タグ「〔雨ニモマケズ〕」が付けられている記事

 先日、中村稔さんが『宮沢賢治論』を刊行されました。

宮沢賢治論 宮沢賢治論
中村稔

青土社 (2020/4/24)

Amazonで詳しく見る

 中村稔さんと言えば、1955年に詩誌『現代詩』に発表した「「雨ニモマケズ」について」という論考において、賢治の「〔雨ニモマケズ〕」のことを「宮沢賢治のあらゆる著作の中でもっとも、とるにたらぬ作品のひとつであろうと思われる」「この作品は賢治がふと書きおとした過失のように思われる」と述べて、議論を巻き起こしました。
 哲学者の谷川徹三氏は、従来から「この詩を私は、明治以来の日本人の作った凡ゆる詩の中で、最高の詩であると思っています」として、とりわけ高く評価していましたから、1961年に「われはこれ塔建つるもの」を『世界』に発表して中村論文の批判を行ない、するとこれを受けて中村氏は、1963年に「再び「雨ニモマケズ」について」という反論を『文藝』に掲載する、という形でやり取りがなされ、世間ではこれを「「雨ニモマケズ」論争」とも呼んで、当時はかなりの注目を集めたということです。

 私などは、もちろんこの論争をリアルタイムで知ることはできませんでしたが、その一方の当事者であった中村稔さんは、後述のように私にとってはある種の「レジェンド」とも言える存在でした。
 その中村さんが、93歳になって今回刊行された『宮沢賢治論』の帯には、「宮沢賢治研究の第一人者が/従来の自説を全否定し、/「雨ニモマケズ」をはじめ/詩・童話を虚心に精読し、/あらたな解釋と評価を詳述した/画期的な論考」「私たちは/「雨ニモマケズ」を/決定的に誤って/読んできたの/ではないか」とありますから、これは何としても、読んでみないわけにはいきません。

 タイトルの「行ッテ」というのは、「〔雨ニモマケズ〕」のテキストに、畳みかけるように出てくる「行ッテ」という字句のことです。

東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

 宮澤清六氏の孫である宮澤和樹さんは、東日本大震災以降、全国各地で「〔雨ニモマケズ〕」について講演をされていますが、その際によく取り上げて話をされるのが、この「行ッテ」に込められた意味です。和樹さんは、たとえば次のように語られます。

 多くの人のいだく宮沢賢治のイメージというと、ストイックで、献身的で、信仰篤く、謙虚な人というようなもので、その人柄や作品からは、「倫理的」な要素を強く感じられるのではないでしょうか。
 現実の賢治の生き方を見ても、自分一人が幸せになるとか楽をするとかいうことは眼中になく、いつも他者のために尽くそうとしていたのは確かだと思われますし、そういうところはまさに「倫理に生きた人」という感じです。
 またその作品に目を転じても、「雨ニモマケズ」はその一つの典型ですし、童話では「グスコーブドリの伝記」とか「貝の火」とか「ひかりの素足」など、読んでいて胸が苦しくなるほどの倫理性を感じます。

 しかし、その一方で賢治という人は、上のような倫理性とは別の側面として、とにかく「美しいもの」には理屈抜きに陶酔してしまうところがあったのも事実だと思います。何かに感動すると、「ほほーっ」と叫んで飛び上がったり踊り出したりしたとか、かなりのお金をかけて浮世絵(春画も含む)やクラシック音楽のSPレコードを蒐集していたとかいうところなどは、彼の倫理とは全く別の問題で、いったん「美」に魅せられると我を忘れてしまう側面もあったということかと思います。

足摺岬の「雨ニモマケズ」詩碑

 8月11日から12日にかけて、高知県の足摺岬の奥の牧場に先月建立された、「雨ニモマケズ」詩碑の見学に行ってきました。

 先週から台風が、まさにちょうどこのあたりを目ざして来ているところだったので、無事に行き着けるかと心配していたのですが、当初の予想よりも台風の接近が遅れてくれたおかで、天候は大丈夫でした。
 瀬戸大橋が架かってからは、京阪神から四国に入るまではあっという間なのに、やはり足摺まで行くとなると、四国の中での移動が大変です。高知まで土讃線の振り子列車に揺られながら山を越え、そこからさらにJRと土佐くろしお鉄道をまたぐ、「特急あしずり」に乗ります。
 下の写真は、土佐くろしお鉄道の土佐佐賀あたりで、車窓から見た海の様子です。青空ものぞいてはいるものの、遠くの雲は台風の接近を匂わせて何となく不穏で、海には白い波しぶきがかなり目立っています。

土佐佐賀あたりの太平洋

 「あしずり」に乗って約2時間で終点の中村(四万十市)に着き、そこからはバスに1時間ほど揺られて、土佐清水市です。この日は、詩碑を建てられた西村光一郎さんが、土佐清水のバスターミナルまで車で迎えに来て下さっていたので、市街地からさらに海沿いと山中の道を20分あまりで、「足摺牧場」に着きました。

 地図で見ると下のような、南海に臨む位置です。右下の「+」を押してズームしていただくと、より詳細な場所がわかります。

 足摺牧場の入口です。

足摺牧場入口

 牧場に入ると、まず「宮澤賢治詩碑建立趣意書」があります。

「宮澤賢治詩碑建立趣意書」

 そして、背後に太平洋も見渡せる場所に立つ、3基の詩碑。

足摺牧場の三詩碑

 中央の背の高いのが宮澤賢治の「雨ニモマケズ」詩碑、向かって左側が岡本弥太の「櫻」詩碑、右側が西村和三郎の「山靈賛歌」詩碑です。
 碑の建立者は、その西村和三郎の次男であり、現在は地元の幼稚園の園長をしておられる西村光一郎さんで、今回はわざわざ私のために、案内の労をお取り下さいました。
 ここにあらためて、西村さんのご厚情に深く感謝を申し上げます。

 さて、このたび並んで詩碑が建てられたこの3人の詩人の間に、いったいどんな縁があったのかということですが、まず左側の碑の岡本弥太については、鈴木健司氏の論考「詩集『春と修羅』の同時代的受容」(蒼丘書林『宮沢賢治という現象』所収)に、次のように紹介されています。

 岡本弥太は、全国的にみれば一部の詩人や研究者にのみその名を知られる存在かもしれない。だが、土佐の地において弥太は「南海の賢治」と称される詩人で、郷土の生んだ最も著名な詩人であり、弥太祭や弥太賞といった催しも行われている。弥太は明治三二年一月、高知県の岸本村(現、香我美町岸本)に生まれた。賢治が明治二十九年八月生まれであるから三歳年下、学年としては二級下にあたる。弥太は高知市立商業学校を卒業、その後一時神戸に職を得るが、二三歳の時郷里に戻ってからは終生土佐の地を離れることなく、二〇年にわたり小学校教師としてその職を尽くし、昭和一七年一二月、結核によって満四三歳の生涯を閉じた。

 弥太の詩人としての活動は、25歳からのいくつかの同人誌発行の後、全国的な詩誌である『詩神』や『日本詩壇』への投稿・掲載とともに、生前の唯一の詩集『瀧』を、昭和7年に34歳で刊行しています。
 「南海の賢治」という呼称は、その作風から付けられたものでしょうが、生前の賢治との直接の交流はありませんでした。しかし弥太は、賢治が『春と修羅』を出版した直後からずっとその作品に注目し、高知の古本屋で埃をかぶった『春と修羅』を見つけた際には、「奪ひとるやうに」購入したのです。
 下記は、鈴木氏の上掲論文から、弥太が「イーハトーヴォ」創刊号(昭和14年)に寄せた、「春と修羅の我が思い出」という文章の一部です。

 私が故人の名前を知ったのは例の詩話会から出てゐた詩誌日本詩人誌上、多分大正十三年ではなかつたかと思ひます。春と修羅のあの薊の押絵のある麻表紙の詩集の奥付が大正十三年四月二十日発行となつてゐますから――あの詩集の紹介者は佐藤惣之助氏でなかつたかと記憶してゐるが、或は 川路柳虹氏だつたかも知れない。豊富絢爛な未来派的官覚異装を讃えた詩評で、この東北の天才を評するに決して不当でなかつたやうに思ひますが、今のやうな広汎深刻な人性的意味の探求では決してなく、自分にはハルトシユラといふおどろくべき野生のちからを持つた Dawn man 的意味の現出に官覚的驚異を感ずるの外はなかつたやうに印象されてゐます。
〔中略〕
 私はこの人の詩集を出版後三四年たつてから私の辺鄙な土地の町の古本屋の埃のなかから偶然拾ひ出しました。貳円四拾銭の定価のものを符牒どほりの六拾五銭で、奪ひとるやうに買ひ(多分僕が買はなかつたらこの詩集は何年も宮沢さんの死ぬ時まで、その通りだつたのかも知れません。この辺鄙でその真価を知る人は寡いのですから。)その晩徹宵でこの詩集のあの重い手ざはりと活字に吸ひとられて仕舞ひました。松の針と無声慟哭のところへ来てとうとう涙を滾して仕舞ひました。

 ということで、花巻から遠く離れた南国の地に、ひそかに賢治に共鳴する同時代の詩人がいたというわけです。その作風には、賢治を思わせるような斬新な語法も見られたということですが、上の詩碑に刻まれている「櫻」は、平易で静かな、そして哀しい作品です。教師として、教え子の出征を見送った情景を回想するものでしょうか。

   櫻
                岡本彌太
おたっしゃでゐて下さい

そんな風にしか云えないことばが
さくらの花のちる道の
親しい人たちと私との間にあった
そのことばに
ありあまる人の世の大きな夕日や
涙がわいてきた

私はいまその日の深閑と照る
さくらの花のちる岐路に立ってゐる

おたっしゃでゐて下さい
私はその路端のさくらの花に
話しかける
さくらは
日の光に美しくそよいでゐる

 さて、向かって右側の詩碑の西村和三郎は、この岡本弥太を通じて賢治の作品を知り、やはり賢治のことを深く敬愛するようになったという詩人です。
 和三郎は、1913年(大正2年)に高知県土佐清水市に生まれ、高知師範学校(現高知大学)を卒業後、26年間小学校の教師をしながら詩作に励みました。教師を退いてからは、高知県議会議員を一期務め、1967年(昭和42年)に足摺岬の奥の未開の地を購入して、牧場を始めます。山中にて、ランプの灯りで清貧の生活を送り、1996年に亡くなりました。
 詩人としては、郷土の先輩である岡本弥太に師事し、生前に詩集『五月狂想』『修羅の恋歌』を刊行しています。

 この間、故・宮澤賢治に対する敬慕の念を強くした和三郎氏は、1940年(昭和15年)にはるばる花巻を訪ね、この時に宮澤清六氏や菊池暁輝氏と会ったということで、菊池氏と一緒に撮った写真も残っています。この縁で、翌年に清六氏から賢治遺言の『国譯 妙法蓮華経』を贈られて、以後は毎日法華経の勤行を欠かさず、土佐清水の町を団扇太鼓を叩きながら唱題して歩いた時期もあったということです。

 下の写真は、和三郎氏が所蔵していた『国譯 妙法蓮華経』です。和三郎氏はこれを「お飾り」などにはせずに、毎日座右に置いて読経に使っていましたので、特に「如来寿量品」の部分などは手垢にまみれ、後にこれを見た清六氏は、「ここまで読み込まれた版は見たことがない」と言ったということです。

西村和三郎氏旧蔵『国譯 妙法蓮華経』

 詩碑に刻まれている「山靈賛歌」は、和三郎氏が足摺の山中を開墾して「足摺牧場」を作っていた頃の一コマかと思われます。

   山靈賛歌
                西村和三郎
伐りゆくほどにゆくほどに
秘めし山霊の相にして
自からなるマンダラの
たからの苑ぞあらわるる
  とわの園生を開くべく
  いのち傾け老いゆかん
汗みどろなる肩よせて
石にいこいて語りしは
夢みるごとくちかいしは
そも現し世のことならじ

 「道を求めるのにひたむきで一途だった」という人で、土佐清水市の市街地から、当時はまだ電気も来ていない山の中に移り住んだわけですから、ご家族にとっては大変な面もあったでしょうが、子どもたちにはよく賢治の童話を読んで聞かせてくれたということです。

 おそらく1980年頃のことかと思われますが、宮澤清六氏が講演のために、当時はまだ高校生だった宮澤和樹さんを連れて、高知を訪ねられたことがあったそうです。この時に、和三郎氏とともに二人に会った次男の光一郎さんは、「いつか足摺の地に賢治の詩碑を建てたい」という願いを、清六さんと和樹さんに語られました。

 そして、今回やっとその西村光一郎さんの長年の念願がかなって、宮澤賢治・岡本弥太・西村和三郎という3人の詩碑が、和三郎の開いた「足摺牧場」の一角に、建立されたわけです。賢治の「雨ニモマケズ」は、その前半部が刻まれ、花巻の羅須地人協会跡にある元祖賢治詩碑に後半部が刻まれているのと合わせて、これで「一対」になるのだと、光一郎さんは話して下さいました。

 2019年7月15日に行われた除幕式には、はるばる花巻から宮沢和樹さんと、碑文の揮毫をした宮沢やよいさんのご夫婦も臨席し、総勢150名もが集まる盛会となりました。式では、西村光一郎さんが園長を務める「しみず幼稚園」の園児らによる「ポランの広場」の合唱や、「雨ニモマケズ」の朗読や、餅まきもありました。
 宮沢和樹さんは挨拶の中で、この足摺牧場の風景を評して、「賢治が愛した種山ヶ原に似ている」と述べられたということですが、緑の草原に牛や馬がくつろいでいる様子はまさにそのとおりですし、その草原から遠くに帯のように青く見えるのは、種山ヶ原の場合には「海だべがど、おら、おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい」なのに対して、こちらはほんとうの海、黒潮の流れる太平洋が広がっているのです。
 今のところ下記リンクからは、7月16日に「テレビ高知」で放映されたニュース番組で、この詩碑の除幕式を伝える様子が視聴できます。西村光一郎さんや宮沢和樹さんも出ておられます。

宮沢賢治の詩碑 高知県土佐清水市に完成」(KUTV)

 8月11日の午後は、詩碑を見学させていただいた後、足摺牧場にある西村光一郎さんの弟さんのお宅で、上の貴重な『国譯 妙法蓮華経』を見せていただいたり、清六さんや和樹さんとのエピソードを聞かせていただいたりしました。その後、また牧場から土佐清水のバスターミナルまで車で送っていただき、再びバスに1時間ほど揺られ、四万十市の中村駅前に戻りました。

 晩ご飯は、四万十市内の居酒屋で、四万十川の天然鰻や、カツオの塩たたきなどをいただきました。

四万十川のウナギの白焼き

カツオの塩たたき

 ポン酢醤油のかわりに塩で食べる「カツオの塩たたき」は、高知市あたりでは粗塩をざらっと振ってあるのですが、四万十市など高知県西部では、「塩だれ」の中に少し漬け込んでから食べるのが特徴です。薬味は、たっぷりのタマネギ、青ネギ、ニンニクのやや厚めのスライスに、大葉の繊切り。何と言っても高知で食べると、たたきの一切れ一切れが無茶苦茶でかくて豪快(厚さ2cmくらい!)なのがいいです。

 夜は駅前のホテルに泊り、翌朝に中村駅からまた「特急あしずり」に乗りました。ちなみに、中村駅の売店コーナーで売っているお弁当は以前にも買ったことがあるのですが、安くてボリュームもあって美味しいです。
 下の「華かん彩り弁当」は、400円から480円くらいで中身が違う何種類かあり、これはご飯の上に小ぶりの鯖の塩焼きが半身まるごと!入っていて、さらにコロッケや卵焼き、こんにゃくの煮物、ごぼうサラダ、ししとうの煮物、春雨の酢の物なども入って、430円でした。

中村駅の弁当

 兵庫県三田市の「女声合唱団Stella」から、演奏会の案内をいただきましたので、ご紹介させていただきます。
 来たる1月4日(金)の午後に、三田市総合文化センターにおいて、同合唱団の第7回定期演奏会「Happy New Year Concert」を開催されるのですが、その中で千原英喜作曲の「女声合唱とピアノのための組曲「雨ニモマケズ」」が、取り上げられます。
 全体のプログラムは、次のようになっています。

I シューベルトの合唱曲
   野ばら、子守歌、菩提樹、詩篇23

II 女声合唱のための「トンカ・ジョン」より
   2.泣きにしは、3.爪紅の花、5.なつめ、6.夕焼けとんぼ
   7.月夜の家、8.二重虹、9.言葉
      詩:北原白秋 曲:寺嶋陸也 構成:しままなぶ

III 混声合唱のステージ 信長貴富作品
   「こころようたえ」 詩:一倉宏、「夕焼け」 詩:高田敏子
   「楽譜を開けば野原に風が吹く」 詩:和合亮一

IV 女声合唱とピアノのための組曲「雨ニモマケズ」より
   I.告別(1)、II 告別(2)、IV 雨ニモマケズ
      詩・宮沢賢治 曲:千原英喜

日時: 2019年1月4日(金) 14:30開場 15:00開演
場所: 三田市総合文化センター 郷の音ホール 小ホール
入場料: 1000円

 チケットをご希望の方は、「女声合唱団Stella」のWebサイトに、申し込み用のフォームがあります。

女声合唱団Stella第7回定期演奏会(表)

女声合唱団Stella第7回定期演奏会(裏)

「雨ニモマケズ」詩碑二つ

 石碑の部屋に、岩手町立川口小学校の「雨ニモマケズ」詩碑と、盛岡市材木町の「雨ニモマケズ」詩碑を、アップしました。

 川口小学校の碑は、2016年に建てられたもので、日時計花壇とも併設されています。

川口小学校「雨ニモマケズ」詩碑

 現在、「〔雨ニモマケズ〕」の全部あるいは一部を刻んだ碑は、全国で17基ほどありますが、その中でも岩手町にあるこれが、最北の碑ということになります。

 盛岡市材木町の方の碑は、この商店街の振興組合の52周年を記念して建立されたものだということで、これまでもこの通りに沿って設置されてきた、光原社の「烏の北斗七星」碑、「宮沢賢治坐像」、「詩座」など様々な賢治関連のオブジェに、また新たな一つが加えられたことになります。

盛岡市材木町「雨ニモマケズ」詩碑

 上の写真ではちょっとわかりにくいですが、ほぼ水平になった上の面に、「〔雨ニモマケズ〕」の全文が刻まれています。詩碑が上を向いているというのは珍しく、「ベンチにもなるように」という趣向なのだそうですが、現時点ではこんなに美しい碑文にお尻を乗せるというのは、ちょっと畏れ多い感じもします。

 隣に一緒に立てられた電信柱のオブジェには、上写真のように「かまだ屋」という表札がかけられています。その昔、賢治たちが集まって『アザリア』の合評会を催したり、あの短篇「秋田街道」に描かれた深夜の雫石までの徒歩旅行に出発したりしたのは、昔この場所にあった下宿屋「かまだ屋」だったということです。ちなみに、『定本宮澤賢治語彙辞典』の「材木町」の項目によれば、ここに下宿していた『アザリア』のメンバーは、河本義行でした。
 すなわち、この盛岡市材木町は、『注文の多い料理店』の出版元の「光原社」があっただけではなく、賢治の青春の輝かしい一コマの舞台でもあったわけです。

綴り方「よーさん」 宮澤賢治が書いた文章で現存している最古のものは、花城尋常高等小学校4年の時の、「よーさん」と題した綴り方で、『新校本全集』第14巻の校異篇に、右の写真が収録されています。
 これは、宮澤家に保存されていたのでも小学校に残っていたのでもなくて、岩手県公文書綴「第一回児童学業成績調」という役所の資料の中にあったものが、後に発見されたのです。
 1906年(明治39年)に、全国の尋常小学校第四学年を対象に行われた、「第一回小学校児童学業成績調査」というものの結果で、他の児童の「綴リ方」49名分とともに残されていました。

 この答案を見て、現代の人がまず驚くのが、養蚕のことを「よーさん」と表記している仮名遣いだと思います。小学4年生にもなって、「ちょっと賢治君、大丈夫?」という感じですが、これはすでにご存じの方はご存じのように、明治時代終わり頃の数年間だけ、文部省が「言文一致」の新仮名遣いの一環としてこのような表記法を定め、全国の小学校において、これが正しい書き方として教えられていた時期があったのです。

宮澤賢治「書キ方」答案 右の写真は、やはり『新校本全集』第14巻本文篇に掲載されている、同じ「第一回児童学業成績調」の「書キ方」の賢治の答案で、これは手本を写したものですが、やはり最後の行に「けしきたいそー美し」と、長音記号「ー」を用いた表記が行われています。
 今日は、この「ー」を用いる仮名遣いについて考えてみたいのですが、以下ではこのような表記法のことを、「棒引き仮名遣い」と呼ぶことにします。

 さて、『新校本全集』第14巻を続けて見ていくと、この次には、「国語綴り方帳/花城尋常高等小学校六学年/宮沢賢治」という文章群が掲載されています。
 これは、賢治の小学6年の時に担任教師だった谷藤源吉という先生の家から出された「反故」を買った人が、その中から偶然発見したというもので、これまた幸運の賜物です。小学6年生の賢治が書いた16の短い綴り方が載っているのですが、たとえばその一つは、次のようなものです。

     ▲ 皇太子殿下を拝す。

昨日は私等のいつまでも忘れることができぬ日であります。
工兵八大隊の兵営や演習の後を見て来た帰りに私等が皇太子殿下がおいでになるのを拝す為に一列にならんで待って居りますと自てん車に乗ったけいぶが通りその後に人力車で三人通りそれから殿下は、挙手の礼をこの賤しい私等になされましてお通になりました。
あー、雲の上の貴きお方がこの賤しい私等に礼をなさるとは校長さんのお話の通り涙がこぼれるばかりであります。
昔は土下座して殿様の顔も見ることができぬ代がどーしてこの如き有難い代になったでせう。この有難い代に生れたにつけても君の為につくさねばなりせん。

 ここにも、「あー」とか「どーして」など、棒引き仮名遣いが使われています。賢治が皇太子を拝したというのは、『新校本全集』の年譜によれば1908年(明治41年)9月30日に、皇太子(後の大正天皇)が盛岡に来て、工兵特別演習を統監した時だということですので、賢治らも花巻から盛岡まで遠足で行っていたものと推定されています。

 賢治はこの後、小学校を卒業して盛岡中学校に入学しますが、中学時代の答案や綴り方などは残っておらず、この次の学校関係の提出物で現存しているものは、盛岡高等農林学校時代の修学旅行記や地質調査報文などになり、これらの文書において賢治は、もはや棒引き仮名遣いは用いず、一般的な歴史的仮名遣いに戻っています。また、中学時代から作りはじめる短歌においても、基本的に歴史的仮名遣いが用いられていますので、「よーさん」とか「たいそー」とか「どーして」といった棒引き仮名遣いを賢治が用いた、とりあえず最後の例は、上記の小学6年時の「国語綴り方帳」だったということになります。

 ただし、中学時代の短歌には唯一の例外として、「歌稿〔B〕」の「〔明治四十二年四月より〕」の章に、次の一首があります。

ホーゲーと焼かれたるまゝ岩山は青竹いろの夏となりけり

 この歌はちょっと読んだだけでは意味がわかりませんが、「ホーゲー」とはやはり棒引き仮名遣いで「奉迎」のことで、上記のように皇太子を盛岡に「迎え奉る」に際して、盛岡市内の「岩山」という丘の中腹に、ちょうど京都の五山の送り火のように、「ホーゲー」という文字形に火を燃やしたということがあったのです。
 小川達雄著『盛岡中学生 宮沢賢治』には、当時の次のような「岩手日報」の記事が引用されています。

【無題録】▲御着駕当夜より、ホーゲイの彩火、岩山の絶頂にかゞやきて仰ぎみるもの思はず万歳を絶叫した、京都東山の大文字獨り其美を前にほしいままにする能はずだ▲折しもの工兵演習も戦機方に迫りて夜々一団のサーチライトが、各方面に揺曳して、いとゞしく荘厳の観を添ふることになッた

「ホーゲー」の図 この記事には「ホーゲイ」となっていますが、当時の新仮名遣いによれば、「ホーゲー」が正解のはずです。
 同じく小川達雄著『盛岡中学生 宮沢賢治』には、右のような図も掲載されていて、説明は付けられていませんでしたが、これは当時の何かの記録絵なのでしょうか、山肌には「ホーゲー」の字が見えます。
 こういう場合、本来ならば漢字で「奉迎」と輝かせた方が立派な気がしますが、「奉」のように画数が多くて線が混み合った文字を、くっきりと炎で浮かび上がらせるのはおそらく物理的に困難なので、カタカナにしたのでしょう。
 今のように、ネオンサインやビルの灯りがなかった時代ですから、きっと夜空に鮮やかに光っていたことでしょうが、それにしても現代の私たちの感覚では、その文字が「ホーゲー」というのでは、何か滑稽というか、間が抜けたような気がするのは否めません。現代では、「ホゲー!」という言葉が驚きを表す間投詞として漫画などで使われたり、「hogehoge」などという文字列がプログラミングで無意味な名前を表すメタ構文変数として用いられることがあることも、影響しているでしょう。
 しかし当時の人々の間では、この棒引き仮名遣いもかなり浸透していて、きっとさほど違和感はなくなっていたのでしょう。

 それはさておき、上の「ホーゲーと焼かれたるまま・・・」という賢治の短歌に戻ると、小学6年の賢治が遠足で皇太子を拝したのは、前述のように1908年9月30日の日中と推測されるので、28日夜に行われた「ホーゲー」の山焼きそのものは見なかったと思われるのですが、この短歌によれば、翌年に盛岡中学に入学すると、岩山に登ってその火床の跡を見たということなのでしょう。「「東京」ノート」の「盛中一年一学キ」の項に「岩山」という記載があるのが、この時のことと推測されています。

 以上、少年時代の賢治が用いていた、「棒引き仮名遣い」の例をたどってみました。

 ところで、その後は廃れてしまったこの「棒引き仮名遣い」というものの歴史を少し調べてみましたら、これは明治時代後半から活躍した上田万年という言語学者が、自らの国語改革の理想を実現すべく奮闘した結果、生まれたものだったのです。
 山口謠司著『日本語を作った男 上田万年とその時代』という本には、そのあたりのことが詳しく書かれていました。

日本語を作った男 上田万年とその時代 日本語を作った男 上田万年とその時代
山口 謠司

集英社インターナショナル 2016-02-26
売り上げランキング : 12327

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

 日本語そのものは、有史以前から悠久の歴史があるわけですから、明治時代の学者を「日本語を作った男」と呼ぶとは、いくら何でも大げさすぎるタイトルではないかとこの本を読む前には思っていたのですが、しかし読んでみると、この人は少なくともその心意気の上では、新たな日本のために、自分が中心となって「新しい国語」を作らなければならない!という高邁な使命感のもとに、近代日本の国語改革に取り組んだ人だったのです。
 上田万年は、夏目漱石や幸田露伴と同じ1867年(慶応3年)に尾張藩士の息子として江戸で生まれ、帝国大学和文科を優秀な成績で卒業後、さらに大学院に進むと、国費でドイツおよびフランスに留学しました。4年の留学を終えて1895年(明治28年)に帰国すると、28歳で東京帝大教授に就任します。その秋に行った記念講演「国家と国語と」においては、国語に関する自らの主張を、次のように述べています。

言語とはこれを話す人民に取りては、恰も其血液が肉体上の同胞を示すが如く、精神上の同胞を示すものにして、之を日本国語にたとへていへば、日本語は日本人の精神的血液なりといひつべし。日本の国体は、この精神的血液にて主として維持せられ、日本の人種はこの最もつよき最も永く保存せらるべき鎖の為に散乱せざるなり。故に大難の一度来るや、此声の響くかぎりは、四千万の同胞は何時にても耳を傾くるなり、何処までも赴いてあくまでも助くるなり、死ぬまでも尽すなり、而して一朝慶報に接する時は、千島のはても、沖縄のはしも、一斉に君が八千代をことほぎ奉るなり。
(中略)
故に偉大の国民は、夙に之を看破し、情の上より其自国語を愛し、理の上より其保護改良に従事し、而して後此上に確固たる国家教育を敷設す。こはいふまでもなく、苟も国家教育が、かの博愛教育或は宗教教育とは事替り、国家の観念上より其一員たるに愧ぢざる人物養成を以て目的とする者たる以上は、そは先づ其国の言語、次に其国の歴史、この二をないがしろにして、決して其功を見ること能はざるなり。
(中略)
嗚呼世間すべての人は、華族を見て帝室の藩屏たることを知る。しかも日本語が帝室の忠臣、国民の慈母たる事にいたりては、知るもの却りて稀なり。況んや日本語の為に尽しゝ人をや。
(中略)
日本語は四千万同胞の日本語たるべし、僅々十万二十万の上流社会、或は学者社会の言語たらしむべからす。昨日われわれは平壌を陥れ、今日又海洋島に戦ひ勝ちぬ。支那は最早日本の武力上、眼中になきものなり。しかも支那文学は、猶日本の文壇上に大勢力を占む、而して此大和男児の中、一箇の身を挺して之と戦ふ策を講ずる者なく、猶共に二千余百年来の所謂東洋の文明を楽まんとす、因襲の久しき己を忘るゝの甚しき、あながちに咎むべからざるも、さりとてあまりに称誉すべき次第にはあらず。(上田万年著『国語のため』より)

 とまあ、上田万年はこういう感じの、情熱的で国家主義的な新進気鋭の学者だったわけですが、最後の方は、時まさに日清戦争の戦勝に日本中が湧いていた時局を反映して、もう中国なんか目じゃないのに、いまだ学界では国文学者よりも漢文学者が幅をきかせているという状況に、腹を立てているようです。
 上田万年という人が、国語学者として目ざしたことを簡単にまとめれば、日本語を機能的に優れた言語として速やかに改良整備し、それを小学校から効率的かつ統一的に教育して全ての国民階層に身に付けさせ、もって国家の発展に資する、というようなことになるでしょう。その目的のためには、地方によって異なる「方言」の存在は障害になるので、教育の場ではこれをなるべく抑圧すべきと考え、この方針が例えば沖縄などの学校で、方言をしゃべった児童に首から「方言札」を掛けさせるというような罰則規定を生んでいったりもしました。
 また、厖大な漢字を子供に憶えさせるのは非効率的だとして、教育漢字を大幅に削減し、複雑な歴史的仮名遣いも憶えやすくするために「言文一致」の原則によって改革し、発音どおりに表記するように変えようとしました。
 「よーさん」などの「棒引き仮名遣い」も、この「発音主義」に由来する改革案の一つだったわけですが、すでに1897年(明治30年)に「国家教育社大会」で行った演説「国語教育に就きて」の中で、上田は「ー」という長音符の使用について、次のように考えを述べています。

長母音を示す符号の如き今日までは大抵あゝいゝの如く同字を二ッ書くか、或はあう、おうの如くうの字を他の字の下に書くかして、其用を便じ来れる者なれども、此等には此等の特別の読み方別に存するが故に、これらを以て長母音を代表せしむる時は、一を以て二者を兼ぬる事となり、従って不便も尠からず、明治今日の予輩は、最早これら姑息の方便を以て満足するものにあらず。一日も早く新しき一の符牒を制定せんと希望するものなり。即ち今日にてもすでに実際使用し居るー符牒を五十音図の上に措き、小学初等科より早くこれを教授せんと希望するものなり。

 上田万年の主張は、当時最先端のヨーロッパの言語学によって箔を付けながら、かつ簡単明瞭で判りやすく、日清戦争に勝って富国強兵をさらに進めようとする時代の潮流にも合致していましたので、それは政治的にも次第に力を得ていきました。
 1897年(明治30年)には同志とともに「国字改良会」を設立して持論を展開し、賛同者を増やした上田は、1898年(明治31年)には東京帝国大学教授と兼任しつつ文部省専門学務局長兼文部相参与官に任ぜられ、教育行政にも直接関与するようになります。
 そして1900年(明治33年)、上田は文部省から「国語調査委員」に任命され、国語の改革とその教育への適用について、最高レベルの審議にも携わることになるのです。そして上田の考えた改革案は、帝国教育会国字改良部仮名調査部の会議などを経て、ついに文部省から公布されるに至ります。すなわち、同年8月に「小学校令施行規則」が出され、従来の読書作文習字を「国語」の一科にまとめ、尋常小学校で使用すべき漢字を1200字に制限するとともに、表音式の「字音仮名遣い」が定められたのです。
 ここにおいて、あの「棒引き仮名遣い」が、とうとう国家の方針となったのでした。文化庁がまとめた「仮名遣い資料集」の中のこちらのページには、この「小学校令施行規則」の中の「第二号表」が掲載されていて、棒引き仮名遣いも一覧になっています。

 ところで、この小学校令においては、上記のように「字音仮名遣い」の規則が新たに定められたのですが、一般に日本語の仮名遣いは、「国語仮名遣い」「字音仮名遣い」「訳語仮名遣い」という三種類に分けられるのです。私もこの三分類については、今回初めて知りました。
 三つめの「訳語仮名遣い」とは、明治以後に西洋から入ってきた外来語を主にカタカナで表記したもので、これはすでに発音どおりに表記されていましたので、特に改革の必要はありませんでした。この時点で歴史的仮名遣いが用いられていたのは、「国語仮名遣い」と「字音仮名遣い」だったのですが、前者は、「いふ」とか「かはいさう」とかいう「和語」の表記に用いられる仮名遣いのことで、後者は「勘定(かんぢゃう)」とか「喧嘩(けんくゎ)」など、「漢語」の音読みに用いられる仮名遣いのことです。
 この明治33年の小学校令においては、全てを一挙に変えることで混乱を招かないために、まずは「字音仮名遣い」を発音どおりの新仮名遣いに改めることとし、「国語仮名遣い」の改革は、次の段階で行うよう計画されていました。
 つまり、この時点では、字音仮名遣いは新式で、国語仮名遣いは旧式で行うという、一種の折衷状態にあったわけで、これは1906年(明治39年)に書かれた賢治の綴り方「よーさん」を見ていただいてもわかります。
 すなわち、漢語の「養蚕」の読みは「よーさん」と新式なのですが、本文中には、「大きくなるとわたしどものゆびのくらひになります」とか、「桑の葉をこまくきってくはせます」など、和語においては歴史的仮名遣いが用いられているのです。
 このように、賢治が受けた小学校教育では、仮名遣いが新旧の「折衷状態」にあったということは、後の議論にも関わってくることですので、心に留めておいていただければ幸いです。

 さて、明治33年の「小学校令」で発表された新しい「字音仮名遣い」に対しては、様々な賛否両論が起こりました。特に、「ー」を用いた棒引き仮名遣いはかなり不評を買い、9月29日・30日の『読売新聞』は、社説「新定仮名遣法の実行は暫次見合わすべし」において、次のように批判しています。

 新定仮名遣に於ても亦然り、殊に彼のーの如きは、非難最も多く、之を文字と云ふべきか、将た符号と称すべきか、それさへ定かならず、猶将来或は仮名専用の事ともならば、連字号ハイフン或は註釈符号ダツシユ等と混淆し易きの虞あり、且つ既に文字と云ふ以上は幾分か美的形象をも要すべきに、ーの数多く連るは体裁上果して如何あるべきか

 上田万年の弟子で改革派に属する藤岡勝二のまとめた「明治三十八年二月仮名遣改定案ニ対スル世論調査報告」においても、棒引き仮名遣いに対しては、「棒は国語の音を表はすに足るものでない」「棒は文字でない」「棒は他の文字との調和を欠く」「竪書横書に従って数字との混同を生ずる」「棒は美観を害ふ」などの反対意見を多く挙げ、結局次のようにまとめています。

之を要するに、表音的仮名遣に賛成する諸家も此符号使用のことには同意しないものが甚多い。用ゐるべきところ、用ゐるべからざるところは、自ら定られるが故に、強ち之を排斥するに足らないと論ずるものもあるけれども、其等の説を持するものゝ多くは、蓋し片仮名を用ゐて外来語ことに西洋語を写す場合にのみ存せしめんとするものであって、国語全体に於て、語の活用を書き表はす時にも亦之を用ゐんと云ふのではない。故に此の符号は字音仮名遣、国語仮名遣を通じて、これを普く応用することを難ずるものが多いのである。
国語調査委員会も亦こゝに見るところがあって、国語及字音の長音には棒を用ゐざるを原則として、之を用ゐるを咎めざることゝし、外国語に対しては、其反対に、棒を用ゐるを原則とし、ァィゥを代用することを許容することゝした。ひとり帝国教育会の委員会は棒を使用することを一般に認許したのである。

 ここに至って、上田万年を中心とした「国語調査委員会」も、棒引き仮名遣いの扱いを後退させ、1905年(明治38年)に文部大臣からの諮問「国語仮名遣改定案等」に対して、次のように答申しています(「仮名遣諮問ニ対スル答申」)。

一、国語及字音ノ長音ニハ「あ、い、う」ヲ用ヰルヲ正則トシ、「ー」ヲ代用スルコトヲ許容ス、但シ外国語ニハ「-」ヲ用ヰルヲ正則トシ、「あ、い、う」ヲ代用スルコトヲ許容ス

 すなわち、国語仮名遣いおよび字音仮名遣いにおいては、「ああ」「いい」などと表記するのを「正則」とし、「あー」「いー」も「許容ス」、という位置づけになったのです。
 しかし、一方で上田らは、明治33年には手を付けられなかった「国語仮名遣い」については、表音式に改定する内容をこの答申に盛り込み、ここにようやく上田の長年の宿願が、成し遂げられるかに見えました。
 しかしこれに対し、新仮名遣い反対派は同じく1905年(明治38年)に「国語擁護会」を結成し、反対運動も盛り上がりを見せてきます。この会の中心となっていたのは、以前に上田万年と論争して帝国大学教授を辞した国文学者の物集高見でした。さらに、1906年(明治39年)になると、文部省参事官の岡田良平が、一躍反対派の急先鋒として登場し、その画策によって貴族院や枢密院からも、反対意見が次々と上がるようになりました。
 政府は、混迷する議論を何とか打開しようと、1908年(明治41年)5月、賛成反対両派にわたる各界の大物を入れて、新たに「臨時仮名遣調査委員会」を設置します。ここには、新仮名遣い反対派の重鎮として、陸軍軍医総監・森林太郎(鴎外)も名を連ねていました。

 『日本語を作った男 上田万年とその時代』の冒頭は、この「臨時仮名遣調査委員会」の席上で、軍服礼装を身にまとった森鴎外が、上田万年を睨み付けながら2時間に及ぶ大演説をぶつ場面から始まります。この時に鴎外が述べた意見の全文は、「仮名遣意見」として青空文庫にも収録されていますが、それまで改革派がやや優勢かと見られていた調査委員会の議論は、歴史的仮名遣いを断固として擁護するこの鴎外の重厚な演説によって保守派が形成を逆転し、6月に改革派の新仮名遣い案は「不採用」となりました。上田万年は、憤然として「臨時仮名遣調査委員会」に辞表を提出しました。
 文部省は、膠着状態の調査委員会をやむをえずいったん休会としますが、しかしその間に、思いもよらない情勢変化が起こってしまいます。すなわち、同年7月に西園寺公望内閣が総辞職し、代わって第二次桂太郎内閣が発足して、新仮名遣い反対派急先鋒の岡田良平が、何と文部次官に就任したのです。
 省内の権限を掌握した岡田の動きによって、9月に「臨時仮名遣調査委員会」に対する諮問は撤回されるとともに、明治33年に公布されて新字音仮名遣いを定めていた「小学校令施行規則」は、根こそぎ削除されることになってしまいました(「小学校令施行規則中教授用仮名及び字体、字音仮名遣並びに漢字に関する規定削除の趣旨」)。これによって、小学校で教えられる仮名遣いは、また全てが旧来の歴史的仮名遣いに復することになったのです。
 このあまりに唐突で、それまでの流れに反した政策転換は、現場の混乱を招かざるをえませんでした。上田万年の弟子の一人、保科孝一は、その著書『国語問題五十年』で、当時を回顧して次のように書いています。

ただ、明治三十九年高等教育会議において、かなづかい改定案が大多数をもって可決されたとき、岡田参事官は二三の同僚とこれに反対したが破れたので、貴族院の研究会において、かなづかい反対の声をあおり、さらに枢密院にも手をのばされた。臨時仮名遣調査委員会の委員の顔ぶれを見てもわかるので、つまりこの委員会で新かなづかい案をほうむり去る心底であったことが、明らかに知られる。しかるに、明治四十一年七月西園寺内閣が倒れて、桂内閣が組織され、小松原文相の下に、岡田氏が次官になったので、その権力をもって字音かなづかいの復旧を断行されたのである。つまり、高等教育会議で破れたところから、江戸のかたきを長崎でうった形であった。それにしても、そのやり方がすこしく穏当を欠いていた。というのは、学年の途中で字音かなづかいが復旧することになったのであるから、先週まで東京をトーキョーと書くように教えられていたのが、今週からはトウキョウと書かなければならないことになったのだから、教員も児童も大あわてにあわてたのも、無理がないのである。

 教育現場がこのような変化にさらされた1908年(明治41年)9月、賢治は尋常小学校6年で、先に引用した「皇太子殿下を拝す」を書いたと推定される10月1日は、まさにこの直後にあたります。上で見ていただいたように、この文章中では「あー」とか「どーして」などと棒引き仮名遣いが堂々と用いられ、この後に続く綴り方でも同様ですから、実際の現場では、上の保科の文章のように「先週まで→今週からは」というほどの激変は、起こらなかったのかもしれません。
 賢治にとっては、小学校に入学した1903年(明治36年)にはすでに「字音仮名遣い」は発音式に変わっていましたから、小学校のうちはずっとこの新仮名遣いで教えられ、中学校に入ったら一転して歴史的仮名遣いに戻ったわけですが、これに対して「国語仮名遣い」においては、一貫して歴史的仮名遣いを使っていたわけです。
 上田万年の改革が途中で挫折したために、賢治の小学校時代は、このように「字音」と「国語」とを別の規則に従って綴らなければならないという中途半端な境遇にあったわけで、これが後に述べる「雨ニモマケズ」の問題につながる可能性もあるのではないかと、私は思うところです。

 余談ですが、上記で上田万年の敵役を演じた岡田良平という文部官僚の名前は、後にもう一度、また別の文脈で賢治と間接的に関わってきます。
 1924年(大正13年)8月と言えば、賢治が農学校で「飢餓陣営」「植物医師」「ポランの広場」「種山ヶ原の夜」という4本立ての演劇公演を2日にわたって行い、教師として最も充実した活動をしていた時期ですが、当時文部大臣になっていた岡田良平は、この月の地方長官会議において、「近年に至りて学校劇なるものの流行、漸く盛ならんとする傾向あるが如し。(中略)特に学校において脂粉を施し仮装を為して劇的動作を演ぜしめ、公衆の観覧に供するが如きは、質実剛健の民風を作興する途にあらざるは論を待ず。当局者の深く思を致さんことを望む」と訓示し、さらに翌9月には同様の内容を文部次官通牒としても発しました。これが事実上の「学校劇禁止令」となって、農学校における賢治の演劇活動の道は、この夏を最後に閉ざされてしまったのです。
 このことは、賢治が花巻農学校を退職しようと考える要因の一つになったのではないかとも言われており、もしも岡田文相の学校劇禁止令がなければ、ひょっとしたら賢治の人生も少し違ったものになっていたかもしれません。

 ということで、賢治の子供時代の「棒引き仮名遣い」の用例と、その規則の制定から廃止の経緯について見てきましたが、長々とこんなややこしいことを調べてみた理由は、あの「〔雨ニモマケズ〕」の仮名遣いについて、ちょっと思うところがあったからです。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

 一般に賢治の作品は、ほとんど全てが「歴史的仮名遣い」を用いて書かれており、上記テキストも基本的にそうなっています。
 ところがご存じのように、このテキスト中の最も重要なキーワードとも言うべき「デクノボー」は、正しい歴史的仮名遣いでは「デクノバウ」であり、「デクノボー」というのは、まさに明治33年に公布された新たな「字音仮名遣い」の規則に従って、なかでも評判の悪かった「棒引き仮名遣い」によって、表記されています。
 いったいなぜ賢治はここで、こういう特異な表記法を用いたのでしょうか。

 一つの考え方としては、当時の賢治は病床にあって無理をしてこれを手帳に書きつけていたので、うっかり無意識のうちに小学校時代に学んだ「棒引き仮名遣い」が出てしまって、それが気づかれないまま残されてしまった、という想定もありえます。「ヒデリ」と書くべきところが「ヒドリ」となってしまっているように、賢治も時にミスをします。
 しかし、「ヒデリ」と「ヒドリ」くらいならともかく、「デクノボー」というのは、一度でも読み返したら気づくはずのかなり目立つ表現ですので、賢治が全く無意識にこう書いたというのは、あまり考えにくいことです。

 となると、賢治は意識的に「デクノボー」と表記したのではないかと推測されるわけですが、ではなぜこう書いたのかという理由としては、「ー」を用いたこの文字列の印象が、いかにも不器用で木訥とした、「木偶の坊」という存在にふさわしく感じられるから、ということが考えられます。その字面からして、文字どおり「ボーッ」とした感じが漂っているではありませんか。
 このため、賢治が「〔雨ニモマケズ〕」において造型し、この表記法と一体となって私たちが感じとる人間像は、もはや「デクノボー」という仮名遣いでしか表現できないものとして、現在も定着しています。山折哲雄著『デクノボーになりたい―私の宮沢賢治』(小学館)などのように、今も本のタイトルとして使われるほどです。
 よく、「〔雨ニモマケズ〕」というのは、人に見せるために書かれたものではなく、秘かに自分のためだけに「祈り」として手帳に書きつけられたものだから「詩」ではないということが言われ、それは確かに一面ではそのとおりだと思います。しかし、実はそのテキストの中身は、声に出して読むとわかるように素晴らしく音律が整えられ、様々な対偶的表現も用いられているところなどからも明らかなように、賢治はあくまでもこれを文学的な「表現」として、手法を凝らして書いたのも確かなことで、やはりこれは「詩」と呼んで差し支えないものだと、一方で私は思います。手帳の個人的メモまでも「詩」にしてしまうというのは、これはもう「詩人の業」とでも言うべきものかもしれませんが。
 その「詩的」な表現の工夫の一つとして、「木偶の坊」を「デクノボー」という特殊な表記法で記すということも行われていると考えるべきでしょうが、『春と修羅』などで様々な前衛的表現を試みた賢治としても、「仮名遣い法を変える」というのは、他には見られない珍しい手法だと言えます。
 そして、このような表現が出てきた背景には、賢治が小学校時代に習った「棒引き仮名遣い」の記憶があったことは、確かだろうと私は思います。

 ところで最後に、あともう一つ、この「〔雨ニモマケズ〕」の仮名表記法に対する解釈がありえます。それは、11行目の「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」の「カンジョウ」という表記にも由来するのですが、この「カンジョウ(勘定)」は、正しい歴史的仮名遣いでは、「カンヂャウ」と書くべきものなのです。
 これも、賢治のミスだったと考えれば、ただそれだけの話で終わりますが、もしもミスでなく、「デクノボー」のように「わかった上でそう表記した」と考えると、どうなるでしょうか。
 これは、「勘定」の音読みを仮名でどう表記するかという問題ですから、「字音仮名遣い」に関わることです。そして、賢治が習った明治33年の新仮名遣い規則に従えば、これは「カンジョー」と書くのが正解です。
 しかし、すでに述べたように、明治38年の「仮名遣諮問ニ対スル答申」によれば、「国語及字音ノ長音ニハ「あ、い、う」ヲ用ヰルヲ正則トシ、「ー」ヲ代用スルコトヲ許容ス」とありましたから、こちらに従えば、「カンジョウ」が正則となるのです。

「くゎ」「ぐゎ」の表記 となると、「〔雨ニモマケズ〕」では、「(デクノ)ボー」「カンジョウ」という「字音」の仮名遣いが、明治の新仮名遣いに従っているということになりますが、それでは他の漢語の仮名表記においてはどうでしょうか。
 このテキスト中では、上の2つ以外に漢語の仮名表記として、「ジブン」「ケンクヮ」「ソショウ」「ク(ニモサレズ)」があります。このうち「ジブン」「ソショウ」「ク」は、歴史的仮名遣いでも新仮名遣いでも同じなので、どちらと解釈することもできます。「ケンクヮ」というのは、これは歴史的仮名遣いですが、右記のように、明治33年の「小学校令施行規則」では、「くわ」「ぐわ」に関しては、「従来慣用ノ例ニ依ルモ妨ナシ」という例外規定が設けられていて、これに従えば「喧嘩」を「ケンクヮ」と表記しても、構わないわけです。

 つまり、こういうことになります。
 「〔雨ニモマケズ〕」のテキスト中の「和語」は、いずれも歴史的仮名遣いで表記されている一方、「漢語の音読み」は、明治33年の「小学校令施行規則」に概ね則った新仮名遣いで表記されているのです。「国語」も「字音」も、賢治が小学校時代に習った規則に従ったもので、すなわち〔雨ニモマケズ〕」の仮名遣いは、ほぼ賢治の小学校時代の表記法に従っていると言えるのです。

 「だから、「〔雨ニモマケズ〕」は賢治が晩年に至って、なぜか思わず小学校の頃の仮名遣いに子供返りして書いたのだ」などと主張すると、かなりの珍説になってしまいますが、そのような見方も可能な状態になっているということは、ちょっと面白いと感じた次第です。
 あるいは、「〔雨ニモマケズ〕」という文章は、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」という、「自分の将来の願望」を述べたものなわけですから、もう先が長くない重病の男が書いたとするよりも、これからまだ前途が洋々たる小学生が書いたようなスタイルにしてみたのだという説ならば、もう少しましかもしれません。まあ、五十歩百歩でしょうが。

 しかし、これまでの考察から、少なくとも次の二つのことは、言えるのでないでしょうか。

 一つは、上にも触れたように、「デクノボー」という絶妙のイメージを伴った表記法は、賢治が小学校時代に「棒引き仮名遣い」を使っていたからこそ、生まれた表現だったのだろうということ。
 それからもう一つは、「カンジョウ」は「カンヂャウ」の単なる誤記だったと考えるにしても、彼がそのようなミスをしてしまった原因としては、賢治の世代は小学校時代に漢字の音読みを表音的な新仮名遣いで習っていたので、その歴史的仮名遣い表記の習得は、中学生以降にあらためてやり直す必要があり、昔の記憶に引きずられた間違いを起こしやすい状況にあったのではないか、ということ。
 実際、「詩ノート」の「〔えい木偶のぼう〕」という作品では、上記のように正しくは「木偶のばう」と書かなければいけないところを、賢治は「木偶のぼう」と書いて、ここでも間違えてしまっているのですから・・・。

石碑を四つ追加

 「石碑の部屋」に、下記の四つの詩碑を追加しました。

 これで、「石碑の部屋」に掲載している碑の数は、全部で136基となりました。まだ手もとには、写真を撮影してきたもののまだアップできていない詩碑が、6つほどあるのですが、追って掲載していきたいと思っています。

大川小学校の壁画

 今年3月26日、石巻市の亀山紘市長は、津波で被災した大川小学校の校舎全体を、将来にわたって「震災遺構」として保存すると発表しました。ということは、学校の一角に残されている、賢治をテーマにした卒業制作の「壁画」も、今後も保存され続けるということでしょう。
 私は以前から、「三陸の賢治詩碑の現況(1)(2)(3)(4)(5)」などのレポートをしていた際にも、この壁画のことが気になっていたのですが、今回の決定を聞いて、やはりこれを当サイトの「石碑の部屋」に収録させていただくことにしようと思って、去る5月3日に石巻市に向かいました。

 仙台空港からJRで石巻へ行き、駅前の花屋さんで花束を買って、そこからタクシーに乗りました。震災の年の11月に、石巻市河北地区の支援で巡回途中に手を合わせてから、ここは2回目の訪問です。
 30分あまりタクシーに揺られた後、もとの校門のあたりで降りると、前には慰霊碑、献花台が設けられて、花壇やプランターも並び、たくさんの花が咲いていました。この場所が、ずっと心をこめて手入れされ続けているのがわかります。
 ここに私も、持参した花束を献花させていただきました。

大川小学校慰霊碑1

 奥に入っていくと、亡くなった皆さんの名前を刻んだ慰霊碑や、"Angel of Hope"と名づけられたモニュメントが並ぶ、下のような一角があります。

大川小学校慰霊碑2

 小学校の校舎は、今は下のような感じで残っています。小ぢんまりとしていますが、とてもモダンで魅力的な形です。
 震災の日には、校舎の向こうにある北上川の方から、屋根をはるかに越えて津波が押し寄せたということです。

大川小学校校舎

 そして、今回「石碑の部屋」に収録させていただいた壁画は、上の写真から右の方を向いた場所にあります。

大川小学校壁画1

 壁画の右端には、「〔雨ニ〕モマケズ/〔風〕ニモマケズ」とあり、「平成十三年卒業制作」と書かれています。震災からちょうど10年前の卒業生が、残していってくれたわけです。

 そして、左の方には銀河鉄道と、星座や星雲が描かれ、賢治らしいシルエットもあります。
 さらに、「世界が全体に幸福にならない/うちは、個人の幸福は/ありえない・・・・・」と、「農民芸術概論綱要」の一節を少しモディファイした言葉が書かれています。

大川小学校壁画2

 小学校を卒業するにあたって、卒業生たちがこのように賢治の作品にもとづいたモニュメントを作ろうと団結したというのは、きっと学年全体として、何かそういう雰囲気があったのでしょう。一つの学年が十数人という少人数だったからこそ、こういう突っ込んだ取り組みができたのかもしれません。
 ところで上の写真を見ていただいたらわかるとおり、壁画の右端に書かれている「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」という部分のうち、「雨」「風」という文字のあった箇所は、津波の際の衝撃で砕けてしまっています。いま私たちが読めるのは、「モマケズ/ニモマケズ」という文字だけで、その様子がまた痛ましさを誘います。
 しかし、逆にそのおかげで、この壁画を見る人は、「雨」「風」の代わりに、自分が負けないようにと願っている何か別の言葉を、思い思いにここに入れて、自分なりの読み方ができるようにもなっています。たとえば生き残った私たちを、「地震ニモマケズ/津波ニモマケズ・・・」と勇気づけてくれているようにも感じとることもできます。

 この壁画は、「宮澤賢治の文学碑」と呼ぶにはちょっと違うかもしれませんが、以前から当サイトの「石碑の部屋」には、「賢治観音」とか「風の又三郎」群像とか、賢治にまつわるモニュメントを収めていたり、「雨ニモマケズ」卒業記念碑なんていうのもあったりするくらいですので、この大川小学校の素晴らしい卒業制作壁画も、収録させていただこうと思った次第です。
 「石碑の部屋」における大川小学校壁画のページは、こちらです。

◇          ◇

 ただ、この壁画を紹介させていただくからには、大川小学校を襲った悲劇のことにも、ここで触れておかないわけにはいきません。

  震災の当時、石巻市立大川小学校の児童は全部で108人、そのうち震災当日に欠席していたり、地震後に保護者が迎えに来て帰宅した子供を除くと、津波が来た時点で78人の児童が、学校にいました。教職員は全部で13名でしたが、そのうち当日は不在だった2名を除いて、11人の先生が学校にいました。
 津波が小学校を襲った3月11日の午後3時37分頃、教職員と児童は避難しようと列になって移動中だったということですが、児童78人のうち74人が犠牲になり、教職員11人のうち10人が亡くなったのです。

 あれほど甚大な被害をもたらした東日本大震災ですが、「学校管理下」の状況にある児童や生徒が亡くなったという事例は、実は全国でこの大川小学校の74名と、あとはお隣の南三陸町にある戸倉中学校の生徒1名だけなのです。
 このことからも、大川小学校における出来事が、被災地全体の中でもいかに突出した惨事だったのかということがわかります。

 さらに、当事者の大半が犠牲になってしまったために、当日の事実経過も当初は不明確でしたが、生存者の証言などによって徐々に経緯が明らかになるにつれて、学校の避難行動に関していくつかの大きな「謎」が、クローズアップされてきました。

 遺族や市教委の調査によって判明したところによれば、大川小学校の児童たちは、本震がおさまると全員がいったん校庭に集められて、点呼が行われました。そして、保護者が迎えに来た一部の子供はそのまま帰宅し、残った児童は、全員が校庭で待機を続けました。
 地震発生は午後2時46分、大川小学校周辺への津波到達は午後3時37分と推定されていますから、この間に51分の時間があったわけですが、実際に津波が襲ってきた時、子供たちが避難を開始してからはまだ1分も経っていなかったことがわかっています。ほぼ全員が津波に呑まれた場所は、学校の目と鼻の先でした。
 校庭に集合してから、避難開始までの約50分間、この間には「大津波警報」も発令されていますが、先生と子供たちは、寒い校庭で、いったい何をしていたのでしょうか。
 また小学校の校庭からは、上の写真にも写っている「裏山」に直接登ることができるようになっているのですが、教職員と児童は津波に備えてこの山に登るという行動はとらず、わざわざ危険な北上川の堤防の方に向かって、避難をしようとしていたこともわかっています。もし仮に、避難をもっと早く開始して、目的地としていた堤防近くの通称「三角地帯」に到着していたとしても、そこもやはり津波によって洗い流されてしまう運命にあったのです。
 一方、皆が校庭に集合していた段階では、「山さ逃げよう」と訴える児童がいたという証言があり、1人だけ生き残った教諭も、「山へ逃げますか?」と他の教諭に意見を言ったということです。決して裏山に避難することを思いつかなかったわけではなくて、その選択肢も当初からはっきりと意識されていたのです。
 それなのに、結局裏山ではなくて堤防の上が避難場所として選ばれた理由は、いったい何だったのでしょうか。

 このような「謎」が浮かび上がる中で、わが子を亡くした遺族の方々としては、いったい当日の大川小学校において何があったのか、地震発生から津波がやって来るまで、事態はどのように推移したのか、知りたいと思われるのは当然のことでしょう。

 そういう遺族の要望を受けて、石巻市教育委員会が「第1回保護者説明会」を開いたのは、2011年4月9日でした。通常ならば、まずは学校当局が説明の主体になるのでしょうが、学校組織自体がほぼ消滅してしまった状況下で、教育委員会が当初から表に立つことになりました。
 しかしこの後、教育委員会の対応は、どんどん迷走していくのです。その説明の内容は、重要な部分で二転三転して遺族の不信感を煽り、6月4日の「第2回保護者説明会」では、1時間で一方的に会を打ち切った上に、「今後は説明会はしない」と言って、さらに強い反発を招きました。5月には、教育委員会として児童の聴き取り調査を行ったのですが、遺族がその内容を確認しようとすると、委員からは「メモは破棄しました」という信じられない回答が返ってきて、また問題を紛糾させました。
 このような対応を受けた遺族の側には、市教委は学校側の責任を回避するために、わざと真相を隠蔽しようとしているのではないかという、持ちたくもないような不信感も生まれていったのです。
 「先生がいない方が、うちの子は助かった」。遺族からは、そのような声も上がりました。

 このようにして、遺族と市教委の間に深い溝ができてしまう中、両者の間を取り持つような形で、2013年2月に文部科学省が主導して、全国的な有識者を集めた「大川小学校事故検証委員会」が立ち上げられました。これは、石巻市が予算5700万円をつぎ込み、市や教育行政からも独立した第三者機関として設置したものだったのですが、結局この検証委員会も、将来に向けた「提言」をまとめることを主要な目的としており、上記のような「謎」に関する「真相の究明」を果たすことにはつながりませんでした。
 遺族の方々の思いは宙に浮いたままで、2014年1月に最終報告書を提出した委員会は、解散してしまうのです。

 どこにもやり場のない気持ちを抱えた遺族は、2014年3月10日、宮城県と石巻市に対して損害賠償を求める民事訴訟を、仙台地方裁判所に起こしました。真相究明に向けた遺族の願いは、法廷という場に託されて、現在も審理が続いています。

◇          ◇

 それにしても、大川小学校の教職員と児童たちは、なぜ地震発生後に50分間も避難せずに校庭に留まっていたのか。なぜ避難先として裏山を選ばずに、北上川の堤防近くに向かったのか・・・。
 その「謎」の答えの一部は、当日の教職員には、学校まで津波が来るという危機感が、ほとんど存在していなかったということでしょう。地震50分後に避難を開始するまで、校庭の寒さ対策として「たき火」をする準備が行われていたという証言もあり、津波来襲の直前まで多くの先生は、このまま校庭で待機しておれば、事態は収束すると楽観していたふしがあります。
 しかし、それでもなお不思議なのは、尋常ではない規模の地震を体験した後で、津波に備えて「念のために」という意識が、どうして働かなかったのか、ということです。先生たちとしては、職務に熱心か怠慢かという以前に、自分たちの生命も懸かっている状況だったのです。
 少なくとも自分の命を守るためにも、「裏山に避難する」という選択肢は教職員の中にあったはずですが、その方法がとられなかった理由として私が特に気になるのは、大川小学校遺族の1人であり、ご自身も中学校教諭である佐藤敏郎さんによる、次のような指摘です。

教員間では、(裏山に避難させて)汚れたり、転んで怪我をすることで、責められるかもしれないという雰囲気が支配していた。(『石巻市立大沢小学校「事故検証委員会」を検証する』p.22)

職員集団に、余計なことをして失敗したり、めんどうになることが責められる雰囲気があり、このような局面においてもそれが優先し、組織としての判断基準になってしまったのです。(同上p.27)

 震災当時の大川小学校に、このような「雰囲気」があったのだとすれば、それは文字どおり「死に至る病」であったわけです。そしてふとあたりを見まわしてみれば、その「病」は今回の事故にかぎらず、今の日本に暮らす残りの私たちをも、知らないうちに侵しているのかもしれないとも感じる、今日この頃ます。

 今回の記事を書くにあたっては、下記の資料を参考とさせていただきました。

 次の2冊の書籍は、上の「ダイヤモンド・オンライン」の連載が単行本化されたものです。遺族の視線からの、粘り強い取材が印象的です。

あのとき、大川小学校で何が起きたのか あのとき、大川小学校で何が起きたのか
池上 正樹 加藤 順子

青志社 2012-10-24
売り上げランキング : 236813

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する 石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する
池上 正樹 加藤 順子

ポプラ社 2014-03-08
売り上げランキング : 400055

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


 今日は、栃木県足利市の宝福寺というお寺にある、「雨ニモマケズ」詩碑を、拝見してきました。経緯は以下のとおりです。

 私はこの3月末に、一通のメールをいただきました。

・・・私も宮澤賢治様のファンですが、郷里の栃木県足利市に嘗て賢治様の熱烈な崇拝者が居りまして、彼の家の菩提寺に「雨ニモマケズ」の立派な石造りの詩碑を建て、賢治様と彼の祖先の供養をしております。・・・

 そして、その「雨ニモマケズ」詩碑を、当サイトの「石碑の部屋」に加えるというのはいかがですか?とのご提案をいただいたのです。
 実は、この詩碑を建立されたのは、メールを下さった橋本和民さんのご令兄の、故・橋本哲夫氏だということでした。

 「賢治の詩碑」と聞くと、いつもながらじっとしておれなくなる性分の私は、地図で場所を確認するとともに時刻表検索をして、4月10日(日)であれば何とか現地往復ができそうだと思いましたので、橋本さんにメールでその旨をお知らせしました。
 すると、ふだんは東京都内にお住まいであるにもかかわらず、当日は足利市にて私を詩碑まで案内して下さるというご親切なお返事を橋本さんからいただき、本日の行程と相成ったわけです。

 京都を朝早く「のぞみ」で発って、東京からJR上野東京ラインで北千住へ、そして北千住から東武線に乗り換えました。
 菜の花が咲くのどかな北関東の平原を、電車は北に向かいます。

東武線車窓から

 そして、「足利市」駅の一つ手前の、「東武和泉」という駅で降りました。

東武和泉駅

 駅前で橋本さんがお出迎え下さって、詩碑のある宝福寺まで、タクシーでお連れいただきました。徒歩でも10分ほどのようです。
 地図で言うと、下記の場所ですね。

 下写真が、宝福寺の正面です。

宝福寺正面

 ちょうど、桜吹雪の舞う頃でした。

 そもそもこの宝福寺は、鎌倉時代から続く武士の家系である橋本家のご先祖が、菩提寺として建立したお寺で、境内の墓地には、橋本家代々の広大な墓所があります。そして、その墓所の一角に、第20代当主であった故・橋本哲夫氏が、1978年(昭和53年)に、賢治の「〔雨ニモマケズ〕」を刻んだ碑を建てられたのです。
 下写真が、その詩碑です。

宝福寺「雨ニモマケズ」詩碑

 碑は、縦長の黒御影石に、哲夫氏の義兄にあたられる書道家が書かれた「雨ニモマケズ」のテキストが、端正に刻まれています。
 真摯で、かつ活き活きとした力を感じました。

 橋本家の始祖・橋本求馬(もとめ)は、上州館林城の家老で、鎌倉時代の末には主君赤木氏に従って、新田義貞の鎌倉攻めに参加したという逸話も残されています。その後の子孫は、三河武士になったり、江戸で醸造業を営んだりしていた時期もあったそうですが、はるか時代が下って明治になると、橋本さんの曾祖父、祖父の時代には、農民救済のために足尾鉱毒事件と闘う田中正造翁を、この足利において物心両面で支える役割も果たしていたということです。
 橋本さんのご令兄・哲夫氏は、1925年(大正14年)生まれで、戦争中は海軍に従軍しておられたということですが、早くから宮澤賢治に親しみ尊崇していたとのことです。終戦とともに郷里へ帰ると、この宝福寺の境内にある集会所で宮澤賢治の研究会を開いたり、村の青年たちを集めて劇団を組織し、自ら脚本を書き演出を行って、「石川啄木の生涯」などという劇を行ったりもしたということです。

 ところで、敗戦とともに世の中の価値観が180度変わるという激動にさらされた時、新たな方向を模索する青年たちが、宮澤賢治の思想を拠り所にしようとするという現象は、全国のいくつかの場所で見られたことだったように思います。
 現在は一関市となった長坂村の青年たちが、紙不足の中で苦労して、「雨ニモマケズ」「農民芸術概論綱要」「ポラーノの広場」などのテキストを手に入れて勉強する中で、谷川徹三揮毫の「農民芸術概論綱要」碑を村に建立していくエピソードや、また北海道の穂別村で、戦後最初の公選村長となった横山正明が、賢治の精神を村に根付かせようと、「賢治観音」なる仏像を発願して建立する経緯などが、私には連想されます。
 賢治の「〔雨ニモマケズ〕」は、大政翼賛会文化部によって、「滅私奉公」など戦争遂行のための思想宣伝に利用され、そのおかげで国民に広く知られるようになった面もありました。そして敗戦とともに、戦前のイデオロギーが一挙に否定され、それまでもてはやされていた多くのものが地に落ちましたが、ただ宮澤賢治の思想には、それでも変わらぬ何かが含まれていることを、当時の若者たちは感じとっていったわけです。
 上の二つの例のいずれも、「農民芸術概論綱要」碑あるいは「賢治観音」というモニュメントとなって、戦後まもない時期から現在まで残されているのがもう一つの共通する特徴ですが、ここ栃木県足利市で終戦後に賢治の研究会を行ったという橋本哲夫氏の思いも、この「雨ニモマケズ」詩碑となって、やはり今もしっかりと刻まれています。

 さて、戦前は大地主だった橋本家も、戦後の農地改革で農地の大部分を手放さざるをえなくなりますが、哲夫氏は賢治の「羅須地人協会」を理想として、農業に身を捧げていったそうです。
 現在、栃木県はイチゴの生産量では日本一ですが、この「栃木のいちご」の栽培・改良に力を注ぎ、現在の栃木県産イチゴの先鞭をつけた一人が、橋本哲夫氏だったということです。

 そして、晩年になってからも哲夫氏の賢治への敬慕の念はますますつのり、ついに青年時代からの念願だった賢治の詩碑を、橋本家の墓所に建立したのが、昭和53年秋でした。

 下の写真は、詩碑の両脇にある地蔵菩薩の石像と、石灯籠も一緒に写したところです。この二つも、橋本哲夫氏が詩碑と一緒に建立されました。
 この宝福寺には、子供の健やかな成長を守ってくれるという「子育地蔵尊」があり、古くから近隣の信仰を集めてきたということですが、その縁にちなんで、ここにもお地蔵さんが立っておられます。

宝福寺「雨ニモマケズ」詩碑

【謝辞】 ご親切な案内およびご説明に加え、様々なご厚情を賜りました 橋本和民様に、心より感謝申し上げます。

 以前から作成していた、千原英喜氏作曲の歌曲「ちゃんがちゃがうまこ」、「宮沢賢治の最後の手紙」、そして今回の「祭日」を、まとめて「歌曲の部屋~後世作曲家篇~」の、「千原英喜 「雨ニモマケズ」ほか」というページに、アップロードしました。

 千原氏が、宮澤賢治の世界に精力的にアプローチしておられるお仕事の一端を、VOCALOIDの歌声で垣間見ることができると思います。
 よろしければ、お試し下さい。

 松岡幹夫著『宮沢賢治と法華経――日蓮と親鸞の狭間で』(昌平黌出版会)という本を読みました。

宮沢賢治と法華経―日蓮と親鸞の狭間で 宮沢賢治と法華経―日蓮と親鸞の狭間で
松岡 幹夫

昌平黌出版会 2015-03-27
売り上げランキング : 363679

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

 著者の松岡幹夫さんという方は、日蓮の思想を専門とする研究者のようですが、宮澤賢治のさまざまな作品や、生涯のエピソードの検討を通して、彼の思想を仏教的な観点から分析しておられます。サブタイトルに「日蓮と親鸞の狭間で」とあるように、これまで多くの人が論じてきた日蓮や法華経との関連のみならず、親鸞の思想とのつながりも注意深く浮き彫りにしていく部分が、私にとっては特に勉強になりました。

 「序文」においては、現実を重視した日蓮や田中智学は「此岸性」の人であったのに対して、賢治が書いたものは結局「彼岸性」の文学であり、これが賢治の人気にもつながっているとともに、むしろ親鸞の思想と親和性に基づいているという点が、まず指摘されます。
 とは言えもちろん、賢治は20歳すぎから死ぬまで「法華経」に帰依していたわけですが、その賢治の法華経信仰に見られる独自の特徴として著者は、「真宗的」、「体験的」、「寛容的」という、三つの点を挙げておられます。

 まず「真宗的」という側面は、賢治自身が物心ついた時から、浄土真宗の篤い信仰の中で育ったことによるところが大きいわけですが、私自身も最近「なぜ往き、なぜ還って来たのか(3)」や「けつしてひとりをいのつてはいけない」などという記事において、親鸞および浄土真宗と賢治の考えの関連について書いたばかりでしたから、大変に共感するところでした。

 次の「体験的」というのは、賢治が持って生まれた性向として他者の苦しみへの敏感さがあり、このような独特の感受性が、彼が法華経を理解する上での体験的な基盤となっているということです。法華経に描かれていることは、賢治自身の実感でもあり、それが彼の作品のリアリティを形づくっているのです。
 このような、賢治の生来の精神性と思想の連続については、私も以前に「9月に比叡山でお話ししたこと(1)」などで書いたことであり、これもまったく同感でした。

 最後の「寛容的」というのは、賢治が少なくとも後半生においては、自らが信じる法華経を一方的に人に押しつけることはせず、「銀河鉄道の夜」初期形の「お互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう」という言葉に表れているような、宗教的普遍性も目ざしていたというところです。
 ただ、賢治も若い頃には、周囲の人々に激しく改宗を迫る「折伏」を行っていました。これが、上記のように「寛容」な態度に変化していった大きな境目は、1921年(大正10年)頃にあったのでしょう。この家出上京中に賢治は、父とは和解の二人旅を行い、また親友保阪嘉内に対してはおそらく強く改宗を迫った結果、気まずい別れを経験します。そして、東京から自宅に帰ってからは、それまでのように排他的な態度は見せなくなるのです。

 続いて本文に進むと、本書の中で私にとって特に読みごたえがあったのは、「第一章 『銀河鉄道の夜』の言葉と『法華経』の思想」と、「第三章 宮沢賢治における法華経信仰と真宗信仰――共生倫理観をめぐって」という、二つの章でした。

 第一章においては、「銀河鉄道の夜」のテキストに出てくる種々のキーワード、すなわち「銀河」、「地図」「切符」、「みんな」「いっしょ」、「さびしい」「かなしい」「つらい」、「どこまでも」、「ほんたう」という言葉を、文脈に即しつつ仏教的な観点から検討し、各々における法華経的な意味、浄土真宗からの影響、そしてそこに込められた賢治独自の思いが、明らかにされていきます。
 この章は、詳細な作品分析を通して見た、賢治の仏教思想論と言えます。

 第三章は、こんどは賢治の生涯を経時的にたどりながら、その考えの変遷を、浄土真宗と法華経との関連のもとに跡づけていく論考です。そして著者は、彼の思想の最も特徴的な部分を、現代的な意味での「共生倫理観」として取り出します。
 賢治の宗教意識の中には、「自覚的な法華経信仰」と「無自覚的な真宗信仰」が共存していたと著者は見ていますが、これら両者が、単に矛盾的に併存するのではなく、「共生」や「自己犠牲」という主題を通して、相互に交渉・浸透し合い、新たな宗教意識を生み出したとも言えるところが、賢治の独自性であったと、著者は指摘します。
 そのまとめ的な一文を、下記に引用させていただきます。

 さて、以上のごとくみてくると、賢治の共生的倫理観は、彼個人の共感的性格、幼少期に培われた真宗的精神性、『法華経』の大乗的成仏観や捨身思想、大等・智学によって性格づけられた法華経信仰、これらが渾然一体となって相互に浸透しあう中で形成され、さらには近代的知識人としての文学思想的あるいは科学的な教養もそこに加わって展開されたものであった、と結論づけるのが最も穏当であろう。(p.229)

 この結論に至るまでの、作品の綿密な検討や仏教思想的分析に関しては、何よりも本書を読んでいただくのが一番かと思います。

 なお、晩年の「〔雨ニモマケズ〕」に表れている倫理観は、「自力主義と他力主義の両面から共生の実現を目指す」ものであると著者は指摘しておられますが、これは私も以前に、『イーハトーブセンター会報』に「情熱(パッション)から受苦(パッション)へ―イーハトーブ〈災害〉学」という題名で書かせていただいた文章の最後に、日蓮と親鸞という二人の名前を出したことへもつながるものであり、この点も本当に「我が意を得たり」と感じ入りました。

 というような感じで、思わず私自身が共鳴するところからたくさんのリンクを張ってしまいましたが、この本は、宮澤賢治の思想を仏教的観点から考える上では、多くの方々にとって非常に有益なものなのではないかと思います。
 

 ブログ更新環境の不調のためご報告が遅くなってしまいましたが、去る7月28日(日)に、「ひとり語り」の林洋子さんとアイリッシュ・ハープの梅津三知代さんをお迎えして開催した「第5回イーハトーブ・プロジェクトin京都」が、無事終了いたしました。おかげ様で満員の盛況で、ご来場いただきました皆様には、心より御礼申し上げます。

 会場は、昨年の3月にも「第3回」を開催した、京都府庁旧本館正庁。下の写真で、正面の2階部分にある部屋です。

京都府庁旧本館

◇          ◇

 プログラムは、まず「やまなし」。日本画家・鈴木靖将さんが描かれた美しい「幻燈」の絵をパワーポイントで映し出しつつ、蟹の親子の会話です。

林洋子「やまなし」

 アイリッシュ・ハープの繊細な音色は、まるで谷川の流れやあぶくのように響きました。

 つづいて、私が林さんにインタビューする形式で、20分ほど「対談」を行いました。
 お話いただいたのは、一昨年の震災からまだ間もない時期に、三陸沿岸の避難所をまわって公演をされた時のこと、それから今回の京都公演のきっかけともなった、林さんと私の間に隠れていた「不思議なご縁」のこと。
対談 実は、私が仕事をしている医院の開設者は、故・高木仁三郎氏の実兄なのですが、林洋子さんは生前の仁三郎氏と無二の親友で、宮澤賢治に関して対談をしたり、仁三郎氏が創設した「高木学校」のサポートの会のキャプテンを務めたり、会議のために京都に来た際には兄弟と一緒に懇談したり、いろいろな交流があったのです。
 昨年の9月に花巻で林さんにお会いして名刺をお渡しした際に、林さんがこのご縁に気づいて下さって、今回の公演の準備も一気に盛り上がりました。当日は、その実兄である高木隆朗氏も会場に来て、仁三郎氏について思い出を語りました。
 本当は林さんには、若い頃から水俣に関わり、また上記のように反原発運動にも関わってこられた経験から、現在の福島についてどんな思いを持っておられるかなど、いろいろ他にもお話をお聴きしたかったのですが、時間の関係でかないませんでした。
 機会があれば、ぜひうかがってみたいと思っています。

◇          ◇

 後半は、本日のメインプログラム「よだかの星」です。

「よだかの星」

 小柄な林さんが、凛とした姿勢で立ち、力強い声で語り出すと、会場は圧倒的な迫力に包まれました。
 私の知人はこれを聴いていて、「よだかの星」の終わりの方では、会場の壁も床も消えて無くなってしまい、まるで宇宙空間の中に林さんが浮かんで語っているように感じ、最後によだかの体が「燐の火のような青い美しい光になって」燃えるという場面では、林さんの体が青く光っているように見えたと、後から話してくれました。
 そんな体験談も、みんなで「そう、そう」とうなずき合うような、林さんの「ひとり語り」でした。

 最後は、会場の参加者がハミングで歌う「ふるさと」に乗せて、林さんが「雨ニモマケズ」を読まれました。これはまさに絶妙の演出で、「ふるさと=イーハトーブ」に今回の震災のことを重ね合わせると、林さんによる「雨ニモマケズ」の言葉に、胸が熱くなるのを禁じ得ませんでした。

◇          ◇

 実行委員会で話し合った結果、今回の公演の収益は、福島の子供たちが安心して海や野山で遊べるようにと親子を八丈島のキャンプに招待する活動を行っている、「福八子どもキャンププロジェクト」に寄付させていただくことにいたしました。このプロジェクトの発起人は京都の医師なのですが、寄付のご連絡をすると、これからまだ5年は企画を続けたいと思っているので、たいへん力になると喜んで下さいました。

 さて、また次の「第6回」に向けて、現在はいろいろと検討をしているところですが、どうか今後ともよろしくお願い申し上げます。

第5回イーハトーブ・プロジェクトin京都

 一昨年から続けている宮澤賢治をテーマとした震災復興支援チャリティ企画「イーハトーブ・プロジェクトin京都」の第5回を、7月28日(日)に、京都府庁旧本館正庁にて開催することになりました。

 下の画像は、今回のチラシです。「よだか」にちなんで、埼玉県在住の画家鈴木広美さんの木版画「とり」を使わせていただきました。(クリックすると、別窓で拡大表示されます。)

「第5回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ表

「第5回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ裏

 今回は、林洋子さんをお招きして、「やまなし」、「よだかの星」、そして最後に「雨ニモマケズ」を語っていただきます。
 林さんは、長年にわたり日本全国を巡って賢治作品の「ひとり語り」を続けてこられ、その奥深い表現には定評があります。今回は、「吟遊詩人の楽器」とも呼ばれるアイリッシュ・ハープとの共演です。

 終了後には、私と少し対談をさせていただく予定ですが、林さんと賢治の出会いや、30年以上・1600回にもわたって賢治作品を演じ続けてこられた力は何なのか、などということについてもお話をお聴きしたいと思っています。また林さんは、一昨年の夏には三陸沿岸の避難所をまわる公演も実施されました。今回の震災について感じられたことも、うかがいたいですね。
 さらに、これは偶然のご縁なのですが、林さんは故高木仁三郎氏の活動に共鳴され、高木氏が市民科学者育成のために創設した「高木学校」のサポーターの会の「キャプテン」を務めておられます。一方、高木仁三郎氏の実兄は私の仕事先の理事長をしているので、林さんは以前にそういう関係でも、京都に来られたことがあるということでした。
 というわけで当日は、高木仁三郎氏が生前に行った活動についても、少し話が出ることでしょう。

 会場の「京都府庁旧本館」は、明治37年に建てられたルネサンス様式の重厚な洋館で、国の重要文化財にも指定されています。
 公演を行う「正庁」という部屋は、その旧本館の中でも最も格式の高い場所で、公式行事や公賓の接遇のために使われていた特別な空間です。大正4年の「大正天皇即位の礼」の際、および昭和3年の「昭和天皇即位の礼」の際には、内閣全体が京都に移動してきて、この「正庁」の部屋で閣議が行われたということです。
 現在はこういうイベントなどに使われていますが、当時の雰囲気をそのままに伝えています。

 祇園祭も終わって、その前週の日曜日には参議院選挙が行われ、京都は暑い盛りでしょうが、林洋子さんの情感あふれる「ひとり語り」とアイリッシュ・ハープの音色を、ぜひお楽しみ下さい。

第5回イーハトーブ・プロジェクトin京都
  ~ 林洋子ひとり語り ~

【演目】
  一、 やまなし
  二、 よだかの星
   三、 雨ニモマケズ
            作: 宮沢賢治
            語り・演出: 林 洋子
            アイリッシュ・ハープ: 梅津 三知代
【日時】
  2013年7月28日(日) 午後3時開演
                              (午後2時半開場)
【場所】
  京都府庁旧本館正庁 (京都市上京区)
【参加費】
  2000円 (必要経費以外は義援金とします)

※ 参加ご希望の方は、必ず事前にご予約下さい。
予約は、当サイト管理者あてメールにて、承ります。



身熱の日々

 1926年(大正15年)春に農学校教師を辞めて、下根子桜の羅須地人協会で独居し農耕生活を始めてから、賢治は何度か体調を崩して発熱する時期があったようです。

 その一つは、1926年(大正15年)11月上旬で、この時は11月4日付けの「七四四 病院」(「詩ノート」)という作品も残しているところから、『新校本全集』年譜では、「四日以後数日間入院したと推察」と記しています。実際、11月15日付けで、その一つ後の作品番号を有している「七四五 〔霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ〕」(「詩ノート」)には、次のように書かれています。

  七四五
                     一九二六、一一、一五、
霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ
   影を落す影を落す
   エンタシスある氷の柱
そしてその向ふの滑らかな水は
おれの病気の間の幾つもの夜と昼とを
よくもあんなに光ってながれつゞけてゐたものだ
   砂つちと光の雨
けれどもおれはまだこの畑地に到着してから
一つの音をも聞いてゐない

 11月4日から15日の間に賢治が入院したという証拠はないのですが、4日に熱があって病院へ行ったこと、その後に「おれの病気の間の幾つもの夜と昼」があってこの間に作品は書いておらず、15日には久しぶりに畑に出てみたということ、少なくともはこれらの事柄は、二つの作品から読みとれます。

 またもう一つの時期は、1927年(昭和2年)6月中旬です。「詩ノート」には、6月13日付けで、次のテキストが記されています。

  一〇七五
                    六、一三
わたくしは今日死ぬのであるか
東にうかんだ黒と白との積雲製の冠を
わたくしはとっていゝのであるか

 この「わたくしは今日死ぬのであるか」という字句だけでは、病気になっていたと決めつけることはできませんが、さらに「詩ノート」には同じ日付で、次のテキストも記されています。

  一〇七六
   囈語
                   一九二七、六、一三、
罪はいま疾にかはり
わたくしはたよりなく
河谷のそらにねむってゐる

せめてもせめても
この身熱に
今年の青い槍の葉よ活着(つ)け
この湿気から
雨ようまれて
ひでりのつちをうるおほせ

 「囈語」とは、「うわごと」という意味ですね。一行目の「疾」は、下書稿(二)では「やまひ」と読ませており、さらに出てくる「身熱」という言葉を併せて考えると、賢治はこの6月13日に発熱してうなされながら、「わたくしは今日死ぬのであるか」とまで感じたのだろうと推測されます。

 「〔わたくしは今日死ぬのであるか〕」の方に出てくる「積雲製の冠」とは、おそらく実際に積雲が、冠のような形をして見えたのかと思います。そしてその雲の冠を「戴く」という空想からは、2ヵ月ほど前に「春の雲に関するあいまいなる議論」において、黒雲に対する「うらがなしくもなつかしいおもひ」を歌い、「あれこそ恋愛そのもなのだ」と言った、賢治の雲を恋い慕う気持ちがうかがわれます。
 ちなみに、さらにその2年ほど後には、「疾中」所収の「〔その恐ろしい黒雲が〕」において、やはり熱にうなされている賢治は、「雨雲と婚する」などと言った自分自身を責め、後悔しています。

その恐ろしい黒雲が
またわたくしをとらうと来れば
わたくしは切なく熱くひとりもだえる
北上の河谷を覆ふ
あの雨雲と婚すると云ひ
森と野原をこもごも載せた
その洪積の台地を恋ふと
なかばは戯れに人にも寄せ
なかばは気を負ってほんたうにさうも思ひ
青い山河をさながらに
じぶんじしんと考へた
あゝそのことは私を責める

 まだ1927年6月の賢治にとっては、上のような心境は知る由もありません。
 「一〇七六 囈語」においては、自分は「そらにねむっている」と感じていますが、自分の好きな雲の一つにでもなってしまったような心地なのでしょう。
 しかしこの作品において何よりも目を引くのは、病床に死を意識する一方で、自分の身の熱が「青い槍の葉(=稲)」の活着のために役立たないか、また汗による湿気から雨が生まれて「ひでりのつちをうるおほせ」られないかと、必死に願っているところです。
 このイメージこそ、この時期から徐々に自分の無力さを悟ることになる賢治が、それでも農業を救わなければと念じつつ、おのれに背負わせていくことになるものです。それは、「グスコーブドリの伝記」においては、人工的に雨を降らせたり火山の爆発で冷害を食い止めるという発想の契機となり、「〔雨ニモマケズ〕」においては、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」という一節に形象化しました。
 そして最後に絶筆短歌においては、

病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり
   みのりに棄てばうれしからまし

と詠われたのです。

 羅須地人協会時代において、さらにもう一つ発熱した時の作品を挙げるならば、それは1928年(昭和3年)7月20日の、「停留所にてスヰトンを喫す」です。

わざわざここまで追ひかけて
せっかく君がもって来てくれた
帆立貝入りのスイトンではあるが
どうもぼくにはかなりな熱があるらしく
この玻璃製の停留所も
なんだか雲のなかのやう
そこでやっぱり雲でもたべてゐるやうなのだ

 教え子のところへ農業指導に行った帰りか何かなのでしょうが、「かなりの熱」を出してしまいます。これまで奔走を続けてきた賢治は、まさに倒れそうになりつつ、作品の最後の部分で、自分の運命を予感しています。

あとは電車が来る間
しづかにこゝへ倒れやう
ぼくたちの
何人も何人もの先輩がみんなしたやうに
しづかにこゝへ倒れて待たう

 自らを、「何人も何人もの先輩」に続く者の一人として、意識しているのです。

 「停留所にてスヰトンを喫す」の後は、直接農業に携わっていた時期の最後の輝きとも言える作品「穂孕期」が4日後にあって、8月に入るとついに病状が決定的に悪化して、羅須地人協会時代は終わります。

 ところで細菌の感染症には、ペストとかコレラとか赤痢のように、細菌が強い毒素を持つために、感染が一定以上進行すると短期間で致死的にもなるが、治る時はさっと治ってしまうという「短期決戦型」の病気と、細菌の毒性は強くないけれどもなかなか体内から駆逐できないために、長年にわたって進行して時に命を奪う「持久戦型」の病気があります。
 結核は、持久戦型の感染症の代表で、肺や腸などさまざまな場所に居着いた結核菌を、体の免疫機能は何とかしてやっつけようとして、長い戦いが続けられます。有効な抗生物質のなかった時代には、栄養を付けたり、気候のよい療養所に入ったりして、何とか体の抵抗力を強めた結果、結核菌に対して勝利を収められることもありましたが、それが叶わなかった場合には、最終的には肺炎などによって死に至ることも多かったのです。

 賢治は、若い頃に結核の初感染を経験していたと推測されますが、親元で生活しつつ教師をしていた間は健康で、徹夜で山歩きをするほどの体力もありました。親から離れて、羅須地人協会を始めてからは、「自炊」とは名ばかりで「ジャガイモだけ」とか「菊芋だけ」などという偏った食生活を続け、無理な農作業による体力の消耗もあって、体内に静かに潜んでいた結核菌が、再び活動を再開してしまったのだと思われます。
 この2年あまりの間に、少なくとも上に挙げた3回の病勢悪化があり、結核菌はそのたびごとに賢治の肺の中で、次第に支配領域を広げて行ったわけです。

 賢治の生涯のこのあたりをたどるといつも、「こんな無茶をせず、きちんとした食生活をしていたら・・・」と、思わずにはいられません。しかし、それもまた「賢治らしい」ことで、結局誰が止めても聞かなかったのでしょう。

三陸の賢治詩碑の現況(2)

 11月下旬に訪ねた、三陸地方南部の賢治の詩碑・歌碑報告の続きです。まず、碑の場所を示す地図を、再掲しておきます。


(地図上のマーカーをクリックすると、碑の写真と説明へのリンクが表示されます)

 今回は、気仙沼市唐桑の (3)「雨ニモマケズ」詩碑 と、陸前高田市の (4)「農民芸術概論綱要」碑 についてご報告します。


 「雨ニモマケズ」詩碑

 気仙沼市も、今回の津波で大きな被害を受けた町でした。3月11日の深夜には、気仙沼の市街が火災で燃える様子を自衛隊のヘリコプターが撮影した映像がテレビでずっと流され、茫然と見続けた記憶があります。
 私は9月23日にも気仙沼を訪ねたことがありますが(「気仙沼の彼岸」参照)、今回は2ヵ月ぶりの再訪でした。

 11月25日に石巻の医療支援を終えた後は新幹線で移動して一関に泊まり、朝早くにJR大船渡線に乗って、気仙沼駅には8時40分に着きました。
 ここから、持参した折りたたみ自転車を使って、沿岸部や鹿折地区をまわりました。港のあたりは、9月に来た時には地盤沈下した道路が冠水して自動車での走行も困難でしたが、今回はやはり石巻と同じように、数十cm底上げした真っさらな舗装がなされていました。
 JR鹿折唐桑駅の前には、9月の時にも見た「第十八共徳丸」が鎮座しています。前回と違って、今回は真新しい道の傍らに。

第十八共徳丸

 市街東部の鹿折川の川べりには、昭和8年3月の「昭和三陸大津波」を記念した石碑が建てられていたのですが、悲しいことに今回の津波で倒されていました。

大震嘯災概碑

 倒れる前のこの日の姿は、「日本の川と災害」の当該ページにあります。現在上になっているのは裏面ですが、表面には、「大震嘯災記念/大地震それ来るぞ大津浪」と刻まれていたようです。

 鹿折川を渡り、その向こうに見えている山を越えると、リアス式の次の湾に面した「舞根」という集落があります。ここも、全てが流されていました。

気仙沼市舞根

 その次の、「浦」という集落。案内標識のゆがみが、津波の到達した高さを教えてくれます。

気仙沼市舞根

 ここから、唐桑半島の付け根のもう一山を越えると、「宿(シュク)」という集落です。余談ですが、柳田国男が明治三陸大津波から25年後に三陸地方を旅した折りに書いた「二十五箇年後」という文章(『雪国の春』所収)は、この「唐桑浜の宿という部落」の話です。
 この地区の、「熊野神社」という神社の裏山に、「雨ニモマケズ」詩碑が建っています。

「雨ニモマケズ」詩碑

 この碑は、小さな山の中腹あたりにあって、津波の被害はありませんでした。しばし荷物を下ろして、「雨ニモマケズ」のテキストに向かい合い、一ノ関駅で買ってきたおにぎりで昼食。

 この碑のある場所から少し登ると、広田湾が見えます。左下に見えている石板が、詩碑の背面です。

「雨ニモマケズ」詩碑と広田湾

 それにしてもこの場所は、一人静かに「雨ニモマケズ」に向かい合ったり、海を眺めたりできる、素晴らしい「穴場」です。また来たいものです。

「雨ニモマケズ」詩碑

 腹ごしらえと十分な休憩をすると、詩碑にさよならを言って、次の目的地を目ざしました。

 また自転車に乗って、今度は北の方に向かいます。地図で見るとほぼ海岸線を走っていても、リアス式海岸に沿った道路というのは、集落の境ごとに存在する小さな峠と、海面の高さの間のアップダウンを幾度も繰り返すことになり、自転車にとっては結構ハード。
 岩手県交通の、一関から大船渡までを1日2往復するバスの時刻を調べてあったので、「堂角」から「陸前高田市役所前」まで、自転車をたたんでバスを利用・・・。


 「農民芸術概論綱要」碑

 そこからもいくつもの峠を越えて、バスは陸前高田市内に入りました。しかしそこで私は車窓からの景色を見て、「自分はここに来てもよかったのだろうか」という思いに一瞬とらわれてしまいました。それでも、バスはどんどん進みます。
 「陸前高田市役所前」で降りるつもりにしていたのですが、私の目算が浅はかで、元の市役所の建物は3階天井までもが津波で破壊されたわけですから、臨時のバス停があるのは、その2kmほど山手にプレハブで建てられた「市役所仮設庁舎」の前でした。

 持っていた2万5千分の1の地図は当てにならず、およその方角を頼りに山を下り、元の市街地のあたりに出てきました。
 この道をずっと西に行けば、高田高校です。

陸前高田市街地

 そして高田高校。

高田高校

 この校庭に、賢治の「農民芸術概論綱要」碑があったのです。下の写真は、2000年8月7日に撮影したものです。

「農民芸術概論綱要」碑(高田高校)

 この碑は、東北砕石工場の鈴木東蔵氏の長男・鈴木實氏が高田高校の校長だった昭和47年に建てられました。その「建立趣意書」には、次のように書かれていたということです。

 宮沢賢治御令弟清六氏より、賢治の喜ぶように使って欲しいと金十五万円余の御寄付を高田高校に頂きましたので、この使途につき有志相集い協議いたしましたところ生徒達への教訓のため詩碑建設が最善ではないかと考えました。
 碑文は丁度一昨年高田高校創立四十周年記念の折、谷川徹三氏が御講演後、「まづもろともにかゞやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」と農民芸術概論の一節を色紙に御揮毫なさいましたので、それを銅板に鋳直して石に彫むことにいたしました。

 そして、除幕式では森荘已池氏が講演を行ったということです。

 さて、高田高校にたどり着くと、何とかして上の場所とおぼしきあたりを探そうとしたのですが、瓦礫や土砂も多く、碑を見つけることはどうしてもできませんでした。

高田高校

高田高校

捜索終了

 ということで、「捜索終了」。

陸前高田市街

 自転車で西に向かい、気仙川を越え、また気仙沼市との境あたりにある「ホテル三陽」という宿に泊まりました。

 今回、11月下旬に訪れた南三陸の賢治詩碑は、前回と今回ご報告した4つです。
 残りの北三陸の詩碑も、来年の5月頃までには訪ねたいと思っています。

災害と賢治

「災害と賢治」-今、もし賢治がいたら 

0.はじめに

 今日お話させていただくのは「災害と賢治」というタイトルなんですが、生前の宮沢賢治は災害というものについて、どんな思いや態度でいたのだろうかということについて、考えてみたいと思います。副題に、「今、もし賢治がいたら」と書いていますように、今の日本のこの大変な状況にあって、もしも賢治が生きていたら、何を考え、どんな行動をとっただろうかということを、何とか推し測ってみたいという気持ちもあります。

「第1回 イーハトーブ・プロジェクトin京都」-満員御礼 この、「今、もし賢治がいたら」という疑問は、これまで賢治に関心を抱いてきた者として、3月11日の震災以来つねに私の胸のどこかにあったものでした。そして、今日のこの催しを企画するために、3月20日に初めてここ「アートステージ567」にやって来た時に、Hさんからまず私に突き付けられた問いでもありました。
 その時にははっきりとはお答えできないままだったのですが、私はその後この自問をふとツイッターに書き込んでみたところ、特に皆の意見を求めたわけではなく独り言のように呟いただけだったのですが、驚くほどいろいろなお返事が帰ってきました。
 賢治は、「自ら原発や瓦礫の間に分け入ろうとしてレスキュー隊や自衛隊と揉めているか」、あるいは「避難所生活を共にして今頃水や食料の確保に駆け回っているか…」と想像した方もありました。
 また、集団で協力し合って物事にあたるのが得意な人と、個人で行動するのが得意な人がいるけれども、賢治は後者だと思われるので、「だから多分一人でがれきを片付けたり、ひとりひとりの話を聞いて回ったり…かな」という意見も寄せられました。
 そして、賢治がとったであろう行動は、ひょっとしたら周囲の人からは「愚かなこと」と思われるようなことだったかもしれない、と指摘して下さった方もありました。この視点は、「デクノボー」の人間像や、「虔十公園林」の虔十の行動にも通ずるもので、おそらくそこには深い意味があるでしょう。この点については、後でまた触れる予定です。

 さて、こういう経過もあり、あらためて私は「災害と賢治」についていろんなことを考えさせられたのですが、ただ、賢治自身は、災害の現場で何かの活動をした記録があるわけでもなく、「災害論」のようなものを書き残しているわけでもないのです。ですから、「賢治だったらどうしたか?」という考察をしようとしても、せいぜい作品の一部や伝記的事項をもとに、想像をたくましくして推測してみるということしかできません。
 そもそもこれは、はっきりした答えが出る問いではないのですが、今回の震災を機に賢治について考えてみようという本日の催しの趣旨には沿うものですし、答えの当否はともかく、賢治の作品や思想を振り返ってみる一つの切り口にはなると思いますので、今日のテーマとさせていただいた次第です。

 ということで、今日のお話の大まかな内容は、次のようになる予定です。

「災害と賢治」-本日のお話

 賢治の作品や伝記的事項の中で、「災害」と言える上記のような題材が出てくるものを順番に検討し、それらに対する賢治の態度を見てみます。そして次にそれを整理して、賢治という人が災害や自然との関わりにおいてどういう思いを抱きつつ生きていたのかを、考えてみようと思います。
 一般にこういうテーマというのは、論者それぞれの「賢治に対する思い入れ」にもとづいて、あれこれ好き勝手に推測を述べるという形になりがちです。「私なりに抱いている賢治のイメージからすると、きっとこうしたのではないか」ということの、まあ主観的な表明です。
 もちろんそのような話も面白いのですが、ここでは賢治に関する伝記的事実や、作品内で直接描かれていることをもとに、なるべく客観的に考えてみたいと思います。無論それでも、背景に私なりの賢治に対する主観的「思い入れ」があるのは事実ですが・・・。


1.地震・津波 ~荒ぶる自然の申し子?~

 このたびの東日本大震災の中心は、まずM9.0という未曾有の大地震と、それに続く巨大な津波でした。
 よく話題になるように、宮沢賢治の生涯も、その始めと終わりを大規模な地震と津波が特徴づけています。

 まず賢治が生まれた1896年(明治29年)6月25日には、「明治三陸地震」と「明治三陸大津波」がありました。それまでは行政用語として限定的に使われていただけだった「三陸」という地名表現が、広く一般に普及したのも、この災害がきっかけだったと言われています。
 この時の死者は2万1915人で、現在も津波の死者数としては日本最大で、波の最大遡上高は38.2mで、これも現時点では観測史上最高です。
 これは、賢治が生まれる2ヵ月前の出来事でしたが、彼が生まれた直後にも、岩手県内陸地方では大きな地震がありました。8月31日に起こった陸羽地震がそれで、震度は6ー7程度あったと言われています。母のイチは、まだ生後数日だった賢治の上に覆い被さるようにして、わが子を守ろうとしたそうです。

 そして、賢治が亡くなった1933年(昭和8年)3月3日には、明治三陸大津波と並び称される「昭和三陸大津波」がありました。これは賢治が死去する約半年前のことで、すでに賢治の病状は重く、ほとんど病床から離れられない状態でした。ですから、この津波災害に際して賢治が何らかの社会的行動をすることは、すでに不可能になっていました。
 ただ、この津波の後まもなく、賢治の弟の清六氏が、「釜石に急行して罹災者を見舞った」と記していることは、注目に値すると思います(『兄賢治の生涯』ちくま文庫)。
 おそらくまだ交通も寸断されていた時期に、内陸の花巻から沿岸で最も被害が大きかった地区へ入ったというのは、かなり思い切った行動だったのではないでしょうか。釜石に宮沢家の親戚がいたということが、災害直後に急行した直接の理由かと推測されますが、弟がこういう行動をとるということは、賢治もこの時もし「丈夫ナカラダ」だったら、被災地に直接赴いたのではないかと、一つの想像が成り立つと思います。
 なお、この地震・津波の後に、東京在住の大木實という詩人から届いた見舞い状に対して、賢治が出した返事が残っています(下写真は勉誠出版『月光2』p.163-164より)。

書簡459a

 「被害は津波によるもの最多く海岸は実に悲惨です。」との言葉が、ちょうど今の私たちの胸にも突き刺さります。今回の震災とほぼ同じ時季のできごとでしたが、「何かにみんなで折角春を待ってゐる次第です。」とは、今年の東北でも共有されていた思いでしょう。

 津波とともにこの世に生まれ、津波とともに去っていった賢治の生涯は、あたかも「風の又三郎」が、二百十日の風とともに山あいの村に現れ、また風とともにどこかへ行ってしまったという設定を、彷彿とさせます。清六氏は『兄賢治の生涯』に、次のように書いています。

このように賢治の生まれた年と死亡した年に大津波があったということにも、天候や気温や災害を憂慮しつづけた彼の生涯と、何等かの暗合を感ずるのである。

 賢治は、荒ぶる自然の申し子のようにこの人間界に生まれ、科学や宗教をより所として、実践的に自然災害に関わるようになります。


2.雪山遭難 ~自然と人間との関係について~

 さて次は「雪山遭難」というテーマです。さきほど第一部で菅原さんが朗読された「水仙月の四日」というお話は、ほんとうに美しかったですね。人の命を奪うような猛吹雪が襲来する刻一刻の描写も、水晶のように透き通っていました。
 しかしある面でいかに美しくとも、雪山や吹雪は人間にとって非常に怖ろしいものです。岩手の内陸で生まれ育った賢治にとって、これは小さい頃から言い聞かされてきたことでしょうし、それからお隣の青森における「八甲田山雪中行軍訓練」で、壮健なはずの陸軍連隊210名中199名が死亡した事件は、1902年(明治35年)のことでした。この衝撃も、賢治の幼時記憶には刻まれていたかもしれません。

 「水仙月の四日」に雪の精霊として登場する雪童子は、「顔を苹果のやうにかがやかし」ている可愛い子どもです。このお話では、たまたま人の子を救いましたが、また別の時には死なせているのでしょう(童話「ひかりの素足」では、一人は死に一人は生き残りました)。吹雪がやって来る時の、「雪童子の眼は、鋭く燃えるやうに光りました」という箇所などは、この子の本当の怖ろしさを垣間見せます。
 また「雪婆んご」の方は、年とった「魔女」あるいは「山姥」のようで、もっと冷たく恐そうな存在ですね。

 しかしだからと言って、このお話で雪婆んごや雪童子が、人間の「敵」であり人間と対立する「悪者」として描かれているかというと、まったくそんなところはないのです。
 それどころか、人間と彼ら自然の精霊は、一つにつながっている存在として提示されているようでもあります。
 「人間」と「雪婆んご」の間にはちょっと距離があるようで、きっと雪婆んごには、人間的な感情など理解する余地などないのかもしれません。しかしここで、両者の間に「雪童子」という中間項を入れてみると、ちょうどこの両者を媒介してくれるように見えます。
 雪童子は雪婆んごの配下であり、彼女の命令に従って雪を降らせ、時に人の命を取ります。しかし一方で、雪童子は人間の行動も興味を持って眺めたり、自分が投げてやったヤドリギの枝を子どもが大事に持っていたことで、「ちよつと泣くやうに」したりもするのです。雪童子は、人間と自然の両方の性質を帯びた、一種の境界的な存在のようですね(下図)。

人間-雪童子-雪婆んご

 雪童子という存在について、次のように考えてみることもできるかもしれません。東北地方には「雪女」という伝承もあって、やはりこれも美しいとともに怖ろしく、しばしば人間の命を奪う精霊ですが、伝承によればこの「雪女」とは、雪の中で遭難して亡くなってしまった人間の女性の化身であるとされています。
 もしも雪女の出自がそうであるならば、雪童子というのも、実は雪で亡くなった子どもの化身なのではないでしょうか。
 「水仙月の四日」には、雪婆んごが雪童子に向かって、「おや、をかしな子がゐるね、さうさう、こつちへとつておしまひ。」と命ずる場面があります。子どもを「殺しておしまひ」ではなくて、「こつちへとつておしまひ」と表現しているということは、子どもが死ぬと、雪婆んごや雪童子の側である「こつち」の存在として「転生」する運命にあることを、示しているのではないでしょうか。
 それならば、ここに出てくる雪童子も、しばらく前までは人間界で生きていた子どもだったのかもしれません。雪婆んごとは違って、この子にはまだ人間としての感覚が完全には失われていないために、人の子に対して「情が移ってしまう」のかもしれません。

 いずれにしても、この物語における「自然」は、とても怖ろしいけれども、「人間」と別個に対立する存在としてあるのではなく、どこかで人間と不可分な存在です。
 その特徴を浮き彫りにするために、西洋のお話でこれと類似した設定を持つ、アンデルセンの「雪の女王」という童話と較べてみましょう。

 このアンデルセンのお話においても、「雪婆んご」に相当する「雪の女王」は、「死」を象徴する存在です。しかし、人間との関係はかなり異なっています。
 ある日、カイという男の子の目と心臓に、悪魔が作った鏡のかけらが運悪く入ってしまいました。そのた「雪の女王」のお城へ向かうゲルダめに、カイは物事が歪んで見えるようになってしまい、幼なじみの女の子ゲルダと離れ、雪の女王に連れ去られてしまいます。カイを探してはるばる北へやって来たゲルダは、やっと雪の女王のお城を探し当てますが、城に近づこうとすると、生き物のような「雪の大軍」がそれを阻止します。ゲルダが思わず「主の祈り」を唱えると、その白い息がたくさんの天使となり、天使軍は雪の大軍を打ち負かします。そこでついにゲルダは雪の女王のお城に到達し、大好きなカイを救け出したのです(上挿絵は「青空文庫」内「雪の女王」より)。
 この西洋の童話においては、愛のある人間は「善」で、冷たく怖ろしい雪は、人間と対立する「悪」です。善と悪は戦い、神の守護を受けて善は勝利したのです。

 「雪の犠牲になりかけている子ども」と「雪の精霊」が登場することにおいては、アンデルセンの童話と、賢治の「水仙月の四日」は似ていますが、実は両者の世界観は、相当に異なっています。
 「水仙月の四日」においては、「雪」は善悪というような人間が決めた価値基準を超越した存在です。雪と対峙して天使とともに戦ったゲルダとは対照的に、「水仙月の四日」に出てくる子どもは、積もる雪に受動的に包み込まれてしまいます。この物語では、その柔らかい褥(しとね)は結果的に子どもを守り救けましたが、しかし一歩間違えば、これは命取りになる状況でもありました。
 「水仙月の四日」で描かれている「自然」は、人間にとってはむら気で残酷でありながらも、それは人間と対立しているわけではなくて、人間を包み込んでくれるものです。人を包みながら、救けてくれるかもしれないし、命を奪われるかもしれない、両価的な存在です。
 これが、いわば賢治の自然観だったと私は思いますが、実はこれは何も賢治独自の考えというわけではなくて、近代以前の日本では、当たり前の感覚だったようです。

 というのは、明治維新までの日本には、英語の Nature に相当する言葉が存在しなかったのだそうです。強いて似た意味の言葉を挙げれば、「森羅万象」「万物」などというものがそれにあたりますが、これらはいずれもその中に「人間」も一緒に含む概念です。
 そこで、「人間と対置される存在としての Nature」という概念を日本語に移し替えるために、「おのずから」という意味でそれまで使われていた「自然(じねん)」という言葉が、訳語に充てられることになったのだそうです。今から思えば不思議な感じもしますが、近代以前の日本人は、「人間」や「人工物」と対比させる意味で、「自然」という概念を用いることはなかったわけですね。
 人間が科学技術など様々な手段によって「自然を征服し支配する」という考えや行動は、19世紀から20世紀前半の西洋において頂点に達し、明治以降の日本にも取り入れられました。それからは、日本人もこういう視点で「自然」を見るのが当たり前になっていきます。
 しかし20世紀後半になると、環境破壊や公害などの問題が表面化してきて、人間は自然を「征服」するのでなく自然と「調和」しなければならないという考えが、しだいにクローズアップされてきます。でもこの「調和」も、実際には「人間」と「自然」を対置してとらえていることには変わりはなく、言ってみれば「戦争をするか、同盟を結ぶか」の違いにすぎません。 西洋由来で、最近の日本でも流行している「エコ」とか「自然との共生」という思想もそうでしょう。結局は、人間に都合のよいように、そして人間に利益がある範囲内において、自然を守り共存しようということです。いわば「人間中心主義」であり、これが言葉の本来の意味における「ヒューマニズム」です。

自然と人間

 しかし、賢治の深層にある自然観は、そんな生易しいものではなかったようです。人間は自然の一部としてその中に包み込まれていることを受け入れるとともに、なおかつ彼は、人間だけが特権的に他の存在よりも優位に立つことが許されるとは、考えなかったのです。
 たとえば「なめとこ山の熊」という童話では、猟師の小十郎が、熊を獲って生計を立てています。小十郎は、熊が憎くて殺すわけではありませんが、自分が生きるためにはそうするしかありませんでした。小十郎は本当は熊が好きでしたし、熊も小十郎が好きでした。
「なめとこ山の熊」(あべ弘士:画) しかしそのような生業の帰結として、ある日猟に出た小十郎は、熊に襲われて死んでしまいます。彼は死ぬ間際に、「熊ども、ゆるせよ」と心で念じました。そしてその三日目の晩、月の光の下でたくさんの熊が小十郎の死骸を輪になって囲み、祈るようにひれ伏す姿がありました(右はミキハウス刊あべ弘士画:『なめとこ山の熊』)。
 ここで、人と熊とは殺し殺される関係にありながら、互いに尊敬を払いつつ、文字どおり「対等に」生きています。そのようにして自然とともに生きている小十郎には、並々ならぬ覚悟と矜持が感じられます。
 しかし、このような「自然」と「人間」との関係は、ちょっと聞くと美しく感じられても、よく考えるととても一般に受け入れられるものではないでしょう。「反ヒューマニズム」とも言えます。よく言われるような「人の命は地球よりも重い」というような価値観とは、まったく相容れないものです。
 それでも賢治の思想の根底には、このような自然と人間との一体性・対等性を基本的に受容するという感覚があったのは確かだろうと、私は思います。
 宗教学者の山折哲雄さんは、この「なめとこ山の熊」を取り上げて、「『共生』だけでは生きることへの執着、エゴイズムになってしまうので、『共死』という思想が重要である」と言っておられます(「共死の思想の大切さを思う」)。熊も人間も死を受容している「なめとこ山の熊」の世界は、まさに「共死」を具現化しているものであり、賢治の思想の根幹にも関わるものだと思いますが、はたして山折さんは「共死の思想が大切だ」と言うことで、一般の人々に何を伝えたかったのでしょうか。人間が、他の生物と対等に「共に死ぬ」ことを受け容れよ、というのでしょうか。こんな考え方は、人間を中心として成立している私たちの社会のモラルとして、到底みんなが納得できるはずはないものですが・・・。
 賢治は、人に向かってそういう考えをさも有り難いことのように説くということはありませんでしたが、しかし自分の内奥にはしっかりと抱いていたのだろうと、私は思います。

 人間は大地の上に暮し、幸いなことに大地から様々な恵みを贈与されていますが、時にその大地が大きく揺れ動くと、人々の命や暮らしが失われることもあります。また日本人は、四方を海に囲まれて暮し、様々な海の幸を受けとっていますが、時に海は怖ろしい怒濤となって陸地へ押し寄せ、人々の命や暮らしを奪います。
 荒ぶる自然の申し子であった賢治は、元来このような自然の摂理を、どこか宿命のように受け容れていたような印象が、彼のいくつかの作品からは感じられます。

 それは、大いなる自然とちっぽけな人間との関係として、当時としては無理もなかったことなのかもしれません。賢治の生まれた家では、父が非常に熱心な浄土真宗の篤信家で、賢治自身も幼児期から真宗の教えを暗誦しながら育ちました。人間の無力さを知り、超越者としての阿弥陀如来にすべてを委ねる(絶対他力)という思想は、もともと賢治の心には沁みわたっていたと思いますが、このような大きな受容の心も、賢治の自然観の形成に与っていたのではないかと思います。

 しかし賢治は、そこにとどまってはいませんでした。青年期に法華経に出会って世界観の変容を体験し、また高等農林学校に進学した賢治は、西洋近代文明の成功の基盤となった自然科学を究めようとします。そこからは彼の新たな、いわば「ヒューマニズムの闘士」として立ち上がろうとする姿も現われるのです。


3.豪雨災害 ~必死の農業技術者~

 次に取り上げる作品は、賢治が盛岡高等農林学校で農学を修め、農学校教師として教育に携わった後、さらに教師を辞めて「羅須地人協会」の活動を行いつつ、近隣の農家のために無償で肥料設計をやっていた頃の詩「〔もうはたらくな〕」(「春と修羅 第三集」)です。

  一〇八八
              一九二七、八、二〇、
もうはたらくな
レーキを投げろ
この半月の曇天と
今朝のはげしい雷雨のために
おれが肥料を設計し
責任のあるみんなの稲が
次から次と倒れたのだ
稲が次々倒れたのだ
働くことの卑怯なときが
工場ばかりにあるのでない
ことにむちゃくちゃはたらいて
不安をまぎらかさうとする、
卑しいことだ
  ・・・・けれどもあゝまたあたらしく
     西には黒い死の群像が湧きあがる
     春にはそれは、
     恋愛自身とさへも云ひ
     考へられてゐたではないか・・・・
さあ一ぺん帰って
測候所へ電話をかけ
すっかりぬれる支度をし
頭を堅く縄って出て
青ざめてこわばったたくさんの顔に
一人づつぶっつかって
火のついたやうにはげまして行け
どんな手段を用ひても
辨償すると答へてあるけ

 作品の日付けとして記入されている1927年(昭和2年)8月20日、花巻地方は激しい雷雨に襲われ、まさに稔りの時期を迎えようとしていた稲は、ことごとく倒れてしまったのです。
 賢治が自らの知識と経験を傾けて肥料を設計した農家の人々の田の稲も、甚大な被害に遭い(=おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲が/次から次と倒れたのだ)、賢治は絶望的な気持ちに襲われます。彼は自らに対して、「もうはたらくな/レーキを投げろ」と嘲るような言葉を投げつけます。もうこんな状況では、真面目に働くことなど無意味だ、卑しいことだ、とさえ言うのです。
 いつも前向きに粘り強く努力を続ける賢治にしては、これは珍しい投げやりな態度ですが、思えば彼は盛岡高等農林学校では首席を通すほど勉強に励み、その後も自分の健康も害するほど献身的に、周囲の農家の人々に尽くしてきたのです。環境や能力にも恵まれた一人の人間として、農家の暮らしの改善のために最大限のことをやってきたはずなのに、その成果は一日の豪雨によって、無残にも打ち砕かれてしまいました。所詮、人間の努力なんて自然の威力の前では徒労にすぎないのではないか・・・。賢治がこの時そう感じたとしても、無理からぬことにも思えます。

 しかしやはり賢治は、自暴自棄な態度では終わりませんでした。「さあ一ぺん帰って/測候所へ電話をかけ/すっかりぬれる支度をし/頭を堅く縄って出て/青ざめてこわばったたくさんの顔に/一人づつぶっつかって/火のついたやうにはげまして行け」ともう一度自らに命じます。「火のついたやうにはげまして行け」という言葉からは、賢治の燃えるような行動的エネルギーも感じます。

 賢治は幼少期から、人が苦しんでいる様子を見ると、放っておけずすぐに行動に移す子どもだったということです。例えば小学校の3年頃、悪戯をした子が罰として水のいっぱい入った茶碗を両手に持たされ廊下に立たされているのを見て、「ひでがべ、ひでがべ」と言ってその茶碗の水をごくごく飲んでしまったという逸話もあります(関登久也『宮沢賢治物語』)。
 思えば賢治の父の政次郎氏も、家業を飛躍的に発展させただけでなく、仏教講習会の開催や、町会議員、民生委員、小作調停委員、家事調停委員、金銭債務調停委員、借地借家調停委員、育英会理事など地域の多数の役職を務めて公共福祉活動に貢献しました。また、弟の清六氏が昭和三陸大津波の直後に被災地を見舞ったことも、すでに触れたとおりです。行動・実践を重んずる賢治の態度は、こういった精力的な父や家庭の影響によるところも大きかったでしょう。
 また盛岡高等農林学校で、当時最新の自然科学を学び、科学が持つ現実変革の力を体験し自ら身につけたことも、行動主義的傾向を促進したかもしれません。
 そして彼は農学校教師になってからも、「実践」と重んじる教育を行いました。教科書はあまり使わず、理屈よりも現実への応用を旨として、「これは実際問題ですよ、実際問題です!」というのが、教室での彼の口癖だったということです(『証言 宮澤賢治先生』農文協)。
 生徒には、学校で学んだ農業の知識や技術を実地に生かさせるために、卒業すれば「百姓になる」ことを勧めましたが、現実には熱心に勉強する生徒ほど、さらに上級の学校に進学することを希望しました。結果として、賢治の宿願であった農民の生活の改善は、農学校教師という仕事を通じてはなかなか達成困難に思われました。
 それで賢治は、一方で生徒に「百姓をやれ」と勧めながら、自分は教師という職業に就いて安閑としていることにも、自己矛盾を感じるようになります。おそらくこういう様々な思いが交錯した結果、賢治は教師を辞めて、自ら「一人の百姓になる」という行動に踏み出すことになります。しかし無理がたたって結核を悪化させた賢治は、いったん死を覚悟するほどの病状にも陥り、数年間を病床で過ごすことになりました。
 けれども、賢治はまだそれくらいでは諦めません。何とか病状が回復すると、今度は石灰工場の嘱託技師となったのです。ここで賢治に嘱託されていた役割は、土壌学や肥料学の観点から専門的な助言をすることが中心だったのに、蓋を開けると彼は連日のように岩手や周辺各県をセールスマンのように奔走して、何とかして石灰肥料を東北地方に普及させようと、また無理を重ねてしまいます。その結果、再び結核の再燃を招くことになってしまいました。

 このように、賢治は飽くなき実践と行動の人でした。法華経に傾倒するや、冬の夜中に大声でお題目を唱え太鼓を叩きながら花巻の町を歩いて家族や近所の人を唖然とさせたり、父を改宗させるために突然家出をして東京へ行き、「下足番でもするつもりで」日蓮主義の国柱会に押しかけたり、こうと決めたら実行せずにはいられないところがあります。
 こういった傾向は、賢治が法華経を信仰するようになってから、特に顕著になってきたようです。それまで信じていた浄土系の仏教が、他力によって「あの世」での極楽往生を目ざすのと対照的に、法華系の宗派では「この世」を常寂光土とすべく自力による菩薩行の崇高性を説くこと、また日蓮その人も、鎌倉幕府に直言したのをはじめ何度弾圧されても主張を曲げず精力的に布教をした「行動の人」だったことなど、宗教的な背景も賢治に一定の影響を与えていたと思われます。

 さて、以上のような賢治の生き方は、「積極行動主義(activism)」とも呼べるものでしょう。勉強もしますが、議論したり考えたりするよりも、とにかく思い切って実際の行動に移してみるのです。
 ただ、そのような積極行動主義には、どうしても挫折もつきまといます。自分の知識や精魂を尽くして、農業生産を上げようとしても、自然はそう簡単に思い通りにはなりません。「〔もうはたらくな〕」という作品は、献身的な行動に明け暮れながらも、そのような努力が水の泡と消えようとする時、彼でさえも無力感や虚無感にさいなまれることがあったことを、率直に示してくれています。
 積極行動主義は、賢治という人間や生涯を理解する上では、重要な一つの側面であると思います。しかしそれは常に、厳しい現実との相克につきまとわれていたのです。


4.水難 ~「共苦」ということ~

 さて次に取り上げるのは、川や海で溺れる「水難」です。
 実は賢治には、子どもの水難事故に関して小学生時代の印象的な体験がありました。

1904年(明治37年・尋常小学校2年)8月1日(月) 川口小生徒沢田英馬・英五郎・高橋弥吉・沢田藤一郎の4名が豊沢川下流を徒歩渡り中、水勢のため流され、英馬と沢田藤一郎(4年生)は魚釣りの人に救われたが、2年生の英五郎・弥吉は行方不明となり、夜になっても探索がつづき、その舟の灯がぺかぺか光るのを豊沢橋より見つめる。溺死者は翌日発見。強い印象として残る。(『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)年譜篇より)

 真っ暗な川面の上で、行方不明の子どもを探す舟の灯が「ぺかぺか」と光る様子は、「銀河鉄道の夜」の最後の場面を彷彿とさせます。子どもの頃に見たこの情景は、賢治の心にそれほど強く焼き付いていたのでしょう。

「アザリア」の4人 一方、くしくも賢治の死ぬ直前にも、「銀河鉄道の夜」の最後と似た出来事が起こります。
 それは、盛岡高等農林学校時代に賢治にとって大切な親友だった河本義行(右写真で前列右)が、鳥取県の倉吉農学校の教諭として水泳の監視中に、同僚が溺れるのを見て海に飛び込み、同僚を救けた後に自分は亡くなってしまったのです。1933年(昭和8年)7月18日のことでした(上写真は『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)p.293より)。
 河本義行は、盛岡高等農林学校卒業後、郷里で農学校教師をするかたわら、積極的に文芸活動にも取り組んでいましたし、賢治と違ってスポーツも万能で、水泳も上手だったとのことです。いったいなぜ水難で命を落とすことになってしまったのか、かえすがえすも悔やまれます。
 ここで一つの問題は、賢治は自分が亡くなる前に、はたしてこの親友の死を知っていたのかということです。もしも知っていたら、それは「銀河鉄道の夜」のラストシーンにおけるカンパネルラの死と、否応なく重なりあったでしょう。これは、現存する資料からはまだ答えの出ていない謎ですが、遠く離れた岩手と鳥取のことであり、河本の遺族が賢治に知らせた形跡も残っていないことから、賢治「カンパネルラの館」は河本の死を知らなかったのではないかという説が多いようです。
 しかし、鳥取県に住んでおられる河本義行の遺族の方は、その遺品を展示する建物(右写真)に「カンパネルラの館」という名前を付けて、賢治との縁を偲ぶよすがとしておられます。
 一方、もしも賢治が親友の水死を知らずに「銀河鉄道の夜」を書いたのなら、その符合、なおさら不思議な感興が呼び起こされます。

 さて、次に取り上げる作品は、実際に水難事故が起こっているわけではありませんが、それが想像上の一つの主題となっているもので、賢治が農学校教師時代に書いた「イギリス海岸」という短篇です。賢治はこの頃、生徒たちと過ごす楽しい日々を題材にしたノンフィクションに近い作品をいくつか残していますが、これもその一つで、教師賢治としての明るく輝かしい、かけがえのない思い出が詰まっています。
 「イギリス海岸」というのは、皆さんもご存じのように「海岸」と言っても海ではなくて、北上川のとある岸辺のことです。賢治は、その場所の地質がイギリスのドーバー海峡のものと似ているというので、面白がって「イギリス海岸」という愛称を付けたもので、ここは現在でも花巻の観光地の一つになっていますね。
 夏になると賢治は、そのイギリス海岸に農学校の生徒たちを引率してやって来て、水泳をさせたのです。内陸部で海のないイギリス海岸花巻でも、他の学校では夏になると「臨海学校」が催されて海で泳ぐことができたのですが、貧しい農学校にはそんなイベントはありませんでした。そこで賢治は、北上川の岸辺にことさら「海岸」と名前を付けて、日頃は海に親しむことの少ない生徒たちへの贈り物としたわけです(上写真は現在のイギリス海岸)。

 その短篇「イギリス海岸」の中ほどには、水難事故予防のために町から救助係として雇われている男性(=「その人」)が出てきます。一人称の「私」が、賢治です。

「お暑うござんす。」私が挨拶しましたらその人は少しきまり悪さうに笑って、「なあに、おうちの生徒さんぐらゐ大きな方ならあぶないこともないのですが一寸来て見た所です。」と云ふのでした。なるほど私たちの中でたしかに泳げるものはほんたうに少かったのです。もちろん何かの張合で誰かが溺れさうになったとき間違ひなくそれを救へるといふ位のものは一人もありませんでした。

 この人と会話した賢治は、もしも生徒が溺れた時のことを考えます。

実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。

 教師として監視していると言っても、実は賢治は泳げなかったので、もし目の前で溺れる生徒が出ても、救助することはできなかったのです。
 そして、そのような場合に賢治が覚悟していたことが、いかにも極端で、また賢治らしいことですが、「もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」というのです。
 すぐに飛び込むところは「積極行動主義」ですが、その行動は現実的な意味で「役に立つ」ものではありません。彼は生徒を救けるかわりに、一緒に溺れて死んでやろうと決意しているのです。

 おそらく現代の学校の生徒の保護者だったら、先生のその気持ちには敬服するけれども、それでは万一の場合うちの子はどうなってしまうんですか、誰でもよいから救助ができる人を配置しておいて下さい、と言うところでしょう。
 賢治のこのような気持ちは、実際的な人助けにはなりませんが、子どもの頃に水の入った重い茶碗を持たされている同級生を見ると、思わずその水を飲んでやったように、苦しんでいる人を見ると、とにかく理屈以前にその苦しみを分かち合おうとせずにはいられないという、やむにやまれない彼の衝迫を表わしています。
 それは、人の痛み・苦しみへの「共感」、「共苦」、そしてこの場合には、先ほどの山折さんの言葉では「共死」というところまで至る、思いであり行いです。自分の力ではどうしようもないことに直面した時、それを「解決」することはできなくても、「共感」し「共苦」することは、その覚悟さえあればできるのです。
 それは、現実には役立っているように見えなくても、何かの「意味」があるのではないか? 賢治はここで、人間の「力」(=「自力」)を超越したところに、次の何かを見出そうとしているのではないでしょうか。

 私がここでちょっと連想するのは、賢治とはまったく異なっワーグナー「パルジファル」(カラヤン指揮,ベルリンフィル)た文化状況におけることではありますが、19世紀ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーの最後の楽劇「パルジファル」のモチーフです(右はドイツ・グラモフォンPOCG3729『パルジファル』)。
 この楽劇には、過去のあやまちのために永遠の苦しみを背負わされている王と、崩壊に瀕している聖騎士団が登場します。そして「予言」によれば、王や騎士団を苦難から救済できるのは、「共苦によりて知にいたる、けがれなき愚者」=(“durch Mitleid wissend, der Reine Tor”)だと言うのです。
 第一幕に登場した粗野な若者パルジファルが、結局ここで予言されていた救済者だったのですが、ここで興味深いのは、救済の力を持っているのは決して始めから知力や武力のある者ではなく、人から見れば「愚か者」であって、しかし「共に苦しむこと(Mitleid)」を通して知に至る者であるというところです。ある人が、今ここで役に立つ力・問題解決能力を持っているかということではなくて、何の役にも立たないような愚かな様子であっても、悩める人と「共苦する」ことに、より深い力があるというのです。
 ここには、キリスト教的というのともちょっと違った宗教的ニュアンスがあり、晩年のワーグナーが仏教にも関心を抱いていたと言われることとも、関係があるのかもしれません。そしてこの「純粋な愚者」には、賢治が後に「デクノボー」と名づける人間像と共通する要素があるところが、私には非常に興味深く感じられます。

 ともあれ、賢治は積極行動主義とその限界の相克に苦しむところではとどまらず、そこからさらに、「共苦」という新たな可能性の道があることを提示してくれるのです。そしてその方向に進むことは、見かけ上の能力などを超越し、一見すると「愚者」と言われるような「デクノボー」的存在に近づいていくことになるようなのです。


5.旱害・冷害 ~行動し共苦するデクノボー~

 ここまでいくつか賢治が関わった災害を見てきましたが、最後に取り上げるのは、旱害と冷害です。この二つの災害は、彼の時代の東北地方の農業にとって最も深刻な問題であり、江戸時代には厖大な餓死者が出るような飢饉を招いたり、近代以降も農家の生活を深刻に脅かす危機を引き起こしました。
 当然、農業に関わりつづけた賢治は常に意識していたことで、これらは作品にも様々な形で、何度も登場します。

 さてその旱害と冷害に関して、ここでまず最初に見てみるのは、賢治の晩年の童話「グスコーブドリの伝記」です(下挿絵は文教書院『児童文学』初出時の棟方志功画-『新校本宮澤賢治全集』第12巻校異篇p.117より)。
 これは、冷害によって両親を失った少年グスコーブドリが、苦学の末に火山技師になり、科学技術の応用によってイーハトーブの農民の暮らしの改善に尽くす物語です。そしてその話の重要な部分として、旱害と冷害に対するブドリたちの挑戦が描かれます。賢治自身も、科学を勉強して農業の改革のための実践を行うことに「イーハトーブ火山局」(棟方志功:画)生涯をかけましたから、これは賢治が自ら夢見ていた、一つの「あるべき人生」の姿だったのかもしれません。
 グスコーブドリは技師になって2年後に、噴火が切迫している火山の中腹にボーリングを行い、町ではなく海の方へ爆発させることによって多くの人を被害から救います。そしてさらに6年後には、雲の上から飛行船で硝酸アンモニウムの粉末を散布することにより、肥料とともに雨を降らせることに成功します。
 お話の中でブドリたちが貼り出していた、

「旱魃の際には、とにかく作物の枯れないぐらゐの雨は降らせることができますから、いままで水が来なくなつて作付しなかつた沼ばたけも、今年は心配せずに植ゑ付けてください。」

というポスターのとおり、イーハトーブではついに旱害を克服することができたのです。
 そしてブドリが27歳の年、「あの恐ろしい寒い気候」が、また襲ってくる徴候が現れました。5月にも10日みぞれが降り、6月になってもオリザの苗は黄いろく樹は芽を出しませんでした。「このままで過ぎるなら、森にも野原にも、ちやうどあの年のブドリの家族のやうになる人がたくさんできるのです。」
 火山を人工爆発させれば、炭酸ガスによる温暖化で、冷害は避けられるという見通しがありましたが、それをすると最後の一人がどうしても火山島から逃げられないこともわかりました。そこでブドリは、クーボー大博士が止めるのも振り切り、自らを犠牲にして火山を噴火させ、帰らぬ人となったのです。

そしてちやうど、このお話のはじまりのやうになる筈の、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといつしよに、その冬を暖いたべものと、明るい薪で楽しく暮すことができたのでした。…

 このように、献身によって人々の幸せがもたらされるという帰結は、賢治自身が目標としたことでもあったでしょう。しかし、「科学技術によって自然を人間に都合がよいように変える」という試みには、人の命という犠牲が伴いました。それはまるで、手段こそ違えど、古代の人々が災厄の回避を祈る時には、神に生贄を捧げたことも連想させます。
 それにこのような火山の人工爆発は、賢治の時代からすれば所詮SF的なお話であり、当時でもそして現代でも、実際にやれることではありませんでした。旱害と冷害は、科学の力でも非常に解決の困難な課題だったのです。
 「グスコーブドリの伝記」は、賢治的な面白いアイディアが満載ですし、物語としても感動的で人気のある作品ではありますが、これはハッピー・エンドなのか悲劇なのか意見は分かれ、また誰かの犠牲のおかげでもたらされる幸せを人々は本当に喜んでもよいのかなど、議論を呼ぶ作品です。

 以上、たくさんの作品を見てきましたが、ここで先ほど菅原さんが朗読して下さった作品を、もう一つご紹介させていただきます。皆さんもご存じの、「〔雨ニモマケズ〕」です。
 ここでまずちょっと皆さんに考えてみていただきたい問題があるのですが、全部で30行あるこのテキストを、意味の上で二つの部分に分けるとしたら、どこで区切ることができるでしょうか。
 これはいろいろな視点・考え方があり、どれが正しくてどれが間違いと言えるような問題ではありませんが、まあ最も一般的なのは、14行目の「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ…」から後を「後半」として二つに分けるやり方でしょう。花巻の羅須地人協会跡に建てられている最も古く有名な詩碑にも、ここから後の部分が刻まれています。

 しかし今日は、ちょっと違う分け方をしてみます。それは、下の赤い点線のところで、二つに分けてみようというものです。

「雨ニモマケズ」の内容

 どうですか。これはまた、何とも中途半端なところで区切ったと思われるでしょうね。確かに形式的にも分かれていない変な箇所なんですが、あえて今日ここに線を引いてみた理由は、ここより前で描かれているのは、「立派な」「役に立つ」人間像なのですが、それに対してここから後では、どこかちょっとズレたような、役立たずのような人物になってしまうのです。
 「丈夫なカラダ」で、「慾ハナク、決シテ瞋ラズ」とか、「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ、ヨクミキキシワカリソシテワスレズ」なんて、よくできた健康優良児の優等生みたいですね。そして、「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ」というのも、道徳の教科書に出てきそうな、献身的で立派な人です。

 それでは、次の「南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」というのはどうでしょうか。
 これは現代風に言えば、実は死に臨む人の「ターミナルケア」をしているわけですね。それなら、大変有意義なことをやっているとも言えるわけですが、もし皆さんの家に重い病気にかかっているご家族がいたとして、ある日そこへ急に男がやってきて、「死ぬことは恐くないですよ」などと説き聞かせ始めたら、家の人はどう思うでしょう。「こっちは回復を信じて懸命に看病しているのに、あんたは何を縁起の悪いことを言いに来たんだ」と怒って、追い返したくなるのではないでしょうか。
 病人の治療をしたり、身のまわりの世話をしたりしてくれるのならとても有り難いでしょうが、「死を恐がらなくてもいい」と説教するだけでは、なかなか一般の人にその意図は理解してもらいにくいでしょう。だから普通の人は、とうてい回復しそうにない病人を見舞った時にも、「きっとよくなりますよ」などと気休めを言ってしまうのです。気休めを言えない人は、「変な人」「愚か者」と思われかねません。
 本当は人間にとって、死に臨む時期をいかに生きるかということは、とても大切なことです。しかし、「死を恐がらなくてもいい」という言葉は、元気に生きている者が瀕死の人に向かって、自分の健康を棚に上げてそう簡単に言えるものではありません。そこで中村稔氏はこの「コハガラナクテモイヽトイヒ」について、「ここで作者は仏の言葉を語っているのです」と述べています。

 それから次の、「北ニケンクヮヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」はどうでしょう。喧嘩を仲裁するのはまあ良いことでしょうが、「訴訟」を「つまらないからやめろ」と言うのは、どうでしょうか。
 詩人であり弁護士でもある中村稔氏は、ここに表明されたような思想が若い頃は嫌いであった、と述べています(思潮社『宮沢賢治ふたたび』)。「みんなが訴訟や喧嘩をつまらないからといって止めてしまったらどうなるか、結局のところ、強欲な人々、我執を主張する人々の私利私欲がまかりとおるのを許すことになるだろう」というのが中村氏の言い分で、これは社会的な観点からは当然の理屈です。やはりここでも、「訴訟をやめさせようとする」人物というのは、現実を知らない愚か者のように見えてしまいます。
 しかし中村氏は、「ここでも彼は仏の言葉を語っているのだ」と解釈します。
「どんぐりと山猫」 これに関連して私が連想するのは、「どんぐりと山猫」という童話です(右挿絵は光原社『注文の多い料理店』-『新校本宮澤賢治全集』第12巻校異篇p.18より)。
 このお話では、たくさんのドングリたちが「誰がいちばん偉いか」という問題で紛糾して収拾がつかなくなったので、山猫が「裁判」を行います。これは、当事者たちにとっては切実な問題のようですが、ドングリの間での優劣なんて、人間や山猫から見ればそれこそ「どんぐりの背比べ」にしかすぎません。
 そのような構図を、賢治は次のように描いています。

山ねこは、もういつか、黒い長い繻子の服を着て、勿体らしく、どんぐりどもの前にすわつてゐました。まるで奈良のだいぶつさまにさんけいするみんなの絵のやうだと一郎はおもひました。

 つまりここで賢治は、人間や山猫の立場からはドングリの争いなど馬鹿馬鹿しく見えるのと同じように、大仏さまから人間同士のもめ事を見れば、やはり「ツマラナイ」ものであるということを、暗示したかったのでしょう。中村氏が指摘するように、「北ニケンクヮヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」という態度は、同じ人間としてというよりも、「仏が人間界を見下ろしている」ような視線に由来しているのです。
 しかし現実の社会では、こういった仏の目線でものを言ってもなかなか理解されず、若い頃の中村稔氏のように反発を感じる人も多いでしょう。現実の社会から見ると、この言葉も理解されにくいと言わざるをえません。

 さて、この後に、有名な「ヒデリノトキハナミダヲナガシ、サムサノナツハオロオロアルキ」が続きます。科学の進歩を前提とした「グスコーブドリの伝記」においては、人間はヒデリ(旱害)もサムサノナツ(冷害)も克服しますが、賢治の時代の現実では、これらはまだ逃れようのない災厄でした。
 このような状況において、賢治が「ナリタイ」と思った人間は、「ナミダヲナガシ」、「オロオロアルキ」という行動をとる者でした。これらは、災害に見舞われた農民に対しては、実際上は何の役に立つものでもありません。しかしここには、人々の痛みを我がこととして受けとめる、「共感」と「共苦」があります。
 賢治は、少しでも旱害や冷害に強い稲の品種を普及させようと努力し、各地を巡回する肥料相談においてもそのような自然条件の被害を最小限にしようと肥料配合を考えました。このような積極行動主義と科学的な対処によって、彼は花巻地方の農業に、一定の貢献を果たしたと言えるでしょう。
 しかし、賢治がいくら頑張っても、あるいは仮にもっと多くの人の英知を結集したとしても、当時はまだ農業が天災の打撃を受けるのを食い止めることはできませんでした。豪雨の被害を受けた際の賢治の様子については、先に「〔もうはたらくな〕」で垣間見ましたが、その際の賢治は、無力感にさいなまれながらも、「火のついたやうにはげまして行け」と自らに命じていました。
 これに対して、晩年の「雨ニモマケズ」では、「ナミダヲナガシ」「オロオロアルキ」という静かな共苦の姿を描いたのです。

 そして、次の行に出てくる「ミンナニデクノボートヨバレ」という事態は、結局上に見たような行動が招いたものだったわけです。重病の人に「死ぬのは怖くない」と言い、喧嘩や訴訟を「つまらないから」と言って止めようとし、旱害や冷害の時には為すすべもなく「ナミダヲナガシ」「オロオロアルキ」・・・。
 このような行動および態度は、その「実効性」という点では無価値に見えるので、「ミンナ」からは「役立たずの人間」と思われてしまうというわけです。

 ということで、上の赤い点線よりも後の部分で描かれている行動は、いずれも一見すると「社会的に役に立っている」とは思えないような事柄なのです。
 前半部分では、「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ・・・」に典型的に表われているように、いわば「強い」人間像が描かれます。「東ニ・・・」「西ニ・・・」と東奔西走して人助けをする様子も、まるで修身の教科書のようで、この辺までのイメージのために「お説教臭くて押しつけがましい」と感じてしまい、この文章が嫌いになる人もけっこうあります。
 しかし、赤点線から後の部分に描かれているのは、何も目に見える形のことは為しえない、いわば「弱い」人間像なのです。しかしこの「弱さ」は、賢治に責任があるわけではありません。人が死ぬ運命や、社会から対立を根絶できないことや、旱害や冷害は、賢治であろうと誰であろうといくら頑張ってもどうしようもない、人間に普遍的な「弱さ」です。
 その無力さを自覚しつつ、しかし単なる諦めやニヒリズムとは異なった行動の可能性が、後半では描かれます。ここで提示されているのは、まるで役立たずの行為のように見えるにもかかわらず、本当は前半部よりもっと奥の深い事柄です。ちょうど「虔十公園林」という童話に出てくる虔十と同じように、その場では愚かなことと思われながら、実は尊い意味があるかもしれないことです。
 このように、「雨ニモマケズ」のテキストにおいては、前半と後半の描く人間像がいつの間にか変化しており、その変化が始まる場所も、「東西南北」という修辞的構成の途中なので、色合いが変わったことになかなか気がつきにくくなっています。このような賢治の叙述方法は、やはり巧みとしか言いようがないと思います。

 繰り返しになりますが、この「雨ニモマケズ」で描かれている行動や態度を、順に整理し直すと、次のようになります。上の引用テキストに青い文字で書いた区分をご参照下さい。
 最初の方では、まず心身の健康とともに、「ヨクミキキシワカリ、ソシテワスレズ」という経験や知識の重要性が挙げられています。賢治が農学や土壌学を高等教育機関で学び、さらに実地に広範囲の土性調査を行って経験を積んだことは、肥料設計の活動のために重要な基盤となりました。
 次に、「東ニ…」「西ニ…」「南ニ…」「北ニ…」とあらゆる方面に向かって、「行ッテ」「行ッテ」「行ッテ」という言葉を反復しつつ表現されているのは、先の言葉で云えば「積極行動主義」です。賢治は花巻周辺の農村を、文字どおり東西南北と巡っては肥料相談を行いました。「野の師父」という詩には、「二千の施肥の設計を終へ・・・」とありますが、このように非常に精力的に実践活動を行ったわけです。
 しかし、十分な知識と経験をもとに積極的な活動を行ったとしても、人間の力には限界があります。賢治もその巨大な壁にぶつかり、無力感にさいなまれることもありました。それは、彼がもともと抱いていた自然観・人間観、すなわち人間は自然の中に他の生き物と対等に包み込まれているちっぽけな存在にすぎないというとらえ方を、あらためて再確認させることだったとも言えるでしょう。
 ところで、命を懸けるほど頑張った挙げ句、その努力が無駄だとわかった時、人は「どうせ何をやっても無駄だ」というニヒリズムに陥りそうにもなるでしょう。先のことまで見透せてしまう力のある人ほど、そういう諦めを抱きやすいかもしれません。「〔もうはたらくな〕」にも、賢治のそんな一面がのぞいていました。
 それでも、賢治はニヒリズムには陥りませんでした。人間の力が及ばないことに直面した時に彼がとった行動、それは「共感」「共苦」ということでした。どんな状況でも、共に苦しみ、痛みを分かち合うことはできるのです。
 そしてワーグナーの楽劇のごとく、そのような真摯な関わりには、人を救済する力さえあるかもしれません。

「災害と賢治」-「雨ニモマケズ」の人間像


6.人間に変えられること/変えられないこと

 以上、「地震・津波」、「雪山遭難」、「豪雨災害」、「水難」、「旱害・冷害」という災害との関わりを切り口として、賢治の考えや行動を振り返ってみました。晩年の「〔雨ニモマケズ〕」の中に、災害を通して見た賢治の様々な側面が凝縮して織り込まれているのは、興味深いことです。

 これまでは、賢治のスタンスを災害の種類ごとに、あるいは「雨ニモマケズ」の構成に沿って通覧してみましたが、これを別の角度から言い換えると次のようになります。

 自然の一部である人間は、様々な形で自然に働きかけつつ生きていますが、人間の力によって「変えられること」と、いくら頑張っても「変えられないこと」があります。その境界線は、人によっても、時代によっても変化するものでしょうが、誰にとってもいつの時代も、どこかに厳然とその区切りが存在するのは事実です。

 人間の力は、ある時はちっぽけに見え、大いなる自然の前では、小ざかしい努力をしたって徒労に思えます。これを突き詰めるとニヒリズムになりますが、賢治はそのような態度はとりません。たとえ限界があるとしても、「できること」に関しては最大限の努力をしなければならないと考えました。彼が自然科学を学んでそれを実践に生かそうと努め、生徒や農家の青年たちに教え伝えようとしたのも、「変えられるものは変える」ということを実行するためでした。
 農学校を辞める少し前に生徒に語りかける形で書いた詩「告別」においては、

なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

と言って、刻苦勉励を説き聞かせています。

 しかし逆に、「努力さえすれば何でもできる」とか「成せば成る」といったような、根拠のない精神論も、賢治は採りませんでした。現実には無理なことまで「やればできる」と思い込むことは、おのれの力に対する過信であり、賢治はこれを「慢」と規定して、やはり自らに強く戒めました。ある時期以降の賢治は、自分の若い頃の考えに対して、自己批判的に何度も反省を示しています。

私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見てもらひたいと、愚かにも考へたのです。あの篇々がいゝも悪いもあったものでないのです。(森佐一あて書簡200)

 すなわち、自らの力の限界を知り、それを受容することの重要性も、彼は深く認識していました。そして、上記で様々な災害や人間の死に関して見たように、賢治は自らの力を越えた災厄に対しては、悩める人々のもとに飛び込み、「共に苦しむ」ということを実行するのです。

 このようなスタンスは、賢治が独自の実践や仏教から身につけてきたものと言えるでしょうが、くしくも同じような姿勢は、キリスト教にもあります。
 下記は、キリスト教の神学者ラインホルト・ニーバーが、1930年代か1940年代初頭に書いたとされる祈りです。

「ニーバーの祈り」

 これはキリスト教の立場で、神に「お与え下さい」と祈る形になっていますが、やはり賢治が思い巡らしたように、人間に「変えられるもの」と「変えられないもの」にどう対処すべきかという課題を扱っています。この祈りも、賢治の晩年とほぼ重なる時期に作られており、遠く洋の東西でちょうど同じ頃に現れているのが、興味深いところです。
 19世紀から20世紀にかけては、科学技術の急速な進歩によって、これまで人間には不可能だったことが、どんどん可能とされていきました。何が「変えられるもの」で、何が「変えられないもの」かという境界線が、短期間のうちに大きく変化する中で、これはちょうどこの時代から人類に突き付けられた、普遍的な問題だったということなのでしょう。


7.賢治ならどうしたか

 ということで、一通り作品や伝記的事実をもとにした検討を行ってみました。最後にこれをもとに、もしも賢治が現代の日本にいて、この災害に立ち会っていたらどんな行動をとっていたかという、冒頭の課題に戻ります。
 しかし私の結論は、賢治の生涯や作品を巡る長い行程の後、また最初にご紹介したようなツイッターからのご意見に帰るものです。

 賢治は豪雨の中でも、「一人づつぶっつかって、火のついたやうにはげまして行け」と自らに命じた、激しい行動主義の人でした。大災害が起こって多くの人が苦難に直面していると知ると、まず何をおいても現場に飛び込んでいっただろうと、私は思います。
 当時よりもボランティアが普及している現代でも、災害初期には一般のボランティアは闇雲に被災地に押しかけないようにということが言われたりしますが、いったんこうと決めた賢治は、そんなことに構うタイプではないでしょう。ツイッターで、「自ら原発や瓦礫の間に分け入ろうとしてレスキュー隊や自衛隊と揉めているか…」という推測を寄せていただいた方がありましたが、そんな姿も目に浮かんでしまいます。

 さらに被災地には、多くの人の死や、どうしようもない喪失体験も、数え切れないほどあります。賢治としても為すすべのない事象に直面した時には、彼も「ナミダヲナガシ」「オロオロアルキ」ということしかできないでしょう。
 しかし賢治は、苦しんでいる人への共感能力が人一倍高く、皆とともに「共苦する」人でした。もしも目の前で津波にさらわれる人があれば、「飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」とまでしかねないところのある人ですが、そこまではしなかったとしても、肉親や家や田畑や財産を失った人々の気持ちを、避難所において全身で受けとめようとしつづけたでしょう。

 被災初期には、賢治はそんなことをしていたのではないかと、私は想像します。

 ただ、こういったことは、宮沢賢治のことを知っている方々ならば、多かれ少なかれ考えるような事柄です。何もこんな大そうな考察などする必要もなかったのではないかと言われれば、そのとおりです。「災害」という切り口から覗いてみても、宮沢賢治はやはり宮沢賢治だった、という感じもします。
 しかし結論はともかく、3.11後という状況において、東北に生まれ育った宮沢賢治の生涯や作品をあらためて辿ってみることにより、彼が行動に至るまでのプロセスにおいて感じていたことや行っていたことの中に、少しでもご参考になることがあればと思い、本日のお話とさせていただきました。
 まとまらない内容でしたが、今回の災害について考えていただく一助にでもなれば、幸いです。

 本当は、あとさらに「原子力」というものについて、賢治的な観点から何かお話できればと思ったのですが、今日は時間もありませんので、今後の課題としたいと思います。

 ところで、災害後の初期段階が終わって復興が課題となる時期がこれからやってきますが、もしも賢治が生きていたら、本来はそこからが彼の真の出番になるのでしょう。
 津波によって海水に浸されてしまった田畑の土壌をどうやって回復させるか、作付けにはどういう品種を選択すべきか、どんな肥料配分を用いるべきかという問題は、彼のもともとの専門分野です。
 実は、津波による塩害対策として、土壌の塩分濃度が高い場合には、消石灰、炭酸カルシウムなどを100kg/10a程度散布して、代掻きした後に排水するという方法が、推奨されているということです(JA全農「津波による塩害対策と水田の土壌管理について」参照)。
 さらに、放射性セシウムで汚染された土壌への対策としても、とくに酸性土壌の場合には石灰の散布によって、作物へのセシウム移行を低減させる効果があることが確認されており(日本土壌肥料学会「原発事故関連情報(2):セシウム(Cs)の土壌でのふるまいと農作物への移行」)、チェルノブイリ事故後、旧ソ連の農地では広く実施されたということです(村主進「チェルノブイリ事故における環境対応策とその修復」)。

 晩年の賢治が、その改良と普及に文字どおり命を懸けた石灰肥料が、今度また東北地方の太平洋岸、とくに福島県において土壌の回復に役立つとすれば、またここにも、このたびの災害と賢治との浅からぬ因縁を感じてしまうではありませんか。

本記事は、「第1回イーハトーブ・プロジェクトin京都」においてお話した内容に加筆したものです。

 去年の12月23日(祝)の昼前、京都バッハ合唱団の I さんから、突然メールが来ました。

「告別」の歌詞なんですが、「おまへはひとりであの石原の草を刈る」の石原は、いしはらなのかせきげんなのか、もめております。どうなんでしょう?

とのこと。
 京都バッハ合唱団は、12月25日の公演で、バッハの「クリスマス・オラトリオ」とともに、千原英喜作曲「混声合唱とピアノのための組曲 雨ニモマケズ」を歌うことになっていて、これはその本番直前の、緊迫したオーケストラ合わせの練習の最中のことだったのです。

 この「告別」とはもちろん、「春と修羅 第二集」に収められているあの名作です。

三八四
  告別
               一九二五、一〇、二五、

おまへのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の楽人たちが
幼齢 弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管(くわん)とをとった
けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大低無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

 この最後から9行目に、「おまへはひとりであの石原の草を刈る」という問題の箇所があります。この「石原」を、「いしはら」と歌うのか、「せきげん」と歌うのかということが、合唱団で問題になっていたというわけですね。
 これが議論になったことには、ちょっとした背景がありました。

 千原英喜作曲「混声合唱とピアノのための組曲 雨ニモマケズ」は、「I. 告別(1)」、「II. 告別(2)」、「III. 野の師父」、「IV. 雨ニモマケズ」という4つの曲から構成されているのですが、その出版楽譜(下記)においては・・・

混声合唱とピアノのための組曲 千原英喜 雨ニモマケズ 混声合唱とピアノのための組曲 千原英喜 雨ニモマケズ
作曲 千原英喜 作詩 宮沢賢治

全音楽譜出版社 2008-06-13
売り上げランキング : 602205

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

「II. 告別(2)」(p.31)の中で、次のように歌詞は記入されています。

千原英喜「告別(2)」より

 すなわち、作曲者は「いしはら」と読ませているんですね。
 となると、もう答えは出ているではないかと思われるでしょうが、ここにもう一つの要素がからんでくるのです。

 この「混声合唱とピアノのための組曲 雨ニモマケズ」は2007年9月に京都において初演され、その演奏会は私も聴きに行ってきたのですが、この初演においては、問題の箇所は「あのせきげんのくさをかる」と歌われ、さらにこの夜の演奏が、『千原英喜作品全集 第5巻』としてCDになり、発売されているのです。

千原英喜作品全集 第5巻 ~宮沢賢治による作品集~ 千原英喜作品全集 第5巻 ~宮沢賢治による作品集~
当間修一 大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団

大阪コレギウム・ムジクム 2009-03-15
売り上げランキング : 156460

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

 この初演には、作曲者の千原英喜氏も立ち会い、また上記CDのライナー・ノートには千原氏自身が、

ここに収められたどれもが、私がこれまで聴いた彼らの演奏中、最高潮の、歌う喜びと幸せに溢れている。CD化によって皆さんに聴いていただけるのが嬉しい。私の絶好調の作品群、会心の一枚である。

とまで書いて「お墨付き」を与えているのですから、作曲者は「せきげん」という読みの方を「公認」したのだろうかとも、あながち思えなくもありません。

 私自身は、これまで深く考えることもなく「いしはら」と読んでいたのですが、あらためて正式に問い詰められると、「いしはら」だと断定する確固とした根拠を持ち合わせているわけでもありません。
 大事な本番を控えた合唱団の方に、どうお答えすればよいのか・・・。私は迷ったあげく、とりあえず賢治の他の作品における「石原」の用法を調べて、下記のようなお返事を送りました。

 宮沢賢治自身がこの箇所に振り仮名を付けているわけではないので、これは確定的な答えは出ない問題ですが、私は「いしはら」でよいと思います。
 賢治の作品に「石原」という単語が登場する例は結構たくさんあります。
唯一生前に刊行された童話集『注文の多い料理店』の中に「鹿踊りのはじまり」という作品が収められていますが、その一節に、

「いくつもの小流(こなが)れや石原(いしはら)を越(こ)えて、山脈(さんみやく)のかたちも大(おほ)きくはつきりなり、・・・」

という箇所があります。ここでは賢治自身が「石原」に「いしはら」とルビを振っているようです。
 これが、最も有力と思われる「いしはら」の根拠です。

 それ以外には、短歌において

北のそら見えずかなしも小石原ひかりなき雲しづに這ひつゝ
岩手やま焼石原に鐘なりて片脚あげて立てるものあり

という例がありますが、これらもそれぞれ語感から、「こいしはら」「やけいしはら」だろうと推測されます。
 上記以外の他の用例からは、はっきりした推定はできませんが、私としては上に引用した例から、賢治は「石原」という語を、平素から「いしはら」と読んでいたのだろうと考えます。

あと、これを補足するつもりで、続けて下記のようなメールや、

 あと、詩「告別」の朗読においても、私の聴いた範囲内ではすべて「いしはら」と読まれていたと記憶します。

とか、

 一般的に考えても、「雪原(せつげん)」ならともかく、「石原」の読みとして「せきげん」は、ちょっと普通は耳にしないですよね。
 コンサートの聴衆にとっては、「せきげんの草を刈る」と聴いて「石原」と理解してもらうのは困難でしょうから、やっぱり「いしはら」の方が「聴衆にも優しい」と思います。

などというメールをお送りしたりしました。

 私の返答メールは、I さんの携帯から指揮者さんの携帯に転送され、結局、本番では「いしはら」と歌うことになったとのことでした。(私は残念ながらこの12月25日の公演は聴けなかったのですが、聴きに行かれた星野祐美子さんが、ブログで「すごくよかった」と書いておられます。)

 以上、本来なら専門の研究者の方にお尋ねして、責任を持って回答すべきかとも思ったのですが、本番直前の練習中ということで、急いで自分なりのお答えをしたという一連の経緯です。
 しかし、100%正解と断定できる問題でもないので、今でも時々思い出しては、あれでよかったんだろうか、と考えてみたりもしています。

◇          ◇

 それはともかく、この「京都バッハ合唱団」による「組曲 雨ニモマケズ」の公演が、またこんどの日曜日に京都で開かれます。曲目は、この「告別」を含んだ「組曲 雨ニモマケズ」に加えて、J.S.バッハのモテット第5番「来たれ、イエスよ、来たれ」、マタイ受難曲より「神よ、憐れみたまえ」、ヘンデル「詩編曲「主は言われた」、芥川也寸志「弦楽のための三章 トリプティーク」。
 1月23日(日)の午後4時開演で、場所は「日本聖公会 聖マリア教会」です。教会は、平安神宮の北東にあたり、丸太町通に面しています。
 また、同じプログラムで、3月6日(日)に福岡・西南学院大学チャペルでも公演が行われます。

 もちろん、他の曲目も楽しみですが、この「組曲 雨ニモマケズ」の弦楽合奏版は、なかなか実演では聴ける機会が少ないと思いますので、お時間のある方にはぜひお奨めしたいと思います。

京都バッハ合唱団/バッハ・ストリングアンサンブル

 2007年9月に初演された、千原英喜作曲の混声合唱組曲「雨ニモマケズ」が、このたび京都で、弦楽合奏伴奏版で再演されます。合唱は、バッハの教会音楽を中心に多彩な活動を続けている「京都バッハ合唱団」。
 私は、「大阪コレギウム・ムジクム」による初演もその場で聴ける幸運に恵まれましたが、この時はピアノ伴奏バージョンだったのが、今回は弦楽合奏バージョンということで、また一段と楽しみです。なにせ、「告別」の「おまへのバスの三連音が・・・」という箇所では、実際にバスが三連音を奏で、「そらいっぱいのパイプオルガン」の箇所では、パイプオルガンの響きになるというのですから・・・。
 私も、VOCALOID による演奏で、この組曲のうちの「雨ニモマケズ」を再現してみたことがありますが、そんな真似事はさておき、少しでもこの曲に興味を持たれた方には、ぜひ実演でその本当の素晴らしさを体験していただきたく思います。

 下は、京都の由緒ある居酒屋のお女将をしておられる同合唱団の事務局演奏会担当者様から、先日いただいてきたチラシです。
 千原英喜作曲「雨ニモマケズ」は、今月のクリスマスコンサートと、来年1月の京都公演、3月の福岡公演において歌われます。

京都バッハ合唱団12/25

京都バッハ合唱団1/23, 3/6

2010年12月25日(土) 午後2時30分開演
京都府民ホール・アルティ にて
問い合わせ:バッハアカデミー関西 075-211-2373

2011年1月23日(日) 午後4時開演
日本聖公会 聖マリア教会(京都市左京区岡崎) にて
問い合わせ:バッハアカデミー関西 075-211-2373

2011年3月6日(日) 午後4時開演
西南大学チャペル(福岡市早良区) にて
問い合わせ:バッハ・ストリングアンサンブル 090-4984-7839

れんこんや

「ヒデリ」論の私的メモ

 先日、「入沢康夫『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』」という記事を書いて、入沢さんの近著をご紹介いたしましたが、当該記事に昨日コメントをいただき、「Web上にある入沢康夫氏の「「ヒドリ―ヒデリ問題」について」(宮沢賢治学会イーハトーブセンター・ライブラリ所収)という文章を読んでも納得がいかないので、「迷わぬようにお導きください」との依頼を受けました。
 私は、この問題に関して人様の「導き」をするような立場にはありませんし、ご参考のために何かを書こうとしても、入沢氏の上掲書の内容を受け売りする以上の知識も何も持っていません。この問題に関するモノグラフまで出された専門家を差し置いて私がそのようなことをするなど、僭越きわまりないとも思います。
 そこで、上記コメントのご依頼に対しては、「どうか直接、入沢氏の著書をお読み下さい」とだけお返事をしようかと、当初は考えました。

 しかし、それもあんまり素っ気ない対応ですし、賢治に対する真摯な思いから縁あって拙サイトにコメントを下さったことを思えば、ここは私なりに、入沢康夫氏の『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』の内容をもとに、「なぜ、「ヒデリ」と校訂することが妥当であると、この私も考えているのか」ということを、個人的メモとして記させていただくことにします。
 入沢康夫様、ご著書からかなり多くの引用をさせていただくことになりますが、どうかご容赦下さい。以下の文章では、入沢康夫著『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か 宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一語をめぐって』(書肆山田)のことを『入沢書』と略記します。

 コメントを下さったノラ様は、「なぜ「ヒドリ」では不適切で、「ヒデリ」へと校訂せざるをえなかったか」という点がどうしても納得できないということのようですので、その点を中心に、私の理解している範囲のことを述べます。
 なお、ノラ様のお考えは、ノラ様のこちらのブログ記事の「コメント欄」に長文で書かれています。


1.賢治が実際に「ひどり」と書いた(書きかけた)他の例の存在

 「〔雨ニモマケズ〕」の手帳上のテキストでは、もちろん「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」となっているのですが、賢治が「ひどり」と書いた(書きかけた)のは、この一例だけではありません。

 一つは、「毘沙門天の宝庫」(「口語詩稿」)という作品の下書稿において、「旱魃」という語にルビを振ろうとして、「ひど」まで書いて「ど」の字を消し、続けて「でり」と書いているのです。「ひでり」と書こうとしたが、「ひど」と書きかけて自分で気づいて訂正したわけですね。
 下画像は、『入沢書』p.57に掲載されている「毘沙門天の宝庫」の下書稿において、賢治が「ひ[ど→(削)]でり」と訂正した箇所です(赤丸は引用者)。

「毘沙門天の宝庫」(下書稿)より

 「ひ」の次に「ど」と書いて、グルグルと渦で消し、下に「でり」と書いてあります。
 この作品においては、賢治自身が書きながら気づいたので、「ひどり」という単語としては残りませんでしたから、後に論争の種となることもありませんでした。それでも、「賢治が「ひでり」と書こうとして、うっかり「ひどり」と書きそうになる傾向があったかもしれない」という、一つの所見にはなります。

 ところが、現実に「ひどり」という形で残されてしまった例が、「〔雨ニモマケズ〕」以外にも存在するのです。
 下の画像は、童話「グスコーブドリの伝記」が、1932年(昭和7年)に最初に『児童文学』という雑誌に発表された際の誌面の一部で、『入沢書』p.54に掲載されています(傍線は引用者)。

「グスコーブドリの伝記」(『児童文学』発表形より)

 赤い傍線を引いた部分に、「ひどり」と書いてあります。これは、作者の原稿をもとに活字を組んで出版された最終形態ですから、これを尊重して、「グスコーブドリの伝記」のこの箇所は、あくまでも「ひどり」として現在も出版し、子供たちに読ませるべきでしょうか。
 問題は、ここで「ひどり」と記されている単語の意味も、「〔雨ニモマケズ〕」の「ヒドリ派」の人々が主張するように、「日雇い稼ぎの賃金・またはその労働のこと」なのか、否かです。

 文章の内容を検討すると、「次の年もまた同じやうなひどりでした。」とあることから、その前の年の描写を見ると、「植ゑ付けの頃からさつぱり雨が降らなかつたために、水路は乾いてしまひ、沼にはひびが入つて、秋のとりいれはやつと冬ぢゆう食べるくらいでした。」とあります。
 これは、「ひでり=旱害」の記述以外の何物でもありません。

 かりにここで、前の年に「日雇い稼ぎに出た」などという記載があったとしたら、「次の年もまた同じやうなひどりでした」という文の意味は、「次の年も同じように日雇い稼ぎに出た」と考えられなくもありませんが、前年に「ひでり」の描写があって、「次の年も同じように日雇い稼ぎに出た」では、文章の意味が通りません。どこにも「同じやうな」ところがないのです。

 したがって、「グスコーブドリの伝記」におけるこの「ひどり」の語は、「ひでり」の誤りであると考えられます。当然のことながら、これまで出版された各種全集においては、この箇所は校訂によって「ひでり」と改められています。

 誤りが起きたポイントとしては、(1)作者が原稿に「ひどり」と書き誤っていた可能性、あるいは(2)作者は「ひでり」と書いていたが活字に組む段階で誤って「ひどり」としてしまった可能性、の二つが考えられますが、「毘沙門天の宝庫」下書稿に現れていたように、賢治が「ひどり」と書き誤りやすい傾向をもっていたことからすると、(1)の蓋然性が高いように思われます。そもそも、活字を組む職人さんが、まるで現代の「ヒドリ―ヒデリ問題」を予測したかのように、そんなに都合よく「ひでり」を「ひどり」と組み間違えてくれたとはとても思えません。
 したがって、「グスコーブドリの伝記」においても、賢治は「ひでり」と書こうとして誤って「ひどり」と書いていた可能性が高いのです。
 となると、「〔雨ニモマケズ〕」においても同様に、「ヒデリ」と書こうとして「ヒドリ」と書いてしまった可能性は、やはりありえます。

 ここでちょっと個人的に思うのは、「〔雨ニモマケズ〕」において「ヒドリ」説を主張する方は、「グスコーブドリの伝記」のこの箇所に関しても「ひどり」説を主張されて当然と思うのですが、なぜか「〔雨ニモマケズ〕」のことしか問題にされません。なぜ「グスコーブドリの伝記」も取り上げられないのか、理由を一度お訊きしてみたいものだと思っています。
 もしも、「グスコーブドリの伝記」において、「ひどり→ひでり」の校訂を是とされるならば、「〔雨ニモマケズ〕」だけにおいて非とされるのは、理屈に合わないと思います。


2.同じ手帳に記された類似内容の戯曲メモに「ヒデリ」とある

 「〔雨ニモマケズ〕」が記されている手帳は、賢治が晩年に病床で使っていたものですが、その同じ手帳の少し後には、「土偶坊」と題した一種の戯曲のメモのようなものが記されています。下の画像が、その一部です(『新校本全集』第十三巻(上)「本文篇」p.531より)。

「土偶坊」メモ

 題名と思われる「土偶坊」は、「デクノボウ」と読むのでしょう。右ページの最後の行にも、小さな字ですが「デグノ坊見ナィナ」などと記されています。題名の横には、「ワレワレカウイフモノニナリタイ」と書かれており、これはまさに「〔雨ニモマケズ〕」最終2行の「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」に対応しています。この戯曲?の構想が、「〔雨ニモマケズ〕」の内容と密接に関わっていることを、示唆しています。
 さて、このメモで左ページの「第五景」と題されたところには、「ヒデリ」という言葉が書かれています。すなわち、賢治はおそらく「デクノボー」が主役となるであろうこの戯曲において、「ヒデリ」の場面を考えていたのです。
 この事実も、「〔雨ニモマケズ〕」においても、「ヒドリ」ではなくて「ヒデリ」の時のデクノボーの様子が描かれていると考えることの妥当性を、支持していると思います。


3.「ヒデリ」なら文章の整合性があるが「ヒドリ」では崩れる

(1) 対句的表現
 「〔雨ニモマケズ〕」というテキストは、「雨ニモ」「風ニモ」「雪ニモ」、「東ニ」「西ニ」・・・など、「対句」的表現に満ちています。
 問題の箇所が、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」であれば、それぞれ「旱害」と「冷害」という、気象条件による代表的な農作物への被害として、「対句」をなします。しかし、これが「ヒドリ」ではそのような対応は生まれず、形式としてあまり整いません(『入沢書』p.111と関連)。

(2) 乾燥→涙という意味関係
 これは、原子朗氏の説を紹介する形で『入沢書』p.21に書かれていることです。「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」では、「日雇い労働が辛いから涙を流す」という単なる生理的な涙にすぎない。しかし、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」であれば、その「ナミダ」は、「雨のごとく降ってほしい」という賢治の「心理の」涙なのであり、単なる哀れみや悲しみの涙ではないと、原子朗氏は述べておられます。

(3) 「ヒドリ」とした場合の主体の問題
 「ヒドリ」説をとっておられる方は、この「ヒドリ(日雇い稼ぎ)」を行うのは、作者であると解釈しておられるのか、作者が見ている農民か誰かであると解釈しておられるのか、どちらなのでしょうか。
 「ヒドリ」説の説明を聞いていると、後者のようなニュアンスが感じられるのですが、文章を普通に読むと、なかなかそうは意味がとりにくいと言わざるをえません。

北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ

 上記の文章において、「ツマラナイカラヤメロト」言うのは作者(のめざす姿)であり、「サムサノナツハオロオロ」歩くのも作者(のめざす姿)であり、「ミンナニデクノボート」呼ばれるのも作者(のめざす姿)です。「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」において、「涙を流す」のは作者(のめざす姿)だが、「ヒドリ」を行うのだけが第三者というのは、日本語の文章として不自然です。
 この点について、入沢氏はわかりやすい例を挙げて説明しておられます(『入沢書』p.107-108)。

 「○○○○の時は △△△△する」という文の前半の「○○○○の」のところには、辞書によれば行為か状態・環境を表わす語句(連体修飾語句)が入って「何々が何々する(した)場合には」または「何々が何々である(あった)場合には」という意味になります。
 そして、この「何々が」が特に示されていないなら、その行為や状態は、後半の△△△△する人の行為や、その人の状況(自分の体調や気分・自分の周囲の状況・環境等)であると理解するのが、日本語としての普通な扱いです。
 実例を掲げたほうが判りやすいでしょう。「兄の外出の時は 門口まで見送る」とあれば、外出するのはまぎれもなく兄で、見送る人とは別人ですが、もしも前半に「誰が」を示す語がない文、例えば「外出の時は 帽子をかぶる」という文では、外出するのは、後半の「帽子をかぶる人」であるとうけとるのが、普通でしょう。
 もう一つ別な例を挙げれば、「友人が病気の時は見舞いに行く」と「病気の時は薬を飲む」を比べた時、後者で病気なのは「薬を飲む人」当人であることは、すぐ判るはずです。
 「ヒドリ」が、上記の拡張した意味(日雇い稼ぎの労働)だとしますと、これは行為を表す言葉であり、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」だけでは、それが誰の行為か示されていませんから、さきほど見た例のように、ナミダヲナガす人の行為という意味にとるのが自然です。つまり「日雇い稼ぎをするのは、涙を流すそのひと」ということになり、この行全体の意味は《自分が日雇い稼ぎをする時には涙を流す(ような人にわたしはなりたい)となって、初めに掲げた《日雇い稼ぎをして生きていかねばならぬ貧しい農民の身の上を思いやって涙を流す(ような人にわたしはなりたい)という意味とは、大きくズレてしまいます。

(4) 文章の明快さ
 これも、『入沢本』p.109-110より引用させていただきます。

 この「〔雨ニモマケズ〕」の全体は、読めばすぐ気がつくことですが、内部に籠められている深い思想内容は別として、表面の言葉のつながりや、いちいちの言葉の意味を辿っていく限りでは、対句的表現を多用し、たいへん明快で歯切れよく判りやすく出来ています。物理化学や宗教や哲学などの専門語の使用はいっさい避けて、やさしい日常の共通語(いわゆる標準語)で終始しているのも大きな特徴です。そういう全体の中で、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」の行だけが、このままでは意味がすっきりととり難い、奇妙な一行となっています。ここだけ「ヒドリ」という方言が混じっているというのも、他の行と異なる点ですが、賢治の作品では、たまに方言や方言的言い回しが混じることもありますので、ここではそれは問題にしません。しかし、それをたとえば「日雇い仕事」と置き換え、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」を「日雇いに出なければならぬ農民の辛苦を思って涙を流す」と読もうとしましても、この言い方ではなかなかそういうふうには読みとれない、全体の判りやすく辿りやすい言葉の運び方ともしっくり行かない、という点が問題なのです。


 さらに細かい点まで挙げるとすれば、まだたくさんあるのですが、これ以上となるとやはり『入沢本』を直接読んでいただくのが一番でしょう。

 以上、入沢康夫氏のご著書を全面的に参考にさせていただきましたが、その中から一部を要約したり「つぎはぎ」したりしたのは私の勝手な作業ですので、上の文章の全体としてのわかりにくさや不十分な点は、私の責任にあります。