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1.前提

  1. 賢治も嘉内も、「恋の鳥」の歌詞を作品中に引用しているが、二人とも全く同じように言葉を間違えている。このような事態は、二人の一方がもう一方に、歌詞を間違って伝えたことによって起こったと考えるのが自然である(「「勿忘草」の人」参照)。
  2. 歌詞を(誤って)伝えた方法としては、(1)二人が会って話した、(2)書簡で伝えた、という2つが考えられる。
    ここで、賢治から嘉内あての書簡には「恋の鳥」の歌詞が書かれたものは現存しないので、上記をより正確に書き直すと、(1)二人が会って話した、(2)’嘉内が賢治に書簡で伝えた、の2つの方法がありえたことになる。
  3. 賢治は「カルメン」の舞台を実際に見ていて、その際に「恋の鳥」も聴いたと考えられる(「賢治は「カルメン」を見たか(本篇)」参照)。
  4. 問題となる時期前後の賢治の東京滞在は、1917年(大正6年)1月4日~6日、1918年(大正7年)12月26日~1919年(大正8年)3月上旬、1921年(大正10年)1月24日~8月頃。
    一方、嘉内の東京滞在は、1918年(大正7年)4月19日~11月、1919年(大正8年)8月~9月、同年12月~1920年(大正9年)11月。なお、嘉内はこの間の1919年3月4日~12日に盛岡に行っており、東京を「通過」はしている。

2.「カルメン」の上演日

 北原白秋作詞・中山晋平作曲の「恋の鳥」という歌が最初に唄われたのは、松井須磨子がカルメン役を演じた「芸術座」の公演においてでした。
 「芸術座」の「カルメン」は、1919年(大正8年)1月1日が初日で、10日間上演の予定でしたが、1月5日未明に主役の松井須磨子が自殺してしまったため、公演は1月4日で中止となり、「芸術座」も解散してしまいます。
 その後の経緯について、松本克平著『日本新劇史』(筑摩書房, 1975)は、次のように述べています。

 須磨子を失った座員二十余名は、すぐに生活問題に追われなければならなかった。大部分はちりぢりばらばらになっていった。その中の数人はまず中村吉蔵の下に集った。そして二人(引用者注:島村抱月と松井須磨子)の死の生々しい衝撃のまだ消えないうちに「新芸術座」を結成、松竹と提携した。そして三月一日から十四日まで有楽座で旗揚げをした。まことにすばやい旗揚げである。演し物は須磨子の最後の舞台となった『カルメン』と『肉店』で、須磨子の追悼公演という誰でもやる手であった。監督は川村花菱。須磨子の代りは中山歌子であった。(中略)
 中山歌子は帝劇洋劇部の出身だけあってカルメンの「煙草のめのめ」や「恋の鳥」の劇中歌は須磨子よりは音楽的であったという。歌子のカルメンは好評ではあったが、共演者は須磨子の強烈な個性的イメージを払拭することが出来ないで困ったという。(中略)
 つづいて新芸術座は関西巡業に赴いた。さらに九月には『肉店』を『剃刀』につきかえて東北、北海道へ。須磨子の三七日もたたないうちに旗揚げは不謹慎だと言って参加を渋り、浅草の石井漠の「東京歌劇座」や「七声歌劇団」に出演していた田辺若男は、この旅から新芸術座に加わった。『剃刀』の木村為吉の役は田辺の当り役であったからだった。北海道から戻って宇都宮まで来るに及んで須磨子追悼の看板も効き目がなくなり、一座は一文無しになって帰京した。そして陣容を建て直し、再び松竹の手で浅草御国座(後の松竹座)に出演した。カルメンはやはり歌子であった。ホセの森英次郎は退き、新派の村田正雄が代った。
 だが、九ヵ月にわたるカルメンの巡業に人々は疲れ果てた。まして生活のため以外にすでに積極的な目的のない新芸術座であった。
 そこへ大阪の沢正から応援を頼みに来たのであった。沢正の任期と独裁に反旗をひるがえした中田正造、小川隆ら四名は十一月、新国劇を脱退して新声劇を起こし、沢正の剣劇に対抗しようとしていた。吉蔵以下の面々は今や道頓堀を席捲しようとしている沢正を応援することに衆議一決して、ここに新芸術座は解散したのであった。

 また、増井敬二著『浅草オペラ物語』(芸術現代社, 1990)には、「カルメン」公演の略史について、次のように述べられています。

 「カルメン」も日本では新劇として大正八年一月に松井須磨子が演じ、しかも公演中に彼女が自殺したことで知られていた。また浅草オペラでは、大正七年三月に河合澄子が獏与太平の編作した「カーメン」を初演し、また伊庭孝の脚色した高木徳子の「カルメン物語」や、八年十二月に金竜館で、松井須磨子をしのぶ長尾史緑脚色の二場だけの「カルメン」があったが、どれもオペラの原曲とはかなり雰囲気の違うものだった。

 一方、増井敬二著『日本のオペラ』(東京音楽社, 1984)には、大正時代の東京におけるオペラ「カルメン」の上演記録が掲載されています。下の表は同書より抜萃したもので、もとは横に一つながりの表であったものを、スペースの都合上、二段に分けています。

「カルメン」上演日程(1)

「カルメン」上演日程(2)

 上の表で、「8.12.31/金」と書いてあるのは、『浅草オペラ物語』の引用中に「八年十二月に金竜館で、松井須磨子をしのぶ長尾史緑脚色の二場だけの「カルメン」があった」と書かれているものに相当すると思われます。「追悼公演」であることから、おそらく年をまたいで元日以降には行われなかったでしょう。これも、「二場のみ」ではありますが、「松井須磨子追悼」という趣旨からは、劇中で「恋の鳥」が唄われた可能性はあると思われます。
 あと上の表では、大正7年の公演はそれぞれ独自の脚色であり、また大正11年3月20日以降の公演は、ビゼー作曲の原曲どおりの公演ですから、これらの劇中に「恋の鳥」が唄われた可能性はありません。

 以上の資料から、劇中で「恋の鳥」が唄われるヴァージョンの「カルメン」の公演が行われた日程をまとめると、次のようになります。

  1. 1919年(大正8年)1月1日~4日(芸術座):浅草・有楽座
  2. 1919年(大正8年)3月1日~14日(新芸術座):浅草・有楽座
  3. 1919年(大正8年)3月?~8月?(新芸術座):関西巡業
  4. 1919年(大正8年)9月~11月?(新芸術座)東北・北海道巡業
  5. 1919年(大正8年)11月(新芸術座):浅草・御国座
  6. 1919年(大正8年)12月31日(長尾史緑脚色):浅草・金竜館

3.賢治が「カルメン」を見た日

 上の上演日程のうちで、賢治の東京滞在期間と重なるのは、1. および 2. です。賢治は、トシの看病のために、母とともに1918年(大正7年)12月26日に東京に出てきて、「雲台館」に宿泊します。賢治が東京から花巻に帰った正確な日付けはわかっていませんが、1919年(大正8年)3月3日に東京で雛の節句を祝ったと『新校本全集』年譜篇にありますから、3月3日よりは後になります。
中山歌子 賢治がはたして、1月1日~4日の芸術座公演を見たかと考えてみると、この頃はまだ上京して間もなく、トシの容態も重篤でしたから、賢治が呑気に浅草へ観劇に行ったとはちょっと思えません。したがって、賢治が東京で「カルメン」を見たとすると、3月1日から浅草・有楽座で行われていた「新芸術座」の公演だっただろうと思われます。
 ということは、この時「恋の鳥」を唄ったのは、おそらく中山歌子(右写真:松本克平『日本新劇史』より)だったわけですね。

 ただ、賢治が東京で「カルメン」を見たとはかぎらず、上の 4. にあるように「新芸術座」はこの年の9月~11月に東北・北海道巡業もしています。賢治がこれを見た可能性も否定できません。
 しかし、その直前の〔8月20日前後〕と推定されている嘉内あて「書簡154」には、当時の賢治の様子が次のように書かれています。

私の父はちかごろ毎日申します。「きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。何か考へろ。みんなのためになれ。錦絵なんかを折角ひねくりまわすとは不届千万。アメリカへ行かうのと考へるとは不見識の骨頂。きさまはとうとう人生の第一義を忘れて邪道にふみ入ったな。」

 このような家庭の状況では、岩手県のどこかに巡業が来たとしても、「カルメン」などという不道徳な女が出てくる劇を見に行くなどとは、賢治もとても家族に言い出せなかっただろうと思います。この時の興行日程については、また折があれば調べてみたいとも思いますが、私としては賢治が地元近くでこの巡業公演の「カルメン」を見た可能性は、低いと考えます。

 ちなみに、中山歌子による「カルメン」劇中歌のうち、「酒場の唄」「煙草のめのめ」は、「浅草オペラとオーケストラ」というページの下の方から聴くことができます。賢治が観劇したとほとんど同じ頃の録音です。
 それから「恋の鳥」は、拙作のMP3を「とらよとすればその手から…」というページで聴けます。

4.嘉内は「カルメン」を見たか

 嘉内が、上記の「カルメン」公演のいずれかを見たとすると、その可能性がありえるのは、上の「6. 1919年(大正8年)12月31日」のみです。この12月1日から嘉内は1年志願兵として陸軍近衛輜重兵大隊に入り、東京にいたのです。しかし、大晦日の12月31日に嘉内がどういう状況にあったのかはわかりません。休暇であれば故郷に帰っていたかもしれませんし、休暇でなければ観劇など行けません。
 すなわち、ここで嘉内が「カルメン」を見たと仮定することには、若干の無理があるでしょう。

 一方、私として気になるのは、嘉内が1919年(大正8年)3月4日から、元同級生の卒業を祝うために盛岡へ行ったことです。この際、途中で東京を通過しますが、もし東京で途中下車すれば、上の 2. のカルメンを見ることができたわけです。
 それより何よりも、この時、東京にはまだ賢治がいたのです。もしも嘉内が東京で途中下車したとすれば、その理由は「カルメン」を見るためというよりも、賢治に約1年ぶりに会うためだったでしょう。ただ、この「途中下車」という仮定も、かなり空想的なものではあります。

 という風に、客観的に考えてみると、嘉内が「カルメン」を見た可能性は低いと言わざるをえません。
 しかし、ここで冒頭に述べた「前提」に戻ると、もしも嘉内が「カルメン」を見ていなければ、嘉内が賢治あての書簡によって、「恋の鳥」の歌詞を伝えたという可能性は消えます。
 すると、二人が「恋の鳥」の歌詞を共有した方法としては、(1)の「二人が会って話した」というものしか残らなくなります。これまで明らかになっているかぎりでは、「恋の鳥」が世に出た1919年(大正8年)以降で、賢治と嘉内が会ったのは、1921年(大正10年)7月のみです。

5.ありうる可能性

 以上を整理してみます。賢治と嘉内が「恋の鳥」の歌詞を共有した状況として、考えられる可能性は、以下のとおりです。

  1. 賢治は、1919年(大正8年)1月の「芸術座」公演、3月の「新芸術座」公演、9月~11月の東北巡業のいずれかを見た。
    嘉内は、12月31日の長尾史緑脚色公演を浅草・金竜館で見て、その後、「恋の鳥」の誤った歌詞を書簡で賢治に書き送った。
  2. 賢治は、1919年(大正8年)1月の「芸術座」公演、3月の「新芸術座」公演、9月~11月の東北巡業のいずれかを見た。
    嘉内が「カルメン」を見ていたかどうかは問わない。後に「恋の鳥」はかなり流行したので、劇を見ていなくても嘉内がこの歌を知っていた可能性はある。
    そして、1921年(大正10年)7月に賢治と嘉内が東京で会った際、「カルメン」あるいは「恋の鳥」について二人は話し合ったが、どちらかの記憶違いによって、「恋の鳥」の歌詞を誤って共有した。
  3. 嘉内は、1919年(大正8年)3月初めに盛岡へ向かう途中、東京で下車して賢治に会った。
     3a. 賢治は嘉内と会った時すでに1月の「芸術座」公演か3月
        の「新芸術座」公演のいずれかを見ていて、その話を嘉
        内にした際に、「恋の鳥」の歌詞を誤って伝えた。
     3b. 賢治と嘉内は、二人で一緒に、浅草・有楽座で「新芸術
        座」の「カルメン」を見た。観劇後に「恋の鳥」について話
        し合った際に、どちらかの記憶違いによって、歌詞を誤っ
        て共有した。

 それぞれの設定について、どんな印象を持たれたでしょうか。こうやって並べてみると、どれも「ありそうにない」ことに見えてしまうので困りますが、ここまでずっと見ていただいたように、理屈で考えていくと、上のうちのどれか一つは正しいことになるのです。

 1. に関しては、兵役中の嘉内が大晦日に浅草で観劇をしたと仮定するのが、まず苦しいところです。それに、賢治は「カルメン」を見たことをそれまで嘉内に知らせていないわけですから、嘉内も同じ「カルメン」を見たというのは、幸運な偶然です。こんな格好の共通の話題ができたのに、それを知らされた賢治が1920年以降の嘉内あての書簡において、全くこれに触れていないのは、かなり不自然です。
 2. に関しては、二人にとって非常に深刻な、結果的に最後となった会見において、はたして「カルメン」の話などするような余裕があったのか、ということが問題です。賢治としては「恋の鳥」の話などよりも、嘉内が国柱会に入って自分と同じ道を進んでくれるかが、何よりも重要な議題だったはずです。また、賢治が「カルメン」を見てからこの時までに2年もの月日が経過しており、この2年間に賢治から嘉内あての書簡で一度も話題になったことのなかった「カルメン」「恋の鳥」の話が、なぜこの面会時に出てきたのかも不思議です。
 3. は、東京における嘉内の「途中下車」という空想的な仮定から出発しているところが、最大の難点です。賢治と嘉内が東京で、これまでは未知の面会をしていたということにもなってしまいます。しかし、以前に「東京デオ目ニカゝッタコロ」という記事に書いたように、1920年(大正9年)7月22日付けの嘉内あて「書簡166」を見ると、この書簡以前に二人が東京で会っていたのではないかと疑わせるふしもあるのです。

 もしも 3. が正解であれば、これは「東京におけるもう一つの面会」の内容について、若干の示唆を与えてくれているわけです。

【追記】
 その後、この問題にはまだもう一つ別の解がありうることを、signaless さんからご教示いただきました。それは sora さんのご意見なのですが、あらためて私なりに文章にすれば、次のようなことです。

4.  嘉内は、賢治から贈られた『春と修羅』を読み、そこに収めら
   れている作品「習作」に(字句を誤って)引用されていた「恋
   の鳥」の歌詞を、再び引用する形で「勿忘草の歌」に取り入
   れた。

 賢治から嘉内に贈られた『春と修羅』は今も保阪家に現存しており、嘉内が賢治の作品「習作」を読んでいたことは確実です。ですから上記のように考えるのが、最も自然で蓋然性の高い解釈だろうと、今や私も感じます。
 当初私は、二人が距離を置いて情報を伝達する手段としては「書簡」しか念頭になく、賢治から嘉内への書簡で「恋の鳥」に言及したものは現存しないことから、この方向性は頭から除外してしまうという過ちをおかしていました。しかし実は書簡以外に、「『春と修羅』の作品テキスト」という、さらに重要で確実な伝達手段があったのです。

 というわけで、長々とややこしい仮定にお付き合いいただいたのに、貴重なお時間を無駄にしたようで申しわけありません。

 ただ、1919年(大正8年)3月に賢治と嘉内が東京で会わなかったかどうかということは、これとはいちおう別の問題として、残しておきたいと思います。

 先日少し触れたように、私は賢治が「カルメン」の舞台を直に見ていたのだろうと思っているのですが、本日は私がそう思う理由について、書いてみます。
 ただ、その前に確認しておかなければならないのは、大正時代に舞台で演じられた「カルメン」には、いくつものヴァージョンがあったということです。そもそも、メリメ原作・ビゼー作曲のオペラ「カルメン」は、時間も長く規模も大がかりで、さらに歌唱にもオーケストラ演奏にも西洋音楽の高度な技術が要求されるものですから、大正時代も中頃までは、オペラから名場面を簡単に抜粋したり、「新劇」として上演しつつ所々に日本風の歌曲を入れたりした、短縮・翻案版が上演されていたのです。

 私が調べられたかぎりでも、当時浅草では下記のような公演があったようです。

  1. 1918年(大正7年)3月1日から、河合澄子主演「日本バンドマン一座」が「桃色館」で演じた「カーメン」
  2. 1918年(大正7年)9月16日から、高木徳子主演で「有楽座」にて演じられた「カルメン物語」(これは高木徳子の離婚成立後の同年12月13日に、「駒形劇場」で「永井徳子改名披露公演」として再演)
  3. 1919年(大正8年)元日から4日まで、松井須磨子主演で「芸術座」が「有楽座」にて演じた「カルメン」(1月5日未明の松井須磨子自殺により中断)
  4. 1919年(大正8年)3月1日から14日まで、中山歌子主演の「新芸術座」が「有楽座」で演じた「カルメン」(上記「芸術座」の内容を踏襲)
  5. 1919年(大正8年)9月4日、来日した「ロシア歌劇団」の「帝国劇場」におけるグランドオペラ形式の「カルメン」(ロシア語による公演)
  6. 1919(大正8年)年12月31日、「金竜館」における二場のみの「カルメン」(「松井須磨子追悼公演」として上演)
  7. 1922年(大正11年)3月20日より「金竜館」にて「根岸大歌劇団」が演じた「カルメン」(日本人による初めてのグランドオペラ形式による上演で、前編・後編に分けて公演)

松井須磨子のカルメン 詳細についてはまた稿を改めて述べる予定ですが、当然ながら賢治が見たと想定されるのは、「とらよとすればその手から・・・」の「恋の鳥」が劇中で歌われるヴァージョンで、上のリストでは、3. 4. そしておそらく 6. が該当します。
 そして、上のリストは東京での、それもおもに浅草における公演に限られているのですが、当時は好評を博した出し物は地方公演にもかけられており、賢治が見たとしてもそれが東京においてだったと断定できるものではありません。たとえば「新芸術座」は、「カルメン」を主要な演目にして、1919年(大正8年)の9月~11月に、東北・北海道巡業をしています。しかしこの「観劇場所」の問題についても、稿を改めて考えることにします。(右写真は、松井須磨子の扮するカルメン:演劇出版社刊『明治大正新劇史資料』より)

 とりあえず今回考えたいのは、「カルメン」の内容と賢治の作品の関連の検討です。私としては、賢治の作品に現われている下記のような事項から、彼は「カルメン」の舞台を実際に見ていたのではないかと考えます。
 いずれも、それぞれ一つだけではさほど確固たる根拠となるものではありませんが、いくつもの示唆的なポイントが集積していることによって、それなりに確度が高まっているのではないかと、私は思います。


1.「恋の鳥」引用と歌詞錯誤

 「習作」(『春と修羅』)には、「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という、松井須磨子・中山歌子による「恋の鳥」の歌詞が引用されています。したがって、賢治がこの「恋の鳥」という歌を知っていたことは、疑いようがありません。
 ただし、歌を知っていたというだけなら、直接舞台を見ていなくても、誰かが歌うのを聞き憶えたり、SPレコードで聴いて知っていたという可能性も、ありえます。(「浅草オペラとオーケストラ」というサイトによれば、「恋の鳥」とともに歌われた「酒場の唄」「煙草のめのめ」が収められたSPレコードが、大正8年5月に発売されていました。)
 これらの可能性のうち、もしも賢治が「恋の歌」のレコードを所蔵していたのなら、おそらく歌詞のテキストも付いていたでしょうし、繰り返し何度も聴くことができたはずですから、歌詞を誤って憶えてしまうということは起こりにくいでしょう。

 したがって、賢治が「恋の鳥」の歌詞を誤って引用していたという事実は、賢治がこの歌の歌詞を舞台を見て聴き憶えたか、誰か他の人から聞いたのか、いずれかだったのではないかということを示唆します。

2.「鞭をもち赤い上着を着て・・・」

 「習作」においては、本文5行目に「黒砂糖のやうな甘つたるい声で唄つてもいい」とあって、6行目の上段から、「とらよとすればその手から・・・」の歌詞が始まります。そして6行目の本文は、「また鞭をもち赤い上着を着てもいい」となっていますが、これは「唄つてもいい」と対になっていることから、「鞭」や「赤い上着」が、「恋の鳥」の歌と関係していることを示しています。
 この時、賢治が歩いていた草地がスペイン(西班尼)風と感じられたので、カルメンや「恋の鳥」へと連想が広がったのでしょう。

 しかしこの「鞭」や「赤い上着」とは、いったい何なのでしょうか。

 そもそも、北原白秋作詞・中山晋平作曲のこの「恋の鳥」は、物語の冒頭近くで、カルメンが自分に言い寄る男たちを尻目に、恋のむら気さ、厄介さ、危うさなどを、蠱惑的に歌うものでした。ビゼーによる歌劇の原曲では、有名なアリア「ハバネラ」に相当する部分で、その「ハバネラ」の元の歌詞の日本語訳は、以下のようなものです。「とらよとすればその手から・・・」という趣旨は、北原白秋の詞と共通しています。

   ハバネラ

恋はいうことをきかない小鳥
飼いならすことなんか誰にもできない
いくら呼んでも無駄
来たくなければ来やしない

おどしてもすかしても なんにもならない
ひとりがしゃべって ひとりが黙る
あたしはあとのひとりが好き
なんにもいわなかったけど そこが好きなの

ああ恋、恋・・・

※ 恋はジプシーの生まれ
   おきてなんか知ったことじゃない
   好いてくれなくてもあたしから好いてやる
   あたしに好かれたら あぶないよ!

まんまとつかまえたと思ったら
鳥は羽ばたき 逃げてゆく
恋が遠くにいるときは 待つほかないが
待つ気もなくなったころ そこにいる

あたりをすばやく飛びまわり
行ったり来たり また戻ったり
捕らえたと思うと するりと逃げて
逃がしたと思うと 捕らえてる

ああ恋、恋・・・

※ くりかえし

 舞台におけるカルメンの衣装には、その美貌と気性の激しさを際立たせるために、しばしば真紅の色が用いられます。「上着」というのがどういう趣旨なのかはわかりませんが、「赤い上着を着て・・・」という描写は、ひとまずカルメンの姿を指しているのだろうと考えておくことはできるでしょう。
 ただ、カルメンは煙草工場で働く女工という設定なので、どうして「鞭を持ち」ということになるのか、これまで私にはよくわかりませんでした。しかし最近 YouTube で、カルメンが「鞭」を振り回しながら「ハバネラ」を歌うという、リハーサル風景の動画を見つけました。下の三角印をクリックしてご覧下さい。

 これだけ見ると、なぜカルメンが鞭を手にしているのかちょっと不可解ですが、でも考えてみれば、この場面はカルメンが衛兵たちに言い寄られているところなので、カルメンは騎兵が持っている鞭を取り上げて、兵隊たちを脅したりからかったりしながら、「ハバネラ」を歌っているという設定なのかもしれません(主人公のドン・ホセも、竜騎兵の一員でした)。実際このリハーサル動画でも、周囲の男性たちはカルメンの鞭にマジで肝を冷やしているところがおもしろいですね。
 松井須磨子や中山歌子のカルメンが、「恋の鳥」を歌う際に鞭を手にしていたという証拠は何もないのですが、動画に見るようにそのような「カルメン」の演出が存在するのは事実ですから、賢治の「習作」に出てくる「鞭」の解釈の一つとして、このような状況は一応ありえると思います。

 そして「鞭をもち赤い上着を着て・・・」という一節がそういう振り付けを意味しているのなら、賢治がこのような具体的情景を作品に描くことができたのは、実際に舞台の「カルメン」を見たからだろうと考えてみることができます。

3.「酒場の唄」と「星めぐりの歌」の関連

 「芸術座」と「新芸術座」による新劇としての「カルメン」公演においては、賢治が「習作」に引用した「恋の鳥」の他に、やはり北原白秋作詞・中山晋平作曲の「酒場の唄」という歌も唄われました。
 これもまた、やけっぱちなデカダンスあふれる歌なのですが、この「酒場の唄」の旋律と、賢治の「星めぐりの歌」の旋律の構造は、実に非常に似ているのです。作曲家で賢治研究にも造詣が深い中村節也氏はその類似性に気づかれて、賢治が「星めぐりの歌」を作る際には、無意識のうちに「酒場の唄」の旋律の影響を受けていたのではないかという説を提唱されました。

 私も、この中村氏の説に全く同感です。「酒場の唄」のメロディーを聴いてみると本当に不思議な感じで、「星めぐりの歌」との関連性を感じざるをえず、3年あまり前には「「星めぐりの歌」と「酒場の唄」」というブログ記事にもしました。この記事には、二つの歌の楽譜も比較のために載せてありますので、どうかご参照下さい。
 当時に歌われた「酒場の唄」がどういうものだったかというと、上にもリンクした「浅草オペラとオーケストラ」というページの下の方で、「新芸術座」の中山歌子の歌唱による「酒場の唄」を聴くことができます。1919年(大正8年)5月という、貴重な時期の録音ですね。
 また、こちらのページを開いていただくと、「酒場の唄」の歌詞表示とともに、BGMとしてそのメロディーを聴くことができます。

 つまり、当時の賢治の心の中には、「恋の鳥」の歌詞だけでなくて、「酒場の唄」のメロディーも流れていた可能性が高いのです。もちろん、二つの歌とも当時かなり流行ったものでしたから、賢治が直に「カルメン」を見ていなくても、誰かが唄っているのを聴いてこれらを憶えたという可能性も否定できません。しかしテレビもラジオもない時代、2曲の歌が賢治の印象に深く刻まれるためには、やはり舞台で直接「カルメン」を見て、主人公が唄うこの歌を聴いたと考えるのが、私には自然に思えます。

4.「薤露青」の工女たちの「あざけるやう」な歌

 「薤露青」という美しい作品に関して、私は以前から気になっていることがありました。作品の半ばすぎに、次のような箇所があります。

声のいゝ製糸場の工女たちが
わたくしをあざけるやうに歌って行けば
そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が
たしかに二つも入ってゐる
  ・・・・・・あの力いっぱいに
       細い弱いのどからうたふ女の声だ・・・・・・

 ここで賢治は、夜のとばりが降りようとしている北上川を眺めながら、前年に亡くなったトシのことを考えています。その時、ちょうど近くの製糸場が終業時刻になり、工女たちが皆そろって帰りはじめたのでしょうか。
 ここで、彼女たちが賢治のことを「あざけるやうに」歌って行ったというのは、賢治の孤独感がそう思わせたにすぎない錯覚でしょうが、この一つの情景――女工たちが男に向かって集団で嘲るように歌って行く――は、私にはどうしても「カルメン」の中の一場面を、思い起こさせるのです。

 「カルメン」の物語の冒頭近く、タバコ工場の終業の鐘が鳴り、仕事を終えて帰る女工たちがいっせいに工場から出てきます。街の男たちは、女工をナンパしようと工場の前で「出待ち」をしています。下記は、ビゼーの歌劇におけるこのあたりの歌詞です。

(男性の合唱)
鐘が鳴る 俺たちは
女工たちの帰りをここで待ってる
栗色の髪の女工たち、君らを追う
愛をささやきながら

 一方、女工たちは物憂げにタバコを吹かしながら、つれない素振り。

(女工たち)
目で追う 宙にただよう
タバコの煙
空高く
上っていくよ
上っていくよ芳しく
ゆっくり上っていくよ
上のほうに
とてもゆるやかに
心を楽しませ
恋人たちの語らいをなごませる
それがタバコの煙
彼らの激情と愛の誓い
それもタバコの煙
そう それがタバコの煙
それがタバコの煙

 男たちが懇願しても・・・

(女工たちに)
薄情にならないで
聞いておくれ ねえさんたち
俺たちの熱愛する
崇拝するおまえたち

 それでもやはり女工たちは、彼らを全く気にもとめず、煙をくゆらせ通り過ぎようとします。

宙にただよう
目で追うタバコの煙
タバコの煙
目で追う 宙にただよう
タバコの煙
空高く回り回って上っていくよ
タバコの煙! タバコの煙!

 ちなみに、「芸術座」「新芸術座」の公演においては、ここで女工たちは上記の合唱の代わりに、「煙草のめのめ」というやはり北原白秋作詞・中山晋平作曲の歌を唄いました。

煙草のめのめ、空まで煙(けぶ)せ、
どうせ、この世は癪のたね。
     煙よ、煙よ、ただ煙、
     一切合切、みな煙。

 すなわち、「カルメン」の第一幕には、「工場が終わって工女たちが出てきて、男たちをあざけるような歌を唄って行く」という場面があるのです。
 私にとっては、この劇中の情景と、「薤露青」に出てくる「製糸場の工女たちが/わたくしをあざけるやうに歌って行けば・・・」という描写が、どうしても重なるのです。製糸場の工女たちが、実際に賢治をあざけるように歌って行ったことはないはずですが、工場からいっせいに若い女性たちが出てきて、賢治のことを気にもとめずにおしゃべりをしながら通り過ぎて行った時、賢治の心には、上記の「カルメン」の一場面が浮かび上がったのではないだろうかと、私は想像するのです。

 私としては、「薤露青」のこの部分も、賢治が「カルメン」の舞台を見ていたために生まれた一つの心象なのではないかと思うのです。

◇          ◇

 以上、賢治が「カルメン」の舞台を見ていたのではないかということについて、私なりに思いつくことを述べました。

 あと残る課題は、もしそうならば賢治はいつ「カルメン」を見たのか、そして保阪嘉内との情報共有はいかになされたのか、ということです。

「勿忘草」の人

 ご存じのように、『春と修羅』所収の「習作」という作品には、「芸術座」および「新芸術座」が演じた「カルメン」の劇中歌、「恋の鳥」の一節が引用されています。

  習作

キンキン光る
西班尼(すぱにあ)製です
  (つめくさ つめくさ)
こんな舶来の草地でなら
黒砂糖のやうな甘つたるい声で唄つてもいい
と┃また鞭をもち赤い上着を着てもいい
ら┃ふくふくしてあたたかだ
よ┃野ばらが咲いてゐる 白い花
と┃秋には熟したいちごにもなり
す┃硝子のやうな実にもなる野ばらの花だ
れ┃ 立ちどまりたいが立ちどまらない
ば┃とにかく花が白くて足なが蜂のかたちなのだ
そ┃みきは黒くて黒檀(こくたん)まがひ
の┃ (あたまの奥のキンキン光つて痛いもや)
手┃このやぶはずゐぶんよく据えつけられてゐると
か┃かんがへたのはすぐこの上だ
ら┃じつさい岩のやうに
こ┃船のやうに
と┃据えつけられてゐたのだから
り┃……仕方ない
は┃ほうこの麦の間に何を播いたんだ
そ┃すぎなだ
ら┃すぎなを麦の間作ですか
へ┃柘植(つげ)さんが
と┃ひやかしに云つてゐるやうな
ん┃そんな口調(くちやう)がちやんとひとり
で┃私の中に棲んでゐる
行┃和賀(わが)の混(こ)んだ松並木のときだつて
く┃さうだ

 上記では横書きになっていますが、原文はもちろん縦書きです。本文の6行目から行頭の文字を、上記では縦に、原文では横に読むと、「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という言葉になります。作品においてはこの言葉と本文を区別するための線が引かれていて、上では点線のように表示されていますが、実際には連続線です。

 さて一方、この「とらよとすれば・・・」という言葉は、保阪嘉内が家族とともによく歌っていたというので「保坂家家庭歌」、あるいは最近は「勿忘草の歌」とも呼ばれる歌にも出てきます。下記が、その歌詞です(『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』より)。

   勿忘草(わすれなぐさ)の歌
            ―保坂家家庭歌―

捕(とら)よとすればその手から小鳥は空へ飛んで行く
仕合わせ尋ね行く道の遙けき眼路に涙する

抱かんとすれば我が掌(て)から鳥はみ空へ逃げて行く
仕合わせ求め行く道にはぐれし友よ今何処(いずこ)

流れの岸の一本(ひともと)はみ空の色の水浅葱(みずあさぎ)
波悉(ことごと)く口付けしはた悉く忘れ行く

 漢字表記は少し違っていますが、「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という言葉は同じです。
 この言葉の出典は何かというと、北原白秋作詞、中山晋平作曲で、1919年(大正8年)に「芸術座」が(のちに「新芸術座」が)演じた「カルメン」の中で歌われる「恋の鳥」という劇中歌です。
 「恋の鳥」の歌詞は、以下のとおりです。

捕へて見ればその手から、
小鳥は空へ飛んでゆく、
泣いても泣いても泣ききれぬ、
可愛いい、可愛い恋の鳥。

たづねさがせばよう見えず、
氣にもかけねばすぐ見えて、
夜も日も知らず、氣儘鳥、
來たり、往んだり、風の鳥。

捕らよとすれば飛んで行き、
逃げよとすれば飛びすがり、
好いた惚れたと追つかける、
翼火の鳥、恋の鳥。

若しも翼を擦りよせて、
離しやせぬぞとなつたなら、
それこそ、あぶない魔法鳥、
恋ひしおそろし、恋の鳥。

 比べていただければわかるとおり、賢治や嘉内の引用は、北原白秋のもとの詞と少し違っています。一番の初めの2行が、おおむね引用部分に相当するのですが、原文は「捕へて見ればその手から、小鳥は空へ飛んでゆく」です。三番の1行目は「捕らよとすれば飛んで行き」となっていて、賢治と嘉内の引用は、一番の初め2行に、三番の冒頭を混ぜ合わせたような形になっています。

 このように、歌の歌詞をちょっと間違えて憶えてしまうということは、誰だってよくあることですが、ここで重要なのは、賢治と嘉内が全く同じ間違いをしているということです。間違いそのものはそれなりの確率であるにせよ、二人がそれぞれ独立して、全く同じ間違いをする確率というのは、非常に低いものです。このような現象が起こった経緯の最も自然な解釈は、「二人のうちの一方が歌詞を間違えて憶えていて、それをもう一人に伝えたために、同じ間違いが共有されてしまった」と推測することです。
 さらに、「二人がこの歌を共有していた」と考えることは、後にそれぞれの作品にその引用が登場することの意味を、より大きなものにしてくれるでしょう。

 賢治の「習作」には、「柘植さん」という名前が出てきますが、これは柘植六郎という盛岡高等農林学校の教授で、園芸などを担当していたということです(『新宮澤賢治語彙辞典』より)。この作品において賢治は、どこかの(スペイン風とも感じられる)気持ちのよいつめくさの草地を歩いているようですが、もう4年あまり前に卒業した盛岡高等農林学校のことを思い出して、書き込んでいるのです。

 さらに、嘉内の「勿忘草の歌」の方には、私はさらに深い意味を感じざるをえません。「わすれな草」の花言葉は、名前のとおり「私を忘れないで下さい」というものですが、嘉内がこの題名に込めた意味は、何なのでしょうか。彼は、いったい誰に向かって、「私を忘れないで」と言っているのでしょうか。

 この歌の一番の2行目、「仕合わせ尋ね行く道の遙けき眼路に涙する」は、まだ一般的な言葉なので解釈はいろいろありえますが、二番の2行目、「仕合わせ求め行く道にはぐれし友よ今何処(いずこ)」に至ってはどうでしょう。「はぐれし友」とは、誰のことなのでしょうか。
 文を素直に読めば、「嘉内はある友と一緒に仕合わせを求めて道を進んでいたが、その後その友と離れてしまった」ということになるでしょう。
 ここで思い起こされるのが、賢治と嘉内が1917年(大正6年)の7月14日から15日にかけて岩手山に登った際に、二人である誓いを立てたと推測されることです。賢治は後々も嘉内にあてて、「夏に岩手山に行く途中誓はれた心が今荒び給ふならば私は一人の友もなく自らと人とにかよわな戦を続けなければなりません」(書簡102a)と書いたり、「曾って盛岡で我々の誓った願 我等と衆生と無上道を成ぜん、これをどこ迄も進みませう」(書簡186)と書いたり、この「誓い」を宝のように大切にしていました。その誓いの内容は、上に「我等と衆生と無上道を成ぜん」との仏教的表現にあるように、「我ら二人、ともに全ての人々の幸せのために人生を尽くそう」というようなことだったのではないかと思われます。

 そうだとすれば、嘉内の「勿忘草の歌」の一番と二番に出てくる「仕合わせ尋ね行く道」「仕合わせ求め行く道」とは、賢治とのこの「誓い」を承けたものではなかったでしょうか。
 すなわち、嘉内が「勿忘草の歌」に歌った「友」とは賢治のことであり、これは遙かな友に「私を忘れないで」と願い、あるいは「自分も賢治を忘れない」という思いを込めて作った歌だったのではないかとも、感じられるのです。そう考えれば、この歌の中に、「捕(とら)よとすればその手から小鳥は空へ飛んで行く」という、自分が賢治と共有していた歌の一部を引用した嘉内の意図も、より明確に理解できると思われます。


 そこで次の課題は、この歌を二人のうちどちらが先に知って、どうやってもう一人に伝え共有したのか、ということです。これに関しては、また長くなりますので、稿を改めて考えてみたいと思います。

ワスレナグサ

 5年以上前から自宅で使っていたパソコンがだんだん調子悪くなって、この頃は決して1回では起動しなくなったり、使っている最中に落ちてしまったりするようになって半年。Windows 7も出たことだしと思って、とうとう新しいのを買いました。
 で、今日は古い機械からの移行や新たな設定などをしていたのですが、5年も使っていたものを置き換えるとなると、これは結構大変な作業です。写真や音楽など厖大になったデータを移すにも時間がかかりますし、古いパソコンで馴染んでいたソフトが新しい方には入らなかったり、インストールしても認証されなかったり・・・。

 まだまだ作業は終わりませんが、もともと今日、記事にしてみたかったことは、賢治は1919年(大正8年)の3月までトシの看病のために東京に滞在していた際に、「新芸術座」で「カルメン」を見たのではなかったか、という一つの推測でした。もちろんこれは、新たに提唱するというほどのことではなく、多くの人も考えておられることでしょうが。
 これが何に関わってくるかというと、この時の「カルメン」の話が、「東京デオ目ニカゝッタコロ」という記事で書いたように、賢治と嘉内がもう一つの会見をしていたということの傍証になるのではないかと、考えたのです。内容については、またあらためて書くことにします。

 先日『春と修羅』所収の「習作」に関連して、1919年に松井須磨子が演じた「カルメン」について書きましたが(「とらよとすればその手から…」)、そう言えばこの時の舞台でやはり松井須磨子が歌った「酒場の唄」という歌に関して、作曲家の中村節也さんは重要な指摘をしておられたのでした。
 賢治の「星めぐりの歌」の旋律は、この「酒場の唄」に着想を得たのではないか、という大胆な提起です。

 なによりも実際に聴いてみましょう。当時の「酒場の唄」の録音は、先日もリンクさせていただいた「浅草オペラとオーケストラ」というページの、下から3分の1あたりから聴くことができます。1919年5月、松井須磨子の自殺からまだ4ヵ月という時期における、新芸術座の中山歌子の歌です。
 また、こちらのページを開いていただくと、BGMとして「酒場の唄」の旋律がMIDIで流れます。

 さて、いかがでしょうか。後半はかなり違ってきますが、はじめの方は雰囲気が似ていますよね。

 こんどは楽譜で比べてみます。
 「酒場の唄」は、もとはヘ長調4分の4拍子で記譜されているようですが、「星めぐりの歌」と直接比べやすくするために、下にト長調4分の2拍子に書き直してみました。

「星めぐりの歌」
「星めぐりの歌」

「酒場の唄」
「酒場の唄」

 つまり、「星めぐりの歌」の方が、 が一つ多く入っているわけですが、旋律の動きはほぼ同型なのです。

 この「中村説」に対して、『宮沢賢治の音楽』等で有名な佐藤泰平さんは、「旋律が偶然に似通うことはままあり、推測の域を出ないだろう。賢治のクラシックレコード・コレクションにも、ジャズや京劇はまじっているが、歌謡曲はない」との談話を述べ、慎重な姿勢を示しておられます。
 しかし思うに、「習作」の中に「恋の鳥」の一節が引用されていることからわかるように、賢治がこの北原白秋・中山晋平版の「カルメン」を何らかの形で聴いていたことは確かですから、「レコード・コレクションにない」ことは、気にしなくてもよいのではないでしょうか。

 天の星を讃える聖らかな「星めぐりの歌」が、そのまるで対極にあるような、デカダンスの香り漂う「酒場の唄」に着想を得ているとすれば、ちょっとショッキングですね。
 しかし中村節也さんは、これも「清濁合わせ呑む賢治の包容力を感じる」ととらえておられます。

とらよとすればその手から…

 『春と修羅』所収の「習作」は、おもしろい形をした作品ですね。テキストの途中から罫線が引いてあって、賢治の独り言のような言葉が進行していくのと並行して、線の上には、「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という当時の流行り歌の歌詞が並べられています。
 賢治の「心象スケッチ」のテキストにおいては、しばしば種々の括弧を用いたり「字下げ」をしたりして、様々なレベルからの「声」が表現されていますが、これはまさに朗読と一緒に歌謡曲のSPレコードを流しているような、多声音楽的(ポリフォニック)な響きです。

 この「とらよとすれば・・・」という歌は、北原白秋作詞、中山晋平作曲による「恋の鳥」という歌の一部で、1919年の元日から東京の有楽座で上演された歌劇「カルメン」の劇中歌として、松井須磨子によって歌われました。
 『新宮澤賢治語彙辞典』において指摘されているように、正しくはこの歌の歌詞は、第一連では「捕へて見ればその手から…」、第三連では「捕らよとすれば飛んで行き…」であり(下記参照)、賢治はこれらを混同しておぼえていたようです。

 実際の歌がどんなものだったのだろうと、私は昔から気になっていたのですが、これが入っている『小沢昭一が選んだ恋し懐かしはやり唄 四』(COLUMBIA COCJ-30749)というCDを、つい先日買ってみました。
 ほんとうは、その演奏をここにアップしたいところなのですが、そのままでは著作権に触れてしまいますので、耳コピーをもとに歌声合成ソフト‘VOCALOID’に歌わせてみたのが下記のMP3です。とりあえず「習作」のテキストと関わる、一番と三番だけを演奏しました。どうぞお聴きください。

「恋の鳥」(MP3: 1.63MB)

一、
  捕へて見ればその手から
  小鳥は空へ飛んでゆく
  泣いても泣いても泣ききれぬ
  可愛いい可愛い恋の鳥
二、
  たづねさがせばよう見えず
  氣にもかけねばすぐ見えて
  夜も日も知らず、氣儘鳥
  來たり往んだり風の鳥
三、
  捕らよとすれば飛んで行き
  逃げよとすれば飛びすがり
  好いた惚れたと追つかける
  翼 火の鳥、恋の鳥
四、
  若しも翼を擦り寄せて
  離しやせぬぞとなつたなら
  それこそ、あぶない魔法鳥
  恋ひしおそろし、恋の鳥