石まで乗船せずに山田なり大槌なりで、途中下船してしまったのか?

ということです。
 山田から釜石までは30km、大槌から釜石なら15kmの道のりで、健脚の賢治ならばもちろん歩けないことはありませんが、寒風吹きすさぶ真冬の三陸海岸で、もしも歩かずにすむならばそれに越したことはないでしょう。
 この問題に対して木村東吉氏は、「なぜ釜石まで乗船しなかったのか現在からすれば不審だが、ボロ船で当時利用者の不満も高かった三陸汽船だったし、船荷の都合なども考えられる」と、記しておられます。

 この点に関しては何とも言えませんが、もしも賢治が何かこのあたりに用事があったとすれば、途中下船する明確な理由となります。個人的に少し気になるのは、賢治が1919年に東京から父に出した「書簡137」において、鉱物を扱う事業を始めたいと訴える中で、例として挙げられている鉱石が、「九戸郡の琥珀、貴蛇紋石 大槌の薔薇輝石」となっていることです。
 ここに登場する九戸郡も大槌も、この三陸旅行において徒歩で移動したと推測されている箇所に、ちょうど一致するのです。

 憶測はさておき、賢治が1月8日未明に宮古から山田または大槌まで「三陸汽船」に乗船したとすれば、この船上における描写が、同日の日付を持った「発動機船〔断片〕」だということになります。1925年1月8日の月の入りは午前4時3分ですから、深夜0時に宮古を出港して間もない頃であれば、まだ「月夜の海」であり、木村氏の調査によれば、この日の午前1時-4時の宮古地方の天候は快晴でした。月は海上に、晴れ渡って浮かんでいたことでしょう。

 しかしここで、また一つ疑問がわいてきます。

【疑問2】 「汽船」に乗ったのに、なぜ作品タイトルは「発動機船」なのか?

ということです。
 当然ながら、「汽船」とは、蒸気機関により推進力を得る船であり、「発動機船」とは、「発動機」すなわち内燃機関により推進力を得る船です。賢治が北三陸から宮古まで乗った船は、比較的小規模な「発動機船」だったのでしょうが、「三陸汽船」はもちろん「汽船」です。
 この疑問の答えとしては、三通りの可能性がありえるでしょう。

 一つ目は、賢治がこの時に乗ったのは「三陸汽船」ではなくて、題名どおり「発動機船」だった、という可能性。この場合、奥田弘氏から木村東吉氏に至る「三陸汽船説」は間違いだったということになってしまいますし、時刻の推定も不可能になります。
 この推測の難点は、当時は小規模な貨物輸送や旅客輸送を行っていたと思われる発動機船が、日中ではなくこんな真夜中の夜半から未明にかけて、はたして運航していたのかどうか、という問題です。ちょっと心もとない感じがします。

 二つ目は、賢治が「汽船」と「発動機船」の違いを意識せず、実際この時に乗ったのは汽船だったのに、北三陸で「発動機船」に乗ったという意識につられてか、ここでもタイトルを「発動機船」としてしまったという可能性。このように「作者が間違えた」と仮定するのは、考察としてあまりすっきりはしませんが、しかしこういう可能性も否定はできないでしょう。

 三つ目は、やはりこれも作者のミスを仮定してしまいますが、「発動機船〔断片〕」の「1月8日」との日付が間違いで、この断片は実は前日1月7日の発動機船による船旅を描いたものだったという可能性。これも多少の無理はありますが、ただこれは後で述べる、「発動機船 第二」と「発動機船〔断片〕」との関係にも関わってくる問題をはらんでおり、きちんと検討しておく必要はある仮説です。

 どれが正しいかについては何とも言えませんが、個人的には、上の二つ目の「実際は汽船に乗ったのに発動機船と書いてしまった」という可能性が、どうも棄てきれません。
 その理由の一つは、「発動機船〔断片〕」の本文4行目に、「船は真鍮のラッパを吹いて」と書いてあるところです。

 この「発動機船〔断片〕」のテキストは、「発動機船 第二」とかなり共通している部分が多いのですが、ここに出てくる「ラッパ」も、その共通する道具立ての一つです。
 ただ、ここが大きな違いかもしれないのですが、「発動機船 第二」においては、「船長は一人の手下を従へて/手を腰にあて/たうたうたうたう尖ったくらいラッパを吹く」とあり、ラッパを吹くのは「船長」です。
 これに対して、「発動機船〔断片〕」では、「船は真鍮のラッパを吹いて」となっていて、ラッパを吹く主体は、「船」なのです。

 さてここで、人間ではなくて「船がラッパを吹く」というのは、擬人的表現と読むのでなければ奇妙なことに思えますが、一つだけ文字通りの解釈もありえます。このラッパが、「汽笛」だったと考えてみたらどうでしょうか。
 「汽笛」というのは、蒸気船において、動力に用いる蒸気のあまりを配管で引いてきて、これを必要な時にラッパに通し、大きな音を発生させるものですから、吹いている主体は「船」そのものです。
 一方、動力源が発動機である場合には、蒸気機関のように高圧の気体を取り出すということはできませんので、船から周囲に向けて信号を送るためには、人間がラッパを吹くなどの手段が必要となります。

 したがって、賢治が「発動機船〔断片〕」における「船は真鍮のラッパを吹いて」という言葉を、その文字通りの意味で書いたのだとすれば、このラッパは「汽笛」だったということになり、ならばその船は「汽船」であった、という結論になります。
 この場合、タイトルの「発動機船」は誤りで、賢治が乗っていたのはやはり「三陸汽船」だったと考えるべきでしょう。
 これは、何かの確定的な証拠になるというほどの事柄ではありませんが、「三陸汽船説」に味方する小さな材料とは言えるかもしれません。

 さて、上にも少し触れたように、「発動機船〔断片〕」と「発動機船 第二」のテキストの間には、かなりの重なり合った部分があります。
 すでに挙げた「ラッパ」もその一つですが、それ以外に、前者の1行目の「水底の岩層も見え」は、後者の18行目の「青じろい岩層も見えれば」に対応し、前者2行目の「藻の群落も手にとるやうな」は、後者19行目の「まっ黒な藻の群落も手にとるばかり」に、前者3行目の「月夜の海」は、後者9行目「月のあかり」に対応します。
 これほどまでに、二つのテキストの素材が共通しているのですから、これらが密接に関連していると考えるのはある意味当然で、このため『新校本全集』では、「発動機船〔断片〕」の発展形が「発動機船 第二」であると位置づけられています。すなわち、前者が「改作」されて後者になったのであり、もとになる作者の体験は、同一だったと判断しているわけです。

 しかしそのように考えると、新たな問題が発生してきます。
 一つには、上にも述べたように、両者の「ラッパ」は一見共通していても、一方は「船が」吹き、他方は「船長が」吹いているわけで、船自体も「汽船」と「発動機船」という違いがあるかもしれないのです。
 またもう一つ、これよりさらに厄介なことになるのは、「発動機船 第二」の前身が「発動機船〔断片〕」であるのなら、「発動機船〔断片〕」で描かれていた情景は、時間的には「発動機船 一」と「発動機船 三」との間に位置するはずです。賢治の詩作品では、「小岩井農場」や「種山ヶ原(下書稿(一))」などに、漢数字によるパートが記されていますが、数字は時間経過の順に並べられており、この場合も、現実の時間経過は、「発動機船 一」→「発動機船 第二」→「発動機船 三」、という順番だったと考えるのが当然でしょう。
 しかしそうであれば、「発動機船 三」は宮古港に入る前の情景を描いており、1月7日夜のことであるのはほぼ確実なのに、これでは「発動機船〔断片〕」に記されている「1月8日」という日付と順序が逆になってしまうのです。
 そこで、『新校本全集』のように、「発動機船 第二」は「発動機船〔断片〕」の発展形であると考えるためには、後者に記されている「1月8日」の日付は作者の誤記であり、実際は「1月7日」のことだったと考える必要が出てくるのです。
 これは、上で【疑問2】の答えとして考えた、「三つ目の可能性」に対応します。
 これは、可能性として否定はできないのですが、こう考えるとすれば、1月8日に賢治が船に乗ったと考える根拠は、何もなくなります。
 賢治の足どりも、完全に闇の中に消えてしまうわけです。

 いずれにしても、賢治が誤記をしたと仮定せざるをえないこの説に対しては、疑問を抱く人があっても無理はないでしょう。

【疑問3】 「発動機船〔断片〕」は、「発動機船 第二」の発展形なのか?

 これを「発展形である」と考える『新校本全集』の立場に対して、木村東吉氏は、取材の場所も異なる別作品と考え、次のように述べておられます。

 なお、『新・校本全集』では、「発動機船 第二」を『第二集』の「発動機船」〔断片〕の発展形とみなしたためか、「第二集補遺」に収めている。しかし、作品中で真鍮のラッパを吹いている点では共通していても、創作日付を信ずるなら『第二集』の断片稿は宮古から乗船した後の旅に取材しているはずで、羅賀を想定させる「発動機船 第二」とは、取材の場所も異なる。その順序も『第二集』の「発動機船」は『口語詩稿』の「発動機船 三」の後に位置するはずのものである。(『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』p.206)

 「発動機船 第二」が「羅賀を想定させる」かどうかという点に関しては、私としては判断を保留しますが、やはり私も木村氏のように、「発動機船〔断片〕」の日付を尊重したいという気持ちはあります。
 ただしその場合、この二つのテキストがここまで似通っていることを、どう説明するかという問題は発生します。

 というような感じで、賢治の三陸旅行の後半は、まさに「謎だらけ」なのですが、最後にもう一つ、どうしても気になる疑問を挙げておきます。

【疑問4】 「旅程幻想」の舞台はどこなのか?

 1月8日の日付を持つ「旅程幻想」に漂う、孤独感、寂寥感、不安感は何とも印象的で、私にとっては忘れられない作品の一つです。賢治はいったいどこの河原でこのような休息をとったのだろうと、これまであてもなく思ってみたりもしましたが、自分では何の手がかりも見つけられませんでした。
 実はこれについて、大槌町において考えておられる方がいらっしゃるようですので、一度お話をお聴きしたいものだと思っているところです。

『公認汽車汽船旅行案内』附録図
『公認汽車汽船旅行案内』大正十二年七月号より

高田高校の賢治碑再建への支援

 陸前高田市の高田高校にあった「農民芸術概論綱要」碑の状況に関しては、「三陸の賢治詩碑の現況(5)」においてもご報告いたしました。

 碑石は大量の瓦礫に埋もれて行方がわからなくなり、その後三上満さんたちの尽力によって発見され掘り出されましたが、谷川徹三氏の揮毫によって「まづもろともにかゞやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」と刻まれた銅板は、ついに見つかりませんでした。
 その後、旧校舎解体も迫った2012年9月21日、この日はくしくも賢治忌にあたっていましたが、3階図書室の最後の見まわりの際に、谷川氏が42年前に書いた色紙の原本が、奇跡的に発見されたのです。元の色紙さえあれば、失われた銅板を新たに鋳造し直して碑石にはめ込むことも、可能になってきます。

 これによって、碑の再建に向けて必要な材料はそろったわけですが、高田高校の校舎は新たな用地に一から建設しなければならず、限られた予算の中で果たして賢治碑などというものにも経費は配分されるのかということが、個人的には気になっていました。
 そうしたところ、昨日7月3日に群馬県の団体が、賢治碑再建のためにということで高田高校に浄財を寄付されたということです。その記事が掲載された本日の朝刊(「東海新報」)を、私のツイッターのフォロアーの方が、送って下さいました。(画像をクリックすると、別窓で拡大表示されます。)

2013年7月4日「東海新報」
「東海新報」2013年7月4日朝刊より

 72万5000円もの寄付をされたのは、群馬県渋川市の「伊香保温泉プロジェクト」という団体で、この温泉街も過去に十数回も大火に遭ったものの、その都度復興してきた経験を持つのだそうです。
 上記ページには、プロジェクトの趣旨について、次のように書かれています。

今回の大震災は、彼の地の出来事ではありますが、かつて復興を成し遂げた伊香保温泉の力を、住民皆さんで思い出す機会でもあるとともに、被災地に向け、その想いを送り届けるため、伊香保温泉全体で復興を祈願しなければいけないと思い立ちました。

 遠く離れた温泉街の活動が、高田高校の賢治碑に着目し、このような熱いエールを送られたことは、私にとっても我が事のように嬉しいかぎりです。
 実は、昨年の「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」の義援金は、この高田高校への思いも込めて、昨年10月に私ども実行委員会のメンバーが岩手へ行った折りに、陸前高田市教育委員会と、大槌町教育委員会に、それぞれお持ちしたのでした。

 上の記事を読むと、津波をかぶった谷川徹三氏の色紙は、「盛岡大学による被災資料の救済作業を経て、文字を確認できる状態で戻ってきた」ということです。
 さまざまな方の行動によって、被災地がますます復興していくことを、そしてそのために宮澤賢治の言葉や精神が、人々の力を集める拠り所となることを、祈り続けたいと思います。

明日、「三陸セミナー」

 いよいよ明日から、賢治セミナー『宮沢賢治と三陸』に出かけます。三陸地方の天気は、朝は雨も降るみたいですが、午後から明後日にかけては晴れるようですね。ちょうどもう1ヵ月後に迫った、7月28日の「第5回イーハトーブ・プロジェクトin京都」にご出演いただく、林洋子さんとお会いできるのも楽しみです。「賢治の事務所」の加倉井さんも、来られるみたいですね。
 バスツアー中のことは、逐次このブログに書き込むことはできませんが、ツイッターでは写真とともに載せることもできると思いますので、よろしければご覧下さい。

 下画像は、明後日に使う予定のスライドタイトルです。

「三陸海岸の賢治詩碑群」

三陸の賢治詩碑の現況(5)

 先の連休に岩手方面へ行っていたのですが、その際にやっと、陸前高田市の高田高校にあった「農民芸術概論綱要」碑に、再会することができました。一昨年11月に行った時には目にすることができなかったもので、再会できたのは正確には碑の全体ではないのですが、今回はそのご報告をいたします。

 岩手県陸前高田市にある県立高田高校に、宮澤賢治の「農民芸術概論綱要」の一節を刻んだ石碑が建てられたのは、1972年(昭和47年)のことでした。
 当時校長をしていた鈴木實氏が、東北砕石工場で賢治と一緒に仕事をしていた鈴木東蔵工場長の長男であるという縁もあって、宮澤清六氏はこの年の8月に、高田高校に寄付を行ったのだそうです。そして、そのお金の使途について関係者が協議した結果、これを基にして賢治の詩碑を作ろうということになりました。碑文には、たまたまこの2年前の1970年(昭和45年)に、学校創立40周年記念として講演を行った谷川徹三氏が揮毫した「農民芸術概論綱要」の一節の色紙が、銅板にして使用されました。
 碑石は、陸前高田市内を流れる気仙川の上流、住田町上有住字桧山というところから、河原の転石を選んで運んできたのだということです。

 下記が、在りし日のこの石碑です。高校の正面玄関左横に、鎮座していました。

在りし日の「農民芸術概論綱要」碑

 ちなみに鈴木實氏は、高田高校に続いて、遠野高校、花巻北高校という、県立の名門校の校長も歴任しますが、それぞれの学校における在職中に、「農民芸術概論綱要」碑(遠野高校)、「ポラーノの広場のうた」碑(花巻北高校)という賢治碑を建立しています。3つの碑とも、碑文が銅板に刻まれているところも共通点です。

◇          ◇

 さて、東日本大震災とその津波によって高田高校では、死亡または行方不明の生徒が計22名という、東北3県の高校としては最大の被害を蒙りました。海から1kmも内陸にありながら、校舎は3階天井までもが浸水し、全壊というべき状態となりました。
 学び舎を失った生徒や先生たちは、隣の大船渡市で廃校になっていた旧・大船渡農業高校の校舎を借り受けることとなり、授業が再開できたのはやっと2011年5月2日からということで、これは岩手県内の学校で最も遅いものでした。生徒たちは毎朝、陸前高田市内からスクールバスを連ねて、大船渡市郊外の仮校舎に通うことになったのです。

 私が震災後に高田高校を訪ねることができたのは、2011年の11月26日でした。しかし、大量の土砂や瓦礫が堆積した構内で、賢治の碑を見つけることはできませんでした。

高田高校構内

 ただ、正面玄関の近くでは、倒れた門柱と、野球部の甲子園初出場を記念した阿久悠氏の詩碑が、目にとまりました。

高田高校門柱と阿久悠詩碑

◇          ◇

 そして去る5月4日に、私は高田高校の仮校舎がある場所を訪ねてみたのです。

 まず確認しておくと、元の陸前高田高校のあった場所(A)と、現在の仮校舎(B)の位置関係は、下の図のようになっています。バイパスを通っていっても、距離は約20kmあります。

 5月4日朝は、新花巻を新幹線で発つと、一ノ関で大船渡線に乗り換え、東北砕石工場があった陸中松川なども過ぎて、気仙沼までJRで来ました。本来はJR大船渡線は大船渡市の盛まで続いているのですが、気仙沼より先の路線は震災の被害が著しく、復旧の目途も立っていない状況で、現在はここ気仙沼が終点になっています。
 気仙沼駅の駅舎は、一昨年に来た時よりもきれいに改装され、連休とあって観光客の姿もたくさん見られました。

気仙沼駅

 この駅前から、BRT(Bus Rapid Transit)という交通機関に乗ります。これは、もとは大船渡線の鉄道線路だった跡地を舗装してバス専用レーンとし、ここにシャトルバスを走らせるというものです。本年3月2日からその運行が開始されたことによって、この地区の交通の不便はかなり改善されたということですが、このような手段を取らざるをえないこと自体が、鉄道再開の困難さをあらためて浮き彫りにしているとも言え、なかなか手放しでは喜べません。

 バスは、鹿折地区の「第十八共徳丸」を過ぎ・・・

第十八共徳丸

 陸前高田も過ぎ・・・、

陸前高田

 大船渡市の盛駅に着きました。

BRT盛駅

 上写真のようにBRTというのは、元の鉄道駅のホームに乗り付けます。途中には、バスの走る「道」の両側に「踏み切り」がある場所もあって、何となく不思議な雰囲気でした。

 盛駅からはタクシーに乗って、旧・大船渡農業高校の校舎に向かいました。運転手さんが道々、この高田高校の仮校舎にはこれまで全国から支援の教職員の方々がたくさん来られていること、はるばる宮古島から来たという女先生もタクシーに乗せたことなどを、話してくれました。

 車はかなり郊外を走り、ちょっとした山あいの雰囲気も出てきた頃、「高田高校仮校舎」に着きました。
 入口の門柱には、まだ真新しい輝きを放つ、「岩手県立高田高等学校」というステンレスの表札が掲げられています。

高田高校仮校舎表札

 中に入ると、勇ましい掛け声で剣道部の練習なども行われています。
 おそらくはるばる陸前高田市から部活に来ている元気な生徒さんたちとすれ違いながら、かなり古い校舎の裏手にまわると、そこには大きな岩がごろごろと置かれている場所がありました。

碑石置き場

 これを見た瞬間は、図らずも「碑石の墓場」などというような不吉な言葉も浮かんでしまったのですが、実は断じてそうではなくて、ここは高田高校の新校舎が完成した暁には、昔の校舎の歴史を知る証人として校内のしかるべき場所に配置されるべき石碑たちが、静かにその出番を待っている、「控えの間」なのです。

 そしてこの中に、あの「農民芸術概論綱要」碑の碑石も、ちゃんとありました。

「農民芸術概論綱要」碑の碑石

 ただ、上の写真を見ていただいたらわかるとおり、谷川徹三氏の揮毫によって鋳造され嵌め込まれていた銅板は、ぽっかりと失われてしまっており、その場所に四角い跡だけが残っています。恐ろしい津波の勢いは、この金属板を碑石から引き剥がして、流し去ってしまったのでしょう。
 しかし、碑石の脇の方には、下写真のようなより小さな銅板は残っており、たしかにこれが「農民芸術概論綱要」碑であることを、証明してくれています。

「農民芸術概論綱要」碑/副銅板

 ところで、失われてしまった銅板と、ここに刻まれていた「農民芸術概論綱要」の一節については、朝日新聞北上支局の但木記者による昨年10月27日の記事(「「賢治の碑」の行方[6]」)が、消息を伝えてくれています。

朝日新聞岩手版2012年10月27日
朝日新聞岩手版2012年10月27日

 「かゞやく宇宙の微塵」という言葉が、震災前年の卒業アルバムのタイトルとなっていたということにも何かの因縁を感じますが、それにも増して、谷川徹三氏の色紙原本が、「水没した3階西側図書室」で発見された経緯について読んだ時、私は体が震えるような感じがしました。
 この発見が、碑の復元への道筋を開いてくれたという喜びとともに、それが他ならぬ「9月21日=賢治忌」の日に、再び姿を現したというめぐり合わせへの驚きを、禁じ得なかったのです。
 実は、この翌日の2012年9月22日は、校舎の解体を前に、生徒たちや関係者が旧校舎に別れを告げる、「高田校舎お別れ式」が行われるというタイミングでした。この日を逃せば、もう発見は不可能だったろうという、本当に最後のチャンスの賢治忌だったのです。
 ここでついでにもう一つ偶然のめぐり合わせを追加すれば、この色紙は、1930年に「高田実科高等女学校」として創立された高田高校の40周年を記念して、1970年に揮毫されたものでしたが、これを元にして碑が建てられたのは1972年。そしてこのたび色紙が発見された2012年は、碑の建立から40周年に当たります。

 さて、高田高校の新校舎は、2015年3月に完成予定とのことですが、その際にはこの石碑が復元され、また生徒たちを見守るようになることを願って、失われる前の銅板の写真を、ここに載せておきます。

「農民芸術概論綱要」碑面

 これは2000年の夏に撮影したものですが、板面に浮き彫りにされた文字は、けっこう擦り減っています。40年近くにわたる歴代の生徒たちは、この表面を手で撫でたりして親しむことも多かったのだろうかなどと、あれこれ想像してみたりします。

【関連記事】
三陸の賢治詩碑の現況(1)
三陸の賢治詩碑の現況(2)
三陸の賢治詩碑の現況(3)
三陸の賢治詩碑の現況(4)

NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」 今月から始まったNHK朝の連続テレビ小説は、宮藤官九郎の脚本で三陸の「北限の海女」を描く、「あまちゃん」です。
 お話の舞台は「北三陸市」という架空の町ですが、これは現実の岩手県久慈市を題材にしています。また主人公アキの親友ユイちゃんが住んでいるという設定の「畑野村」は、久慈市から三陸鉄道で南に40分ほどのところにある、下閉伊郡田野畑村がモデルですね。
 私は第2週から毎日録画して視聴する体制に入っているのですが、朝ドラでこんなことをするのは、やはり岩手を舞台としていた2007年の「どんど晴れ」以来のことです。
 これはドラマとしてもなかなか面白いですし、何と言っても宮本信子と小泉今日子という大物二人のキャラクターが最高です。もちろん、北三陸の風物に毎回触れられるのも、大きな楽しみとなっています。

 ということで、今や全国的にも視聴率20%を越える注目を集めている北三陸地域なのですが、このたびこの場所を舞台として、賢治ファンの皆さんも、「じぇじぇ!(‘ jj ’)」と驚くような企画が実現しました。
 「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」の主催によるセミナー、『宮沢賢治と北三陸』がそれで、6月29日(土)・30日(日)の2日間、花巻発のバスで北三陸地方―久慈市、野田村、普代村、田野畑村―を訪ね、この地区における賢治の足跡や作品、またそれにちなんで建立されている詩碑をめぐり、賢治の旅と、一昨年の津波や現地の実情に思いを致すという、中身の濃いバスツアーです。
 現時点で発表されている予定は、次のようになっています。

期日: 2013年6月29日(土)・30日(日)
会場・宿泊先国民宿舎 えぼし荘 
定員: 40名
参加費: 12,000円
申込み宮沢賢治学会イーハトーブセンターまで
  Tel: 0198-31-2116   Mail: kenji.info@kenji.gr.jp
  (5月1日より受付を開始し、定員になりしだい締め切り)
日程
 第一日(29日)
  (1)出発 イーハトーブ館 10:00
         新花巻駅(東北新幹線)10:15
  (2)バス移動 久慈海岸経由 野田村 えぼし荘着 15:30
  (3)講演 「北三陸海岸詩篇群について」(仮題)16:00-17:30
      講師: 交渉中
  (4)夕食・懇親会 18:30-
 第二日(30日)
  (5)講演 「三陸海岸の賢治碑について」(仮題)9:00-10:00
      講師: 浜垣誠司(京都市)
  (6)実地研修 普代村、田野畑村の賢治碑 10:00-12:00
  (7)バス移動 岩泉経由、盛岡駅停車 15:30
            新花巻停車、イーハトーブ館着 16:30

 私は2日目に、津波後の三陸の賢治詩碑の状況をお話する予定です。また1日目の懇親会でも、野田村、普代村、田野畑村の合唱団の皆さんとご一緒に、余興を披露させていただくかもしれません。

 さて今この時期に、賢治を愛する方々とともに三陸を訪ねるという企画には、はかりしれない深い意味があると思います。このような貴重な機会に、私のような余所者がお話をさせていただくというのは大変に恐れ多いことに感じられ、ご依頼をいただいた時にも、自分がはたしてその任に堪えられるかと躊躇しました。
 しかし、これまで北三陸で出会い、お世話になった方々への「恩返し」と言うとこれはまたおこがましいことになってしまいますが、とにかく何でも私に今できることは、しなければならないと思った次第です。

 本格的な夏を前にした三陸に、皆様もぜひお越し下さい。

 ・・・海岸の人たちはわたくしのやうな下級の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞりをたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました。(「ポラーノの広場」より)

 今回の岩手行きの主な目的の一つは、普代村で合唱の練習をしてくるということでした。
 この9月2日(日)に、花巻市で「賢治の里 花巻でうたう賢治の歌 全国大会2012」というイベントが開かれます。各地から、いろいろな個人や団体が出演して歌声を競うのですが、この大会に、三陸の普代村・野田村・田野畑村の合同の合唱団「コーラスライオット風」が出るにあたり、何と私が指揮をすることになったのです。
 下の写真は8月13日の岩手日報朝刊ですが、二段目に紹介されている「コーラスライオット風」が、それです。

岩手日報8/13朝刊 

◇          ◇

 普代村の合唱団と私のご縁は、7年前にさかのぼります。2004年10月に、普代村に「敗れし少年の歌へる」詩碑が建立されたことを受けて、詩碑オタクの私は、2005年1月に普代村を訪ねました。碑を見学したり、ちょうど80年前に賢治が泊まったと言われる旅館に宿泊し、賢治が歩いた道をたどったりしたのですが、この時に、花巻の阿部弥之さんのご紹介で、森田眞奈子さんをはじめ合唱団「コーラスライオット風」のメンバーの方々に、初めてお会いしたのです。
 皆でいろいろと賢治についてお話をしていたのですが、たまたま数年前に私の大学の後輩にあたるオーケストラが、普代村でホームステイをさせていただき合唱団とジョイントコンサートを開催したという奇遇も明らかになって、遅くまで話題は尽きませんでした。そのうちになぜかその場で、普代村に「敗れし少年の歌へる」の碑もできたことだから、これを記念してこの詩に曲を付けてくれないかという話が私に持ちかけられ、それで思いもかけず生まれたのが、当サイトでも公開している女声二部合唱曲「敗れし少年の歌へる」でした。
 この曲は、2005年10月に「コーラスライオット風」の定期演奏会において、当時の岩手県知事も来場されている中で初演されました(「普代村へ(2)」参照)。

「コーラスライオット風」第17回定期演奏会
2005年10月8日

 その後も、北三陸の「コーラスライオット風」は、「敗れし少年の歌へる」をレパートリーの一つとして、地元で歌い継いで下さっていたということですが、そこにまたこの2年というもの、合唱団の活動に大きな山がやってきます。

◇          ◇

坂本博士さんと森田眞奈子さん(1967) 合唱団の代表を長年務められた森田さんは1967年に、普代村を訪れたバリトン歌手・作曲家・音楽教育家である坂本博士さんに出会われました(右写真は森田さんと坂本さん)。
 当時はNHKテレビにも頻繁に出演する有名歌手だった坂本さんは、昭和三陸大津波を題材としたミュージカルを作曲するにあたり、取材のためにスタッフとともに三陸地方を旅していたのです。森田さんの家族が当時経営していた旅館に宿泊していたので、音楽が大好きだった森田さんは、坂本さんと親しく語らう時間を持てたのだそうです。
 翌年に、ミュージカル「海から黒い蝶がくる」が完成した際には、森田さんたちも東京に招待されて、聴きに行ったのだそうです。

 それから43年がたちました。2010年に普代村の小学校が統合されるにあたって、記念コンサートの開催が検討されていましたが、森田さんの働きかけもあり、そこに坂本博士さんを招待することになったのです。
 森田さんと坂本さんは、43年ぶりに普代村で再会しました。

再訪感謝

  2010年6月に開かれた「小学校統合記念ふれあいコンサート」では、坂本さんはミュージカル「海から黒い蝶がくる」の名場面を歌い、43年前に取材した津波の恐ろしさについても語られたということです。後半では、小中学生、村の人々も一緒になって、会場全体が歌声で包まれました(「普代村教育長だより」参照)。

 ところが、それから1年もたたないうちに、東日本大震災が起こったのです。三陸地方は、津波による甚大な被害を受けました。東京在住の坂本氏は、普代村の人々の声を録音したテープによって村の状況を知ったということですが、前年に村で津波の話をしていた時には、こんなことになるとは夢にも思わず、言葉を失ったそうです。
 坂本さんは、「自分にできることは、音楽で皆を支えたり励ましたりすること」と考え、2011年4月から5月にかけて、「絆」「希望の道」「ふるさとにおくる愛の歌」という3曲の合唱曲(絆三部作)を作曲し、7月に神奈川県でチャリティコンサートを開催しました(「タウンニュース」参照)。

 そして2011年12月、坂本さんは3度目となる普代村訪問を果たします。そしてその指揮のもとに、普代小学校や普代中学校や「コーラスライオット風」のメンバーは、「絆三部作」を歌ったのです(岩手日報「復興ソング 浜に勇気」参照)。

◇          ◇

 このような普代村における活動に、「賢治の里 花巻でうたう賢治の歌 全国大会2012」実行委員会代表の照井潔子さんも注目しました。そして、その勧めもあって「コーラスライオット風」は、今回の大会で「絆三部作」を歌うことになりました。ただしこの大会は、「賢治作品を1曲と自由曲」を歌うことが条件とされているされているため、自由曲としての坂本博士氏の「絆三部作」に加え、私の「敗れし少年の歌へる」が演目に加えられたというわけです。
 私は、この5月に津波後の三陸地方の賢治詩碑を見るために普代村に行っていたのですが、そこで7年ぶりに再会した合唱団の皆さんと食事をしている時に、またなぜか「こんどの9月に指揮をしてくれませんか」という話を持ちかけられました。カレンダーを見ると本番は日曜日だったので、私は調子に乗って思わずOKをしてしまいました。
 本当に私でいいのか?というのが正直言って心配なのですが、個人的には三陸も花巻も大好きなものですから、少しでもお役に立てるなら私にできることはやってみよう、というのが今の心境です。

 そんなわけで、去る8月15日の午後、主婦の皆さんにとっては一番あわただしいお盆の最中に、「コーラスライオット風」のメンバーとピアノ伴奏の方に集まっていただき、3時間ほどの練習を行いました。
 暑い中、汗をかきながらみんなの心は、かなり一つになった感じです。

 あとは、9月2日の本番を、乞うご期待、というところ・・・。

「敗れし少年の歌へる」楽譜

釜石の叔父さん

 「」(「春と修羅 第二集」)は、賢治が1925年(大正14年)の三陸旅行の際に書いた作品です。

三五八
  峠
             一九二五、一、九、

あんまり眩ゆく山がまはりをうねるので
ここらはまるで何か光機の焦点のやう
蒼穹ばかり、
いよいよ暗く陥ち込んでゐる、
  (鉄鉱床のダイナマイトだ
   いまのあやしい呟きは!)
冷たい風が、
せはしく西から襲ふので
白樺はみな、
ねぢれた枝を東のそらの海の光へ伸ばし
雪と露岩のけはしい二色の起伏のはてで
二十世紀の太平洋が、
青くなまめきけむってゐる
黒い岬のこっちには
釜石湾の一つぶ華奢なエメラルド
   ……そこでは叔父のこどもらが
     みなすくすくと育ってゐた……
あたらしい風が翔ければ
白樺の木は鋼のやうにりんりん鳴らす

 冬の三陸海岸線を北から南へと旅した賢治が、今まさに三陸の海に別れを告げようとしているところです。旅の終わりに彼は釜石から鉱山鉄道に乗って、次いで徒歩で仙人峠を登り、頂から振り向いて、「二十世紀の太平洋」を一瞥します。旅立ちの際の「異途への出発」が悲劇的な調子を帯びていたのに対して、最後を飾るこの作品は、何か未来への希望を孕んでいます。

 さてこの作品で、「そこでは叔父のこどもらが/みなすくすくと育ってゐた」と書かれている「叔父」とは、賢治の母イチの弟で、釜石で煙草専売店を開き、後に薬店に転業した、宮澤磯吉のことです(家系図参照)。

宮澤家家系図

 『新校本全集』第十六巻の年譜篇には、宮澤磯吉について次のように説明されています。

 三男磯吉は慶応普通部、二高に学んだが、三男坊のせいか磊落な人柄で酒豪であった。釜石で煙草専売店、のちに薬店を開き、気さくなために損もしたが、ほどほどにもうかることもあって無事店を経営した。賢治はたびたび釜石の家を訪ね、倉からヴァイオリンをもちだして弾いたりレコードを届けたりしていた。互いに気楽な親しい感情を持っていたのである。金に執着のないところも似通っていた。

 「磊落」「酒豪」「気さく」などと評されていますが、花巻から東京に出て慶応で学び、仙台の第二高等学校に進学したというのですから、かなりのインテリであったことは確かです。家にヴァイオリンを持っていたり、レコードを聴いたりするところにも、それは表れているようです。
 長兄の直治、次兄の恒治は、花巻の豪商「宮澤商店」を継いだのに対し、この三男の磯吉は、遠く離れた釜石で事業を起こしたわけで、このような独立独歩の生き方にこそ、何か「磊落」と言われる要素が関わっているのでしょう。花巻で一二を争う名家の宮澤家に生まれながら、その財産や人脈に頼らずに、一人で道を切り開いていったわけです。生家の商売に反発し、跡継ぎとなることを拒否した賢治から見ると、その生き方にも共感するところがあったのかもしれません。
 ところで、父親の名前が「善治」、長男が「直治」、次男が「恒治」と来ておいて、三男で「磯吉」に転ずるとは、この子の誕生に際して親はどういう思いがあったのでしょう。ここにすでに、長男と次男は父の商売を継ぎ、三男は別の道を行くという運命が予示されていたようにも思えます。
 そもそも海のない内陸の花巻において、子に「磯吉」という名前を付けることからして、何か奇妙です。そして結果的に、この子は長じて三陸の海辺の町で生きていくことになったのですから、なおさら運命の不思議を感じてしまうのです・・・。

◇          ◇

 さて、磯吉は1889年(明治22年)生まれですから、これは賢治の7歳年上にあたります。賢治からすれば、親の世代というよりも「ちょっと年の離れた兄」という感じの年齢ですね。年譜によれば二人は「互いに気楽な親しい感情を持っていた」ということですが、一般に、男子と「母方のおじ」との間の独特の関係は、実は文化人類学的にも注目されてきた論点でした。
 レヴィ=ストロースは、「言語学と人類学における構造分析」という論文において、次のように問題を整理しています。

 ラドクリフ=ブラウンによれば、「伯叔父権」とい言葉は、相反する二つの態度の体系を覆っている。一方の場合には、母方のおじ(伯父・叔父)は一族の権威を代表する。彼は畏れられ、服従され、甥に対して権利を持つ。第二の場合には、甥がおじに対して馴れなれしくする特権を持ち、彼を多少ともないがしろにする。
 さらに、母方のおじに対する態度と父に対する態度の間には、相関関係がある。上に述べた二つの場合に、態度の体系はどちらも同一なのだが、ただそれが逆転しているのである。父と子の関係が親密な集団では、母方のおじと甥との関係は厳しい。父が一族の権威の厳格な受託者であるところでは、おじの方が馴れなれしくされる。
 こうしたわけで、音韻論にならって言うならば、この二つの態度の群は、「二つの対をなす対立 deux couples d'oppositions」を形成しているのである。(みすず書房『構造人類学』より)

構造人類学 構造人類学
クロード・レヴィ=ストロース 荒川 幾男

みすず書房 1972-05-30
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 レヴィ=ストロースは、父-息子関係と、母方おじ-甥関係が相反する、様々な部族の例を挙げていますが、おおむね家父長制が基盤にある近代日本や西欧においては、父と息子の関係が葛藤や対立を孕むのに対して、母方おじと甥の関係は、親密でくだけたものになる傾向があります。レヴィ=ストロースによる上の分類で言えば、「父が一族の権威の厳格な受託者であるところでは、おじの方が馴れなれしくされる」というタイプになるわけです。
寅さん家系図 この、「父-息子関係と、母方おじ-甥関係の相反」のわかりやすい例としては、映画「男はつらいよ」シリーズで、吉岡秀隆の演ずる「満男」と、前田吟が演ずるその父「博」との関係、そして満男と、その母方伯父にあたる「寅さん」との関係が挙げられます。思春期以降の満男は、父に反抗してばかりでろくに口もききませんが、寅さんのことは大好きで、いつも「馴れなれしく」接するのです。
 あるいは私の仕事上の経験でも、男の子が何らかの精神的問題を抱えている状況で、父子の関係が悪くて親としての関わりが難しい場合に、母方のおじさんに介入してもらうことによって、事態の新たな転回が見られるということが、時にあります。

 ある時期の賢治が、家業を嫌忌して父の期待するような跡継ぎとなることを拒み、あるいは宗教上の激しい対立によって、父親と深い葛藤を抱えていたことは、周知のとおりです。もとより賢治は、父に反抗をするようになる以前から、母や弟妹たちと冗談を言って笑い転げていても、そこに父が姿を見せると口を閉じて居住まいを正すという態度で、つねに父の権威を畏怖の対象としていました。
 これとまさに対照的に、磯吉叔父に対しては「互いに気楽な親しい感情を持っていた」というのですから、賢治とこの二人の大人との関係は、まさに「対をなす対立」だったわけです。

◇          ◇

 このように、叔父磯吉と賢治は、特別な親密関係にあったわけですから、成長過程の賢治が叔父から何らかの影響を受けたということは、十分に考えられます。

 私が一つ思うのは、レコードを蒐集したりチェロを弾いたりしていた賢治のクラシック音楽好きの、源泉の少なくとも一つは、この叔父にあったのではないかということです。
 上に引用した「年譜篇」の解説によれば、宮澤磯吉はヴァイオリンを所有していて、賢治はそれを弾いたということですし、賢治がレコードを持って行ったということは、磯吉の家には蓄音機もあったわけです。「ヴァイオリンが蔵に入れられていた」ということからわかるのは、磯吉氏は最近はヴァイオリンを弾いてはいないようで、となると演奏していたのはもっと若い頃だったことになります。東京や仙台で学生生活を送っていた頃でしょうか。
 いずれせよ、音楽愛好家としても賢治よりはるかに先輩にあたるわけですから、若い頃に叔父の家でクラシック音楽や楽器に触れたことが刺激になって、後に蓄音機を買ってレコードを集めたり、さらにはチェロを買うところまで行ったという影響関係が想定されます。
 「詩ノート」所収の「峠の上で雨雲に云ふ」という詩において賢治は、釜石の西の仙人峠で、朗々と雨雲に語りかけています。彼は、オペラ歌手・清水金太郎になったつもりで歌ったり、雨のことを「セロの音する液体」と喩えてみたりするのですが、これはひょっとして、釜石の叔父宅でいろいろレコードを聴いてきた余韻が、まだ賢治の心の中で鳴り響いているのではないか・・・などと、私は思ったりします。

 またもう一つ気になるのは、結核のために2年半ほど病気療養を余儀なくされた賢治が、病もようやく癒えかけ、次にどんな仕事をするかということを検討していた時に、東北砕石工場の技師という仕事と並んで、「釜石で水産加工業をやる」という計画を、かなり本気で考えていたらしいことです。
 書簡では、1930年(昭和5年)11月に、「たぶんは四月からは釜石へ水産製造の仕事へ雇はれて行くか例の石灰岩抹工場へ東磐井郡へ出るかも知れません」と書き(書簡282)、12月には「来年の三月釜石か仙台かのどちらかへ出ます。わたくしはいっそ東京と思ふのですがどうもうちであぶながって仕方ないのです」と書き(書簡286)、1931年(昭和6年)1月には、「実は私は釜石行きはやめて三月から東磐井郡松川の東北砕石工場の仕事をすることになりました」と書いています(書簡295)。最後の書き方など見ると、一時の賢治は「釜石行き」の決心をほとんど固めかけていたのではないか、とさえ思わせます。
 しかし考えてみれば、この時期の賢治はまだ完全な「病み上がり」で、親元を遠く離れて釜石などで暮らすというのは、おそらく家族としては気が気ではなかったでしょう。「うちであぶながって仕方ない」というのは当然のことで、できれば家族としては思いとどまらせたかったのではないでしょうか。
 それなのに、チャレンジできる新しい仕事ならば、花巻にいてもいろいろあるはずなのに、あえて他ならぬ「釜石へ」行こうという賢治の思いには、きっと何かの伏線があったのではないかという気がするのです。
 それが、釜石にいる叔父・磯吉の存在だったのではないかと、私は思っています。

 屋号「宮善」と呼ばれる宮澤磯吉の生家では、父・善治の家業を、長兄・直治と次兄・恒治が継ぎました。試みに、ここでこれを「〇治的生き方」と呼んでおきます。
 これに対して三男の磯吉は、家業には関わらず花巻を出て、遠く釜石で一人で一から商売を始めました。ここでこれを、「磯吉的生き方」と呼んでおきます。
 さて賢治は、名前も「〇治」の系譜に属し、生まれた時からずっと家業を継ぐことを期待されていましたが、本人はそれを拒んで他のことばかりやっていました。しかし一方、その強い脱出願望にもかかわらず、生活の場を花巻から他の場所に移すことはできずにいました。
 賢治がいったん病に倒れて、その後再起を図ろうとした時、「父に反発しつつも親がかり」というそれまでの中途半端な生活を、何とかして刷新したいという思いがあったのではないでしょうか。そして、故郷・花巻から脱出することを計画する中で、賢治が心の大きな拠り所としていたのが、家業の縛りと花巻の町を軽やかに飛び越えていった、叔父の「磯吉的生き方」だったのではないかと推測するのです。
 他のどこの場所でもなく、「釜石行き」を彼が望んだのは、そのような思いがあったのではないかという気がしています。

◇          ◇

 宮澤磯吉氏の「磊落」「酒豪」と伝えられる側面は、何となく世俗的な人柄をイメージさせますが、彼は気さくな現実家であるとともに、一面では深い信仰心も持った人でもあったようです。叔父のこういう側面も、賢治の感性と合ったのかもしれません。

 賢治の父政次郎は1906年(明治39年)に、妻イチと、岳父善治、義弟直治、磯吉、義妹ヨシ(通称セツ)を連れて、東京の求道会館に浄土真宗の改革派僧侶・近角常観を訪ねました。時に磯吉は17歳です。
 政次郎を除けば、宮澤一族の中でその後も近角常観と最も親しく交流を続けたのは磯吉でした。彼は慶応普通部に入学後、近角が設立した「求道学舎」に寄宿して東京での生活を送っていたのです。1914年(大正3年)発行の雑誌『求道』には、磯吉がその後「神経を病んだ」際に、近角のもとを訪れて教えを受け、改めて信仰に目覚めることができたという趣旨の書簡が掲載されているということです(「宮沢賢治と近角常観」より)。
 さらに、1939年(昭和14年)に磯吉は、岐阜薬学専門学校在学中の長男金之助が、夏休みの見学で東京帝大病院等に来る際に、求道学舎に置いてやってくれないかという依頼の手紙を、近角常観に出しています(下図:「宮沢賢治と近角常観」より)。

宮澤磯吉から近角常観あて書簡

 この手紙からは、昭和14年の時点でも磯吉と近角常観の師弟交流はしっかりと続いていたことがわかるとともに、賢治の従弟にあたる長男は専門学校で薬学を修めていて、薬局の将来も心強く感じます。
 この時すでに賢治は亡くなっていますが、1925年に会った「叔父のこどもら」は、その後も「すくすくと育ってゐた」わけですね。

「広報かまいし」昭和49年4月号p.7より その賢治の従弟・宮澤金之助氏のお名前を、その後インターネット上で見かけるのは、1974年(昭和49年)4月1日発行の釜石市の「広報かまいし」の誌上です(右図)。
 56歳の金之助氏が、釜石地区人権擁護委員として国に推薦されることになったということが伝えられています。この生年月日からすると、詩「」で賢治が出会った時の金之助氏は、満7歳だったわけです。

◇          ◇

 賢治の弟清六は、賢治が亡くなる1933年(昭和8年)に「昭和三陸大津波」が発生するや、すぐさま「釜石に急行して罹災者を見舞った」ということです(「兄賢治の生涯」)。その素速い行動の直接の目的は、釜石で暮らしていた叔父磯吉の安否を気遣ってのことだったのでしょう。

 さて、今回の東日本大震災による津波で、釜石市只越町3丁目7番1号にある「宮澤薬局」は、はたして無事だったのでしょうか。
 現在の「宮澤薬局」を、グーグルの「ストリートビュー」で見ると、下の写真のようになっていました……。

釜石市・宮澤薬局

 残念ながら、薬局のビル3階建ての1階部分は、津波のために甚大な被害を受けてしまっているようです。

 ここに、謹んでお見舞いを申し上げるとともに、三陸ぜんたいの一日も早い復興を願います。

三陸の賢治詩碑の現況(4)

 連休に訪ねてきた三陸北部の賢治詩碑の様子の報告、今回はその後半部です。
 まず下に、三陸海岸北部の田野畑村、普代村の周辺を、これまでよりも拡大して表示します。


(マーカーをクリックすると、碑の写真と説明ページへのリンクが表示されます)

 マーカーの(6)は、先にご報告した、田野畑村島越駅前の「発動機船 第二」詩碑です。今回取り上げるのは、「田野畑村・発動機船三部作詩碑」の残り二つである、(7)「発動機船 一」詩碑と(8)「発動機船 三」詩碑、それに普代村堀内地区の、(9)「敗れし少年の歌へる」詩碑です。


 「発動機船 一」詩碑

 賢治の「発動機船」三部作は、1925年(大正14年)1月の三陸行の際の体験に由来しています。
 この旅行で賢治は、三陸北端の種市で列車を降りて、そこから徒歩あるいは乗合自動車で海岸を南下し、まず下安家で宿泊したようです。そして次は、下安家・堀内・太田名部・羅賀のいずれかの港から発動機船に乗船し、宮古を経て、山田・大槌あたりで下船したと推測されています(「旅程幻想詩群」参照)。
 このうち「発動機船 一」は、乗船した日の夕方頃の情景で、船荷の積み卸し作業をしている娘たちの生き生きとした様子を描いています。

うつくしい素足に
長い裳裾をひるがへし
この一月のまっ最中
つめたい瑯カンの浪を踏み
冴え冴えとしてわらひながら
こもごも白い割木をしょって
発動機船の甲板につむ
頬のあかるいむすめたち
  ……あの恐ろしいひでりのために
     みのらなかった高原は
     いま一抹のけむりのやうに
     この人たちのうしろにかゝる……

 「あの恐ろしいひでり」とは、前年1924年(大正13年)に岩手県地方を襲った旱害のことを指しています。そのような逆境にもかかわらず、「冴え冴えとしてわらひながら」厳しい作業をする娘たちの姿に、賢治もまた救われているようです。
 内陸の花巻で暮らし、ふだんは農村や農民を見ていた賢治としては珍しく、ここでは漁業に携わる人々が描かれています。「働く娘たちの讃歌」とも言えるこの作品は、「「曠原淑女」の漁業版」とでも言いたくなります。

 その作品舞台にも近い平井賀漁港の傍らに、この「発動機船 一」の詩碑を建立したのは、田野畑浜漁業協同組合長を務め、平井賀で「本家旅館」の経営もしていた、故・畠山栄一氏でした。下の写真は、2000年に私が現地を訪ねた時のものです。

「発動機船 一」詩碑(2000)

 釜石産の南部黒御影石でできた碑身がみごとですが、碑面に写りこんでいる、在りし日の平井賀の家々をご覧下さい。
 津波の後には下写真のように、高台にあった家を残して、この集落の中心部には何もなくなってしまいました。

田野畑村平井賀(2012)

 そして、「発動機船 一」詩碑があったのは、下の写真の岩の上あたりでした。もとは、ここには盛り土がされて松の木が何本か茂っていたのですが、津波によって松の木もろとも土が剥がされ、このような状態になっています。

田野畑村平井賀(2012)

 ここにあった「発動機船 一」詩碑も、津波の後はしばらく行方不明になっていました。そうしたところ昨年6月下旬に、瓦礫の撤去作業をしていた業者の方が、かなり砂浜側に離れた場所で、失われた碑身を発見したのです。
 碑を立てた畠山栄一氏は、すでに昨年1月に亡くなっておられましたが、奥様が継いでいる旅館の庭に、とりあえず碑は運び込まれました。そのいきさつは、昨年7月の「河北新報」の記事に掲載されています。

 私は、5月4日にこの平井賀を訪れて、畠山さんの「本家旅館」(下写真)に宿泊させていただきました。

本家旅館

 そして旅館の庭の片隅には、詩碑がまだ所在なさそうに置かれていました。

「発動機船 一」詩碑(2012)

 これが発見されてからしばらく経って、畠山さんがまた元の場所に碑を設置し直そうとしたところ、村役場から連絡があり、津波の記念碑か何かを作る際に使わせてもらうかもしれないとのことで、待ったがかかっているのだそうです。
 この「本家旅館」は、詩人の三好達治や作家の吉村昭もよく泊まりに来ていたという由緒ある宿で、その名物料理は「どんこ汁」です。

どんこ汁

 直径20cmくらいのお椀に、「どんこ」一尾が丸ごと入って出てきました。身はゼラチン質が多くてぷるぷるした感じ、だしも濃厚でほんとにおいしかったです。
 ちなみに、三陸地方の「どんこ料理」としては、以前に大船渡の居酒屋でいただいた「肝焼き」もよかったですよ。どんこの肝は、アンコウにも比べられるほど見事ですが、この肝をあらかじめ取り出し、つぶして味噌と和えたものを、また口からお腹に詰め込んで、丸ごと焼いた料理です。

 「本家旅館」は、まだ本格的な営業再開にはあと一歩というところだそうですが、私が詩碑を見るために京都からやって来たと言うと、お女将さんもとても喜んで下さいました。

 下の写真は、旅館の部屋から港の方を眺めたところです。手前の車の後ろにある黒い直方体が現在の詩碑、赤い矢印のあたりが、もともと詩碑の設置されていた場所です。旅館は高台にあったので津波被害は免れましたが、白壁の外側の空き地には、もとは全部民家が並んでいたのです。

平井賀漁港

 翌朝、お女将さんにお礼を言って宿を後にすると、田野畑駅まで歩きました。

 「発動機船 三」詩碑

 「発動機船 三」詩碑は、三陸鉄道の田野畑駅前にあります。この「発動機船 三」という作品は、賢治が乗った発動機船が、夜半にまさに宮古港に入ろうとしている情景を描いています。

あゝ冴えわたる星座や水や
また寒冷な陸風や
もう測候所の信号燈や
町のうしろの低い丘丘も見えてきた

という「町」が、宮古だったわけです。

 詩碑のある田野畑駅は、高台にあったおかげで津波被害は免れました。しかし線路は各所で寸断され、昨年3月末に久慈―陸中野田間、小本―宮古間の運転が再開されてからも、このあたりの復旧にはまだ1年あまりの時間を要しました。
 そして本年4月1日に、陸中野田―田野畑間の営業運転が再開されたことは、地元の人々を大きく力づけ、全国の鉄道ファンをも喜ばせました。
 先に島越駅の愛称「カルボナード島越」についてご紹介した際、田野畑駅の愛称は「カンパネルラ田野畑」であると記しましたが、今回の運行再開に合わせ、この駅はあらためて「キット、ずっとカンパネルラ田野畑駅」と名づけられて、駅舎に「サクラアート」の装飾がほどこされました(「三陸鉄道 キット、ずっとプロジェクト」参照)。

キット、ずっとカンパネルラ田野畑

 以前に訪れた時は、古風に落ちついた駅舎だったのですが、こんなに可愛く華やかになっています。ところどころ、花びらが薄くなっているところには、facebook で世界中から寄せられたという‘応援メッセージ’が書き込まれています。

キット、ずっとカンパネルラ田野畑駅

 「キット、ずっと」という名称は、この企画のスポンサーが KitKat® だからですが、「銀河鉄道の夜」でジョバンニがカムパネルラに向かって、「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう」と呼びかけ、しかし二人が結局死別したことを思うと、何か切ないような気持ちにもなります。

 詩碑は、この駅舎の向かって左側に建てられています。

「発動機船 三」詩碑

 アートではない本物の桜も、ちょうど咲いていました。こちらの碑の上辺には、発動機船をかたどったブロンズ像も健在です。

 「敗れし少年の歌へる」詩碑

 1925年(大正14年)の三陸旅行中の作品に「暁穹への嫉妬」がありますが、これを晩年に文語詩化したのが、「敗れし少年の歌へる」です。夜明けの海岸を歩きながら、薄明の空に惑星(土星)が消えていく様子を眺め、まるでその星に対して恋心のような気持ちを覚えるところから、賢治の中ではほのかな「嫉妬」にもなったようです。文語詩「敗れし少年の歌へる」となると、「敗れし少年」ですから、今度はこれは失恋の歌という設定になるのでしょうか。

 賢治が発動機船に乗船したのは、田野畑村の羅賀港だったという説がこれまでは有力でしたが、2000年に木村東吉氏が『宮澤賢治≪春と修羅 第二集≫研究』において、「地理及び船便の状況からして安家、堀内、大田名部のいずれかから乗った可能性が高い」との見解を発表してから、堀内・太田名部両港の地元の普代村では、この問題について関心が高まりました。
 そして、普代村在住の郷土史家・金子功氏は、当時このあたりで就航していた船の状況を調査した結果、賢治は普代村の堀内港から、「濱善丸」という船に乗って南へ向かったという説を出したのです。そのような盛り上がりもあって、2004年10月に堀内港に、「敗れし少年の歌へる」詩碑が建てられました。

 私は、2005年1月にこの詩碑を訪ねた際に、上記の金子さん直々に碑まで案内していただく光栄に浴しました。そしてその夜は、賢治が泊まったと言われている「小野旅館」に泊まり、地元の合唱団の森田さんたちとおしゃべりをしていたのですが、そのうちに話が大きくなって、この詩に曲を付けることになってしまったのです。結局それが、女声二部合唱曲「敗れし少年の歌へる」の誕生につながったという経過がありました。

 今回5月3日に、また金子さんと森田さんはご親切にも私を出迎えて下さって、雨の中でしたが一緒に海辺の詩碑まで行くことができました。

「敗れし少年の歌へる」詩碑

 碑面に写りこんでいる傘は、お二人のものですね。幸いにして、この詩碑にも津波の被害はありませんでしたが、「まついそ公園」として整備されていた碑の周辺の建物は、すべて流失していました。

まついそ公園

 碑の背面に記された、「賢治 濱善丸で南へ」という文字も鮮やかに残っています。金子さんの説では、ちょうどこの場所から賢治は発動機船に乗って、沖へ出て行ったということです。

くろさきワイン その夜は、普代村の北山崎海岸にある村営の「くろさき荘」という国民宿舎で、森田さんや「てぼかい合唱団」の皆さん6名と一緒に、夕食をとりました。冒頭の地図では普代駅の東方、「黒崎」という海岸にあります。
 ここでは三陸の海の幸とともに、普代村産の山ぶどうで作った「くろさきワイン」をいただきました。アルコール度数はやや低めですが、濃厚でジューシーな味わいで、女性の方に飲みやすいとの評判です。
 さて、この時に聞いたお話では、普代村の「てぼかい合唱団」は、今年の9月2日(日)に花巻市文化会館で行われる「賢治の里 花巻でうたう賢治の歌全国大会2012」に出演する予定だそうで、この際に「敗れし少年の歌へる」を歌っていただけるということでした。
 となると、その日は日曜なので、私もぜひ聴きにうかがいたいと申し上げたのですが、そのうちにまた2005年1月のように、見る見る話が大きくなってしまって・・・(笑)。

 外は大雨でしたが、「くろさき荘」の食堂は、遅くまで明るくにぎやかでした。そしてこの夜の宴は、久しぶりにみんな一緒に、「敗れし少年の歌へる」を合唱して終わったのです。

◇          ◇

 以上、昨年の11月と今年の5月に、三陸沿岸において見てきた賢治詩碑のレポートは、ひとまずこれで終わりです。各地に突然に押しかけたりしてしまいましたが、お世話になった皆様には、心より御礼申し上げます。

 ところで、賢治の童話「ポラーノの広場」には、レオーノキューストがイーハトーヴォ海岸地方(すなわち、三陸海岸地方!)に出張するところがあります。

 その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり、古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったり、そしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら、二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのやうな下給の官吏でも大へん珍らしがって、どこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡らうとすると、みんなは船に赤や黄の旗を立てて十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞりをたいて、いろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでいゝと思ひました。けれどもファゼーロ、あの暑い野原のまんなかでいまも毎日はたらいてゐるうつくしいロザーロ、そう考えて見るといまわたくしの眼のまへで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを、踊ったりうたったりしてゐる娘たちや若者たち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなのために、とひとりでこころに誓いました。

 賢治が、ふと「もうこれで死んでもいい」と感じるほど、海岸地方の自然や人々には、心を打たれたことがあったのでしょう。また、このような身に余るような歓待の体験は、三陸において私も何度か覚えがあります。

 そして、私も三陸の人々や自然のことを思い出すたびに、「さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ」と、自分も小さくこころに誓う気持ちになるのです。

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 去る5月3日から6日まで、北三陸海岸に行ってきました。その地に建てられていた賢治詩碑の様子を見てきたのですが、今回はその前半部分の報告です。

 まず、三陸海岸にあった賢治詩碑(歌碑)の一覧を、再掲します。


(マーカーをクリックすると、碑の写真と説明ページへのリンクが表示されます)

 津波の前に、三陸沿岸には上記の9つの賢治詩碑があったわけですが、(1)と(2)の様子については「三陸の賢治詩碑の現況(1)」に、(3)と(4)の様子については「三陸の賢治詩碑の現況(2)」に書きました。
 今回ご報告するのは、(5)宮古市浄土ヶ浜の「寂光のはま」歌碑と、(6)田野畑村島越の「発動機船 第二」詩碑です。


 「寂光のはま」歌碑

 賢治は、盛岡高等農林学校3年の1917年(大正6年)7月25日から29日にかけて、「東海岸視察団」という団体に加わって、三陸地方を旅行しました。
 この企画は、1915年(大正4年)11月に岩手軽便鉄道が花巻から仙人峠まで開通して、三陸海岸がぐっと内陸部の経済圏に引き寄せられたことを受け、花巻の有力者たちが観光がてら沿岸部の産業を視察しようとしたものでした。メンバーには、賢治の母方叔父の宮澤直治など宮澤一族の人々や、縁戚関係にある梅津善次郎(後の町長)、瀬川弥右衛門(後の貴族院議員)なども参加しています。いっぽう賢治は、この月初めに盛岡高等農林学校の仲間とともに『アザリア』を創刊し、中旬には保阪嘉内とともに、夜の岩手山登山を敢行したところでした。
 賢治は果たしてどんな思いで、この三陸旅行に参加していたのでしょうか。旅行中に賢治が詠んだ次のような短歌、

ひとびとは
釜石山田いまはまた
宮古と酒の旅をつゞけぬ。

たよりなく
蕩児の群にまじりつゝ
七月末を 宮古に来る。

などを見ると、文学と友情に青春を謳歌していた純真な20歳の若者が、オジサンたちの遊興ツアーに一人ぽつんと混ざっている、というような状況を想像してしまいます。それでも賢治にとっては、16歳の時に修学旅行で初めて海を見て以来、4年ぶりに今度はさらにじっくりと海辺を旅することができたわけで、いろいろと珍しい風物にも触れることができたのではないでしょうか。
 とりわけ、7月27日には宮古で昆布工場を見学したという記録があり、浄土ヶ浜では浜辺にたくさんの昆布を広げて干している情景を目撃しています。初期の童話「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」には、主人公が働く「昆布とり」や「昆布工場」が出てきますが、その発想の端緒は、この時の体験にあったと考えてよいでしょう。
 さらにこの作品が改作されると、主人公の名前は、「てぐす・昆布どり」をもじった「グスコンブドリ」から、「グスコーブドリ」へと変遷していきます。ですから、もしも20歳の賢治がこの旅行で「昆布採り」を見ることがなかったら、今年の夏に公開される映画の主人公ともなる「ブドリ」という名前は、存在しなかったわけですね・・・。

 さて、私は5月5日に三陸リアス鉄道で宮古駅に降り立って、浄土ヶ浜行きのバス乗り場を探していました。すると駅前広場から、レトロなボンネットバス「浄土ヶ浜号」が、なんと無料で浄土ヶ浜まで連れて行ってくれるというではありませんか。この無料バスは、6月30日までの土日祝日に運行しているそうです。

無料ボンネットバス「浄土ヶ浜号」

 若いバスガイドさんが解説を聞きながら10分ほどバスに揺られると、「浄土ヶ浜第一駐車場」です。ここからまた無料バスに乗り換えると、賢治の歌碑がある「奥浄土ヶ浜」に着きました。

浄土ヶ浜(2012.5.5)

 津波被害後は、大量の瓦礫が漂着し、浜の一部も大きく削られて地形が変わってしまったところもあったようですが、今はまた観光地としてきちんと整備されています。被災後まもない時期の浄土ヶ浜については、「うみねこチャンネル」に動画が紹介されています。
 そしてこの浜の奥に、昆布を詠んだ賢治の歌碑があるのです(下写真)。

「寂光のはま」歌碑

うるはしの
海のビロード昆布らは
寂光の浜に敷かれひかりぬ

 この碑そのものには目立った損傷は見られませんが、もともとこの碑の向かって右隣には、賢治がこの短歌を詠んだ状況について説明した「副碑」がありました(下写真は2000年8月撮影)。現在は跡形もなくなっていますが、おそらく津波で流されてしまったのでしょう。

「寂光のはま」歌碑(2000.8.8)

 この後ろの遊歩道を登っていくと、三陸地方随一の威容を誇る「浄土ヶ浜パークホテル」があります。海を見下ろす高台にあるこのホテルは、直接の津波被害はまぬがれましたが、地元の方々の避難所として一時は230名もの方々が生活する場所となり、その後も救援のために全国から派遣されて来る警察関係者の宿泊施設として開放されました。そして今年の3月8日、ついに1年ぶりに通常営業を再開したのです。
 美しい浜の再生、無料バスの運行、ホテルなど地元業者の奮闘など、名勝・浄土ヶ浜に再びたくさんの人を迎えようとする、多くの方々の熱意を感じた半日でした。


 「発動機船 第二」詩碑

 北三陸海岸の田野畑村には、賢治が1925年(大正14年)の1月に三陸を旅した時の体験をもとに書いた、「発動機船」三部作の3つの詩碑があります。
 このうちの一つ、三陸鉄道の島越駅前にある「発動機船 第二」詩碑は、津波によって周囲の建物すべてが流されてしまったにもかかわらず、瓦礫の中に碑だけが倒れず残ったために、「奇跡の詩碑」などとして新聞報道でも大きく取り上げられました(「津波ニモマケズ 全壊の島越駅、賢治の歌碑だけ残る」など)。
 私は、去る5月4日に、普代村の金子さんの車に乗せていただいて、大雨の中をこの詩碑に向かいました。

 島越駅は、田野畑駅の一つ南の駅ですが、この間の三陸鉄道線は、津波によって全く壊滅させられてしまいました。駅間距離にして11.5kmの区間を、車で行くと今は何十分もかかります。つづら折りの道を何度も上り下りし、まだ照明の点いていないトンネルや、歩道のてすりの折れ曲がったトンネルを抜けて、視界の開けた島越海岸に出ると、まるで更地のようになった集落跡に、すぐに賢治の詩碑が目に入ります。
 詩碑の左奥は、高架になっていた三陸鉄道の橋脚です。

「発動機船 第二」詩碑

 上の写真でご覧のとおり、コンクリート製の碑体の各所は一部崩れてはいますが、碑そのものはしっかりと立っています。三陸の波をかたどった上辺には、もとは賢治が乗った発動機船をイメージした船のブロンズ像が載っていたのですが、これは消滅しています。

島越駅跡

 少し左の方に目を移すと、上の写真のあたりが、もともと島越駅のあったところです。タイルが橙と黄の市松模様になった部分が駅舎の内部で、奥の方にある空中で途絶えた階段は、コンコースからホームへ続いていたものです。津波の直後には、このあたりは大量の瓦礫に埋もれていたのですが、1年あまりの間に片付けられて、このように地面に固定された構造物だけが残されています。駅舎も線路も、今は跡形もなく消えました。
 さらにその向こうに広がる空き地には、津波の前には、たくさんの家々が立ち並ぶ町がありました。島越にあったすべての民家は押し流され、一つの集落が消滅してしまったのです。

 このような衝撃的な状況において、ただこの詩碑だけが残ったことは、人々に様々な感慨を呼び起こしました。これを、災害の記憶を後世に遺すためのモニュメントにしようという案もあるようです。
 去年6月22日の東京新聞の記事には、この碑の制作者が震災の3ヵ月後に、碑と再会した時の様子が記されています。当初、この碑は駅舎や海岸と平行に設置する案があったが、制作者は「船が海に漕ぎ出していく」というイメージにこだわり、向きを90度変えて、海岸線と直角に立てたのだということです。
 そして結果的に、薄い板のような形状の碑の側面から津波が当たるというこの配置のおかげで、碑は倒れず残ることになったのです。

観光バスで「奇跡の詩碑」を見に来た人々

 5月3日と4日は、三陸地方は記録的な大雨だったのですが、それでも上の写真のように観光バスに乗った多くの人が、この「奇跡の詩碑」を見にやって来ていました。ガイドさんに尋ねると、関東地方や関西地方から来られている人もあるということでした。

 ところで、三陸リアス鉄道の駅には、それぞれに「愛称」が付けられているのですが、田野畑村にある2つの駅の愛称は、いずれも宮沢賢治の作品からとられています。一つ北の田野畑駅は、「カムパネルラ田野畑」、そしてこの島越駅は、「カルボナード島越」と言います。
 これについて、詩碑の左肩の部分には、「駅名<カルボナード島越>の由来」という文章が刻まれています(下写真)。

駅名<カルボナード島越>の由来

駅名<カルボナード島越>の由来
 カルボナードは宮沢賢治の童話「グスコーブドリの伝記」中の火山島の名前です。主人公は燃えるような情熱と意欲を持った青年で、住民を守るために命をささげました。
その行動と勇気は田野畑村の先人そのものです。
島越の「島」にちなんで火山の名を愛称としました。(以下略)

 自分の命を投げうって、イーハトーヴを冷害から救おうとした青年グスコーブドリ。その昔、つらい「昆布とり」の労働をさせられていた少年は、はるかに大きく成長したのです。
 そして、彼の最期の地となった「カルボナード島」に建てられていた「いくつものやぐらや電線」は、ブドリとともに、人工噴火によって微塵となって消えました。
 「カルボナード島越」にも、建物は何も残りませんでしたが、こちらにはその名前の由来を記した詩碑だけは、けなげに立ちつづけていたというわけです。

在りし日の島越駅看板

 上の写真は、2000年8月8日に撮影したものです。洋風のしゃれた駅舎の2階は食堂になっていて、その日はここで昼食をとったのでした。

[つづく・・・]

明日から三陸

 ゴールデンウィーク後半を利用して、明日から北三陸地方に行ってきます。
 昨年12月に、「三陸の賢治詩碑の現況(1)」および「三陸の賢治詩碑の現況(2)」という報告をしましたが、その続編にあたる部分を、またこの目で見てくるためです。偶然にも3日前には、「賢治の事務所」の加倉井さんが、「敗れし少年の歌へる」詩碑まで行かれたばかり。

 向こうでは、この詩碑ができて間もない頃に普代村でお世話になった方々や、震災後に支援活動を通じてご縁ができた如法寺(ここは「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」に出てくる鈴木卓苗氏の養子先)の住職さんともお会いできる予定で、感無量です。
 ブログ記事としてのアップはまだ先になるかと思いますが、ツイッターではリアルタイムでご報告するつもりです。

「敗れし少年の歌へる」詩碑(普代村)

三陸の賢治詩碑の現況(2)

 11月下旬に訪ねた、三陸地方南部の賢治の詩碑・歌碑報告の続きです。まず、碑の場所を示す地図を、再掲しておきます。


(地図上のマーカーをクリックすると、碑の写真と説明へのリンクが表示されます)

 今回は、気仙沼市唐桑の (3)「雨ニモマケズ」詩碑 と、陸前高田市の (4)「農民芸術概論綱要」碑 についてご報告します。


 「雨ニモマケズ」詩碑

 気仙沼市も、今回の津波で大きな被害を受けた町でした。3月11日の深夜には、気仙沼の市街が火災で燃える様子を自衛隊のヘリコプターが撮影した映像がテレビでずっと流され、茫然と見続けた記憶があります。
 私は9月23日にも気仙沼を訪ねたことがありますが(「気仙沼の彼岸」参照)、今回は2ヵ月ぶりの再訪でした。

 11月25日に石巻の医療支援を終えた後は新幹線で移動して一関に泊まり、朝早くにJR大船渡線に乗って、気仙沼駅には8時40分に着きました。
 ここから、持参した折りたたみ自転車を使って、沿岸部や鹿折地区をまわりました。港のあたりは、9月に来た時には地盤沈下した道路が冠水して自動車での走行も困難でしたが、今回はやはり石巻と同じように、数十cm底上げした真っさらな舗装がなされていました。
 JR鹿折唐桑駅の前には、9月の時にも見た「第十八共徳丸」が鎮座しています。前回と違って、今回は真新しい道の傍らに。

第十八共徳丸

 市街東部の鹿折川の川べりには、昭和8年3月の「昭和三陸大津波」を記念した石碑が建てられていたのですが、悲しいことに今回の津波で倒されていました。

大震嘯災概碑

 倒れる前のこの日の姿は、「日本の川と災害」の当該ページにあります。現在上になっているのは裏面ですが、表面には、「大震嘯災記念/大地震それ来るぞ大津浪」と刻まれていたようです。

 鹿折川を渡り、その向こうに見えている山を越えると、リアス式の次の湾に面した「舞根」という集落があります。ここも、全てが流されていました。

気仙沼市舞根

 その次の、「浦」という集落。案内標識のゆがみが、津波の到達した高さを教えてくれます。

気仙沼市舞根

 ここから、唐桑半島の付け根のもう一山を越えると、「宿(シュク)」という集落です。余談ですが、柳田国男が明治三陸大津波から25年後に三陸地方を旅した折りに書いた「二十五箇年後」という文章(『雪国の春』所収)は、この「唐桑浜の宿という部落」の話です。
 この地区の、「熊野神社」という神社の裏山に、「雨ニモマケズ」詩碑が建っています。

「雨ニモマケズ」詩碑

 この碑は、小さな山の中腹あたりにあって、津波の被害はありませんでした。しばし荷物を下ろして、「雨ニモマケズ」のテキストに向かい合い、一ノ関駅で買ってきたおにぎりで昼食。

 この碑のある場所から少し登ると、広田湾が見えます。左下に見えている石板が、詩碑の背面です。

「雨ニモマケズ」詩碑と広田湾

 それにしてもこの場所は、一人静かに「雨ニモマケズ」に向かい合ったり、海を眺めたりできる、素晴らしい「穴場」です。また来たいものです。

「雨ニモマケズ」詩碑

 腹ごしらえと十分な休憩をすると、詩碑にさよならを言って、次の目的地を目ざしました。

 また自転車に乗って、今度は北の方に向かいます。地図で見るとほぼ海岸線を走っていても、リアス式海岸に沿った道路というのは、集落の境ごとに存在する小さな峠と、海面の高さの間のアップダウンを幾度も繰り返すことになり、自転車にとっては結構ハード。
 岩手県交通の、一関から大船渡までを1日2往復するバスの時刻を調べてあったので、「堂角」から「陸前高田市役所前」まで、自転車をたたんでバスを利用・・・。


 「農民芸術概論綱要」碑

 そこからもいくつもの峠を越えて、バスは陸前高田市内に入りました。しかしそこで私は車窓からの景色を見て、「自分はここに来てもよかったのだろうか」という思いに一瞬とらわれてしまいました。それでも、バスはどんどん進みます。
 「陸前高田市役所前」で降りるつもりにしていたのですが、私の目算が浅はかで、元の市役所の建物は3階天井までもが津波で破壊されたわけですから、臨時のバス停があるのは、その2kmほど山手にプレハブで建てられた「市役所仮設庁舎」の前でした。

 持っていた2万5千分の1の地図は当てにならず、およその方角を頼りに山を下り、元の市街地のあたりに出てきました。
 この道をずっと西に行けば、高田高校です。

陸前高田市街地

 そして高田高校。

高田高校

 この校庭に、賢治の「農民芸術概論綱要」碑があったのです。下の写真は、2000年8月7日に撮影したものです。

「農民芸術概論綱要」碑(高田高校)

 この碑は、東北砕石工場の鈴木東蔵氏の長男・鈴木實氏が高田高校の校長だった昭和47年に建てられました。その「建立趣意書」には、次のように書かれていたということです。

 宮沢賢治御令弟清六氏より、賢治の喜ぶように使って欲しいと金十五万円余の御寄付を高田高校に頂きましたので、この使途につき有志相集い協議いたしましたところ生徒達への教訓のため詩碑建設が最善ではないかと考えました。
 碑文は丁度一昨年高田高校創立四十周年記念の折、谷川徹三氏が御講演後、「まづもろともにかゞやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」と農民芸術概論の一節を色紙に御揮毫なさいましたので、それを銅板に鋳直して石に彫むことにいたしました。

 そして、除幕式では森荘已池氏が講演を行ったということです。

 さて、高田高校にたどり着くと、何とかして上の場所とおぼしきあたりを探そうとしたのですが、瓦礫や土砂も多く、碑を見つけることはどうしてもできませんでした。

高田高校

高田高校

捜索終了

 ということで、「捜索終了」。

陸前高田市街

 自転車で西に向かい、気仙川を越え、また気仙沼市との境あたりにある「ホテル三陽」という宿に泊まりました。

 今回、11月下旬に訪れた南三陸の賢治詩碑は、前回と今回ご報告した4つです。
 残りの北三陸の詩碑も、来年の5月頃までには訪ねたいと思っています。

三陸の賢治詩碑の現況(1)

 下の地図のように、三陸海岸沿いにはかなり多くの賢治の詩碑や歌碑が建てられています(建てられていました)。その中には、「津波ニモマケズ 宮沢賢治の詩碑 耐えた」という東京新聞の記事のような感動的な報道によって、その消息を知ることができたものもありますが、他の碑がどうなっているのか、あまり情報はありませんでした。
 未曾有の津波被害を受けた地域の賢治詩碑は、今どのような状況にあるのか・・・。石碑フリークの私としては、このことが以前から心に引っかかっていたのです。


(地図上のマーカーをクリックすると、碑の写真と説明へのリンクが表示されます)

 私は去る11月24日25日に、宮城県石巻市の医療支援に行っていたのですが、その前後に個人的に時間をとって、津波を受けた三陸地方の賢治詩碑の状態を、一部見てきました。
 今回は、塩竃と石巻の詩碑、上の地図では(1)および(2)の碑のご報告です。


 「ポラーノの広場」碑

 昨年3月に、宮城県塩竃市港町の岸壁沿いに「シオーモの小径」という散策路が作られました。塩竃は、日本三景・松島観光の拠点でもあり、明治以来たくさんの文人が訪れて作品に詠みこんでいますが、ここはそれら数多の文学碑を美しく配列した、情緒あふれるスポットでした。正岡子規、北原白秋、若山牧水、与謝野晶子、斎藤茂吉、田山花袋など綺羅星のような石碑群の中の一つとして、賢治の「ポラーノの広場」の一節を刻んだ碑も建てられました。
 私は、昨年3月この一角が整備されて間もない頃に、ここを訪ねてみたことがあり、その時の様子は「シオーモの小径」というブログ記事にも書きました。当時の「シオーモの小径」の入口は、下の写真のようでした。

「シオーモの小径」2010年3月21日

 この散策路が「シオーモの小径」と名付けられたのは、もちろん賢治の「ポラーノの広場」において、塩竃をモデルにした街がエスペラント風の「シオーモ」という名前を冠されて登場することに基づいています。この道の名付け親とも言える賢治の碑は、他の誰にも負けぬ意匠と工夫を凝らされた、見事なものでした。 その姿は、「ポラーノの広場」碑のページでご覧いただくことができます。

 そして、今回11月23日に訪ねた「シオーモの小径」の入口は、下のようになっていました。

「シオーモの小径」2011年11月23日

 地震によって、地盤が大きく沈下してしまったために、歩道が波打っています。左の石垣の外側には、以前は岸壁があったのですが、これも地盤沈下によって海面下になってしまっていました。

 そして、賢治の「ポラーノの広場」碑は、下のようになっていました。

「ポラーノの広場」碑

 後ろから見ると下のようになっていて、根元に通されている太さ2cmほどの鉄芯が、津波の圧力によってぐにゃりと曲がってしまっているのがわかります。

「ポラーノの広場」碑の根元

  しかし、「小径」に並ぶ碑には完全に倒れてしまったものもいくつか見られる中で、約40°の角度を保ちしっかりと立つ姿は、何かとてもけなげに思えたりもしました。また、碑の周囲に散乱している敷石は、初代・塩釜駅に敷かれていたもので、賢治の同級生たちもおそらく踏みしめていたものです。

 この「ポラーノの広場」碑文に引用されている部分の少し前では、三陸海岸のことは「イーハトーヴォ海岸」と呼ばれていて、レオーノキューストがその海岸地方を旅した時の喜びは、次のように描かれていました。

 海岸の人たちはわたくしのやうな下級の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれ ました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞり をたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました。

 ここには、賢治が三陸地方を旅した時の経験、そこで触れあった「海岸の人たち」の心根も、反映しているのかもしれません。


 「われらひとしく丘に立ち」詩碑

 石巻市の日和山は、この町の歴史的中心に位置する山です。延喜式の式内社として由緒ある「鹿島御児神社」が平安時代から鎮座し、鎌倉時代には石巻城が築かれました。「日和山」という名称は、海運の盛んなこの町において、海に近いその頂きが船の運航に重要な天候を観察するスポットであったことによります。
 Wikipedia には、

日和山から日和大橋越しに見る旧北上川河口と太平洋、また、旧北上川の中洲であり、内海五郎兵衛が私財を投じて東内海橋と西内海橋を架けた「中瀬」(なかぜ)の見える風景は、そのまま石巻の成り立ちと市民のアイデンティティを示すものである。

との記述もあります。また春には、桜の名所としてたくさんの市民が訪れます。
 日和山とは、石巻においてそういう場所なのです。

 15歳の賢治は、盛岡中学の修学旅行において、この山から生まれて初めて海を見るという体験をしました。
 この折りに賢治が詠んだ短歌に、

まぼろしとうつゝとわかずなみがしら
きほひ寄せ来るわだつみを見き。

があり、これを後年になって文語詩化した「〔われらひとしく丘に立ち〕」のテキストを刻んだ詩碑が、この日和山公園に建てられたわけです。

 私が前回この日和山公園に来たのは、2000年の8月6日でした。11年ぶりに訪れた公園は、以前よりも立派に整備されていました。そして、さすがに海抜56mほどの丘の上だけあって、津波の被害は皆無でした。
 下写真が、今回の「われらひとしく丘に立ち」詩碑です。

「われらひとしく丘に立ち」詩碑

 この日和山には、他にもいろいろな石碑があるのですが、下写真は、「チリ地震津波碑」です。

チリ地震津波碑

 碑面には、次のような言葉が刻まれています。

     チリ地震津波碑

ほら こんなに
まるで慈母のように穏やかな海も
ひと度荒れ狂うと
恐ろしい残忍な形相となる
海難・ 津波・ 海難と
こゝ 三陸一帯に
無常な海の惨禍が絶えることがない
(後略)

 さて、上記 Wikipedia にあったように、日和山からの眺望は石巻市民にとってアイデンティティの一部ともなっているということですが、先の大津波においては、ここからの景観は凄絶なものでした。
 下の動画は、市民の方が日和山から南の方角を撮影したものです。

 結局、この山より南の市街地は、すべてが津波で流されてしまったのです・・・。

 ところで、上の動画のような情景を見ていると、

まぼろしとうつゝとわかずなみがしら
きほひ寄せ来るわだつみを見き。

という賢治の短歌が、まるで悪い夢になって襲ってきたかのような錯覚にとらわれそうになります。これは果たして「まぼろし」か「うつゝ」か、誰しも我が目を疑う景色であり、波頭は非常な勢いで寄せて来ます。
 そのような海(わだつみ)が、3月11日に確かに出現しました。

 今、賢治の詩碑の横から南を見ると、下のような景色が広がっています。

日和山から南を望む

 震災から8ヵ月後ともなると、津波に流された跡も瓦礫は撤去されて、茶色い地面が広がっています。まるで埋め立て地のように見えますが、震災前はここはすべて住宅地だったのです。中央あたりに残っている比較的大きな白いビルは石巻市立病院で、しっかりと立っているように見えますが、1階は津波に打ち抜かれています。

 日和山から下へ降りると、家の土台も撤去された曠野に、真新しいアスファルトの道が通っていました。地盤が沈下しているので、道路は数十cm以上の盛り土をして底上げされています。奥に見える建物は、門脇小学校です。

門脇町

 日曜日のお昼頃、市民の方々は日和山の展望台から、かつて街並みのあった場所を、静かに眺めておられました。

日和山展望台から

【この項つづく・・・】

気仙沼の彼岸

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 賢治学会2日目となる9月23日は、午前中にイーハトーブ館で行われた「宮沢賢治研究発表会」を見学した後、午後からは小野浩さんが気仙沼に行くということだったので、お願いして私も車に乗せてもらい、同道することにしました。
 小野さんは福島県いわき市小名浜在住ですが、知人の所有する漁船がたまたま気仙沼港に停泊中に津波で流され、内陸部に取り残されたままになっているのだそうです。今回は、何とかしてその漁船と「再会」を果たしたいとの思いから、気仙沼を目ざすのです。小野さんのお父さんも漁船を持っておられたので、昔から小野さんも漁船には詳しく、このたび気仙沼で被災した漁船――「第十八共徳丸」が小名浜港に停船していた時には、よく眺めたということでした。(在りし日の「第十八共徳丸」の写真はこちら。)

 昼食もとらずにイーハトーブ館を出たので、車内で小野さんにあんパンをもらってかじりながら東北自動車道を南下、一関からは国道284号線を東に走りました。

 花巻からおよそ2時間あまりで、気仙沼に着きました。

 気仙沼では地震による地盤沈下が著しく、海岸に近い地区一帯は冠水したままでした。
気仙沼1

気仙沼2

 海岸近くの冷凍工場。
気仙沼3

 カラスが一羽。
気仙沼4

 コスモスの花。
気仙沼5

 人気のない海辺で測量をしていた方々に、「陸に取り残された大きな漁船」の場所を尋ねて、冠水した道路を試行錯誤しながら走っていると、遠くに船の姿が見えてきました。
第十八共徳丸

 「第十八共徳丸」です。紺碧の船体の色は、この船を所有する「儀助漁業株式会社」のシンボルカラーなのだそうです。
第十八共徳丸

 これほど大きな船が、海岸から500mも内陸まで流されるとは信じられませんが、むしろ大きいからこそ、いったん津波に乗ってしまうと陸上の構造物にぶつかっても止められず、あらゆる物をなぎ倒しながらはるか奥まで到達したのでしょう。

 なお、この船体は現在、 Google map の衛星写真でも見ることができます。


 JR大船渡線の「鹿折唐桑」という駅の駅前道路を、完全に塞ぐ形で鎮座しています。気仙沼市は、この周囲一帯を公園にして、船体をモニュメントとして保存することも検討しているということです。

 かくして小野さんは、故郷の小名浜港から来た「第十八共徳丸」に、めぐり逢うことができました。

 合掌して船を後にして車に向かっていると、歩道にはなぜか「アンパンマン」のぬいぐるみが落ちていました。
アンパンマン@気仙沼

 震災後、沿岸部を訪ねたのは私として初めてでしたが、ここで目にした情景は、ずっと忘れず心に刻んでおかなければならないと感じました。

二人の「異途への出発」

 大明敦氏編著の『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(山梨ふるさと文庫)という本に、盛岡高等農林学校2年の時の保阪嘉内について、次のような記載がありました。

いつもの嘉内ならこのあたりで帰省するところであるが、この年の暮れの嘉内は違っていた。『文象花崗岩』跋文を書いた十二月二十六日に学生には不要とも思われる名刺を作り、下宿で年を越した。その上、嘉内は大正七年の一月六日から九日まで青森県の八戸港まで旅行をしている。旅行の目的は不明である。名刺はおそらくこの旅行に備えて作ったものと思われるが、逆に急に思い立ったものか、旅費として小菅健吉と内山久から合わせて十一円四二銭を借り、帰盛後に返済している。この時、嘉内に何があったのか。具体的な事情は分からないが、大正七年が明けて綴り始めた歌稿ノート『ひとつのもの』に一月八日の日付で、

まことの国、まことの国と求め来て
行衛は知らぬ
道に迷ふも

あわれわが まことの国と
よそひとのまことの国と
へだてあるらん、

といった歌を記していることから、何か心の中に悩みや葛藤のようなものがあったことがうかがえる。また、やや日を置いて、一月十八日から二十日にかけて八戸への旅行の時の歌も数首記している。嘉内はいったい何を思っていたのであろうか。

半日の海に向かへば
さむさむと
八甲田山の
雪がうごけり、

鴉とばず
さむさむしきは
八戸の
入江の空の
藍色のつぼ

いまはただ
泣かんすべなし
雪降ると
赤い尖塔をながめ入りたり、

 つまり、目的は不明ながら、大正7年(1918年)の1月6日~9日の間、保阪嘉内はわざわざ名刺を誂えて、また友人に金を借りてまで、八戸方面を訪れたというのです。そして大明氏はこの時の嘉内に、「何か心の中に悩みや葛藤のようなものがあったことがうかがえる」と推測しておられます。

 賢治ファンならここで連想してしまうのは、賢治も7年後(1925年)のちょうど同じ時期に、八戸から三陸地方の旅行をしていることです。賢治の場合は、1月5日の夜行列車で花巻を発って、1月6日に八戸に到着、そこから三陸海岸を南下して、釜石を経由してやはり1月9日に花巻に帰っています(「旅程幻想詩群」参照)。
 そして、賢治のこの三陸旅行も、これまでの研究によっては「目的不明」であり、さらに賢治自身が「異途への出発」という作品の中で、次のような苦悩を告白しています。

みんなに義理をかいてまで
こんや旅だつこのみちも
じつはたゞしいものでなく
誰のためにもならないのだと
いままでにしろわかってゐて
それでどうにもならないのだ

 それにしても、1月6日~9日という日付と行き先の一致は、本当によくできた「偶然」ですね。また、二人とも旅行の目的がわかっていないことと、何か悩みながらの旅であったことも、私たちにちょっとした空想をかき立ててくれます。


 というだけの、偶然の一致の話なのですが、ところでこれを題材にして、ミステリー小説のようなものはできないでしょうかねぇ。

  1. 保阪嘉内は、ある秘密の目的を携え、1918年1月6日に八戸へ赴いた。しかしそれが、その年3月の彼の退学の原因となる(もちろん公式発表では、理由は伏せられている)。
  2. 1921年7月18日、東京で賢治と面会した嘉内は、賢治にこの「秘密」を伝えた。そして表面的には「絶交」して、以後二人はほとんど連絡を取っていないように装うことにした。しかし実は、水面下での二人の接触は続いていたのである。
  3. 1925年、今度は賢治が7年前の嘉内と同じ使命を帯びて、やはり1月6日の八戸に現れた。ところがこの動きのために、賢治もまた翌年3月に農学校退職を余儀なくされる(もちろん表向きの退職理由は別)。
  4. 退職した賢治は、1926年春から羅須地人協会を始め、その年の8月に、今度は妹たちとの家族旅行を装って、再び八戸を訪れた。しかしここに至って、賢治は翌年3月に花巻警察署長伊藤儀一郎の事情聴取を受けることになってしまう。
  5. そこでついに「秘密」は、次の人物に託されることになった。その「人物」とは、皆様もご存じの・・・?!

 ちょっと最近疲れているので、空想のしすぎです・・・(笑)。

普代村へ(3)

 昨夜は、コンサート終了後ひきつづき同じ場所で行われた打ち上げ会で、「コーラスライオット風」と「北声会」の皆さんとともに、歌ったりして楽しい時間を過ごしました。妻と一緒に来ていた私は、会の終わりに花束までいただき、宿まで車で送って下さった金子さんに、「結婚式みたい」と冷やかされました。
 部屋で荷物を下ろしてからも、岩手日報の記者の方から取材の電話があったりしましたが、夜は比較的早く眠ることができました。

国民宿舎「くろさき荘」より 今朝は、窓から幻想的な海の景色を見た後、朝食をとって、あたりをしばらく散歩しました。
 「北緯40度のシンボル塔」や、黒埼灯台、アンモ浦展望台などを見て、チェックアウトをするとまずお隣の野田村にある「マリンローズパーク野田玉川」に向かいます。

 「マリンローズ」というのは、野田玉川鉱山から産出するバラ輝石に対して、鉱山権を取得した地元の会社が名づけた商品名です。
 賢治の時代にはこのような名前はありませんでしたが、「敗れし少年の歌へる」の四連めに「よきロダイトのさまなして・・・」として登場する「ロダイト」とは、このバラ輝石の学名「ロードナイト(Rhodonite)」のことと思われます。文語詩への改作前の「暁穹への嫉妬」においては、「あけがたのそら」が「薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて・・・」と描写されていますし、地質学者賢治としては、この鉱石がこの地区の特産であることを、当然知っていたはずだからです。
 上写真のように今朝の空も薄い赤みを帯びて神秘的で、これをバラ輝石に喩えたくなる賢治の気持ちはよくわかります。
 「マリンローズパーク」では、今回の「敗れし少年の歌へる」の記念にと、小さなバラ輝石の付いた指輪を妻に買い、いろいろと思い出の詰まった三陸を後にしました。

マルカンデパート「ソフトクリーム」 久慈から二戸まではJRバス、二戸から花巻までは新幹線と在来線で戻ってくると、マルカンデパートの6階展望食堂でソフトクリームを食べました。このソフトクリームは、花巻在住の人にとっては名物の一つのようですが、クリームがあまりにも高く盛られているためにそのままかぶりついて食べることは困難で、割り箸で食べていくのが通例になっています。左の写真で、下のコーンの部分はもちろん普通の大きさですが、これとクリーム部分のボリュームを比べてみて下さい。これが「大盛り」でも何でもなくて、140円で「ソフトクリーム」の食券を買えば運ばれてくるのです。
 食べてみると、たんに大きいだけでなくて味もなかなかよく、甘さはやや控えめですので、食後に二人で食べるにはちょうどよい感じでした。

 あと賢治詩碑とイギリス海岸にちょっと立ち寄り、午後7時に花巻空港を飛び立つと、8時半に伊丹に、10時前に京都に着きました。途中、少し「万両」に寄ってから家に帰りました。

普代村へ(2)

 羽田空港から搭乗するのは、朝7時50分発の青森県三沢空港行きの便です。6時に起きて、急いで仕度をして、6時半にホテルを出れば間に合うはず・・・だったのですが、出発ロビーに行ってみると、連休初日とあってあたりはものすごい混雑です。すべての自動チェックイン機や手荷物検査窓口に、長蛇の列ができています。
 まだ列の中にいるうちに、「7時50分の便の方はおられませんか」と呼び出され、別の窓口で手続きをしてもらうと、入場検査のあと搭乗口まではかなりの距離を走り、どうにか間に合いました。

 ところが、こんどは飛行機が定時になっても離陸しないのです。「搭乗可能人数よりも予約人数が多い(?!)」ためだそうで、「次の12時55分の便へ変更していただいた方には、現金1万円かマイレージ7,500を進呈いたします」と機内では何度もアナウンスが流れますが、時間はどんどん経っていきます。
 具体的にどうなったのかはわかりませんが、けっきょく離陸予定時刻から30分も過ぎた頃、「予約された方全員がお乗りになりました」とアナウンスがあり、飛行機が動き始めたのは40分遅れでした。
 この時点で、三沢空港から乗り継ぐ予定にしていたJR八戸線の列車には、間に合わないことがはっきりしてしまいました。

 機内では、今日のコンサートには大幅に遅刻してしまうことも覚悟していましたが、無事に着陸もしてくれましたので、まだ一応あきらめずにチャレンジはしてみることにしました。三沢空港からタクシーに乗り、途中で当初の計画に追いつくことができないか、行けるところまで行ってみます。
 国道45号線を走り、タクシーが八戸に着いたのも、やはり乗り継ぐ予定の列車が発車した後でした。しかし、差はかなり縮まっています。そしてその後の運転手さんのおかげもあって、なんとか久慈駅に12時前に着くことができ、ここを12時14分発という三陸鉄道の予定列車に、どうにか乗り込むことができたのです。
 これで当初の計画どおり、私たちは12時55分に普代駅に降り立つことができました。

 1月に来た時には二戸から久慈までバスに乗りましたが、今回八戸から海岸沿いに南下してきたところは、80年前の賢治のルートと共通です。賢治は花巻を夜に発ち、八戸線で種市に朝6時5分に到着すると、ここから徒歩で下安家まで南下したとも言われていますが、木村東吉氏は、当時八戸から久慈まで運行していた「乗合自動車」に、途中から便乗した可能性も指摘しています(『宮澤賢治≪春と修羅 第二集≫研究』)。当時の乗合自動車の八戸から久慈までの所要時間は3時間30分だったということですが、今日のタクシーでは約1時間でした。

自然休養村管理センター入口 コンサート会場の「自然休養村管理センター」に着くと、1月の詩碑見学の際にお世話になった金子功さんが声をかけて下さいました。館内では合唱団がまだ最後のリハーサル中でしたが、代表の森田さんや事務局の金子さんも出てこられてご挨拶をかわし、こちらは三脚を立ててビデオカメラや録音のセッティングです。
 2時を少しまわった頃、増田岩手県知事夫妻も到着されて、コンサートが開演しました。

 今日、第17回の定期演奏会を迎える「コーラスライオット風」は、北三陸の3つの村にある、「コール・わさらび」(野田村)、「てぼかい合唱団」(普代村)、「しゃくなげ合唱団」(田野畑村)という3つの地元合唱団が、ことあるごとに合体して結成する合唱集団です。「ライオット(riot)」とは、英語で「一揆」のことで、江戸時代末期にこの地を中心に起こされた「三閉伊一揆」にちなんでいます。(三閉伊一揆については、田野畑村の公式サイトに絵入りの解説ページが、「歴史と人」というサイトに社会背景に注目した分析があります。)
 「コーラスライオット」=「合唱一揆」とは不思議な名前ですが、きっとこの命名には、「日本近世史上で唯一、勝利の証文を勝ち取った」と言われる三閉伊一揆に表れた民衆の力への深い共感、あるいは地方の文化に新たな「風」を吹き込みたいという団員の熱意が込められているのだろうと思います。私がお会いした合唱団のメンバーは、みんな「田舎の合唱団です」と謙遜しながらも、活動にかける思いの強さに関しては感動的でした。

 コンサートの構成は、まず「ステージ I 」で「コーラスライオット風」が秋にちなんだ3曲、それから「ステージ II 」では、盛岡から賛助出演の混声合唱団「北声会」による黒人霊歌、そして「ステージ III 」でふたたび「コーラスライオット風」による童謡3曲と「敗れし少年の歌へる」の披露、最後にエンディングで「コーラスライオット風」と「北声会」の合同合唱、というものです。
 会場は3つの村から詰めかけた人々で満員で、歌の合間には村長さんや知事の挨拶も入ります。知事のお言葉によると、この普代あたりの地区は、広い岩手県の中でも、盛岡からやって来るのにおそらく最も長時間を要する場所だということで、その昔「陸の孤島」と呼ばれたことも、あながち比喩ではありません。しかし、知事が公務の合間を縫って夫妻でコンサートに顔を出し、地元の人々と気軽におしゃべりをしている姿には、都会にはないような人々のつながりを感じました。

 さて、「敗れし少年の歌へる」のコーナーでは、金子さんから詩碑建立1周年にあたってのご挨拶の後、私にまで挨拶のマイクがまわってきました。今年の1月に普代にやってきた時の、金子さんや森田さんとの予想もしない「出会い」について、話をさせていただきました。
 私のような音楽の素人が、賢治の詩に曲を付けるなど誠に分不相応でおそれ多いことですが、賢治自身も音楽の才能や技術はともかく、自ら一人のアマチュア音楽家として歌曲を作ったりして楽しんでいたこと、落ちこぼれ音楽家のゴーシュが、やはり不思議な「出会い」を通して最後は音楽的達成をなしとげることなど、ちょっと弁解じみた話も付け加えました。

 挨拶が終わると、団員による詩の朗読に続いてピアノの前奏が始まり、ついに「敗れし少年の歌へる」が歌われました。その時になったらどんな気持ちがするだろうと、これまであれこれと考えていましたが、ゆったりとしたテンポで、しっかりと感情をこめて、合唱団の皆さんは歌って下さいました。
 終わったら拍手の中で、お辞儀をする指揮者や団員の方々とともに、私も立ってお辞儀をしていました。

コーラスライオット風