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タクナエかタクビョウか

明治39年第八回仏教講習会(大沢温泉)

 上の記念写真は、1906年(明治39年)8月の「第八回仏教講習会」の折りに、会場の大沢温泉で撮られたものです(『新校本全集』第16巻(下)補遺・伝記資料篇より)。
 満10歳になる直前の賢治は、ちょっといたずらっ子のような様子で最前列の左から2人目に座り、トシは2列目の右端、父親の政次郎氏は最後列の左から2人目に立っていて、最後列中央あたりの法衣の人物が、この年の講師である暁烏敏です。
 そして、最後列の左端、政次郎氏の隣に写っている精悍な感じの人が、今日の記事で取り上げる、鈴木卓苗氏です。

 先月の花巻では、「イーハトーブ・プロジェクトin京都」のことも少し話をさせていただいたのですが、その実行委員会の一員として、「賢治の作品にも登場する鈴木卓苗氏のお孫さんにも参加いただいている」ということを申し上げたところ、何人かの方がこの話題に興味を持って下さって、その後の懇親会などで質問を受けたのです。

 質問の一つは、「卓苗」という名前はどう読むのか、という問題でした。私は以前から、京都在住のそのお孫さんに「タクナエ」とお聞きしていたので、特に何とも思わずそう呼ばせていただいていたのですが、「これはタクビョウあるいはタクミョウと読むのではないですか?」と訊かれて、はたと迷いました。なるほど考えてみると、「タク」というのは音読み、「ナエ」というのは訓読みですから、「タクナエ」というのはいわゆる「重箱読み」になってしまうのです。
 そう思ってちょっと考えてみましたが、人名の読みに音と訓が混ざって、「重箱読み」や「湯桶読み」になっているという例は、実はあんまり思い浮かびません。
 まあ女性の名前では、「優子(ユウこ)」とか「礼子(レイこ)」とか、「音読み+訓読み」の例もたくさんありますが、この場合の「子」は、一種の敬称・愛称?のような由来を持つ「接尾辞」的なものですから、ちょっと例外的なパターンと言えるでしょう。それからまた頭をひねってみると、あ、「俊介(シュンすけ)」というのがある、「哲男(テツお)」もそうだ・・・、などと考えていたら、そうそう、賢治のお父さんの「政次郎(まさジロウ)」という名前にも、音と訓が混じっていましたね。
 ということで、このような人名における音訓混合は、まあ「滅多にない」とまでは言えないけれども、上記の「〇子」のパターンを除けば、やはりけっこう少ないようですね。皆さんもお暇がありましたら、ちょっと考えて「卓内先生」(『定本 宮澤賢治語彙辞典』)みて下さい。

 で、花巻でそういう質問を受け、さらに最近出た『定本 宮澤賢治語彙辞典』を引いてみると、「卓内先生」の項には、「鈴木卓苗(たくびょう)」と振り仮名付きで載っているんですね(右写真)。これは、その旧版の『新宮澤賢治語彙辞典』においては、「鈴木卓内」とだけ記されていたものが、今回の改訂でそのように修正されたばかりの部分ですから、何となく信頼性もありそうな感じです。
 そこで私は、京都に戻るとさっそく鈴木卓苗氏のお孫さんに、その正式な読み方は何なのか、あらためて尋ねてみました。

 するとそのお答えは、やはり「タクナエ」、または訛って「タクナイ」だ、ということだったのです。


『花巻史談』第16号表紙 その後、手もとにあった資料を確認してみますと、『花巻史談』という雑誌(「花巻史談会」および「花巻市中央公民館」発行)の第16号(右画像)に、「花巻ゆかりの人物(十)」として、郷土史家の鎌田雅夫さんという方が、「鈴木卓苗」について書いておられました。

 この文章の冒頭は、次のような場面から始まります(最下段の画像も参照)。

 いまから六十八年前の大正十二年、この年の暮れの十二月四日に高知市で昇天した一つの魂があった。それは官立高知高等学校長の江部淳夫の魂である。翌日の五日の朝、鈴木教頭は全校生徒を本館二階の図書室に集めて、江部校長の遺した「愛すべき二百の健児よ」という文章と、「生徒諸子へ」という最後のステートメントを朗読した。鈴木教頭の声が何度も途切れそれが生徒のすすり泣きを誘い、やがて慟哭となって教室をうずめた―。(青春風土記、旧制高校物語)より抜粋。
 このときの鈴木教頭は遠く離れた岩手県花巻の出身の人であった。
 鈴木教頭は名を卓苗(たくない)といった。

 ということで、やはり「卓苗」は「タクビョウ/タクミョウ」と読むのではなかったようなのですが、今度はここには「たくなえ」ではなく「たくない」と書かれているのが、新たに気になってきます。

 実は、上の『定本 宮澤賢治語彙辞典』の引用画像にもあったように、この鈴木卓苗氏が登場する賢治の作品、「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」においても、その名前は「卓内」、すなわち漢字は違いますが、「タクナイ」と読むべき形で登場するのです。(下記は一部抜粋)

またその寛の名高い叔父
いま教授だか校長だかの
国士卓内先生も
この木を木だとおもったらうか
  洋服を着ても和服を着ても
  それが法衣(ころも)に見えるといふ
  鈴木卓内先生は
  この木を木だとおもったらうか

 賢治の作品では、実在の人物の名前を直接登場させるのをはばかって、少しだけ変えてあることも結構ありますから(例えば「氷質の冗談」における、白藤→白淵)、これも賢治の意図的な変更かと思っていたこともありました。しかしそれにしては、「タクナイ」と呼ばれている人を「卓内」と書いただけでは、ほとんど変えた意味がありません。
 となると、これは「タクナエ」と呼ばれたり「タクナイ」と呼ばれていたこの人の名前を、賢治は別に変えようとは意識せずに、発音に釣られて書いただけなのかもしれません。

 お孫さんは「タクナエ」と言い、詳細な伝記的調査を行った郷土史家は「タクナイ」と書いているというこの微妙な不一致も不思議ですが、思うにこれには東北地方の方言の特性も、影響しているのかもしれません。

 東北地方の言葉においては、「イ」と「エ」の発音の区別が曖昧であるという特徴があります。
 これは、賢治の書いているものにもそれなりに影響を及ぼしていたようで、後には「イーハトーブ」とか「イーハトーヴ」とか「イーハトーヴォ」と呼ばれるようになる賢治の造語は、『注文の多い料理店』の2種の広告葉書においては「イエハトブ童話」と表記されていました。
 また、これは入沢康夫さんが、『「ヒドリ」か「ヒデリ」か』(書肆山田)所収の「賢治の「誤字」のことなど」において紹介されている事柄ですが、賢治は何かを「(口に)くわえて」と書く時、「くわいて」と書くことが多かったようです。入沢さんは童話「楢ノ木大学士の野宿」の例を挙げておられますが、他にも「小岩井農場(清書後手入稿)」の「堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた」、「〔湧水を呑まうとして〕」の「きせるをくわいたり」、「鹿踊りのはじまり」の「いきなりそれをくわいて戻つてきました」、「どんぐりと山猫」の「巻煙草の箱を出して、じぶんが一本くわい」、「「山男の四月」の「山男はおもはず指をくわいて立ちました」など、かなりたくさんあります。
 「タクナエ」と「タクナイ」の区別が地元においては曖昧のようで、両方が混用されているように見えるのも、これと同型の現象のように思われます。

 ということで、以上が、とりあえず「鈴木卓苗」の読みについて、調べたり考えたりしてみたことでした。


 あとそれからもう一つ、花巻の賢治学会の時に鈴木卓苗氏について質問を受けたのは、地蔵堂のある延命寺というお寺で生まれた卓苗氏と、そのごく近所にある鼬弊神社に生まれた賢治の親友阿部孝との関係です。
 世代は少し違いますが、すぐ近くの住職や神主の子として生まれ育ち、ともに東京帝大を卒業した同窓生ですから、ある程度の交流はあったと考える方が自然です。
 それに、この二人をつなぐ不思議な共通点は実はもう一つあって、それは二人とも旧制高知高等学校の教授として在職した時期があり、その間に校長が急逝あるいは急に退職したために、「校長事務取扱」という校長代理職に就いているということです。鈴木卓苗氏が校長事務取扱になった時のことは、上に引用した人物伝にも出てきました。
 旧制高知高等学校(Wikipedia)を見ると、鈴木卓苗が校長事務取扱をしたのが1923年12月から1924年2月、阿部孝が校長事務取扱をしたのが1946年2月から6月であることがわかります。阿部の方は、その後校長になっていますね。
 思えば、東北出身の阿部孝が、他にも希望すれば全国の好きな土地の教授になれたでしょうに、なぜわざわざはるか遠い南国高知に赴任したのかということも不思議です。

 それで、このあたりにまつわる鈴木卓苗と阿部孝の関係、ひょっとしたら、阿部孝がはるばる高知高等学校に赴任したのは、鈴木卓苗からの推薦なり依頼があったからなのではないか、それも含めて二人の交友関係を示す資料や書簡などは残っていないか・・・?。そういう事柄について、研究者の方から質問されたのです。
 もちろん私は、その場ではそんなことはわかりませんでしたので、これも京都へ戻ってからお孫さんに尋ねてみました。
 結果は、卓苗氏の遺品は一部は残っているが、そのような交友関係を示すような書簡や資料というのは残念ながら心当たりはない、ということでした。ただ、近くに神社があったという話は、誰かから聞いたような憶えはある、また機会があれば、資料も探してみたいということでした。


 このお孫さんは、もちろん私よりも年配の方なのですが、東北から遠く離れてずっと愛知県や京都で暮らしてこられ、やっと最近になって、延命寺の桜羽場家や、鈴木卓苗氏が養子に行った先の盛岡市乙部の如法寺との交流が復活し、宮澤賢治との縁についても知るようになったのだということです。
 そういうご縁が新たにいろいろ生まれる中で、数年前に私も賢治を仲立ちにしてお近づきになる機会を得て、さらに一昨年の震災後には、乙部の如法寺を通して沿岸部に様々な物資を送ったり、「イーハトーブ・プロジェクトin京都」を一緒にやるようになったり、今もまだだんだんと全国的なご縁は、広がりつつある最中です。

 今年の賢治忌に花巻において、鈴木卓苗氏に関して何人かの方々から声をかけていただいたことで、またここに新たにご縁の輪が広がろうとしている、そんな予感もする今日この頃です。

「花巻ゆかりの人物(十) 鈴木卓苗」(鎌田雅夫)
『花巻史談』第16号より

鈴木卓苗先生

 記事の更新が滞ってしまいまして申しわけありません。自宅のパソコンが壊れてしまい途方に暮れていたのですが、何とかハードディスクは取り外して、過去のデータは救い出すことができました(おかげで、この10年あまりの間に花巻などで撮ってきた写真も失わずにすみました)。
 しかしディスクはかなり傷んでいたので、やむをえず新しいパソコンにして、何とかブログを書ける程度の状態に設定できたところです。

 この間、9月5日には「第2回 京都・賢治の祭り」という催しで、「宮沢賢治の京都」という話をさせていただいたりしたのですが、その内容をご紹介するには、もう少し時間がかかりそうです。何分このパソコンには、まだ Word も PowerPoint もインストールしていないもので・・・。

 ところで、昨年の「京都・賢治の祭り」の際にも書いたのですが、この催しが行われている「アートステージ567」というイベントスペースを運営しておられるHさんは、賢治や花巻と不思議な絆をお持ちの方なのでした。
 その縁は、例えば「春と修羅 第二集」の「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」という作品に現れています。やや長い詩ですが、花巻の中根子という地区にある「延命寺」の名物、五本の巨大な杉を眺めつつ、賢治があれこれ思いを巡らせているところです。

  五二〇

               一九二五、四、一八、

地蔵堂の五本の巨杉(すぎ)が
まばゆい春の空気の海に
もくもくもくもく盛りあがるのは
古い怪(け)性の青唐獅子の一族が
ここで誰かの呪文を食って
仏法守護を命ぜられたといふかたち
   ……地獄のまっ黒けの花椰菜め!
     そらをひっかく鉄の箒め!……
地蔵堂のこっちに続き
さくらもしだれの柳も匝(めぐ)る
風にひなびた天台寺(でら)は
悧発で純な三年生の寛の家
寛がいまより小さなとき
鉛いろした障子だの
鐘のかたちの飾り窓
そこらあたりで遊んでゐて
あの青ぐろい巨きなものを
はっきり樹だとおもったらうか
   ……樹は中ぞらの巻雲を
     二本ならんで航行する……
またその寛の名高い叔父
いま教授だか校長だかの
国士卓内先生も
この木を木だとおもったらうか
  洋服を着ても和服を着ても
  それが法衣(ころも)に見えるといふ
  鈴木卓内先生は
  この木を木だとおもったらうか
    ……樹は天頂の巻雲を
      悠々として通行する……
いまやまさしく地蔵堂の正面なので
二本の幹の間には
きうくつさうな九級ばかりの石段と
褪せた鳥居がきちんと嵌まり
樹にはいっぱい雀の声
    ……青唐獅子のばけものどもは
      緑いろした気海の島と身を観じ
      そのたくさんの港湾を
      雀の発動機船に借して
      ひたすら出離をねがふとすれば
      お地蔵さまはお堂のなかで
      半眼ふかく座ってゐる……
お堂の前の広場には
梢の影がつめたく落ちて
あちこちなまめく日射しの奥に
粘板岩の石碑もくらく
鷺もすだけば
こどものボールもひかってとぶ

 で、この作品と「アートステージ567」のHさんつながりというのは、22行目に「いま教授だか校長だかの/国士卓内先生も」と登場し、27行目には「鈴木卓内先生は」として出てくる人物が、なんとHさんのお祖父さんにあたられるというのです。
 「鈴木卓内先生」は、正しくは「鈴木卓苗先生」です。花巻の言葉ではイとエが似ているので、賢治が「タクナエ」と「タクナイ」を間違ったのではないかという説もありますが、「下書稿(二)」の推敲過程では「卓苗」と書いている段階もありますから、賢治はわかった上で個人名をそのまま出すことを憚って、意識的に変えたのかもしれません。

 上の作品中の12行目に、「悧発で純な三年生の寛の家」とあるのは、農学校における賢治の教え子、桜羽場寛のことで、鈴木卓苗氏は寛の叔父(父の弟)にあたります。卓苗氏の元の名前は「桜羽場泰太」といいますが、次男で寺の跡継ぎになる必要はないため、鈴木家に養子に行きました。
 そして、師範学校を卒業してからは全国各地で教職を歴任し、新潟県の高田中学校、高知高等学校、栃木師範学校などで校長を務めた後、盛岡に私立岩手中学校が設立されるにあたり、創立者の三田義正氏に請われて初代校長として迎えられます。
 賢治が上の作品で「いま教授だか校長だか」と書いた時点では、栃木師範学校の校長をしていたことになるようです。

 さて、今回私がHさんからお聞きして感激したのは、この鈴木卓苗氏と賢治が、一緒に写っている写真が存在していたということです。下は、『新校本全集』にも載っている1906年(明治39年)8月9日、大沢温泉における「第八回仏教講習会」の記念写真です。

第八回仏教講習会(大沢温泉)

 写真中、(1)が賢治、(2)が父の政次郎、(3)が妹のトシ、(4)がこの年の講師の暁烏敏ですが、Hさんによれば左から2人目に写っている(5)の人物が、鈴木卓苗氏なのだそうです。
 あんまり小さいので、下にちょっと拡大しておきます。

鈴木卓苗

 他の大人たちはみんな浴衣の着流しなのに、一人袴をはき、「謹厳実直」という雰囲気が漂っています。後に校長先生を歴任するような威厳が、すでに感じられますね。
 「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」では、「洋服を着ても和服を着ても/それが法衣(ころも)に見える」と、ちょっとユーモラスに紹介されていますが、確かにそう言えなくもありません。
 鈴木卓苗氏(桜羽場泰太氏)の実家「延命寺」は、明治維新までは修験道、維新の神仏分離によって天台宗になりましたが、浄土真宗を基本とした「仏教講習会」にも、積極的に参加しておられたわけですね。お寺に生まれ、何を着ても「法衣に見える」というほどですから、教育者であるとともに仏教への信仰が篤かったのでしょう。
 そしてこの時に、まだ10歳ほどの賢治と出会っていたことは、きっとその後も2人お互いの記憶に残っていたのではないでしょうか。

(注:当初、写真に付けていた(5)の印が間違っていました。お詫び申し上げるとともに、ご指摘いただいたHさんに感謝申し上げます。)

 あと、賢治と鈴木卓苗氏の間接的なつながりとしては、斎藤宗次郎氏を介してのものがあります。
 花巻のキリスト者、斎藤宗次郎氏は、賢治の19歳も年長ですが、宗教は違っても賢治に一種の尊敬を払っていたようで、しばしば賢治が農学校に勤めていた頃には、職員室に賢治を訪ね、話をしたり、賢治の詩の朗読を聞いたりしたようです。斎藤宗次郎の日記的自伝である『二荊自叙伝』によれば、1924年(大正13年)8月26日、斎藤宗次郎氏は花巻農学校の職員室に賢治を訪ね、蓄音機でドヴォルザーク「新世界」のラルゴ(「種山ヶ原の歌」)、ベートーヴェン交響曲6番「田園」、8番などを一緒に聴いたようです。
 そしてその足で、斎藤宗次郎氏は夏休みで帰省していた鈴木卓苗氏を桜羽場邸に訪ね、教育問題などについて意見を聞いています。卒業後の道は大きく違う結果となりましたが、鈴木卓苗氏と斎藤宗次郎氏は、少年時代4年間(稗貫高等小学校?)の同窓生だったのです。
 『二荊自叙伝』によれば、すでに地元では名士となっていた鈴木卓苗氏が帰省している機会に、同窓生が氏を囲んで料亭で「懇親会」を開いたところ、飲酒に反対する斎藤宗次郎氏は出席せず、翌日の個別の面会となったようです。

 最後に下の写真は、2000年に写してきた延命寺の巨杉です。右下に小さく屋根が見えているのが、地蔵堂です。
 しかし現在は、この賢治も親しんだ杉は伐採されて、この地には切り株が残されているだけとなりました。このことは、京都に住むHさんも、残念がっておられました。

延命寺地蔵堂の巨杉

 今日は、先日ご紹介した「'09 京都・賢治の祭り」の最終日で、私は昼すぎに自転車で行ってきました。

 会場の「アートステージ567」というスペースは、下写真のような京都らしい町家を改修した建物の、2階部分にあります。道路に置いてある青いポスターを貼った看板が、今回の「'09京都・賢治の祭り」の案内です。建物1階は、「コロナ堂」というおしゃれな雑貨屋さんになっています。

「コロナ堂」と「アートステージ567」

 私は、11日(木)の、アニメーション「よだか」の上映と朗読、という回も拝見させていただきました。かいずけん氏という映像作家の、美しい光と影の表現が、印象的でした。
 今日は、「フィナーレ」と題して、この数日間に登場した様々な方が朗読をしたり、歌を唄ったり、パフォーマンスをしたりという、にぎやかな催しでした。
 下写真は、ギターの三島邦生さんの伴奏で、みんなで「星めぐりの歌」を唄ったところです。左側の方が、会場の人のために歌詞を示してくれています。

「星めぐりの歌」合唱

 あと、今日のイベントに参加してみて私が本当に驚いたのは、このスペースを運営し、1階の「コロナ堂」も経営しておられる方が、「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」に「鈴木卓内先生」として登場する鈴木卓苗氏のお孫さんだった!ということでした。
 その方は、最近になって初めて花巻を訪ねられたのだそうですが、残念ながら地蔵堂の巨杉は伐採されて切り株だけになった後だったとのことです。(まだ巨杉が残っていた頃の地蔵堂は、「巨杉」詩碑のページ参照。)

 それにしても、花巻からこんなに離れた京都にも、賢治と何らかのゆかりのある方が暮らしておられて、そして直接お目にかかれるとは、私にとって幸福なサプライズでした。「出会い」というのはあるもんですね。


 最後に下写真は、会場で展示されていて、あんまりかわいいので思わず買ってしまった、「猫の事務所」の事務長と書記たちです。

事務長と書記たち

一本杉~五本杉

 賢治が好きだった樹木としては、「銀どろ」「ラリックス」などいろいろあるでしょうが、一見ありふれた「杉」というのも、賢治にとっては親しく様々な思いをこめることの多かった木だったようです。

 たとえば、「〔冬のスケッチ〕」の第39葉から第40葉にかけては、

すぎはいまみなみどりにて
葉をゆすり 葉をならし
青ぞらにいきづけること明らけし。
        ※
ある年の気圏の底の
春の日に
すぎとなづけしいきものすめりき
        ※
そらの椀
ほのぼのとして青びかり
気圏の底にすぎとなづくる
青きいきものら
さんさんといきづき 葉をゆする
        ※  木とそら。
そらの椀
げにもむなしくそこびかり
杉はまさしく青のいきもの
額(ぬか)くらみ。
        ※
そらはよどみてすぎあかく

と、杉を連続して描写している箇所があります。
 見慣れたはずの杉を、「すぎとなづけしいきもの」としていったん対象化すると、「青きいきものら」は「さんさんといきづき 葉をゆする」姿で、生気を帯びて呼吸を始めます。とりわけ、「杉はまさしく青のいきもの」という箇所には、賢治が自分と杉を同一視するほどの親近感が現れているように、私には思えます。
 また、上に出てくる「気圏の底の春」という言葉は、後に心象スケッチとして作品化される「春と修羅」にも通じるものであり、そうなるとこの「杉」は、「春と修羅」において、「ZYPRESSEN 春のいちれつ」、「ZYPRESSEN しづかにゆすれ」、「ZYPRESSEN いよいよ黒く」とたたみかけるように描かれた「ZYPRESSEN(糸杉)」にも、つながることになります。
 また、歌稿〔A〕には「ゴオホサイプレスの歌」として、

759 サイプレスいかりはもえてあまぐものうづまきをさへやかんとすなり

Gogh: Road with Man Walking, Carrige, Cypress, Star and Crescend Moonなどの連作があり、これはおそらくゴッホの「糸杉」の絵に触発された歌かと思われますが、この「サイプレス」ももちろん、「春と修羅」の「ZYPRESSEN」の前身の一つと言えるでしょう。
 すなわち、「ゴオホサイプレスの歌」と、上の「〔冬のスケッチ〕」の延長線の交わるところに、かの「ZYPRESSEN」は位置すると言えるかもしれません。

 そのように親しく深い、賢治と杉との関わりだと思うのですが、今回は「一本杉」「二本杉」・・・というふうに、「本数」とともに賢治の作品に登場する杉を、見てみることにします。


1.一本杉

 『春と修羅』に収められている「天然誘接」という作品の中には、次のような箇所があります。

いつぽんすぎは天然誘接(てんねんよびつぎ)ではありません
槻(つき)と杉とがいつしよに生えていつしよに育ち
たうたう幹がくつついて
険しい天光(てんくわう)に立つといふだけです (強調は引用者)

 ここに登場する「いっぽんすぎ」とは、現在は花巻市北西部の旧湯口村地区に地名だけ残る「一本杉」のあたりにあった大木だということで、上の作品にあるとおり、「槻と杉の巨木が接合した珍木」だったそうです。

 菅原千恵子氏は『宮沢賢治の青春 “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』において、この「一本杉」を、一時の賢治と嘉内の二人の姿を投影したものと解釈して、次のように推測しています。

 種類の異なった二つの木の幹が接合し一本の巨木になって険しい天光に立つという姿は、共に理想を同じくして歩いていく二人の姿に似ているところから、自分たちの姿になぞらえてよく話題にしていたにちがいない。

 そして保阪嘉内が、盛岡高等農林学校の地質調査旅行で秩父地方に向かう途中、盛岡から南下する列車が花巻を通過した際に詠んだ次の短歌、

花巻と聞けばこれでも
窓をあげて
まつくらのなかに
杉を見にけり

に登場する花巻の「杉」とは、この「槻と杉の巨木が接合した一本杉」だったのだろうとしています。たしかにこの短歌における嘉内は、意識的に「杉」を見るために窓を上げたかのようにも読めます。岡澤敏男氏も、「盛岡タイムズ」連載の<賢治の置き土産>において、同様の推測をしておられます。
 これがいったいどんな「珍木」だったのだろうと興味は湧きますが、現存しないのは、残念なことです。

 あと、他の賢治の作品では、「春と修羅 第三集」の「〔エレキや鳥がばしゃばしゃ翔べば〕」において、

エレキや鳥がばしゃばしゃ翔べば
九基に亘る林のなかで
枯れた巨きな一本杉
もう専門の避雷針とも見られるかたち (強調は引用者)

として登場する「枯れた巨きな一本杉」があります。これが、「天然誘接」に登場した「いっぽんすぎ」と同じ杉なのかどうかわかりませんが、もし同一の木であったならば、この作品の日付である1927年5月の時点で、すでにこの珍木は枯れ始めていたことになります。

2.二本杉

 賢治の作品において「二本の杉」は、まず先月に「「雲の信号」と雁(つづき)」で引用した、「〔冬のスケッチ〕」第22葉・第23葉の次の箇所に登場します。

おゝすばるすばる
ひかり出でしな
枝打たれたる黒すぎのこずえ。
        ※
せまるものは野のけはひ
すばるは白いあくびをする
塚から杉が二本立ち
ほのぼのとすばるに伸びる。
        ※
すばるの下に二本の杉がたちまして
杉の間には一つの白い塚がありました。
如是相如是性如是体と合掌して
申しましたとき
はるかの停車場の灯(あかし)の列がゆれました。 (強調は引用者)

 この、「二本の杉」と「塚」があったのがどこなのか、はっきりとした手がかりはありませんが、佐藤勝治著『宮沢賢治 青春の秘唱 “冬のスケッチ”研究』では、鍋倉・円万寺方面と推定されています。花巻駅の西方に広がる野原や林を、当時の賢治はいつも彷徨していたというのが、佐藤勝治氏の推測です。

 「二本杉」はまた、「春と修羅 第二集」の「郊外」にも、次のように登場します。

西はうづまく風の縁(へり)
紅くたゞれた錦の皺を
つぎつぎ伸びたりつまづいたり
乱積雲のわびしい影が
まなこのかぎり南へ滑り
山の向ふの秋田のそらは
かすかに白い雲の髪
    毬をかゝげた二本杉
    七庚申の石の塚
たちまち山の襞いちめんを
霧が火むらに燃えたてば
江釣子森の松むらばかり (強調は引用者)

 「西はうづまく風の縁」、「山の向ふの秋田のそら」とあることから、ここで作者は西の方角を向いているようで、さらにその方向に「江釣子森」が見えているわけですから、舞台はやはり鍋倉・円万寺あたりと思われます。そして、ここでも二本杉と一緒に「塚」があるとなると、これは上記の「〔冬のスケッチ〕」第22葉・第23葉と同じ「二本の杉」だったのではないかと思われます。

 一方、上記とはまったく別の場所なのですが、賢治の作品にはもう一つ、印象的な「二本の杉」が登場するものがあります。
 それは、「文語詩未定稿」に収められている「」という作品です。

   丘

森の上のこの神楽殿
いそがしくのぼりて立てば
かくこうはめぐりてどよみ
松の風頬を吹くなり

野をはるに北をのぞめば
紫波の城の二本の杉
かゞやきて黄ばめるものは
そが上に麦熟すらし

さらにまた夏雲の下、
青々と山なみははせ、
従ひて野は澱めども
かのまちはつひに見えざり

うらゝかに野を過ぎり行く
かの雲の影ともなりて
きみがべにありなんものを (以下略・強調は引用者)

 ここに描かれている状況は、賢治が胡四王山に登り、熱い思いを胸にはるか北を望んで、先日もご紹介した高橋ミネさんの故郷である日詰町方面を眺めているところと推測してみることができます。「かのまち=日詰町」は「つひに見えざり」と賢治は嘆息していますが、「紫波の城の二本の杉」は見えたように書かれています。
 これは、日詰町の北にある「城山」の二本の杉で、小川達雄著『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』には、当時の絵葉書の写真が掲載されています(下写真)。

紫波城の二本杉

 賢治が、胡四王山から18kmも離れた城山の「二本杉」をはたして見ることができたのかどうかは疑問が残りますが、小川達雄氏は、「思うにこれは、賢治がそれまでに何度か志和の城にやって来ていて、それで麦畑や二本杉を知っていた、ということではあるまいか」と解釈しておられます。はっきりと視認できたわけでなくても、賢治の「心の眼」には見えていたのかもしれません。

3.三本杉

 残念ながら賢治の作品には、「三本杉」というのは見当たらないようですね。

4.四本杉

伐採前の四本杉 「四本杉」というのは、現在の花巻中学校の北側にあった、四本の大きな杉でした(右写真)。樹齢三百年を越える古木で、昔は「万丁目ヶ原のシンボル」と言われていたそうですが、落雷などにより惜しくも1978年に伐り倒されたということです(宮沢賢治学会・花巻市民の会編『賢治のイーハトーブ花巻』より)。

 賢治の作品で「四本杉」が登場するのは、先月にも取りあげた「雲の信号」(『春と修羅』)です。

「四本杉跡」標注山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる

 この四本杉は、昔は賢治の自宅からも見えて、5月の宵にはちょうど「すばる星」が沈む方角だったのではないかというのが、上記記事における私の憶測でした。
 現在この四本杉があった場所には、右のような標識が立てられています。そして近くの花巻中学校には、「雲の信号」詩碑もあり、「四本杉ゆかりの地」と刻まれています。

5.五本杉

 賢治の作品で「五本杉」が登場するのは、「春と修羅 第二集」の「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」です。

地蔵堂の五本の巨杉(すぎ)が
まばゆい春の空気の海に
もくもくもくもく盛りあがるのは
古い怪(け)性の青唐獅子の一族が
ここで誰かの呪文を食って
仏法守護を命ぜられたといふかたち
   ……地獄のまっ黒けの花椰菜め!
     そらをひっかく鉄の箒め!……

地蔵堂と巨杉 この五本の巨杉があったのは、延命寺というお寺の「地蔵堂」で、寺の縁起を記した説明板には、「天平元年(729)六月廿三日 延命地蔵菩薩と護世天(毘沙門天)ともう一柱の神の三神が 此の地の信者の前に顕れて 子孫の繁昌と安産を守ろうと誓われ杉の杖三本を此の地に指しておかれたのが根が出来枝葉が繁って栄えたもので此の巨杉は子持杉の名でよばれています」と、書かれています。
 古くは三本の杉だったのが、時代とともに五本に殖えて、それが「子持杉」という呼称を生み、そこからさらに「子孫の繁昌と安産」の御利益が信じられるようになったのかもしれません。
 少し前までは、右写真のように賢治の当時の見事な杉の巨木が残っていたのですが、残念なことにこの杉も、最近になり伐採されてなくなってしまったようです。

 ただ、現在もその境内には「巨杉」詩碑が建てられていて、かろうじて往時を偲ばせてくれます。


 以上、賢治の作品に出てくる一本杉~五本杉を見てみました。これを地図に表示してみると、下のようになります。いずれも、花巻の西郊外にあったわけですね。(東北本線に沿って、地図をずっと北にドラッグしていただくと、紫波中央駅も過ぎたあたりに、日詰の城山の「二本杉」の位置にもマーカーが付けてあります。)

「展勝地」という断片

 「【新】校本全集」の「補遺詩篇 I 」に、「展勝地」という口語詩の断片が収められています。先日ここに書いた「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」と同様に、この作品も「丸善特製 二」原稿用紙に、「青っぽいインクで」、「きれいに」書かれている、「清書稿」です。
 用紙の裏面には、童話「毒もみの好きな署長さん」の草稿が書かれているところも同じですが、「〔大きな・・・〕」が頭を欠いて終わりの6行だけが残存しているのと対照的に、こちらは題名を含めて初めの方だけが残されて、途中で切れてしまっています。

北上展勝地 内容を見てみると、まず題名の「展勝地」というのは、現在は北上市立公園として北上川東岸に広がる、桜の名所のことですね(右写真)。ここは、青森の弘前城、秋田の角館とともに、「みちのく三大桜名所」と並び称されているそうです。こちらのページからは、展勝地公園のライブ映像を、Webカメラで見ることもできますので、お試しください。
 本文では、「落葉松」が「青い」というのですから、季節は春からせいぜい初秋までの間と思われます。しかし「そらはいよいよ白くつめたく」という描写は、夏の盛りという雰囲気でもありません。
 全体を通読すると、これは賢治が農学校の教師として、生徒を引率して「展勝地」の公園まで、遠足か何かで来た時の様子なのではないかと思われます。
 残されたテキスト中、最も重要な手がかりになるのは、15行目の「桜羽場君、」という呼びかけです。このちょっと珍しい名字は、花巻農学校三回生名簿の中に、「桜羽場 寛」として見つけられます。

 桜羽場寛は、1922年4月に花巻農学校に入学して、1924年3月に卒業した生徒でした。つまり、1921年12月に着任した賢治にとっては、初めて新入生として迎えた学年ということになります。
 桜羽場君は、これ以外の賢治作品にもけっこう登場していて、まず短篇「台川」では、「桜羽場が又凝灰岩を拾ったな。頬がまっ赤で髪も赭いその小さな子供。」として描かれています。また、「春と修羅 第二集」の「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕(下書稿(二献呈桜羽場)」には、「かしこくむら気な桜場寛の生れた家だ」という一節があります。後者でわかるように、彼は、地蔵堂で名高い「延命寺」という寺の息子だったのです(「巨杉」詩碑参照)。
 さらに、桜羽場が卒業してまもない1924年の5月には、前月に刊行した『春と修羅』を、賢治は署名入りで贈呈しています(右写真)。
 このような様子を見ると、賢治はこの桜羽場寛という小柄で利発な生徒を、かなり可愛がっていたのだろうということが推測されます。

 さて、ここからが本論なのですが、この「展勝地」という断片も、「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」が『春と修羅』の時期に属しながら結局は詩集に収められなかったと推測されるように、やはりいったんは詩集用に清書されながら、最終的には割愛された作品の断片なのではないでしょうか。
 その一つの根拠は、やはりこれも「丸善特製 二」原稿用紙に「青っぽいインクで」「きれいに」書かれているという原稿の状態が、『春と修羅』の清書稿と同じであること、それからもう一つの根拠は、桜羽場寛が在学した期間が、『春と修羅』の時期と一致しているということです。

 『春と修羅』に収められている作品が書かれたのは、1922年1月から1923年12月まで、「春と修羅 第二集」が始まるのは、1924年2月の「空明と傷痍」からでした。
 一方、「展勝地」が書かれたのは、上記の事実から桜羽場寛が在学中、すなわち1922年4月から1924年3月までの間のことと推定され、これはほとんどが上記『春と修羅』の期間に相当します。1924年の2月と3月だけは「春と修羅 第二集」と重なりますが、この時期は落葉松が「青い」というには、まだ少し早いですね。
 そうすると、やはりこの作品は『春と修羅』の時期のものと考えるのが自然だと思います。

 また前述のように、「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」の用紙と同じく、この作品の原稿用紙の裏面にも、童話「毒もみの好きな村長さん」が書かれています。このことは、賢治がこの童話の草稿を書きつけようとした時に、これら二作品の用紙が一緒に保存されていた可能性を強く示唆します。もしも前者が『春と修羅』に収録を検討されたことがあったのなら、後者も同じような立場だったことがあるのではないでしょうか。

 このようなことは、おそらく研究者の方々にとっては周知のことなのだろうと思うのですが、たまたま「牧馬地方の春の歌」を見るために全集第五巻を繙いている時に気づいたので、とりあえず自らの覚え書きのために記しておきます。
 ちなみに、展勝地公園が開園したのは1921年5月、すなわち賢治たちが遠足に行ったであろう頃は、まだ誕生してから1~2年という時期だったことになりますね。

展勝地周辺案内図
展勝地周辺案内図(北上市ホームページより)