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 前回の「ほんたうのさいはひを求めて(1)」という記事は、宮澤賢治が繰り返し書いていた「ほんたうのさいはひ」というのは、具体的にいったいどういうものだったのか考えてみようとして、『新校本全集』の索引を調べて抜き書きを作ったところで、終わってしまいました。
 その続きについては、また後で考えていくこととして、ところで人間にとっての「幸福」という状態には、いろいろな種類のものがありえます。たとえば、「愛し合う男女が結婚して、生活が安定し、子供も生まれて、仲良く暮らしている」とすれば、その状態は一般的には、「幸福」の一つの典型像なのかもしれませんが、これは賢治が求めていた「ほんたうのさいはひ」とは、違うものだと思われます。
 その理由は、このような幸福には、「普遍性」がないからです。

 上のような満ち足りた仲の良い家族は、たしかに自分たちだけに限定すれば幸せかもしれませんが、その幸福は、その家族以外の人々が幸せなのかどうかということとは、全く無関係です。それどころか場合によっては、その家族が立派な家に住み、綺麗な服を着て美味しい物を食べている生活は、他の人々の不幸や困窮の上に成り立っている可能性さえあります。
 そして賢治は、自分の生まれ育った「宮澤家」に対して、そのような後ろめたさを感じ続け、恵まれた家に生まれた幸福を謳歌するよりも、むしろ罪悪感にさいなまれていた面がありました。

 すなわち、賢治がことさら「あらゆるひとのいちばんの幸福」あるいは「まことのみんなの幸」などと表現して、「あらゆるひと」「みんな」を重視したのは、上の特定の家族のような「個別的」な幸福ではなくて、全ての人、あるいは全ての生き物が共にそうであるような、「普遍的」な幸福を目ざそうとしたからだと考えられます。
 法華経の「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」という言葉に典型的に表れているように、これこそが大乗仏教の本質であるとも言えます。

 そして何よりも、「農民芸術概論綱要」の、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉が、賢治のこのような考えを、最も尖鋭に表現しています。「普遍的な幸福」がなければ、「個人の幸福」は存在しない、とまで言うのです。

 ということで、このような「普遍的な幸福」というところに特に着目しながら、前回の記事で調べた諸作品を見てみます。
 前回の「ほんたうのさいはひを求めて(1)」で、賢治の作品において「幸福」「幸」「さいはい」「さいはひ」「さひはひ」「しあはせ」等の語句が出てくる作品を『新校本全集』の索引で調べてみると、次の6つがありました。

  • 「貝の火」
  • 「よく利く薬とえらい薬」
  • 「手紙 四」
  • 「虔十公園林」
  • 「ポラーノの広場」(下書稿)
  • 「銀河鉄道の夜」

 私としては、意外に数が少なかったという印象なのですが、この中から、その内実が「普遍的な幸福」と言えるものを、抽出していってみましょう。

 まず「貝の火」では、最後にお父さんがホモイに、「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ」と語りかける箇所に出てきますが、これはあくまでホモイ個人の状況について「さいはひ」と表現しているのであり、みんなの「普遍的な幸福」ではありません。

 次に「よく利く薬とえらい薬」では、「にせ金使ひ」の大三が、自分が大金持ちであることについて、「自分だけではまあこれが人間のさいはいといふものでおれといふものもずゐぶんえらいもんだと思って居ました」とありますので、これも当然「普遍的な幸福」ではありません。

 「手紙 四」では、「チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」として登場し、これはまさに典型的な「普遍的幸福」です。

 「虔十公園林」には、「全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした」とあります。ここでは、この「本統のさいはひ」が「何千人のひとたち」に伝えられ、その数は「数へられません」というほど多いのですから、これは「普遍的な幸福」と言えます。

 「ポラーノの広場」では、下書稿の上だけですが、3か所に登場します。まず一つは、行方不明だったファゼーロに対してキューストが「あぶなかったねえ、ほんたうにきみはそれでだったんだよ」 と言う場面で、これは単に「幸運だった」ということであり、「普遍的な幸福」ではありません。
 二つめは、最後の方でファゼーロがそれまでの経緯を振り返って、「ぼくらはみんなんで一生けん命ポラーノの広場をさがした。そしてぼくらはいっしょにもっとにならうと思った」と言う場面で、この「幸」は「いっしょに」至ろうとするものですから、一応「普遍的な幸福」と言えます。
 三つめは、キューストによる演説に、「さうだあの人たちが女のことを考へたりお互の間の喧嘩のことでつかふ力をみんなぼくらのほんたうの幸をもってくることにつかふ」として出てきますが、これも同様にひとまず「普遍的な幸福」と言ってよいでしょう。

 「銀河鉄道の夜」には、「初期形一」、「初期形二」、「初期形三」、「最終形態」へと至る過程の全てに、「幸」、「しあはせ」、「幸福」という言葉は何度も登場します。その具体例の一つ一つについては、前回の記事を参照していただくようお願いしますが、ここにはたとえば「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする」というように、おっかさんの「個別的な幸福」として登場する場合もあれば、「だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ」というように、究極の「普遍的な幸福」を指している場合もあります。
 つまり、「銀河鉄道の夜」では、個別的/普遍的の両方の「幸福」が扱われているのですが、「初期形一」から「最終形態」に至る時間的推移を追ってみると、最初のうちは「個別的幸福」と「普遍的幸福」の双方とも一緒に求めようとする姿勢が見受けられるのに対して、最終形態に近づくほど、個別的な幸福から離れて普遍的な幸福の方をこそ目ざそうとする態度が、際立ってくるように感じられます。
 たとえば、「初期形一」では、蠍について語るジョバンニの言葉は、「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」となっていて、ジョバンニは「みんなの幸」と「おまへのさいはひ」の両方のために、自己犠牲を行うと言っています。しかしこの箇所は、「初期形二」以降はご存じのように、「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」となり、個別的な「おまへのさいはひ」は削られているのです。
 あるいは、「初期形一」から「初期形三」までの稿では、最後の方でジョバンニは「さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」と言っており、ここでも「僕のため」「僕のお母さんのため」「カムパネルラのため」という個別的指向と、「みんなのため」という普遍的指向が並列されているのですが、「最終形態」ではこの部分は削除されます。
 これは言わば、「個と普遍の両立」というスタンスから、「個を抑えて普遍へ」というそれへの転換であり、私としては、「青森挽歌 三」における《願以此功徳 普及於一切》から、「青森挽歌」における《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》への変更を、連想させられるところです(「《願以此功徳 普及於一切》」参照)。すなわち、「トシも、みんなも幸せに」ではなくて、「トシはどこに行ったかわからないが、みんなは幸せに」への変化です

 あと、さらにもう一つ、「銀河鉄道の夜」における「幸」、「しあはせ」、「幸福」の推移をたどってみて気がつくことがあります。それは、稿が進むにつれて、だんだんその内実が不分明で不可知なものになっていくということです。
 「銀河鉄道の夜」の発想の前段階に、「手紙 四」が位置するということは、多くの人の認めるところでしょう。「手紙 四」で、「手紙を云ひつけた人」が、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と宣告した後、様々な生物の同胞性を述べて、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」と言うパターンは、「銀河鉄道の夜」初期形で博士がジョバンニに、カムパネルラとは「いっしょに行けない」が同時に「みんながカムパネルラだ」と言い、「おまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ」と言うパターンと、まさに相似形になっています。
 その「手紙 四」では、「ほんたうの幸福をさが」すということは、すなわち「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」と明言されており、ここでは「ほんたうの幸福」とは、法華経への信仰とその実践であると、具体的に規定されているわけです。

 これが「銀河鉄道の夜」になると、法華経などという具体的な宗教性は除かれますが、「初期形一」の最後でカムパネルラの不在を発見したジョバンニは、「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ」と叫び、ここでは「きっとさがしあてる」ことが高らかに宣言され、読む者もそれを期待するようになっています。
 上のジョバンニの言葉は「初期形二」でも同じですが、「初期形三」になると、カムパネルラの不在に気づいたジョバンニは、「咽頭いっぱい泣きだし」、「そこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひ」、「初期形二」までのような決然とした態度ではなくなります。そして、博士に声をかけられて「ぼくはどうしてそれ(=あらゆるひとのいちばんの幸福)をもとめたらいゝでせう」と問いかけるのに対して、博士は「あゝわたくしもそれをもとめてゐる」と答え、博士自身も何が「ほんたうの幸福」なのかという問題の答えはまだ持っていないのです。
 そして「最終形態」では、このような博士による導きの言葉もなくなってしまいますので、何が「ほんたうのさいはひ」なのかは、ますます把握しにくくなっています。
 こういった変化と平行して、「初期形三」以降には、燈台守の「なにがしあはせかわからないです」との言葉があったり、ジョバンニの「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう」という疑問に対して、カムパネルラは「僕わからない」とぼんやり云うなど、結局「しあはせ」「さいわひ」の本質については、「わからない」という言葉が繰り返されるようになっていきます。

 賢治自身は、生涯ずっと法華経を篤く信仰していましたから、「ほんたうのさいはひ」が法華経によってもたらされるという考えには変わりはなかったのだろうと思いますが、当初の「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」という具体的な断定は影を潜め、それが何であるかということを云々するよりも、それを「求める」ことこそが重要であるというスタンスに変わっていくようです。
 これは、「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」という「農民芸術概論綱要」の言葉にも、また「学者アラムハラドの見た着物」における「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います」というセララバアドの言葉にも、通じるものでしょう。
 すなわち、「手紙 四」から「銀河鉄道の夜」の諸段階に至る一連の系列においては、「ほんたうのさいはひ」の根底には法華経があるように感じられながらも、「ほんたうのさいはひ」とは何なのか、それを「求め続ける」姿勢や生き方こそが重要であると、賢治は言おうとしているように思われます。

 これに対して、「ポラーノの広場」の草稿に出てきた「(ほんたうの)幸」は、もっと具体的です。
 すなわち、ここではファゼーロたち農民が力を合わせ、技術を身につけ、産業組合の形で醋酸製造や皮革加工を行う工場を運営し、採算的にも軌道に乗っているというのです。このように、楽しく張り合いのある労働によって、生活が豊かになり、また友愛の精神によって皆が結ばれている状態のことが、物語中では「幸」と呼ばれているのだと思われます。
 そしてこのような「幸」は、仲間たちと「いっしょに」追求し実現されているわけですから、「個別的」ではなく「普遍的」であるように十分見えます。また、こういった活動内容は、賢治自身が羅須地人協会によって目ざそうとしていたこととも、部分的には重なり合うと思われますので、このような生活のあり方が、賢治の理想の一つであったということは言えるでしょう。

 ただし、このような具体的な活動による「幸」の追求が包括しうる普遍性と、「銀河鉄道の夜」において示唆されたそれとの間には、かなり大きなギャップがあります。ポラーノの広場の産業組合がうまく行くことで「幸」になれるのは、あくまでその組合の構成員だけであり、その広がりの範囲は、ジョバンニが言う「みんなのほんたうのさいはい」とは、レベルが違うのです。共同体に根ざした産業組合が、現代の大企業のような冷たい組織とは違って、いくら暖かい人間関係にあふれていたとしても、それは所詮「大きな家族」に過ぎず、冒頭で例に挙げたような家族主義の限界を越えられるものではないのです。
 すなわち、「ポラーノの広場」における「幸」は、「銀河鉄道の夜」におけるように段々と曖昧化されていく「お題目」とは異なって、確かな具体性を備えているのですが、一方でその「普遍性」には、根本的な制約があるのです。

 ということで最後に、「普遍的な幸福」を描いたらしい作品としてあと一つ残っている、「虔十公園林」を見てみましょう。
 該当箇所を前回に続きもう一度引用すると、下記のようになっています。アメリカ帰りの学者が、久しぶりに故郷で虔十の植えた杉林を見て、次のように言います。

「こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては。」
「これは全くお考へつきです。さうなれば子供らもどんなにしあはせか知れません。」
 さてみんなその通りになりました。
 芝生のまん中、子供らの林の前に
「虔十公園林」と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。
 昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向ふに小さいながら農園を有ったりしている人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。
 虔十のうちの人たちはほんたうによろこんで泣きました。
 全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。
 そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。

 ここにおいて公園林は、何千人という無数の人々に対して、すなわち普遍性をもって、「本統のさいはひが何だか」を教えたということですが、その「さいはひ」の内実とは、いったい何だったのでしょうか。
 これは、一般的に言われている幸福の概念とは少し違うので、ぱっと読んだだけではわかりにくいですが、文字どおり解釈するとそれは、「公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」が教えてくれる、「何か」です。
 その次の文、それはこの童話を締めくくる最後の文になりますが、そこには「林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出す」と書かれており、前文からの続きとして、これも多くの人々に「本統のさいはひ」を教えてくれているという趣旨なのでしょう。
 ただこれを読んでも、いったい林は何を「教へ」てくれているのか、まだ具体的に把握しにくいですが、ここに「虔十の居た時の通り」という言葉があることが、手がかりになると思います。
 すなわち、この「さいはひ」とは、このような雨や日ざしや空気に接して、虔十その人が体験していたものだったのではないでしょうか。

 「虔十公園林」の冒頭は、次のように始まっています。

 虔十はいつも繩の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいてゐるのでした。
 雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。
 けれどもあんまり子供らが虔十をばかにして笑ふものですから虔十はだんだん笑はないふりをするやうになりました。
 風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立ってゐるのでした。

 ここでは、虔十という人が、「雨の中の青い藪」や、「青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹」や、「風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光る」のを見ると、「よろこんで目をパチパチさせ」、「はねあがって手をたゝいてみんなに知らせ」、「うれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ない」という状態になっていた様子が、描かれています。
 そして、虔十が全身で体感している、このようにどうしようもなく抑えられない喜びこそが、賢治がこの作品で言いたかったところの、「本統のさいはひ」なのではないでしょうか。あえて言葉で説明するとすれば、「自然や生命の躍動を感受し、それと自分自身が共振することの喜び」とでも言えましょうか。
 この「さいはひ」は、「銀河鉄道の夜」や「農民芸術概論綱要」のように、いつたどり着くかもわからない未来に向かって「求め続ける」ものではなくて、まさに「今ここ」に存在し、理屈ではなく身をもって、直接感じるべきものです。

 「虔十公園林」という物語の構成を見ると、このような「本統のさいはひ」を、虔十以外の人は当初感じとることができず、逆にそのように「さいはひ」を享受している虔十がばかにされているところから、話は始まります。
 そして虔十が、地下に粘土層がある野原になぜか「杉苗を植えたい」と言い出したことを契機に、このような関係は変化していきます。土壌の関係で低くしか育たなかった杉林は、しかしその可愛らしさのおかげで、子供たちにとっては最高の遊び場になったのです。

 ところが次の日虔十は納屋で虫喰ひ大豆を拾ってゐましたら林の方でそれはそれは大さわぎが聞えました。
 あっちでもこっちでも号令をかける声ラッパのまね、足ぶみの音それからまるでそこら中の鳥も飛びあがるやうなどっと起るわらひ声、虔十はびっくりしてそっちへ行って見ました。
 すると愕ろいたことは学校帰りの子供らが五十人も集って一列になって歩調をそろへてその杉の木の間を行進してゐるのでした。
 全く杉の列はどこを通っても並木道のやうでした。それに青い服を着たやうな杉の木の方も列を組んであるいてゐるやうに見えるのですから子供らのよろこび加減と云ったらとてもありません、みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐるのでした。
 その杉の列には、東京街道ロシヤ街道それから西洋街道といふやうにずんずん名前がついて行きました。
 虔十もよろこんで杉のこっちにかくれながら口を大きくあいてはあはあ笑ひました。
 それからはもう毎日毎日子供らが集まりました。

 ここで子供たちは、「みんな顔をまっ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐる」のです。あまりの喜びに、子供たちは我を忘れて興奮してしまっており、これはお話の冒頭では、自分たちがばかにして笑っていた虔十の、興奮を抑えられない様子そのものに化しているわけです。
 すわなち、当初は虔十だけがこの「本統のさいはひ」を感じることができて、そのために彼は皆にばかにされていたのですが、彼が杉林を作ったおかげで、子供たちもその「さいはひ」を体感できるようになり、虔十と同じく我を忘れて喜べるようになったのです。

 つまり、「虔十公園林」という小さな人工林とは、そのままではごく限られた人しか感じとれないような、自然や生命の躍動、その美しさを、多くの人に感じとりやすい形に変換してくれる、巧妙な「翻訳装置」だったのです。
 生のままのアモルファスな自然の美は、そのままでは一部の人間にしか感受されないかもしれませんが、等高の杉が規則正しく植えられ、綺麗に枝打ちをされることで生まれた、幾何学的な文様の持つ美や律動性は、全ての子供たちにも一目瞭然だったのです。そして、いったんこの幾何学的リズムを身をもって体感できたからこそ、次いで今度は「杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」という本来の自然そのものが、実はどれほどの美と心地よさを湛えているのかということに気づくことができて、結局これは「何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へる」結果となったのです。

 一般には、「虔十公園林」という童話は、「デクノボー礼賛」として読まれることが多く、その見方によれば、これは「たとえ能力は劣っていても、それでも人のために良いことを行えることはあるのだ」という、逆説の不思議を描いたお話になります。
 しかし、上のように見てくると、話の本質は全く異なってきます。これは、誰も及ばない稀有な能力を備えた一人の男がいて、当初その能力は人に理解されなかったが、彼が作ってくれた「翻訳装置」のおかげで、他の人々もその能力を分かち持てるようになり、皆が「本統のさいはひ」を共に享受できるようになったという、一つの「英雄譚」なのです。
 それとともに作者賢治は、そのような装置を用いるか否かはともかく、自然や生命の躍動と美を感受し、自らもそれらと共に打ち震えることは、本来は全ての人々に開かれている喜びであり、これが普遍性を持った「本統のさいはひ」なのだということを、言おうとしたのだと思います。

 そして、このように考えてくると、「虔十」と「賢治」が、だんだんと重なり合って感じられてきます。
 ご存じのように、「兄妹像手帳」に賢治が残していたメモの中には、彼が自分の名前を「Kenjü Miyazawa」と記しているように見える箇所があり(右写真のようにuにウムラウトが付いている)、これはまさに「Kenju Miyazawaケンジュウ」と読めるものです。また、「ビジテリアン大祭」の草稿第一葉欄外には、「座亜謙什」という人名のようなものが書き込まれており、この「ザアケンジュウ」と読める名前も、「ミヤザワケンジ」に由来するものでしょう。
 すなわち、「ケンジュウ」という名前は、賢治が自らの「別名」としていたような節があるのです。

 そう思って、この「ケンジュウ」を主人公とした童話を見てみると、自然や生き物の素晴らしさに感動して、思わず周囲を驚かすような振る舞いをしてしまったり、またそれによって奇人変人のように思われていたというのは、まさに生前の賢治その人のことです。ですから、「虔十公園林」という作品は、賢治自身のある側面の、「自画像」と言ってもよいものでしょう。
 ではそうなると、虔十が作り上げて生涯をかけて大切にし、彼の名を後世に残すことにもなった「公園林」に相当する「装置」は、賢治の場合には何に当たるのかということが問題になります。虔十が公園林によって実現したように、それまでは自分だけしか感受できずにいたこの世界の素晴らしさを、多くの人に伝えるために、賢治が作ったものは何か……。

 それは明らかに、彼が書いたたくさんの詩や童話などの「作品」です。
 賢治という人は、自らの作品という魔法の「装置」を作ることによって、私たちのような一般人に対しても、この世界がどれほど神秘にあふれ、尽きせぬ美を湛えているかということを、わかりやすく教えてくれたのです。
 彼は、生前はあまり他人からは理解されなかった自らのその営みを、自分の別名を主人公として、寓話化してみせたのです。虔十が拵えておいた「装置」の真の意味が、人々によって心底から認められたのはその死後のことで、そこには名前を刻んだ石碑まで建てられましたが、賢治の場合も、その作品の魔法が多くの人によって本当に理解されるようになったのは、すなわちそれらが真の普遍性を獲得したのは、やはり彼の死後のことでした。
 そして、賢治の作品の石碑は、今や全国各地に建てられています。

 ということで、思わず「虔十公園林」の作品論にまで深入りをしてしまいましたが、賢治がこの童話で「本統のさいはひ」と言っていること、それは突き詰めれば「世界の美の感受と共振」と言えるかと思いますが、これもまた「銀河鉄道の夜」や「ポラーノの広場」と並んで、彼の考える究極の「幸福」の一つのあり方だったのだということを、あらためて私たちはしっかり押さえておく必要があると思います。
 それは、「銀河鉄道の夜」に象徴されるような、求道者的、禁欲的、自己犠牲的な生き方によって、はるか彼方に求める幸福とは対照的に、耽美的、享楽的、刹那的なものであり、今そこにあるものを一瞬にして感じとり身を浸すことにしかすぎませんが、それもまた実は、「本統のさいはひ」なのです。
 思えば私たちの知る賢治その人も、前者の側面だけではなく、後者も兼ね備え、多面的な魅力を放つ人でした。

 「ほんたうのさいはひ」、「いちばんのさいはひ」、「ほんたうのほんたうの幸福」、「あらゆるひとのいちばんの幸福」、「ほんたうの幸」、「まことのみんなの幸」……。表現は微妙に異なっても、これらは賢治の作品を読む上で、あるいは彼の思想を理解する上で、最も重要なキー・ワードの一つであるということには、誰しも異論はないでしょう。「あらゆるひとのいちばんの幸福」を実現することこそが、彼の究極の理想だったとも言えます。
 それでは、賢治の言うこの「ほんたうのさいはひ」とは、具体的にはどういうものなのか、彼は実際に何がどうなっている状態を目ざそうとしていたのかということが問題になってきますが、皆様もご存じのとおり、これがなかなか難しいのです。

 これについて考えてみるために、今回はまずこれらの言葉が、実際の作品の中でどのように現れるのかということを、確認してみます。
 『新校本宮澤賢治全集』の「別巻」には、賢治の全作品に登場する語句を網羅した、とても有難い「索引」が掲載されていますが、これで「幸福」「幸」「さいはい」「さいはひ」「さいわい」「さひはひ」「しあはせ」「しあわせ」という語句を検索し、それぞれの作品名を赤字で付記すると、下のようになります。索引の丸数字は『新校本全集』の巻数を、正体数字はその「本文篇」のページ数、斜体数字は「校異篇」のページ数を表しています。「銀河鉄道の夜」に関しては、題名を省略して「初期形一」「初期形二」「初期形三」「最終形態」とだけ記しています。

索引1

索引2

索引3

索引5

索引6

 画像の2枚目以降では、「銀河鉄道の夜」に関しては作品名の付記も省略しましたが、第10巻「本文篇」のp.16-28が「初期形一」、p.111-131が「初期形二」、p.132-177、および同「校異篇」p.77-110が「初期形三」、第11巻「本文篇」のp.123-171、および同「校異篇」p.176-223が「最終形態」です。

 一見して明らかなように、「銀河鉄道の夜」における使用が目立って多いです。それ以外の作品としては、「貝の火」、「よく利く薬とえらい薬」、「手紙 四」、「虔十公園林」、「ポラーノの広場」があります。
 ここではまず、「銀河鉄道の夜」以外の作品を順に見てみます。

 「貝の火」には、「さいはひ」という言葉が次のように出てきます。

お父さんが腕を組んでじっと考へてゐましたがやがてホモイのせなかを静かに叩いて云ひました。
「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいはひなのだ。目はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな。」

 ここでは、宝珠とともに視力も失ったホモイをお父さんが慰めていますが、何が「一番さいはひ」なのだと言っているのかというと、ホモイが「慢心」ということの恐ろしさを、知ることができたことに対してです。

 次に、「よく利く薬とえらい薬」です。

 ところが近くの町に大三といふものがありました。この人はからだがまるで象のやうにふとって、それににせ金使ひでしたから、にせ金ととりかへたほんたうのお金も沢山持ってゐましたし、それに誰もにせ金使ひだということを知りませんでしたから、自分だけではまあこれが人間のさいはいといふものでおれといふものもずゐぶんえらいもんだと思って居ました。

 ここでは「にせ金使ひ」が、自分が金持ちであることをもって、「人間のさいはい」と思っています。

 「手紙 四」には、次のように出てきます。

けれども私にこの手紙を云ひつけたひとが云つてゐました「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである。チユンセがもし勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向つて進まないか。」

 ここでは、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」と言明され、さらに「それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」と断定されています。

 「虔十公園林」では、下のようになっています。

「こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでせう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するやうにしては。」
「これは全くお考へつきです。さうなれば子供らもどんなにしあはせか知れません。」
 さてみんなその通りになりました。
 芝生のまん中、子供らの林の前に
「虔十公園林」と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。
 昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向ふに小さいながら農園を有ったりしている人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。
 虔十のうちの人たちはほんたうによろこんで泣きました。
 全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本統のさいはひが何だかを教へるか数へられませんでした。
 そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみぢかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。

 ここに出てくる「本統のさいはひ」は、ちょっと他の例とは異なっていて、何が「さいはひ」なのかわかりにくいですが、「公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂、夏のすゞしい陰、月光色の芝生」などが、人々にもたらしてくれる「美の享受」ということかと思われます。

 最後に「ポラーノの広場」の草稿段階には「幸」が3か所、次のように出てきます。

「あぶなかったねえ、ほんたうにきみはそれでだったんだよ」

「ぼくらはみんなんで一生けん命ポラーノの広場をさがした。そしてぼくらはいっしょにもっとにならうと思った。」

「さうだあの人たちが女のことを考へたりお互の間の喧嘩のことでつかふ力をみんなぼくらのほんたうの幸をもってくることにつかふ。見たまへ諸君はまもなくあれらの人たちにくらべて倍の力を得るだらう。」

 上記に出てくる「幸」は、全てその後の推敲で削除されてしまうのですが、一番目のものは単に「幸運」という意味であるのに対して、二番目と三番目の「幸」は、広場の協同組合設立による、経済的・文化的な豊かさと友愛ということになるかと思います。

 次に「銀河鉄道の夜」は、初期形から順番に見ていきます。
 まず、「初期形一」。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」「あゝではさよなら。」博士はちょっとジョバンニの胸のあたりにさわったと思ふともうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。

 「初期形二」では、次のようになっています。

 ジョバンニはなんだかとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなって、殊にあの鷺をつかまへてよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をちらちら横目で見て愕いたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。」カムパネルラはさうは云ってゐましたけれどもジョバンニはどうしてもそれがほんたうに強い気持から出てゐないやうな気がして何とも云へずさびしいのでした。

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。
「あゝではさよなら。これはさっきの切符です。」博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。

 

 「銀河鉄道の夜」初期形三には、このように出てきます。

「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばんなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

 ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあはてゝほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけやうとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげやうと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。」

「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
 燈台守がなぐさめてゐました。
「あゝさうです。たゞいちばんのさいわひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るやうにさう答へました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」

「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」「あゝ、ぼくはきっとさうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいゝでせう。」「あゝわたくしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。」

「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福なそのひとのために!

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。「あゝではさよなら。これはさっきの切符です。」博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。

 そして最後に、「銀河鉄道の夜」最終形態では、次のようになっています。

「ぼくはおっかさんが、ほんたうにになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばんなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

 ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあはてゝほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。

「それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけやうとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげやうと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。」

「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
 燈台守がなぐさめてゐました。
「あゝさうです。たゞいちばんのさいわひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るやうにさう答へました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」

 ということで、検討のための材料は以上で揃ったのですが、ここまでの作業で時間がなくなってしまいましたので、すみませんが続きは次回にしたいと思います。尻切れトンボになってしまって、誠に申しわけありません。

 ただ次回に書こうと思っている事柄を、あらかじめ少し述べておきますと、賢治の言う「ほんたうのさいはひ」には、「手紙 四」から「銀河鉄道の夜」の「初期形一」→「初期形二」→「初期形三」→「最終形態」に至る系列と、「ポラーノの広場」に出てくるものと、「虔十公園林」と、それぞれニュアンスの異なった少なくとも三つの種類があるのではないかということ、そして私自身は、とりわけ「虔十公園林」に注目してみたい、ということです。

賢治と現代日本の死生観

 以前に「千の風になって」という記事において、賢治がトシとの死別の苦悩から救われていったのは、1924年7月頃になって、「死んだトシの存在を身近に感じられる」という心境に至ったことによるのではないか、ということを書いてみました。
 この記事では、当時の賢治が到達した心境が、現代日本の死生観にも共通するものがあるという例として、ひと頃流行した「千の風になって」という歌の歌詞や、哲学者の森岡正博氏が東日本大震災後に書いた「私たちと生き続けていくいのち」という文章を引用しました。森岡氏の文章の一部を再び引用させていただくと、「死者」についての氏の考えは、下の部分に最も象徴されています。

 しかし、人生の途中でいのちを奪われた人たちは、けっしてこの世から消滅したわけではない。その人たちのいのちは、彼らを大切に思い続けようとする人々によっていつまでもこの世に生き続ける。私たちの心の中に生き続けるだけではなくて、私たちの外側にもリアルに生き続ける。

 この中で、死者が「私たちの外側にもリアルに生き続ける」というところが、何より特徴的で印象的です。「死者が生き続ける」という表現が、単なる「比喩」ではないということを明らかにするために、わざわざ「リアルに」という言葉が用いられていますが、同じような事柄を、死者の側から歌っているのが、「千の風になって」だったわけです。

 最近、さまざまな形でこのような死生観――死者がこの世で私たちと一緒にいるという意識――に触れることが多いように感じるのですが、とりわけ現代の葬送儀礼の変化に、それは典型的に表れていると思います。

 日本では、江戸時代に幕府によって「檀家制度」が整えられて以来、葬式はそれぞれの「家」が所属する「檀那寺」が執り行い、遺骨は定まった墓地に埋葬するという方式が、昭和の時代までほぼ一貫していました。しかし最近になって、そのような枠組みにとらわれないさまざまな形の葬儀や遺骨の扱いが、行われるようになっています。

 たとえば、「手元供養」という方法は、遺骨(遺灰)の一部または全部を墓に納骨せずに遺族が手元にとどめ置いて、亡き人を偲ぶよすがにするというもので、納骨容器に入れて自宅の居間や仏間に安置するという方法もあれば、遺骨を入れたペンダントや、遺骨の一部を七宝焼きのように焼成したアクセサリーを身につけるというものもあります。たとえば「おこつ供養舎」という会社の「手元供養品」というページを見ていただくと、さまざまな種類の「遺骨アクセサリー」が掲載されています。
 いずれも、故人を「遠くに葬り去る」ということに抵抗感があったり、「いつも故人と身近にいたい」という気持ちが強い場合に、その思いを具現化する方法として行われているようです。
 こうすれば、折々に「墓参」をする時だけではなく、年中つねに「手元」で故人を感じていられるというわけですね。

 あるいは、最近は遺骨を墓地に埋葬せずに粉砕して散布する「散骨」という方法も、かなり一般的に行われるようになっています。海に撒く「海洋散骨」というのもあれば、ロケットに乗せて宇宙空間に打ち上げるという「宇宙葬」というものまであって、「小さなお葬式」という会社の「海洋散骨」のページでは、全国各地の海域に散骨するプランが提供されていますし、「銀河ステージ」という会社のサイトを見ると、「宇宙飛行プラン」「人工衛星プラン」「月旅行プラン」「宇宙探険プラン」などという各プランと、その料金も書かれています。

 ところで一見すると、遺骨をつねに見える身近な場所に置く「手元供養」と、遺骨を広大な場所に散布してしまってどこに行ったかわからなくする「散骨」とでは、全く正反対の方向を目ざしているように思えますが、実はこの二つが心の奥底ではつながり合っていることが、「千の風になって」の歌詞に表れています。

  千の風になって
              新井満(訳詩)
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって
畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように
きらめく雪になる
朝は鳥になって
あなたを目覚めさせる
夜は星になって
あなたを見守る

 歌詞の一番は、死んだ人はお墓にはおらず、「大きな空を吹きわたって」いるということを言っていて、これはまさに「散骨」のイメージですが、二番になると、そのように空間全体に行き渡っているからこそ、雪や、鳥や、星になって、「いつも生者のすぐ傍らに」いることができるのだ、ということが歌われています。
 「特定のどこにもいない」からこそ、「どこにでもいる」のです。

 これはちょうど賢治が、「トシの行方」を必死になって探しても何も得られず、結局「薤露青」において、「どこへ行ってしまったかわからない」ということを受け容れるとともに、トシの「声」をあちこちから聞くことができるようになったことと対応しているようで、興味深いところです。

 「手元供養」「散骨」「千の風になって」に表れている現代日本の死生観は、死後はまた六道のいずれかの世界において輪廻転生を繰り返していくという伝統的な仏教のそれとは、大きく異なっています。まあ、現代日本で仏教色が薄れているのは無理もないところかと思いますが、しかし、仏教を篤く信仰していたはずの賢治が、亡きトシに対して抱いていたであろうイメージが、仏教ではなくこの現代日本の死生観に近いというのは、とても不思議なことです。
 それはいったい何故なのだろうと考えたりしていましたが、その理由として最近一つ思うのは、どちらも「彼岸における故人の生」について、あまり考えようとしないところが共通しているのではないか、ということです。

 まず現代日本では、今も葬式の大半は「仏式」で行われており、故人が亡くなってまもない頃には、「今ごろはあの世でお父さんに会って思い出話をしてるかな」などと、「あの世」について話題にすることもあります。
 しかし、本当に「地獄」や「極楽浄土」や「天界」などというものがあって、人間が死んだらそのどこかで新たな生を送るのだと心から信じている人は、今やごく少数になっているのが現状でしょう。多くの現代人が「死後」について抱いているイメージとしては、せいぜい「安らかに眠っている」というくらいで、「彼岸」や「あの世」の存在と、そこで死者が送っている「生」を、具体的に思い描いている人は、はたしてどれくらいいるでしょうか。

 そもそも、仏教にかぎらずキリスト教でもイスラム教でも、その他ほとんどの宗教では、生きているうちに良いことをした人は死後に「天国」のような素晴らしい場所に行ける一方、悪いことをした人は「地獄」のようなひどい場所で苦しい目に遭う、という教えがあります。このような教えが果たしている役割の一つは、「だから悪いことはせず、良いことをしましょう」と、生きている人に倫理を説くということがあるでしょう。そして、良いことをしていると自覚している人にとっては、この教えは「死の恐怖」を軽減してくれる効用もあります。
 それに加えてもう一つ、宗教がこのように死後の世界を想定することの効用としては、「遺された人の悲しみを和らげる」ということもあるように思います。大切な人を亡くしてしまって、遺族や親しかった人たちは悲しくて仕方がないけれども、故人はきっと天国に行って新たに安らかな生を送っているに違いないと信じることができれば、遺された人としては、「それならば自分は辛くてもこの人の死を受け容れよう」と思うことができるわけです。「別世界における死者の幸福」という救いによって、喪失の苦しみを緩和するのです。
 ところが、前述のように現代日本では、たとえ遺族であっても、「故人があの世で幸福に暮らしている」ということを、昔ほどには実感をもって信じることができなくなっているでしょう。このため、昔の人のように「別世界における死者の幸福」という救いと引き替えにして、喪失の悲しみに耐えるということができません。
 そこで現代人はその代わりに、「別世界」ではなく「この世界」に死者がとどまって、自分たちと一緒にいると想定することによって、死別の寂しさを乗り越えようとしているのではないでしょうか。

 翻って、宮澤賢治の場合も、トシの死後しばらくはその喪失の苦しみに打ちひしがれ、サハリンまで旅行をしたこともありましたが、その途上の「青森挽歌」において、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という考えに思い到ます。そしてこれ以後は、トシが天界に往生するように祈ったり、トシの次生における幸福を願ったりすることを、自らに禁じてしまったのです。この思想は、「〔手紙 四〕」のテーマとして引き継がれ、「銀河鉄道の夜」の底にも流れています。
 すなわち、ここで賢治もまた、「別世界における死者の幸福」という救いと引き替えにして、喪失の苦しみを和らげるということができなくなったわけです。そして、このために彼もまた、「別世界」ではなく「この世界」にトシの存在を感じることによって、最終的には救われていったのではないでしょうか。

 もちろん、賢治としては、何もそのように意図したわけではなかったのでしょうが。

 252行に及ぶ長大な「青森挽歌」の最後は、次にようして終わります。

     《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます

 これからサハリンへと向かう夜汽車の中、妹トシの死をめぐって延々と苦しい思索を続けてきた賢治が、この時とりあえずたどり着いた結論が、これでした。
 以前「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事で書いたように、この作品において《二重括弧》で印付けられたテキストは、作者がこの時「幻聴」として耳にした言葉だったと考えられます。したがって、ここに現れる《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉は、それまで思索に沈潜していた賢治にとっては、その意識を破って突然にどこかから降ってきた「メッセージ」として、体験されたことでしょう。そして、その意味深長な内容に鑑みれば、これは当時の賢治にとって、「如来」か誰か超越的な存在から与えられた、一種の「啓示」のように響いたのではないかと思います。

 この言葉を受けとった賢治は、「ああ わたくしはけつしてさうしませんでした」と弁明し、さらに「妹だけが救われるように祈ったことは一度もない」と、付け加えます。
 しかしここで賢治の答えが、「さういのりはしなかつた!」と自信を持って確言するのではなくて、「…とおもひます」と気弱な表現になっていることは、目を引きます。この賢治はまるで、生徒が教室で不意に先生から指名されて、どぎまぎしながら答えているようにも見えます。
 自分がそう祈ったのか祈らなかったのか、本人ならわかっているでしょうに、なぜ彼はこんなにうろたえているのでしょうか。

 そこでこのやり取りをもう少し細かく見てみると、彼が狼狽している理由が、何となくわかってくる感じがします。実はここで幻聴の主は、「けつしてひとりをいのつてはいけない」と言っているのに対して、賢治は、「あいつだけがいいとこに行けばいいと/さういのりはしなかつた…」という風に、ほんの少し焦点をずらして応答しているのです。
 確かに賢治は、「妹だけがいい所に行き、他の人は行かなくてよい」などと祈ったことは、一度たりともなかったでしょう。しかしここで彼に提示された命題は、「ひとりをいのつてはいけない」だったのです。妹が亡くなってからの賢治は、もちろん他の人のことを祈ることもあったでしょうが、おそらくその厖大な時間を、「たつたひとりのみちづれ」である妹の死後の行方について心を悩ませ、その幸いを祈ることに、費やしていたのではないでしょうか。彼が、自分の妹という「特定の一人」のことを祈っていた事実は、否定しようがありません。
 賢治はそれを自覚していたので、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という厳しい指摘によって、まさに己れの痛いところを突かれたのだと思います。そして動揺しながらも咄嗟に、「でも、あいつだけが、とは祈っていないと思う」と返答するしかなかったのだと思うのです。
 これは些細なことのようですが、賢治は信仰においてこういう細部にもこだわる潔癖さを持つ人だったので、彼がこの場でこの答えを返したことで、己れを無罪放免にできたとは、到底思えません。
 以後この問題は、彼の心に深く刺さる棘となって、彼に解決を迫りつづけることになったでしょう。

 私が思うに、トシの死後ずっとその輪廻転生先について心を悩ませていた賢治は、自分が肉親の情にとらわれてひたすら「ひとり」のことばかり考えつづけていることに対して、すでにこの時点までにかなりの葛藤を抱きつつあったのではないでしょうか。
 その葛藤の由来は、「いつまでもそんなことばかり考えていても、どうにもならないじゃないか」とか、「この頃の俺は本当にどうかしている」というような、現実的理性の声でもあったでしょうし、「個人の幸福ではなく、世界ぜんたい、全ての衆生の幸福を追求すべし」という、彼の本分たる大乗仏教的倫理観との齟齬にもあったでしょう。
 そしてまたしても「ひとり」について考える「青森挽歌」の、長く苦しい思索による疲労が極限に達した時、彼はもはやそのような内心の矛盾を、意識下に抑圧しておくことができなくなったのでしょう。そしてその矛盾を破るべく彼の「超自我」からの声は、仏教的な装いをまとい、まさに超越的な「幻聴」として彼を襲ったのだと思います。

 そしてこれ以降、トシの死をめぐる賢治の苦悩には、さらにもう一つの要素が追加されることとなりました。それまでもテーマとなっていた、「トシは今どこにいて何をしているのか」という懸案に加えて、そういった疑問に心を悩ませつつ、なおかつ同時に「けつしてひとりをいのつてはいけない」という新たな命題をも顧慮しなければならないという、まさに「ジレンマ」を背負いこんだのです。

 この命題は、その後の賢治の作品においても探求が続けられます。
 賢治がサハリンから帰って書いた「〔手紙 四〕」においては、これは次のように変奏されます。

チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいていゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。

 また、「銀河鉄道の夜」(初期形第三次稿)では、「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人」が、次のように言いました。

「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてさうなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」

 これは、その後ずっと賢治に課せられつづける宿題となったのです。

 しかしあらためて考えてみると、そもそもなぜ、「ひとりをいのつてはいけない」のでしょうか?

 《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉は、前半部分に表れている輪廻転生観からしても、明らかに仏教的な命題であると言えるでしょう。しかし、本当に仏教ではそのように考えられているのでしょうか。
 「故人の冥福を祈る」とか、「誰それの供養のためにお経を上げる」とか、特定の誰か一人のために祈りを捧げるという行為は、仏教的にも広く行われている事柄ではないでしょうか。

 これに関して、まずは賢治が深く信仰していた日蓮の教えを見てみましょう。
 すると日蓮自身は、近親者を亡くした遺族が、故人の死後の幸いを祈るのは当然のことであり、またそれは善いことでもあり、大いに行うよう積極的に勧めていたことがわかります。

 例えば次の書簡は、10年前に父を亡くした南条時光という信徒が、身延山にいる日蓮に「かしら芋」を贈ったことに対して、日蓮が書いた礼状です。(『上野殿御返事(阿那律果報由来)』)

〔前略〕
此の身のぶのさわは石なんどはおほく候。されどもかゝるものなし。その上夏のころなれば、民のいとまも候はじ。又御造営と申し、さこそ候らんに、山里の事ををもひやらせ給ひてをくりたびて候。所詮はわがをやのわかれをしさに父の御ために釈迦仏・法華経へまいらせ給ふにや。孝養の御心か。
さる事なくば、梵王・帝釈・日月・四天その人の家をすみかとせんとちかはせ給ひて候は、いふにかひなきものなれども、約束と申す事はたがへぬ事にて候に、さりともこの人々はいかでか仏前の御約束をばたがへさせ給ふべき。もし此事まことになり候はば、わが大事とおもはん人々のせいし(制止)候。又おほきなる難来るべし。その時すでに此の事かなうべきにやとおぼしめして、いよいよ強盛なるべし。
さるほどならば聖霊仏になり給ふべし。成り給ふならば来りてまほ(守)り給ふべし。其の時一切は心にまかせんずるなり、かへすがへす人のせいし(制止)あらば、心にうれしくおぼすべし。恐々謹言。

 すなわち、時光が忙しい中をわざわざ日蓮に贈り物をしたのは、亡き父への別れ惜しさから、父の供養として釈迦仏・法華経に捧げたのであって、その行ないは時光の孝養心の表れであると、日蓮は解釈しています。そして、時光がその心がけで信仰に励むならば、必ずや父の聖霊は成仏するであろうこと、そして成仏したならば息子である時光のところへ来て、時光を守護してくれるだろうと述べ、励ましているわけです。
 これを賢治の場合にあてはめてみれば、トシへの供養を贈る先としては、「日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対服従致します」(書簡177)と彼自らが帰依した田中智学に、すなわち国柱会に贈るべきだということになるでしょう。そして実際、賢治がトシの死後まもなく国柱会あてに「金壱百円」を贈ったことが、この年12月23日付け『天業民報』に掲載されています(「●金壱百円也 岩手宮沢賢治殿/(右は令妹登志子遺志ニ依リ)」)。賢治の農学校の月給が80円だった頃のことです。
 日蓮の書簡の言葉を信じれば、このような追善供養をして信仰に励めば、トシは必ず成仏できるはずですし、成仏したら賢治のところへ来て、彼を守護してくれるに違いありません。

 また、次の書簡は、富木常忍という下総の信徒が、母を亡くした翌月にその母の遺骨を首に懸けて、はるばる身延山まで日蓮を訪ねてきたという出来事を受け、その信徒の帰国後に送ったものです。(『忘持経事』)

〔前略〕
離別忍び難きの間、舎利を頸に懸け足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。其の中間往復千里に及ぶ。国々皆飢饉して山野に盗賊充満し、宿々粮米乏少なり。我身は羸弱にして所従亡きが若く、牛馬も期に合せず。峨々たる大山重々として、漫々たる大河多々なり。高山に登れば頭を天にウち、幽谷に下れば足雲を踏む。鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非ざれば越え難し。眼は眩き足は冷ゆ。羅什三蔵の葱嶺・役の優婆塞の大峰も只今なりと云云。
然る後、深洞に尋ね入りて一庵室を見る。法華読誦の音青天に響き一乗談義の言山中に聞ゆ。案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五躰を地に投じて合掌し、両眼を開き尊容を拝するに、歓喜身に余り心の苦み忽ち息む。我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬へば、種子と菓子(このみ)と、身と影との如し。教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道なり。吉占師子・青提女・目ケン尊者は同時の成仏なり。是の如く観ずる時無始の業障忽ち消え、心性の妙蓮は忽ちに開き給ふか。然して後に随分仏事を為し、事故無く還り給ふ云云。恐々謹言。

 すなわち富木常忍は、母との離別に耐えかねて、母の遺骨を首に懸け、困難な道を足に任せて下総から身延まで馳せ参じ、日蓮と感動の再会を果たします。そして遺骨を釈尊の宝前に安置し五体投地をして合掌し、目を開いて釈尊の像を拝むと、歓喜が身に余り心の苦しみも消えて、「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり」という、亡き父母との一体感に打たれたというのです。そして日蓮の記述は、「親子の同時成仏」という事柄にまで至ります。
 常忍はこの法悦的体験の後、「随分仏事を為し」とありますが、その中には苦労して持参した母の遺骨を、身延山に埋骨するという手続きも含まれていたはずです。
 これを賢治の場合にあてはめてみれば、富木常忍の身延山行きは、「トシの遺骨を国柱会まで持参して納骨する」ということに相当するでしょう。ちなみに、国柱会から授けられたトシの戒名は、死の翌年1月9日付けになっていますから、この時に納骨が行われたと考えるのが、まずは自然です。
 実際、ちょうど1月11日まで賢治は弟清六とともに東京に出てきていて、その間一時的に賢治は姿をくらましていたと清六は回想していますから、『新校本全集』年譜篇は、「この時の(賢治の)行動は明確ではないが、静岡県三保の国柱会本部へ行ったと推定される」としています(p.252)。ただし、国柱会への納骨については、同年の春に父政次郎と妹シゲが行ったというシゲの回想もありますので、「賢治は東京で納骨の手続きのみを行ない、遺骨は父とシゲが持参した」という堀尾青史氏の見解も、年譜篇には併記されています。
 どちらにしても、トシの遺骨が翌年春までに、遺族の手によって国柱会本部に納骨されたことは確かです。

 日蓮が死者の供養について説いた遺文は他にもありますが、管見のかぎりで典型的と思われた二つの例を挙げてみました。いずれにおいても日蓮は、特定の故人を思う遺族が供養の品を日蓮に贈ったり、あるいは遺族が納骨に来たりすることを賞賛し、そのような行ないは故人にとっても遺族にとっても価値あるものだということを、力説しています。「ひとりをいのる」ことを、積極的に肯定しているのです。
 そして、現に賢治はトシの死を受けて、当代における日蓮の代理とも考えた田中智学=国柱会のもとへ、日蓮が書いたように追善供養を贈り、また納骨も行いました。
 賢治が日蓮の言葉を本当に信じていたならば、これだけのことをしたからにはもう、トシの成仏を確信して何も思い悩む必要はないはずですし、自分がこうやってトシという「ひとり」の肉親のことを切に祈っていることに対して、何ら後ろめたい思いを抱くこともないはずです。

 それなのに、いったい賢治はなぜ、「けつしてひとりをいのつてはいけない」などと考えたのでしょうか。

 ここで日蓮から目を転じて、賢治もある時期まで深く信仰していた、浄土真宗の教えを見てみましょう。
 親鸞の言葉を弟子が書き記した『歎異抄』の「第五条」には、次のように書かれています。

一 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。
 そのゆへは、一切の有情は、みなもつて世々生々の父母・兄弟なり、いづれもいづれも、この順次生に、佛になりて、たすけさふらうべきなり。
 わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念佛を廻向して、父母をもたすけさふらはめ。ただ、自力をすてて、いそぎ(浄土の)さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと云々。

【現代語訳】 この親鸞は、亡き父や母の孝行のために追善供養のお念仏を申したことは一度もありません。
 そのわけは、すべてのいのちあるものは、遠いむかしから今まで、いくたびとなく生まれかわり死にかわりするあいだに、あるいは父母となり、または兄弟姉妹となってきました。したがって、この世のいのちがおわって、浄土に生まれて仏になったうえで、すべてのいのちあるものを助けなければなりません。
 この念仏が、もしわたしが善い行ないをつみ重ねた上で得たのであれば、その念仏の功徳を父や母にさしあげて、お助けすることもできましょう。しかし、この念仏はわたしの力で得たものではありません。
 そういうことですから、自力の思いをすてて、すみやかに浄土に生まれてさとりを開いたならば、父母や兄弟姉妹たちが、迷いの世界に生まれて、どのような苦しみの中にあろうとも、仏の持つ不思議な力によって、まずこの世で縁のあったものから救ってさしあげます。
 このように、聖人は仰せになりました。
                   (角川ソフィア文庫『歎異抄』より)

 親鸞は、自分の父母のために祈ったことは一度もないと言い、その理由として、(1)限りない時間をかけて輪廻転生を繰り返すうちに、全ての生物が一度は自分の父母兄弟となったことがあるのだから、かりに今生だけの肉親を救ったとしても、そのことに本質的な意味はない、(2)自力で父母を救おうなどというのは思い上がりにすぎず、我々はただ他力による浄土往生を願うほかはない、という二点を挙げています。
 だから我々が目ざすべきことは、まずは「いそぎ(浄土の)さとりをひらき」、その後に、「神通方便をもて、まづ有縁を度すべき」だとしているのです。先日の「なぜ往き、なぜ還って来たのか(3)」という記事に出てきた言葉にすれば、まずさっさと「往相」を遂げて、その後「還相」によって皆を救済せよ、ということですね。

 この親鸞の言葉を見ると、「一切の有情は、みなもつて世々生々の父母・兄弟なり」という部分は、明らかに賢治の命題の中の「みんなむかしからのきやうだいなのだから」というところに、対応しています。
 そして、親鸞は「ひとりをいのつてはいけない」などと、表面上は禁止の言葉までは述べていませんが、自分の力で「祈る」などという行いは、親鸞の立場からすれば「本願他力の意趣にそむく」ことになるでしょう。すなわち、親鸞からすれば、「ひとりを」であろうと「一切の有情を」であろうと、いずれのために「祈る」ことも、煩悩具足の我らにとっては、身の程知らずの愚行にすぎないのです。

 ということで、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という、「青森挽歌」に現れてその後しばらく賢治の課題となった言葉は、親鸞の思想に由来しているのではないかと、私は考えるのです。
 賢治は、親鸞には幼い頃から親しんでいましたから、その考えや言葉がふと心の底から湧き出してくるということは、可能性としてはありえることかもしれません。しかしそれにしても、上に引用したような日蓮の考えをしっかりと胸に刻んでおれば、何も己れの針路を、「けつしてひとりをいのつてはいけない」などという方向に定めることはなかったのではないかとも思うのです。

 いったいなぜ当時の賢治は、まるで日蓮の教えから離れるかのようにして、むかし信じた親鸞的な思想に回帰するに至ったのでしょうか。

 この疑問への答えとして、私が考える一つの仮説は、トシの死後しばらくの間の賢治は、かなり深刻な信仰上の迷いに陥っていたのではないか、というものです。
 それは例えば、「宗谷挽歌」における、「私たちの行かうとするみちが/ほんたうのものでないならば…」とか、「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら…」という箇所にも、表れているのではないかと思います。

 そして、それにも増して私がどうしても考えずにいられないのは、トシの死後の宮澤家の状況です。
 もちろん、家族全員がトシの死を深く悲しんでいたことでしょう。しかし、浄土真宗に深く帰依する父や母や妹たちは、トシの死後の「行方」などについて思い悩むこともせず、そんなことは他力に任せ、ただ阿弥陀如来の回向だけを信じて、家族一緒に静かに仏壇に向かい、南無阿弥陀仏を唱えていたことでしょう。
 これに対して、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」を失ってしまった賢治には、もはや家庭内に「同じ立場で」悲しみを共有できる同志はありませんでした。たった一人、二階の自室の「御本尊」の前で、南無妙法蓮華経を唱えるしかなかったのです。そして、悲しめば悲しむほど、賢治の孤立は深まり、苦悩も大きくなっていったでしょう。

 そもそも、深い心の傷を負った人間に、回復の希望を与えうるものがあるとすれば、それは周囲の人々との「つながり」です。逆に言えば、深く傷ついた人にとって、最も恐るべき事態は、「孤立」です。
 トシの死後の宮澤家において、これは家族の誰の悪意によるものでもなかったのですが、賢治は自ずと宗教的孤立に追い込まれざるをえませんでした。唯一人でトシを悼むしかない賢治の目から見ると、自分以外の家族は皆、ともに悲しみを分かち合い、おそらく真宗的な諦観も漂わせながら、淡々と日常を送っていたことでしょう。
 その状況が生まれた原因は、法華経や日蓮の教義にあるわけではなく、ただ賢治の中で、深い悲しみと孤立が悪循環を形成していただけなのですが、賢治にとっては、この己れの苦しみは自らの信仰に由来する問題なのかと、ふと感じることもあったでしょう。そのような迷いが、「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら…」というような言葉を生じさせる要因にもなったのではないかと、私は思うのです。

 そして、トシの死の前後の賢治を襲ったそのような宗教的苦悩が、前回に書いた「往相」と「還相」という真宗的な物語の構造や、今回述べたような親鸞的思想への揺り戻しを、彼にもたらしたのではないかと、そんな風に私は考えてみるのです。

オホーツク行という「実験」

 賢治が1923年(大正12年)夏にサハリンに旅した目的は、表向きは農学校の教え子の就職斡旋のためということでしたが、この間に書かれた「青森挽歌」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」など長大な挽歌群を見ると、この旅が妹の死と深く関連したものであったことは、明らかです。
 その「関連」の中身について、『新校本全集』年譜篇は(堀尾青史氏による『旧校本全集』の年譜を引き継ぎ)、この旅の意味を「亡くなった妹トシとの交信を求める傷心旅行」と表現し、鈴木健司氏は「《亡妹とし子との通信》という隠された目的のあったことも確かなことだ」(『宮沢賢治 幻想空間の構造』p.175)と記しておられます。

 私もこれらの説のとおり、この旅における賢治がトシとの通信あるいは交信を切望し、妹が今どこでどうしているのか、何としても知りたいと願う気持ちがあったのは確かだろうと思います。しかし、私が思うところはそれにとどまらず、賢治がここで本当に求めていたのは、トシとの通信だけではなく、「トシの後を追って自分も妹と一緒に行く」ということだったのではないかと、ひそかに思っているのです。
 今日は、私がそのように考える理由について、トシの死の前、当日、死の後、という順に賢治の作品を追って、整理してみたいと思います。

 その前に確認しておきたいのは、ここで私が言いたいのは、「賢治は妹の後追い自殺をしようと企てていた」ということではありません。ひょっとしたら、この世に残された者から見ると自殺と映るような結果になったのかもしれませんが、賢治の本来の意図は、そうではなかったのです。
 たとえば北方のどこかに、「異空間への接続ステーション」があって、死ぬことなく「死後の世界」に行ける可能性があるかもしれません。実際、「ひかりの素足」でも「銀河鉄道の夜」でも、主人公は大切な人とともに死後の世界へ往って、また還ってきています。
 などと言うと、いい大人が旅行を計画した動機としては、かなり荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、しばしば異界と「交信」し、異空間の実在を信じていた賢治にとっては、これはそんなに無茶な話ではなかったろうと思うのです。少なくとも、「ある種の事を行えば、それに応じた結果が期待される」という意味において、この旅は賢治の意識の中で、宗教的には一つの「儀式」と言えるものだったでしょうし、自然科学的には一つの「実験」と言えるものだったのではないかと、私は思うのです。

1.トシの死の前

 以前の記事にも書いたことですが、賢治は1922年11月のトシの死の少なくとも数ヶ月前から、もしも妹が臨終を迎える時が来たら、自分もともに「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と考えていたのではないかと、私は思っています。

 ところでこの、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」という言葉は、1922年8月に書かれたと推定される「イギリス海岸」の中に、登場するものです。生徒を引率してイギリス海岸に来た賢治は、もしも泳いでいる生徒が溺れた時に自分が取る行動として、次のように思っていたというのです。

もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。

 生徒に対する賢治のこのありあまるほどの責任感に、もちろん嘘はなかったのでしょう。しかし、あまりにも大仰なこのような言葉が、ふと彼の口をついて出てきた背景には、当時下根子桜の別宅で着実に死へと近づきつつあった妹の存在があったはずだと、私は思うのです。
 賢治は、実はトシに対してこそ、常々このように思い詰めていたのではなかったでしょうか。

 また、童話「双子の星」において、チュンセとポウセが彗星にだまされて、天空から海の底に落とされてしまう箇所には、次のような言葉があります。

 二人は青ぐろい虚空をまっしぐらに落ちました。
 彗星は、「あっはっは、あっはっは。さっきの誓ひも何もかもみんな取り消しだ。ギイギイギイ、フウ。ギイギイフウ。」と云ひながら向ふへ走って行ってしまひました。二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです。

 「双子の星」のテキストには、吉田源治郎著『肉眼に見える星の研究』と共通した表現が見られることから、その現存稿が書かれたのは、1922年9月の同書刊行以後だろうという説があります(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の中地文氏による「双子の星」解説)。そうであれば、この作品の完成も、トシの死のほんの少し前のことになります。
 そして、この作品における「双子」という存在が、賢治とトシという兄妹をモチーフの一つとしていることは多くの人の認めるところであり、その二人が「どこ迄でも一諸に落ちやうとした」と賢治が記していることの意味は、やはり見逃すことができません。
 ここでも賢治は、トシが死ぬ時にはその肱をしっかりとつかみ、「どこ迄でも一諸に落ちやう」と、考えていたのではないでしょうか。

 さらに賢治には、もっと直接的に、一緒に死後の世界に至る「兄弟」をテーマとした作品もあります。吹雪における兄弟の遭難を描いた童話「ひかりの素足」では、兄の一郎は弟の楢夫にぴったりと寄り添い、弟を献身的に守りながら、二人一緒に「あの世」にたどり着きますが、この作品の第一形態が成立したのは、1922年前半頃までと推定されています(『宮沢賢治の全童話を読む』所収の杉浦静氏による「光の素足」解説)。
 やはりトシの死が近づきつつあった年に書き始められたこのお話も、その構想そのものが、「妹に付き添って死後の世界へも同行し、その身を守ってやりたい」という賢治の願望を、反映したものだったのではないでしょうか。

 じりじりと死の影に迫られつつある妹を見守りながら、1922年という年の賢治は、ずっと一人でこういうことを思い詰めていたのではないかと、私は思うのです。
 しかしいずれにせよ、愛する妹の最期の日は、否応なくやってきました。 

2.当日 

 1922年11月27日、トシの臨終の床で、何が起こったでしょうか。賢治は心のどこかでは、たとえば妹と一緒に兄も仏に導かれて別の世界に至るような、何かそんな超自然的な出来事を期待していたのかもしれません。
 しかし現実には、そのようなことは起こりませんでした。「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」に記録されいるような会話がおそらく行われ、その後トシは一人で旅立って行ったのです。

 しかしここで、「松の針」に出てくる次のような部分には注目しておくべきだろうと、私は思います。

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ

 賢治は、妹が「けふのうちにとほくへさらうとする」こと自体は不問にする一方で、「ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか」ということを、問いつめているのです。
 思えば「永訣の朝」の冒頭も、「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」でした。このような場合、普通ならば「死なないでくれ」と訴えるのがお決まりのパターンでしょうが、賢治はその日のうちに妹が死んでしまうそのこと自体は、じたばたせずに受け容れていたのです。
 そしてその一方で賢治は、妹が「ひとりでいかうとする」ことには、異議を唱えるのです。「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ/泣いてわたくしにさう言つてくれ」と懇願し、自分が妹の死に同行する可能性を、何とかして引き出そうとするのでした。

 このような賢治のスタンスは、次の「無声慟哭」でも同様です。

わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

 上で太字にしてみたように、ここでも賢治は、妹が「ひとり」行こうとすることを、どうしても認めようとしません。

 つまり、賢治は妹の「死」は認めつつも、「ひとりで」を認めないのです。
 これこそ、賢治がトシの死のかなり前から、「妹が死ぬ時には同行しよう」とずっと思い詰めていたことの表れだろうと、私は思うのです。 

3.死の後 

 しかし、トシは結局、「ひとりで」行ってしまいました。残された賢治の喪失感ははかりしれないものだったでしょう。悶々として一篇の詩も生まれない日々が、半年あまりも続きました。
 そのような月日の果てに企画されたのが、翌年夏のサハリン旅行でした。トシの死の当日まで抱えていた上のような賢治の思いは、この時どうなっていたでしょうか。

 サハリン行への途上で書かれた作品のうち、その賢治の気持ちを最もはっきりと表しているのは、「宗谷挽歌」です。「妹の死に同行する」ことをその死の当日までずっと願いつづけていた賢治の思いは、その死後8ヵ月あまりを経てもなお綿々と続いていたことが、ここで明らかになります。
 その冒頭部分を、下に引用します。

   宗谷挽歌

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。 

 宗谷海峡を渡る船の甲板にいる賢治は、もしも妹が自分を呼んだなら、「私はもちろん落ちて行く」と決意しています。
 また、上の最後の引用行においても、「どうして私が一諸に行ってやらないだらう」と書いています。
 まさに賢治はここでも、トシと一緒に「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と思っているのです。
 さらに、上記のしばらく後の部分には、次のような箇所もあります。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 「われわれが信じわれわれの行かうとするみち」とは、法華経信仰に違いありませんが、もしもそれが「まちがひであったなら」自分に知らせに来てくれと、賢治はトシに頼んでいます。もし賢治がそれを聞いたなら、「私はもちろん落ちて行く」という決意を実行に移すでしょうが、そのまま「まっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、自らに言い聞かせています。
 このような行動は、第三者から見れば「自殺」以外の何ものでもありませんが、賢治もそれは意識しているので、「宗谷挽歌」の文中には、自分が船員から自殺者と疑われているのではないかと、気にする箇所も出てくるわけです。

 このようにして、妹のもとへ行けるなら死んでもよいという決意のもと、「さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち/私は試みを受けやう」という心構えを持って、賢治は宗谷海峡に臨んだわけです。
 さかのぼれば、前日の「青森挽歌」において、すでに賢治は次のように書いていました。

(宗谷海峡を越える晩は
 わたくしは夜どほし甲板に立ち
 あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
 からだはけがれたねがひにみたし
 そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

 この言葉のとおり、賢治は宗谷海峡を越える晩に「夜どほし甲板に立ち」、何かが起こることを期待したのです。この「挑戦」こそ、賢治にとっては一つの「儀式」であり、「実験」だったのだと思います。
 しかし結局、賢治が期待したような出来事は、この海上では起こりませんでした。海を渡った賢治は、サハリンに到着します。

 そして、サハリンの玄関口である大泊(ロシア名コルサコフ)の港から、彼はまた鉄道に乗って、一路北を目ざします。そして、当時の「樺太東線」の終着駅である、栄浜(ロシア名スタルドブスコエ)の駅に降り立ちました。
 下の地図で、マーカーを立ててある場所が栄浜です。

 私が推測するには、賢治がこの旅行において、宗谷海峡に続いてもう1ヵ所「何か」を期待して臨んだ地が、この栄浜だったのではないかと思うのです。
 この場所は、当時の日本において、鉄道で行くことのできる最北の地点でしたが、この「最果ての浜辺」というロケーションにも、何らかの思い入れがなされていたではないでしょうか。

 賢治はその浜辺に出て、オホーツク海と向かい合い、「オホーツク挽歌」を書くのですが、このテキスト中に出てくる「仮眠」に対して、香取直一氏と鈴木健司は、「《亡妹トシとの通信》を求めた意志的な行為」と解釈しておられます(香取直一「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」および鈴木健司「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」)。私もこの着眼に、同感です。
 最果ての浜辺で、貝殻を口に含んで行った「仮眠」は、賢治によってなされた次なる「儀式=実験」だったのだろうと、私は思うのです。

 「オホーツク挽歌」という作品は、本文中の二つの空白行によって、三つの部分に分かたれていますが、その二番目の部分を、下に引用します。

白い片岩類の小砂利に倒れ
波できれいにみがかれた
ひときれの貝殻を口に含み
わたくしはしばらくねむらうとおもふ
なぜならさつきあの熟した黒い実のついた
まつ青なこけももの上等の敷物と
おほきな赤いはまばらの花と
不思議な釣鐘草とのなかで
サガレンの朝の妖精にやつた
透明なわたくしのエネルギーを
いまこれらの濤のおとや
しめつたにほひのいい風や
雲のひかりから恢復しなければならないから
それにだいいちいまわたくしの心象は
つかれのためにすつかり青ざめて
眩ゆい緑金にさへなつてゐるのだ
日射しや幾重の暗いそらからは
あやしい鑵鼓の蕩音さへする

 この18行は、「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」という自らの行為への、注釈になっています。その仮眠の理由を、賢治はエネルギーの恢復のためとか、心象がつかれているからなどと説明していますが、しかしその本当の目的は、眠っている間にトシのもとへと行ってくることだったのではないかと、私は思うのです。
 それはちょうど「銀河鉄道の夜」において、ジョバンニが天気輪の丘で「仮眠」に入り、その間に死んだカムパネルラとともに異界を旅してきたことに相当します。この時のオホーツクの浜辺における賢治の仮眠は、「銀河鉄道の夜」におけるジョバンニのそれの、原型とも呼べるものだったのではないでしょうか。

 「オホーツク挽歌」における賢治のこの仮眠が持つ意味について考えるには、この作品と童話「サガレンと八月」との関係に注目する必要があるでしょう。
 鈴木健司氏は、「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」の二つが「ネガとポジの関係」にあると指摘し、さらに踏み込んで「オホーツク挽歌」の仮眠において賢治が体験した内容が、「サガレンと八月」として作品化されたと論じておられます。
 両作品における舞台設定の共通性を見ても、これは非常に説得力のある仮説であると、私も思います。しかし、鈴木氏が栄浜における賢治の「仮眠」についてここまで鋭く論じられながら、その仮眠の目的が、《亡妹トシとの通信》を行うことだったと結論づけておられるところは、私としてはやや物足りなく感じてしまうのです。
 「サガレンと八月」が、<異界へ行く物語>であることに鑑みれば、ここにおいて賢治が期待していたことも、単なる「通信」にとどまらず、「身をもって異界へ行く」ことだったと解釈すべきではないでしょうか。
 それは、「サガレンと八月」において海の底に連れ去られたタネリの運命について考えることによっても、浮き彫りにされます。

 「サガレンと八月」で少年タネリは、母親の与えた禁忌を破った結果、恐ろしい犬神によって海の底に連れて行かれ、蟹の姿にされて「チョウザメの下男」として幽閉されます。
 ところでサハリンという島の形は、日本では「鮭」の姿に喩えられますが、ロシアにおいては、「チョウザメ」の形と言われているのです。下記は、チェーホフの『サハリン島』からの引用です。

 サハリンは、オホーツク海中にあつて、ほとんど1000露里に亙るシベリアの東海岸と、アムール河口の入口とを大洋から遮断してゐる。それは、北から南へ長く延びた形をしてゐて、蝶鮫を思はせる格好だ、と言ふ著述家の説もある。(岩波文庫版上巻p.40)

 サハリンを蝶鮫にたとへることは、南部の場合は殊にふさはしく、全く魚の尾鰭にそつくりである。尾の左端はクリリオン岬、右は――アニーワ(亜庭)岬と呼ばれ、その間の半円形をなした入江を――アニーワ湾といふ。(岩波文庫版上巻p.248)

サハリンとチョウザメ  このチョウザメの喩えは、右の図をみていただければ一目瞭然です。島全体のスリムさは、鮭よりもチョウザメの方がぴったりきますし、南端の尾びれの形といい、東に突き出た北知床半島(テルペニア半島)が背びれに対応するところといい、比喩の迫真性に関しては、鮭よりもチョウザメの方に軍配を上げざるをえません。
 賢治は、文語詩「宗谷〔二〕」において、中知床岬(アニーワ岬)のことを、「サガレン島の東尾」と表現していますから、サハリン島の形が「魚」に喩えられることを知っていたのは確かです。これが鮭だったのかチョウザメだったのかはわかりませんが、「サガレンと八月」というサハリンを舞台とした童話に、「チョウザメ」が出てくるのですから、これはサハリンという土地を象徴するものと解釈するのが自然でしょう。

 すなわち、「サガレンと八月」の主人公が、他ならぬ「チョウザメ」の下男として海の底に閉じ込められるという物語は、実は作者である賢治が、サハリンという土地に囚われ、その海底に沈められるという事態を、象徴していると解釈すべきでしょう。
 そうなると、賢治が栄浜での「仮眠」において期待していたのは、やはりトシとの「通信」にとどまらず、自らがトシの居場所へと赴くことだったと考えるべきと思います。
 自ら宗谷海峡を渡る船の甲板から飛び込むことによってか、あるいは栄浜の海岸からタネリのように拉致されることによってか、いずれにしても賢治が亡き妹のもとへ行きたいという願望とともに、ひそかに心に期していた「異界への旅」は、「サガレンと八月」におけるタネリと同じ運命を、招き寄せるおそれがあったのです。

 それでは、「オホーツク挽歌」において栄浜の海岸で仮眠をとった賢治は、ジョバンニとカムパネルラのように、その夢の中でトシに会うことができたのでしょうか。
 これについて考えるためには、「オホーツク挽歌」の作品中のどこで「仮眠」が行われたのかということを、同定しておく必要があります。この問題に関して鈴木健司氏は、二つの空白行によって三つに分かたれた作品の「パート2」(=上の引用部分)と「パート3」の間で賢治は仮眠をとり、この際に「サガレンと八月」に結実する《幻想体験》が現れたと推定しておられます。「パート1」「パート2」はまだ朝方の時間であるのに対して、「パート3」には「(十一時十五分 その蒼じろく光る盤面)」という詩句があり、その間に時間的断絶があると思われることを、その根拠として挙げておられます。
 私も、鈴木氏の考えに賛成です。作者は、「パート2」では「わたくしはしばらくねむらうとおもふ」と述べていることからまだ眠っていないわけですが、「パート3」には「わたくしが樺太のひとのない海岸を/ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき…」という詩句があって、この時点ではすでに「睡つたりしてゐる」からです。
 そうすると、「パート3」を読めば「仮眠」後の賢治の様子がわかるということになります。ということで、その内容を見てみると、まず目に入るのは、「とし子はあの青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」という言葉です。つまり、仮眠の後にも、賢治はトシに関する具体的な情報を持っていないのです。
 あるいはまた、「いまするどい羽をした三羽の鳥が飛んでくる/あんなにかなしく啼きだした/なにかしらせをもつてきたのか」という、鳥に対する思い入れも書きとめられています。これは、旅行前の6月の「白い鳥」の流れを引いて、鳥の鳴声の中にトシからのメッセージを読みとろうとする姿勢で、もしもその直前にトシと会えたり通信が得られたりしていたのならば、こんな風に鳥の声を頼りなく聴くこともなかったでしょう。
 すなわち、このオホーツクの海岸における仮眠という「実験」によっても、賢治は期待したようにトシのもとへ行くことは、できなかったのです。
 その意味で、未完に終わっている「サガレンと八月」という童話は、賢治の実験が成功しなかったということにおいても、結末に至ることなく放置されたということにおいても、二重の意味で「流産させられた」作品だったと言うことができるでしょう。

 では、「オホーツク挽歌」におけるこのような体験は、結局のところ賢治に何を与えたのでしょうか。
 香取直一氏は次のように述べて、賢治はこれを契機に、トシの「行方」について思い悩まなくてよい心境に到達したのだと、考えておられます。

玉随の雲に漂って行ったあの一羽の鳥は、《とし子》が蒼空の彼方へ行ったこと、そこから《通信》はこないが、《通信》をよこす必要のない処・眼前に望まれる樺太のような花のきれいな光あふれる浄らかなところへ行ったことをものがたっているのだ。賢治にはこう信じられていたのであろう。(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)が記されたのも、やはり必然であったと思われるのである。(「『春と修羅』(第一集)における《とし子通信》 『オホーツク挽歌』の極限」より)

 一方、鈴木健司氏は次のように述べ、賢治はこの時、香取氏の言うようにトシの往生の地を《浄土》と信じたというわけではないのではないかとしておられます。

 香取のいう「必然」とはどのようなことか。賢治にとって、妹とし子の往生の地が「光りあふれる浄らかなところ(浄土)」に違いないと確信することと、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやくことが、どのような必然の糸で結ばれているというのだろうか。おそらく私の解釈は香取の主張するところとは異なっている。賢治が「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやいたのは、妹とし子の往生の地が《浄土》と信ぜられた結果としてではなく、《浄土》であり続けるためにつぶやいたのである。なぜなら、妹とし子の浄土往生を支えうるのは、己れの信仰の正しさの確認以外になく、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という語には、この場合、破地獄としての陀羅尼(呪文)の作用が託されていると考えられるからである。(「とし子からの通信 「オホーツク挽歌」と「サガレンと八月」論」より)

 そして鈴木氏は、「オホーツク挽歌」の終結部に出てくる「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という梵語による唱題の意味について、次のように述べます。

「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」とつぶやかれたことは、賢治が妹とし子のいない現実世界を受容したことを意味するのであり、それは取りも直さず、《亡妹とし子との通信》の断念の表白でもあるのだ。

 この鈴木氏の見解について、私は半分は賛成です。
 すなわち、鈴木氏が上の後半で述べているように、「オホーツク挽歌」以後の賢治は、もうそれまでのようにトシとの「通信」に執着することはなくなります。その後の作品には、「通信」というテーマは出てこなくなるのです。
 一方、前半部の「賢治が妹とし子のいない現実世界を受容した」という点については、この時点の賢治はまだ「受容」にまでは至っていないと、私は考えざるをえません。
 たとえば、サハリンからの帰途の「噴火湾(ノクターン)」では、トシに関して次のような思いが綴られています。

駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
  (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 ここに描かれている賢治にとっては、「何べん理智が教へても」、やはりさびしさは癒えません。そして彼が、「どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ」理由は、「妹とし子のいない現実世界」を、まだ受容しきれていないからに他なりません。
 あるいはまた、サハリン旅行から帰ってから書いた「〔手紙 四〕」の冒頭には、次のように記されています。

 わたくしはあるひとから云ひつけられて、この手紙を印刷してあなたがたにおわたしします。どなたか、ポーセがほんたうにどうなつたか、知つているかたはありませんか。 

 ここでも、チュンセの死んだ妹ポーセが「ほんたうにどうなつたか」を知りたいという賢治の願望は、まだ強く持続しているのです。妹の行方を知る手段として、トシ本人からの「通信」を求めるという以前のやり方は用いられず、「手紙に託して探す」という方法がとられますが、それでもやはり賢治は、まだ「妹とし子のいない現実世界」を受容しているとは言えません。

 サハリン行から後の作品を順に追って見ていくと、賢治が本当の意味でトシの死を受容できるようになったのは、さらに翌年の「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」、そしてその頃に書き始められた「銀河鉄道の夜」に至ってのことだったろうと、私は考えます。
 賢治がその境地まで至った道筋は、崇高な「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」の一例とも言えるものであり、またそのうちに記事にしてみたいと思っています。

 では、賢治が結局オホーツク行という企図によって得た最大の収穫は何だったのかとあらためて考えてみると、私としては、「青森挽歌」の終わり近くに出てくる次の一言の啓示だったと思います。

《みんなむかしからのきやうだいなのだから
 けつしてひとりをいのつてはいけない》

 この認識が、「〔手紙 四〕」の重要なテーマとなり、「〔この森を通りぬければ〕」と「薤露青」を支え、さらには後の「銀河鉄道の夜」にも引き継がれることになっていきます。

 短篇「イギリス海岸」に、次のような一文があります。

 実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。

 以前に私は、「死ぬことの向ふ側まで」という記事において、これは表面的には賢治が教え子たちのために思っていたことでもあるのだろうが、実は心の底で、死に近い妹に対して考えつづけていた気持ちが、思わずあふれて出たものではないかと書きました。
 それはやはりそうではないかと今も思うのですが、もう一つ、賢治の最初期の童話である「双子の星」にも、次のような箇所があったことに気がつきました。チュンセ童子とポウセ童子という双子の星が、彗星(ほうきぼし)に騙されて、天上から海の底へと落ちてしまう場面です。

 二人は青ぐろい虚空をまっしぐらに落ちました。
 彗星は、「あっはっは、あっはっは。さっきの誓ひも何もかもみんな取り消しだ。ギイギイギイ、フウ。ギイギイフウ。」と云ひながら向ふへ走って行ってしまひました。二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです。

 双子の星の名前である「チュンセ」と「ポウセ」は、後の「手紙 四」においては、明らかに賢治とトシの投影と思しき、兄「チユンセ」と妹「ポーセ」として登場します。したがって賢治が「双子の星」において、「この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです」と書いていることは、やはり彼が妹に対して抱いていたであろう思い=「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」ということと、何かの関係があるのではないかと考えざるをえません。

 となると、賢治が「双子の星」のこの箇所を書いたのがいつだったのか、と言うことが問題になります。
 従来から、「蜘蛛となめくぢと狸」「双子の星」「貝の火」という三つの童話は、彼の最初期のものと考えられてきました。清六氏による「兄賢治の生涯」(『兄のトランク』所収)には、次のような回想があります。

 大正七年に二十二歳で農林学校本科を卒業したが、つづいて地質や土壌を研究するために学校に残り・・・(中略)
 この夏に、私は兄から童話「蜘蛛となめくぢと狸」と「双子の星」を読んで聞かせられたことをその口調まではっきりとおぼえている。処女作の童話を、まっさきに私ども家族に読んできかせた得意さは察するに余りあるもので、赤黒く日焼けした顔を輝かし、目をきらきらさせながら、これからの人生にどんな素晴らしいことが待っているかを予期していたような当時の兄の姿が見えるようである。

 この記述に従えば、「双子の星」が初めて書かれたのは1918年(大正7年)夏までさかのぼることになりますが、この時期には、トシはまだ日本女子大の学生で、病に倒れてはいません。健康な妹に対して、「どこ迄でも一諸に落ちやう」というのは、ちょっと理解しがたいことです。
 しかし、賢治の他の作品と同じく、「双子の星」もある日急に生まれたわけではないはずです。天沢退二郎氏は、ちくま文庫版『宮沢賢治全集』の解説において、上の清六氏の記述に関連して、次のように述べておられます。

 ここで引かれている清六氏の記憶は信頼できるように思われるが、ただし、このとき清六氏らが読みきかせられたのは、今日私たちが読んでいるテクストと全く同じものだったのではなくて、その先駆段階、下書稿段階であり、細部などいろいろ異同があったものと推定される。賢治の詩や童話の顕著な特質である著しい推敲や改稿の跡は、それらの作品が第一次稿から二次稿三次稿へ、あるいは下書稿(一)から(二)へ、(三)へ・・・・・・の絶えざる変化・転生の過程として在ったことを示している。したがって、「蜘蛛となめくぢと狸」にしてもその現存稿第一形態の成立は右の清六氏の記憶より数年後、一九二一、二年頃かと考えられる。

 ということで、1921~1922年頃となると、トシが死の床に就いていた時期と重なってくるのです。
 より具体的には、中地文氏による『宮沢賢治の全童話を読む』(學燈社)における「双子の星」の解説によれば、次のようになります。

 では、現存稿の成立時期はいつ頃なのか。これについては原稿用紙の種類から大正十年頃かと考えられよう。しかし、草下英明(『宮沢賢治と星』学芸書林)の指摘するように、蠍座の心臓部に位置する一等星アンタレスを「蠍の眼」「赤眼」と捉える発想が吉田源治郎『肉眼に見える星の研究』の影響を受けて生まれたのであれば、大正十一年九月の同書刊行以後ということになる。

 この吉田源治郎著『肉眼に見える星の研究』という本には、上記の「蠍の眼」という発想だけでなく、「アルビレオのトパーズとサファイア」「昴の鎖」など他にも賢治作品に見られる表現の登場していることが草下英明氏によって指摘されており、また恩田逸夫氏も「水仙月の四日」に出てくるカシオペアと水仙の組み合わせの共通性について述べていて、確かに賢治が読んでいた可能性は非常に高いと感じられるものです。
 となると、この本が刊行されたのが1922年(大正11年)9月、短篇「イギリス海岸」が書かれたと推定されるのは1922年8月、トシの死は1922年11月ということで、時期がだいたいそろってきます。

 すなわち私としては、賢治が童話「双子の星」に、「双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです」と書いたのは1922年9月以降で、やはりトシの死が目の前に現実として迫ってきていた頃なのではないかと、推測するのです。

工藤哲夫『賢治考証』

 先月末に刊行された、工藤哲夫著『賢治考証』(和泉書院)という本を読んでみています。

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 「賢治考証」という、端的で虚飾のない題名のとおり、この本は、賢治が依拠した可能性のある大量な文献を非常に精密に渉猟し、堅実な考証を積み上げた論文集です。本の帯には、「恣意的な<読み>を排し、客観的に<論証>し得た(と考える)事だけを書くという態度を貫いた書」とありますが、まさにそれを実感します。章ごとに付された「注」も、詳細で厖大なものです。

 内容を見ると、たとえば、本書第二章の「<二人だけ>の世界―「黄いろのトマト」を手掛りに―」は、ある時期まで、賢治とトシ、あるいは賢治と嘉内という<二人だけ>の世界を求めた賢治が、いかにして変わっていこうとしたかという経過に、注目したものです。
 工藤哲夫氏は、次のように述べます(p.58)。

 賢治は紆余曲折を経て「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」(「〔手紙 四〕」)という言葉に縮約できる命題の了悟(すべきであること)に到達した。「《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》」(「青森挽歌」)という言葉も、「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人」の語りかけ(「銀河鉄道の夜」初期形三」)も同根・同趣のものであろう。
 しかし、かつての、親友保阪嘉内及び妹トシへの恋着は、このいささか公式的とも見えなくもない命題―最終的にそこに辿り着いたとしても―によって超克される程度のものであっただろうか。理念としてでなく、実際に賢治の思想・行動を方向づけた動機という観点からすれば、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」という事から「けつしてひとりをいのつてはいけない」という結論に至る迄の間に飛躍があると思われる。

 この引用の最後で、工藤氏が「飛躍」と表現されたもののことが、私も以前から気になっていて、「悩みの果てに「いゝこと」と感じる」などという記事に書いたりもしました。
 それはさておき、工藤氏の考証は続きます。

 「どうか諸共に私共丈けでも、暫らくの間は静に深く無上の法を得る為に一心に旅をして行かうではありませんか」・「あなたと一諸に行かせて下さい」・「どうか一所に参らして下さい。わが一人の友よ」と保阪嘉内に呼びかけ、<二人だけ>の世界を求めた賢治にとって、嘉内との別離が深刻な打撃を与えたであろうことは想像に難くない。賢治は苦悶の内に、この別離の意味を仏法の中に探し求めたのではなかったか。

そしてついに、賢治蔵書の中から、工藤氏が探り当てた仏典の一節が提示されます。

 そして、見付けたのが、所蔵していた『國譯大蔵經』所収の「國譯大品 受戒篇第一」中の次の一節であった(と推測する)。

[前略]其の時世尊諸比丘に告げて宣へり、「[中略]比丘等、遊行を行へ、衆人の利益の爲に、衆人の安樂の爲に、世間の慈悲の爲に、人天の利益安樂の爲に。二人同一路を行くことなかれ。[後略]

 「二人同一路を行くことなかれ」―この言葉が、天来の叱咤として賢治を撃ったのではないだろうか。と同時に、別離という悲しむべき事態を、反省を含めて肯定的に受け止めようとする機縁となったと考えられる。

 あるいは工藤氏は[注]において、同じく賢治所蔵の『新譯佛教聖典』(大14刊)という本の中から、上と同一内容の記述も探し出しておられます。

 その時、世尊は比丘等に命じたもうよう。「[中略]比丘等よ。世間を憐みすべての人々の幸福のために世を巡れよ。二人して、一つの道を行かぬようにせよ。[後略]

 そして、上の引用の「すべての人々の幸福」という言葉が、「〔手紙 四〕」の、「すべてのいきもののほんたうの幸福」という言葉と通底している可能性も示唆しておられます。

 この、「二人同一路を行くことなかれ」「二人して、一つの道を行かぬようにせよ」という言葉は、何と賢治の核心を衝くものであったでしょう。
 保阪嘉内やトシとの別離を経験した後の賢治が読んでいたら、まさにその心の空隙に染みとおっていったのではないかと、私にも痛切に感じられます。


 その後、工藤哲夫氏は、トシを喪った後の賢治の心の推移を時系列的にたどり、まず「無声慟哭」「オホーツク挽歌」の時期には、トシが「ひとり」逝ったことにこだわり、「<仏法>を十分意識しながらなおその了悟に至らず、「いつしよに行」くことへの妄執との間で引き裂かれて苦闘」していたとします。
 次の「〔手紙 四〕」の段階では、「<仏法>の否応なき実線を経て辿り着いた一つの帰結点」を示しながらも、

この時点に於て賢治の動揺が収束していなかったことは、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と言いながら「ポーセをたづねる手紙を出すがいい」と矛盾したことを述べているその混乱に徴憑を見出すことが可能であろう。

と、まだ混乱があることが指摘されます。この「〔手紙 四〕」の「矛盾」と工藤氏が指摘しておられる点は、私にとっても悩ましいものでしたので、以前に「「手紙四」の苦悩」という記事に書きました。

 その後、賢治の心が平安を得ていくのは・・・。

 「あゝ いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」(「薤露青」)―ここに至って賢治の悲しみ・求道的動揺は漸く鎮静し、<仏法>も了悟の域に達しつつあったと言えようか。

 そして、最後に、

 そして、了悟の段階を経て賢治が最終的に得た明答が、実は<仏法>をその礎とするところの「みんながカンパネルラ」だから[中略]あらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこに行く」ことによってのみ、「ほんたうにカンパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ」(「銀河鉄道の夜」初期形三)というものであった。

ということになります。このあたりの流れは、私が以前にたどった「悩みの果てに「いゝこと」と感じる」とも共通している部分も多くて、こんな専門家の論文と比較するのは素人としておこがましいかぎりですが、素直に嬉しいことです。
 そして、工藤氏は最後に、次のようにしめくくります。

 以上の流れの中に「黄いろのトマト」を置くならば、それは(時系列的に)トシとの別離と「〔手紙 四〕」の間に位置することになる。話は最初に戻る。「黄いろのトマト」は<二人だけ>の世界とその崩壊を描いたものであった。<二人だけ>の強調と悲劇的結末の意味するものは、未だ<仏法>の了悟に至らぬ賢治が、そこ「に近づく一あし」として、一度は自らの悲しみの体験をこそ徹底的に作品化することによって一種の自己治療を試みたということではないだろうか。

 この結語に付け加えることはありません。

 『春と修羅』、「春と修羅 第二集」などの作品の中から、賢治がトシの「死後の行方」について思い、言及した箇所を、以下に順に挙げてみます。

(1) 1922.11.27
   「永訣の朝
     けふのうちに
     とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

   「松の針
     ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
     ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
     わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
     泣いてわたくしにさう言つてくれ

   「無声慟哭
     おまへはじぶんにさだめられたみちを
     ひとりさびしく往かうとするか
     (中略)
     おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
     (中略)
     どうかきれいな頬をして
     あたらしく天にうまれてくれ

(2) 1923.6.3 「風林
     おまへはその巨きな木星のうへに居るのか
     鋼青壮麗のそらのむかふ
        (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
         光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか

(3) 1923.8.1 「青森挽歌
     あいつはこんなさびしい停車場を
     たつたひとりで通つていつたらうか
     どこへ行くともわからないその方向を
     どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
     たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
     (中略)
     とし子はみんなが死ぬとなづける
     そのやりかたを通つて行き
     それからさきどこへ行つたかわからない
     それはおれたちの空間の方向ではかられない
     (中略)
     なぜ通信が許されないのか
     許されてゐる そして私のうけとつた通信は
     母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ
     どうしてわたくしはさうなのをさう思はないのだらう
     (中略)
     ほんたうにあいつはここの感官をうしなつたのち
     あらたにどんなからだを得
     どんな感官をかんじただらう
     なんべんこれをかんがへたことか
     (中略)
     あいつはどこへ堕ちやうと
     もう無上道に属してゐる

(4) 1923.8.2 「宗谷挽歌
     けれどももしとし子が夜過ぎて
     どこからか私を呼んだなら
     私はもちろん落ちて行く。
     とし子が私を呼ぶといふことはない
     呼ぶ必要のないとこに居る。
     もしそれがさうでなかったら
      (あんなひかる立派なひだのある
       紫いろのうすものを着て
       まっすぐにのぼって行ったのに。)
     もしそれがさうでなかったら
     どうして私が一緒に行ってやらないだらう。
     (中略)
     とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
     おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
     そんなしあはせがなくて
     従って私たちの行かうとするみちが
     ほんたうのものでないならば
     あらんかぎり大きな勇気を出し
     おまへを包むさまざまな障害を
     衝きやぶって来て私に知らせてくれ。

(5) 1923.8.4 「オホーツク挽歌
     わたくしが樺太のひとのない海岸を
     ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
     とし子はあの青いところのはてにゐて
     なにをしてゐるのかわからない

(6) 1923.8.11 「噴火湾(ノクターン)
     駒ヶ岳駒ヶ岳
     暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
     そのまつくらな雲のなかに
     とし子がかくされてゐるかもしれない
     ああ何べん理智が教へても
     私のさびしさはなほらない
     わたくしの感じないちがつた空間に
     いままでここにあつた現象がうつる
     それはあんまりさびしいことだ
         (そのさびしいものを死といふのだ)
     たとへそのちがつたきらびやかな空間で
     とし子がしづかにわらはうと
     わたくしのかなしみにいぢけた感情は
     どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

(7) 1923後半? 「〔手紙 四〕」

けれども私にこの手紙を云ひつけたひとが云つてゐました。「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒のあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。チユンセがもしポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである。チユンセがもし勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向つて進まないか。」
 それからこのひとはまた云ひました。「チユンセはいいこどもだ。さアおまへはチユンセやポーセやみんなのために、ポーセをたづねる手紙を出すがいい。」 そこで私はいまこれをあなたに送るのです。

(8) 1924.7.5 「〔この森を通りぬければ〕
     鳥は雨よりしげくなき
     わたくしは死んだ妹の声を
     林のはてのはてからきく
        ……それはもうさうでなくても
           誰でもおなじことなのだから
           またあたらしく考へ直すこともない……

(9) 1924.7.17 「薤露青
     声のいゝ製糸場の工女たちが
     わたくしをあざけるやうに歌って行けば
     そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が
     たしかに二つも入ってゐる
     (中略)
        ……あゝ いとしくおもふものが
           そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
           なんといふいゝことだらう……


 すなわち、当初から賢治は、トシが「とほくへいつてしまふ」ことは諦めて受け容れながらも、「どこへ行かうとするのだ」という問題に、悩みおののいていました。
 次に「青森挽歌」や「宗谷挽歌」では、「どこへ行つたかわからない/それはおれたちの空間の方向ではかられない」と頭では理解しつつも、それでもトシからの通信を求めつづけます。賢治の苦悩は、サハリンの自然によって、一時は少し癒やされたようにも見えましたが、この旅行の最終作品である「噴火湾(ノクターン)」も、「わたくしのかなしみにいぢけた感情は/どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ」と結ばれます。

 一つの変化が起こるのは、旅行後に書いたと思われる「〔手紙 四〕」です。ここではやはり死んだポーセを「たづねる」という行為は続けられながらも、「たづねる」主体はポーセの兄のチユンセではなくて、「云ひつけ」によって手紙を出す「私」になります(「「手紙四」の苦悩」参照)。
 一人の人間の中で相反する思いが闘っている状態が「葛藤」ですが、人は時に、心の中の葛藤に耐えきれなくなると、相反する思いのそれぞれを心の中で別の「人格」に分担して背負わせるという対処をとることがあります。この機制は精神医学的には「解離」と呼ばれ、その最も極端な形は「多重人格」という形で現れます。
 賢治は「〔手紙 四〕」において、これと類似のことを、文学的な形態において実行したとも言えます。すなわち、あらゆる衆生のための行動=真の仏教徒としての行動と、死んだ妹の行方を「たづねる」行動=肉親としての行動を、「チユンセ」と「私」という別の人格に分担させることによって、葛藤を解消したわけです。

 そして最終的には、1924年7月の2作品において、さらに賢治は気持ちの整理をつけているようです。「それはもうさうでなくても/誰でもおなじこと」で、「またあたらしく考へ直すこともない」・・・。そして「薤露青」に至っては、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」という境地が語られます。
 これはとても逆説的で不思議な感情のようですが、しかしその逆説性にこそ、賢治の苦悩の跡が感じられるような気もします。

 と、思っていたら、「小岩井農場」においても、このような逆説的感情の描写が見られるのですね。「パート一」で、賢治が馬車に乗ろうか乗るまいか迷っているところです。

これはあるひは客馬車だ
どうも農場のらしくない
わたくしにも乗れといへばいい
馭者がよこから呼べばいい
乗らなくたつていゝのだが
これから五里もあるくのだし
くらかけ山の下あたりで
ゆつくり時間もほしいのだ
あすこなら空気もひどく明瞭で
樹でも艸でもみんな幻燈だ
もちろんおきなぐさも咲いてゐるし
野はらは黒ぶだう酒のコツプもならべて
わたくしを款待するだらう
そこでゆつくりとどまるために
本部まででも乗つた方がいい
今日ならわたくしだつて
馬車に乗れないわけではない
 (あいまいな思惟の蛍光
  きつといつでもかうなのだ)
もう馬車がうごいてゐる
 (これがじつにいゝことだ
  どうしやうか考へてゐるひまに
  それが過ぎて滅くなるといふこと)

 ここでは結局、賢治が迷っているうちに馬車は動き出してしまうのです。普通なら、こんな時あわてて呼びとめようとしたり、諦めてからも自分の優柔不断さを悔やんだりしそうなものですが、賢治は、「これがじつにいゝことだ/どうしやうか考へてゐるひまに/それが過ぎて滅くなるといふこと」と、肯定的にとらえているのです。
 これは「薤露青」の、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」にも通ずるものだと思うのですが、「小岩井農場」では若干「悔しまぎれの開き直り」と聴こえなくもなかった言葉が、「薤露青」においては、深い仏教的な悟りをも感じさせています。

 いずれにしても、このようなちょっと珍しい感じ方は、トシを喪う前から、賢治のどこかに備わっていたものなのだろうと思うのです。

賢治とイソップの出会い

 9月22日の「賢治研究リレー講演」において、発表時に使用したパワーポイントを、下に PDF 形式で掲載しておきます。よろしければご笑覧ください。

「賢治とイソップの出会い」発表用スライド (1.25MB)

 スライドの最後の画像は、今年2008年が「国際カエル年」に制定されていることにちなんでいます。「皆さん、カエルをいじめないようにしましょう(笑)」ということを言うつもりでしたが、当日は時間がありませんでした。

国際カエル年2008

「手紙四」の苦悩

 生前の賢治が秘かに印刷して配布した、一連の「手紙」と呼ばれる文章の中でも、最後の「〔手紙 四〕」は、最も有名で、また読む人の心に切実に訴えかけるものがあります。
 これは、賢治が1923年(大正12年)に、「樺太旅行、とりわけ「青森挽歌」で得た成果を周りの人々に伝えるため」(木嶋孝法『宮沢賢治論』)に、書いたものと言われています。内容は、「無声慟哭」詩群および「オホーツク挽歌」詩群と、「銀河鉄道の夜」の、そのちょうど中間に位置するものと言えるかもしれません。賢治とトシを連想させる「チュンセ」と「ポーセ」という兄妹が登場して、妹は死に、兄はチュンセの行方を探し求めます。

 ところで、この「〔手紙 四〕」の最後は、次のように終わります。

 どなたかポーセを知ってゐるかたはないでせうか。けれども私にこの手紙を云ひつけたひとが云つてゐました 「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである。チユンセがもし勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向つて進まないか。」 それからこのひとは云ひました。「チユンセはいいこどもだ。さアおまへはチユンセやポーセやみんなのために、ポーセをたづねる手紙を出すがいい。」 そこで私はいまこれをあなたに送るのです。

 「手紙を云ひつけたひと」の言葉は、「銀河鉄道の夜」初期形三におけるブルカニロ博士を連想させますね。賢治の愛読者にとっては、何か懐かしい響きをおびているでしょう。

 しかし、ちょっと考えてみると、上の「手紙を云ひつけたひと」の言葉の真意には、理解しにくいところがあります。
 最初に、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。」と断定しながら、後でこの手紙の書き手に対しては、「さアおまへはチユンセやポーセやみんなのために、ポーセをたづねる手紙を出すがいい。」と言って、「ポーセをたづねる」よう指示を出します。「むだだ」と言った直後に、なぜあえてそれをせよと言うのでしょうか。
 この点に関して佐藤泰正氏は、次にように述べています(『手紙一、二、三、四』,「国文学 解釈と鑑賞868 平成15年9月号」所収)。

(「〔手紙 四〕」の引用の後) すでに語る所は明らかだが、矛盾は残る。「ポーセをたづねることは無駄だ」と言い、また「みんなのためにポーセをたづねる手紙を出すがいい」という。しかしこれは矛盾とみえて、矛盾ではあるまい。言わばこの作品自体のすべてが「ポーセをたづねる手紙」であり、それが詩人の手によって、ほかならぬ匿名の手紙という形で届けられたという所に、この作品の持つ倫理的主題はみごとに生きる。

 しかし上の文章をちょっと読んだだけでは、なぜ「矛盾とみえて、矛盾ではあるまい」ということになるのか、正直私にはわかりにくいです。思わず「どなたか矛盾の解き方を知ってゐるかたはいないでせうか」と、たづねたくなってしまいます。

 などと冗談はさておき、あらためて冷静に考えてみると、これはおそらく「ポーセの実の兄であるチユンセ」がポーセをたづねるのはむだだが、「第三者である手紙の書き手」がたづねるのであれば、それはよいのだ、ということになるのでしょう。
 「青森挽歌」において、

《みんなむかしからのきやうだいなのだから
 けつしてひとりをいのつてはいけない》

という、(如来の?)言葉が現れたことと、これは直接につながっているのだろうと思います。兄が肉親の情によって妹を「たづねる」ことは、「ひとりをいの」ることになってしまうから、「むだ」なのでしょう。

 思えばこの問題は、まさに賢治の「オホーツク挽歌」の旅において、最大の葛藤となっていたことでした。
 賢治は死んだ妹を「たづね」て、トシとの通信を求めて、遙かサハリンまで旅したわけですが、これはチユンセがポーセを探し求めたように、肉親の愛情にもとづいた行動だったことは、否定できないでしょう。「けつしてひとりをいのつてはいけない」と、仏教者としての賢治は頭では考えながらも、その心は妹の行方を求め、妹の後生に幸あれと祈る気持ちを、抑えることができなかったのだと思います。

 この葛藤を解決するために、当時の賢治が考えた理屈は、「宗谷挽歌」に表れています。

とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
そんなしあはせがなくて
従って私たちの行かうとするみちが
ほんたうのものでないならば
あらんかぎり大きな勇気を出し
私の見えないちがった空間で
おまへを包むさまざまな障害を
衝きやぶって来て私に知らせてくれ。
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 すなわち、賢治がトシからの通信を求めている理由は、肉親の情のためではなくて、「私たちの行かうとするみちが/ほんたうのものでないならば」、あるいは「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら」、そのことを明らかにするという目的のために、通信を求めているのだと言っているのです。それは、トシの幸福ではなく、「みんなのほんたうの幸福」のためだというのです。
 そして、それがトシ一人の幸福を願うためではないということをさらに明確に示すために、「私たち(=賢治+トシ)はこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、決意も述べています。

 この「合理化」は、いちおう筋は通っていますが、「みんなのほんたうの幸福を求めて」トシの行方を捜すのが、現実にトシの兄でもある賢治だったので、どうしても理屈の綱渡りをしているような危ういところはありました。そこに「肉親の情」が、一片も入っていないという証拠はないのです。
 しかしこれが「〔手紙 四〕」になると、兄チユンセの代わりに、「手紙の書き手」がポーセの行方を「たづねる」という形で、人物が別になっていますから、理屈がよりすっきりとしています。賢治が、「オホーツク挽歌」の旅の間ずっと感じ続けていたであろうモヤモヤが、ちょっと晴れている感じはします。


 それはともかく、「〔手紙 四〕」の文章を読んで、私がとにかく強く感じることは二つあって、一つは、妹の死後に兄が感じている罪責感の深さです。文中では、チユンセが生前のポーセをいじめたエピソードが執拗なまでに紹介され、またポーセの死後に至っても、その転生した「蛙」をチユンセが石で叩いてしまうことによって、間接的に示されます。この罪責感は、いったい何なのでしょうか。
 それからもう一つは、「オホーツク挽歌」の旅から帰っても、賢治はなお、「行方をたづねる手紙」をたくさんの人々に送らずにはいられなかった、その気持ちです。

 トシの死の翌年になって、北の最果てへの旅もして、初盆を終えても、賢治の気持ちは「整理がつく」どころではなかったことが、にじみ出ている感じがします。

舎監排斥事件と「手紙 四」

 下写真は、賢治の「「文語詩篇」ノート」から、1913年1月の頁です。

「文語詩篇」ノート/寄宿舎舎監排斥

 「18」は賢治の数えの年齢で、年号「1913」の下には、次のように書かれています。

 一月  寄宿舎舎監排斥     橋本英之助  Pã

 かの文学士などさは苛めそ。
 家には新妻もありて心よりわれらの戯れごとを
                   心より憂へたり。
  なれらつどひて石投ぐる そはなんぢには戯なれども
  われには死ぞと云ひしとき 口うちつぐみ青ざめて
                         異様の面をなせしならずや。

 杉崎鹿次郎。 同。

 これは、賢治が盛岡中学4年の1月、生徒たちが寄宿舎舎監の排斥運動を起こし、学校側はその処分として、4年・5年の寄宿生全員に退寮を命じたという事件に触れたものです。これによって賢治も処分を受け、以後は清養院という曹洞宗のお寺に下宿することになりました。
 この舎監排斥運動においては、賢治もかなりの役割は果たしていたようで、詳細は不明のようですが、『【新】校本全集』年譜篇も、「指揮をとった黒幕参謀は賢治」という説を紹介しています。

 その関わりの程度はともかく、賢治にとってこの事件の記憶がどのようなものであったかは、後年に書いたこの「「文語詩篇」ノート」の記載から、うかがい知ることができます。
 すなわち、生徒から何らかの排斥的な仕打ちを受けた舎監の一人は、生徒たちの「戯れごと」を「心より憂へ」て、「なれらつどひて石投ぐる そはなんぢには戯なれどもわれには死ぞ」と言ったというのです。これは教師と生徒との関係とも思えないほど切実な言葉ですが、その時「口うちつぐみ青ざめて異様の面」をなしたのは、賢治自身だったのでしょうか。
 「年譜篇」にも、この「文学士の言葉は賢治の胸を衝いたようである」と付記されています。

 ところで、私は昨日たまたま賢治とは関係ない本を読んでいた時、この「なれらつどひて石投ぐる そはなんぢには戯なれどもわれには死ぞ」という言葉は、もとはあるイソップの寓話に由来していることを知りました。
 それは「少年たちと蛙」という題名の寓話で、Charles Stikeney による英語版では、‘The Boys and the Frogs’として、こちらで読むことができます。日本語への抄訳は、こちらのページに「52.少年たちと蛙たち」として収められています(いずれも、「イソップ」の世界 The World of Aesop より)。

 Charles Stikeney 版からちょっと訳してみると、下のような感じです。

     少年たちと蛙

 池のそばで遊んでいた少年たちが、水中にたくさんの蛙が泳いでいるのを見つけました。
 一人の子が、「蛙に石を当てられるか、やってみよう」と言い、みんなで石を投げはじめました。
 何匹かの蛙に石が当たって、とうとう一匹の蛙が水から頭を出して言いました。「みんな、どうかやめて下さい。私たちに石を投げるのは、あなたたちにしたらたいそう面白いことかもしれませんが、私たちにとっては、死なのです。私たちは、あなたたちに何も悪いことはしていないのに、ああ、あなたたちは私たちの家族を、もう三匹も殺しました。」

 盛岡中学の悪童たちの被害にあった舎監は、このイソップの寓話の一節を引用して、生徒たちに自覚を促そうとしたのでしょう。そしてそれは、少なくとも賢治の心には、とても痛切に響いたのだと思います。

 ところで、このように訴えて賢治に印象を与えた「文学士」とは、いったい誰だったのだろうか、ということが気になります。
 『【新】校本全集』の「補遺・伝記資料篇」に収められている「岩手県立盛岡中学校学校行事」と、「年譜篇」をもとにリストアップすると、この当時に寄宿舎の「舎監」をしていた教師は、千田宮治(国語・漢文)、服部品吉(国語・漢文)、杉崎鹿次郎(英語)、矢口恵之助(博物)、そして「舎監補助」に、津田清三(英語)の5人が、少なくともいたようです(括弧内は担当科目)。
 「文学士」ということで、「博物」担当教諭の矢口恵之助氏をまず除外すると、あとは「国語・漢文」と「英語」の教官が残りますが、上のようにイソップの寓話を引用しているところからは、「国語・漢文」ではなくて、「英語」の先生なのではないかという気がします。この寓話は、数あるイソップのお話の中では、さほど有名なものではなく、しかし英語の教材としてならば、当時の教師と生徒の間で共有されていた可能性があると思われるからです。
 「英語」担当だとすると、候補は杉崎鹿次郎・津田清三の2人に絞られて、杉崎鹿次郎教諭は、ノートの下段で「杉崎鹿次郎。同。」として登場することからすれば、上段の「かの文学士」とは、津田清三教諭のことだったのではないかと、とりあえず私は推測してみます。
 津田清三教諭は、舎監ではなく「舎監補助」ですが、生徒はそんな肩書など区別せずに悪戯を働いたでしょうし、津田氏はこの前年の1912年10月3日に盛岡中学に着任したばかりで、さらに12月21日に舎監補助に任命されたという「新入り」でしたから、生徒たちの格好の標的にされた可能性はあります。また「家には新妻もありて」というところも、この文学士が若かったことを推測させます。

 ところで下の写真は、1913年頃に寮の仲間たちとともに撮った写真で、賢治は後列の左から二人目です。これは、中央の人物が「寮旗」を持っていること、皆が胸に花を飾っていることから、退寮処分を受けた面々が、寮との別れに際して撮った「記念写真」かと推測されている一枚です。
 まあ、「青春の一コマ」ですね。

退寮記念写真?


 さて、「かの文学士」の詮索には限界もあるのでこの辺でやめておきますが、それよりも私がここでぜひとも注目しておきたいのは、「男の子が(残酷さの自覚なしに)蛙を石で傷つける」という、イソップ寓話のモチーフです。
 これは、賢治が妹トシの死後、おそらくサハリン旅行から帰って作成・配布した「〔手紙 四〕」という文章に、まさにつながっています。

 幼い妹ポーセを十一月に病気で亡くした少年チユンセは嘆き悲しみ、翌春には学校もやめて、働いていました。

チユンセはキヤベヂの床をつくつてゐました。そしたら土の中から一ぴきのうすい緑いろの小さな蛙が、よろよろと這つて出て来ました。
「かへるなんざ、潰れちまへ。」 チユンセは大きな稜石でいきなりそれを叩きました。
 それからひるすぎ、枯れ草の中でチユンセがとろとろやすんでゐましたら、いつかチユンセはぼおつと黄いろな野原のやうなところを歩いて行くやうにおもひました。すると向ふにポーセがしもやけのある小さな手で眼をこすりながら立つてゐてぼんやりチユンセに云ひました。
「兄さんなぜあたいの青いおべべ裂いたの。」 チユンセはびつくりしてはね起きて、一生けん命そこらをさがしたり考へたりしてみましたがなんにもわからないのです。・・・

 もちろん、「〔手紙 四〕」の中心的テーマは、妹トシの死でした。しかし、その話の中にことさら、無邪気な残酷さをもって「蛙を石で叩く」というエピソードが登場する背景には、寓話「少年たちと蛙」の記憶が、賢治にあったからなのではないかと、私には思えるのです。
 「なれらつどひて石投ぐる そはなんぢには戯なれどもわれには死ぞ」という言葉とともに、賢治の胸中には昔の舎監排斥事件をめぐって、心に刺さったトゲのような罪責感が残っていたのではないでしょうか。そしてそれがここの箇所で、トシを救ってやれなかった悔恨に混ぜ入れられているような、そんな感じが私はします。