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 前回の「ほんたうのさいはひを求めて(1)」という記事は、宮澤賢治が繰り返し書いていた「ほんたうのさいはひ」というのは、具体的にいったいどういうものだったのか考えてみようとして、『新校本全集』の索引を調べて抜き書きを作ったところで、終わってしまいました。
 その続きについては、また後で考えていくこととして、ところで人間にとっての「幸福」という状態には、いろいろな種類のものがありえます。たとえば、「愛し合う男女が結婚して、生活が安定し、子供も生まれて、仲良く暮らしている」とすれば、その状態は一般的には、「幸福」の一つの典型像なのかもしれませんが、これは賢治が求めていた「ほんたうのさいはひ」とは、違うものだと思われます。
 その理由は、このような幸福には、「普遍性」がないからです。

 上のような満ち足りた仲の良い家族は、たしかに自分たちだけに限定すれば幸せかもしれませんが、その幸福は、その家族以外の人々が幸せなのかどうかということとは、全く無関係です。それどころか場合によっては、その家族が立派な家に住み、綺麗な服を着て美味しい物を食べている生活は、他の人々の不幸や困窮の上に成り立っている可能性さえあります。
 そして賢治は、自分の生まれ育った「宮澤家」に対して、そのような後ろめたさを感じ続け、恵まれた家に生まれた幸福を謳歌するよりも、むしろ罪悪感にさいなまれていた面がありました。

 すなわち、賢治がことさら「あらゆるひとのいちばんの幸福」あるいは「まことのみんなの幸」などと表現して、「あらゆるひと」「みんな」を重視したのは、上の特定の家族のような「個別的」な幸福ではなくて、全ての人、あるいは全ての生き物が共にそうであるような、「普遍的」な幸福を目ざそうとしたからだと考えられます。
 法華経の「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」という言葉に典型的に表れているように、これこそが大乗仏教の本質であるとも言えます。

 そして何よりも、「農民芸術概論綱要」の、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉が、賢治のこのような考えを、最も尖鋭に表現しています。「普遍的な幸福」がなければ、「個人の幸福」は存在しない、とまで言うのです。

 ということで、このような「普遍的な幸福」というところに特に着目しながら、前回の記事で調べた諸作品を見てみます。
 前回の「ほんたうのさいはひを求めて(1)」で、賢治の作品において「幸福」「幸」「さいはい」「さいはひ」「さひはひ」「しあはせ」等の語句が出てくる作品を『新校本全集』の索引で調べてみると、次の6つがありました。

  • 「貝の火」
  • 「よく利く薬とえらい薬」
  • 「手紙 四」
  • 「虔十公園林」
  • 「ポラーノの広場」(下書稿)
  • 「銀河鉄道の夜」

 私としては、意外に数が少なかったという印象なのですが、この中から、その内実が「普遍的な幸福」と言えるものを、抽出していってみましょう。

 まず「貝の火」では、最後にお父さんがホモイに、「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ」と語りかける箇所に出てきますが、これはあくまでホモイ個人の状況について「さいはひ」と表現しているのであり、みんなの「普遍的な幸福」ではありません。

 次に「よく利く薬とえらい薬」では、「にせ金使ひ」の大三が、自分が大金持ちであることについて、「自分だけではまあこれが人間のさいはいといふものでおれといふものもずゐぶんえらいもんだと思って居ました」とありますので、これも当然「普遍的な幸福」ではありません。

 「手紙 四」では、「チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」として登場し、これはまさに典型的な「普遍的幸福」です。

 「虔十公園林」には、「全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした」とあります。ここでは、この「本統のさいはひ」が「何千人のひとたち」に伝えられ、その数は「数へられません」というほど多いのですから、これは「普遍的な幸福」と言えます。

 「ポラーノの広場」では、下書稿の上だけですが、3か所に登場します。まず一つは、行方不明だったファゼーロに対してキューストが「あぶなかったねえ、ほんたうにきみはそれでだったんだよ」 と言う場面で、これは単に「幸運だった」ということであり、「普遍的な幸福」ではありません。
 二つめは、最後の方でファゼーロがそれまでの経緯を振り返って、「ぼくらはみんなんで一生けん命ポラーノの広場をさがした。そしてぼくらはいっしょにもっとにならうと思った」と言う場面で、この「幸」は「いっしょに」至ろうとするものですから、一応「普遍的な幸福」と言えます。
 三つめは、キューストによる演説に、「さうだあの人たちが女のことを考へたりお互の間の喧嘩のことでつかふ力をみんなぼくらのほんたうの幸をもってくることにつかふ」として出てきますが、これも同様にひとまず「普遍的な幸福」と言ってよいでしょう。

 「銀河鉄道の夜」には、「初期形一」、「初期形二」、「初期形三」、「最終形態」へと至る過程の全てに、「幸」、「しあはせ」、「幸福」という言葉は何度も登場します。その具体例の一つ一つについては、前回の記事を参照していただくようお願いしますが、ここにはたとえば「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする」というように、おっかさんの「個別的な幸福」として登場する場合もあれば、「だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ」というように、究極の「普遍的な幸福」を指している場合もあります。
 つまり、「銀河鉄道の夜」では、個別的/普遍的の両方の「幸福」が扱われているのですが、「初期形一」から「最終形態」に至る時間的推移を追ってみると、最初のうちは「個別的幸福」と「普遍的幸福」の双方とも一緒に求めようとする姿勢が見受けられるのに対して、最終形態に近づくほど、個別的な幸福から離れて普遍的な幸福の方をこそ目ざそうとする態度が、際立ってくるように感じられます。
 たとえば、「初期形一」では、蠍について語るジョバンニの言葉は、「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」となっていて、ジョバンニは「みんなの幸」と「おまへのさいはひ」の両方のために、自己犠牲を行うと言っています。しかしこの箇所は、「初期形二」以降はご存じのように、「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」となり、個別的な「おまへのさいはひ」は削られているのです。
 あるいは、「初期形一」から「初期形三」までの稿では、最後の方でジョバンニは「さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」と言っており、ここでも「僕のため」「僕のお母さんのため」「カムパネルラのため」という個別的指向と、「みんなのため」という普遍的指向が並列されているのですが、「最終形態」ではこの部分は削除されます。
 これは言わば、「個と普遍の両立」というスタンスから、「個を抑えて普遍へ」というそれへの転換であり、私としては、「青森挽歌 三」における《願以此功徳 普及於一切》から、「青森挽歌」における《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》への変更を、連想させられるところです(「《願以此功徳 普及於一切》」参照)。すなわち、「トシも、みんなも幸せに」ではなくて、「トシはどこに行ったかわからないが、みんなは幸せに」への変化です

 あと、さらにもう一つ、「銀河鉄道の夜」における「幸」、「しあはせ」、「幸福」の推移をたどってみて気がつくことがあります。それは、稿が進むにつれて、だんだんその内実が不分明で不可知なものになっていくということです。
 「銀河鉄道の夜」の発想の前段階に、「手紙 四」が位置するということは、多くの人の認めるところでしょう。「手紙 四」で、「手紙を云ひつけた人」が、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と宣告した後、様々な生物の同胞性を述べて、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」と言うパターンは、「銀河鉄道の夜」初期形で博士がジョバンニに、カムパネルラとは「いっしょに行けない」が同時に「みんながカムパネルラだ」と言い、「おまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ」と言うパターンと、まさに相似形になっています。
 その「手紙 四」では、「ほんたうの幸福をさが」すということは、すなわち「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」と明言されており、ここでは「ほんたうの幸福」とは、法華経への信仰とその実践であると、具体的に規定されているわけです。

 これが「銀河鉄道の夜」になると、法華経などという具体的な宗教性は除かれますが、「初期形一」の最後でカムパネルラの不在を発見したジョバンニは、「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ」と叫び、ここでは「きっとさがしあてる」ことが高らかに宣言され、読む者もそれを期待するようになっています。
 上のジョバンニの言葉は「初期形二」でも同じですが、「初期形三」になると、カムパネルラの不在に気づいたジョバンニは、「咽頭いっぱい泣きだし」、「そこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひ」、「初期形二」までのような決然とした態度ではなくなります。そして、博士に声をかけられて「ぼくはどうしてそれ(=あらゆるひとのいちばんの幸福)をもとめたらいゝでせう」と問いかけるのに対して、博士は「あゝわたくしもそれをもとめてゐる」と答え、博士自身も何が「ほんたうの幸福」なのかという問題の答えはまだ持っていないのです。
 そして「最終形態」では、このような博士による導きの言葉もなくなってしまいますので、何が「ほんたうのさいはひ」なのかは、ますます把握しにくくなっています。
 こういった変化と平行して、「初期形三」以降には、燈台守の「なにがしあはせかわからないです」との言葉があったり、ジョバンニの「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう」という疑問に対して、カムパネルラは「僕わからない」とぼんやり云うなど、結局「しあはせ」「さいわひ」の本質については、「わからない」という言葉が繰り返されるようになっていきます。

 賢治自身は、生涯ずっと法華経を篤く信仰していましたから、「ほんたうのさいはひ」が法華経によってもたらされるという考えには変わりはなかったのだろうと思いますが、当初の「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」という具体的な断定は影を潜め、それが何であるかということを云々するよりも、それを「求める」ことこそが重要であるというスタンスに変わっていくようです。
 これは、「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」という「農民芸術概論綱要」の言葉にも、また「学者アラムハラドの見た着物」における「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います」というセララバアドの言葉にも、通じるものでしょう。
 すなわち、「手紙 四」から「銀河鉄道の夜」の諸段階に至る一連の系列においては、「ほんたうのさいはひ」の根底には法華経があるように感じられながらも、「ほんたうのさいはひ」とは何なのか、それを「求め続ける」姿勢や生き方こそが重要であると、賢治は言おうとしているように思われます。

 これに対して、「ポラーノの広場」の草稿に出てきた「(ほんたうの)幸」は、もっと具体的です。
 すなわち、ここではファゼーロたち農民が力を合わせ、技術を身につけ、産業組合の形で醋酸製造や皮革加工を行う工場を運営し、採算的にも軌道に乗っているというのです。このように、楽しく張り合いのある労働によって、生活が豊かになり、また友愛の精神によって皆が結ばれている状態のことが、物語中では「幸」と呼ばれているのだと思われます。
 そしてこのような「幸」は、仲間たちと「いっしょに」追求し実現されているわけですから、「個別的」ではなく「普遍的」であるように十分見えます。また、こういった活動内容は、賢治自身が羅須地人協会によって目ざそうとしていたこととも、部分的には重なり合うと思われますので、このような生活のあり方が、賢治の理想の一つであったということは言えるでしょう。

 ただし、このような具体的な活動による「幸」の追求が包括しうる普遍性と、「銀河鉄道の夜」において示唆されたそれとの間には、かなり大きなギャップがあります。ポラーノの広場の産業組合がうまく行くことで「幸」になれるのは、あくまでその組合の構成員だけであり、その広がりの範囲は、ジョバンニが言う「みんなのほんたうのさいはい」とは、レベルが違うのです。共同体に根ざした産業組合が、現代の大企業のような冷たい組織とは違って、いくら暖かい人間関係にあふれていたとしても、それは所詮「大きな家族」に過ぎず、冒頭で例に挙げたような家族主義の限界を越えられるものではないのです。
 すなわち、「ポラーノの広場」における「幸」は、「銀河鉄道の夜」におけるように段々と曖昧化されていく「お題目」とは異なって、確かな具体性を備えているのですが、一方でその「普遍性」には、根本的な制約があるのです。

 ということで最後に、「普遍的な幸福」を描いたらしい作品としてあと一つ残っている、「虔十公園林」を見てみましょう。
 該当箇所を前回に続きもう一度引用すると、下記のようになっています。アメリカ帰りの学者が、久しぶりに故郷で虔十の植えた杉林を見て、次のように言います。

「こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては。」
「これは全くお考へつきです。さうなれば子供らもどんなにしあはせか知れません。」
 さてみんなその通りになりました。
 芝生のまん中、子供らの林の前に
「虔十公園林」と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。
 昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向ふに小さいながら農園を有ったりしている人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。
 虔十のうちの人たちはほんたうによろこんで泣きました。
 全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。
 そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。

 ここにおいて公園林は、何千人という無数の人々に対して、すなわち普遍性をもって、「本統のさいはひが何だか」を教えたということですが、その「さいはひ」の内実とは、いったい何だったのでしょうか。
 これは、一般的に言われている幸福の概念とは少し違うので、ぱっと読んだだけではわかりにくいですが、文字どおり解釈するとそれは、「公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」が教えてくれる、「何か」です。
 その次の文、それはこの童話を締めくくる最後の文になりますが、そこには「林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出す」と書かれており、前文からの続きとして、これも多くの人々に「本統のさいはひ」を教えてくれているという趣旨なのでしょう。
 ただこれを読んでも、いったい林は何を「教へ」てくれているのか、まだ具体的に把握しにくいですが、ここに「虔十の居た時の通り」という言葉があることが、手がかりになると思います。
 すなわち、この「さいはひ」とは、このような雨や日ざしや空気に接して、虔十その人が体験していたものだったのではないでしょうか。

 「虔十公園林」の冒頭は、次のように始まっています。

 虔十はいつも繩の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいてゐるのでした。
 雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。
 けれどもあんまり子供らが虔十をばかにして笑ふものですから虔十はだんだん笑はないふりをするやうになりました。
 風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立ってゐるのでした。

 ここでは、虔十という人が、「雨の中の青い藪」や、「青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹」や、「風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光る」のを見ると、「よろこんで目をパチパチさせ」、「はねあがって手をたゝいてみんなに知らせ」、「うれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ない」という状態になっていた様子が、描かれています。
 そして、虔十が全身で体感している、このようにどうしようもなく抑えられない喜びこそが、賢治がこの作品で言いたかったところの、「本統のさいはひ」なのではないでしょうか。あえて言葉で説明するとすれば、「自然や生命の躍動を感受し、それと自分自身が共振することの喜び」とでも言えましょうか。
 この「さいはひ」は、「銀河鉄道の夜」や「農民芸術概論綱要」のように、いつたどり着くかもわからない未来に向かって「求め続ける」ものではなくて、まさに「今ここ」に存在し、理屈ではなく身をもって、直接感じるべきものです。

 「虔十公園林」という物語の構成を見ると、このような「本統のさいはひ」を、虔十以外の人は当初感じとることができず、逆にそのように「さいはひ」を享受している虔十がばかにされているところから、話は始まります。
 そして虔十が、地下に粘土層がある野原になぜか「杉苗を植えたい」と言い出したことを契機に、このような関係は変化していきます。土壌の関係で低くしか育たなかった杉林は、しかしその可愛らしさのおかげで、子供たちにとっては最高の遊び場になったのです。

 ところが次の日虔十は納屋で虫喰ひ大豆を拾ってゐましたら林の方でそれはそれは大さわぎが聞えました。
 あっちでもこっちでも号令をかける声ラッパのまね、足ぶみの音それからまるでそこら中の鳥も飛びあがるやうなどっと起るわらひ声、虔十はびっくりしてそっちへ行って見ました。
 すると愕ろいたことは学校帰りの子供らが五十人も集って一列になって歩調をそろへてその杉の木の間を行進してゐるのでした。
 全く杉の列はどこを通っても並木道のやうでした。それに青い服を着たやうな杉の木の方も列を組んであるいてゐるやうに見えるのですから子供らのよろこび加減と云ったらとてもありません、みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐるのでした。
 その杉の列には、東京街道ロシヤ街道それから西洋街道といふやうにずんずん名前がついて行きました。
 虔十もよろこんで杉のこっちにかくれながら口を大きくあいてはあはあ笑ひました。
 それからはもう毎日毎日子供らが集まりました。

 ここで子供たちは、「みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐる」のです。あまりの喜びに、子供たちは我を忘れて興奮してしまっており、これはお話の冒頭では、自分たちがばかにして笑っていた虔十の、興奮を抑えられない様子そのものに化しているわけです。
 すわなち、当初は虔十だけがこの「本統のさいはひ」を感じることができて、そのために彼は皆にばかにされていたのですが、彼が杉林を作ったおかげで、子供たちもその「さいはひ」を体感できるようになり、虔十と同じく我を忘れて喜べるようになったのです。

 つまり、「虔十公園林」という小さな人工林とは、そのままではごく限られた人しか感じとれないような、自然や生命の躍動、その美しさを、多くの人に感じとりやすい形に変換してくれる、巧妙な「翻訳装置」だったのです。
 生のままのアモルファスな自然の美は、そのままでは一部の人間にしか感受されないかもしれませんが、等高の杉が規則正しく植えられ、綺麗に枝打ちをされることで生まれた、幾何学的な文様の持つ美や律動性は、全ての子供たちにも一目瞭然だったのです。そして、いったんこの幾何学的リズムを身をもって体感できたからこそ、次いで今度は「杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」という本来の自然そのものが、実はどれほどの美と心地よさを湛えているのかということに気づくことができて、結局これは「何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へる」結果となったのです。

 一般には、「虔十公園林」という童話は、「デクノボー礼賛」として読まれることが多く、その見方によれば、これは「たとえ能力は劣っていても、それでも人のために良いことを行えることはあるのだ」という、逆説の不思議を描いたお話になります。
 しかし、上のように見てくると、話の本質は全く異なってきます。これは、誰も及ばない稀有な能力を備えた一人の男がいて、当初その能力は人に理解されなかったが、彼が作ってくれた「翻訳装置」のおかげで、他の人々もその能力を分かち持てるようになり、皆が「本統のさいはひ」を共に享受できるようになったという、一つの「英雄譚」なのです。
 それとともに作者賢治は、そのような装置を用いるか否かはともかく、自然や生命の躍動と美を感受し、自らもそれらと共に打ち震えることは、本来は全ての人々に開かれている喜びであり、これが普遍性を持った「本統のさいはひ」なのだということを、言おうとしたのだと思います。

 そして、このように考えてくると、「虔十」と「賢治」が、だんだんと重なり合って感じられてきます。
 ご存じのように、「兄妹像手帳」に賢治が残していたメモの中には、彼が自分の名前を「Kenjü Miyazawa」と記しているように見える箇所があり(右写真のようにuにウムラウトが付いている)、これはまさに「Kenju Miyazawaケンジュウ」と読めるものです。また、「ビジテリアン大祭」の草稿第一葉欄外には、「座亜謙什」という人名のようなものが書き込まれており、この「ザアケンジュウ」と読める名前も、「ミヤザワケンジ」に由来するものでしょう。
 すなわち、「ケンジュウ」という名前は、賢治が自らの「別名」としていたような節があるのです。

 そう思って、この「ケンジュウ」を主人公とした童話を見てみると、自然や生き物の素晴らしさに感動して、思わず周囲を驚かすような振る舞いをしてしまったり、またそれによって奇人変人のように思われていたというのは、まさに生前の賢治その人のことです。ですから、「虔十公園林」という作品は、賢治自身のある側面の、「自画像」と言ってもよいものでしょう。
 ではそうなると、虔十が作り上げて生涯をかけて大切にし、彼の名を後世に残すことにもなった「公園林」に相当する「装置」は、賢治の場合には何に当たるのかということが問題になります。虔十が公園林によって実現したように、それまでは自分だけしか感受できずにいたこの世界の素晴らしさを、多くの人に伝えるために、賢治が作ったものは何か……。

 それは明らかに、彼が書いたたくさんの詩や童話などの「作品」です。
 賢治という人は、自らの作品という魔法の「装置」を作ることによって、私たちのような一般人に対しても、この世界がどれほど神秘にあふれ、尽きせぬ美を湛えているかということを、わかりやすく教えてくれたのです。
 彼は、生前はあまり他人からは理解されなかった自らのその営みを、自分の別名を主人公として、寓話化してみせたのです。虔十が拵えておいた「装置」の真の意味が、人々によって心底から認められたのはその死後のことで、そこには名前を刻んだ石碑まで建てられましたが、賢治の場合も、その作品の魔法が多くの人によって本当に理解されるようになったのは、すなわちそれらが真の普遍性を獲得したのは、やはり彼の死後のことでした。
 そして、賢治の作品の石碑は、今や全国各地に建てられています。

 ということで、思わず「虔十公園林」の作品論にまで深入りをしてしまいましたが、賢治がこの童話で「本統のさいはひ」と言っていること、それは突き詰めれば「世界の美の感受と共振」と言えるかと思いますが、これもまた「銀河鉄道の夜」や「ポラーノの広場」と並んで、彼の考える究極の「幸福」の一つのあり方だったのだということを、あらためて私たちはしっかり押さえておく必要があると思います。
 それは、「銀河鉄道の夜」に象徴されるような、求道者的、禁欲的、自己犠牲的な生き方によって、はるか彼方に求める幸福とは対照的に、耽美的、享楽的、刹那的なものであり、今そこにあるものを一瞬にして感じとり身を浸すことにしかすぎませんが、それもまた実は、「本統のさいはひ」なのです。
 思えば私たちの知る賢治その人も、前者の側面だけではなく、後者も兼ね備え、多面的な魅力を放つ人でした。

 「ほんたうのさいはひ」、「いちばんのさいはひ」、「ほんたうのほんたうの幸福」、「あらゆるひとのいちばんの幸福」、「ほんたうの幸」、「まことのみんなの幸」……。表現は微妙に異なっても、これらは賢治の作品を読む上で、あるいは彼の思想を理解する上で、最も重要なキー・ワードの一つであるということには、誰しも異論はないでしょう。「あらゆるひとのいちばんの幸福」を実現することこそが、彼の究極の理想だったとも言えます。
 それでは、賢治の言うこの「ほんたうのさいはひ」とは、具体的にはどういうものなのか、彼は実際に何がどうなっている状態を目ざそうとしていたのかということが問題になってきますが、皆様もご存じのとおり、これがなかなか難しいのです。

 これについて考えてみるために、今回はまずこれらの言葉が、実際の作品の中でどのように現れるのかということを、確認してみます。
 『新校本宮澤賢治全集』の「別巻」には、賢治の全作品に登場する語句を網羅した、とても有難い「索引」が掲載されていますが、これで「幸福」「幸」「さいはい」「さいはひ」「さいわい」「さひはひ」「しあはせ」「しあわせ」という語句を検索し、それぞれの作品名を赤字で付記すると、下のようになります。索引の丸数字は『新校本全集』の巻数を、正体数字はその「本文篇」のページ数、斜体数字は「校異篇」のページ数を表しています。「銀河鉄道の夜」に関しては、題名を省略して「初期形一」「初期形二」「初期形三」「最終形態」とだけ記しています。

索引1

索引2

索引3

索引5

索引6

 画像の2枚目以降では、「銀河鉄道の夜」に関しては作品名の付記も省略しましたが、第10巻「本文篇」のp.16-28が「初期形一」、p.111-131が「初期形二」、p.132-177、および同「校異篇」p.77-110が「初期形三」、第11巻「本文篇」のp.123-171、および同「校異篇」p.176-223が「最終形態」です。

 一見して明らかなように、「銀河鉄道の夜」における使用が目立って多いです。それ以外の作品としては、「貝の火」、「よく利く薬とえらい薬」、「手紙 四」、「虔十公園林」、「ポラーノの広場」があります。
 ここではまず、「銀河鉄道の夜」以外の作品を順に見てみます。

 「貝の火」には、「さいはひ」という言葉が次のように出てきます。

お父さんが腕を組んでじっと考へてゐましたがやがてホモイのせなかを静かに叩いて云ひました。
「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ。目はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな。」

 ここでは、宝珠とともに視力も失ったホモイをお父さんが慰めていますが、何が「一番さいはひ」なのだと言っているのかというと、ホモイが「慢心」ということの恐ろしさを、知ることができたことに対してです。

 次に、「よく利く薬とえらい薬」です。

 ところが近くの町に大三といふものがありました。この人はからだがまるで象のやうにふとって、それににせ金使ひでしたから、にせ金ととりかへたほんたうのお金も沢山持ってゐましたし、それに誰もにせ金使ひだということを知りませんでしたから、自分だけではまあこれが人間のさいはいといふものでおれといふものもずゐぶんえらいもんだと思って居ました。

 ここでは「にせ金使ひ」が、自分が金持ちであることをもって、「人間のさいはい」と思っています。

 「手紙 四」には、次のように出てきます。

けれども私にこの手紙を云ひつけたひとが云つてゐました「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである。チユンセがもし勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向つて進まないか。」

 ここでは、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」と言明され、さらに「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」と断定されています。

 「虔十公園林」では、下のようになっています。

「こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては。」
「これは全くお考へつきです。さうなれば子供らもどんなにしあはせか知れません。」
 さてみんなその通りになりました。
 芝生のまん中、子供らの林の前に
「虔十公園林」と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。
 昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向ふに小さいながら農園を有ったりしている人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。
 虔十のうちの人たちはほんたうによろこんで泣きました。
 全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。
 そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。

 ここに出てくる「本統のさいはひ」は、ちょっと他の例とは異なっていて、何が「さいはひ」なのかわかりにくいですが、「公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」などが、人々にもたらしてくれる「美の享受」ということかと思われます。

 最後に「ポラーノの広場」の草稿段階には「幸」が3か所、次のように出てきます。

「あぶなかったねえ、ほんたうにきみはそれでだったんだよ」

「ぼくらはみんなんで一生けん命ポラーノの広場をさがした。そしてぼくらはいっしょにもっとにならうと思った。」

「さうだあの人たちが女のことを考へたりお互の間の喧嘩のことでつかふ力をみんなぼくらのほんたうの幸をもってくることにつかふ。見たまへ諸君はまもなくあれらの人たちにくらべて倍の力を得るだらう。」

 上記に出てくる「幸」は、全てその後の推敲で削除されてしまうのですが、一番目のものは単に「幸運」という意味であるのに対して、二番目と三番目の「幸」は、広場の協同組合設立による、経済的・文化的な豊かさと友愛ということになるかと思います。

 次に「銀河鉄道の夜」は、初期形から順番に見ていきます。
 まず、「初期形一」。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」「あゝではさよなら。」博士はちょっとジョバンニの胸のあたりにさわったと思ふともうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。

 「初期形二」では、次のようになっています。

 ジョバンニはなんだかとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなって、殊にあの鷺をつかまへてよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をちらちら横目で見て愕いたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。」カムパネルラはさうは云ってゐましたけれどもジョバンニはどうしてもそれがほんたうに強い気持から出てゐないやうな気がして何とも云へずさびしいのでした。

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。
「あゝではさよなら。これはさっきの切符です。」博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。

 

 「銀河鉄道の夜」初期形三には、このように出てきます。

「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばんなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

 ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあはてゝほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけやうとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげやうと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。」

「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
 燈台守がなぐさめてゐました。
「あゝさうです。たゞいちばんのさいわひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るやうにさう答へました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」

「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」「あゝ、ぼくはきっとさうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいゝでせう。」「あゝわたくしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。」

「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福なそのひとのために!

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。「あゝではさよなら。これはさっきの切符です。」博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。

 そして最後に、「銀河鉄道の夜」最終形態では、次のようになっています。

「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばんなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

 ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあはてゝほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけやうとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげやうと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。」

「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
 燈台守がなぐさめてゐました。
「あゝさうです。たゞいちばんのさいわひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るやうにさう答へました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」

 ということで、検討のための材料は以上で揃ったのですが、ここまでの作業で時間がなくなってしまいましたので、すみませんが続きは次回にしたいと思います。尻切れトンボになってしまって、誠に申しわけありません。

 ただ次回に書こうと思っている事柄を、あらかじめ少し述べておきますと、賢治の言う「ほんたうのさいはひ」には、「手紙 四」から「銀河鉄道の夜」の「初期形一」→「初期形二」→「初期形三」→「最終形態」に至る系列と、「ポラーノの広場」に出てくるものと、「虔十公園林」と、それぞれニュアンスの異なった少なくとも三つの種類があるのではないかということ、そして私自身は、とりわけ「虔十公園林」に注目してみたい、ということです。

前十七等官 レオーノキュースト 誌
宮沢賢治 訳述

そのころわたくしはモリーオ市の博物局に勤めて居りました。
十八等官でしたから役所のなかでもずうっと下の方でしたし俸給もほんのわづかでしたが、受持ちが標本の採集や整理で生れ付き、好きなことでしたからわたくしは毎日ずゐぶん愉快にはたらきました。殊にそのころ、モリーオ市では競馬場を植物園に拵え直すといふので、その景色のいゝまはりにアカシヤを植え込んだ広い地面が、切符売場や信号所の建物のついたまゝわたくしどもの役所の方へまはって来たものですからわたくしはすぐ宿直といふ名前で月賦で買った小さな蓄音器と二十枚ばかりのレコードをもってその番小屋にひとり住むことになりました。わたくしはそこの馬を置く場所に板で小さなしきゐをつけて一疋の山羊を飼ひました。毎朝その乳をしぼってつめたいパンをひたしてたべ、それから黒い革のかばんへすこしの書類や雑誌を入れ、靴もきれいにみがき、並木のポプラの影法師を大股にわたって市の役所へ出て行くのでした。あのイーハトーヴォのすきとほった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波、・・・

 「ポラーノの広場」のこの書き出し部分は、数ある賢治の作品の中でも、とくに素敵なものの一つです。それこそ、「イーハトーヴォのすきとほった風」が、読む者の心をも吹き抜けていくような感じがします。
 最後の箇所は、Mac でフォントを管理する Font Book というアプリケーションで、書体見本としても使われていますので、馴染みのある方も多いことでしょう。

 このような場所(=イーハトーヴォ)が、ほんとうに実在するとしたらいったいどんな所なのだろうというのは、賢治ファンならば誰しも考えてみたくなってしまうところですね。
 賢治のいろんな作品に、いろんな形で「イーハトーヴォ」は登場しますが、ここでは「モリーオ市の競馬場の番小屋」が、レオーノキューストの住まいとして設定されています。お話の中でレオーノキューストは、自ら「わたしは競馬場に居るからねえ」と名乗り、ファゼーロも彼を仲間たちに、「競馬場に居る人なんだよ」と紹介しています。
 上に描写されたキューストの競馬場における一人暮らしは、簡素ながら洗練されていて、お洒落な雰囲気も漂っています。ここを舞台に、これから「ポラーノの広場」の物語が展開していくわけですね。

 さて、賢治の作品において「モリーオ市」というのは、現実世界の「盛岡市」に対応しますが、「競馬場を植物園に拵え直す」という話が、私としてはここでちょっと気になりました。実際にこの頃、盛岡の競馬場が何かに転用されるということがあったのでしょうか。
 そんなことを思いつつ、盛岡競馬場の歴史について調べてみました。

『いわての競馬史』

 『いわての競馬史』(岩手県競馬組合,1983)という本を見てみると、盛岡の競馬場は、次のような歴史をたどってきたということです。

明治初期まで: 八幡宮境内の馬場で競馬が行われていた。
1871年(明治4年): 産馬会が盛岡市菜園に長さ1000mの
     楕円形馬場を新設。
1903年(明治36年): 競馬会が盛岡市上田に1000mの
     近代的馬場を新設し、11月に記念競馬を開催。
     その直後、閑院宮載仁親王が盛岡を訪れ、特別競馬会
     を開催。臨席した親王は、競馬場近くの「黄金清水」に
     ちなんで、ここを「黄金競馬場」と命名した。
     毎年春秋2回、3日間ずつ開かれた競馬は、優良馬育成
     を目的とした生産地競馬として発展。1日6レースから
     8レースを行い、東北一の規模として名を挙げた。
1932年(昭和7年): 一帯の耕地整理の関係から、競馬場を
     近くの毛無森に移転。翌1933年11月、新設記念競馬会
     にて1周1600mの「新黄金競馬場」がオープンした。
1996年(平成8年): 盛岡市新庄の現・盛岡競馬場に移転。
     愛称の「OROパーク」は、昔の「黄金競馬場」にちなみ
     スペイン語の「黄金 ORO」からとられている。

 このように盛岡競馬場は、1932年に移転をしているわけです。そしてこれは、賢治が「ポラーノの広場」の草稿を完成させたと言われている1931年-1932年という時期に、ちょうど重なり合うのです。
 つまり、賢治が「ポランの広場」から「ポラーノの広場」へと改作を行い、その推敲を行っている時期に、彼は盛岡の競馬場が移転になるという話を、きっと耳にしたはずなのです。それを聞いた賢治は、競馬場の広い跡地についていろいろと想像をめぐらせるうちに、「そのころ、モリーオ市では競馬場を植物園に拵え直すといふので…」という形で、作品の舞台装置に取りこんだのではないでしょうか。

 賢治が実際に、盛岡市上田のこの旧黄金競馬場を訪れたことがあったのかどうかは、よくわかりません。しかし、この上田地区というのは、彼が青春時代を過ごした盛岡中学や、盛岡高等農林学校もあった場所です。賢治が昔を懐かしみ、この若き日の思い出深い地区の競馬場の跡地に、自らの分身とも言うべきレオーノキューストを住まわせようとしたということは、十分に考えられるのではないでしょうか。
 私には、そんな気がします。

 ということで、レオーノキューストが一人で暮らしていたという可能性のある、この(旧)黄金競馬場の場所について、詳しく調べてみることにしました。

 まず大まかな位置を知っておくために、『いわての競馬史』に掲載されている、「黄金競馬場新旧略図」を見ておきます。下の図は、その一部分です。

黄金競馬場新旧略図

 左下の方にある「元 黄金競馬場」が、1932年までの旧競馬場、右上の「新 黄金競馬場」が、1933年以降の移転先です。
 右方の「高松池」は、現在も盛岡の観光地の一つで、賢治は盛岡高等農林学校に入学して間もなく、同室の高橋秀松を誘って盛岡の案内をした際にも、この池を訪れています。また文語詩「氷上」は、中学時代にこの高松池でスケートをした時の情景に基づいていると推測されています。

 次に、上に相当する箇所をさらに詳しく、当時の2万5千分の1の地図で見てみましょう。
 まず下の地図が、競馬場移転前の1911年(明治44年)測図、1916年(大正5年)発行の、2万5千分の1「盛岡」です。旧競馬場は、「黄金馬場」として掲載されています。下の方に「高等農林学校」があります。

2万5千分の1地形図「盛岡」(大正5年発行)

 そして今度は下の地図が、移転後の1939年(昭和14年)に修正測図、1941年(昭和16年)発行のものです。右上の「黄金競馬場」が、新競馬場です。

2万5千分の1地形図「盛岡」(昭和16年発行)

 最後に、現在の2万5千分の1の地形図(平成10年発行「盛岡」)で同じ箇所を見ると、下のようになっています。
 1933年から1996年まで使われた「新・黄金競馬場」の方は、やはり今も右上にはっきりと確認できます。一方、1932年までの「旧・黄金競馬場」は、今はどうなっているのでしょうか。
 その場所を確認するためには、地図の下の「旧黄金競馬場跡地は?」というボタンを、クリックしてみて下さい。

2万5千分の1「盛岡」(平成25年発行)


 地図上で緑色に点滅している箇所が、旧黄金競馬場跡地です。今はすっかり住宅地になっていますが、この住宅の中をめぐる道路の形に、ここでちょっとご注目下さい。
 驚くべきことに、競馬場の北東側半分の輪郭に沿って、今も道路が楕円の形に浮かび上がって見えるではありませんか!

 この部分をさらに詳しく見てみるために、三つの地図の「旧黄金競馬場」の箇所を拡大すると、下のようになっています。

旧黄金競馬場(大正5年)

旧黄金競馬場跡地

旧黄金馬場跡地

 二番目の昭和16年発行の地形図では、競馬場のあったところは完全に農地になっていますが、ここでも元の競馬場の外周に沿って、まるで競馬場の痕跡を示すかのように、「点々」と軌跡が描かれているのがわかります。これは、地図上では「土囲」を表す記号だということで、あらためて一番上の地形図を確認すると、ここでも競馬場の東半分にそって、やはり「土囲」の記号があるのがわかります。
 競馬場が撤去された後も残っていたこの「土囲」に沿って、さらに後に道路が形成されたということなのでしょう。三番目の地図でよく見ると、この楕円形の道路に沿って、等高線も走っているのがわかります。

 一方、現代の Google マップでこの部分をもう少し拡大してみると、下のようになります。

 Googleマップはベクター画像になっているせいもあってか、ちょっと角々した印象もありますが、それでもやはり「楕円形の半分」という感じはありますね。

 ところで気になるのは、このあたりは現在はどうなっているのだろう、ということです。その昔にレオーノキューストが住んでいたという競馬場跡地に、今はどんな風景が広がっているのでしょうか。
 ということで、世界中の街並みを居ながらにして見られる Google マップのストリートビューで、ここをちょっとのぞいてみましょう。

 下の「スタート」ボタンをクリックしていただくと、上の地図の(A)地点から(B)地点までを、ストリートビューの画像によって、コマ送り動画のようにたどることができます。


   

 途中、「バックストレート」のように直線的な道路が続く箇所もありますが、初めの方と半ば過ぎでは、道が右へ右へとカーブしていくのがおわかりいただけるかと思います。
 あるいは、ここをクリックしていただくと、(A)地点におけるストリートビューが開きますので、道路に標示される矢印をクリックしながら、実際に経路をたどって体験していただくこともできます。

 全体として、何となく「半楕円形」になっていることを、お感じいただけたでしょうか。

 あと、当時の「黄金競馬場」がいったいどんな様子だったのだろうというのも、確認しておきましょう。今回お世話になっている『いわての競馬史』を参照すると、当時の写真が3枚ほど掲載されています。
 まず下の写真は、後方の山が「八幡山」と推測されることから、競馬場全体を南西の方向から撮ったものかと思われます。柵の形から、何となく「楕円っぽい」感じがわかります。

旧黄金競馬場1

 下の写真も、後方の山はやはり「八幡山」かと思われます。なかなかスピード感がありますが、この走路は八幡山の側のように見えますので、上で見た住宅地の中に残る道路と、同じ側にあたるのではないでしょうか。

旧黄金競馬場2

 最後に、当時の盛岡競馬場では、下のように車をつないだ「繋駕速歩競走」というのも行われていたということです。

旧黄金競馬場3

 こういうレースが行われていたのも、「優良馬育成」という実際的な目的もある生産地競馬ならではなのでしょう。この写真には、「昭和5年6月3日」と日付も入っています。

 というようなわけで、その昔にレオーノキューストが住んでいたと舞台設定されていた場所は、現在の「盛岡市高松2丁目」あたりなのではないか・・・という、半分はお遊びの調査でした。
 しかし昔の競馬場の形が、80年以上を経た現在も、住宅地の道路に残っているというのはちょっと嬉しい驚きで、レオーノキューストがファゼーロに語りかける次のような言葉が、ふと聞こえてくるような気持ちもしたものでした。

「おや、ぼくは地図をよくわからないなあ、どっちが西だらう。」
「上の方が北だよ。さう置いてごらん。」 ファゼーロはおもての景色と合せて地図を床に置きました。「そら、こっちが東でこっちが西さ。いまぼくらのいるのはこゝだよ。この円くなった競馬場のこゝのとこさ。」

東山地区のポラーノの広場

 前回の記事「産業組合のトラウマ?」では、「昭和前期の農村地域における<共同体>の編成とその機能)―産業組合の事例を中心に―」という論文をご紹介し、その中には1935年(昭和10年)に刊行された本に、岩手県の産業組合青年組織が「『演劇部を設け』農村劇を演じることで『農村文化運動』を行った」という記述があることに触れました。
 すなわち、賢治が花巻農学校で実践し、本当は羅須地人協会でもやりたかっただろう「農村演劇」を、彼の没後まだ間もない時期に、岩手県内で実際に行った若者たちがいたというわけです。これは非常に興味を惹かれる話でしたので、今日は国会図書館関西館でちょっと調べてみました。

 この記述の出典は、西尾愛治編『産青聯の活動事例』(成美堂書店,1935)という本で、国会図書館ではすでにデジタルデータ化されているのですが、「館内限定閲覧」になっているのでインターネットで見ることはできず、図書館まで足を運ぶ必要があったわけです。

 で、下の写真が、『産青聯の活動事例』の中で「岩手県における演劇活動」について紹介している箇所です。

『産青聯の活動事例』

 内容を書き起こすと、以下のとおり。

     二、岩手縣産青聯田河津支部の演劇部設置
              依・岩手の盟友第二七號

 最近岩手縣東磐井に於ける田河津支部の活動は最も目覺ましいものがあり、組合員の教育活動も次第に組合員の覺醒を促し其の姿は最近支部の事業に當つて積極的援助となつて現はれ、組合員は着々産業組合に對する認識を高め、かへつて組合員から部落座談會の提唱が擧げられる等、次第に理想の産業組合組織形態に進みつゝあるが、同支部ではこれに力を得、更に支部の陣容を整備刷新する事になり、兼て計畫中の女子部を設置消費經濟を中心として活發な婦人運動を展開する筈であるが又同時に演劇部を設け各部員をそれぞれ決定、農村文化運動の達成に向つて一大烽火を擧げる事となつたが、岩手縣産青聯の中堅として根強い青年運動を續けて行く東磐井各支部の活動に強豪田河津を中心として今や活發な實践の繪卷を展開して來た。

 ということで、岩手県内で演劇活動を始めたという産業組合青年連盟は、東磐井郡の「田河津支部」だったのです。
 この『産青聯の活動事例』という本には、他の産青連で「演劇」を行っているという報告は見当たりませんでしたので、この田河津村では、全国的に見てもかなり早期に、「農民劇」が発足したということでしょう。

 「田河津村(たこうづむら)」は、岩手県南部にあった村で、現在は一関市東山町の一部になっています。

旧東山町

 田河津村の合併の歴史をたどると、1955年(昭和30年)に長坂村と合併して「東山村」に、さらに1958年(昭和33年)にはその東山村と松川村が合併して「東山町」となり、長らくこの状態が続いていましたが、2005年(平成17年)に一関市に吸収合併されました。
 上の地図で水色を付けた部分が、旧「東山町」に属した三つの村です。このあたりは、花巻からはかなり遠く離れていますが、しかし松川村は「東北砕石工場」があった場所、長坂村はその工場長の鈴木東蔵の出身地ということで、賢治との縁は、かなり深い地区です。

 賢治は1931年(昭和6年)に、このあたりに足繁く通ったわけですが、その際に賢治と田河津村の青年との間に何らかの接触があって、それがもしかして後にこの地区に、全国でも先駆的な演劇活動を始めさせる要因になったとすれば、とても胸が躍ることです。
 たとえば、田河津村出身で東北砕石工場の工員となっている青年がいて、たまたま休憩の時などに、賢治が農学校で上演した劇の話や、農民劇を通した農村文化振興の意義について、お茶を飲みながら話を聞いていたとしたら・・・、そして青年がその後、あの先生の言っていた農民劇を村でやってみたいと一念発起したら・・・ということなどを、私はつい想像してみたくなります。
 賢治は、東北砕石工場に来るたびに、タオルや、「唇がくっつくような」上等の米や、小さな布袋に入ったお菓子などのお土産を工員たちのために持参し、工員と一緒にお茶を飲みつついろんな話をしたということです。
 鈴木東蔵の長男の鈴木實氏は、賢治と工員たちの関係について、次のように回想しています。

賢治の帰った後の工場には、賢治を思慕する異様な空気が残っていて、その不思議な存在を私は肌で感じていた。(中略)
賢治が来訪しますと、数日はきまって賢治のまねなどをしながらその話が続きました。賢治と東蔵両者の関係も良好なスタートでしたが、賢治はさらにあのような工員たちにふれ、この人達のためにもと、努力の決意を固めたのではないでしょうか。貞治(引用者注:東蔵の叔父)がよく命をうけて花巻に行きますと、賢治は「工場が困るから、工場が困るから」といつも工場のことを心配していたと語っていました。これがまた工員たちに伝わり、賢治と工員たちの心は一体となっていきました。(鈴木實『宮澤賢治と東山』より)

 ひょっとして、このような賢治と工員たちとの暖かい交流によって偶然にも播かれた種が、賢治の没後に芽を吹いていたのだったら、どんなに素晴らしいことでしょうか。

 まあ、こんな勝手な空想の真偽については、今となっては確かめようもありませんが、元来この東山町というところは、青年の文化的活動は昔から盛んな土地だったようです。
 鈴木東蔵が長坂村役場の書記時代には、青年たちを集めて「演芸発表会」を行っていたということですし、その著書『理想郷の創造』には次のような一節があり、「音楽や演劇」を若者に推奨しています。

娯楽と教化を同時に与えるような音楽や演劇は楽しんでいるうちに、知識を広め、趣味を高め、品性を陶冶する効果は計り知れない。(中略)精神的に娯楽を得ている住民は、終日の労働で疲労している身体も、別天地に遊べれば、翌日また元気が回復して大いに働けるようになる。(伊藤良治『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』より)

 一方、その長男の鈴木實氏は戦後まもない時期に、青年たちとともに賢治の作品を読む学習会を長坂村で行い、この青年の集まりが発展する形で、1948年に賢治の「農民芸術概論綱要」の一節を刻んだ碑が、村に建てられることになりました。
 これが、谷川徹三揮毫による、「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」の碑です。賢治の碑としては、その元祖たる花巻の「雨ニモマケズ」詩碑に次いで、全国で二番目にできたものでした。
 鈴木實氏と青年たちが、賢治の作品の中で最も深い共感を寄せたのが「ポラーノの広場」であったというのも、産業組合的な青年組織を象徴するものとして、示唆的です。

 結局、田河津村と賢治との間の、具体的なつながりの有無はわからないのですが、賢治の死後もこのあたりの土地には、その縁がずっと息づいていたことだけは確かです。

賢治碑除幕式記念撮影
賢治碑除幕式記念撮影
(伊藤良治『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』より)

 本年度の宮沢賢治賞奨励賞を受賞された大島丈志さんの著書、『宮沢賢治の農業と文学―過酷な大地イーハトーブの中で』という本を読みました。

宮沢賢治の農業と文学―苛酷な大地イーハトーブの中で 宮沢賢治の農業と文学―苛酷な大地イーハトーブの中で
大島 丈志

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 目次は、下記のようになっています。

序章 宮沢賢治の生涯と農業 考察の方法

第一章 盛岡高等農林学校の幻影 羅須地人協会以前
  1 「チュウリップの幻術」という装置
  2 「紫紺染について」
  3 「農民芸術」が生まれる土壌
  4 十六人の百姓の行方

第二章 投企する農業技術者 「農民芸術概論綱要」・羅須地人協会時代
  1 詩「第三芸術」から「農民芸術概論綱要」へ
  2 詩「産業組合青年会」をめぐって
  3 農夫へのまなざし 文語詩「副業」を読む
  4 「〔或る農学生の日誌〕」における一農民の孤独

第三章 羅須地人協会時代以降 「グスコーブドリの伝記」を中心に
  1 「ポラーノの広場」論
  2 「グスコーブドリの伝記」論
  3 一九二〇~一九三〇年代における宮沢賢治の農業思想
   

補論 宮沢賢治作品と同時代の潮流
  1 「雪渡り」論
  2 「鳥箱先生とフゥねずみ」における不条理の構造
  3 「烏の北斗七星」を読み直す

 この本は、著者がこれまでに書かれた論文を集成したもので、「補論」を除き、何らかの形で農業に関連した主題を扱っています。
 宮澤賢治という人が、農学を修め、農学校の教師をして、さらに自らも農耕に携わって青年たちと「協会」を作るなどの活動を行ったことは、よく知られています。そしてその作品を読む者は誰しも、農業や農民に対する賢治の深い思い入れに、直に触れることができます。
 しかし、その実際の活動や農業思想の位置づけ・評価については、まだ十分な研究がなされているとは言えません。著者の言葉を借りれば、次のような現状があります。

 農業に関わった宮沢賢治、というイメージは溢れているものの、賢治・賢治作品と農業とはどのような関係にあったのか、また農業実践の内実はいかなるものであったのか、さらに同時代の中でどう位置づけられるのかは解明されておらず、問題は山積しているのである。

 この本に収められている数々の論考は、まさにこの山積した問題に対して、緻密に実証的に迫ろうとしたものです。なかでも圧巻なのは、「第二章 投企する農業技術者」と「第三章 羅須地人協会以降」の部分で、ここで著者は賢治の実践や思想に迫るために、たとえば当時の岩手県農会や産業組合に関する基礎的な文献を丹念に調査し、また農業統計データはグラフ化して考察するなどして、賢治の行動や思考をその背景から浮き彫りにしていきます。

 なかでも私にとって印象深かったのは、第二章の章題「投企する農業技術者」という言葉にも込められていることですが、賢治が行った「肥料設計」の特徴として、「化学肥料を多く使用し大増収を狙うという山師のような」(本書p.176)傾向があったという指摘です。当時、岩手県農会も一種のモデル事業として、少数の農家を対象に「農業経営の設計作成からその実施」を指導していたということなのですが、この県農会による肥料設計と比較すると、賢治のそれの方が化学肥料の比率が高く、「多肥多収」を目ざすものだったというのです。
 まあこのことは、すでに川原仁左エ門『宮沢賢治とその周辺』にも書かれていたのを私が不勉強にも知らなかっただけなのですが、本書において著者はこれを指摘した上で、賢治がこのような方針で農業指導をしていた背景について、「先づ経済生活を潤沢にして後精神生活に覚醒を来させる」(賢治の言葉として『岩手県農会報』1928に掲載)という考えがあったからだろうと考察しておられます。

 現代における賢治のイメージは、「エコロジー」や「オーガニック」などの言葉と関連づけられやすいと思いますので、化学肥料をどしどし使っていたというのはちょっと意外な感じもしますが、技術者としての賢治の基盤は高等農林学校で身につけた近代科学であり、その中でも最も惹かれていたのが「化学」だったわけですから、この流れはある意味で自然なことです。
 あるいは、このように多少の無理をしてでも一挙に増収を狙うという「山師」的な部分は、どこか賢治の性向と親和性があるのかもしれません。本書でも指摘されているように、「巨利を獲るてふ副業」(文語詩「副業」)に精を出す青年や、「グスコーブドリの伝記」に出てくる山師の「赤髭の主人」に、賢治がどこかで共感を寄せていることとも、これはつながるものでしょう。

 また、これとも関連することですが、従来の多くの研究者は賢治が理想としていたのは「農村における自給自足経済」であると考えていたのに対して、著者は、「自給自足経済と花巻という地域を超えた商品経済とを複合したハイブリッドなもの」(p.197)であったと結論づけています。

 このように、本書において著者は、賢治と農業の関わりについてこれまでの研究者が述べてきたことや、漠然とイメージとして語られてきたことに疑問を投げかけ、丁寧な論証によって、その従来とは異なった側面に光を当てていきます。
 私自身、これほどの調査には足元にも及びませんが、少し前に「何をやっても間に合はない」という記事を書く際に、当時の農家副業の実情について若干調べてみたことがありましたので、いろいろと共感しつつ読むことができました。

 ところで、この本を読みつつ私があらためて大きな疑問として感じたのは、賢治は農業を進歩させたい、農村をよりよく変えたいと強く望み、いろいろ工夫しながら活動を行ったにもかかわらず、その過程においては、「系統農会」と「産業組合」という当時の農村における二大組織に積極的に関わったり、自分の理想実現のために協調したりしなかったのは、いったい何故なんだろうか、ということです。

 川原仁左エ門氏が『宮沢賢治とその周辺』に記録しているように、賢治は盛岡市の「岩手県農会」の事務所にはよく立ち寄り、全国各地の農会報をチェックしたり、農業関係の蔵書を閲覧したりして知識を仕入れるとともに、盛岡農林学校の同窓生で岩手県農会技師をしていた大森堅弥とは、論戦もしていたということです。
 しかし、農会として「岩手甘藍」を何とか岩手の特産物にしようと考え、稗貫地方も適地であることから大森技師が賢治に相談した際には、「こういう仕事は私にはむきません」とあっさり断ってしまったということです。また、地元の「稗貫郡農会」や「花巻川口町農会」に、賢治が何かの関わりを持ったという話も聞いたことはありません。
 大島丈志氏が書いているように、「農会との間に距離があった」のです。

 また産業組合に関しては、農学校教師時代に有名な「産業組合青年会」(「春と修羅 第二集」)という作品があり、この時に賢治が何らかの形で産業組合の青年組織と関わりを持ったことは確かと思われますが、それ以外には産業組合に関係する記録は目にしません。
 賢治は羅須地人協会において、農産物の物々交換を行ったり、食品加工・工芸品製作などもしようと考えていたようです。また「種苗協会」のようなものを構想していたという教え子の回想もあり、これらはいずれも一種の産業組合的活動です。さらに「ポラーノの広場」も、ある産業組合設立の苦労と成功を描いた作品と言えます。
 つまり賢治は、農村における産業組合活動に対して、かなり積極的な希望を託していたと思うのですが、現実には産業組合と関係する活動を行わなかったのは、いったいどうしてなのでしょうか。

 当時、花巻川口町や花巻町には、農村産業組合はありませんでした。しかし羅須地人協会時代の賢治は、農業に関する相談や指導のために、花巻近郊の太田村、湯口村、湯本村、好地村、八幡村、矢沢村などを巡っており(たとえば「〔澱った光の澱の底〕」)、これらの村には、それぞれの産業組合があったのです。講演や指導に行った際に、もし地元の産業組合の関係者と接触することができたなら、賢治の知識やアイディアを持ってすれば、その「顧問」的な役割を担うこともできたのではないでしょうか。
 個人的に「無料の肥料設計」をするだけでなく、既存の組合を通しての組織的活動に関わることができれば、もっと系統的な形で、農業知識の普及や新たな企画に取り組めたのではないかと思うのですが、どんなものでしょうか。

 繰り返すと、「賢治がその農業実践活動において、農会や産業組合という団体・組織から距離を置き、積極的に関わろうとしなかったのはなぜなのか?」というのが私の疑問です。
 これは、賢治が「〔或る農学生の日誌〕」において主人公に、「ぼくはどこへも相談に行くとこがない」と悲痛な叫びを上げさせているところの、深刻な「孤独」と通底するものではないかとも、私には思えるのです。

 この疑問の答えはまだ私にはわかりませんが、一つの要因としてふと思うのは、賢治は「産業組合青年会」という作品に記録した1924年10月5日の夜、産業組合青年会の場で体験した出来事が、一つのトラウマとして心に残り、このような団体に関わることを躊躇させたのではないか・・・ということです。
 しかしこれ以上の個人的詮索は、また別の機会に譲りましょう。

 大島丈志氏の素晴らしい本は、いろいろなことを考えさせてくれました。

三陸の賢治詩碑の現況(1)

 下の地図のように、三陸海岸沿いにはかなり多くの賢治の詩碑や歌碑が建てられています(建てられていました)。その中には、「津波ニモマケズ 宮沢賢治の詩碑 耐えた」という東京新聞の記事のような感動的な報道によって、その消息を知ることができたものもありますが、他の碑がどうなっているのか、あまり情報はありませんでした。
 未曾有の津波被害を受けた地域の賢治詩碑は、今どのような状況にあるのか・・・。石碑フリークの私としては、このことが以前から心に引っかかっていたのです。


(地図上のマーカーをクリックすると、碑の写真と説明へのリンクが表示されます)

 私は去る11月24日25日に、宮城県石巻市の医療支援に行っていたのですが、その前後に個人的に時間をとって、津波を受けた三陸地方の賢治詩碑の状態を、一部見てきました。
 今回は、塩竃と石巻の詩碑、上の地図では(1)および(2)の碑のご報告です。


 「ポラーノの広場」碑

 昨年3月に、宮城県塩竃市港町の岸壁沿いに「シオーモの小径」という散策路が作られました。塩竃は、日本三景・松島観光の拠点でもあり、明治以来たくさんの文人が訪れて作品に詠みこんでいますが、ここはそれら数多の文学碑を美しく配列した、情緒あふれるスポットでした。正岡子規、北原白秋、若山牧水、与謝野晶子、斎藤茂吉、田山花袋など綺羅星のような石碑群の中の一つとして、賢治の「ポラーノの広場」の一節を刻んだ碑も建てられました。
 私は、昨年3月この一角が整備されて間もない頃に、ここを訪ねてみたことがあり、その時の様子は「シオーモの小径」というブログ記事にも書きました。当時の「シオーモの小径」の入口は、下の写真のようでした。

「シオーモの小径」2010年3月21日

 この散策路が「シオーモの小径」と名付けられたのは、もちろん賢治の「ポラーノの広場」において、塩竃をモデルにした街がエスペラント風の「シオーモ」という名前を冠されて登場することに基づいています。この道の名付け親とも言える賢治の碑は、他の誰にも負けぬ意匠と工夫を凝らされた、見事なものでした。 その姿は、「ポラーノの広場」碑のページでご覧いただくことができます。

 そして、今回11月23日に訪ねた「シオーモの小径」の入口は、下のようになっていました。

「シオーモの小径」2011年11月23日

 地震によって、地盤が大きく沈下してしまったために、歩道が波打っています。左の石垣の外側には、以前は岸壁があったのですが、これも地盤沈下によって海面下になってしまっていました。

 そして、賢治の「ポラーノの広場」碑は、下のようになっていました。

「ポラーノの広場」碑

 後ろから見ると下のようになっていて、根元に通されている太さ2cmほどの鉄芯が、津波の圧力によってぐにゃりと曲がってしまっているのがわかります。

「ポラーノの広場」碑の根元

  しかし、「小径」に並ぶ碑には完全に倒れてしまったものもいくつか見られる中で、約40°の角度を保ちしっかりと立つ姿は、何かとてもけなげに思えたりもしました。また、碑の周囲に散乱している敷石は、初代・塩釜駅に敷かれていたもので、賢治の同級生たちもおそらく踏みしめていたものです。

 この「ポラーノの広場」碑文に引用されている部分の少し前では、三陸海岸のことは「イーハトーヴォ海岸」と呼ばれていて、レオーノキューストがその海岸地方を旅した時の喜びは、次のように描かれていました。

 海岸の人たちはわたくしのやうな下級の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれ ました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞり をたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました。

 ここには、賢治が三陸地方を旅した時の経験、そこで触れあった「海岸の人たち」の心根も、反映しているのかもしれません。


 「われらひとしく丘に立ち」詩碑

 石巻市の日和山は、この町の歴史的中心に位置する山です。延喜式の式内社として由緒ある「鹿島御児神社」が平安時代から鎮座し、鎌倉時代には石巻城が築かれました。「日和山」という名称は、海運の盛んなこの町において、海に近いその頂きが船の運航に重要な天候を観察するスポットであったことによります。
 Wikipedia には、

日和山から日和大橋越しに見る旧北上川河口と太平洋、また、旧北上川の中洲であり、内海五郎兵衛が私財を投じて東内海橋と西内海橋を架けた「中瀬」(なかぜ)の見える風景は、そのまま石巻の成り立ちと市民のアイデンティティを示すものである。

との記述もあります。また春には、桜の名所としてたくさんの市民が訪れます。
 日和山とは、石巻においてそういう場所なのです。

 15歳の賢治は、盛岡中学の修学旅行において、この山から生まれて初めて海を見るという体験をしました。
 この折りに賢治が詠んだ短歌に、

まぼろしとうつゝとわかずなみがしら
きほひ寄せ来るわだつみを見き。

があり、これを後年になって文語詩化した「〔われらひとしく丘に立ち〕」のテキストを刻んだ詩碑が、この日和山公園に建てられたわけです。

 私が前回この日和山公園に来たのは、2000年の8月6日でした。11年ぶりに訪れた公園は、以前よりも立派に整備されていました。そして、さすがに海抜56mほどの丘の上だけあって、津波の被害は皆無でした。
 下写真が、今回の「われらひとしく丘に立ち」詩碑です。

「われらひとしく丘に立ち」詩碑

 この日和山には、他にもいろいろな石碑があるのですが、下写真は、「チリ地震津波碑」です。

チリ地震津波碑

 碑面には、次のような言葉が刻まれています。

     チリ地震津波碑

ほら こんなに
まるで慈母のように穏やかな海も
ひと度荒れ狂うと
恐ろしい残忍な形相となる
海難・ 津波・ 海難と
こゝ 三陸一帯に
無常な海の惨禍が絶えることがない
(後略)

 さて、上記 Wikipedia にあったように、日和山からの眺望は石巻市民にとってアイデンティティの一部ともなっているということですが、先の大津波においては、ここからの景観は凄絶なものでした。
 下の動画は、市民の方が日和山から南の方角を撮影したものです。

 結局、この山より南の市街地は、すべてが津波で流されてしまったのです・・・。

 ところで、上の動画のような情景を見ていると、

まぼろしとうつゝとわかずなみがしら
きほひ寄せ来るわだつみを見き。

という賢治の短歌が、まるで悪い夢になって襲ってきたかのような錯覚にとらわれそうになります。これは果たして「まぼろし」か「うつゝ」か、誰しも我が目を疑う景色であり、波頭は非常な勢いで寄せて来ます。
 そのような海(わだつみ)が、3月11日に確かに出現しました。

 今、賢治の詩碑の横から南を見ると、下のような景色が広がっています。

日和山から南を望む

 震災から8ヵ月後ともなると、津波に流された跡も瓦礫は撤去されて、茶色い地面が広がっています。まるで埋め立て地のように見えますが、震災前はここはすべて住宅地だったのです。中央あたりに残っている比較的大きな白いビルは石巻市立病院で、しっかりと立っているように見えますが、1階は津波に打ち抜かれています。

 日和山から下へ降りると、家の土台も撤去された曠野に、真新しいアスファルトの道が通っていました。地盤が沈下しているので、道路は数十cm以上の盛り土をして底上げされています。奥に見える建物は、門脇小学校です。

門脇町

 日曜日のお昼頃、市民の方々は日和山の展望台から、かつて街並みのあった場所を、静かに眺めておられました。

日和山展望台から

【この項つづく・・・】

シオーモの小径

 先の連休に、宮城県の塩竃と七ヶ浜、それから福島に行ってきました。今回から何度かに分けて、そのご報告をいたします。

 まずは、20日(土)夜の京都駅八条口から。「杜の都」にちなんだ「フォレスト号」というバスに乗り・・・

フォレスト号乗車

・・・21日(日)の朝に仙台駅に着きました。

フォレスト号下車

 夜中にはかなり雨も降っていたようなのですが、仙台に着くと幸い雨は上がっています。しかし風はとても強い。
 仙台駅の食堂街の「牛タン定食」で腹ごしらえをすると、仙石線に乗って本塩釜駅に向かいました。

 上でもすでに二種類が出てきた「しおがま」の漢字表記に関して。市で定めた正式な用字は「塩竃」だそうですが、一方で「塩釜」という表記も認められているということです(塩竃市HP「竃の字ついて」)。実際、市役所の公式文書では「塩竃」で、他方JRの駅名は、「塩釜」「本塩釜」「西塩釜」「東塩釜」となっています。
 もともと「釜」は金属製の大きな鍋のことであり、「竃」はその釜を掛けて煮炊きするための据え付け設備(=かまど・へっつい)のことですから、字の意味する対象は違います。むかし塩竃あたりの砂浜には、海水を沸騰させて塩を作るための「かまど」が多く設けられていたので、それが地名になったということです。
 ちなみに、「猫の事務所」に出てくる「かま猫」は、金属鍋の中で寝るのではなくて「かまど」の中で寝るのですから、これも「釜猫」ではなくて「竃猫」ですね。

 さて、15歳の賢治は、1912年(明治45年)5月28日に盛岡中学の修学旅行で石巻から船に乗り、松島の瑞巌寺を経て、この塩竃港に着いています。ここで彼は引率の先生の許可を得て団体から離れ、7kmほど離れた菖蒲田というところで病気療養していた伯母・平賀ヤギを、一人で訪ねました。彼はその時の様子を父に報告する感動的な手紙を残しているのですが、これについてはまた後日に触れる予定です。
 一方、少年小説「ポラーノの広場」の「五、センダード市の毒蛾」の章において、レオーノキューストはイーハトーヴォ海岸地方に出張を命ぜられます。

 次の朝わたくしは番小屋にすっかりかぎをおろし一番の汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったりそしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのやうな下級の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞりをたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました。けれどもファゼーロ! あの暑い野原のまんなかでいまも毎日はたらいてゐるうつくしいロザーロ、さう考へて見るといまはたくしの眼のまえで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを踊ったりうたったりしてゐる娘たちや若ものたち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなの〔数文字分空白〕とひとりでこゝろに誓ひました。
 そして八月卅日の午ごろわたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着きそこから汽車でセンダードの市に行きました。卅一日わたくしはそこの理科大学の標本をも見せて貰ふやうに途中から手紙をだしてあったのです。わたくしが写真器と背嚢をもってセンダードの停車場に下りたのはちゃうど灯がやっとついた所でした。

 上記の地名のうち「サーモ」とは、三陸海岸の北端の八戸市・「鮫」地区のことと考えられ、「シオーモ」は塩竃、「センダード」は仙台に、容易に比定できます。記録上わかっているかぎりでは、賢治が塩竃を訪れたのは前述の中学校修学旅行の時だけのようであり、「小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に行きそこから汽車でセンダードの市に行き・・・」という経路が修学旅行の際のものと同じであることからも、修学旅行における塩竃の記憶が、ここに反映されているのだろうと思われます。
 「イーハトーヴォ」「モリーオ」「サーモ」「シオーモ」「センダード」のいずれも、現実の地名(「岩手」「盛岡」「鮫」「塩竃」「仙台」)に、語呂がよくなるように語尾の子音を加減して、さらに、(1)名詞の語尾は"-o"で終わり、(2)後ろから二番目の音節にアクセントが置かれて長音化する、というエスペラントの規則に従って造語されています。

 「ポラーノの広場」というお話は、モリーオ市の博物局に勤めていた青年技官レオーノキューストが、農民の集う「広場」の成り立ちと経緯について書き誌したという形をとっています。
 物語には、冷たい高原の空気のように郷愁と哀感が漂っていますが、この「五、センダード市の毒蛾」という章は起承転結の「転」にあたる部分で、キューストは休暇を兼ねた出張でモリーオ市を離れ、海岸地方を楽しく旅しながら標本を集めます。全体の中でここだけには、賑やかな夏の雰囲気が満ちているところです。

 そんな「シオーモ」=塩竃に、この3月17日に賢治の造語にちなんだ「シオーモの小径(こみち)」という名前の、文学碑の並ぶ散策路ができたと聞いて、今回私はやってきました。
 先にも少し触れたように、塩竃市にはJRの駅がいくつもありますが、港に近いのは仙石線の「本塩釜」駅です。

本塩釜駅

 この駅で降りると、「シオーモの小径」がある「マリンゲート塩竃」までは800mほどです。
 海辺に出ると、向こうの方に石碑が並ぶ光景が見えてきました。

「シオーモの小径」と「御座船」

 左に停泊している竜や鳳凰をかたどった鮮やかな船は、塩竃の「みなと祭」の際に神輿を載せて海を渡る「御座船」なのだそうです。奥へ続く歩道の右側に、石碑が並びます。

 まず最初にあるのは、地元塩竃の俳人・佐藤鬼房の句碑です。この「小径」は、鬼房が全国各地からやって来た文学者を迎えるような形で配置されているのだそうです。

馬の目に 雪ふり湾を ひたぬらす 鬼房

馬の目に
雪ふり湾を
ひたぬらす
    鬼房

佐藤鬼房
    (さとう おにふさ)
大正八年~平成十四年
    (一九一九~二〇〇二)
岩手より二歳の時に塩竃に移り
住み、働きながら句作に励む。
戦後を代表する俳人。市内権現
堂に<鬼房小径>がある。
  俳句は昭和二十年作『海溝』より。

 次は、並んで立つ白秋と牧水。

白秋と牧水

みちのくの千賀の塩釜雨ながら
網かけ竝めぬほばしらのとも
                  白秋

   塩釜より松島湾へ出づ
鹽釜の入江の氷はりはりと
裂きて出づれば松島の見ゆ
                  牧水

 そしていよいよ次が、賢治の「ポラーノの広場」。

宮澤賢治「ポラーノの広場」碑

そして八月三十日の午ごろ、
わたくしは小さな汽船で
となりの縣のシオーモの港に着き、
そこから汽車でセンダードの
市に行きました。
       「ポラーノの広場」より
                宮澤賢治

 上の石碑の下端は凹型になっていて、横に金属の棒が通してあるのですが、この金属の棒に見えるものは鉄道のレールで、碑の周囲に敷いてある石とともに、開業当時の旧塩釜駅で使われたものだそうです。
 上部には石巻から船で塩竃へ、そして汽車で仙台へ、というルートを表わす地図も刻まれています。凝った造りの見事な石碑です。

 次は、斎藤茂吉。さすがに風格のある歌です。碑石に四角くくり抜かれた穴は、立方体の「塩の結晶」を象徴しているのだそうです。

斎藤茂吉歌碑

松島の海を過ぐれば鹽釜の
    低空かけてゆふ焼けそめつ
                   茂吉

 さらに次は、与謝野寛・与謝野晶子夫妻。

与謝野寛・与謝野晶子歌碑

鹽釜の出口をふさぐ炭船のあひだに青き松島の端
                                寛
雁皮紙をいと美しく折り上げて松をさしたる千賀の浦島
                                晶子

 次には、田山花袋の紀行文まで。

田山花袋「山水小記」

 鹽竃の町は半は港で半は漁市
といふさまであつた。大漁の模様
のついたどてらを着た漁師、細
い通りに處々に並んでゐる青楼
の浅黄の暖簾、ある旗亭から三
味線の音が湧くやうに聞こえた。

 深く入込んだ 入江、そこに集
まつてゐる帆檣や和船や荷足
や水脈は黒く流れて、潮は
岸の旅舎の影を静かに揺かした。
          『山水小記』より
             田山花袋

 そして、正岡子規。

子規句碑

   籬嶋
涼しさのこゝを扇のかなめかな
                  子規

 最後は、この小径が完成した際の除幕式にも出席されたという高橋睦郎氏の歌碑。高橋氏は、佐藤鬼房の句に感動して面会して以来、たびたび塩竃を訪れて縁も深いのだそうです。一本の石碑の二面に一首ずつ刻まれています。

高橋睦?歌碑1   高橋睦?歌碑2

みちのくの千賀の塩竃釜に得む塩のはつかも笑みかけたまへ
                                     睦郎

塩の城(き)のザルツブルクに聞きしより年どし遠しサラリー縁起
                                     睦郎

 一首目は、先の白秋の歌にも出てきた「みちのくの千賀の塩竃」という昔からの歌枕を詠み込み、さらに「釜に得む塩の」までを含めた部分が、「はつかも」の枕詞のような役割を果たしている、古風な形式の歌。「ちょっとでもいいから笑みかけて下さい」という切実な思いを、長々と飾って歌う様子は、ちょっと万葉的かも。
 それに対して二首目は、「ザルツブルク」「サラリー」という外国語の入ったモダンな歌。モーツァルトの生地であり、現在も音楽の町として有名なオーストリアのザルツブルクは、古くから岩塩の産地として栄え、Salz(=塩)、Burg(=城)という名であることから、「塩の城(き)」というわけです。一方、塩はラテン語では sal というそうですが、古代ローマでは兵士の給料として塩を支給したことから、これが「サラリー=給料」という言葉の語源になったという話が、「サラリー縁起」でしょう。
 一首目は「千賀の塩竃」(近の塩)を、そして二首目は「遠の塩」(ザルツブルク)を詠んで、対をなしているのだそうです。塩竃もザルツブルクも、「塩」で発達してその名を冠する町なんですね。
 この高橋氏の短歌には、古典的な情緒と知的な言葉の技法があわさった、奥の深い味わいを感じました。

 「シオーモの小径」の説明の碑石。

シオーモの小径

シオーモの小径

塩竃を訪れた、近現代の文学者
たちの作品と一緒に、小径の散
策をお楽しみ下さい。シオーモ
は、宮澤賢治が『ポラーノの広
場』で、塩竃をイメージして付
けた架空のまちの名です。
      平成二十二年三月十七日
          塩竃市長 佐藤 昭

 ほんとうに、近現代の文学者が綺羅星のごとく並んでいる感じですね。

 もう一度振り返ると、点々と並ぶ石碑群と塩竃の港、市街はこういう風に見えます。いちばん手前にある大きな碑は、塩竃に港が開かれた時に建てられた「築港の碑」です。

「シオーモの小径」と塩竃港

 「歌曲の部屋~後世作曲家篇」に、鈴木輝昭作曲の『童声(女声)合唱とピアノのためのイーハトーヴ組曲』の終曲「ポラーノの広場(全曲)」をアップして、podcast にも載せました。

 これまで同組曲からは、「第一曲 星めぐりの歌」と「第四曲 十力の金剛石」の演奏を作成してアップしていました。「第六曲 ポラーノの広場」に関しては、終結部のコラール部分のみの演奏を収録していましたが、今回その全曲を作成したわけです。

 鈴木氏のこの曲は、賢治の「ポランの広場」の歌詞と、「ポラーノの広場のうた」の歌詞とを二つ合体させて生まれた合唱曲ですが、それにしても終結部の「ポラーノの広場のうた」の部分に鈴木氏が付けた曲は、賢治の詩がかもし出すイメージと一体となって、ほんとうに美しいものです。一方、前半部の無調で書かれた「ポランの広場」の部分からは、なんかヨーロッパの古い街並を眺めているような、エキゾチックな雰囲気も漂ってきます。

 歌は例によって VOCALOID の Meiko、ピアノは Roland SC-8850 の Piano1 です。
下記のリンクからは、直接 MP3 をお聴きいただけます。

「ポラーノの広場」(MP3: 5.29MB)


<歌詞>

つめくさの花の 咲く晩に
ポランの広場の 夏まつり
ポランの広場の 夏のまつり
酒を呑まずに  水を呑む
そんなやつらが でかけて来ると
ポランの広場も 朝になる
ポランの広場も 白ぱっくれる。

つめくさの花の かほる夜は
ポランの広場の 夏まつり
ポランの広場の 夏のまつり
酒くせのわるい 山猫が
黄いろのシャツで出かけてくると
ポランの広場に 雨がふる
ポランの広場に 雨が落ちる。

つめくさのはなの 終る夜は
ポランの広場の 秋まつり
ポランの広場の 秋のまつり
水をのまずに酒を呑む
そんなやつらが威張ってゐると
ポランの広場の 夜が明けぬ
ポランの広場も 朝にならぬ。

つめくさの花のしぼむ夜は
ポランの広場の秋まつり
ポランの広場の秋のまつり
酒くせの悪い山猫は
黄いろのシャツで遠くへ遁げて
ポランの広場は 朝になる、
ポランの広場は 夜が明ける


つめくさ灯ともす 夜のひろば
むかしのラルゴを うたひかはし
雲をもどよもし  夜風にわすれて
とりいれまぢかに 年ようれぬ

まさしきねがひに いさかふとも
銀河のかなたに  ともにわらひ
なべてのなやみを たきゞともしつゝ
はえある世界を  ともにつくらん


「ポラーノの広場」作成中

福井県でオペラ「つめ草の道標」

 4月になりました。プロ野球セ・リーグも開幕しましたが、阪神・井川は「うーん・・」という感じでしたね。2年目の岡田監督は、 藤山寛美のような見かけに似合わずまじめな方なのはわかりますが、どうしても星野さんのようなドキドキ・ ワクワクさせるようなキャラクターではなくて、いつも困ったような顔でベンチからのぞいています。
 パ・リーグの方が、新しいチームがひしめいていて面白いですね。

 さて今年の10月30日、福井県の鯖江市で賢治の「ポラーノの広場」にもとづいた市民オペラ「つめ草の道標(みちしるべ)~ ポラーノの広場への道~」が上演されるそうです。詳しくは、 こちらのページをご参照ください。