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肥料→搗粉→壁材

 前回の記事を書いた翌日に、「賢治の事務所」の加倉井さんが、「〔停車場の向ふに河原があって〕」の作品中に出てくる「横沢」という場所のさらに奥まで、タクシーで現地調査をされた報告がアップされました(「緑いろの通信」8月2日号)。私が陸中松川や猊鼻渓に行っていた前の週に、加倉井さんはここまで足を伸ばしておられたんですね。その素晴らしいフットワークに、感激です。
 そしてその内容も、私にはたいへん示唆的でした。前回の記事で触れたように、賢治と鈴木東蔵は1931年(昭和6年)6月14日に、陸中松川駅から北に約6kmのところにある「高金赤石採掘場」を訪ねたという記録がありますが、加倉井さんは、この日2人は高金からさらに北で「紫雲石」が採掘される「夏山」という地区まで行ったのではないか、そしてその途中で、「横沢」を通ったのではないかとの推測を述べておられます。
 これは、「〔停車場の向ふに河原があって〕」の内容と、そして当時ちょうど東北砕石工場として本格的に壁材製造に乗り出そうとしていた状況を考えると、非常に魅力的な仮説のように私にも思われます。

 まず作品内容との関連で見ると、もしこの日に賢治たちが横沢を通っていたとすると、作品後半の

ところがどうだあの自働車が
ここから横沢へかけて
傾配つきの九十度近いカーブも切り
径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ
そのすさまじい自働車なのだ

という部分はそのまま、ついさっき賢治たちが「自働車」に乗って体験してきた情景になります。作品の前半部には猊鼻渓が出てきますが、賢治たちがこの日猊鼻渓を訪れたのは、記録からも確かめられています。
 つまり、これらの描写は両方とも、おそらく数時間前の実体験にもとづいていたことになるわけです。
 だとすれば、陸中松川駅の向こうを「ちよろちよろ」流れる水とその上流の猊鼻渓との対比、それから目の前に停まっている「がたびしの自働車」と「巨礫の道路も飛ぶすさまじい自働車」との対比は、両方とも今ここにある現象と、ついさっきの2人の体験との対比だということになります。
 そうであれば、よりいっそうこの「対比」は、鮮やかで印象的なものになるではありませんか。

 一方、東北砕石工場の壁材製造への取り組みは、賢治のこの6月14日の工場訪問以降、実質的に始まったようです。
 それ以前の賢治の鈴木東蔵あて書簡には、壁材に関する話は全く出てきませんが、早くも高金視察の4日後にあたる6月18日の書簡[362の1]には、次のように書かれています(強調は引用者)。

今朝商工課に参り北海道へ出品打合致し候処場処至って狭隘に付 二尺に一尺三寸の建築材料の原品及製品の額面一枚及標本瓶高さ一尺位のものへ肥料搗粉三乃至五種位とせられたしとの事外に広告は何枚にても頒布を引受くべく卅日迄に県庁へ持参あとは県にて運送との事に候。就て御手数乍ら別葉の分至急御調製御送附奉願候

 これが、賢治の東蔵あて書簡において、石灰肥料でも搗粉でもなく「建築材料」の話が出てくる最初の例だと思いますが、さらに上にある「別葉」は、下記のとおりです(書簡[362の2])。

続き、
 一、白き石にて製したる搗粉一ポンド
 二、仝  肥料二粍以下一ポンド
 三、仝  仝  一粍以下一ポンド
 (四、赤間は花巻に有之)
 五、紫石にて製したるもの粗細二種位 各三ポンドづつ
 六、青石にて仝上  各三ポンドづつ
尚豊川商会、吉万商会(肥料屋の分家)を歩き吉万より赤間二斗入り十俵或は五俵の注文を得候

 「白き石」と書いてあるのは、「搗粉」や「肥料」の原料となっているところから、もちろん石灰岩のことです。わざわざ「白き」と指定しているのは、石灰岩と言っても白っぽいものから灰色のものまでいろいろある中で、見映えのよい建築材料とするために、特に白いものを指定しているのでしょう。
 四、の「赤間」は、「赤間石」のことと思われます。これは、「花巻に有之」と記されていて、6月14日に高金地区で視察した「赤石」を賢治が持ち帰ったのか、もともとどこかで採取したものを花巻に持っていたのか、わかりません。ただし、本来「赤間石」と呼ばれる石は、山口県宇部市北部の名産で、「赤間硯」という日本でも最高級の硯の材料にされる輝緑凝灰岩です。ここに書かれている「赤間」が鉱物学的に何を指しているのか、現時点では私にわかりません。
 五、の「紫石」は、田河津村夏山で採取される「紫雲石」と思われます。加倉井さんも引用しておられたように、伊藤良治著『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』p.60には、鈴木東蔵はすでにこの場所の「紫雲石」の採取契約をしていたことが記されています。

大正十一年 田河津高金での砥石材「泥灰岩」の採掘を始める
大正十三年 東北砕石(消石灰、石灰砕石、壁材料製造)工場事業創業
大正十五年 田河津村夏山で紫雲石(壁材料)採取契約

 6月14日の高金視察直後の18日に、「紫石」の話も出ているということは、賢治たちが14日に夏山の紫雲石も見ていたのではないかという推測を、支持してくれるように思われます。
 なお、こちらのページこちらのページには、この夏山地区の紫雲石で作られる高級硯が紹介されています。紫雲石は赤紫色をしていますが、鉱物学的には「赤間硯」の赤間石と同じ「輝緑凝灰岩」なのです。

 さらに、7月11日付けの鈴木東蔵あて書簡[368]より。


拝啓 同封注文着致居候間左記御取計奉願候、
 中林商店宛               養鶏用石灰        拾俵
                       赤間砕石(一分五厘) 拾俵
                       紫砕石(  仝  )   拾俵
                       紫壁砂          拾俵
                       搗粉(麦搗用)      適宜
 花巻出張所宛             赤間砕石(一分五厘) 拾俵
                       紫砕石(  仝  )   拾俵
                       搗粉(麦搗用)     弐拾俵
                       紫壁砂          拾俵
 鉈屋町吉万壁材料店宛       赤間砕石         五俵
                       紫砕石          五俵
                       紫砂            五俵

 早くも、石灰肥料や搗粉よりも、壁材(赤間砕石、紫砕石、紫壁砂)の取り扱いの方が多くなっています。

 そして、7月14日付け鈴木東蔵あて書簡[370]で、初めて東京・関西出張の提案を自ら申し出ます。

拝啓 御送附の青石早速左官及コンクリー職の人々に照会候処壁砂及人造石材料として矢張相当見込あるべきも価格は紫に及ばざるべき由略々貴方の御見込位らしく御座候 但し何分にも之等の品は大問屋よりも思ひ切って小口に各使用者へ送り候方当方としても割に合ふらしく候 出来得べくば前便八噸中へ右青石及黄黒は見本として十貫宛にてもお入れ願ひ度然らば直次第例の標本作成にかゝり、その上東京関西需用者へ思っ切って宣伝致し見度存候(以下略)

 これが結局は、同年9月19日からの東京出張と、東京における結核の急性増悪につながるのですが、それまで岩手周辺だけでも苦労していた営業活動を、東京のみならず関西にまで一気に拡大を狙うとは、かなりの冒険と言わざるをえません。あるいは賢治には、壁材見本の出来映えに、よほどの自信があったのでしょうか。


 それはともかく、東北砕石工場の嘱託技師となってからの賢治の軌跡を、ここであらためて振り返ってみます。
 そもそも賢治がこの仕事を引き受けたのは、岩手を中心とした酸性土壌の改良に石灰肥料を用いることが、農民の生活の改善にもつながると考え、また鈴木東蔵の意気にも感じたことが、その発端でした。
 賢治が「炭酸石灰」とネーミングし、広告文やキャッチコピーも考えた営業戦略、そして縦横無尽に展開した販売活動によって、石灰肥料はかなりの売り上げを得ました。
 しかし、肥料が売れる時期は、1年のうちでも限られています。売り上げが落ちて工場の操業が苦しくなってくると、次は精米を行う際の「搗粉」として石灰岩抹を売り出すことにして、その広告文も賢治が考えました。
 またしかし、この「搗粉」としての売り込みも思うような結果が出ず、次には石灰岩抹だけではなく他の鉱石も併せて、「壁材」として販売する計画を立てます。賢治は、様々な色の岩石の砕片や粉を配合して固めたサンプルを自作し、これを東京や名古屋方面に売り込もうとしました。
 ところがその道半ばにして、東京に着いた直後に高熱で倒れてしまったのです。

 もともと農民のための献身をしようとしていた賢治にとって、石灰肥料の普及は、東北地方の農業の生産性を高め、農家の生活改善にも役立つ可能性のある事業でした。だからこそ、病み上がりの賢治も引き受けたはずです。
 しかし、次の段階での「搗粉」としての販売活動は、まだ「精米」ということで農業と無関係ではないとも言えますが、内容的には米屋を相手にする仕事で、すでに「農民のため」とは言えなくなってきています。
 さらに、様々な岩石で建築用の壁材を作って売るとなると、これはもう農業や農民の生活とは、全く関係はありません。賢治は、東北砕石工場嘱託技師になった初心を、忘れてしまったのでしょうか。

 忘れたわけではないでしょうが、工場の売り上げを追求するうちに、だんだんと農業とは離れる方向に行ってしまったのは事実です。
 しかし一方、そもそも賢治が保阪嘉内からの決定的影響によって「農民のための奉仕」を志そうとする以前には、「石コ賢さん」と呼ばれた少年時代があったことを思い出せば、彼は無意識のうちにその原点に戻っていったのだとも言えるのではないでしょうか。

 1918年(大正7年)6月、将来の職業問題に悩んでいた21歳の賢治は、父政次郎にあてて、次のように書いていました(書簡[72])。

序を以て私の最希望致し候職業の初め方をも申し上げ候
実は私の今迄勉強したる処にては最、地に関係ある則ち岩石、鉱物等を取扱ひたくは存じ候へども右の仕事はみな山師的なることのみ多く到底最初より之を職業とは致し兼ね候
依て他に一定の職業有之候はば副業的に例へばセメントの原料を掘りて売るとか石灰岩や石材を売るとかその他に極めて小規模の工場にて出来る精錬の如き事も有之可成実験的に仕事を続け得べくと存じ候
尚ご参考の為に本県内にて充分産出の見込みある興味ある土石を左に列挙仕候
 浮岩質凝灰岩、(仙台ノ秋保石材)
 大理石、(装飾用、化学用、肥料用)
 粘板岩(建築用、瓦、石材、其他)
 白雲岩(鉱山ニテ熔剤トス)
 陶土
 白練瓦及耐火練瓦原料
 石灰岩、(セメント原料)(ポートランドセメント、水硬セメント)
 石膏、明礬、
 砂岩、硅岩(円砥石、及製紙用)
 火山灰及軽石
 硅藻土、長石、柘榴石
 石絨
 重石
 石墨
 石版石、マグネサイト、(マグネシヤ原料)
 雲母
 滑石、
(以下略)

 岩手産の鉱物を、建築材や石材にするという事業の発想が、すでにここに萌芽として現れています。
 一方、鈴木東蔵という人も、鉱石に非常に詳しく、周囲からは一目も二目も置かれる存在だったのです。下記は、伊藤良治著『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』からの引用です(p.58-59)。

 しかしながらこの事業(引用者注:田河津村高金における砥石材採取事業)以来東蔵は、<石に魅せられた男>とか、<探鉱師>と呼ばれ、「石のことなら東蔵さん」と衆目の認める独特な人生を過ごすことになっていく。著書『農村救済の理論及び実際』、『理想郷の創造』、『地方自治文化的大改造』を次々出版し、広く「理想的な農村研究家」として知られていた東蔵生涯の一大転身である。

 鈴木東蔵が、農村救済を志す若者から<石に魅せられた男>になっていった方向と、宮澤賢治が「石コ賢さん」から農業改革と農民文化の創造を目ざそうとした方向は、ちょうど逆方向に交叉するようで、興味深いものがあります。
 1931年6月14日の、高金赤石採掘場を(夏山の紫雲石も?)一緒に見て、その壁材への応用を語り合った賢治と東蔵は、石を愛する者同士としてまさに意気投合したのではないでしょうか。その時の一体感が、「〔停車場の向ふに河原があって〕」において賢治に東蔵のことを「きみ」と心の中で呼ばせることにつながっているのではないかと、私は思ったりします。
 そして、「ぼく」と「きみ」、あるいは東北砕石工場が秘めているはずのエネルギーや可能性が、この作品の潜在的なテーマになっているのではないか、とも・・・。

 それから約3ヵ月後、9月のあの悲劇の東京出張を前にして、しかしまだ嬉々として自宅で色々な砕石を配合しながら「壁材料見本」を制作していた賢治は、きっと少年の頃の「石コ賢さん」に戻っていたのだろうと、私は思います。

 ということで、石灰肥料→搗粉→壁材と、工場における賢治の仕事は、本来の「農業改革」からどんどん離れていったように見えるものの、賢治自身が子供の頃から一番好きだったものに、ある意味で回帰したようにも思える、というのが本日の記事の趣旨でした。

◇          ◇

 さて今日は、文字ばかりの味気ない記事になってしまいましたので、最後に少しだけ画像を。下の図は、国土交通省・国土調査課による「5万分の1都道府県土地分類基本調査」から、「水沢」の表層地質図の一部です。

「水沢」表層地質図より

 5万分の1地形図「水沢」がもとになっていますので、賢治がその裏に「〔停車場の向ふに河原があって〕」の草稿を書いた図と同じです。
 下の方に赤枠で囲んだ「高金」があります。「横沢」は、残念ながら右隣の「陸中大原」の方にあるので見えませんが、赤枠で囲んだ「夏山」は、再びこの図の枠内です。「夏山」の北西の方角に、細長い赤紫色の帯状になって‘rt’と書いてある部分が、この地図の呼称では「赤紫色凝灰岩」の層で、上にも触れた「紫雲石」の採れる場所と思われます。

 前回の記事でも書きましたが、賢治が「〔停車場の向ふに河原があって〕」をメモした「水沢」地形図において、この「高金」や「夏山」の箇所に、何らかの書き込みをしていないかということに、私はとても興味があります。
 もしも、「夏山」のあたりにも何らかの書き込みをしていれば、それは1931年6月14日に、賢治と鈴木東蔵がこの場所を訪れたことの有力な証拠の一つになると思うのです。

水沢の地図を持って・・・

 この頃は、「〔停車場の向ふに河原があって〕」という、最近になって発見された賢治の作品のことばかり書いている感じで、皆さまもたぶん食傷気味でしょうが、もう少しだけお付き合い下さい。

停車場の向ふに河原があって
水がちよろちよろ流れてゐると
わたしもおもひきみも云ふ
ところがどうだあの水なのだ
上流でげい美の巨きな岩を
碑のやうにめぐったり
滝にかかって佐藤猊嵓先生を
幾たびあったがせたりする水が
停車場の前にがたびしの自働車が三台も居て
運転手たちは日に照らされて
ものぐささうにしてゐるのだが
ところがどうだあの自働車が
ここから横沢へかけて
傾配つきの九十度近いカーブも切り
径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ
そのすさまじい自働車なのだ

 この作品が、いつ・どこで書かれたのかということが、とりあえず私の関心事です。「どこで」ということに関しては、冒頭に出てくる「停車場」が大船渡線の「陸中松川駅」であることは、確定的と言ってよいでしょう。その根拠については、「停車場・河原・自働車」を参照して下さい。

 一方、「いつ」書かれたのかというのは、かなり難問です。まあ、断定的なことを述べるのはまだ無理というのが現実でしょうが、とりあえずできる範囲で推測してみようというのが、今回の記事の趣旨です。

砂鉄川
砂鉄川


1.草稿の状態

 まず、この作品の草稿の状態から確認しておきます。「〔停車場の向ふに河原があって〕」のテキストは、五万分の一地形図「水沢」の裏面に、鉛筆で書かれていました。この五万分の一地形図は、枠外の余白部分を数mm残してきれいに切り落とし、16に折り畳まれていたということです。となるとこの地図は、賢治が学生時代から地質調査の際に携行していた五万分の一地形図と、全く同じ処置をされていたことになります。
 ちなみに、下写真は賢治が盛岡高等農林学校研究生時代に行った「稗貫郡土性調査」の際に用いた、五万分の一地形図「新町」です。やはり枠外を数mm残してきれいに切り落とし、16に折った折り目跡が付いています。

五万分の一地図「新町」と賢治の書き込み

 一方、この「水沢」地図裏の「〔停車場の向ふに河原があって〕」本文が記入された下方には、天地を逆にして赤鉛筆で、

White lime Stone over the river
   NS 75°

との記入があるとのことです。
 この地質学的記載の正確な解釈は私にはわかりませんが、「石と賢治のミュージアム」館長の藤野正孝氏が、地質学者である加藤碩一氏、原子内貢氏に見解を求めたところ、これは「白色石灰岩(の地層面)の「走向」がちょうど南北方向、「傾斜」は75°で川に覆いかぶさっている」という意味であり、これは猊鼻渓における最大の石灰岩露頭である「大猊鼻岩」の所見に、ぴたりと当てはまるということです。
 そうだとすれば、この赤鉛筆の記載は、賢治が猊鼻渓を訪れた時に、その場で書き込んだと考えるのが自然です。


2.乗合自動車の営業時期

 作品には、陸中松川駅の駅前広場に停まっている3台の「自働車」が描かれています。運転手たちは、今はものぐさそうな様子で、おそらく列車が駅に着いたら降りてくる客を乗せるために、待っているところなのでしょう。
 陸中松川に乗合自動車が出現したのは、駅前で競合する2つの旅館が相前後して導入したもので、1926年(大正15年)のことでした(鈴木文彦著『岩手のバスいまむかし』p.15)。そして、翌1927年(昭和2年)には、双方とも「陸中松川駅構内自動車営業許可」を受け、正式に営業運転を始めます(上掲書および『東山町史』p.770)。

 すなわち、駅前で客待ちをする自動車が描かれたこの作品が書かれたのは、少なくとも1926年(大正15年)以降と考えることができます。
 さらに、この1926年以降の賢治の健康状態を考えると、結核のために自宅から出られなかった時期は除外できますから、陸中松川まで来てこの作品を書いた可能性があるのは、(1)1926年~1928年8月、(2)1931年2月~9月、という二つの時期に分けることができます。(1)は羅須地人協会時代、(2)は東北砕石工場勤務時代です。
 この二つの時期のうち、(1)の羅須地人協会時代には、『新校本全集』の年譜で調べる限りでは、賢治が陸中松川に来たという明らかな記載は見つかりません。この時期の賢治は、毎日おもに自分の畑を耕し、時に肥料相談や農事講演のために、花巻を含めた近隣の農村に出かけたりしていました。わざわざ県南部の陸中松川まで来るとなると、教師時代のような自由な「山歩き」ではなく、明確な目的があってのことだったでしょうが、とりあえず新校本全集』の年譜には、そのような記事は見あたらないのです。
 一方、(2)の時期の賢治は、東北砕石工場技師として、陸中松川にあった工場まで、何度も足を運んでいます。

 次にはとりあえず、記録に残っている部分だけでも、賢治が陸中松川駅へやって来た時のことを見ておきます。


3.賢治の東北砕石工場来訪

 伊藤良治氏の整理によれば、賢治が陸中松川の同工場を訪れたのは、下記の7回だったということです(『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』p.118-123)。

1931年2月24日(契約金の引き渡し、当座旅費受領、記念撮影)
      3月26日(工場へ10円支払い等)
      3月30日(鈴木東蔵に65円支払い)
      4月18日(工場で宮城県庁関係の打ち合わせ後、仙台へ出張)
      5月 4日(工場で打ち合わせ後、仙台へ出張)
      5月 8日(宮城県販売方法を相談)
      6月14日(65円受領、猊鼻渓―高金赤石採掘場に案内される)

 ここで、上記のリストを見ていてどうしても注目されるのは、6月14日に工場を訪れた際に、「猊鼻渓―高金赤石採掘場に案内」されたという記述です。作品中にも、「げい美の巨きな岩」が登場するではありませんか!


4.猊鼻渓ではなく水沢の地図を持って・・・

 賢治が、生涯のうちに猊鼻渓を訪れたことが何回あったのかは、わかりません。ただ、現時点で『新校本全集』の年譜に記載されているのは、上記の一度きりです。もちろん、証拠は現存しないが行っていた可能性はあるので、この1回だけだと断定することもできません。
 ですから、賢治が赤鉛筆で「White lime Stone over the river/NS 75°」と書いたのは、1931年6月14日のことかもしれませんが、また別の機会に猊鼻渓を訪れた時かもしれないのです。

 しかし、ここに一つ、不思議な状況があります。賢治が猊鼻渓を訪れた時、もしも猊鼻渓が掲載されている地図を所持していたとすれば、「NS 75°」などという観察所見は、猊鼻渓の地図上の該当地点に書き込んだはずです。上に例示した五万分の一地形図「新町」の右半分にも、賢治はいろいろ地質学的所見を書き込んでいるのが見えますが、こうすることによって位置データと地質データをリンクすることができるわけで、これは地質学のフィールドワークの基本でしょう。
 しかし、賢治が猊鼻渓でそうせずに別の地図の裏面にメモしたということは、彼はこの時、猊鼻渓が掲載されている地図(五万分の一地形図では「千厩」)を、所持していなかったことを示唆しています。
 そして、ここまでならまあ普通にありえることですが、私が不思議と思うのは、賢治がこの時、五万分の一地形図の「水沢」の方は、持っていたということです。すなわちこの時の猊鼻渓行きは、地形図なんて不要な、軽い「お出かけ」だったわけではないのです。

 繰り返しになりますが、賢治が猊鼻渓で「White lime Stone over the river/NS 75°」という書き込みをした際、彼はあらかじめこの渓谷の地質に関心を持って訪れたのではない様子なのです。そのかわり彼は、「水沢」地形図掲載範囲のどこかに関する本来の用事があったので、その「水沢」地形図をの方を、携帯していたと思われます。猊鼻渓の方は、とっさに地層所見を別の地図裏にメモしただけで、まるで本来の用事の「ついでに見た」とでも言いたくなるような状況です。
 水沢から猊鼻渓は、「ついでに」行くにはちょっと離れていますが、五万分の一地形図「水沢」の南東隅の方ならば、猊鼻渓にかなり近づきます。


5.田河津村高金の赤石を見る

 ここで実は、賢治がまさに上の想像にぴったり当てはまる行動をした日があります。それは、上にも挙げた1931年6月14日です。
 この日、東北砕石工場を訪れた賢治を鈴木東蔵は、猊鼻渓と田河津村高金の赤石採掘場に案内しました(『新校本全集』年譜p.447)。また、東蔵氏子息の鈴木豊氏によれば、この案内には「鈴木屋旅館」の自動車を使用したということです。
 そして、この「高金」という場所が、五万分の一地形図では「水沢」に掲載されているのです。下の図をご覧下さい。

五万分の一地形図の境界

 青の文字が、五万分の一地形図の名称で、青の線がそれぞれの区画の境界です。ご覧のとおり、このあたりはちょうど地図の継ぎ目にあたっています。左下にあるように、東北砕石工場や陸中松川駅は、五万分の一「一関」の北東の隅にあり、猊鼻渓は「千厩」の北西の隅にあります。そして左上を見ていただくと、「高金」は、五万分の一「水沢」の、南東の隅にあるのです。

 ここで、私が想像するこの日の経緯は、次のようなものです。
 東北砕石工場・工場長の鈴木東蔵は、壁材原料として使える可能性のある高金採掘場の「赤石」を、地質学の専門家でもある賢治に見てもらおうと考え、工場訪問を依頼した。賢治は、高金の掲載されている五万分の一地形図「水沢」を準備して、6月14日に工場へ赴いた。
 2人が猊鼻渓と高金のどちらに先に行ったかは不明であるが、いずれにせよ、鈴木東蔵は山道で6kmも奥の高金に賢治を案内するために、自動車をチャーターして、その地質や有望性を現地で評価してもらった。
 ついでに、どうせ自動車があるなら名勝観光もということになり、東蔵は賢治を猊鼻渓にも案内した。賢治は、巨大な石灰岩露頭である「大猊鼻岩」を見て、その地層面の走向と傾斜を目測し、手元にあった五万分の一地形図「水沢」の裏面に、「White lime Stone over the river/NS 75°」とメモした。

 以上が、現時点で記録に残っている事柄を包摂しつつ、「賢治が猊鼻渓でなく水沢の地形図を持って猊鼻渓を訪れた」ということの、最も自然な説明だと私は思うのですが、どんなものでしょうか。

 6月17日発送と推測されている賢治の鈴木東蔵あて書簡[360]には、この日の訪問のことは簡単に、次のようにのみ触れられています。

拝啓 過日参上の際は色々御厚遇を賜はり寔に難有御礼申上候 その后搗粉荷為替扱方の件父へ談し略々承知を得置候間御安心被成下度尚在品整理の上再び事業費支出候様可申出その方は少々御待ち願上候(以下略)

 内容は具体的には書かれていませんが、「色々御厚遇を賜はり」という表現の内に、猊鼻渓観光までさせてもらったことも、含まれているのでしょう。


7.「〔停車場の向ふに河原があって〕」が書かれた日

 最後に、「〔停車場の向ふに河原があって〕」が書かれたのはいつか、という問題です。もし上記の推測が正しければ、この作品本文も五万分の一地形図「水沢」に書かれているわけですから、賢治がこの地形図を持って陸中松川駅を訪れた日、すなわち1931年6月14日、ということになります。
 細かく言えば、陸中松川駅で降りた時なのか、それとも赤石採掘場や猊鼻渓を見終えて、駅で列車を待っている時なのか、ということも考えてみることができます。これに関しては、後者だと思われます。

 すなわち、2人で一緒に、「げい美の巨きな岩を/碑のやうにめぐったり」して楽しんできた直後だとすれば、作品のこの箇所の表現も、より生き生きと感じられます。東蔵は、若い頃に「佐藤猊巌先生」の自宅に通い、直にいろいろ教えてもらったということですから(伊藤良治『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』)、猊鼻渓の景色を眺めつつ、彼は佐藤猊巌の人となりについても賢治に語って聞かせたかもしれません。
 また、本文には「径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ」という描写が出てきますが、この日は「赤石採掘場」を視察に行ったのですから、「径一尺の赤い巨礫」も、現地で実際に目にしたものではないかと思えます。「傾配つきの九十度近いカーブも切り/径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ/そのすさまじい自働車」とは、賢治と東蔵を乗せて高金まで往復した、その自動車のことかもしれません。

 そして、賢治が作品中で「きみ」と呼びかけている相手は、鈴木東蔵その人ではないでしょうか。
 東蔵は1891年(明治24年)生まれですから、賢治より5歳年長です。これまでは、2人は工場長と嘱託技師という関係でもあり、長幼の順もあり、賢治の書簡はいつも候文で、あらたまった態度を崩していません。
 しかし、この時おそらく、工場として壁材の製造販売にも本格的に乗り出していく方針が固まり、2人は将来へ向けた展望も語り合ったのではないでしょうか。猊鼻渓の絶景も一緒に楽しんだ2人の間には、これまでよりも打ち解けた交流が生まれた可能性があります。
 そのような2人の関わりが、賢治に東蔵のことを初めて「きみ」と表現させたのではないかと、私は思うのです。

 一日の予定を終えて、陸中松川駅まで見送りに来てくれた賢治に、東蔵は「停車場の向こうに河原があって、流れはここではちょろちょろだけれど、その上流が実はさっき行ったあの猊鼻渓なんだよ」と語りかけたのかもしれません。賢治ももちろん、それは知っていました。
 そんな東蔵に、賢治は心の中で、「きみ」と呼びかけます。そこの川は「ちょろちょろ」で、目の前の車は「がたびし」かもしれない。しかし、それらは見かけによらず、本当は内側に物凄いエネルギーを秘めているのだ。
 東北砕石工場も、今は資金繰りにあえぎながら、ちょろちょろ・がたびしと経営を続けている。しかし、我々2人は理想を共有し、「きみ」にはバイタリティが、「ぼく」にはアイディアがある。今はぱっとしなくても、内にエネルギーを秘めていることにおいては、ぼくらはあの川やあの車と同じだ。

 賢治は東蔵とともに過ごしたこの日の終わりに、こんな感慨を持って「〔停車場の向ふに河原があって〕」を書いたのではないか・・・。
 これが、この作品に対する現時点での私の感想です。


8.地図の表側は?

 これまでの報道や、『新校本全集』別巻に収録されている「〔停車場の向ふに河原があって〕」の校異には、冒頭の「1.草稿の状態」に記したように「地図の裏面」のことは書かれていますが、地図本来の「表の面」の状況については、何も触れられていません。
 ここで、私が知りたいことが一つあります。もしも、この地図の表面の「高金」の箇所に、賢治による何らかの地質学的所見の書き込みがあれば、それは1931年6月14日に鈴木東蔵に案内されて高金の赤石採掘場を訪れた際に、彼が記したものである可能性が大きいと思います。そして、そのような書き込みが存在すれば、それは賢治がこの日にこの地図を携行していたことを強く示唆し、ひいては同じ地図に書かれた作品「〔停車場の向ふに河原があって〕」も、同じ日に書かれた可能性を、間接的に支持してくれることになると思うのです。

 機会があれば、またご専門の方に教えていただこうと思っています。


【謝辞】
 「〔停車場の向ふに河原があって〕」が、1931年6月14日に書かれたのではないかということは、私が考えたのではなく、「石と賢治のミュージアム」館長の藤野正孝氏が、すでに2009年9月7日発行の「宮沢賢治記念館通信第101号」において指摘しておられることです。ここでさらに藤野氏は、「White lime Stone over the river/NS 75°」という賢治の書き込みは、猊鼻渓の「大猊鼻岩」を指しているのではないかとの考えも示されました(『月光2』における牛崎俊哉氏の論文より)。
 さらに藤野氏は、本年7月25日に行われた「グスコーブドリの大学校」における「『停車場の向ふに河原があって』現場探訪」の資料において、1931年6月14日に鈴木東蔵が賢治を猊鼻渓や高金に案内した際には「鈴木旅館」の自動車を用いたことを紹介し、また作中の「きみ」とは鈴木東蔵のことではないかとの提起をされました。
 これらの部分は藤野氏の御説を私が参考にさせていただいたものですので、ここに記すとともに、「グスコーブドリの大学校」における懇切な案内とご教示に、感謝申し上げます。

 となると、上の記事で私のオリジナルな部分は何もなくなってしまうと思われるでしょうが、しいて言えば、「なぜ賢治が「水沢」の地図を持っていたのか」という点や、最後の方の作品の(主観的な)解釈は、私自身がかろうじてひねり出したものです・・・。

 去る7月25日、一関市東山町の「石と賢治のミュージアム」で開催された、「グスコーブドリの大学校」という催しに参加してきました。本当は、大学校はこの日から2泊3日で開かれるのですが、私は都合で初日だけの出席。
 慌ただしい往復でしたが、この日に行われる「停車場の向ふに河原があって」の現場探訪に、どうしても参加してみたかったのです。

 まず会場へ行く前に、東北砕石工場跡にある食事処「ひまわり」で昼食をとりました。ここは地元のお母さんたちが運営しておられるのですが、採れたての食材を使った手作りの味で、いつも本当に美味しいのです。
 今日のメニューは、「きりむぎセット¥500」です。手打ちの「冷やし切り麦」に、茄子の味噌田楽、菊の花と胡瓜の酢の物、もぎたてのトマト、味噌焼おにぎりと胡麻のおにぎり、胡瓜の漬け物。これに、冷たい「どくだみ茶」が付いています。

食事処「ひまわり」の「きりむぎセット」

 日陰で涼しい屋外のテーブルで食事を終えると、いよいよ「グスコーブドリの大学校」会場へ。その昔、石灰肥料を運搬したトロッコ軌道跡の歩道を、「石と賢治のミュージアム(太陽と風の家)」に向かいます。岩手県も、本当に暑い陽射し。

「グスコーブドリの大学校」会場

 オープニングは、まず斎藤文一さんの講演「賢治の法華世界―基軸宇宙論をめぐって」。

斎藤文一「賢治の法華世界―基軸宇宙論をめぐって」

 賢治が手帳において「〔雨ニモマケズ〕」の後に書いた略式十界曼荼羅のこと、日蓮の法華曼荼羅に触発されて斎藤文一さんが書いた「幻想銀河鉄道いのち曼荼羅」という図式のこと、斎藤さんが考える「宇宙胚」のことなど・・・。現実の賢治の作品や思想を考察したり説明するというのではなく、賢治からインスピレーションを得て、斎藤さん独自の一風変わった(かなり変わった)世界観を披瀝する、というお話でした。

 さて、次がお目当ての、「停車場の向ふに河原があって」現場探訪。案内は、この「石と賢治のミュージアム」館長の藤野正孝さんです。

藤野正孝館長のお話

 まず、会場で「〔停車場の向ふに河原があって〕」の作品説明。藤野さんは、この作品草稿は1931年(昭和6年)6月14日に書かれたと推測しておられますが、この日に賢治は東北砕石工場を訪れ、鈴木東蔵は地元の鈴木屋旅館の乗合自働車を借り上げて、賢治を猊鼻渓および田河津地区の高金という場所に案内したということです。これについては、日をあらためて考察をしたいと思います。

 次に、会場を出てバスに乗り込みました。

現場探訪バス

 バスは、まず陸中松川駅に寄ります。この駅は、賢治も東北砕石工場へ出向くたびに何度も乗降した場所ですが、残念ながら今年の3月に改築され、現在の駅舎はごく小さなものになっています。駅前広場の広大さが、よけいに寂しさを誘います。

新・陸中松川駅と駅前広場

 下の図は、地元の方が描かれた「昭和5年頃の東北砕石工場と陸中松川駅周辺」の様子です。砂鉄川は、この図のさらに下方を流れているということです。

「昭和5年頃の東北砕石工場と陸中松川駅周辺」

 またバスに乗って、砂鉄川沿いに猊鼻渓舟下りの乗り場へ向かいます。

猊鼻渓舟下り乗り場 右写真が、猊鼻渓舟下りの乗り場。何艘もの舟が繋いであって、けっこう沢山の観光客で賑わっています。
 「大学校」のメンバーとともに岸から舟に乗り込み、靴を脱いで座ります。さっきまでの猛暑もどこへやら、いつしか空も曇って、ひんやりとした風が川面をすべってきます。

 「舟下り」とは言いますが、最初は船頭さんの操る「棹」の力で、川を上っていきます。水は透きとおって、鯉が泳いでいるのも見えます。

猊鼻渓(1)

 下写真で、右側の岩は女性の横顔のように見えるというので「少婦岩」、左側の絶壁は「錦壁岩」。

猊鼻渓(2)

 そして下写真は、猊鼻渓最大の石灰岩露頭である「大猊鼻岩」。高さは124mとか。ここへは、いったん舟を降りて、徒歩で向かいました。

大猊鼻岩

 この「大猊鼻岩」こそが、賢治が「〔停車場の向ふに河原があって〕」の草稿の余白に赤鉛筆で「White lime Stone over the river / NS 75°」と書いてあるポイントだろうというのが、藤野正孝氏の推定であり、この説にはその後、地質学者の加藤碩一氏や原子内貢氏も、賛同しておられるということです。
 「White lime Stone」とは「白色石灰石」、「over the river」とは、地層の層理面が川に覆いかぶさっていることを表しているのだ、ということです。

 地質学では、地層面(層理面)を三次元的に位置づけるために、「走向」と「傾斜」という2つの数値が用いられます。「走向」とは、層理面と水平面の交線の向きのこと、「傾斜」とは、層理面と水平面とが成す角度のことです。
 賢治がメモした「NS 75°」のうち、「NS」は、「走向」が「N(北)-S(南)」すなわちちょうど南北方向であることを示し、「75°」は、層理面が75°の角度で川にかぶさって(オーバーハングして)いることを表しているのだということです。
 この赤鉛筆による書き込みが猊鼻渓のことであるとすれば、それはこの作品の成立時期の推測にとって大きな手がかりとなりますが、これはまた別の日に考えてみます。

猊鼻渓川下りの船頭さん 「大猊鼻岩」から船着場まで戻って、また舟に乗ると、帰りは川下りです。私たちの舟を漕いでくれたのは、佐々木さん(右写真)という船頭さんでしたが、「げいび追分」や「南部牛追い歌」など、見事な喉を披露してくれました。
 伸びのある歌声は、静かな渓谷を渡り、両側の岩壁にも反響して、本当に素晴らしい雰囲気でした。そして幸運なことに、たまたま誰かこの佐々木さんによる猊鼻下りと歌声を、YouTube にアップしているのを見つけました。こちらから、ぜひ一度お聴き下さい。

 もとの船着場に帰り着くと、私は帰りの新幹線に乗るために、一人タクシーで一ノ関駅に向かいました。
 実は、私がこの新幹線に間に合うかどうか、「大学校」のスタッフの方がご親切にもずっと気をもんで下さっていたのですが、お陰様で、無事に余裕を持って一ノ関駅に着くことができました。
 「大学校」の参加者の方々との交流はまったくできなかったのが心残りですが、短い間ながらお世話になった藤野館長、スタッフの皆様、ありがとうございました。

 下の写真は、一ノ関駅のホームの窓からみた、夕暮れの入道雲です。これから新幹線で東京を経て京都へ着くのは、23時31分です。

一ノ関駅のホームの窓から

◇          ◇

 さて、今回の旅行で私は、「〔停車場の向ふに河原があって〕」が書かれた年月日について、あることを考えました。それは結局は、藤野正孝氏による「1931年(昭和6年)6月14日説」と同じ結果に到るものでしたが、詳しくは日をあらためて、こんどの日曜日にでも書いてみようと思います。

 その際に鍵になると私が思うのは、この詩は陸中松川で書かれたにもかかわらず、なぜ五万分の一「水沢」地図の裏面に書かれていたのか、という「謎」です。陸中松川駅や東北砕石工場なら五万分の一「一関」に、猊鼻渓は「千厩」に含まれているのに、なぜこの日、賢治は「水沢」の地図を持っていたのか・・・。

陸中松川駅

 こんどの日曜日には、「グスコーブドリの大学校」に一日だけ出席して、「〔停車場の向ふに河原があって〕」の現場探訪に参加しようと楽しみにしていた矢先だったのですが、加倉井さんの「緑いろの通信/7月18日号」によれば、この作品における「停車場」と推定されている大船渡線の陸中松川駅の駅舎は、最近なくなってしまったんだそうですね。
 今は、はるかに小さく簡易な建物になっているようですが、これは賢治ファンとしては寂しい知らせでした。

 今は亡き、陸中松川駅の旧駅舎は、下の写真のようなものでした(2001年夏に撮影)。駅舎の向こう側には、石灰岩が採掘された山肌が見えます。

陸中松川駅・旧駅舎

 駅舎の扉を開けて中に入ると、待合室はかなり広くて、往年のにぎわいぶりを偲ばせていました。私が足を運ぶようになってからは、いつもがらんとしていたのですが・・・。

 この駅は1925年(大正14年)に開業して以来、旧東山町の役場のある長坂地区や観光地猊鼻渓の最寄り駅として、乗降客も多かったそうです。国鉄時代には、急行の停車駅でもありました。
 そもそも旧東山町は、長坂村、田河津村、松川村が合併したものですが、鉄道駅はこの地域で人口も多かった長坂村には作られず、また松川村と言ってもその中心ではなくて村はずれのこの場所に設置されたのは、考えてみれば不思議なことです。この地に石灰岩が多量に埋蔵されていることと、関連があったのでしょうか。

 一時は、長坂村に行く人も、猊鼻渓を目ざす観光客も、この駅で降りて歩いたり乗合自動車を利用していたのでしょうが、1986年に、2km東に猊鼻渓駅が新設されてからは、そちらに役目を譲ってしまった面もありました。
 また、大船渡線そのものも、徐々に乗客を他の路線や交通手段に奪われていき、JR東日本になってからは急行列車も廃止されて、どうしてもこの駅は日陰にまわっていったような感があります。
 そのような流れの中での、今回の駅舎改築・小型化だったわけでしょうか。

 駅舎の前には、これもまたがらんとした広場がありました。幸いこの広場は、まだ元のままのようですね。賢治の「〔停車場の向ふに河原があって〕」によれば、その昔はここに「がたびしの自働車」が停まって、客待ちをしていたということになります。
 この陸中松川駅前で乗合自働車の営業が始められたのは1927年(昭和2年)からだったらしいということを、以前に「停車場・河原・自働車」という記事に書きましたが、もう一つ、鈴木文彦著『岩手のバスいまむかし』(クラッセ)という本でも、この駅前の乗合自働車に関する記述を見つけました(同書p.15)。

『岩手のバスいまむかし』

 これを見ると、菅原旅館も鈴木旅館も、「自動車営業の許可」が1927年に下りる前年の1926年からバスを走らせていたということで、これは「営業運転」ではないということですから、宿泊客へのサービスのようなものだったんでしょうか。
 そして、賢治の「〔停車場の向ふに河原があって〕」には、「傾配つきの九十度近いカーブも切り/径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ」と、自動車が大変な山道を走ることが書かれていますが、これは陸中松川駅から長坂の間の運行をしているだけではありえないことですので、上の文章で「長坂~猿沢間を延長」したという1929年(昭和4年)以降のことだろうと考えられます(「停車場・河原・自働車」掲載の地図も参照)。

 となると、賢治は1928年(昭和3年)の8月から結核によって病臥生活に入ってしまい、再び戸外で活動ができるようになるのは1931年(昭和6年)以後ですから、賢治が「〔停車場の向ふに河原があって〕」を書いたのは、これ以降の時期、すなわち東北砕石工場技師となって陸中松川駅を訪れていた際のことではないかという可能性が高まるように思えます。

 というような感じで、陸中松川駅に今から思いをはせているのですが、予定では明後日(土曜日)の夕方に出発して、その晩は一関に泊まり、日曜日に陸中松川の「石と賢治のミュージアム」で斉藤文一さんの講演を聴いたり、藤野正孝館長のご案内で「〔停車場の向ふに河原があって〕」の現地探訪をした後、深夜に京都に帰り着くと思います。
 ご報告のブログへのアップは数日後になると思いますが、ツイッターではその都度中継するつもりですので、よろしければご覧下さい。

自働車は飛ぶ

 賢治が森荘已池氏にに語った逸話として、次のようなものがあります(森荘已池『宮沢賢治の肖像』p.295)。

―― トラックが川井か門馬まで来た時ですがね、小さい真赤な肌のいろをした鬼の子のような小人のような奴らが、わいわい口々に何か云いながら、さかんにトラックを谷間に落とそうとしているんですよ。運転手も助手も、それに全く気がつかないと見えて知らないんですね。私はぞっとしましたよ。トラックが谷間に落ちるに違いないと思ったんですね。そしたら驚きましたねえ。大きな、そうですね、二間もあるような白い大きな手が谷間の空に出て、トラックが走る通りついて来てくれるんですよ。いくら小鬼どもが騒いで落とそうとしても、トラックは落ちないで、どんどん危ない閉伊街道を進むんですね。私はこれはたしかに観音さまの有難い手だと思い、ぼおっとして、眠っているのか、起きているのか、夢なのか、うつつなのかもさっぱり解らないんですね。そして宙に浮いてさかんに動き廻り、トラックを押したり、ひっぱったりする小鬼どもと大きな白い手を見比べていましたね。しばらくそうしてガタガタゆすられていると、突然異様な声がして、ハッと思ったとたん白い手は見えなくなったんです。私はもう夢中でトラックから飛降り、その瞬間トラックは谷間をごろごろと物凄い勢いで顛落してしまったんです。運転手も助手も慣れているのか、ひらりと飛降りたらしく危なござんしたねと云って、谷間を見降ろしていましたよ。そのトラックには宮古町から肴が沢山つけて来てありましたよ。

 谷間に転落する自動車から、間一髪で飛び降りて怪我一つないとは、アクション映画スター顔負けの身のこなしですが、それまでにずっと「鬼の子」と「観音様の手」が見えていたというのは、ある意味で賢治らしい宗教的な幻覚です。
 これはいったいいつの出来事だったのかということに興味が湧きますが、森荘已池氏は、続いて次のように書いています。

 その時宮沢賢治氏は、宮古町の在の刈屋という村へ行ったのではなかったかと思う。『春と修羅』刊行の大正末年の頃のことである。旧姓刈屋を名乗る令妹のお婿さんが県庁の教育課に務めているので、その出身の下閉伊郡刈屋村の家へ、縁談の用で出かけての帰途宮沢さんは雨に濡れ、風邪から肺炎になりそうで、あわててトラックの後に乗せてもらって帰りの途で「熱は39度から40度はあったでしょう」と云い、「幻覚ですね」と云われたけれど、「鬼神」については滅多に語ることのない宮沢さんから聞いた、これは一番鮮明な「鬼神の話」なのであった。

 上記の文章で、「刈屋という村へ行ったのではなかったかと思う」というのは森荘已池氏の推測のようなのに、後半では賢治の談話のような書き方になっていて、どこまでが直接賢治が述べたことなのか判断しにくいです。しかし少なくとも森氏は、末妹クニと刈屋主計の縁談に関する用事で、賢治が閉伊街道沿いの刈屋村へ行った際のことだと考えているようです。
 ただそうすると、賢治と刈屋主計が初めて出会ったのは、1927年(昭和2年)3月ということですから(宮沢淳郎『伯父は賢治』p.77)、「『春と修羅』刊行(=1925年)の大正末年」という記述とは、ずれてしまいます。縁談の話だとしたら、賢治の刈屋家訪問は、婚約がまとまった1927年(昭和2年)秋頃と考えるのが自然です。

 さて、盛岡と宮古を結ぶ閉伊街道は、岩手県の中心部と太平洋岸をつなぐ重要な交通路で、従来は徒歩では3日かかっていたところを、1906年(明治39年)から「盛宮馬車」が12時間で、さらに1913年(大正2年)から営業開始した「盛宮自動車」が8時間で結ぶようになりました。これは岩手県内で最初の乗合自動車路線で、当初は16人乗りの大型自動車(バス)2台とトラック2台で運行を始めたということです(みやこわが町ミヤペディア「盛宮自動車株式会社」より)。
 しかし、この道は狭く険しい悪路で、大型自動車の運行にはかなりの無理があり、1914年(大正3年)7月に門馬村で客車が転覆し、乗り合わせた新渡戸稲造氏の一行が負傷したり、翌1915年(大正4年)10月には川内村での転覆事故で死者1名が出るなどの事故が続いています。
 賢治が災難に遭ったのも、この危険な街道においてだったわけです。


 ところで賢治は、これ以外にも自動車の転覆事故に遭っていたようなのです。『新校本全集』年譜篇によれば、1925年(大正14年)秋、農学校教師だった賢治は、千厩で開かれた「岩手県農業教育研究会」に参加し、県視学だった新井正市郎に会います。以下は、新井の記述から。

 千厩の旅館についたところ、しばらくして先着の客を女中が案内して来、その客が宮沢と名のり、「県視学も明日は出席するそうですなあ」と言ったので、「私がその県視学です」と答えた。
 「初対面の私達が10年の知己のように打解け得たのは、二人はほぼ同年であり、私も就任日が浅くまだ役人らしくなかったためであろう。――当時の役人には、一種の型があった――宮沢さんは薄衣で下車され千厩までの乗合バスが途中で横転して桑畑に落ちたが、誰も怪我がなかったことや、いつぞや室根山に一人で登った話などは、私を深く引きつけた。眼前に彷彿させるような話術には虚飾がなく、又肉眼に見えない霊の存在については固い信念を持って居られた。一旦、自室に帰られてから夕食後再び来訪された」

 何とこの時も、乗合バスの横転事故を経験したというのです。「横転して桑畑に落ちたが誰も怪我がなかった」ということで、こちらは先ほどの谷に転落した事故よりはやや危険度は低かったようですが、その後どうやって千厩までたどり着いたのだろうかと思います。


 ちなみに、賢治のこんな記録をあえて拾い出してみた理由は、「〔停車場の向ふに河原があって〕」という作品に出てくる「すさまじい自働車」という表現には、自動車に乗っていて体験したこういう「すさまじい」体験も、こめられているのだろうな、とあらためて思ったからです。
 賢治にとっては、当時の「自働車」というのは本当にダイナミックな乗り物だったのでしょう。

停車場の向ふに河原があって
水がちよろちよろ流れてゐると
わたしもおもひきみも云ふ
ところがどうだあの水なのだ
上流でげい美の巨きな岩を
碑のやうにめぐったり
滝にかかって佐藤猊嵓先生を
幾たびあったがせたりする水が
停車場の前にがたびしの自働車が三台も居て
運転手たちは日に照らされて
ものぐささうにしてゐるのだが
ところがどうだあの自働車が
ここから横沢へかけて
傾配つきの九十度近いカーブも切り
径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ
そのすさまじい自働車なのだ

『月光2』宮沢賢治特集

 先日刊行された文藝誌『月光2』には、宮沢賢治の特集が組まれていました。

発見!宮沢賢治 「海岸は実に悲惨です」 (月光 2 ) 発見!宮沢賢治 「海岸は実に悲惨です」 (月光 2 )
福島泰樹・立松和平・黒古一夫・太田代志朗・竹下洋一

勉誠出版 2010-06-30
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 福島泰樹・立松和平のお2人が「責任編集」というこの『月光』は、去年の9月に中原中也特集の創刊号が出て、今回が第2号なわけですが、この間に立松和平氏の死去という大きな出来事を経ています。そのためもあってか、今号の発刊は予定より少し遅れて、このたびやっと賢治ファンの目の前に現れました。

 内容は、詩人・大木実あての最近発見された葉書(この中に「海岸は実に悲惨です」との言葉が出てくる)の写真あり、保阪庸夫氏と福島泰樹氏の対談あり、作品論あり、宗教論あり、こじつけめいたエッセイ風の文章あり、賢治作品を下敷きにした作品(詩、俳句、短歌、能)あり、本当に多彩でユニークなものです。
 私にとって特に興味深くためになったのは、保阪氏と福島氏の対談、大木実あて葉書のほぼ実物大写真、大平宏龍氏の「「法華経と宮沢賢治」私論」、牛崎俊哉氏の「新発見口語詩草稿「〔停車場の向ふに河原があって〕」について」などでした。

 保阪庸夫氏と福島泰樹氏の対談では、庸夫氏から見た父・嘉内や、ご自身の戦後闇市での苦労談、研究者生活、それから故郷へ戻っての『宮沢賢治 友への手紙』の出版をめぐる逸話など、これまで講演等でお聴きしたよりも、さらに詳細が語られている印象です。
 それにしても、賢治から嘉内にあてた手紙は、現在残っているよりも後の時代のものが本当はもっと存在したが失われたという話は、かえすがえす残念なことです。

 大平宏龍氏の文章は、法華経について仏教の門外漢にもわかりやすく解説してくれていて、勉強になりました。
 私は「願教寺「島地大等」歌碑」という記事において、法華経と出会った後の賢治が、「諸宗の混淆状態から、純粋な法華経専修主義に変わったのはいつ頃か」ということを考えようとしましたが、この問題は、もっと適切な言葉に言い換えれば、「賢治が天台的法華経観から日蓮的法華経観に変わったのはいつ頃か」ということになるようです。
 また、賢治が「ぼさつ」を目ざそうとした、と言われることの宗教的背景も、少しはわかったような気になりました。

 牛崎俊哉氏の論文は、「〔停車場の向ふに河原があって〕」に関する現在の諸説を簡潔に整理したものです。文中で、拙ブログの「あったがせたりする」という記事にも少しだけ触れて下さいました。
 作品の場所は陸中松川駅ということで問題はなさそうなものの、創作時期についてはまだ議論があるということです。この作品の創作時期については、私も「停車場・河原・自働車」という記事において、陸中松川駅前で乗合自動車の営業が始まったのは1927年(昭和2年)5月であることから、それ以降ではないかということを書きました。

◇          ◇

 ところで今日私は、用事で京都駅を通ったついでに、7月24日の夜に京都を発って岩手県へ行き、25日の深夜に京都に帰る切符を買ってきました。
 「石と賢治のミュージアム」が毎年開催している「グスコーブドリの大学校」というセミナーの初日に行われる、「〔停車場の向ふに河原があって〕のゆかりの地を訪ねる」という企画に参加してみる予定です。案内して下さるのは、上記の牛崎さんの論文にもお名前の出てきた藤野正孝氏(「石と賢治のミュージアム」館長)ということで、今から楽しみにしています。

一関往復切符

停車場・河原・自働車

 2008年5月、宮澤賢治生家の土蔵を解体のために整理している時に、地図の裏に記されている口語詩の草稿が発見されました。最も新しく世に出た賢治の作品、「〔停車場の向ふに河原があって〕」です。

停車場の向ふに河原があって
水がちよろちよろ流れてゐると
わたしもおもひきみも云ふ
ところがどうだあの水なのだ
上流でげい美の巨きな岩を
碑のやうにめぐったり
滝にかかって佐藤猊嵓先生を
幾たびあったがせたりする水が
停車場の前にがたびしの自働車が三台も居て
運転手たちは日に照らされて
ものぐささうにしてゐるのだが
ところがどうだあの自働車が
ここから横沢へかけて
傾配つきの九十度近いカーブも切り
径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ
そのすさまじい自働車なのだ

 「停車場の向ふ」にある川と、「停車場の前」にある自働車は、いずれも目の前ではのどかな「静」の姿を見せています。しかし、同じ川や自働車が、別の時間・空間においては、激しい「動」の姿を見せることもあるのだというアナロジーを、賢治は面白く感じたのでしょう。

[ちょろちょろ河原] : [激しい渓流] = [がたびし自働車] : [山道を疾駆する自働車]

という対比と類似の妙ですね。


 さて、ここに出てくる「停車場」が、大船渡線の「陸中松川」駅と考えられることは、「賢治の事務所」の加倉井さんがいち早く指摘されました。
 その理由についておさらいをしておくと、まず5行目の「上流でげい美の巨きな岩を・・・」と出てくる「げい美」が、最大のヒントになります。岩手県南部には、「猊鼻渓」と「厳美渓」というよく似た名前の名勝地があってちょっとまぎらわしいですが、まずは「ゲイビ」という音から猊鼻渓が連想されます。ただ、「げい美」の「美」という文字から、賢治が「厳美」と書こうとして書き誤ったという可能性も、まだ完全には否定しきれません。しかし、2行後に出てくる「佐藤猊嵓先生(正しくは「猊巌」)」という人物は、猊鼻渓を世に紹介した立役者であったことから(「猊鼻渓の四季・歴史」参照)、これは猊鼻渓のことだと断定してよいと思われます。
 すると、「停車場の向ふ」の「河原」の上流に猊鼻渓があるわけですから、この「河原」は、猊鼻渓の下流の「砂鉄川」のどこかであることになります。
 砂鉄川に沿って、「停車場」があるところを地図で調べると、大船渡線の「陸中松川」、「岩ノ下」、「陸中門崎」という3つの駅が候補となります。このうち、「岩ノ下」駅は1966年に設置された駅で、賢治の時代にはなかったのでまず除外。「陸中門崎」駅に関しては、駅舎と駅前広場と川の位置関係は、下の地図のようになっています。

 この作品において作者は、停車場の前の「自働車」が停まっているところにいると思われますが、「陸中門崎」駅の駅前広場は駅舎の東にあって、そのさらに東に砂鉄川が流れています。駅前広場にいると、川は停車場と反対方角になり、「停車場の向ふに河原があって・・・」ということにはなりません。
 一方、「陸中松川」駅における、駅舎、駅前広場、砂鉄川の位置関係は、下図のとおりです。

 これならば、駅舎の西側の駅前広場から見て、「停車場の向ふに河原があって・・・」となるわけです。
 というわけで、この作品の「停車場」は、「陸中松川」駅と推定されるわけですね。

 さて、ということは「陸中松川」の駅前に「自働車」が3台停まっていて、運転手たちは「ものぐささうにして」いるわけですが、これらの自働車は、「ここから横沢へかけて/傾配つきの九十度近いカーブも切り/径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ」という風に、すでに行き先が決まっているようです。ということは、これは自家用車ではなくて、決まった区間を運行している「乗合自動車」なのでしょう。
 それで、「陸中松川」駅前の乗合自動車の歴史を調べてみると、『東山町史』(東山町,1978)に、下のような記載がありました。

『東山町史』より

 つまり、「陸中松川」の駅前に乗合自動車が初めてお目見えしたのは、1927年(昭和2年)5月のことなのです。したがって、賢治が「〔停車場の向ふに河原があって〕」を書いたのは、それ以降のことと考えられるわけです。

 上の文書では「バス」と書かれていますが、もちろん現代のような大型バスではなくて、上にも書かれているように「幌型乗用車」でした。下の写真は、一関で昭和初期に走っていた乗合自自動車(6人乗り幌付フォード)です(『目で見る一関・両磐・気仙の100年』より)。賢治が見たのも、こんな感じの「自働車」だったのでしょう。ちなみに一関町において乗合自動車が開業したのは、1924年(大正13年)のことでした。

一関の乗合自動車(6人乗り幌付フォード)

 上の『東山町史』によれば、「陸中松川駅頭における両者の客のうばい合いは激しかった」ということです。賢治の作品中に出てくる「運転手たち」は、「ものぐささうに」していたようですが、いざ汽車が駅に着いて客が降りてくると、熾烈な争奪戦が始まったのでしょうか。

 あと、この乗合自動車の行き先は、『東山町史』によると「長坂町」「松川町」「猿沢町」ということですが、地図にポイントすれば下のようになります。

 赤のマーカーの(N)が長坂町、(M)が松川町、(S)が猿沢町です。緑のマーカの(Y)は、作品中に出てくる「横沢」という集落の位置ですが、「陸中松川」駅から猿沢へ至るルートからも離れていて、もし乗合自動車が駅と上記3地点を結んでいたのなら、なぜ賢治が「ここから横沢へかけて・・・」と書いたのかがちょっと不明です。

 というわけで、この作品の創作時期を、1927年5月以降にしぼることができるのではないか、ということが今回は言いたかったのですが、しかしその具体的な年月日となると、ちょっと年譜を繰ってみてもわかりません。
 賢治は1928年の8月に結核で倒れ、2年ほどを病臥して過ごしますから、候補となる期間は二つに分かれます。1927年5月から1928年8月までと、1930年9月(東北砕石工場初訪問)から1931年9月に再び病に倒れるまでです。後者においては、賢治は東北砕石工場技師として陸中松川駅で乗降することもたびたびありました。

 あとは、この作品に出てくる「きみ」というのが誰なのかということも、かなり気になります。賢治がふと気づいた「対比と類似の妙」を、「きみ」に対してやさしく教え示しているみたいな雰囲気ですね。

あったがせたりする

 とくに話題になっていないようなので、私以外の人はとっくにわかっておられることなのかもしれませんが、例の賢治の詩「〔停車場の向ふに河原があって〕」の8行目に出てくる「あったがせたりする」という言葉は、どういう意味なのでしょうか。

停車場の向ふに河原があって
水がちよろちよろ流れてゐると
わたしもおもひきみも云ふ
ところがどうだあの水なのだ
上流でげい美の巨きな岩を
碑のやうにめぐったり
滝にかかって佐藤猊巌先生を
幾たびあったがせたりする水が
停車場の前にがたびしの自働車が三台も居て
運転手たちは日に照らされて
ものぐささうにしてゐるのだが
ところがどうだあの自働車が
ここから横沢へかけて
傾配つきの九十度近いカーブも切り
径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ
そのすさまじい自働車なのだ

 手元の古い「広辞苑」(第二版…)を見ると、「あつた・ぐ」という古語の動詞が載っていて、次のように書いてあります。

あつた・ぐ《自四》あわてふためく。弁内侍日記「―・ぎ
 て声のかはる程」

 もしもこれに由来するのなら、「あつたがせたりする」とは、「あわてふためかせたりする」ということになって、それなりに意味が通る感じもします。すなわち、猊鼻渓の幾ヵ所かでは岩壁から滝が流れ落ちているので、ゆったりと川下りを楽しむ猊巌先生を、そのたびに「あわてふためかせたりする」というわけです。
 しかしこの語の場合、「つ」は促音の「っ」ではなくて、ふつうの「つ」です。

 はたして、これでよいのでしょうか。

「宮澤賢治全詩一覧」追補

 今日は、「大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団 第15回東京定期公演 -宮沢賢治の世界-」を聴きに行くつもりだったのですが、疲労蓄積のために中止して、家にいました。日中はほんとうにいい天気で、部屋の中にいても気持ちよかったです。

 ところで、1995年から刊行が開始された『【新】校本宮澤賢治全集』が、ついに完結しましたね。私の手元にも、数日前に Amazon から最後の配本となる『[別巻]補遺・索引』が届いて、何となく感無量です。
 前回配本の『第十六巻(下)補遺・資料』が出てから7年あまりが経過しましたが、今回配本までの年月の長さは、この最終巻の編集がいかに大変だったかということを物語ってくれているようで、その重さを噛みしめながら手にとって見ています。

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 二分冊のうち厚さのほとんどを占める「索引篇」の巻は、当たり前ですが500ページの一冊すべてが索引になっていて、これだけを見ると不思議な感じの「本」です。でも、索引だけを眺めていても、賢治が作品中でどんな単語を使っているのか、またその使用頻度などもうかがわれて、面白いものです。これから、いろいろな場面で重宝させていただくことになりそうです。

 それからもう一分冊の「補遺篇」で今回最大の目玉は、「〔停車場の向ふに河原があって〕」という新たな口語詩の収録です。今日は、そのテキストを入力して、「宮澤賢治全詩一覧」の表にも追加しました。私自身、この表に手を加えるのもじつに久しぶりです。
 作品は、ちょっと諧謔味があって面白い語り口ですね。舞台となっている「停車場」については、いちはやく「賢治の事務所」の加倉井さんが「緑いろの通信 3月9日号」において考証をして、大船渡線の「陸中松川駅」ではないかとの説を提出しておられます。その推理の迅速さと適確さに敬意を表しつつ、私もその「陸中松川駅」に一票を投じさせていただきたいと思います。
 作品中の地名「横沢」については、私も少し調べてみましたが、現在の「一関市東山町田河津字横沢」以外に適当なところは見つからず、加倉井さんと同意見です。
 なお、作品中に登場する「佐藤猊ガン(猊巌)先生」については、「げいび観光センター」サイトの「歴史と渓内」に簡潔な解説があります。

 さらに加倉井さんは、賢治がいつこの作品を書いたかという問題についても、1925年秋に「岩手県農業教育研究会」が千厩で開催された際のことではないかと、興味深い推測をしておられます。この研究会に県視学として参加した新井正市郎が、作品中に出てくる「きみ」ではないかという説には、その後の「銀どろ」の縁もあって、私もぜひ賛成したいところです。
 ところで加倉井さんも引用しておられる新井氏の「銀どろの思い出」には、「宮沢さんは薄衣で下車され千厩までの乗合バスが横転して桑畑に落ちたが、誰も怪我がなかったことや…」と書かれています。「薄衣」は当時の川崎村薄衣で、薄衣地区そのものには停車場はありませんが、最寄りの「陸中門崎駅」で下車して、薄衣まで歩いてそこから乗合バスに乗ったということなのかと思います。
 下の図のように、大船渡線の陸中門崎から千厩までの区間は大きく迂回していて、陸中門崎から千厩へ直接向かった方が、距離的にははるかに近いのです。

大船渡線
Wikimedia より

 薄衣地区と、陸中門崎駅の位置関係は下の地図のとおりで、マーカーの付けてあるあたりが、薄衣です。地図をマウスで左へドラッグしていって、ここから東の方を表示させていくと、意外にすぐに千厩に到着することがおわかりいただけるかと思います。

 ところで、川崎村薄衣というと、私としてどうしても思い出すのは、賢治の初恋の人と言われる高橋ミネさんが、結婚してから住んでいたのが、ここ薄衣だったということです。ミネさんの夫の伊藤正一氏は、川崎村村長にもなられた方です。ただし、ミネさんの結婚は1929年ですから、賢治がここから乗合バスに乗った時点では、ミネさんはまだ来ていなかったでしょうが…。

 話を戻しますと、上述のように賢治は1925年秋に薄衣から乗合バスに乗って千厩へ行ったようですから、往路と同じルートで研究会から帰ったとしたら、「陸中松川」は通らなかったことになってしまうのです。
 とは言え、当時は摺沢まで開通したばかりの大船渡線ですから、鉄道好きな賢治ならば、帰りは千厩から摺沢まで行って、全線に乗ってみようとした可能性は考えられます。そしてなぜか陸中松川で下車して、作品の余白にあった赤鉛筆の書き込み「White lime Stone over the river(川向こうの白石灰岩)」を見たとしたら、これは後に賢治が「東北砕石工場」で働くことの予兆のようでもあり、何か運命的なものも感じてしまいます。

 さて、大船渡線は上図のように、何とも非効率的な大回りする経路を走っていて、その形のために「ナベヅル線」と呼ばれたり、ルート決定が当時の政治状況に左右されたことから、「我田引鉄」の代表例のように言われることもあるようです。yuma's home の「大船渡線」のページによれば、

 線引きでは陸中門崎から真直ぐ東へ向かい千厩へ至る予定だったが、大正9年の総選挙で政友会は原総理の地元岩手県の全県議の独占を狙い憲政会の候補を落選させるために摺沢の候補を擁立し、地元民の票獲得のため線路を北に曲げてしまった。
 鉄道が通らなくなった千厩の人々は憲政会を頼って誘致活動を続けていたが、摺沢まで開通した大正14年当時の首相は憲政会の加藤高明。当然のように線路は南に曲がり現在の形になってしまった。

ということで、あまり美談とは言えないような経緯があるようです。

 しかし考えてみれば、もしも大船渡線がこのように大回りをせず直接に陸中門崎から千厩へ走っていたら、鉄道が陸中松川を通ることはなかったわけで、そうしたらいくらそのあたりに石灰岩が豊富にあったとしても、鈴木東蔵氏がここに「東北砕石工場」を作ることもなかったでしょう。
 となると、賢治が東北砕石工場で働くこともなかったことになり、やはりここに、運命の不思議さを感じてしまいます。

陸中松川駅から
陸中松川駅舎内から石灰岩採掘場を望む(山の手前に川が流れている)