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湯の島と青森大仏

 もう先月のことになりますが、青森県の浅虫温泉に行ってきました。
 この温泉から目と鼻の先の、陸奥湾に浮かぶ「湯の島」は、賢治が農学校の生徒たちを引率して北海道へ行った修学旅行の帰りに「〔つめたい海の水銀が〕」という作品で、東北本線の車窓から眺めて描いている場所です。「島祠」と題されていたその下書稿(二)においては、島のきれいな三角形の姿から「三稜島」と称されたり、「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という不思議な幻想の舞台ともされています。


 4月の中旬には、湯の島にカタクリの花が咲く時期に合わせて「かたくり祭り」が行われ、この期間中には島に渡る船が出るということを知ったので、賢治が「珪化花園」とも呼んだこの島に行ってみようというのが、私の今回の浅虫温泉行きの目的でした。しかし当日になると、強風のためあいにく船は欠航になり、残念ながら目の前の島へ渡ることはできず、涙を呑みました。

 渡航はかないませんでしたが、陸奥湾の海岸まで出て、湯の島をパノラマで撮影したのが、下写真です。画像下のスクロールバーを動かしていただくと、正面の「湯の島」も含めて、海岸の全景がご覧になれます。



 さて、陸奥湾岸で上の写真を撮影すると、8kmほど南西の「青龍寺」というお寺にある、「青森大仏」を拝観しに行きました。


 この大仏は、昭和59年に造立されたということで「昭和大仏」とも呼ばれます。青銅座像としては奈良や鎌倉の大仏よりも大きく日本一で、高さ21mあまりあります。

青森大仏

 ご覧のように、大仏は屋外に鎮座しているのですが、お寺へタクシーで向かっていると、かなり遠くからも宝塔を戴いたその頭部がちらちら見えてきて、だんだんと大きさを実感することができます。

 ところで私が、今回この大仏を見てみたいと思った理由は、これは私のまったく勝手な想定にすぎないのですが、青森の街の少し東に位置するその場所からして、これは「青森挽歌」の最後の場面で、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉が賢治の心に響いた時、彼が乗った列車がちょうど走っていたあたりなのではないかと、ふと思ったからです。
 もちろん、ここに大仏ができたのは1984年、賢治が列車で通過したのは1923年ですから、はるか昔のことなのですが、列車が青森駅に到着する直前に、突如として賢治に訪れたこの「啓示」の圧倒的な重さの背後に、私はかねてから、青森の空に浮かぶような何か非常に巨大な如来的存在を、感じていたのです。

 その後の賢治の死生観を決定づけ、「銀河鉄道の夜」にも結晶していくことになるこの「啓示」の場所に、60年も後になってのことですが、天に聳える大毘盧遮那仏が建立されることになったとは、何か不思議な縁を感じた次第です。

ありえたかもしれない結婚

 最近はもっぱら、死んだトシに対する賢治の思いについてばかり書いていますが、今日はまた違った角度も含めたお話です。

 1924年5月に修学旅行を引率して北海道へ向かう際に書かれた「津軽海峡」で賢治は、この海峡付近で二つの海流が出会って水が混じり合う現象を称して、「喧びやしく澄明な/東方風の結婚式」と描写しています。定稿では、このアイディアは詩を構成する題材の一つという趣きですが、その「下書稿(一)」の段階では、タイトルは「水の結婚」となっており、この「結婚」というモチーフが、作品のメインテーマだったことがわかります。
 さらに、その修学旅行の帰途でやはり津軽海峡を航行しながら書かれた「〔船首マストの上に来て〕」には、「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に/いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」という一節があり、ここに出てくる「marriage」の語は、やはり先の「津軽海峡」と同じく、二つの海流が混じり合うことを指していのでしょう。

 そのようにして、「結婚」という言葉が何となく重なって出てくる感じがするところ、上記「〔船首マストの上に来て〕」の数時間後に青森発上り列車からの眺めを描いていると推定される、「〔つめたい海の水銀が〕」の「下書稿(二)」には、つい先日も引用した次のような箇所があります。

    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 ここで賢治は、珍しくも自分の「妻」について言及していて、つまり自らの「結婚生活」を描いているわけです。

 このように、「結婚」というテーマが数日間のうちに何度も登場することについて、私は何となく不思議に感じていたのですが、実はこの「1924年5月」という時期は、澤口たまみさんの『宮澤賢治 愛のうた』によれば、一時は賢治と恋愛関係にあり、たがいに結婚まで考えていたという女性・大畠ヤスが、別の男性と結婚してアメリカに旅立つ時だったのです。

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 すなわち、上掲書のp.205には、次のように記されています。

 大正十三(一九二四)年五月、ヤス子は結婚した男性とともに、渡米することになっていました。

 この記述では、1924年5月にヤスが渡米したのがまだ事実として確認されたわけではなかったようにも読めますが、『宮澤賢治センター通信 第17号』に掲載されている、澤口たまみさんの2012年12月14日の講演「宮沢賢治『春と修羅』の恋について、続報」の記録には、次のように書かれています。

◆ヤスの遺族からの証言
 『宮澤賢治 愛のうた』を出版したのち、大畠ヤスの遺族より「この本に書かれた恋は事実である」との証言をいただいた。ヤスより九歳年下の妹トシ(ヤスの妹もまたトシである)は、ヤスに頼まれて賢治に手紙を届けたことがあり、賢治からは返事を貰って帰ってきた、という。
 賢治とヤスは相思相愛であり、一時は宮澤家より結婚の申し入れもあったとされる。ヤスの母が大反対であったために、この恋は実らなかった。ヤスは傷心のまま、東和町の及川修一という医師との結婚を承諾し、大正十三年五月に渡米した。ふたりの恋が記された『春と修羅』が出版された、一か月のちのことである。

 「大畠ヤス=賢治の恋人」説に対しては、これまではいろいろな意見もあったようですが、上記のように大畠ヤスの遺族の方から、ヤスの妹さんが賢治との間の手紙の仲立ちをしていたという証言まであるとなれば、信憑性も非常に高まってきます。
 そして、二人の恋がかなわず、ヤスが結婚して1924年5月に渡米したというのも、遺族の証言から事実として確認されたことのようです。

 となると、同じこの1924年5月に賢治が、作品の中で何度も「結婚」というテーマを扱い、さらには「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」などと、自らの過去世における「結婚」についても描いているというのは、注目すべきことだと思います。
 すなわち、「〔船首マストの上に来て〕」に「あたらしく marriage を終へた海」という表現があり、またその全体に祝祭的な雰囲気が漂っている背景には、ヤスの結婚に幸あれと祈る賢治の心情が込められていた可能性があります。
 また、「〔つめたい海の水銀が〕」の「下書稿(二)」で賢治は、もしかしたら自分とヤスとの間にありえたかもしれない「結婚」についても、ふと思いをめぐらしたのかもしれません。「青森挽歌」にあったように、「みんなむかしからのきやうだい」=「すべての衆生は過去世において一度は兄弟姉妹だったことがある」のだとすれば、今生では結ばれなかったヤスと自分だって、果てしない輪廻転生のうちには(たとえ魚どうしだとしても)夫婦だったことがあったはずです。

 もちろん上記は、あくまでも一つの仮説的な考え方に過ぎませんが、しかしもしこういう見方が成り立つのなら、この修学旅行における他の作品の解釈にも、別の視点がありえることになります。
 たとえば、この間ずっと亡きトシへの思いの表現として解釈してきた「」の下書稿(一)「海鳴り」において表出されている激情を、大畠ヤスとの別離の悲嘆として理解していけない理由はありません。
 賢治が、

わたくしの上着をずたずたに裂き
すべてのはかないのぞみを洗ひ
それら巨大な波の壁や
沸きたつ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ

と謳った時、その「やりどころのないさびしさ」の中には、ヤスとの悲恋による感情も入っていて当然ということになります。

 このようなことを考えてみつつ、私がふと連想したのは、1995年7月に行われたシンポジウム「「春と修羅 第二集」のゆくえ ―結論にかえて」における、栗原敦さんの発言です。この辺の問題に対するとても重要な指摘と思いますので、少し長くなりますが下記に引用させていただきます。

 ただ、つまりその事を考えてみますとね、質問を生かして話してしまうんですが、『春と修羅』第一集の終わりの「風景とオルゴール」の章などを見ていきますと、そこには、非常に手の込んだ仕掛があって、男女の大人の愛情、性愛の様なものに引かれる気持ちや、実際に何かがあった。伝記上は、特定の人の名前はまだわかっておりませんし、これからも、隠れて消えたままになるかも知れないけれど、もしかしたら特定の女性とお付き合いが、それなりに深まったものとしてあったかもしれないと、思わせるような、思わせぶりな、表現をして、且つ、その思わせぶりな表現を否定し、克服する姿で、振り切るという様な道の選び方が、書いてあると私は思うんです、そして、「第二集」の方になってきて、先程、密教風のとか、性愛の話というか、情欲に近いような、そういうものみたいなのが、密教やその他の考え方と、溶け合う形で、もっと進んだ姿で書かれているような気がします。そのことが、しかし、やはり、先程、入沢さんも言われた様に、ある時期からまた、消えていく。それは、『春と修羅』第一集というのは、「風景とオルゴール」という章の、作品の日付は、大正一二年くらいになりますけど、実際、詩集が刊行されたのは、一三年ですから、我々がもっている「第二集」というのは、もちろん、赤罫詩稿用紙にきれいに清書されたのは、もっと後だとしても、原型はすでに手元にありますから、同じ時期に内容的にはダブっている時期があると思うんですね。そういう様な何かが、仮にやはり、大正一三年の夏詩群と呼んでみたい様な時期まで、かなり色濃く、それらが同調する必然性があった。しかし、そういう姿で、私に言わせると、性愛、妹さんというものに対してですね、あけっぴろげの愛情とか、愛着とかを出すのは安全なんです。最近では、安全じゃなくて、それは、近親相姦の現実的行為があるとか、そういう風な感じに、言いかねない情況にいまありますけれど、ある意味では逆に妹への愛というのは、愛着とか愛執を出しても、普遍的な愛というものとさほど、衝突しないで理解できる。安全性があると思うんですね、そういうものによって、大げさにいえば、ある種のカムフラージュというのがなされたと思うのです。カムフラージュといっても、隠すという意味ではなくて、自分の持っているテーマ、思想に対する強調として、個別、具体的なものとして、ある典型化された図式、禁欲の思想と、その情愛の思想とのバランスとか、表裏の入れ替りみたいなものを、賢治ははかりながら、表現化しているんじゃないかと思いますが。(宮沢賢治学会イーハトーブセンター発行『「春と修羅 第二集」研究』p.260-261)

 初めの方にある、「特定の女性とのお付き合いが、それなりに深まったものとしてあったかもしれない」が、「特定の人の名前はまだわかっておりません」という状態だったところに、最近の澤口たまみさんのお仕事によって、「大畠ヤス」という可能性が、とみにクローズアップされてきているわけです。
 そして栗原さんによれば、賢治はこの「特定の女性」に対する思いと、トシを亡くした喪失体験との両方を、『春と修羅』と「春と修羅 第二集」の頃に抱えていたと思われるが、前者はより「安全」である後者の中に、カモフラージュされる形で表現されているのではないか、というのです。

 すなわち、「春と修羅 第二集」の「津軽海峡」や「〔つめたい海の水銀が〕」の「下書稿(二)」に込められている感情は、前回「ネガとポジの行程」という記事でも書いたように、私としては妹トシに対するものだろうと考えているわけですが、同時にそこには、大畠ヤスへの思いも込められている可能性があるのです。
 これは、「トシへの感情か、ヤスへの感情か」という二者択一で考えるべきものではなくて、賢治によって両方が巧妙に重ね合わされているのではないかというのが、栗原さんのご指摘の私なりの解釈です。

ネガとポジの行程

 前々回の「津軽海峡のかもめ」という記事と、前回の「如来的あるいは地質学的視点」という記事の趣旨はひとことで言えば、賢治は1923年夏のサハリン行の往路と、1924年5月の修学旅行の復路において、空間的にはほぼ同じ場所で逆を向いて、内容的には対極的な作品を書いていたことになるのではないか、ということでした。
 具体的には、津軽海峡の船上における「津軽海峡」と「〔船首マストの上に来て〕」、青森駅の少し東の東北本線列車内における「青森挽歌」と「〔つめたい海の水銀が〕」(正確にはその先駆形「島祠」)という二組の作品が、上記のような「対」を成しているように見えるのです。

 これを、地図上に表示してみると、下のようになります。

行程の反転
(地図は「カシミール3D」より)

 サハリンへの往路の「青森挽歌」も「津軽海峡」も、孤独で悲愴な調子であるのに対して、修学旅行の帰途に各々ほぼ同じ場所で書かれた「〔船首マストの上に来て〕」と「〔つめたい海の水銀が〕」は、何かふっ切れたような、明るく軽やかな気分があふれています。
 前者の二つを「ネガ」とすれば、後者の二つは「ポジ」と言うことができるでしょう。

 そして、各作品のモチーフを具体的に見てみると、まず「青森挽歌」と「〔つめたい海の水銀が〕」の先駆形「島祠」とは、輪廻転生における今生とは別の生を見るという共通した視点に立ちながら、そこに普遍性と個別性という逆の価値を見出しており、また「津軽海峡」と「〔船首マストの上に来て〕」とは、どちらも船に来るかもめを妹の象徴と見つつも、そこに正反対の感情を担わせているのです。
 つまり、いずれの「対」においても、同じモチーフを取り上げつつそれを逆方向から見ているのであり、これは空間的に「同じ場所」において「逆を向いている」ことと、あたかも対応しているかのようです。

 そしてもっと考えるならば、ここでは個々の作品同士が「点」として対照を成しているだけではなく、二つの旅の行程そのものが「線」として、ネガとポジになっているようにも思えます。

 1923年の夏にサハリンへ渡った賢治の旅は、形としては10日あまりで終わりましたが、実際のところ彼にとっては、この旅ではまだ心の決着はついておらず、翌年の5月にもう一度北海道から帰ってくる時に、やっと一つの整理をつけて、故郷に帰ることができたということなのかもしれません。
 そして花巻に戻った彼は、まもなくその7月に、「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」を書いて、亡きトシを身近に見出すのです。

如来的あるいは地質学的視点

 「青森挽歌」の最後は、次のように終わります。

     《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます

 ここで二重括弧に囲まれた《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉の意味は、全ての人間(あるいは全ての衆生)は、悠久の時間の中で輪廻転生を繰り返すうちに、互いに兄弟となったことが必ずあるのだから、その中でことさら今生の肉親についてだけ祈るというのは無意味なことだ、ということになるでしょう。
 私たちでも、生き物たちが生まれかわり死にかわりするたびに、様々な出会いと別れを繰り返していくそのような生命の連鎖を、理屈として想像することはできますが、三世十方にわたる全てを見通す能力=「天眼」を備えた仏(如来)にとっては、それは直に目に見え感得される眺望だということになります。
 賢治は、このようにして全ての生命が一体であると考えることによって、自分も妹トシのことばかりを祈っていてはいけないと、自らを戒めたのです。

 この「青森挽歌」の舞台は、1923年7月31日の夜から8月1日の未明、賢治が花巻から青森に向かっていた東北本線下り夜行列車の中で、当時の時刻表調査によると、青森駅着は午前4時30分とされています。作品中の時間を考えてみると、最初の方に「はるかに黄いろの地平線/それはビーアの澱をよどませ」とあることから、ほんの少し地平線は明るくなってきているのかと思われ、また終わりの方では「ぢきもう東の鋼もひかる」と書かれており、もう夜明けは近いのだと推測されます。ちなみに、1923年8月1日の青森市における日の出は4時32分、市民薄明開始は4時1分でした。
 そもそも「青森挽歌」というタイトルからして、これは青森県内の情景だということを作者が示しているわけですが、作品が幕を閉じる段階では、終着駅の青森に、かなり近づいていると考えておいてよいでしょう。

 さて、この「青森駅に着く少し手前」というのは、逆向きの列車に乗れば「青森駅を発車して少し行ったところ」ということになりますが、翌1924年の修学旅行からの帰途において、ちょうどこのあたりで書かれた作品があります。
 「〔つめたい海の水銀が〕」がそれで、下記はその「下書稿(二)」で、「島祠」と題されていた段階の全文です。

    島祠
               一九二四、五、二三、

うす日の底の三稜島は
樹でいっぱいに飾られる
パリスグリンの色丹松や
緑礬いろのとゞまつねずこ
また水際にはあらたな銅で被はれた
巨きな枯れたいたやもあって
風のながれとねむりによって
みなさわやかに酸化されまた還元される
    それは地球の気層の奥の
    ひとつの珪化園である
海はもとより水銀で
たくさんのかゞやかな鉄針は
水平線に並行にうかび
ことにも繁く島の左右にあつまれば
鴎の声もなかばは暗む
    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 一行目の「三稜島」とは、陸奥湾に浮かぶ「湯の島」のことで、列車の車窓からもすぐ目の前に、かわいらしい三角の形で見えます。 下の写真は、青森駅からは17.2km東の、「浅虫温泉駅」(賢治の当時は「浅虫駅」)からの眺めです。

東北本線から見る「湯の島」
浅虫温泉駅を通る列車から見る「湯の島」

 上の写真では小さくて見えにくいですが、島の下部の中央より少し左寄りのあたりには、この島に祀られている弁財天の社の、朱色の鳥居も見えています。これこそが、賢治が下書稿(二)のタイトルとした「島祠」なのでしょう。
 賢治はよほどこの島の風景が気に入ったのか、初夏のその木々の色を、「パリスグリン」「緑礬いろ」「あらたな銅で被はれた」などと様々な瑞々しい言葉で表現し、島全体を「ひとつの珪化園」とも呼んでいます。

 最後から4行目の「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき」という箇所の意味は、島全体が海の中に沈んでいて、海底にあった時、ということでしょう。実際にこの「湯の島」が、過去のある時代には海中に没していたのかどうか私にはわかりませんが、青森市から4kmほど内陸に入った台地にある三内丸山遺跡は、縄文時代には海に面した海岸段丘にあったと言われていますから、島も含めてこのあたりの地形は、その後隆起して今のようになったのかもしれません。
 いずれにせよ、朱い鳥居も含めて島全体が海中にあるところを想像すると、それはまるでおとぎ話の竜宮城のような景色です。そしてさらにここからがこの作品の真骨頂なのですが、賢治はこの不思議な海中世界で、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」と言うのです。

 「鱗をつけたやさしい妻」というのですから、その「妻」とは魚なのでしょう。そして魚と夫婦になっているということは、賢治自身も魚だったというわけです。
 1918年5月19日付けの保阪嘉内あて書簡63には、次のような一節があります。

もし又私がさかなで私も食はれ私の父も食はれ私の母も食はれ私の妹も食はれてゐるとする。私は人々のうしろから見てゐる。「あゝあの人は私の兄弟を箸でちぎった。となりの人とはなしながら何とも思はず呑みこんでしまった。私の兄弟のからだはつめたくなってさっき、横はってゐた。今は不思議なエンチームの作用で真暗な処で分解して居るだらう。われらの眷属をあげて尊い惜しい命をすてゝさゝげたものは人々の一寸のあわれみをも買へない。」
私は前にさかなだったことがあって食はれたにちがひありません。

 ここで賢治は、自分が過去世において魚だったことを想像しつつ、本当にそうだったに違いないとまで言っているわけですが、設定こそ違えど、「島祠」に出てくるのも、その「魚としての過去世」です。

 さて、この「島祠」に見られる世界観は、この現世以外の別の輪廻転生の「世」を見ているという点においては、「青森挽歌」に現れた如来的な視点と共通していますが、それが目ざす発想の方向性は、正反対を向いていると言えます。
 「青森挽歌」の、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という思想は、全ての衆生が実は互いに肉親であり一体であるという認識に立って、だから一つの世における個別の愛だけにとらわれるのではなく、全ての生き物の救済をこそ目ざさなければならない、と説くものでした。
 それは、法華経の言葉で言えば、「我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」というような、大乗仏教的な「究極の幸福」を志向するものです。

 これに対して、「島祠」が扱っているのは、上のような全ての時間・空間を射程に入れた壮大なスペクタクルではなくて、地質学的な時間と空間におけるたった一点、すなわち陸奥湾の海底に美しい秘境があって、そこで魚である自分がやさしい妻と暮らしていた、というただそれだけのエピソードに、焦点を当てているのです。
 魚の一生は、本当にはかないものでしょうが、それでもやさしい妻との生活には、魚としての「ささやかな幸福」があったはずです。修学旅行の帰途、無事に引率教師としての責任を果たせそうでほっとしていた賢治は、車窓の景色を見てふとこのような空想をしたのです。

 ただ、こんな小さな幸せに甘んじるなどという生き方は、本来の真面目な賢治にとっては、あまり素直に肯定できるものではなかったはずです。そんな小市民的(小魚的?)な満足には安住せずに、全ての人の幸せのために、たとえ自らは苦しくとも努力を重ねるべきだというのが、彼の基本的な考えでした。「青森挽歌」の、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉も、まさにそんな賢治らしい禁欲的な思想の表現です。
 一方、この「島祠」で賢治が描いた世界というのは、そういう真面目な賢治の考えとは一線を画しますが、むしろそれへの一つのアンチテーゼになっているのではないかと、私には思えるのです。全ての時間と空間に通ずる普遍的な「善」を求めるかわりに、四次元空間の中で何の変哲もないただ一点の、そのかけがえのなさを愛でるという視点が、ここには提示されています。
 ここからふと私が連想するのは、たとえば「〔はつれて軋る手袋と〕」という作品の中の、次のような一節です。

板やわづかの漆喰から
正方体にこしらえあげて
ふたりだまって座ったり
うすい緑茶をのんだりする
どうしてさういふやさしいことを
卑しむこともなかったのだ

 この箇所が、作品全体の中でどういう意味を持っているのかということはちょっとわかりにくいのですが、しかしここには、素朴な家で静かに暮らす夫婦の様子が描かれているようで、そして賢治はそのような小市民的な生き方を、(何かの後悔とともに?)あらためて肯定しているように思えるのです。

 それからあともう一つ、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という一節から連想することがあります。
 それは、前年夏の「宗谷挽歌」において賢治は、

けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く

と、自ら海に飛び込むことさえ覚悟し、さらに

みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

と自らに言い聞かせていたことです。
 ここにも表れているように、賢治は死んだトシが、なぜか海の底に囚われていると考えていたような節がありますし、また「」の下書稿(一)の「海鳴り」でも、彼は海に向かって挑むように苦悩をぶつけ、また同時に「海よしづかに青い魚族の夢をまもれ」と、魚の保護を海に懇願していたのです。
 すなわち、当時の賢治にとって海とは、亡きトシが住む他界のように想定されていた面があり、「海に封ぜられても悔いてはいけない」と思い詰めていたのは、トシに再会することの代償でもあったのでしょう。

 そのような賢治が、「海に封ぜられる」という運命を一種のファンタジー化したものが、童話断片「サガレンと八月」だったのではないかと思うのですが、翌年に書かれたこの「島祠」は、その新たな肯定的なファンタジー化とも言えるのではないでしょうか。竜宮城のような海底の秘境で、「鱗をつけたやさしい妻と」一緒に暮らすというのであれば、「海に封ぜられる」ことさえも、はかなくささやかな幸せとともに、甘受してもよいかもしれません。

 以上、青森駅のやや東を走る列車内というほぼ同じ場所で着想された、二つの作品を見てみました。
 1923年の下り列車における「青森挽歌」の《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉と、1924年の上り列車における「島祠」の「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」というイメージとは、どちらも輪廻転生観に基づいた、如来的=地質学的視点を前提としているところは共通していたのですが、前者は、普遍的な「善」=「究極の幸福」のためには、この世の個人の感情などにとらわれるなと説くのに対して、後者は、はかない生における個の「やさしさ」を大切にしつつ、「ささやかな幸福」に目を向けるものでした。
 二つの作品の方向性は、対極を志向するものと言えます。

 前回の「津軽海峡のかもめ」という記事では、死んだトシが鳥になったのではないかという賢治のイメージに基づいて、二つの作品を比較してみましたが、今回は、亡きトシが海に囚われているのではないかという、前者とは大きく異なったイメージが関連しているようでした。
 鳥なのか海なのか、亡きトシの行き先をいったいどう理解したらよいのか、それは賢治にとっても理屈でどうこうできるものではなかったのでしょうし、ある時期までは両方のイメージが混然として、悩める賢治の心の中で揺れ動いていたのかと思われます。

 そしてやはり、1923年夏のサハリン旅行の往路と、1924年の北海道修学旅行の復路で、ほぼ同じ場所で着想された対照的な内容の二作品が、「対」になっているように思われるというのが、前回と今回を通して感じられたことでした。

鳥となって兄を守る妹

 先週の「「トシの行方」の二系列」という記事を書きながら、谷川健一著『日本人の魂のゆくえ 古代日本と琉球の死生観』という本を、興味深く読みました。

日本人の魂のゆくえ―古代日本と琉球の死生観 日本人の魂のゆくえ―古代日本と琉球の死生観
谷川 健一

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 この本の帯には、次のような文が書かれています。

誕生と死は、日本人にとって
どのようなものであったのか
死者、祖霊、神はいつも生者の傍らにあって、
ともに遊んだそこには、死者を永久に閉じ込める息の
詰まる世界はない

 著者の谷川健一氏はこの本で、日本の神道が死者を「ケガレ」として忌避し生者から遠ざけるようになる以前の古い信仰、あるいは「ニライカナイ」が海の彼方の遠い異界と考えられるようになる以前にもっと近しく存在すると考えられていた時代の死生観を、様々な証拠をつなぎ合わせて掘り起こそうとしておられます。
 「死者がいつも生者の傍らにある」というイメージが、実は我々の古層に存在するのではないかというのが著者の主張の一つなのですが、それは賢治が死んだトシに対してある時期から抱いていた感覚にも通ずるのではないかと、かねてから私が考えてきたところでもあります。
 この本における議論はさらに広範で奥深く、とてもここで私が簡単にまとめられるようなものではありませんが、本を読んでいるうちにいくつか賢治との関連で面白く感じたところがありました。

 一つは、同書の「青の島とあろう島」という章で述べられていることですが、古い時代の琉球の人々は、自分たちが住む島からすぐ目の前の「地先の島」に死者が住んでいると考え、そこを「青の島」「アウの島」「奥武(おう)の島」などと呼んでいたが、後世になって死者が住むのは水平線の彼方の「ニライカナイ」と考えるようになったのではないか、という話です。
 すぐ目の前の青い島に「他界」を見るというのは、賢治の作品で言えば「〔つめたい海の水銀が〕」の下書稿(二)「島祠」において、修学旅行の帰途の列車から陸奥湾に浮かぶ「湯の島」を見て、次のように「竜宮」を思ったことと、偶然にも相似形を成しています。

    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 トシの死後約1年半が経って、賢治はこの「湯の島」に「青の島」を見たのでしょうか。

東北本線から見る「湯の島」
東北本線から見る「湯の島」

 そしてもう一つは、同書の「挽歌から相聞歌へ」という章において引用されていた、下のような「シマウタ」です。これは、奄美大島南部において、死者の棺の前で歌ったり、墓を弔う時に歌ったりする「行きよれ節」と呼ばれる唄だということですが、私はこれを読むと賢治の「白い鳥」を連想せずにはいられません。

なごびらぬちぢに
白鳥(しらとり)ぬゐしゆり
白鳥やあらぬ
美代貞主がたまし

(訳)
なご坂(びら)の上に
白鳥が坐っている
ただの白鳥ではないよ
美代貞(人名)主の魂だよ

 賢治自身は「白い鳥」において、ヤマトタケルの白鳥伝説を引用し、また「死者が鳥になる」という説話は『遠野物語』にもいくつも収められていることは、前回もご紹介したとおりですが、南島地方にもまさに同型の信仰があったわけです。

 またこれとよく似た歌を、伊波普猷が1927年に『民族』誌に発表した論文「をなり神」において、次のように紹介して解説しています。

 南島人は、航海中、海鳥が帆桁などに止まるのを、縁起のいゝことゝした。例へば琉歌の中にもかういふのがある。

御船の高艫に    (船ノ高艫ニ)
白鳥が居ちよん   (白イ鳥ガ止マツテヰル)
白鳥やあらぬ     (白イ鳥デハナイ)
おみなりおすじ    (姉妹ノ生御魂ダ)

 それは南島中、どこでも謡はれてゐる歌である。「おみなりおすじ」は、「をなり神」の同義語である。「すじ」は「せぢ」と同語で、聖化されたものゝ義だから、「おすじ」に稜威・霊あるもの・神のやうなものゝ義のあることは、いふまでもない。
 かうして白鳥(海鳥)が「をなり神」の象徴になったことは、近代のことではない。「屋良ぐわいにや」にも、亦同じ思想があらはれてゐる。この「くわいにや」は三十行のもので、こゝには出すことが出来ぬが、海外に派遣されることになつた屋良村の地頭が、縁起のいゝことに、屋良の浜辺で、金銀を咥へてゐる海鳥を捕獲して、それを金銀製の籠に入れ、首里の都に上つて、国王と其世子とに献上する迄のいきさつを歌つたものである。詩句のきれる毎に、「をなり、やあらあ、やう(姉妹なる屋良よ)あむしいたあ(女等よ)」と囃子をなすところから考へて見ても、海鳥がやはり「をなり神」の象徴であつたことが知れる。

 つまり、南島では船の帆桁などに白い鳥が止まるのを吉兆と見るということなのですが、その理由は、白い鳥のことを「おなり神」の象徴だと考えるからだというのです。ここで「おなり神」とは、妹が兄に対して持つとされる力の神聖化で、たとえば Wikipedia の「おなり神」には、「妹(をなり/おなり/うない)が兄(えけり)を霊的に守護すると考え、妹の霊力を信仰する琉球の信仰」と書かれています。琉球においては、兄と妹の関係に、特別なものを見ていたのです。

 さてこのように、「白い鳥」という存在が、ヤマトタケル伝説のように「死者一般」の象徴であるばかりでなく、「兄を守る妹」の象徴であるのだとすれば、トシの死後の賢治の「鳥」に対する特別な思い入れが、ここでまたぐっと違った意味を持って迫ってきます。
 彼はトシの死後7か月の「白い鳥」で、かなしく啼く白い鳥を見て、「それはわたくしのいもうとだ/死んだわたくしのいもうとだ/兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる」と詠嘆したことを皮切りに、さらに2か月後の「青森挽歌」でも妹が「いつぴきの鳥になつただらうか」と想像し、さらに1年7か月後の「鳥の遷移」では「わたくしのいもうとの/墓場の方で啼いてゐる」鳥を特別な関心のもとに描き、また翌月の「〔この森を通りぬければ〕」(下書稿(二)の題名は「寄鳥想亡妹」)では、鳥の啼き声の中に「死んだ妹の声」を聴くのです。

 そして、今回私はあらためて気がついたのですが、賢治が亡きトシに関して何か大きな心境の転換を成し遂げたと思われる北海道修学旅行の帰途(「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」参照)、まさに賢治が乗っていたその船の「船首マスト」には、かもめ(=白い海鳥)がやってきていたのです!
 これこそが、南島においては兄を守る妹の魂の化身であり、「おなり神」と呼ばれる存在だったのです。

 さて、このように明らかな対応が認められるのですから、賢治はきっと、「妹の魂は鳥になって兄を守護する」「船の帆桁に止まる鳥は妹の魂であり幸いをもたらす」という沖縄地方の信仰を知っていたのではないかと、ここはどうしても考えたくなってしまいます。
 しかしながら、前回の記事にも書いたように、それは現実にはなかなか考えにくいのです。

 伊波普猷が1911年に刊行した『古琉球』では、まだ「ニライカナイ」や「おなり神」の問題には触れられておらず、柳田国男が1921年に朝日新聞に連載した「海南小記」にも、これらは登場しませんでした。折口信夫が1923年に著した「琉球の宗教」には、「妹(ヲナリ)おがみ」という言葉が一箇所出てきますが、上記のようなその信仰内容については、明らかにされていません。
 伊波普猷が、これらの問題について明確な解説を行った『琉球聖歌おもろさうし選釈』と「をなり神」を発表したのは、それぞれ1924年12月と1927年で、賢治のサハリン行よりも北海道修学旅行よりも後のことでしたし、柳田国男が伊波の「をなり神」に触発されて「玉依彦考」を発表したのは、賢治の死後の1940年のことでした(1940年刊『妹の力』所収)。
 そもそも、賢治が沖縄地方の文化や宗教について、多少なりとも関心を持っていたということを私は知りませんし、仮に深く興味を持って文献を読もうとしていたとしても、上記のような時代的制約から、それは不可能だったと思われるのです。

 そうなると、賢治が数々の作品において、亡きトシと鳥とを結びつけてとらえていたのは、単なる偶然の一致にすぎなかったのか、はたまた何か彼の心の底にある「集合的無意識」が働いたのか、それとも私が調べえた以外に、琉球の信仰と賢治をつなぐ何かの「糸」が存在するのか、今の私にはこれ以上は不明です。

 しかしそれにしても、不思議を感じている今日この頃です。

船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
煙とつはきれいなかげらふを吐き
そのへりにはあかつきの星もゆすれる
・・・・・・・

「トシの行方」の二系列

1.仏教的輪廻転生観と、もう一つの要素

 トシの死後、賢治は自分の妹がいったいどこへ行ってしまったのか、今どこでどうしているのか、長期間にわたって考え続けました。その様子はいくつもの作品に描かれていますが、その内容を詳しく見ていくと、当時の賢治の心の中には、大きく分けて二つの系列のイメージや考えがあったのではないかと思われます。

 その一つの系列は、熱心な仏教徒だった賢治としては当然のことながら、仏教の輪廻転生観に基づいた考えです。
 それはすでにトシの臨終の前から、「永訣の朝」の最後の場面で始まっています。

どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

 ここで賢治は、トシが天上すなわち「天界」に転生することを、祈っているのです。
 そして、トシの死後半年あまりが経った「風林」では、あたかも上の祈りが叶ったかのように、トシが「天界」にいることを示唆する「通信」が記されています。

 (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
  光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか
  …………此処あ日あ永あがくて
        一日のうちの何時だがもわがらないで……
  ただひときれのおまへからの通信が
  いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)

 ここには、美しい光や妙なる楽音に包まれ、永劫とも思える時間を過ごすトシがいます。

 しかしこれに対して、その翌日に書かれた「白い鳥」において賢治は、妹の存在を次のように感じとっています。

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
  (それは一応はまちがひだけれども
   まつたくまちがひとは言はれない)

 ここで賢治は、朝の光の中を飛ぶ「白い鳥」を見て、それを「死んだ私の妹だ」ととらえているわけです。人間が死んだ後に鳥になるとすれば、これは仏教的には「畜生界に転生した」と解釈することもできますが、しかしこれに続けて賢治が引用するのは、ヤマトタケルの白鳥伝説です。

  (日本武尊の新らしい御陵の前に
   おきさきたちがうちふして嘆き
   そこからたまたま千鳥が飛べば
   それを尊のみたまとおもひ
   芦に足をも傷つけながら
   海べをしたつて行かれたのだ)

 『古事記』に記されているこの説話は、仏教的な輪廻転生ではなく、「死者の魂が鳥になる」という日本の固有信仰に基づいています。もとよりこのヤマトタケルの例に限らず、古来から日本には同様の伝説がたくさんあって、例えば柳田国男の『遠野物語』には、「オット鳥」になった長者の娘の話(五一)や、「馬追鳥」になった奉公人の話(五二)や、カッコウとホトトギスになった姉妹の話(五三)などの「小鳥前世譚」がいくつも収められていますし、折口信夫も「「とこよ」と「まれびと」と」において、「祖々の魂」が鳥と化して、常世と此土を往還するという古代の信仰について述べています。
 すなわち、賢治が「白い鳥」に、わざわざヤマトタケル伝説を引用していることからすると、ここで彼が白い鳥を妹の化身と感じたのは、仏教の輪廻転生観に拠ったのではなく、このような鳥にまつわる日本古来の信仰に触発されたのだと考えるべきでしょう。

 しかし、「妹が鳥になる」というこの賢治の想念は、その妹を探してサハリンへ向かう途上の「青森挽歌」においては、また様相を異にしてきます。すなわち、その140行目から191行目にかけて、賢治が妹の状況について想像をめぐらす内容は、次のように展開していくのです。

そしてそのままさびしい林のなかの
いつぴきの鳥になつただらうか
l'estudiantina を風にききながら
水のながれる暗いはやしのなかを
かなしくうたつて飛んで行つたらうか
(中略)
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それがそのやうであることにおどろきながら
大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた
わたくしはその跡をさへたづねることができる
(中略)
暗紅色の深くもわるいがらん洞と
意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声
亜硫酸や笑気のにほひ
これらをそこに見るならば
あいつはその中にまつ青になつて立ち
立つてゐるともよろめいてゐるともわからず
頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち 

 ここでもやはり賢治は、まずは妹が「いつぴきの鳥になつただらうか」と想像するのですが、それに続けて彼は、妹が「天界」にいる様子、「地獄界」にいる様子へと、考えを巡らせていきます。ここでは彼は、仏教で「六道」と称される「天」「人」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」という輪廻転生先に従って、妹の行方を考えているわけです。

 このように、賢治が考える「トシの行方」は、これまでのところ「仏教的輪廻転生観」と「日本固有信仰」という二つの系列の要素が、あざなえる縄のように絡み合って表れるのですが、そういった変転は次の「宗谷挽歌」にも見てとれます。

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
 紫いろのうすものを着て
 まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。

 ここで最初に賢治は、もしもトシが自分を呼んだら、自ら海に落ちようと考えています。この賢治の決意は、彼が「トシは海中にいる」と想定していたと考えなければ、理解することはできません。ここで、もしも海の底が仏教に言う「地獄界」なのであれば、このトシの境遇を輪廻転生の結果と考えることもできますが、実は仏教教理における地獄は「地下一千由旬(1万km以上)」という隔絶された距離にあって、賢治が海に飛び込んだからと言って到達できる場所ではないのです。
 すなわち、この部分の賢治の考えは仏教的なものとは言えず、何か別の他界観によるものと考えざるをえません。

 次に賢治は、上記を否定するように、トシは「呼ぶ必要のないとこに居る」とあらためて考え直します。その理由は、括弧内に記されているように、トシは立派な衣装を着て「まっすぐにのぼって行った」のだからというのです。すなわち、トシは「天界」に転生したのだから、海の中から賢治を呼ぶなどありえないということで、これは仏教的な輪廻転生観に基づいた考えです。
 しかし、それでも賢治は心からそう信じるには至らず、しばらく後ではまた次のような疑念を吐露します。

とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
そんなしあはせがなくて
従って私たちの行かうとするみちが
ほんたうのものでないならば
あらんかぎり大きな勇気を出し
私の見えないちがった空間で
おまへを包むさまざまな障害を
衝きやぶって来て私に知らせてくれ。
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。
 ( おまへがこゝへ来ないのは
   タンタジールの扉のためか、
   それは私とおまへを嘲笑するだらう。)

 ここで賢治は、あらためてトシが天界に往生していない可能性を想定して、もしその場合には「いままっすぐにやって来て/私にそれを知らせて呉れ」と彼女に懇願し、さらにその上で「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、決意を記しているのです。

 つまり結局、「宗谷挽歌」における賢治は、一方では仏教的にトシの天界往生を信じようとしながら、どういうわけかもう一方では、彼女が「海の中」に囚われているという考えを、抱き続けているのです。彼の中で、仏教的な死生観と、それとは異なった別の考えは、入れ替わるように交代して現れ、その感情は揺れ動いています。

 そして、これが次の「オホーツク挽歌」以後になると、むしろ仏教的な考えは影を潜め、トシの居場所は次のようにイメージされています。

わびしい草穂やひかりのもや
緑青は水平線までうららかに延び
雲の累帯構造のつぎ目から
一きれのぞく天の青
強くもわたくしの胸は刺されてゐる
それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない

 賢治は、サハリンの栄浜の海岸からはるか沖を眺め、トシは海の「青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」と想像しています。これも、仏教的な輪廻転生先として解釈することは困難です。

 さらに、「噴火湾(ノクターン)」には、次のように記されています。

駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない

 ここでは一転して「海」ではなく、山の上の雲の中に、トシがいるのではないかと想像されていますが、これもまた仏教の教理から理解することはできません。

 以上見たように、仏教とは異質なこの第二の系列において、賢治は死んだトシが「海の中」にいたり、また「海の彼方」にいたり、あるいは「山上の雲の中」にいたりすると想像しているわけです。
 ここで、死者が山の上にいる、または海の彼方や海の中にいるというイメージから、私がどうしても連想せざるをえないのは、柳田国男以来の民俗学が、仏教伝来以前の日本固有の死生観として明らかにしてきた、二種類の祖霊信仰です。

 その一つは、死者の魂は里を見下ろす山の上に昇り、そこにとどまって子孫を見守るとするもので、柳田国男が『先祖の話』などで詳しく展開した死生観です。
 賢治が「噴火湾(ノクターン)」において、駒ヶ岳の山上の雲にトシを感じたことの背景には、このような日本固有の霊魂観の影響があったのではないかと、私は感じます。

 そしてもう一つ、こちらの方が賢治の死生観を考える上ではより重要なのではないかと思うのですが、日本列島では古来より、死者の魂は海の彼方や海の中にある「常世の国」に行くという祖霊信仰があったのです。その地の名前は、奄美大島から沖縄、先島諸島に至る南西諸島では、「ニライカナイ」と呼ばれてきました。
 上に見たように、賢治は「宗谷挽歌」では、死んだトシは海中にいると想定しており、また「オホーツク挽歌」では、海の彼方の水平線のあたりにトシがいて、「なにをしてゐるのかわからない」と思っています。「海の彼方」あるいは「海の中」に死者のいる他界があるというイメージは、まさに南島で信じられている「ニライカナイ」に符合しているのです。

 この「ニライカナイ」という言葉は、南西諸島で使われているだけで、九州以北の本土では用いられていませんが、「海の彼方に常世の国がある」という他界観そのものは、実は古い時代には日本列島全体で、広く共有されていたと考えられています。
 柳田国男は、「ニライカナイ」の「ニ」は、『古事記』などに「死者の国」として登場する「根の国」の「根」と同源の語であるとしていますし、海の果ての浄土への往生を目ざして、船で沖へ漕ぎ出して行くという「補陀洛渡海」は、有名な那智勝浦の補陀洛山寺にかぎらず、土佐の足摺岬、熊本県玉名市、鳥取県青谷岬などでも行われていた伝承が残っています。また後述するように、海中の楽土としての「竜宮」の伝説や、海幸彦・山幸彦の「綿津見の宮」も、同根のものと考えられています。
 すなわち賢治が、海の彼方・海の底に、死んだトシがいるのではないかと考えていたことは、仏教以前の日本古来の死生観に、はるかにつながっているのではないかと思われるのです。

 そう思ってさらに他の作品を見てみると、上記以外にも興味深い事柄が出てきます。
 賢治は、サハリン行の翌年の1924年5月に、修学旅行の引率としてまた北海道に渡り、この時にも亡きトシをめぐって重要な内的ドラマが繰り広げられたのではないかということについて、先日「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書きました。この旅行中、彼が苫小牧の海岸でスケッチした「」の先駆形「海鳴り」には、次のような箇所があります。

そのまっくろなしぶきをあげて
わたくしの胸をおどろかし
わたくしの上着をずたずたに裂き
すべてのはかないのぞみを洗ひ
それら巨大な波の壁や
沸きたつ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ
いまあたらしく咆哮し
そのうつくしい潮騒えと
雲のいぶし銀や巨きなのろし
阿僧祗の修陀羅をつつみ
億千の灯を波にかかげて
海は魚族の青い夢をまもる

 ここで賢治は、夜の荒海に向かって、おそらくトシをめぐる自らの胸の苦悩を浄化してくれと懇願しているわけですが、下から3行目に出てくる「阿僧祗の修陀羅をつつみ」という言葉が注目されます。以前に「竜宮の経典」という記事に書いたように、「阿僧祗の修陀羅」とは厖大な経典という意味で、これは「海中の竜宮には莫大な量の華厳経が蔵されている」という伝説に基づいた記述と考えられます。
 一方、「竜宮」という概念は、柳田国男が「海神宮考」で考察したように、「海底の仙郷」という意味において、南島の「ニライカナイ」と同じルーツを持つものと考えられます。すなわち、この箇所で賢治は、竜宮やニライカナイに相当するような海中の他界をイメージしているわけで、するとこれは次の行の、「海は魚族の青い夢をまもる」という言葉にもつながっていきます。
 すなわち、ここで「青い夢」を守られている「魚族」とは、死んで海中の他界へ行った者たちを象徴していると考えることができ、するとその中には、「宗谷挽歌」で海中にいると想定されていたトシも、含まれているかもしれないのです。

 さらに、この修学旅行における最後の作品である「〔つめたい海の水銀が〕」の先駆形で、「島祠」と題されている「下書稿(二)」の全文は、次のようなものです。

一三三
  島祠
               一九二四、五、二三、
うす日の底の三稜島は
樹でいっぱいに飾られる
パリスグリンの色丹松や
緑礬いろのとゞまつねずこ
また水際にはあらたな銅で被はれた
巨きな枯れたいたやもあって
風のながれとねむりによって
みなさわやかに酸化されまた還元される
    それは地球の気層の奥の
    ひとつの珪化園である
海はもとより水銀で
たくさんのかゞやかな鉄針は
水平線に並行にうかび
ことにも繁く島の左右にあつまれば
ラの声もなかばは暗む
    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 これは、青森県の浅虫温泉のすぐ沖に浮かぶ、「湯の島」を描いたものですが、その最後の4行が注目されます。「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき」ということは、この島がまだ海中に沈んでいた時、ということだと思われ、そして「珪化園」と形容されるこの島の綺麗な様子に加え、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」というイメージは、まさに「竜宮」そのものです。
 すなわち、「海鳴り」に続いてその2日後にも、賢治の心中には海中の「竜宮」が思い描かれていたのです。

 ということで、賢治が「死んだトシの行方」と関連して、いくつかの作品で想定していた「海中」や「海の彼方」というイメージには、南島の「ニライカナイ」や「竜宮」の概念に、やはり通ずるものがあるのです。
 また、先日「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事に書いたように、「〔船首マストの上に来て〕」という作品において賢治は、トシの死を受容する上で自らが体験した何か大きな心境の変化を描いたのではないかと私は思うのですが、そこでも彼にとって「海」という場所が、大きな役割を果たしたことが見てとれました。やはり彼にとって海とは、死と密接につながった何かを帯びた「他界」だったのではないでしょうか。

 しかしそれでは、はたして当時の賢治は、この「ニライカナイ」=海中あるいは海の彼方の他界という概念を、知識として持っていたのでしょうか。彼は、このような他界観を知った上で、「トシは海の中や彼方にいる」と考えていたのでしょうか。

2.賢治は「ニライカナイ」を知っていたか

 賢治の最も重要な親友の一人に、「禊教」という教派神道の家に生まれた保阪嘉内がいました。その「嘉内」という名前の由来について、大明敦編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(山梨ふるさと文庫)に、次のような説が紹介されています。

 明治二十九年十月十八日、嘉内は善作・いまの長男として、生を受けた。「嘉内」という珍しい名は、奄美・沖縄地方で海の彼方にあると信じられていた楽土「ニライカナイ」に由来し、この地にも微かに残る古層の稀人信仰に基づくという。

 もしもこのように、保阪嘉内の名前が「ニライカナイ」に由来しており、さらに嘉内自身がその意味するところを知っていたとすれば、親友だった賢治も、嘉内からそれを聞いた可能性が当然あるわけです。
 その一方、韮崎市の発行する「広報にらさき」2009年8月号の特集「アザリア記念会」において、嘉内の長男の保阪善三氏は、次のように述べておられます。

善三さんと嘉内の名前について

 先祖代々についで行く名前が 「善蔵」 というのですが、私が1月3日生まれだったので蔵を三という字に変えて、長男ですが三という字がついています。これは祖父がつけたのだと思います。嘉内という名については、沖縄の「ニライカナイ」からなんていう人もあるようですが、やはり4代くらい前の先祖に「嘉蔵」という名がありますので、私はその関係じゃあないかと思いますね。嘉内という名が突然出たわけではありません。

 というわけで、双方で意見が分かれているようですが、私としては、嘉内が生まれた1896年(明治29年)という時点で、まだ「ニライカナイ」という言葉は沖縄以外の本土ではほとんど知られておらず、たとえ嘉内の父親が教派神道の熱心な信者だったとしても、これを知っていて息子の名前に付けたということは、考えにくいのではないかと思うのです。

 ここで、「ニライカナイ」という言葉が本土で知られていった経過を簡単に振り返ってみると、この語が本土に最初にもたらされたのは、江戸時代初期に琉球王国に渡った袋中良定という僧が、帰国後に著した『琉球神道記』に、「ギライカナイ(儀来河内)」という言葉を記したのを嚆矢とするようです。この版本は、1648年に初版が出たようですが、重要文化財に指定された「古文書」ですので、明治になってもよほど専門の研究者でないかぎり、これを直接見ることは無理だったでしょう。
 また『琉球神道記』が活字となって出版されたのは、1934年(昭和9年)のことでしたから、この刊本の記載が嘉内の命名や賢治の知識となったことはありえません。

 次に注目すべきは、「沖縄学の父」と言われる民俗学者・言語学者の伊波普猷の業績です。伊波は、16-17世紀頃に首里王府によって編纂された歌謡集「おもろさうし」を研究し、1911年に『古琉球』を出版しましたが、その中では高離島の祭で神に告げる詞の一部に、その意味の説明はないものの、「ニライカナイ」という語が登場しています。
 さらに伊波は、1924年に『琉球聖典おもろさうし選釈』を刊行しましたが、ここでは、「にるや。かなやは、にらい・かないのこと、何れも海の彼方の理想郷の義」との説明がなされています。

 一方、伊波に刺激を受けた柳田国男は、1920年から1921年にかけて、奄美から沖縄、先島を旅し、その旅行記を「海南小記」と題して、1921年の3月から5月まで朝日新聞に連載しました。この「海南小記」には、直接「ニライカナイ」という言葉は出てきませんが、「初夏の暁の静かな海を渡って、茲に迎へらるゝ神をニライ神加奈志と島人は名づけて居た」との記載があります。
 柳田が、「ニライカナイ」という言葉を最初に用いたのは、南島の旅行を終えた1921年2月に久留米で行った講演「阿遅摩佐の島」において、「ギライカナイは又ニライカナイとも謂ひまして、海のあなた天の外の、神々の御住国であります。沖縄人の Valhalla であります」と述べた時ではないかと思われます。この「阿遅摩佐の島」が「海南小記」に併収して出版されたのは、1925年のことでした。

 また、柳田と並び称される折口信夫は、1923年5月に「琉球の宗教」を著し、「琉球神道で、浄土としてゐるのは、海の彼方の楽土、儀来河内(ギライカナイ)である。(中略)儀来は多く、にらい・にらや・にれえ・ねらやなど発音せられ、稀には、ぎらい・けらいなど言はれてゐる。河内は、かない・かなや・かねやと書く事がある。」と述べています。

 以上、「ニライカナイ」に関する中央論壇の動きをざっと見たかぎりでは、保阪嘉内が生まれた1896年の時点では、本土ではたとえ宗教関係者といえども、「ニライカナイ」という言葉とその意味を知っていた人は、まだいなかったのではないかと思われるのです。
 また、1923年8月にサハリンに旅をした賢治も、この時点で「ニライカナイ」という言葉やその意味を知っていたとすれば、3か月前に刊行された『世界聖典全集 後輯 第15巻』に収録された、折口信夫の「琉球の宗教」を通じてということくらいしか考えられず、これもかなり可能性の低いことと言わざるをえません。

 すなわち賢治が、「ニライカナイ」に代表されるような死生観――「死者は海の彼方・海の底にある常世へ行く」という思想について、この時点で知識として知っていたとは考えにくいのです。しかしながら、いつとはなしに周囲の人々から吸収した日本古来の他界観、あるいは一種の「集合的無意識」のなせるわざなのか、また彼の宗教的感性の鋭さによるものか、理屈ではない何かの感覚によって、彼は「死んだ妹は海の奥にいる」と、ばくぜんとイメージするようになったのではないでしょうか。

 宮澤賢治は熱心な仏教徒であったことから、従来はその死生観についても、専ら仏教的な観点のみから研究が行われてきました。しかし、今回上記で見たように、彼が死後のトシについて抱いていたイメージや想念には、実は仏教とは異なった日本固有の他界観に由来する部分も、かなりあったと思われるのです。
 私自身も、賢治は最終的に「薤露青」や「〔この森を通りぬければ〕」などに至って、つねにトシを身近に感じるような心境に至ったのではないかと考えていますが、これも仏教的な教理からは、まったく説明のつかないことです。
 しかし、たとえば柳田国男が指摘するように、日本ではもともと死者の霊は遠くへは行かずにこの国の中に留まって生者を見守ると考えられていたこと、また「幽顕二界」の交通が頻繁に意識されてきたこと(『先祖の話』より)からすれば、そのような心境も、もっと無理なく理解できるようになるのではないかと思うのです。

 賢治は1923年8月に、北海道を縦断してサハリンに至る「オホーツク挽歌」の旅をして、翌1924年5月には、花巻農学校の修学旅行の引率教諭として、再び北海道を訪れています。
 前者から後者までの期間は9ヵ月足らずで、同じ北海道を旅したのですから、後者の道中においては前者に関するいろいろな追想があっても不思議ではないと思うのですが、なぜか後者=1924年の修学旅行における作品群には、まったくと言ってよいほど、前年の旅行のことを連想させる記述は出てこないのです。

 もちろん、傷心の一人旅と生徒を引率した団体旅行という状況の違いはありますし、二つの旅の間に、賢治の心にそれだけの変化があったと考えることもできます。しかし、賢治はある場所で心象を書きとめる際、しばしば以前にその場所を訪れた時のことに触れる傾向があって、例えば「小岩井農場」「パート一」では、「冬にきたときとはまるでべつだ」と書いて、1月に「屈折率」「くらかけの雪」を書いた時の訪問に言及していますし、また1923年の「津軽海峡」(『春と修羅』補遺)においては、「中学校の四年生のあのときの旅ならば・・・」と、岩手中学の修学旅行で津軽海峡を渡った時のことを回想しています。
 したがって、1924年の北海道における作品群に、1923年の北海道の追憶が全く登場しないというのは、やはり不自然だと思うのです。すなわち、1924年の作品群において前年のことが出てこないのは、たんなる偶然ではなくて、賢治は意図的にそれを避けて作品を書いたのではないかと、私は考えてみるのです。

 しかし、かりにそのように賢治が意図していたとしても、以前に「若き日の最澄(2)」に書いたように、1924年修学旅行中の「」の下書稿(一)の推敲過程においては、トシのことを再び追想しているとしか考えられないような、激しい感情表現や仏教的な言葉が出現しているのを見ました。まだ初期の下書稿においては、作者として抑えきれない記憶が、あふれ出てきていたということかもしれません。
 そして、これ以外にも「修学旅行詩群」の中には、前年の旅と関連しているのではないかと気になる表現が、さらに二・三ですが、見られると思うのです。

(1)
 その一つは、「〔船首マストの上に来て〕」(補遺詩篇 I)という作品断片です。これは、「春と修羅 第二集」には分類されていませんが、やはり1924年の修学旅行の帰途、青函連絡船で青森港に入る直前の状況と推測されます。無事に生徒たちを引率して本州まで帰ってきたという、教師としての安堵感が感じられる作品です。
 この中に、下記のような一節があります。

わたくしはあたらしく marriage を終へた海に
いまいちどわたくしのたましひを投げ
わたくしのまことをちかひ
三十名のわたくしの生徒たちと
けさはやく汽車に乗らうとする
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ

 ここに出てくる、「(海に)いまいちど私のたましひを投げ・・・」という表現が、ちょっとドキッとしてしまうところです。
 「いまいちど」とは、どういう意味でしょうか。賢治は、この修学旅行において、自分の魂を海に投げるようなことを、それまでにもしていたのでしょうか。
 それはわかりませんが、ここでどうしても思い出すのは、前年の旅行において賢治は、少なくとも「魂を投げる覚悟で」、トシとの交信を求めていたことです。
 例えば「宗谷挽歌」の冒頭は、

こんな誰も居ない夜の甲板で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、
(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或ひは空に擲げられることがないだらうか。

と始まり、最後は、

さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
私は試みを受けやう。

で終わります。
 1924年に「いまいちどわたくしのたましひを投げ」と言われる前提の、「最初の一度」とは、前年の宗谷海峡の甲板における決死の行動だったのではないだろうか・・・というのが、私の勝手な空想の一つです。

青森港
青森港(2006.8.16)

(2)
 もう一つは、「〔つめたい海の水銀が〕」の下書稿(二)の最後に出てくる、

    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

という一節です。
 この作品は、やはり修学旅行の帰途に、青森湾に浮かぶ湯ノ島を眺めつつ書かれたものと推測されますが、上に引用したのは、何とも不思議な賢治の幻想です。
 そこが「島でも陸でもなかった」ということは、この島が海底に沈んでいた時代のことかと思われ、作者はそこに、「魚の夫婦として」棲んでいたというのです。輪廻転生における過去生の一つにおいて、そのようなことがあったと、賢治は感じたのでしょうか。

 ところで、ここに出てきた「魚になって海中にいる」というテーマですが、私は、賢治がオホーツク挽歌行においても、やはりそのようなことを考えていたふしがあったように感じるのです。
 というのは、やはり「宗谷挽歌」において、死んだトシに呼びかける次のような一節があるからです。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 「みんなのほんたうの幸福」のためなら、「私たち=賢治とトシ」は、「海に封ぜられても悔いてはいけない」というわけですが、「海に封ぜられる」とは、すでに死んでいるトシにとっては、そのまま魚に転生すること、賢治はこの場で死んで、やはり魚に転生する、ということになるのではないでしょうか。

 さらに、「牛」(下書稿(一))には、

海よしづかに青い魚族の夢をまもれ
  ……砂丘のなつかしさとやはらかさ
     まるでそれはひとりの処女のようだ……

という一節があるのですが、それまではひたすら波が激しく荒れるよう挑戦的に呼びかけておきながら、ここでは急に一転して「海よしづかに青い魚族の夢をまもれ」と言っているのが、不思議に感じられます。
 私は、ここで賢治は、トシが魚に転生した可能性をふと思って、「しづかに・・・まもれ」と海に願ったのではないのだろうかとも思ってみているのですが、どうでしょうか。

 いずれも、空想的な可能性の積み重ねにしかすぎませんが、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という不思議に魅力的なイメージは、賢治とトシが「海に封ぜられた」輪廻転生の姿なのかもしれない、などと私は夢想してみるのです。
 もちろん、「〔つめたい海の水銀が〕」を書いた時の賢治が、そこまで意識していたとまで考えるわけではありません。ただ、前年に彼が「海に封ぜられて魚になる」可能性について考えていたとすれば、翌年にふと青森で竜宮城のようにかわいい島を見た時、その海底で「鱗をつけたやさしい妻」と暮らすという幻想が湧く、潜在的なきっかけにはなったかもしれないと思うのです。

湯ノ島
湯ノ島(2006.8.16)

(3)
 あともう一つ私が気になることとして、「凾館港春夜光景」に出てくる、「喜歌劇オルフィウス」があります。
 これは、賢治が東京の「浅草オペラ」で、オッフェンバックの喜歌劇「地獄のオルフェ」(一般的な邦題は「天国と地獄」)を見たことがあったとすれば、函館公園の照明から、その喜歌劇の舞台照明を連想したということと解釈できますが、はたしてここで他のオペレッタではなくて「喜歌劇オルフィウス」が登場するのは、偶然なのでしょうか。

 そのことについては、また稿をあらためて考えてみたいと思います。

オホーツク挽歌行の旅程
1923年オホーツク挽歌行の旅程

硅化花園の島(2)&室蘭やきとり

 花巻には2泊しましたが、今回はこれで発つことにして、9:04に新花巻駅から盛岡行きの「やまびこ」に乗りました。盛岡で八戸行き「はやて」に乗り換え、さらに八戸からは「スーパー白鳥」に乗りました。

 先日の「硅化花園の島(1)」では、「〔つめたい海の水銀が〕」に出てくる島について、津軽海峡の島をあれこれ詮索していましたが、これは結論から言えば、「賢治の事務所」の「緑いろの通信8月7日号」において加倉井さんがそっと示唆していただいたとおり、青森からの上り列車の中から見た、浅虫温泉の「湯の島」のことですね。

 詩の描写では海の景色ばかりなので、船の上からみた情景かと勘違いしていましたが、(1)「〔或る農学生の日誌〕」における「三角な島」の描写が、「海はたくさん針を並べたやう」など「〔つめたい海の水銀が〕」の描写と酷似していること、(2)詩の下書稿では「三角島」または「三稜島」と記されているが、この形は津軽海峡の「弁天島」や「武井ノ島」にはあてはまらず、「湯の島」にぴったりであること、さらに、(3)賢治たちが乗った船は青森港に午前4時30分に着いており、船に乗っている時間帯では、「うす日の底の三稜島」(下書稿(二))という描写と合わないことなどから、これは「湯の島」で間違いないでしょう。

 「野辺地」の駅を発った列車が、夏泊半島を横切って浅虫温泉にさしかかる頃、「青森挽歌」にあるように列車は一時的に「みなみへかけてゐる」状態になります。そしてその時に右側の車窓には、下のような三角形の「湯の島」が大きく見えてきます。

湯の島

 黄色い矢印のところには、ちょっと見えにくいですが赤い鳥居があります。「下書稿(二)」の題名が「島祠」となっていたこととも、ちゃんと対応しているんですね。
 賢治はこの島を、一種の竜宮城のように「硅化花園の島」と描写したわけですが、このあたりは温泉町ということで、そういった「別天地」的な雰囲気が漂っていたのでしょうか。無事に修学旅行生たちを本州まで引率してきた賢治には、この辺でほっと緊張を緩める感覚もあったのでしょうか。

 駅前食堂などと考えているうちに まもなく「スーパー白鳥」は青森に到着しました。
 青森という街は、海辺に巨大な吊り橋の「ベイブリッジ」があったり、とんがった三角形の高いビルがあったり、ぱっと見ると近代的な建築物が目立つのですが、駅前の一角には、昔ながらの駅前食堂やりんご店の並ぶ区画が残っています。昼食には、そのような一つの「一二三食堂」(右写真)に入り、「金々(キンキ)の煮付け定食」を食べました。

 お腹が満足すると、駅からタクシーに乗って、フェリー乗り場へ向かいました。
 これから、室蘭行きの船に乗るのです。

 「びなす」号賢治が1924年に修学旅行引率として乗船したのは、室蘭→青森の便ですので、今日の私はその逆向きです。しかし、前年の「噴火湾(ノクターン)」には、「室蘭通ひの汽船」が登場していました。
 私が乗ったのは左のような立派な船で、帰省Uターンの満員のお客を乗せて、13時30分に陸奥湾へ出航しました。

 天気はとてもよく、とくに陸奥湾の中ではほとんど波もありません。右手には、さっきの「湯の島」も反対側から見えて、夏泊半島より沖へ出ると、しばらくは陸地が遠ざかります。
 しかしまたしばらくすると、下北半島を「斧」に例えた場合その「刃」にあたる部分が、船の右手にずっと続くようになります。

 そして、その下北半島と別れを告げる最後に、その突端に「弁天島」が見えてきます。ちょっと見にくいですが、下写真で左端が弁天島、右側が下北半島の大間崎です。弁天島には、黒と白の縞模様になった灯台が見えます。

弁天島と大間崎

 ちなにみに前回も書いたように、賢治たちの修学旅行の往路の作品である「津軽海峡(下書稿(二)」に、

東には黒い層積雲の棚ができて
古びた緑青いろの半島が
ひるの疲れを湛えてゐる
その突端と青い島とのさけめから
ひとつの漁船がまばゆく尖って現はれる

と出てくる「青い島」は、半島との位置関係から言って、この「弁天島」のことと思われます。灯台ができたのは大正10年ということですから、賢治が見た時にもあったはずです。

 さて、何とか弁天島を見られたまではよかったのですが、船が津軽海峡に出た途端にあたりを濃い霧が包み、そのうちに細かい雨も降ってきました。その後は残念ながらデッキに出ても何も景色は見えず、航海の後半は、船室でひたすら本を読むことになりました。
 室蘭港に着いたのは午後8時でしたので、青森から6時間半かかったことになります。しかし揺れはほとんどなく、快適な船旅でした。


 というわけで、今晩は思わず室蘭に泊まることになってしまったのですが、皆さんは最近の室蘭の「名物」というと、何だかご存じでしょうか。
 それは、「やきとり」なのです。しかし、「やきとり」と言っても「鶏肉」ではなくて原則とし「鳥辰」ては「豚肉」を串焼きにするというところが、他の地域とは変わっています。また、肉とともに串に刺すのは、「長ネギ」ではなくて「玉ネギ」であるところも特徴のようです。

 街を歩いていると、「やきとり」という看板を掲げた店がほんとにたくさん並んでいて、今晩はそんなお店の一つ(右写真)に入ってきました。
 お店では、ふつうの豚肉の串焼きは、「豚の精肉」ということで「豚精(ぶたせい)」と言って注文します。塩と胡椒ををふって、強い炭火でガーッと焼いてあり、添えられた洋がらしを付けて食べると、玉ネギの甘みと豚肉の香ばしさが一体となって、それは絶品でした。

硅化花園の島(1)

 「〔つめたい海の水銀が〕」は、1924年に賢治が花巻農学校の生徒を引率して、修学旅行で北海道へ行った際の作品です。

つめたい海の水銀が
無数かゞやく鉄針を
水平線に並行にうかべ
ことにも繁く島の左右に集めれば
島は霞んだ気層の底に
ひとつの硅化花園をつくる
銅緑(カパーグリン)の色丹松や
緑礬いろのとどまつねずこ
また水際には鮮らな銅で被はれた
巨きな枯れたいたやもあって
風のながれとねむりによって
みんないっしょに酸化されまた還元される

 日付や内容から、これは北海道からの帰途、室蘭から青森へ船で渡っている途中に見かけた風景かと思われます。(この修学旅行の旅程については、「修学旅行詩群」のページをご参照下さい。)

 さて、ここで賢治は船上から一つの「島」を眺めているようで、その景色はまるで「硅化花園」のようだと描写しています。
 「硅化花園」とは、「ケミカル・ガーデン」とも呼ばれる非常に美しい化学実験の一つで、珪酸ナトリウム(水ガラス)の水溶液の中に、銅、ニッケル、コバルト、マンガン、鉄、亜鉛などの金属塩の結晶を入れると、透明な溶液中を結晶がまるで植物が伸びるように成長していくというものです。紺色のコバルトイオン、青緑色の銅イオン、黄緑色のニッケルイオン、茶色の鉄イオンなどの色が、まるで「花園」のように見えるところから、この名前が付けられています。
 実際のその様子は、こちらのページなどで見ることができますが、まん中あたりの写真などは、まるで亜熱帯の海中風景のようですね。賢治自身も、この実験をしたことがあったのかもしれません。

 さて、「〔つめたい海の水銀が〕」で賢治が見かけた島の景色は、銅緑(カパーグリン)や緑礬いろや枯木の銅色などに彩られ、まさにケミカル・ガーデンの実験を連想させるものだったのでしょう。
 また、この作品の「下書稿(二)」には、

   そこが島でもなかったとき
   そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

という一節もあって、賢治はこの島の風景に、何かとても懐かしい太古の記憶を呼び覚まされるような感じも持ったのかと思われます。
 「島でもなく陸でもない」のならば「海だった」ということになり、そこに棲む「鱗をつけたやさしい妻」となれば、「魚」です。ここで賢治は、仏教的輪廻における自らの「過去世」のことを言っているのでしょうが、前年に「オホーツク挽歌」の旅でやはり津軽海峡を渡った時に、トシの輪廻転生のことを執拗に考えつづけていたことの、はるかな記憶が影響しているのかもしれません。
 海の中で「やさしい妻」と一緒に暮らすなんて言うと、私なんかは「竜宮城」や「乙姫様」を連想してしまいますが、上でご紹介した「ケミカル・ガーデン」の写真も、そう思ってみれば「竜宮城」みたいですね。


 ・・・などと空想は広がりますが、それにしても賢治がこの時に見た「島」とは、いったいどこの島だったのだろうということが、気になってきます。
 作品から推測されるのは、その島にはたくさんの樹木が茂っていること、それからもう一つ特徴的と思われるのは、「下書稿(二)」の題名が「島祠」となっているように、この島には何かの「祠」が祀られていて、おそらく船上の賢治の目からも、それがちゃんと見えたのだろうと思われることです。

 ということで、室蘭から青森までの航路を地図で眺めてみると、まず最初に見つかる島は、室蘭港の出口にある「大黒島」です。

大黒島

 こちらのページなどで、大黒島の写真を見ることができます。木々も茂っている上に、「天保9年(1838年)から7年間、この地域の場所請負人をしていた岡田半兵衛が、安全祈願のため島内に大黒天を祭ったことから「大黒島」と呼ばれた」とのことで、島に「祠」もあるようです。
 ただ残念ながら、「〔つめたい海の水銀が〕」の日付は「一九二四、五、二三、」となっているのに対し、賢治たち一行は室蘭港を5月22日午後5時に出港していますから、この島を見たのは、22日夕方のはずなのです。

 そこで次に、23日明け方に見えた可能性のある、津軽海峡内の島を見てみます。

武井ノ島と弁天島

 津軽海峡には、北海道側に「武井ノ島」、下北半島側に「弁天島」という二つの島だけが地図上で確認できます。

 「武井ノ島」は、こちらのページの上から5つ目の写真によって、陸上から見たその姿を見ることができます。小さな島で、「岩礁に木が生えている」という感じですね。しかし一応緑はありますし、さらにこっちのページを見ていただくと、「島内にある厳島神社では、近在の漁船が集まり航海安全、大漁を祈る例祭が行われる」とあって、海側から見るとその神社の「祠」も視認できる可能性があります。

 一方、「弁天島」は、こちらのブログに写真があります。下北半島の突端の大間崎から見たところですね。木も茂っていますし、何よりもその上から2つ目の写真を見ていただくと、左下に弁天様の「祠」がしっかりと写っています。「下書稿(二)」には鴎が出てきますが、この島にはカモメがすごくたくさんいますね。
 この修学旅行の往路に書いた「津軽海峡」の「下書稿(二)」の書き出しは、

東には黒い層積雲の棚ができて
古びた緑青いろの半島が
ひるの疲れを湛えてゐる
その突端と青い島とのさけめから
ひとつの漁船がまばゆく尖って現はれる

となっていますが、ここに出てくる「青い島」は、(航路の東の下北半島の突端にあることから)この弁天島なのではないかと思われます。

 しかし、「〔つめたい海の水銀が〕」に出てくる島がどちらに該当するのか、上記の資料だけからは何とも言えません。

 となると、直接に船の上から見てみるしかないのでしょうか・・・。

[ この項つづくかも・・・?]