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 多くの人のいだく宮沢賢治のイメージというと、ストイックで、献身的で、信仰篤く、謙虚な人というようなもので、その人柄や作品からは、「倫理的」な要素を強く感じられるのではないでしょうか。
 現実の賢治の生き方を見ても、自分一人が幸せになるとか楽をするとかいうことは眼中になく、いつも他者のために尽くそうとしていたのは確かだと思われますし、そういうところはまさに「倫理に生きた人」という感じです。
 またその作品に目を転じても、「雨ニモマケズ」はその一つの典型ですし、童話では「グスコーブドリの伝記」とか「貝の火」とか「ひかりの素足」など、読んでいて胸が苦しくなるほどの倫理性を感じます。

 しかし、その一方で賢治という人は、上のような倫理性とは別の側面として、とにかく「美しいもの」には理屈抜きに陶酔してしまうところがあったのも事実だと思います。何かに感動すると、「ほほーっ」と叫んで飛び上がったり踊り出したりしたとか、かなりのお金をかけて浮世絵(春画も含む)やクラシック音楽のSPレコードを蒐集していたとかいうところなどは、彼の倫理とは全く別の問題で、いったん「美」に魅せられると我を忘れてしまう側面もあったということかと思います。

 お盆の休みに、高橋源一郎著『銀河鉄道の彼方に』という小説を読みました。
 例年ならばこの時期の休みには、岩手地方を旅行していることが多いのですが、今年は先月末の催し物の準備で慌ただしく、旅行のことなど考えている余裕がないままに日が過ぎ、終わってみたらもう交通機関の予約など間に合わない時期になっていましたので、どこも行かずに家で過ごすことになったのです。
 しかし、この際にと部屋を片付けていたら腰を痛めてしまったり、タイガースの応援に京セラドームへ行ったらボロ負けをしたりと、散々な休みだったのですが、まあ他にあまり大したことをしなかったおかげで、この500ページ以上もある大冊を読むことができたとも言えます。

銀河鉄道の彼方に 銀河鉄道の彼方に
高橋 源一郎

集英社 2013-06-05
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 高橋源一郎氏というと、すでに『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』で2006年の宮沢賢治賞を受賞しておられますが、賢治の24の作品をモチーフとしたこの短篇集には、なぜか「銀河鉄道の夜」は登場していなかったのです。当時その理由を尋ねられた高橋さんは、「『銀河鉄道の夜』だけで一冊の本を書くつもり」と答えておられて、その言葉を裏切らずに登場したのが、今回の『銀河鉄道の彼方に』だったというわけです。

 また高橋さんは、「銀河鉄道の夜」という物語は、「100回読めば100回の違った感動を味わえる」とも語っておられます。4回離婚して5回結婚しただとか、競馬好きが高じて競馬評論家もやっているとか、学生運動にのめり込んで凶器準備集合罪で半年間拘置所に入っていたとか、一般的な宮澤賢治のイメージとは対極的なエピソードの多い高橋さんですが、実は本当に宮澤賢治をお好きなんだなあということが、前作からも今作からも、ひしひしと伝わってきます。

 具体的な内容についてのネタバレは避けます、本の帯や広告に書かれている程度のこととしては、この物語ではジョバンニの父は北の海の漁師ではなく宇宙飛行士であり、「あまのがわのまっくらなあな」という謎の言葉を残して失踪してしまったという設定になっています。
 賢治の原作「銀河鉄道の夜」のあちこちの部分は、様々に変奏されながら何度も作中に登場しますが、それ以外に引用される作品としては、「青森挽歌」、「なめとこ山の熊」、「飢餓陣営」などがあります。ところどころ、いかにも賢治らしい文体で書かれた箇所もありますし、賢治自身が姿を現すところもあります。

 この物語には、通常の意味での「ストーリー」というものはありません。多彩な形や階層で断片化された部分を積み重ねつつ、「生」、「宇宙(世界)」、「時間」、「存在と虚無」、「意識」、「愛」と言った、いくつかの鍵になる概念のまわりを巡ってテキストが進行していきます。
 そして、それらの鍵概念を貫くものとして作中で最も重要な役割を果たしているのが、「言葉」です。多くの登場人物が、「言葉」を必死で紡ぎ出し、捉まえようと追いかけ、何とかして存在とともに定着させようとし、いつしかそれを諦めていきます。
 そのサイクルは、世界に生まれて言葉を獲得し、愛しつつ生き、徐々に意識が解体して死んでいく人間の一生のようでもあり、人間に限らず有機物も無機物も含めた多くの存在がたどる運命かとも思わせます。

 この『銀河鉄道の彼方に』というタイトルからは、何となく天沢退二郎さんの『宮澤賢治の彼方へ』という本も連想したりします。高橋さんの描く登場人物が懸命に「言葉」を紡ぎ出し、捉まえようとしている様子は、天沢さんが分析したように賢治がやむにやまれず「心象スケッチ」を書き連ねていくところと、どこか共通した感じもあります。

 近視眼的に、「小岩井農場」における詩人の眼とペンの正確さにとらわれることは、この詩の長大さが示す詩人の膂力・持続する記述のエネルギーを讃嘆すること ― あるいは逆にその冗長さを詰ること ― と同じ、まずい読み方といわねばならない。この必ずしも傑作・成功作とはいえない作品をぼくらが重視するとは、単なる正確な描写・記録の長さ、あるいはそれらを支える精神の柔軟さみずみずしさなどという問題でははるかになくて、それらの徹底された特質が両者あいまってついに詩人の意識の分裂にどのような決着をつけてしまうか、ついに詩人をどのような決定的な喪失へ、どのように必然的に導いてしまうかを、作品生成の劇の中に見ようとすることなのである。(天沢退二郎『宮沢賢治の彼方へ』)

 「心象スケッチ」によって賢治は、言葉を発する主体vs.その対象とに分裂しながらも、どうにか「向ふから迫つてくる」幻想に壊されずに、自己を保つことができました。
 『銀河鉄道の彼方に』の登場人物も、孤独な宇宙船で「手記」を書いたり、毎日自分のための「本」を書いたり、様々な形で言語化を努めることによって、解体していく自己を守ろうとしていました。それはある程度まではうまくいき、しかしさらに長い時間が経つうちには、もはや押しとどめようがなくなっていきました。
 そしてこの物語の登場人物は、それも受け容れて生き、愛し、死んでいくのでした。

 これは、以前の『ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ』同様、好き嫌いは分かれる作品かもしれませんが、宮澤賢治の世界がこんな風にも脱構築されるのか…という面白さは味わわせてくれる本です。

宮澤賢治の世界感覚について

 3月4日の「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」の際に、竹崎利信さんによる「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」と、「なめとこ山の熊」の間のつなぎとして、20分ほどお話をさせていただきました。
 当日は時間的制約のために説明が足りなかった部分を若干補って、本日ここに当日のスライドとともに、その内容を掲載いたします。

「宮沢賢治の世界感覚」1


1.「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」に出てきた賢治作品

 まだ「感動醒めやらぬ」という感じですが、竹崎利信さんの素晴らしい舞台でしたね。私も台本やDVDなどでは見せていただいていたのですが、実演ではやっぱり圧倒されました。
 これは、「私」と「宮澤賢治」との間で繰り広げられるダイナミックな劇であるとともに、賢治ファンにとっては、様々な賢治作品のカタログのように楽しむこともできる作品です。
 さっき出てきた作品(および書簡)を順にリストアップしてみると、下のようになります。

「宮沢賢治の世界感覚」2

 有名な作品もあれば、さほど有名ではないけれどもいかにも「賢治らしい」ものもあります。竹崎さんが賢治に注ぐ視線が、感じられるようです。

 今日は、ここから出発して、後の第三部の「なめとこ山の熊」につながるお話がしたいと思っておりまして、そしてその中では、ちょうど1週間後に丸一年という節目を迎える東日本大震災のことにも触れる予定です。話のテーマとするのは、「宮沢賢治という人は、この世界を、どんな風に感じていたんだろうか」ということです。
 賢治は、まだSF小説もなかった大正時代に、「鉄道列車が宇宙空間を駆ける」などというような驚くべきイマジネーションを働かせていた人です。とても常人にその感覚を追体験することは難しいでしょうが、私なりの見方でその特徴を一つ挙げるとすれば、自己と他者、自己と世界などの間の「一体感」を、彼は他の人よりも強く、おそらく生得的に体験してしまう人だったのではないか、ということがあります。


2.外界=内界ということ

 竹崎さんが「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」において引用された賢治のテキストの中から、まず『注文の多い料理店』の「序」を見てみます。ご存じのように、これは賢治が生前に刊行した唯一の童話集ですが、その冒頭で彼は自分がそれらのお話を書いた「方法」について、説明しています。

(前略)
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
(後略)

 ここで宮沢賢治が言っているのは、彼はこれらの物語を書斎の中で想像力を働かせて「創り出した」のではなくて、「林や野はらや鉄道線路やら」の屋外で、虹や月あかりから「もらつてきた」ということです。
 童話の内容には、かなり非現実的な、空想的なこともたくさん含まれていますが、彼はそれを能動的に「考え出した」のではなくて、「どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまで」だと主張しています。ここでは、「そのとほり」という言葉が最も特徴的だと思います。
 彼にとってはこれらのお話は、ふと向こうから「現われた」ようなもので、その訪れは、まるで受動的な体験であったかのように説明されています。
 屋外で、感じとったことを「そのとほり書いた」というのですから、これは絵を描く際に、外の景色を「写生」するということに似ていますよね。


 それでは次に、竹崎さんが引用された作品リストから、今度は『春と修羅』の「序」を見てみます。これも彼が生前唯一刊行した詩集で、やはりその序文においては、自分がそれらの作品を書いた方法について述べています。

(前略)
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

これらについて人や銀河や修羅や海膽は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)
(後略)

 さて、ここにも「そのとほりの心象スケッチ」という言葉が出てきます。やはり、「創り出した」とか「考え出した」のではなくて、「ありのままに書いた」ということを、彼は強調しています。「スケッチ」という言葉も、先ほど絵画に喩えて申し上げた「写生」ということに通じますね。
 しかしここで賢治は、「心象スケッチ」と言っています。「心象」とは、「心の中で生起する現象」というような意味でしょうから、「外界」ではなく「内界」が、その描写の対象になっていることになります。そうすると、先ほどの『注文の多い料理店』の「序」において、彼がその作品を外界から、「虹や月あかりからもらつて」くると述べていたのとは、方法論がまるで正反対のようにも思えます。

 しかし、その前後もあわせてもう一度読んでみると、その答えが浮かび上がってきます。
 上で賢治が、「すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるもの」という言葉で何を言おうとしているのか考えると、「みんなが同時に感ずる」というのですから、これは賢治ただ一人の「心の中で起こっている現象」にとどまらず、実は人々が共通に体験する出来事だというわけです。
 「人々が共通に体験する」現象とは、ふつうに考えれば、これは個人の「内界」にあるのではなくて、みんなに見える「外界」に位置する事柄のはずです。
 それでは、なぜ賢治がそういった「外界の現象」のことを、「心象」などと呼んだのでしょうか。その理由は、少し後の方に書かれているように、彼は「それらも畢竟こゝろの風物」だと見なしていたからです。
 つまり、「外界=内界」であると賢治は感じていたのです。

 人間の内界(心の中)には、五感によって知覚された外界の現象が再現されているわけでしょうから、この意味では、内界には外界と同じものが存在するとも言えます。
 しかしふつう私たちは、外界と内界とは別物としてとらえます。その理由の一つは、内界には個人的に考えたり想像しただけの事柄や、様々な個人的感情があふれているのに、これらは外界に存在しているわけではないからです。
 それなのに、なぜ賢治は「外界=内界」ととらえるのでしょうか。

 その理由こそが、賢治独特の世界感覚に由来するところだと私は思います。彼にとっては、自分の心の「内界」と、自分の外に広がる「外界」との境界線が、他の多くの人が感じているよりも、あいまいなものだったのではないかと、私は想像するのです。
 たとえば人が、そこにいるはずのない人の姿を目の前に見たり、しゃべるはずのない物の声を聴いたりしたとします。このような現象を「科学的」に解釈すれば、それは「幻覚」と呼ばれる体験であって、実際にはその人の「内界」に属する出来事が、あたかも「外界」で起こっているかのように誤って感じられたものだということになります。
 賢治は実際にしばしば幻覚を体験していたようで、その描写は『春と修羅』に収録されている詩にもたくさん出てきます。そして賢治自身、科学者としての眼からは、それらを幻覚体験として自覚していた様子が見てとれます。
 しかし一方、そのような(幻覚)体験をしている本人の率直な感覚からすると、いるはずのない人の姿も、しゃべるはずのない物の声も、本人の「内から」ではなくて「外から」やって来ていると感じられるのです。冷静な判断に従えばそんなことはありえないと思う反面、それでも実際に「外界」の現象として、ありありと体験されるのです。
 この体験感覚を素直に敷衍していけば、「外界と内界の区別というのは、相対的なものにすぎない」とか、あるいは「本当は両者は一体となった現象である」という考えに行き着きます。古今東西に、そのように考える哲学もたくさんあります。
 賢治にとっては、科学的な見方とは別に、このような世界観も「詩的真実」だったのだろうと、私は思います。

 つまり賢治は、「外界=内界」ととらえる独特の感覚があったようで、そのような立場からすると、外の風景を「写生」することと、心象を「スケッチ」することとは、結局は同じ営みだということになります。すなわち、『注文の多い料理店』の「序」と『春と修羅』の「序」で述べていることは、対極的なようでいて、実は同じだったわけです。


3.<わたくし>=<世界>ということ

 以上のような、「外界=内界」という彼独特の感覚を、ちょっと図にしてみました。

 まず、<わたくし>と<世界>との関係としては、ふつうは誰しも下図のように感じるでしょう。
 ここでは、<世界>の中に、一つの個体としての<わたくし>が含まれています。

<わたくし>=<世界>1

 その<世界>の中で賢治は、「虹や月あかり」からお話を「もらつて」きます。それらの現象は、賢治にとっては「ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたない」ことなのですが、その外的な実在感があまりにも強い(あるやうでしかたない)ため、彼にとってはこれは「外界」の出来事なのか、「内界」の出来事なのか、区別はあいまいになってしまいます。

<わたくし>=<世界>という感覚2

 自分と、自分以外の存在(他者)との間の境界線、すなわち「自我境界」が、希薄になってくるのです。
 そして、いつしか<わたくし>と<世界>が、一つに溶け合っているような感覚にも至ります。

<わたくし>=<世界>という感覚3

 こうなってしまうと、もはや<世界>の中に<わたくし>がその一部分として所属しているのか、あるいは逆に、<わたくし>の中に<世界>があるのか、その区別も無意味になってきます。

<わたくし>=<世界>という感覚4

 そして右は、<わたくし>が、<世界>を包含している状況です。『春と修羅』の「序」において、世界におけるさまざまな現象のことを、「それらも畢竟こゝろのひとつの風物です」と述べた賢治の感じ方は、これに相当するものでしょう。ここでは世界は、わたくしの心における現象(=心象)なのです。

 そして、<わたくし>が<世界>を包含しているのであれば、単に<わたくし>だけでなく、世界における他の存在も、それぞれが<世界>を包含しているはずだということになります。
 『春と修羅』の「序」には、「人や銀河や修羅や海膽」が出てきますが、それぞれの中にも<世界>があるでしょう。

<わたくし>=<世界>という感覚5

 そして、上の『春と修羅』の「序」に出てきた、(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)という有名だけど何かわけのわからないフレーズの意味することは、まさにこういう有り様のことなのだろうと思います。
 「<わたくし>の中のみんな」は、それぞれがまた<世界>を孕み、その中にはさらに「みんな」が含まれているという、無限の入れ子構造が存在するわけです。そしてすべては、究極のところで「一体」であるというのです。


4.作品に見る「自己」と「世界」の一体化

 このように、外界と内界が実は一つのものであるとか、世界そのものとその中に含まれる(と感じられている)存在が複雑な入れ子構造になっているとかいうことは、実は昔から仏教の教学で説かれていた事柄でもあります。
 たとえば「華厳経」には、帝釈天の宮殿には無数の宝珠の付いた巨大な網が掛けられていて、それぞれの宝珠の表面には、それ以外のすべての宝珠が映っている、そして映された個々の宝珠の表面には、またすべての宝珠が映っているという、無限に映し映される関係が描かれています。これは、賢治の作品「インドラの網」にも登場します。

 「ごらん、そら、インドラの網を。」
 私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く幾億互に交錯し光って顫えて燃えました。

 これはまさに、先ほどの(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)という感覚に通じるものです。
 しかしそれでは、これまで述べたような、「外界=内界」とか、<わたくし>=<世界>という認識は、賢治が仏教を勉強することによって、後天的に身に付けたものなのでしょうか。私はこれに関しては、この世界観は彼がもともと生得的に持っていた感覚であって、仏教はそれをさらに裏付けしたかもしれないけれども、その本質は、賢治が仏教の理論に出会う以前から、彼の身に備わっていたものだと思うのです。

 それが、理屈を越えた生得的な感覚に根ざしているだろうということは、彼の作品から見てとることができます。

作品に見る「自己」と「世界」の一体化

 最初に挙げたのは、「春と修羅 第二集」に収められている「種山ヶ原」という作品の初期形の一節です。ここで賢治は、大好きな「種山ヶ原」という高原を散策しながら、まさに恍惚とした忘我の境地に至ります。そして、美しい高原の「水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と謳うのです。
 これこそ、<わたくし>=<世界>という理屈抜きの実感の、いかにも賢治らしい詩的表現だと思います。

 二番目の「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」という言葉は、ともに活動しようとする仲間の青年たちに向けた、一種のスローガンとして「農民芸術概論綱要」に記されているものです。しかし、賢治はこれによって、いったい何を訴えたかったのでしょうか。
 もちろん彼はここで、現実に自分の身体を「微塵」に粉砕せよと言っているわけではありません。これも賢治独特の「自他一体」の世界観をもとに、「さあみんな、私と一緒に、自らと宇宙全体とを一体化させよう」と呼びかけている言葉なのだと思います。「微塵となりて…ちらばらう」とは、上の「種山ヶ原」下書稿において、「わたくしは水や風やそれらの核の一部分で/それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」と記されていることと、結局は同じことを言っているのでしょう。

 さて、その次の「グスコンブドリの伝記」は、有名な「グスコーブドリの伝記」の初期形ですが、ここで主人公のブドリは、比喩的な意味ではなしに、文字どおり自らを「青ぞらのごみ=宇宙の微塵」にしようとします。ブドリの行為に対する評価はさまざまにありえますが、最近ツイッターでにおいて、これは「世界への愛」の表現だろうという指摘をいただきました。
 これはまさにそのとおりだと、私も思います。種山ヶ原において、賢治はその自然への愛ゆえに、自分と高原が一体であると感じたわけですし、「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」という言葉で表現されているのも、「宇宙に対する愛」にほかなりません。

 最後に挙げた、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というのも有名で、これはいかにも「宮澤賢治らしい」言葉として、しばしば引用されるものです。個人的な幸福など追求せずに、ひたすら「みんなのほんたうのさいはひ」のために身を削るような努力を続けた、彼の高邁な理想を表している言葉として解釈するのが一般的です。
 ただ私が思うには、賢治にとってはこの言葉の真意は、何も倫理や道徳から考えて導き出したものではなくて、<わたくし>と<世界>が一体のものであるところから、自然に素朴に湧いてきたものではないでしょうか。「一体」である以上、<世界>と区別して<わたくし>だけの幸福というのは存在しえず、賢治のような人にとって幸福というものは、<世界がぜんたい>ともにそうであるほかには存在しえないのだと思います。

 以上、<わたくし>と<世界>が一体となった賢治の感覚を、いくつかの作品から垣間見ました。次にそのような特性を、彼の生涯における他のエピソードから、見直してみます。


5.賢治の生来的な「共振性」の高さ

 先ほどの竹崎さんの「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」の中に、「怪我した友達の、血と泥にまみれた指を『いたかべ、いたかべ』と、夢中で吸っていたあの人」が登場しましたが、これは賢治が小学2年の頃の逸話です。友達の指から血が出ているのを見た賢治は、思わず駆け寄って、「痛いだろ、痛いだろ」と言いつつ流れる血を吸ってやったのだそうです。

賢治の生来的な「共振性」の高さ

 これも、頭で考えてからの行動というよりも、思わずとっさに出たような感じで、彼の生来的な特性を表す例の一つだと思います。「他人の痛み」をまるでそのまま「自分の痛み」として感じてしまうところは、大人になってからの賢治にもしばしば見受けられます。先に、「自己と他者の間の境界線があいまいである」ということを彼の特徴として挙げましたが、これもそのような傾向の表れと言えます。

 次に出てくる、「霊磁式静坐法」という何やら怪しげなものは、今で言う催眠術の一種だったのでしょう。「佐々木電眼」というこれまた怪しげな名前の人物が、中学校の近くに施術院を構えて実演をしていたようですが、何を思ったか賢治がそこへ行って「静坐法」の指導を受けてみたところ、「40分にして全身の筋肉の自動的活動を来し・・・」と父に書き送っています。
 すっかり電眼氏に心酔した賢治は、その後何ヵ月も彼のもとへ通い、冬休みには花巻の自宅まで連れてきて家族にも「静坐法」を受けさせました。しかし冷静な現実家の父は、電眼氏が長時間にわたり汗を流して術をかけようとしても、平気で笑っているだけだったので、「遂に電眼はあきらめて、雑煮餅を十数杯平らげて、山猫博士のように退散したのであった」と宮澤清六氏は書いています(「十一月三日の手紙」)。
 ちょっと微笑ましい、思春期の賢治の逸話です。

 最後の「幻覚体験」のことはすでに上にも触れましたが、これも彼の学生時代からいろいろエピソードはありますし、作品にも数多く描かれています。精神医学的に見ると、たとえば「青森挽歌」で、《おいおい、あの顔いろは少し青かつたよ》などという声が聴こえてきて、半分は幻聴とわかりながらもその相手と「対話」をしてしまう場面など、まさに「解離性幻覚」と呼ばれる体験の記録そのもののようで、こういう経験がない人が想像して書いているとは思えません。これは文字どおり「そのとほりの心象スケッチ」だと思います。

 さて、直接は関係のなさそうな三つのエピソードを並べましたが、この三種類の体験は、実際に強く関連していることが、医学的な観察からわかっています。
 誰しも、大切な人の痛みであればまるで自分の痛みのように感じることがあるでしょうし、時と場合によっては催眠にかかることもあるでしょう。また、入眠時や出眠時には、人の気配がしたり声が聴こえたように感じたり、幻覚に似た体験をすることもあります。すなわち、共感性や催眠の感受性や幻覚体験の可能性は、誰でも少しは持っている傾向なのです。ただ、それが人によって、低い人から高い人まで、個人差があるのです。
 そして、この三つの傾向は互いに「相関している」=つまりこのうち一つの傾向が高い人は、あとの二つもだいたい高くなっていることが統計的に確認されています。
 その傾向を単純化して言えば、「自己と他者の間の境界が薄く、周囲からの影響に敏感で、自分の心における『表象』と外的な『知覚』の区別もあいまいになりやすい」ということになります。このような傾向が強い人ほど、遠くの人の苦しみもまるで自分の苦しみのように体験してしまい、人からの暗示に影響されやすく、他の人が感じられないものを感じてしまうのです。
 私は、宮澤賢治という人の作品や生涯の逸話は、彼がそのような傾向性の非常に高い人だったことを示していると考えます。


5.東日本大震災と賢治作品

 昨年の震災を契機に、宮澤賢治の作品がふたたび注目を集めるようになりました。「雨ニモマケズ」は、国内外のさまざまな場所で朗読されています。
 その理由の一端は、彼が東北岩手の出身だったことにあり、また彼の生年と没年にやはり三陸地方を記録的な大津波が襲っていたという偶然にもよっているでしょう。しかし私は、彼の作品が震災後の状況で人々の拠りどころとなっているのは、このような外的な要因によるだけでなく、彼の作品やその人となりの、特徴的な性質によるのではないかと考えています。

 それは、これまで述べてきたように、宮澤賢治という人が、自己と他者、あるいは自己と世界の間に境界線を引かず、一体のものとしてとらえ、それを作品にしていたからだと思うのです。

 ふだん私たちは、ある程度は他人にも共感しつつ生き、また自然との一体感を体験することもあります。
 しかし、文明というものは、人間が自らを自然と区別し、人間の生活空間を自分たちに都合よく整備していくことから始まりました。雨風や寒さから暮らしを守るために、屋根や壁で外界から仕切られた「家」というものを作り、集落を海や川の水から守るために、堤防を築いてきたのです。
 あるいは、近代的な個人は、しっかりとした自我を確立し、周囲の雰囲気や感情に流されずに自分の頭で考えて判断するべきものとされています。また、現代の生活においては、個人のプライバシーは互いに尊重しなければならず、人と人、家と家の間には、一定の心理的距離を保たなければなりません。

 しかし、先の東日本大震災とそれに伴う大津波は、このようにして人間が築いてきたさまざまな「境界」を、一挙に破壊してしまったのです。
 「家」は崩れて屋外と屋内の境はなくなり、津波は防潮堤を突破して、海と町の区別も消滅してしまいました。
 家も財産も流されてしまった人々は、お金持ちだった人もそうでなかった人も、一緒に大きな避難所に集まって、一体となった生活を始めました。
 さらに付け加えるならば、原子力発電所の事故によって、放射能を外界から隔離するための原子炉格納容器も損傷し、放射性物質にとっての「内」と「外」の区別までもが、一部で失われました。

 ここに図らずも現出した世界は、あたかも宮澤賢治の感性がとらえたもののように、すべての人々や、人間と自然が、混然と溶け合い一体となっている状況だったのです。
 それは、直接被災した人々にとってそうであっただけでなく、私のように離れた土地からテレビなどの映像でそれを体験した人にとっても、ある程度まではそうでした。3月11日の夕方から、すべてのチャンネルがCMもはさまずに延々と流し続けた映像は、日本中のほとんどの人によって同時的に共有されていたでしょう。そこには、被災地と遠隔地の間の境さえ越えさせる、目に見えない力が働いていました。そして、たとえふだんは自分や家族の生活で精一杯という人でも、見知らぬ被災者が大切な人を喪って嘆き悲しむ様子を見ると、思わず我が事のように胸が痛み、心が大きく揺れ動くのを感じたのではないでしょうか。

 恥ずかしながら私は3月11日の夜に茫然とテレビを見つつ、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と賢治が言った心境は、まさにこういうものだったのかと思い至りました。自分が何事もなく暖かい部屋の中でテレビを見ていることが、現地の人々に対してまるで申し訳ないように感じ、被害に遭った方々全員が救われないかぎりは、自分の心も救われないというような、一方的な思いを禁じ得ませんでした。

 おそらくこれに似た感覚は、少なくとも震災後の数日間、日本中かなりの人が体験したことだったのではないでしょうか。そしてこのような苦しい感覚こそ、賢治のような人はふだんからいつも味わっているものだったのだと思います。大震災は多くの人に、「賢治的」に世界を体験させたのです。
 そしてこれが、大震災を契機に賢治の作品が多くの人の共感を集めた、本当の理由なのだと私は思います。人々は知らず知らずに、彼のさまざまな作品の中に、自分を今とらえている感覚の表現を見てとったのではないでしょうか。

 これが、今日ここで私がお話したかったことのポイントです。

東日本大震災と賢治作品


6.「なめとこ山の熊」の生命観

 さて、これからの第三部では、竹崎利信さんと友枝良平さんが「かたり」と揚琴の音楽によって、賢治の「なめとこ山の熊」を上演して下さいます。
 この「なめとこ山の熊」というお話は、生き物の「命」というものについて、賢治がその思いを表現した作品とも言えます。震災の後、あらためて命の尊さを身にしみて感じている私たちに、それは何かを教えてくれるかもしれません。
 また、ふだんは自然の力をコントロールして生活しているつもりになっている私たちに、地震と津波の力は、人間は自然の中のちっぽけな一部にすぎないことを思い起こさせてくれました。このお話に出てくる猟師の小十郎はまさにそのように自然の一部として熊と対等に生きています。そして対等に死にます。中ほどに出てくる「荒物屋の旦那」は、熊にも出会わない安全な(と思っている)場所でぬくぬくと暮らしていて、自然に対して思い上がっている平素の人間を象徴しているようにも思えたりします。

「なめとこ山の熊」の生命観

 ここでも、賢治が描く世界の根底にあるのは、これまで述べてきたような、人間と自然とが「一体である」という、彼らしい感覚です。
 多くの人は、人間の命と熊の命を比べると、無条件に前者の方が優先されるべきだと考えるでしょう。それは常識的なことです。賢治ももちろん一方ではそういう認識を持ちながらも、熊にも人にも同等に感情移入してしまう彼の感覚は、通常の「人間中心主義」の世界観に飽き足りませんでした。
 そこで描き出されたのが、熊と人間とがお互いの命への畏敬を抱きつつ、ともに生き、ともに死ぬという世界です。
 それは、「人間的」な視点から見れば、「自然の過酷さ」を表現しているようにも思えます。また同時にこのお話は、高い山の頂で月に照らされている氷のように、その厳しさゆえの美しさも備えていると感じられます。

 それでは、私の話はここまでです。休憩をはさんで、第三部の「なめとこ山の熊」をどうかお楽しみ下さい。

霧に隠れた「なめとこ山」

 ちなみに上の写真は、今回のチラシにも使ったものですが、私が数年前に花巻の西の山奥の、「なめとこ山」が見える場所に行った時に撮ってきたものです。賢治が、「なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしてゐる」と描写したように、山の姿は霧の向こうにうっすらと隠れています。

 ご静聴ありがとうございました。

 寒い日々が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 さて、また下記のとおり、「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」を開催いたします。震災1周年の、ちょうど1週間前にあたります。

東日本大震災復興支援企画
第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都

日時: 2012年3月4日(日) 午後2時開演(午後1時半会場)
場所: 京都府庁旧本館正庁
内容:
  1. 「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」 構成・出演 竹崎利信
  2. 「宮沢賢治 ~人と思想(その1)~」 小講演 浜垣誠司
  3. 「なめとこ山の熊」 かたり 竹崎利信 & 音楽 友枝良平

参加費:2000円(義援金とします)
参加のお申し込みは 075-256-3759(アートステージ567)まで(12時-18時、月曜休)

 そして、下がチラシです。クリックすると別窓で拡大表示されます。

「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ表

「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ裏

◇          ◇

 プログラムの最初の「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」は、賢治の生涯や作品を題材としたいわゆる「一人芝居」で、竹崎利信さんが構成し、演じられます。賢治の作品の引用が散りばめられていて、賢治好きにとってはまるで名作カタログのようにも楽しめますが、はたして「わたし」が「あの人」を追い求める旅の行方は、いったいどうなるのでしょうか・・・?
 当日のプログラムのメイン・イベントは、竹崎さんによる「なめとこ山の熊」の「かたり」と、友枝良平さんの揚琴演奏のコラボレーションです。これはお二人のとっておきのレパートリーで、私は今から想像するだけでも涙がこぼれそうになります。
 私のお話は、「幻想旅行記」で浮かび上がる賢治の「人となり」と、「なめとこ山の熊」のバックボーンとなっている彼の生命観とを、つなげるような橋渡しになれば、と思っています。

 今回、会場として使用する「京都府庁旧本館」は、明治37年に竣工され今は国の重要文化財となっている建物です。「正庁」というのはその中でもいちばん立派な部屋で、公式行事や公賓の接遇などに使われていました。大正4年の大正天皇即位の礼および昭和3年の昭和天皇即位の礼の際には、内閣全体が天皇に帯同し京都に来ていたので、この部屋で閣議が行われたということです。
 前回の「法然院本堂」もそうでしたが、この会場も、中に入ってその空間を体験していただくだけでも、価値のあるところだと思います。

京都府庁旧本館正庁

 上の写真は、先月に下見に行った時のものです。シャンデリアや大きな窓とカーテンから私がちょっと連想したのは、賢治が通っていた盛岡高等農林学校の「講堂」でした。ちなみに、盛岡高等農林学校の本館は大正元年の竣工で、やはり重要文化財に指定されています。

◇          ◇

 チラシに使用させていただいた絵(木版画)は、前回に続いて鈴木広美画伯の作品です。
 本来は「なめとこ山の熊」とは全く無関係な作品なのですが、私はこれを見て、小十郎が死んでしまった後で、いつも一緒に猟に出ていたあの犬が、小十郎のことを思いつつ夜空の星を眺めているところに思えてしようがありませんでした。あるいは、視線の先には、熊たちが環になって小十郎の遺体を囲んでいる情景があるのかもしれない、などとも思えました。
 それで無理をお願いして、チラシに使わせていただいた次第です。この場を借りて、鈴木広美さんに感謝申し上げます。

 ついでにご紹介すると、版画のバックの山並みは、私が2004年に実際になめとこ山の周辺で撮ってきた写真をもとにしています。(下写真でなめとこ山は、中央やや右寄りに霧で隠れてうっすらとだけ見えます。)

なめとこ山のあたり

 テキストの区切りに置かれている小さな白い花は、熊の母子が印象的な会話をかわしていた「ひきざくら」(=こぶし、マグノリア)です。

◇          ◇

 参加ご希望の方は、当サイト管理人あてにメールをいただくか、上にも記しましたように  075-256-3759(アートステージ567:12時-18時、月曜休)まで、お電話を下さい。
 早春の京都で、お待ちしています。

災害と賢治

「災害と賢治」-今、もし賢治がいたら 

0.はじめに

 今日お話させていただくのは「災害と賢治」というタイトルなんですが、生前の宮沢賢治は災害というものについて、どんな思いや態度でいたのだろうかということについて、考えてみたいと思います。副題に、「今、もし賢治がいたら」と書いていますように、今の日本のこの大変な状況にあって、もしも賢治が生きていたら、何を考え、どんな行動をとっただろうかということを、何とか推し測ってみたいという気持ちもあります。

「第1回 イーハトーブ・プロジェクトin京都」-満員御礼 この、「今、もし賢治がいたら」という疑問は、これまで賢治に関心を抱いてきた者として、3月11日の震災以来つねに私の胸のどこかにあったものでした。そして、今日のこの催しを企画するために、3月20日に初めてここ「アートステージ567」にやって来た時に、Hさんからまず私に突き付けられた問いでもありました。
 その時にははっきりとはお答えできないままだったのですが、私はその後この自問をふとツイッターに書き込んでみたところ、特に皆の意見を求めたわけではなく独り言のように呟いただけだったのですが、驚くほどいろいろなお返事が帰ってきました。
 賢治は、「自ら原発や瓦礫の間に分け入ろうとしてレスキュー隊や自衛隊と揉めているか」、あるいは「避難所生活を共にして今頃水や食料の確保に駆け回っているか…」と想像した方もありました。
 また、集団で協力し合って物事にあたるのが得意な人と、個人で行動するのが得意な人がいるけれども、賢治は後者だと思われるので、「だから多分一人でがれきを片付けたり、ひとりひとりの話を聞いて回ったり…かな」という意見も寄せられました。
 そして、賢治がとったであろう行動は、ひょっとしたら周囲の人からは「愚かなこと」と思われるようなことだったかもしれない、と指摘して下さった方もありました。この視点は、「デクノボー」の人間像や、「虔十公園林」の虔十の行動にも通ずるもので、おそらくそこには深い意味があるでしょう。この点については、後でまた触れる予定です。

 さて、こういう経過もあり、あらためて私は「災害と賢治」についていろんなことを考えさせられたのですが、ただ、賢治自身は、災害の現場で何かの活動をした記録があるわけでもなく、「災害論」のようなものを書き残しているわけでもないのです。ですから、「賢治だったらどうしたか?」という考察をしようとしても、せいぜい作品の一部や伝記的事項をもとに、想像をたくましくして推測してみるということしかできません。
 そもそもこれは、はっきりした答えが出る問いではないのですが、今回の震災を機に賢治について考えてみようという本日の催しの趣旨には沿うものですし、答えの当否はともかく、賢治の作品や思想を振り返ってみる一つの切り口にはなると思いますので、今日のテーマとさせていただいた次第です。

 ということで、今日のお話の大まかな内容は、次のようになる予定です。

「災害と賢治」-本日のお話

 賢治の作品や伝記的事項の中で、「災害」と言える上記のような題材が出てくるものを順番に検討し、それらに対する賢治の態度を見てみます。そして次にそれを整理して、賢治という人が災害や自然との関わりにおいてどういう思いを抱きつつ生きていたのかを、考えてみようと思います。
 一般にこういうテーマというのは、論者それぞれの「賢治に対する思い入れ」にもとづいて、あれこれ好き勝手に推測を述べるという形になりがちです。「私なりに抱いている賢治のイメージからすると、きっとこうしたのではないか」ということの、まあ主観的な表明です。
 もちろんそのような話も面白いのですが、ここでは賢治に関する伝記的事実や、作品内で直接描かれていることをもとに、なるべく客観的に考えてみたいと思います。無論それでも、背景に私なりの賢治に対する主観的「思い入れ」があるのは事実ですが・・・。


1.地震・津波 ~荒ぶる自然の申し子?~

 このたびの東日本大震災の中心は、まずM9.0という未曾有の大地震と、それに続く巨大な津波でした。
 よく話題になるように、宮沢賢治の生涯も、その始めと終わりを大規模な地震と津波が特徴づけています。

 まず賢治が生まれた1896年(明治29年)6月25日には、「明治三陸地震」と「明治三陸大津波」がありました。それまでは行政用語として限定的に使われていただけだった「三陸」という地名表現が、広く一般に普及したのも、この災害がきっかけだったと言われています。
 この時の死者は2万1915人で、現在も津波の死者数としては日本最大で、波の最大遡上高は38.2mで、これも現時点では観測史上最高です。
 これは、賢治が生まれる2ヵ月前の出来事でしたが、彼が生まれた直後にも、岩手県内陸地方では大きな地震がありました。8月31日に起こった陸羽地震がそれで、震度は6ー7程度あったと言われています。母のイチは、まだ生後数日だった賢治の上に覆い被さるようにして、わが子を守ろうとしたそうです。

 そして、賢治が亡くなった1933年(昭和8年)3月3日には、明治三陸大津波と並び称される「昭和三陸大津波」がありました。これは賢治が死去する約半年前のことで、すでに賢治の病状は重く、ほとんど病床から離れられない状態でした。ですから、この津波災害に際して賢治が何らかの社会的行動をすることは、すでに不可能になっていました。
 ただ、この津波の後まもなく、賢治の弟の清六氏が、「釜石に急行して罹災者を見舞った」と記していることは、注目に値すると思います(『兄賢治の生涯』ちくま文庫)。
 おそらくまだ交通も寸断されていた時期に、内陸の花巻から沿岸で最も被害が大きかった地区へ入ったというのは、かなり思い切った行動だったのではないでしょうか。釜石に宮沢家の親戚がいたということが、災害直後に急行した直接の理由かと推測されますが、弟がこういう行動をとるということは、賢治もこの時もし「丈夫ナカラダ」だったら、被災地に直接赴いたのではないかと、一つの想像が成り立つと思います。
 なお、この地震・津波の後に、東京在住の大木實という詩人から届いた見舞い状に対して、賢治が出した返事が残っています(下写真は勉誠出版『月光2』p.163-164より)。

書簡459a

 「被害は津波によるもの最多く海岸は実に悲惨です。」との言葉が、ちょうど今の私たちの胸にも突き刺さります。今回の震災とほぼ同じ時季のできごとでしたが、「何かにみんなで折角春を待ってゐる次第です。」とは、今年の東北でも共有されていた思いでしょう。

 津波とともにこの世に生まれ、津波とともに去っていった賢治の生涯は、あたかも「風の又三郎」が、二百十日の風とともに山あいの村に現れ、また風とともにどこかへ行ってしまったという設定を、彷彿とさせます。清六氏は『兄賢治の生涯』に、次のように書いています。

このように賢治の生まれた年と死亡した年に大津波があったということにも、天候や気温や災害を憂慮しつづけた彼の生涯と、何等かの暗合を感ずるのである。

 賢治は、荒ぶる自然の申し子のようにこの人間界に生まれ、科学や宗教をより所として、実践的に自然災害に関わるようになります。


2.雪山遭難 ~自然と人間との関係について~

 さて次は「雪山遭難」というテーマです。さきほど第一部で菅原さんが朗読された「水仙月の四日」というお話は、ほんとうに美しかったですね。人の命を奪うような猛吹雪が襲来する刻一刻の描写も、水晶のように透き通っていました。
 しかしある面でいかに美しくとも、雪山や吹雪は人間にとって非常に怖ろしいものです。岩手の内陸で生まれ育った賢治にとって、これは小さい頃から言い聞かされてきたことでしょうし、それからお隣の青森における「八甲田山雪中行軍訓練」で、壮健なはずの陸軍連隊210名中199名が死亡した事件は、1902年(明治35年)のことでした。この衝撃も、賢治の幼時記憶には刻まれていたかもしれません。

 「水仙月の四日」に雪の精霊として登場する雪童子は、「顔を苹果のやうにかがやかし」ている可愛い子どもです。このお話では、たまたま人の子を救いましたが、また別の時には死なせているのでしょう(童話「ひかりの素足」では、一人は死に一人は生き残りました)。吹雪がやって来る時の、「雪童子の眼は、鋭く燃えるやうに光りました」という箇所などは、この子の本当の怖ろしさを垣間見せます。
 また「雪婆んご」の方は、年とった「魔女」あるいは「山姥」のようで、もっと冷たく恐そうな存在ですね。

 しかしだからと言って、このお話で雪婆んごや雪童子が、人間の「敵」であり人間と対立する「悪者」として描かれているかというと、まったくそんなところはないのです。
 それどころか、人間と彼ら自然の精霊は、一つにつながっている存在として提示されているようでもあります。
 「人間」と「雪婆んご」の間にはちょっと距離があるようで、きっと雪婆んごには、人間的な感情など理解する余地などないのかもしれません。しかしここで、両者の間に「雪童子」という中間項を入れてみると、ちょうどこの両者を媒介してくれるように見えます。
 雪童子は雪婆んごの配下であり、彼女の命令に従って雪を降らせ、時に人の命を取ります。しかし一方で、雪童子は人間の行動も興味を持って眺めたり、自分が投げてやったヤドリギの枝を子どもが大事に持っていたことで、「ちよつと泣くやうに」したりもするのです。雪童子は、人間と自然の両方の性質を帯びた、一種の境界的な存在のようですね(下図)。

人間-雪童子-雪婆んご

 雪童子という存在について、次のように考えてみることもできるかもしれません。東北地方には「雪女」という伝承もあって、やはりこれも美しいとともに怖ろしく、しばしば人間の命を奪う精霊ですが、伝承によればこの「雪女」とは、雪の中で遭難して亡くなってしまった人間の女性の化身であるとされています。
 もしも雪女の出自がそうであるならば、雪童子というのも、実は雪で亡くなった子どもの化身なのではないでしょうか。
 「水仙月の四日」には、雪婆んごが雪童子に向かって、「おや、をかしな子がゐるね、さうさう、こつちへとつておしまひ。」と命ずる場面があります。子どもを「殺しておしまひ」ではなくて、「こつちへとつておしまひ」と表現しているということは、子どもが死ぬと、雪婆んごや雪童子の側である「こつち」の存在として「転生」する運命にあることを、示しているのではないでしょうか。
 それならば、ここに出てくる雪童子も、しばらく前までは人間界で生きていた子どもだったのかもしれません。雪婆んごとは違って、この子にはまだ人間としての感覚が完全には失われていないために、人の子に対して「情が移ってしまう」のかもしれません。

 いずれにしても、この物語における「自然」は、とても怖ろしいけれども、「人間」と別個に対立する存在としてあるのではなく、どこかで人間と不可分な存在です。
 その特徴を浮き彫りにするために、西洋のお話でこれと類似した設定を持つ、アンデルセンの「雪の女王」という童話と較べてみましょう。

 このアンデルセンのお話においても、「雪婆んご」に相当する「雪の女王」は、「死」を象徴する存在です。しかし、人間との関係はかなり異なっています。
 ある日、カイという男の子の目と心臓に、悪魔が作った鏡のかけらが運悪く入ってしまいました。そのた「雪の女王」のお城へ向かうゲルダめに、カイは物事が歪んで見えるようになってしまい、幼なじみの女の子ゲルダと離れ、雪の女王に連れ去られてしまいます。カイを探してはるばる北へやって来たゲルダは、やっと雪の女王のお城を探し当てますが、城に近づこうとすると、生き物のような「雪の大軍」がそれを阻止します。ゲルダが思わず「主の祈り」を唱えると、その白い息がたくさんの天使となり、天使軍は雪の大軍を打ち負かします。そこでついにゲルダは雪の女王のお城に到達し、大好きなカイを救け出したのです(上挿絵は「青空文庫」内「雪の女王」より)。
 この西洋の童話においては、愛のある人間は「善」で、冷たく怖ろしい雪は、人間と対立する「悪」です。善と悪は戦い、神の守護を受けて善は勝利したのです。

 「雪の犠牲になりかけている子ども」と「雪の精霊」が登場することにおいては、アンデルセンの童話と、賢治の「水仙月の四日」は似ていますが、実は両者の世界観は、相当に異なっています。
 「水仙月の四日」においては、「雪」は善悪というような人間が決めた価値基準を超越した存在です。雪と対峙して天使とともに戦ったゲルダとは対照的に、「水仙月の四日」に出てくる子どもは、積もる雪に受動的に包み込まれてしまいます。この物語では、その柔らかい褥(しとね)は結果的に子どもを守り救けましたが、しかし一歩間違えば、これは命取りになる状況でもありました。
 「水仙月の四日」で描かれている「自然」は、人間にとってはむら気で残酷でありながらも、それは人間と対立しているわけではなくて、人間を包み込んでくれるものです。人を包みながら、救けてくれるかもしれないし、命を奪われるかもしれない、両価的な存在です。
 これが、いわば賢治の自然観だったと私は思いますが、実はこれは何も賢治独自の考えというわけではなくて、近代以前の日本では、当たり前の感覚だったようです。

 というのは、明治維新までの日本には、英語の Nature に相当する言葉が存在しなかったのだそうです。強いて似た意味の言葉を挙げれば、「森羅万象」「万物」などというものがそれにあたりますが、これらはいずれもその中に「人間」も一緒に含む概念です。
 そこで、「人間と対置される存在としての Nature」という概念を日本語に移し替えるために、「おのずから」という意味でそれまで使われていた「自然(じねん)」という言葉が、訳語に充てられることになったのだそうです。今から思えば不思議な感じもしますが、近代以前の日本人は、「人間」や「人工物」と対比させる意味で、「自然」という概念を用いることはなかったわけですね。
 人間が科学技術など様々な手段によって「自然を征服し支配する」という考えや行動は、19世紀から20世紀前半の西洋において頂点に達し、明治以降の日本にも取り入れられました。それからは、日本人もこういう視点で「自然」を見るのが当たり前になっていきます。
 しかし20世紀後半になると、環境破壊や公害などの問題が表面化してきて、人間は自然を「征服」するのでなく自然と「調和」しなければならないという考えが、しだいにクローズアップされてきます。でもこの「調和」も、実際には「人間」と「自然」を対置してとらえていることには変わりはなく、言ってみれば「戦争をするか、同盟を結ぶか」の違いにすぎません。 西洋由来で、最近の日本でも流行している「エコ」とか「自然との共生」という思想もそうでしょう。結局は、人間に都合のよいように、そして人間に利益がある範囲内において、自然を守り共存しようということです。いわば「人間中心主義」であり、これが言葉の本来の意味における「ヒューマニズム」です。

自然と人間

 しかし、賢治の深層にある自然観は、そんな生易しいものではなかったようです。人間は自然の一部としてその中に包み込まれていることを受け入れるとともに、なおかつ彼は、人間だけが特権的に他の存在よりも優位に立つことが許されるとは、考えなかったのです。
 たとえば「なめとこ山の熊」という童話では、猟師の小十郎が、熊を獲って生計を立てています。小十郎は、熊が憎くて殺すわけではありませんが、自分が生きるためにはそうするしかありませんでした。小十郎は本当は熊が好きでしたし、熊も小十郎が好きでした。
「なめとこ山の熊」(あべ弘士:画) しかしそのような生業の帰結として、ある日猟に出た小十郎は、熊に襲われて死んでしまいます。彼は死ぬ間際に、「熊ども、ゆるせよ」と心で念じました。そしてその三日目の晩、月の光の下でたくさんの熊が小十郎の死骸を輪になって囲み、祈るようにひれ伏す姿がありました(右はミキハウス刊あべ弘士画:『なめとこ山の熊』)。
 ここで、人と熊とは殺し殺される関係にありながら、互いに尊敬を払いつつ、文字どおり「対等に」生きています。そのようにして自然とともに生きている小十郎には、並々ならぬ覚悟と矜持が感じられます。
 しかし、このような「自然」と「人間」との関係は、ちょっと聞くと美しく感じられても、よく考えるととても一般に受け入れられるものではないでしょう。「反ヒューマニズム」とも言えます。よく言われるような「人の命は地球よりも重い」というような価値観とは、まったく相容れないものです。
 それでも賢治の思想の根底には、このような自然と人間との一体性・対等性を基本的に受容するという感覚があったのは確かだろうと、私は思います。
 宗教学者の山折哲雄さんは、この「なめとこ山の熊」を取り上げて、「『共生』だけでは生きることへの執着、エゴイズムになってしまうので、『共死』という思想が重要である」と言っておられます(「共死の思想の大切さを思う」)。熊も人間も死を受容している「なめとこ山の熊」の世界は、まさに「共死」を具現化しているものであり、賢治の思想の根幹にも関わるものだと思いますが、はたして山折さんは「共死の思想が大切だ」と言うことで、一般の人々に何を伝えたかったのでしょうか。人間が、他の生物と対等に「共に死ぬ」ことを受け容れよ、というのでしょうか。こんな考え方は、人間を中心として成立している私たちの社会のモラルとして、到底みんなが納得できるはずはないものですが・・・。
 賢治は、人に向かってそういう考えをさも有り難いことのように説くということはありませんでしたが、しかし自分の内奥にはしっかりと抱いていたのだろうと、私は思います。

 人間は大地の上に暮し、幸いなことに大地から様々な恵みを贈与されていますが、時にその大地が大きく揺れ動くと、人々の命や暮らしが失われることもあります。また日本人は、四方を海に囲まれて暮し、様々な海の幸を受けとっていますが、時に海は怖ろしい怒濤となって陸地へ押し寄せ、人々の命や暮らしを奪います。
 荒ぶる自然の申し子であった賢治は、元来このような自然の摂理を、どこか宿命のように受け容れていたような印象が、彼のいくつかの作品からは感じられます。

 それは、大いなる自然とちっぽけな人間との関係として、当時としては無理もなかったことなのかもしれません。賢治の生まれた家では、父が非常に熱心な浄土真宗の篤信家で、賢治自身も幼児期から真宗の教えを暗誦しながら育ちました。人間の無力さを知り、超越者としての阿弥陀如来にすべてを委ねる(絶対他力)という思想は、もともと賢治の心には沁みわたっていたと思いますが、このような大きな受容の心も、賢治の自然観の形成に与っていたのではないかと思います。

 しかし賢治は、そこにとどまってはいませんでした。青年期に法華経に出会って世界観の変容を体験し、また高等農林学校に進学した賢治は、西洋近代文明の成功の基盤となった自然科学を究めようとします。そこからは彼の新たな、いわば「ヒューマニズムの闘士」として立ち上がろうとする姿も現われるのです。


3.豪雨災害 ~必死の農業技術者~

 次に取り上げる作品は、賢治が盛岡高等農林学校で農学を修め、農学校教師として教育に携わった後、さらに教師を辞めて「羅須地人協会」の活動を行いつつ、近隣の農家のために無償で肥料設計をやっていた頃の詩「〔もうはたらくな〕」(「春と修羅 第三集」)です。

  一〇八八
              一九二七、八、二〇、
もうはたらくな
レーキを投げろ
この半月の曇天と
今朝のはげしい雷雨のために
おれが肥料を設計し
責任のあるみんなの稲が
次から次と倒れたのだ
稲が次々倒れたのだ
働くことの卑怯なときが
工場ばかりにあるのでない
ことにむちゃくちゃはたらいて
不安をまぎらかさうとする、
卑しいことだ
  ・・・・けれどもあゝまたあたらしく
     西には黒い死の群像が湧きあがる
     春にはそれは、
     恋愛自身とさへも云ひ
     考へられてゐたではないか・・・・
さあ一ぺん帰って
測候所へ電話をかけ
すっかりぬれる支度をし
頭を堅く縄って出て
青ざめてこわばったたくさんの顔に
一人づつぶっつかって
火のついたやうにはげまして行け
どんな手段を用ひても
辨償すると答へてあるけ

 作品の日付けとして記入されている1927年(昭和2年)8月20日、花巻地方は激しい雷雨に襲われ、まさに稔りの時期を迎えようとしていた稲は、ことごとく倒れてしまったのです。
 賢治が自らの知識と経験を傾けて肥料を設計した農家の人々の田の稲も、甚大な被害に遭い(=おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲が/次から次と倒れたのだ)、賢治は絶望的な気持ちに襲われます。彼は自らに対して、「もうはたらくな/レーキを投げろ」と嘲るような言葉を投げつけます。もうこんな状況では、真面目に働くことなど無意味だ、卑しいことだ、とさえ言うのです。
 いつも前向きに粘り強く努力を続ける賢治にしては、これは珍しい投げやりな態度ですが、思えば彼は盛岡高等農林学校では首席を通すほど勉強に励み、その後も自分の健康も害するほど献身的に、周囲の農家の人々に尽くしてきたのです。環境や能力にも恵まれた一人の人間として、農家の暮らしの改善のために最大限のことをやってきたはずなのに、その成果は一日の豪雨によって、無残にも打ち砕かれてしまいました。所詮、人間の努力なんて自然の威力の前では徒労にすぎないのではないか・・・。賢治がこの時そう感じたとしても、無理からぬことにも思えます。

 しかしやはり賢治は、自暴自棄な態度では終わりませんでした。「さあ一ぺん帰って/測候所へ電話をかけ/すっかりぬれる支度をし/頭を堅く縄って出て/青ざめてこわばったたくさんの顔に/一人づつぶっつかって/火のついたやうにはげまして行け」ともう一度自らに命じます。「火のついたやうにはげまして行け」という言葉からは、賢治の燃えるような行動的エネルギーも感じます。

 賢治は幼少期から、人が苦しんでいる様子を見ると、放っておけずすぐに行動に移す子どもだったということです。例えば小学校の3年頃、悪戯をした子が罰として水のいっぱい入った茶碗を両手に持たされ廊下に立たされているのを見て、「ひでがべ、ひでがべ」と言ってその茶碗の水をごくごく飲んでしまったという逸話もあります(関登久也『宮沢賢治物語』)。
 思えば賢治の父の政次郎氏も、家業を飛躍的に発展させただけでなく、仏教講習会の開催や、町会議員、民生委員、小作調停委員、家事調停委員、金銭債務調停委員、借地借家調停委員、育英会理事など地域の多数の役職を務めて公共福祉活動に貢献しました。また、弟の清六氏が昭和三陸大津波の直後に被災地を見舞ったことも、すでに触れたとおりです。行動・実践を重んずる賢治の態度は、こういった精力的な父や家庭の影響によるところも大きかったでしょう。
 また盛岡高等農林学校で、当時最新の自然科学を学び、科学が持つ現実変革の力を体験し自ら身につけたことも、行動主義的傾向を促進したかもしれません。
 そして彼は農学校教師になってからも、「実践」と重んじる教育を行いました。教科書はあまり使わず、理屈よりも現実への応用を旨として、「これは実際問題ですよ、実際問題です!」というのが、教室での彼の口癖だったということです(『証言 宮澤賢治先生』農文協)。
 生徒には、学校で学んだ農業の知識や技術を実地に生かさせるために、卒業すれば「百姓になる」ことを勧めましたが、現実には熱心に勉強する生徒ほど、さらに上級の学校に進学することを希望しました。結果として、賢治の宿願であった農民の生活の改善は、農学校教師という仕事を通じてはなかなか達成困難に思われました。
 それで賢治は、一方で生徒に「百姓をやれ」と勧めながら、自分は教師という職業に就いて安閑としていることにも、自己矛盾を感じるようになります。おそらくこういう様々な思いが交錯した結果、賢治は教師を辞めて、自ら「一人の百姓になる」という行動に踏み出すことになります。しかし無理がたたって結核を悪化させた賢治は、いったん死を覚悟するほどの病状にも陥り、数年間を病床で過ごすことになりました。
 けれども、賢治はまだそれくらいでは諦めません。何とか病状が回復すると、今度は石灰工場の嘱託技師となったのです。ここで賢治に嘱託されていた役割は、土壌学や肥料学の観点から専門的な助言をすることが中心だったのに、蓋を開けると彼は連日のように岩手や周辺各県をセールスマンのように奔走して、何とかして石灰肥料を東北地方に普及させようと、また無理を重ねてしまいます。その結果、再び結核の再燃を招くことになってしまいました。

 このように、賢治は飽くなき実践と行動の人でした。法華経に傾倒するや、冬の夜中に大声でお題目を唱え太鼓を叩きながら花巻の町を歩いて家族や近所の人を唖然とさせたり、父を改宗させるために突然家出をして東京へ行き、「下足番でもするつもりで」日蓮主義の国柱会に押しかけたり、こうと決めたら実行せずにはいられないところがあります。
 こういった傾向は、賢治が法華経を信仰するようになってから、特に顕著になってきたようです。それまで信じていた浄土系の仏教が、他力によって「あの世」での極楽往生を目ざすのと対照的に、法華系の宗派では「この世」を常寂光土とすべく自力による菩薩行の崇高性を説くこと、また日蓮その人も、鎌倉幕府に直言したのをはじめ何度弾圧されても主張を曲げず精力的に布教をした「行動の人」だったことなど、宗教的な背景も賢治に一定の影響を与えていたと思われます。

 さて、以上のような賢治の生き方は、「積極行動主義(activism)」とも呼べるものでしょう。勉強もしますが、議論したり考えたりするよりも、とにかく思い切って実際の行動に移してみるのです。
 ただ、そのような積極行動主義には、どうしても挫折もつきまといます。自分の知識や精魂を尽くして、農業生産を上げようとしても、自然はそう簡単に思い通りにはなりません。「〔もうはたらくな〕」という作品は、献身的な行動に明け暮れながらも、そのような努力が水の泡と消えようとする時、彼でさえも無力感や虚無感にさいなまれることがあったことを、率直に示してくれています。
 積極行動主義は、賢治という人間や生涯を理解する上では、重要な一つの側面であると思います。しかしそれは常に、厳しい現実との相克につきまとわれていたのです。


4.水難 ~「共苦」ということ~

 さて次に取り上げるのは、川や海で溺れる「水難」です。
 実は賢治には、子どもの水難事故に関して小学生時代の印象的な体験がありました。

1904年(明治37年・尋常小学校2年)8月1日(月) 川口小生徒沢田英馬・英五郎・高橋弥吉・沢田藤一郎の4名が豊沢川下流を徒歩渡り中、水勢のため流され、英馬と沢田藤一郎(4年生)は魚釣りの人に救われたが、2年生の英五郎・弥吉は行方不明となり、夜になっても探索がつづき、その舟の灯がぺかぺか光るのを豊沢橋より見つめる。溺死者は翌日発見。強い印象として残る。(『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)年譜篇より)

 真っ暗な川面の上で、行方不明の子どもを探す舟の灯が「ぺかぺか」と光る様子は、「銀河鉄道の夜」の最後の場面を彷彿とさせます。子どもの頃に見たこの情景は、賢治の心にそれほど強く焼き付いていたのでしょう。

「アザリア」の4人 一方、くしくも賢治の死ぬ直前にも、「銀河鉄道の夜」の最後と似た出来事が起こります。
 それは、盛岡高等農林学校時代に賢治にとって大切な親友だった河本義行(右写真で前列右)が、鳥取県の倉吉農学校の教諭として水泳の監視中に、同僚が溺れるのを見て海に飛び込み、同僚を救けた後に自分は亡くなってしまったのです。1933年(昭和8年)7月18日のことでした(上写真は『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)p.293より)。
 河本義行は、盛岡高等農林学校卒業後、郷里で農学校教師をするかたわら、積極的に文芸活動にも取り組んでいましたし、賢治と違ってスポーツも万能で、水泳も上手だったとのことです。いったいなぜ水難で命を落とすことになってしまったのか、かえすがえすも悔やまれます。
 ここで一つの問題は、賢治は自分が亡くなる前に、はたしてこの親友の死を知っていたのかということです。もしも知っていたら、それは「銀河鉄道の夜」のラストシーンにおけるカンパネルラの死と、否応なく重なりあったでしょう。これは、現存する資料からはまだ答えの出ていない謎ですが、遠く離れた岩手と鳥取のことであり、河本の遺族が賢治に知らせた形跡も残っていないことから、賢治「カンパネルラの館」は河本の死を知らなかったのではないかという説が多いようです。
 しかし、鳥取県に住んでおられる河本義行の遺族の方は、その遺品を展示する建物(右写真)に「カンパネルラの館」という名前を付けて、賢治との縁を偲ぶよすがとしておられます。
 一方、もしも賢治が親友の水死を知らずに「銀河鉄道の夜」を書いたのなら、その符合、なおさら不思議な感興が呼び起こされます。

 さて、次に取り上げる作品は、実際に水難事故が起こっているわけではありませんが、それが想像上の一つの主題となっているもので、賢治が農学校教師時代に書いた「イギリス海岸」という短篇です。賢治はこの頃、生徒たちと過ごす楽しい日々を題材にしたノンフィクションに近い作品をいくつか残していますが、これもその一つで、教師賢治としての明るく輝かしい、かけがえのない思い出が詰まっています。
 「イギリス海岸」というのは、皆さんもご存じのように「海岸」と言っても海ではなくて、北上川のとある岸辺のことです。賢治は、その場所の地質がイギリスのドーバー海峡のものと似ているというので、面白がって「イギリス海岸」という愛称を付けたもので、ここは現在でも花巻の観光地の一つになっていますね。
 夏になると賢治は、そのイギリス海岸に農学校の生徒たちを引率してやって来て、水泳をさせたのです。内陸部で海のないイギリス海岸花巻でも、他の学校では夏になると「臨海学校」が催されて海で泳ぐことができたのですが、貧しい農学校にはそんなイベントはありませんでした。そこで賢治は、北上川の岸辺にことさら「海岸」と名前を付けて、日頃は海に親しむことの少ない生徒たちへの贈り物としたわけです(上写真は現在のイギリス海岸)。

 その短篇「イギリス海岸」の中ほどには、水難事故予防のために町から救助係として雇われている男性(=「その人」)が出てきます。一人称の「私」が、賢治です。

「お暑うござんす。」私が挨拶しましたらその人は少しきまり悪さうに笑って、「なあに、おうちの生徒さんぐらゐ大きな方ならあぶないこともないのですが一寸来て見た所です。」と云ふのでした。なるほど私たちの中でたしかに泳げるものはほんたうに少かったのです。もちろん何かの張合で誰かが溺れさうになったとき間違ひなくそれを救へるといふ位のものは一人もありませんでした。

 この人と会話した賢治は、もしも生徒が溺れた時のことを考えます。

実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。

 教師として監視していると言っても、実は賢治は泳げなかったので、もし目の前で溺れる生徒が出ても、救助することはできなかったのです。
 そして、そのような場合に賢治が覚悟していたことが、いかにも極端で、また賢治らしいことですが、「もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」というのです。
 すぐに飛び込むところは「積極行動主義」ですが、その行動は現実的な意味で「役に立つ」ものではありません。彼は生徒を救けるかわりに、一緒に溺れて死んでやろうと決意しているのです。

 おそらく現代の学校の生徒の保護者だったら、先生のその気持ちには敬服するけれども、それでは万一の場合うちの子はどうなってしまうんですか、誰でもよいから救助ができる人を配置しておいて下さい、と言うところでしょう。
 賢治のこのような気持ちは、実際的な人助けにはなりませんが、子どもの頃に水の入った重い茶碗を持たされている同級生を見ると、思わずその水を飲んでやったように、苦しんでいる人を見ると、とにかく理屈以前にその苦しみを分かち合おうとせずにはいられないという、やむにやまれない彼の衝迫を表わしています。
 それは、人の痛み・苦しみへの「共感」、「共苦」、そしてこの場合には、先ほどの山折さんの言葉では「共死」というところまで至る、思いであり行いです。自分の力ではどうしようもないことに直面した時、それを「解決」することはできなくても、「共感」し「共苦」することは、その覚悟さえあればできるのです。
 それは、現実には役立っているように見えなくても、何かの「意味」があるのではないか? 賢治はここで、人間の「力」(=「自力」)を超越したところに、次の何かを見出そうとしているのではないでしょうか。

 私がここでちょっと連想するのは、賢治とはまったく異なっワーグナー「パルジファル」(カラヤン指揮,ベルリンフィル)た文化状況におけることではありますが、19世紀ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーの最後の楽劇「パルジファル」のモチーフです(右はドイツ・グラモフォンPOCG3729『パルジファル』)。
 この楽劇には、過去のあやまちのために永遠の苦しみを背負わされている王と、崩壊に瀕している聖騎士団が登場します。そして「予言」によれば、王や騎士団を苦難から救済できるのは、「共苦によりて知にいたる、けがれなき愚者」=(“durch Mitleid wissend, der Reine Tor”)だと言うのです。
 第一幕に登場した粗野な若者パルジファルが、結局ここで予言されていた救済者だったのですが、ここで興味深いのは、救済の力を持っているのは決して始めから知力や武力のある者ではなく、人から見れば「愚か者」であって、しかし「共に苦しむこと(Mitleid)」を通して知に至る者であるというところです。ある人が、今ここで役に立つ力・問題解決能力を持っているかということではなくて、何の役にも立たないような愚かな様子であっても、悩める人と「共苦する」ことに、より深い力があるというのです。
 ここには、キリスト教的というのともちょっと違った宗教的ニュアンスがあり、晩年のワーグナーが仏教にも関心を抱いていたと言われることとも、関係があるのかもしれません。そしてこの「純粋な愚者」には、賢治が後に「デクノボー」と名づける人間像と共通する要素があるところが、私には非常に興味深く感じられます。

 ともあれ、賢治は積極行動主義とその限界の相克に苦しむところではとどまらず、そこからさらに、「共苦」という新たな可能性の道があることを提示してくれるのです。そしてその方向に進むことは、見かけ上の能力などを超越し、一見すると「愚者」と言われるような「デクノボー」的存在に近づいていくことになるようなのです。


5.旱害・冷害 ~行動し共苦するデクノボー~

 ここまでいくつか賢治が関わった災害を見てきましたが、最後に取り上げるのは、旱害と冷害です。この二つの災害は、彼の時代の東北地方の農業にとって最も深刻な問題であり、江戸時代には厖大な餓死者が出るような飢饉を招いたり、近代以降も農家の生活を深刻に脅かす危機を引き起こしました。
 当然、農業に関わりつづけた賢治は常に意識していたことで、これらは作品にも様々な形で、何度も登場します。

 さてその旱害と冷害に関して、ここでまず最初に見てみるのは、賢治の晩年の童話「グスコーブドリの伝記」です(下挿絵は文教書院『児童文学』初出時の棟方志功画-『新校本宮澤賢治全集』第12巻校異篇p.117より)。
 これは、冷害によって両親を失った少年グスコーブドリが、苦学の末に火山技師になり、科学技術の応用によってイーハトーブの農民の暮らしの改善に尽くす物語です。そしてその話の重要な部分として、旱害と冷害に対するブドリたちの挑戦が描かれます。賢治自身も、科学を勉強して農業の改革のための実践を行うことに「イーハトーブ火山局」(棟方志功:画)生涯をかけましたから、これは賢治が自ら夢見ていた、一つの「あるべき人生」の姿だったのかもしれません。
 グスコーブドリは技師になって2年後に、噴火が切迫している火山の中腹にボーリングを行い、町ではなく海の方へ爆発させることによって多くの人を被害から救います。そしてさらに6年後には、雲の上から飛行船で硝酸アンモニウムの粉末を散布することにより、肥料とともに雨を降らせることに成功します。
 お話の中でブドリたちが貼り出していた、

「旱魃の際には、とにかく作物の枯れないぐらゐの雨は降らせることができますから、いままで水が来なくなつて作付しなかつた沼ばたけも、今年は心配せずに植ゑ付けてください。」

というポスターのとおり、イーハトーブではついに旱害を克服することができたのです。
 そしてブドリが27歳の年、「あの恐ろしい寒い気候」が、また襲ってくる徴候が現れました。5月にも10日みぞれが降り、6月になってもオリザの苗は黄いろく樹は芽を出しませんでした。「このままで過ぎるなら、森にも野原にも、ちやうどあの年のブドリの家族のやうになる人がたくさんできるのです。」
 火山を人工爆発させれば、炭酸ガスによる温暖化で、冷害は避けられるという見通しがありましたが、それをすると最後の一人がどうしても火山島から逃げられないこともわかりました。そこでブドリは、クーボー大博士が止めるのも振り切り、自らを犠牲にして火山を噴火させ、帰らぬ人となったのです。

そしてちやうど、このお話のはじまりのやうになる筈の、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといつしよに、その冬を暖いたべものと、明るい薪で楽しく暮すことができたのでした。…

 このように、献身によって人々の幸せがもたらされるという帰結は、賢治自身が目標としたことでもあったでしょう。しかし、「科学技術によって自然を人間に都合がよいように変える」という試みには、人の命という犠牲が伴いました。それはまるで、手段こそ違えど、古代の人々が災厄の回避を祈る時には、神に生贄を捧げたことも連想させます。
 それにこのような火山の人工爆発は、賢治の時代からすれば所詮SF的なお話であり、当時でもそして現代でも、実際にやれることではありませんでした。旱害と冷害は、科学の力でも非常に解決の困難な課題だったのです。
 「グスコーブドリの伝記」は、賢治的な面白いアイディアが満載ですし、物語としても感動的で人気のある作品ではありますが、これはハッピー・エンドなのか悲劇なのか意見は分かれ、また誰かの犠牲のおかげでもたらされる幸せを人々は本当に喜んでもよいのかなど、議論を呼ぶ作品です。

 以上、たくさんの作品を見てきましたが、ここで先ほど菅原さんが朗読して下さった作品を、もう一つご紹介させていただきます。皆さんもご存じの、「〔雨ニモマケズ〕」です。
 ここでまずちょっと皆さんに考えてみていただきたい問題があるのですが、全部で30行あるこのテキストを、意味の上で二つの部分に分けるとしたら、どこで区切ることができるでしょうか。
 これはいろいろな視点・考え方があり、どれが正しくてどれが間違いと言えるような問題ではありませんが、まあ最も一般的なのは、14行目の「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ…」から後を「後半」として二つに分けるやり方でしょう。花巻の羅須地人協会跡に建てられている最も古く有名な詩碑にも、ここから後の部分が刻まれています。

 しかし今日は、ちょっと違う分け方をしてみます。それは、下の赤い点線のところで、二つに分けてみようというものです。

「雨ニモマケズ」の内容

 どうですか。これはまた、何とも中途半端なところで区切ったと思われるでしょうね。確かに形式的にも分かれていない変な箇所なんですが、あえて今日ここに線を引いてみた理由は、ここより前で描かれているのは、「立派な」「役に立つ」人間像なのですが、それに対してここから後では、どこかちょっとズレたような、役立たずのような人物になってしまうのです。
 「丈夫なカラダ」で、「慾ハナク、決シテ瞋ラズ」とか、「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ、ヨクミキキシワカリソシテワスレズ」なんて、よくできた健康優良児の優等生みたいですね。そして、「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ」というのも、道徳の教科書に出てきそうな、献身的で立派な人です。

 それでは、次の「南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」というのはどうでしょうか。
 これは現代風に言えば、実は死に臨む人の「ターミナルケア」をしているわけですね。それなら、大変有意義なことをやっているとも言えるわけですが、もし皆さんの家に重い病気にかかっているご家族がいたとして、ある日そこへ急に男がやってきて、「死ぬことは恐くないですよ」などと説き聞かせ始めたら、家の人はどう思うでしょう。「こっちは回復を信じて懸命に看病しているのに、あんたは何を縁起の悪いことを言いに来たんだ」と怒って、追い返したくなるのではないでしょうか。
 病人の治療をしたり、身のまわりの世話をしたりしてくれるのならとても有り難いでしょうが、「死を恐がらなくてもいい」と説教するだけでは、なかなか一般の人にその意図は理解してもらいにくいでしょう。だから普通の人は、とうてい回復しそうにない病人を見舞った時にも、「きっとよくなりますよ」などと気休めを言ってしまうのです。気休めを言えない人は、「変な人」「愚か者」と思われかねません。
 本当は人間にとって、死に臨む時期をいかに生きるかということは、とても大切なことです。しかし、「死を恐がらなくてもいい」という言葉は、元気に生きている者が瀕死の人に向かって、自分の健康を棚に上げてそう簡単に言えるものではありません。そこで中村稔氏はこの「コハガラナクテモイヽトイヒ」について、「ここで作者は仏の言葉を語っているのです」と述べています。

 それから次の、「北ニケンクヮヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」はどうでしょう。喧嘩を仲裁するのはまあ良いことでしょうが、「訴訟」を「つまらないからやめろ」と言うのは、どうでしょうか。
 詩人であり弁護士でもある中村稔氏は、ここに表明されたような思想が若い頃は嫌いであった、と述べています(思潮社『宮沢賢治ふたたび』)。「みんなが訴訟や喧嘩をつまらないからといって止めてしまったらどうなるか、結局のところ、強欲な人々、我執を主張する人々の私利私欲がまかりとおるのを許すことになるだろう」というのが中村氏の言い分で、これは社会的な観点からは当然の理屈です。やはりここでも、「訴訟をやめさせようとする」人物というのは、現実を知らない愚か者のように見えてしまいます。
 しかし中村氏は、「ここでも彼は仏の言葉を語っているのだ」と解釈します。
「どんぐりと山猫」 これに関連して私が連想するのは、「どんぐりと山猫」という童話です(右挿絵は光原社『注文の多い料理店』-『新校本宮澤賢治全集』第12巻校異篇p.18より)。
 このお話では、たくさんのドングリたちが「誰がいちばん偉いか」という問題で紛糾して収拾がつかなくなったので、山猫が「裁判」を行います。これは、当事者たちにとっては切実な問題のようですが、ドングリの間での優劣なんて、人間や山猫から見ればそれこそ「どんぐりの背比べ」にしかすぎません。
 そのような構図を、賢治は次のように描いています。

山ねこは、もういつか、黒い長い繻子の服を着て、勿体らしく、どんぐりどもの前にすわつてゐました。まるで奈良のだいぶつさまにさんけいするみんなの絵のやうだと一郎はおもひました。

 つまりここで賢治は、人間や山猫の立場からはドングリの争いなど馬鹿馬鹿しく見えるのと同じように、大仏さまから人間同士のもめ事を見れば、やはり「ツマラナイ」ものであるということを、暗示したかったのでしょう。中村氏が指摘するように、「北ニケンクヮヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」という態度は、同じ人間としてというよりも、「仏が人間界を見下ろしている」ような視線に由来しているのです。
 しかし現実の社会では、こういった仏の目線でものを言ってもなかなか理解されず、若い頃の中村稔氏のように反発を感じる人も多いでしょう。現実の社会から見ると、この言葉も理解されにくいと言わざるをえません。

 さて、この後に、有名な「ヒデリノトキハナミダヲナガシ、サムサノナツハオロオロアルキ」が続きます。科学の進歩を前提とした「グスコーブドリの伝記」においては、人間はヒデリ(旱害)もサムサノナツ(冷害)も克服しますが、賢治の時代の現実では、これらはまだ逃れようのない災厄でした。
 このような状況において、賢治が「ナリタイ」と思った人間は、「ナミダヲナガシ」、「オロオロアルキ」という行動をとる者でした。これらは、災害に見舞われた農民に対しては、実際上は何の役に立つものでもありません。しかしここには、人々の痛みを我がこととして受けとめる、「共感」と「共苦」があります。
 賢治は、少しでも旱害や冷害に強い稲の品種を普及させようと努力し、各地を巡回する肥料相談においてもそのような自然条件の被害を最小限にしようと肥料配合を考えました。このような積極行動主義と科学的な対処によって、彼は花巻地方の農業に、一定の貢献を果たしたと言えるでしょう。
 しかし、賢治がいくら頑張っても、あるいは仮にもっと多くの人の英知を結集したとしても、当時はまだ農業が天災の打撃を受けるのを食い止めることはできませんでした。豪雨の被害を受けた際の賢治の様子については、先に「〔もうはたらくな〕」で垣間見ましたが、その際の賢治は、無力感にさいなまれながらも、「火のついたやうにはげまして行け」と自らに命じていました。
 これに対して、晩年の「雨ニモマケズ」では、「ナミダヲナガシ」「オロオロアルキ」という静かな共苦の姿を描いたのです。

 そして、次の行に出てくる「ミンナニデクノボートヨバレ」という事態は、結局上に見たような行動が招いたものだったわけです。重病の人に「死ぬのは怖くない」と言い、喧嘩や訴訟を「つまらないから」と言って止めようとし、旱害や冷害の時には為すすべもなく「ナミダヲナガシ」「オロオロアルキ」・・・。
 このような行動および態度は、その「実効性」という点では無価値に見えるので、「ミンナ」からは「役立たずの人間」と思われてしまうというわけです。

 ということで、上の赤い点線よりも後の部分で描かれている行動は、いずれも一見すると「社会的に役に立っている」とは思えないような事柄なのです。
 前半部分では、「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ・・・」に典型的に表われているように、いわば「強い」人間像が描かれます。「東ニ・・・」「西ニ・・・」と東奔西走して人助けをする様子も、まるで修身の教科書のようで、この辺までのイメージのために「お説教臭くて押しつけがましい」と感じてしまい、この文章が嫌いになる人もけっこうあります。
 しかし、赤点線から後の部分に描かれているのは、何も目に見える形のことは為しえない、いわば「弱い」人間像なのです。しかしこの「弱さ」は、賢治に責任があるわけではありません。人が死ぬ運命や、社会から対立を根絶できないことや、旱害や冷害は、賢治であろうと誰であろうといくら頑張ってもどうしようもない、人間に普遍的な「弱さ」です。
 その無力さを自覚しつつ、しかし単なる諦めやニヒリズムとは異なった行動の可能性が、後半では描かれます。ここで提示されているのは、まるで役立たずの行為のように見えるにもかかわらず、本当は前半部よりもっと奥の深い事柄です。ちょうど「虔十公園林」という童話に出てくる虔十と同じように、その場では愚かなことと思われながら、実は尊い意味があるかもしれないことです。
 このように、「雨ニモマケズ」のテキストにおいては、前半と後半の描く人間像がいつの間にか変化しており、その変化が始まる場所も、「東西南北」という修辞的構成の途中なので、色合いが変わったことになかなか気がつきにくくなっています。このような賢治の叙述方法は、やはり巧みとしか言いようがないと思います。

 繰り返しになりますが、この「雨ニモマケズ」で描かれている行動や態度を、順に整理し直すと、次のようになります。上の引用テキストに青い文字で書いた区分をご参照下さい。
 最初の方では、まず心身の健康とともに、「ヨクミキキシワカリ、ソシテワスレズ」という経験や知識の重要性が挙げられています。賢治が農学や土壌学を高等教育機関で学び、さらに実地に広範囲の土性調査を行って経験を積んだことは、肥料設計の活動のために重要な基盤となりました。
 次に、「東ニ…」「西ニ…」「南ニ…」「北ニ…」とあらゆる方面に向かって、「行ッテ」「行ッテ」「行ッテ」という言葉を反復しつつ表現されているのは、先の言葉で云えば「積極行動主義」です。賢治は花巻周辺の農村を、文字どおり東西南北と巡っては肥料相談を行いました。「野の師父」という詩には、「二千の施肥の設計を終へ・・・」とありますが、このように非常に精力的に実践活動を行ったわけです。
 しかし、十分な知識と経験をもとに積極的な活動を行ったとしても、人間の力には限界があります。賢治もその巨大な壁にぶつかり、無力感にさいなまれることもありました。それは、彼がもともと抱いていた自然観・人間観、すなわち人間は自然の中に他の生き物と対等に包み込まれているちっぽけな存在にすぎないというとらえ方を、あらためて再確認させることだったとも言えるでしょう。
 ところで、命を懸けるほど頑張った挙げ句、その努力が無駄だとわかった時、人は「どうせ何をやっても無駄だ」というニヒリズムに陥りそうにもなるでしょう。先のことまで見透せてしまう力のある人ほど、そういう諦めを抱きやすいかもしれません。「〔もうはたらくな〕」にも、賢治のそんな一面がのぞいていました。
 それでも、賢治はニヒリズムには陥りませんでした。人間の力が及ばないことに直面した時に彼がとった行動、それは「共感」「共苦」ということでした。どんな状況でも、共に苦しみ、痛みを分かち合うことはできるのです。
 そしてワーグナーの楽劇のごとく、そのような真摯な関わりには、人を救済する力さえあるかもしれません。

「災害と賢治」-「雨ニモマケズ」の人間像


6.人間に変えられること/変えられないこと

 以上、「地震・津波」、「雪山遭難」、「豪雨災害」、「水難」、「旱害・冷害」という災害との関わりを切り口として、賢治の考えや行動を振り返ってみました。晩年の「〔雨ニモマケズ〕」の中に、災害を通して見た賢治の様々な側面が凝縮して織り込まれているのは、興味深いことです。

 これまでは、賢治のスタンスを災害の種類ごとに、あるいは「雨ニモマケズ」の構成に沿って通覧してみましたが、これを別の角度から言い換えると次のようになります。

 自然の一部である人間は、様々な形で自然に働きかけつつ生きていますが、人間の力によって「変えられること」と、いくら頑張っても「変えられないこと」があります。その境界線は、人によっても、時代によっても変化するものでしょうが、誰にとってもいつの時代も、どこかに厳然とその区切りが存在するのは事実です。

 人間の力は、ある時はちっぽけに見え、大いなる自然の前では、小ざかしい努力をしたって徒労に思えます。これを突き詰めるとニヒリズムになりますが、賢治はそのような態度はとりません。たとえ限界があるとしても、「できること」に関しては最大限の努力をしなければならないと考えました。彼が自然科学を学んでそれを実践に生かそうと努め、生徒や農家の青年たちに教え伝えようとしたのも、「変えられるものは変える」ということを実行するためでした。
 農学校を辞める少し前に生徒に語りかける形で書いた詩「告別」においては、

なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

と言って、刻苦勉励を説き聞かせています。

 しかし逆に、「努力さえすれば何でもできる」とか「成せば成る」といったような、根拠のない精神論も、賢治は採りませんでした。現実には無理なことまで「やればできる」と思い込むことは、おのれの力に対する過信であり、賢治はこれを「慢」と規定して、やはり自らに強く戒めました。ある時期以降の賢治は、自分の若い頃の考えに対して、自己批判的に何度も反省を示しています。

私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見てもらひたいと、愚かにも考へたのです。あの篇々がいゝも悪いもあったものでないのです。(森佐一あて書簡200)

 すなわち、自らの力の限界を知り、それを受容することの重要性も、彼は深く認識していました。そして、上記で様々な災害や人間の死に関して見たように、賢治は自らの力を越えた災厄に対しては、悩める人々のもとに飛び込み、「共に苦しむ」ということを実行するのです。

 このようなスタンスは、賢治が独自の実践や仏教から身につけてきたものと言えるでしょうが、くしくも同じような姿勢は、キリスト教にもあります。
 下記は、キリスト教の神学者ラインホルト・ニーバーが、1930年代か1940年代初頭に書いたとされる祈りです。

「ニーバーの祈り」

 これはキリスト教の立場で、神に「お与え下さい」と祈る形になっていますが、やはり賢治が思い巡らしたように、人間に「変えられるもの」と「変えられないもの」にどう対処すべきかという課題を扱っています。この祈りも、賢治の晩年とほぼ重なる時期に作られており、遠く洋の東西でちょうど同じ頃に現れているのが、興味深いところです。
 19世紀から20世紀にかけては、科学技術の急速な進歩によって、これまで人間には不可能だったことが、どんどん可能とされていきました。何が「変えられるもの」で、何が「変えられないもの」かという境界線が、短期間のうちに大きく変化する中で、これはちょうどこの時代から人類に突き付けられた、普遍的な問題だったということなのでしょう。


7.賢治ならどうしたか

 ということで、一通り作品や伝記的事実をもとにした検討を行ってみました。最後にこれをもとに、もしも賢治が現代の日本にいて、この災害に立ち会っていたらどんな行動をとっていたかという、冒頭の課題に戻ります。
 しかし私の結論は、賢治の生涯や作品を巡る長い行程の後、また最初にご紹介したようなツイッターからのご意見に帰るものです。

 賢治は豪雨の中でも、「一人づつぶっつかって、火のついたやうにはげまして行け」と自らに命じた、激しい行動主義の人でした。大災害が起こって多くの人が苦難に直面していると知ると、まず何をおいても現場に飛び込んでいっただろうと、私は思います。
 当時よりもボランティアが普及している現代でも、災害初期には一般のボランティアは闇雲に被災地に押しかけないようにということが言われたりしますが、いったんこうと決めた賢治は、そんなことに構うタイプではないでしょう。ツイッターで、「自ら原発や瓦礫の間に分け入ろうとしてレスキュー隊や自衛隊と揉めているか…」という推測を寄せていただいた方がありましたが、そんな姿も目に浮かんでしまいます。

 さらに被災地には、多くの人の死や、どうしようもない喪失体験も、数え切れないほどあります。賢治としても為すすべのない事象に直面した時には、彼も「ナミダヲナガシ」「オロオロアルキ」ということしかできないでしょう。
 しかし賢治は、苦しんでいる人への共感能力が人一倍高く、皆とともに「共苦する」人でした。もしも目の前で津波にさらわれる人があれば、「飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」とまでしかねないところのある人ですが、そこまではしなかったとしても、肉親や家や田畑や財産を失った人々の気持ちを、避難所において全身で受けとめようとしつづけたでしょう。

 被災初期には、賢治はそんなことをしていたのではないかと、私は想像します。

 ただ、こういったことは、宮沢賢治のことを知っている方々ならば、多かれ少なかれ考えるような事柄です。何もこんな大そうな考察などする必要もなかったのではないかと言われれば、そのとおりです。「災害」という切り口から覗いてみても、宮沢賢治はやはり宮沢賢治だった、という感じもします。
 しかし結論はともかく、3.11後という状況において、東北に生まれ育った宮沢賢治の生涯や作品をあらためて辿ってみることにより、彼が行動に至るまでのプロセスにおいて感じていたことや行っていたことの中に、少しでもご参考になることがあればと思い、本日のお話とさせていただきました。
 まとまらない内容でしたが、今回の災害について考えていただく一助にでもなれば、幸いです。

 本当は、あとさらに「原子力」というものについて、賢治的な観点から何かお話できればと思ったのですが、今日は時間もありませんので、今後の課題としたいと思います。

 ところで、災害後の初期段階が終わって復興が課題となる時期がこれからやってきますが、もしも賢治が生きていたら、本来はそこからが彼の真の出番になるのでしょう。
 津波によって海水に浸されてしまった田畑の土壌をどうやって回復させるか、作付けにはどういう品種を選択すべきか、どんな肥料配分を用いるべきかという問題は、彼のもともとの専門分野です。
 実は、津波による塩害対策として、土壌の塩分濃度が高い場合には、消石灰、炭酸カルシウムなどを100kg/10a程度散布して、代掻きした後に排水するという方法が、推奨されているということです(JA全農「津波による塩害対策と水田の土壌管理について」参照)。
 さらに、放射性セシウムで汚染された土壌への対策としても、とくに酸性土壌の場合には石灰の散布によって、作物へのセシウム移行を低減させる効果があることが確認されており(日本土壌肥料学会「原発事故関連情報(2):セシウム(Cs)の土壌でのふるまいと農作物への移行」)、チェルノブイリ事故後、旧ソ連の農地では広く実施されたということです(村主進「チェルノブイリ事故における環境対応策とその修復」)。

 晩年の賢治が、その改良と普及に文字どおり命を懸けた石灰肥料が、今度また東北地方の太平洋岸、とくに福島県において土壌の回復に役立つとすれば、またここにも、このたびの災害と賢治との浅からぬ因縁を感じてしまうではありませんか。

本記事は、「第1回イーハトーブ・プロジェクトin京都」においてお話した内容に加筆したものです。

腐って流される者たち

 古今東西を問わず、政治家というのは腐敗するものだという固定観念があるようで、今ではマスコミが「政治と金」という呪文を繰り返すだけでも、そこに確実に腐敗が存在するという雰囲気が見事に立ちのぼります。もっとも政治家に限らず、最近は相撲界でも地方公務員でも企業でも検察官でも、どこでも腐敗のネタには事欠かないようで、多くの人にとってはちょっと食傷気味の話題かもしれません。
 宮澤賢治の詩や童話の多くは、こういうテーマとはまったく無関係な世界が描かれているのですが、中にごく一部ですが、そんなモチーフも出てきます。

 賢治の最初期の童話「蜘蛛となめくぢと狸」において、飢餓の底からがむしゃらに這い上がってきた「赤い手長の蜘蛛」は、ついに妻や子供とともに立派な網を構え、「虫けら会の相談役」を依嘱されるまでに昇り詰めます。ただその過程では、かなり手荒なことまでやってきたようですね。
 そして、すでにひとかどの名士となった蜘蛛が、さらなる高みを目ざそうとした時、突如破局が訪れます。

 それから蜘蛛は、もう一生けん命であちこちに十も網をかけたり、夜も見はりをしたりしました。ところが困ったことは腐敗したのです。食物がずんずんたまって、腐敗したのです。そして蜘蛛の夫婦と子供にそれがうつりました。そこで四人は足のさきからだんだん腐れてべとべとになり、ある日たうたう雨に流れてしまひました。

 悪いことをしてきた奴が、自業自得で腐って流れてしまう、という結果になったわけです。小沢俊郎氏は、この蜘蛛を「商業資本家」の象徴と解読していますが、獲物の多さを追求するだけでなく、「虫けら会の相談役」になることを元同級生のなめくじに自慢するところなど、政治的な「力」にこだわっていた面もあるようです。
 蜘蛛の結末はちょっと哀れな感じもしますが、これ以外にも同じようなモチーフが登場する作品が、いくつかあります。

 一つは、「詩ノート」にある「政治家」という草稿。

一〇五三
  政治家
               一九二七、五、三、

あっちもこっちも
ひとさわぎおこして
いっぱい呑みたいやつらばかりだ
     羊歯の葉と雲
        世界はそんなにつめたく暗い
けれどもまもなく
さういふやつらは
ひとりで腐って
ひとりで雨に流される
あとはしんとした青い羊歯ばかり
そしてそれが人間の石炭紀であったと
どこかの透明な地質学者が記録するであらう

 「さういふやつらは/ひとりで腐って/ひとりで雨に流される」というのですから、「赤い手長の蜘蛛」の最期と同じですね。こんどの悪役は、ストレートに「政治家」です。

 それからもう一つは、やや簡略化された形ですが、「なめとこ山の熊」に出てくるあの嫌味な荒物屋です。

けれども日本では狐けんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。

  この世の仕組みは、「狐けん」のように公平にはまわっていませんが、それでも「こんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく」と、賢治は言うのです。消えていく原因が、法治システムや不正を糺そうとする何らかの社会運動によるのではなく、「ひとりで」消えて流れてしまうというのが、3つの例に共通するところです。
 また「春と修羅 第二集」の「五輪峠」の前半には、

それで毎日糸織を着て
ゐろりのヘりできせるを叩いて
政治家きどりでゐるんだな
それは間もなく没落さ
いまだってもうマイナスだらう

という箇所があって、その辺の地主が「政治家きどり」でいるようですが、この人物に対しても賢治は、「間もなく没落さ」と、なぜか根拠も示さず予言しています。

 というような感じで、このようにいくつかの違った時期の作品に、共通するモチーフが登場しているとなると、何かその背景には、元になった賢治の経験なり思想があったのではないかと、考えてみたくなります。
 そこで、上の作品中で最も古い「蜘蛛となめくぢと狸」が書かれた時期を確認すると、宮澤清六著「兄賢治の生涯」の中には、次のような記述があります。

 大正七年に二十二歳で農林学校本科を卒業したが、つづいて地質や土壌を研究するために学校に残り、四月から関博士の指導で、稗貫郡の土性調査をはじめた。同級の小泉多三郎、神野幾馬という人といっしょに、西は「なめとこ山」のもっと奥の深山に分け入り、東は高山植物の宝庫、海抜一九一四米の早池峯山までを調査したが、これもまた後の農村関係の仕事と関聯を持つことになった。
 この夏に、私は兄から童話「蜘蛛となめくぢと狸」と「双子の星」を読んで聞かせられたことをその口調まではっきりおぼえている。処女作の童話を、まっさきに私ども家族に読んできかせた得意さは察するに余りあるもので、赤黒く日焼けした顔を輝かし、目をきらきらさせながら、これからの人生にどんな素晴らしいことが待っているかを予期していたような当時の兄が見えるようである。

 すなわち、1918年(大正7年)夏までには、「蜘蛛となめくぢと狸」は完成していたというわけですね。
 そこで、この年までに何か日本で上のようなモチーフと関連したような政治的な出来事があったのかということを調べてみます。Wikipedia によれば、この当時に「政治の腐敗」が問題となった事件として、次のような出来事がありました。

1902年(明治35年): 教科書疑獄事件
1908年(明治41年): 日本製糖汚職事件
1914年(大正3年)1月: シーメンス事件
             5月: 大浦事件
1924年(大正13年): 復興局疑獄事件
1925年(大正14年): 陸軍機密費横領問題

 この中に、賢治の「蜘蛛となめくぢと狸」に影響を与えた事件があるとすれば、その規模と社会的衝撃の大きさからも、1918年の少し手前に起きたという時期からも、1914年1月~3月に政界を揺るがした「シーメンス事件」が、最も気になるところです。この年18歳になる賢治は、盛岡中学を卒業して、岩手病院に入院する直前という頃でした。

 さてシーメンス事件とは、ドイツの大企業シーメンス社が、無線電信局の発注をめぐって日本の海軍高官に贈賄を行っていたことが発覚したことに、端を発します。たまたま当時の山本権兵衛内閣は、首相の山本が海軍大将であるのをはじめ海軍を基盤としており、増税とともに海軍を拡張する予算を国会に提出していたため、税負担への国民の不満もこれを契機に一気に爆発して、政界を巻き込んだ一大騒動に発展していったのです。
 新聞は連日、海軍の腐敗を書き立て、野党は衆議院に内閣弾劾決議案を提出しますが、これが否決されると、日比谷公園の「内閣弾劾国民大会」に集まっていた4万人とも言われる民衆は憤激して国会議事堂を包囲し、構内に入ろうとして官憲と衝突したということです。
 結局この後、山本内閣は総辞職に追い込まれることになります。しかし政界の混乱はこれでも収まりません。総辞職を受け元老会議は、貴族院議長で徳川宗家16代当主徳川家達を後継首班に推薦しますが、徳川一門には明治政府が徳川を「朝敵」としたことをまだ根に持っている部分もあって、結局徳川家達は首相就任を辞退します。
 続いて元老会議は、枢密院顧問官の清浦奎吾を推し、清浦は大正天皇から組閣の大命降下を受けます。しかし、超然主義の清浦に対しては立憲政友会と立憲国民党の二大政党が野党となることを宣言、さらに予算復活を拒否された海軍も非協力の態度をとったことから、7日後に清浦はやむなく組閣を断念する事態に追い込まれました。結局その後、大隈重信に首相のお鉢はまわってきました。

 余談ながらこの時、清浦奎吾が組閣断念の直前に記者団にぼやいたという言葉が伝えられています。「大和田の前を通っているようなもので、匂いだけはするが、御膳立てはなかなか来ない。」
 「大和田」というのは、当時東京で人気の鰻屋の名前(現在も営業中)で、「前を通ると旨そうな匂いはするが、中に入れば混雑していていつまで待っても鰻丼が食べられない」という有様を、組閣の状況に喩えたものでした。これを受けて世間では、鰻の匂いを嗅がされた(大命降下)だけで結局は鰻丼(首相の地位)にありつけなかった清浦を嘲笑して、これを「鰻香内閣」(匂いだけで現実には味わえない幻の内閣)と呼んだということです。

 いずれにせよ、徳川家達の内閣も清浦奎吾の内閣も、国民が何もしないうちに「ひとりで流れてしまった」わけですね。
 そこで私は、賢治の詩「政治家」の、「さういふやつらは/ひとりで腐って/ひとりで雨に流される」というところを連想してしまうのです。

 しかし本当は、上のような連想を補強するためには、もっときちんとした調査をしなければなりませんね。賢治が目にしたかもしれない当時の新聞記事における表現なんかも調べられればよいのでしょうが、とりあえず今回はそのような時間も素材もなかったので、思いついたことのみ書いてみました。


 ところで、冒頭にも触れたように政治の腐敗というのは時代を越えた普遍的な問題でしょうが、くしくも最近また、100年近く前のシーメンス事件を彷彿させるような事件がありました。
 アメリカ合衆国の連邦法の一つとして、「連邦海外腐敗行為防止法」という法律があるそうです。これは、アメリカで上場している企業が、外国の公務員や政党や候補者に賄賂を贈ることを禁止するものですが、シーメンス社は2001年から2007年の間に、南米、アジア、中近東、アフリカの諸国の公務員4000人以上に対して約14億ドルの賄賂を支払ったとされ、このため同社は連邦証券取引委員会に対して3億5000万ドルの課徴金を、司法省による刑事訴追に対して4億5000万ドルの罰金を、さらにミュンヘン検察庁に対して2億100万ドルの罰金を支払ったということです。これは、「連邦海外腐敗行為防止法」違反に関して支払われた金額としては、史上最大のものだということです。
 歴史は繰り返すと言いますが、シーメンス社のような世界的大企業でも、ビジネスのためには100年近く昔にやったと似たことを、今日でも行わざるをえないんですね。

 たとえ「腐敗行為防止法」というような昔よりも厳しい法律があっても、残念ながら賢治が期待したように、「腐敗してひとりで雨で流れてしまう」というわけには仲々いかないようです・・・。

語りとマンドリンの出会い

 「高知こどもの図書館」というと、NPO法人という形式で活動している全国でも珍しい図書館です。こんど、「語りとマンドリンの出会い」と題して、賢治の「なめとこ山の熊」をはじめいくつかの作品を、「語り」と「音楽」のコラボレーションで取りあげるという案内をいただきました。
 私もご縁のある図書館ですので、ここにご紹介させていただきます。

~語りとマンドリンの出会い~
 とき :  2008年2月9日(土) 午後2:00-3:30
 ところ: 高知こどもの図書館 2階多目的スペース
 出演 : 語り/兼松憲一
      音楽/マンドリン(柏原 健) ギター(高橋裕子)
 内容 : 「なめとこ山の熊」 (宮沢賢治/作)
       「かさじぞう」 (瀬田貞二/再話)
       「ごんぎつね」 (新美南吉/作)
 参加費: おとな 500円 (高校生以下は無料)
 主催  : レイチェルの会

 お問い合わせ: 高知こどもの図書館(Tel.088-820-8250)

高知こどもの図書館「語りとマンドリンの出会い」

→ 「ほんとあそぶ」(高知こどもの図書館ブログ)

賢治関連のサスペンスドラマ?

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 番組紹介の中に「宮沢賢治」というキーワードが含まれていたためか、うちのHDDレコーダーは、日テレで今晩放送された「妻の秘密・夫の不貞・姑の見栄」という2時間ドラマを、自動的に録画してくれていました。
 題名だけ見ると、どこが宮沢賢治やねん、という感じですが、よくサスペンスもので新聞のTV番組欄に付けられている長い「副題」のようなもの(?)は、次のとおり。

涙のホームサスペンス―盛岡発12時28分やまびこ56号空白の80分の謎―宮沢賢治の童話に隠された愛の悲劇…女心が鬼の心に変わった!」・・((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

 で、実際に番組を見てみると、なかなか「賢治の童話」が出てこなくてハラハラさせられたのですが、結局は「なめとこ山の熊」でした。

大空滝 池内淳子演ずる継母が、なかなか自分になついてくれない義理の娘(浅野温子の子供時代)に、絵本の「なめとこ山の熊」を読んでやることを通じて、はじめて「おかあさん」と呼んでもらえたという伏線があって、その後ある事情のために池内淳子が自殺を決意した時、「なめとこ山の熊」の絵本に出てきた「大空滝」を思い出して、その滝の前へ行って死のうとする、というのが一つの山場でした。

 「賢治童話」が小道具とされた意味あいはさておき、その場面では、私も一昨年に賢治学会春季セミナーでなめとこ山を訪ね、大空滝を遠望した時の景色が再現されて、しばし懐かしい思いにひたれました。

六神丸

六神丸 もうすぐ4月ですが、通りがかりに自宅の近くで右写真のようなお店を見つけました。「六神丸」 というのは、「山男の四月」 に出てくる薬の名前ですね。

 春に浮かれて町へ出てきた山男は、支那の商人にだまされて六神丸をのまされ、 すると自分が一箱の六神丸そのものに変わってしまうのです。そして行李の中でまわりを見まわすと、支那人が売っている六神丸は、 みんなもとは人間だったのにこうして薬に変えられてしまった人ばかりではありませんか・・・。
 最後には、これは山男の夢だったということになりますが、支那人の怪しさと気弱さの対照、山男の素朴なキャラクターがおもしろく、 さまざまな情景の描写には賢治独特の幻想性もいっぱいです。
 しかし、このお話でとりわけ賢治らしいのは、薬に変えられて最初は悲しんだり怒ったりしていた山男が、 支那人のおろおろしている様子を見ると急に気の毒になって、「おれのからだなどは、支那人が六十銭まうけて宿屋に行つて、 鰯の頭や菜つ葉汁をたべるかはりにくれてやらう」と思ってしまうあたりです。

 ところで上の写真でも、薬の箱には行李のような物をかついだ(?)中国人らしい絵が描かれていて不思議な感じです。これを機会に、 ちょっと六神丸という薬について調べてみました。