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 去る11月29日(日)、私どもの企画した「第7回イーハトーブin京都」が、無事終了いたしました。寒い日でしたが、会場いっぱいの皆様にお越しいただき、竹崎利信さんによる賢治作品の美しく迫真の「かたり」を、ご一緒に堪能することができました。
 いただいた「参加費」は、今回もまた東日本大震災の被災地にお届けさせていただきます。

 お話しした内容については、またいずれきちんとした形でまとめたいと思いますが、今日は当日のいくつかの写真のみご紹介申し上げます。


 まず、舞台設定時のプロジェクター試写。三つの丸い明かりとりの窓が印象的でした。

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」舞台設定


 竹崎利信さんによる「かたり」に、会場の皆さんとともに固唾をのんで耳を澄ませます。

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」:竹崎利信さんの「かたり」


 私が解説をしているところ。

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」・解説風景


 最後の、「銀河鉄道の夜」の一コマです。

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」より:「銀河鉄道の夜」


 終了後のご挨拶。もうかなり暗くなってしまいましたが、長時間ありがとうございました。

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」より:終了後のご挨拶


 お越しいただいた皆様に、厚く御礼申し上げます。
 また今後とも、よろしくお願い申し上げます。<(_ _)>

 11月29日(日)に行う、「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都―宮沢賢治の「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」まで、あと3週間となりました。

 今回のプログラムは、竹崎利信さんによる賢治作品の「かたり」の合間に、私が「解説」をはさむという形になっていますので、竹崎さんと私とで合同の「稽古」を、竹崎さんのご自宅のある宝塚市で、これまで3回行いました。だんだんとイメージが具体的な姿をとってで現れてくるにしたがって、私たちとしてもますます当日が楽しみになっているところです。

 第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都―宮沢賢治の「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」

 全体のプログラムは、チラシにある当初の予定から少しだけ変わって、下記のようになりました。

1.死ぬことの向ふ側まで一諸について・・・
   ひかりの素足(部分)
   イギリス海岸(部分)

2.臨終の日
   永訣の朝
   松の針
   無声慟哭

  (休憩)

3.探索行動・深層意識の言語化
   風林
   青森挽歌
   宗谷挽歌

4.現実との相克から内心の葛藤へ
   手紙 四
   宗教風の恋

5.「死者とともにある」
   この森を通りぬければ
   薤露青
   銀河鉄道の夜
(部分)

 竹崎利信さんによる美しい「かたり」によって作品を鑑賞しつつ、トシの闘病中、臨終の床、死後、と順を追って、賢治の「心の軌跡」をたどるという企画です。
 日時は、11月29日(日)午後2時から、場所は、京都市上京区の京都府庁敷地内にある、「府庁旧本館正庁」で行います。
 会場として使用させていただく「京都府庁旧本館正庁」は、明治時代に建てれた国の重要文化財で、これをご覧いただくだけでも、かなりの価値はあると思います。

 今のところまだ席に余裕はありますが、「当日券」は設けていません。私あてにメールをしていただければ、予約をお取りいたしますので、行ってみようかと思われる方は、メールをいただければ幸いです。


 さて下の絵は、当日の配付資料の最後のページに載せる予定のものです。今回のプログラム最初の「ひかりの素足」と、最後の「銀河鉄道の夜」とは、ちょうど相似形の構造になっているのですが、催し全体のテーマも、やはり同型だということを表しています。

「ひかりの素足」、「銀河鉄道の夜」、宮沢賢治のグリーフ・ワーク

 東日本大震災の復興支援のためのチャリティイベントとして、これまで6回の「イーハトーブ・プロジェクトin京都」を開催してきました。
 そして今度、11月29日(日)に、「宮沢賢治の「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」」と題して、その第7回を行います。

第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都
  宮沢賢治の「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」
    ――作品でたどる、妹の死とその後の苦悩

日時: 11月29日(日) 14時開演(13時30分開場)
場所: 京都府庁旧本館正庁
出演: 竹崎 利信 (かたり)
     浜垣 誠司 (解説)
参加費: 2000円 (経費以外は被災地に寄付します)

 下に、チラシの表面と裏面を掲げておきます。クリックすると、別窓で拡大表示されます。

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ表

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ裏

 今回取り上げるのは、賢治がトシの死の前後に書いた様々な作品です。「永訣の朝」をはじめとする「無声慟哭」作品群や、翌年夏の「オホーツク挽歌」作品群は、その比類ない美しさと痛切さのために、これまで多くの人が朗読し、論じてきました。
 今度の公演では、「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」にも出演いただいて感動の涙を誘った竹崎利信さんに、これらの作品の「かたり」を演じていただき、その合間に私が、「グリーフ・ワーク」という視点から、解説をしてみたいと思います。
 「グリーフ・ワーク」ということについては、チラシ裏の説明から下に引用します。

「グリーフ・ワーク」という道程
 人は、かけがえのない存在を失った時、否応なく「悲嘆」の中に投げ込まれます。あの人がいなければ、自分はもう生きていてもしょうがない。この苦しみは、永遠に続くだろう。こんな苦痛と孤独を抱えて生きるくらいなら、死んだ方がましだ…。人はしばしば、大切な人との死別の後に、このような思いにとらわれます。そして実際その人の生活は、ある種の闇に閉ざされてしまったようにも見えます。
 その闇の中で、人は苦しみもがいたり、怒りをぶつけたり、絶望したりもするでしょう。死者のことばかりを思い、はてしない自問自答を繰り返すこともあるでしょう。それでもしかし、一定の時間が経つうちに、そのような苦しみを続ける人の心にも、何かの変化が現れてくることがあります。悲しみは消えなくても、また自分は生きていこうと思うかもしれません。その人の死を、何か自分なりに意味づけていくかもしれません。亡くなった人が、自分に力を与えてくれているように感じるかもしれません。
 このように、人が死別の苦難を受けとめ昇華する過程で、その人の心が自ずと行っていく営みのことを、「グリーフ・ワーク(悲嘆の作業)」と呼びます。その形は様々ですが、多くの人は、このプロセスを通り抜けることによって、悲しみの中からまた歩き出すのです。

宮沢賢治と「グリーフ・ワーク」
 思えば、宮沢賢治という人も、若くして深刻な死別を体験した人でした。彼は26歳の時に、最愛の妹トシを、結核で亡くしたのです。人並み外れた感受性の持ち主だった賢治にとって、これは耐えがたい出来事でした。打ちのめされ、悲嘆に暮れ、悩み苦しむ日々は延々と続き、翌年には妹に会いたい一心で、樺太まで一人で行ってしまったほどです。一時は精神の平衡さえ崩しかねなかった賢治ですが、この苦しみの過程において、有名な「永訣の朝」をはじめ、日本近代文学で比類のない挽歌群が生み出されました。
 そしてそのようなプロセスの後、彼はいつしか悲しみを越えて、心の安定を取り戻していったのです。すなわち、この間に書かれた数々の作品は、宮沢賢治という人が図らずも行った、稀有な「グリーフ・ワーク」の記録でもあるのです。
 当日は、大正11年11月27日に亡くなったトシの命日の、2日後にあたります。賢治がトシを謳った作品を、竹崎利信さんの「かたり」で聴きながら、彼がいかにして深い「喪失」を乗り越えていったのか、その心の軌跡を辿ってみたいと思います。

 私は、ふだんの仕事は精神科の医者をやっているのですが、その中では上のように大切な人を亡くして、絶望のどん底にある人の相談に乗ることもあります。
 今回私がお話しようと思っていることは、この間ブログで折に触れて書いてきたことも元になるでしょうが、多少とも精神科医という立場から、賢治の「この悲しみに時期」について、あらためて考えてみたいと思います。

 いつものように、私たちの催しの趣旨に賛同してチラシの絵を描いて下さったのは、埼玉県在住の画家・ガハクさんです。今回も素晴らしい絵をお寄せ下さったガハクさんに、あらためてこの場を借りて厚く御礼申し上げます。

 会場の定員は、90名とさほど多くありません。
 ご来場ご希望の方は、075-256-3759 (アートステージ567: 12時~18時, 月曜休)に、お電話でご予約をお願いいたします。

 当日11月29日は、トシの命日の二日後にあたります。この時期に、ご一緒にトシと賢治に、そしてまた震災によって大切な人や生活を失われた方々に、今一度思いを致しましょう。

 皆様のご来場を、心よりお待ち申し上げています。

 もう1週間たちましたが、去る3月2日(日)に、「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」(能楽らいぶ『中尊』)が、無事終了いたしました。ご出演、ご協力いただいた方々に、ここに厚く御礼を申し上げます。
 日曜の夜にもかかわらず、多くの方々にお越しいただくことができました。ご参集いただいた皆様にも、心より御礼申し上げます。今回も、参加費から経費を除いた全額は、被災地における復興支援活動に寄付させていただきます。

 さて、法然院というお寺を巡ると、本当にたくさんの花が供えられているのを目にします。

 ご本尊の阿弥陀如来坐像の前には、人間の臨終の際に阿弥陀如来とともに浄土から迎えに来るという「二十五菩薩」を表す二十五輪の生花が、「散華」として毎日供えられています。

法然院・阿弥陀如来坐像と散華

 上の写真で、床の上に幾何学的に配置されている藪椿の花が、それです。この椿以外にも、たくさんの花が生けられています。

 廊下から手水鉢を見ると、ここにも生花が毎日浮かべられています。

法然院の手水鉢

 花がこんなにたくさん供えられているお寺で、しかもそのご本尊の阿弥陀様の前で、「花を奉る」という祈りを中心とした能が舞われるというのですから、こんなにうってつけの舞台が、他にあるでしょうか。
 今回、この場所で『中尊』が演じられるためのお手伝いができたことは、私たちにとっても願ってもない光栄でした。

 公演は、「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」で「なめとこ山の熊」などのかたりを聴かせて下さった竹崎利信さんによる、「花を奉る」の朗読で始まりました。
 ここでまず、石牟礼道子さんによる「花を奉る」の祈りが、皆の心の底にくっきりと楷書体で刻まれます。

竹崎利信・朗読「花を奉る」

 そして静かに続けて、能『中尊』が始まりました。

能『中尊』

能『中尊』

能『中尊』

能『中尊』

能『中尊』

かへりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)
かりそめの姿なれども おろそかならず
ゆへにわれら この空しきを礼拝す
然して空しとは云はず

能『中尊』

 シテとワキが徐々に「薄墨にとけ込んでゆくように」(by @flaneur51)退場すると、あらかじめ出演者の要望によって拍手はご遠慮いただくように皆様にお願いしてあったので、暗い本堂は、しばらく深い沈黙に包まれました。

 重く美しい言葉の連なる石牟礼さんの「花を奉る」の中でも、上に引用した「かへりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)/かりそめの姿なれども おろそかならず・・・」という箇所は、本当に痛切に心に沁み入ります。

 「まなうらにあるものの御形」とは、今は亡き、大切な人々の面影ではありませんか。ここで私は、3年前の地震や津波で亡くなった人々のお顔を、それぞれの身内の方々が思い起こしておられる様子が浮かんでしまって、胸が締めつけられました。
 このような面影は、たとえそれがどんなに愛しいものであっても、仏教の正しい教えに従えば、「仮象」にすぎません。しかしまた一方、どんなに教えが尊くても、やはりそれは一人一人の生きている人間にとっては、「おろそかならず」なのです。
 だから人間は、「空し」とわかっていても、その「御形」をまなうらに浮かべて、礼拝します。
 そしてまた、理知の教えによって「空し」とわかっていても、あえて「空しとは云わず」と、石牟礼さんは静かに、はっきりと言うのです。

 「死」という現象にまつわるこの深い葛藤――死に対する理性的な認識と、人間的な感情との間の相克――は、宮澤賢治が「オホーツク挽歌」の旅において、妹トシの死をめぐって抱えていた苦悩に、ちょうどそのまま対応するものでしょう。
 その相克に、賢治と石牟礼さんがそれぞれ対峙した様子は、またかなり異なって感じられます。
 賢治は、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》(「青森挽歌」)と厳しく念じ、最終的には、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」(「薤露青」)という心境へと、浄化されていきました。
 石牟礼さんは上に記したとおり、「ゆへにわれら この空しきを礼拝す/然して空しとは云はず」と、相克は相克のままに肯定しておられるようです。
 宗教的な意味合いはともかく、私個人にとっては、石牟礼さんのスタンスの方が「人間的」な感情を残してくれている分、わかりやすく感情移入しやすいものではあります。

 あらかじめ自分なりに謡本を熟読しておき、昨年9月の演能の一部を動画でも見て、そしてついにこの日、能『中尊』を直に拝見したわけですが、私にはその作品全体は、美しい一篇の詩のように感じられました。
 ・・・「悲しみ」があって、そこに再生の象徴となる「中尊寺蓮」があって、その「花」を、石牟礼道子さんの祈りとともに、「奉る」・・・。

 作中時間と同じ「3年目の春」を迎えようとしている私たちの心に、この作品は震災や原発事故のことを痛切に呼び覚ましましたが、上記のように研ぎ澄まされたシンプルなその「形」は、そのような具体的な文脈を超えて、「古典」のような美しさを静かに放っているように感じられたのです。

 一方、当日はこの「能楽らいぶ」と並行して、鈴木広美(ガハク)さんと恭子さんによる、「花を奉る」をテーマとした作品の展示が、本堂裏の「食堂(じきどう)」で行われました。お二人は、この催しのためにはるばる埼玉から作品を持って駆けつけて下さったのです。
 現在私の手元にはこの展示の様子を写した写真がなく、目に見える形でご紹介できないのがとても残念なのですが、「文殊菩薩像」が祀られている対面には、花の器を持つ「シバの女王」の彫刻が置かれ、イーゼルには7枚の油絵が、机の上には9枚の銅版画が飾られ、大広間全体は、精霊たちが踊るような空間になりました。
 この美術展の画像が入手できましたら、またあらためてご紹介させていただきたいと思っています。
 なお、展示していただいた作品の一部は、ガハクさんご自身のブログ記事「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」にて、ご紹介されています。

 今回も、本当にたくさんの方々のお力添えのおかげで、素晴らしい催しを行うことができました。あらためて、皆様に御礼申し上げます。
 当日いただいた参加費と募金、それからガハクさんたちからは絵の売り上げの20%をご寄付いただきましたので、それらを取りまとめて、また被災地支援の活動に寄付させていただきます。
 寄付先はまだ決まっていないのですが、今回の能では福島に祈りが捧げられ、また岩手の中尊寺蓮もテーマとなっていたことから、何か所縁のあるところにお送りできればと、思っております。


《これまでの歩み》

第1回 2011年4月17日 「アートステージ567」にて
  岩手弁による賢治作品朗読: すがわら・てつお/いいだ・むつみ(フランスシター)
     ⇒京都新聞社会福祉事業団に、15万2610円を寄付

第2回 2011年9月4日 法然院本堂にて
  現代能「光の素足」らいぶ公演: 中所宜夫
     ⇒宮沢賢治学会「イーハトーブ復興支援義援金」に、16万0815円を寄付

第3回 2012年3月4日 京都府庁旧本館正庁にて
  かたり「なめとこ山の熊」他: 竹崎利信/友枝良平(揚琴)
     ⇒大槌町教育委員会および陸前高田市教育委員会に、12万円を寄付

第4回 2012年12月2日 龍谷大学アバンティ響都ホールにて
  歌でつづる宮沢賢治の世界: 大神田頼子(S) 浦恩城利明(Br) 小林美智(Pf)
     ⇒陸前高田市「にじのライブラリー」に、11万0819円を寄付

第5回 2013年7月28日 京都府庁旧本館正庁にて
  ひとり語り「よだかの星」他: 林洋子/梅津三知代(アイリッシュハープ)
     ⇒「福八子どもキャンププロジェクト」に、7万2279円を寄付

能『中尊』について

 来たる3月2日に法然院で演じられる新作能「中尊」が、福島原発事故を潜在的なテーマとしたものであることについては、前回も触れました。

 この能の作者である中所宜夫さんは、3年前の震災と原発事故を受けて、何とかして能という営みを通して、「原発の鎮魂」を行えないかという思いを、ずっと抱いてこられたのだそうです。
 「原発の鎮魂」とは、何ともまた常識的な論理では理解しにくい言葉ですが、こういうことを言い出したのはレヴィナス研究者の内田樹氏で、その辺の経緯は、3年前に出版された『原発と祈り』という本になっています。(その一端は、内田氏のブログの「原発供養」という記事でも読むことができます。)

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 この本は、内田氏ら3人の論者が、原発事故が起こってまだ3週間という時点で行った鼎談を収録しています。3年が経った現在から見ると、福島原発の行く末に対する当時の切迫感は半端なものではないですし、ちょっと言いすぎかなと思うところもなくはないのですが、しかしここで3人からにじみ出ている独特の高揚感、危機感、真摯さは、私たち日本中の皆が、2011年の3月から4月にかけては、総じて共有していたものです。
 3年後に読んでみると、私たちはある意味で少し冷静になったとも言えますし、原発の再稼働や放射能に対するあの頃の感性を、私たちが明らかに摩耗させて鈍感になっている、その現実をまた思い知らせてくれる文章でもあります。
 ここで内田氏らは、「原発供養」とか「原発の鎮魂」というコンセプトを呈示し、映画の『ゴジラ』ではゴジラの鎮魂のための歌を女子高生が歌う場面が出てくるとか、ウルトラマンというのはなぜか「仏像の顔」をしていて、怪獣の「荒ぶる魂」を「成仏」させているのだ、とかいうネタのような(?)話が展開されています。

 その内容については本そのものを参照していただくとして、いずれにせよ中所宜夫さんは、この「原発の鎮魂」というコンセプトを受け継いで、それが能という形に具現化できないかということを、模索して行かれたのです。
 その「具現化」のプロセスについては、中所さんご自身が、「『花を奉る』について」(能楽雑記帳)という文章に書いておられて、Web上で読むことができます。

 中所さんの「『花を奉る』について」にも記されているとおり、この『中尊』という能作品において、全体の「核」となっているのは、最後にシテによって舞われる石牟礼道子氏の詩、「花を奉る」です。
 この詩は、1984年に石牟礼氏が熊本県の無量山真宗寺における遠忌供養のために寄せた「花を奉るの辞」に由来しています。そして東日本大震災の翌月、作者自身がこれを改作して「花を奉る」とし、「大震災の翌月に」と末尾に記しました。

 下の『なみだふるはな』という本は、2011年6月に行われた石牟礼道子氏と写真家の藤原新也氏の対談を、収録したものです。この本の冒頭に、石牟礼氏は改作した「花を奉る」を掲げ、藤原氏は水俣と福島で撮影してきた花の写真を載せています。

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 対談の中で石牟礼氏が語っているように、水俣と福島という二つの究極の場所において、結局は日本の「国の嘘」が露呈しました。
 この「嘘」の背景にあるのは、潜在的危険性を帯びた化学工場や原子力発電所を、都市から離れた辺境に建設して、その地に住む人々の生命や生活を奪った、この国の差別的な構造です。この意味で、水俣と福島は同型なのです。
 中所さんの能『中尊』においても、シテの女性は「新潟阿賀野に生まれ」、「親を水銀の毒で失い」という設定になっているところに、この同型性が象徴されています。

 一読いただけばわかるとおり、「花を奉る」という詩の言葉は、もの凄く重たく、悲観的で虚無的です。それはまさに、原発事故後3年が経とうとするのに先の灯りも見えない、今の福島の状況に釣り合っています。
 しかし同時にこの詩には、そのような底知れない暗黒をも照射するような、強い希望も秘められています。

 中所さんは石牟礼道子氏のことを、「現代において賢治の精神を受け継ぐ人」と表現しておられますが、その言葉のしなやかさや奥深さにおいて、この二人は通底する詩人だと思います。
 ちなみに、この「花を奉る」のテクストが、まるで誂えたように能の舞にぴったりと当てはまっていった様子は、中所さんの「『花を奉る』について」に感動的に記されていますので、ぜひともご参照下さい。

 一方、中所さんのご友人でもある詩人の和合亮一氏は、震災後まもない福島から、ツイッターを通して詩の連続投稿を開始されました。『詩の礫』と題されたその営みにおいては、「花を奉る」とはまた違った具象的な迫真性を持った言葉が、リアルタイムに紡ぎ出されました。

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 私も震災後の一時期、暗い寝床で息をひそめるようにして、スマートフォンの画面でその投稿を見守っていたものです。それはたとえば、次のような詩句から成っていました。(『詩の礫』より抜粋)

放射能が降っています。静かな夜です。
                         2011年3月16日 4:30

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。
                         2011年3月16日 4:31

この震災は何を私たちに教えたいのか。教えたいものなぞ無いのなら、なおさら何を信じれば良いのか。
                         2011年3月16日 4:34

屋外から戻ったら、髪と手と顔を洗いなさいと教えられました。私たちには、それを洗う水など無いのです。
                         2011年3月16日 4:37

明けない夜は無い。
                         2011年3月17日 0:24

あなたはどこに居ますか。私は閉じ込められた部屋で一人で、言葉の前に座っている。あなたの閉じ込められた心と一緒に。
                         2011年3月18日14:11

南相馬市の夏が好きだった。真夏に交わした約束は、いつまでも終わらないと思っていた。原町の野馬の誇らしさを知っていますか?
                         2011年3月18日14:14

福島は私たちです。私たちは福島です。避難するみなさん、身を切る辛さで故郷を離れていくみなさん。必ず戻ってきて下さい。福島を失っちゃいけない。東北を失っちゃいけない。夜の深さに、闇の広さに、未明の冷たさに耐えていること。私は一生忘れません。明けない夜は無い。
                         2011年3月20日 0:20

しーっ、余震だ。何億もの馬が怒りながら、地の下を駆け抜けていく。
                         2011年3月20日22:01

 ここに和合氏の言葉をいくつもわざわざ引用させていただいた理由は、能『中尊』でワキとして登場する「福島浜通りから来た旅の詩人」のモデルは、実はこの和合亮一氏なのだと、中所さんからお聞きしたからです。作中の「旅の詩人」の孤独は、ひょっとしたらこのような陰影を帯びているのかもしれません…。
 さて、中所さんはこの和合亮一氏と、福島県相馬市および岩手県北上市において、能楽らいぶ+詩の朗読というコラボレーション公演を行い、ここで「花を奉る」の謡いと舞いを、和合氏の詩と組み合わせるという試みがなされました。この時点では、まだ全体は能の形をとっていませんでしたが、次に中所さんが遭遇した運命が、この構想を最終的に能作品へと昇華します。
 それは、盛岡市で開かれる「復興の花 中尊寺蓮を愛で感謝と震災を祈る会」に、中所さんが招かれて演能をするというご縁でした。

 1950年、平泉の中尊寺金色堂内に納められている藤原氏の遺体4体が学術調査され、その際に第四代泰衡の首桶から、80粒ほど蓮の種が発見されました。
 1998年に、大賀一郎博士らはこの種を発芽させ開花させることに成功し、800年ぶりに甦ったその花は、「中尊寺蓮」と命名されます。その後この蓮は、岩手県内の各地に株分けされていきますが、2012年には震災復興を願って、平安時代に「前九年の役」で安倍氏が滅んだ地に建つ「一ノ倉邸庭園」に株分けがなされ、以後ここで毎年「中尊寺蓮を愛でる会」が開催されることとなるのです。(「中尊寺蓮」開花の経緯に関しては、世界遺産平泉の「中尊寺ハス」のページもご参照下さい。)

 震災以来ずっと東北のことを思い、「花を奉る」というテーマを温め続けてこられた中所さんが、1000年の東北の哀史が凝縮された特別の地で、その苦難を象徴する花とも言える「中尊寺蓮」を前に能を舞うことになったのですから、これを運命の巡り合わせと言わずして何と言いましょう。図らずもここにおいて、作品を構成すべき様々なピースが、すべて揃いました。
 能『中尊』の誕生です。

 この辺のプロセスについて、中所さんから話をお聴きしていると、この作品は中所さんという一人の人が「創作」したというよりも、何かもともと存在していたものが、中所さんという「器」を借りて、自分の方から姿を現わしてきたような感覚を、私は禁じ得ないのです。

 なお下の動画は、2013年9月7日にこの一ノ倉邸において、能『中尊』が初演された模様を編集したものです。シテは中所宜夫さん、ワキは安田登さんという、今回の法然院公演と同じ演者です。

 思えば「能」という芸能は、観阿弥・世阿弥によって完成されて以来、様々な事情で亡くなった人々の魂を鎮めるという役割を、色濃く担ってきました。
 たとえば、世阿弥の『敦盛』においては、一ノ谷の合戦においてまだうら若い平敦盛の首を刎ねた熊谷直実が、心痛に堪えかねて出家して蓮生と名乗り、敦盛の菩提を弔うために、須磨を訪れます。そこで笛の音とともに蓮生の前に現れた草刈男の一人が、実は敦盛の化身だったのですが、後場でその敦盛の霊は、蓮生の前で平家の栄枯盛衰を語り舞を舞った後、いったんは自分の敵である蓮生を討とうとします。
 しかし結局は、「終には共に。生るべき同じ蓮の蓮生法師」と悟って、蓮生に自らの回向を頼んで、去って行くのです。

 この一連の物語によって、まずは無念の思いを抱いたまま死んだ敦盛の魂が、仇敵を許す境地に至ることによって、浄化されます。またそれとともに、年若い少年を殺してしまった罪責感を抱える蓮生の苦しみが、相手から許されることによって、浄化されます。
 これに加えて、当時この能の観客であった南北朝時代の武士たち――彼らもまた各々が戦いをくぐり抜け、他人を殺したり自分が殺されそうになったりした――にとっては、舞台の上で繰り広げられる鎮魂のドラマを「共に体験する」ことは、各々が戦場PTSDとして心に抱えるトラウマを、浄化してくれる役割も果たすことでしょう。
 すなわち、能が演じられる時、そこではシテにとって、ワキにとって、そして見所(観客)にとって、という三つのレベルにおいて、魂の浄化が行われるのです。

 このような重層構造は、『中尊』にも織り込まれています。
 シテの「女性」は、親を水銀の毒で亡くし、第二の故郷となった福島でも被災し、その後また息子に去られます。差別や疎外によって傷ついた女性は、詩人の前で東北の地霊と一体化し、祈りの徴に古代の蓮を奉られることによって、何らかの変容を遂げます。
 ワキの「旅の詩人」は、おそらくこの度の災厄の現状をつぶさに観察しながら、その過酷な有り様を、詩として言葉に刻む旅をしています。この時期に詩人が一人、「福島浜通り」から、「いいはとおぶ日高見の国」へと抜けるという道行きをしている目的としては、それ以外に考えられません。
 このような役割を担う者は、惨状を目撃し感情移入をすればするほど、自らの心をも大きなストレスに曝すことになります(=代理受傷)。そのような詩人にとって、東北の地霊の供養を務めることは、自らが被災地で共に震えつつ抱えこんだ苦しみを、ともに癒してくれることにもなるでしょう。

 このようにして、シテもワキも、「花を奉る」という行為によって、それぞれに浄化されるのです。
 さらに上にも触れたように、この仕儀は、女性に憑依した東北の「地霊」に対して捧げられるという形をとっています。そこでは、古代蝦夷のアテルイや奥州藤原氏に象徴される東北の豊饒さと、中央政府によるその収奪という構造が浮き彫りにされ、そしてこのたび東北を襲った震災や原発事故、そしてその後に再び露呈した中央政府との歪んだ関係も、自ずとそこに重なり合います。
 この歴史の同型性を貫通するのが、奥州藤原氏滅亡の時に藤原泰衡の首桶の中に入れられた蓮の花から、800年ぶりに現代に甦って花を咲かせた、「中尊寺蓮」なのです。

 詩人によって地霊の前に「中尊寺蓮」が捧げられることによって、傷ついた「東北」の回復には、一点の希望が灯されます。
 しかし、この希望が果たして日本という国全体の救いになりうるかどうかは、観客である私たちの行動の如何に懸っていることでしょう。
 水俣と福島に象徴されるこの国の構造を、今なお支えているのは、私たち自身だからです。


 ということで、私がこの能『中尊』について自分なりにあれこれ思いめぐらせたところを、徒然なるままに書かせていただきました。もちろん、『中尊』は多面的な深い作品ですから、もっと様々な別の解釈がありうるのは当然で、これはあくまで私個人の見方にすぎないことを、ご了承下さい。

 それでは最後に、私の勝手な要約による能『中尊』のあらすじと、石牟礼道子「花を奉る」のテキストを、下に掲載しておきます。

※ 

能『中尊』(あらすじ)

 福島浜通りからやって来た旅の詩人が、日高見の地で一人の女性に出会った。
 この女性は新潟阿賀野に生まれ、親を水銀の毒で亡くしたが、縁あって福島飯坂に嫁ぎ、子を成したという。しかし後に、親の病気を夫に告げていなかったことを責められ、その子と一緒に家を出て、文知摺観音のもとで二人暮らしていた。そこにまた《この度の災厄》があり、彼女は我が子を守りたい一心で幼い手を引き、日高見へと逃げた。

 それから三年目の春を迎え、いつしか大人びた子は、母に暇を乞うて言った。福島に戻って父とともに、生まれ故郷のために働きたい、と。母は、我が子の成長を喜びつつ、かつ涙をこらえつつ、寂しい笑顔で見送った。
 それ以来、日高見に一人残された女性は、立ち枯れの松のように、孤独の日々を送っているという。

 そう言うと女性は、中尊寺蓮を見るようにと、詩人を池の端に迎え入れた。美しい蓮に感嘆した詩人がその由来を尋ねると、女性はまるで何ものかに憑かれたかのように、東北の悲しみの歴史を、滔々と語り始めた。
 古来数多の血が流されたこの地に、奥州藤原初代清衡は、輝く浄土を築こうとした。都の圧政を離れ百年の安寧が謳歌されたが、四代泰衡に至り、また時の覇者により滅ぼされた。この中尊寺蓮の種は、泰衡の首桶の中で、浄土の夢とともに一度滅びたものである。しかし如何なる縁の賜物か、八百年の時を経て、この花は再び今の世に蘇り咲いた…。
 いつしか女性には、この地の霊が憑依していたのである。驚く詩人に対して、今やその霊は本性を明かし、自らに蓮の花を捧げるよう促した。詩人がその一本を手折って渡すと、女性は白い衣を纏った神々しい姿となって、花を持ち舞いながら、一篇の祈りの詩を詩人に謡い聞かせた。

春風萌(きざ)すといえども われら人類の劫塵(ごうじん)
いまや累なりて 三界いわん方なく昏し
まなこを沈めてわずかに日々を忍ぶに なにに誘わるるにや
虚空はるかに 一連の花 まさに咲(ひら)かんとするを聴く
ひとひらの花弁 彼方に身じろぐを まぼろしの如くに視(み)れば
常世(とこよ)なる仄明りを 花その懐に抱けり
常世の仄明りとは あかつきの蓮沼にゆるる蕾のごとくして
世々の悲願をあらわせり
かの一輪を拝受して 寄る辺なき今日の魂に奉らんとす
花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに洗われて 咲きいずるなり
花やまた何 亡き人を偲ぶよすがを探さんとするに
声に出(いだ)せぬ胸底の想いあり
そをとりて花となし み灯りにせんとや願う
灯らんとして消ゆる言の葉といえども
いづれ冥途の風の中にて おのおのひとりゆくときの
花あかりなるを
この世のえにしといい 無縁ともいう
その境界にありて ただ夢のごとくなるも 花
かえりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)
かりそめの姿なれども おろそかならず
ゆえにわれら この空しきを礼拝す
然して空しとは云わず
現世はいよいよ 地獄とやいわん
虚無とやいわん
ただ滅亡の世せまるを待つのみか
ここにおいて われらなお
地上にひらく一輪の花の力を念じて 合掌す
                              (石牟礼道子「花を奉る」)

 このように謡って舞い終えると、女性はその花を恭しく奉った。

ガハク『800年の夢』
ガハク『800年の夢』

 3年前の東日本大震災以来、宮澤賢治をテーマとして京都で行ってきたチャリティ企画「イーハトーブ・プロジェクトin京都」の第6回を、来たる3月2日(日)に、京都市左京区にある法然院本堂で開催いたします。
 今回は、第2回でも「光の素足」を演じていただいた能楽師の中所宜夫さんが、福島の原発事故を潜在的テーマとして書き下ろされた新作能「中尊」を、<能楽らいぶ>という形式で演じていただきます。

第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都
  中所宜夫「中尊」(能楽らいぶ)
    シテ: 中所宜夫
    ワキ: 安田登

日時: 2014年3月2日(日)午後6時開演(午後5時半開場)
場所: 法然院 本堂(京都市左京区鹿ヶ谷)
参加費: 2000円(必要経費を除き被災地の活動に寄付します)

 下記チラシは、クリックするとPDFで拡大表示されます。

「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ

 これまでの企画とは違って、今回は賢治の作品は採り上げていないのですが、その内容には、賢治の精神が息づいています。
 この「中尊」という能のクライマックスの部分では、石牟礼道子氏の詩「花を奉る」が謡い舞われます。ここにおいて中所宜夫さんは、「賢治の精神を受け継ぐ石牟礼道子」という視点も持ちながら、"東北の今"を描こうとされました。また、ワキ(旅の詩人)の語りの中には、「いいはとおぶとも呼ばれし日高見の地…」という言葉さえ登場します。
 このような能「中尊」は、「イーハトーブ・プロジェクト」という私たちの催しの趣旨にもぴったりとかなうものでしたので、是非ともと中所宜夫さんにお願いした結果、チャリティ企画へのご協力を快諾いただいたのです。

 この能は、遠く阿弖流為(アテルイ)の時代から、奥州藤原氏の滅亡を経てはるか現代まで、東北がずっと背負ってきた重い歴史を、私たちに垣間見せてくれます。そして、彼の地において「救い」を模索した人々の系譜に、宮澤賢治その人も連なっていることを、あらためて浮かび上がらせてくれるものです。

 当日は、まず能が始まる前に、私どもの第3回公演で賢治作品の「かたり」をしていただいた竹崎利信さんに、石牟礼道子の詩「花を奉る」を朗読していただいて、導入とします。
 それから、「中尊」の<能楽らいぶ>が始まります。シテ(=福島で原発事故に遭い幼子とともに岩手へ逃げてきた女性)を中所宜夫さんが、ワキ(=福島浜通りから来てその女性と出会う旅の詩人)を安田登さんが、それぞれ務められます。

 終了後には、中所さんと私とで、簡単な対談をさせていただきます。中所さんがこの能に込められた思いや、石牟礼道子や宮澤賢治との関わりについても、お聞きしたいと思います。

 思えば、南北朝の戦乱が続いた観阿弥・世阿弥の時代から受け継がれてきた能という芸能は、亡くなった人々、失われたものへの「鎮魂」という役割を、色濃く帯びていました。現代の能「中尊」は、そのような伝統の力を受け継ぎ、今なお福島の現実によって胸を突き刺されたままの私たちに、何かを示唆してくれるのではないかと思います。

 あとそれから、この3月2日の能公演には、もう一つ素晴らしい企画も連動しているのです。
 当日は法然院において、上のチラシの原画も描いて下さった画家・鈴木広美(ガハク)さんによる「蓮の花」の連作の展示も行われるのです!
 上のチラシ原画は、縦1mほどの作品だということですが、これよりさらに大きな作品も含め、当日は数枚の油絵や版画が、法然院の古式ゆかしい空間に並べられます。そして、輝かしくも神秘的な「ガハク・ワールド」が出現する予定なのです。私も今からワクワクしているところですが、皆様もどうかご期待下さい。
 ということで、遠く埼玉から私どもの催しのために、素晴らしい作品群をお寄せ下さるガハクこと鈴木広美さんには、この場を借りてあらためて厚く御礼申し上げます。

 会場となる法然院本堂は、ふだんは一般公開されておらず、なかなか中を拝見することはできないのですが、そういう意味でも、今回は貴重な機会となります。
 この3月2日の法然院公演にご来場ご希望の方は、075-256-3759(アートステージ567: 12時ー18時, 月曜休)にお電話いただくか、または当サイト管理人あてメールにお名前と人数を明記して、あらかじめご予約下さい。

 能「中尊」の内容については、近日中にもう少し詳しくご紹介をさせていただこうと思っています。

タクナエかタクビョウか

明治39年第八回仏教講習会(大沢温泉)

 上の記念写真は、1906年(明治39年)8月の「第八回仏教講習会」の折りに、会場の大沢温泉で撮られたものです(『新校本全集』第16巻(下)補遺・伝記資料篇より)。
 満10歳になる直前の賢治は、ちょっといたずらっ子のような様子で最前列の左から2人目に座り、トシは2列目の右端、父親の政次郎氏は最後列の左から2人目に立っていて、最後列中央あたりの法衣の人物が、この年の講師である暁烏敏です。
 そして、最後列の左端、政次郎氏の隣に写っている精悍な感じの人が、今日の記事で取り上げる、鈴木卓苗氏です。

 先月の花巻では、「イーハトーブ・プロジェクトin京都」のことも少し話をさせていただいたのですが、その実行委員会の一員として、「賢治の作品にも登場する鈴木卓苗氏のお孫さんにも参加いただいている」ということを申し上げたところ、何人かの方がこの話題に興味を持って下さって、その後の懇親会などで質問を受けたのです。

 質問の一つは、「卓苗」という名前はどう読むのか、という問題でした。私は以前から、京都在住のそのお孫さんに「タクナエ」とお聞きしていたので、特に何とも思わずそう呼ばせていただいていたのですが、「これはタクビョウあるいはタクミョウと読むのではないですか?」と訊かれて、はたと迷いました。なるほど考えてみると、「タク」というのは音読み、「ナエ」というのは訓読みですから、「タクナエ」というのはいわゆる「重箱読み」になってしまうのです。
 そう思ってちょっと考えてみましたが、人名の読みに音と訓が混ざって、「重箱読み」や「湯桶読み」になっているという例は、実はあんまり思い浮かびません。
 まあ女性の名前では、「優子(ユウこ)」とか「礼子(レイこ)」とか、「音読み+訓読み」の例もたくさんありますが、この場合の「子」は、一種の敬称・愛称?のような由来を持つ「接尾辞」的なものですから、ちょっと例外的なパターンと言えるでしょう。それからまた頭をひねってみると、あ、「俊介(シュンすけ)」というのがある、「哲男(テツお)」もそうだ・・・、などと考えていたら、そうそう、賢治のお父さんの「政次郎(まさジロウ)」という名前にも、音と訓が混じっていましたね。
 ということで、このような人名における音訓混合は、まあ「滅多にない」とまでは言えないけれども、上記の「〇子」のパターンを除けば、やはりけっこう少ないようですね。皆さんもお暇がありましたら、ちょっと考えて「卓内先生」(『定本 宮澤賢治語彙辞典』)みて下さい。

 で、花巻でそういう質問を受け、さらに最近出た『定本 宮澤賢治語彙辞典』を引いてみると、「卓内先生」の項には、「鈴木卓苗(たくびょう)」と振り仮名付きで載っているんですね(右写真)。これは、その旧版の『新宮澤賢治語彙辞典』においては、「鈴木卓内」とだけ記されていたものが、今回の改訂でそのように修正されたばかりの部分ですから、何となく信頼性もありそうな感じです。
 そこで私は、京都に戻るとさっそく鈴木卓苗氏のお孫さんに、その正式な読み方は何なのか、あらためて尋ねてみました。

 するとそのお答えは、やはり「タクナエ」、または訛って「タクナイ」だ、ということだったのです。


『花巻史談』第16号表紙 その後、手もとにあった資料を確認してみますと、『花巻史談』という雑誌(「花巻史談会」および「花巻市中央公民館」発行)の第16号(右画像)に、「花巻ゆかりの人物(十)」として、郷土史家の鎌田雅夫さんという方が、「鈴木卓苗」について書いておられました。

 この文章の冒頭は、次のような場面から始まります(最下段の画像も参照)。

 いまから六十八年前の大正十二年、この年の暮れの十二月四日に高知市で昇天した一つの魂があった。それは官立高知高等学校長の江部淳夫の魂である。翌日の五日の朝、鈴木教頭は全校生徒を本館二階の図書室に集めて、江部校長の遺した「愛すべき二百の健児よ」という文章と、「生徒諸子へ」という最後のステートメントを朗読した。鈴木教頭の声が何度も途切れそれが生徒のすすり泣きを誘い、やがて慟哭となって教室をうずめた―。(青春風土記、旧制高校物語)より抜粋。
 このときの鈴木教頭は遠く離れた岩手県花巻の出身の人であった。
 鈴木教頭は名を卓苗(たくない)といった。

 ということで、やはり「卓苗」は「タクビョウ/タクミョウ」と読むのではなかったようなのですが、今度はここには「たくなえ」ではなく「たくない」と書かれているのが、新たに気になってきます。

 実は、上の『定本 宮澤賢治語彙辞典』の引用画像にもあったように、この鈴木卓苗氏が登場する賢治の作品、「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」においても、その名前は「卓内」、すなわち漢字は違いますが、「タクナイ」と読むべき形で登場するのです。(下記は一部抜粋)

またその寛の名高い叔父
いま教授だか校長だかの
国士卓内先生も
この木を木だとおもったらうか
  洋服を着ても和服を着ても
  それが法衣(ころも)に見えるといふ
  鈴木卓内先生は
  この木を木だとおもったらうか

 賢治の作品では、実在の人物の名前を直接登場させるのをはばかって、少しだけ変えてあることも結構ありますから(例えば「氷質の冗談」における、白藤→白淵)、これも賢治の意図的な変更かと思っていたこともありました。しかしそれにしては、「タクナイ」と呼ばれている人を「卓内」と書いただけでは、ほとんど変えた意味がありません。
 となると、これは「タクナエ」と呼ばれたり「タクナイ」と呼ばれていたこの人の名前を、賢治は別に変えようとは意識せずに、発音に釣られて書いただけなのかもしれません。

 お孫さんは「タクナエ」と言い、詳細な伝記的調査を行った郷土史家は「タクナイ」と書いているというこの微妙な不一致も不思議ですが、思うにこれには東北地方の方言の特性も、影響しているのかもしれません。

 東北地方の言葉においては、「イ」と「エ」の発音の区別が曖昧であるという特徴があります。
 これは、賢治の書いているものにもそれなりに影響を及ぼしていたようで、後には「イーハトーブ」とか「イーハトーヴ」とか「イーハトーヴォ」と呼ばれるようになる賢治の造語は、『注文の多い料理店』の2種の広告葉書においては「イエハトブ童話」と表記されていました。
 また、これは入沢康夫さんが、『「ヒドリ」か「ヒデリ」か』(書肆山田)所収の「賢治の「誤字」のことなど」において紹介されている事柄ですが、賢治は何かを「(口に)くわえて」と書く時、「くわいて」と書くことが多かったようです。入沢さんは童話「楢ノ木大学士の野宿」の例を挙げておられますが、他にも「小岩井農場(清書後手入稿)」の「堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた」、「〔湧水を呑まうとして〕」の「きせるをくわいたり」、「鹿踊りのはじまり」の「いきなりそれをくわいて戻つてきました」、「どんぐりと山猫」の「巻煙草の箱を出して、じぶんが一本くわい」、「「山男の四月」の「山男はおもはず指をくわいて立ちました」など、かなりたくさんあります。
 「タクナエ」と「タクナイ」の区別が地元においては曖昧のようで、両方が混用されているように見えるのも、これと同型の現象のように思われます。

 ということで、以上が、とりあえず「鈴木卓苗」の読みについて、調べたり考えたりしてみたことでした。


 あとそれからもう一つ、花巻の賢治学会の時に鈴木卓苗氏について質問を受けたのは、地蔵堂のある延命寺というお寺で生まれた卓苗氏と、そのごく近所にある鼬弊神社に生まれた賢治の親友阿部孝との関係です。
 世代は少し違いますが、すぐ近くの住職や神主の子として生まれ育ち、ともに東京帝大を卒業した同窓生ですから、ある程度の交流はあったと考える方が自然です。
 それに、この二人をつなぐ不思議な共通点は実はもう一つあって、それは二人とも旧制高知高等学校の教授として在職した時期があり、その間に校長が急逝あるいは急に退職したために、「校長事務取扱」という校長代理職に就いているということです。鈴木卓苗氏が校長事務取扱になった時のことは、上に引用した人物伝にも出てきました。
 旧制高知高等学校(Wikipedia)を見ると、鈴木卓苗が校長事務取扱をしたのが1923年12月から1924年2月、阿部孝が校長事務取扱をしたのが1946年2月から6月であることがわかります。阿部の方は、その後校長になっていますね。
 思えば、東北出身の阿部孝が、他にも希望すれば全国の好きな土地の教授になれたでしょうに、なぜわざわざはるか遠い南国高知に赴任したのかということも不思議です。

 それで、このあたりにまつわる鈴木卓苗と阿部孝の関係、ひょっとしたら、阿部孝がはるばる高知高等学校に赴任したのは、鈴木卓苗からの推薦なり依頼があったからなのではないか、それも含めて二人の交友関係を示す資料や書簡などは残っていないか・・・?。そういう事柄について、研究者の方から質問されたのです。
 もちろん私は、その場ではそんなことはわかりませんでしたので、これも京都へ戻ってからお孫さんに尋ねてみました。
 結果は、卓苗氏の遺品は一部は残っているが、そのような交友関係を示すような書簡や資料というのは残念ながら心当たりはない、ということでした。ただ、近くに神社があったという話は、誰かから聞いたような憶えはある、また機会があれば、資料も探してみたいということでした。


 このお孫さんは、もちろん私よりも年配の方なのですが、東北から遠く離れてずっと愛知県や京都で暮らしてこられ、やっと最近になって、延命寺の桜羽場家や、鈴木卓苗氏が養子に行った先の盛岡市乙部の如法寺との交流が復活し、宮澤賢治との縁についても知るようになったのだということです。
 そういうご縁が新たにいろいろ生まれる中で、数年前に私も賢治を仲立ちにしてお近づきになる機会を得て、さらに一昨年の震災後には、乙部の如法寺を通して沿岸部に様々な物資を送ったり、「イーハトーブ・プロジェクトin京都」を一緒にやるようになったり、今もまだだんだんと全国的なご縁は、広がりつつある最中です。

 今年の賢治忌に花巻において、鈴木卓苗氏に関して何人かの方々から声をかけていただいたことで、またここに新たにご縁の輪が広がろうとしている、そんな予感もする今日この頃です。

「花巻ゆかりの人物(十) 鈴木卓苗」(鎌田雅夫)
『花巻史談』第16号より

 ブログ更新環境の不調のためご報告が遅くなってしまいましたが、去る7月28日(日)に、「ひとり語り」の林洋子さんとアイリッシュ・ハープの梅津三知代さんをお迎えして開催した「第5回イーハトーブ・プロジェクトin京都」が、無事終了いたしました。おかげ様で満員の盛況で、ご来場いただきました皆様には、心より御礼申し上げます。

 会場は、昨年の3月にも「第3回」を開催した、京都府庁旧本館正庁。下の写真で、正面の2階部分にある部屋です。

京都府庁旧本館

◇          ◇

 プログラムは、まず「やまなし」。日本画家・鈴木靖将さんが描かれた美しい「幻燈」の絵をパワーポイントで映し出しつつ、蟹の親子の会話です。

林洋子「やまなし」

 アイリッシュ・ハープの繊細な音色は、まるで谷川の流れやあぶくのように響きました。

 つづいて、私が林さんにインタビューする形式で、20分ほど「対談」を行いました。
 お話いただいたのは、一昨年の震災からまだ間もない時期に、三陸沿岸の避難所をまわって公演をされた時のこと、それから今回の京都公演のきっかけともなった、林さんと私の間に隠れていた「不思議なご縁」のこと。
対談 実は、私が仕事をしている医院の開設者は、故・高木仁三郎氏の実兄なのですが、林洋子さんは生前の仁三郎氏と無二の親友で、宮澤賢治に関して対談をしたり、仁三郎氏が創設した「高木学校」のサポートの会のキャプテンを務めたり、会議のために京都に来た際には兄弟と一緒に懇談したり、いろいろな交流があったのです。
 昨年の9月に花巻で林さんにお会いして名刺をお渡しした際に、林さんがこのご縁に気づいて下さって、今回の公演の準備も一気に盛り上がりました。当日は、その実兄である高木隆朗氏も会場に来て、仁三郎氏について思い出を語りました。
 本当は林さんには、若い頃から水俣に関わり、また上記のように反原発運動にも関わってこられた経験から、現在の福島についてどんな思いを持っておられるかなど、いろいろ他にもお話をお聴きしたかったのですが、時間の関係でかないませんでした。
 機会があれば、ぜひうかがってみたいと思っています。

◇          ◇

 後半は、本日のメインプログラム「よだかの星」です。

「よだかの星」

 小柄な林さんが、凛とした姿勢で立ち、力強い声で語り出すと、会場は圧倒的な迫力に包まれました。
 私の知人はこれを聴いていて、「よだかの星」の終わりの方では、会場の壁も床も消えて無くなってしまい、まるで宇宙空間の中に林さんが浮かんで語っているように感じ、最後によだかの体が「燐の火のような青い美しい光になって」燃えるという場面では、林さんの体が青く光っているように見えたと、後から話してくれました。
 そんな体験談も、みんなで「そう、そう」とうなずき合うような、林さんの「ひとり語り」でした。

 最後は、会場の参加者がハミングで歌う「ふるさと」に乗せて、林さんが「雨ニモマケズ」を読まれました。これはまさに絶妙の演出で、「ふるさと=イーハトーブ」に今回の震災のことを重ね合わせると、林さんによる「雨ニモマケズ」の言葉に、胸が熱くなるのを禁じ得ませんでした。

◇          ◇

 実行委員会で話し合った結果、今回の公演の収益は、福島の子供たちが安心して海や野山で遊べるようにと親子を八丈島のキャンプに招待する活動を行っている、「福八子どもキャンププロジェクト」に寄付させていただくことにいたしました。このプロジェクトの発起人は京都の医師なのですが、寄付のご連絡をすると、これからまだ5年は企画を続けたいと思っているので、たいへん力になると喜んで下さいました。

 さて、また次の「第6回」に向けて、現在はいろいろと検討をしているところですが、どうか今後ともよろしくお願い申し上げます。

第5回イーハトーブ・プロジェクトin京都

 一昨年から続けている宮澤賢治をテーマとした震災復興支援チャリティ企画「イーハトーブ・プロジェクトin京都」の第5回を、7月28日(日)に、京都府庁旧本館正庁にて開催することになりました。

 下の画像は、今回のチラシです。「よだか」にちなんで、埼玉県在住の画家鈴木広美さんの木版画「とり」を使わせていただきました。(クリックすると、別窓で拡大表示されます。)

「第5回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ表

「第5回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ裏

 今回は、林洋子さんをお招きして、「やまなし」、「よだかの星」、そして最後に「雨ニモマケズ」を語っていただきます。
 林さんは、長年にわたり日本全国を巡って賢治作品の「ひとり語り」を続けてこられ、その奥深い表現には定評があります。今回は、「吟遊詩人の楽器」とも呼ばれるアイリッシュ・ハープとの共演です。

 終了後には、私と少し対談をさせていただく予定ですが、林さんと賢治の出会いや、30年以上・1600回にもわたって賢治作品を演じ続けてこられた力は何なのか、などということについてもお話をお聴きしたいと思っています。また林さんは、一昨年の夏には三陸沿岸の避難所をまわる公演も実施されました。今回の震災について感じられたことも、うかがいたいですね。
 さらに、これは偶然のご縁なのですが、林さんは故高木仁三郎氏の活動に共鳴され、高木氏が市民科学者育成のために創設した「高木学校」のサポーターの会の「キャプテン」を務めておられます。一方、高木仁三郎氏の実兄は私の仕事先の理事長をしているので、林さんは以前にそういう関係でも、京都に来られたことがあるということでした。
 というわけで当日は、高木仁三郎氏が生前に行った活動についても、少し話が出ることでしょう。

 会場の「京都府庁旧本館」は、明治37年に建てられたルネサンス様式の重厚な洋館で、国の重要文化財にも指定されています。
 公演を行う「正庁」という部屋は、その旧本館の中でも最も格式の高い場所で、公式行事や公賓の接遇のために使われていた特別な空間です。大正4年の「大正天皇即位の礼」の際、および昭和3年の「昭和天皇即位の礼」の際には、内閣全体が京都に移動してきて、この「正庁」の部屋で閣議が行われたということです。
 現在はこういうイベントなどに使われていますが、当時の雰囲気をそのままに伝えています。

 祇園祭も終わって、その前週の日曜日には参議院選挙が行われ、京都は暑い盛りでしょうが、林洋子さんの情感あふれる「ひとり語り」とアイリッシュ・ハープの音色を、ぜひお楽しみ下さい。

第5回イーハトーブ・プロジェクトin京都
  ~ 林洋子ひとり語り ~

【演目】
  一、 やまなし
  二、 よだかの星
   三、 雨ニモマケズ
            作: 宮沢賢治
            語り・演出: 林 洋子
            アイリッシュ・ハープ: 梅津 三知代
【日時】
  2013年7月28日(日) 午後3時開演
                              (午後2時半開場)
【場所】
  京都府庁旧本館正庁 (京都市上京区)
【参加費】
  2000円 (必要経費以外は義援金とします)

※ 参加ご希望の方は、必ず事前にご予約下さい。
予約は、当サイト管理者あてメールにて、承ります。



 去る12月2日、「第4回イーハトーブ・プロジェクトin京都~歌でつづる宮沢賢治の世界~」が無事終了いたしました。おかげさまで、171名もの方々がお越し下さり、皆でご一緒に賢治の音楽を楽しむひとときを過ごすことができました。

 とりあえず本日は、いくつかの写真を中心に、アップします。

 まず、お昼前の会場設営。
会場設営
 これは、歌手用のサスペンションライトの位置を調節しているところ。舞台上手にあるスクリーンには、コンサートのタイトル画像を映しています。

 続いて、午後1時半からのリハーサル風景。
「月夜のでんしんばしら」
 ソプラノの大神田頼子さん、バリトンの浦恩城利明さんが、「二本腕木」の格好をしながら「月夜のでんしんばしら」を歌っています。後ろの黄色の丸は、大きな月・・・。

 次は本番の写真から、大神田頼子さんによる「星めぐりの歌」。
「星めぐりの歌」
 スクリーンには、歌に登場するタイミングに合わせて、星座の絵が映されました。「大ぐまのあしを きたに/五つのばした ところ」では、パワーポイントのアニメーション機能を使って、柄杓の外縁を一、二、三、四、五、と5倍に延ばし、「そらのめぐりの めあて」で、その北極星を中心に、星座が360°回転しました。

 「剣舞の歌」の様子。
「剣舞の歌」
 この曲は、大神田さんの振り付けつきです!

 「イギリス海岸の歌」。
「イギリス海岸の歌」
 バックには、ちらちらと揺れる波が映っています。今回は、会場の照明担当の方が、私たちと一緒にいろいろと効果を考えて下さって、様々な「かげとひかりのひとくさり」が映されました。

 大神田さんと浦恩城さんの二重唱で、千原英喜作曲「雨ニモマケズ」。
「雨ニモマケズ」
 通常のプログラムとしては、これが最後の曲でした。作曲者の千原さんご自身が、「今を生きる皆への応援歌、命の讃歌」と呼ぶ、熱いマーチ。

 最後には、「種山ヶ原」を会場の皆さんと合唱をしようという趣向でした。下写真は、合唱に先立ち、竹崎利信さんによる「種山ヶ原」の歌詞朗読。
「種山ヶ原」朗読
 竹崎さんは、「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」に出演していただきましたが、今回は実行委員会に加わり、舞台監督として緻密に進行を司って下さいました。

 朗読に続いて出演者は舞台に集まり、会場もご一緒に「種山ヶ原」の合唱。
「種山ヶ原」合唱
 会場の皆さんもしっかり声を出して下さって、感動的な歌になりました。

 今回のコンサートのちょっと変なところの一つは、3~4曲ごとの合間に、私がかなり僭越にも出しゃばって、「解説」を入れさせていただいたことです。へたをすると、演奏会の総計時間の3割くらいは、私がしゃべっていたかもしれません。
 ほんとにこんなコンサートでもよいのか?と迷いつつも、準備をしていました。

 それから今回のもう一つの変なところは、上の写真にもあるように、舞台上手にけっこう大きなスクリーンを置いて、そこにそれぞれの歌に関連した画像などを投影していたことです。
 それに、解説をする時には私が上写真で朗読をしている演壇に立ち、このスクリーンに説明用スライドを映していたので、何か学校みたいにちょっと堅苦しかったかもしれません。

 まあこういうような感じで、良し悪しはともかく、音楽会にしてはえらく「音以外の情報」を盛り込もうとした企画と相成りました。
 いろいろなご感想があったかと思いますが、でも「わかりやすくて、愛が込められていた」とのお声をいただけたのは、主催者としては何よりも嬉しかったです。

 いよいよ明日12月2日(日)は、「第4回イーハトーブ・プロジェクトin京都~歌でつづる宮沢賢治の世界~」です。
 事前に作成したチラシでは、「ソプラノとピアノ」という構成でしたが、その後、バリトンの方も共演していただけることになり、ソプラノとバリトンがかわるがわる、また時に二重唱で、賢治の歌曲を歌います。

 まだ会場の席に余裕はありますので、明日の夕方直接お越しいただいても入場は可能です。ホールは、京都駅の八条口の目の前。

第4回イーハトーブ・プロジェクトin京都
歌でつづる宮沢賢治の世界

[出演]
ソプラノ: 大神田 頼子
バリトン: 浦恩城 利明
ピアノ: 小林 美智
解説: 浜垣 誠司

[日時]
12月2日(日) 午後5時30分開演(午後5時開場)
[場所]
龍谷大学アバンティ響都ホール(京都駅八条口前)にて
チケット:2500円

 解説のために作ったスライドは、歌の際に流す画像も含めて、パワーポイントで84枚にもなってしまいました。

 歌でつづる宮沢賢治の世界(スライド1)

歌でつづる宮沢賢治の世界(スライド2)

スライドつづく・・・

12月2日のプログラム

 もうあと2週間と迫ってきましたが、12月2日(日)に開催される「第4回イーハトーブ・プロジェクトin京都 ~歌でつづる宮沢賢治の世界~」の、最終確定プログラムをお知らせいたします。

第4回イーハトーブ・プロジェクトin京都
歌でつづる宮沢賢治の世界

第一部

(中村節也編曲作品)
1. 花巻農学校精神歌 (大神田)
2. 大菩薩峠の歌 (大神田)
3. 牧歌 (大神田)

(外国曲メロディー作品)
4. 火の島の歌 (大神田)
5. 牧者の歌 (浦恩城)
6. ポランの広場 (浦恩城)
7. ポラーノの広場のうた (大神田)

(青島広志編曲作品)
8. 星めぐりの歌 (大神田)
9. 剣舞の歌 (大神田)
10. イギリス海岸の歌 (大神田)
11. 月夜のでんしんばしらの軍歌 (大神田+浦恩城)

第二部

(林光作曲ソング集)
12. 岩手軽便鉄道の一月 (大神田)
13. あまのがわ (大神田)
14. グランド電柱 (大神田)

(山田一雄作曲「宮澤賢治・三章」)
15. 高原 (大神田)
16. 市場帰り (大神田)
17. 風の又三郎 (大神田)

(千原英喜作曲)
18. 雨ニモマケズ (大神田+浦恩城)

(会場とともに)
19. 種山ヶ原 (全員)

出演
ソプラノ: 大神田 頼子
バリトン: 浦恩城 利明
ピアノ: 小林 美智

12月2日(日) 午後5時30分開演(午後5時開場)
龍谷大学アバンティ響都ホール(京都駅八条口前)にて
チケット:2500円

 賢治自身が愛唱していた曲を「第一部」、後世の作曲家が賢治の詩に曲を付けた作品を「第二部」、という構成になっています。
 最後には、会場の皆さんとご一緒に、「種山ヶ原」を歌おうという趣向です。これは、あの「家路」のメロディーですから曲は誰しもご存じですし、終わりにみんなで歌って家路についていただくにも、ぴったりの歌です。

 まだ座席に余裕はありますので、皆様ぜひお越し下さい。会場は、京都駅で新幹線を降りたら目の前の場所です。

 それから大変申しわけなかったのですが、チラシの表に書いてありました問い合わせ先の電話番号が、間違っておりました。(裏面の番号は、正しいものです。)
 正しいお問い合わせ先は、075-256-3759(アートステージ567:月曜休, 12時~18時)です。チケットのご予約やお問い合わせは、上記までお願い申し上げます。

第4回イーハトーブ・プロジェクトin京都・チラシ表
チラシ訂正版(クリックすると別窓で拡大表示されます)

「第4回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ表

「第4回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ裏

 来たる12月2日(日)に、「第4回イーハトーブ・プロジェクトin京都」を開催することになりました。
 今回は、賢治の歌曲を約20曲も集めた、盛り沢山な「音楽会」です。

 賢治の歌曲というと、「星めぐりの歌」や「精神歌」などは有名で、賢治ファンならこういうメジャーな曲は、折々に耳にすることもあります。しかし、『新 校本宮澤賢治全集』には全部で27曲もの賢治の歌曲が収録されていますが、その全貌をプロの歌唱で体験できる機会となると、私の知るかぎり、これまでは皆無でした。
 以前から賢治の音楽に興味を持ち、このサイトにも「歌曲の部屋」などを作っていた私としては、これまでになかったのなら自分たちで企画できないかと考え、いろいろな方のお力を借りて、このたび実現したものです。

 歌っていただくのは、関西を中心に日本の歌曲をレパートリーに活躍されている、ソプラノの大神田頼子さんです。それから下のチラシ印刷には間に合いませ んでしたが、バリトンの浦恩城利明さんも、趣旨に賛同して賛助出演して下さることになりました。したがって歌は、ソプラノ、バリトンのそれぞれ独唱、一部は二重唱となり、より幅が広がります。
 プログラム内容は、賢治自身の歌曲が中心ですが、後世の作曲家が賢治の詩に曲を付けた佳品も、いくつか取り上げます。この分野の嚆矢というべき山田一雄 による「宮澤賢治・三章」(「高原」「市場帰り」「風の又三郎」)、林光による「岩手軽便鉄道の一月」「あまのがわ」「グランド電柱」、そして近年人気 の、千原英喜「雨ニモマケズ」を、お聴きいただく予定です。

 というような感じで、女声と男声で、また賢治の作と後世作曲家の作を対比させて、いわば立体的に、宮澤賢治の歌の世界をお聴きいただく試みとなります。賢治に関しては近年さまざまなイベントが行われている中でも、これは従来にはなかった企画と存じます。
 会場は、JR京都駅・新幹線ホームのすぐ目の前ですので、お越しいただく上でも便利なところです。
 今回も、入場料としていただいたお金は、最低限の必要経費を除いて、東日本大震災の被災地に義援金として届けさせていただきます。

 また今回も素晴らしいチラシ原画を提供して下さったのは、おなじみの鈴木広美(ガハク)さんです。心より御礼申し上げます。

第4回イーハトーブ・プロジェクト in 京都
歌でつづる宮沢賢治の世界
  
2012年12月2日(日) 午後5時30分開演(午後5時開場)
  龍谷大学アバンティ響都ホールにて(京都駅八条口)
    ソプラノ: 大神田 頼子
    バリトン: 浦恩城 利明 (賛助出演)
    ピアノ: 小林 美智
チケット: 2500円

【チケットの購入・予約方法】
(1) アートステージ567(京都市中京区烏丸夷川西入ル)にて、直接購入できます。
(2) 直接購入できない場合は、振込用紙通信欄に氏名・枚数を明記し、11月22日までに下記口座に代金[2500円×枚数-振込手数料]をお振り込み下さい。
(3) 11月23日以降は、代金は振り込まずにアートステージ567にお電話をして、チケットを予約して下さい。
※(2)(3)の場合、チケットは当日会場でお渡しします。受付で購入者・予約者の名前をお告げ下さい。
【郵便振替口座】 00930-9-282619
           名義人:イーハトーブ・プロジェクトin京都
【お問い合わせ先】 アートステージ567
           (Tel.075-256-3759:12時~18時, 月曜休)

 たくさんの方々のご来場を、お待ち申し上げています!

12月2日の京都と9月2日の花巻

 いま準備をしている「第4回イーハトーブ・プロジェクトin京都」のチラシが、刷り上がってきました。今回は12月2日(日)に、賢治の歌曲のコンサートをするのですが、来週にはチケットもできてくるので、正式にご案内ができると思います。
 あと少しお待ち下さい。

「第4回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ

 それからこんどの日曜、9月2日に花巻で開かれる「賢治の里 花巻でうたう賢治の歌 全国大会2012」というイベントに出演するというお話は、先日ここにも書かせていただきましたが、その紹介記事が新聞に載っていました。

 しかし、知らないうちに名前だけでなく年齢まで公開とは・・・(^^;)

 ところで、記事の中にも出てくる合唱団「コーラス・ライオット風」は、北三陸の野田村、普代村、田野畑村の3村の主婦で作るコーラスグループです。団体名の「ライオット(riot)」とは、英語で一揆・叛乱のことで、幕末にこの三陸地方で「三閉伊一揆」という大規模な一揆が起こったことからとっています。この一揆には、農民だけでなく様々な職業の人が参加し、とくに女性も多く、互いに助け合い、組織された行動をとったということです。これを合唱団の名前に冠するとは、このような郷土の歴史に対する誇りがあってこそ、ですね。
 折りしもロシアでは、「プッシー・ライオット」という名前のフェミニスト・パンク・ロック集団が、教会でプーチン大統領を批判する曲を歌ったために逮捕・拘束されていますが、彼女たちに勝るとも劣らぬ、元気な三陸のライオット・ガールズです。
 あと3日!

宮澤賢治の世界感覚について

 3月4日の「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」の際に、竹崎利信さんによる「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」と、「なめとこ山の熊」の間のつなぎとして、20分ほどお話をさせていただきました。
 当日は時間的制約のために説明が足りなかった部分を若干補って、本日ここに当日のスライドとともに、その内容を掲載いたします。

「宮沢賢治の世界感覚」1


1.「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」に出てきた賢治作品

 まだ「感動醒めやらぬ」という感じですが、竹崎利信さんの素晴らしい舞台でしたね。私も台本やDVDなどでは見せていただいていたのですが、実演ではやっぱり圧倒されました。
 これは、「私」と「宮澤賢治」との間で繰り広げられるダイナミックな劇であるとともに、賢治ファンにとっては、様々な賢治作品のカタログのように楽しむこともできる作品です。
 さっき出てきた作品(および書簡)を順にリストアップしてみると、下のようになります。

「宮沢賢治の世界感覚」2

 有名な作品もあれば、さほど有名ではないけれどもいかにも「賢治らしい」ものもあります。竹崎さんが賢治に注ぐ視線が、感じられるようです。

 今日は、ここから出発して、後の第三部の「なめとこ山の熊」につながるお話がしたいと思っておりまして、そしてその中では、ちょうど1週間後に丸一年という節目を迎える東日本大震災のことにも触れる予定です。話のテーマとするのは、「宮沢賢治という人は、この世界を、どんな風に感じていたんだろうか」ということです。
 賢治は、まだSF小説もなかった大正時代に、「鉄道列車が宇宙空間を駆ける」などというような驚くべきイマジネーションを働かせていた人です。とても常人にその感覚を追体験することは難しいでしょうが、私なりの見方でその特徴を一つ挙げるとすれば、自己と他者、自己と世界などの間の「一体感」を、彼は他の人よりも強く、おそらく生得的に体験してしまう人だったのではないか、ということがあります。


2.外界=内界ということ

 竹崎さんが「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」において引用された賢治のテキストの中から、まず『注文の多い料理店』の「序」を見てみます。ご存じのように、これは賢治が生前に刊行した唯一の童話集ですが、その冒頭で彼は自分がそれらのお話を書いた「方法」について、説明しています。

(前略)
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
(後略)

 ここで宮沢賢治が言っているのは、彼はこれらの物語を書斎の中で想像力を働かせて「創り出した」のではなくて、「林や野はらや鉄道線路やら」の屋外で、虹や月あかりから「もらつてきた」ということです。
 童話の内容には、かなり非現実的な、空想的なこともたくさん含まれていますが、彼はそれを能動的に「考え出した」のではなくて、「どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまで」だと主張しています。ここでは、「そのとほり」という言葉が最も特徴的だと思います。
 彼にとってはこれらのお話は、ふと向こうから「現われた」ようなもので、その訪れは、まるで受動的な体験であったかのように説明されています。
 屋外で、感じとったことを「そのとほり書いた」というのですから、これは絵を描く際に、外の景色を「写生」するということに似ていますよね。


 それでは次に、竹崎さんが引用された作品リストから、今度は『春と修羅』の「序」を見てみます。これも彼が生前唯一刊行した詩集で、やはりその序文においては、自分がそれらの作品を書いた方法について述べています。

(前略)
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

これらについて人や銀河や修羅や海膽は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)
(後略)

 さて、ここにも「そのとほりの心象スケッチ」という言葉が出てきます。やはり、「創り出した」とか「考え出した」のではなくて、「ありのままに書いた」ということを、彼は強調しています。「スケッチ」という言葉も、先ほど絵画に喩えて申し上げた「写生」ということに通じますね。
 しかしここで賢治は、「心象スケッチ」と言っています。「心象」とは、「心の中で生起する現象」というような意味でしょうから、「外界」ではなく「内界」が、その描写の対象になっていることになります。そうすると、先ほどの『注文の多い料理店』の「序」において、彼がその作品を外界から、「虹や月あかりからもらつて」くると述べていたのとは、方法論がまるで正反対のようにも思えます。

 しかし、その前後もあわせてもう一度読んでみると、その答えが浮かび上がってきます。
 上で賢治が、「すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるもの」という言葉で何を言おうとしているのか考えると、「みんなが同時に感ずる」というのですから、これは賢治ただ一人の「心の中で起こっている現象」にとどまらず、実は人々が共通に体験する出来事だというわけです。
 「人々が共通に体験する」現象とは、ふつうに考えれば、これは個人の「内界」にあるのではなくて、みんなに見える「外界」に位置する事柄のはずです。
 それでは、なぜ賢治がそういった「外界の現象」のことを、「心象」などと呼んだのでしょうか。その理由は、少し後の方に書かれているように、彼は「それらも畢竟こゝろの風物」だと見なしていたからです。
 つまり、「外界=内界」であると賢治は感じていたのです。

 人間の内界(心の中)には、五感によって知覚された外界の現象が再現されているわけでしょうから、この意味では、内界には外界と同じものが存在するとも言えます。
 しかしふつう私たちは、外界と内界とは別物としてとらえます。その理由の一つは、内界には個人的に考えたり想像しただけの事柄や、様々な個人的感情があふれているのに、これらは外界に存在しているわけではないからです。
 それなのに、なぜ賢治は「外界=内界」ととらえるのでしょうか。

 その理由こそが、賢治独特の世界感覚に由来するところだと私は思います。彼にとっては、自分の心の「内界」と、自分の外に広がる「外界」との境界線が、他の多くの人が感じているよりも、あいまいなものだったのではないかと、私は想像するのです。
 たとえば人が、そこにいるはずのない人の姿を目の前に見たり、しゃべるはずのない物の声を聴いたりしたとします。このような現象を「科学的」に解釈すれば、それは「幻覚」と呼ばれる体験であって、実際にはその人の「内界」に属する出来事が、あたかも「外界」で起こっているかのように誤って感じられたものだということになります。
 賢治は実際にしばしば幻覚を体験していたようで、その描写は『春と修羅』に収録されている詩にもたくさん出てきます。そして賢治自身、科学者としての眼からは、それらを幻覚体験として自覚していた様子が見てとれます。
 しかし一方、そのような(幻覚)体験をしている本人の率直な感覚からすると、いるはずのない人の姿も、しゃべるはずのない物の声も、本人の「内から」ではなくて「外から」やって来ていると感じられるのです。冷静な判断に従えばそんなことはありえないと思う反面、それでも実際に「外界」の現象として、ありありと体験されるのです。
 この体験感覚を素直に敷衍していけば、「外界と内界の区別というのは、相対的なものにすぎない」とか、あるいは「本当は両者は一体となった現象である」という考えに行き着きます。古今東西に、そのように考える哲学もたくさんあります。
 賢治にとっては、科学的な見方とは別に、このような世界観も「詩的真実」だったのだろうと、私は思います。

 つまり賢治は、「外界=内界」ととらえる独特の感覚があったようで、そのような立場からすると、外の風景を「写生」することと、心象を「スケッチ」することとは、結局は同じ営みだということになります。すなわち、『注文の多い料理店』の「序」と『春と修羅』の「序」で述べていることは、対極的なようでいて、実は同じだったわけです。


3.<わたくし>=<世界>ということ

 以上のような、「外界=内界」という彼独特の感覚を、ちょっと図にしてみました。

 まず、<わたくし>と<世界>との関係としては、ふつうは誰しも下図のように感じるでしょう。
 ここでは、<世界>の中に、一つの個体としての<わたくし>が含まれています。

<わたくし>=<世界>1

 その<世界>の中で賢治は、「虹や月あかり」からお話を「もらつて」きます。それらの現象は、賢治にとっては「ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたない」ことなのですが、その外的な実在感があまりにも強い(あるやうでしかたない)ため、彼にとってはこれは「外界」の出来事なのか、「内界」の出来事なのか、区別はあいまいになってしまいます。

<わたくし>=<世界>という感覚2

 自分と、自分以外の存在(他者)との間の境界線、すなわち「自我境界」が、希薄になってくるのです。
 そして、いつしか<わたくし>と<世界>が、一つに溶け合っているような感覚にも至ります。

<わたくし>=<世界>という感覚3

 こうなってしまうと、もはや<世界>の中に<わたくし>がその一部分として所属しているのか、あるいは逆に、<わたくし>の中に<世界>があるのか、その区別も無意味になってきます。

<わたくし>=<世界>という感覚4

 そして右は、<わたくし>が、<世界>を包含している状況です。『春と修羅』の「序」において、世界におけるさまざまな現象のことを、「それらも畢竟こゝろのひとつの風物です」と述べた賢治の感じ方は、これに相当するものでしょう。ここでは世界は、わたくしの心における現象(=心象)なのです。

 そして、<わたくし>が<世界>を包含しているのであれば、単に<わたくし>だけでなく、世界における他の存在も、それぞれが<世界>を包含しているはずだということになります。
 『春と修羅』の「序」には、「人や銀河や修羅や海膽」が出てきますが、それぞれの中にも<世界>があるでしょう。

<わたくし>=<世界>という感覚5

 そして、上の『春と修羅』の「序」に出てきた、(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)という有名だけど何かわけのわからないフレーズの意味することは、まさにこういう有り様のことなのだろうと思います。
 「<わたくし>の中のみんな」は、それぞれがまた<世界>を孕み、その中にはさらに「みんな」が含まれているという、無限の入れ子構造が存在するわけです。そしてすべては、究極のところで「一体」であるというのです。


4.作品に見る「自己」と「世界」の一体化

 このように、外界と内界が実は一つのものであるとか、世界そのものとその中に含まれる(と感じられている)存在が複雑な入れ子構造になっているとかいうことは、実は昔から仏教の教学で説かれていた事柄でもあります。
 たとえば「華厳経」には、帝釈天の宮殿には無数の宝珠の付いた巨大な網が掛けられていて、それぞれの宝珠の表面には、それ以外のすべての宝珠が映っている、そして映された個々の宝珠の表面には、またすべての宝珠が映っているという、無限に映し映される関係が描かれています。これは、賢治の作品「インドラの網」にも登場します。

 「ごらん、そら、インドラの網を。」
 私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く幾億互に交錯し光って顫えて燃えました。

 これはまさに、先ほどの(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)という感覚に通じるものです。
 しかしそれでは、これまで述べたような、「外界=内界」とか、<わたくし>=<世界>という認識は、賢治が仏教を勉強することによって、後天的に身に付けたものなのでしょうか。私はこれに関しては、この世界観は彼がもともと生得的に持っていた感覚であって、仏教はそれをさらに裏付けしたかもしれないけれども、その本質は、賢治が仏教の理論に出会う以前から、彼の身に備わっていたものだと思うのです。

 それが、理屈を越えた生得的な感覚に根ざしているだろうということは、彼の作品から見てとることができます。

作品に見る「自己」と「世界」の一体化

 最初に挙げたのは、「春と修羅 第二集」に収められている「種山ヶ原」という作品の初期形の一節です。ここで賢治は、大好きな「種山ヶ原」という高原を散策しながら、まさに恍惚とした忘我の境地に至ります。そして、美しい高原の「水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と謳うのです。
 これこそ、<わたくし>=<世界>という理屈抜きの実感の、いかにも賢治らしい詩的表現だと思います。

 二番目の「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」という言葉は、ともに活動しようとする仲間の青年たちに向けた、一種のスローガンとして「農民芸術概論綱要」に記されているものです。しかし、賢治はこれによって、いったい何を訴えたかったのでしょうか。
 もちろん彼はここで、現実に自分の身体を「微塵」に粉砕せよと言っているわけではありません。これも賢治独特の「自他一体」の世界観をもとに、「さあみんな、私と一緒に、自らと宇宙全体とを一体化させよう」と呼びかけている言葉なのだと思います。「微塵となりて…ちらばらう」とは、上の「種山ヶ原」下書稿において、「わたくしは水や風やそれらの核の一部分で/それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と記されていることと、結局は同じことを言っているのでしょう。

 さて、その次の「グスコンブドリの伝記」は、有名な「グスコーブドリの伝記」の初期形ですが、ここで主人公のブドリは、比喩的な意味ではなしに、文字どおり自らを「青ぞらのごみ=宇宙の微塵」にしようとします。ブドリの行為に対する評価はさまざまにありえますが、最近ツイッターでにおいて、これは「世界への愛」の表現だろうという指摘をいただきました。
 これはまさにそのとおりだと、私も思います。種山ヶ原において、賢治はその自然への愛ゆえに、自分と高原が一体であると感じたわけですし、「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」という言葉で表現されているのも、「宇宙に対する愛」にほかなりません。

 最後に挙げた、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というのも有名で、これはいかにも「宮澤賢治らしい」言葉として、しばしば引用されるものです。個人的な幸福など追求せずに、ひたすら「みんなのほんたうのさいはひ」のために身を削るような努力を続けた、彼の高邁な理想を表している言葉として解釈するのが一般的です。
 ただ私が思うには、賢治にとってはこの言葉の真意は、何も倫理や道徳から考えて導き出したものではなくて、<わたくし>と<世界>が一体のものであるところから、自然に素朴に湧いてきたものではないでしょうか。「一体」である以上、<世界>と区別して<わたくし>だけの幸福というのは存在しえず、賢治のような人にとって幸福というものは、<世界がぜんたい>ともにそうであるほかには存在しえないのだと思います。

 以上、<わたくし>と<世界>が一体となった賢治の感覚を、いくつかの作品から垣間見ました。次にそのような特性を、彼の生涯における他のエピソードから、見直してみます。


5.賢治の生来的な「共振性」の高さ

 先ほどの竹崎さんの「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」の中に、「怪我した友達の、血と泥にまみれた指を『いたかべ、いたかべ』と、夢中で吸っていたあの人」が登場しましたが、これは賢治が小学2年の頃の逸話です。友達の指から血が出ているのを見た賢治は、思わず駆け寄って、「痛いだろ、痛いだろ」と言いつつ流れる血を吸ってやったのだそうです。

賢治の生来的な「共振性」の高さ

 これも、頭で考えてからの行動というよりも、思わずとっさに出たような感じで、彼の生来的な特性を表す例の一つだと思います。「他人の痛み」をまるでそのまま「自分の痛み」として感じてしまうところは、大人になってからの賢治にもしばしば見受けられます。先に、「自己と他者の間の境界線があいまいである」ということを彼の特徴として挙げましたが、これもそのような傾向の表れと言えます。

 次に出てくる、「霊磁式静坐法」という何やら怪しげなものは、今で言う催眠術の一種だったのでしょう。「佐々木電眼」というこれまた怪しげな名前の人物が、中学校の近くに施術院を構えて実演をしていたようですが、何を思ったか賢治がそこへ行って「静坐法」の指導を受けてみたところ、「40分にして全身の筋肉の自動的活動を来し・・・」と父に書き送っています。
 すっかり電眼氏に心酔した賢治は、その後何ヵ月も彼のもとへ通い、冬休みには花巻の自宅まで連れてきて家族にも「静坐法」を受けさせました。しかし冷静な現実家の父は、電眼氏が長時間にわたり汗を流して術をかけようとしても、平気で笑っているだけだったので、「遂に電眼はあきらめて、雑煮餅を十数杯平らげて、山猫博士のように退散したのであった」と宮澤清六氏は書いています(「十一月三日の手紙」)。
 ちょっと微笑ましい、思春期の賢治の逸話です。

 最後の「幻覚体験」のことはすでに上にも触れましたが、これも彼の学生時代からいろいろエピソードはありますし、作品にも数多く描かれています。精神医学的に見ると、たとえば「青森挽歌」で、《おいおい、あの顔いろは少し青かつたよ》などという声が聴こえてきて、半分は幻聴とわかりながらもその相手と「対話」をしてしまう場面など、まさに「解離性幻覚」と呼ばれる体験の記録そのもののようで、こういう経験がない人が想像して書いているとは思えません。これは文字どおり「そのとほりの心象スケッチ」だと思います。

 さて、直接は関係のなさそうな三つのエピソードを並べましたが、この三種類の体験は、実際に強く関連していることが、医学的な観察からわかっています。
 誰しも、大切な人の痛みであればまるで自分の痛みのように感じることがあるでしょうし、時と場合によっては催眠にかかることもあるでしょう。また、入眠時や出眠時には、人の気配がしたり声が聴こえたように感じたり、幻覚に似た体験をすることもあります。すなわち、共感性や催眠の感受性や幻覚体験の可能性は、誰でも少しは持っている傾向なのです。ただ、それが人によって、低い人から高い人まで、個人差があるのです。
 そして、この三つの傾向は互いに「相関している」=つまりこのうち一つの傾向が高い人は、あとの二つもだいたい高くなっていることが統計的に確認されています。
 その傾向を単純化して言えば、「自己と他者の間の境界が薄く、周囲からの影響に敏感で、自分の心における『表象』と外的な『知覚』の区別もあいまいになりやすい」ということになります。このような傾向が強い人ほど、遠くの人の苦しみもまるで自分の苦しみのように体験してしまい、人からの暗示に影響されやすく、他の人が感じられないものを感じてしまうのです。
 私は、宮澤賢治という人の作品や生涯の逸話は、彼がそのような傾向性の非常に高い人だったことを示していると考えます。


5.東日本大震災と賢治作品

 昨年の震災を契機に、宮澤賢治の作品がふたたび注目を集めるようになりました。「雨ニモマケズ」は、国内外のさまざまな場所で朗読されています。
 その理由の一端は、彼が東北岩手の出身だったことにあり、また彼の生年と没年にやはり三陸地方を記録的な大津波が襲っていたという偶然にもよっているでしょう。しかし私は、彼の作品が震災後の状況で人々の拠りどころとなっているのは、このような外的な要因によるだけでなく、彼の作品やその人となりの、特徴的な性質によるのではないかと考えています。

 それは、これまで述べてきたように、宮澤賢治という人が、自己と他者、あるいは自己と世界の間に境界線を引かず、一体のものとしてとらえ、それを作品にしていたからだと思うのです。

 ふだん私たちは、ある程度は他人にも共感しつつ生き、また自然との一体感を体験することもあります。
 しかし、文明というものは、人間が自らを自然と区別し、人間の生活空間を自分たちに都合よく整備していくことから始まりました。雨風や寒さから暮らしを守るために、屋根や壁で外界から仕切られた「家」というものを作り、集落を海や川の水から守るために、堤防を築いてきたのです。
 あるいは、近代的な個人は、しっかりとした自我を確立し、周囲の雰囲気や感情に流されずに自分の頭で考えて判断するべきものとされています。また、現代の生活においては、個人のプライバシーは互いに尊重しなければならず、人と人、家と家の間には、一定の心理的距離を保たなければなりません。

 しかし、先の東日本大震災とそれに伴う大津波は、このようにして人間が築いてきたさまざまな「境界」を、一挙に破壊してしまったのです。
 「家」は崩れて屋外と屋内の境はなくなり、津波は防潮堤を突破して、海と町の区別も消滅してしまいました。
 家も財産も流されてしまった人々は、お金持ちだった人もそうでなかった人も、一緒に大きな避難所に集まって、一体となった生活を始めました。
 さらに付け加えるならば、原子力発電所の事故によって、放射能を外界から隔離するための原子炉格納容器も損傷し、放射性物質にとっての「内」と「外」の区別までもが、一部で失われました。

 ここに図らずも現出した世界は、あたかも宮澤賢治の感性がとらえたもののように、すべての人々や、人間と自然が、混然と溶け合い一体となっている状況だったのです。
 それは、直接被災した人々にとってそうであっただけでなく、私のように離れた土地からテレビなどの映像でそれを体験した人にとっても、ある程度まではそうでした。3月11日の夕方から、すべてのチャンネルがCMもはさまずに延々と流し続けた映像は、日本中のほとんどの人によって同時的に共有されていたでしょう。そこには、被災地と遠隔地の間の境さえ越えさせる、目に見えない力が働いていました。そして、たとえふだんは自分や家族の生活で精一杯という人でも、見知らぬ被災者が大切な人を喪って嘆き悲しむ様子を見ると、思わず我が事のように胸が痛み、心が大きく揺れ動くのを感じたのではないでしょうか。

 恥ずかしながら私は3月11日の夜に茫然とテレビを見つつ、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と賢治が言った心境は、まさにこういうものだったのかと思い至りました。自分が何事もなく暖かい部屋の中でテレビを見ていることが、現地の人々に対してまるで申し訳ないように感じ、被害に遭った方々全員が救われないかぎりは、自分の心も救われないというような、一方的な思いを禁じ得ませんでした。

 おそらくこれに似た感覚は、少なくとも震災後の数日間、日本中かなりの人が体験したことだったのではないでしょうか。そしてこのような苦しい感覚こそ、賢治のような人はふだんからいつも味わっているものだったのだと思います。大震災は多くの人に、「賢治的」に世界を体験させたのです。
 そしてこれが、大震災を契機に賢治の作品が多くの人の共感を集めた、本当の理由なのだと私は思います。人々は知らず知らずに、彼のさまざまな作品の中に、自分を今とらえている感覚の表現を見てとったのではないでしょうか。

 これが、今日ここで私がお話したかったことのポイントです。

東日本大震災と賢治作品


6.「なめとこ山の熊」の生命観

 さて、これからの第三部では、竹崎利信さんと友枝良平さんが「かたり」と揚琴の音楽によって、賢治の「なめとこ山の熊」を上演して下さいます。
 この「なめとこ山の熊」というお話は、生き物の「命」というものについて、賢治がその思いを表現した作品とも言えます。震災の後、あらためて命の尊さを身にしみて感じている私たちに、それは何かを教えてくれるかもしれません。
 また、ふだんは自然の力をコントロールして生活しているつもりになっている私たちに、地震と津波の力は、人間は自然の中のちっぽけな一部にすぎないことを思い起こさせてくれました。このお話に出てくる猟師の小十郎はまさにそのように自然の一部として熊と対等に生きています。そして対等に死にます。中ほどに出てくる「荒物屋の旦那」は、熊にも出会わない安全な(と思っている)場所でぬくぬくと暮らしていて、自然に対して思い上がっている平素の人間を象徴しているようにも思えたりします。

「なめとこ山の熊」の生命観

 ここでも、賢治が描く世界の根底にあるのは、これまで述べてきたような、人間と自然とが「一体である」という、彼らしい感覚です。
 多くの人は、人間の命と熊の命を比べると、無条件に前者の方が優先されるべきだと考えるでしょう。それは常識的なことです。賢治ももちろん一方ではそういう認識を持ちながらも、熊にも人にも同等に感情移入してしまう彼の感覚は、通常の「人間中心主義」の世界観に飽き足りませんでした。
 そこで描き出されたのが、熊と人間とがお互いの命への畏敬を抱きつつ、ともに生き、ともに死ぬという世界です。
 それは、「人間的」な視点から見れば、「自然の過酷さ」を表現しているようにも思えます。また同時にこのお話は、高い山の頂で月に照らされている氷のように、その厳しさゆえの美しさも備えていると感じられます。

 それでは、私の話はここまでです。休憩をはさんで、第三部の「なめとこ山の熊」をどうかお楽しみ下さい。

霧に隠れた「なめとこ山」

 ちなみに上の写真は、今回のチラシにも使ったものですが、私が数年前に花巻の西の山奥の、「なめとこ山」が見える場所に行った時に撮ってきたものです。賢治が、「なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしてゐる」と描写したように、山の姿は霧の向こうにうっすらと隠れています。

 ご静聴ありがとうございました。

 震災から1年が経ちました。
 ご報告が遅くなってしまいましたが、1週間前の3月4日に、「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」が無事終了しました。
 当日この催しにご参加いただいた方は、91名でした。会場の京都府庁旧本館正庁には、出演者や裏方も含めて定員100名を1名たりともオーバーしてはいけないとの定めがあり、当日に直接会場にお越しいただいても、お断りするしかないという事態にもなってしまいました。ご迷惑をおかけした皆様には、心よりお詫び申し上げます。

 当日のプログラムは、下記でした。

1.私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄 構成・出演: 竹崎利信
2. 宮沢賢治 ー人と思想(その1)ー      小講演: 浜垣誠司
3.なめとこ山の熊            かたり:竹崎利信 音楽:友枝良平

 竹崎利信さんの「演技」と「かたり」は、ここで言葉でご説明することもできないほど、感動的なものでした。「なめとこ山の熊」では、友枝良平さんの奏でる天上的な揚琴の音ともあいまって、ラストではまさに

・・・まるで氷の玉のやうな月がそらにかかってゐた。雪は青白く明るく水は燐光をあげた。すばるや参の星が緑や橙にちらちらして呼吸をするやうに見えた。

という情景に吸い込まれるようでした。

「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」から「なめとこ山の熊」

 この日の竹崎さんの公演は、またネット上で何らかの形で直接聴けるようになることを期待しつつ、ここではブログを二つ紹介させていただきます。
 一つは竹崎さんご自身によるもの、もう一つは当日はるばる愛知県からお越しいただいた、signaless さんによるものです。

 義援金も含めた会計報告は、あらためて記事にいたします。また、当日私がお話した、賢治の感性と震災直後の私たちというようなことも、整理して記事にしたいと思い、今書いているところです。

 もうしばらくお待ち下さい。

 寒い日々が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 さて、また下記のとおり、「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」を開催いたします。震災1周年の、ちょうど1週間前にあたります。

東日本大震災復興支援企画
第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都

日時: 2012年3月4日(日) 午後2時開演(午後1時半会場)
場所: 京都府庁旧本館正庁
内容:
  1. 「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」 構成・出演 竹崎利信
  2. 「宮沢賢治 ~人と思想(その1)~」 小講演 浜垣誠司
  3. 「なめとこ山の熊」 かたり 竹崎利信 & 音楽 友枝良平

参加費:2000円(義援金とします)
参加のお申し込みは 075-256-3759(アートステージ567)まで(12時-18時、月曜休)

 そして、下がチラシです。クリックすると別窓で拡大表示されます。

「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ表

「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ裏

◇          ◇

 プログラムの最初の「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」は、賢治の生涯や作品を題材としたいわゆる「一人芝居」で、竹崎利信さんが構成し、演じられます。賢治の作品の引用が散りばめられていて、賢治好きにとってはまるで名作カタログのようにも楽しめますが、はたして「わたし」が「あの人」を追い求める旅の行方は、いったいどうなるのでしょうか・・・?
 当日のプログラムのメイン・イベントは、竹崎さんによる「なめとこ山の熊」の「かたり」と、友枝良平さんの揚琴演奏のコラボレーションです。これはお二人のとっておきのレパートリーで、私は今から想像するだけでも涙がこぼれそうになります。
 私のお話は、「幻想旅行記」で浮かび上がる賢治の「人となり」と、「なめとこ山の熊」のバックボーンとなっている彼の生命観とを、つなげるような橋渡しになれば、と思っています。

 今回、会場として使用する「京都府庁旧本館」は、明治37年に竣工され今は国の重要文化財となっている建物です。「正庁」というのはその中でもいちばん立派な部屋で、公式行事や公賓の接遇などに使われていました。大正4年の大正天皇即位の礼および昭和3年の昭和天皇即位の礼の際には、内閣全体が天皇に帯同し京都に来ていたので、この部屋で閣議が行われたということです。
 前回の「法然院本堂」もそうでしたが、この会場も、中に入ってその空間を体験していただくだけでも、価値のあるところだと思います。

京都府庁旧本館正庁

 上の写真は、先月に下見に行った時のものです。シャンデリアや大きな窓とカーテンから私がちょっと連想したのは、賢治が通っていた盛岡高等農林学校の「講堂」でした。ちなみに、盛岡高等農林学校の本館は大正元年の竣工で、やはり重要文化財に指定されています。

◇          ◇

 チラシに使用させていただいた絵(木版画)は、前回に続いて鈴木広美画伯の作品です。
 本来は「なめとこ山の熊」とは全く無関係な作品なのですが、私はこれを見て、小十郎が死んでしまった後で、いつも一緒に猟に出ていたあの犬が、小十郎のことを思いつつ夜空の星を眺めているところに思えてしようがありませんでした。あるいは、視線の先には、熊たちが環になって小十郎の遺体を囲んでいる情景があるのかもしれない、などとも思えました。
 それで無理をお願いして、チラシに使わせていただいた次第です。この場を借りて、鈴木広美さんに感謝申し上げます。

 ついでにご紹介すると、版画のバックの山並みは、私が2004年に実際になめとこ山の周辺で撮ってきた写真をもとにしています。(下写真でなめとこ山は、中央やや右寄りに霧で隠れてうっすらとだけ見えます。)

なめとこ山のあたり

 テキストの区切りに置かれている小さな白い花は、熊の母子が印象的な会話をかわしていた「ひきざくら」(=こぶし、マグノリア)です。

◇          ◇

 参加ご希望の方は、当サイト管理人あてにメールをいただくか、上にも記しましたように  075-256-3759(アートステージ567:12時-18時、月曜休)まで、お電話を下さい。
 早春の京都で、お待ちしています。

 遅くなりましたが、先月の4日に行った「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都」の会計報告を申し上げます。
 台風による雨が続いていたにもかかわらず、ご参加下さった方はちょうど90名でした。はるばる宮城県や北海道からお越しいただいた方もありました。あらためまして、厚く御礼申し上げます。
 参加費としてお一人2000円ずつをいただきましたが、さらに会場にて募金をいただいた方もありました。総収入から必要経費を差し引きまして、結局 16万0815円 を、「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」が行っている「イーハトーブ復興支援義援金」に、本日寄付する手続きをして参りました。
 ご協力いただきまして、本当にありがとうございました。

 下は、当日の写真から・・・。

開演前
開演前

童話「ひかりの素足」朗読と読経
童話「ひかりの素足」朗読と読経

能「光の素足」後場のはじまり
能「光の素足」・後場のはじまり

対談
対談

 「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」は、上記の「イーハトーブ復興支援義援金」によって、地震・津波で甚大な被害を被った地域の学校図書館などに本を届ける活動を行うということです。次世代の子どもたちの力になればと、願います。

 震災からは半年あまりがたちましたが、被災地の復興はまだ端緒についたところです。原発事故の出口は全く見えないばかりか、私たちは国として原発を廃止しようというスタートラインにさえ、まだ立てていません。
 考えていると、苦しいこともいろいろ出てきますが、きっと賢治だったら、悲観に沈んだままではいないでしょう。
 「いづれ、明暗は交替し、新らしいいゝ歳も来ませうから、農業全体に巨きな希望を載せて、次の仕度にかかりませう。」(大正15年「羅須地人協会集会案内」より)

 私どもも、ぼちぼちまた「次の仕度」にかかろうと思います。

「イーハトーブ復興支援義援金」
「イーハトーブ復興支援義援金」シンボルマーク

 その後もばたばたしていたのでご報告が遅れてしまいましたが、去る9月4日に、「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都 ― 能『光の素足』」を、無事とり行うことができました。
 当日は、台風が通り過ぎた後にもまだかなりの雨が降り続く、あいにくの天候でした。しかし、100名近くの方々が夕暮れの法然院に集まって下さいました。心より、御礼申し上げます。

 今回は、観世流シテ方能楽師・中所宜夫さんに、創作能「光の素足」を、法然院本堂の阿弥陀様の前で、お一人で舞い謡っていただくという試みでした。
 プログラムは、まず能に先立って、中所さんによる賢治の童話「ひかりの素足」の一部の朗読です。一郎と楢夫が、「うすあかりの国」で鬼に責められながら彷徨う場面、そしてそこに「にょらいじゅりょうぼん」という言葉とともに不思議な白い素足の人が現れる場面が、朗々と読まれました。途中、「にょらいじゅりょうぼん」と一郎が繰り返した瞬間、奥に控えていた日蓮宗のお坊様による如来寿量品の読経が始まり、中所さんの朗読と重なり合って進行しました。

 朗読が終わると切れ目なく、「ダーダーダーダーダースコダーダー」という地鳴りのような謡が始まりました。童話「ひかりの素足」から数年後の一郎が、山中で一人で剣舞を舞っているのです。私たちは、能の「舞い」と「謡い」が持っている凄いエネルギーの中に、引き込まれていったのでした・・・。

開演前の法然院本堂
開演前の法然院本堂

 早いもので、もう9月になりました。

 来たる9月4日(日)の午後6時から、法然院本堂で行う「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都」まで、あと3日です。台風の動きがちょっと気がかりですが、このまま行ってくれれば4日にはもう日本海に抜けていて、「台風一過」の清々しい空が広がってくれると期待しています。
 先日の日曜日に、打ち合わせのためにちょっと法然院に行ったのですが、午後6時には山門の前から西山の上に美しい夕日が望めました。東山の麓の高台にある法然院から眺めると、京都盆地のちょうど向かい側に、日が沈んでいくのです。

 当日は会場で、能「光の素足」謡本中所宜夫さんによる能「光の素足」の「謡本」(右写真)も販売していただけることになりました。
 私などは、もちろん「謡い」なんかできるわけはないのですが、昨年末に購入したこの謡本を眺めているだけで、見事に散りばめられている賢治のテキストに、胸がワクワクしてきます。
 ここでちょっと、能「光の素足」に引用されている賢治の作品を順に挙げてみると、まず冒頭で少年一郎が舞いを舞っているところでは「原体剣舞連」(『春と修羅』)、不思議な山人が登場した後の地謡には「春と修羅」(『春と修羅』)、山人が退場する場面で「白い鳥」(『春と修羅』)、という具合で前半が終わります。
 後半では、一郎が山人こと実は賢治の霊である「光の素足の人」に出会う前の場面では、「銀河鉄道の夜」よりジョバンニが天気輪の柱の丘へ登る情景が、それとなく使われています。そして、現れた「光の素足の人」の語りの中では、「農民芸術概論綱要」、「永訣の朝」(『春と修羅』)、「〔雨ニモマケズ〕」、「鼓者」・・・といった作品で、賢治の思想や内面が示されます。
 さらに能の最後は、「銀河鉄道の夜」でジョバンニが銀河の旅を終えて夢から醒める場面の描写がほのめかされて、幕を閉じるのです。
 結局、一郎が山の中で「光の素足の人」に出会った後半部の体験は、「夢幻能」の公式どおりに一郎の夢だったということになるのでしょうが、この「夢」は、「銀河鉄道の夜」でジョバンニが銀河旅行の夢を見る直前と直後の描写を、「額縁」のように伴っているのです。さらにこの夜は、村の星祭りにあたっていた・・・。

 つまり、この能は内容的には童話「ひかりの素足」を下敷きとしたものではありますが、その構成においては、「銀河鉄道の夜」の設定を「本歌取り」しているように見えるわけですね。そう考えるとすれば、少年一郎はジョバンニに、死別した弟楢夫はカムパネルラに対応することになり、後半で一郎を導く「光の素足の人」は、初期形第三次稿まで登場していた「ブルカニロ博士」だということになります。

 とまあ、思わず想像をたくましくしてしまいました。実際はこんなことは私が勝手に考えただけのことで、どうやら中所宜夫さんは、こんな風に意図して創作されたわけではないようです。しかし、以前に「なぜ往き、なぜ還ってきたのか(1)」という記事に書いたように、双子のような構造を持った二つの賢治の作品が、自然にこの能作品においてつながっているように見えるというのは、とても不思議な感じです。

 最後に、宣伝です。9月4日の「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都」は、法然院の広い「本堂」のおかげで、まだ会場にある程度の余裕が残っています。
 もしも当日になって、「行こう!」という気になられた方は、直接来ていただいても十分に入れると思いますので、ぜひお越し下さい。
 お待ちしています。

法然院山門から境内の眺め
法然院山門から境内の眺め