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「サガレンと八月」の続き

 「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」
 西の山地から吹いて来たまだ少しつめたい風が私の見すぼらしい黄いろの上着をぱたぱたかすめながら何べんも通って行きました。
 「おれは内地の農林学校の助手だよ、だから標本を集めに来たんだい。」 私はだんだん雲の消えて青ぞらの出て来る空を見ながら、威張ってさう云ひましたらもうその風は海の青い暗い波の上に行ってゐていまの返事も聞かないやうあとからあとから別の風が来て勝手に叫んで行きました。

 童話「サガレンと八月」は、その書き出しからして本当に切なく魅力的ですが、残念なことにこの作品は、未完に終わっています。タネリという少年が、母親の戒めを破って、浜辺で透明なくらげを透かして物を見てしまったために、犬神によって海に連れ去られ、蟹の姿に変えられて海底でチョウザメの下男にされてしまうのですが、ここで作者は執筆を中断しているのです。
 はたしてこの後、物語はどういう風に展開していく予定だったのか、賢治ファンならどうしても知りたいと思ってしまうところですが、それは今となっては知る由もありません。
 以下は、それについて私なりに勝手に空想してみた、「きれぎれのものがたり」です。

1.サハリンの海の虜囚

 「サガレン」とはサハリン(樺太)の古称で、賢治が1923年(大正12年)にサハリンを訪ねたのは「八月」でしたから、この旅行と「サガレンと八月」が密接に関連していると考えるのは、ごく自然なことです。
 実際、天沢退二郎氏は「幻の都市《ベーリング》を求めて」(『《宮沢賢治》論』所収)の中で、「この一九二三年八月の樺太旅行のときに書かれたか、少なくとも着想されたと考えられる童話断片「サガレンと八月」」と書いていますし、鈴木健司氏は「「サガレンと八月」から受けとったもの」(『宮沢賢治 幻想空間の構造』所収)において、「「サガレンと八月」には「オホーツク挽歌」の裏の世界が描かれている」と述べています。鈴木氏が指摘しているとおり、「サガレンと八月」の自然描写は、「オホーツク挽歌」のそれと、かなりの部分で共通しているのです。

 そうすると、「サガレンと八月」の物語内容も、サハリンを旅した時の賢治の考えや心情と関係しているのではないかと考えてみることができますが、比べてみるとそこには確かに共通する要素が認められます。
 上述のように、「サガレンと八月」で主人公のタネリは、海底でチョウザメの下男にされてしまうのですが、以前にもご紹介したように、ロシアでは昔からサハリン島の形が「チョウザメ」に喩えられるのです。
サハリンとチョウザメ チェーホフによるドキュメント『サハリン島』には、次のような記述があります。

 サハリンは、オホーツク海中にあつて、ほとんど1000露里に亙るシベリアの東海岸と、アムール河口の入口とを大洋から遮断してゐる。それは、北から南へ長く延びた形をしてゐて、蝶鮫を思はせる格好だ、と言ふ著述家の説もある。(岩波文庫版上巻p.40)

 その比喩の妥当性については、右のように並べた図を見ていただければ、一目瞭然でしょう。

 もし「チョウザメ」が「サハリン島」を表しているとすれば、「海底にあるチョウザメの住みかで下男として使われる」という設定は、「サハリンの海底に囚われる」という事態の、実に巧みな隠喩になっています。
 そしてこれは、「宗谷挽歌」における、賢治の下記の表現にもつながっていきます。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
(中略)
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。
(後略)

 すなわち、宗谷海峡において賢治は、トシから呼ばれたら自ら海に落ちようと思い詰めていて、その結果として「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」とも、考えていたのです。
 つまり、「サガレンと八月」におけるタネリの境遇――サハリンの海底に囚われるという状態は、賢治がこの地を訪ねるにあたって、実は自ら秘かに覚悟を定めていたことだったのであり、それはひょっとしたら賢治自身がそうなったかもしれない運命を描いているのです。
 また、やはり「宗谷挽歌」で賢治は、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」と宣言していますが、ここで彼が想定している海の「鬼神」の一つが、タネリをさらった「犬神」なのでしょう。

 それでは、そもそも賢治がサハリンの海の虜囚となるかもしれない危険を冒そうとした目的は、いったい何だったのでしょうか。
 それは、「宗谷挽歌」のテキストの上では、「みんなのほんたうの幸福を求めて」、つまり仏教的真理を求めるための自己犠牲と位置づけられています。しかしよく考えてみると、この箇所のすぐ前には「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら/いままっすぐにやって来て/私にそれを知らせて呉れ」と記されており、トシの方から「やって来て」、「知らせて呉れ」るのならば、彼が真理を知るためにはそれで十分であって、何も賢治が海に落ちて「封ぜられ」る必要はありません。
 やはり賢治にとって、サハリンの海に封ぜられかねない危険を冒す本当の目的は、「死んだトシに会う」ということにあったのだと、私は思います。そもそもこれこそが、彼のサハリン旅行の目的でした。
 そして、「宗谷挽歌」の冒頭には、「けれどももしとし子が夜過ぎて/どこからか私を呼んだなら/私はもちろん落ちて行く」とありますが、人はふつう誰かから呼ばれたら、呼んだ相手がいると思う方へ行こうとするでしょうから、賢治が海に「落ちて行く」と考えていたということは、やはり彼の想定では死んだトシは、海の底にいると思われていたわけです。

 つまり賢治は、この旅において自分がトシに会えるとすれば、その形として次のようなイメージを抱いていたのではないでしょうか。すなわち、サハリンで自分はトシに呼ばれるかまたは鬼神に挑まれるかして、海に落ちて封ぜられるが、そこでついに自分は、妹との再会を果たすことができるのではないか・・・。
 まさにここのような幻想こそが、鈴木健司氏の言う「「オホーツク挽歌」の裏の世界」の内実だったのだと、私は思います。そしてこれが、私が「サガレンと八月」の物語の「続き」を想像する上での、大きな鍵になります。
 タネリは犬神に拉致されて「海に封ぜられ」た後、彼はそこで(賢治にとっての妹に相当する)誰かに、「会う」ことになるのではないでしょうか。

2.「おまへの兄さん」という表現

 もしも、賢治の思いを直接そのまま童話にすれば、タネリが海底に囚われてそこで遭遇するのは、タネリ自身の「死んだ妹」だということになりますが、「サガレンと八月」の残された草稿には、タネリに妹がいたとか死んだとかいう記述はどこにもありません。
 しかしそのかわり、タネリには兄がいる(いた?)ようで、それは次のような母親の言葉に、一か所だけ登場します。

「ひとりで浜へ行ってもいゝけれど、あそこにはくらげがたくさん落ちてゐる。寒天みたいなすきとほしてそらも見えるやうなものがたくさん落ちてゐるからそれをひろってはいけないよ。それからそれで物をすかして見てはいけないよ。おまへの眼は悪いものを見ないやうにすっかりはらってあるんだから。くらげはそれを消すから。おまへの兄さんもいつかひどい眼にあったから。」

 すなわち、タネリの兄は、「くらげで物をすかして見る」ということをしてしまったために、「いつかひどい眼にあった」というのです。
 それでは、この兄は、今はいったいどうしているのでしょうか。

 物語では、タネリの兄の現況については何も触れられていませんから、いったんは「ひどい眼にあった」彼も、今はタネリたちと一緒に元気に暮らしているという可能性も残っています。しかし、母親が上のようにわざわざタネリに警告していることからして、「兄がくらげを透かして見たためにひどい眼にあった」という出来事は、それまでタネリにはあまり知らされていなかったらしい、ということがわかります。
 これは、もしも兄弟が同居しているのだとしたら、ちょっと不思議なことです。年が近い兄弟であれば、兄が「ひどい眼にあった」などという一大事は、弟のタネリもその場で見聞きしていたはずです。
 もしも二人がかなり年の離れた兄弟で、兄がそのような眼にあった時に、まだタネリは物心ついていなかったとしても、その後兄弟が一緒に暮らしておれば、タネリの成長過程において、そのようなエピソードが家族の話題に上らなかったはずはありません。とりわけ、「くらげを透かして物を見てはいけない」というのは、子供の身の安全に関わる大変重大な注意事項でしょうから、家庭において平素からそのような話がされていなかったというのは、とても不自然に感じられます。

 ここで、一つの仮説として想定されるのが、タネリの兄もタネリと同様、くらげを透かして物を見てしまったために、犬神によって海にさらわれ、それ以後ずっと家に帰ってきていないのではないか、ということです。もしそうであれば、母にとってこの出来事は痛切なトラウマとなっており、それについて家族で話題にすることさえ辛く、くらげの危険性についてもこの時まではタネリにちゃんと話せていなかったかもしれません。そう考えると、上記の不自然さは説明がつきます。

 さらにそれを支持するような具体的根拠の一つに、母親による「おまへの兄さん」という表現があります。もしも兄弟がいつも一緒に暮らしていて、タネリにとって「兄さん」が自明の存在であったならば、わざわざ「おまへの」を付けずに、単に「兄さんもいつかひどい眼にあったから」と言うのではないでしょうか。すなわち、ここで母親がことさら「おまへの兄さん」という言い方をしているのは、ただ「兄さん」と言っただけではタネリにはぴんと来ないという状況があるからであり、これは「兄はタネリと一緒には暮らしていない」という事態を、表しているのではないでしょうか。

 ここで、賢治の他の童話においては、親が自分の子供に向かってその兄や姉のことをどう呼んでいるのか、ざっと調べてみました。
 一通り見たかぎりでは、「親が子供に対しその兄や姉を呼称する」という場面は、「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」にありました。
 まず「ひかりの素足」では、最初の方で父親が次男の楢夫に話しかけている、次の場面です。

「なして怖っかなぃ。お父さんも居るし兄なも居るし昼ま で明りくて何っても怖っかなぃごとぁ無いぢゃぃ。」

 ここでは父親は兄の一郎のことを、方言で「兄な(あぃな)」と呼んでいますが、標準語であればこれは「兄さん」というところでしょうか。ここには、「お前の」というような言葉は付けられていません。
 また「銀河鉄道の夜」には、ジョバンニの母がジョバンニに語りかける次のような場面があります。

「あゝあたしはゆっくりでいゝんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ。」

 ここでも、母はジョバンニに「姉さん」と言っています。母とジョバンニの間で、「姉さん」と言えば自明の存在ですから、これを「お前の姉さんがね・・・」などと言うと、かえってよそよそしい感じもしそうです。

 以上たった二つではありますが、賢治の他の童話において、親が子供に向かってその兄・姉を呼ぶ際に「おまへの・・・」という言葉を付けている例はありませんでした。「サガレンと八月」において、母親が息子に「おまへの兄さん」と言っているのは、タネリにとって「兄」とは、いつも身近にいて親しんでいる存在ではないということを、暗示しているのではないかと思うのです。

 タネリの兄が不在であるとすれば、その原因としては上述のように、彼が「いつかひどい眼にあった」事件を疑ってみるのが、最も自然です。
 そして、兄がタネリと同じ禁忌破りのために海に連れ去られたのだとすれば、このたびまた同じ目に遭ったタネリは、海底において自分の兄に遭遇できる可能性が、十分にあることになります。

 すなわちここに、「死んだ妹に会うためならば海に封ぜられてもよい」という、当時の賢治の強い願望が、物語の形をとって現れるのです。

3.再会のその後

 さて、そうなると現在残された「サガレンと八月」の、次の展開の可能性が、一つ見えてきます。
 蟹に姿を変えられたタネリは、病気のチョウザメのもとでこき使われながら辛い日々をすごし、地上の母のことを思っては孤独にさいなまれることでしょうが、そんなある日、もう長らく会っていなかった兄に、偶然に海底で再会することになるのです。
 兄も、蟹に姿を変えられているのかもしれませんし、他の海生小動物になっているのかもしれません。お互いに姿形は違ってしまっていますが、それでも兄弟だからこそわかる何かが、あったのでしょう。どちらかが先に気がついて声をかけ、互いに相手を確認すると、しばし二人でうれし涙を流したかもしれません。
 しかし、そこから先は、一筋縄ではいきません。長年囚われの身になって、その海底からの脱出がいかに困難であるか、兄の方は身に沁みてわかっていたでしょう。
 それでも、一人だけではできなかったことも、二人で力を合わせれば、活路が開けるかもしれません。母親が待つ地上に帰還するために、二人は秘かに連絡を取り合いながら、コツコツと準備を進めていくことでしょう。

 そして、とうとう脱出計画が実行に移される日が、やって来るでしょう。ここから先の結末は、これはもう作者に聞かなければわかりませんが、理屈の上では四通りがありえます。
 (1)二人とも帰還、(2)タネリは帰るが兄は残留、(3)兄は帰るがタネリは残留、(4)二人とも脱出に失敗し残留、という四つです。

 四つのうちのどれにするか、あとは個人個人で自由に考えたらよいようにも思いますが、あえて蛇足として、私個人のイメージを書いておきます。
 まず、最もあってほしくない結末は、(4)の二人とも脱出できず残留、というものです。これでは、最後までハラハラしながら読んできた読者にとっては、「割に合わない」感じだけが残ってしまいそうです。
 それに賢治の場合は、トシと二人で「海に封ぜられる」ことの「意味」は、「宗谷挽歌」に書かれているように「みんなのほんたうの幸福を求めて」ということにあったわけですが、タネリと兄との場合には、そのような大義名分はありません。賢治の本心では、トシに再会できるならばそのまま海に封ぜられてもよいと思っていたかもしれませんが、タネリの方はそもそも兄に会おうとして海に入ったわけではありませんでした。すなわち、この童話の内部には、「二人とも封ぜられてしまう」という理不尽な結末に見合うような「意味」は、存在しないのです。

 次に、(1)二人とも帰還、というのは、最も喜ばしいハッピーエンドです。一般的に言って、このように兄弟二人が苦難に負けず、力を会わせ機転を利かせて脱出に成功するというストーリーは、童話として十分に存在価値があると私は思います。
 ただ気になるのは、賢治がこの童話を書いたサハリン旅行中あるいはその直後の心境です。トシの喪失の悲しみが癒えない当時の彼の心情からすると、そんなハッピーエンドなんて白々しいかぎりで、この時期の彼ならばそのような結末にはしなかったのではないかというのが、私の想像です。

 となると、、(2)タネリは帰るが兄は残留、(3)兄は帰るがタネリは残留という、どちらか一人だけが帰りもう一人は残るというパターンの、いずれかの可能性が高い感じがします。
 このうちのどちらがありそうかと考えると、私としては(2)の方ではないかと思います。「主人公だけが生きて帰り、愛するもう一人は死んでしまう」というのが、「ひかりの素足」の一郎と楢夫、「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラなど、賢治の物語の一つのパターンであり、その背後には「妹が死に、自分だけが残る」という彼自身の痛切な体験があるからです。
 (2)も(3)も、その最後のクライマックスにおいて、何かの事情で二人ともが生還することはできないことが明らかになると、あえて残留を選んだ方はもう一方を生きて帰還させるために、一種の「自己犠牲」を行うという状況が想定されます。一般に、多くの自己犠牲の物語においては、年長の者が年少の者を助けるために自らを犠牲にするというのが通例で、やはりこの場合は兄が弟タネリを助けて、自分は残留を選択する(「俺の分も母さんを大切にしてやってくれよ!」などと言って…)というのが、お話としても収まりがよくなるのではないかと思います。

 あと、タネリの主人であるチョウザメというのは、見かけは恐ろしいけれど本当はそんなに悪いキャラではないのではないか、というのが私の個人的な印象です。犬神に新しい下男を連れて来られて、初めてタネリにかけた言葉は、「うう、お前かい、今度の下男は。おれはいま病気でね、どうも苦しくていけないんだ」というものでした。
 物語の終盤で、タネリが脱出計画を開始するにあたり、いったんチョウザメはそれに気づいてタネリを制止し、これで万事休すかと思われたが、ふと小さなタネリを不憫に思い、犬神には内緒でこっそり逃がしてやったのではないか・・・、などと想像したりもします。

 以上、長々とお付き合いいただいて恐縮でしたが、風が運んできたような私の勝手な空想でした。

 以前に『宮沢賢治とサハリン』という記事でご紹介した素敵な本の著者、藤原浩さんからご連絡をいただきました。
サハリン このたび、藤原さんも立案に関わって、H.I.S.という旅行会社が今年の9月、「宮沢賢治の軌跡を辿るサハリン5日間」というツアーを企画しているのだそうです。
 出発は、9月6日と13日の2コース。5日間で13万8000円。6日出発便には、藤原さんも同行されるのだそうです。

 今回は特に「宮沢賢治」に焦点を当てたツアーなので、その行程は、「とにかく『賢治が行った場所』『行ったかもしれない場所』に絞っています。それ以外のところは、たとえ人気スポットであっても足を伸ばしておりません。」(藤原氏)とのこと。そして日本語のガイド付きで、「オホーツク挽歌」の栄浜や白鳥湖など、宮沢賢治ゆかりのある6ヶ所を巡るのだそうです。

 それから今回のツアーのもう一つの意義は、往復ともに賢治がサハリンへ渡った「稚泊連絡船」に相当する「稚内―コルサコフ航路」を利用するのですが、この「稚内―コルサコフ航路」は今年度一杯で廃止になる可能性がかなり高いのだそうです。
 すると、「宗谷挽歌」の世界を直接体験できるのは、今回が最後のチャンスということになるかもしれないわけですね。

 賢治が前年に亡くなったトシの魂を追い求め、「銀河鉄道の夜」のインスピレーションの一つの源泉にもなったと言われるサハリン。この、北の最果ての地を一度訪れてみたいという方にとっては、大きなチャンスだと思います。ツアーの最少催行人数は、10名とのこと。
 私も行きたくて行きたくて仕方がないのですが、どうしても仕事を休めない・・・(泣)。

 ところで、サハリンへ行かれる方にも、行かれない方にも、藤原浩著『宮沢賢治とサハリン』は、サハリンにおける賢治の足跡や、彼の推定旅行日程、サハリンの風物の豊富な写真も載っていて600円という、とても魅力的でお買い得なブックレットです。
 実用的なガイドブックとしても、座右に置いて眺めるためにも、お奨め!

宮沢賢治とサハリン―「銀河鉄道」の彼方へ (ユーラシア・ブックレット) 宮沢賢治とサハリン―「銀河鉄道」の彼方へ
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【参考エントリ】
「オホーツク挽歌」詩群
『宮沢賢治とサハリン』
「宗谷〔二〕」の紳士は貴族院議員?
西洋料理店のような?
冥界としてのサハリン
7日乗船説と9日乗船説(1)
7日乗船説と9日乗船説(2)
7日乗船説と9日乗船説(3)

『宮沢賢治とサハリン』

 先月に刊行された、『宮沢賢治とサハリン 「銀河鉄道」の彼方へ』(藤原浩著,東洋書店)という本を読みました。

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 著者は、鉄道・旅行ライターで、有名な旅行ガイドブックシリーズ『地球の歩き方』において、「ロシア」篇や「シベリア&シベリア鉄道とサハリン」篇を執筆しておられる方です。
 そのような著者の専門性のおかげで、大泊(コルサコフ)、栄浜(スタロドゥプスコエ)、豊原(ユジノサハリンスク)など、賢治が訪れたであろう場所に関する案内や解説は、とても丁寧で詳細です。私のように、サハリンに憧れつつもまだその地を踏んだことのない者にとって、このわずか63ページの薄い本は、いつか実現したいサハリンへの旅の際には、ぜひとも携行したいガイドブックです。

 さらにこの本には、そのような現地の案内本としての意味あいとともに、もう一つ「あとがき」において著者が次のように書いているような要素も、含まれています。

 旅行ガイドブック『地球の歩き方』の取材のため、筆者はこれまで何度かサハリンを訪れ、賢治についても簡単ではあるがガイドブックで扱ってきた。またひごろより鉄道に関する執筆をつづけていることもあり、賢治の旅の行程についても多分に興味を持って調べてきた。本書でも、その筆者自身が調べた結果をもとに書きつづっているが、序でも述べたとおり、従来の研究と食いちがう点がないわけではない。その点については、いずれ別の機会にあらためて論じなければならないと思っている。

 この、「賢治の旅の行程」に関する著者の考察が、現在の私にとってはとても興味を引かれるものでした。

 まず、花巻からサハリンまでの往路について。このタイムスケジュールに関して、『〔旧〕校本全集』の年譜では、

七月三十一日(火) 花巻駅午後二時三一分乗車、青森、北海道経由樺太旅行へ出発。(後略)
八月一日(水) 「青森挽歌」「青森挽歌三」「津軽海峡」
 午前十二時半発連絡船で海峡を渡り、五時函館に上陸。(後略)

と記されていたところ、ますむらひろし氏が「時刻表に耳を当てて「青森挽歌」の響きを聞く」(『宮沢賢治』13,洋々社 1995)において、上記の列車では「青森挽歌」や「津軽海峡」の作品中時間に合わないこと、むしろ花巻発21時59分、青森着5時20分の列車、そして青森港7時55分発、函館港着12時25分の連絡船に乗れば、作品時間とぴたりと合うことを指摘されました。
 さらに入沢康夫氏も、「賢治の尽きせぬ魅力―その一局面についての随想―」(『国文学 解釈と鑑賞』,1996年11月)という文章において、『〔旧〕校本全集』年譜の「花巻駅午後二時三一分乗車」の根拠となった向井田重助氏が賢治と会ったという回想(川原仁左エ門編著『宮沢賢治とその周辺』所収)について、この1923年7月31日よりも後の出来事だった可能性も大きいことを考察し、ますむら氏の提案した列車時刻は、より現実味を帯びてくることになりました。

 この往路の列車時刻も、まだ断定的な確度を持って決めつけることはできませんが、『【新】校本全集』第十六巻「補遺・伝記資料篇」に、≪参考≫として、ますむら氏による時刻表が掲載され、今や研究者はともかく「賢治ファン」の間では、こっちの方が「定説」になったような観があります。

 今回の『宮沢賢治とサハリン』において、著者が推定している往路の行程も、これを踏襲しています(下図)。

「サハリン紀行」往路

 このスケジュールに関しては私も大きな異論はありません。ただ、「オホーツク挽歌」が書かれたのは確かに栄浜の海岸と思われますが、その日付は「一九二三、八、四」とされていて、賢治が栄浜に着いた翌日の午前のことと推測されます。また、上記では8月3日7時30分に大泊港に着いて、9時30分に栄浜行きの列車に乗ったとされていますが、萩原昌好氏は『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」への旅』(河出書房新社,2000)において、賢治はこの日の午前に大泊の王子製紙会社にいる細越健氏を訪ね、教え子の就職依頼をし、13時10分発大泊発、18時20分栄浜着の列車に乗ったと推測しておられます。
 また私としては、文語詩「宗谷〔二〕」の題材となったのは、往路ではなく復路の稚泊連絡船における体験だったのではないかと考えるところが、上の表と異なるところです。私が復路と考える理由は、以前に「「宗谷〔二〕」の紳士は貴族院議員?」という記事にも書きましたが、この作品は「日の出」が出てくるように早朝の情景であり、さらに

はだれに暗く緑する
宗谷岬のたゞずみと
北はま蒼にうち睡る
サガレン島の東尾や

とあるように、宗谷岬の色は「暗く緑」で、サガレン島の東尾の色は「ま蒼」である点です。近くや遠くの山の色を思い浮かべていただいたらわかるように、近い山は緑に見えるのに対して、遠くなるほど色は青く見えます。これは、空気中の分子によって光が散乱されるためで、波長の短い青い光ほど散乱されにくいので、遠くても目に届きやすいのです。空が青く見えるのも、同じ理由です。
 つまり、宗谷岬が「暗く緑」で、サガレン島が「ま蒼」に見えるとすれば、宗谷岬の方が観察者に近く、サガレン島の方が遠いと推定されるので、朝に宗谷岬の近くにいるとなると、夜に出航して翌朝に着く稚泊連絡船においては、大泊→稚内の「復路」と考えられるわけです。

 あと、著者の藤原浩氏がこの本で示しておられることで興味深かったのは、花巻からサハリンまで行くならば、賢治が採用したと思われる上の行程よりも、より短時間で到着できるダイヤが当時存在したというのです。それは、下の表のようなものです。

花巻→サハリン最短行程

 つまり賢治の旅行にあてはめてみれば、何も7月31日の夜に発たなくても、8月1日の朝7時11分の列車に乗れば、同じく8月3日の朝7時30分に大泊港に着くことができたのです。
 賢治も、旅行計画を立てる際にはおそらくこの「最短乗り継ぎ」のことはわかっていたでしょうが、こちらを採用しなかった理由として著者の藤原氏は、賢治が乗った列車乗り継ぎの方が、運賃が安くなるからではないか、との考えを示しておられます。賢治が函館で乗車した「三列車」は普通列車で、旭川から乗車した「一列車」は函館から滝川までは急行なのですが、それから先は普通列車になるので、旭川から乗った場合には急行料金がかからないのだそうです。そのため往路の料金は、最短乗り継ぎよりも1円22銭安くなるということです。
 このような「運賃」という観点からの考察は、これまでの賢治研究においてはなされていなかったことと思いますし、これはさすが、「鉄道・旅行ライター」の面目躍如ということろですね。
 ここで、もしもそれ以外に賢治が花巻発21時59分の列車に決めた理由を考えるとすれば、「最初から往路途中で旭川の農事試験場に寄ることを計画していたから」、あるいは単に「青森まで夜行列車に乗りたかったから」、ということも、想定することはできます。

 いずれにせよ、もしも賢治が花巻を朝に発つ列車に乗っていたならば、

こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる

という一節で始まる「青森挽歌」を、私たちは読むことはできなかったでしょう。

◇          ◇

 さて、復路に関しては、著者の藤原氏は、つぎのように推定しておられます。

「サハリン紀行」復路

 藤原氏は、「8月7日乗船説」をとっておられますが、その上でまず一つの特徴は、賢治が豊原に3泊したと推測しておられるところです。ただこれは、具体的な根拠があってのことではありません。
 私が勝手にその背景を推測してみれば、まず作品「樺太鉄道」は8月4日の日付を持っていて、「夕陽」の描写があるところから、夕方の情景と思われます。4日の夕方に賢治が鉄道駅まで来ているとなると、この時にもう栄浜を後にして、鉄道で南に向かったという可能性も、想定させます。それなら、8月7日には豊原近郊の「鈴谷平原」にいたことは作品からわかりますから、賢治はこの日のうちに豊原まで来たのかもしれないと考えてみることもできるでしょう。なお「樺太鉄道」には「鈴谷山脈」という地名が出てきますが、鈴谷山脈そのものは大泊の楠渓台地から豊原の東を通って栄浜に至り海に沈む南北に長い形になっていますので、これだけではどこでスケッチされたのか断定できません。
 当時の豊原市は、「樺太庁」の庁舎所在地で南樺太の中心都市であり、人口は約2万、札幌市を模して街路が碁盤の目の如く引かれ、整然とした街並みを誇っていたそうです。賢治は、現在も建物が残っている「樺太博物館」や、小沼の農事試験場、鈴谷山脈の山すその西側(すなわち賢治の言う「鈴谷平原」)にあった「樺太神社」などを訪れたのではないかと、藤原氏は推測しておられますが、これも残念ながら証拠はありません。

 それから、藤原氏の推測する復路行程のもう一つの大きな特徴は、「旭川で2泊」としておられるところです。これは新たな大胆な提起だと思いますが、その根拠は、往路でも「花巻発22時59分」という便を賢治が選んだ理由として挙げておられたのと同じく、「稚内発の「二列車」を旭川で下車すれば、急行料金がかからない」ということと、旭川では往路で見逃した農事試験場を見学したのではないか、ということです。これはこれで、一つの筋が通った理屈だと思います。
 さらに、「急行列車になるべく乗らない」というポリシーを護持して、旭川から函館までの列車も、『【新】校本全集』第十六巻「補遺・伝記資料篇」に、≪参考≫として掲出されている急行の「二列車」(函館桟橋6時27分着)ではなく、著者は上の表のように、普通列車の「八列車」を想定しています。ただし、この場合は函館着が「二列車」より1時間早まるだけでなく、噴火湾あたりを通過する時刻は1時間よりもっと早まるでしょうから、「噴火湾(ノクターン)」の作中時間と一致するかどうかが、やや気になる点ですね。この列車の噴火湾あたりの通過時刻については、機会があれば調べてみなければなりません。

 それから、もしも復路において旭川で2泊したとすれば、札幌で途中下車する時間はなく、この旅において「札幌市」(「春と修羅 第三集」)のもとになる体験があった可能性が消滅するところが、私にとっては影響をこうむる点です。残された機会は、1924年の修学旅行引率の時だけになります。
 ただ、旭川で農事試験場を訪ねるだけなら、2泊もする必要はなかったのではないかと思いますので、1泊は旭川、もう1泊は札幌、という可能性を生き残らせることもできなくはなさそうです。

 最後に、賢治が「盛岡から花巻まで歩いて帰った」という逸話に関して、藤原氏は新たな示唆をされています。まず、「豊原から盛岡までの運賃と花巻までの運賃では、22銭しか変わらず、(サハリンにおける宴会で芸者に所持金の大半を祝儀として渡してしまったという話は)にわかに信じがたい話ではある」とした上で、

豊原からはたして花巻まで遠で切符が買えたかどうかは疑問が残る。当時の連帯運輸はあくまで、主要駅間での発券を可能とした協定であった(のちに運用範囲はひろげられている)。往路の場合は事前に手配をすれば何とかなっただろうが、帰路に関しては、もしかすると盛岡までの切符しか買えなかった可能性も否定できない。

と書いておられるのです。「連帯運輸」という言葉が出てくるのは、鉄道省管轄下の本土の国鉄と、「樺太庁鉄道」では母体が異なるということから、本土内を移動する切符を買う場合とは異なるためでしょう。
 私は以前に「7日乗船説と9日乗船説(2)」という記事において、「盛岡まではずっと列車で来て、あと花巻までだけを徒歩にする理由としては、「金が足りなかった」ということ以外考えにくい」と書きましたが、「それ以外の理由」がありえたわけですね。
 ただ、それでも私は思うのですが、たとえ豊原から盛岡までの切符しか買えなかったとしても、お金さえあれば、盛岡でいったん降りて花巻までの切符を買うとか、花巻で乗り越し料金を払うとか、花巻まで列車で帰ることはできたはずです。賢治がいくら健脚とはいえ、長旅の疲れもあったでしょうし、「標本をいつぱいもつて」わざわざ35km以上も歩くというのは、もしお金さえあったなら、私には非常に不自然に感じられてしまいます。

 それはともかく、ブックレットというコンパクトな形式で、樺太の写真もいろいろと入っていて定価は600円、これは手軽な良書だと思います。

7日乗船説と9日乗船説(2)

 賢治がオホーツクの旅からの帰途において、サハリンを離れたのは、8月7日なのか9日なのか。
 これを考える上で一つの大きな鍵になるのは、前回も引用した晴山亮一の証言(森荘已池『宮沢賢治の肖像』所収)を、どう評価するのかということになるのだろうと思います。

 いろいろな話のなかに、カラフトに行った話がありました。夏休みにカラフトに行ってきたが、カラフトは、花の匂いがよくて、とてもよいところだったと言いました。二、三人の人たちの職場をさがしてくる旅行ということでした。
 先生は、この旅行で、生まれてはじめて、あとにも、さきにもないことに、出会ったんです。友人が料亭に先生を招待して、芸者を呼んで、さかんな宴会をしたのですね。大騒ぎで飲めや唄えやとやったのでしょう。ところが先生はそういう方面の芸はゼロといった情けない方です。そこで懐中にあった金を全部お祝儀に芸者にやってしまったのですね。
 汽車賃もなくなったので、青森までの切符は買ってもらい、青森では、何か身の回りのものを売ったりして盛岡まで汽車で帰り、盛岡からは、花巻まで徒歩旅行というわけです。

 『新校本全集』の「年譜篇」では、この証言は脚注では紹介されていますが、本文には採用されていません。
 堀尾青史著『年譜 宮澤賢治伝』においては、8月4日のこととして「再び豊原へもどり高農先輩、後輩たちの歓迎宴を毎日受ける。」と書かれていますが、晴山証言には触れられていません。

 一方、『新校本全集』年譜篇の本文においても、堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』においても、8月12日の項には、「盛岡より徒歩で帰花(花巻に帰る)」と記されています。
 ここで、私はまだ不勉強のためにわからないのですが、賢治が「盛岡から徒歩で花巻に帰った」ということに関しては、晴山証言以外にも何らかの根拠があるのでしょうか。他にも裏づけがあるので、これは確度が高いこととして、(晴山証言は脚注扱いなのに)『新校本全集』年譜篇の本文にも採用されているのでしょうか。

 もしも、「盛岡から徒歩帰花」ということに対して晴山証言以外にも裏づけがあるのなら、その別の証拠は、晴山証言の信頼性を格段に高めることになるでしょう。盛岡まではずっと列車で来て、あと花巻までだけを徒歩にする理由としては、「金が足りなかった」ということ以外考えにくいからです。
 『新校本全集』の補遺伝記資料篇によれば、当時、青森発上野行きの急行として、13時30分発で盛岡には停車するが花巻には停車しない「八〇二急行」と、14時35分発で花巻にも停車する「二〇二急行」があったようです。しかし、荷物も多く、盛岡から花巻まで歩けば上記の列車の時間差よりもはるかに遅くなってしまうことを考えると、お金さえあれば、花巻に停車する列車を選んだだろうと考えるのが自然です。たとえ青森駅で、花巻に停車しないことを知らずに間違えて「八〇二急行」に乗ってしまったとしても、盛岡で下車して「徒歩」を選ばず、2時間半ほど後の「二〇二急行」を待ったでしょう。
 つまり、賢治が徒歩で盛岡から花巻に帰ったのだとすれば、サハリンで「懐中にあった金を全部お祝儀に芸者にやってしまった」という晴山証言が、真実味を帯びてくるのです。

 そしてその場合には、「9日乗船説」が、俄然有利になります。なぜなら、サハリンを離れる時に賢治がお金を持っていなかったのなら、7日に乗船して8日に稚内に着き、9日、10日を北海道の「どこか」で(無銭で)過ごし、11日に噴火湾を通るという日程をとるとは思えないからです。
 一方、9日に乗船したとしたら、10日午前5時に稚内港に着き、7時25分発の「急行二」に乗って、11日未明に噴火湾を通過して6時27分に函館桟橋に着き、7時発の青函連絡船に乗れば、一直線に青森まで到着します。

 あるいは、『新校本全集』が、8月12日に「盛岡より徒歩で帰花」と本文に記した理由は、『校本全集』にそう書いてあったから、というのが真相なのかもしれません。しかしそれにしても堀尾青史氏は、晴山証言以外に何かの根拠を持っておられたのでしょうか。
 いずれにしても、「8月12日に盛岡より徒歩で帰花」ということを認めるのならば、「9日乗船説」の方が有利になるだろうというのが、最近の私の考えです。

 ただ、そう考えてしまうと、賢治が「札幌市」に描かれた体験をした可能性のある機会が、一つ減ってしまうことにはなるんですね。

[この項まだつづく]

7日乗船説と9日乗船説(1)

 1923年8月の「オホーツク挽歌」の旅における賢治の旅程については、かなりの部分が明らかになっているとは言え、まだ不明の部分も多く残っています。
 代表的な「謎」の一つは、賢治がサハリンからの帰途、稚泊連絡船でサハリンの大泊港から北海道の稚内港に向けて出港したのは、8月7日だったのか、8月9日だったのか、という問題です。これについては以前に「「宗谷〔二〕」の紳士は貴族院議員?」という記事でも触れました。

 今回私は、その議論にも少し関わる一つの記述を国会図書館で見つけたので、ここにご報告します。ただし、結論を先取りして言うと、真相はやはりまだ闇の中です。7日乗船説と9日乗船説のいずれが正しいかということについては、現在の私たちが確認できている証拠からは、どちらとも確定できません。

 まずは、問題点の復習から。当時の稚泊連絡船の上り便(大泊→稚内)は、2日に1便の運航で、奇数日の21:00に大泊港発、翌朝の5:00に稚内港着ということになっていました。
 「7日乗船説」の最大の根拠は、「一九二三、八、七」の日付のある作品「鈴谷平原」に、

こんやはもう標本をいつぱいもつて
わたくしは宗谷海峡をわたる

という一節があることです。正確には、当時の樺太には「鈴谷平原」という地名はなかったようですが、豊原市の東に「鈴谷岳」という山があり、市街の東の原野から鈴谷岳の山麓に至る一帯を、賢治は「鈴谷平原」と表現したと推測されています。この作品中の賢治の記載がそのまま事実とすれば、賢治は7日夜に、大泊港から乗船したことになるわけです。
 一方、「9日乗船説」が重要な根拠とするのは、森荘已池『宮沢賢治の肖像』に記載されている、賢治の元教え子・晴山亮一(大正14年卒)による次のような証言です。

 いろいろな話のなかに、カラフトに行った話がありました。夏休みにカラフトに行ってきたが、カラフトは、花の匂いがよくて、とてもよいところだったと言いました。二、三人の人たちの職場をさがしてくる旅行ということでした。
 先生は、この旅行で、生まれてはじめて、あとにも、さきにもないことに、出会ったんです。友人が料亭に先生を招待して、芸者を呼んで、さかんな宴会をしたのですね。大騒ぎで飲めや唄えやとやったのでしょう。ところが先生はそういう方面の芸はゼロといった情けない方です。そこで懐中にあった金を全部お祝儀に芸者にやってしまったのですね。
 汽車賃もなくなったので、青森までの切符は買ってもらい、青森では、何か身の回りのものを売ったりして盛岡まで汽車で帰り、盛岡からは、花巻まで徒歩旅行というわけです。

 記述内容からは、賢治が料亭で接待を受けたのはサハリンを去るのも近い日と思われますが、賢治のスケジュールや、接待者(盛岡中学および盛岡高等農林学校における同窓の細越健氏と推測されている)の都合から考えると、賢治が7日夜に大泊港を発っていてはこのような接待を受ける時間的余裕はなく、8日夜に宴会が行われ、9日夜に賢治は大泊港を発ったと考えるのが最も自然だということで、「9日乗船説」となるのです。

 両説は、いずれも決定的な証拠に基づいているわけではないので、どうしても双方の主張は「平行線」という状態でしたが、一度だけ議論が「交叉」したポイントがありました。
 それは、「8月7日の大泊発稚内行きの便(対馬丸)は悪天候のため欠航したのではないか」と松岡義和氏が提起し、これに対して萩原昌好氏が「8月7日の便は運航していたはずだ」と応じた一件です。

 まず、松岡義和氏の論は、次のようなものでした(萩原昌好『宮沢賢治「銀河鉄道」への旅』より引用)。

  • 当時の気象台の記録によると、1923年8月7日は宗谷海峡は風速11.3mの暴風で、4mの高波であった。
  • 当時「だるまはしけ」であり、風速11.3mで3mの高波の時は、欠航した。
  • だから、8月7日は対馬丸は当然欠航したと考えられる。賢治が対馬丸に乗って大泊を出航したのは、8月9日である。

 これに対して、萩原昌好氏は、「大正12年『樺太気象表』1923」を引用して、次のように述べます(上掲書)。

 これによると、8月7日は大泊で、14時頃、確かにWNW11.3mの風が吹いている。つまり、西北西の風毎秒11.3mということで、これでは艀は無理である。
 ところが賢治が乗る予定だった対馬丸出航の午後9時頃には、風速も大分弱まっており、風向も同10時には東風で2.4mとなっている。これなら艀に乗って乗船することは可能である。
 もう一つ、例の貴族院議員一行は岡野屋での歓送の宴のあと、帰船の途についているのである(記事参照)。貴族院の一行が乗れて賢治が乗れない筈はないので、もし意図的に賢治が日をずらさない限り、 7日の船便に乗船可能だったのである。

 上記に(記事参照)と出てくる樺太日日新聞の記事は、下のようなものです。萩原氏の著書では、記事の終わり一部が切れていたので、これは今回あらためて国会図書館でコピーしてきたものです。

「樺太日日新聞」1923年8月8日版(1面)

 つまり、大泊町では7日夜に貴族院議員の樺太視察団の一行を歓迎する宴を催し、「此宴終つて後一行は同夜出帆の連絡船に搭乗帰途につきたるが…」という記事の内容で、これを見るかぎりでは、8月7日の連絡船は欠航していなかったことになります。
 もちろん、これは「賢治が7日に乗船した」という証拠となるものではありませんが、「7日便が欠航していたから7日乗船説が成立しない」という主張を否定することにはなります。

 さて、ここで出てきた「貴族院議員一行」というのは、貴族院における「研究会」という院内会派の有志で、樺太の状況を視察するために、ちょうどたまたま賢治の来島と重なる時期に、サハリンを訪れていたのです。
「樺太日日新聞」1923年8月3日(第2面) そのメンバーは、右の記事のとおりです(「樺太日日新聞」8月3日付第二面)。すなわち、堀田正恒伯爵、青木信光子爵、牧野忠篤子爵、榎本武憲子爵、八條隆正子爵、本多實方子爵、小松謙次郎勅撰議員、そして蜂須賀侯爵家の小林幸太郎氏の8名です。最後の小林氏のみは、貴族院議員ではありません。

 私が貴族院議員視察団の名前を調べてみた理由は、宮澤賢治のサハリンにおける行動について、第三者が記録に残している可能性は非常に低いと思われるのに対して、貴族院議員団の動静は種々の記録に残されているので、ひょっとしたらその記録が何らかの形で、賢治の動きを間接的に知る参考になるかもしれないと思ったからです。現に、萩原昌好氏が上に示されたように、貴族院議員団が8月7日に大泊港から帰途についたという記事が、賢治も同じ日に動いた可能性を否定できなくしています。
 まず、「堀田正恒」「青木信光」…と、各議員の名前を含んだ書籍を国会図書館で検索して、その伝記などがないかということを調べてみましたが、見つかったのは、坂本辰之助等編『子爵牧野忠篤伝』(華堂子爵伝記刊行会1940年刊)という本のみで、その中には樺太視察のことは何も書かれていませんでした。また、帝国議会貴族院の会議録や、院内会派「研究会」の記録についても調べてみましたが、やはり樺太視察のことは書かれていませんでした。
 ちょっと壁にぶつかっている感じがしていたところ、上の記事では最後に名前が出ている「蜂須賀侯爵家小林幸太郎」という人について調べてみたら、賢治とは関係ない領域ながら、面白いことがいろいろありました。さらに、名島武治著『北海魔王小林幸太郎君』(伊坂出版部1927年刊)という半生記が国会図書館に所蔵されており、これによって、貴族院議員樺太視察団の趣旨や、その日程についても知ることができました。
 この本の137ページ、「(17) 上院議員本道視察」という章には、次のように書かれていました。

 京濱大震災の一箇月前、即ち大正十二年の八月であつた。小林君は、貴族院研究會の、最高幹部を、説きつけ、自ら東道役となり、北海道及樺太の、視察旅行を行つた。其時の一行は。
 子爵青木信光、子爵牧野忠篤、子爵八條隆正、子爵榎本武憲、
 伯爵堀田正恒、勅撰小松謙次郎。
の諸氏で、突然(さながら)大名行列 昔なら下へ下へと到るさきで、土下座をさせたことであらう。鐵道省よりは、特に事務官服部鶴五郎氏を附随せしめ、東京よりは、時の北海道庁長官宮尾瞬治、代議士東武の両氏が、同行したのであつた。函館に上陸したのは、炎熱灼くが如き、八月の一日で、かく云ふ著者も、北海タイムス社の、社命により、青森まで出迎へ、始終一行に随伴したのである。
(中略)
 小林君がこの視察団を企てた、主なる目的は、
(一)北海道自作農創成を一日も早く實現させたい。(二)北海道に於ける金融制度を改善しなければならぬ。(三)北海道を特別會計にしたい。(四)農務省を独立せしめなければならぬ。(五)北海道樺太を併合させたい。
と云ふのが、小林君平素の持論であつて、この五大問題を、解決せんとするには、先以て有力なる、貴族院の団体をして、北海道を理解せしむることが、最も肝要であると考へた為に、水野直子爵を通じて、極力諒解を求め、漸くにして、視察の實現を見たのである。

 これを読むと、貴族院議員視察団を企画したのが、そもそもこの小林幸太郎という人であったことがわかります。小林幸太郎氏とは、蜂須賀侯爵家が北海道の雨竜村に経営していた農場の顧問で、この1923年にも「時事新報」に、「華族富豪の小作地解放論」という論文を寄稿したりしている論客で、なおかつ法華経の熱烈な信者でもあったという人物です。また、視察団が函館に上陸したのが、偶然にも賢治と同じ8月1日であったこともわかります。
 さて、上記の引用部分に続いて、この本には視察団の日程が、139ページから143ページにわたって記されていますが、そのうち139ページから141ページを下に掲げます。

「北海魔王小林幸太郎君」p.139

貴族院議員団視察日程1

貴族院議員団視察日程2

 ここで注目すべき点は、貴族院議員団が大泊港から樺太を発ったのは、先に「樺太日日新聞」の記事をもとに萩原昌好氏が述べられた「8月7日」ではなく、「8月9日」とされていることです。(九日)の項の最後には「大泊發稚内に向ふ。」とあり、(十日)の項の最初には「稚内着、」と記されているのです。

 すなわち、「樺太日日新聞」の8月8日付記事と、この『北海魔王小林幸太郎君』の記述の間には矛盾が生じているわけですが、これはいったいどう考えたらよいのでしょう。
 「樺太日日新聞」も、現地における同時代的記録ですし、一方『北海魔王小林幸太郎君』も、視察団に同行した新聞記者が書いたもので、一定の信頼が置ける記録と考えられます。その(九日)(十日)の前後は、それぞれサハリンと北海道における詳細なスケジュールでびっしりと埋められており、乗船日だけが間違っていたとして訂正することは困難な状況です。

 ここで思うのは、「樺太日日新聞」の8月8日付記事は、おそらく8月7日のうちに書かれたものでしょうが、7日夜の歓迎宴を実際に取材して記事を書いていたら、おそらく翌日の朝刊に間に合わないでしょうから、少なくとも一部分は、あらかじめ発表されている「予定」をもとにして書かれているのではないか、ということです。そう思って記事を読むと、「当夜の出席者は主賓陪賓にて廿一名主人側十九名なりし筈なり」と、「筈」などという言葉が用いられていることから、やはり実際に記者が確認した事柄ではないことがわかります。
 ところで、「樺太日日新聞」の記事の方をもう一度見てみると、大泊町での一行の行動は、「一行はまづ大泊築港状態を視察し同事務所にて晝餐を喫したる上更に王子工場養狐場等要所を視察し後右歓迎会に臨めるが…」とあり、これは、『北海魔王小林幸太郎君』における(九日)の記載「大泊築港視察、大泊養狐場視察、岡野屋に於ける歓迎會に臨む。」と、ぴったりと一致していることがわかります。部分的な食い違いではなくて、このように日程を平行移動したようなズレが生じているのは、いったいなぜなのでしょうか。
 思い当たるのは、この議員団は、当初は8月3日に樺太に上陸する予定だったのが、北海道での予定変更のために、2日遅れて8月5日に樺太に入ったということです(下記事参照)。

「樺太日日新聞」1923年8月2日(第二面)

 これは、「樺太日日新聞」の8月2日付記事ですが、「貴族院銀研究會の一行は今三日大泊入港の聯絡船にて來島の予定なりしが北海道函館の湯の川及旭川市の二ヶ所にて各一泊の為日程遅れ明後五日の聯絡船にて來島の事となれり」とあります。つまり、一行のスケジュールは、当初の予定よりも2日遅れで進行したのです。
 ここで私が推測するには、先に挙げた「7日に大泊港を発った」という8月8日付記事は、日程変更の前に新聞社が入手していた議員団一行の旅程をもとにして、作成してしまったものではないか、ということです。『北海魔王小林幸太郎君』に記されている日程と、ちょうど平行移動したように2日ずれていたことの原因は、直前になっての日程変更を記者がうっかり忘れて記事を作ってしまったからと考えれば、説明がつきます。

 つまり、私としては貴族院議員団が大泊から稚内に渡ったのは、萩原昌好氏が推測された「8月7日」ではなくて、「8月9日」ではなかったかと、考えるのです。
 とは言え、私の推測が正しかったとしても、これは賢治の大泊からの乗船が、7日であったか9日であったかという問題に対して、何かの示唆を与えてくれるというほどのものではありません。単に、「8月7日に貴族院議員団が稚泊連絡船で大泊を発っていたから7日欠航説は成り立たない」という主張が、根拠を失うだけです。8月7日の連絡船が欠航していたか運航していたかも、不明のままです。

 それにしても、賢治だけではなく貴族院議員団の大泊港乗船日に関しても、「7日乗船説」と「9日乗船説」の二つがありうるというのは、偶然ながら面白いことです。

冥界としてのサハリン

 1924年の北海道修学旅行引率中に書かれた「凾館港春夜光景」(「春と修羅 第二集」)の冒頭は、

地球照ある七日の月が、
海峡の西にかかって、
岬の黒い山々が
雲をかぶってたゞずめば、
そのうら寒い螺鈿の雲も、
またおぞましく呼吸する
そこに喜歌劇オルフィウス風の、
赤い酒精を照明し、・・・

と始まります。
 ここに出てくる「喜歌劇オルフィウス」とは、オッフェンバック作曲の喜歌劇「地獄のオルフェ」(一般的な邦題は「天国と地獄」)のことで、その日本初演は1914年、帝国劇場においてでした。

 ギリシア神話に由来するこのオルフェウス伝説は、歌劇としてもモンテヴェルディ作曲「オルフェ」、グルック作曲「オルフェオとエウリディーチェ」になり、また映画としてはジャン・コクトー監督の「オルフェ」、マルセル・カミュ監督の「黒いオルフェ」などの題材となった、古今を通じて人気のある物語です。
 それらの原典としてのギリシア神話では、これは以下のようなお話でした。

 吟遊詩人オルフェウス(ギリシア読みではオルペウス)は、音楽の神アポロンからその技を受けついだ竪琴の名手で、草木や動物たちまでもが、その竪琴の音色に心を奪われた。しかし、彼の美しい恋人エウリディケは、花を摘んでいた時に毒蛇に噛まれ、死んでしまう。嘆き悲しんだオルフェウスは南へとさすらい、ペロポネソス半島の南端までやってきた。そこに、死者の国への入口があるからである。
 オルフェウスは、竪琴の音色の魅力によって冥府の川の渡し守を籠絡し、地獄の犬ケルベロスも、魔法にかかったように道をあけた。そして彼はついに、冥府の王ハデスと女王ペルセポネのもとにたどり着いた。
 オルフェウスは竪琴を奏でながら、恋人エウリディケを返してくれるよう願い出た。ハデスとペルセポネもその音色に心を動かされ、結局エウリディケを現世に帰すことを許可したが、ただし冥界から抜け出すまでは、決してエウリディケの方を振り返って見てはならないという条件を付けた。
 オルフェウスは、竪琴を弾き語りながらエウリディケを後ろに随えて闇の中を歩き、あと一歩で地上に出られる所まで来た。しかしここでオルフェウスは、思わず不安にかられて、エウリディケの方を振り返って見てしまう。彼女は悲しそうな顔で、霞となって消えてしまい、オルフェウスはエウリディケを永遠に失った。
 その後、オルフェウスは現世で失意のうちに非業の死を遂げ、その竪琴は天に上げられて琴座となった。

コロー「冥界からエウリディケを導くオルフェウス」
コロー「冥界からエウリディケを導くオルフェウス」

 不思議なことにこの話は、日本神話の伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)の話に、とても似ています。伊弉冉尊が亡くなった時、悲しんだ伊弉諾尊は黄泉の国まで追いかけて行き、彼女を連れ帰る許可を黄泉神から得ますが、「途中で伊弉冉尊を見てはいけない」との約束をさせられ、やはり道中で思わず振り返って見てしまったために、連れて帰れなかったというのです。
 それはさておき、オッフェンバックによる喜歌劇は、オルフェウス伝説をかなり戯画化したものではありましたが、やはりオルフェウスが冥界に行き、死んだ恋人を連れ帰ろうとしたという筋書きに違いはありません。

 そして、宮澤賢治が1923年夏にサハリンへ旅立ったのも、「死んだ妹トシの魂の行方を求めて」であったのです。もちろん賢治は、トシを現世に連れ帰ろうとまで考えていたわけではありませんが、北の最果ての地サハリンとは、死者との交信も可能な、地上に現れた冥界の象徴として、賢治には感じられていたのではないかと私は思うのです。
 ギリシアにおいては、北方の山地に神々が住むオリンポスの山があり、反対にペロポネソス半島の南の果てに冥界への入口があったということで、日本の最北にあるサハリンとは、地勢学的には逆になりますが・・・。

 このように私が、サハリン=冥界という観念を賢治がどこかに抱いていたのではないかと思うのは、「サガレンと八月」という彼の未完の童話にもよります。
 「サガレンと八月」は、やはり1923年のオホーツク挽歌行のサハリンで着想を得たと推測される童話です。主人公タネリは、母親から、「すきとおったくらげをすかして物を見てはいけないよ」とあらかじめ注意を受けていたにもかかわらず、海辺で思わずくらげを通して景色を見てしまいます。すると、「いままでの明るい青いそらががらんとしたまっくらな穴のようなものに変ってしまってその底で黄いろな火がどんどん燃えてゐるやう」になり、タネリは犬神に拉致されて海底に連れて行かれ、チョウザメの下男にされるのです。
 ここでは、「くらげをすかして見る」ことによって、サハリンの現実世界が急に異界に「変化」してしまったかのようにも読めるかもしれませんが、実は世界が変わったのではなくて、それまで見えなかったものが見えるようになっただけなのです。それは、タネリの母親が、「おまへの眼は悪いものを見ないやうにすっかりはらってあるんだから。くらげはそれを消すから。」と述べていることに、表れています。タネリにとっては、それまで見えないように祓われていた「悪いもの」が、見えるようになってしまっただけなのでした。
 つまり、砂浜や「はまなす」の美しいサハリンは、実は一方でこのように犬神(cf.地獄の魔犬ケルベロス)が跋扈する異界でもあって、ふだんはそのような側面は人間に見えないようにされているだけだというのが、この童話に秘められた前提だったわけです。

 ところでこの物語では、母親が「くらげをすかして見てはいけない」という禁忌を与えたのに、タネリはその言いつけを破ってしまいます。このような禁止は「見るなのタブー」と呼ばれ、古今東西の物語に現れますが、これもまた、「振り返って見てはいけない」との禁忌を与えられたオルフェウス伝説やイザナギ・イザナミ神話と、共通しているところです。
 また、連れ去られたタネリは、海底にあるチョウザメの部屋に押し込められますが、これこそ賢治が「宗谷挽歌」において、「海に封ぜられ」ると述べた事態を象徴するかのようです。つまり、「サガレンと八月」におけるタネリの運命は、死者との交信を求めて異界サハリンまでやって来た賢治自身が、ひょっとしたらそうなったかもしれない姿とも言えるのです。

サハリンと鮭と蝶鮫 ちなみに、日本においてはその南端の形から、しばしば「鮭」に喩えられるサハリンの姿ですが、ロシアではこの島は、「チョウザメ」の形だと言われているそうです。(右の図に見るように、これはなかなか「鮭」よりも似ていると言わざるをえません。)

 サハリンを蝶鮫にたとへることは、南部の場合は殊にふさわしく、全く魚の尾鰭にそつくりである。尾の左端はクリリオン岬、右は――アニーワ(亜庭)岬と呼ばれ、その間の半圓形をなした入江を――アニーワ湾といふ。
(チェーホフ『サハリン島』岩波文庫)

 そうすると、タネリがチョウザメ(=サハリンの隠喩)に囚われてしまうというストーリーは、現実の賢治の旅にあてはめてみると、場合によっては、賢治自身が冥府サハリンから現世の花巻に帰れなくなるという事態もありえたという、自らの不安を暗示していたと考えてみることもできます。

 鈴木健司氏は、『宮沢賢治 幻想空間の構造』第8章「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」において、「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」を、「ポジとネガの関係」にあると述べておられますが、まさにそのような不思議な関係にある二つの作品だと思います。


 ということで結局、オホーツク挽歌行の翌年の農学校の修学旅行における「凾館港春夜光景」の中に、「オルフィウス」が登場するのは、はたして偶然だったのでしょうか。
 前回に挙げてみたいくつかの例と同じく、これも根拠の薄い私の「空想」にすぎませんが、賢治の1923年の旅と、1924年の旅との間に、何とか赤い糸のような「つながり」を見つけたくて、あれこれ考えてみた一くさりです。

 ところで「サガレンと八月」において、くらげをすかして空を見たタネリは、「いままでの明るい青いそらががらんとしたまっくらな穴のやうなもの」に変わってしまったのを見ました。「そら」が「穴」になるとは、突然上と下が逆転したような感覚に襲われますが、上方への「サハリン行」を「冥府くだり」と考えてみることにちなんで、上下を逆にした地図を作ってみました。

サハリン冥府くだり

チエホフだよ・・・

 『春と修羅』所収の「マサニエロ」という作品は、冷たい秋の空にどこかしらさびしい雰囲気が感じられます。翌月のトシの死の予感も、漂ってくるようです。

 この作品の中に、「(ロシアだよ チエホフだよ)/はこやなぎ しつかりゆれろゆれろ」という一節が不意に登場するのですが、これについて「新宮澤賢治語彙辞典」は、「チェホフに民話風の短篇『はこやなぎ』があるのを賢治は読んでいて連想したと思われる」と説明しています。ところが、いくらあちこちを探しても、チェーホフには「はこやなぎ」という題名の作品は見つからないのです。
 「日本ロシア語情報図書館」というサイトにある「チェーホフ日本語翻訳作品一覧」というページは、翻訳された作品に関してはかなり網羅的なようですが、これにも「はこやなぎ」という作品は載っていませんし、国会図書館の蔵書から検索した1922年以前に出版されたチェーホフの訳書5冊の収録作品の中にも、そのような題名は見あたりません。
 ちなみに、チェーホフの初期の短篇に、「ねこやなぎ」という作品ならあります。猫が箱に化けるなどということはないでしょうが(笑)、ひょっとして「新宮澤賢治語彙辞典」は、このよく似た作品名と取り違えたのでしょうか。
 「マサニエロ」では、賢治はぼんやりと空を眺めながら、イタリア→ロシア→支那という風に自由に連想を浮遊させているのですから、たまたまそこにあった樹木とチェーホフの作品名との間に、とくに関連は存在しなくてもよいようにも思います。どなたか、チェーホフの「はこやなぎ」という作品についてご存じ方がおられましたら、ご教示いただければ幸いです。


 さて、私としては、チェーホフと宮澤賢治を並べてみると、両者の作品に出てくる不思議な「音」のことが気になります。
 まずチェーホフの「桜の園」の第二幕に、その音は登場します。(湯浅芳子訳)

(みんなすわって、じっと考えこむ。静けさ。フィールスがそっとつぶやいているのだけがきこえる。突然、まるで天から落ちたように、遙かな遠い音が鳴りひびく、ぷっつり切れた絃の、しだいに消えてゆくもの悲しい音)

リューボーフィ・アンドレーエヴナ  あれは何?
ロパーヒン  わかりません。どこか遠くの炭坑で釣瓶が切れたんでしょう。
  しかしどこか非常に遠くだ。
ガーエフ  がもしや鳥かもしれん。何か……鷺のような。
トロフィーモフ  それとも大みみずくか……
リューボーフィ・アンドレーエヴナ  (身ぶるいする)気持ちがわるいわど
  うしてか。(間)

 この音は、第四幕のいちばん最後の幕切れにも現れます。四幕ではすでに桜の園の桜は伐り倒され始めていますが、その斧の音は別に聴こえていますから、これは得体の知れない「謎の音」です。それがはたして何を象徴しているのかということについては、様々な議論があるようですね。
 具体的にどんな音をイメージするかとなると、人によっていろいろでしょうが、「演劇の舞台音響 =「桜の園」の音=」というページでは、その一つの実例を聴くことができます。

 一方、賢治の「林学生」(「春と修羅 第二集」)には、次のような部分があります。

東の青い山地の上で
何か巨きなかけがねをかふ音がした
それは騎兵の演習だらう
いやさうでない盛岡駅の機関庫さ
そんなもんではぜんぜんない
すべてかういふ高みでは
かならずなにかあゝいふふうの、
会体のしれない音をきく
それは一箇の神秘だよ

 ここでも、登場人物があれこれと詮索していますが、結局この「巨きなかけがねをかふ音」は、「一箇の神秘」ということになっています。

 私には、何となく二つの音の由来が似ているように感じられ、「桜の園」でも「林学生」でも、これはきっと「この世の音」ではなくて、世界の裏側かどこかから響いてきているのではないかと思えるのです。
 音楽において、これらに相当する「音」を考えてみると、私は、マーラーの交響曲第六番の第四楽章で、二度にわたって撃ち下ろされる巨大なハンマーの音を連想します。


 ところで、チェーホフと賢治には、このような「謎の音」、それからどちらも結核で亡くなったことに加えて、さらにもう一つ共通点がありました。
 二人とも、その生涯における魂の危機に際して、サハリンを訪ねていたのです。

 チェーホフは、30歳の1890年にサハリンを目ざしますが、まだシベリア鉄道も開通していない時代に、大半を馬車で、モスクワから1万km離れた極東のさい果ての地へ行くのは並大抵のことではなく、実に片道に3ヵ月を費やしています。そしてサハリンでは、苛酷な環境で強制労働をさせられている流刑囚の実態を3ヵ月にわたって調査し、その結果を後に『サハリン島』という厖大な報告書にまとめます。
 賢治の旅行は、これに比べるとはるかに穏やかなもので、自分自身「オホーツク挽歌」で 'Casual observer! Superficial traveler!' と自嘲したように、わずか数日間の滞在にすぎませんでした。
 しかし、チェーホフの旅行が「仮死と再生の旅」と呼ばれるのと同様に、賢治のサハリン行はやはり彼自身にとっては死を賭けた試みであり、これらの旅の体験が彼らのその後の創作に対して大きな影響を与えたことも、共通しています。


 チェーホフが亡くなったのは1904年で、これは日露戦争が始まった年でした。この戦争にかろうじて勝利をおさめた日本は、1905年のポーツマス条約によってサハリンの南半分の領有権を獲得し、1907年に「樺太庁」を設置します。
 1918年、日本はロシア革命に乗じてシベリア出兵を行い、さらに北方への足場を固めようと、陸海の交通網を整備していきます。1922年11月、旭川~稚内間の宗谷線が開通したのに続いて、1923年5月には、稚内港とサハリンの大泊港を結ぶ稚泊連絡船が就航しました。これによって、東京からサハリンまでの経路が、鉄道および連絡船によって、一本に貫通したわけです。

 まるでこれを待っていたかのように、賢治がサハリンへ旅立ったのは、その年の夏のことでした。

「オホーツク挽歌」の行程

 先日このブログで論じた、「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」と「宗谷〔二〕」をめぐる話題に関連して、「賢治の事務所」の加倉井さんが、「緑いろの通信」9月6日号において、古天文学的・地理学的な考察を加えておられます。
 私としては、大ざっぱなイメージで、上の2つの作品はオホーツク行の「復路」のことだろうと考えていたにすぎなかったのですが、あちらではその状況が精緻に検討されていました。加倉井さん、素晴らしいお仕事をありがとうございます。

 私の方は、先週からずっと「牧馬地方の春の歌」の歌曲ファイルを作っているところです。こんどの日曜日くらいに公開できれば、と思っています。

西洋料理店のような?

 「【新】校本全集」第五巻の「補遺詩篇 I 」に、「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」という断片が収められています。ご覧いただいたらわかるように、作品の頭の部分はどこかへ行ってしまって、終わりの6行だけがかろうじて残っているという状態のものです。
 現存しているのがこのような姿であるために、残念ながら「作品として鑑賞する」にはちょっと苦しい感があります。いきなり冒頭から「大きな西洋料理店のやうに思はれる」と切り出されても、いったい何がそう思われるのか、見当もつきません。

 しかし、それに続けて、「朱金」「樺太の鮭の尻尾」「砒素鏡」と来ると、これは最近もどこかで見たことのある言葉ではありませんか。
 そう、「文語詩未定稿」に収められている「宗谷〔二〕」という文語詩と、同じような情景を描いているようなのです。

 先日もこの欄で書いたように、「宗谷〔二〕」に描かれているのは、「オホーツク挽歌」の旅行の帰路、サハリンの大泊港から北海道の稚内港に向かう船上で、ちょうど日の出を迎える直前直後の情景でした。
 一方、この「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」においても、「樺太の鮭の尻尾の南端」が同じく「藍いろ」に見えています。「鮭の尻尾」とは、地図を見ていただいたらわかりますが、樺太の南端というのは亜庭湾を囲むように東西の半島が突きだしていて、ちょうど大きな魚の尾ひれのような形をしているので、よくこう喩えられます。また、「朱金」は朝日の光の色と思われますから、結局これは「宗谷〔二〕」と同じ場所と時間におけるスケッチと言えるのではないでしょうか。

 そうするとこれは、「宗谷〔二〕」という文語詩に改作される前身であるところの、口語詩の断片なのではないでしょうか。

 この作品の書かれている原稿用紙の状況は、さらにその推測に肯定的です。「【新】校本全集」第五巻校異篇を参照すると、この断片は昨日も紹介した「丸善特製 二」原稿用紙の上に、「青っぽいインクで」、「きれいに」書かれています。この用紙種類、インク、字体の組み合わせは、賢治の詩の草稿の中では、『春と修羅』の「清書後手入稿」と「詩集印刷用原稿」に見られるものに一致します。
 すなわち、現在「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」と呼びならわされている作品は、いったんは作者によって『春と修羅』に収録することも検討され清書されながら、結局は収録されなかった作品の一部だったのではないでしょうか。「【新】校本全集」の分類方法で言いかえれば、ちょうど「旭川」や「宗谷挽歌」のように、「『春と修羅』補遺」の位置にあったものなのではないでしょうか。
 もしそうならば、これは草稿段階では、8月7日昼間の「鈴谷平原」と、8月11日未明の「噴火湾(ノクターン)」の間に位置していたはずですね。

 この作品が散佚せずに残った理由は、その用紙の裏面に、童話「毒もみの好きな署長さん」が書かれていたために、童話草稿として保存されていたことによるようです。作者はこれを、詩草稿としては残す必要はないと判断していたものの、たまたま童話を書くための紙として利用したのでしょう。
 さもなければ失われたであろうところに生まれた一つの偶然が、まだ謎の部分の多い「オホーツク挽歌」の旅の帰路を、少しだけ垣間見せてくれているように思います。

 さて、上記のように推測してみた上で、「大きな西洋料理店のやうに思はれる」という冒頭行に戻ります。
 この日、賢治が大泊から乗船したのは、8月2日にサハリンに渡ったのと同じ「対馬丸」でした。この船の写真は、「戦時下に喪われた日本の商船」というサイトの、対馬丸のページに掲載されています。
 また対馬丸の内部の様子については、当時いっしょに稚泊航路に就航していた同型の「壱岐丸」について、「天翔艦隊」というサイトの「最北の鉄道連絡船」というページに、次のような説明があります。

 船内配置は英国の渡峡船に準じているが、室内装飾には日本趣味を取り入れ、日本人好みのものとしていた。
 ブリッジの真下にあたる上甲板の前部室を一等客社交室(サロン)兼出入り口広間(エントランス・ホール)とし、その下のメインデッキには一等食堂がある。両者の間は楕円形の吹き抜けと階段で結ばれており、天井には色ガラスの天窓(スカイライト)が設けられた。天窓の模様には山陽鉄道の社章が模されおり、これは晩年に至るまでそのまま残されていた。談話室の左右及び前方には、壁に沿って長いソファーが取り付けられ、その後方には一等船室が2室、また食堂の左右両舷にも一等船室が2室ずつ設けられている。

 すなわち、「大きな西洋料理店のやうに思はれる」というのは、上記のような連絡船の食堂なりサロンなり広間なり、何らかの船の設備の様子のことだったのではないでしょうか。そう考えると、ちょっと胸のつかえがとれる気がします。


 ところで、『春と修羅』およびその「補遺」以外で、「丸善特製 二」原稿用紙に書かれている詩作品は非常に稀なのですが、最近話題にした「牧馬地方の春の歌」もその数少ない一つでした。
 近いうちに、これら以外の詩作品も取り上げてみたいと思います。

 昨日につづいて、「札幌市」は賢治のいつの体験だったのか、という話から始めます。

 賢治の生涯の中から、彼が札幌市内の広場ですごした可能性のある日を選び出してみると、石本裕之さんの挙げておられる(2)修学旅行引率中の1924年5月20日火曜日午後、(3)その翌日1924年5月21日水曜日の午前、という二日のほかに、あと1923年8月の「オホーツク挽歌」行の復路途中、という可能性も否定できないというところまで、昨日は書きました。
 これも検討に加えたくなる理由は、上の(2)(3)は、基本的には生徒を連れており、スケジュール的にもかなり厳しいので、どうしても他の可能性も考えておきたいのです。

 しかし実は、「オホーツク挽歌」行の復路というのは、まだその具体的日程がほとんど明らかにされていないのでした。
 1923年8月7日の日付を持つ「鈴谷平原」に、「こんやはもう標本をいつぱい持って/わたくしは宗谷海峡をわたる」という一節があることから、賢治は8月7日夜21時に樺太の大泊港発の稚泊連絡船に乗り、8月8日朝5時に稚内港に着いたとする説が、かなり有力です。そして、8月11日の日付の「噴火湾(ノクターン)」が夜明け頃の描写であることから、この日の朝6時27分に函館桟橋に着く函館本線下り急行二列車に乗っていたと推定されています。
 この二つの「時」と「場所」は、それなりの確度をもって押さえておくことができるかもしれませんが、その二点の間の賢治の足跡は、まったく不明です。したがって、8月9日と10日のいずれか、または両方を、札幌ですごすことは理屈の上では可能です。ただその証拠は、まだ何一つありませんが。

 一方、上記で宗谷海峡を渡った日程に関しては、「7日夜大泊港発の便は強風のために欠航になり、賢治が乗船したのは隔日運航の次の便である9日夜だった」とする説もあります(松岡義和氏ら)。もしも賢治が、9日夜に大泊港を発っていると、10日朝5時に稚内港到着、そしてこれに連絡して稚内駅を午前7時25分に出発する上り列車が、実はそれから23時間かけて函館桟橋に向かう上記の「急行二列車」なのです。そしてこの列車はそのまま、11日未明に噴火湾を通過します。
 このように、連絡船と列車がきれいに一本につながるところも、「9日乗船説」のもっともらしさの一つなのです。
 ただし、その場合の帰結の一つとして、「オホーツク挽歌行の復路途中で、作品「札幌市」の体験があった」という可能性は、消滅します。賢治が稚内から函館まで一本の列車で向かったとすれば、もちろん札幌で下車している暇などないからです。

 これに対して、萩原昌好さんは『宮沢賢治「銀河鉄道」への旅』において「7日乗船説」を採り、その根拠の一つとして、1923年8月9日付けの「樺太日日新聞」記事(下写真)を引用しておられます。これによれば、賢治が大泊港から連絡船に乗ろうとしていた8月7日に、ちょうど貴族院議員16名の視察団が大泊で歓待を受け、「此宴終って後一行は同夜出帆の連絡船に搭乗帰途につきたる」と書かれているのです。
 すなわち、貴族院議員一行が7日夜に稚泊連絡船で大泊から稚内に渡ったというのですから、この夜の便は欠航せずに運航していたはずだ、というわけです。記事の最後の部分が切れてしまって、文章の最後まで読めないことだけがちょっと気になりますが、この論にはそれなりの説得力がありますね。

1923年8月9日「樺太日日新聞」

 さて、長くなってしまいましたが、ここからがやっと今日のブログで私が書きたかったことです。
 賢治の文語詩に、「宗谷〔二〕」というのがあります。現在、宗谷岬にその一部が詩碑としても建てられている作品です。

 この「宗谷〔二〕」の舞台は宗谷海峡の連絡船のデッキであり、賢治が宗谷海峡を渡ったのは「オホーツク挽歌」の旅における往復だけですから、やはりこの時の体験がもとになっていると考えられます。
 それが、サハリンに渡る往路(稚内→大泊)のことだったのか、北海道に戻る復路(大泊→稚内)のことだったのかを考えてみると、「はだれに暗く緑する/宗谷岬のたゞずみと/北はま蒼にうち睡る/サガレン島の東尾や」という一節で、宗谷岬が「緑」に、サガレン島が「蒼」に見えていることから、船の位置は、サハリンよりも宗谷岬の方に近いところにあると推測できます。そして、作品中の時刻が日の出直前、すなわちすでに連絡船の目的地到着が近い時間であるということをあわせて考えれば、これは大泊を夜に発ち稚内に翌朝着く上り便、賢治にとって「復路」だったことがわかります。

 この作品の眼目は、「髪を正しくくしけづり/セルの袴のひだ垂れて/古き国士のおもかげに/日の出を待てる紳士」という登場人物にあります。賢治はこの紳士の立派な装束と立ち居振る舞いに注目し、日の出に対する反応を観察していますが、確かに印象的な様子だったのでしょう。
 ここで上掲の新聞記事を見て私が思ったのは、賢治がサハリンの大泊から稚内に帰る時に「貴族院議員一行」が同船していたのだとすると、この「紳士」は、乗客の貴族院議員の一人だったのではないだろうか、ということです。
 きっと非常に物々しい団体だったことと思いますが、賢治は彼らが貴族院議員だということをはたして知っていたのでしょうか。わざわざ「国士」という言葉を使っているのは、実際のその身分を知らなかったのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 ということで、今日はちょっと石本裕之さんの『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』から離れてしまいました。同書「あとがき」の、「今これを読んでくださっている皆さんも、ぜひ想像をふくらませてみてください」という一文に、甘えてしまった結果です。

 次回はまた、石本さんの著書に戻りたいと思います。