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賢治の27歳

 こんど5月20日(日)には、わが盟友の竹崎利信さんが「きいて・みて宮沢賢治 第九回」で「グスコーブドリの伝記」をかたられますし、7月7日からは、ますむらひろしさんのキャラクター原案による映画「グスコーブドリの伝記」が公開されるとあって、なんとなく身辺が急にブドリづいた感じになっている今日この頃です。
 「ありうべかりし賢治の自伝」(中村稔)とも言われるこの作品ですが、映画のコピーになっている「僕の名はブドリ。未来を照らす光になる。」というのは、ちょっと格好良すぎるのではないでしょうか。賢治が理想としたのは、「ホメラレモセズ/クニモサレズ」という形の生き方だったのですから・・・。

映画「グスコーブドリの伝記」
映画「グスコーブドリの伝記」ティザーポスター

 ところでこのお話の最後、ブドリが自らの死と引きかえに火山を爆発させ、イーハトーブを冷害から救うという結末に関しては、これまでもさまざまな議論がありました。人工的に噴火を起こすほどの技術がありながら、なぜ遠隔操作ができないのかというところは不思議ですし、賢治自身がそうであったのと同様に、ブドリの行動からは何か死に急いでいるような印象を受けてしまいます。
 また、近年<宮沢賢治>という存在は、「自然との共生」とか「エコロジー」のシンボルのように奉られてきたのに、「科学技術によって人間に都合のよいように自然を改変する」というこの物語の壮大な企図は、そういう思想とは相容れないはずのものです。

 このあたりのことに関して、高木仁三郎氏は次のように述べています。

 私はあまり宗教的な観点というものがわからない人間ですので、そういう面から言うのではありませんが、この作品のこの結末は決して悲劇的ではないと思うんです。それは自己犠牲という文脈とも、またちょっと違うんではないかと思います。
 私が言っているのは、エコロジーという観点からものを見た場合の話です。実際にこの作品の一番最後のところは、

 そしてちやうど、このお話のはじまりのやうになる筈の、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪で楽しく暮すことができたのでした。

 といって、終わっている。これは単にメデタシ、メデタシではなくて、むしろ、ブドリの試みというのが、また新しいブドリやネリに伝わって行くという、エコロジーの言葉でいえば、一種の循環ということを示しているのです。一つの死が次の生につながって行くという、仏教的にいえば輪廻ということになるのでしょうか。
 ここは、仏教的な輪廻ということではなく、エコロジーの循環という文脈の中で読みたいのです。しかし、両者は同じところに行きつくかもしれません。先ほどの言葉でいうと放射性廃棄物というのは一つの一方的な死でしかありません。原子炉の核燃料が死んだ成れの果てです。これは新しい生へは繋がりません。そうではなくて、一つの死が新しい生に連がるような在り方、これが共に生きるということです。共に生きるというのは、いまの世代同士が共に生きると同時に、これから生まれて来る世代と共に生きるということでもあります。さらに死者と共に生きるということも含んでいなければならないのです。(高木仁三郎『宮澤賢治をめぐる冒険』)

 これは、チェルノブイリ原発事故の翌年の1987年に、宮沢賢治記念館で行われた講演をもとにした文章です。
 高木仁三郎氏が大腸癌で亡くなったのが、ある時期までずっと放射性物質を扱う研究を行っておられたことと関係があるのかどうか誰にもわかりませんが、その後に志を継ぐ人は、数多く出てきています。また、晩年に創設した「高木学校」については、「命を次の世代につなげてゆく」場と述べておられます(「市民科学者として生きる」)。
 ただ、ブドリの死をそのような命の「循環」として前向きに肯定するところについては、まだ私は自分の気持ちを整理できずにいます。

◇          ◇

 さて、ブドリがそのようにして死んだのは、27歳の時だったということが、作中には明記されています。

 そしてちやうどブドリが二十七の年でした。どうもあの恐ろしい寒い気候がまた来るやうな模様でした。

 それにしても、この「ちやうどブドリが二十七」とは、いったいどういうことでしょうか。これが「ちょうど二十」とか「ちょうど三十」だったら、話はわかります。しかし「二十七」というのは、一般的には「ちやうど」と呼ぶような切りのいい数字ではありません。

 これは、何かこの「二十七」という年齢に意味があるのではないかと思って、賢治の年譜を調べてみました。
 1896年生まれの賢治が、数え年で二十七歳になったのは、1922年(大正11年)のことです。賢治の人生でこの年に何があったかというと、11月27日に妹のトシが亡くなったのです。

 ブドリにもネリという仲のよい妹がいましたが、飢饉で離ればなれになった後、また再会しています。ネリは牧場主の息子と結婚して、可愛らしい男の子も生まれ、幸せに暮らしていました。

 冬に仕事がひまになると、ネリはその子にすつかりこどもの百姓のやうなかたちをさせて、主人といつしよに、ブドリの家に訪ねて来て、泊つて行つたりするのでした。

 そしてそのようなある日に、ブドリは火山を爆発させに行って、死んでしまうのです。

 つまり、賢治の実人生では、27歳の時に妹が死んで兄が残りましたが、この「ありうべかりし賢治の自伝」においては、兄が死んで妹が残るという、もう一つのパターンが描かれたのです。
 ネリは、この結末をどう受けとめたでしょうか。

◇          ◇

 というようなことをふと思ったので今回の記事を書いたのですが、すでにずっと以前に、同じことを書いている人があったことに、ついさっき気づきました。
 たなか・たつひこ氏は、昭和34年発行の『四次元』という雑誌に掲載された「二十七歳考―グスコーブドリの死と賢治」という論文において、「賢治は妹トシの死に際して無力だった自己を悔恨し、もしもう一度生き直せるならトシの幸せのために命を捨ててもかまわないと考え、妹を含めたぜんたいの人々の幸福のために死ぬブドリを描いた」と指摘しておられたのです。「二十七」という年齢の意味については、私も同感です。

 「グスコーブドリの伝記」に関して大塚常樹氏は、「賢治とトシの離別をこのテクストに深読みすべきではないだろう」(學燈社『宮沢賢治の全童話を読む』)と述べておられ、もちろん作品の主要なテーマは、初めの方に触れたような科学技術のあり方や捨身という行為にあるのでしょうが、やはり妹の影も無視することはできないのではないかと、私としては思う次第です。

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 『未だ見ぬ親』において五来素川氏が行ったように、外国を舞台とした物語を日本の人名・地名に置き換え翻案することの目的は、読者として想定される子供たちが、自分の生きている世界と作品世界を重ね合わせて、よりスムーズに主人公に感情移入できるようにすることにあると言えるでしょう。
 ここでかりにこのことを、作品の「同世界化」と呼んでおくことにします。

 これに対して、宮澤賢治の童話においてことさら目立つのは、「岩手」をわざわざ「イーハトーブ」と呼んだり、登場人物も「レオーノキュースト」や「ファゼーロ」であったり、はては「ペンネンネンネンネン・ネネム」などという奇天烈なものであったり、程度の差はあれとにかく作品世界を、現実の世界とはどこか「異質」なものとして構築しようとする、作者の意志です。
 前者に対比してこのことを、作品の「異世界化」と呼んでおくことにします。

 もちろん賢治の作品にも、「一郎」や「嘉助」や「三郎」が、典型的な東北地方の山村において日々をともにするというような、一見「同世界」を描いたものも数多くあります。しかしそれらも実はどこかに、妖しい「異界」を内包しているのです。最初は何の変哲もない現実世界であるかのように読者に思わせておくことで、異界が突然顔をのぞかせた時の効果を、高めようとしているのかと思われるほどです。

 このような「同世界化」と「異世界化」という機制は、いわば逆の方向を向いたベクトルですが、それぞれに固有の意味はあって、作家が意識するにせよしないにせよ、種々の作品において種々の形で作用していると考えてみることができます。

 前述のように、賢治の作品にはどちらかというと「異世界化」の方向性が目立つように思われて、同時代の中でもその傾向は顕著だったのではないかと、私はばくぜんと感じるのですが、文学史的にはどんなものでしょうか。
 小川未明や坪田譲治や新美南吉などの童話と比べてもそのように感じられますし、また鈴木三重吉が菊池武雄から賢治の童話原稿を見せられた時、「こんな童話はロシアへでも持っていくんだなあ」と言ったという逸話も、この意味で示唆的に思われます。


 さて、ここまでは一種の前置きで、ここからが今回書こうと思ったことなのですが、「銀河鉄道の夜」において途中から乗車してくる、女の子とその弟、家庭教師、という登場人物についての一つの感想です。

ますむらひろし版「銀河鉄道の夜」 「銀河鉄道の夜」という作品も、上に述べたような意味において、「異世界化」が顕著なものの一つです。「ジョバンニ」「カムパネルラ」「ザネリ」のように、主要な登場人物はイタリア名ですし、ジョバンニの家には「紫いろのケールやアスパラガス」が植えてあったり、姉が「トマトで何かこしらえ」たり、町のお祭りの名は「ケンタウル祭」だったり、賢治はすみずみまで周到に西洋的な雰囲気を張りめぐらせています。
 ますむらひろしさんが、この作品の登場人物を猫に置き換えて成功したのも、すでにこのように原作に強く働いていた「異世界化」という方向性があり、それに適確に沿うものだったからだと言えるでしょう。すなわち、「猫世界化」というのも、「異世界化」の一種だったわけですね(笑)。しかしこれが、同時代の他の作家の童話だったら、かくも絶妙の効果を上げることはなかったでしょう。

 で、ここで不思議なのは、このような物語の「異世界」の只中に、船とともに沈没して死んだ人として現れる3人のうち2人が、「かほる」「タダシ」という日本人名だったということです。さらに彼らの会話からは、2人の姉の名も「きくよねえさん」であることが示されます。
 私は以前から、ここで日本人が登場してくることに、奇妙な違和感を覚えていました。彼らは明らかにタイタニック号を連想させる船に乗っていたわけですし、小さな男の子は寝る前に夜空を見て「ツヰンクル、ツヰンクル、リトル、スター」を歌っていたといいます。またみんな敬虔なクリスチャンのようですし、とにかく名前以外はすべて「西洋的」なのです。こういう設定の人物を出すならば、西洋人の名前であった方が、ずっと自然なのではないでしょうか。
 逆にもしもこれが、「日本人らしい日本人」を登場させたのであれば、それはそれで理解できます。その場合には、作品の大枠が「異世界」である中、ここに一部分だけ日本人読者にとっての「同世界」を作ろうとしたのだと解釈することも可能になります。しかし、人物の属性が上記のように西洋的なものである以上、作者がこのような「局所的同世界化」を試みたと見ることもできません。
 では、ここで賢治が彼らを日本名にしたことには、いったいどのような意図があったのでしょうか。

 などということが心の底にあったところ、私が先日、五来素川訳『未だ見ぬ親』を読んでいてあらためて感じたのは、このような人物の「名前」と「設定」の間のズレによる違和感というのは、やや強引な「日本的翻案」による「同世界化」を施した当時の翻訳物には、すべてに付きまとっていたのだ、ということです。
 『未だ見ぬ親』では、「関谷新田のお文どん」が、「山羊の乳で作ったバタ」を使って「ソップ」を調理していましたし、「巴里の在所大野村の植木屋、青木作兵衛」は、温室の中できれいな花を栽培していました。ここには、なじみ深いはずのものと、異国的なものが混じり合ったような、奇妙な感覚が伴っています。それをどのように言い表したらよいか迷うのですが、たとえばやや大げさかもしれませんが、この宇宙とよく似ているが、少しだけズレているような「別の宇宙」に連れてこられたような感覚、とでも言いましょうか。

 日本的翻案を苦労して行った五来素川などの訳者たちは、もちろん意図的にこのような違和感を調合し加えたのではありません。なんとかして、異国的な雰囲気をできるだけ減らそうと努力し、それでも残ってしまう部分と、日本的な部分との間の偶然の相互作用から、このような感覚が生まれたのです。
 これに対して、賢治は銀河鉄道の乗客の一部を日本人名にすることで、自分が子供の頃に触れた翻案もの物語が持っていた独特の雰囲気へのオマージュとして、意図的にこのような「ズレ」の感じを作りだしたのではないかと、私は今回思ったのです。

 日本人名を使いつつも、「同世界化」という方向性とは逆に、「異界」の中に、さらに入れ子状にもう一つの「異界」を構築した、とでも言いましょうか。あるいは、「異界」から「こちら側」に出てきたと思ったら、やはり「別の異界」にいた、という「クラインの壺」のような空間を作った、と言いましょうか・・・。

 上に述べた「日本名であることの疑問」への、とりあえずの答えとして、そのようなことを考えてみたのです。

 石本裕之さんの著書『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』は、導入部の<賢治カクテル>につづいて、1990年に発表された「賢治と「札幌市」」という文章が巻頭を飾っています。
 これは、『春と修羅』の「オホーツク挽歌」とともに、石本さんおっしゃるところの<北の詩群>を構成するもう一つの作品として、「春と修羅 第三集」の「札幌市」を取り上げ、その作品誕生の背景を探っていくという論考です。

 まず、作品の舞台である「開拓紀念の楡の広場」というのがどこなのか、ということが問題にされます。候補地となるような札幌市内のいくつかの広場や公園が検討されますが、結局、「中島公園」や「偕楽園」とともに、先日の「札幌セミナー」の時に案内していただいた「開拓紀念碑」のある大通西6丁目が、有力な候補地として指摘されています。
 すでに15年も前から、石本さんはこのスポットに着目しておられたわけですね。

 次に、「いつ」という問題です。この「札幌市」という作品は1927年3月28日の日付を持っていますが、この頃の賢治はずっと花巻にいて農作業に明け暮れていましたから、これはその日付当日にあった出来事の描写とは考えられません。
 そこで、ここに描かれた体験が、はたして「いつ」のことだったのかという問いが生まれてくるわけです。
 これに関して石本さんは、三つの可能性を挙げられます。すなわち、(1)「オホーツク挽歌」往路途中の1923年8月1日水曜日の午後、(2)翌年の修学旅行引率中の1924年5月20日火曜日午後、(3)その翌日1924年5月21日水曜日の午前、です。そして、それぞれのスケジュールからして「広場」を訪れる時間的余裕があったのか、当日の気象条件からして「遠くなだれる灰光」と描写された空模様がありえたか、ということが考察されます。

 結果的には、スケジュール的にも天候的にも、(1)が最も有力視されますが、じつはこれに対しては、本書の「あとがき」において、石本さんは「ことわり書き」を付けておられます。
 すなわち、石本さんがこの文章を書かれた1990年よりも後、やはり今回の札幌セミナーで講師をされた ますむらひろし さんが、「時刻表に耳を当てて『青森挽歌』の響きを聞く」という論考を発表し(1995)、これを一つの契機として、当時まで考えられていた「オホーツク挽歌」の旅の時刻表に、大きな変更が加えられることとなりました。
 そして、現在では「【新】校本全集」の年譜でも、8月1日の札幌は、深夜の駅に10分間停車するだけのスケジュールとなってしまい、広場における昼間を体験することは、不可能になってしまったのです。

 石本さんは、その問題に触れた「ことわり書き」につづけて、次のように書いておられます。

すると、賢治が「開拓紀念の楡の広場」を訪れたのはどの日か。新たな謎に、今これを読んでくださっている皆さんも、ぜひ想像をふくらませてみてください。「きれいにすきとほった風」が吹いてきますように。

 そこで、私も及ばずながら「想像をふくらませて」みたいところですが、すると上記で残った(2)(3)に加えて、「オホーツク挽歌」行の復路の、1923年8月9日・10日という日も、可能性としては否定できませんね。

(この項つづく)

「札幌セミナー」案内到着

 イーハトーブセンターから、来月の札幌セミナーの案内が送られてきました。

ますむら・ひろし画:賢治像  「青い神話」の行方に

7月16日(土) 於: 北海道文学館
  講演: ますむら ひろし 氏 (漫画家)

  対談: 押野 武志 氏 (北海道大学助教授)
        中地 文 氏 (宮城教育大学助教授)

  賢治詩朗読の夕べ:
       北海道内の詩人5人による朗読

7月17日(日) 於: 札幌市内
  賢治「修学旅行復命書」を歩く
       ガイド/ 石本 裕之 斉藤 征義

札幌セミナーのポスター

 昨日の記事への つめくさ さんのコメントに導かれて、ますむら・ひろしさんのサイト「ごろなお通信」を見ると、来月の賢治学会・ 札幌セミナーのポスターが貼られていました。表紙から、「近況伝言林」を開いたところです。
 ますむらさんによる猫体の賢治の絵が出迎えてくれ、そしてセミナーのサブタイトル「『青い神話』の行方に」が、旅情を誘います。 「札幌市」( 『春と修羅第三集』)の一節ですね。

 来月、札幌に行ってみようかと思っています。