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 11月29日(日)に行う、「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都―宮沢賢治の「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」まで、あと3週間となりました。

 今回のプログラムは、竹崎利信さんによる賢治作品の「かたり」の合間に、私が「解説」をはさむという形になっていますので、竹崎さんと私とで合同の「稽古」を、竹崎さんのご自宅のある宝塚市で、これまで3回行いました。だんだんとイメージが具体的な姿をとってで現れてくるにしたがって、私たちとしてもますます当日が楽しみになっているところです。

 第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都―宮沢賢治の「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」

 全体のプログラムは、チラシにある当初の予定から少しだけ変わって、下記のようになりました。

1.死ぬことの向ふ側まで一諸について・・・
   ひかりの素足(部分)
   イギリス海岸(部分)

2.臨終の日
   永訣の朝
   松の針
   無声慟哭

  (休憩)

3.探索行動・深層意識の言語化
   風林
   青森挽歌
   宗谷挽歌

4.現実との相克から内心の葛藤へ
   手紙 四
   宗教風の恋

5.「死者とともにある」
   この森を通りぬければ
   薤露青
   銀河鉄道の夜
(部分)

 竹崎利信さんによる美しい「かたり」によって作品を鑑賞しつつ、トシの闘病中、臨終の床、死後、と順を追って、賢治の「心の軌跡」をたどるという企画です。
 日時は、11月29日(日)午後2時から、場所は、京都市上京区の京都府庁敷地内にある、「府庁旧本館正庁」で行います。
 会場として使用させていただく「京都府庁旧本館正庁」は、明治時代に建てれた国の重要文化財で、これをご覧いただくだけでも、かなりの価値はあると思います。

 今のところまだ席に余裕はありますが、「当日券」は設けていません。私あてにメールをしていただければ、予約をお取りいたしますので、行ってみようかと思われる方は、メールをいただければ幸いです。


 さて下の絵は、当日の配付資料の最後のページに載せる予定のものです。今回のプログラム最初の「ひかりの素足」と、最後の「銀河鉄道の夜」とは、ちょうど相似形の構造になっているのですが、催し全体のテーマも、やはり同型だということを表しています。

「ひかりの素足」、「銀河鉄道の夜」、宮沢賢治のグリーフ・ワーク

 4年前に「なぜ往き、なぜ還って来たのか(1)」として、そして昨年に「なぜ往き、なぜ還って来たのか(2)」として、双子のような構造を持った作品、すなわち「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」について、その時々に思ったことを書きました。
 (2)においては、「銀河鉄道の夜」に表れている死者への思いには、賢治が傾倒していた日蓮の死者観よりも、法然や親鸞の浄土教との共通点が認められるのではないかということを述べましたが、今回もまた、浄土信仰と関連したお話です。

 ご存じのように、賢治の生家は浄土真宗の篤信家で、彼は物心ついた時から親鸞の教えに囲まれて育ち、3歳頃には「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦していたという逸話もあります。16歳で父にあてた手紙には、「小生はすでに道を得侯。歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し侯」と書き送りました。
 そのように、いったんは浄土真宗に深く帰依していた賢治でしたが、18歳の頃に法華経と運命的な出会いを遂げるとその信仰心は大きく転換し、今度は法華経および日蓮の熱烈な信者となりました。
 このような経過から、青年期以降に書かれた賢治の作品は、基本的には法華経の思想や世界観に基づいているのですが、その一方で、幼少期から血となり肉となっていたであろう浄土真宗との関連性が認められたとしても、別に不思議なことではないはずです。

 ということで、ここでまず親鸞の『教行信証』を開いてみると、その本文は次の文章で始まります。

 謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。一には往相(おうそう)、二には還相(げんそう)なり。

【現代語訳】 つつしんで浄土の真実の心(浄土真宗)を考えてみるに、それには如来の与えられる二種の恵み(回向)がある。一つには、浄土に生まれるすがた(往相)であり、二つには、ふたたびこの世に帰ってくるすがた(還相)である。(石田瑞麿『教行信証入門』講談社現代文庫)

 私のような素人にとっては、浄土信仰というと、「死んだら極楽浄土に往生できることを、ひたすら願う」というイメージがありますが、この「極楽往生」は上の言葉でいえば「往相」にあたります。そして実は浄土の教えには、これに加えてもう一つ大事な、「還相」という段階があるわけです。
 この「還相」というのは、「往相」によっていったん浄土に生まれた後、そこにそのまま留まらず、浄土を離れて再びこの現世に戻り、現世の全ての迷える衆生を教え導いて、一緒に仏のさとりに向かわせる、という働きのことです。
 一般に知られた「往相」とともに、この「還相」を合わせた「二種の回向」こそが親鸞にとっては何より重要であり、そのためこれを「浄土の教えの真髄」として、自らの主著の冒頭にも掲げたわけです。

 「往相」の浄土往生については、各種の浄土経典に様々な形で説明されていますが、「還相」の方は、『無量寿経』における「阿弥陀の四十八願」の中の、「第二十二願」で述べられています。
 ちなみにこの「四十八願」というのは、後に阿弥陀如来になる法蔵菩薩が、「もしAという条件が満たされなければ、私は決して成仏しない」「もしBという条件が満たされなければ、私は決して成仏しない」「もしCという条件が・・・」というような形で、「48の条件が全て達成されなければ私は成仏しない」ということを誓い願ったものです。そして、現実に法蔵菩薩は阿弥陀如来として仏に成った(とされている)わけですから、A、B、C・・・という48の誓願は、全て既に成就されているのだ、という理屈になるわけですね。
 そのような中で、「還相」が規定されている「第二十二願」というのは、次のようなものです。

 たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。

【現代語訳】 わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。ただし、願に応じて、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏がたの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させることもできます。すなわち、通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、諸地の徳をすべてそなえ、限りない慈悲行を実践することができるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。(本願寺出版社『浄土三部経』より)

 上の現代語訳の中で、3行目の「ただし、・・・」より後が、「還相」について述べているところです。
 法蔵菩薩はこの誓願の冒頭で、浄土に生まれ来る全ての者を「一生補処」の位(=次の生で必ず仏に成ることが約束された菩薩の最上位)にしようと誓うのですが、ただし例外的に、その位に甘んじることなくさらに各々の国に帰って修行し、そこで数多くの人々を導いて悟りを得させようとする者については、その限りではない、というわけですね。

 ということで、「現世」から見たこの「第二十二願」の内容を単純化すれば、下のようになるでしょう。

往相と還相

 現世から浄土に往生した者のうち、「願に応じて」再び現世に戻った者は、この世でさらに修行をしつつ、人々を救うのです。

 そしてこの往還は、宮澤賢治の作品「ひかりの素足」や「銀河鉄道の夜」と、同型の構造を持っています。
 まず下図は、「ひかりの素足」。

「ひかりの素足」の構造

 吹雪で遭難した一郎と楢夫の兄弟は「うすあかりの国」に至り、そこで「白くひかる大きなすあし」の人と出会います。楢夫はそのまま死の世界にとどまりましたが、一郎は「ひかりの素足の人」から、「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ」と言われ、「今の心持ちを決して離れるな。お前の国にはこゝから沢山の人たちが行ってゐる。よく探してほんたうの道を習へ」と教えられます。

 一方、「銀河鉄道の夜」の場合は、下図のようになっています。

「銀河鉄道の夜」の構造

 ジョバンニとカムパネルラは一緒に銀河鉄道に乗りましたが、カムパネルラは死んで、ジョバンニだけが帰ってきます。
 最終の「第四次稿」においては、これはジョバンニが一人で見た夢だったことになっていて、作者がそこに込めた「意味」は明かされませんが、「第三次稿」までは、これはブルカニロ博士による「実験」の間に起こった体験とされていました。実験による夢の中でジョバンニは、「さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ」と決心し、さらに博士に、「お前は夢の中で決心したとほりまっすぐ進んで行くがいゝ」と励まされます。

 さて、「ひかりの素足」の一郎や「銀河鉄道の夜」のジョバンニが、『無量寿経』における「還相の菩薩」と共通している一つの点は、いずれも「現世」に戻ってから、さらなる修行や人々の救済などの活動を期待されているところです。一郎は「ひかりの素足の人」から、ジョバンニはブルカニロ博士から、その期待を託されました。これらの期待された活動こそが、それぞれの帰還への意味づけだったとも言えます。

 さらにもう一つ、これらの物語に共通する点として、「帰還させた力の超越性」ということがあります。
 『無量寿経』において、「還相の菩薩」がその道を選ぶのは、「願に応じて…」と現代語訳にありますから、一見するとその行動は各自の主体的な判断に依っているかのように思えますが、これは実はそうではありません。この「願」とは、法蔵菩薩=阿弥陀如来の誓願のことであり、還相に入ること自体も、阿弥陀の力のおかげであるというのが、中国の曇鸞以降の浄土教の解釈です。親鸞がことさら、「還相の《回向》」ということを強調する所以もそこにあって、それは、阿弥陀の功徳が《回し向けられたもの》なのです。
 一方、「ひかりの素足」の一郎が現世に帰ってこられたのも、全く以て「ひかりの素足の人」のおかげでした。一郎は、健気に弟を守ろうとはしましたが、現世に帰ろうと努力をしたわけでは全くなく、それは一郎にとっては、自らを超越した力がなせるわざでした。
 さらに、「銀河鉄道の夜」初期形で、ジョバンニが異界からこの世に帰還するという体験をしたのも、ブルカニロ博士が行った心霊的な実験のためでした。それは、ジョバンニの意識が与り知らないうちに行われたことだったのです。

 このように、賢治の二つの重要な作品の骨格には、浄土真宗の教義の本質的な部分との共通点が、認めらます。その同型性は、「異界へ往き、還る」という物語の大枠にとどまらず、帰還に込められた「意味」や、往還を駆動する「力動」にまで及んでいるところを見ると、これはもはや単なる偶然の産物とは思えません。
 図らずもここに示されているのは、賢治の心の奥底に刻まれていた浄土真宗的な想念の、無意識のうちの発露なのではないでしょうか。青年期以降の賢治は、法華経を熱烈に信じながらも、その内心には実はこういった複雑な宗教的重層性が存在したのだろうと、私には思えるのです。

オホーツク行という「実験」

 賢治が1923年(大正12年)夏にサハリンに旅した目的は、表向きは農学校の教え子の就職斡旋のためということでしたが、この間に書かれた「青森挽歌」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」など長大な挽歌群を見ると、この旅が妹の死と深く関連したものであったことは、明らかです。
 その「関連」の中身について、『新校本全集』年譜篇は(堀尾青史氏による『旧校本全集』の年譜を引き継ぎ)、この旅の意味を「亡くなった妹トシとの交信を求める傷心旅行」と表現し、鈴木健司氏は「《亡妹とし子との通信》という隠された目的のあったことも確かなことだ」(『宮沢賢治 幻想空間の構造』p.175)と記しておられます。

 私もこれらの説のとおり、この旅における賢治がトシとの通信あるいは交信を切望し、妹が今どこでどうしているのか、何としても知りたいと願う気持ちがあったのは確かだろうと思います。しかし、私が思うところはそれにとどまらず、賢治がここで本当に求めていたのは、トシとの通信だけではなく、「トシの後を追って自分も妹と一緒に行く」ということだったのではないかと、ひそかに思っているのです。
 今日は、私がそのように考える理由について、トシの死の前、当日、死の後、という順に賢治の作品を追って、整理してみたいと思います。

 その前に確認しておきたいのは、ここで私が言いたいのは、「賢治は妹の後追い自殺をしようと企てていた」ということではありません。ひょっとしたら、この世に残された者から見ると自殺と映るような結果になったのかもしれませんが、賢治の本来の意図は、そうではなかったのです。
 たとえば北方のどこかに、「異空間への接続ステーション」があって、死ぬことなく「死後の世界」に行ける可能性があるかもしれません。実際、「ひかりの素足」でも「銀河鉄道の夜」でも、主人公は大切な人とともに死後の世界へ往って、また還ってきています。
 などと言うと、いい大人が旅行を計画した動機としては、かなり荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、しばしば異界と「交信」し、異空間の実在を信じていた賢治にとっては、これはそんなに無茶な話ではなかったろうと思うのです。少なくとも、「ある種の事を行えば、それに応じた結果が期待される」という意味において、この旅は賢治の意識の中で、宗教的には一つの「儀式」と言えるものだったでしょうし、自然科学的には一つの「実験」と言えるものだったのではないかと、私は思うのです。

1.トシの死の前

 以前の記事にも書いたことですが、賢治は1922年11月のトシの死の少なくとも数ヶ月前から、もしも妹が臨終を迎える時が来たら、自分もともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と考えていたのではないかと、私は思っています。

 ところでこの、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という言葉は、1922年8月に書かれたと推定される「イギリス海岸」の中に、登場するものです。生徒を引率してイギリス海岸に来た賢治は、もしも泳いでいる生徒が溺れた時に自分が取る行動として、次のように思っていたというのです。

もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。

 生徒に対する賢治のこのありあまるほどの責任感に、もちろん嘘はなかったのでしょう。しかし、あまりにも大仰なこのような言葉が、ふと彼の口をついて出てきた背景には、当時下根子桜の別宅で着実に死へと近づきつつあった妹の存在があったはずだと、私は思うのです。
 賢治は、実はトシに対してこそ、常々このように思い詰めていたのではなかったでしょうか。

 また、童話「双子の星」において、チュンセとポウセが彗星にだまされて、天空から海の底に落とされてしまう箇所には、次のような言葉があります。

 二人は青ぐろい虚空をまっしぐらに落ちました。
 彗星は、「あっはっは、あっはっは。さっきの誓ひも何もかもみんな取り消しだ。ギイギイギイ、フウ。ギイギイフウ。」と云ひながら向ふへ走って行ってしまひました。二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです。

 「双子の星」のテキストには、吉田源治郎著『肉眼に見える星の研究』と共通した表現が見られることから、その現存稿が書かれたのは、1922年9月の同書刊行以後だろうという説があります(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の中地文氏による「双子の星」解説)。そうであれば、この作品の完成も、トシの死のほんの少し前のことになります。
 そして、この作品における「双子」という存在が、賢治とトシという兄妹をモチーフの一つとしていることは多くの人の認めるところであり、その二人が「どこ迄でも一諸に落ちやうとした」と賢治が記していることの意味は、やはり見逃すことができません。
 ここでも賢治は、トシが死ぬ時にはその肱をしっかりとつかみ、「どこ迄でも一諸に落ちやう」と、考えていたのではないでしょうか。

 さらに賢治には、もっと直接的に、一緒に死後の世界に至る「兄弟」をテーマとした作品もあります。吹雪における兄弟の遭難を描いた童話「ひかりの素足」では、兄の一郎は弟の楢夫にぴったりと寄り添い、弟を献身的に守りながら、二人一緒に「あの世」にたどり着きますが、この作品の第一形態が成立したのは、1922年前半頃までと推定されています(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の杉浦静氏による「光の素足」解説)。
 やはりトシの死が近づきつつあった年に書き始められたこのお話も、その構想そのものが、「妹に付き添って死後の世界へも同行し、その身を守ってやりたい」という賢治の願望を、反映したものだったのではないでしょうか。

 じりじりと死の影に迫られつつある妹を見守りながら、1922年という年の賢治は、ずっと一人でこういうことを思い詰めていたのではないかと、私は思うのです。
 しかしいずれにせよ、愛する妹の最期の日は、否応なくやってきました。 

2.当日 

 1922年11月27日、トシの臨終の床で、何が起こったでしょうか。賢治は心のどこかでは、たとえば妹と一緒に兄も仏に導かれて別の世界に至るような、何かそんな超自然的な出来事を期待していたのかもしれません。
 しかし現実には、そのようなことは起こりませんでした。「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」に記録されいるような会話がおそらく行われ、その後トシは一人で旅立って行ったのです。

 しかしここで、「松の針」に出てくる次のような部分には注目しておくべきだろうと、私は思います。

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ

 賢治は、妹が「けふのうちにとほくへさらうとする」こと自体は不問にする一方で、「ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか」ということを、問いつめているのです。
 思えば「永訣の朝」の冒頭も、「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」でした。このような場合、普通ならば「死なないでくれ」と訴えるのがお決まりのパターンでしょうが、賢治はその日のうちに妹が死んでしまうそのこと自体は、じたばたせずに受け容れていたのです。
 そしてその一方で賢治は、妹が「ひとりでいかうとする」ことには、異議を唱えるのです。「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ/泣いてわたくしにさう言つてくれ」と懇願し、自分が妹の死に同行する可能性を、何とかして引き出そうとするのでした。

 このような賢治のスタンスは、次の「無声慟哭」でも同様です。

わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

 上で太字にしてみたように、ここでも賢治は、妹が「ひとり」行こうとすることを、どうしても認めようとしません。

 つまり、賢治は妹の「死」は認めつつも、「ひとりで」を認めないのです。
 これこそ、賢治がトシの死のかなり前から、「妹が死ぬ時には同行しよう」とずっと思い詰めていたことの表れだろうと、私は思うのです。 

3.死の後 

 しかし、トシは結局、「ひとりで」行ってしまいました。残された賢治の喪失感ははかりしれないものだったでしょう。悶々として一篇の詩も生まれない日々が、半年あまりも続きました。
 そのような月日の果てに企画されたのが、翌年夏のサハリン旅行でした。トシの死の当日まで抱えていた上のような賢治の思いは、この時どうなっていたでしょうか。

 サハリン行への途上で書かれた作品のうち、その賢治の気持ちを最もはっきりと表しているのは、「宗谷挽歌」です。「妹の死に同行する」ことをその死の当日までずっと願いつづけていた賢治の思いは、その死後8ヵ月あまりを経てもなお綿々と続いていたことが、ここで明らかになります。
 その冒頭部分を、下に引用します。

   宗谷挽歌

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。 

 宗谷海峡を渡る船の甲板にいる賢治は、もしも妹が自分を呼んだなら、「私はもちろん落ちて行く」と決意しています。
 また、上の最後の引用行においても、「どうして私が一諸に行ってやらないだらう」と書いています。
 まさに賢治はここでも、トシと一緒に「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思っているのです。
 さらに、上記のしばらく後の部分には、次のような箇所もあります。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 「われわれが信じわれわれの行かうとするみち」とは、法華経信仰に違いありませんが、もしもそれが「まちがひであったなら」自分に知らせに来てくれと、賢治はトシに頼んでいます。もし賢治がそれを聞いたなら、「私はもちろん落ちて行く」という決意を実行に移すでしょうが、そのまま「まっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、自らに言い聞かせています。
 このような行動は、第三者から見れば「自殺」以外の何ものでもありませんが、賢治もそれは意識しているので、「宗谷挽歌」の文中には、自分が船員から自殺者と疑われているのではないかと、気にする箇所も出てくるわけです。

 このようにして、妹のもとへ行けるなら死んでもよいという決意のもと、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」という心構えを持って、賢治は宗谷海峡に臨んだわけです。
 さかのぼれば、前日の「青森挽歌」において、すでに賢治は次のように書いていました。

(宗谷海峡を越える晩は
 わたくしは夜どほし甲板に立ち
 あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
 からだはけがれたねがひにみたし
 そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

 この言葉のとおり、賢治は宗谷海峡を越える晩に「夜どほし甲板に立ち」、何かが起こることを期待したのです。この「挑戦」こそ、賢治にとっては一つの「儀式」であり、「実験」だったのだと思います。
 しかし結局、賢治が期待したような出来事は、この海上では起こりませんでした。海を渡った賢治は、サハリンに到着します。

 そして、サハリンの玄関口である大泊(ロシア名コルサコフ)の港から、彼はまた鉄道に乗って、一路北を目ざします。そして、当時の「樺太東線」の終着駅である、栄浜(ロシア名スタルドブスコエ)の駅に降り立ちました。
 下の地図で、マーカーを立ててある場所が栄浜です。

 私が推測するには、賢治がこの旅行において、宗谷海峡に続いてもう1ヵ所「何か」を期待して臨んだ地が、この栄浜だったのではないかと思うのです。
 この場所は、当時の日本において、鉄道で行くことのできる最北の地点でしたが、この「最果ての浜辺」というロケーションにも、何らかの思い入れがなされていたではないでしょうか。

 賢治はその浜辺に出て、オホーツク海と向かい合い、「オホーツク挽歌」を書くのですが、このテキスト中に出てくる「仮眠」に対して、香取直一氏と鈴木健司は、「《亡妹トシとの通信》を求めた意志的な行為」と解釈しておられます(香取直一「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」および鈴木健司「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」)。私もこの着眼に、同感です。
 最果ての浜辺で、貝殻を口に含んで行った「仮眠」は、賢治によってなされた次なる「儀式=実験」だったのだろうと、私は思うのです。

 「オホーツク挽歌」という作品は、本文中の二つの空白行によって、三つの部分に分かたれていますが、その二番目の部分を、下に引用します。

白い片岩類の小砂利に倒れ
波できれいにみがかれた
ひときれの貝殻を口に含み
わたくしはしばらくねむらうとおもふ
なぜならさつきあの熟した黒い実のついた
まつ青なこけももの上等の敷物と
おほきな赤いはまばらの花と
不思議な釣鐘草とのなかで
サガレンの朝の妖精にやつた
透明なわたくしのエネルギーを
いまこれらの濤のおとや
しめつたにほひのいい風や
雲のひかりから恢復しなければならないから
それにだいいちいまわたくしの心象は
つかれのためにすつかり青ざめて
眩ゆい緑金にさへなつてゐるのだ
日射しや幾重の暗いそらからは
あやしい鑵鼓の蕩音さへする

 この18行は、「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」という自らの行為への、注釈になっています。その仮眠の理由を、賢治はエネルギーの恢復のためとか、心象がつかれているからなどと説明していますが、しかしその本当の目的は、眠っている間にトシのもとへと行ってくることだったのではないかと、私は思うのです。
 それはちょうど「銀河鉄道の夜」において、ジョバンニが天気輪の丘で「仮眠」に入り、その間に死んだカムパネルラとともに異界を旅してきたことに相当します。この時のオホーツクの浜辺における賢治の仮眠は、「銀河鉄道の夜」におけるジョバンニのそれの、原型とも呼べるものだったのではないでしょうか。

 「オホーツク挽歌」における賢治のこの仮眠が持つ意味について考えるには、この作品と童話「サガレンと八月」との関係に注目する必要があるでしょう。
 鈴木健司氏は、「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」の二つが「ネガとポジの関係」にあると指摘し、さらに踏み込んで「オホーツク挽歌」の仮眠において賢治が体験した内容が、「サガレンと八月」として作品化されたと論じておられます。
 両作品における舞台設定の共通性を見ても、これは非常に説得力のある仮説であると、私も思います。しかし、鈴木氏が栄浜における賢治の「仮眠」についてここまで鋭く論じられながら、その仮眠の目的が、《亡妹トシとの通信》を行うことだったと結論づけておられるところは、私としてはやや物足りなく感じてしまうのです。
 「サガレンと八月」が、<異界へ行く物語>であることに鑑みれば、ここにおいて賢治が期待していたことも、単なる「通信」にとどまらず、「身をもって異界へ行く」ことだったと解釈すべきではないでしょうか。
 それは、「サガレンと八月」において海の底に連れ去られたタネリの運命について考えることによっても、浮き彫りにされます。

 「サガレンと八月」で少年タネリは、母親の与えた禁忌を破った結果、恐ろしい犬神によって海の底に連れて行かれ、蟹の姿にされて「チョウザメの下男」として幽閉されます。
 ところでサハリンという島の形は、日本では「鮭」の姿に喩えられますが、ロシアにおいては、「チョウザメ」の形と言われているのです。下記は、チェーホフの『サハリン島』からの引用です。

 サハリンは、オホーツク海中にあつて、ほとんど1000露里に亙るシベリアの東海岸と、アムール河口の入口とを大洋から遮断してゐる。それは、北から南へ長く延びた形をしてゐて、蝶鮫を思はせる格好だ、と言ふ著述家の説もある。(岩波文庫版上巻p.40)

 サハリンを蝶鮫にたとへることは、南部の場合は殊にふさはしく、全く魚の尾鰭にそつくりである。尾の左端はクリリオン岬、右は――アニーワ(亜庭)岬と呼ばれ、その間の半円形をなした入江を――アニーワ湾といふ。(岩波文庫版上巻p.248)

サハリンとチョウザメ  このチョウザメの喩えは、右の図をみていただければ一目瞭然です。島全体のスリムさは、鮭よりもチョウザメの方がぴったりきますし、南端の尾びれの形といい、東に突き出た北知床半島(テルペニア半島)が背びれに対応するところといい、比喩の迫真性に関しては、鮭よりもチョウザメの方に軍配を上げざるをえません。
 賢治は、文語詩「宗谷〔二〕」において、中知床岬(アニーワ岬)のことを、「サガレン島の東尾」と表現していますから、サハリン島の形が「魚」に喩えられることを知っていたのは確かです。これが鮭だったのかチョウザメだったのかはわかりませんが、「サガレンと八月」というサハリンを舞台とした童話に、「チョウザメ」が出てくるのですから、これはサハリンという土地を象徴するものと解釈するのが自然でしょう。

 すなわち、「サガレンと八月」の主人公が、他ならぬ「チョウザメ」の下男として海の底に閉じ込められるという物語は、実は作者である賢治が、サハリンという土地に囚われ、その海底に沈められるという事態を、象徴していると解釈すべきでしょう。
 そうなると、賢治が栄浜での「仮眠」において期待していたのは、やはりトシとの「通信」にとどまらず、自らがトシの居場所へと赴くことだったと考えるべきと思います。
 自ら宗谷海峡を渡る船の甲板から飛び込むことによってか、あるいは栄浜の海岸からタネリのように拉致されることによってか、いずれにしても賢治が亡き妹のもとへ行きたいという願望とともに、ひそかに心に期していた「異界への旅」は、「サガレンと八月」におけるタネリと同じ運命を、招き寄せるおそれがあったのです。

 それでは、「オホーツク挽歌」において栄浜の海岸で仮眠をとった賢治は、ジョバンニとカムパネルラのように、その夢の中でトシに会うことができたのでしょうか。
 これについて考えるためには、「オホーツク挽歌」の作品中のどこで「仮眠」が行われたのかということを、同定しておく必要があります。この問題に関して鈴木健司氏は、二つの空白行によって三つに分かたれた作品の「パート2」(=上の引用部分)と「パート3」の間で賢治は仮眠をとり、この際に「サガレンと八月」に結実する《幻想体験》が現れたと推定しておられます。「パート1」「パート2」はまだ朝方の時間であるのに対して、「パート3」には「(十一時十五分 その蒼じろく光る盤面)」という詩句があり、その間に時間的断絶があると思われることを、その根拠として挙げておられます。
 私も、鈴木氏の考えに賛成です。作者は、「パート2」では「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」と述べていることからまだ眠っていないわけですが、「パート3」には「わたくしが樺太のひとのない海岸を/ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき…」という詩句があって、この時点ではすでに「睡つたりしてゐる」からです。
 そうすると、「パート3」を読めば「仮眠」後の賢治の様子がわかるということになります。ということで、その内容を見てみると、まず目に入るのは、「とし子はあの青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」という言葉です。つまり、仮眠の後にも、賢治はトシに関する具体的な情報を持っていないのです。
 あるいはまた、「いまするどい羽をした三羽の鳥が飛んでくる/あんなにかなしく啼きだした/なにかしらせをもつてきたのか」という、鳥に対する思い入れも書きとめられています。これは、旅行前の6月の「白い鳥」の流れを引いて、鳥の鳴声の中にトシからのメッセージを読みとろうとする姿勢で、もしもその直前にトシと会えたり通信が得られたりしていたのならば、こんな風に鳥の声を頼りなく聴くこともなかったでしょう。
 すなわち、このオホーツクの海岸における仮眠という「実験」によっても、賢治は期待したようにトシのもとへ行くことは、できなかったのです。
 その意味で、未完に終わっている「サガレンと八月」という童話は、賢治の実験が成功しなかったということにおいても、結末に至ることなく放置されたということにおいても、二重の意味で「流産させられた」作品だったと言うことができるでしょう。

 では、「オホーツク挽歌」におけるこのような体験は、結局のところ賢治に何を与えたのでしょうか。
 香取直一氏は次のように述べて、賢治はこれを契機に、トシの「行方」について思い悩まなくてよい心境に到達したのだと、考えておられます。

玉随の雲に漂って行ったあの一羽の鳥は、《とし子》が蒼空の彼方へ行ったこと、そこから《通信》はこないが、《通信》をよこす必要のない処・眼前に望まれる樺太のような花のきれいな光あふれる浄らかなところへ行ったことをものがたっているのだ。賢治にはこう信じられていたのであろう。(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)が記されたのも、やはり必然であったと思われるのである。(「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」より)

 一方、鈴木健司氏は次のように述べ、賢治はこの時、香取氏の言うようにトシの往生の地を《浄土》と信じたというわけではないのではないかとしておられます。

 香取のいう「必然」とはどのようなことか。賢治にとって、妹とし子の往生の地が「光りあふれる浄らかなところ(浄土)」に違いないと確信することと、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやくことが、どのような必然の糸で結ばれているというのだろうか。おそらく私の解釈は香取の主張するところとは異なっている。賢治が「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやいたのは、妹とし子の往生の地が《浄土》と信ぜられた結果としてではなく、《浄土》であり続けるためにつぶやいたのである。なぜなら、妹とし子の浄土往生を支えうるのは、己れの信仰の正しさの確認以外になく、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という語には、この場合、破地獄としての陀羅尼(呪文)の作用が託されていると考えられるからである。(「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」より)

 そして鈴木氏は、「オホーツク挽歌」の終結部に出てくる「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という梵語による唱題の意味について、次のように述べます。

「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやかれたことは、賢治が妹とし子のいない現実世界を受容したことを意味するのであり、それは取りも直さず、《亡妹とし子との通信》の断念の表白でもあるのだ。

 この鈴木氏の見解について、私は半分は賛成です。
 すなわち、鈴木氏が上の後半で述べているように、「オホーツク挽歌」以後の賢治は、もうそれまでのようにトシとの「通信」に執着することはなくなります。その後の作品には、「通信」というテーマは出てこなくなるのです。
 一方、前半部の「賢治が妹とし子のいない現実世界を受容した」という点については、この時点の賢治はまだ「受容」にまでは至っていないと、私は考えざるをえません。
 たとえば、サハリンからの帰途の「噴火湾(ノクターン)」では、トシに関して次のような思いが綴られています。

駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
  (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 ここに描かれている賢治にとっては、「何べん理智が教へても」、やはりさびしさは癒えません。そして彼が、「どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ」理由は、「妹とし子のいない現実世界」を、まだ受容しきれていないからに他なりません。
 あるいはまた、サハリン旅行から帰ってから書いた「〔手紙 四〕」の冒頭には、次のように記されています。

 わたくしはあるひとから云ひつけられて、この手紙を印刷してあなたがたにおわたしします。どなたか、ポーセがほんたうにどうなつたか、知つているかたはありませんか。 

 ここでも、チュンセの死んだ妹ポーセが「ほんたうにどうなつたか」を知りたいという賢治の願望は、まだ強く持続しているのです。妹の行方を知る手段として、トシ本人からの「通信」を求めるという以前のやり方は用いられず、「手紙に託して探す」という方法がとられますが、それでもやはり賢治は、まだ「妹とし子のいない現実世界」を受容しているとは言えません。

 サハリン行から後の作品を順に追って見ていくと、賢治が本当の意味でトシの死を受容できるようになったのは、さらに翌年の「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」、そしてその頃に書き始められた「銀河鉄道の夜」に至ってのことだったろうと、私は考えます。
 賢治がその境地まで至った道筋は、崇高な「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」の一例とも言えるものであり、またそのうちに記事にしてみたいと思っています。

 では、賢治が結局オホーツク行という企図によって得た最大の収穫は何だったのかとあらためて考えてみると、私としては、「青森挽歌」の終わり近くに出てくる次の一言の啓示だったと思います。

《みんなむかしからのきやうだいなのだから
 けつしてひとりをいのつてはいけない》

 この認識が、「〔手紙 四〕」の重要なテーマとなり、「〔この森を通りぬければ〕」と「薤露青」を支え、さらには後の「銀河鉄道の夜」にも引き継がれることになっていきます。

 去る3月2日に「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」が終わった後、出演者や裏方の皆さんと、それに会場を提供して下さった法然院の住職である梶田真章さんもご一緒に、近くの小さなイタリア料理店で、ささやかな「打ち上げ」を行いました。
 その席で、東日本大震災と関連して、「鎮魂」というテーマが話題になっていたのですが、この時に法然院の梶田さんがふとおっしゃった次のような言葉が、とても印象に残りました。

本当は、「鎮魂」などしなくともよいのです。
亡くなった人のことは、ただ阿弥陀様にお任せするしかありません。
死者の魂を鎮めるということは、本来は人間の仕事ではないのです。

 これこそが、「他力」を心から信じ、全てをその「他力」に委ねるという、阿弥陀信仰の神髄なのだなあとその時は感じ入ったのですが、その後、これは宮澤賢治が妹トシの死後に、いかにしてその悲しみを乗り越えていったのかという問題とも、通ずるものがあると思いましたので、本日はそのことを少し書いてみます。
 タイトルは、もうはるか昔に書いた「なぜ往き、なぜ還って来たのか(1)」という記事の、3年ぶりの続篇という形で、その(2)としました。

◇          ◇

 3年前のテーマは、「双子関係にある」とも言われる賢治の童話「ひかりの素足」と、「銀河鉄道の夜」とは、どこが違うのかということで、前回はこれについて考える途中で終わっていました。
 今回、二つの作品の最も大きな違いとして私が注目するのは、「死者の行方が明らかにされているか否か」、ということです。

 「ひかりの素足」では、一郎は弟の楢夫と一緒に雪山で遭難してしまい、必死で弟を守りつつも、結局は二人もろとも雪に埋まってしまいます。そして次に一郎が気がつくと、そこは「うすあかりの国」でした。一郎と楢夫は、鬼たちに鞭で追い立てられながらひどい道を歩かされますが、ここでも一郎はけなげに弟を守ります。
 そしてついに「ひかりの素足」の人が現れ、その人は弟の楢夫には「お前はもうこゝで学校に入らなければならない」と言ってその世界にとどまらせる一方、兄の一郎には「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ」と言って、生の世界に送り返します。
 つまり、一郎はずっと楢夫に付き添って楢夫を守ってやり、その行き先をしっかりと見届けた上で、帰ってくるのです。

 これに対して「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニはカムパネルラと一緒に銀河鉄道に乗りますが、最後の場面でカムパネルラはジョバンニの前から、忽然と姿を消してしまいます。

 「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」ジョバンニが斯う云ひながらふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずたゞ黒いびろうどばかりひかってゐました。ジョバンニはまるで鉄砲玉のやうに立ち上がりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれから咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。

 この時点でジョバンニには、カムパネルラの行方はわからず、彼が死んでしまったのだということさえ知りません。

 この上さらに輪を掛けて、川におけるカムパネルラ捜索の場面で、カムパネルラのお父さんがその打ち切りを宣言する言葉も、印象的です。

「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」

 普通の親の感覚なら、我が子がまだ生きている確率が0.1%でもあるなら、必死で捜索を続けるでしょうし、みんなにもお願いするでしょう。また、たとえ生存は絶望的な状況になったとしても、せめて遺体だけでもこの手に抱いてやりたいと思って、やはり捜索はやめないでしょう。
 以前の私は、この場面のお父さんの態度が不思議でならなかったのですが、今ではこれは、「いとしく思う者の行方がわからない」ということ、それこそがよいのであるという、賢治が苦悩の末にたどり着いた考えによるものだろうと思っています。
 すなわち、「薤露青」における、次の一節に表れている思想の具現化です。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

 つまり私としては、「ひかりの素足」において、一郎が弟に必死に同伴し死後の世界での行く末まで見届けたのに対して、「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニはカムパネルラの行方を知らず、父親も無理に捜そうとしないという大きな相違がある理由は、この間の賢治自身の「愛する死者」に対する考えの変化を、反映したものだと思うのです。

◇          ◇

 學燈社『宮沢賢治の全童話を読む』に収められている「ひかりの素足」の解説において、杉浦静さんは、賢治がこの童話を書いた時期について、次のように分析しておられます。

 「ひかりの素足」は、複雑な過程を経て成立している。現存する草稿には三種の原稿用紙が混用されている。これらを仮にA・B・Cとすると、Aは22枚、Bは17枚、Cは7枚の計46枚が使用されている。最初A・Bを用いた第一形態が最後まで書かれ、その後原稿の差し替えやさまざまな筆記具を用いた手入れが行われた後、最終段階で、C原稿用紙を用いた原稿の差し替えが行われ、現存の「ひかりの素足」が成立している。
 これまでの研究でA・Bが併用されたのは、大正11年11月頃まで、Cは大正12年以降に使用されたと推定されている。賢治は「お」の字を書くとき、大正11年以前は点がすべて離れ、11年中につながり始め、12年以降はすべてつながる書体の推移も明らかにされている。「ひかりの素足」草稿では、A・Bに現れる「お」はすべて点が離れているが、Cに一例のみ、つながるものが現れている。これらから、第一形態の成立は大正11年前半頃まで、現存の最終形態の成立は大正12年頃と推定できる。

 トシが死去したのが、1922年(大正11年)11月ですから、第一形態が成立したのは、その死の年の前半だったということになります。以前に、「死ぬことの向ふ側まで」という記事に書いたように、賢治が短篇「イギリス海岸」において、もしも生徒が溺れたら、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と書き記したのは、1922年(大正11年)8月9日のことと推測され、これは「ひかりの素足」の第一形態の成立時期と、だいたい一致します。
 つまり、この頃すでに死期が近づいていた妹のことを思いながら、賢治は「イギリス海岸」を書き、さらにまさしく兄が弟に付き添い「死ぬことの向ふ側まで一緒について行」くという話である、「ひかりの素足」の第一形態を、原稿用紙に記したのです。

 そしてついに11月27日が来て、トシの臨終に立ち会った賢治は、その決死の覚悟にもかかわらず、妹とともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行って」やることはできませんでした。
 一人残された賢治は、深い悲しみに引き裂かれる一方で、死んだトシがいったいどこへ行ってしまったのかということについて、考え続けるのです。

 翌年の1923年(大正12年)夏に、賢治が北海道からサハリンを旅した背景にも、この問題について思索を突き詰めようとうする意図がありました。
 この旅行中の作品群に、賢治の思いは表現されています。

 まず「青森挽歌」では、次のように。

(前略)
あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
(中略)
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
(後略)

 また「オホーツク挽歌」では、次のように。

わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない

 さらに「噴火湾(ノクターン)」では、次のように。

駒ヶ岳駒ヶ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
    (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 このように、賢治は旅行中も、トシの行方について思い悩むことを止めることはできなかったのですが、旅行の後、おそらく1923年(大正12年)の後半に書いた「手紙 四」という短い文書において、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と、まるで自らに言い聞かせるかのように、宣言します。

 この一連の賢治の葛藤が、より昇華されて一つの安定を見るのは、さらに翌1924年(大正13年)夏のことでした。
 この年7月の「〔この森を通りぬければ〕」で賢治は、次のように書きました。

鳥は雨よりしげくなき
わたくしは死んだ妹の声を
林のはてのはてからきく
   ・・・・・・それはもうさうでなくても
        誰でもおなじことなのだから
        またあたらしく考へ直すこともない・・・・・・

 で、先にも引用した、「薤露青」へと続きます。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

 そして、まさにこの年の夏が、おそらく「銀河鉄道の夜」のスタートにあたるのです。入沢康夫さんは『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』(宮沢賢治記念館)において、「銀河鉄道の夜」が最初に書かれた時期について、

 《着想は一九二四年の夏で、着手はその秋》というあたりが、おそらく正しい答ではではないだろうか。

と、書いておられます。

 つまりこの「銀河鉄道の夜」という物語は、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」という思想に立って書かれたのであり、それだからこそ、カムパネルラはジョバンニの前から何処へともなく突然姿を消してしまうし、その父親も我が子の捜索にこだわらないのだと思うのです。

◇          ◇

 さて、ここで冒頭に記した、浄土宗の梶田真章和尚の言葉に戻ります。

本当は、「鎮魂」などしなくともよいのです。
亡くなった人のことは、ただ阿弥陀様にお任せするしかありません。
死者の魂を鎮めるということは、本来は人間の仕事ではないのです。

 ここで梶田さんがおっしゃっていることは、「愛しく思う者がどこへ行ってしまったかわからない」ことをそのまま受け容れて、あとは思い悩まないようにする、という賢治がたどり着いた思想に、そのままつながるものがあります。

 あるいは親鸞は、『歎異抄』の中で、自分は死んだ父母のために念仏を唱えたことは、一度もないと言っています。

     第五条
一 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まふしたることいまださふらはず。
 そのゆへは、一切の有情は、みなもて世ゝ生ゝの父母兄弟なり、いづれもいづれもこの順次生に、仏になりて、たすけさふらうべきなり。
 わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を廻向して、父母をもたすけさふらはめ。ただ、自力をすてて、いそぎ(浄土の)さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。
                (角川ソフィア文庫『新版 歎異抄』より)

 すなわち、すべての生きとし生けるものは、長い年月の間に生まれかわり死にかわりするうちには皆が互いに父母や兄弟となるのだから、父母を救うということは、実はすべての生き物を救うということであるが、それは普通の人間にはとてもできないことである。ただ自力を捨てて、浄土に生まれ仏となった暁には、父母をはじめ縁のある者を救うこともできるのだ、というわけです。
 『歎異抄』のこの一節は、「青森挽歌」において、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》として登場する命題と、途中までは同じことを言っている点が、非常に興味深いところです。後半において、親鸞は「だから現世では、ただただ自らの往生を願う」という結論になるのが、賢治の場合には、たった今から「大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」という方向に進もうとするところが、違っています。
 しかし、血縁者だからと言って特別に祈ったり供養したりしないというところは、親鸞の考え方と同じなのです。

 一方、賢治が熱心に信仰していた日蓮の場合には、このあたりはかなり異なっています。
 すなわち、日蓮は「十王讃歎鈔」においては、罪人が死んで閻魔大王の前に連れて来られた時、その子供が現世において「追善をなし逆謗救助の妙法を唱へ懸れば成仏する」と書き、また「上野尼御前御返事」においては、無間地獄に落ちている親のためにその息子が法華経の題目の一字を書いただけで、親が救われたという中国の話を引用して、いずれにおいても亡き親のために追善供養をすることは大切なのだと、強調しています。

 おそらくこのような日蓮の主張にも影響されて、賢治は1918年(大正7年)に親友の保阪嘉内が母親を亡くした際には、「あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい」と書き送りました(書簡75)。

此の度は御母さんをなくされまして何とも何とも御気の毒に存じます
御母さんはこの大なる心の空間の何の方向に御去りになったか私は存じません
あなたも今は御訳りにならない あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう。
あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい。
あなたの書くのはお母様の書かれるのと同じだと日蓮大菩薩が云はれました。
あなたのお書きになる一一の経の文字は不可思議の神力を以て母親の苦を救ひもし暗い処を行かれゝば光となり若し火の中に居られゝば(あゝこの仮定は偽に違ひありませんが)水となり、或は金色三十二相を備して説法なさるのです。(後略)

 「あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう」と賢治が親友に書いた4年後に、今度は賢治の方が、自分の妹に関して「どこに行ったか至心に求める」ことになろうとは、まだこの時は思いもよらなかったでしょう。
 妹の死後、おそらく賢治は、妹のためにと念じて法華経の題目を唱え、書き写しもしたはずです。しかしそれでも、賢治の心は安まらなかったのです。

 そのような苦悩の末に賢治が自戒するようになった、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という命題や、「死者の行方を気にしない」という態度は、実は日蓮の教えとはかなり異なっていて、むしろ彼が幼年時代から親しみ、信じ、やがて青年期に捨てることになった、親鸞の教えと一致しているのです。

 ということで、ある時からは一途に法華経と日蓮を信仰していたはずの賢治ですが、その思想の内容には、複雑な重層的な要素も感じられる、というお話でした。

法然院・阿弥陀如来座像
法然院・阿弥陀如来座像

 その後もばたばたしていたのでご報告が遅れてしまいましたが、去る9月4日に、「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都 ― 能『光の素足』」を、無事とり行うことができました。
 当日は、台風が通り過ぎた後にもまだかなりの雨が降り続く、あいにくの天候でした。しかし、100名近くの方々が夕暮れの法然院に集まって下さいました。心より、御礼申し上げます。

 今回は、観世流シテ方能楽師・中所宜夫さんに、創作能「光の素足」を、法然院本堂の阿弥陀様の前で、お一人で舞い謡っていただくという試みでした。
 プログラムは、まず能に先立って、中所さんによる賢治の童話「ひかりの素足」の一部の朗読です。一郎と楢夫が、「うすあかりの国」で鬼に責められながら彷徨う場面、そしてそこに「にょらいじゅりょうぼん」という言葉とともに不思議な白い素足の人が現れる場面が、朗々と読まれました。途中、「にょらいじゅりょうぼん」と一郎が繰り返した瞬間、奥に控えていた日蓮宗のお坊様による如来寿量品の読経が始まり、中所さんの朗読と重なり合って進行しました。

 朗読が終わると切れ目なく、「ダーダーダーダーダースコダーダー」という地鳴りのような謡が始まりました。童話「ひかりの素足」から数年後の一郎が、山中で一人で剣舞を舞っているのです。私たちは、能の「舞い」と「謡い」が持っている凄いエネルギーの中に、引き込まれていったのでした・・・。

開演前の法然院本堂
開演前の法然院本堂

 早いもので、もう9月になりました。

 来たる9月4日(日)の午後6時から、法然院本堂で行う「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都」まで、あと3日です。台風の動きがちょっと気がかりですが、このまま行ってくれれば4日にはもう日本海に抜けていて、「台風一過」の清々しい空が広がってくれると期待しています。
 先日の日曜日に、打ち合わせのためにちょっと法然院に行ったのですが、午後6時には山門の前から西山の上に美しい夕日が望めました。東山の麓の高台にある法然院から眺めると、京都盆地のちょうど向かい側に、日が沈んでいくのです。

 当日は会場で、能「光の素足」謡本中所宜夫さんによる能「光の素足」の「謡本」(右写真)も販売していただけることになりました。
 私などは、もちろん「謡い」なんかできるわけはないのですが、昨年末に購入したこの謡本を眺めているだけで、見事に散りばめられている賢治のテキストに、胸がワクワクしてきます。
 ここでちょっと、能「光の素足」に引用されている賢治の作品を順に挙げてみると、まず冒頭で少年一郎が舞いを舞っているところでは「原体剣舞連」(『春と修羅』)、不思議な山人が登場した後の地謡には「春と修羅」(『春と修羅』)、山人が退場する場面で「白い鳥」(『春と修羅』)、という具合で前半が終わります。
 後半では、一郎が山人こと実は賢治の霊である「光の素足の人」に出会う前の場面では、「銀河鉄道の夜」よりジョバンニが天気輪の柱の丘へ登る情景が、それとなく使われています。そして、現れた「光の素足の人」の語りの中では、「農民芸術概論綱要」、「永訣の朝」(『春と修羅』)、「〔雨ニモマケズ〕」、「鼓者」・・・といった作品で、賢治の思想や内面が示されます。
 さらに能の最後は、「銀河鉄道の夜」でジョバンニが銀河の旅を終えて夢から醒める場面の描写がほのめかされて、幕を閉じるのです。
 結局、一郎が山の中で「光の素足の人」に出会った後半部の体験は、「夢幻能」の公式どおりに一郎の夢だったということになるのでしょうが、この「夢」は、「銀河鉄道の夜」でジョバンニが銀河旅行の夢を見る直前と直後の描写を、「額縁」のように伴っているのです。さらにこの夜は、村の星祭りにあたっていた・・・。

 つまり、この能は内容的には童話「ひかりの素足」を下敷きとしたものではありますが、その構成においては、「銀河鉄道の夜」の設定を「本歌取り」しているように見えるわけですね。そう考えるとすれば、少年一郎はジョバンニに、死別した弟楢夫はカムパネルラに対応することになり、後半で一郎を導く「光の素足の人」は、初期形第三次稿まで登場していた「ブルカニロ博士」だということになります。

 とまあ、思わず想像をたくましくしてしまいました。実際はこんなことは私が勝手に考えただけのことで、どうやら中所宜夫さんは、こんな風に意図して創作されたわけではないようです。しかし、以前に「なぜ往き、なぜ還ってきたのか(1)」という記事に書いたように、双子のような構造を持った二つの賢治の作品が、自然にこの能作品においてつながっているように見えるというのは、とても不思議な感じです。

 最後に、宣伝です。9月4日の「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都」は、法然院の広い「本堂」のおかげで、まだ会場にある程度の余裕が残っています。
 もしも当日になって、「行こう!」という気になられた方は、直接来ていただいても十分に入れると思いますので、ぜひお越し下さい。
 お待ちしています。

法然院山門から境内の眺め
法然院山門から境内の眺め

 4月に行った「第1回イーハトーブ・プロジェクトin京都」に続いて、来たる9月4日(日)の午後6時から、京都市左京区の法然院にて、震災復興支援企画「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都」を開催します!

 今回は、現代の新作能「光の素足」を、作者である能楽師(観世流シテ方)の中所宜夫さんに、「能楽らいぶ」という形式で上演していただきます。この能は題名からお察しのとおり、賢治の童話「ひかりの素足」を下敷きとして、その「後日譚」という趣向で創作されたものです。

 下画像は、第1回よりもグレードアップした、今回のチラシです。クリックすると拡大表示されます。

「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ表

「第2回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ裏

 私は中所さんの能「光の素足」を、昨年の暮れに国立能楽堂で初めて拝見しました。
 その冒頭は、「ダーダーダーダーダースコダーダー」という地謡に乗って、若い舞い手が激しく舞う場面から始まります。以下、『光の素足(謡本)』収載の「あらすじ」から・・・。

 舞台は、とある山里近くの山中。ひとりの少年が剣舞を舞っている。その舞には勢いがあり、吹き抜ける風と響きあって、あたりの空気を揺るがすようである。舞が一段落した時、ひとりの老人が少年に言葉をかける。山人の姿をしており、相当な高齢にもかかわらず、背筋は伸び足腰もしっかりしている。二人は言葉を交わし、少年は自分の抱えている悩みを山人に打ち明ける。他の誰からも理解してもらえない自分の問題を、何故か山人はわかってくれそうな気がしたのだ。
 山人は、少年の苦しみは自分で解決しなければならないと説き、今夜この場所にひとりでやってきたなら、その手助けをしてあげようと言って、姿を消す。
 夜、再び少年がその場所へやってくると、にわかに白い光に包まれて、童子の姿をした「光の素足」が現れる。その人は、少年にさまざまな言葉を語り、最後に、今の苦しみは必ず将来の大きな力となるのだと言い残して姿を消す。

 昨年末に、私が初めてこの能を観た時の印象は、「現代能「光の素足」」という記事をご参照下さい。
 東日本大震災の後というこの時期に、肉親の死という物語を後ろに背負ったこの能を演じていただくことには、私なりの思いもあります。ただ、もともと中所さんは、「賢治の精神世界を能舞台上に再現する」ことを目ざしてこの能を創作されたということで、まず何より一人でも多くの方とともに、その幽幻として奥深い世界を共有できたら、と考えております。

 今回の公演は、「能舞台」ではなく、法然院の本堂で行われます。地謡も囃子もなく、中所宜夫さんが能装束や面も付けずに一人で舞い、謡われるという形で、これは中所さんが以前からさまざまな会場で実施しておられる「能楽らいぶ」という様式です。
 終了後には、不肖私が中所さんと対談させていただき、この能がいかに誕生したのかという経緯、また賢治への思いなどを伺いたいと思っています。

 参加費は2000円で、これは「第1回」と同じく被災地への義援金とさせていただきます。参加ご希望の方は、当サイト管理人あてメールか、または電話 075-256-3759 (アートステージ567:受付12時~18時,月曜休)までお申し込み下さい。

 下の写真は、一昨日に訪ねてきた法然院山門です。法然上人が鎌倉時代に念仏の別行を修した草庵に由来する法然院は、京都東山の麓の深い林に抱かれるように、ひっそりと佇んでいるお寺です。ぜひ、初秋の京都へお越し下さいませ。

法然院山門

【謝辞】
 今回の催しのために、平素は公開されていない「本堂」の使用を快くご許可いただいた、法然院貫主・梶田真章様のご厚意には、ここにあらためて心より感謝を申し上げます。
 従来より、梶田貫主様は「法然院サンガ」という形で、法然院という由緒ある宗教空間を、さまざまな社会・芸術活動のために提供し、また環境保護活動を主宰してこられました。東日本大震災の後も、先頭に立って救援活動を繰り広げておられます。そのようなご縁のおかげで、今回の企画を、またとない場所で開催させていただける運びとなりました。

 また、油絵作品「白い人2」を、チラシの原画として使用することをお許しいただいた、埼玉県在住の画家・鈴木広美さんに、厚く御礼を申し上げます。この絵は、外見的には能舞台とは異なっているものの、その精神において、賢治作品や能「光の素足」の世界と深く通ずるものを個人的に感じたため、お願いして今回の企画広報のために使わせていただいているものです。

「光のすあし」は誰か

   童話「ひかりの素足」は、吹雪における子どもの遭難物語として、その描写の迫真性が、読む者の心に切実に訴えかけます。
 一方で、このお話そのものの全体は、一個の宗教的説話として造型されています。物語のクライマックスは、あくまで一郎や楢夫を含めた人々が、「貝殻のやうに白くひかる大きなすあし」の人によって救済されることにあり、そこから見れば二人の吹雪の道行きや、一郎が楢夫に示すけなげな献身は、救済に至るためのプロセスにすぎません。
 賢治はここで、国柱会において勧められたように「法華文学ノ創作」を実践しているのだと言えるでしょう。しかし現代の私たちにとっては、正直なところ「救済」の荘厳さや有難さよりも、何気ない二人の子どもの会話やしぐさ、死へと向かって荒れ狂う吹雪、一郎の楢夫への愛の描写などの方が、物語においてはるかに印象的であると言わざるをえません。そういう「副次的」なところに日本でも比類のない文章を書いてしまうところが、また賢治の真骨頂と言えるのでしょうが…。

 先日の「なぜ往き、なぜ還って来たのか(1)」では、この一郎の楢夫に対するいたわりがこれほどまでに読む者の胸に迫るのはなぜなのか、当時の賢治の死んだ妹への愛が、ここに凝縮されているからではないかと考えてみました。
 この方向での考察をさらに続けてみたい気持ちはあるのですが、なかなか道行きは容易ではありません。
 そこで本日は、いったんこういった物語の意味や内容に関する議論は置いておき、その「宗教的説話」としての形式に関する問題を整理してみたいと思います。

 この物語の設定に関し、仏教的な観点から議論になってきたこととして、少なくとも次の三点があります。
   (1) 「うすあかりの国」とはどこか
   (2) 「にょらいじゅりゃうぼん」という言葉はどこから発せられたのか
   (3) 「光のすあし」の人は誰か

 これらの論点のうち、(1)(2)に関しては、工藤哲夫氏の「中有と追善―「ひかりの素足」論」(和泉書院刊『賢治考証』所収)が、綿密な文献の検討によって、私にとっては確定的とも感じられる結論を提示してくれているので、それをご紹介します。(3)に関しては、さすがの工藤氏も「よく分からない」としておられますが、私の個人的な思いを述べます。

 それにしても、工藤哲夫氏の賢治研究における真摯で徹底的な姿勢は、すごいものだと感じています。

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工藤 哲夫

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◇          ◇

(1) 「うすあかりの国」とはどこか

 「ひかりの素足」において、吹雪で遭難した一郎と楢夫が行く「うすあかりの国」は、これまで多くの人によって「地獄」であると解釈されてきました。
 伊藤雅子氏は、端的に「「ひかりの素足」は地獄に仏の物語である」と述べ(「光のすあしは誰か」)、西山令子氏は「その地獄の様相は日蓮の地獄観と重なる点が多い」として(「「ひかりの素足」考」)、いずれも「うすあかりの国」は仏教的な意味での「地獄」であるとしています。
 一方、五十嵐茂雄氏は次のように、これは「地獄界」ではなく「餓鬼界」であるとしました(「ひかりの素足」の諸相」)。

 このように考えてゆくと、確かに「うすあかりの国」の描写は地獄的ではあるが、先にあげた冒頭の模糊とした表現、また目連伝説や、冥界という原義を持ち、さらに一種の往還が可能な場所としての冥府たる餓鬼界をこれに相当させるのが妥当のように思われる。

 これらに対して、田口昭典氏は、「うすあかりの国」とは仏教に言う「中有」のことであるとの説を提唱しました(『賢治童話の生と死』洋々社)。
 言われてみれば、私たちが知っている程度の仏教の教えでも、死んだ人はまず四十九日間は「中有(中陰とも言う)」にとどまり、この間に次の輪廻転生先が決まるということになっていたと思います。ですから、現代においてもこの間には、「初七日」に始まり「四十九日(満中陰)」に至る法要が営まれるわけですね。
 仏教的には、「極悪と極善とは中有なくして直ちに悪趣又は善趣に入る」ということもあるらしいですが、一郎や楢夫が「極悪」とは考えにくいですから、二人が死の直後に「地獄」に行ってしまうというのは、理屈としてもおかしいわけです。
 また、この四十九日間は、死者が生と死、陽と陰の狭間にいるためにここは「中陰」呼ばれるわけですが、「うすあかりの国」という名称自体も、そのような中間性を暗示しているように思えます。

生命の連続―生と死の繰り返し 右の図は、田口昭典氏の『賢治童話の生と死』(洋々社)に掲載されているもので、物語において一郎の属した世界を、仏教的な見地から位置づけたものです。倶舎論では、「生有」「本有」「死有」「中有」を合わせて「四有」と呼び、「生有」とは生まれる瞬間、「本有」とは人間なら人間としてこの世で生きている期間、死有とは死ぬ瞬間のことです。そして、死んでから次の「生」までの期間が、「中有」なのです。
 ところで、私たちの通常の感覚で「ひかりの素足」を読むと、「一郎は臨死体験をしたが死ななかった」と理解するのが一般的でしょうが、仏教的な理屈によれば、いったん「中有」に行ったということは、すなわち「死んだ」ことになるようです。上図のように「一郎の蘇生した世界」は「後世」、すなわち「いったん死んでから転生した先」ということになっているのが、ちょっと不思議です。

 工藤哲夫氏は、田口昭典氏の「中有」説を深化・徹底させる方向で、主に賢治が読んでいたと推定される日蓮遺文における「中有」の描写と、「うすあかりの国」の描写を対照しつつ読み解いていきます。
 例えば、「十王讃歎鈔」には、次のような箇所があるということです。

さても罪人冥冥として足に任せて行程に。我のみ此道に來。歟と覺るに。目にはさだかに見ェねども。罪人いたみ叫ぶ聲時時耳に聞ゆ。其時胸さわぎ怖ろしきに又獄卒の聲と覺しきも聞ゆ。こは如何せんと思ふ處に、程もなく羅刹の形を見る。今までは僅かに名をこそ聞つるに。今親り此を見る怖しさ云計なし。其後は前後に付そひ息をもくれず責かくれば。

 死んだ人が、何処ともわからず彷徨い歩き、ここに来たのは自分一人だけなのかと思っていると、同じ境遇の他の人々の「痛み叫ぶ声」が聞こえてきます。次いで羅刹=鬼を見て、その後は鬼に前後に付き添われて、息もくれずに責めかけられるという状況になるのです。
 この様子は、賢治が「ひかりの素足」の「うすあかりの国」で描いている情景にそっくりです。鬼などが出てきて残酷な仕打ちをするものですから、私たちはここを地獄かと思ってしまうのですが、仏教的には「中有」の世界でもこういう状況だというのですね。
 ここで興味深いのは、「十王讃歎鈔」では死者が一人で歩くうちに他の者達と出会うことになっていますが、「ひかりの素足」では死んだ一郎はすぐに楢夫を見つけ、二人で歩くうちに、「何ともいへずいたましいなりをした子供らがぞろぞろ追はれて行く」のに合流します。
 このように、仏典とは微妙に異なって、「一人」ではなく「二人」になっている点にも、賢治がこの物語に託した特別な思いが表われているのではないかと思います。そもそもこの物語は、「死ぬことの向ふ側まで(妹トシに)一緒について行ってやらう」という作者の願いが、底流にあるのだろうと思うからです。

 工藤氏は、これ以外にも数多く「十王讃歎鈔」の記述と「うすあかりの国」の類似点を提示して、これは賢治が日蓮遺文を参考にして「中有」の情景を再現して見せようとしたものであることを例証します。それは私にとっては十分に説得力のある論です。

(2) 「にょらいじゅりゃうぼん」という言葉はどこから発せられたのか

 さて、上記のような「うすあかりの国」の残酷さは、どこからか「にょらいじゅりゃうぼん第十六。」という言葉が漂ってくることによって、一変してしまいます。 以下は、その部分の描写。

「楢夫は許して下さい、楢夫は許して下さい。」一郎は泣いて叫びました。
「歩け。」鞭が又鳴りましたので一郎は両腕であらん限り楢夫をかばひました。かばひながら一郎はどこからか
「にょらいじゅりゃうぼん第十六。」といふやうな語がかすかな風のやうに又匂のやうに一郎に感じました。すると何だかまはりがほっと楽になったやうに思って
「にょらいじゅりゃうぼん。」と繰り返してつぶやいてみました。すると前の方を行く鬼が立ちどまって不思議さうに一郎をふりかへって見ました。列もとまりました。どう云ふわけか鞭の音も叫び声もやみました。しぃんとなってしまったのです。気がついて見るとそのうすくらい赤い瑪瑙の野原のはづれがぼうっと黄金いろになってその中を立派な大きな人がまっすぐにこっちへ歩いて来るのでした。どう云ふわけかみんなはほっとしたやうに思ったのです。

 言うまでもなく、ここで「風のように」感じられた言葉は、法華経の中の白眉とも言うべきその第十六章のタイトル、「如来寿量品」です。
 物語の形式上は、これは最も重要な箇所とも言えるでしょうが、上の引用を見ていただいたらわかるとおり、いったい誰が最初にこの言葉を発したのか、お話の中でははっきりしません。
 八木公生氏は、この問題について次のように述べておられます(「イーハトーヴはユートピアか―童話にみる救済の構造―」)。

 誰がその言葉を発したのか。登場人物の誰でもないことはたしかである。では、誰が―。この疑問に答えてくれるのは、巨きな光る人の次の発言である。
「こわいことはない。おまえたちの罪は、この世界を包む大きな徳の力にくらべれば、太陽の光とあざみの棘の先の小さな露のようなもんだ。なんにもこわいことはない。」
 これは、「にょらいじゅりゃうぼん」ということばの起源が、この世界を包む大きな徳の力そのものであることを示唆したものである。そして、ここには、一郎の献身的行為は、この世界を包む大きな徳の力、そのひとつのかたちである「にょらいじゅりゃうぼん」にあずかることにおいて初めて、その十全な意義、つまり救済(蘇生)に値する価値を担い得るという理解があるように思う。

 つまり、この「にょらいじゅりゃうぼん」という言葉は、特定の人物が言ったのではなくて、「この世界を包む大きな徳の力」に由来するのだというわけです。
 これに対して工藤哲夫氏は、先の「十王讃歎鈔」には、死者の家族らが経を唱えるなど功徳を積むことにより、死者の運命に良い影響(冥福)を与えられるとする「追善」の効用が殊に強調して述べられていることを指摘し、この「にょらいじゅりゃうぼん」という言葉は、二人の子どもから離れた現実世界(娑婆)において誰かが唱えた言葉が、追善供養の働きを成したのだ、と考えます。

 例えば「十王讃歎鈔」には、次のような箇所があります。

身の罪業は御札(ぎょさつ)の面に隠れなく顕れて候上は争ひ申すべきにあらず。去ながら娑婆に子供もあまた候間其中に若も孝子有て定て善根を送る可く候。偏に大王の御慈悲にて且く御待候へと歎き申せば。大王面には瞋り給へども内には御慈悲深き故に。汝が罪業一一に隠れ無き上は地獄に堕すべきれども先先(まづまづ)待べしと宣ふ。然れば罪人の喜び限り無し。此の如く待給に孝子善根をなせば亡者罪人なれども地獄をまぬがるゝ也。されば大王も追善を随喜し給て。汝には似ざる子供とて。褒美讃歎し給也。

 すなわち、そのままでは地獄に堕されるような罪人でも、中有にいる間にその子供が善根をなせば、地獄をまぬがれることができるというのです。
 また日蓮は、「上野尼御前御返事」において、「烏龍」「遺龍」という中国の書家親子の例を引いています。
 烏龍は生前「仏法をかたきとし」たために、死んで無間地獄に落ちて苦しんでいましたが、ふとそこに金色の仏一体が出現して、大水を大火に投げ入れたように苦しみが和らぎました。烏龍は合掌して、何という仏様かと尋ねたところ、「我は是汝が子息遺龍が只今書くところの法華経の題目六十四字の内の妙の一字也」と答え、さらに「八巻の題目は八八六十四の満月と成り給へば無間地獄の大闇即大明となり」、そこは常寂光の都となるとともに、烏龍や他の罪人はみんな蓮の上の仏となったというのです。

 それまで地獄で苦しんでいた罪人たちが、(その中の一人の息子がこの世で法華経の題目を書いただけで)全員一挙に仏に成ってしまうというわけです。法華経の有り難さを強調するあまり、話がちょっと極端になりすぎている感は否めませんが、これは「にょらいじゅりゃうぼん」という一言によって「うすあかりの国」の状況が一変してしまうという、「ひかりの素足」の展開を彷彿とさせるところがあります。

 さらにこの話は、盛岡高等農林学校を卒業した賢治が、母親を亡くしたばかりの保阪嘉内に宛てた手紙で述べていたことにも通じます(1918年6月書簡75)。

此の度は御母さんをなくされまして何とも何とも御気の毒に存じます
御母さんはこの大なる心の空間の何の方向に御去りになったか私は存じません
あなたも今は御訳りにならない あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう。
あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい。
あなたの書くのはお母様の書かれるのと同じだと日蓮大菩薩が云はれました。
あなたのお書きになる一一の経の文字は不可思議の神力を以て母親の苦を救ひもし暗い処を行かれゝば光となり若し火の中に居られゝば(あゝこの仮定は偽に違ひありませんが)水となり、或は金色三十二相を備して説法なさるのです。 (後略)

 この嘉内あて書簡と、日蓮の「上野尼御前御返事」の関連性については、鈴木健司氏が「死後の行方 とし子・転生」(『宮沢賢治 幻想空間の構造』所収)においてすでに指摘されているところです。上の「あなたの書くのはお母様の書かれるのと同じだと日蓮大菩薩が云はれました」という箇所などは、「上野尼御前御返事」において父烏龍が、「汝カ書キし字は我が書キし字也」と言うところに相当しています。

 ただこの時点で、現世にいる一郎と楢夫の親族(父親など)は、二人の子どもが吹雪の中に埋もれているという状況については、まだ知る由もなかったはずです。本来は「追善」とは、死者の冥福を祈って行うものですから、厳密に言うとこの「にょらいじゅりゃうぼん」という言葉は、追善供養には当たらないことになります。
 しかし、たとえ追善のつもりでなくとも、烏龍と遺龍の例のように、遺族が意図せず書いたり唱えたりした言葉も、死者のための効用があるとされています。ですからここで聞こえてきた「にょらいじゅりゃうぼん」は、父親なり二人の子どもの家族が、その安否を気遣ってかあるいは無意識にか、口にした言葉だったという風に解釈することもできるわけです。

(3) 「光のすあし」の人は誰か

 「にょらいじゅりゃうぼん」という言葉とともに「うすあかりの国」には、「貝殻のやうに白く光る大きなすあし」の人が現れ、苦しんでいた人々や鬼たちさえも、その圧倒的な力によって救済します。
 この「人」こそが、物語の表向きの中心をなすわけですが、それがどういう存在なのか、これもなぜかはっきりとは描かれていません。ただ、「如来寿量品」の内容から考えると、ここに超越的存在が登場するとすればそれは「釈迦如来」であるはずですし、そう解釈する説が一般的です。
 しかし、この「光のすあし」の人は釈迦如来ではなく、別の存在であるとする説もあります。以下は、大塚常樹著『宮沢賢治 心象の記号論』(朝文社)より。

 このような「如来寿量品」の称名とともに出現した「立派な大きな人」として考え得る最初の可能性は≪釈迦如来≫であろう。しかし「立派な瓔珞をかけ」た姿は仏像では菩薩形である。その姿を重視すれば、「如来寿量品」の聞き手であり、直前の「従地涌出品」で、未来に如来となって釈迦に代わって娑婆世界に出現すると予告される≪弥勒菩薩≫の可能性がでてくる。同じ「従地涌出品」で釈迦の説法を聞く四菩薩の一人で、日蓮上人が自らをその再臨であると主張した≪上行菩薩≫の可能性もある。
 賢治テクストに織り込まれた思考からみるとどうなるか。『永訣の朝』(『春と修羅』〔宮沢家本〕」では妹の転生先が「兜卒の天」として規定されている。これは利他行を重視する大乗仏教徒が、未来仏である≪弥勒菩薩≫が待機する≪兜率天≫に死後に生まれ変わることを願ういわゆる≪兜率上生信仰≫である。『永訣の朝』のメッセージとの整合性を考慮すれば、「立派な大きな人」は、≪弥勒菩薩≫である可能性が最も高いと言えるだろう。

 つまり、これは「弥勒菩薩である」という説です。ただし、「光のすあし」の人が「瓔珞をかけていた」ということ以外に、弥勒菩薩であることを支持する具体的な根拠があるわけではなく、これは他の作品をもとにした一つの推測と言えるでしょう。

 そして、この「ひかりの素足」という物語に秘められた仏教的典拠について、最も詳しく考察をしておられる工藤哲夫氏は、この問題については「よく分からない」としておられます。

 「光のすあし」の人は誰か。確定的な意見に辿り着くことができていない。「にょらいじゅりゃうぼん第十六」という言葉、及び「法蓮鈔」の「妙の一字[中略]変じて金色ノ釈迦佛となる」「一一の文字変じて日輪となり日輪変じて釈迦如来となり」からすると釈迦仏(如来)と考えてもよさそうであるが、よく分からない。分からないのは、白く光るということと「すあし」ということの意味を追究し切れていないからである。宿題としておきたい。

 結局、物語の流れからすると「釈迦如来」とするのが妥当に思われるが、作品中に具体的に描かれているその姿を細かく仏典に照合するなどして考えていくと、なかなかぴたりと当てはまる存在がない、ということかと思います。

 しかし私としては、この物語における「光のすあし」の姿の描写は、仏典の記述ではなくて、賢治自身が実際に見た幻視にもとづいているのだろうと思うのです。したがって、その特徴の典拠を仏教の文献に探索する試みは、徒労に終わるのではないかと考えます。

 賢治の作品を読んでいる方はたいていご存じのように、「白いすあし」の不思議な人が登場するのは、この「ひかりの素足」だけではありません。
 「一九二二、五、一二、」の日付のある「手簡」(「春と修羅 補遺」)という作品の後半には、つぎのように書かれています。

あなたは今どこに居られますか。
早くも私の右のこの黄ばんだ陰の空間に
まっすぐに立ってゐられますか。
雨も一層すきとほって強くなりましたし。

誰か子供が噛んでゐるのではありませんか。
向ふではあの男が咽喉をぶつぶつ鳴らします。

いま私は廊下へ出やうと思ひます。
どうか十ぺんだけ一諸に往来して下さい。
その白びかりの巨きなすあしで
あすこのつめたい板を
私と一諸にふんで下さい。

 ここで「あなた」と呼びかけられている存在は、「白びかりの巨きなすあし」を持っているのでしょうし、賢治が「あなたは今どこに居られますか/早くも私の右のこの黄ばんだ陰の空間に/まっすぐに立ってゐられますか」と問いかけている様子からすると、普通に目に見える存在ではないのでしょう。
 また、「一九二二、五、二一、」の日付の「小岩井農場」(『春と修羅』)の「パート四」には、次の記述があります。

たよりもない光波のふるひ
すきとほるものが一列わたくしのあとからくる
ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り
またほのぼのとかゞやいてわらふ
みんなすあしのこどもらだ
ちらちら瓔珞もゆれてゐるし
めいめい遠くのうたのひとくさりづつ
緑金寂静のほのほをたもち
これらはあるひは天の鼓手、緊那羅のこどもら

これは「こどもら」ですが、やはり「すあし」で「瓔珞」も掛けています。
 そしてその「パート九」。

ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張つて
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
……………はさつき横へ外(そ)れた
あのから松の列のとこから横へ外れた
  《幻想が向ふから迫つてくるときは
   もうにんげんの壊れるときだ》
わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
  《あんまりひどい幻想だ》
わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ
どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは
ひとはみんなきつと斯ういふことになる
きみたちとけふあふことができたので
わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
血みどろになつて遁げなくてもいいのです
 (ひばりが居るやうな居ないやうな
  腐植質から麦が生え
  雨はしきりに降つてゐる)
さうです、農場のこのへんは
まつたく不思議におもはれます
どうしてかわたくしはここらを
der heilige Punktと
呼びたいやうな気がします
この冬だつて耕耘部まで用事で来て
こゝいらの匂のいゝふぶきのなかで
なにとはなしに聖いこころもちがして
凍えさうになりながらいつまでもいつまでも
いつたり来たりしてゐました
さつきもさうです
どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は
  《そんなことでだまされてはいけない
   ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる
   それにだいいちさつきからの考へやうが
   まるで銅版のやうなのに気がつかないか》
雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです
あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも
その貝殻のやうに白くひかり
底の平らな巨きなすあしにふむのでせう

 上の最後の、「あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも/その貝殻のやうに白くひかり/底の平らな巨きなすあしにふむのでせう」という箇所などは、「ひかりの素足」における表現と、言葉もほとんど共通しています。

 一郎はまぶしいやうな気がして顔をあげられませんでした。その人ははだしでした。まるで貝殻のやうに白くひかる大きなすあしでした。くびすのところの肉はかゞやいて地面まで垂れてゐました。大きなまっ白なすあしだったのです。けれどもその柔らかなすあしは鋭い鋭い瑪瑙のかけらをふみ燃えあがる赤い火をふんで少しも傷つかず又灼けませんでした。

 「小岩井農場」においては、「わたくしはずゐぶんしばらくぶりで/きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た」と書かれていて、文字どおり解釈すれば賢治はこの日には問題の「すあし」の存在を「見た」ということになります。「しばらくぶり」と言うからには、以前にも見たことがあったのでしょう。
 一方、その9日前の日付を持つ「手簡」は、「あなたは今どこに居られますか」と問いかけ、「私と一諸にふんで下さい」と懇願する形で終わっていることから、この日には見なかったのだろうと推測されます。

 このような作品中の記述は、もちろん創作芸術のことですから、作者が実際にそのような体験をしたと断定することはできません。
 しかし賢治の場合は、自分の「心象スケッチ」について、「それぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました」と述べていますし(岩波茂雄あて書簡)、他の作品にも幻聴や幻視の描写がたくさんあります。また、周囲の人にも自分の神秘体験についてしばしば語っていますから、彼の「心象スケッチ」に書かれている内容は、賢治が実際に体験したことだったと考えてよいだろうと、私は思っています。
 それを、「神秘体験」あるいは宗教的な意味を帯びた啓示と理解するか、「解離性幻覚」と呼ぶか、解釈する立場は種々ありうるでしょうが、いずれにせよ賢治がそれをありありと体験していたことに、間違いはないだろうと考えます。

 ですから、作品中で「立派な大きな人」の足がなぜ「白い」のか、なぜ「すあし」なのか、なぜ「瓔珞をかけている」のか、その個々の特徴について仏典に由来を探したり、象徴的な意味を分析したりしても、期待するような結果は得られないのではないかと、私は考えています。

 詳しい草稿研究によれば、童話「ひかりの素足」の第一形態が成立したのは、1922年の前半頃までとされています(杉浦静「ひかりの素足」,学燈社『宮沢賢治の全童話を読む』所収)。これはまさに、先に挙げた「手簡」や「小岩井農場」がスケッチされたのと同時期です。このように繰り返し作品化されているということは、この「白い素足の人」という視覚的イメージが、当時の賢治にとって重要なものだったということを示唆しているのだろうと考えられます。
 この頃、賢治の心の中では、すでに1922年1月に書いていた「水仙月の四日」における「子どもの吹雪遭難」というモチーフがあったでしょう。そして彼が、トシの死の前後に抱いていた「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」というモチーフ、それに救済者としての「白い素足の人」というイメージが融合する形で、この「ひかりの素足」という物語が生まれたのではないでしょうか。

 ですから、「「光のすあし」の人は誰か?」という問いに対しては、「賢治が幾度か幻視した人で、名前や由来は不詳」というのが、私の答えです。
 その属性や外見的特徴は、賢治にとっては「向こうから現われた」ものなのでその意味するところは不明ながら、それをモチーフに「ひかりの素足」を宗教物語として創作する際に、釈迦如来として造型したということだろうと思います。

 童話「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」は、二人の子どもが図らずも死後の世界へ行って、うち一人はそのまま死の側に残り、一人だけが帰ってくるというお話です。作品世界の設定は、一方は岩手の方言が話される山村、他方は星祭りの行われる異国(?)ということで、雰囲気は対照的に異なっていますが、物語の骨組みは同じなのです。
 さらに骨組みだけではなくて、その「死後の世界」の描写の細部にも、よく似たところがあります。

 例えば、まず「ひかりの素足」に出てくるボール投げの話。

 一人が云ひました。
「こゝの運動場なら何でも出来るなあ、ボールだって投げたってきっとどこまでも行くんだ。」

 一方、「銀河鉄道の夜」では・・・。

〔以下原稿一枚?なし〕
「ボール投げなら僕決してはづさない。」
 男の子が大威張りで云ひました。

 次には、「ひかりの素足」に出てくる「巨きな人」が言及する不思議な本。

 その巨きな人はしづかに答へました。
「本はこゝにはいくらでもある。一冊の本の中に小さな本がたくさんはいってゐるやうなのもある。小さな小さな形の本にあらゆる本のみな入ってゐるやうなのもある。お前たちはよく読むがいい。」

 これに対し、「銀河鉄道の夜」(初期形第三次稿)における「青白い顔の瘠せた大人」が見せてくれる地歴の本。

ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。

 三つめには、「光の素足」に出てくるチョコレート。

「チョコレートもある。こゝのチョコレートは大へんにいゝのだ。あげやう。」その大きな人は一寸空の方を見ました。一人の天人が黄いろな三角を組みたてた模様のついた立派な鉢を捧げてまっすぐに下りて参りました。そして青い地面に降りて虔しくその大きな人の前にひざまづき鉢を捧げました。
「さあたべてごらん。」その大きな人は一つを楢夫にやりながらみんなに云ひました。みんなはいつか一つづつその立派な菓子を持ってゐたのです。それは一寸嘗めたときからだ中すうっと涼しくなりました。舌のさきで青い螢のやうな色や橙いろの火やらきれいな花の図案になってチラチラ見えるのでした。たべてしまったときからだがピンとなりました。しばらくたってからだ中から何とも云へないいゝ匂がぼうっと立つのでした。

 そして、「銀河鉄道の夜」におけるチョコレート(?)。

「こっちはすぐ喰べられます。どうです、少しおあがりなさい。」鳥捕りは、黄いろな雁の足を、軽くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできてゐるやうに、すっときれいにはなれました 。
「どうです。すこしたべてごらんなさい。」鳥捕りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっと喰べてみて、(なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでゐるもんか。

 これらは、物語の大筋には関係のない小さな事柄なのですが、しかしこういう何気ない細部に類似があるところが、よけいに二つの作品の密接な関係を示している気がします。大塚常樹氏は、「ひかりの素足」のことを、「「銀河鉄道の夜」と双子関係にあると言ってもよい」と評していますが(『宮沢賢治 心象の宇宙論』p.278)、たしかにそうだなあという感じがします。

◇          ◇

 ところで、今回考えてみたいのは、上のような共通点とは逆に、「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」の相違点、についてです。
 もちろん、前述のように二つの作品はその舞台設定も大きく異なりますし、「ひかりの素足」が仏教それも法華経の功徳を物語の中心に据えているのに対して、「銀河鉄道の夜」の方はいわば「汎宗教的」な要素を色濃く持ちます。いろいろ違いを挙げていけばきりがありません。
 ただ私としては、こういった物語の設定などよりももっと奥深くの、物語としての「意味」の部分に、何か本質的な違いがあるのではないか、ということが気になったのです。
 思いつくままに、いくつか挙げてみます。

1.死を自覚しつつ共に行くこと

 「ひかりの素足」においては、一郎と楢夫という主人公の二人は、猛吹雪の中で気を失った後に「うすあかりの国」にやって来た時、自分たちが死んでしまったのだということを覚ります。

「楢夫、僕たちどこへ来たらうね。」一郎はまるで夢の中のやうに泣いて楢夫の頭をなでてやりながら云ひました。その声も自分が云ってゐるのか誰かの声を夢で聞いてゐるのかわからないやうでした。
「死んだんだ。」と楢夫は云ってまたはげしく泣きました。

 じつは物語にはここに至るまでにも、死へと向かう伏線が周到に張り巡らされていました。
 冒頭から、楢夫は自分が死装束を着せられ野辺送りをされる夢を見たことを語り、父や兄に(そして読者にも)不吉な予感を与えます。
 そして二人が道行きを始めてしばらくすると、あの「象のやうな形の丘」にやって来ます。天沢退二郎氏は、この印象的なモチーフについて、次のように書き記しています(『≪宮澤賢治≫鑑』所収「峠を登る者」より)。

 みちはいつか谷川からはなれて大きな象のやうな形の丘の中腹をまはりはじめました。(強調は天沢氏)

 この≪まはりはじめました≫という表現はいかにもその“みち”が避けがたく宿命の鞍部へついに引きよせられて行くかを示すと同時に、宿命の大きな輪自体がゆっくりとカタストロフへと回転を開始したさまをも示していて、再読三読するときは息をのむばかりであるが、それというのも―そのような≪表現≫ではからずもあり得た根拠は―いうまでもなく≪象のやうな形の丘の中腹を≫という目的格の力によるのである。
 すでに入沢康夫氏によって指摘されているように、この丘は、吹雪をえがいたもうひとつの賢治童話にも見出される―

 二疋の雪狼が、ぺろぺろとまつ赤な舌を吐きながら、象の頭のかたちをした、雪丘の上の方をあるいてゐました。(「水仙月の四日」)

 そしてこの「水仙月の四日」でも、この丘の山裾の≪峠の雪の中≫で子どもが吹雪に遭って、埋もれる。

 これ以外にも二人の運命を暗示するモチーフがいくつも配されているのは、天沢氏が上掲書において指摘しておられるとおりですが、とにかくこの物語において一郎と楢夫は、自分たちがまさに死のうとしていることを知りつつ吹雪に閉ざされ、まもなく死後の世界に自らを見出します。

 これに対して、「銀河鉄道の夜」という物語において、ジョバンニは自分が銀河鉄道に乗りながらそこが「死後の世界」(あるいは生と死の境界領域)であることを、まったく自覚していません。彼は大好きなカムパネルラと一緒に列車の旅ができる嬉しさいっぱいで、死者と思しき人々が乗り合わせてきても、自分やカンパネルラの生死については無頓着です。
 そして物語の終わり近く、現実世界に戻ったジョバンニはそこで初めて、じつはカムパネルラが死んでしまったこと、そして自分もさっきまでその親友と一緒に死後の世界を旅していたのだということを、知るのです。

 私は先月、「死ぬことの向ふ側まで」という記事において、トシの死が近づきつつあった1922年夏頃の賢治が、できることならトシと運命をともにして、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思っていたのではないか、そしてその気持ちを、当時「イギリス海岸」という短篇にも忍ばせたのではないか、ということを書きました。
 上に挙げた「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」の相違点は、このような賢治の思いに関わっているのかもしれません。

 すなわち、「ひかりの素足」において一郎は、はっきりと自覚しつつ楢夫とともに、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思っています。
 これに対して「銀河鉄道の夜」においてジョバンニは、結果的には「死ぬことの向ふ側まで」カムパネルラに同行したことになりましたが、それはまったく本人の自覚的な行動ではありませんでした。ジョバンニは、自分がなぜ銀河鉄道に乗っているのかわからず、ポケットに「切符」を発見してからも、それについて尋ねられると「何だかわかりません」と答えるしかありませんでした。
 「初期形第三次稿」においては、このジョバンニの体験はブルカニロ博士が行った「実験」だったということが最後に明かされます。しかし「第四次稿」においては、これはジョバンニの夢だったという形に改められました。

 つまり、「ひかりの素足」の一郎が楢夫とともに死後の世界へ行ったのは、(不可避だったとは言え)本人にとって自覚的な行動だったわけですが、「銀河鉄道の夜」でジョバンニがカムパネルラとともに死後の世界へ行ったのは、本人にとっては意味不明な出来事であり、しいて言うならばそれは偶然に見た夢だったか、あるいは自分の与り知らない何か超越的な力によって起こった現象だったということになります。

2.兄弟であること

 「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」のもう一つの相違点は、前者は一郎と楢夫という「兄弟」の物語であるのに対して、後者はジョバンニとカムパネルラという「親友」の話であることです。
 これは大して本質的な違いには見えないかもしれませんが、賢治の生涯を念頭に置いて考えてみると、主人公が「兄弟」であることは、賢治とトシという「兄妹」を否応なく連想させます。これに対して「親友」となると、保阪嘉内という存在のことも意識せざるをえません。

 物語の中でも、ジョバンニはあたかも賢治が嘉内に対してそうだったように、カムパネルラに嫉妬したり拗ねたりしますが、一方「ひかりの素足」には、兄の一郎が弟の楢夫を献身的にいたわり守ろうとする姿が、何度も繰り返し印象的に描かれます。
 例えば、まだ朝起きてまもない頃に顔を洗った後に一郎は、

 その時楢夫も一郎のとほりまねをしてやってゐましたが、たうたうつめたくてやめてしまひました。まったく楢夫の手は霜やけで赤くふくれてゐました。一郎はいきなり走って行って
「冷だぁが」と云ひながらそのぬれた小さな赤い手を両手で包んで暖めてやりました。

と、弟への優しさを見せます。
 吹雪に遭遇してからも、一郎は何度も何度も小さな弟に声をかけて、勇気づけようとします。

  • 「あんまり急ぐな。大丈夫だはんて なあにあど一里も無ぃも。」
  • 「さあもう一あしだ。歩べ。上まで行げば雪も降ってなぃしみぢも平らになる。歩べ。怖っかなぐなぃはんて歩べ。あどからあの人も馬ひで来るしそれ、泣がなぃで、今度ぁゆっくり歩べ。」
  • 「来た来た。さあ、あどぁ平らだぞ 楢夫。」
  • 「さあ 歩べ。あど三十分で下りるにい。」
  • 「大丈夫だ。楢夫、泣ぐな。」
  • 「さあも少しだ。歩げるが。」

 そして、ついに二人が猛吹雪の中で立ち往生してしまう場面。

「泣ぐな。雪はれるうぢ此処に居るべし泣ぐな。」一郎はしっかりと楢夫を抱いて岩の下に立って云ひました。
 風がもうまるできちがひのやうに吹いて来ました。いきもつけず二人はどんどん雪をかぶりました。
「わがなぃ。わがなぃ。」楢夫が泣いて云ひました。その声もまるでちぎるやうに風が持って行ってしまひました。一郎は毛布をひろげてマントのまゝ楢夫を抱きしめました。
 一郎はこのときはもうほんたうに二人とも雪と風で死んでしまふのだと考えてしまひました。いろいろなことがまるでまはり燈籠のやうに見えて来ました。正月に二人は本家に呼ばれて行ってみんながみかんをたべたとき楢夫がすばやく一つたべてしまっても一つを取ったので一郎はいけないといふやうにひどく目で叱ったのでした、そのときの楢夫の霜やけの小さな赤い手などがはっきり一郎に見えて来ました。いきが苦しくてまるでえらえらする毒をのんでいるやうでした。一郎はいつか雪の中に座ってしまってゐました。そして一さう強く楢夫を抱きしめました。

 一郎の弟に対する献身的な愛情は、「うすあかりの国」に入ってさらに胸に迫ります。

  • 「さあ、兄さんにしっかりつかまるんだよ。走って行くから。」一郎は歯を喰ひしばって痛みをこらへながら楢夫を肩にかけました。そして向ふのぼんやりした白光をめがけてまるでからだもちぎれるばかり痛いのを堪えて走りました。それでももうとてもたまらなくなって何べんも倒れました。倒れてもまた一生懸命に起きあがりました。
  • 「楢夫、しっかりおし、楢夫、兄さんがわからないかい。楢夫。」と一生けん命呼びました。
     楢夫はかすかにかすかに眼をひらくやうにはしましたけれどもその眼には黒い色も見えなかったのです。一郎はもうあらんかぎりの力を出してそこら中いちめんちらちらちらちら白い火になって燃えるやうに思ひながら楢夫を肩にしてさっきめざした方へ走りました。足がうごいてゐるかどうかもわからずからだは何か重い巌に砕かれて青びかりの粉になってちらけるやう何べんも何べんも倒れては又楢夫を抱き起して泣きながらしっかりとかゝへ夢のやうに又走り出したのでした。
  • そのとき楢夫がたうたう一つの赤い稜のある石につまづいて倒れました。鬼のむちがその小さなからだを切るやうに落ちました。一郎はぐるぐるしながらその鬼の手にすがりました。
    「私を代りに打って下さい。楢夫はなんにも悪いことがないのです。」
  •  楢夫がいきなり思ひ出したやうに一郎にすがりついて泣きました。
    「歩け。」鬼が叫びました。鞭が楢夫を抱いた一郎の腕をうちました。一郎の腕はしびれてわからなくなってただびくびくうごきました。楢夫がまだすがりついてゐたので鬼が又鞭をあげました。
    「楢夫は許して下さい、楢夫は許して下さい。」一郎は泣いて叫びました。
    「歩け。」鞭が又鳴りましたので一郎は両腕であらん限り楢夫をかばひました。

 まだ子どもである一郎が、これほどまでに自分の身を投げ打って、弟を守ろうとするのです。
 私は、このような兄一郎の行動こそが、賢治が妹の死を前にして、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思っていた気持ちの表現ではなかったのかと思うのです。
 死んでいくトシの先には、どんな苦難が待ち受けているのか、賢治にもわかりません。賢治は、愛する妹を知らない世界に一人で往かせるのがあまりにも不憫で、できることなら自分が一緒について行って、一郎が楢夫にしたように、我が身を賭してでも守ってやりたいと願ったのではないでしょうか。

 それからあともう一つ私としては、一郎と楢夫という兄弟が、賢治とトシという兄妹を投影したキャラクターだったのではないかと感じる理由が、あります。
 下記は、物語の冒頭で目を覚ました一郎が、まだ眠っている楢夫の方を見やる場面です。

「ほう、すっかり夜ぁ明げだ。」一郎はひとりごとを云ひながら弟の楢夫の方に向き直りました。楢夫の顔はりんごのやうに赤く口をすこしあいてまだすやすや睡って居ました。白い歯が少しばかり見えてゐましたので一郎はいきなり指でカチンとその歯をはじきました。
 楢夫は目をつぶったまゝ一寸顔をしかめましたがまたすうすう息をしてねむりました。

 小さな子ども同士の、ささやかな微笑ましい情景です。賢治の作品の細部には、しばしばこういった絶妙とも言える描写が出てきて、いったい作者はどうやってこのようなディーテイルを思いついたのだろうと感心することがよくあるのですが、ただこの箇所に関しては、この悪戯は賢治がトシに実際にしてみたことなのではないかと、私は思うのです。

宮澤トシ(1918) ご存じのように、トシはとても美しい女性でしたが、唇の間から前歯が少しだけ顔を覗かせることがあったようです。
 右の有名な写真は、日本女子大学の卒業アルバムのために撮られたと言われているものですが(1918年?)、左の前歯がちょっと見えているようでもあり、そうでないようでもあります(ちくま学芸文庫『図説 宮澤賢治』より・部分)。

 花巻高宮澤トシ(1921)等女学校の教諭時代、1921年2月の卒業式におけると言われている右の写真では、かわいい前歯の様子が、よりはっきりとわかります(ちくま学芸文庫『図説 宮澤賢治』より・部分)。
 賢治は「松の針」という作品において、トシを栗鼠に喩えていますが、ひょっとしたら彼女のこんな表情から、栗鼠をイメージしたのではないだろうかとも思ったりします。

 そして、このようなトシの口もとの様子からすると、二人がまだもっと幼かった頃には、眠っているトシの唇の間から「白い歯が少しばかり見えて」いることもきっとあったのではないでしょうか。そして、賢治は思わず「指でカチンとその歯をはじき」たくなったのではないかと、私はひそかに想像するのです。
 賢治は後年になってその記憶を、一郎が楢夫にした他愛もない仕草として織り込んだのではないか・・・。

 すなわち、「ひかりの素足」に描かれている一郎と楢夫の兄弟の様子は、やはり賢治のトシに対する思いを大きく反映したものではなかったか、もっと具体的に言うならば、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行って」やりたいという賢治の切なる願いを一つの物語として造形したものが、この「ひかりの素足」という作品だと言えるのではないかと、私は考えるのです。

 この問題に関してはあとまだもう少し、「ひかりの素足」と「銀河鉄道の夜」が草稿が書かれた時期の比較を行うとともに、一郎とジョバンニがそれぞれ死後の世界に行くことになったのはなぜなのか、そしてそこから帰還することになったのはなぜなのか、ということについて考えてみたく思いますが、続きは稿を改めさせていただきます。

機内にて「ひかりの素足」推敲過程を読む
(6月5日、伊丹ー花巻間の機内にて。「ひかりの素足」草稿において、トシの死後に手入れがなされた部分。)

現代能「光の素足」

現代能「光の素足」

 先日の日曜日に、現代能「光の素足」公演を見に行ってきました。
 比較的最近、当ブログで「晩年文語詩と「離見の見」」という記事において、柄にもなく「能」に触れたことも、関心を抱いた一つのきっかけでしたし、またその記事でも書いたように、賢治が「臨死体験」をくぐり抜けたと思われることと、今回の中所宜夫氏による能舞台化のコンセプトが、どこか通じるように感じたことも、個人的に興味を惹かれたところでした。

国立能楽堂

 初めて訪ねた東京の「国立能楽堂」は、コンサートホールのような華麗さとはまた違って、威厳と格式のある建物でした。

国立能楽堂・能舞台

 この日、ここで上演された演目は、まず観世喜之氏による舞囃子「山姥」。観世喜之氏(矢来観世家・観世九皐会四世当主)は、今回の舞台を主宰する中所宜夫氏の師でもあります。
 室町時代に観阿弥・世阿弥が能を大成するにあたり、当時流行していた曲舞(クセマイ)を取り入れたことは芸術的に大きな飛躍だったということですが、中所氏が今回の能「光の素足」の後半において、賢治の世界を舞台上に描く際には、この「山姥」の曲舞を手本としたのだそうです。
 観世喜之氏の舞は、さすがに威厳に満ち洗練されたもので、まず最初に圧倒されました。

 次の演目は、山本則重、山本則秀の兄弟による、狂言語り「童話『ひかりの素足』より」。
 舞台上に文台を置いて、賢治の「ひかりの素足」のテキストが、狂言の語りで朗読されます。一郎と楢夫が、すでに地獄で恐ろしい鬼たちに追い立てられながら尖った瑪瑙の原を歩いている場面から始まり、一郎が無意識のうちに「にょらいじゅりゃうぼん。」と唱えることによって、「まっ白なすあしの大きな人」が現れるところまでが語られます。それにしても、この箇所で一郎が幼い楢夫を思いやる様子は、思わず涙がこぼれそうになりますね。
 そしてお話としては幻想的に答えが出ないままにこの語りは終わり、休憩の後、本篇の能「光の素足」に続きます。しかしこの狂言語りが、本篇のための背景を設定してくれているわけです。

 さて、現代能「光の素足」は、山の中で少年が一人、剣舞を踊っている場面から始まります。

「光の素足」台本冒頭

 八名の「地謡」が、地の底から湧き出るような声で、「ダーダーダーダーダースコダーダー・・・」と謡い出し、舞台に現れた少年は、「こんや異装のげん月のした・・・」と「原体剣舞連」の一節を高らかに唱えつつ、一人で勇壮な剣舞を踊りつづけます。この舞の中には、中所宜夫さんが岩崎鬼剣舞保存会から伝授された「型」も取り入れているのだそうで、その意味では「能」の舞としても、斬新な試みなのでしょう。
 するとそこに、不思議な「山人」が現れ、「おう見事なり見事なり若き人。されど何故この山中に。御身ひとりにて舞い遊ぶか。」と尋ねます。「御身ここにて舞いし有様。山の風をも轟かす勢い。まことに気圏の戦士と見えたり。」と・・・。

 この少年こそ、「ひかりの素足」において弟の「楢夫」を失った後も、一人生き延びた「一郎」だったのです。「我ハこの山里に一郎と云う者なるが。幼い日に弟と二人山に入り。吹雪に道を失い死に臨む。我一人のみ助かり。弟を地獄に残す。その日より我が眼にハ。異相の世界が映り。異界の者たちと言葉を交す。里の人我を狂人の如く思いなし。以って親しく交わらず されど我ハ狂人にあらず。ただ人の見ることかなわぬ。異相の世界を。我ハ見るなり。」
 一郎は、里人に狂人と思われ疎外されている孤独を、一人山中で剣舞を舞うことによって紛らそうとしていたわけです。ここで思い起こされるのは、宮澤賢治自身も、様々な「異相の世界」を見る人で、ことあるごとに「変人」扱いされていたことですね。賢治の具体的な異界体験は、『春と修羅』やその「第二集」にも記録されています。その意味で、ここに登場する「一郎」は、若き宮澤賢治の分身とも言える存在なのでしょう。
 この間、能舞台では、「心象の。はいいろはげねから。あけびの。つるハ蜘蛛(ママ)にからまり・・・」などと、一郎の「心象」が地謡で流れています。

 一郎は、目の前に現れた山人が、自分だけにしか見えないと思っていた「異相の世界」を見る人だと知り、何とかして自分のこの苦しみを逃れさせ給え、と懇願します。しかし山人は、「いや御身の心の苦しみハ。御身自らにて越え給え。」と諭し、ただ最後に、「さりながら。今夜星の祭りの時。再びここに来り給わば。我もまたここに来りてその助けともなり申さん。」と言い残して姿を消します。
 そして中入前の地謡。ここには、賢治が妹の死を哀しむ「白い鳥」の状況も投影されています。

山の日早く傾きて。山の日早く傾きて。あからみ渡る空に。樺の木の影も黒くなり。時に似合わぬ白い鳥の。大きな二疋が啼きかわし。そのかなしさに空を仰げばかの。山人ハひかりとなりて姿もみえずなりにけり姿も見えずなりにけり。

 それから、舞台は変わって「星の祭り」にちなみ、「間狂言」として賢治の童話「双子の星」のエピソードが演じられます。今度は狂言ですからちょっと面白おかしく、チュンセ童子とポウセ童子と、大烏、蠍のドタバタが繰り広げられるのです。衣装も、二人の童子は青と緑のチャイナ服のような感じ。
 それにしても、「あかいめだまのさそり、ひろげたわしのつばさ・・・」と、狂言調で謡われるところは、なんとも可笑しかったです。

 さて、この「間狂言」が終わると、一郎が再び登場します。「今夜星の祭りと。里の人が浮かれ騒ぎ。剣舞の声も盛んに上れど。それより離れてこの身一人・・・」
 そこに、昼間の山人が「光の素足」の姿で登場します。「不思議やな白き光に包まれるかと。思えば遠くに金色の。輝きあるかと見るうちに。巨きなる人来るかと見れば。白く大きな素足の人の。童子の如き面影あり。これは如何なる人やらん。」
 そこで山人こと「光の素足」は語ります。「これハ日の如く虚空に住む者なり。先に語りし言葉の如く。今ここに来り君にまみえ。君の苦しみ和らげん。さてもそも御身の舞いし剣舞の。詩(ウタ)も賢治の言葉なれば。今ハ賢治の魂となりて。君に言葉を交すなり。」
 つまり、前半で不思議な山人と見えた人物は、ここで宮澤賢治の「魂」となって舞台上に登場してきたわけです。

  そもそも「夢幻能」というものは、「晩年文語詩と「離見の見」」でも引用させていただいたように、「死者の世界から生者の世界を見る」という形式を取っており、多くの場合、亡霊や神仙、鬼といった超自然的な存在が主役(シテ)として登場し、生身の人間である脇役が彼の話を聞き出すという構造を持っています。ここでは、山人=光の素足が「シテ」として現れ、「ツレ」でありかつ若き日の賢治の面影も漂わせる一郎少年に、「賢治の魂」を語り聴かせるという形になっているのです。
 舞台において「光の素足」が語る「賢治の魂」は、主には「農民芸術概論綱要」に記された様々な言葉であり、その最初と最後は、「まづもろともに輝く宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」というフレーズで締められ、そして真ん中のクライマックスでは、あの「雨ニモマケズ」が「曲舞」で舞われます。
 そもそもこの部分は、能全体の中で最初に出来上がっていた箇所なのだそうです。以下、プログラムに記された中所宜夫氏の解説から。

 新作曲舞「雨ニモ負ケズ」は、賢治という人に対する私の疑問から生まれました。有名な「雨ニモ負ケズ」にしろ「農民芸術概論」にしろ、所詮実現不可能な理想論にしか思えない、まして「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」などと言われてしまっては、ささやかな幸福で満足しようとしている私などは一体どうすれば良いのでしょうか。しかし、そのあたりを自分なりに納得させて、賢治の抱えていた負のイメージである「前障いまだ去らざれば・・・」の言葉と妹トシ子への思いをつないでやれば、「雨ニモ負ケズ」と「概論」は表裏一体のものとなって、私の前に立ち現れて来ました。この過程を描くにあたり、曲舞という形式の持つ力は、それをそのまま一つの作品にしてしまったのです。この曲舞「雨ニモ負ケズ」を色々な場所で演ずるうちに、多くのお客様から賛同の言葉と、是非これを能にして下さいという励ましを頂戴しました。

 そのような人々の励ましを受けて、曲舞「雨ニモ負ケズ」を核として出来上がった能が、この「光の素足」だったわけですね。
 能に関してはまったく造詣のない私ですが、それでもこの「雨ニモマケズ」の部分の舞には、言いしれぬ迫力を感じました。

 最後に、「ともに銀河の塵となり無方の空にちらばらん・・・」に続く、締めくくりの地謡。

山の風をも轟かす。舞のちからを持つならば。言の葉の陰にも宿る。その力をも信じ給え。御身の今の苦しみハ。みずからこころを閉ざす故なり。いつか鎖を解き放れ。必ず大きな光となると。言うかと思えば光ハ失せて。眼を開けばもとの丘の草の。しとねの露に濡れて。遠く祭の声も響き満天に。銀河ハ溢れけり銀河の波ハあふれけり

 という言葉とともに消えていくシテ・光の素足を、ツレ・一郎は見送り、次いで一郎も退場していくのでした。
 ところで上の地謡の情景は、ジョバンニが銀河鉄道の旅を終えて、「丘の草」の中で目覚める場面にもなっているわけです。「ひかりの素足」も、「銀河鉄道の夜」も、二人が死の世界に赴き、一人だけが帰還する物語でした。そうするとこの能に登場する山人=光の素足は、ブルカニロ博士でもあったわけですね。

 賢治自身が「臨死体験」をしていたのではないか、という中所宜夫氏の直観と同様のことは、僭越ながら私も「晩年文語詩と「離見の見」」に書いてみたことでした。私は、それが彼の晩年の文語詩に現れる独特の(死者からのような)視点に関係しているのではないかと感じたのでしたが、中所氏は、童話「ひかりの素足」における臨死体験の生還者である「一郎」を生者の代表に据え、<賢治>に死者の側から語らせるという趣向を、夢幻能の次元で実現されたわけです。

 また私が少し前に、「『宮澤賢治イーハトヴ学事典』あるいは賢治データベース」という記事において勝手に考えてみた舞台に載せれば、この現代能も、広い意味で賢治の「世界」を土台とした、稀代の「二次創作」と言えるのかもしれません。

 まあそんな余談はさておき、とにかく素晴らしい体験をさせていただきました。

能「光の素足」謡本

【注】当初の記事では、一郎のことを誤って「ワキ」と記していましたが、中所宜夫様のご指摘により、「ツレ」と訂正いたしました。お詫び申し上げるとともに、中所宜夫様のご教示に感謝申し上げます。