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 「詩ノート」に収められている「〔黒と白との細胞のあらゆる順列をつくり〕」に関して、以前に「「黒と白との細胞」による千億の明滅」という文章をまとめたことがありましたが、これを書き直してある場所でお話することになったので、パワーポイントでスライドを作っていました。
 下記から見られるファイルはその中の一枚で、作品冒頭の「黒と白との細胞のあらゆる順列」という言葉の意味するところについて、図示しようとするものです。アニメーション機能を多用していますが、このちょっと難解な一節の説明として、はたして成功しているかどうか・・・。

 下の画像をクリックすると、別ウィンドウでスライドが表示されます。ウィンドウ下部の再生ボタンをクリックすると、順にアニメーションが進んで行きます。

クリックすると別ウィンドウでスライドが表示されます

 去る9月23日にイーハトーブ館で開かれた「第16回宮沢賢治研究発表会」で発表してきた内容を報告集に載せるために、8000字程度にまとめて10月中に提出するようにとい言われていまして、ちょっと締め切りに遅れてしまいましたが、何とか今日提出しました。

 下記に、その PDFファイルを載せておきますので、ご笑覧いただければ幸いです。

「黒と白との細胞」による千億の明滅(論文形)

千億の?明滅

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 9月23日の発表で、最後に表示したスライドのことを、草野心平記念文学館の小野浩さんは、「カワイイ!」と言って下さいました。
 そこで、下記にその小型版GIFアニメーションを作ってみました。画像の下のボタンで操作できます。

 ちょっと漫画チックで、とても千億もある脳の神経細胞の明滅を表すような代物ではありませんが・・・。

「黒と白との細胞」による千億の明滅

   

演題発表およびバラ園

 昨日は、なんとか発表を終えた気のゆるみもあり、温泉につかってテレビで阪神戦や映画を見て、ブログの更新もせずに寝てしまいました。

 ということで、まず昨日の報告から参りますと、午前中にイーハトーブ館であった「研究発表」では、泥縄式の前夜の準備も間に合って、無事20分で発表をすませることができました。会場からもいろいろ有意義なご指摘をいただきましたが、なかでも原子朗さんからは、フロアからの質問とともに休憩時間にも励ましの言葉をいただいて、感激しました。
 「『黒と白との細胞』による千億の明滅」というタイトルで私がお話したのは、ほんの小さな一つの論点と推測にしかすぎませんが、これをきっかけにして会の終了後も、いろいろな方々に暖かいお声をかけていただいたことは、望外の幸せでした。

 お昼には、会場に聴きに来てくださっていた旧知の賢治つながりの仲間とも一緒に「山猫軒」で食事をした後、私と妻はイギリス海岸に寄ってみましたが、昨日まで姿を現していたという泥岩層は、上流のダムの放流のために残念ながら水没していました。水深の浅い部分にさざ波が立っていて、泥岩の広がりをかろうじて感じさせてくれています。

イギリス海岸


 そして今日の午前中は、花巻温泉バラ園園長の高橋宏さんにお願いして、「賢治が愛したバラ」=グルス・アン・テプリッツのある、バラ園の温室に案内していただきました。今はもう本来のバラのシーズンからはるかに遅れていますので、この花そのものの姿を見られるとは期待していなかったのですが、この時期にも花を付けている株があって、幸運にも私は初めてこのバラに対面することができました。

グルス・アン・テプリッツ

 グルス・アン・テプリッツの花は、かなり大輪でグラマーな感じです。上の写真は温室の中なので陽射しはあまり当たっていないのですが、これが太陽の光を直接浴びると、「日光」という和名のごとく、もっと深い赤色に染まるのだそうです。
 また、このバラの特徴はその芳香の強さにもあって、変な喩えですが、「ローズ石鹸」の香りをもっと上品に奥深くしたような香りが、あたりに漂っていました。

 いずれにしても、これはかなり「官能的」な印象の強いバラでした。賢治がこの品種を特に愛していたというのは、そのどういうところに魅かれたんだろうか、と興味深い感じです。

 で、私が今日バラ園を訪ねて高橋園長さんにお聞きしたかった最大のポイントは、このバラを「賢治が愛していた」という話が、いかにして東京の「バラの神様」=鈴木省三氏に伝えられたのだろうか、ということでした。
 高橋さんからのお話は、かなりのところまで先月に私が国会図書館で調べて感じた印象を支持するものでした。まだわからない部分は多いのですが、以前に私が勝手に推測した「冨手一氏の関与」という仮説は、間違っていたように思われます。

 高橋さんからは、花巻のバラ界においてこの問題についてご存じかもしれない3人の方をお教えいただいたので、現在まだ不明の部分についてはいずれ調べてみたいと思います。その経過と結果については、いつか必ず当ブログにてご報告させていただきます。


 バラ園の奥の斜面を登っていくと、堂ヶ沢山の山腹に連なっていきます。そして、その昔には賢治設計の南斜花壇の最上部でもあった場所に現在は、賢治は賢治でも、「小佐野賢治氏」の胸像が建っています。
 この場所から花巻の市街の方を望むと、一部はホテルのビルに隠れてしまってはいますが、賢治が「冗語」という作品の中で「胆沢の方の地平線」と描いたような景色を、今も垣間見ることができます。

バラ園の最上部から花巻市街を望む

 今日、宮沢賢治学会イーハトーブセンターから、この22日~23日に行われる定期大会および研究発表のプログラムが送られてきて、チラシの裏に私の「発表要旨」も掲載されていました。
 ところが、その私の原稿の中で、「意識とは「脳」の機能である」となっているべき箇所が、「意識とは「能」の機能である」というふうに不思議な誤植になっていて、これでは意味が不明ですので(笑)、下記にあらためて「発表要旨」を載せておきます。
 これは、当日の会場資料用の原稿で、今回発送されたものの倍の字数のヴァージョンです。

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「黒と白との細胞」による千億の明滅

 「〔黒と白との細胞のあらゆる順列をつくり〕」という作品は、人間の「意識」というものに対して、自然科学的な立場から一つの見方を示したものと言える。そこでは、意識は「脳」の機能であることが暗黙の前提とされ、その物質的な構成要素が順次さかのぼられて、最後に全体が俯瞰される。
 しかしこの作品冒頭に出てくる「黒と白との細胞」とは、いったい何のことを言っているのだろうか。これが、本日のテーマである。

 そもそも、脳の切片をいくら顕微鏡で観察しても、黒色や白色の細胞が見えるわけではない。脳に限らず、現実の色彩として「黒と白との細胞」なるものは、人体のどこにも見つからない。
 そうするとこの言葉は、細胞の外見的な特徴を述べているのではなくて、その何か別の意味における性質を、比喩的に表しているのだと考えざるをえない。

 ところで、「黒白(こくびゃく)を明らかにする」とか「白黒(しろくろ)を付ける」という表現に見るように、この二つの対極的な色は、灰色領域(グレー・ゾーン)を排して対象を画然と二つに区別する際の比喩として用いられる。ここで連想されるのは、「神経細胞は、『静止状態』か『興奮状態』の二つの状態のいずれかを取りうるだけで、その中間の状態は存在しない」という神経生理学的法則(「悉無律」)である。

 脳のこのような特性は、コンピュータが01の二つの組み合わせだけであらゆる情報を処理していることと全く相似であり、脳にある約1000億個の神経細胞の各々が二つの状態のどちらであるかという可能性の順列組み合わせが、脳が取りうる状態=人間の意識の状態のすべてなのである。
 すなわち、物理的には、「黒と白との細胞のあらゆる順列」こそが、「意識の流れ」なのである。

 発表では、はたして賢治がこのような当時最先端の神経生理学の知見に触れえたのかという問題について検討し、さらにこの見方と『春と修羅』の「」の意識観とを、対比させてみる。

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 まだスライドは作成中なのですが、当日は、いかにして「賢治がこのような当時最先端の神経生理学の知見に触れえたのか」というところの議論に、かなりの時間がかかりそうです。

国会図書館「三度目の正直」

 ホテルで朝食を済ませると、国会図書館に向かいました。これで今年は3回目となります。
 今日調べたかったのは、「オホーツク挽歌」行の帰路における1923年8月7日の大泊→稚内の連絡船が欠航した可能性を指摘する説に関する最終確認、それから1926年以前に賢治が帝国図書館で閲覧できたはずの、生理学関係の専門書に関することです。

 8月7日の稚泊連絡船に関しては、やはり萩原昌好さんの著書における指摘のとおり、この日の船に確かに貴族院議員の視察団が乗船して大泊から稚内に渡ったことが、8月9日~10日の「樺太日日新聞」の複数の記事から確認できました。したがってこの便が「欠航していた」ということはありえません。
 そうすると、「一九二三、八、七、」の日付を持つ「鈴谷平原」に、「こんやはもう標本をいつぱいもつて/わたくしは宗谷海峡をわたる」との記述があることから、賢治がこの船に乗船していた可能性はかなり高いことになります。この船上の出来事と推測される「宗谷〔二〕」に登場する立派な「紳士」が、貴族院議員だったのではないかという思いつきを含め、この辺のことについてはしばらく前にも書きました。
 また、8月8日に賢治が稚内に着いていたとなれば、9日と10日に札幌ですごす時間を持つことも可能になり、「札幌市」に記された思い出の有力候補として、あらためて浮上します。

加藤元一『生理学』 一方、「1926年以前の生理学書」という件に関しては、実はそもそも私はこれが調べたくて、今年の春から国会図書館に足を運びつづけていたのでした。このたび「三度目の正直」で、やっと目的としていた成果を上げることができました。すなわち、1923年に刊行された加藤元一著『生理学』上巻(右写真)p.384に、「正常なる神経繊維は悉無律に従ふ」との記載を確認できたのです。
 と言っても、これだけではどういう意味があるのか不明でしょうが、私としては賢治がこのような知識を持っていたことが、「詩ノート」の「〔黒と白との細胞のあらゆる順列をつくり〕」という作品の土台にあったのではないかと、かねてから思っていたのでした。
 このことについては、いずれきちんとまとめてみたいと思います。

 『生理学』のマイクロフィッシュのコピーを受けとると、午後3時に予定より早く国会図書館を後にしました。
 表に出ると、しばしの間その住人を失っている国会議事堂が、陽射しに照らされてそびえていました。私はこの5~6月頃には、当時上程されていたある法案に関して、柄にもなく議員会館に日参するようなことをしていたのですが(おかげでついでに図書館ものぞけたのですが)、解散で廃案になってしまうと、あっけないものでした。

国会図書館から望む議事堂

東京(2)

 朝食をすませると、9時すぎにホテルを出て、山手線・地下鉄有楽町線で国会図書館に向かい、 手続きをすませて館の中に入ったのは10時前でした。

国会図書館 賢治が上京するたびに通っていた上野の「帝国図書館(現・国際子ども図書館)」 に収められていた厖大な蔵書は、 1961年にはほぼすべてが国会図書館に移管されました。ですから、現在もここには、 その昔に賢治が手にとって読んだかもしれない本が、ちゃんと保存されているわけです。

 今日おもに調べたかったのは、「詩ノート」に属する「〔黒と白との細胞のあらゆる順列をつくり〕」 という作品の背景となっている知識を、賢治はどんな本から得たのだろうか、ということでした。
 賢治の蔵書の中にあったという『生理学粋』(1927年版)や、『解剖学名彙』(1917年版)というような本をコピーしたり、 作品が最初に書かれた1927年までに出版された生理学や心理学の専門書を、順に読んでみたりしました。
 実際に閲覧を申し込んでみてわかったのですが、これくらい古い本は、実はすべて縮小撮影され「マイクロフィッシュ」 という状態で保存されており、一般の閲覧者はそれを専用の器械で拡大して見るということしかできないのです。したがって、 賢治が読んだかもしれない本たちに、直に触れることはできなかったのは、ちょっと残念でした。

 当初の調査目的の方は、さほど顕著な成果もなかったのものの、偶然に「東京文信社」 から1920年に発行されたガリ版刷りの東大の講義録を見つけたり、William James の名前の当時の読み方について少し気がつくことがあったり、それなりには興味を持って作業をしていました。
 文信社の講義録は、家出した賢治がアルバイトをしていた前年のものでしたが、日本語の文章の中に、 専門用語は筆記体の英語やドイツ語がびっしり混ざっているような文体です。賢治のように英語やドイツ語に十分習熟した人材は、 たしかにこんな原稿のガリ版切りとしては、重宝されただろうと感じました。
 途中で図書館内の喫茶室でカレーを食べ、また解読を続けていましたが、まるで「虫めがね君」みたいに長時間マイクロフィルムを見ていると、 さすがに眼も疲れてきました。
 5時半頃、何点かのコピーを後日郵送してもらうよう依頼して、荷物をまとめて国会図書館を後にしました。

 また永田町駅から有楽町線に乗り、池袋へ向かいました。すでに駅周辺では、お勤めの人の帰宅ラッシュが始まっています。
 池袋駅から東京芸術劇場まで少し歩くと、「こんにゃく座」に電話して予約してあったチケットを受付で受けとり、6時半には開場です。 こぢんまりとしたホールで、いちばん後ろの席でしたが、何人か横の方には林光さんや萩京子さんがすわっておられました。

 午後7時から、第一部の「耕耘部の時計」が20分ほど、10分休憩して、7時半から、「鹿踊りのはじまり」 が50分というプログラムです。
 「耕耘部の時計」では、奥の幕に大きな時計の文字盤を映写し、その前で歌と演技が繰り広げられていきました。農場で働く農夫たちが、 新入りを受け容れていく過程の素朴な暖かさが、ユーモアと諧謔をもって描かれます。 賢治の原作から感じられる微妙な疎外感のようなものはなく、終始おもしろく演じられるドラマでした。

「鹿踊りのはじまり」チラシ 休憩後の「鹿踊りのはじまり」のステージは、 舞台後ろに天井からカーテンのように一面垂らされた多数の紐のようなものが、太陽の光に揺れるすすきに見立てられ、 舞台の空間には何か薄い煙のようなものも漂い、チンダル現象によって照明のライトが何本か交錯する光線に見えていました。
 そこに、「そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあひだから、夕陽は赤くなゝめに苔の野原に注ぎ・・・」という、 私が高校生の頃にいちばん好きだった書き出しのフレーズが、とつぜん合唱によって歌いだされたものですから、 もう冒頭からじーんときてしまいました。
 細かい描写は省きますが、もちろんクライマックスは、6匹の鹿により相次いで歌われる方言短歌の部分です。
 林光さんの音楽は、ヴァイオリン、クラリネット、アコーディオン、パーカッションというたった4人の編成で、つねに躍動的で、 時に抑えられた情感が顔をのぞかせ、不思議な響きで歌や踊りを包みました。歌い手たちは、みんな身体の活き活きとした律動性が印象的でした。

 余韻にひたりながら劇場を出ると、池袋駅南側のガードをくぐり、数人ほどの行列ができていた「無敵家」というラーメン屋さんの前に並んで、 豚骨ラーメンを食べました。博多とは違った太めの麺で、背脂もけっこう載っていますが、一日の疲れを癒やしてくれるようでした。
 このあと、山手線に乗ってホテルに帰りました。

 明日は、朝6時すぎの新幹線に乗り、そのまま京都で仕事に出勤することになります。