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オホーツク行という「実験」

 賢治が1923年(大正12年)夏にサハリンに旅した目的は、表向きは農学校の教え子の就職斡旋のためということでしたが、この間に書かれた「青森挽歌」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」など長大な挽歌群を見ると、この旅が妹の死と深く関連したものであったことは、明らかです。
 その「関連」の中身について、『新校本全集』年譜篇は(堀尾青史氏による『旧校本全集』の年譜を引き継ぎ)、この旅の意味を「亡くなった妹トシとの交信を求める傷心旅行」と表現し、鈴木健司氏は「《亡妹とし子との通信》という隠された目的のあったことも確かなことだ」(『宮沢賢治 幻想空間の構造』p.175)と記しておられます。

 私もこれらの説のとおり、この旅における賢治がトシとの通信あるいは交信を切望し、妹が今どこでどうしているのか、何としても知りたいと願う気持ちがあったのは確かだろうと思います。しかし、私が思うところはそれにとどまらず、賢治がここで本当に求めていたのは、トシとの通信だけではなく、「トシの後を追って自分も妹と一緒に行く」ということだったのではないかと、ひそかに思っているのです。
 今日は、私がそのように考える理由について、トシの死の前、当日、死の後、という順に賢治の作品を追って、整理してみたいと思います。

 その前に確認しておきたいのは、ここで私が言いたいのは、「賢治は妹の後追い自殺をしようと企てていた」ということではありません。ひょっとしたら、この世に残された者から見ると自殺と映るような結果になったのかもしれませんが、賢治の本来の意図は、そうではなかったのです。
 たとえば北方のどこかに、「異空間への接続ステーション」があって、死ぬことなく「死後の世界」に行ける可能性があるかもしれません。実際、「ひかりの素足」でも「銀河鉄道の夜」でも、主人公は大切な人とともに死後の世界へ往って、また還ってきています。
 などと言うと、いい大人が旅行を計画した動機としては、かなり荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、しばしば異界と「交信」し、異空間の実在を信じていた賢治にとっては、これはそんなに無茶な話ではなかったろうと思うのです。少なくとも、「ある種の事を行えば、それに応じた結果が期待される」という意味において、この旅は賢治の意識の中で、宗教的には一つの「儀式」と言えるものだったでしょうし、自然科学的には一つの「実験」と言えるものだったのではないかと、私は思うのです。

1.トシの死の前

 以前の記事にも書いたことですが、賢治は1922年11月のトシの死の少なくとも数ヶ月前から、もしも妹が臨終を迎える時が来たら、自分もともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と考えていたのではないかと、私は思っています。

 ところでこの、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という言葉は、1922年8月に書かれたと推定される「イギリス海岸」の中に、登場するものです。生徒を引率してイギリス海岸に来た賢治は、もしも泳いでいる生徒が溺れた時に自分が取る行動として、次のように思っていたというのです。

もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。

 生徒に対する賢治のこのありあまるほどの責任感に、もちろん嘘はなかったのでしょう。しかし、あまりにも大仰なこのような言葉が、ふと彼の口をついて出てきた背景には、当時下根子桜の別宅で着実に死へと近づきつつあった妹の存在があったはずだと、私は思うのです。
 賢治は、実はトシに対してこそ、常々このように思い詰めていたのではなかったでしょうか。

 また、童話「双子の星」において、チュンセとポウセが彗星にだまされて、天空から海の底に落とされてしまう箇所には、次のような言葉があります。

 二人は青ぐろい虚空をまっしぐらに落ちました。
 彗星は、「あっはっは、あっはっは。さっきの誓ひも何もかもみんな取り消しだ。ギイギイギイ、フウ。ギイギイフウ。」と云ひながら向ふへ走って行ってしまひました。二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです。

 「双子の星」のテキストには、吉田源治郎著『肉眼に見える星の研究』と共通した表現が見られることから、その現存稿が書かれたのは、1922年9月の同書刊行以後だろうという説があります(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の中地文氏による「双子の星」解説)。そうであれば、この作品の完成も、トシの死のほんの少し前のことになります。
 そして、この作品における「双子」という存在が、賢治とトシという兄妹をモチーフの一つとしていることは多くの人の認めるところであり、その二人が「どこ迄でも一諸に落ちやうとした」と賢治が記していることの意味は、やはり見逃すことができません。
 ここでも賢治は、トシが死ぬ時にはその肱をしっかりとつかみ、「どこ迄でも一諸に落ちやう」と、考えていたのではないでしょうか。

 さらに賢治には、もっと直接的に、一緒に死後の世界に至る「兄弟」をテーマとした作品もあります。吹雪における兄弟の遭難を描いた童話「ひかりの素足」では、兄の一郎は弟の楢夫にぴったりと寄り添い、弟を献身的に守りながら、二人一緒に「あの世」にたどり着きますが、この作品の第一形態が成立したのは、1922年前半頃までと推定されています(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の杉浦静氏による「光の素足」解説)。
 やはりトシの死が近づきつつあった年に書き始められたこのお話も、その構想そのものが、「妹に付き添って死後の世界へも同行し、その身を守ってやりたい」という賢治の願望を、反映したものだったのではないでしょうか。

 じりじりと死の影に迫られつつある妹を見守りながら、1922年という年の賢治は、ずっと一人でこういうことを思い詰めていたのではないかと、私は思うのです。
 しかしいずれにせよ、愛する妹の最期の日は、否応なくやってきました。 

2.当日 

 1922年11月27日、トシの臨終の床で、何が起こったでしょうか。賢治は心のどこかでは、たとえば妹と一緒に兄も仏に導かれて別の世界に至るような、何かそんな超自然的な出来事を期待していたのかもしれません。
 しかし現実には、そのようなことは起こりませんでした。「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」に記録されいるような会話がおそらく行われ、その後トシは一人で旅立って行ったのです。

 しかしここで、「松の針」に出てくる次のような部分には注目しておくべきだろうと、私は思います。

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ

 賢治は、妹が「けふのうちにとほくへさらうとする」こと自体は不問にする一方で、「ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか」ということを、問いつめているのです。
 思えば「永訣の朝」の冒頭も、「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」でした。このような場合、普通ならば「死なないでくれ」と訴えるのがお決まりのパターンでしょうが、賢治はその日のうちに妹が死んでしまうそのこと自体は、じたばたせずに受け容れていたのです。
 そしてその一方で賢治は、妹が「ひとりでいかうとする」ことには、異議を唱えるのです。「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ/泣いてわたくしにさう言つてくれ」と懇願し、自分が妹の死に同行する可能性を、何とかして引き出そうとするのでした。

 このような賢治のスタンスは、次の「無声慟哭」でも同様です。

わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

 上で太字にしてみたように、ここでも賢治は、妹が「ひとり」行こうとすることを、どうしても認めようとしません。

 つまり、賢治は妹の「死」は認めつつも、「ひとりで」を認めないのです。
 これこそ、賢治がトシの死のかなり前から、「妹が死ぬ時には同行しよう」とずっと思い詰めていたことの表れだろうと、私は思うのです。 

3.死の後 

 しかし、トシは結局、「ひとりで」行ってしまいました。残された賢治の喪失感ははかりしれないものだったでしょう。悶々として一篇の詩も生まれない日々が、半年あまりも続きました。
 そのような月日の果てに企画されたのが、翌年夏のサハリン旅行でした。トシの死の当日まで抱えていた上のような賢治の思いは、この時どうなっていたでしょうか。

 サハリン行への途上で書かれた作品のうち、その賢治の気持ちを最もはっきりと表しているのは、「宗谷挽歌」です。「妹の死に同行する」ことをその死の当日までずっと願いつづけていた賢治の思いは、その死後8ヵ月あまりを経てもなお綿々と続いていたことが、ここで明らかになります。
 その冒頭部分を、下に引用します。

   宗谷挽歌

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。 

 宗谷海峡を渡る船の甲板にいる賢治は、もしも妹が自分を呼んだなら、「私はもちろん落ちて行く」と決意しています。
 また、上の最後の引用行においても、「どうして私が一諸に行ってやらないだらう」と書いています。
 まさに賢治はここでも、トシと一緒に「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思っているのです。
 さらに、上記のしばらく後の部分には、次のような箇所もあります。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 「われわれが信じわれわれの行かうとするみち」とは、法華経信仰に違いありませんが、もしもそれが「まちがひであったなら」自分に知らせに来てくれと、賢治はトシに頼んでいます。もし賢治がそれを聞いたなら、「私はもちろん落ちて行く」という決意を実行に移すでしょうが、そのまま「まっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、自らに言い聞かせています。
 このような行動は、第三者から見れば「自殺」以外の何ものでもありませんが、賢治もそれは意識しているので、「宗谷挽歌」の文中には、自分が船員から自殺者と疑われているのではないかと、気にする箇所も出てくるわけです。

 このようにして、妹のもとへ行けるなら死んでもよいという決意のもと、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」という心構えを持って、賢治は宗谷海峡に臨んだわけです。
 さかのぼれば、前日の「青森挽歌」において、すでに賢治は次のように書いていました。

(宗谷海峡を越える晩は
 わたくしは夜どほし甲板に立ち
 あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
 からだはけがれたねがひにみたし
 そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

 この言葉のとおり、賢治は宗谷海峡を越える晩に「夜どほし甲板に立ち」、何かが起こることを期待したのです。この「挑戦」こそ、賢治にとっては一つの「儀式」であり、「実験」だったのだと思います。
 しかし結局、賢治が期待したような出来事は、この海上では起こりませんでした。海を渡った賢治は、サハリンに到着します。

 そして、サハリンの玄関口である大泊(ロシア名コルサコフ)の港から、彼はまた鉄道に乗って、一路北を目ざします。そして、当時の「樺太東線」の終着駅である、栄浜(ロシア名スタルドブスコエ)の駅に降り立ちました。
 下の地図で、マーカーを立ててある場所が栄浜です。

 私が推測するには、賢治がこの旅行において、宗谷海峡に続いてもう1ヵ所「何か」を期待して臨んだ地が、この栄浜だったのではないかと思うのです。
 この場所は、当時の日本において、鉄道で行くことのできる最北の地点でしたが、この「最果ての浜辺」というロケーションにも、何らかの思い入れがなされていたではないでしょうか。

 賢治はその浜辺に出て、オホーツク海と向かい合い、「オホーツク挽歌」を書くのですが、このテキスト中に出てくる「仮眠」に対して、香取直一氏と鈴木健司は、「《亡妹トシとの通信》を求めた意志的な行為」と解釈しておられます(香取直一「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」および鈴木健司「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」)。私もこの着眼に、同感です。
 最果ての浜辺で、貝殻を口に含んで行った「仮眠」は、賢治によってなされた次なる「儀式=実験」だったのだろうと、私は思うのです。

 「オホーツク挽歌」という作品は、本文中の二つの空白行によって、三つの部分に分かたれていますが、その二番目の部分を、下に引用します。

白い片岩類の小砂利に倒れ
波できれいにみがかれた
ひときれの貝殻を口に含み
わたくしはしばらくねむらうとおもふ
なぜならさつきあの熟した黒い実のついた
まつ青なこけももの上等の敷物と
おほきな赤いはまばらの花と
不思議な釣鐘草とのなかで
サガレンの朝の妖精にやつた
透明なわたくしのエネルギーを
いまこれらの濤のおとや
しめつたにほひのいい風や
雲のひかりから恢復しなければならないから
それにだいいちいまわたくしの心象は
つかれのためにすつかり青ざめて
眩ゆい緑金にさへなつてゐるのだ
日射しや幾重の暗いそらからは
あやしい鑵鼓の蕩音さへする

 この18行は、「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」という自らの行為への、注釈になっています。その仮眠の理由を、賢治はエネルギーの恢復のためとか、心象がつかれているからなどと説明していますが、しかしその本当の目的は、眠っている間にトシのもとへと行ってくることだったのではないかと、私は思うのです。
 それはちょうど「銀河鉄道の夜」において、ジョバンニが天気輪の丘で「仮眠」に入り、その間に死んだカムパネルラとともに異界を旅してきたことに相当します。この時のオホーツクの浜辺における賢治の仮眠は、「銀河鉄道の夜」におけるジョバンニのそれの、原型とも呼べるものだったのではないでしょうか。

 「オホーツク挽歌」における賢治のこの仮眠が持つ意味について考えるには、この作品と童話「サガレンと八月」との関係に注目する必要があるでしょう。
 鈴木健司氏は、「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」の二つが「ネガとポジの関係」にあると指摘し、さらに踏み込んで「オホーツク挽歌」の仮眠において賢治が体験した内容が、「サガレンと八月」として作品化されたと論じておられます。
 両作品における舞台設定の共通性を見ても、これは非常に説得力のある仮説であると、私も思います。しかし、鈴木氏が栄浜における賢治の「仮眠」についてここまで鋭く論じられながら、その仮眠の目的が、《亡妹トシとの通信》を行うことだったと結論づけておられるところは、私としてはやや物足りなく感じてしまうのです。
 「サガレンと八月」が、<異界へ行く物語>であることに鑑みれば、ここにおいて賢治が期待していたことも、単なる「通信」にとどまらず、「身をもって異界へ行く」ことだったと解釈すべきではないでしょうか。
 それは、「サガレンと八月」において海の底に連れ去られたタネリの運命について考えることによっても、浮き彫りにされます。

 「サガレンと八月」で少年タネリは、母親の与えた禁忌を破った結果、恐ろしい犬神によって海の底に連れて行かれ、蟹の姿にされて「チョウザメの下男」として幽閉されます。
 ところでサハリンという島の形は、日本では「鮭」の姿に喩えられますが、ロシアにおいては、「チョウザメ」の形と言われているのです。下記は、チェーホフの『サハリン島』からの引用です。

 サハリンは、オホーツク海中にあつて、ほとんど1000露里に亙るシベリアの東海岸と、アムール河口の入口とを大洋から遮断してゐる。それは、北から南へ長く延びた形をしてゐて、蝶鮫を思はせる格好だ、と言ふ著述家の説もある。(岩波文庫版上巻p.40)

 サハリンを蝶鮫にたとへることは、南部の場合は殊にふさはしく、全く魚の尾鰭にそつくりである。尾の左端はクリリオン岬、右は――アニーワ(亜庭)岬と呼ばれ、その間の半円形をなした入江を――アニーワ湾といふ。(岩波文庫版上巻p.248)

サハリンとチョウザメ  このチョウザメの喩えは、右の図をみていただければ一目瞭然です。島全体のスリムさは、鮭よりもチョウザメの方がぴったりきますし、南端の尾びれの形といい、東に突き出た北知床半島(テルペニア半島)が背びれに対応するところといい、比喩の迫真性に関しては、鮭よりもチョウザメの方に軍配を上げざるをえません。
 賢治は、文語詩「宗谷〔二〕」において、中知床岬(アニーワ岬)のことを、「サガレン島の東尾」と表現していますから、サハリン島の形が「魚」に喩えられることを知っていたのは確かです。これが鮭だったのかチョウザメだったのかはわかりませんが、「サガレンと八月」というサハリンを舞台とした童話に、「チョウザメ」が出てくるのですから、これはサハリンという土地を象徴するものと解釈するのが自然でしょう。

 すなわち、「サガレンと八月」の主人公が、他ならぬ「チョウザメ」の下男として海の底に閉じ込められるという物語は、実は作者である賢治が、サハリンという土地に囚われ、その海底に沈められるという事態を、象徴していると解釈すべきでしょう。
 そうなると、賢治が栄浜での「仮眠」において期待していたのは、やはりトシとの「通信」にとどまらず、自らがトシの居場所へと赴くことだったと考えるべきと思います。
 自ら宗谷海峡を渡る船の甲板から飛び込むことによってか、あるいは栄浜の海岸からタネリのように拉致されることによってか、いずれにしても賢治が亡き妹のもとへ行きたいという願望とともに、ひそかに心に期していた「異界への旅」は、「サガレンと八月」におけるタネリと同じ運命を、招き寄せるおそれがあったのです。

 それでは、「オホーツク挽歌」において栄浜の海岸で仮眠をとった賢治は、ジョバンニとカムパネルラのように、その夢の中でトシに会うことができたのでしょうか。
 これについて考えるためには、「オホーツク挽歌」の作品中のどこで「仮眠」が行われたのかということを、同定しておく必要があります。この問題に関して鈴木健司氏は、二つの空白行によって三つに分かたれた作品の「パート2」(=上の引用部分)と「パート3」の間で賢治は仮眠をとり、この際に「サガレンと八月」に結実する《幻想体験》が現れたと推定しておられます。「パート1」「パート2」はまだ朝方の時間であるのに対して、「パート3」には「(十一時十五分 その蒼じろく光る盤面)」という詩句があり、その間に時間的断絶があると思われることを、その根拠として挙げておられます。
 私も、鈴木氏の考えに賛成です。作者は、「パート2」では「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」と述べていることからまだ眠っていないわけですが、「パート3」には「わたくしが樺太のひとのない海岸を/ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき…」という詩句があって、この時点ではすでに「睡つたりしてゐる」からです。
 そうすると、「パート3」を読めば「仮眠」後の賢治の様子がわかるということになります。ということで、その内容を見てみると、まず目に入るのは、「とし子はあの青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」という言葉です。つまり、仮眠の後にも、賢治はトシに関する具体的な情報を持っていないのです。
 あるいはまた、「いまするどい羽をした三羽の鳥が飛んでくる/あんなにかなしく啼きだした/なにかしらせをもつてきたのか」という、鳥に対する思い入れも書きとめられています。これは、旅行前の6月の「白い鳥」の流れを引いて、鳥の鳴声の中にトシからのメッセージを読みとろうとする姿勢で、もしもその直前にトシと会えたり通信が得られたりしていたのならば、こんな風に鳥の声を頼りなく聴くこともなかったでしょう。
 すなわち、このオホーツクの海岸における仮眠という「実験」によっても、賢治は期待したようにトシのもとへ行くことは、できなかったのです。
 その意味で、未完に終わっている「サガレンと八月」という童話は、賢治の実験が成功しなかったということにおいても、結末に至ることなく放置されたということにおいても、二重の意味で「流産させられた」作品だったと言うことができるでしょう。

 では、「オホーツク挽歌」におけるこのような体験は、結局のところ賢治に何を与えたのでしょうか。
 香取直一氏は次のように述べて、賢治はこれを契機に、トシの「行方」について思い悩まなくてよい心境に到達したのだと、考えておられます。

玉随の雲に漂って行ったあの一羽の鳥は、《とし子》が蒼空の彼方へ行ったこと、そこから《通信》はこないが、《通信》をよこす必要のない処・眼前に望まれる樺太のような花のきれいな光あふれる浄らかなところへ行ったことをものがたっているのだ。賢治にはこう信じられていたのであろう。(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)が記されたのも、やはり必然であったと思われるのである。(「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」より)

 一方、鈴木健司氏は次のように述べ、賢治はこの時、香取氏の言うようにトシの往生の地を《浄土》と信じたというわけではないのではないかとしておられます。

 香取のいう「必然」とはどのようなことか。賢治にとって、妹とし子の往生の地が「光りあふれる浄らかなところ(浄土)」に違いないと確信することと、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやくことが、どのような必然の糸で結ばれているというのだろうか。おそらく私の解釈は香取の主張するところとは異なっている。賢治が「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやいたのは、妹とし子の往生の地が《浄土》と信ぜられた結果としてではなく、《浄土》であり続けるためにつぶやいたのである。なぜなら、妹とし子の浄土往生を支えうるのは、己れの信仰の正しさの確認以外になく、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という語には、この場合、破地獄としての陀羅尼(呪文)の作用が託されていると考えられるからである。(「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」より)

 そして鈴木氏は、「オホーツク挽歌」の終結部に出てくる「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という梵語による唱題の意味について、次のように述べます。

「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやかれたことは、賢治が妹とし子のいない現実世界を受容したことを意味するのであり、それは取りも直さず、《亡妹とし子との通信》の断念の表白でもあるのだ。

 この鈴木氏の見解について、私は半分は賛成です。
 すなわち、鈴木氏が上の後半で述べているように、「オホーツク挽歌」以後の賢治は、もうそれまでのようにトシとの「通信」に執着することはなくなります。その後の作品には、「通信」というテーマは出てこなくなるのです。
 一方、前半部の「賢治が妹とし子のいない現実世界を受容した」という点については、この時点の賢治はまだ「受容」にまでは至っていないと、私は考えざるをえません。
 たとえば、サハリンからの帰途の「噴火湾(ノクターン)」では、トシに関して次のような思いが綴られています。

駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
  (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 ここに描かれている賢治にとっては、「何べん理智が教へても」、やはりさびしさは癒えません。そして彼が、「どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ」理由は、「妹とし子のいない現実世界」を、まだ受容しきれていないからに他なりません。
 あるいはまた、サハリン旅行から帰ってから書いた「〔手紙 四〕」の冒頭には、次のように記されています。

 わたくしはあるひとから云ひつけられて、この手紙を印刷してあなたがたにおわたしします。どなたか、ポーセがほんたうにどうなつたか、知つているかたはありませんか。 

 ここでも、チュンセの死んだ妹ポーセが「ほんたうにどうなつたか」を知りたいという賢治の願望は、まだ強く持続しているのです。妹の行方を知る手段として、トシ本人からの「通信」を求めるという以前のやり方は用いられず、「手紙に託して探す」という方法がとられますが、それでもやはり賢治は、まだ「妹とし子のいない現実世界」を受容しているとは言えません。

 サハリン行から後の作品を順に追って見ていくと、賢治が本当の意味でトシの死を受容できるようになったのは、さらに翌年の「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」、そしてその頃に書き始められた「銀河鉄道の夜」に至ってのことだったろうと、私は考えます。
 賢治がその境地まで至った道筋は、崇高な「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」の一例とも言えるものであり、またそのうちに記事にしてみたいと思っています。

 では、賢治が結局オホーツク行という企図によって得た最大の収穫は何だったのかとあらためて考えてみると、私としては、「青森挽歌」の終わり近くに出てくる次の一言の啓示だったと思います。

《みんなむかしからのきやうだいなのだから
 けつしてひとりをいのつてはいけない》

 この認識が、「〔手紙 四〕」の重要なテーマとなり、「〔この森を通りぬければ〕」と「薤露青」を支え、さらには後の「銀河鉄道の夜」にも引き継がれることになっていきます。

 短篇「イギリス海岸」に、次のような一文があります。

 実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。

 以前に私は、「死ぬことの向ふ側まで」という記事において、これは表面的には賢治が教え子たちのために思っていたことでもあるのだろうが、実は心の底で、死に近い妹に対して考えつづけていた気持ちが、思わずあふれて出たものではないかと書きました。
 それはやはりそうではないかと今も思うのですが、もう一つ、賢治の最初期の童話である「双子の星」にも、次のような箇所があったことに気がつきました。チュンセ童子とポウセ童子という双子の星が、彗星(ほうきぼし)に騙されて、天上から海の底へと落ちてしまう場面です。

 二人は青ぐろい虚空をまっしぐらに落ちました。
 彗星は、「あっはっは、あっはっは。さっきの誓ひも何もかもみんな取り消しだ。ギイギイギイ、フウ。ギイギイフウ。」と云ひながら向ふへ走って行ってしまひました。二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです。

 双子の星の名前である「チュンセ」と「ポウセ」は、後の「手紙 四」においては、明らかに賢治とトシの投影と思しき、兄「チユンセ」と妹「ポーセ」として登場します。したがって賢治が「双子の星」において、「この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです」と書いていることは、やはり彼が妹に対して抱いていたであろう思い=「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」ということと、何かの関係があるのではないかと考えざるをえません。

 となると、賢治が「双子の星」のこの箇所を書いたのがいつだったのか、と言うことが問題になります。
 従来から、「蜘蛛となめくぢと狸」「双子の星」「貝の火」という三つの童話は、彼の最初期のものと考えられてきました。清六氏による「兄賢治の生涯」(『兄のトランク』所収)には、次のような回想があります。

 大正七年に二十二歳で農林学校本科を卒業したが、つづいて地質や土壌を研究するために学校に残り・・・(中略)
 この夏に、私は兄から童話「蜘蛛となめくぢと狸」と「双子の星」を読んで聞かせられたことをその口調まではっきりとおぼえている。処女作の童話を、まっさきに私ども家族に読んできかせた得意さは察するに余りあるもので、赤黒く日焼けした顔を輝かし、目をきらきらさせながら、これからの人生にどんな素晴らしいことが待っているかを予期していたような当時の兄の姿が見えるようである。

 この記述に従えば、「双子の星」が初めて書かれたのは1918年(大正7年)夏までさかのぼることになりますが、この時期には、トシはまだ日本女子大の学生で、病に倒れてはいません。健康な妹に対して、「どこ迄でも一諸に落ちやう」というのは、ちょっと理解しがたいことです。
 しかし、賢治の他の作品と同じく、「双子の星」もある日急に生まれたわけではないはずです。天沢退二郎氏は、ちくま文庫版『宮沢賢治全集』の解説において、上の清六氏の記述に関連して、次のように述べておられます。

 ここで引かれている清六氏の記憶は信頼できるように思われるが、ただし、このとき清六氏らが読みきかせられたのは、今日私たちが読んでいるテクストと全く同じものだったのではなくて、その先駆段階、下書稿段階であり、細部などいろいろ異同があったものと推定される。賢治の詩や童話の顕著な特質である著しい推敲や改稿の跡は、それらの作品が第一次稿から二次稿三次稿へ、あるいは下書稿(一)から(二)へ、(三)へ・・・・・・の絶えざる変化・転生の過程として在ったことを示している。したがって、「蜘蛛となめくぢと狸」にしてもその現存稿第一形態の成立は右の清六氏の記憶より数年後、一九二一、二年頃かと考えられる。

 ということで、1921~1922年頃となると、トシが死の床に就いていた時期と重なってくるのです。
 より具体的には、中地文氏による『宮沢賢治の全童話を読む』(學燈社)における「双子の星」の解説によれば、次のようになります。

 では、現存稿の成立時期はいつ頃なのか。これについては原稿用紙の種類から大正十年頃かと考えられよう。しかし、草下英明(『宮沢賢治と星』学芸書林)の指摘するように、蠍座の心臓部に位置する一等星アンタレスを「蠍の眼」「赤眼」と捉える発想が吉田源治郎『肉眼に見える星の研究』の影響を受けて生まれたのであれば、大正十一年九月の同書刊行以後ということになる。

 この吉田源治郎著『肉眼に見える星の研究』という本には、上記の「蠍の眼」という発想だけでなく、「アルビレオのトパーズとサファイア」「昴の鎖」など他にも賢治作品に見られる表現の登場していることが草下英明氏によって指摘されており、また恩田逸夫氏も「水仙月の四日」に出てくるカシオペアと水仙の組み合わせの共通性について述べていて、確かに賢治が読んでいた可能性は非常に高いと感じられるものです。
 となると、この本が刊行されたのが1922年(大正11年)9月、短篇「イギリス海岸」が書かれたと推定されるのは1922年8月、トシの死は1922年11月ということで、時期がだいたいそろってきます。

 すなわち私としては、賢治が童話「双子の星」に、「双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです」と書いたのは1922年9月以降で、やはりトシの死が目の前に現実として迫ってきていた頃なのではないかと、推測するのです。

 童話「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」は、二人の子どもが図らずも死後の世界へ行って、うち一人はそのまま死の側に残り、一人だけが帰ってくるというお話です。作品世界の設定は、一方は岩手の方言が話される山村、他方は星祭りの行われる異国(?)ということで、雰囲気は対照的に異なっていますが、物語の骨組みは同じなのです。
 さらに骨組みだけではなくて、その「死後の世界」の描写の細部にも、よく似たところがあります。

 例えば、まず「ひかりの素足」に出てくるボール投げの話。

 一人が云ひました。
「こゝの運動場なら何でも出来るなあ、ボールだって投げたってきっとどこまでも行くんだ。」

 一方、「銀河鉄道の夜」では・・・。

〔以下原稿一枚?なし〕
「ボール投げなら僕決してはづさない。」
 男の子が大威張りで云ひました。

 次には、「ひかりの素足」に出てくる「巨きな人」が言及する不思議な本。

 その巨きな人はしづかに答へました。
「本はこゝにはいくらでもある。一冊の本の中に小さな本がたくさんはいってゐるやうなのもある。小さな小さな形の本にあらゆる本のみな入ってゐるやうなのもある。お前たちはよく読むがいい。」

 これに対し、「銀河鉄道の夜」(初期形第三次稿)における「青白い顔の瘠せた大人」が見せてくれる地歴の本。

ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。

 三つめには、「光の素足」に出てくるチョコレート。

「チョコレートもある。こゝのチョコレートは大へんにいゝのだ。あげやう。」その大きな人は一寸空の方を見ました。一人の天人が黄いろな三角を組みたてた模様のついた立派な鉢を捧げてまっすぐに下りて参りました。そして青い地面に降りて虔しくその大きな人の前にひざまづき鉢を捧げました。
「さあたべてごらん。」その大きな人は一つを楢夫にやりながらみんなに云ひました。みんなはいつか一つづつその立派な菓子を持ってゐたのです。それは一寸嘗めたときからだ中すうっと涼しくなりました。舌のさきで青い螢のやうな色や橙いろの火やらきれいな花の図案になってチラチラ見えるのでした。たべてしまったときからだがピンとなりました。しばらくたってからだ中から何とも云へないいゝ匂がぼうっと立つのでした。

 そして、「銀河鉄道の夜」におけるチョコレート(?)。

「こっちはすぐ喰べられます。どうです、少しおあがりなさい。」鳥捕りは、黄いろな雁の足を、軽くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできてゐるやうに、すっときれいにはなれました 。
「どうです。すこしたべてごらんなさい。」鳥捕りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっと喰べてみて、(なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでゐるもんか。

 これらは、物語の大筋には関係のない小さな事柄なのですが、しかしこういう何気ない細部に類似があるところが、よけいに二つの作品の密接な関係を示している気がします。大塚常樹氏は、「ひかりの素足」のことを、「「銀河鉄道の夜」と双子関係にあると言ってもよい」と評していますが(『宮沢賢治 心象の宇宙論』p.278)、たしかにそうだなあという感じがします。

◇          ◇

 ところで、今回考えてみたいのは、上のような共通点とは逆に、「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」の相違点、についてです。
 もちろん、前述のように二つの作品はその舞台設定も大きく異なりますし、「ひかりの素足」が仏教それも法華経の功徳を物語の中心に据えているのに対して、「銀河鉄道の夜」の方はいわば「汎宗教的」な要素を色濃く持ちます。いろいろ違いを挙げていけばきりがありません。
 ただ私としては、こういった物語の設定などよりももっと奥深くの、物語としての「意味」の部分に、何か本質的な違いがあるのではないか、ということが気になったのです。
 思いつくままに、いくつか挙げてみます。

1.死を自覚しつつ共に行くこと

 「ひかりの素足」においては、一郎と楢夫という主人公の二人は、猛吹雪の中で気を失った後に「うすあかりの国」にやって来た時、自分たちが死んでしまったのだということを覚ります。

「楢夫、僕たちどこへ来たらうね。」一郎はまるで夢の中のやうに泣いて楢夫の頭をなでてやりながら云ひました。その声も自分が云ってゐるのか誰かの声を夢で聞いてゐるのかわからないやうでした。
「死んだんだ。」と楢夫は云ってまたはげしく泣きました。

 じつは物語にはここに至るまでにも、死へと向かう伏線が周到に張り巡らされていました。
 冒頭から、楢夫は自分が死装束を着せられ野辺送りをされる夢を見たことを語り、父や兄に(そして読者にも)不吉な予感を与えます。
 そして二人が道行きを始めてしばらくすると、あの「象のやうな形の丘」にやって来ます。天沢退二郎氏は、この印象的なモチーフについて、次のように書き記しています(『≪宮澤賢治≫鑑』所収「峠を登る者」より)。

 みちはいつか谷川からはなれて大きな象のやうな形の丘の中腹をまはりはじめました。(強調は天沢氏)

 この≪まはりはじめました≫という表現はいかにもその“みち”が避けがたく宿命の鞍部へついに引きよせられて行くかを示すと同時に、宿命の大きな輪自体がゆっくりとカタストロフへと回転を開始したさまをも示していて、再読三読するときは息をのむばかりであるが、それというのも―そのような≪表現≫ではからずもあり得た根拠は―いうまでもなく≪象のやうな形の丘の中腹を≫という目的格の力によるのである。
 すでに入沢康夫氏によって指摘されているように、この丘は、吹雪をえがいたもうひとつの賢治童話にも見出される―

 二疋の雪狼が、ぺろぺろとまつ赤な舌を吐きながら、象の頭のかたちをした、雪丘の上の方をあるいてゐました。(「水仙月の四日」)

 そしてこの「水仙月の四日」でも、この丘の山裾の≪峠の雪の中≫で子どもが吹雪に遭って、埋もれる。

 これ以外にも二人の運命を暗示するモチーフがいくつも配されているのは、天沢氏が上掲書において指摘しておられるとおりですが、とにかくこの物語において一郎と楢夫は、自分たちがまさに死のうとしていることを知りつつ吹雪に閉ざされ、まもなく死後の世界に自らを見出します。

 これに対して、「銀河鉄道の夜」という物語において、ジョバンニは自分が銀河鉄道に乗りながらそこが「死後の世界」(あるいは生と死の境界領域)であることを、まったく自覚していません。彼は大好きなカムパネルラと一緒に列車の旅ができる嬉しさいっぱいで、死者と思しき人々が乗り合わせてきても、自分やカンパネルラの生死については無頓着です。
 そして物語の終わり近く、現実世界に戻ったジョバンニはそこで初めて、じつはカムパネルラが死んでしまったこと、そして自分もさっきまでその親友と一緒に死後の世界を旅していたのだということを、知るのです。

 私は先月、「死ぬことの向ふ側まで」という記事において、トシの死が近づきつつあった1922年夏頃の賢治が、できることならトシと運命をともにして、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思っていたのではないか、そしてその気持ちを、当時「イギリス海岸」という短篇にも忍ばせたのではないか、ということを書きました。
 上に挙げた「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」の相違点は、このような賢治の思いに関わっているのかもしれません。

 すなわち、「ひかりの素足」において一郎は、はっきりと自覚しつつ楢夫とともに、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思っています。
 これに対して「銀河鉄道の夜」においてジョバンニは、結果的には「死ぬことの向ふ側まで」カムパネルラに同行したことになりましたが、それはまったく本人の自覚的な行動ではありませんでした。ジョバンニは、自分がなぜ銀河鉄道に乗っているのかわからず、ポケットに「切符」を発見してからも、それについて尋ねられると「何だかわかりません」と答えるしかありませんでした。
 「初期形第三次稿」においては、このジョバンニの体験はブルカニロ博士が行った「実験」だったということが最後に明かされます。しかし「第四次稿」においては、これはジョバンニの夢だったという形に改められました。

 つまり、「ひかりの素足」の一郎が楢夫とともに死後の世界へ行ったのは、(不可避だったとは言え)本人にとって自覚的な行動だったわけですが、「銀河鉄道の夜」でジョバンニがカムパネルラとともに死後の世界へ行ったのは、本人にとっては意味不明な出来事であり、しいて言うならばそれは偶然に見た夢だったか、あるいは自分の与り知らない何か超越的な力によって起こった現象だったということになります。

2.兄弟であること

 「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」のもう一つの相違点は、前者は一郎と楢夫という「兄弟」の物語であるのに対して、後者はジョバンニとカムパネルラという「親友」の話であることです。
 これは大して本質的な違いには見えないかもしれませんが、賢治の生涯を念頭に置いて考えてみると、主人公が「兄弟」であることは、賢治とトシという「兄妹」を否応なく連想させます。これに対して「親友」となると、保阪嘉内という存在のことも意識せざるをえません。

 物語の中でも、ジョバンニはあたかも賢治が嘉内に対してそうだったように、カムパネルラに嫉妬したり拗ねたりしますが、一方「ひかりの素足」には、兄の一郎が弟の楢夫を献身的にいたわり守ろうとする姿が、何度も繰り返し印象的に描かれます。
 例えば、まだ朝起きてまもない頃に顔を洗った後に一郎は、

 その時楢夫も一郎のとほりまねをしてやってゐましたが、たうたうつめたくてやめてしまひました。まったく楢夫の手は霜やけで赤くふくれてゐました。一郎はいきなり走って行って
「冷だぁが」と云ひながらそのぬれた小さな赤い手を両手で包んで暖めてやりました。

と、弟への優しさを見せます。
 吹雪に遭遇してからも、一郎は何度も何度も小さな弟に声をかけて、勇気づけようとします。

  • 「あんまり急ぐな。大丈夫だはんて なあにあど一里も無ぃも。」
  • 「さあもう一あしだ。歩べ。上まで行げば雪も降ってなぃしみぢも平らになる。歩べ。怖っかなぐなぃはんて歩べ。あどからあの人も馬ひで来るしそれ、泣がなぃで、今度ぁゆっくり歩べ。」
  • 「来た来た。さあ、あどぁ平らだぞ 楢夫。」
  • 「さあ 歩べ。あど三十分で下りるにい。」
  • 「大丈夫だ。楢夫、泣ぐな。」
  • 「さあも少しだ。歩げるが。」

 そして、ついに二人が猛吹雪の中で立ち往生してしまう場面。

「泣ぐな。雪はれるうぢ此処に居るべし泣ぐな。」一郎はしっかりと楢夫を抱いて岩の下に立って云ひました。
 風がもうまるできちがひのやうに吹いて来ました。いきもつけず二人はどんどん雪をかぶりました。
「わがなぃ。わがなぃ。」楢夫が泣いて云ひました。その声もまるでちぎるやうに風が持って行ってしまひました。一郎は毛布をひろげてマントのまゝ楢夫を抱きしめました。
 一郎はこのときはもうほんたうに二人とも雪と風で死んでしまふのだと考えてしまひました。いろいろなことがまるでまはり燈籠のやうに見えて来ました。正月に二人は本家に呼ばれて行ってみんながみかんをたべたとき楢夫がすばやく一つたべてしまっても一つを取ったので一郎はいけないといふやうにひどく目で叱ったのでした、そのときの楢夫の霜やけの小さな赤い手などがはっきり一郎に見えて来ました。いきが苦しくてまるでえらえらする毒をのんでいるやうでした。一郎はいつか雪の中に座ってしまってゐました。そして一さう強く楢夫を抱きしめました。

 一郎の弟に対する献身的な愛情は、「うすあかりの国」に入ってさらに胸に迫ります。

  • 「さあ、兄さんにしっかりつかまるんだよ。走って行くから。」一郎は歯を喰ひしばって痛みをこらへながら楢夫を肩にかけました。そして向ふのぼんやりした白光をめがけてまるでからだもちぎれるばかり痛いのを堪えて走りました。それでももうとてもたまらなくなって何べんも倒れました。倒れてもまた一生懸命に起きあがりました。
  • 「楢夫、しっかりおし、楢夫、兄さんがわからないかい。楢夫。」と一生けん命呼びました。
     楢夫はかすかにかすかに眼をひらくやうにはしましたけれどもその眼には黒い色も見えなかったのです。一郎はもうあらんかぎりの力を出してそこら中いちめんちらちらちらちら白い火になって燃えるやうに思ひながら楢夫を肩にしてさっきめざした方へ走りました。足がうごいてゐるかどうかもわからずからだは何か重い巌に砕かれて青びかりの粉になってちらけるやう何べんも何べんも倒れては又楢夫を抱き起して泣きながらしっかりとかゝへ夢のやうに又走り出したのでした。
  • そのとき楢夫がたうたう一つの赤い稜のある石につまづいて倒れました。鬼のむちがその小さなからだを切るやうに落ちました。一郎はぐるぐるしながらその鬼の手にすがりました。
    「私を代りに打って下さい。楢夫はなんにも悪いことがないのです。」
  •  楢夫がいきなり思ひ出したやうに一郎にすがりついて泣きました。
    「歩け。」鬼が叫びました。鞭が楢夫を抱いた一郎の腕をうちました。一郎の腕はしびれてわからなくなってただびくびくうごきました。楢夫がまだすがりついてゐたので鬼が又鞭をあげました。
    「楢夫は許して下さい、楢夫は許して下さい。」一郎は泣いて叫びました。
    「歩け。」鞭が又鳴りましたので一郎は両腕であらん限り楢夫をかばひました。

 まだ子どもである一郎が、これほどまでに自分の身を投げ打って、弟を守ろうとするのです。
 私は、このような兄一郎の行動こそが、賢治が妹の死を前にして、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思っていた気持ちの表現ではなかったのかと思うのです。
 死んでいくトシの先には、どんな苦難が待ち受けているのか、賢治にもわかりません。賢治は、愛する妹を知らない世界に一人で往かせるのがあまりにも不憫で、できることなら自分が一緒について行って、一郎が楢夫にしたように、我が身を賭してでも守ってやりたいと願ったのではないでしょうか。

 それからあともう一つ私としては、一郎と楢夫という兄弟が、賢治とトシという兄妹を投影したキャラクターだったのではないかと感じる理由が、あります。
 下記は、物語の冒頭で目を覚ました一郎が、まだ眠っている楢夫の方を見やる場面です。

「ほう、すっかり夜ぁ明げだ。」一郎はひとりごとを云ひながら弟の楢夫の方に向き直りました。楢夫の顔はりんごのやうに赤く口をすこしあいてまだすやすや睡って居ました。白い歯が少しばかり見えてゐましたので一郎はいきなり指でカチンとその歯をはじきました。
 楢夫は目をつぶったまゝ一寸顔をしかめましたがまたすうすう息をしてねむりました。

 小さな子ども同士の、ささやかな微笑ましい情景です。賢治の作品の細部には、しばしばこういった絶妙とも言える描写が出てきて、いったい作者はどうやってこのようなディーテイルを思いついたのだろうと感心することがよくあるのですが、ただこの箇所に関しては、この悪戯は賢治がトシに実際にしてみたことなのではないかと、私は思うのです。

宮澤トシ(1918) ご存じのように、トシはとても美しい女性でしたが、唇の間から前歯が少しだけ顔を覗かせることがあったようです。
 右の有名な写真は、日本女子大学の卒業アルバムのために撮られたと言われているものですが(1918年?)、左の前歯がちょっと見えているようでもあり、そうでないようでもあります(ちくま学芸文庫『図説 宮澤賢治』より・部分)。

 花巻高宮澤トシ(1921)等女学校の教諭時代、1921年2月の卒業式におけると言われている右の写真では、かわいい前歯の様子が、よりはっきりとわかります(ちくま学芸文庫『図説 宮澤賢治』より・部分)。
 賢治は「松の針」という作品において、トシを栗鼠に喩えていますが、ひょっとしたら彼女のこんな表情から、栗鼠をイメージしたのではないだろうかとも思ったりします。

 そして、このようなトシの口もとの様子からすると、二人がまだもっと幼かった頃には、眠っているトシの唇の間から「白い歯が少しばかり見えて」いることもきっとあったのではないでしょうか。そして、賢治は思わず「指でカチンとその歯をはじき」たくなったのではないかと、私はひそかに想像するのです。
 賢治は後年になってその記憶を、一郎が楢夫にした他愛もない仕草として織り込んだのではないか・・・。

 すなわち、「ひかりの素足」に描かれている一郎と楢夫の兄弟の様子は、やはり賢治のトシに対する思いを大きく反映したものではなかったか、もっと具体的に言うならば、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行って」やりたいという賢治の切なる願いを一つの物語として造形したものが、この「ひかりの素足」という作品だと言えるのではないかと、私は考えるのです。

 この問題に関してはあとまだもう少し、「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」が草稿が書かれた時期の比較を行うとともに、一郎とジョバンニがそれぞれ死後の世界に行くことになったのはなぜなのか、そしてそこから帰還することになったのはなぜなのか、ということについて考えてみたく思いますが、続きは稿を改めさせていただきます。

機内にて「ひかりの素足」推敲過程を読む
(6月5日、伊丹ー花巻間の機内にて。「ひかりの素足」草稿において、トシの死後に手入れがなされた部分。)

死ぬことの向ふ側まで

 短篇「イギリス海岸」は、賢治が農学校教師をしていた或る夏の、輝かしい思い出のような作品です。

 夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処がありました。
 それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上川の西岸でした。東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截って来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。

イギリス海岸

 町の小学校でも石の巻の近くの海岸に十五日も生徒を連れて行きましたし、隣りの女学校でも臨海学校をはじめてゐました。
 けれども私たちの学校ではそれはできなかったのです。ですから、生れるから北上の河谷の上流の方にばかり居た私たちにとっては、どうしてもその白い泥岩層をイギリス海岸と呼びたかったのです。

 当時は、海のない花巻の町の小学校でも、夏には石巻の海岸まで子どもたちを連れて行っていたようですし、「隣りの女学校」(=花巻高等女学校)では臨海学校の催しを始めていました。でも農学校にはそういう行事はなかったので、賢治は海を知らない生徒たちのために、北上川の河岸を「海岸」と呼ぶ「見立て」を行ったわけです。

 賢治は、農学校からこの「イギリス海岸」へ生徒たちを引率して出かけて、みんなが泳ぐのを嬉しそうに眺めていました。ただ、賢治はあまり泳げなかったので、もしも川の深いところで溺れる生徒が出たら、救助することはできなかったのです。
 そのことについては、教師として生徒に付き添っている責任もありますから、賢治ももちろん考えていました。ただ、その時に彼が考えていた内容というのが、賢治らしいと言えばいかにも賢治らしいのですが、学校の先生としてはちょっと異例の事柄でした。

実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。

 これは、先に「災害と賢治」においても引用した、非常に印象的な箇所です。ここには、賢治が生徒を思う気持ちの強さが表われていると読むこともできるでしょうし、また「私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです」という表現からは、一瞬の喜びや恍惚のために我を忘れてしまう、賢治独特の性向が垣間見えるような気もします。「打つも果てるもひとつのいのち」と歌った、あの若人たちの踊り「原体剣舞連」にも通ずるような・・・。

 しかし、いくら賢治のことと言え、これはあまりに大仰な覚悟です。ここには何か、別の事情もひそんでいるのではないか?
 そんな疑問から、この「飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という言葉の背景について、今日はちょっと考えてみました。

◇          ◇

 まず、この「イギリス海岸」という短篇が書かれた時期を、確認しておきます。実はこの作品テキスト中には、次のような月日の記載が出てきます。

 次の朝早く私は実習を掲示する黒板に斯う書いて置きました。

     八月八日
農場実習 午前八時半より正午まで
  除草、追肥   第一、七組
  蕪菁播種    第三、四組
  甘藍中耕    第五、六組
  養蚕実習    第二組
 (午后イギリス海岸に於て第三紀偶蹄類の足跡標本を採収すべきにより希望者は参加すべし。)

 そこで正直を申しますと、この小さな「イギリス海岸」の原稿は八月六日あの足あとを見つける前の日の晩宿直室で半分書いたのです。

 そして、この作品草稿の末尾には、(一九二三・八・九・)という日付が書き込まれているのです。8月9日ならば上の作中の月日ともぴったりと合いますし、この作品は、1923年8月9日に書かれたという風に、まずは思われます。
 ところが困ったことに、実は賢治はこの「1923年8月9日」という日には旅行中で、サハリンから花巻へ帰る途上にあったのです。短篇を書くだけなら旅行中でも不可能とは言えませんが、生徒たちとイギリス海岸へ行ったという内容とは合致しません。
 それに、上記のように作品中には「隣りの女学校」という表現が出てきますが、1923年8月には、農学校の近くには女学校はなかったのです。賢治が就職した1921年12月の時点で、当時の「稗貫郡立稗貫農学校」の隣には、確かに「花巻高等女学校」があったのですが、1923年4月に農学校は県立に昇格して「岩手県立花巻農学校」と改称されるとともに、校舎も現在は花巻市文化会館などがある花巻の西のはずれに移転したのです。(下地図は、『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)補遺・伝記資料篇p.204「花巻付近概念図(大正初期)」より、下線は引用者)

花巻付近概念図(大正初期)

 つまり、賢治が在職中で、隣に女学校があった夏というのは、1922年の夏だけだったのです。したがって現在は、「イギリス海岸」草稿日付の「一九二三」は賢治の誤記であり、この作品は1922年の8月9日に書かれたものと推定されています。

 ということで、次にこの1922年8月という時期について考えてみると、これは、妹トシの死(1922年11月27日)の3ヵ月少し前にあたります。すでに彼女の病状は悪化の一途をたどっており、賢治の目から見ても、愛する妹の死はそう遠くないと感じざるをえなかった頃でしょう。
 私は、「イギリス海岸」に書かれている「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」というのは、この頃に賢治が妹トシに対して、ひそかに抱いていた気持ちだったのではないかと思うのです。

 というのは、妹の臨終の様子を描いた詩「松の針」には、次のような箇所があるのです。

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ

 賢治は、死んで行く妹が「ひとりでいかうとする」のを悲しみ、「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ」とまで願っていたのです。これは言い換えれば、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行って」やりたいと、賢治自身が思っていたということになるでしょう。

 あるいは、トシの死の翌年のサハリンへの旅の途中に書かれた「宗谷挽歌」は、次のように始まります。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。

 この時賢治は、宗谷海峡を渡る連絡船の甲板にいて妹のことを考えているのですが、ここでも彼は「松の針」におけるように、死んだ妹が自分を呼ぶことを想像しています。そしてもしも呼ばれたら、躊躇することなく甲板から海へと「たゞ飛び込んで」、妹のいる向こう側の世界へ行く覚悟をしていたわけです。

 つまり私としては、この「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という考えは、もちろんイギリス海岸において賢治が生徒たちに対して思っていたことでもあるでしょうが、そのもともとの由来は、この頃には日一日と死に近づきつつあったトシに対して彼が抱いていた感情だったのではないかと思うわけです。

◇          ◇

 そう思ってこの「イギリス海岸」という短篇を読むと、作者賢治はまぶしい夏の陽射しの下、生命を謳歌するように遊び戯れる少年たちの様子に目を細めながらも、同時に暗い病室において着実に死に引き寄せられつつある妹のことを常に考え続けていたのだろうと、あらためて感じるのです。

イギリス海岸
(イギリス海岸の写真2枚は2009年9月21日に撮影)

災害と賢治

「災害と賢治」-今、もし賢治がいたら 

0.はじめに

 今日お話させていただくのは「災害と賢治」というタイトルなんですが、生前の宮沢賢治は災害というものについて、どんな思いや態度でいたのだろうかということについて、考えてみたいと思います。副題に、「今、もし賢治がいたら」と書いていますように、今の日本のこの大変な状況にあって、もしも賢治が生きていたら、何を考え、どんな行動をとっただろうかということを、何とか推し測ってみたいという気持ちもあります。

「第1回 イーハトーブ・プロジェクトin京都」-満員御礼 この、「今、もし賢治がいたら」という疑問は、これまで賢治に関心を抱いてきた者として、3月11日の震災以来つねに私の胸のどこかにあったものでした。そして、今日のこの催しを企画するために、3月20日に初めてここ「アートステージ567」にやって来た時に、Hさんからまず私に突き付けられた問いでもありました。
 その時にははっきりとはお答えできないままだったのですが、私はその後この自問をふとツイッターに書き込んでみたところ、特に皆の意見を求めたわけではなく独り言のように呟いただけだったのですが、驚くほどいろいろなお返事が帰ってきました。
 賢治は、「自ら原発や瓦礫の間に分け入ろうとしてレスキュー隊や自衛隊と揉めているか」、あるいは「避難所生活を共にして今頃水や食料の確保に駆け回っているか…」と想像した方もありました。
 また、集団で協力し合って物事にあたるのが得意な人と、個人で行動するのが得意な人がいるけれども、賢治は後者だと思われるので、「だから多分一人でがれきを片付けたり、ひとりひとりの話を聞いて回ったり…かな」という意見も寄せられました。
 そして、賢治がとったであろう行動は、ひょっとしたら周囲の人からは「愚かなこと」と思われるようなことだったかもしれない、と指摘して下さった方もありました。この視点は、「デクノボー」の人間像や、「虔十公園林」の虔十の行動にも通ずるもので、おそらくそこには深い意味があるでしょう。この点については、後でまた触れる予定です。

 さて、こういう経過もあり、あらためて私は「災害と賢治」についていろんなことを考えさせられたのですが、ただ、賢治自身は、災害の現場で何かの活動をした記録があるわけでもなく、「災害論」のようなものを書き残しているわけでもないのです。ですから、「賢治だったらどうしたか?」という考察をしようとしても、せいぜい作品の一部や伝記的事項をもとに、想像をたくましくして推測してみるということしかできません。
 そもそもこれは、はっきりした答えが出る問いではないのですが、今回の震災を機に賢治について考えてみようという本日の催しの趣旨には沿うものですし、答えの当否はともかく、賢治の作品や思想を振り返ってみる一つの切り口にはなると思いますので、今日のテーマとさせていただいた次第です。

 ということで、今日のお話の大まかな内容は、次のようになる予定です。

「災害と賢治」-本日のお話

 賢治の作品や伝記的事項の中で、「災害」と言える上記のような題材が出てくるものを順番に検討し、それらに対する賢治の態度を見てみます。そして次にそれを整理して、賢治という人が災害や自然との関わりにおいてどういう思いを抱きつつ生きていたのかを、考えてみようと思います。
 一般にこういうテーマというのは、論者それぞれの「賢治に対する思い入れ」にもとづいて、あれこれ好き勝手に推測を述べるという形になりがちです。「私なりに抱いている賢治のイメージからすると、きっとこうしたのではないか」ということの、まあ主観的な表明です。
 もちろんそのような話も面白いのですが、ここでは賢治に関する伝記的事実や、作品内で直接描かれていることをもとに、なるべく客観的に考えてみたいと思います。無論それでも、背景に私なりの賢治に対する主観的「思い入れ」があるのは事実ですが・・・。


1.地震・津波 ~荒ぶる自然の申し子?~

 このたびの東日本大震災の中心は、まずM9.0という未曾有の大地震と、それに続く巨大な津波でした。
 よく話題になるように、宮沢賢治の生涯も、その始めと終わりを大規模な地震と津波が特徴づけています。

 まず賢治が生まれた1896年(明治29年)6月25日には、「明治三陸地震」と「明治三陸大津波」がありました。それまでは行政用語として限定的に使われていただけだった「三陸」という地名表現が、広く一般に普及したのも、この災害がきっかけだったと言われています。
 この時の死者は2万1915人で、現在も津波の死者数としては日本最大で、波の最大遡上高は38.2mで、これも現時点では観測史上最高です。
 これは、賢治が生まれる2ヵ月前の出来事でしたが、彼が生まれた直後にも、岩手県内陸地方では大きな地震がありました。8月31日に起こった陸羽地震がそれで、震度は6ー7程度あったと言われています。母のイチは、まだ生後数日だった賢治の上に覆い被さるようにして、わが子を守ろうとしたそうです。

 そして、賢治が亡くなった1933年(昭和8年)3月3日には、明治三陸大津波と並び称される「昭和三陸大津波」がありました。これは賢治が死去する約半年前のことで、すでに賢治の病状は重く、ほとんど病床から離れられない状態でした。ですから、この津波災害に際して賢治が何らかの社会的行動をすることは、すでに不可能になっていました。
 ただ、この津波の後まもなく、賢治の弟の清六氏が、「釜石に急行して罹災者を見舞った」と記していることは、注目に値すると思います(『兄賢治の生涯』ちくま文庫)。
 おそらくまだ交通も寸断されていた時期に、内陸の花巻から沿岸で最も被害が大きかった地区へ入ったというのは、かなり思い切った行動だったのではないでしょうか。釜石に宮沢家の親戚がいたということが、災害直後に急行した直接の理由かと推測されますが、弟がこういう行動をとるということは、賢治もこの時もし「丈夫ナカラダ」だったら、被災地に直接赴いたのではないかと、一つの想像が成り立つと思います。
 なお、この地震・津波の後に、東京在住の大木實という詩人から届いた見舞い状に対して、賢治が出した返事が残っています(下写真は勉誠出版『月光2』p.163-164より)。

書簡459a

 「被害は津波によるもの最多く海岸は実に悲惨です。」との言葉が、ちょうど今の私たちの胸にも突き刺さります。今回の震災とほぼ同じ時季のできごとでしたが、「何かにみんなで折角春を待ってゐる次第です。」とは、今年の東北でも共有されていた思いでしょう。

 津波とともにこの世に生まれ、津波とともに去っていった賢治の生涯は、あたかも「風の又三郎」が、二百十日の風とともに山あいの村に現れ、また風とともにどこかへ行ってしまったという設定を、彷彿とさせます。清六氏は『兄賢治の生涯』に、次のように書いています。

このように賢治の生まれた年と死亡した年に大津波があったということにも、天候や気温や災害を憂慮しつづけた彼の生涯と、何等かの暗合を感ずるのである。

 賢治は、荒ぶる自然の申し子のようにこの人間界に生まれ、科学や宗教をより所として、実践的に自然災害に関わるようになります。


2.雪山遭難 ~自然と人間との関係について~

 さて次は「雪山遭難」というテーマです。さきほど第一部で菅原さんが朗読された「水仙月の四日」というお話は、ほんとうに美しかったですね。人の命を奪うような猛吹雪が襲来する刻一刻の描写も、水晶のように透き通っていました。
 しかしある面でいかに美しくとも、雪山や吹雪は人間にとって非常に怖ろしいものです。岩手の内陸で生まれ育った賢治にとって、これは小さい頃から言い聞かされてきたことでしょうし、それからお隣の青森における「八甲田山雪中行軍訓練」で、壮健なはずの陸軍連隊210名中199名が死亡した事件は、1902年(明治35年)のことでした。この衝撃も、賢治の幼時記憶には刻まれていたかもしれません。

 「水仙月の四日」に雪の精霊として登場する雪童子は、「顔を苹果のやうにかがやかし」ている可愛い子どもです。このお話では、たまたま人の子を救いましたが、また別の時には死なせているのでしょう(童話「ひかりの素足」では、一人は死に一人は生き残りました)。吹雪がやって来る時の、「雪童子の眼は、鋭く燃えるやうに光りました」という箇所などは、この子の本当の怖ろしさを垣間見せます。
 また「雪婆んご」の方は、年とった「魔女」あるいは「山姥」のようで、もっと冷たく恐そうな存在ですね。

 しかしだからと言って、このお話で雪婆んごや雪童子が、人間の「敵」であり人間と対立する「悪者」として描かれているかというと、まったくそんなところはないのです。
 それどころか、人間と彼ら自然の精霊は、一つにつながっている存在として提示されているようでもあります。
 「人間」と「雪婆んご」の間にはちょっと距離があるようで、きっと雪婆んごには、人間的な感情など理解する余地などないのかもしれません。しかしここで、両者の間に「雪童子」という中間項を入れてみると、ちょうどこの両者を媒介してくれるように見えます。
 雪童子は雪婆んごの配下であり、彼女の命令に従って雪を降らせ、時に人の命を取ります。しかし一方で、雪童子は人間の行動も興味を持って眺めたり、自分が投げてやったヤドリギの枝を子どもが大事に持っていたことで、「ちよつと泣くやうに」したりもするのです。雪童子は、人間と自然の両方の性質を帯びた、一種の境界的な存在のようですね(下図)。

人間-雪童子-雪婆んご

 雪童子という存在について、次のように考えてみることもできるかもしれません。東北地方には「雪女」という伝承もあって、やはりこれも美しいとともに怖ろしく、しばしば人間の命を奪う精霊ですが、伝承によればこの「雪女」とは、雪の中で遭難して亡くなってしまった人間の女性の化身であるとされています。
 もしも雪女の出自がそうであるならば、雪童子というのも、実は雪で亡くなった子どもの化身なのではないでしょうか。
 「水仙月の四日」には、雪婆んごが雪童子に向かって、「おや、をかしな子がゐるね、さうさう、こつちへとつておしまひ。」と命ずる場面があります。子どもを「殺しておしまひ」ではなくて、「こつちへとつておしまひ」と表現しているということは、子どもが死ぬと、雪婆んごや雪童子の側である「こつち」の存在として「転生」する運命にあることを、示しているのではないでしょうか。
 それならば、ここに出てくる雪童子も、しばらく前までは人間界で生きていた子どもだったのかもしれません。雪婆んごとは違って、この子にはまだ人間としての感覚が完全には失われていないために、人の子に対して「情が移ってしまう」のかもしれません。

 いずれにしても、この物語における「自然」は、とても怖ろしいけれども、「人間」と別個に対立する存在としてあるのではなく、どこかで人間と不可分な存在です。
 その特徴を浮き彫りにするために、西洋のお話でこれと類似した設定を持つ、アンデルセンの「雪の女王」という童話と較べてみましょう。

 このアンデルセンのお話においても、「雪婆んご」に相当する「雪の女王」は、「死」を象徴する存在です。しかし、人間との関係はかなり異なっています。
 ある日、カイという男の子の目と心臓に、悪魔が作った鏡のかけらが運悪く入ってしまいました。そのた「雪の女王」のお城へ向かうゲルダめに、カイは物事が歪んで見えるようになってしまい、幼なじみの女の子ゲルダと離れ、雪の女王に連れ去られてしまいます。カイを探してはるばる北へやって来たゲルダは、やっと雪の女王のお城を探し当てますが、城に近づこうとすると、生き物のような「雪の大軍」がそれを阻止します。ゲルダが思わず「主の祈り」を唱えると、その白い息がたくさんの天使となり、天使軍は雪の大軍を打ち負かします。そこでついにゲルダは雪の女王のお城に到達し、大好きなカイを救け出したのです(上挿絵は「青空文庫」内「雪の女王」より)。
 この西洋の童話においては、愛のある人間は「善」で、冷たく怖ろしい雪は、人間と対立する「悪」です。善と悪は戦い、神の守護を受けて善は勝利したのです。

 「雪の犠牲になりかけている子ども」と「雪の精霊」が登場することにおいては、アンデルセンの童話と、賢治の「水仙月の四日」は似ていますが、実は両者の世界観は、相当に異なっています。
 「水仙月の四日」においては、「雪」は善悪というような人間が決めた価値基準を超越した存在です。雪と対峙して天使とともに戦ったゲルダとは対照的に、「水仙月の四日」に出てくる子どもは、積もる雪に受動的に包み込まれてしまいます。この物語では、その柔らかい褥(しとね)は結果的に子どもを守り救けましたが、しかし一歩間違えば、これは命取りになる状況でもありました。
 「水仙月の四日」で描かれている「自然」は、人間にとってはむら気で残酷でありながらも、それは人間と対立しているわけではなくて、人間を包み込んでくれるものです。人を包みながら、救けてくれるかもしれないし、命を奪われるかもしれない、両価的な存在です。
 これが、いわば賢治の自然観だったと私は思いますが、実はこれは何も賢治独自の考えというわけではなくて、近代以前の日本では、当たり前の感覚だったようです。

 というのは、明治維新までの日本には、英語の Nature に相当する言葉が存在しなかったのだそうです。強いて似た意味の言葉を挙げれば、「森羅万象」「万物」などというものがそれにあたりますが、これらはいずれもその中に「人間」も一緒に含む概念です。
 そこで、「人間と対置される存在としての Nature」という概念を日本語に移し替えるために、「おのずから」という意味でそれまで使われていた「自然(じねん)」という言葉が、訳語に充てられることになったのだそうです。今から思えば不思議な感じもしますが、近代以前の日本人は、「人間」や「人工物」と対比させる意味で、「自然」という概念を用いることはなかったわけですね。
 人間が科学技術など様々な手段によって「自然を征服し支配する」という考えや行動は、19世紀から20世紀前半の西洋において頂点に達し、明治以降の日本にも取り入れられました。それからは、日本人もこういう視点で「自然」を見るのが当たり前になっていきます。
 しかし20世紀後半になると、環境破壊や公害などの問題が表面化してきて、人間は自然を「征服」するのでなく自然と「調和」しなければならないという考えが、しだいにクローズアップされてきます。でもこの「調和」も、実際には「人間」と「自然」を対置してとらえていることには変わりはなく、言ってみれば「戦争をするか、同盟を結ぶか」の違いにすぎません。 西洋由来で、最近の日本でも流行している「エコ」とか「自然との共生」という思想もそうでしょう。結局は、人間に都合のよいように、そして人間に利益がある範囲内において、自然を守り共存しようということです。いわば「人間中心主義」であり、これが言葉の本来の意味における「ヒューマニズム」です。

自然と人間

 しかし、賢治の深層にある自然観は、そんな生易しいものではなかったようです。人間は自然の一部としてその中に包み込まれていることを受け入れるとともに、なおかつ彼は、人間だけが特権的に他の存在よりも優位に立つことが許されるとは、考えなかったのです。
 たとえば「なめとこ山の熊」という童話では、猟師の小十郎が、熊を獲って生計を立てています。小十郎は、熊が憎くて殺すわけではありませんが、自分が生きるためにはそうするしかありませんでした。小十郎は本当は熊が好きでしたし、熊も小十郎が好きでした。
「なめとこ山の熊」(あべ弘士:画) しかしそのような生業の帰結として、ある日猟に出た小十郎は、熊に襲われて死んでしまいます。彼は死ぬ間際に、「熊ども、ゆるせよ」と心で念じました。そしてその三日目の晩、月の光の下でたくさんの熊が小十郎の死骸を輪になって囲み、祈るようにひれ伏す姿がありました(右はミキハウス刊あべ弘士画:『なめとこ山の熊』)。
 ここで、人と熊とは殺し殺される関係にありながら、互いに尊敬を払いつつ、文字どおり「対等に」生きています。そのようにして自然とともに生きている小十郎には、並々ならぬ覚悟と矜持が感じられます。
 しかし、このような「自然」と「人間」との関係は、ちょっと聞くと美しく感じられても、よく考えるととても一般に受け入れられるものではないでしょう。「反ヒューマニズム」とも言えます。よく言われるような「人の命は地球よりも重い」というような価値観とは、まったく相容れないものです。
 それでも賢治の思想の根底には、このような自然と人間との一体性・対等性を基本的に受容するという感覚があったのは確かだろうと、私は思います。
 宗教学者の山折哲雄さんは、この「なめとこ山の熊」を取り上げて、「『共生』だけでは生きることへの執着、エゴイズムになってしまうので、『共死』という思想が重要である」と言っておられます(「共死の思想の大切さを思う」)。熊も人間も死を受容している「なめとこ山の熊」の世界は、まさに「共死」を具現化しているものであり、賢治の思想の根幹にも関わるものだと思いますが、はたして山折さんは「共死の思想が大切だ」と言うことで、一般の人々に何を伝えたかったのでしょうか。人間が、他の生物と対等に「共に死ぬ」ことを受け容れよ、というのでしょうか。こんな考え方は、人間を中心として成立している私たちの社会のモラルとして、到底みんなが納得できるはずはないものですが・・・。
 賢治は、人に向かってそういう考えをさも有り難いことのように説くということはありませんでしたが、しかし自分の内奥にはしっかりと抱いていたのだろうと、私は思います。

 人間は大地の上に暮し、幸いなことに大地から様々な恵みを贈与されていますが、時にその大地が大きく揺れ動くと、人々の命や暮らしが失われることもあります。また日本人は、四方を海に囲まれて暮し、様々な海の幸を受けとっていますが、時に海は怖ろしい怒濤となって陸地へ押し寄せ、人々の命や暮らしを奪います。
 荒ぶる自然の申し子であった賢治は、元来このような自然の摂理を、どこか宿命のように受け容れていたような印象が、彼のいくつかの作品からは感じられます。

 それは、大いなる自然とちっぽけな人間との関係として、当時としては無理もなかったことなのかもしれません。賢治の生まれた家では、父が非常に熱心な浄土真宗の篤信家で、賢治自身も幼児期から真宗の教えを暗誦しながら育ちました。人間の無力さを知り、超越者としての阿弥陀如来にすべてを委ねる(絶対他力)という思想は、もともと賢治の心には沁みわたっていたと思いますが、このような大きな受容の心も、賢治の自然観の形成に与っていたのではないかと思います。

 しかし賢治は、そこにとどまってはいませんでした。青年期に法華経に出会って世界観の変容を体験し、また高等農林学校に進学した賢治は、西洋近代文明の成功の基盤となった自然科学を究めようとします。そこからは彼の新たな、いわば「ヒューマニズムの闘士」として立ち上がろうとする姿も現われるのです。


3.豪雨災害 ~必死の農業技術者~

 次に取り上げる作品は、賢治が盛岡高等農林学校で農学を修め、農学校教師として教育に携わった後、さらに教師を辞めて「羅須地人協会」の活動を行いつつ、近隣の農家のために無償で肥料設計をやっていた頃の詩「〔もうはたらくな〕」(「春と修羅 第三集」)です。

  一〇八八
              一九二七、八、二〇、
もうはたらくな
レーキを投げろ
この半月の曇天と
今朝のはげしい雷雨のために
おれが肥料を設計し
責任のあるみんなの稲が
次から次と倒れたのだ
稲が次々倒れたのだ
働くことの卑怯なときが
工場ばかりにあるのでない
ことにむちゃくちゃはたらいて
不安をまぎらかさうとする、
卑しいことだ
  ・・・・けれどもあゝまたあたらしく
     西には黒い死の群像が湧きあがる
     春にはそれは、
     恋愛自身とさへも云ひ
     考へられてゐたではないか・・・・
さあ一ぺん帰って
測候所へ電話をかけ
すっかりぬれる支度をし
頭を堅く縄って出て
青ざめてこわばったたくさんの顔に
一人づつぶっつかって
火のついたやうにはげまして行け
どんな手段を用ひても
辨償すると答へてあるけ

 作品の日付けとして記入されている1927年(昭和2年)8月20日、花巻地方は激しい雷雨に襲われ、まさに稔りの時期を迎えようとしていた稲は、ことごとく倒れてしまったのです。
 賢治が自らの知識と経験を傾けて肥料を設計した農家の人々の田の稲も、甚大な被害に遭い(=おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲が/次から次と倒れたのだ)、賢治は絶望的な気持ちに襲われます。彼は自らに対して、「もうはたらくな/レーキを投げろ」と嘲るような言葉を投げつけます。もうこんな状況では、真面目に働くことなど無意味だ、卑しいことだ、とさえ言うのです。
 いつも前向きに粘り強く努力を続ける賢治にしては、これは珍しい投げやりな態度ですが、思えば彼は盛岡高等農林学校では首席を通すほど勉強に励み、その後も自分の健康も害するほど献身的に、周囲の農家の人々に尽くしてきたのです。環境や能力にも恵まれた一人の人間として、農家の暮らしの改善のために最大限のことをやってきたはずなのに、その成果は一日の豪雨によって、無残にも打ち砕かれてしまいました。所詮、人間の努力なんて自然の威力の前では徒労にすぎないのではないか・・・。賢治がこの時そう感じたとしても、無理からぬことにも思えます。

 しかしやはり賢治は、自暴自棄な態度では終わりませんでした。「さあ一ぺん帰って/測候所へ電話をかけ/すっかりぬれる支度をし/頭を堅く縄って出て/青ざめてこわばったたくさんの顔に/一人づつぶっつかって/火のついたやうにはげまして行け」ともう一度自らに命じます。「火のついたやうにはげまして行け」という言葉からは、賢治の燃えるような行動的エネルギーも感じます。

 賢治は幼少期から、人が苦しんでいる様子を見ると、放っておけずすぐに行動に移す子どもだったということです。例えば小学校の3年頃、悪戯をした子が罰として水のいっぱい入った茶碗を両手に持たされ廊下に立たされているのを見て、「ひでがべ、ひでがべ」と言ってその茶碗の水をごくごく飲んでしまったという逸話もあります(関登久也『宮沢賢治物語』)。
 思えば賢治の父の政次郎氏も、家業を飛躍的に発展させただけでなく、仏教講習会の開催や、町会議員、民生委員、小作調停委員、家事調停委員、金銭債務調停委員、借地借家調停委員、育英会理事など地域の多数の役職を務めて公共福祉活動に貢献しました。また、弟の清六氏が昭和三陸大津波の直後に被災地を見舞ったことも、すでに触れたとおりです。行動・実践を重んずる賢治の態度は、こういった精力的な父や家庭の影響によるところも大きかったでしょう。
 また盛岡高等農林学校で、当時最新の自然科学を学び、科学が持つ現実変革の力を体験し自ら身につけたことも、行動主義的傾向を促進したかもしれません。
 そして彼は農学校教師になってからも、「実践」と重んじる教育を行いました。教科書はあまり使わず、理屈よりも現実への応用を旨として、「これは実際問題ですよ、実際問題です!」というのが、教室での彼の口癖だったということです(『証言 宮澤賢治先生』農文協)。
 生徒には、学校で学んだ農業の知識や技術を実地に生かさせるために、卒業すれば「百姓になる」ことを勧めましたが、現実には熱心に勉強する生徒ほど、さらに上級の学校に進学することを希望しました。結果として、賢治の宿願であった農民の生活の改善は、農学校教師という仕事を通じてはなかなか達成困難に思われました。
 それで賢治は、一方で生徒に「百姓をやれ」と勧めながら、自分は教師という職業に就いて安閑としていることにも、自己矛盾を感じるようになります。おそらくこういう様々な思いが交錯した結果、賢治は教師を辞めて、自ら「一人の百姓になる」という行動に踏み出すことになります。しかし無理がたたって結核を悪化させた賢治は、いったん死を覚悟するほどの病状にも陥り、数年間を病床で過ごすことになりました。
 けれども、賢治はまだそれくらいでは諦めません。何とか病状が回復すると、今度は石灰工場の嘱託技師となったのです。ここで賢治に嘱託されていた役割は、土壌学や肥料学の観点から専門的な助言をすることが中心だったのに、蓋を開けると彼は連日のように岩手や周辺各県をセールスマンのように奔走して、何とかして石灰肥料を東北地方に普及させようと、また無理を重ねてしまいます。その結果、再び結核の再燃を招くことになってしまいました。

 このように、賢治は飽くなき実践と行動の人でした。法華経に傾倒するや、冬の夜中に大声でお題目を唱え太鼓を叩きながら花巻の町を歩いて家族や近所の人を唖然とさせたり、父を改宗させるために突然家出をして東京へ行き、「下足番でもするつもりで」日蓮主義の国柱会に押しかけたり、こうと決めたら実行せずにはいられないところがあります。
 こういった傾向は、賢治が法華経を信仰するようになってから、特に顕著になってきたようです。それまで信じていた浄土系の仏教が、他力によって「あの世」での極楽往生を目ざすのと対照的に、法華系の宗派では「この世」を常寂光土とすべく自力による菩薩行の崇高性を説くこと、また日蓮その人も、鎌倉幕府に直言したのをはじめ何度弾圧されても主張を曲げず精力的に布教をした「行動の人」だったことなど、宗教的な背景も賢治に一定の影響を与えていたと思われます。

 さて、以上のような賢治の生き方は、「積極行動主義(activism)」とも呼べるものでしょう。勉強もしますが、議論したり考えたりするよりも、とにかく思い切って実際の行動に移してみるのです。
 ただ、そのような積極行動主義には、どうしても挫折もつきまといます。自分の知識や精魂を尽くして、農業生産を上げようとしても、自然はそう簡単に思い通りにはなりません。「〔もうはたらくな〕」という作品は、献身的な行動に明け暮れながらも、そのような努力が水の泡と消えようとする時、彼でさえも無力感や虚無感にさいなまれることがあったことを、率直に示してくれています。
 積極行動主義は、賢治という人間や生涯を理解する上では、重要な一つの側面であると思います。しかしそれは常に、厳しい現実との相克につきまとわれていたのです。


4.水難 ~「共苦」ということ~

 さて次に取り上げるのは、川や海で溺れる「水難」です。
 実は賢治には、子どもの水難事故に関して小学生時代の印象的な体験がありました。

1904年(明治37年・尋常小学校2年)8月1日(月) 川口小生徒沢田英馬・英五郎・高橋弥吉・沢田藤一郎の4名が豊沢川下流を徒歩渡り中、水勢のため流され、英馬と沢田藤一郎(4年生)は魚釣りの人に救われたが、2年生の英五郎・弥吉は行方不明となり、夜になっても探索がつづき、その舟の灯がぺかぺか光るのを豊沢橋より見つめる。溺死者は翌日発見。強い印象として残る。(『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)年譜篇より)

 真っ暗な川面の上で、行方不明の子どもを探す舟の灯が「ぺかぺか」と光る様子は、「銀河鉄道の夜」の最後の場面を彷彿とさせます。子どもの頃に見たこの情景は、賢治の心にそれほど強く焼き付いていたのでしょう。

「アザリア」の4人 一方、くしくも賢治の死ぬ直前にも、「銀河鉄道の夜」の最後と似た出来事が起こります。
 それは、盛岡高等農林学校時代に賢治にとって大切な親友だった河本義行(右写真で前列右)が、鳥取県の倉吉農学校の教諭として水泳の監視中に、同僚が溺れるのを見て海に飛び込み、同僚を救けた後に自分は亡くなってしまったのです。1933年(昭和8年)7月18日のことでした(上写真は『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)p.293より)。
 河本義行は、盛岡高等農林学校卒業後、郷里で農学校教師をするかたわら、積極的に文芸活動にも取り組んでいましたし、賢治と違ってスポーツも万能で、水泳も上手だったとのことです。いったいなぜ水難で命を落とすことになってしまったのか、かえすがえすも悔やまれます。
 ここで一つの問題は、賢治は自分が亡くなる前に、はたしてこの親友の死を知っていたのかということです。もしも知っていたら、それは「銀河鉄道の夜」のラストシーンにおけるカンパネルラの死と、否応なく重なりあったでしょう。これは、現存する資料からはまだ答えの出ていない謎ですが、遠く離れた岩手と鳥取のことであり、河本の遺族が賢治に知らせた形跡も残っていないことから、賢治「カンパネルラの館」は河本の死を知らなかったのではないかという説が多いようです。
 しかし、鳥取県に住んでおられる河本義行の遺族の方は、その遺品を展示する建物(右写真)に「カンパネルラの館」という名前を付けて、賢治との縁を偲ぶよすがとしておられます。
 一方、もしも賢治が親友の水死を知らずに「銀河鉄道の夜」を書いたのなら、その符合、なおさら不思議な感興が呼び起こされます。

 さて、次に取り上げる作品は、実際に水難事故が起こっているわけではありませんが、それが想像上の一つの主題となっているもので、賢治が農学校教師時代に書いた「イギリス海岸」という短篇です。賢治はこの頃、生徒たちと過ごす楽しい日々を題材にしたノンフィクションに近い作品をいくつか残していますが、これもその一つで、教師賢治としての明るく輝かしい、かけがえのない思い出が詰まっています。
 「イギリス海岸」というのは、皆さんもご存じのように「海岸」と言っても海ではなくて、北上川のとある岸辺のことです。賢治は、その場所の地質がイギリスのドーバー海峡のものと似ているというので、面白がって「イギリス海岸」という愛称を付けたもので、ここは現在でも花巻の観光地の一つになっていますね。
 夏になると賢治は、そのイギリス海岸に農学校の生徒たちを引率してやって来て、水泳をさせたのです。内陸部で海のないイギリス海岸花巻でも、他の学校では夏になると「臨海学校」が催されて海で泳ぐことができたのですが、貧しい農学校にはそんなイベントはありませんでした。そこで賢治は、北上川の岸辺にことさら「海岸」と名前を付けて、日頃は海に親しむことの少ない生徒たちへの贈り物としたわけです(上写真は現在のイギリス海岸)。

 その短篇「イギリス海岸」の中ほどには、水難事故予防のために町から救助係として雇われている男性(=「その人」)が出てきます。一人称の「私」が、賢治です。

「お暑うござんす。」私が挨拶しましたらその人は少しきまり悪さうに笑って、「なあに、おうちの生徒さんぐらゐ大きな方ならあぶないこともないのですが一寸来て見た所です。」と云ふのでした。なるほど私たちの中でたしかに泳げるものはほんたうに少かったのです。もちろん何かの張合で誰かが溺れさうになったとき間違ひなくそれを救へるといふ位のものは一人もありませんでした。

 この人と会話した賢治は、もしも生徒が溺れた時のことを考えます。

実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。

 教師として監視していると言っても、実は賢治は泳げなかったので、もし目の前で溺れる生徒が出ても、救助することはできなかったのです。
 そして、そのような場合に賢治が覚悟していたことが、いかにも極端で、また賢治らしいことですが、「もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」というのです。
 すぐに飛び込むところは「積極行動主義」ですが、その行動は現実的な意味で「役に立つ」ものではありません。彼は生徒を救けるかわりに、一緒に溺れて死んでやろうと決意しているのです。

 おそらく現代の学校の生徒の保護者だったら、先生のその気持ちには敬服するけれども、それでは万一の場合うちの子はどうなってしまうんですか、誰でもよいから救助ができる人を配置しておいて下さい、と言うところでしょう。
 賢治のこのような気持ちは、実際的な人助けにはなりませんが、子どもの頃に水の入った重い茶碗を持たされている同級生を見ると、思わずその水を飲んでやったように、苦しんでいる人を見ると、とにかく理屈以前にその苦しみを分かち合おうとせずにはいられないという、やむにやまれない彼の衝迫を表わしています。
 それは、人の痛み・苦しみへの「共感」、「共苦」、そしてこの場合には、先ほどの山折さんの言葉では「共死」というところまで至る、思いであり行いです。自分の力ではどうしようもないことに直面した時、それを「解決」することはできなくても、「共感」し「共苦」することは、その覚悟さえあればできるのです。
 それは、現実には役立っているように見えなくても、何かの「意味」があるのではないか? 賢治はここで、人間の「力」(=「自力」)を超越したところに、次の何かを見出そうとしているのではないでしょうか。

 私がここでちょっと連想するのは、賢治とはまったく異なっワーグナー「パルジファル」(カラヤン指揮,ベルリンフィル)た文化状況におけることではありますが、19世紀ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーの最後の楽劇「パルジファル」のモチーフです(右はドイツ・グラモフォンPOCG3729『パルジファル』)。
 この楽劇には、過去のあやまちのために永遠の苦しみを背負わされている王と、崩壊に瀕している聖騎士団が登場します。そして「予言」によれば、王や騎士団を苦難から救済できるのは、「共苦によりて知にいたる、けがれなき愚者」=(“durch Mitleid wissend, der Reine Tor”)だと言うのです。
 第一幕に登場した粗野な若者パルジファルが、結局ここで予言されていた救済者だったのですが、ここで興味深いのは、救済の力を持っているのは決して始めから知力や武力のある者ではなく、人から見れば「愚か者」であって、しかし「共に苦しむこと(Mitleid)」を通して知に至る者であるというところです。ある人が、今ここで役に立つ力・問題解決能力を持っているかということではなくて、何の役にも立たないような愚かな様子であっても、悩める人と「共苦する」ことに、より深い力があるというのです。
 ここには、キリスト教的というのともちょっと違った宗教的ニュアンスがあり、晩年のワーグナーが仏教にも関心を抱いていたと言われることとも、関係があるのかもしれません。そしてこの「純粋な愚者」には、賢治が後に「デクノボー」と名づける人間像と共通する要素があるところが、私には非常に興味深く感じられます。

 ともあれ、賢治は積極行動主義とその限界の相克に苦しむところではとどまらず、そこからさらに、「共苦」という新たな可能性の道があることを提示してくれるのです。そしてその方向に進むことは、見かけ上の能力などを超越し、一見すると「愚者」と言われるような「デクノボー」的存在に近づいていくことになるようなのです。


5.旱害・冷害 ~行動し共苦するデクノボー~

 ここまでいくつか賢治が関わった災害を見てきましたが、最後に取り上げるのは、旱害と冷害です。この二つの災害は、彼の時代の東北地方の農業にとって最も深刻な問題であり、江戸時代には厖大な餓死者が出るような飢饉を招いたり、近代以降も農家の生活を深刻に脅かす危機を引き起こしました。
 当然、農業に関わりつづけた賢治は常に意識していたことで、これらは作品にも様々な形で、何度も登場します。

 さてその旱害と冷害に関して、ここでまず最初に見てみるのは、賢治の晩年の童話「グスコーブドリの伝記」です(下挿絵は文教書院『児童文学』初出時の棟方志功画-『新校本宮澤賢治全集』第12巻校異篇p.117より)。
 これは、冷害によって両親を失った少年グスコーブドリが、苦学の末に火山技師になり、科学技術の応用によってイーハトーブの農民の暮らしの改善に尽くす物語です。そしてその話の重要な部分として、旱害と冷害に対するブドリたちの挑戦が描かれます。賢治自身も、科学を勉強して農業の改革のための実践を行うことに「イーハトーブ火山局」(棟方志功:画)生涯をかけましたから、これは賢治が自ら夢見ていた、一つの「あるべき人生」の姿だったのかもしれません。
 グスコーブドリは技師になって2年後に、噴火が切迫している火山の中腹にボーリングを行い、町ではなく海の方へ爆発させることによって多くの人を被害から救います。そしてさらに6年後には、雲の上から飛行船で硝酸アンモニウムの粉末を散布することにより、肥料とともに雨を降らせることに成功します。
 お話の中でブドリたちが貼り出していた、

「旱魃の際には、とにかく作物の枯れないぐらゐの雨は降らせることができますから、いままで水が来なくなつて作付しなかつた沼ばたけも、今年は心配せずに植ゑ付けてください。」

というポスターのとおり、イーハトーブではついに旱害を克服することができたのです。
 そしてブドリが27歳の年、「あの恐ろしい寒い気候」が、また襲ってくる徴候が現れました。5月にも10日みぞれが降り、6月になってもオリザの苗は黄いろく樹は芽を出しませんでした。「このままで過ぎるなら、森にも野原にも、ちやうどあの年のブドリの家族のやうになる人がたくさんできるのです。」
 火山を人工爆発させれば、炭酸ガスによる温暖化で、冷害は避けられるという見通しがありましたが、それをすると最後の一人がどうしても火山島から逃げられないこともわかりました。そこでブドリは、クーボー大博士が止めるのも振り切り、自らを犠牲にして火山を噴火させ、帰らぬ人となったのです。

そしてちやうど、このお話のはじまりのやうになる筈の、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといつしよに、その冬を暖いたべものと、明るい薪で楽しく暮すことができたのでした。…

 このように、献身によって人々の幸せがもたらされるという帰結は、賢治自身が目標としたことでもあったでしょう。しかし、「科学技術によって自然を人間に都合がよいように変える」という試みには、人の命という犠牲が伴いました。それはまるで、手段こそ違えど、古代の人々が災厄の回避を祈る時には、神に生贄を捧げたことも連想させます。
 それにこのような火山の人工爆発は、賢治の時代からすれば所詮SF的なお話であり、当時でもそして現代でも、実際にやれることではありませんでした。旱害と冷害は、科学の力でも非常に解決の困難な課題だったのです。
 「グスコーブドリの伝記」は、賢治的な面白いアイディアが満載ですし、物語としても感動的で人気のある作品ではありますが、これはハッピー・エンドなのか悲劇なのか意見は分かれ、また誰かの犠牲のおかげでもたらされる幸せを人々は本当に喜んでもよいのかなど、議論を呼ぶ作品です。

 以上、たくさんの作品を見てきましたが、ここで先ほど菅原さんが朗読して下さった作品を、もう一つご紹介させていただきます。皆さんもご存じの、「〔雨ニモマケズ〕」です。
 ここでまずちょっと皆さんに考えてみていただきたい問題があるのですが、全部で30行あるこのテキストを、意味の上で二つの部分に分けるとしたら、どこで区切ることができるでしょうか。
 これはいろいろな視点・考え方があり、どれが正しくてどれが間違いと言えるような問題ではありませんが、まあ最も一般的なのは、14行目の「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ…」から後を「後半」として二つに分けるやり方でしょう。花巻の羅須地人協会跡に建てられている最も古く有名な詩碑にも、ここから後の部分が刻まれています。

 しかし今日は、ちょっと違う分け方をしてみます。それは、下の赤い点線のところで、二つに分けてみようというものです。

「雨ニモマケズ」の内容

 どうですか。これはまた、何とも中途半端なところで区切ったと思われるでしょうね。確かに形式的にも分かれていない変な箇所なんですが、あえて今日ここに線を引いてみた理由は、ここより前で描かれているのは、「立派な」「役に立つ」人間像なのですが、それに対してここから後では、どこかちょっとズレたような、役立たずのような人物になってしまうのです。
 「丈夫なカラダ」で、「慾ハナク、決シテ瞋ラズ」とか、「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ、ヨクミキキシワカリソシテワスレズ」なんて、よくできた健康優良児の優等生みたいですね。そして、「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ」というのも、道徳の教科書に出てきそうな、献身的で立派な人です。

 それでは、次の「南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」というのはどうでしょうか。
 これは現代風に言えば、実は死に臨む人の「ターミナルケア」をしているわけですね。それなら、大変有意義なことをやっているとも言えるわけですが、もし皆さんの家に重い病気にかかっているご家族がいたとして、ある日そこへ急に男がやってきて、「死ぬことは恐くないですよ」などと説き聞かせ始めたら、家の人はどう思うでしょう。「こっちは回復を信じて懸命に看病しているのに、あんたは何を縁起の悪いことを言いに来たんだ」と怒って、追い返したくなるのではないでしょうか。
 病人の治療をしたり、身のまわりの世話をしたりしてくれるのならとても有り難いでしょうが、「死を恐がらなくてもいい」と説教するだけでは、なかなか一般の人にその意図は理解してもらいにくいでしょう。だから普通の人は、とうてい回復しそうにない病人を見舞った時にも、「きっとよくなりますよ」などと気休めを言ってしまうのです。気休めを言えない人は、「変な人」「愚か者」と思われかねません。
 本当は人間にとって、死に臨む時期をいかに生きるかということは、とても大切なことです。しかし、「死を恐がらなくてもいい」という言葉は、元気に生きている者が瀕死の人に向かって、自分の健康を棚に上げてそう簡単に言えるものではありません。そこで中村稔氏はこの「コハガラナクテモイヽトイヒ」について、「ここで作者は仏の言葉を語っているのです」と述べています。

 それから次の、「北ニケンクヮヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」はどうでしょう。喧嘩を仲裁するのはまあ良いことでしょうが、「訴訟」を「つまらないからやめろ」と言うのは、どうでしょうか。
 詩人であり弁護士でもある中村稔氏は、ここに表明されたような思想が若い頃は嫌いであった、と述べています(思潮社『宮沢賢治ふたたび』)。「みんなが訴訟や喧嘩をつまらないからといって止めてしまったらどうなるか、結局のところ、強欲な人々、我執を主張する人々の私利私欲がまかりとおるのを許すことになるだろう」というのが中村氏の言い分で、これは社会的な観点からは当然の理屈です。やはりここでも、「訴訟をやめさせようとする」人物というのは、現実を知らない愚か者のように見えてしまいます。
 しかし中村氏は、「ここでも彼は仏の言葉を語っているのだ」と解釈します。
「どんぐりと山猫」 これに関連して私が連想するのは、「どんぐりと山猫」という童話です(右挿絵は光原社『注文の多い料理店』-『新校本宮澤賢治全集』第12巻校異篇p.18より)。
 このお話では、たくさんのドングリたちが「誰がいちばん偉いか」という問題で紛糾して収拾がつかなくなったので、山猫が「裁判」を行います。これは、当事者たちにとっては切実な問題のようですが、ドングリの間での優劣なんて、人間や山猫から見ればそれこそ「どんぐりの背比べ」にしかすぎません。
 そのような構図を、賢治は次のように描いています。

山ねこは、もういつか、黒い長い繻子の服を着て、勿体らしく、どんぐりどもの前にすわつてゐました。まるで奈良のだいぶつさまにさんけいするみんなの絵のやうだと一郎はおもひました。

 つまりここで賢治は、人間や山猫の立場からはドングリの争いなど馬鹿馬鹿しく見えるのと同じように、大仏さまから人間同士のもめ事を見れば、やはり「ツマラナイ」ものであるということを、暗示したかったのでしょう。中村氏が指摘するように、「北ニケンクヮヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」という態度は、同じ人間としてというよりも、「仏が人間界を見下ろしている」ような視線に由来しているのです。
 しかし現実の社会では、こういった仏の目線でものを言ってもなかなか理解されず、若い頃の中村稔氏のように反発を感じる人も多いでしょう。現実の社会から見ると、この言葉も理解されにくいと言わざるをえません。

 さて、この後に、有名な「ヒデリノトキハナミダヲナガシ、サムサノナツハオロオロアルキ」が続きます。科学の進歩を前提とした「グスコーブドリの伝記」においては、人間はヒデリ(旱害)もサムサノナツ(冷害)も克服しますが、賢治の時代の現実では、これらはまだ逃れようのない災厄でした。
 このような状況において、賢治が「ナリタイ」と思った人間は、「ナミダヲナガシ」、「オロオロアルキ」という行動をとる者でした。これらは、災害に見舞われた農民に対しては、実際上は何の役に立つものでもありません。しかしここには、人々の痛みを我がこととして受けとめる、「共感」と「共苦」があります。
 賢治は、少しでも旱害や冷害に強い稲の品種を普及させようと努力し、各地を巡回する肥料相談においてもそのような自然条件の被害を最小限にしようと肥料配合を考えました。このような積極行動主義と科学的な対処によって、彼は花巻地方の農業に、一定の貢献を果たしたと言えるでしょう。
 しかし、賢治がいくら頑張っても、あるいは仮にもっと多くの人の英知を結集したとしても、当時はまだ農業が天災の打撃を受けるのを食い止めることはできませんでした。豪雨の被害を受けた際の賢治の様子については、先に「〔もうはたらくな〕」で垣間見ましたが、その際の賢治は、無力感にさいなまれながらも、「火のついたやうにはげまして行け」と自らに命じていました。
 これに対して、晩年の「雨ニモマケズ」では、「ナミダヲナガシ」「オロオロアルキ」という静かな共苦の姿を描いたのです。

 そして、次の行に出てくる「ミンナニデクノボートヨバレ」という事態は、結局上に見たような行動が招いたものだったわけです。重病の人に「死ぬのは怖くない」と言い、喧嘩や訴訟を「つまらないから」と言って止めようとし、旱害や冷害の時には為すすべもなく「ナミダヲナガシ」「オロオロアルキ」・・・。
 このような行動および態度は、その「実効性」という点では無価値に見えるので、「ミンナ」からは「役立たずの人間」と思われてしまうというわけです。

 ということで、上の赤い点線よりも後の部分で描かれている行動は、いずれも一見すると「社会的に役に立っている」とは思えないような事柄なのです。
 前半部分では、「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ・・・」に典型的に表われているように、いわば「強い」人間像が描かれます。「東ニ・・・」「西ニ・・・」と東奔西走して人助けをする様子も、まるで修身の教科書のようで、この辺までのイメージのために「お説教臭くて押しつけがましい」と感じてしまい、この文章が嫌いになる人もけっこうあります。
 しかし、赤点線から後の部分に描かれているのは、何も目に見える形のことは為しえない、いわば「弱い」人間像なのです。しかしこの「弱さ」は、賢治に責任があるわけではありません。人が死ぬ運命や、社会から対立を根絶できないことや、旱害や冷害は、賢治であろうと誰であろうといくら頑張ってもどうしようもない、人間に普遍的な「弱さ」です。
 その無力さを自覚しつつ、しかし単なる諦めやニヒリズムとは異なった行動の可能性が、後半では描かれます。ここで提示されているのは、まるで役立たずの行為のように見えるにもかかわらず、本当は前半部よりもっと奥の深い事柄です。ちょうど「虔十公園林」という童話に出てくる虔十と同じように、その場では愚かなことと思われながら、実は尊い意味があるかもしれないことです。
 このように、「雨ニモマケズ」のテキストにおいては、前半と後半の描く人間像がいつの間にか変化しており、その変化が始まる場所も、「東西南北」という修辞的構成の途中なので、色合いが変わったことになかなか気がつきにくくなっています。このような賢治の叙述方法は、やはり巧みとしか言いようがないと思います。

 繰り返しになりますが、この「雨ニモマケズ」で描かれている行動や態度を、順に整理し直すと、次のようになります。上の引用テキストに青い文字で書いた区分をご参照下さい。
 最初の方では、まず心身の健康とともに、「ヨクミキキシワカリ、ソシテワスレズ」という経験や知識の重要性が挙げられています。賢治が農学や土壌学を高等教育機関で学び、さらに実地に広範囲の土性調査を行って経験を積んだことは、肥料設計の活動のために重要な基盤となりました。
 次に、「東ニ…」「西ニ…」「南ニ…」「北ニ…」とあらゆる方面に向かって、「行ッテ」「行ッテ」「行ッテ」という言葉を反復しつつ表現されているのは、先の言葉で云えば「積極行動主義」です。賢治は花巻周辺の農村を、文字どおり東西南北と巡っては肥料相談を行いました。「野の師父」という詩には、「二千の施肥の設計を終へ・・・」とありますが、このように非常に精力的に実践活動を行ったわけです。
 しかし、十分な知識と経験をもとに積極的な活動を行ったとしても、人間の力には限界があります。賢治もその巨大な壁にぶつかり、無力感にさいなまれることもありました。それは、彼がもともと抱いていた自然観・人間観、すなわち人間は自然の中に他の生き物と対等に包み込まれているちっぽけな存在にすぎないというとらえ方を、あらためて再確認させることだったとも言えるでしょう。
 ところで、命を懸けるほど頑張った挙げ句、その努力が無駄だとわかった時、人は「どうせ何をやっても無駄だ」というニヒリズムに陥りそうにもなるでしょう。先のことまで見透せてしまう力のある人ほど、そういう諦めを抱きやすいかもしれません。「〔もうはたらくな〕」にも、賢治のそんな一面がのぞいていました。
 それでも、賢治はニヒリズムには陥りませんでした。人間の力が及ばないことに直面した時に彼がとった行動、それは「共感」「共苦」ということでした。どんな状況でも、共に苦しみ、痛みを分かち合うことはできるのです。
 そしてワーグナーの楽劇のごとく、そのような真摯な関わりには、人を救済する力さえあるかもしれません。

「災害と賢治」-「雨ニモマケズ」の人間像


6.人間に変えられること/変えられないこと

 以上、「地震・津波」、「雪山遭難」、「豪雨災害」、「水難」、「旱害・冷害」という災害との関わりを切り口として、賢治の考えや行動を振り返ってみました。晩年の「〔雨ニモマケズ〕」の中に、災害を通して見た賢治の様々な側面が凝縮して織り込まれているのは、興味深いことです。

 これまでは、賢治のスタンスを災害の種類ごとに、あるいは「雨ニモマケズ」の構成に沿って通覧してみましたが、これを別の角度から言い換えると次のようになります。

 自然の一部である人間は、様々な形で自然に働きかけつつ生きていますが、人間の力によって「変えられること」と、いくら頑張っても「変えられないこと」があります。その境界線は、人によっても、時代によっても変化するものでしょうが、誰にとってもいつの時代も、どこかに厳然とその区切りが存在するのは事実です。

 人間の力は、ある時はちっぽけに見え、大いなる自然の前では、小ざかしい努力をしたって徒労に思えます。これを突き詰めるとニヒリズムになりますが、賢治はそのような態度はとりません。たとえ限界があるとしても、「できること」に関しては最大限の努力をしなければならないと考えました。彼が自然科学を学んでそれを実践に生かそうと努め、生徒や農家の青年たちに教え伝えようとしたのも、「変えられるものは変える」ということを実行するためでした。
 農学校を辞める少し前に生徒に語りかける形で書いた詩「告別」においては、

なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

と言って、刻苦勉励を説き聞かせています。

 しかし逆に、「努力さえすれば何でもできる」とか「成せば成る」といったような、根拠のない精神論も、賢治は採りませんでした。現実には無理なことまで「やればできる」と思い込むことは、おのれの力に対する過信であり、賢治はこれを「慢」と規定して、やはり自らに強く戒めました。ある時期以降の賢治は、自分の若い頃の考えに対して、自己批判的に何度も反省を示しています。

私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見てもらひたいと、愚かにも考へたのです。あの篇々がいゝも悪いもあったものでないのです。(森佐一あて書簡200)

 すなわち、自らの力の限界を知り、それを受容することの重要性も、彼は深く認識していました。そして、上記で様々な災害や人間の死に関して見たように、賢治は自らの力を越えた災厄に対しては、悩める人々のもとに飛び込み、「共に苦しむ」ということを実行するのです。

 このようなスタンスは、賢治が独自の実践や仏教から身につけてきたものと言えるでしょうが、くしくも同じような姿勢は、キリスト教にもあります。
 下記は、キリスト教の神学者ラインホルト・ニーバーが、1930年代か1940年代初頭に書いたとされる祈りです。

「ニーバーの祈り」

 これはキリスト教の立場で、神に「お与え下さい」と祈る形になっていますが、やはり賢治が思い巡らしたように、人間に「変えられるもの」と「変えられないもの」にどう対処すべきかという課題を扱っています。この祈りも、賢治の晩年とほぼ重なる時期に作られており、遠く洋の東西でちょうど同じ頃に現れているのが、興味深いところです。
 19世紀から20世紀にかけては、科学技術の急速な進歩によって、これまで人間には不可能だったことが、どんどん可能とされていきました。何が「変えられるもの」で、何が「変えられないもの」かという境界線が、短期間のうちに大きく変化する中で、これはちょうどこの時代から人類に突き付けられた、普遍的な問題だったということなのでしょう。


7.賢治ならどうしたか

 ということで、一通り作品や伝記的事実をもとにした検討を行ってみました。最後にこれをもとに、もしも賢治が現代の日本にいて、この災害に立ち会っていたらどんな行動をとっていたかという、冒頭の課題に戻ります。
 しかし私の結論は、賢治の生涯や作品を巡る長い行程の後、また最初にご紹介したようなツイッターからのご意見に帰るものです。

 賢治は豪雨の中でも、「一人づつぶっつかって、火のついたやうにはげまして行け」と自らに命じた、激しい行動主義の人でした。大災害が起こって多くの人が苦難に直面していると知ると、まず何をおいても現場に飛び込んでいっただろうと、私は思います。
 当時よりもボランティアが普及している現代でも、災害初期には一般のボランティアは闇雲に被災地に押しかけないようにということが言われたりしますが、いったんこうと決めた賢治は、そんなことに構うタイプではないでしょう。ツイッターで、「自ら原発や瓦礫の間に分け入ろうとしてレスキュー隊や自衛隊と揉めているか…」という推測を寄せていただいた方がありましたが、そんな姿も目に浮かんでしまいます。

 さらに被災地には、多くの人の死や、どうしようもない喪失体験も、数え切れないほどあります。賢治としても為すすべのない事象に直面した時には、彼も「ナミダヲナガシ」「オロオロアルキ」ということしかできないでしょう。
 しかし賢治は、苦しんでいる人への共感能力が人一倍高く、皆とともに「共苦する」人でした。もしも目の前で津波にさらわれる人があれば、「飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」とまでしかねないところのある人ですが、そこまではしなかったとしても、肉親や家や田畑や財産を失った人々の気持ちを、避難所において全身で受けとめようとしつづけたでしょう。

 被災初期には、賢治はそんなことをしていたのではないかと、私は想像します。

 ただ、こういったことは、宮沢賢治のことを知っている方々ならば、多かれ少なかれ考えるような事柄です。何もこんな大そうな考察などする必要もなかったのではないかと言われれば、そのとおりです。「災害」という切り口から覗いてみても、宮沢賢治はやはり宮沢賢治だった、という感じもします。
 しかし結論はともかく、3.11後という状況において、東北に生まれ育った宮沢賢治の生涯や作品をあらためて辿ってみることにより、彼が行動に至るまでのプロセスにおいて感じていたことや行っていたことの中に、少しでもご参考になることがあればと思い、本日のお話とさせていただきました。
 まとまらない内容でしたが、今回の災害について考えていただく一助にでもなれば、幸いです。

 本当は、あとさらに「原子力」というものについて、賢治的な観点から何かお話できればと思ったのですが、今日は時間もありませんので、今後の課題としたいと思います。

 ところで、災害後の初期段階が終わって復興が課題となる時期がこれからやってきますが、もしも賢治が生きていたら、本来はそこからが彼の真の出番になるのでしょう。
 津波によって海水に浸されてしまった田畑の土壌をどうやって回復させるか、作付けにはどういう品種を選択すべきか、どんな肥料配分を用いるべきかという問題は、彼のもともとの専門分野です。
 実は、津波による塩害対策として、土壌の塩分濃度が高い場合には、消石灰、炭酸カルシウムなどを100kg/10a程度散布して、代掻きした後に排水するという方法が、推奨されているということです(JA全農「津波による塩害対策と水田の土壌管理について」参照)。
 さらに、放射性セシウムで汚染された土壌への対策としても、とくに酸性土壌の場合には石灰の散布によって、作物へのセシウム移行を低減させる効果があることが確認されており(日本土壌肥料学会「原発事故関連情報(2):セシウム(Cs)の土壌でのふるまいと農作物への移行」)、チェルノブイリ事故後、旧ソ連の農地では広く実施されたということです(村主進「チェルノブイリ事故における環境対応策とその修復」)。

 晩年の賢治が、その改良と普及に文字どおり命を懸けた石灰肥料が、今度また東北地方の太平洋岸、とくに福島県において土壌の回復に役立つとすれば、またここにも、このたびの災害と賢治との浅からぬ因縁を感じてしまうではありませんか。

本記事は、「第1回イーハトーブ・プロジェクトin京都」においてお話した内容に加筆したものです。

花巻第二日

 まだ昨夜のお酒が残っている頭でしたが、7時前に起きて朝食をとると、ホテルまでまたMさんとFさんが迎えに来て下さいました。

 今日は、賢治の命日です。ということで、まず身照寺にあるお墓に献花をしてお参りをしました。私もこれまで何度か、賢治さんのお墓にはお参りをさせていただきましたが、献花までできたのは今回が初めてで、これもMさんのご配慮のおかげです。

賢治の供養塔と宮澤家代々のお墓

お参り

 お参りをすませると、里川口のローソンでお昼用の食糧を買って、イギリス海岸へ向かいました。皆さまもご存じのように、昨年から賢治忌に合わせて国や県が管轄する上流のダムが放流を制限し、賢治の時代のようにこの場所の泥岩層ができるだけ姿を現すようにしてくれているのです。Fさんによれば、この企画を実現するために長年努力をしてこられた花巻市の職員の方がいらっしゃるとのことで、有り難いかぎりです。

 で、今朝のイギリス海岸がどうだったかというと、下のような様子でした。(午前9時時点)

イギリス海岸

 これでも、昔の姿に較べたらまだまだなのでしょうが、「修羅のなぎさ」というイメージはちょっと実感できます。少なくとも、私がこれまで見られた限りでは、いちばん立派な姿でした。それにしても、いつもは静かなイギリス海岸に、たくさんの自家用車が並び、ずらりと見物の人が列をなしている眺めも、これはこれで壮観でした。

 瀬川の北側から南側までゆっくりと見学を終えると、ここで盛岡からバスで来られた「宮澤賢治センター」の一行と合流して、乗客の一人となりました。今回参加させていただくのは、「経埋ムベキ山」実地研究〔種山ヶ原〕という企画で、Mさんに教えていただいて締め切りぎりぎりになって申し込みをさせていただきました。
 バスは「さいかち淵」の碑の横などを通って、東北自動車道に入り、11時頃に種山ヶ原に着きました。今回のツアーは15名ほどで、バスの中では盛岡大学の望月先生のお話などを聴きながら種山ヶ原と賢治に関する知識を深め、現地に着いてからは住田町「森の案内人」の佐々木義郎さんという方から、道々の草花や木の一つ一つについて説明を受けながら歩くというものです。この高原の自然と賢治とのつながりを、まさに全身で体感するという企画でした。

 下は種山の頂上近くにある残丘(モナドノックス)。佐々木さんは、賢治がここで夜露をしのぎながら野宿をしたのではないかという推測から、ここを「賢治ホテル」とひそかに呼んでおられるのだそうです。

 「賢治ホテル」!

 種山の頂上で、佐々木さんは「どっどど どどうど」の歌を披露して下さいました。

種山頂上

 緑の道を下る。

緑の道を歩く

 数時間にわたって種山ヶ原を満喫した後、午後2時半にまたバスに乗り、花巻の賢治詩碑近くで降ろしていただきました。

 詩碑前広場では、もう「賢治祭・第一部」が盛り上がっています。

花巻小学校2年生による「雨ニモマケズ」群読

 上は、花巻小学校2年生による「雨ニモマケズ」群読ですが、千原英喜氏作曲の合唱曲「雨ニモマケズ」の一部もたくみに取り入れてあって、素晴らしいものでした。
 それから、やはり今年は大型連休のためでしょう、すでに広場はぎっしりの人で、私はこの場所からブログの更新をしてみようかなどと呑気なことを考えたりしていたのですが、この状況ではそんな傍迷惑ことはあきらめました。それで、今になって更新しているわけです。

  次は、花巻南高校演劇部による劇「猫の事務所」。猫耳を付けた女子高生もさることながら、現代の彼女たちの世代の言葉に翻案した「いじめ」の様子は、真に迫るものがありました。

花巻南高校演劇部「猫の事務所」

 第一部の最後は、はるばる和歌山県から来られた「橋本市音たまご合唱隊」による、シューベルト歌曲のメロディーに賢治の言葉をのせた合唱、「銀河鉄道の夜」ほか。

橋本市音たまご合唱隊「銀河鉄道の夜」他

 この後、参加者による恒例の「献花」が始まりましたが、今年はBGMとして「椿弦楽四重奏団」による賢治歌曲の生演奏が付いているというムーディな演出。

献花と弦楽四重奏

 で、「第二部」は午後5時から始まりましたが、最初はまず弦楽四重奏の伴奏で、参加者みんなで「ポラーノの広場のうた」を歌いました。

「ポラーノの広場のうた」全員合唱

 「雨ニモマケズ」朗読。部分的にエスペラント訳も混ぜるという趣向。

「雨ニモマケズ」朗読

 賢治祭実行委員会会長・宮澤啓祐さんによる挨拶など。「イギリス海岸」の企画は、さらに来年に期待するとのことでした。

宮澤啓祐氏

 その次に、これまでなら冒頭を飾る、「南城小学校4年生による合唱」がありました。いつも元気にあふれている子どもたち。

南城小学校4年生による合唱「星めぐりの歌」他

 次は、おなじみの「花巻農業高校鹿踊り部」。彼らの舞いも、いつ見ても勇壮で立派です。

花巻農業高校鹿踊り部

 この後、「賢治さんに捧げるスピーチ」をはさんで、「桜町ママさんコーラス」の合唱、さらに「花巻南高校合唱部」による「剣舞の歌」。

花巻南高校合唱部「剣舞の歌「

 まだ続きます。「私にとっての賢治さん」と題して、3人の方々のお話。ここでは広場全体が爆笑の渦に包まれるお話もありました。司会者の方も、「賢治祭でこんなに笑ったのは初めて」とのこと。

「私にとっての賢治さん」

 さらに、詩「過労呪禁」の朗読。

照井良平氏「過労呪禁」朗読

 そして、この難しい作品に関する、賢治学会代表理事・杉浦静さんによる解説。

杉浦静氏による解説

 で、「第二部」の最後は、恒例の「精神歌」の全員合唱です。

「精神歌」全員合唱

 この後、車座になって「第三部」の座談会。今年はこの段階でも、全国各地から来られた何十人もの方が残って、いろいろなお話をされました。司会者の方の表現によれば、「昔、羅須地人協会の集会室のあったあたりで、全国版の羅須地人協会の集会を開いた」という、まさにそういう感じでした。

第三部「座談会」 

2008賢治祭など

 昨夜も「万両」でおでんを食べたのですが、今朝は6時台に家を出て、8時40分伊丹空港発の飛行機に乗りました。
 花巻空港着が10時05分、この時点でも雨は降り続いていて、「賢治祭」は屋内開催になるのだろうかと気を揉みながら、タクシーに乗りました。

 最近のニュースでは、北上川の上流のダムが賢治祭に合わせて放水制限をしていて、何とか「イギリス海岸」の泥岩層が露出するようにと協力してくれているということだったので(たとえばこちらの記事)、運転手さんに頼んでイギリス海岸に寄ってみましたが、今朝の雨の影響もあってか、泥岩層はぎりぎりのところで水面に顔を出してはくれず、流れの下でさざ波を立てていました。

イギリス海岸

 イギリス海岸を後にしてから、まずホテルで荷物を置いて、胡四王山の「山猫軒」で昼食をとりました。
 このお店は2年ぶりくらいですが、メニューが少し変わっているのですね。私は「ホロホロ鳥のチキンカツ定食」というのを食べましたが、以前はなかった料理なのではないでしょうか。ホロホロ鳥はあっさりしていますが、しそ・チーズ巻きのカツにすることで、美味しくアクセントがついていました。

 このあと、「イーハトーブ館」に行って、現在展示中の「高村光太郎展」を見ました。賢治と光太郎の出会いについては以前にも少し興味を抱いたことはありましたが、田中智学への傾倒や、長沼智恵子や野村胡堂を介した縁など、不思議なつながりもあったことを知り、新鮮な感動を持って見ました。

 このあと午後1時からは、イーハトーブ館で行われた「賢治の里で賢治を読む」という催しがありました。以下、その写真です。

賢治の里で賢治をうたう会

花巻弁で読む賢治の会

どっこ舎朗読会

賢治を読む花巻の会

五十嵐正子

劇団ろばのしゃっぽ

 午前中の雨にもかかわらず、賢治祭は何とか雨の上がった詩碑前広場で行われました。

賢治祭2008

南城小学校

花巻北高校合唱団

岩崎鬼剣舞

花巻南高校演劇部

ロジャー・パルヴァースさん

 今年は、花巻北高校合唱団の清楚な歌声、勇壮な岩崎鬼剣舞、花巻南高校演劇部の「ピアニカ弾きの(!)ゴーシュ」のシュールなユーモアなどが、印象的でした。パルヴァースさんのお話は、いつ聴いても面白いですね。