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幻の賢治の白バラ

グルス・アン・テプリッツ(花巻温泉バラ園) 2000年代に、日本のバラ愛好家の間では、「グルス・アン・テプリッツ」という真紅の美しいバラが、「賢治の愛したバラ」として非常に有名になり人気を博す一方、賢治研究者の間でこのバラが話題になることは全くないという、扱われ方の極端な不均衡が見られることが、私にはとても不思議でした。様々な賢治研究書にも、バラに関する記述はほぼ皆無で、いったい何を根拠にグルス・アン・テプリッツが賢治のバラと言われているのかも、私にはわかりませんでした。
 そこで、この「グルス・アン・テプリッツ」がいかにして「賢治が愛したバラ」と呼ばれるようになっていったのかという経緯を、私なりに調べ、またいろいろな方からご教示をいただいて、2006年から以下の一連の記事を書きました。

 このたび、「花巻ばら会」のSさんが、「公益財団法人 日本ばら会」の会報誌に、「「宮沢賢治のバラ」を守った花巻ばら会」という文章を発表され、そのコピーを私のもとに送って下さいました。そこには、「賢治のバラ」がたどった数奇な運命が写真とともに簡潔にまとめられ、そのタイトルのとおり、「花巻ばら会」の皆さんが、これまでいかに真摯にこの「賢治のバラ」を守り育てられたかということが、克明に記録されています。

 この「賢治のバラ」の詳しい経緯については、上のブログ記事を順に全て読んでもらえればおわかりいただけるはずなのですが、しかしそれではあまりに理不尽なご苦労をおかけしますので、ここにあらためて大まかにその内容を整理してみると、事の次第は次のようなものでした。

  1. 1928-1929年頃、賢治は花巻共立病院院長・佐藤隆房氏の邸宅の新築祝いに訪問し、後にバラの苗20種を寄贈した。
    これについて、佐藤隆房著『宮沢賢治―素顔の我が友―』には、「秋になり賢治さんは私に立派な薔薇の苗二十種を届けてくれました。その薔薇は今も大切に培養されていて、年ごとに美しい色を咲かせます。(一九二九年)」との記載がある。
    ただし、賢治によるこのバラの苗の寄贈は、彼が1929年にはずっと病床にある重篤な状態だったことを考えると、前年の1928年だった可能性もある。

  2. 時代は降って1964年、「花巻ばら会」が発足した際に、顧問を佐藤隆房氏に依頼したところ快諾され、さらに佐藤隆房氏は花巻ばら会副会長の佐藤昭三氏に、「今、家の庭にも賢治さんがくれたばらが咲いているよ」と言われ、「一度見に来るように」と勧められたので、昭三氏は隆房氏宅を訪問してそのバラを見せてもらった。
    花巻ばら会としては、まもなく開催される創立記念展示会に、ぜひこの賢治ゆかりのバラを展示したいと考え、佐藤隆房氏に依頼して庭に咲いているバラの20輪ほどを切り花としてもらい受け、当日はフラスコに活けて、「賢治ゆかりのバラ」として展示した。
    これが、「賢治のバラ」の最初の公開展示である。しかし当時は、まだこれらのバラの品種名はわからなかった。

  3. さらに時代が降って、1989年に花巻ばら会は創立25周年を迎え、1990年の日本ばら会第10回全国大会開催を花巻で引き受けることになり、全国から集まるバラ愛好家に、ぜひ賢治ゆかりのバラを見てもらおうということになった。そこで会員数人で佐藤隆房氏宅を訪れ、賢治から贈られたというバラの一つが当時市販されていない品種であることを確認し、これを増殖することにして高橋健三会員が接ぎ木を行い、大会期間中にはその二株を「賢治のバラ」として展示した。

  4. その後、花巻ばら会会員の吉池貞蔵氏が、このバラの品種名を何とかして突き止めようと、当時「日本バラの父」と言われた第一人者の鈴木省三氏にその苗を送り、鑑定を依頼した。

  5. 鈴木氏は自宅でその苗を育て、3年後にバラは開花した。するとその花は、奇しくも鈴木氏が子供の頃に父親が最も大切に育てていて、鈴木氏とバラの出会いを作ったとも言える品種「日光」(グルス・アン・テプリッツ)であることが判明した。
    これについて鈴木省三氏は、「京成バラ会」会報『バラの海 第36号』(1995)に、下のような文章を書いている。

「賢治の薔薇が咲いた」(鈴木省三)
(これがおそらく、グルス・アン・テプリッツが「賢治のバラ」として紹介された文献の初出と思われる。)

  1. この「グルス・アン・テプリッツ」は、日本では一時ほとんど栽培されなくなり市販もされていなかったが、鈴木省三氏によるこの紹介を契機に再び人気を集めるようになり、各種のバラ関係の書籍や図鑑等でも、「賢治が愛したバラ」として必ず紹介されるようになり、現在に至っている。

 賢治が佐藤隆房氏に贈ったバラの品種が同定され、それを契機にまた日本各地でたくさん栽培されるようになったのも、佐藤隆房氏が自宅の庭で何十年も大切にそのバラを守り、花巻ばら会の方々がその貴重な株を接木によって殖やし、さらに東京の鈴木省三氏にその苗を送って、鈴木氏が3年がかりで苗を育ててくれたという、このバラに関わった多くの方々の努力の結晶だったわけです。
 当時の賢治が「グルス・アン・テプリッツ」の苗を入手したのは、横浜の輸入商「横浜植木」への注文取り寄せによってだったということもわかっていますが、これを「賢治が愛したバラ」とまで呼ぶのは、やや勇み足の感があります。賢治自身は、あくまでこのバラの苗をただカタログから取り寄せて、世話になっている知人に贈っただけであり、それを自ら育てていた可能性は非常に低いと思いますし、その花を実際に見たかどうかも不明です。あくまで「賢治ゆかりのバラ」という表現に留めておくのがよいでしょう。

 ところで、本日こうやって一つの記事を書いた理由は、以上の話に続くちょっとした後日談を、Sさんが教えて下さったのです。
 上にも引用したように、賢治が佐藤隆房氏に贈ったバラは、元は「20種」もあったはずです。では、グルス・アン・テプリッツ以外の19種?のバラは、その後いったいどうなったのでしょうか。
 賢治の寄贈から何十年の月日が経つうちに、佐藤氏宅の庭には新たなバラも植えられて新旧交代していき、賢治が贈ったバラは次第に姿を消していったというのは、やむをえない時の流れと言えますが、実は最近まで、グルス・アン・テプリッツとは別の賢治ゆかりと思しきバラが、佐藤邸の庭にはまだ2種ほど残っていたというのです。

 そして、花巻ばら会所属のSさんともう一人の方が、そのうちの白バラを譲り受けて、ひそかに「賢治の白バラ」と呼んで大切に育て、ついに開花に成功させたそうなのです。晴れて同定されたその品種は、どちらも「アイスバーグ」というものだったのですが、ところがこれは、賢治の死後20年ほどたってから作出された品種であり、賢治が佐藤隆房氏に贈ったバラではありえないということがわかりました。

 ということで、赤いグルス・アン・テプリッツに続く「賢治の白バラ」は、残念ながら幻に終わってしまったというお話でした。

花巻ばら会創立50周年記念誌

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 以前に「賢治が愛したバラ」のシリーズ((1), (2), (3), (4), (5), (6))を記事にした際に、「花巻ばら会」の佐香厚子さんからは、いろいろと貴重なご教示をいただいたのですが、このたび、「花巻ばら会」が創立50周年を迎えたということで、佐香さんからその創立50周年記念誌をお贈りいただきました。
 下写真が、その立派な記念誌の表紙です。

花巻ばら会50周年記念誌

 表紙に描かれているのは、花巻ばら会の象徴とも言える、「賢治のばら」こと「グルス・アン・テプリッツ」ですが、このイラストも佐香さんが描かれたのだそうです。
 「50年」と言うと、私の人生ともほとんど重なり合う期間ですが、今から50年前には東海道新幹線が開業して東京オリンピックが開かれ、また花巻では岩手県の空の玄関口・花巻空港が開港したということで、戦後の経済成長を体現するような時期だったわけですね。

 『花巻ばら会創立50周年記念誌』の中身を拝見すると、この50年の歴史を彩ったさまざまな貴重なバラの写真が紹介されていますが、私として特に興味を引かれるのは、やはり何と言っても「賢治ゆかりのばら」のエピソードです。
 花巻ばら会名誉会長の佐藤昭三さんは、当時の経緯を回顧する文章を寄せておられるのですが、ここには私が7年前に「賢治が愛したバラ」シリーズを書いた時点ではわからなかった、より詳しい情報が記されているのでした。
 以下に、佐藤昭三さんによる「賢治ゆかりのばら」という文章より、一部を引用させていただきます。

 花巻ばら会が昭和三十九年六月四日に設立され、その総会で佐藤隆房先生を会の顧問に推挙することが決まり、その就任の承諾を得る役を副会長の私が指名されたのであった。
 当時の私のメモによれば、「六月五日午後花巻病院顧問」とあり、私が直接院長にお目にかかっている。顧問就任は問題なく快諾されて、市内のばら事情の会話の中で、「今、家の庭にも賢治さんがくれたばらが咲いているよ」という先生のお話に初耳のことなのでその経緯を尋ねた所「住まいを桜に移したときにばらの苗二十本をお祝いにくれた」のが咲いているから一度見に来るようにとのお誘いをいただいたのだった。
 その時に、ばら会創立記念の第一回ばら展を八、九日の両日開催予定していることを報告して、「賢治ゆかりのばら」として会場に特別展示することになり、お庭の貴重な花を採取することをお許しいただいた。その後展示会前日、ばら会員数名で桜町のお宅に伺った。すでに開花が進んでいたがお庭の管理人の案内で「賢治ゆかり」のばらを拝見した。品種名を記した名札が皆無で、同行した会員の知識では判別ができず、よく咲いていると思しき中から数種の二十輪ほどを切り花として頂戴し、フラスコに活けて、八日からばら展会場に特別出品「賢治ゆかりのばら」として市民や入場者に初めて公開してご覧いただいた。

 つまり、生前の賢治が佐藤隆房氏にばらを贈っていたという話を、佐藤昭三氏が初めて知ったのが1964年6月5日、そしてそれらのばらの花が初めて一般公開されたのが、同年6月8日だったのです。
 すなわち今年は、「賢治のばら」の話が世に知られ、その花が実際に公開されてからも、ちょうど50周年にあたるわけなんですね。

 また、この「賢治のばら」のエピソードは、花巻ばら会が佐藤隆房氏に顧問就任を依頼した縁から、ふとした雑談の折りに偶然にも判明したことだったというのも、「不思議なめぐり合わせ」を感じるところです。
 ちなみに下写真は、この1964年6月8日・9日に開催された「花巻ばら会・第一回ばら展」に「宮沢賢治ゆかりのバラ」が特別出品された時のものです。
 これこそが、その後有名になる「賢治のばら」が初めて世に出た機会であり、まさに貴重な記録と思います。

宮沢賢治ゆかりのバラ

 さて、しかしまだこの時点では、「賢治のばら」の品種が何であるのか、その名前はわかっていませんでした。その品種特定をめぐる次の動きは、花巻ばら会の「25周年」という節目を契機として、訪れたのです。

 以下は、再び記念誌掲載の佐藤昭三さんの文章から、「賢治ゆかりのばらの品種判明」より引用させていただきます。

 花巻ばら会設立後二十五年を経過した平成二年、日本ばら会の要請により第十回の全国大会を主催することになったが、地方の小都市での開催は初めてのこと、全国から参加するばら愛好家に何かばらにまつわる花巻の話題を提供できないかと検討したときに、賢治が佐藤隆房先生に贈ったばらをお見せすることはどうかという事になった。そこで会員数人で隆房先生宅に伺いその中の一株が明白な特徴があり、市販されている品種でないことを確認した上でこれを増殖することにし、同行した高橋健三会員に要請して接木によって複数の新苗が育てられた。
 大会開催中、見事に開花した二鉢に「賢治のばら」の解説をつけて展示公開することができた。このように新苗が育てられたが、品種名が不明のまま「ゆかりのばら」では納得ができず、吉池貞蔵会員(現会長)は「ミスターローズ」と呼ばれた国際的なばらの育種家鈴木省三氏に相談し、苗を贈り、氏はその苗を自ら自宅の庭で育てられた。三年後、見事に咲いた真紅の花はビロードの花弁で甘い芳香が高くて花の女王にふさわしい気品があり、強い印象を与えた。
 このばらの名称は和名は「日光」、正式には「グルズ・アン・テプリッツ」という花名であることが分かった。鈴木氏が少年の頃、自宅の庭にあった父が最も大事にしていたばらで、名前も知らずに親しんだ少年時代のばらと運命的な再会だったことを知った。

 品種名判定を依頼した鈴木省三氏が、自らの少年時代の思い出のばらと「再会」することになったという逸話は、これまでもご紹介してきたことですが、これもまた「不思議なめぐり合わせ」を感じてしまうところですね。
 上の内容から推測すると、「賢治ゆかりのばら」の品種が判明した時期は、「日本ばら会第十回大会」が1990年なわけですから、それから鈴木省三氏のもとに贈られたばらが3年後に開花したとすれば、1993年あたりということになります。
 一方、「賢治が愛したバラ(3)」では、京成ばら園で鈴木省三氏の秘書をしていた野村和子氏からの情報として、「賢治のバラが初めて開花した時の写真の日付は1987年だった」という話をご紹介しましたが、この情報とは矛盾してしまうことになります。
 どちらが正しいかということは、現時点でははっきりわかりません。ただ、「賢治が愛したバラ(4)」でご紹介した、佐藤昭三氏の文章「宮沢賢治とばら」は、「第10回日本ばら会全国大会記念」としてまとめられたもので、1990年か1991年に書かれたものと思われますが、この文中には「グルス・アン・テプリッツ」という品種名は登場しないことから、この時点ではまだ品種名は判明していなかったのではないかと思われます。したがってそれが判明した時期は、今回の佐藤氏の文章のように、1993年頃だったという可能性が高いのではないかと、個人的には感じています。

 それにしても、今回の記念誌を拝見して、「花巻ばら会」がまさに「賢治のばら」と深い縁で結ばれつつ、50年の歴史を歩んでこられたのだなあと、あらためて実感させていただきました。

 記念誌をお贈り下さった佐香厚子さんに、ここにあらためて御礼申し上げるとともに、花巻ばら会の益々のご発展をお祈り申し上げます。

【関連記事】
・「賢治が愛したバラ(1)
・「賢治が愛したバラ(2)
・「賢治が愛したバラ(3)
・「賢治が愛したバラ(4)
・「賢治が愛したバラ(5)
・「賢治が愛したバラ(6)

グルス・アン・テプリッツ(花巻温泉バラ園)
グルス・アン・テプリッツ(花巻温泉バラ園にて)

賢治が愛したバラ(3)

 先日、ノンフィクションライターの最相葉月さんからメールをいただきました。「賢治のバラ」の問題に関して、新たな進展があったということなのです。

 これまで、「賢治が愛したバラ(1)」「賢治が愛したバラ(2)」というエントリに私が書いていた概略を一応おさらいしておきますと、「生前の宮澤賢治が『グルス・アン・テプリッツ』という深紅のバラを愛していた」という「エピソード」は、バラ愛好家の間では非常に有名な事柄になっているのに対して、従来の賢治研究関連文献には記述が見当たらないということが、私がこの話に関心を持ったきっかけでした。
 6月に「大菩薩峠の歌」のことで最相さんにお世話になった際、上記の逸話を収録したご著書『青いバラ』をいただき、その後もお問い合わせをしたり個人的に調べてみた結果、このエピソードは、日本のバラ界の第一人者である故・鈴木省三氏の体験談が発端になっているようであることが、何となくわかってきました。
 すなわち、1956年に鈴木氏が花巻温泉南斜花壇跡地のバラ園の設計を行った後、しばらくして誰かが、「これは賢治が愛したバラです」と言って一本の苗木を鈴木氏に送り、鈴木氏がその苗を育ててみた結果、グルス・アン・テプリッツが咲いたということなのです。
 しかし、鈴木氏にバラの苗木を送った人物というのがいったい誰だったのか、その人は何を根拠にして、一本の苗木を「賢治が愛したバラ」だと言いえたのか、という謎は私にとって残ったままでした。

 今回、最相さんから教えていただいた情報をご紹介する前に、まず私自身がその後調べえた事柄を述べておきます。

 8月には国会図書館に行って、丸一日かけてバラ関係の蔵書を点検し、「賢治がグルス・アン・テプリッツを愛していた」という話が、いつ頃からどのような文献に記載されているのか、調べてみました。
 2000年以降のバラ図鑑などを見ると、これはもう必ず紹介されるエピソードになっているのですが、さかのぼっていくとその上限は意外と新しく、私が数十冊を調べえた範囲では、「京成バラ会」の会報である『薔薇の海 第36号』(1995)に、鈴木省三氏の談話として載っている「賢治の薔薇が咲いた」というコラムが、最初でした。
 下にそのコピーを掲載します。

鈴木省三「賢治の薔薇が咲いた」

 この文章が、「賢治のバラ」という話の文献的初出ではないかと私は思うのですが、内容からいくつか新たな「発見」もありました。
 一つは、このバラが花巻でもともと咲いていたのは、賢治が設計・植栽をした花巻温泉南斜花壇ではなくて、「花巻共立病院院長宅」だったこと。鈴木氏が訪れた昭和31年の時点では、「荒れはてた南斜花壇に、薔薇は一本もなかった。」と記されています。
 もう一つは、鈴木省三氏に「宮沢賢治の薔薇」を贈ったのは、鈴木氏にとって「知り合い」だったということ。それまで私は、鈴木氏にバラを送ったのは、賢治の元教え子で南斜花壇を賢治と一緒に作った、冨手一氏だったのではないかという推測をしてみていたのですが、その見当は外れていたようです。

 それにしても、鈴木省三氏は上の文章で、この話を初めて公に披露するかのような口調で述べておられます。実際これは、当初予想していたよりはかなり新しく広まった逸話のようで、国会図書館に収められている図書を見ても、1995年以前のバラ図鑑やバラ栽培に関する本には、そもそも「グルス・アン・テプリッツ」という品種自体がほとんど収録されていませんでした。それ以前で「グルス・アン・テプリッツ」に関する記載があった本としては、『世界のバラ』(鈴木省三著,1956)、『ばら花譜』(鈴木省三・籾山泰一著, 1983)、『ばら・花図譜』(鈴木省三,1990)の3冊のみがありましたが、いずれも鈴木省三氏が執筆していながら、賢治との関連について言及はありません。
 一方、1995年以降では、『バラ図鑑:日本と世界のバラのカタログ 最新版』(鈴木省三監修,1997)に、さっそく「宮沢賢治もイギリスから直輸入した記録がある」として紹介されています。この本は、1992年に刊行された『日本と世界のバラのカタログ』の改訂版なのですが、1992年版には「グルス・アン・テプリッツ」という品種そのものが収められていなかったのに、扱い方に大きな「変化」があります。

 私が思うには、やはりその変化は、上の文章が出された1995年を境に起こったのではないでしょうか。それまでは、「グルス・アン・テプリッツ」という品種そのものが日本ではいったん忘れられかけていたのが、鈴木省三氏の影響力と、1996年の賢治ブームなども相まって、バラ愛好者の間にこの品種の人気が再び広がったのではないかと思うのです。


花巻温泉バラ園「グルス・アン・テプリッツ」 私の方はその後、去る9月24日に花巻温泉バラ園を訪ね、園長の高橋宏さんに「賢治のバラ」についてお話を伺ってみました。
 高橋さんのお話は、次のようなものでした。

今から20年前頃、賢治生家と花巻共立病院院長宅にあったバラが、賢治が手植えしたバラだろうという話が出て、品種名がわからなかったので、鈴木省三氏に送って教えを乞うた。その後、鈴木氏からグルス・アン・テプリッツだという連絡があり、花巻でも接ぎ木をして広めた。その子孫が、今も花巻温泉バラ園にある。

 鈴木省三氏にバラを贈ったのが誰かということについては、高橋園長はご存じありませんでしたが、地元のバラ界とのつながりが、よりはっきりと感じられました。


 さて、長々とお待たせしましたが、最相葉月さんから今回ご教示いただいた情報です。
 最相さんはその後、故・鈴木省三氏の奥様にお手紙を出し、「賢治のバラ」の由縁についてご存じないかお尋ねしてみたのだそうです。しかし奥様には憶えがないということで、その手紙は鈴木氏が京成ばら園の研究所にいた時代に秘書をしていたという野村和子さんに転送され、野村さんから最相さんに回答が寄せられたとのことです。

花巻温泉バラ園の名札 そのお答えによれば、鈴木省三氏のもとに「賢治のバラ」を送り、その品種名を問い合わせてきた人は、現在「岩手バラ会」の会長をしておられる吉池貞蔵さんだったということです。
 そして、そのバラを鈴木氏が育てて、初めて花を付けた時に撮影した写真の日付は、1987年だったということです。
 上の鈴木省三氏の文章に、花が咲くまで「3年」かかったと書かれていたことからすれば、花巻からバラが送られてきたのは、1984年頃のことと推測されます。

 これで、当初私がいだいていた疑問の大半は解決したわけで、最相葉月さんには心から感謝をしているところであります。あとは、まだご存命であるという吉池貞蔵さんに、花巻共立病院院長宅(と賢治生家)にあったバラを採取した時の状況についてお聴きすることができれば、思い残すところはありません。
 現在、「日本バラ会」を通じてお問い合わせをしてみているとことです。


 最相さんの『青いバラ』という本そのものが、バラをめぐる壮大な「巡礼」のような趣をおびている感じなのですが、私も東京へ花巻へ、バラに関して小さな旅をした数ヵ月でした。

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 最相 葉月

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 ちなみに、すべての話の出発点となった、最相葉月さんと荒俣宏さんの対談の模様は、「新!読書生活 第6回」のページに掲載されており、「大菩薩峠の歌」の話題も後半に登場します。


演題発表およびバラ園

 昨日は、なんとか発表を終えた気のゆるみもあり、温泉につかってテレビで阪神戦や映画を見て、ブログの更新もせずに寝てしまいました。

 ということで、まず昨日の報告から参りますと、午前中にイーハトーブ館であった「研究発表」では、泥縄式の前夜の準備も間に合って、無事20分で発表をすませることができました。会場からもいろいろ有意義なご指摘をいただきましたが、なかでも原子朗さんからは、フロアからの質問とともに休憩時間にも励ましの言葉をいただいて、感激しました。
 「『黒と白との細胞』による千億の明滅」というタイトルで私がお話したのは、ほんの小さな一つの論点と推測にしかすぎませんが、これをきっかけにして会の終了後も、いろいろな方々に暖かいお声をかけていただいたことは、望外の幸せでした。

 お昼には、会場に聴きに来てくださっていた旧知の賢治つながりの仲間とも一緒に「山猫軒」で食事をした後、私と妻はイギリス海岸に寄ってみましたが、昨日まで姿を現していたという泥岩層は、上流のダムの放流のために残念ながら水没していました。水深の浅い部分にさざ波が立っていて、泥岩の広がりをかろうじて感じさせてくれています。

イギリス海岸


 そして今日の午前中は、花巻温泉バラ園園長の高橋宏さんにお願いして、「賢治が愛したバラ」=グルス・アン・テプリッツのある、バラ園の温室に案内していただきました。今はもう本来のバラのシーズンからはるかに遅れていますので、この花そのものの姿を見られるとは期待していなかったのですが、この時期にも花を付けている株があって、幸運にも私は初めてこのバラに対面することができました。

グルス・アン・テプリッツ

 グルス・アン・テプリッツの花は、かなり大輪でグラマーな感じです。上の写真は温室の中なので陽射しはあまり当たっていないのですが、これが太陽の光を直接浴びると、「日光」という和名のごとく、もっと深い赤色に染まるのだそうです。
 また、このバラの特徴はその芳香の強さにもあって、変な喩えですが、「ローズ石鹸」の香りをもっと上品に奥深くしたような香りが、あたりに漂っていました。

 いずれにしても、これはかなり「官能的」な印象の強いバラでした。賢治がこの品種を特に愛していたというのは、そのどういうところに魅かれたんだろうか、と興味深い感じです。

 で、私が今日バラ園を訪ねて高橋園長さんにお聞きしたかった最大のポイントは、このバラを「賢治が愛していた」という話が、いかにして東京の「バラの神様」=鈴木省三氏に伝えられたのだろうか、ということでした。
 高橋さんからのお話は、かなりのところまで先月に私が国会図書館で調べて感じた印象を支持するものでした。まだわからない部分は多いのですが、以前に私が勝手に推測した「冨手一氏の関与」という仮説は、間違っていたように思われます。

 高橋さんからは、花巻のバラ界においてこの問題についてご存じかもしれない3人の方をお教えいただいたので、現在まだ不明の部分についてはいずれ調べてみたいと思います。その経過と結果については、いつか必ず当ブログにてご報告させていただきます。


 バラ園の奥の斜面を登っていくと、堂ヶ沢山の山腹に連なっていきます。そして、その昔には賢治設計の南斜花壇の最上部でもあった場所に現在は、賢治は賢治でも、「小佐野賢治氏」の胸像が建っています。
 この場所から花巻の市街の方を望むと、一部はホテルのビルに隠れてしまってはいますが、賢治が「冗語」という作品の中で「胆沢の方の地平線」と描いたような景色を、今も垣間見ることができます。

バラ園の最上部から花巻市街を望む

賢治が愛したバラ(2)

 加倉井さんの「賢治の事務所」の「緑いろの通信6月12日号」には、先月の篠山セミナーの折に会場に飾られていたという、美しい「グルス・アン・テプリッツ」の写真が掲載されています。記事の中では、当ブログの「賢治が愛したバラ(1)」についても触れていただきましたが、前篇から少し間が空いてしまって申しわけありません、今回がその続篇です。
 あらためて確認しておくと、この件に関する私自身の問題意識は、「生前の賢治が、グルス・アン・テプリッツというバラを愛していた(あるいは栽培していた)」という話は、どこに由来し、いかにして広まったのか、ということです。


1.賢治側の資料から見る

 まず、宮澤賢治自身が書き残したもの、あるいは直接に生前の賢治を知る人が書いた資料等から、賢治とバラの関連を見てみます。

 賢治が、園芸あるいは花卉栽培ということをある程度本格的に行っていたのは、(1)羅須地人協会時代(1926年4月~1928年8月)および、(2)病臥からの回復期(1930年3月~秋頃)という二つの時期に、大きく分けて考えることができます。さらに(1)は、その植栽場所の観点から、a.下根子の居宅周囲における花卉栽培、b.花巻共立病院や花巻温泉遊園地における花壇造成、という二つに分けることができます。
 花巻農学校教師時代にも、賢治が率先して学校内に花壇を作っていたことが生徒たちの証言から明らかになっていますが、そこに植わっていたのは、「実習の時間に生徒と野外に出かけ、コブシやミズキ、ニシキギなどの木を掘ってきて植樹した」ものが中心で、店で購入するような花卉は植えていなかったようなので(伊藤光弥『イーハトーヴの植物学』)、今回の考察から除外します。

(1) 羅須地人協会時代

 (1)のa.に関しては、元教え子の菊池信一が1926年6月に下根子を訪ねた時の様子を、次のように書いています。

特徴の著るしい先生のペンになる地図をたよりに国道を折れ更に小芝の生々しい路に出ると、もう先生の理想郷が直感された。路にそうて短い落葉松がまばらに植付けられ、それもきれた向ふの端には銀どろが精よくのびて、風もないのに白い葉うらが輝いてゐた。更に西向に突出た玄関へと連る道の北側には空地に型どつた三角形の花壇があり、ひなげしであったか赤と黄が咲き乱れてゐた。玄関の横には大きな黒板が掲げられ、内は森として静まり返つてゐた。(中略)蔓ばらは数本植付けられて壁に誘引せられ、庭松の下蔭にはチューリップの球根が風乾されてゐた。

 ここからは、賢治が居宅のまわりに「蔓ばら」を数本植えていたことがわかりますが、「蔓」であることから、残念ながら「グルス・アン・テプリッツ」ではありません。もちろん、上の記載以外にもいろいろ植えていた可能性はありますが、今のところ私が確認できた範囲では、これ以上の詳細はわかりません。

 (1)のb.に関しては、「花壇工作」「病院の花壇」などの作品や、元教え子の冨手一あてに送った書簡、さらに「MEMO FLORA ノート」に記載された花壇図案やそこに植えようと企画した花の名前などが、参考になります。

 「花壇工作」は、賢治が花巻共立病院の花壇の作成に取りかかる様子を描いた短篇で、1926年9月頃のことと推測されていますが、この中には次のような会話が出てきます。

そのとき窓に院長が立ってゐた。云った。
(どんな花を植えるのですか)
(来春はムスカリとチュウリップです。)
(夏は)
(さうですな。まんなかをカンナとコキア、観葉種です、それから花甘藍と、あとはキャンデタフトのライラックと白で模様をとったりいろいろします。)

 一方、「病院の花壇」という詩は、花壇を作った翌春に、黒っぽいヒアシンスが咲いてしまって病院としては縁起が悪いので、賢治はそれらを切ってキャンデタフトを播こうと考えているという内容です。
 どちらの作品にもバラは登場せず、賢治が病院に作った花壇には、バラは植えられていなかったのではないかと思わせます。

 次に、花巻温泉株式会社園芸部に勤務する冨手一あての1927年4月書簡[228]は、温泉敷地内に造成する「南斜花壇」の詳細な計画を記したもので、花壇に植えるための36種もの草花をリストアップしてあります。アンテルリナム(金魚草)に関しては10品種、千重咲ペチュニアに関しては7品種もが挙げられていますが、このリストにはバラは一つも入っていません。

 一方、いわゆる「MEMO FLORA ノート」は、上記の分類では(1)の時期に記載された部分と(2)の時期に記載された部分が混在していると考えられています。このノートには有名な「涙ぐむ眼の花壇」を含めて8種類もの花壇図案が描かれていますが、伊藤光弥氏はこれらの花壇は、(1)の時期に書かれたものと推測しておられます花壇No.7(洋々社『イーハトーヴの植物学』)。
 これらの図案には、花壇のそれぞれの区画に植えるべき花の種類も書き込まれていて、それを通覧すると、‘No.7’と題された花壇(右写真)には、‘Tea rose’との記載があります(右端の中ほど)。
 「ティー・ローズ」は、日本でも明治以来愛好されていたバラで、賢治の書きこみを見ると、これを花壇中央に植えてテーブル状に刈り込むという案のようです。しかし、この花壇が実際に作られた証拠は残っていませんし、何よりもこのティー・ローズというのは「グルス・アン・テプリッツ」とは異なった系統です。

「薔薇園」注文メモ やはり「MEMO FLORA ノート」のA15頁と呼ばれるページには、賢治が花の種や苗を注文するために書きつけたと思われるメモがあります(右写真)。この左上端に、「薔薇園」との文字が見え、その下には「¥ 10.00」「菊混合100 3.50」「種子 3種 .90」「バラ 10種 2.00」、そして合計を表す横線が引かれ、「6.40」と記されています。「薔薇園」は、「しょうびえん」と読むのですが、大正時代から東京の芝公園にあったバラ園で、欧米から輸入したバラを販売するバラ専門店でもありました(最相葉月『青いバラ』)。
 この書き付けは、賢治が薔薇園にバラ10種を含む花卉を注文するための覚え書きと思われ、時期としては(1)すなわち羅須地人協会時代のものと推測されます。賢治はこれらのバラを自宅用に買おうとしたのか、それとも他所に造成する花壇用に買おうとしたのかが問題ですが、一度に10種ものバラや他の種子も注文しようとしていることからは、自宅用ではなくて比較的大規模な花壇用なのではないかと、私は思います。
 さらに、上記のように花巻共立病院の花壇や花巻温泉の南斜花壇には、バラの植栽が計画されていなかったことを考えると、このバラは同じ頃に花巻温泉に賢治が造成した「日時計花壇」「対称花壇」のためのものだったのではないかと思われます。
 しかし、この10種のバラの具体的な品種名は書かれていませんので、ここに「グルス・アン・テプリッツ」が含まれていたかどうかについては、不明です。

 羅須地人協会時代の最後に、賢治が1928年6月の東京~大島旅行において使用したと思われる「MEMO FLORA 手帳」呼ばれる手帳があります。この中には、賢治が上野の帝国図書館で園芸関係の本を閲覧してメモしたと推測される部分があり、ラテン語の学名で64種もの草花の名前が羅列されていますが、この中にもバラの仲間の名前は一つもありません。
 このリストの目的について伊藤光弥氏は、「大島の伊藤に園芸の知識を手ほどきするための下調べだったとも考えられるし、あるいは花巻に戻って草花栽培を再開するための準備だったかもしれない」と推測しておられますが、いずれにしても当時の賢治がバラ栽培に関心を持っていた証拠は、このノートには認められません。

(2) 病臥回復期

 大島から帰って間もなく、1928年の8月に結核性の肺炎を発症した賢治は、いったん入院してから豊沢町の実家に戻り、一時は生死の境をさまようほどの状態にも陥ります。しかしその後徐々に回復して、1930年の春頃には床から起きて軽作業もできるようになりました。
 「MEMO FLORA ノート」の余白には、この年の3月26日から31日までのものと推測される簡単な日記が書きつけられていて、そこにはパンジーやミニオネット(モクセイソウ)の種を播いたという記載があります。
 さらに、4月4日の高橋武治あて書簡[260]には、「もう私も一日起きてゐて、またぞろ苗床をいぢり出してゐますから、どうかご安心下さい。」との記載があり、4月8日付けの冨手一あての書簡[261]に至っては、賢治は次のように書いています。

先頃は立派なヒアシンスをありがたう存じました。いゝ時候になりました。小生又もや苗床を作って花の仕度をしました。結局園芸から手は切れさうもありません。
就いて突然ですがあなたの処でダリヤの球の余るのはありませんか。もし余分があれば一種一球づつお譲りを得たいのですが。尤も高価なのは手が出ません。ありふれたものでいゝのです。私の方ではこの夏、ヒアシンス色分二百球、ダッチアイリス五種四十球、水仙十八種五十球、オーニソガラムその他百球などできますが、それらと交換でも願へるなら特に有り難い次第です。今春は中菊は三十種洋菊は十六種とりました。例のサガ菊はやめました。ご返事はお葉書で下さい。よければこちらから誰か頂きに上げます。まづは。

 4行目に出てくる「あなたの処」とは、冨手一氏の勤務先である花巻温泉の花壇でしょうね。それにしても、開花を待ち望むたくさんの花々を書き連ねた文面からは、病気が回復してまた園芸に精を出せる賢治のよろこびが、生き生きと伝わってくるようです。

 一方、この年に使用していた「銀行日誌手帳」と呼ばれる手帳には、4月から6月に至る草花の栽培日記と栽培品種のリストが記されています。これを見ると、この年に賢治が実際にどんな花を育てていたかがわかるのですが、伊藤光弥氏の解読による109種(!)にもおよぶ草花のリストの中に、バラの類は一つもありません。
 また、「銀行日誌手帳」と同じ頃に使用されていた「布装手帳」には、やはり21種の草花の名が記されていますが、やはりここにもバラは含まれていません。

 この年の10月24日付けの冨手一あて書簡[278]には、「県下菊花品評会」の事務局をしていた冨手から、品評会の審査員を依頼されたことの返事として、「光栄だが、医師の勧めで外出は控えているので、出品者として参加したい」ということを書き送っています。この時期には、品評会に出したいと思えるような菊も育っていたのですね。

 翌1931年になると、いったん回復した賢治は東北砕石工場の技師として、東北各地への営業活動に忙しく飛びまわるようになります。並行して園芸もある程度は続けていたでしょうが、具体的な記録は残っていません。しかし、1930年に比べると、それに注ぎ込める時間は大幅に減少してしまったと思われます。

 結局のところ、病臥回復期にも、賢治がバラを育てていたという証拠は見つからないのです。


 全体を総括すると、賢治の側の資料から言えることとしては、彼が何らかの形でバラを取り扱ったのは、羅須地人協会時代に花巻温泉の花壇造成のために「薔薇園」に10種のバラを注文したという可能性がある、ということぐらいしかありません。

 このあたりの領域に関する研究書としては、伊藤光弥著の『イーハトーヴの植物学』(洋々社)および『宮沢賢治と植物』(砂書房)がありますが、いずれにおいても賢治とバラとの関係は言及されていません。また、洋々社の『宮沢賢治』シリーズの第16号(2001)には、今回の私の課題にとっては格好の「賢治の愛した植物」という題名の特集が組まれていますが、ここにも賢治が何らかのバラを愛していたという記載はありませんでした。


2.バラ側の資料から見る

 ところがこの問題は、バラ愛好者の側から見ると、まったく違った様相になっているのですね。

 ネットで「宮沢賢治 グルス・アン・テプリッツ」と入力して検索を行うと、たくさんのページがヒットします。たとえば、下記のサイトやショップにおいて、「グルス・アン・テプリッツ」は、「賢治が愛したバラ」として紹介されています。

 私はこれらのサイトの作者の方々にメールを出して、「このバラを賢治が愛していたということをどこで知ったのですか?」と質問をしてみたところ、返ってきたお返事は全て、「図鑑などの記載で知った」ということでした。
 ある方は、「書店に並んでいる薔薇図鑑や薔薇の栽培本、グルスアンテプリッツの記載があるもののほとんどに、宮沢賢治うんぬんと書いてあります」と教えて下さったので、昨日私は実際に本屋に行ってみました。バラに関する書籍で「グルス・アン・テプリッツ」という品種が掲載されているものとしては、下記の5種類の図鑑がありましたが、教えていただいたとおりその5冊全てに、このバラ品種と賢治との関係について、記載があったのです。下記で、書名の下の文が、賢治に言及している部分の抜粋です。

 つまり、この話は「バラ愛好家」の間では、非常に「有名」な事柄だったんですね。しかし一方の「賢治愛好家」の間では、どうでしょうか。少なくとも私は知りませんでしたが、皆さんはどうですか?


3.鈴木省三氏と謎のX氏

 上の5冊の図鑑のうちで、最も説明が詳しいのが、『オールド・ローズ 花図譜』の、「鈴木省三によると、岩手県花巻の宮沢賢治設計の花壇で栽培されていたものが、この「日光」であったという。」との説明ですね。「日光」とは、グルス・アン・テプリッツの和名です。
 鈴木省三氏と、グルス・アン・テプリッツ(および賢治)の関わりは、すでに「賢治が愛したバラ(1)」に書いたとおりですが、もう一度おさらいをすると、鈴木氏がグルス・アン・テプリッツと「再会」した時のことは、最初葉月著『青いバラ』に、次のように記されていました。

 再会したきっかけは、一九五六年(昭和三十一)、花巻温泉にある宮沢賢治のつくった南斜花壇の跡地をバラ園にしたいという依頼を受け、鈴木がその設計を担当したことだった。その後、花巻から、賢治がこよなく愛したバラだと送られてきた一株のバラを見た鈴木は、これこそあの記憶の中のバラだと気づき、早速自宅の庭の書斎に一番近いところに植えたのである。

 さてここで、上記の文章において、私がとくに注目しておくべき重要な点と考えるのは、「鈴木がその(=花巻温泉バラ園の)設計を担当したことだった。」とあって、「その後、花巻から、賢治がこよなく愛したバラだと送られてきた・・・」と続くところです。
 つまり、鈴木氏が花巻温泉バラ園の設計作業を行っている過程においては、彼は「宮澤賢治がグルス・アン・テプリッツを愛していた」という話は、まだ知らなかった様子なのです。この文章が示しているのは、鈴木氏がバラ園の設計を終えて、何らかの時間間隔をおいてから、突然グルス・アン・テプリッツが自宅に送られてきたこと、そしてその時彼は初めて、賢治がこのバラを愛していたという話を知った、ということです。

 この事実経過は、次の二つの事柄を示唆してくれます。

 一つは、鈴木氏がグルス・アン・テプリッツを受け取った時点で、「賢治がこれを愛していた」という話は、日本におけるバラ育種の第一人者さえも知らない情報だったということ。これは、上に見てみたような現在のバラ界の状況とは雲泥の差で、少なくともこの話が広まったのは、鈴木氏のエピソードよりも後だった、ということが言えます。

 もう一つは、花巻から鈴木氏にグルス・アン・テプリッツを送ったのは、鈴木氏にバラ園設計を依頼した直接の当事者ではなかった可能性が高い、ということです。
 もしも、バラ園設計依頼者が、依頼の時点で「賢治が愛したバラ」の話を知っていたとしたら、バラ園の企画を鈴木氏に考えてもらうにあたって、これほど興味深い話を出さずにいるとは思えません。知っていながらそれを隠しておいて、終わってから突然バラの株とともに送りつけるというのはあまりにも不自然ですから、花巻温泉バラ園の担当者たちも、やはり当時は「賢治が愛した」という話を知らなかったのではないかと思われます。
 そうなると必然的に、その後鈴木氏にグルス・アン・テプリッツを送ったのは、誰か関係者とは別の人物だったということになります。これが誰なのか、現時点では不明ですが、ここでかりに「X氏」と名づけておきましょう。

 さて、1956年の時点で、バラ界の第一人者鈴木省三氏も、賢治の地元花巻のバラ関係者さえも、「賢治がグルス・アン・テプリッツを愛していた」という情報を知らなかったとすれば、この話がその後のバラ界に広がっていった出発点は、ほかならぬこの「鈴木氏とグルス・アン・テプリッツとの再会」というエピソードそのものにあるのではないかと、私は考えます。
 「バラ育種の神様」とまで呼ばれた鈴木氏には、バラに関する著書も多数あり、それらはこの分野で最も権威あるテキストとして、その後に各種図鑑が執筆される際にも重要な参考文献とされています。鈴木氏が、「宮沢賢治がグルス・アン・テプリッツを愛していた」ということを自らの著書に書けば、この話はバラ界には広く浸透するでしょう。
 しばらく前までは専門家も知らなかった情報が、現在は日本中のバラ愛好家の間でかくも「有名」になっているという現象を、最も無理なく理解できる仮説は、「鈴木氏がこの話の起点だった」ということだろうと思います。

 そしてもしそうであれば、花巻から鈴木省三氏へ、「賢治が愛していた」という説明とともにグルス・アン・テプリッツを送った人物=「X氏」こそが、「宮澤賢治がグルス・アン・テプリッツを愛していた」という話の、真の出所だったことになります。

 はたして、このX氏とは誰だったのでしょうか?

 X氏が、当時の花巻温泉バラ園の直接の担当者ではなかったと思われることについては、すでに述べました。それでは、関係者以外で、当時の人々がほとんど知らなかったと思われる「賢治が愛したバラ」に関する情報を持っていた人物とは、いったいどんな人なのでしょうか。
 おそらくそれは、生前の賢治の近くにいた人物だろうと思われます。上に見てみたように、「賢治が愛したバラ」に関して、賢治関係の資料に残されている記録は、今のところ全く見あたりません。もし資料に残っていないのならば、それを鈴木省三氏に伝えることができたX氏とは、そのことを「直接に知っていた人物」以外にありえません。文書による「記録」が存在しなければ、あとは人間の頭の中の「記憶」しかないからです。
 「園芸」を通じて、生前の賢治と最も親しく関わった人物と言えば・・・?

 ・・・と、ここまで書けば、私が誰を想定しているか、賢治ファンの方々にはすでにおわかりでしょう。
 あくまでも憶測にすぎませんが、この考察における第二の仮説として、私がこのX氏の正体と推理しているのは、上にも何度か出てきた賢治の元教え子、冨手一氏なのです。


4.冨手一氏と賢治の記憶

 冨手一(とみて・はじめ)氏は、1906年に稗貫郡湯本村大畑に生まれ、1922年3月に第一回卒業生として稗貫農学校を卒業しました。卒業証書番号は「第一号」だったということです。
 賢治が教師として着任したのは1921年12月ですから、実質的に冨手氏が賢治の教えを受けたのは最後の3ヵ月だけですが、卒業後1924年に花巻温泉株式会社の園芸部に就職してからは、その仕事の上で、賢治の指導をさまざまに仰ぐことになります。温泉敷地内の土壌改良、並木の植樹から始まって、すでに触れた「南斜花壇」「対称花壇」「日時計花壇」の企画設計と実際の造成も、賢治と日々をともにする共同作業でした。
 また、冨手氏が菊花品評会の事務局をしていた時には、賢治にその審査員を依頼したり、出身地の湯本小学校では、講師として賢治を招いて、農事講演会を企画したりもしています。
 しかし、賢治の没後1938年には花巻温泉会社を辞職し、いったん北海道に渡って新天地で開墾を行っています。その後時局の悪化に伴い、1940年にまた花巻に戻りました。
 戦後は、花巻市大畑に開墾してリンゴ園を経営し、県農業会の農業技術員も兼ねていたということです。
 亡くなられたのは1990年ですから、ごく最近まで生きておられたわけですね。

 生前の賢治が花巻温泉内に作った上記の3つの花壇の設計図は、冨手氏が自分の手もとにずっと大切に保管しておられたそうですが、このことについて、冨手氏の印象的な言葉があります。「先生は、この設計図は会社ではなくて私が保存しておくようにと、かたく言われました。」というのです(『イーハトーヴの植物学』)。
 この「会社ではなくて」という箇所に、深い意味があるのでしょうね。賢治の具体的な意図は不明ですが、たとえば「悪意」という作品に見られるように、ある時期から賢治は温泉会社の遊興施設建設に対して、一種の反感を持っていたということにも、関連しているではないかと思います。
 もうしそうであれば、賢治の死後まもなく冨手氏が花巻温泉会社を辞めてしまい、北海道に渡ったというその後の経緯にも、ひょっとしたらこれは関わってくることなのかもしれません。

 さて、冨手氏と花巻温泉バラ園の因縁を考える上で、私が最も注目したい事柄として、「賢治祭前夜祭」の企画ということがあります。
 この催しは、花巻温泉のバラ園が開園してから、そのバラ園において毎年9月20日に開かれていたものですが、その始まりは、「賢治を記憶し続けるために」という目的で、冨手氏が中心となって呼びかけたものだったというのです。当夜は会場のバラ園で、賢治の詩の朗読、賢治の愛した鹿踊り、鬼剣舞などが演じられたのだそうです(『証言 宮澤賢治先生』農文協)。
 私としては、ほかならぬこのバラ園において、「賢治を記憶し続けるため」の催しを開催するというところに、冨手氏が恩師と一緒に作った花壇が消滅してしまったことに対する寂しさと、この「場所」への思い入れが現れていると感じるのです。

 花巻温泉会社によって思い出の花壇が取り壊され、そこに新しくバラ園が作られると聞いた冨手氏は、その新たな設計者である鈴木省三氏に、何かを引き継ぎたかったのではないでしょうか。「先代花壇」の設計者で、自らの恩師だった賢治の心にあったバラを、同地の新しい花壇の設計者に贈り、賢治の記憶を伝えようとしたということは、冨手氏の行動として十分にありえると思うのです。

 上に見たように、現時点で賢治自身がバラを扱った可能性があるのは、羅須地人協会時代に花巻温泉内の花壇の造成のために、「薔薇園」に注文したかもしれない「10種」だけでした。冨手氏は、そのバラを賢治とともに直接手植えし、恩師がそれらに注いでいた愛情を感じることができた、ほぼ唯一の弟子だったはずです。
 彼は、自らの責任として、その話を日本バラ界の第一人者に継承しておきたかったのではないでしょうか。


 もしも今回の私の推測のように、X氏=冨手一氏だったとすれば、少なくとも日本のバラ愛好者の間には、冨手氏のおかげで、「賢治の記憶」がこれほどまでに広く長く生きつづけることになったわけですね。

賢治が愛したバラ(1)

 「新!読書生活~知への旅立ち(2)」に書いたように、去る6月4日に私は最相葉月さんからご著書を2冊もいただいてしまったのですが、その1冊である『青いバラ』(新潮文庫)は、さっそく帰りの新幹線の中で、おもしろく読ませていただきました。

  青いバラ  青いバラ
 最相 葉月

 新潮社 2004-05
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 文庫本で600ページもあるこの本は、たしかに一つのノンフィクション作品なのですが、その内容を一言で表現するというのは、なかなか至難です。

 ある時著者は、従来は不可能とされていた「青いバラ」を、日本のメーカーが遺伝子工学によって作り出そうとしていることを知りました。ここがすべての出発点ではあったのですが、そこから著者の旅は、古今東西の文学や伝承の世界、錬金術、西洋におけるバラ育種の歴史、日本におけるその歴史、そして植物色素の生化学や遺伝子工学によるその改変方法に至るまで、バラに関してはあらゆる方面に及びます。
 それは文中で引用されている『千一夜物語』のシンドバッドの冒険のようでもあり、また先日の荒俣宏さんとの対談で最相さんは、「細部にのめりこむことの喜び」という言葉を語っておられましたが、まさに極端な「のめりこみ」と、その快楽があふれています。
鈴木省三 一方、このような時空を駆けまわる旅の節目ごとに著者は、日本におけるバラ育種の第一人者であり、海外の専門家からも「ミスター・ローズ」と呼ばれていた鈴木省三氏(右写真)のもとを訪ね、日本のバラの歴史、人間とバラとの関係、「青いバラ」をどうとらえるべきかということなどについて、意味深い対話を重ねていきます。
 結局、青いバラをめぐる作者の旅は、文中で引用されているノヴァーリスのロマン的長編『青い花』のように、老人に導かれつつ続けていく、はるかな「内面の旅」という意味あいを帯びて現れてくるのでした。

 長年にわたり日本のバラ界を先導してきた鈴木省三氏は、すでに85歳を越えて一線を退いていますが、その貴重な知恵をこの世に残そうとするかのように、最相さんを何度も自宅のバラ園に招き入れては、この花について優しく説いて聞かせてくれます。その慈愛に満ちた姿は、賢治の言葉でいえば、「師父」というイメージですね。
 しかし本の末尾が近づくと、著者は鈴木氏を入院中の病室に訪ねるようになってしまいます。そして最後が鈴木氏の葬儀で終わるところは、ノンフィクションでありながら、まるで一つの大きな物語が閉じられるような印象でした。


 さて、最相葉月さんがこの本に添えて、先日私に下さったお手紙によれば、現在までの多岐にわたる取材活動の中で、最相さんはしばしば宮澤賢治に「ニアミス」をするという体験をしておられるのだそうです。この『青いバラ』の277ページには、最相さんが貼っておいて下さった小さな付箋が付いていたのですが、そこにその「ニアミス」の一つが触れられていました。
 鈴木省三氏がまだ子供の頃、お父さんが一株200円もする赤く美しい花を買ってきたということです。これが鈴木氏と、バラの花というものとの初めての出会いで、その時に見たバラが何だったのか、鈴木氏自身もその後ずっとわからなかったのだそうですが、最初の出会いから40年もたってから、ふとしたきっかけでその思い出の花は「グルス・アン・テプリッツ」という品種だったことが判明しました。そして、この運命的な再会を仲介したのが、奇しくも宮澤賢治だったというのです。

 1956年、鈴木氏は花巻温泉株式会社から、賢治が設計した「南斜花壇」の跡地をバラ園にしたいという依頼を受け、その企画設計を担当することになりました。その後、花巻から鈴木氏のもとに一株のバラが送られてきて、そこには「賢治がこよなく愛したバラ」との説明が付けられていたということです。そのバラを見た鈴木氏は、これこそ自分が40年前に初めて見たバラだと気づき、その株を自宅庭の書斎に一番近い場所に植えたということです。

 鈴木省三氏の父は、駒込動坂に当時あった「ばら新」というバラ園で、「グルス・アン・テプリッツ」―日本名では「日光」―というバラを買い求めて来たとのことですが、最相さんは、賢治も上京の折に、この「ばら新」に立ち寄ったのだろうかと推測しておられます。
 大正時代、「ばら新」は芸術家の間でも有名で、森鴎外の短編小説「天寵」にもこの店の名は登場し、また画家の村山塊多も、「ばら新」のバラを描いているのだそうです。


 ということで、こんなすばらしいエピソードがあったのならば、賢治の側の資料からも、彼が愛した「グルス・アン・テプリッツ」に関する記述がないか当たってみようと思ったのですが、ちょっと調べてみたところでは、賢治自身が書いた一次資料の中には、この品種名は見あたらないのですね・・・。

[ この項つづく・・・]