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「主観性」から「客観性」へ

 賢治が『春と修羅』を書いた時期、具体的には1922年1月から1924年1月頃までという2年間ですが、この間の賢治の「心の遍歴」というものは、大きな波乱に満ちていました。
 最大の要因は、1922年11月の妹トシの死という出来事で、その内実は「無声慟哭」三部作や、樺太旅行における挽歌群に、記録されています。これは、確かに詩集『春と修羅』の最大のテーマの一つとも言えるものですが、しかしそれ以外にも、たとえば同僚堀籠文之進との葛藤という問題も、当時の賢治にとっては相当の重みを持つものだったと思われます。この悩みが、詩集前半部の代表作である「春と修羅」や「小岩井農場」の、隠れた主題だったのではないかと私は感じていて、それについては以前に「「〈みちづれ〉希求」の昇華」という記事などに書きました。

 私が上の記事で考えてみたことは、賢治は「一人の人とどこまでも一緒に行こう」と一途に求める「〈みちづれ〉希求」の苦悩と挫折を通り抜け、「全ての生き物と一緒に本当の幸福を目ざす」という、一種の菩薩行を己の究極の目標として見定めることにより、この危機を乗り越えたと言えるのではないかということでした。「個別的・主観的な愛」から、「普遍的・客観的な愛」への超克です。

 そして、この時期の賢治における「主観性」から「客観性」への変化は、愛や人間関係という領域においてだけでなく、この世界で生起する現象をどう認識するか、すなわち「世界観」という分野においても、同時並行的に変動が起こっていたのではないかと、私は思うのです。

廣川松五郎のアザミ

 サイトのデザインを更新してから3週間ですが、この間に上のタイトル画像の色彩を変な風にしてみたり、ナビゲーションバーに「その他」や「メール」を並べて、「その他」の内容を一部 CMS 化したり、いろいろいじっています。本文右側の「サイドバー」と呼ばれる部分の背景には、20200614a.png詩集『春と修羅』の表紙のアザミの文様を入れてみたのですが、あらためて眺めてみて、やっぱりこれは素晴らしいデザインですね。
 ここに描かれているアザミのシルエットは、形としては写実的でありながら独特のリズム感があり、高い装飾性も備えています。何となく、「春と修羅」の一節「いちめんのいちめんの諂曲模様…」というフレーズさえ連想します。

 『春と修羅』出版に際して、賢治のためにこの魅力的な図案を描いてくれたのは、当時の気鋭の染織家・工芸作家で歌人でもあった、廣川松五郎でした。廣川は賢治より7歳上で、1914年に東京美術学校(現東京藝術大学)図案科を卒業し、この『春と修羅』の装幀をした1924年には日本美術協会審査員となり、翌1925年は巴里万国装飾美術工芸博覧会に出品して銀賞を獲得しています。1930年に帝展無鑑査となって、1935年には東京美術学校教授に就任するなど、日本の染織界の第一人者と言える存在でした。

 この廣川松五郎が、いったいどういう縁で無名の田舎教師の処女詩集のために図案を描いてくれたのかという疑問に、間接的ながらヒントを与えてくれるのが、賢治の親戚である関徳也の、次の文章です。

「〈みちづれ〉希求」の昇華

 「〈みちづれ〉希求」の話に行く前に、まずは次の疑問について考えることから、今回の記事を始めてみたいと思います。
 『春と修羅』を書いていた頃の賢治は、いったいなぜ、自らの〈修羅〉性について、あれほど尖鋭に意識し、苦悩しなければならなかったのでしょうか。

 賢治が自らを〈修羅〉と規定し、そのような己の本性に対峙しつつ苦しんだことは、「春と修羅」の、

おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)

という箇所に、端的に表れています。なぜ彼は、自分のことを「ひとりの修羅なのだ」と呼び、そのために風景がゆすれるほど、なみだを流さなければならなかったのでしょうか。これは、『春と修羅』という一つの詩集全体をも貫くテーマとも言える、重要な問題でしょう。

 まず客観的に見ると、宮澤賢治という人は、「修羅」と言えるような人柄でもなく、またそういった行動をする人でもなかったということは、以前の「諂曲なるは修羅」という記事においても、具体的に確認したところです。賢治を直接に知る人々の証言では、彼は修羅とは対極的に、「どんな人にも丁寧で、親切な礼儀正しい人」(佐藤成)、「おだやかでもの静か」(羽田視学、畠山校長)、「とにかく常に明るくて、微笑の絶えない人」「けっしていばらない人」(藤原嘉藤治)と評されており、賢治自身が己の修羅性を気にする必要性は、全くなかったはずなのです。

 それにもかかわらず、彼が「おれはひとりの修羅なのだ」と自己規定をせざるをえなかった理由があるとすれば、それは他人からはうかがい知れないけれども、彼にとっては何か自分の内に、〈修羅〉的な要素を強く意識せざるをえない部分があり、その部分をどうしても自分で許せなかったために、あそこまで苦しんだのだろうと、考えるしかありません。

 そこで次の問題は、そのように賢治が意識した自らの〈修羅〉性とは、具体的にはいったいどういう部分だったのか、ということです。これについては、やはり記事「諂曲なるは修羅」で述べたように、童話「土神ときつね」と、「小岩井農場(清書後手入稿)」第五綴の記述が、有効な導きとなります。

 「土神ときつね」は、これまでの研究によって、作者賢治が登場人物を自らの分身のように造型している面があること、そして同時にその「土神」は、修羅性の象徴とも言えることが、指摘されてきました。これに加えて私としては、怒り荒ぶる土神は「修羅の瞋恚的側面」を象徴し、言葉巧みに樺の木を誑かす狐は「修羅の諂曲的側面」を象徴するという図式になっているのではないかと、考えてみました。

 一方、「春と修羅」の翌月にスケッチされた「小岩井農場(清書後手入稿)」の次の箇所における賢治の言動は、このような「瞋恚」と「諂曲」に、不思議と合致しているように感じられます。

  ※※※※※※※※ 第五綴
鞍掛が暗くそして非常に大きく見える
あんまり西に偏ってゐる。
あの稜の所でいつか雪が光ってゐた。
あれはきっと
南昌山や沼森の系統だ
決して岩手火山に属しない。
事によったらやっぱり
石英安山岩かもしれない。
これは私の発見ですと
私はいつか
汽車の中で
堀籠さんに云ってゐた。
(東のコバルト山地にはあやしいほのほが燃えあがり
 汽車のけむりのたえ間からまた白雲のたえまから
 つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。
 その汽車の中なのだ。
 堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた。)
堀籠さんは温和しい人なんだ。
あのまっすぐないゝ魂を
おれは始終をどしてばかり居る。
烈しい白びかりのやうなものを
どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。
こっちにそんな考はない
まるっきり反対なんだが
いつでも結局さう云ふことになる。
私がよくしやうと思ふこと
それがみんなあの人には
辛いことになってゐるらしい。

 ここで賢治は、何とかして同僚の堀籠文之進と親しくなりたいと思って、いろいろ話しかけているのですが、なかなかうまく行きません。
 引用部の終わりの方で、「温和しい」堀籠さんに対して賢治が、「おれは始終をどしてばかり居る。/烈しい白びかりのやうなものを/どしゃどしゃ投げつけてばかり居る」というところは、土神が樺の木と仲良くなりたいのに、不器用にも乱暴な印象ばかり与えて逆効果を招いているところと、そっくりに感じられます。
 また前半部で、鞍掛山が地質学的に岩手山の系統に属さないという自説を、「これは私の発見です」とやや大げさに自慢げに言っているところは、狐が樺の木の気を引こうとして話を誇張するところに通じます。

 つまり、私が思うのは、次のようなことです。当時の賢治は、自分が堀籠と仲良くなりたい一心で、思わず激情があふれて一方的な物言いになり、意に反して相手を萎縮させてしまうところや、あるいは自分を良く見せようとして、つい得意気に話を盛ってしゃべってしまうところ等が、自分でも情けなく思えて、己を許せなかったのではないでしょうか。そして、そのような自らの言動は、修羅の特徴的な二つの側面である「瞋恚」と「諂曲」にも通ずるところから、深い自己嫌悪とともに己を〈修羅〉と規定し、そのような自分を何とかして超克しなければならないと、考えたのではないでしょうか。

 おそらく賢治にとって、このような感情に悩まされるのは人生で初めてのことではなく、数年前から保阪嘉内に対して、己の〈みちづれ〉となってくれることを求めては叶えられず悶々とし、ついに「春と修羅」を書く前年に悲しい別れを迎えるまでの過程においても、ずっと同様の苦しみを味わっていたのではないでしょうか。
 そして、翌1922年の春、またもや同じような苦悩に囚わていれる自分に直面し、己のその「業」のような性質に対して、ここで〈修羅〉という自己規定を行ったわけです。

 冒頭に掲げた、「なぜ賢治は、客観的には修羅的ではないのに、己を〈修羅〉と意識して悩まなければならなかったのか」という疑問に対して、現時点で私としてはこれが、最も無理のない答えに思えます。それは、「〈みちづれ〉希求」が叶えられないことによって、思わず露呈してしまう、自らの内の「下等」な感情のことだったと思われるのです。

 (ちなみに、ここで言う「下等」とは、「小岩井農場(清書後手入稿)」第六綴の、次の箇所からとっています。)

 (私はどうしてこんなに
  下等になってしまったらう。
  透明なもの 燃えるもの
  息たえだえに気圏のはてを
  祈ってのぼって行くものは
  いま私から 影を潜め)

 では賢治は、そのような己の〈修羅〉性を、実際にどのようにして克服していったのでしょうか。
 現在の私たちから見ると、賢治が特定の誰かについて、上記のように感情的になったり諂うような態度をとったりしてしまうのは、「ある一人の人に対して、信仰も含めてどこまでも一緒に行こうとしてしまう」ところに、無理があるのだろうと思われます。つまり、先日の記事の言葉では、「〈みちづれ〉希求」に囚われてしまうことに、原因があるわけです。
 しかし、1922年4月8日の日付を持つ「春と修羅」でも、5月う21日の日付を持つ「小岩井農場(清書後手入稿)」でも、自分の言動を反省してはいるものの、己の「〈みちづれ〉希求」そのものを問題視している様子は見受けられません。しかし、「原因」をそのままにして、表面の「結果」だけを抑えつけようとしても、それは無理なことでしょう。
 1923年3月4日には、堀籠に対して、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」と言って、堀籠の背中を打ち、これによってどうにか彼を〈みちづれ〉として求めることを諦めたようです。しかし裏を返せば、この日まで賢治は、まだずっと堀籠に対する感情に苦悩し続けていたわけです。

 このような苦しみに囚われていた賢治の問題意識が、原因である自らの「〈みちづれ〉希求」の方へと向かったのは、図らずも「トシを失う」という体験をしたおかげだったのではないかと、私は思います。
 トシという、やはりかけがえのない〈みちづれ〉が1922年11月27日に亡くなり、その喪失の悲嘆に暮れていた賢治は、翌1923年7月末から8月初めにかけて、トシの魂を追い求め、何かの「通信」の望みを抱いて、サハリンへ旅をします。ここでは、賢治はまだトシという「ひとり」を諦めきれていないわけですから、やはり彼は従来のような「〈みちづれ〉希求」に囚われていたと言えるでしょう。
 しかし、この旅から帰郷した後、賢治に重要な変化が現れはじめるように思われます。この年の秋頃に書かれたと推測される「手紙 四」では、死んだ妹ポーセを探そうとするチユンセに対して、「チユンセがポーセをたづねることはむだだ」との宣告が行われ、〈みちづれ〉を求める行為が、明確に否定されるのです。そしてその否定のかわりとして、「大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」ということが説かれます。ご存じのように「青森挽歌」においても、いつの時点の推敲からかは不明ですが、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という、同様の啓示が現れます。

 すなわちここでは、「死者」を対象とする形ではありますが、ある特定の一人と「どこまでもどこまでも一緒に行かう」とするような「〈みちづれ〉希求」は、利己的な願望として否定され、かわりに「すべての生き物と一緒に、本当の幸福へ到る」という、菩薩行的な志向性こそが、肯定されるのです。

 そしてこの命題を、死者を対象としたものから生者へと拡張すると、「小岩井農場(初版本)」パート九の、有名な定式になります。

もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ

 ここでは二番目に登場して「恋愛」と呼ばれている、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」願望が、これまで述べてきた「〈みちづれ〉希求」に相当します。賢治はおそらく、同性であろうと妹であろうと、全き同伴者として強く求める自らの「〈みちづれ〉希求」というのは、なかなか一般人には理解されにくいということがわかっていて、それでここでは通俗的に「恋愛」と表現しているのではないかと、私は思います。それでも、「完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」というのは、やはり一般人の平均的な恋愛感情を超えていると言わざるをえず、やはりこれが賢治独特の感情を原型としていることが、推測されます。
 そして、このように一人を対象とした愛は、正しい「宗教情操=じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」願いが、砕けまたは疲れて退化したものにすぎないわけなので、だから人は本来の宗教情操にこそ立ち返らなければならないというのが、この箇所の賢治の考えです。仏教的な言い回しでは、例えば「我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」(『法華経』化城喩品)に通じます。

 このように、「ただ一人を対象とした〈みちづれ〉希求」を、「全ての衆生を〈みちづれ〉とした求道」、すなわち「菩薩行」へと転換すること、これこそが賢治が到達した「〈みちづれ〉希求」の昇華でした。別の言い方をすれば、「個別的・主観的な愛」を、「普遍的・客観的な愛」に高める、とも言えるでしょうか。
 そしてこれによって、彼はやっと己の〈修羅〉性から解放され、個人への執着に悩み苦しまずに自分が目ざすべき方向性を、明確にできたのです。

 実際、『春と修羅』の最終章である「風景とオルゴール」や、「春と修羅 第二集」以降では、人間ではなくて「自然への愛」や「自然との合体」が、謳歌されるようになります。

こんなあかるい穹窿と草を
はんにちゆつくりあるくことは
いつたいなんといふおんけいだらう
わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる
こひびととひとめみることでさへさうでないか
   (おい やまのたばこの木
    あんまりヘんなおどりをやると
    未来派だつていはれるぜ)
わたくしは森やのはらのこひびと
芦のあひだをがさがさ行けば
つつましく折られたみどりいろの通信は
いつかぽけつとにはいつてゐるし
はやしのくらいとこをあるいてゐると
三日月がたのくちびるのあとで
肱やずぼんがいつぱいになる
        (「一本木野」)

海の縞のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天末線
あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ
        (「種山ヶ原」下書稿(一)

あのどんよりと暗いもの
温んだ水の懸垂体
あれこそ恋愛そのものなのだ
炭酸瓦斯の交流や
いかさまな春の感応
あれこそ恋愛そのものなのだ
        (「春の雲に関するあいまいなる議論」)

 このように振り返ってみると、『春と修羅』という詩集は、賢治が1921年の保阪嘉内との別れ、1922年のトシとの死別、1923年の堀籠との同道の諦めという形で、己の「〈みちづれ〉希求」の度重なる挫折に苦悩し、それによって煩悶する自分を〈修羅〉と規定して対峙し、ついにそのどん底から妹の死も契機として再び歩き始めたという、一連のプロセスの記録であったということもできます。
 その期間においては、思想的な懊悩と並行して、飽くなき作品の推敲もあったはずですが、その果てにやっとのことで、「小岩井農場(初版本)」パート九のような、一定の境地を表すテキストに達することができたわけです。
 一つの詩集の中に、本当にダイナミックな展開と決着が隠されていると感じますが、逆に言えば、賢治としては自らの苦悩にやっとこういう形で、思想的なレベルで一段落をつけることができたので、そのドキュメントを『春と修羅』という一つの詩集として、世に出そうと思ったということかもしれません。

 かつて天沢退二郎氏は、詩集『春と修羅』全体の構成を、「詩篇「春と修羅」と「永訣の朝」とをいわば二つの頂点、二つの中心として、全七十篇が楕円形の構造をなしながら宙に懸かっている」と表現されました(「《宮澤賢治》作品史の試み」)。その二つの中心とは、「己の《修羅》性の発見」と、「妹の死」というテーマだったわけですが、上のように見てくると、賢治にとって「己の〈修羅〉性」とは、「〈みちづれ〉希求」が叶えられないことによる感情的動乱だったわけですし、「妹の死」は、これ自体が彼にとって最大の「〈みちづれ〉希求」の挫折でした。
 そうすると、天沢氏の言う「二つの中心を持つ楕円」とは、実は突き詰めれば、「〈みちづれ〉希求」の挫折と昇華という「一つの中心を持つ円」だったとも、言えることになります。その「一つの中心」を作品の上に定位するとすれば、「春と修羅」と「永訣の朝」の間にある、「小岩井農場」になるのではないでしょうか。

 いずれにせよ、この問題こそが、『春と修羅』の最大かつ本質的なテーマであったのだろうと、私としては思うところです。

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 長詩「小岩井農場」には様々な側面があり、様々な解釈が可能でしょうが、その初期形における重要なモチーフの一つは、「農学校の同僚の堀籠文之進と仲良くなりたいが、うまく行かない」という賢治の悩みでした。
 もっとも、この堀籠をめぐる葛藤に関する記述は、後の推敲によって削除され、全く痕跡をとどめない状態にされてしまうので、出版された『春と修羅』に掲載されている形態を見るかぎりは、そのようなモチーフはうかがい知れません。しかし賢治が、この日の小岩井農場散策を途中で取りやめ、引き返すという決断をしたのも、実は堀籠に対する気持ちによるところが大きく、早く花巻に戻って農学校に寄れば、日直をしている堀籠と一緒にチョコレートを食べられるかもしれない、と考えたからだったのです。

 もちろん、賢治が引き返した直接のきっかけは、よく知られているように「雨が降り出したから」だったのですが、「下書稿」や「清書後手入稿」を見ると、彼は雨が降り出すかなり前から、「もう柳沢へ抜けるのもいやになった」と記し、何時の列車に乗れば農学校に寄るのに都合がいいかなどと、しきりに考えているのです。

五時の汽車なら丁度いゝ。
学校へ寄って着物を着かへる。
堀篭さんも奥寺さんもまだ教員室に居る。
錫紙のチョコレートをもち出す。
けれどもみんながたべるだらうか。
それはたべるだらう、そんなときなら
私だって愉快で笑はないではゐられないし
それにチョコレートはきちんと、
新らしい錫紙で包んであるから安心だ。

 賢治はこんなことを考えながら、しかし引き返す決断はできないまま歩みを進めていたところに、急に雨が降ってきたので、これ幸いとばかりに「引っ返せ 引っ返せ」と自分に掛け声をかけ、Uターンをしたのです。
 この一連の流れを見ても、当時の賢治にとって堀籠に関する悩みが、どれほどのウェイトを占めていたのか、ということがわかると思います。

 実際にこの1922年5月21日(日)、小岩井農場から予定を早めて花巻に戻った賢治が、農学校に立ち寄って堀籠文之進とともにチョコレートを食べたのかどうかはわかりません。しかし賢治にとって、堀籠との関係をめぐる葛藤は、その後も続いていたようです。
 それを物語るのは、『新校本全集』の「年譜篇」の1923年3月4日の項に記されている、二人の間の特異な出来事です。

 同僚堀籠文之進と一関へハイキング。途中一切英会話。一関で上演中の歌舞伎を見物し、10時を過ぎる。汽車もなく、飲み屋で休み、月夜を幸い帰る。
 途中、たまたま信仰の話に及んだとき、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」といい堀籠の背中を打った。
 「ああこれでわたくしの気持ちがおさまりました。痛かったでしょう。許してください」といい、平泉駅につき待合室のベンチで休み、夜明けとともに下り列車に乗り、花巻まで一睡する。

 職場の同僚である堀籠の背中を打つというこの賢治の行動は、前回も引用したような、「穏やかで、温和で、謙虚な」賢治の人柄のイメージからすると、かなり意外なものです。このような行動の背景には、何らかの強い「感情」の存在を想定せざるをえません。
 この時二人は、「信仰の話」をしていたということで、賢治が「どうにも耐えられない」と言った理由は、おそらく堀籠が、自分は賢治と同じ信仰を持つことはできないと、はっきり言明したか何かだったのでしょう。日蓮系の教団では、周囲の人に「折伏」をして、少しでも多くの信者を獲得することを特に重視しますので、この時賢治が「一人の信者を獲得し損ねた」ことは、かなり残念な結果だったことでしょう。
 しかし、当時の賢治にとって堀籠が、単なる折伏の対象としての「一人」にしか過ぎなかったとは、到底思えません。もしそれだけのことだったなら、賢治が周囲の人に日蓮の教えを勧めた際には、相手が断るたびごとにその人の背中を叩いていたはずですが、もちろん実際はそんなことはありません。ですから、ここで賢治に堀籠の背中を打たせた「感情」は、堀籠という個人に対して、特別に向けられていたものだったということになります。

 その感情とは、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか」という賢治の言葉に表れているように、「自分と一緒に歩んで行く人を求める」という思いでしょう。「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニがカムパネルラに言った、「どこまでもどこまでも一緒に行かう」という願いと同型なのが印象的で、これは賢治にとって、重要なテーマだったのだろうと推測されます。
 このような、「生涯の同伴者を求める」という賢治の強い感情のことを、ここでは「〈みちづれ〉希求」と名づけておこうと思います。〈みちづれ〉という言葉は、賢治が「無声慟哭」において、トシにとっての賢治自身のことを、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」と呼んだことからとっています。

 思えば、宮澤賢治という人は、『春と修羅』の時期の少し前から、〈みちづれ〉を強く希求しては失うという挫折を、下記のように毎年経験していました。

  • 1921年7月: 保阪嘉内との別れ
  • 1922年11月: トシの死
  • 1923年3月: 堀籠文之進への諦め(上述)

 このような悲痛な体験の連続は、彼に深い喪失感と孤独感をもたらしたでしょうが、これらの苦悩の直視と昇華こそが、『春と修羅』という詩集の、本質的なテーマだったと言えるのではないでしょうか。

 前回も見たように、詩「春と修羅」で抉り出された「自らの《修羅》性」とは、童話「土神ときつね」において類型化されているように、土神の象徴する「修羅の瞋恚的側面」と、狐の象徴する「修羅の諂曲的側面」という二面に分けて考えることができます。そして、そのどちらの側面も、「小岩井農場」の初期形に描かれたように、堀籠に対する過剰で一方的な「〈みちづれ〉希求」と、現実との齟齬において、自覚され記載されたものでした。

 長詩「小岩井農場」は、当初は堀籠に対するこのような心理的=《修羅》的葛藤を主要なモチーフとしていましたが、推敲の過程でそこに含まれる個人的要素は削り取られ、最終的にはただ「個別的(主観的)な愛」を超克して、「普遍的(客観的)な愛=宗教情操」に昇華すべきだという理念のみが、高らかに謳われることになります。推敲後の「小岩井農場」では、堀籠の名前すら出ず、ただ「さびしい」とか「さびしくない」とかいう抽象的な言葉だけが残され、最後の「宗教情操」をめぐる大団円に至るので、その具体的な意味がわかりにくくなっていますが、もとはこの作品のテーマも、「〈みちづれ〉希求」に関連した苦悩だったわけです。

 また、トシの死後の「無声慟哭」の章と、「オホーツク挽歌」の章の諸作品が、トシに対する「〈みちづれ〉希求」の挫折と、その後の苦悩を描いたものであることも、言うまでもありません。そしてここでも賢治は、「青森挽歌」の《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉に集約されるように、「個別的(主観的)な愛」を超克して、「普遍的(客観的)な愛」に昇華しなければならない、という結論に至ります。

 詩集『春と修羅』の最後の章である「風景とオルゴール」では、個別の人間に対する「〈みちづれ〉希求」を昇華する一つの方向性として、「自然への愛」への志向が描かれています。「過去情炎」では、賢治は梨の木に対して「待つてゐたこひびとにあふやうに」接し、「一本木野」では、自然の中を歩く恩恵を「こひびととひとめみること」とでも取りかえると言った後、「わたくしは森やのはらのこひびと」と宣言します。

 以上のように、賢治は己れの過剰な「〈みちづれ〉希求」が招来する苦悩を、『春と修羅』の諸作品を書きつつ推敲しつつ必死で乗り越えて、ついには新たな段階に入っていったように見えます。したがって、彼の生涯のうちで、そのような葛藤が作品のテーマとなっていた時期は、せいぜい数年間にすぎません。
 しかし、若き日の彼がこのような経験をしたことが、その後も含めた彼の作品に、独特の奥深さと陰翳をもたらしてくれたことは、確かだと思います。

 それから、賢治のこの感情は独特なもので、作品の記述などから想像するに、それはおそらく世間一般の「友情」とか「家族愛」などをはるかに超越する強度だったと、考えざるをえません。この「独特さ」を無視して、賢治の具体的行動や作品の描写を、普通人の心理に当てはめて解釈しようとすることから、「保阪嘉内に対する感情は同性愛だった」とか、「トシとの間には禁断の愛があった」などという俗説が生まれてしまうのだと思います。『宮沢賢治の真実』で今野勉氏は、堀籠文之進に対する感情も同性愛として論じておられますが、保阪嘉内の場合も含め、彼らを〈みちづれ〉として求めた賢治の感情を、「性欲」を伴った「愛」と解釈すべき根拠は、わかっている範囲では何も見出せません。

 私としては、賢治のこの独特の感情に何か名前があった方が、上記のような俗な誤解を招きにくくなるのではないかと思い、とりあえず「〈みちづれ〉希求」と呼んでみた次第です。

なぜ岩波茂雄あてに

 宮澤賢治は、1925年12月に岩波書店社主の岩波茂雄あてに手紙を書き、自分の手もとに売れ残っている『春と修羅』200部と、岩波書店の刊行している哲学・心理学書を交換してくれないか、言いかえれば現物支給でよいから自分の『春と修羅』を買い取ってくれないか、という依頼をしました。

とつぜん手紙などをさしあげてまことに失礼ではございますがどうかご一読をねがひます。わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自費で出しました。友人の先生尾山といふ人が詩集と銘をうちました。詩といふことはわたくしも知らないわけではありませんでしたが厳密に事実のとほり記録したものを何だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした。辻潤氏佐藤惣之助氏は全く未知の人たちでしたが新聞や雑誌でほめてくれました。そして本は四百ばかり売れたのかどうなったのかよくわかりません。二百ばかりはたのんで返してもらひました。それは手許に全部あります。
わたくしは渇いたやうに勉強したいのです。貪るやうに読みたいのです。もしもあの田舎くさい売れないわたくしの本とあなたがお出しになる哲学や心理学の立派な著述とを幾冊でもお取り換へ下さいますならわたくしの感謝は申しあげられません。わたくしの方は二・四円の定価ですが一冊八十銭で沢山です。あなたの方のは勿論定価でかまひません。
粗雑なこのわたくしの手紙で気持ちを悪くなさいましたらご返事は下さらなくてもようございます。こんどは別紙のやうな謄写版で自分で一冊こさえます。いゝ紙をつかってじぶんですきなやうに綴ぢたらそれでもやっぱり読んでくれる人もあるかと考へます。
   ご清福を祈ります。
大正十四年十二月廿日            宮沢賢治

 岩波茂雄は、見知らぬ「岩手県の農学校の教師」から突然受け取ったこの手紙に返事は出さなかったようですが、しかし捨ててしまうこともなく何らかの形で保管していたようで、半世紀も経った1970年代になって、これが古書市に出品されているのが偶然発見され、現在のような形で賢治全集にも収録されることになりました。
 余談ですが、さらにこの書簡は2012年7月に、再び「古書大入札会」に最低入札価格500万円で出品されるという運命をたどります(「岩波茂雄あて書簡214aが入札会に」参照)。

 ところでいったいなぜ、賢治がこのような唐突な手紙を、面識もない出版社社長に出したのかというのは、やはり不思議なことです。
 これについて、『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)の「年譜篇」の1925年12月20日の項には、次のように記されています。

一二月二〇日(日) 『春と修羅』の名義上の発行所で販売を依頼していた形の関根書店よりとり戻した二〇〇部を生かす一案として、岩波書店主岩波茂雄にあてて、自著を八〇銭とし、先方出版の哲学や心理学書と交換できまいかと問い合わせ(書簡214a)。これに対する返書はなかったものと見られる。〔後略〕

 つまり、売れ残った『春と修羅』の「200部を生かす」というのが賢治の目的だったとしており、もちろんこれは一面では全くそのとおりでしょう。しかし、単に換金しようということだけが目的ならば、古本屋に売る方が確実であり、なぜ「本の買い取り」など行っていない新刊の出版社に依頼したのか、やはり理解できない部分が残ります。
 また岩手大学の佐藤竜一さんは、下のようにツイートしておられます。

 すなわち、当時「一流出版社の道を歩み始めた岩波書店に渡りをつけたく考えた」という見方です。
 これがおそらく、多くの方々も賛同されるであろう妥当な解釈で、単に「200部を生かす」だけではなくて、岩波茂雄に直々に自分の作品を見てもらって、何とかその鑑識眼によって認めてもらえないか、という期待をこめての行動だったのでしょう。

 ここで、賢治の提案を岩波書店側から見ると、200部もの『春と修羅』を送ってこられても、それをそのまま岩波書店として販売することもできませんから、書店にとっては80銭×200=160円分の「哲学や心理学の立派な著述」を、相手に進呈する分がまるまる損になるわけで、これは普通に考えたら成立するような取り引きではありません。では、仮にこのような無理な取り引き話に岩波側が乗ってくる可能性があるとすれば、いったいどういうケースなのかと考えてみると、それは「この『春と修羅』の再版、あるいは次の「春と修羅 第二集」を、岩波書店から出させてくれ!」と、岩波茂雄が希望した場合だ、ということになります。
 そして、賢治自身も本心ではそれをひそかに期待して、岩波茂雄あてにこの書簡を送ったというのが、真相なのではないかと思います。
 ただ残念ながら、その賢治の期待はかないませんでした。もしもここで『春と修羅』が岩波書店から刊行されることになっておれば、その後の賢治の人生は、全く違ったものになっていたでしょうが……。

 ところで私としては、賢治が一時このような淡い期待を東京の出版社に対して抱いたのだとしても、その望みを託したのが、なぜ他ならぬ岩波書店だったのかということが、まだ気になります。賢治が遺した蔵書の中に、岩波書店から刊行された書籍は、「岩波文庫」が「各科にわたり数十冊」と記されている以外には全く見当たらず(奥田弘「宮沢賢治の読んだ本 所蔵図書目録補訂」)、賢治が岩波書店の本を特に愛読していたという様子は、見受けられないのです。
 当時、もっと大きな出版社は他にいくつもあっただろうと思いますが、賢治が岩波書店を選んだ理由は、いったい何だったのでしょうか。

 ここで私が思い浮かべるのは、1921年に岩波書店が西田幾多郎の『善の研究』を再刊して、これが当時の旧制高校生の間で、大変な人気を博すに至った、という経過です。
 私がそう思った理由のひとつは、『善の研究』という本の「内容」というかその「企図」にあります。
 著者の西田は、『善の研究』の序文の中で、次のように述べています。

 純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいといふのは、余が大分前から有つて居た考であった。初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかつた。其中、個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるといふ考から独我論を脱することができ、又経験を能動的と考ふることに由つてフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかの様に考へ、遂にこの書の第二編を書いたのであるが、その不完全なることはいふまでもない。

 すなわち、「純粋経験」のみを出発点として、そこから自らの哲学の全体を構築しようという企図によってこの本は貫かれているのですが、その「純粋経験」とは何かと言えば、本文の冒頭において西田は次のように説明しています。

 経験するといふのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てゝ、事実に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験といつて居る者も其実は何等かの思想を交へて居るから、毫も思慮分別を加へない、真に経験其儘の状態をいふのである。

 これは、賢治が上の岩波茂雄あて書簡において、自らの「心もち(心象)」を、「そのとほり科学的に記載し」、あるいは「厳密に事実のとほり記録し」、それを「あとで勉強するときの仕度」にしたという彼の出発点の様子に、共通するものがあると言えないでしょうか。
 そして賢治は、この「心象スケッチ」によって最終的に何を目ざしていたのかというと、岩波茂雄あて書簡と同年の森佐一あて書簡200では、「或る心理学的な仕事の支度」と記し、またその意図は、「歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し」というものであったと、書いているのです。
 西田が独自の哲学体系を樹立したように、賢治も非常に野心的な目標を持っていたわけですが、その「或る心理学的な仕事」の内実とは、自らの幻覚体験も含めた記録論料に、何らかの心理学的な手法を適用することによって、「われわれの感ずるそのほかの空間」=異界に関する「十界互具」的・仏教的な認識論と、科学とを架橋しようというものだったのではないかというのが、私の個人的な推測です。

 それはさておき、このように「純粋経験」あるいは「意識現象」を学の土台に据えて出発点にしようとする考え方は、何も西田や賢治に限らず、当時の世界的な潮流でもありました。
 『宮澤賢治 イーハトーヴ学事典』の「現象学」の項で、黒田昭信氏は次のように書いておられます。

 賢治の諸作品、とりわけ『春と修羅』において実践された心象スケッチには、素朴実在論からまったく解放された、現象学的とも呼べる記述的態度を見て取ることができる。
 19世紀末から20世紀初めにかけて、ヨーロッパでもアメリカでも、生きられる「事象そのもの」への回帰という哲学的態度が、フッサール、ベルクソン、ウィリアム・ジェームズらによって、一つの大きな思潮として形成されていくが、それが日本へと流入して来るのが、明治末期から大正期である。フッサール現象学そのものの日本への受容は、大正初期の西田幾多郎よる紹介に始まり、京都学派に属する哲学者たち―田邊元、山内得立、三宅剛一、三木清、あるいは東北大学の高橋里美らによって、大正時代から昭和初期にかけて、その理解の深まりとともに、本格化していくが、その過程は、賢治の文学と思想が形成されていく時期と重なり合う。

 賢治が西田の著作を読んだことがあったかどうかはわかりませんが、下に記すように当時一世を風靡した西田の哲学がどういうものかということについては、知識人として一応は知っていたのではないかと思います。そうであれば、「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たい」と言う西田幾多郎は、賢治にとっては時代の潮流を共有しつつ、同じ方向を目ざす仲間だったはずなのです。

 そしてさらに、このような「内容」以上に私が興味を引かれるのは、西田幾多郎と岩波書店の関係です。
弘道館版『善の研究』 西田幾多郎が『善の研究』を最初に出版したのは、1911年(明治44年)に「弘道館」という出版社からでしたが、その内容は専門家の一部から高く評価されながらも、三刷を重ねただけで、まもなく絶版になっていました(右画像は国会図書館デジタルライブラリーより)。
 この状況に変化をもたらしたのが、1921年(大正10年)に岩波書店から刊行された倉田百三著『愛と認識との出発』において、著者がこの『善の研究』を絶賛したことでした。
 同書で倉田は、次のように『善の研究』を紹介しています。

 この乾燥した沈滞したあさましきまでに俗気に満ちたるわが哲学界に、たとえば乾からびた山陰の瘠せ地から、蒼ばんだ白い釣鐘草の花が品高く匂い出ているにも似て、われらに純なる喜びと心強さと、かすかな驚きさえも感じさせるのは西田幾多郎氏である。〔中略〕
 操山の麓にひろがる静かな田圃に向かった小さな家に私たちの冬ごもりの仕度ができた。私はこの家で『善の研究』を熟読した。この書物は私の内部生活にとって天変地異であった。この書物は私の認識論を根本的に変化させた。そして私に愛と宗教との形而上学的な思想を注ぎ込んだ。深い遠い、神秘な、夏の黎明の空のような形而上学の思想が、私の胸に光のごとく、雨のごとく流れ込んだ。そして私の本性に吸い込まれるように包摂されてしまった。

岩波書店版『善の研究』 このような紹介文を読むと、それほどに素晴らしい『善の研究』を、今すぐにでも読みたいと願う読者が現れるのは当然のことですが、この時点でこの本は絶版になっていたのです。そこで、同じ1921年にやはり岩波書店から、『善の研究』が再版されることになり、これは発売当初から、旧制高校生が争って買い求めるほどの人気を博すことになりました(右画像は国会図書館デジタルライブラリーより)。
 いったいどれほど愛読されたのか、岩波文庫版『愛と認識との出発』の「解説」には、次のように記されています。

 旧制の第一高等学校の学生たちが、もっとも愛読した書物は何か。1943(昭和18)年に同校で行われた調査によると、第一位が倉田百三の『愛と認識との出発』である。以下、第二位-阿部次郎『倫理学の根本問題』、第三位-同じく倉田の『出家とその弟子』、第四位-西田幾多郎『善の研究』、第五位-出隆『哲学以前』とつづく(『第一高等学校自治寮六十年史』)。

 つまり、その内容的な出発点と企画において「心象スケッチ」と似ていた『善の研究』は、その初版はすぐに絶版になったものの、岩波書店から再版されることによって、一躍脚光を浴びることになったのです。
 ここまで話題となった本ですから、賢治もその再版に至る経緯くらいは耳にしていたはずで、この本と構想と射程において共通する自らの『春と修羅』が、万が一にでも岩波書店から出版されることになれば……と夢見たとしても、そんなに不思議なことではないと、私としては感じた次第です。

 とりわけ、岩波茂雄に対して「あなたがお出しになる哲学や心理学の立派な著述とを幾冊でもお取り換へ下さいますなら……」と書いているところについては、「心理学」の方は上の森佐一あて書簡に「或る心理学的な仕事」とあるように、自らの企画の方向性として意識していた分野なので当然としても、「哲学」が挙げられているのはどうしてなのでしょうか。これはやはり、岩波書店が再版した西田幾多郎の『善の研究』を賢治が意識していたからではないかと、私としては思ってしまうのです。

走査線に明滅する幽霊

新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書) 新記号論 脳とメディアが出会うとき (ゲンロン叢書)
石田 英敬 (著), 東 浩紀 (著)

ゲンロン (2019/3/4)

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 最近出た、『新記号論 脳とメディアが出会うとき』という本をたまたま読んでいましたら、賢治の『春と修羅』の「」に関する、面白い言及がありました。

『新記号論』p62-63

 少し長くなって恐縮ですが、この「」に対する新たな一つの解釈と思いますので、以下に引用させていただきます。

石田 人間は機械の文字を読み書きすることができないが、その認知のギャップこそが人間の知覚を総合し、人間の意識をつくり出すという話をしました。ぼくたちはこの「技術的無意識の時代」において見えないもの見て、意識の成立以前に聞こえるものを聞いて生活しているわけです。テレビであれ、インターネットの動画であれ、iPod の音楽であれ、ぼくたちは音・イメージや言葉など「記号」だけを取り出し、あたかもそれが現前しているように見なして生活しています。
 現代は音・イメージを伝搬する電波に満ちた時代ですが、フランス語の「スペクトル spectre」(英語の spectrum)には光や音の波長分布像という意味のほかに、「亡霊」という意味もあります。それは、「スペクタクル spectacle(見世物)」という言葉とも結びつく。われわれは音・イメージがつくり出す見世物(亡霊)を存在と見なし、日々暮らしています。これこそヴァルター・ベンヤミンが言うところの「複製技術の時代」にほかなりません。いまここに存在しないひとが話し、存在しない事物の像や光景が見え、いまここに存在しないひととコミュニケーションして生活している。亡霊がいたるところ徘徊してぼくたちを日常的に取り巻いている、かなりふしぎな「スペクタクルの社会」にぼくたちは生きているのです。
 このことを象徴的に表現しているのが、宮沢賢治の『春と修羅』「序」にあるつぎの一節です。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

 ぼくはこれは「テレビの原理」で書かれた詩だと思っています。この詩が書かれたのは1924年です。テレビ技術は19世紀末からの複数の技術的発明が組み合わさって実現したものですが、ベアードによるテレビ像の実験は1924年、日本では高柳健次郎がブラウン管による「イ」の文字の電送・受像の実験に成功したのが1926年です。『銀河鉄道の夜』が相対性理論をベースに書かれたとも読めるように、賢治は科学の動向に詳しいひとだったから、テレビ技術もおそらく知っていたにちがいなく、テレビの原理そのものをメタファーに使っているのではないか。
 テレビでは、走査線上を明滅する光のフレームによって、「わたくしといふ現象」(意識)が生まれる。「せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける」テレビの映像のような「わたくしといふ現象」「あらゆる透明な幽霊の複合体」が、人々の意識生活をつくっていく。テクノロジーが文字を書く時代を予言しているようです。
 まさに予言的ですね。「わたくしという現象」が「明滅する」「幽霊」であるという表現は、たいへんデリダ的な表現です。
石田 メディアがテクノロジーの文字で書くようになると亡霊化する。だから、事物および事実が、まさに現象学が言うような「現象」になるわけですね。(『新記号論』p.61-63)

 というわけで、賢治の『春と修羅』の「」に登場する、「幽霊」や「明滅」する「照明」というイメージは、テレビジョンという当時世界最先端のテクノロジーのメタファーではないかという解釈が、ここで提示されているわけです。
 映画好きで、弟を連れて頻繁に映画館に通っていたという賢治のことですから、もしもテレビの原理やその可能性について知っていたら、並々ならぬ興味を抱いて当然ですし、この「」を書いた時点でそのような知識を持っていたのならば、それがここに反映されたという可能性も、十分に考えられそうです。
 ただ、実際に賢治がテレビ技術について言及している記録は何一つ残っていないと思いますので、彼が「」の執筆時点でそのような技術について知っていたか否かを判断するためには、まずはそれが「時間的に可能だったのか」ということから、調べてみる必要があります。

 ご存じのように、賢治の『春と修羅』「」には、「大正13年(1924年)1月20日」という日付が付されていますが、はたしてこの時点で、賢治がテレビジョンというものを知りうる可能性があったのでしょうか。上記の石田氏の発言には、「ベアードによるテレビ像の実験は1924年」という、まさにピンポイントの年号が書かれていますが、より細かい時間的な前後関係はどうなっていたのでしょうか。
 そこでまず、Wikipedia の「ジョン・ロジー・ベアード」の項を見ると、「1924年2月、Radio Times 誌に半機械式のテレビシステムを公開し動く影(物体の輪郭)の映像を披露した」とあります。しかし、これだけではまだ十分に明らかではないので、ベアードのテレビ発明の記録として現時点で最も詳しそうな、“John Logie Baird: Television pioneer”という本を Google books で拾い読みしてみると、彼の1924年前後の研究活動は、次のようなものでした。

John Logie Baird: Television pioneer (History and Management of Technology) John Logie Baird: Television pioneer (History and Management of Technology)
Russell W. Burns

The Institution of Engineering and Technology (2001/2/21)

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  • ベアードが、自らのテレビジョン研究について最初に出版物で報告したのは、1923年11月号の Chambers Journal 誌であり、ここでは、自作の装置が直径20インチで毎秒20回転の走査ディスクを用い、画面は2×2インチであること等を述べている。
  • 1924年1月、研究のための資金集めに迫られていたベアードは、報道向けの実演を行い、同年1月15日付けの Daily News 紙と、1月19日付けの Hastings and St Leonard's Observer 紙に記事が掲載され、実際これを見たベアードの父親の友人から、50ポンドの資金援助を受けた。この時点では、ベアードの装置はまだ単一の文字や記号の「影絵」を転送できるだけで、集光レンズの前に置かれた十字架形の厚紙の輪郭を、数フィート離れた暗い部屋で見ることができたという。
  • 1924年2月15日付けの Radio Times 紙には、「テレビジョンが実現すれば、肘掛け椅子から世界が見られる」と題された匿名記事が掲載され、無線放送や電波について説明をした後、もしもこれが実現すれば、たとえばアルバートホールに座ったままで、競馬ダービーや、オクスフォード・ケンブリッジ対抗ボートレースや、海軍観艦式や、アメリカのボクシング試合や、あるいは戦争さえ見られる、10年後には地球の反対側で起こる出来事さえ見ることができるだろう、と述べられていた。
  • 1924年1月の新聞記事による資金援助を受けて、ベアードは4月までにより大きなアパートの研究室に引っ越し、4月10日に行った実験の電波が、イギリス南岸部でパリのラジオを聴取していた人々の耳に高音の雑音として聞こえたと、Glasgow Herald ほか数紙が報道した。
  • 1924年3月17日に、ベアードは撮像機と受像機の同期に関する新たな技術の特許を申請した。
  • 1924年4月の Radio Times 紙に、ベアードの支援者である作家のル・キューが「テレビジョン:一つの事実」と題した論文を掲載し、ベアードが撮像機と受像機を正確に同期させるという難題を克服して、完全に切断された装置の間での画像送信を成功させたこと、送信レンズの前で指を上下に動かすと、受像ディスクにおいて上下する指をはっきりと見ることができたことを述べている。
  • 1924年5月に、ベアードはそれまでの実験成果をまとめた最初の技術論文を刊行した。
  • 1924年7月26日付けの Hastings and St Leonard's Observer 紙に、「テレビジョンの発明者と名乗るベアード氏」の実験室で電流がショートして爆発事故が起こり、ベアードは爆風で部屋の端まで飛ばされたという記事が掲載された。
  • この後、ベアードは1925年10月2日に、初めてグレースケールの画像の送受信に成功し、この装置が「最初のテレビジョン」と言われることとなった。1926年1月26日には公開実験においてこれを示した。

 ということで、賢治が『春と修羅』の「」を書いたと推測される1924年1月20日までの時点では、ベアードによるテレビジョン装置は、まだその前段階の開発実験が、イギリスの地方新聞や専門雑誌で細々と紹介されていたにすぎず、さらにその実験装置を実際に見ることができたのは、1924年1月の報道発表に招かれた一部の記者や、ベアードのために金銭的支援をする人だけだったというのが、実情のようです。彼が自らの装置について初めての論文を発表したのも1924年5月で、これも時期的に「」には間に合いません。
 そして、ベアードが現実に「最初のテレビジョン」と呼びうる性能の装置を製作できたのは、1925年10月のことだったのです。

 つまり、賢治が日本にいながらにして、1924年1月までに当時のイギリスにおけるテレビジョンの開発状況――しかもそれはまだ非常に未熟で、隣の部屋に影絵を送れる程度であり、現地の人々にもあまり知られていなかった、実験室の中の試作機という段階――について、具体的に知りえた可能性は、まずないと言わざるをえません。

1924年初期にテレビジョンの実験をするベアード

 なお上の写真は、“John Logie Baird: Television pioneer”に掲載されている1924年初期におけるテレビジョン実験の様子で、中央の人物がベアードで、左側が支援者のル・キューです。さらに左には大きな円盤が写っていますが、当時はこのような円盤に螺旋状に多数の穴をあけておき、円盤を高速で回転させてその穴を透過してくる光を、撮像機および受像機で走査線として用いていたということです。

 以上、実際に確認してみると、賢治が『春と修羅』の「」を書いた時点では、テレビジョンの受像機において「せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける」「幽霊の複合体」を想像しえたということはありえず、これが「テレビの原理」で書かれた詩だという解釈も、成り立たないということになります。
 それはそれで、ちょっと魅力的な解釈だったのにまあ残念だった、というだけのことで、ここで今回の記事を終わってもよいのかもしれませんが、しかしそれにしても宮澤賢治という人は、この東大のメディア学の教授をしても、なぜかここまでの期待というか思い入れをさせてしまう、何か不思議な吸引力を持った人であることは確かです。

 現代の我々は、たとえば賢治が「エコロジー思想の先駆者」であったとか、彼の書いたものやその行動を、ついつい贔屓目に持ち上げたくなる傾向があります。多くの場合、それはある程度までは事実に基づいているのでしょうが、しかし賢治が「有機農業の先駆者だった」とまで言い出すと、これは事実の真逆になってしまいます。また自然科学的分野でも、たとえばある高名な賢治研究者のように、短篇「柳沢」に描かれた岩手山頂の雪の白光を、「超高層空間における発光現象の予覚」であるとか論じてしまうと、やはり独りよがりな思いこみになってしまいます。

 上のような問題は、勝手な読者の側に原因があるわけですが、ただ我々読者がそういうことを考えたくなってしまう理由の一つは、賢治の方も確かに当時の作家としては異例なほどに自然科学知識が豊富で、その最新の進歩にも通じていたということにあるでしょう。
 冒頭の本で石田英敬氏が言っているように、「『銀河鉄道の夜』が相対性理論をベースに書かれたとも読めるように、賢治は科学の動向に詳しいひとだった」わけで、これも「相対性理論をベースに書かれた」とまで言ってしまうとちょっと言いすぎで、「相対性理論の前提である『真空は光の媒質である』という認識が踏まえられている」と表現した方が正確ではあるでしょうが、しかしやはり賢治という作家の印象は、まさにこのとおりなのです。
 近代日本の作家で、我々がこういうイメージや思い入れを投影する人というのは、ほかにはちょっと思い浮かばず、森鴎外などはずっと現役の医師でしたから、当時最先端の科学にもきっと通じていたと思うのですが、読者としては鴎外の作品に、賢治のごとく何か「未来への先見性」を期待するという感じには、なぜかなりません。

 そしてさらに、上記のように賢治が実際に自然科学に詳しかったということに加えて、彼は当時まだ知りえなかったはずの事柄まで、現在から見ると「当時なぜこんなことが書けたんだろう」と不思議になるような、信じられない想像力を示していることも、よくあるのです。
 以前の記事「銀河、ワームホール、りんご」で書いたように、銀河を「りんご」に喩えてそこを走る鉄道を考えるというイメージは、空間の歪みをワープする「ワームホール」の着想そのものですし、また「現象としての真空」で書いたように、「この世界」と「異界」が「真空」という対象を媒介として繋がっているという発想も、現代物理学を先取りしていました。
 これらはいずれも、「賢治の洞察力が凄かった」とまで言ってしまうと言いすぎで、まあ偶然に符合したにすぎないと考えるしかないのですが、しかしたとえ偶然にしても、数十年後に驚かされるようなこういう素晴らしいイメージを独自に生み出すことができる想像力というのは、やはり賢治ならではなのだと思います。

 思えば、記事「現象としての真空」のコメント欄で吉田さんが、「賢治は、アインシュタインら、独創的な思考ができた科学者たちにも負けない豊かな想像力の持ち主だった」との意見を下さいましたが、まさにそういうことなのかなあと、あらためて感じざるをえません。
 そして人は、やはり賢治のそういうところについつい惹かれて、冒頭のようにちょっと先走りした解釈を生み出してしまうこともあるのだろうかと思うのです。
 しかし賢治作品のこういう「読み」もまた楽しいもので、ただそれにあまりとらわれると「トンデモ」になってしまって危ういのですが、その境目がわからないあたりを彷徨ってみるのは、私などは大好きです。まあ同時に、客観的で大局的な視点というものを、忘れないようにしなければなりませんね。

 1925年12月20日付けの岩波茂雄あて書簡214aにおいて、賢治は前年に刊行した『春と修羅』に収めた「心象スケッチ」について、次のように説明しています。

わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自費で出しました。

 ここで当時の賢治が、何に対して「おかしな感じやう」をしていたのかというと、この文章によれば、それは「歴史やその論料」と、「われわれの感ずるそのほかの空間」という、二つの対象です。
 後者、すなわち「そのほかの空間」のことを、賢治は別の場所では「異空間」とも呼んでいます(思索メモ1「異空間の実在」ほか)。彼は、しばしば幻聴や幻視などの幻覚体験をすることがあり、その際に見聞きした体験内容は、「この世界」には実在しないものですが、賢治はそれを「そのほかの空間」=「異空間」に由来するものだと考えました。しかし、こういった幻覚はいつもあるわけではなく、ある時は見えても別の時には見えないものですし、またそんなものは全く見えないという人もあり、それは人間の認識の状態に依存した、はかなく「相対的」なものなのです。彼が、「そのほかの空間」について「おかしな感じやう」がすると述べたのは、こういう「空間認識の相対性」のことではないかと、私は推測します。

 他方、これに対して前者、すなわち「歴史やその論料」については、賢治はどう「おかしな感じやう」をしていたのでしょうか。こちらに関しては、『春と修羅』の「」が参考になると思います。

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません

 ここに用いられている「論料データ」という独特の用語が、岩波茂雄あて書簡と共通していることも、両者の論旨が一連のものであることを示唆していると思います。ここでは、「歴史」というものは、ただ「われわれがかんじてゐるのに過ぎません」と述べられており、賢治がここで言いたかったのは、客観的で変わることのない「不磨の大典」のように「歴史」というものが存在するのではなく、それぞれの時代から見たそれぞれの歴史が、「因果の時空的制約のもとに」、存在するに過ぎないのだ、ということでしょう。「銀河鉄道の夜」初期形第三次稿で大きな帽子の人が言ったように、人間が考える「歴史」とは、時とともに変転していくものであり、所詮「相対的」なものなのです。

 すなわち、岩波茂雄あて書簡に述べられている賢治の「おかしな感じやう」の正体は、「時間認識=歴史の相対性」であり、「空間認識=心象の相対性」である、ということになります。
 さてここで、「われわれの感ずるそのほかの空間」のことを「異空間」と呼ぶのならば、「われわれの生きている今ではない、ほかの時間」のことを、「異時間」と呼んでみることもできるでしょう。そして、「異時間における出来事に関する認識の集成」が、いわゆる「歴史」に相当します。

 つまり、『春と修羅』の「」や、岩波茂雄あて書簡において賢治が述べているのは、「異空間および異時間に対する認識の相対性」と言い換えることもできるというわけです。

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

 この「」の結びの、「心象や時間それ自身の性質として…」という箇所は、アインシュタインの「四次元時空連続体」に基づくならば、「空間や時間それ自身の性質として…」と書いた方がより正確なように思えますし、またその認識の「様態」を指すのならば、上に見たように「心象や歴史それ自身の性質として…」と書く方が適当かとも思われます。
 ただ、この賢治の書き方からあらためてわかるのは、「心象」の持っている次元は、とりもなおさず我々の「空間」が有している三次元だ、ということですね。

 以上、まあ賢治にとっては、「心象」は異空間を写し、「歴史」は異時間を映す、ということだったのではないかと思います。

鳥の季節

 ふと思い立って、賢治の詩の中に「鳥」が現れる回数が、時間的にどう推移したのかということを、調べてみました。
 『春と修羅』「春と修羅 第二集」「春と修羅 第三集」という分類ごとに、1か月あたりの作品数と、そしてそのうち何らかの形で「鳥」が登場する作品数を、棒グラフにしたのが、下の図です。
 ここで、「何らかの形で鳥が登場する」というのは、作品中で賢治が鳥の姿を見たとか、その声を聴いたという描写があるものとしています。「鳥のやうに栗鼠のやうに/おまへは林をしたつてゐた」などというのは、「鳥」という語は出てきていますが、賢治が鳥の姿や声を体験しているわけではないので、ここにはカウントしません。
 グラフでは、水色の棒の高さが、月ごとの総作品数を表し、ピンク色の棒の高さが、そのうちで鳥が現れる作品数を表します。

『春と修羅』における月ごと作品数と鳥の現れる作品数
『春と修羅』における月ごと作品数と鳥の現れる作品数

「春と修羅 第二集」における月ごと作品数と鳥の現れる作品数
「春と修羅 第二集」における月ごと作品数と鳥の現れる作品数

「春と修羅 第三集」における月ごと作品数と鳥の現れる作品数
「春と修羅 第三集」における月ごと作品数と鳥の現れる作品数

 とまあ、上にご覧いただいたようなことにしかすぎませんが、当然のことながら、毎年春から夏にかけての時期に、「鳥の現れる作品」がよく書かれる傾向があります。

 そもそも私がこういうことを調べようかと思った動機は、何となく「春と修羅 第二集」には、「鳥」が出てくる作品が多いような気がしたから、ということだったのですが、その予想はその通りでした。
 上の図からわかるように、「春と修羅 第二集」の初期、すなわち1924年3月から7月の期間というのは、賢治が口語詩を主に作っていた7年間のうちでも、最も創作が旺盛だった時期のうちの一つに数えることができます。そしてちょうとこの頃に、彼は生涯のうちで最も多く鳥が出てくる作品を書いており、とりわけ「休息」「鳥の遷移」「〔この森を通りぬければ〕」など、トシのイメージを伴った鳥は、この季節に賢治の身近に現れたのです。

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秀明大学の「宮沢賢治展」

 今日は、千葉県八千代市にある秀明大学で行われた「宮沢賢治展」に行ってきました。
 朝9時前に家を出て、新幹線で東京へ行き、地下鉄東西線から東葉高速鉄道に入って八千代緑が丘という駅で降りて、さらにバスで15分ほど走り、大学に着くと午後1時前でした。

 ちょうど大学では「飛翔祭」という大学祭が行われているところで、賢治展もこの企画の一環だったんですね。

秀明大学「飛翔祭」

 学生さんたちはみんな親切でフレンドリーで、アットホームな雰囲気のキャンパスです。

 午後1時からは、宮澤和樹さんの講演「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」が予定されていたのですが、何とかぎりぎりで間に合うことができました。会場の大きな教室は、ざっと200名以上の老若男女でぎっしり埋まり、熱気にあふれています。

宮澤和樹氏講演「祖父・清六から聞いた宮澤賢治」

 ユーモアとともに、人間味あふれる賢治の一面を伝えてくれる和樹さんの講演に、会場からは熱心な質問が相次ぎました。
 そして、講演が終わってあたりを見まわすと、賢治研究者や愛好家の懐かしいお顔がいっぱい…。これほどたくさんの方々に一度にお会いできるのは、9月の花巻以外では珍しい。

 講演会場を2時すぎに後にすると、期待に胸を躍らせて「宮沢賢治展」会場の教室に向かいました。
秀明大学《宮沢賢治展》 こちらの教室では、ガラスケースに入れられた様々な貴重な資料を間近で見られ、さらに「写真撮影自由」というありがたいご配慮です!
 みんな、食い入るように賢治の書簡や写真を見つめ、あちこちから感嘆の声が上がります。一つ一つ、すべての資料を丹念に写真に収めている方も結構おられ、本当に熱心な賢治好きの方々が、この郊外の大学まで集まられたのだなという感じです。
 今回の厖大な資料は、すべて秀明大学学長の川島幸希先生の個人所蔵ということで、会場では川島先生が忙しくあちこちに出向いては、懇切に説明をしておられる姿が印象的でした。

 さて、今回の「宮沢賢治展」の大きな意義は、次のような点にありました。

  1. 新発見の賢治の書簡を一挙に9通公開
     賢治ほど調査研究が進んだ作家に関して、これほどのまとまった数の新発見自筆資料が一度に出てくるというのは、今後もそうそうないことでしょう。
     またこれに加えて、「新発見」ではないものの、全集において「所在不明」「現存しない」とされていた書簡も、3通「再発見」されて出展されていました。
  2. 賢治の写っている新たな写真を公開
     これも、賢治ファンにとっては快哉を叫びたくなるようなことですよね。
     これは、盛岡高等農林学校の卒業アルバムが新たに発見されたことによるもので、そのアルバムの中に学生の風景を記録した未公開の写真があったのです。これまで全集等に収められていた盛岡高等農林学校時代の写真は、宮澤家と佐々木又治遺族所有のアルバムから採られたものでしたが、収録写真はアルバムごとに少しずつ違うものだった可能性があります。
  3. 『春と修羅』背表紙の「詩集」の文字をブロンズで消した本を公開
     賢治の意思に反して入れられてしまった『春と修羅』の背表紙の「詩集」の文字を、賢治が後でブロンズで消していたということは、森佐一あて書簡には書かれていましたが、実際にそのような処置が行われた本は、これまで見つかっていませんでした。それが、今回確認されたわけです。
     賢治が、自らの「心象スケッチ」という営みと、世間一般の「詩」との間にはっきり一線を画そうとした、思いが見てとれます。

『成瀬金太郎小伝』 今回発見された上記 1. 2. の資料は、いずれも盛岡高等農林学校における賢治の親友であった成瀬金太郎氏が所有していたものが、最近になって何らかの経路で古書の市場に現れたというものです。しかし、その出現がどのような事情によるものだったのか、経緯はわかっていません。
 『成瀬金太郎小伝』(右写真)という書物には、第二次大戦中の成瀬氏のエピソードとして、次のようなことが書かれています。

将来を考えて盛岡の書籍、家具等使用しない物は出来るだけ安全な所に疎開せねばと思い鉄道便で四国神山の生家へ送ったものの内、梱包一ヶ高徳線造田駅内において盗難にあい無くなったことは、残念でならない。この紛失物の中には宮沢賢治君から贈られた法華経の本、学生時代の記録、南洋拓殖工業株式会社当時の貴重な記録が一杯詰って居たので損害は甚大であった。
(『成瀬金太郎小伝』p.61-62)

 この事実を知っていた一部の方からは、今回発見されたのは、ひょっとしてこの四国で盗難に遭った品物の一部だったのではないかという推測も出さていたのですが、実態は違ったようです。今回「再発見」された資料は、ある時期までは東京の成瀬家に保管されていたものなのだそうです。

 さてここで、今回発見された賢治の新しい写真を、掲載させていただきましょう。

宮澤賢治新発見写真

 前列の右から2人目、分厚い本を広げて静かに読んでいる姿が、我らが賢治君ですね。
 この写真の賢治の部分を、拡大してみます。

宮澤賢治新発見写真(部分拡大)

 うーん、これはなかなか、白皙の美青年ですよね…。賢治の青春時代への想像の翼が、また一つ増えたという感じです。

 それにしても、秀明大学の川島幸希学長におかれましては、このたびは貴重なコレクションを惜しげもなく公開し、見学者には写真撮影まで許可していただき、超多忙な中を奔走して、私どもの質問にも優しく答えて下さいました。
 このような機会を与えていただいた川島幸希学長と大学関係者の方々に、ここにあらためて御礼を申し上げます。

 ただ惜しむらくは、公開期間が2日間限定ということで、全国には今回来られなかった賢治ファンもたくさんおられることと思います。またいずれの日にか、多くの方々がこの貴重な資料に対面できる機会が実現することを、お祈りしています。

鏑木蓮『イーハトーブ探偵』

              
                   大正十一年一月六日金曜日

 映画館を出たとき、また雪が降り出した。すでに積雪は一間は超えていただろう。ただ花陽館の前もそうだけれど、町の大きな通りは雪かきが済み、道端に寄せられていて歩きづらさはない。
 正月休みの夕刻、藤原嘉藤治は、小岩井から帰ったばかりの友人、宮澤賢治と並んで歩いた。ケンジは映画館に入るまでは、小岩井のきらきらする雪の中を移動したことを熱に浮かさているように、一人で喋り続けていた。ところが映画を見終わると今度は急に黙ってしまった。     (「ながれたりげにながれたり」冒頭より)

 上記は、鏑木蓮著『イーハトーブ探偵 賢治の推理手帳 I』の冒頭部です。

イーハトーブ探偵 ながれたりげにながれたり: 賢治の推理手帳I (光文社文庫) イーハトーブ探偵 ながれたりげにながれたり: 賢治の推理手帳I (光文社文庫)
鏑木 蓮

光文社 2014-05-13
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 この本は、宮澤賢治と親友の藤原嘉藤治が、ちょうどホームズとワトソンのように、格好のコンビを組んでいろいろな難事件を解決していくという、痛快な推理短編集です。上記のように表紙絵には、この「ケンジ」と「カトジ」の二人がイギリス海岸を歩く姿が描かれ、賢治ファンとしては中を開く前からワクワクしてしまいます。
 実際に賢治は、広汎な自然科学的・博物学的知識と独特の頭脳を持っていましたから、現場の遺留品の断片からシャーロック・ホームズのように推理を働かせて事件を見通すという役柄には、まさにうってつけの感があります。
 それに、過去の名作において造型された「名探偵」というのは、シャーロック・ホームズにしてもエルキュール・ポアロにしても金田一耕助にしても、どこか一般常識を超越した「変人」のようなところがありましたが、われらが宮澤賢治の、その生前から地元では名高かった「変人」ぶりも、本シリーズの探偵キャラクターに一種のカリスマ性を帯びさせる上で、最高のスパイスとなっています。
 そして、放っておいたらどっかへ飛んでいきそうなこの「ケンジ」探偵を、しっかりとつなぎ止めつつ常識人として気配りをするのが、コンビ相方の親友「カトジ」なのです。

 さて、この一冊には、下の四篇が収められています。

ながれたりげにながれたり
マコトノ草ノ種マケリ
かれ草の雪とけたれば
馬が一疋

 一見していただいたらわかるとおり、これらはいずれも賢治の詩の題名に基づいており、それぞれの賢治作品の世界が、各篇の背景となる雰囲気を形づくっています。
 そして、各篇の舞台となっているのは、冬の大沢温泉であったり、南部藩と伊達藩の藩境にある「南部曲り家」であったり、明治の遺構「旧岩谷堂町役場」であったり、下鍋倉の水車小屋であったり、「イーハトーブ」ならではのスポットが選ばれていますし、それぞれに事件の背景をなしているのは、貧困と「口減らし」、結核による死、密造酒と税務官吏による取締り、農村の困窮と軍馬買い上げなど、当時の岩手県の切実な問題を反映しています。
 また、これらの作品を純粋に推理小説として読むと、各篇ともに、いったいどのようにして犯行が為されたのか、まったくわからないようなミステリーが構築されていて、その仕掛けをケンジが解明していくとともに、想像もつかなかったような大がかりなトリックが姿を現わすという形になっています。
 作者の、並々ならぬ意欲が表れている作品集だと思います。

 それより何より、賢治ファンとしてこの「イーハトーブ探偵」シリーズに限りない魅力を感じるのは、その作品世界の意味深い構成にあります。
 冒頭に引用させていただいた箇所の「大正十一年一月六日金曜日」にも表れているように、各作品にはその年月日が記されています。大正11年1月6日というのは、賢治の詩集『春と修羅』の冒頭および二番目の作品、「屈折率」と「くらかけの雪」がスケッチされた日であり、引用箇所にもあるとおり、この日に賢治は雪の小岩井農場へ出かけてきたのです。

 つまり、この「イーハトーブ探偵」シリーズは、『春と修羅』の世界の開始とともに幕を開け、各ミステリーはそれぞれの時期の賢治の実生活とともに、進行していくのです。
 すなわち、「ながれたりげにながれたり」は大正11年1月6日から10日、「マコトノ草ノ種マケリ」は5月3日から7日、「かれ草の雪とけたれば」は8月15日、「馬が一疋」は11月10日から19日の出来事という設定になっています。 そして、この時期の賢治の身辺において、最も切実な問題となっていたのは、何よりも妹トシの病状の深刻化でした。
 具体的にその内容を見てみましょう。

 最初の「ながれたりげにながれたり」においては、登場人物の一人である花巻高等女学校の生徒に関連して、トシが以前に同校の教師をしていたものの、「体調を壊し」て退職したと、さらりと触れられるだけでした。
 それが「マコトノ草ノ種マケリ」では、ある人物の息子が肺病で夭折したという話題になり、嘉藤治は大変に気をつかいます。

「肺病で亡くなったのか・・・」
 ケンジは遠くを見る目をした。
「あっ僕としたことが、もしゃけね」
 ケンジは肺を病むトシのことを思い浮かべたにちがいなかった。

 次の、8月の「かれ草の雪とけたれば」になると、下のような場面が出てきます。

 しばらくは、花巻から豊沢川を越え移ろい行く車窓に目を遣る。
 ケンジはまばゆい真夏の風景に目をしばたたかせ、奥歯を噛みしめていた。
「トシさんのあんべえは?」
「よくねえ。熱が下がらねえんだ。だば町中にいるよりは涼しいから」
「そうだな」
 いま通過した下根子の桜という場所に、宮澤家の別荘があった。ケンジの妹のトシが少し前から、病気療養している。

 そして、最後の「馬が一疋」では、容態はより深刻になっています。

 黒い帽子に黒いインバネス姿のケンジは、うつむき加減で風を受けながら、
「ゆんべ、トシがまた高熱を出したのす」
とぽつりと言った。
「それはことだなっす。側にいてあげてくなんせ、ケンさん」
 カトジは事件に引っ張り出したことを詫びた。
「食も細くなる一方で・・・俺は見てるのも辛い」
「それは・・・辛いな」
言葉がなかった。
「熱に浮かされながらも、兄さんは人の役に立ってけろって」
 ケンジの言葉が詰まる。

 この作品終わりの11月19日には、トシの容態が急変したために、彼女を下根子の別宅から豊沢町の実家に移すことになり、ケンジは事件の最後の現場に立ち会うことができず、カトジは一人で、花巻西郊の草井山に登り、顛末を見届けます。
 そして作品は、次のように締めくくられます。

 カトジは昨夜のケンジの言葉を思い出しながら、坂道の落ち葉を踏みしめる。やがて集落の家々から煮炊きの細い煙が見えてきた。
 ケンさんは多くの人の役に立ったのす。だから仏様はトシさんを見捨てるようなことはしねえ。きっと熱は下がる。必ずよぐなる、と心の中で祈った。

 つまりこの物語集は、トシの病気を見えない背景として、ケンジとカトジの友情を描いたものでもあるのです。

 今回の「賢治の推理手帳 I」が、実際のトシの死の8日前で終わっていることからすると、次の「賢治の推理手帳 II」は、トシの死後から始まるのかもしれません。あるいは何らかの仕方で、永訣の朝を迎えた賢治が描かれるのかもしれません。
 いずれにしても、私としては続篇を心から待ち望む、「賢治の推理手帳」です。 巻末の杉浦静さんによる「解説」も、賢治自身の人柄や作品、当時の岩手県の社会状況に関して要を得た説明をして下さって、この作品の奥行きをさらに広げてくれています。

 来たる4月20日に、京都市左京区の京都造形芸術大学において、宮沢賢治学会の地方セミナーが、「宮沢賢治―修羅の誕生」と題して開催されます。(下のチラシ画像をクリックすると、別窓で拡大表示されます。)

 京都セミナー2014・チラシ表

 京都セミナー2014・チラシ裏

宮沢賢治学会・京都セミナー2014
                《宮沢賢治―修羅の誕生》

   日時: 2014年4月20日(日) 午前10時~午後4時
   場所: 京都造形芸術大学 人間館301教室
   内容
     講演「宮沢賢治、京都に来る」 浜垣誠司
     朗読と解説「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」 牛崎敏哉
     講演「宮沢賢治とジャータカ」 君野隆久
     講演「宮沢賢治と修羅」 中路正恒
   参加費: 500円(小学生以下無料)
   申込: kenjikyoto2014@gmail.com あてメールにて
      または
      〒606-8271 京都市左京区北白川瓜生山2-116
       京都造形芸術大学 永倉気付
       宮沢賢治学会京都セミナー実行委員会あて往復葉書にて

 実は、この2014年4月20日という日は、1924年4月20日に宮沢賢治が処女詩集『春と修羅』を関根書店から刊行してから、図らずもちょうど90周年の記念日に当たります。先月16日、京都造形芸術大学の中路正恒研究室において、京都セミナーの実行委員会のメンバーが初めて集まって打ち合わせをしている最中に、私はふとこの偶然の符合に気がついて、思わず中路さんに告げたのでした。
 今回のセミナーの日程は、当初はいったん4月19日になりかけていたのが、都合で4月20日に変更になったという経緯もあり、この記念すべき日付は、まさに「図らずも」の結果でした。この日の実行委員会では、皆でしばし「不思議なめぐり合わせ」の感慨を味わった後、中路さんの提案で「宮沢賢治―修羅の誕生」というセミナーのタイトルが、決められました。
 そうです、この言葉には、「『春と修羅』の誕生日」という意味が込められているのです。

 当日のプログラムでは、まず私が導入的に、賢治が2度にわたり京都を訪れた時の様子や、立ち寄ったと推測される場所の現状について、報告をいたします。賢治と京都の「縁」を、浮かび上がらせることができたらと思います。
 次に、宮沢賢治記念館副館長の牛崎敏哉さんが、賢治の「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」(「春と修羅 第二集」)を、賢治が聴いていたであろうジャズの響きに乗せて、スイングしながら朗読し、解説をして下さいます。賢治とクラシック音楽の関連については、近年いろいろな人が論じていますが、今回は新たにジャズとのつながりに光が当てられます。

 休憩をはさんで、京都造形芸術大学に所属するお二人の先生、君野隆久さんと中路正恒さんのご講演は、仏教や哲学思想の方面から、賢治にアプローチするものです。京都という場所は、長らく日本における仏教の中心地でもありました。そのような京都において研究を積み重ねてこられた視点から、賢治論が展開されます。

 4月20日というと、もう桜は散ってしまった頃ではありますが、この時期の京都では、「春の特別公開」を行っているお寺も、たくさんあります。
 会場の教室はかなり大きくて余裕はあるそうですので、皆さまどうぞ、春の京都へお越し下さい。

京都造形芸術大学キャンパスより
京都造形芸術大学キャンパスより

「写生」と「心象スケッチ」

 ほんとうは「『赤光』と『春と修羅』」などという大それたエントリを書いてみたく思ったのですが、到底いきなり手に余るので、とりあえず各々の方法論である(と各々の作者自身が言っている)「写生」と「心象スケッチ」ということについて、考えた事柄を書いてみます。

 「写生」は、言うまでもなく正岡子規が、俳句、短歌、散文などの方法論として提唱した概念ですが、近代以降の文学に大きな影響を与えました。その弟子たちによって、「写生」という言葉はさまざまに深められ拡張されていきますが、斎藤茂吉が自らの「写生」の定義を精緻化していくのは、『赤光』の刊行よりも少し後からのことです。
 一方、「心象スケッチ」とは、宮澤賢治が独自に考え出し、詩、童話において実践しようとした方法論です。「心象」や「スケッチ」という言葉の各々は、それまでにも使用されていましたが、彼の言うところの「心象スケッチ」は、とりわけ『春と修羅』が世に現れた時には、あまりにも独創的で風変わりなものと思われましたし、もちろんそれを流派として継承する弟子も出ませんでした。

 対照的な二つの方法論のようではありますが、この二つの言葉に共通するのは、どちらも「絵画の用語」を文学に輸入したものである、ということです。絵画において、「写生する」ということと「スケッチする」ということは、どちらも対象を忠実に「写す」という行為でしょうが、前者の方がより緻密な作業をイメージさせるのに対して、「スケッチ」というと、より素早く描くという感じはします。賢治が手帳にすごいスピードで文字を書きとめていたという証言を、ちょっと連想させますね。
 ただ、文学上の「写生」が、とにかく個人の主観的な歪曲や理屈を排して客観的な記述を推奨したのに対して、賢治の「心象スケッチ」の典型である『春と修羅』を読むと、「客観的」の対極にあるような主観的な描写や、幻想的あるいは超現実的な表現があふれていて、やはり内容も大きく異なったもののように感じられます。
 しかしここで面白いのは、宮澤賢治自身は、「心象スケッチ」というのは作者が恣意的に拵えた創作物ではなくて、何らかの対象の「そのとほり」の記録であるということを、繰り返し強調していることです。
 彼は、『春と修羅』の「」においては、

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです
 
これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしき

それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします

と書き(強調は引用者)、また『注文の多い料理店』の「序」には、

 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかにふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。

と書いています(強調は引用者)。また、岩波茂雄あて書簡(214a)には、『春と修羅』の内容について、

 わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。(中略)詩といふことはわたくしも知らないわけではありませんでしたが厳密に事実のとほりに記録したものを何だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした。

とまで表現しているのです。

 すなわち、「写生」も「心象スケッチ」も、絵画における方法論に名を借りつつ、何らかの対象を、「そのとほり」に描写することを目標とするという点で、非常に似ているわけです。

 では、似たようなことを標榜しながら、「写生」を旨とする正岡子規やアララギ派の短歌と、「心象スケッチ」による賢治の『春と修羅』の方法論は、どこが違っているのでしょうか。

◇          ◇

 まず正岡子規は、「写生」についてたとえば次のように書いています(「叙事文」より)

 以上述べし如く実際の有のまゝを写すを仮に写実といふ。又写生ともいふ。写生は画家の語を借りたるなり。又は虚叙(前に概叙といへるに同じ)といふに対して実叙ともいふべきか。更に詳にいはゞ虚叙は抽象的叙述といふべく、実叙は具象的叙述といひて可ならん。要するに虚叙(抽象的)は人の理性に訴ふる事多く、実叙(具象的)は殆んど全く人の感情に訴ふる者なり。虚叙は地図の如く実叙は絵画の如し。地図は大体のの地勢を見るに利あれども或一箇所の景色を詳細に見せ且つ愉快を感ぜしむるは絵画に如く者なし。文章は絵画の如く空間的に精細なる能はざれども、多くの粗画(或は場合には多少の密画をなす)を幾枚となく時間的に連続せしむるは其長所なり。

 「理性に訴えるのでなく感情に訴える」ことを目ざす、というわけです。次の文は直接には絵画について述べたものですが、「感情的写生」という言葉が出て来ます(「文学美術評論」より)。

 そこで油画が這入つて来ていよいよ写生が完全に出来るやうになつた。此写生は無論感情的写生(理屈的写生といふたのに対していふ)であつて、人が物を見て感ずる度合に従ふて画くから、鯉を画いても鱗を三十六枚画きはせぬ、さりとて東山時代のやうに大きな点を打つて鱗の符牒にして置くのでは無い。それで実物見たやうに出来る。

 さらに『俳諧大要』では、次のように述べられます。

 主観客観とを合同して一種非の大文学を製出せざるべからず。主観に偏僻し客観に拘泥するものは、固より其至る者に非ざるなり。(太字部は原文では傍点による強調)

 「実際の有のまゝ」と言う一方で、「感情的」であることを肯定し、「主観と客観とを合同」とも言うものですから、子規が亡くなった後に弟子の間でその解釈にニュアンスの相違が出てくるのも無理からぬことに思えます。実際、子規没後3年足らずの1905年に、伊藤左千夫と長塚節の間に起こった「写生をめぐる論争」も、写生において主観はどの程度関与するのかということが中心だったようです。

 そんな経過の後、その緻密な論理と、有無を言わせぬほどの実作上の存在感によって、こういった対立を止揚したのが、斎藤茂吉だったと思います。
 斎藤茂吉は、1919年「短歌に於ける写生の説」の「第四「短歌と写生」一家言」において、次の有名な写生の定義を記します。

 実相に観入して自然・自己一元の生を写す。これが短歌上の写生である。ここの実相は、西洋語で云へば、例へば das Reale ぐらゐに取ればいい。現実の相などと砕いて云つてもいい。自然はロダンなどが生涯遜つてそして力強く云つたあの意味でもいい。この自然の大体の意味を味ふのに和辻氏の文章が有益である。『私はここで自然の語を限定して置く必要を感ずる。ここに用ひる自然は人生と対立せしめた意味の、或は精神・文化などに対立せしめた意味の哲学的用語ではない。むしろ生と同義にさへ解せらる所の(ロダンが好んで用ふる所の)人生自然全体を包括した、我々の対象の世界の名である。(我々の省察の対象となる限り我々自身をも含んでゐる) それは吾々の感覚に訴へる総ての要素を含むと共に、またその奥に活動してゐる生そのものをも含んでゐる』 かう和辻氏は云ふ。予の謂ふ意味の自然もそれでいい。「生」は造化不窮の生気、天地万物生々の「生」で「いのち」の義である。「写」の字は東洋画論では細微の点にまでわたつて論じてゐるが、ここでは表現もしくは実現位でいい。(太字部は原文では傍○)

 ここでまず注目すべき点は、「自然・自己一元の生」を写すのが、写生であると定式化しているところです。これは、上に引用した子規の「主観と客観とを合同して一種非主非客の大文学を製出」というところを、より具体的に表現したものとも言えるでしょう。
 「写生」だからといって、表現者は対象から距離を隔てた純粋な観察者ではないのですね。「自然・自己一元」となった上での表現だ、というのです。

 しかしその際には、いかにすれば表現者が「自然・自己一元」となるのか、ということが問題です。そしてその方法論として茂吉が提示しているのが、「実相に観入して」ということになります。
 ここで「実相」というのは、ドイツ語で das Reale と言い換えられていて、これは英語ならば‘reality’として、とりあえず常識的には理解できます。しかし「観入」という言葉が、難しいところですね。
 これについて斎藤茂吉自身は、1934年になって書かれた「観入といふ語に就て」という文章の中で、次のように述べています。

 なるほど、私の造つた『観入』の熟語は仏典などにある意味その儘ではない。寧ろ独逸の美学や詩論などにある、“Anschauung”といふ語の意味も含んでゐるだらう。併し此の独逸語は、観相とか直観とか翻してゐるものだから、その儘採つて私の歌論に役立たせるには何か足りないところがある。そして、独逸語には“Hineinschauen”といふやうな語もあり、何かさういふところから暗指を得て、私は、『観入』といふ熟語を造つたのであつた。

 ここに出てくる“Hineinschauen”とは、日常語としては「のぞき込む」などという意味ですが、“schauen”=「見る」に、“hin-”=「向こうへ」+“ein-”=「中へ」という接頭辞が付加された形になっています。茂吉の文脈で分析的に解釈しなおせば、「自らを対象の方へ向け」・「さらに対象の中に入り」・「見る」、ということになるでしょうか。
 この「向こうへ・中へ」ということに関連して、「源実朝雑記」という文章には、次のような箇所があります。

 自然を歌ふのは性命を自然に投射するのである。Naturbeseelung である。自然を写生(窪田氏等の用ゐる意味とちがふ)するのは、即ち自己の生を写すのである。

 Naturbeseelung とは、「自然に生命を吹き込む」という感じだと思いますが、ここでも自分の生命を「自然に投射する」という、(対象へ向けた)「動き」が重要なようです。そしてこの「動き」こそがさきほどの“hinein-”という接頭辞と対応しており、結局「観入」の「入」という文字に込められているのだと思います。

 また斎藤茂吉は、「観入」という行為についてさらに平易に具体的に、次のようにも述べています(「短歌初学門」)。

 観入が突嗟にして出来る時があらば、記憶が好い人なら記憶して居るし、記憶の悪い人なら手帳に書きとどめて置く。その時直ぐ表現になる、つまり歌言葉になつたなら、直ちに手帳に書きつけ置く方が便利である。また観入が早く出来ない時には、長いあひだ凝視してゐる。いろいろと視てゐる。さうすると同じ山でもいろいろの処が見えて来る。今まで見えてゐなかつたものがいろいろ様々になつて見えて来る。今までただぼんやりと見えてゐたものが、今度は鮮明に見えて来る、即ち具象化して来る。これが即ち観入である。それだから観入の過程として、集中が必要であるのが無論であるから、人によつては『集中』に主点を置いて、対象集中は即ち自我集中でもあるから、その自我集中体験を以て、観入と同義にいふ人もゐる。それはどちらでも好い。

 これを読むと、斎藤茂吉自身は、「観入」とはかなりの程度まで意識的な作業ととらえていたことがわかります。

 ここでひとまずまとめると、「実相に観入する」とは、表現者が自らを対象に投げ入れ、そこで「自然・自己一元」の境地を体現しようとする行為のようです。ただし、その「一元」のもとには、和辻哲郎の言葉によれば、「我々の省察の対象となる限り我々自身を含んでいる」のであって、裏を返せば、それを感得し表現する「自己」の別の側面は、ある程度の客観性を持った観察者・表現者として、その外に存在しつづけるということになるのだと思います。
 そしてその「観入」の作業は、かなり意識的になされるものだということも、茂吉は言っています。

◇          ◇

 さて、それでは賢治の「心象スケッチ」はどうでしょうか。
 ここで興味深いことは、賢治もまたその「心象スケッチ」において、茂吉の言葉にいう「自然・自己一元の生」を表現しようとしていたことです。
 『春と修羅』の「」では、

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

と述べ、すべてが「こゝろのひとつの風物」であると見なし、また

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料(データ)といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません

として、やはりすべては「われわれがかんじてゐるのに過ぎません」と述べます。ついでにもう一つ例を挙げれば、「銀河鉄道の夜(第三次稿)」でブルカニロ博士が、

ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だって歴史だってたゞさう感じてゐるのだから、・・・

と語るところもそうです。
 このような世界観は、「すべては仮象である」とする仏教的なそれと共通のもので、もちろん賢治が仏教を信じ学ぶ過程で、このような認識を身につけていった面もあるでしょうが、賢治の成長過程をたどってみると、理屈や信仰によってこういう風に考えるようになったというよりももっと以前から、賢治の中に自然にこういう感じ方が生まれていたように思えます。
 いずれにしても、「すべては心象である」と見なすことは、賢治の立場を唯心論的な「一元論」に整理してくれます。

 あるいは、佐藤通雅氏は著書『賢治短歌へ』(洋々社)において、賢治の短歌の分析を通じて、短歌においてもやはり「自己と対象の融合」という事態が起こっていることを明らかにしてくれました。(以下強調は引用者)

 この転倒が、文学的策略・修辞・技法となるのは、前衛短歌以降である。賢治の場合は、まったく無意識の産物だ。その無意識がどのようにして生じたのか、もういちど75から79へとよみかえしてみると、はじめの段階では作者がいて、岩手山や雲・西火口原・湖などの対象を目の前にしている。しかし77の「あまりに青くかなしかりけり」、78の「みずうみの青の見るにたえねば。」を頂点として、主役は湖自身へと移ってしまう。つまり賢治という主体は後退し、対象との同化がはじまり、ついには両者の境界は視界から消え去ってしまう。(p.83)

 赤い傷に痛みをおぼえたのは、なによりも賢治自身だったはずだ。しかし、ほとんど同時に黒板に感情移入してしまっている。その結果、自分と対象との境界はほとんど霧消してしまう。(p.89)

 前衛短歌は、近代以後、一人称であるために狭小化した形式を乗り越える方法として、多様な<われ>を設定した。仮構としての、劇としての<われ>を取り込むことによって、格段の自由をえたともいえる。賢治の歌も、そこにいて交叉が可能になった。しかし彼の<われ>の多様性は、方法としてでなく、<われ>そのものを他とおなじ位置に解消させる。(p.180)

 賢治の「心象一元論」は、斎藤茂吉が自己を対象の方へ「投入」することによって「自然・自己一元の生」に至ろうとしたことと対照的に、対象を自己の心象の中に「回収」してしまうことによって、結果的に「自然・自己一元の生」となっているわけです。すなわち、二つの方法論はまるで逆を向いたベクトルのようでもあります。
 また、佐藤通雅氏の指摘するように、賢治がこのような形で表現活動をしているのは、意識して特異な方法をとろうとしたのではなく、「無意識」のうちにそういう体験をしているところも、茂吉の意識的な「観入」と異なっています。
 賢治が「自然・自己一元の生」を、その最も感動的な形で体感し、表現したものとして、「種山ヶ原(下書稿(一))」の中の次の一節があります。

雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

 この恍惚とした体験は、「種山ヶ原の情景を詩にしよう」と意識して招来されたものではなく、作者が種山ヶ原を歩いていた時に、どうしようもなく彼を捉えて放さなかった自然との一体感であり、作者にとっては受動的・無意識的に訪れたものだったのでしょう。

◇          ◇

 ということで、斎藤茂吉の「写生」=「実相観入」と、宮澤賢治の「心象スケッチ」を検討してみましたが、これをわかりやすくするために(?)、ちょっと図式化してみます。
 援用させていただくのは、以前にも「「心象」の体験線モデル」という記事においてご紹介した、安永浩氏の「ファントム空間論」です。

 まず、下のような「体験線」と呼ばれる簡単な図が基本となります。

「体験線」

 図の左端の「e」は、「自極」と呼ばれ、すべての「私は…」という体験の出発点を表します。これは一つの極限概念で、形もなければ広がりもない、幾何学上の「点」のようなものとされます。またこの点は脳のどこかに定位できるようなものでもなく、あくまで「私」の体験出発点としての、理念的な場所です。
 この「e」から右へ矢印が出ていて、これは「自」から「他」へ、「主体」から「対象」へ向かう方向を表しています。おそらくフッサールの現象学における「志向性」という概念はこの矢印に相当し、このことから安永氏は「e」のことを、「現象学的自極」と呼んだりもします。

 一方、右端にある「f」は、「対象極」と呼ばれ、ちょうどカントの言う「物自体」に相当します。「他」なるものの理論的な極限点で、これそのものは主体にとって直接に体験できるものではありません。人間は、生物学的に与えられた視覚や聴覚や触覚などの感覚器官を通じて世界を体験できるだけであり、我々が「世界」と思っているのは、そのような特定の体験手段によって構成された世界の「図式」にすぎません。

 というわけで、その少し左にある「F」が、そのようにして構成された「対象図式」を表しています。これは「f」よりも少し手前に位置していますが、これはこの場所に、主体が対象を認識する「知覚像」が定位されることを表しています。

 また、「e」の少し右には、「E」という記号があります。これは「自我図式」と呼ばれ、対象化された構成物としての「私」です。私は私自身の「感覚」も「感情」も「考え」も「身体」も、それぞれ認識することができ、言い換えれば私は私自身をも一つの対象としてとらえることができます。このように「認識される自己」が定位される場所が、「F=自我図式」であるというわけです。
 ウィリアム・ジェイムズは、自らを意識する主体としての「われ」=「主我」と、客体として意識される「われ」=「客我」を区別しました。この用語にあてはめれば、「e」が「主我」、「E」が「客我」ということになります。

 以上が、「体験線」というものの一般的な説明ですが、まずこの図式を用いて、斎藤茂吉の言う「写生」=「実相観入」とはどのように表せるかということを、考えてみます。
 「観入」とは、自己(の生)を、対象に「投射する」、あるいは、対象に向かい、入り、見るということでした。投げ入れらた結果、自然と一元化する「自己」とは、和辻哲郎の説明によれば「我々の省察の対象となる限り」の「我々自身」ということですから、「体験線」においては「自我図式=E」に相当します。
 「E」が「F」に向かって投入され、一体化するというのですから、下のような事態として図式化することができるでしょう。

実相観入

 斎藤茂吉も一人の「天才」として、このような「自然・自己一元の生」を、意識的というよりも対象に即して直観的に把握していたのだと思いますが、彼の歌論を見るかぎりは、「実相観入」とはかなり能動的で意識的な営為であるように読めます。
 いずれにせよ、観入によって自己(E)と自然(F)が一体となった境地を、表現者である「e」が、「観る」わけです。

 一方、賢治の「心象スケッチ」における「自他の融合」は、もっと無意識的で受動的に起こるものだったようです。
 融合に至る一つの要素として、「自己の拡大」というべき事態があることは、たとえば「林と思想」(『春と修羅』)という作品から見てとれます。

そら ね ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈のかたちのちいさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行つて
みんな
溶け込んでゐるのだよ
 こゝいらはふきの花でいつぱいだ

 ここでは、作者の「自我図式」の内にあるはずの「わたしのかんがへ」が、「対象図式」に位置する向こうの林に流れて行って溶け込んでいる、というのです。

 これに対して、融合を引き起こすもう一つの要素としては、逆に対象図式が自己の方へと迫り近づいてくるという事態もあるようです。
 これはたとえば、「小岩井農場」(『春と修羅』)パート九に出てくる、

   《幻想が向ふから迫つてくるときは
    もうにんげんの壊れるときだ》

という言葉にも表れていると思いますし、また「〔その恐ろしい黒雲が〕」(「疾中」)における、

その恐ろしい黒雲が
またわたくしをとらうと来れば
わたくしは切なく熱くひとりもだえる
北上の河谷を覆ふ
あの雨雲と婚すると云ひ
森と野原をこもごも載せた
その洪積の台地を恋ふと
なかばは戯れに人にも寄せ
なかばは気を負ってほんたうにさうも思ひ
青い山河をさながらに
じぶんじしんと考へた
あゝそのことは私を責める
病の痛みや汗のなか
それらのうづまく黒雲や
紺青の地平線が
またまのあたり近づけば
わたくしは切なく熱くもだえる

という箇所も、自然が自分に迫り、呑み込まれそうになる感覚が描かれています。自然の方から自分に接近してくるという体験は、「わたくしは森やのはらのこひびと」(「一本木野」)として、賢治にかぎりない喜びをもたらしてくれるものでもありましたが、時には恐ろしいものでもありました。

 このように、自己の拡大、対象の切迫という二つの要因によって、自己と自然の一体化が起こる状況は、次のように図式化してみることができます。

「賢治的心象」

 ここでも、結果的には「実相観入」と同様に、「E」と「F」が近接することによって、「自然・自己一元の生」という体験が現れるのです。ただし、これは私の思うところでは賢治の生来の素質によるところが大きく、意図的に行うのではなくて受動的に没入してしまうということだったのではないかと、感じています。

◇          ◇

 以上、茂吉の方法論としての「写生=実相観入」と、賢治の方法論としての「心象スケッチ」が、似たようでもありまるで異なっているようでもあるのが興味深かったので、私なりに少し比較検討してみました。
 なお、「体験線」という図式については、安永浩氏ご自身による「O.S.ウォーコップの次世代への寄与」という Web ページにおいて触れられていますので、関心がおありの方はご参照下さい。

 それとやはりそのうちにいつか、「『赤光』と『春と修羅』」ということについても、考えてみたいと思っています。

斎藤茂吉記念館
斎藤茂吉記念館

1.ひとりの人を愛すること

 『春と修羅』の作品を順に読んでいくと、とりわけ前半部分においては、どうしても作者自身の恋愛的感情に触れているのかと感じざるをえない部分に遭遇します。

 たとえば、「恋と病熱」(1922,3,20)。

   恋と病熱

けふはぼくのたましひは疾み
烏さへ正視ができない
 あいつはちやうどいまごろから
 つめたい青銅の病室で
 透明薔薇の火に燃される
ほんたうに、けれども妹よ
けふはぼくもあんまりひどいから
やなぎの花もとらない

 また、「春光呪詛」(1922,4.10)。

   春光呪詛

いつたいそいつはなんのざまだ
どういふことかわかつてゐるか
髪がくろくてながく
しんとくちをつぐむ
ただそれつきりのことだ
  春は草穂に呆(ぼう)け
  うつくしさは消えるぞ
    (ここは蒼ぐろくてがらんとしたもんだ)
頬がうすあかく瞳の茶いろ
ただそれつきりのことだ
       (おおこのにがさ青さつめたさ)

 直接的には書かれていませんが、「竹と楢」(1922,9,7)における「煩悶」も、恋の苦悩を連想させます。

   竹と楢

煩悶ですか
煩悶ならば
雨の降るとき
竹と楢との林の中がいいのです
  (おまへこそ髪を刈れ)
竹と楢との青い林の中がいいのです
  (おまへこそ髪を刈れ
   そんな髪をしてゐるから
   そんなことも考へるのだ)

 「マサニエロ」(1922,10,10)における「ひとの名前」は、妹トシのこととする説もありますが、いずれにしても愛する人の名前なのでしょう。

  (なんだか風と悲しさのために胸がつまる)
ひとの名前をなんべんも
風のなかで繰り返してさしつかえないか

 「松の針」に出てくる「ほかのひと」は、「恋と病熱」の内容も想起させます。

おまへがあんなにねつに燃され
あせやいたみでもだえてゐるとき
わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり
ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた

 「オホーツク挽歌」の章は、亡き妹トシへの思いのみで満たされていますが、その翌月には、「宗教風の恋」(1923,9,16)が書かれます。

   宗教風の恋

がさがさした稲もやさしい油緑に熟し
西ならあんな暗い立派な霧でいつぱい
草穂はいちめん風で波立つてゐるのに
可哀さうなおまへの弱いあたまは
くらくらするまで青く乱れ
いまに太田武か誰かのやうに
眼のふちもぐちやぐちやになつてしまふ
ほんたうにそんな偏つて尖つた心の動きかたのくせ
なぜこんなにすきとほつてきれいな気層のなかから
燃えて暗いなやましいものをつかまへるか
信仰でしか得られないものを
なぜ人間の中でしつかり捕へやうとするか
風はどうどう空で鳴つてるし
東京の避難者たちは半分脳膜炎になつて
いまでもまいにち遁げて来るのに
どうしておまへはそんな医される筈のないかなしみを
わざとあかるいそらからとるか
いまはもうさうしてゐるときでない
けれども悪いとかいゝとか云ふのではない
あんまりおまへがひどからうとおもふので
みかねてわたしはいつてゐるのだ
さあなみだをふいてきちんとたて
もうそんな宗教風の恋をしてはいけない
そこはちやうど両方の空間が二重になつてゐるとこで
おれたちのやうな初心のものに
居られる場処では決してない

 これらの作品に描かれた恋愛的感情に関しては、その具体的な対象人物が詮索されたりすることもありますが、そのような議論はさておき、少なくともこの頃までの賢治が何らかの「個的な人間への愛」に苦悩していたということを、想定することはできます。

 「小岩井農場」(1922,5,21)の重要なテーマの一つもこの問題で、賢治はここでは次のように整理しようとしました。

 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ
すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて
さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
この命題は可逆的にもまた正しく
わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
けれどもいくら恐ろしいといつても
それがほんたうならしかたない
さあはつきり眼をあいてたれにも見え
明確に物理学の法則にしたがふ
これら実在の現象のなかから
あたらしくまつすぐに起て
明るい雨がこんなにたのしくそそぐのに
馬車が行く 馬はぬれて黒い
ひとはくるまに立つて行く
もうけつしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云つたとこで
またさびしくなるのはきまつてゐる
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軌道をすすむ
ラリツクス ラリツクス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
わたくしはかつきりみちをまがる

 上に書かれている賢治の考え方は、1922年5月21日の時点でこのとおりに整理されていたわけではなく、推敲を重ねた結果、『春と修羅』の印刷直前における認識を反映しているのでしょう。しかし、「なんべんさびしくないと云つたとこで/またさびしくなるのはきまつてゐる」と作者自身の言うとおり、5月21日以降も「煩悶」は続きます。このような葛藤こそが、賢治が自らを「修羅」と呼んだ要素の一つだったと思います。
 思えば、童話「土神ときつね」においては、樺の木への恋愛感情に苦しむ土神が、まさに「修羅」的な姿で描かれていました。

 一方、詩集『春と修羅』のもう一つの大きなテーマは、妹トシの死の衝撃と、その翌年に行われた「妹の魂の行方を探す旅」でした。「オホーツク挽歌」の作品群において賢治は、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》と強く意識しながらも、現実には肉親としての妹の行方にこだわりつづけます。そしてそのような自分の執着に対して、激しい葛藤を抱いていたことが、作品からにじみ出ています。
 この問題に対しては、旅の後しばらくして書かれたと思われる「〔手紙 四〕」において、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と、賢治は一つの態度表明をして、決着をつけようとしました。


 ところで、詩集『春と修羅』全体の構成について、天沢退二郎氏は、「詩篇「春と修羅」と「永訣の朝」とをいわば二つの頂点、中心として、全七十篇が楕円形の構造をなしながら宙に懸かっている」と表現されました(「≪宮澤賢治≫作品史の試み」)。すなわち、「自らの修羅性の認識」と「トシの死の衝撃」という詩集の二大テーマのいずれもが、「個的な人間への愛とその対処」という問題に関係しているということになります。

 「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」こと、これは、誰しもある状況においてはそう強く願うことがありえるでしょうし、罪でもなければ異常なことでもない、自然な人間の感情だと思います。それはある時は喜びを生み、ある時は苦しみを生む原因となりますが、多くの人はそれを引き受けつつ生きていきます。
 しかし賢治は、自らにそれを許しませんでした。賢治はある時期から、「個的な人間への愛」を自ら断念して生きていく道を、選んだのです。彼がそのような生き方を選んだ理由としては、仏教の教えにもとづく宗教的信念ももちろんあったでしょう。しかし私が思うには、賢治の心の中には、1921年の保阪嘉内との別れ、1922年のトシの死、という愛する人との悲しすぎる別れを相次いで体験したことによる心的外傷があって、これも影響したのではないかと思うのです。賢治は、もう二度とこのような絶望的な思いをしたくはないとも感じたでしょうし、自分がこんな苦しみを負うのは、一人の個人への愛に固執しようとした罰だと思ったかもしれません。

 いずれにせよ、かくて賢治はある時をもって、「個人への愛を断念する」という大きな一歩を踏み出したと思うのですが、その一歩は、上にも引用した「宗教風の恋」がスケッチされた1923年9月16日という日に踏み出されたのではないかと、私は考えるのです。

2.個人への愛から自然への愛へ

 「宗教風の恋」において賢治は、「信仰でしか得られないものを/なぜ人間の中でしつかり捕へやうとするか」と自らを責め、「さあなみだをふいてきちんとたて/もうそんな宗教風の恋をしてはいけない」と自戒します。ただ、このように自らに言い聞かせるだけならば、上に引用したそれまでの作品においても、自ら行っていたことです。
 しかし、この同じ日に書かれた次の作品「風景とオルゴール」を見ると、賢治は上のような自戒をした後で、五間森という山において「木をきる」という行動をしてきたことが書かれています。
 「木をきる」という行為は、直接的には恋愛をめぐる内的な苦悩を、身体運動的な労作によって発散させようとしたものと考えることもできますが、よりフロイト的に解釈すれば、これは(自らを)「去勢する」という行為の象徴とも、とらえることができます。
 いずれにしても、賢治は何かを「断ち切ろう」として、「木をきる」という行動に出たのかと感じられます。

 この「木をきる」という行動とともに、賢治は身に迫るような「死」を意識するようになります。「風景とオルゴール」では、

わたくしはこんな過透明な景色のなかに
松倉山や五間森荒つぽい石英安山岩の岩頸から
放たれた剽悍な刺客に
暗殺されてもいいのです
  (たしかにわたくしがその木をきつたのだから)

と書いて、「暗殺されてもいい」と覚悟し、さらに同じ9月16日付けの次の作品「風の偏倚」では、

おゝ私のうしろの松倉山には
用意された一万の硅化流紋凝灰岩の弾塊があり
川尻断層のときから息を殺してまつてゐて
私が腕時計を光らし過ぎれば落ちてくる

と、「刺客」の具体的な姿を想像します。さらに同日付の次の作品「」では、

どうしてもこの貨物車の壁はあぶない
わたくしが壁といつしよにここらあたりで
投げだされて死ぬことはあり得過ぎる

と、電車から自分が落ちて死ぬことも「あり得過ぎる」と感じています。

 このように自らの「死」をイメージすることは、新たな「再生」のためには、不可避の前提だったのでしょう。私には、賢治はいったん「人間としては」死んで、「自然の一部として」再生したようにも感じられます。

 すなわち、この9月16日を乗り越えた後の最初の作品「第四梯形」(1923,9,30)の冒頭は、

   青い抱擁衝動や
   明るい雨の中のみたされない唇が
   きれいにそらに溶けてゆく
   日本の九月の気圏です

という言葉で始まります。「抱擁衝動」や「みたされない唇」などという性愛的な苦悩の象徴であったものは、「そら」という自然の中に「溶けてゆく」というのです。
 さらに次の作品「火薬と紙幣」の最後は、

雲が縮れてぎらぎら光るとき
大きな帽子をかぶつて
野原をおほびらにあるけたら
おれはそのほかにもうなんにもいらない
火薬も燐も大きな紙幣もほしくない

と結ばれます。自然の中を歩くことができたら、人間界における力の象徴である「火薬」や「紙幣」は、もはや欲しくないというというわけです。
 次の「過去情炎」には、いくつか官能的な表現が見られますが、賢治は梨の短果枝に下がっている「雫」に「唇をあて」ようと考え、作業の後に「待ってゐたこひびとにあふやうに」歩み寄ります。賢治の官能の対象は、ここでも人間ではなくて、自然になっているのです。
 次の作品「一本木野」では、より鮮明に自然への官能的愛が語られます。冒頭は下記のとおりです。

松がいきなり明るくなつて
のはらがぱつとひらければ
かぎりなくかぎりなくかれくさは日に燃え
電信ばしらはやさしく白い碍子をつらね
ベーリング市までつづくとおもはれる
すみわたる海蒼の天と
きよめられるひとのねがひ

 ここで、「きよめられるひとのねがひ」というのは、具体的には何が浄化されるというのかという問題について、小沢俊郎氏は「森やのはらのこひびと」(『薄明穹を行く 賢治詩私読』)において、「私はそれをセックスと考える。抑えようとする底からうずく青春の官能である」と、端的に指摘しておられます。
 終わりの方の、

こんなあかるい穹窿と草を
はんにちゆつくりあるくことは
いつたいなんといふおんけいだらう
わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる
こひびととひとめみることでさへさうでないか

という箇所は、「火薬と紙幣」の最後と似たモチーフですが、ここではさらに具体的に、作者は「こひびととひとめみること」という人間的恋愛よりも、自然の中の散策の方を選択すると、表明しています。
 そして作品の最後の、

わたくしは森やのはらのこひびと
芦のあひだをがさがさ行けば
つつましく折られたみどりいろの通信は
いつかぽけつとにはいつてゐるし
はやしのくらいとこをあるいてゐると
三日月がたのくちびるのあとで
肱やずぼんがいつぱいになる

という有名な箇所において賢治は、自分の方から自然を恋するだけでなく、自然の方からも優しく恋される相思相愛の関係にあることを、カミングアウトするのです。

 ではもう一度振り返って見ると、人間界から自然界へという賢治の恋の志向性の変化は、より具体的にはどの時点で起こったのでしょうか。これについて私は、やはり「風景とオルゴール」という作品がその境目に位置しているのではないかと思います。
 この作品の中ほどでは、上に引用したように賢治は五間森の木をきったことで、自然の放つ刺客に暗殺されることを想像します。この時点では、まだ作者賢治は、人間⇔自然という対立関係において、自然を傷つける存在としての人間の側にあると自覚しているのだと思われます。
 しかし、作品の最後で作者は、

   (しづまれしづまれ五間森
    木をきられてもしづまるのだ)

と、五間森をなだめています。これは、暗殺対象である敵対者が、暗殺の企画者に言ったとしても、無意味な言葉のはずです。このように言って自然を慰撫できるとすれば、この時点では賢治自身も、人間界よりも自然界の側に身を置いているからなのではないかと、私には感じられます。
 すなわち、ここで賢治はすでに自然の一部になったつもりで、五間森をなだめようとしているのではないでしょうか。

 ところで、『春と修羅』の最終章である「風景とオルゴール」の諸作品においては、恩田逸夫氏(『宮沢賢治論2 詩研究』)や、栗原敦氏(「『宮沢賢治 透明な軌道の上から』)が指摘されたように、関東大震災も契機として賢治の社会意識、とりわけ農村の現実への認識が深まっていったという側面も、非常に重要なことと考えられます。言わば、「個的な人間愛」が、「社会的なより広い人間愛」に変化していったとも言えましょうか。
 私もこの側面は十分に感じながらも、やはり上に述べたように、「風景とオルゴール」という章においては、特定の個人から自然へと、賢治の愛の対象が変化した側面も、感じざるをえないのです。

 上記のような賢治の官能性の変化は、すでに小沢俊郎氏が、「森やのはらのこひびと」(『薄明穹を行く 賢治詩私読』)において指摘されていることで、何も目新しいことではありません。また上記の作品の引用部分も、多くを小沢氏の指摘によっています。
 ただ私としては、賢治の態度が大きく変化するにおいて、「宗教風の恋」「風景とオルゴール」「風の偏倚」「」という4作品がまとめて書かれた1923年9月16日という日が、一つの転回点になったのではないかと感じて、ここに書いてみた次第です。

3.自然との一体化の報い

 このようにして、個人への愛を断念した賢治は、「春と修羅 第二集」の「」には、「わたくしはどこまでも孤独を愛し/熱く湿った感情を嫌ひますので・・・」と書いたり、書簡252aには、「私は一人一人について特別な愛というようなものは持ちませんし持ちたくもありません。」と書いたりします。
 一方で、周囲の人々や農民に対しては、賢治がいかに献身的で、「個」を超えた愛を抱き行動したかということは、数多の伝記的事実が示してくれているとおりです。自然を愛し、人間に対してはそのように博愛を実践する、それが賢治の生き方でした。

 しかし、賢治が病に倒れ、現実に死を意識した時、そのような彼のスタンスにも変化が生じたようです。
 「疾中」の中の「〔その恐ろしい黒雲が〕」で、賢治は以前の自分の言動に責められ、あれほど愛したはずの「かゞやく穹窿や/透明な風 野原や森」の、「恐るべき他の面」に怖れおののきます。

その恐ろしい黒雲が
またわたくしをとらうと来れば
わたくしは切なく熱くひとりもだえる
北上の河谷を覆ふ
あの雨雲と婚すると云ひ
森と野原をこもごも載せた
その洪積の台地を恋ふと
なかばは戯れに人にも寄せ
なかばは気を負ってほんたうにさうも思ひ
青い山河をさながらに
じぶんじしんと考へた
あゝそのことは私を責める
病の痛みや汗のなか
それらのうづまく黒雲や
紺青の地平線が
またまのあたり近づけば
わたくしは切なく熱くもだえる
あゝ父母よ弟よ
あらゆる恩顧や好意の后に
どうしてわたくしは
その恐ろしい黒雲に
からだを投げることができやう
あゝ友たちよはるかな友よ
きみはかゞやく穹窿や
透明な風 野原や森の
この恐るべき他の面を知るか

 あるいは、同じく「疾中」の「〔風がおもてで呼んでゐる〕」には、「約束通り結婚しろ」と迫る風の声に怯える賢治がいます。

風がおもてで呼んでゐる
「さあ起きて
赤いシャッツと
いつものぼろぼろの外套を着て
早くおもてへ出て来るんだ」と
風が交々叫んでゐる
「おれたちはみな
おまへの出るのを迎へるために
おまへのすきなみぞれの粒を
横ぞっぽうに飛ばしてゐる
おまへも早く飛びだして来て
あすこの稜ある巌の上
葉のない黒い林のなかで
うつくしいソプラノをもった
おれたちのなかのひとりと
約束通り結婚しろ」と
繰り返し繰り返し
風がおもてで叫んでゐる

 自然と一体化するということは、その究極においては「土に還る」=死を意味することだったのです。死を前に、かつて「自然こそ恋人」と自ら宣言した報いを受けているかのような賢治は、痛ましくもありますが、しかしそれをしっかりと見つめ書きとめようとする筆致には、詩人としての凄さもにじみ出ています。

4.はてしなき力の源

 ところが、賢治の自然観は、上のような恐怖で終わってしまうわけでもなかったようです。
 上の二つの「疾中」作品を記した病床からいったんは回復して、東北砕石工場技師として仕事をしていた頃、「兄妹像手帳」と呼ばれる手帳に、彼は「〔わが雲に関心し〕」というメモを書きつけています。

わが雲に関心し
風に関心あるは
たゞに観念の故のみにはあらず
そは新なる人への力
はてしなき力の源なればなり

 ここに「雲」と「風」が出てきて、「新なる人への力」「はてしなき力の源」と言われているのは、「〔あすこの田はねえ〕」の最後に、

  ……雲からも風からも
     透明な力が
     そのこどもに
     うつれ……

と書いたことと、関連しているのでしょう。

 しかしそれとともに、「疾中」に書いた「〔その恐ろしい黒雲が〕」と「〔風がおもてで呼んでゐる〕」を意識して、そのような雲や風の「恐るべき他の面」も知った上でも、なおかつそれらの力を新たな人間のエネルギーの源として、あらためて肯定しているのではないかと、私には思えるのです。
 自分がかつて「森やのはらのこひびと」となったことを、やはり後悔はしていなかったように思うのです。

「〔わが雲に関心し〕」(「兄妹像手帳」より)
「兄妹像手帳」より「〔わが雲に関心し〕」

十善法語

 『春と修羅』の「風景とオルゴール」の章の最初に、「不貪慾戒」という作品があります。

   不貪慾戒

油紙を着てぬれた馬に乗り
つめたい風景のなか、暗い森のかげや
ゆるやかな環状削剥の丘、赤い萓の穂のあひだを
ゆつくりあるくといふこともいゝし
黒い多面角の洋傘をひろげ
砂砂糖を買ひに町へ出ることも
ごく新鮮な企画である
   (ちらけろちらけろ 四十雀)
粗剛なオリザサチバといふ植物の人工群落が
タアナアさへもほしがりさうな
上等のさらどの色になつてゐることは
慈雲尊者にしたがへば
不貪慾戒のすがたです
   (ちらけろちらけろ 四十雀
    そのときの高等遊民は
    いましつかりした執政官だ)
ことことと寂しさを噴く暗い山に
防火線のひらめく灰いろなども
慈雲尊者にしたがへば
不貪慾戒のすがたです

 「不貪慾戒」とは耳慣れない言葉ですが、仏教の「十善戒」、すなわち一般には不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不綺語戒、不悪口戒、不両舌戒、不慳貪戒、不瞋恚戒、不邪見戒という、十の戒めの一つです。
 作品中に出てくる「慈雲尊者」とは、江戸時代後期の僧、慈雲飲光(1728-1805)のことで、十善戒を説いた『十善法語』を著した人です。その学識と徳の高さから、しばしば「尊者」と敬称を付けられます。慈雲の『十善法語』においては、上に記したように一般的は「不慳貪戒」と呼ばれている戒のことを「不貪慾戒」と呼んでいて、賢治の作品の題名が「不貪慾戒」となっていることと一致しています。これも、賢治が慈雲の『十善法語』を読んでいたと推測される根拠の一つです。

 「不貪慾戒」とは、文字どおり「貪慾であってはならない」という戒めのことですが、ではどうして「粗剛なオリザサチバといふ植物の人工群落が/タアナアさへもほしがりさうな/上等のさらどの色になつてゐること」や、「ことことと寂しさを噴く暗い山に/防火線のひらめく灰いろ」などが、「不貪慾戒のすがた」になるのでしょうか。
 そこで、『新宮澤賢治語彙辞典』の「不貪慾戒」の項を調べると、次のような引用解説が載っています(一部引用者改行)。

この詩句について池上雄三は次のように解説している。
「この詩の背景には慈雲尊者の『十善法語』があるわけだが、その中からこの詩に関連する部分の一例をあげよう。
<不貪慾戒に住して、色に対すれば、一切の青黄赤白が此眼を養ふに足るじゃ。一切松風水声・絲竹管絃が此耳を遊ばしむるに足るじゃ。>
これによると、物を前にしてその色彩を楽しんで物欲を起こさない心のあり方を不貪慾戒というのだから、風景画家は、自然の中に色彩を見出す者であるがゆえに、不貪慾戒に住することになる。そして賢治も今タアナアの心境で稲の群落に目を養い、心を遊ばせているのだから、慈雲尊者にしたがうならば、たしかに不貪慾戒に住するはずである。その証拠に、自然が『不貪慾戒のすがた』をとって現れているではないかということである。」(「『銀河鉄道の夜』の位置」静岡英和女子学院短期大学紀要第14号)

 この池上氏の指摘は先駆的で非常に意義深いものと思いますが、作品そのものを見ると、そこでは風景画家ターナーが不貪慾戒に住する、あるいは賢治自身が不貪慾戒に住する、ということは直接言われていません。作品中で賢治は、「稲が上等のさらどに色になっていること」、そして「寂しさを噴く暗い山に防火線のひらめく灰色」、というある種の自然現象が、「不貪慾戒のすがた」であると言っています。

 ところで『十善法語』の別の箇所では、「不貪慾戒の姿」について、次のように述べられています。

 此ノ正法の處より看れば。天地も全く不貪慾戒の姿じや。日も中すれば傾く。月も満ツれば欠クる。物盛なれば衰ふ。草木も。花のうるはしきものは果(このみ)が美ならぬ。禽獣も。角ある者は牙を略す。珠玉の多き國は。必ず五穀衣服に乏し。寒雪の國は暴風少きと云フじや。(三密堂書店『十善法語 并関連法語・文献』)

 すなわち、ここでは種々の無機的あるいは有機的自然現象が例として挙げられていて、それらには何らかの「限度」というものがあること、そしてそのうちのある部分が優れている場合には他の部分が不十分であるというような一長一短が認められ、その存在自体が「足るを知れ」という不貪慾戒の本質を象徴しているのだということを、慈雲は言っているようなのです。
 そういう視点で作品の本文を見れば、「稲というのは粗剛な植物であるが」(宮澤家本によれば「がさつな草であるが」)、「色は素晴らしくなる」という一長一短があり、また「ことことと寂しさを噴く暗い山でも、そこにひらめく防火線の灰いろ(は美しい?)」という一長一短があるということで、それぞれが不貪慾戒を象徴する「姿」である、ということになるのかと思ったりします。

 ところで少し話は変わりますが、画家ターナーは、色彩に対して次のような好き嫌いを持っていたということです(Wikipedia 「ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー」より)。

ターナーが好んで使用した色は黄色である。現存している彼の絵具箱では色の大半が黄色系統の色で占められている。逆に、嫌いな色は緑色で、緑を極力使わないよう苦心した。ターナーは知人の一人に対して「木を描かずに済めばありがたい」と語っている。また別の知人から、ヤシの木を黄色く描いているところを注意された時には、激しく動揺している。

 つまり、「タアナアさへもほしがりさうな」という部分の意味は、「緑色嫌いだったターナーでも欲しがりそうな、極上の緑色」ということなのでしょうね。


 あと、『新宮澤賢治語彙辞典』には、賢治の作品で慈雲の『十善法語』に由来している可能性のあるものが、さらにいくつか挙げられています。
 短歌の、

37 泣きながら北に馳せ行く塔などの
   あるべきそらのけはひならずや

と関連が推定される部分として、『十善法語』巻第十一「不邪見戒之中」にある次の箇所が引用されています。

日蓮尊者後夜座禅より起チて、大衆に告ぐ。此ノ暁天の時、桜閣形の有情、号泣して虚空を凌ぎ去ルと。…世尊言ハく、此レ軽地獄の衆生なり。前身人間たりしとき、仏閣を己が遊覧処となせし故、此ノ報を受ケて久シく苦シむ。

 さらに、童話「蛙のゴム靴」に出てくる「雲見」に関しては、『十善法語』巻第五「不綺語戒」の一部が記されています。

雲を看て楽しむ者、よく四季七十二候の変を知ると云ふ。或は雲の姿を見、色を見、起滅を見て世の吉凶を占ひ知る者もある。隠逸の士、雲を見て詩歌を弄ぶもある、悉く面白かるべきじや。上なることを以て云はゞこの雲によそへて、五蘊色身、來去の相に達す。縁起を明了にして、優に聖域に入る。

 ついでに私もちょっと気がついたのですが、「不貪慾戒」から20日ほど後の日付けを持つ「」という作品に、次のようなところがあります。

金をもつてゐるひとは金があてにならない
からだの丈夫なひとはごろつとやられる
あたまのいいものはあたまが弱い
あてにするものはみんなあてにならない
たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で
そしてそれらもろもろの徳性は
善逝(スガタ)から来て善逝(スガタ)に至る

 一方、『十善法語』巻第八「不貪慾戒」には、次のような箇所があります。

千金の子も一銭を将チ來らず。不貪慾戒の姿じや。勇烈の士も。此ノ生力なく。此ノ死力ない。不貪慾戒の姿じや。智謀の士も。此ノ生自ら知ラず。此ノ死自ら辨ぜぬ。不貪慾戒の姿じや。(三密堂書店『十善法語 并関連法語・文献』)

 これらは何となく、似ているような気がしました。ちょうどこの頃の賢治が『十善法語』の「不貪慾戒」を読んでいので、影響があったのでしょうか。

慈雲尊者
慈雲尊者

岩手山とくらかけ山

  岩手山

そらの散乱反射のなかに
古ぼけて黒くえぐるもの
ひかりの微塵系列の底に
きたなくしろく澱むもの

 以前に「岩手山と澱粉堆」という記事にも書いたように、『春と修羅』に収められている作品「岩手山」は、賢治が生涯に何度も登って愛していたはずの岩手山という山を、なぜか否定的に、ほとんど嫌悪感も漂うほどに、描いたものです。
 これはいったいどうしてなのか・・・と思います。

 ところで、賢治が終生愛し、しかし他方で、どうしてもある種の否定的な感情を抱くことを禁じえなかった存在があります。
 それは、父親の政次郎氏です。

 この「岩手山」という作品は、ひょっとして父政次郎氏を象徴するものではないか、と思ってみたことがありました。
 「古ぼけて黒くえぐるもの」「きたなくしろく澱むもの」とは、質屋の暗い番台に黙って座っている、頑なな父親の姿ではなかったでしょうか。周囲には、「古い布団綿、あかがついてひやりとする子供の着物、うすぐろい質物、凍ったのれん、青色のねたみ、乾燥な計算」(書簡159)があります。
 店の外に出れば、「そら」や「ひかり」があるのに・・・。


 では、もしも「岩手山」が賢治にとって父親を象徴していたとすれば、母親を象徴するものは何でしょうか。
 それは、岩手山のふところに抱かれるように位置している、「くらかけ山」ではなかっただろうかと、私は思います。
 まず、岩手山に寄り添うくらかけ山の姿は、妻として、主婦として、家長・政次郎を支えた妻イチの姿を、彷彿とさせるものがあります。雄大で男性的な岩手山に対して、なだらかな曲線を描くくらかけ山の山容は、優しく女性的です。
 そして、賢治の「くらかけ山」に対する感情は、岩手山に対するものとはまた少し異なって、自分がいちばん苦しい時、孤独な時に、最後の頼みとする「心のよりどころ」のようでした。「岩手山」と同じく『春と修羅』所収の「くらかけの雪」では、次のような思いが吐露されます。

  くらかけの雪

たよりになるのは
くらかけつづきの雪ばかり
野はらもはやしも
ぽしやぽしやしたり黝んだりして
すこしもあてにならないので
ほんたうにそんな酵母のふうの
朧(おぼ)ろなふぶきですけれども
ほのかなのぞみを送るのは
くらかけ山の雪ばかり
  (ひとつの古風な信仰です)

 上記は若い頃の作品ですが、晩年になって「雨ニモマケズ手帳」に書き記された断片では、次のようになっています。

  〔くらかけ山の雪〕

くらかけ山の雪
友一人なく
たゞわがほのかにうちのぞみ
かすかなのぞみを托するものは
麻を着
けらをまとひ
汗にまみれた村人たちや
全くも見知らぬ人の
その人たちに
たまゆらひらめく

 これはおそらく未完に終わっており、小倉豊文氏が指摘しているように、一行目の「くらかけ山の雪」が題名であって、詩の本文は「友一人なく」から始まるのかもしれません。
 しかしいずれにしても、「友一人なく」孤独な賢治が「かすかなのぞみを托する」のは、くらかけ山の雪だったのです。
 このことからも私は、「慈母」と呼ばれた母イチの存在を、連想してしまうのです。


 ちなみに、「春と修羅 第二集」の「国立公園候補地に関する意見」という作品は、岩手山周辺を舞台としていますが、その中に次にような一節がありました。

(前略)
いったいこゝをどういふわけで、
国立公園候補地に
みんなが運動せんですか
いや可能性
それは充分ありますよ
もちろん山をぜんたいです
うしろの方の火口湖 温泉 もちろんですな
鞍掛山もむろんです
ぜんたい鞍掛山はです
Ur-Iwate とも申すべく
大地獄よりまだ前の
大きな火口のヘりですからな
(後略)

 賢治はここで、鞍掛山の方が、現在の姿の岩手山よりも地質学的に古い存在であると考えて、‘Ur-Iwate’という呼称を与えています。‘Ur-’とは「原初・根源」を意味するドイツ語の接頭辞で、「原・岩手山」という感じでしょうか。
 そしてこれは、現代の火山学から見ても、そのとおりらしいのです。「活火山データベース」の「岩手火山地質図・解説」によれば、鞍掛山は「網張火山群」に属し、さらに中川光弘氏の「東北日本,岩手,秋田駒ヶ岳およびその周辺火山群の岩石学」によれば、岩手火山群の形成史は、次の如くだそうです。

  1. 更新世前期の松川安山岩の活動後,更新世前~中期(約1Ma以降)に網張火山群が全域にわたって活動した。
  2. 更新世中~後期に旧岩手火山の活動が開始され,成層火山体が形成された。 この時期に網張火山群も並行して活動した可能性がある。
  3. 旧岩手成層火山体形成後,0.15Mの前後に山体南東部に鬼又カルデラが形成された。
  4. 鬼又カルデラ形成後,玄武岩質溶岩流の活動が行なわれカルデラ内を埋め尽した。この活動は 0.07Ma前後には終了した。
  5. 0.06Ma前後に西岩手カルデラが形成され,カルデラ内で後カルデラの活動が行なわれた。そして,旧岩手火山の活動は遅くとも0.03Maには終了した。
  6. その後2.5万年以上の活動休止期をはさんで,約5000年前に東岩手カルデラが形成され新岩手火山活動が開始された。 これは現在まで続く。

 従来から,岩手火山群では火山活動が西から東へ移動すると指摘されてきた。しかしながら,網張火山群の存在から,活動が移動したのではなく,最も時期まで活動したのが火山群の東端(岩手火山)であるといえる。

 すなわち、鞍掛山を含む網張火山群の活動は、約100万年前の更新世前~中期から始まるのに対して、旧岩手火山の活動開始は更新世中~後期からで、さらに現在の岩手山の山体が形成されるのは、わずか5000年前だというのです。
 賢治の当時にどの程度のことが判明していたのか私にはわかりませんが、鞍掛山を Ur-Iwate としたのは、地質学者・賢治の慧眼だったのかもしれません。

 それから、花巻において、「父方宮澤家」と「母方宮澤家」は、ルーツは同じですから、どちらがより古いということはないのですが、母方祖父(宮澤善治)の家の方が、父方の家よりもはるかに有力な実業家で、花巻銀行、花巻温泉、岩手軽便鉄道などの経営に大きく関わっていました。政次郎氏が質屋の事業を発展させたと言っても母方宮澤家にはとても及ばず、賢治が言う「財ばつ」(書簡421)というのは、主に母方のことを指していたのだろうと思います。
 つまり、岩手山―鞍掛山の地質学的関係と、父方―母方の経済的関係に、何となく類似を感じたりもするのです。

岩手山とくらかけ山
岩手山とくらかけ山

「雲の信号」と雁(つづき)

1.作品

    雲の信号

あゝいゝな、せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし
山はぼんやり
岩頸だつて岩鐘だつて
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
  そのとき雲の信号は
  もう青白い春の
  禁慾のそら高く掲げられてゐた
山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる
                  (一九二二、五、一〇)

2.これまでのあらすじ

「雲の信号」詩碑 私は数年前に、「石碑の部屋」の「雲の信号」詩碑のページに、この「雲の信号」(『春と修羅』)という作品について、私なりに思うところを書いてみていました(詳細は「雲の信号」詩碑参照)。
 ところが最近、「雁は冬鳥なので日本では繁殖行動はしない」とのご教示をいただき、さらに先日の記事では、この作品の日付である「5月」という時期には、そもそも日本には「雁」は存在しないということをやっと知り(重ね重ね無知でした!)、作品末尾の「きつと四本杉には/今夜は雁もおりてくる」という記述をどう解釈したらよいのか、途方に暮れていました。
 記事を書いた時点では、「雁の繁殖行動」というイメージを、まだ私は完全にはぬぐい去れていなかったのですが、それに対して nenemu さんがコメントを下さって、「雁や鴨を身近に見ていた農村の人間ならば、五月の日本列島のさわやかな景観には、雁の繁殖行動はイメージしにくいと思います」と明快にご指摘下さり、私のもやもやも、ある面ではすっかり晴れました。

 しかしその一方で、賢治が、「きつと四本杉には/今夜は雁もおりてくる」と書いたことの意味は、ますます謎として残ってしまいます。「雁」が5月の日本に存在しない以上、これは何か別のものの隠喩なのかとも思われました。
 いろいろと考えたあげく、私は先日の記事への nenemu さんのコメントへのリコメントとして、自分なりの推測を書いてみましたが、ちゃんとまとまった形ではなかったので、ここにもう一度、記事として整理してアップすることにしました。

3.関連作品

 「雁」が登場する賢治の作品で、「雲の信号」と何らかの関連がありそうなものとして、以下が挙げられます。

(1) 「ラジュウムの雁」
 これは、「初期短篇綴」として分類されている賢治のごく初期の散文作品の一つです。その草稿には、題名下方に鉛筆で「大正八年五月」と記入されていて、これが、作品のもとになる体験のあった日付であろうと推定されています。
 内容は、賢治が親友の阿部孝とともに、二人でとりとめのない会話をしながら夕暮れの散歩をしている情景のようです。その中に次のような一節があります。

ふう、すばるがずうっと西に落ちた。ラジュウムの雁。化石させられた燐光の雁。
停車場の灯が明滅する。ならんで光って寄宿舎の窓のやうだ。あすこの舎監にならうかな。

 この箇所を見ると、「ラジュウムの雁」あるいは「化石させられた燐光の雁」という言葉は、「すばる」の詩的隠喩であることがわかります。夜空に燐のように光るその星団の形を、雁に見立てたのでしょうか。

(2) 歌稿〔A〕762

薄明穹まつたく落ちて燐光の雁もはるかの西にうつりぬ

 これは、歌稿〔A〕の「〔大正〕八年八月以降」と題された項にあり、やはり「燐光の雁」が出てきます。ここでは「すばる」とは明らかにされていませんが、「薄明穹」「はるかの西にうつりぬ」という言葉から、やはり何らかの天体であることが示唆されています。

(3) 「〔冬のスケッチ〕」第22葉・第23葉
 これらはおおよそ1921年(大正10年)終わりから1922年(大正11年)初めのある時期に書かれたと考えられている草稿ですが、その中に次のような箇所があります。

おゝすばるすばる
ひかり出でしな
枝打たれたる黒すぎのこずえ。
      ※
せまるものは野のけはひ
すばるは白いあくびをする
塚から杉が二本立ち
ほのぼのとすばるに伸びる。
      ※
すばるの下に二本の杉がたちまして
杉の間には一つの白い塚がありました。
如是相如是性如是体と合掌して
申しましたとき
はるかの停車場の灯(あかし)の列がゆれました。

 ここでは、「すばる」が杉の木の梢の上に見えている様子が、3回にもわたって描写されています。
 さらに、上の最終行には、「はるかの停車場の灯の列がゆれました」とあって、先に挙げた短篇「ラジュウムの雁」の一節(「停車場の灯が明滅する」)と、共通した表現が認められます。

(4) 「〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕
 これは、「詩ノート」に分類されている口語詩で、草稿には「五、七」と日付が記入されていますが、作品番号や前後作品との関係から、1927年(昭和2年)5月7日にスケッチされたものと思われます。つまりこの作品は、「雲の信号」よりも後に書かれたものです。
 この中に、次のような一節があります。

むかしわたくしはこの学校のなかったとき
その森の下の神主の子で
大学を終へたばかりの友だちと
春のいまごろこゝをあるいて居りました
そのとき青い燐光の菓子でこしらえた雁は
西にかかって居りましたし
みちはくさぼといっしょにけむり
友だちのたばこのけむりもながれました
わたくしは遠い停車場の一れつのあかりをのぞみ
それが一つの巨きな建物のやうに見えますことから
その建物の舎監にならうと云ひました

 これは明らかに、短篇「ラジュウムの雁」と同じ体験を、後年になってもう一度取り上げたものと思われます。「神主の子」は、鼬幣神社の宮司の息子だった阿部孝に違いありませんし、「春の今頃」との表現は、「ラジュウムの雁」もこの作品も、5月の日付を持っていることで符合します。「燐光の(菓子でこしらえた)雁」、「西にかかって」、「停車場の一れつのあかり」、「舎監にならう」の言葉も、「ラジュウムの雁」と一致します。
 阿部孝との再会から8年がたった同じ5月、賢治は親友との散歩のことをふと思い出したのでしょうか。「ラジュウムの雁」でもそうですが、「寄宿舎」というモチーフには、盛岡中学の寄宿舎で生活をともにした阿部孝との交友からの連想も働いているのでしょう。さらに言えば、こちらの作品で上記の少し後には、「恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついで男のふうをして/わたくしをたづねてまゐりました」という一節があるのですが、この部分は盛岡高等農林学校のやはり寄宿舎で一緒だった保阪嘉内のイメージに、はるかに重なるような気もするのですが、これはまた別の話です。

4.イメージの連鎖

 上の4つの作品に登場するモチーフには、このようにいくつか共通するものがあり、それらが賢治の記憶の中で互いに連鎖しているように思われます。これを何とか表現してみようと、下のような図を描いてみました。複数回にわたって一緒に出てくるモチーフほど、太い線でつなげてあります。

「すばる」をめぐるイメージの連鎖

 賢治の具体的体験としては、「大正八年五月」と推測される阿部孝との再会と、「〔冬のスケッチ〕」に記された日時不明の出来事との、少なくとも二つが重なり合っているようです。そしてこの二つの記憶の塊は、「すばる」と「停車場の灯」という共通する二つのイメージによって、結び合わされているようです。

5.「雲の信号」の雁

 さて、「雲の信号」に戻ります。この作品は、上に挙げた作品群とはかなり雰囲気が異なっているようですが、意識して見ると、いくつかの共通点もあります。
 まず一つはその季節です。「雲の信号」も、「一九二二、五、一〇」と記されているように、五月の出来事です。
 また、「山はぼんやり/岩頸だつて岩鐘だつて・・・」と賢治が眺めている山は、「岩頸」「岩鐘」という言葉から、花巻の西方に見える奥羽山脈系の山々であることがわかります。(花巻から見える山としては、東には北上山地、西には奥羽山脈に連なる山々があります。賢治にとっては両者は明らかに性質の異なった山々で、例えば「〔そゝり立つ江釣子森の岩頸と〕」という作品に見るように、西には昔の奥羽山脈の火山活動によってできた「岩頸」や「岩鐘」があり、東の北上山地は、長年の風化・浸食によってできた「準平原」なのです。)
 さらに、この「雲の信号」という作品は、1922年の春に、それまでの「郡立稗貫農学校」が県立に昇格して、「花巻農学校」として新築移転するにあたり、職員と生徒が一丸となって新校舎敷地の開墾・整地作業に働いた際の体験にもとづいていると言われています。この、「学校が新たにできる」という出来事は、「〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕」において、「むかしわたくしはこの学校のなかったとき」・・・「そしてまもなくこの学校がたち」、という状況設定にも反映している可能性があります。

 ということで、上の図においては、一連の作品群に登場するモチーフの中で「雲の信号」と関係している可能性のあるものに、黄色い色を付けてみました。


 この詩に関連して、私はのような賢治の追憶を想像したりします。
 “・・・5月の晴れた日、新校舎建設準備のために皆と一緒に心地よい汗を流した賢治は、ふと手を休めて西の山並みを眺める。3年前のやはり5月に、彼は親友の阿部孝と再会して、夕暮れにこの西の山並みに沈む「すばる」を見たのだった。あの頃の自分は、前途洋々たる親友がまぶしくて、あてもないままに「寄宿舎の舎監になろうかな」などと言ってみたりしたけれど、今は教師になって、生徒たちとともにこうやって働いている。今日整地した場所伐採前の四本杉には寄宿舎も建つだろうし、きっと今後は、舎監の役割もまわってくるだろう。昔の空想が現実化するような、思えば不思議なめぐり合わせだ。
 あの頃は、「すばる」のことを「燐光の雁」などと洒落て呼んでみたりしたものだった。そう言えば少し前には、すばるが杉の木の梢に懸かっているのも見た。
 ああこの5月ならば、今夜あたり、すばる星はちょうど「四本杉」の上あたりの西の山並みに沈むだろう。”

 こんなことを思ったりして、賢治は「雲の信号」の終わりに、「山はぼんやり/きつと四本杉には/今夜は雁もおりてくる」と書いたのではなかったでしょうか。
 つまり、ここに出てくる「雁」とは「すばる星」のことだと、私は考えてみるのです。

6.四本杉に沈むすばるをどこから見たのか

 上のように「雁=すばる」と考えてみるとして、ではどこから眺めれば、すばるが四本杉の上に沈むように見えるのでしょうか。賢治はその場所を知っていて、実際に5月にはその場所からそういう見え方をすることを、この時までに経験していたはずです。

 そこで、素人が下手にこんなことをすると加倉井さんに笑われてしまいそうですが、Stella Theater Pro というソフトを使って、1922年5月10日の花巻の夜空を調べてみました。下の図は、このソフトからキャプチャーした、同日19時20分における西北西の方向の空です。

1922年5月10日19時20分花巻から西北西を見る

 これは、プレアデス星団(=すばる)がちょうど沈もうとしているところで、縦の点線に「120°」と書いてあるのは、真南から時計回りに120°の方角です。この測り方では「すばる」は約119°の方向に、言い換えれば真西から29°ほど北西よりの方角に沈むことになります。後述する理由で、すばるの高度は2.5°の時点で見ています。

 さて、下の図は、賢治の自宅((賢)印マーカー)から、現在の花巻中学校の北にある「四本杉」跡地((杉)印マーカー)を線で結んだものです。この青い線の指す方向は、真西から22°ほど北西へ向かっています。(ちなみに、「ぎんどろ公園」の場所が、当時の花巻農学校建設地です。もちろんこちらからも、四本杉は見えたのでしょう。)

賢治生家から四本杉の方向

 つまり、賢治が自宅(の2階?)から四本杉の方を眺めれば、おおよそその延長線の方向に、すばるが沈んでいくのです。

 なお、賢治の自宅の場所の標高は71m、四本杉の場所は標高94mで、地図上の直線距離は1500mです。杉の高さを10mとすれば、賢治の自宅から杉の梢までの高度差は34m、仰角は、1.3°になります。一方、西の山脈でだいたいこの方向には五間ヶ森があって、その標高は568.5m、賢治宅からの直線距離は12.68kmですから、仰角は2.24°になります。
 つまり、すばるは四本杉の梢に懸かる前に、山脈の向こうに沈むことになります。上の星図で、すばるの高度2.5°の時点で方向を調べたのは、星団が山の端にかかる前の位置を見るためでした。

 ということで、「雲の信号」の最後の、「きつと四本杉には/今夜は雁もおりてくる」という一節は、この日の帰宅後の宵の口に、自宅から四本杉の方を見た時の情景を想像して、書いたものではないかと私は思うのです。

7.おわりに

 以上、四本杉におりてくる「雁」の正体について考えてみました。しかし、題名にもなっている「雲の信号」というのが、いったい何の「信号」のことなのかは、まだよくわかりません。
 これは、今後の課題ということにしたいと思います。

プレアデス星団(Wikimedia Commons より)
プレアデス星団(Wikimedia Commons より)

「雲の信号」と雁

 数年前から、「石碑の部屋」の「雲の信号」詩碑というページに、この作品に関する私なりの解釈を載せていました。この「信号」というのは、いったい何の「信号」なのかということについて、わからないままにあれこれ思ったことを、書いてみていたのです。
 すると最近になってひょんなことから、賢治と鳥との専門家でいらっしゃる方から、「雁は冬鳥なので、日本列島では繁殖行動は見られないのですよ」ということをご教示いただきました。
 それで、この作品についてどう考えたらよいか、ちょっと思案中なのです。

 で、まずはその作品全文をご紹介しますね。

    雲の信号

あゝいゝな、せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし
山はぼんやり
岩頸だつて岩鐘だつて
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
  そのとき雲の信号は
  もう青白い春の
  禁慾のそら高く掲げられてゐた
山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる
                  (一九二二、五、一〇)

 詳しくは「雲の信号」詩碑のページをご参照いただくとして、簡単に言うと私は、「春谷暁臥」(「春と修羅 第二集」)においてそうだったように、この「雲の信号」という作品においても作者は、春の鳥たちの繁殖行動のことをほのめかしているのではないか、と思っていたのです。
 しかし、先に述べたように、「雁」の繁殖行動は日本では行われないとなると、この考えは成り立たなくなります。お恥ずかしい無知な「解釈」でした。

 しかしその後、「雁」の生態についてもう少し調べてみると、この作品の日付となっている「5月10日」などという時期に、花巻近辺で雁が見られるということ自体が、ちょっとありえなさそうなのです。
 一般に言われる「雁」とは、生物学的分類では、「マガン」、「ヒシクイ」、「カリガネ」など、カモ目カモ科で「鴨」より大きな水鳥の総称なのだそうですが、「全国ガン・カモ類飛来情報」という素晴らしいデータベース的HPでは、北海道・東北地方の83ヵ所で観測された、ガン、カモの情報が集積されていて、とても参考になりました。
 このHPによれば、「花巻市の水田」において観察される雁は、

■ マガン.出現期間 2月 - 3月上旬.最大個体数 43. 1992年2月16日1,500渡来. ■ 亜種ヒシクイ.出現期間 2月 - 3月上旬.最大個体数 1,330. 積雪が少ない年は1月に渡来することがある

ということで、その渡来地の状況は、

○春, 水田の積雪が消え始めるころに最初の群れが渡来する. 比較的短期間滞在するものが多いようである. ○花巻空港周辺の水田を採食地として利用することが多い. ○朝7時45分頃に決まって同じ水田に渡来し, 夕方5時40分頃に南方面(伊豆沼?)に向かう. ○夜間の行動についてはよくわかっておらず, 塒(ねぐら)の所在地についても断片的な情報しか得られていない

とされています。花巻で雁の仲間(マガン、亜種ヒシクイ)が見られるのは、だいたい2月から3月上旬まで、ということなのですね。(「花巻市水田」参照)
 2002年の観測データを点検しても、花巻で雁が見られたのは2月27日まで(亜種ヒシクイ)であり、さらに本州で見られた最後は、青森県小川原湖湖沼群における3月25日(亜種ヒシクイ)となっています。北へ帰る途中で立ち寄る北海道では、4月下旬からまれに5月初頭に見られることもあるようですが、やはり花巻に5月10日に現れるというのは、通常の渡りのスケジュールからは、無理のようです。

 となると、作品「雲の信号」において、「今夜は雁もおりてくる」と書かれているのは、いったいどういうことを指しているのか、ということが謎になってきます。
 以前に nenemu さんは、賢治の他の作品に登場する「もず」は地元の方言による呼称であって、標準和名では「ムクドリ」のことを指していると教えて下さいましたが、ここで出てくる「雁」も、一般に言う「雁」とは別の鳥のことなのでしょうか?
 あるいは、「今夜は雁もおりてくる」というのは、賢治がふと思い描いた一種のファンタジーなのでしょうか?

 いずれにしても、5月10日の暖かい春の日を背景としてならば、現実の鳥であれ、想像上の鳥であれ、繁殖活動にいそしんでいてもよさそうな気もしますが、私にはやはり謎なのです。

雁(Wikimedia Commons より)
雁 (Wikimedia Commons より)

 『春と修羅』、「春と修羅 第二集」などの作品の中から、賢治がトシの「死後の行方」について思い、言及した箇所を、以下に順に挙げてみます。

(1) 1922.11.27
   「永訣の朝
     けふのうちに
     とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

   「松の針
     ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
     ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
     わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
     泣いてわたくしにさう言つてくれ

   「無声慟哭
     おまへはじぶんにさだめられたみちを
     ひとりさびしく往かうとするか
     (中略)
     おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
     (中略)
     どうかきれいな頬をして
     あたらしく天にうまれてくれ

(2) 1923.6.3 「風林
     おまへはその巨きな木星のうへに居るのか
     鋼青壮麗のそらのむかふ
        (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
         光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか

(3) 1923.8.1 「青森挽歌
     あいつはこんなさびしい停車場を
     たつたひとりで通つていつたらうか
     どこへ行くともわからないその方向を
     どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
     たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
     (中略)
     とし子はみんなが死ぬとなづける
     そのやりかたを通つて行き
     それからさきどこへ行つたかわからない
     それはおれたちの空間の方向ではかられない
     (中略)
     なぜ通信が許されないのか
     許されてゐる そして私のうけとつた通信は
     母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ
     どうしてわたくしはさうなのをさう思はないのだらう
     (中略)
     ほんたうにあいつはここの感官をうしなつたのち
     あらたにどんなからだを得
     どんな感官をかんじただらう
     なんべんこれをかんがへたことか
     (中略)
     あいつはどこへ堕ちやうと
     もう無上道に属してゐる

(4) 1923.8.2 「宗谷挽歌
     けれどももしとし子が夜過ぎて
     どこからか私を呼んだなら
     私はもちろん落ちて行く。
     とし子が私を呼ぶといふことはない
     呼ぶ必要のないとこに居る。
     もしそれがさうでなかったら
      (あんなひかる立派なひだのある
       紫いろのうすものを着て
       まっすぐにのぼって行ったのに。)
     もしそれがさうでなかったら
     どうして私が一緒に行ってやらないだらう。
     (中略)
     とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
     おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
     そんなしあはせがなくて
     従って私たちの行かうとするみちが
     ほんたうのものでないならば
     あらんかぎり大きな勇気を出し
     おまへを包むさまざまな障害を
     衝きやぶって来て私に知らせてくれ。

(5) 1923.8.4 「オホーツク挽歌
     わたくしが樺太のひとのない海岸を
     ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
     とし子はあの青いところのはてにゐて
     なにをしてゐるのかわからない

(6) 1923.8.11 「噴火湾(ノクターン)
     駒ヶ岳駒ヶ岳
     暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
     そのまつくらな雲のなかに
     とし子がかくされてゐるかもしれない
     ああ何べん理智が教へても
     私のさびしさはなほらない
     わたくしの感じないちがつた空間に
     いままでここにあつた現象がうつる
     それはあんまりさびしいことだ
         (そのさびしいものを死といふのだ)
     たとへそのちがつたきらびやかな空間で
     とし子がしづかにわらはうと
     わたくしのかなしみにいぢけた感情は
     どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

(7) 1923後半? 「〔手紙 四〕」

けれども私にこの手紙を云ひつけたひとが云つてゐました。「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒のあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。チユンセがもしポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである。チユンセがもし勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向つて進まないか。」
 それからこのひとはまた云ひました。「チユンセはいいこどもだ。さアおまへはチユンセやポーセやみんなのために、ポーセをたづねる手紙を出すがいい。」 そこで私はいまこれをあなたに送るのです。

(8) 1924.7.5 「〔この森を通りぬければ〕
     鳥は雨よりしげくなき
     わたくしは死んだ妹の声を
     林のはてのはてからきく
        ……それはもうさうでなくても
           誰でもおなじことなのだから
           またあたらしく考へ直すこともない……

(9) 1924.7.17 「薤露青
     声のいゝ製糸場の工女たちが
     わたくしをあざけるやうに歌って行けば
     そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が
     たしかに二つも入ってゐる
     (中略)
        ……あゝ いとしくおもふものが
           そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
           なんといふいゝことだらう……


 すなわち、当初から賢治は、トシが「とほくへいつてしまふ」ことは諦めて受け容れながらも、「どこへ行かうとするのだ」という問題に、悩みおののいていました。
 次に「青森挽歌」や「宗谷挽歌」では、「どこへ行つたかわからない/それはおれたちの空間の方向ではかられない」と頭では理解しつつも、それでもトシからの通信を求めつづけます。賢治の苦悩は、サハリンの自然によって、一時は少し癒やされたようにも見えましたが、この旅行の最終作品である「噴火湾(ノクターン)」も、「わたくしのかなしみにいぢけた感情は/どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ」と結ばれます。

 一つの変化が起こるのは、旅行後に書いたと思われる「〔手紙 四〕」です。ここではやはり死んだポーセを「たづねる」という行為は続けられながらも、「たづねる」主体はポーセの兄のチユンセではなくて、「云ひつけ」によって手紙を出す「私」になります(「「手紙四」の苦悩」参照)。
 一人の人間の中で相反する思いが闘っている状態が「葛藤」ですが、人は時に、心の中の葛藤に耐えきれなくなると、相反する思いのそれぞれを心の中で別の「人格」に分担して背負わせるという対処をとることがあります。この機制は精神医学的には「解離」と呼ばれ、その最も極端な形は「多重人格」という形で現れます。
 賢治は「〔手紙 四〕」において、これと類似のことを、文学的な形態において実行したとも言えます。すなわち、あらゆる衆生のための行動=真の仏教徒としての行動と、死んだ妹の行方を「たづねる」行動=肉親としての行動を、「チユンセ」と「私」という別の人格に分担させることによって、葛藤を解消したわけです。

 そして最終的には、1924年7月の2作品において、さらに賢治は気持ちの整理をつけているようです。「それはもうさうでなくても/誰でもおなじこと」で、「またあたらしく考へ直すこともない」・・・。そして「薤露青」に至っては、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」という境地が語られます。
 これはとても逆説的で不思議な感情のようですが、しかしその逆説性にこそ、賢治の苦悩の跡が感じられるような気もします。

 と、思っていたら、「小岩井農場」においても、このような逆説的感情の描写が見られるのですね。「パート一」で、賢治が馬車に乗ろうか乗るまいか迷っているところです。

これはあるひは客馬車だ
どうも農場のらしくない
わたくしにも乗れといへばいい
馭者がよこから呼べばいい
乗らなくたつていゝのだが
これから五里もあるくのだし
くらかけ山の下あたりで
ゆつくり時間もほしいのだ
あすこなら空気もひどく明瞭で
樹でも艸でもみんな幻燈だ
もちろんおきなぐさも咲いてゐるし
野はらは黒ぶだう酒のコツプもならべて
わたくしを款待するだらう
そこでゆつくりとどまるために
本部まででも乗つた方がいい
今日ならわたくしだつて
馬車に乗れないわけではない
 (あいまいな思惟の蛍光
  きつといつでもかうなのだ)
もう馬車がうごいてゐる
 (これがじつにいゝことだ
  どうしやうか考へてゐるひまに
  それが過ぎて滅くなるといふこと)

 ここでは結局、賢治が迷っているうちに馬車は動き出してしまうのです。普通なら、こんな時あわてて呼びとめようとしたり、諦めてからも自分の優柔不断さを悔やんだりしそうなものですが、賢治は、「これがじつにいゝことだ/どうしやうか考へてゐるひまに/それが過ぎて滅くなるといふこと」と、肯定的にとらえているのです。
 これは「薤露青」の、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」にも通ずるものだと思うのですが、「小岩井農場」では若干「悔しまぎれの開き直り」と聴こえなくもなかった言葉が、「薤露青」においては、深い仏教的な悟りをも感じさせています。

 いずれにしても、このようなちょっと珍しい感じ方は、トシを喪う前から、賢治のどこかに備わっていたものなのだろうと思うのです。

震災の「外部」で

 先日函館へ行く際に、私は村上春樹の短篇集『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)を、何気なくバッグに放り込んで出かけました。実際、往復の機内では、6つの短篇をじっくりと読むことができたのですが、それにしても今回の小旅行にあたって、なぜ私は本棚の片隅から他ならぬこの本を選び取ったのか、不覚にも帰宅してしばらくたってから、やっと私は自分の無意識的な動機に思い当たりました。

 すなわち先週来、中国四川省の大地震の報道が、連日TVや新聞をにぎわしていたのです。

 すでに読まれた方はご存じのように、『神の子どもたちはみな踊る』は、阪神大震災をモチーフにした連作短篇集です。各篇において震災がどのような意味を持って現れるかということは様々ですが、すべてに共通するのは、どの作品においても震災は主要な題材ではなくて、小説の片隅に、「遠景」のように小さく置かれていること、しかし実は、潜在的には重要な意味を帯びていることです。
 震災は、物語の「外部」にあるように見えながら、いつしか物語や登場人物と「共振」をはじめます。
 この辺の距離感と重みは、村上春樹氏が阪神地区(西宮市夙川)の出身でありながら、阪神大震災の当時にはアメリカで生活していて、現場から遠く離れていたこととも関係しているのかもしれません。

 そして現在の私も、四川省の大地震のニュースを毎日見ていろいろなことを感じながらも、自分自身がその圧倒的な惨事の「外部」にいることを、日々思い知らされていたのです。


 実は私は13年前の阪神大震災の際、地震から10日あまり経った1月29日から30日にかけて、1泊2日で現地の支援活動に行ったことがありました。同行者とともに、京都から車で長時間かけて神戸市の中心部に着いてみると、あの美しかった神戸の街の、変わり果てた姿がありました。その衝撃は、いまだに言葉で表現することができません。
 それから2日間、地元の人たちと一緒に、私はそれなりの仕事をしました。しかし2日目が終わって気がついてみると、私は次にやって来るメンバーと交代して、もう京都へ帰ってしまう人間だったのです。毎日、避難所やライフラインの途絶えた住居と往復する地元の人とは異なって、私は、電気も水道も通い、風呂に入ってこの2日の疲れを癒やすこともできる場所へと、当たり前のように帰ることのできる人間だったのです。
 この時、私は自分がいくら何かの援助活動に携わろうとも、やはりこの災害に関して、「外部」にいるのだということを痛感しました。そして瓦礫となった神戸の街の映像とともに、言いようのない自責の念が心に残りました。

 ところで、このような大災害の被災者においては、「生存者の罪責感(サヴァイヴァーズ・ギルト)」と呼ばれる心理が問題になることが、しばしばあります。自らも被災しながら生き残った人にとっては、肉親や親しい人を喪った悲しみに加えて、「なぜこの人が死んで私が生き残ってしまったのか」「私が何とかしておれば、この人を救えたのではないか」「この人のかわりに私こそ死ぬべきだったのではないのか」などの気持ちが渦巻き、自分が生きていることへの罪悪感ともなってしまうのです。このような心理は、PTSDの重要な構成要素であり、外部にいるの者の安易な慰めが届くものでもありません。
 典型的な「生存者の罪責感」を扱った文学作品として、広島の原爆被災を舞台とした井上ひさし氏の戯曲、「父と暮せば」がありました。

 さて、災害の「外部」にある者が、その事態に対して感じる気持ちの中には、素直な「同情」、自分が役に立てないという「無力感」などとともに、このような「生存者の罪責感」の薄められたものも、確かに混じっているのでしょう。
 遠くアメリカにいて、故郷の阪神大震災の報道に接した村上春樹氏も、そのような気持ちのいくばくかを感じたのかもしれません。ただ、さすがにすぐれた小説家は、私などのように苦い「無力感」を噛みしめることに終わらずに、「外部」にありながら何か新たな「力」を呼び覚ますかのような、一連の連作短篇を生み出したわけです。


 ところで宮澤賢治の作品において、当時の大災害=関東大震災に言及したものとしては、1923年9月16日の日付を持つ「宗教風の恋」と「」(いずれも『春と修羅』所収)とがあります。
 震災から10日あまりがたった時点で、やはり災害のはるか「外部」にあった賢治ですが、前者「宗教風の恋」では、次のように震災に触れます。

風はどうどう空で鳴つてるし
東京の避難者たちは半分脳膜炎になつて
いまでもまいにち遁げて来るのに
どうしておまへはそんな医される筈のないかなしみを
わざとあかるいそらからとるか
いまはもうさうしてゐるときでない

「岩手日報」大正12年9月7日 「東京の避難者」というのが、当時東京から東北地方へも避難してきていた地震の被災者のことです。「半分脳膜炎になつて・・・」という表現は、現代ならばあまり適切ではないと言われてしまいそうですが、今で言えば「急性ストレス反応」や種々の喪失体験など、精神的にも大変な状態で避難してきている人々が、多数あったのでしょう。対馬美香著『宮沢賢治新聞を読む』に引用された「岩手日報」大正12年9月7日版(右写真)によれば、「東北地方は安全地帯と目され避難民が多数来り各列車は何れも満員にて混雑を呈し・・・」とあります。
 賢治は、このような被災者のことを思い、当時の自分を戒め、その心の有り様を責めています。

 また、同じ日付の「昴」では、

市民諸君よ
おおきやうだい、これはおまへの感情だな
市民諸君よなんてふざけたものの云ひやうをするな
東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ
見たまへこの電車だつて
軌道から青い火花をあげ
もう蝎かドラゴかもわからず
一心に走つてゐるのだ

として出てきます。ここでも、賢治は被災した東京のことを考え、「東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ」として、自らの語り口を自重しています。そして気がつくと、自分が乗っている電車さえも、「生きるか死ぬかの堺」にある東京に共振するかのように、必死に走っているのです。
 「昴」の最後は、そして「1923年9月16日」の日付を持つ4つの作品の最後は、次のように終わります。

どうしてもこの貨物車の壁はあぶない
わたくしが壁といつしよにここらあたりで
投げだされて死ぬことはあり得過ぎる
金をもつてゐるひとは金があてにならない
からだの丈夫なひとはごろつとやられる
あたまのいいものはあたまが弱い
あてにするものはみんなあてにならない
たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で
そしてそれらもろもろの徳性は
善逝(スガタ)から来て善逝(スガタ)に至る

 遠い東京の震災ですが、すぐさまそこに感情移入できる賢治は、自らの死さえも身近に感じてしまいます。それまで「あてにされてきたもの」が脆くも崩壊した世界の現実に直面して、「あてにするものはみんなあてにならない」とあらためて自戒し、そして「たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で・・・」と、自身の宗教的立場からの観照を述べます。
 やっぱり賢治も、遠い「外部」にありながら、震災を単なる他人事と見過ごしたり、無力感だけを覚えて終わったりするわけではなかったのです。

 ところで上記「昴」の引用は、村上春樹の短篇「神の子どもたちはみな踊る」の終わり近くで、「善也」がある人に伝えようとした次のような言葉にも通ずるところがあるような気がしたのですが、どうでしょうか。

 僕らの心は石ではないのです。石はいつか崩れ落ちるかもしれない。姿かたちを失うかもしれない。でも心は崩れません。僕らはそのかたちなきものを、善きものであれ悪しきものであれ、どこまでも伝えあうことができるのです。神の子どもたちはみな踊るのです。


 ・・・四川省の大地震から、やはり10日あまりが経った今日この頃です。

 

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函館へ行ってきました

 その後も忙しくてご報告が遅れましたが、けっきょく去る5月18日(日)に、函館で開かれた賢治セミナーに行ってきました。
 ほんとうは17日(土)の、「津軽海峡の船旅」や「夜の函館散歩」にも行きたかったのですが、これはスケジュールの都合で断念し、この日は仕事が終わってから新幹線で東京まで移動して、羽田空港近くのホテルに泊まっていました。

 それで、18日(日)の朝7時40分羽田発の飛行機に乗り、函館へ飛んだのです。下写真は、もう本州も北端に近づいた頃、飛行機の左眼下に見えた岩木山です。

岩木山

 9時ちょうどに函館空港に着くと、タクシーに乗って、今日のセミナーの会場である「サン・リフレ函館」という施設に向かいました。車は、やや曇った津軽海峡の海を左手に見ながら走ります。

宮沢賢治函館セミナー

 会場に着くと、受付をすませて資料を受けとって、今日のプログラムの開始を待ちました。
 天沢退二郎さんの「「青森挽歌」から北へ」、栗原敦さんの「「函館港春夜光景」を読む」という二本立ての講演なのですが、私としては、現在の賢治詩の研究の代表格でもあるこのお二人の話を聴くべく、今回は函館までやってきたのです。

天沢退二郎氏講演

 天沢さんは、いつもの味のある調子で青森から北の鉄道路線をたどり、(途中、「駅」や「停車場」その他の興味深い定義にも言及され)・・・、

栗原敦講演

 栗原さんは、当時の「函館新聞」等のコピーも配布して下さって、この時代の函館公園における花見がどんなに賑やかだったか、それが賢治の作品にいかに反映しているか、ということについてわかりやすく説明してくださいました。

 セミナーが終わると、ややあわただしい中でも旧知の方々とのご挨拶をかわし、あるいは初めて off-line でお会いできた方とも名刺の交換などをして、賢治セミナーならではの交流を持つことができました。
 周囲の人からは、(ただ半日のプログラムのために)よくぞまあ関西から北海道まで来たものですね、というような「感嘆」とも「呆れ」ともつかないような言葉を、(光栄にも)かけていただきました。私はその場では、もぞもぞと適当なことを答えておりましたが、あらためて胸に手を当てて考えてみると、やはり「好きですから!」としか言いようがないですね。

 その後、私は残念ながら帰りの予定が詰まっているので、皆さんと別れて会場を後にし、また函館空港から飛行機に乗った次第です。

函館空港
函館空港